ウクライナ防衛コンタクトグループの会合を目前にして。あらためてG7も軍隊もいらない、と言いたい。

メディアでも報道されているが、20日からドイツのラムシュタイン米空軍基地でウクライナ防衛コンタクトグループ(NATOが中心となり、米国が議長をつとめてきたと思う)の会議がある。50ヶ国が参加すると米国防省が発表している。当然日本も参加することになるだろう。

これまでに、日本は防衛大臣や防衛省幹部が出席しており、事実上NATOに同伴するような態度をとっているので、とくに20日からの会議には、日本が安保・防衛3文書と軍事予算増額という方針を――国会での議論がないままに――既定の事実とみなし、かつ、G7議長国+安保非常任理理事国として参加するので、参加の意味はこれまでとは違って、とても重要なものになる。

この間のG7諸国のウクライナへの軍事支援は異例なことづくめだ。 英国が自国の主力戦車「チャレンジャー2」14台を提供したことはかなり報じられているが、それだけでなく、戦車は「AS90自走砲、ブルドッグ装甲車、弾薬、誘導多連装ロケットシステム、スターストリーク防空システム、中距離防空ミサイルなどの大規模な軍事援助パッケージの一部」である。(VOA報道 ) ドイツも主力戦車「レオパルド2」戦車、マーダー装甲兵員輸送車、パトリオット防空ミサイル砲台、榴弾砲、対空砲、アイリスT地対空ミサイルを提供。[日本報道では、戦車の提供については、保留と報じている。そのほかの武器については不明、21日加筆]ドイツの戦車提供は、ポーランドやフィンランドからの圧力があり、また武器供与に関しては、緑の党が極めて積極的な姿勢をみせている。 欧州連合(EU)理事会のシャルル・ミシェル議長も戦車提供を支持している。戦車提供の是非が議論になっていたが、英国が掟破りをしたことがきっかけで、戦車提供のハードルが一気に下がった。ウクライナは春までに戦車を数百台規模で必要としているといわれている。(上記VOA)

肝心の米国は、ニューヨークタイムスの報道では、かなり姑息で、中東での紛争に備えてイスラエルに供与した30万発をポーランド経由で提供されると報じられている。また、韓国にある米軍の備蓄もウクライナに送られているようだ。戦闘が膠着状態にあるなかで、ウクライナもロシアも砲弾不足とみられている。タイムズは「米欧の当局者によると、ウクライナ軍は月に約9万発の砲弾を使用しているが、これは米国と欧州諸国を合わせた製造量の約2倍に相当する。残りは、既存の備蓄や商業販売など、他の供給源から調達しなければならない。」と報じている。春までに供給を確保できるかどうかが勝敗の鍵を握るという専門家の話も紹介されている。 こうした報道では、砲弾の消費とは人の命の「消費」でもあり、どちらがより多くの人命を奪えるかが勝敗を決める、と言っているに等しい。しかし、あといったい何人が戦争で殺し・殺されなければならないのか、といった話はでてこない。むしろ、ロシアを凌駕する武器、弾薬の供給の必要、という話ばかりだ。

20日のドイツでの会議では、こうした武器弾薬の供給についての具体的な話になると思われ、そうなれば、日本は何も提供しない、などということは言えないということになるだろう。昨年から一貫して続いているNATOやウクライナからの武器供与の圧力を政府は見すえて、安保・防衛戦略と予算見直しをしているので、ウクライナの問題が重要な意味をもっている。それに加えて東アジアの「危機」キャンペーンで世論の不安を煽る。昨年、岸田は初めてNATOの首脳会議い出席する。また、日本は2014年からNATOのパートナーシップ相互運用性イニシアティブに関与してきているし、人的交流もある。日本がNATOとの関係をより具体的に緊密化するだけでなくアジア最初のNATO加盟国にすらなりかねない勢いとも感じる。

20日の会議がドイツで開催されるのは、米国の思惑として、NATOへのドイツの関与をより一層強固なものにしたい、ということもあるかもしれない。ドイツはもはや、かつての第二次世界大戦のホロコーストと戦争を反省したドイツではない。ウクライナへのロシアによる「ホロコースト」を許さないためには戦争も辞さない、というように世論も政党も、その態度が変化しており、これが平和運動の一部にも受け入れられてしまっている。スティーブン・ミルダーは、戦後ドイツの平和運動の変質を扱ったエッセイ「ウクライナと蝕まれる平和主義」(Boston Review)でこのことを指摘している。 ミルダーの指摘が正しいとすると、日本は、繰り返し朝鮮民主主義共和国による核の脅威や中国による軍事的な覇権といった危機の扇動を人々の心理に刷り込むことを通じて、核の脅威を抑えるためには(自衛のための)戦争以外の選択肢はない、だから戦争はやむなし、という世論を構築してきた。岸田が口にする「非核」は、核の脅威を口実とした平和の軍事化にほかならない。武力による反撃や先制攻撃を正当化するために、もっぱらロシア、中国、朝鮮の核の脅威が利用され、核抑止力の論理は、むしろ、通常兵器による際限のない殺し合い――核さえ使わなければいくら殺し合ってもいいだろう、というモラルハザード――を加速化してしまい、ここに日本も自ら積極的に加担しうるための理論武装をしてきた。こうして平和運動のなかですら非武装や自衛隊違憲論は少数派となり――わたしはこの少数派だが――「侵略されたら、攻撃されたら、核の先制攻撃をされたら、それでも非武装でいいのか」という脅しの前に、「それでも非武装であることがベストだ」という当然の答えを出せずに、武力による平和という欺瞞に屈服してしまった。

今年は広島でG7開催になるが、日本とG7との関わりは、同時にNATOとの関わりでもあり、安保・防衛3文書と軍事予算問題は、こうした国際関係の観点を抜きにはできない極めて大切な問題だと思う。20日の会議には注目したい。G7から芋蔓式にNATOへの関与や武力による解決へと引き込まれている現実をみたとき、私たちがとるべき主張は、G7の解体はもとより、外国であれ自国であれ軍隊を廃止すること、という当然の主張を何度でも繰り返す必要がある。

(Boston Review)ウクライナと蝕まれる平和主義

(訳者前書き) ここに訳出したのは、戦後ドイツの平和運動がウクライナの戦争のなかで直面している、平和主義そのものの危機、つまり、武力による平和の実現への屈服の歴史を概観したもので、日本の現在の平和運動が陥いっている矛盾や課題と主要な点で深く重なりあう。その意味でとても示唆的な論文だ。

ドイツは戦後ヨーロッパの平和運動の重要な担い手だった。ナチスによるホロコーストという戦争犯罪への反省から、二度とホロコーストを引き起こさないという誓いとともに、二度と戦争を引き起こさない、「武器によらない平和」という考え方を支えてきた。自らの加害責任を明確にすることから戦後のドイツの平和への道が拓かれる。これは、日本が戦争責任、加害責任を一貫して曖昧にしてきたのとは対照的な姿だと受けとめられてきた。一方で、ドイツは日本のような戦争放棄の憲法を持つことなく、軍隊を維持し、NATOにも加盟してきた。とはいえ、ドイツの民衆は米軍やNATOによる軍拡や核兵器反対運動の重要な担い手であり、それが、ドイツの議会内左翼や緑の党を一時期特徴づけてもいた。しかし、日本同様、ドイツもまた、ポスト冷戦期に、戦後の平和主義そのものが左翼のなかで事実上崩壊する。ただし、特徴的なことは、ホロコーストは二度と起こさない、という誓いが、ホロコーストを招来するような武力紛争い対しては、武力によって介入することも厭わない、というようになり、それが、コソボからウクライナへと継承されるとともに、国連の対応にも本質的な変化が生まれてくることを著者は指摘する。このあたりの著者の記述は、私たちにとっても重要だし、示唆的でもある。

決定的に軍拡に前のめりになったのがウクライナの戦争においてだった。以下でスティーブン・ミルダーが述べている平和主義が壊死するに到る経緯は、ある意味で、日本の護憲主義が絶対平和主義や非武装中立の理念を放棄して、9条護憲といいながら専守防衛と自衛隊合憲を当然の前提にするという欺瞞に陥いった経緯と多くの点で重なりあう。緑の党が平和主義を放棄して積極的な武力介入へと変質する経緯も他人事とはいえない。ウクライナへの軍事支援や武力抵抗の是非をめぐって日本の左翼のなかにも考え方の対立がある。同様のの対立がドイツでも起きている状況をみると、今日本で起きている軍拡と平和主義の解体的な危機の問題は、日本だけの問題ではなく、ある種の普遍的な問題でもあるということに気づかされる。私は、いかなる場合であれ、武器をとることは選択すべきではない、という立場だが、このような立場が日を重ねるごとに無力化される現実に直面するなかで、平和主義者が国家にも資本にも幻想を抱くことなく、国家と資本から解放された未来の社会の実現を暴力に依拠しないで実現するための構想ができていただろうか、ということをあらためて考えなければならないと感じている。平和主義(これは議会主義と同じ意味ではない)の敗北の歩みは、平和主義の破綻ではなく、そのパラダイム転換が求められていることを示している、と思う。(小倉利丸)

A mass peace demonstration in Bonn, Germany, on June 10, 1982, on the occasion of a NATO summit. Image: Wikipedia

ドイツの指導者たちは、戦争に対応して国防費を大幅に増やし、第二次世界大戦後に生まれた平和主義の文化との決定的な決別を示し、軍縮の大義に大きな打撃を与えている。

スティーブン・ミルダー
ヨーロッパ, グローバル・ジャスティス, 軍国主義, ウクライナ, 戦争と国家安全保障

    2023年1月11日

11カ月前、ロシアがウクライナに侵攻した日、Alfons Mais中将は自身のLinkedInアカウントにこう書き込んだ。「私が率いる連邦軍は、多かれ少なかれ破たんしている」「(NATO)同盟を支援するために政府に提示できる選択肢は、極めて限られている」と彼は書いた

ドイツの装備の悪い軍隊は、戦争を拒否するドイツの誇らしい象徴というよりは、西ヨーロッパが自らを守ることができないことの兆しと受け止められているのだ。

報道では、マイスの悲観的な見方は事実に基づくものだ。ドイツ連邦軍はNATOのアフガニスタン長期作戦に参加し、現在もドイツの兵士は国連平和維持活動の一環としてマリに派遣されているが、ロシアのような核保有国に対抗するには明らかに力不足だった。昨年2月現在、ドイツ連邦軍は40台の最新型戦車しか保有しておらず、ヘリコプターの約6割が戦闘不能とされている。一方、海軍は、新たな任務を担うことはおろか、以前から計画していた作戦を遂行するのに十分な艦船があることも確認されていない

これらの統計は、米国の莫大な国防費や軍事力とは対照的であり、ドイツが1945年以来数十年の間、攻撃的な軍国主義から平和主義的な抑制へと転じたことの証拠である。戦場で大国と対峙するつもりのない軍隊に、戦車やヘリコプターは何の役に立つのだろうか。しかし、ウクライナで戦争が勃発すると、不手際で装備の整わない連邦軍というイメージは突然、別の意味合いを持つようになった。それは、ドイツの誇り高い戦争拒否の象徴ではなく、西ヨーロッパの自衛能力の欠如の象徴として注目を集めるようになったのである。

ドイツ連邦軍の装備を改善し、ヨーロッパの安全保障に対するコミットメントを証明するために、ドイツの指導者たちが昨年精力的に行った努力は、戦後のドイツ史における劇的な転機と評されるようになった。オラフ・ショルツ首相は昨年2月、1000億ユーロという前代未聞のローンを組むと宣言し、それを正当化するために「必要な投資と軍備プロジェクト」のための「特別基金」といった言い回しを使った。軍備強化へのコミットメントを疑う余地のないようなものにするために、ショルツは国防予算の年次増額を発表した。戦争が始まって3日後、ショルツは国会で、ロシアの侵攻は「わが大陸の歴史の分岐点」だと述べて、この国防費のすさまじい増額を正当化した。この主張は、ドイツ人の歴史的想像力の大きな事柄との関連で理解されなければならない。すなわち、第二次世界大戦である。首相は、「私たちの多くは、両親や祖父母の戦争の話をまだ覚えています。そして、若い人たちにとっては、ヨーロッパで戦争が起こることはほとんど想像もつかないことなのです」と説明した。彼の主張は広く受け入れられた。6月までに連邦議会は、連邦軍資金の大幅増額というショルツの計画を実行に移すために必要な憲法改正案を可決した。

現実には、実際の分水嶺は、第二次世界大戦以来初めて「ヨーロッパでの戦争」が突然出現したことでは ない。それは、1990年代のユーゴスラビアでの熱い戦争だけでなく、冷戦時代の数十年にわたる軍国主義を消し去った、歴史的な記憶喪失の驚くべき一連の出来事である。真のより大きな変化は、ほとんど何も語られることはなかった。つまり、これは、この30年間、ドイツは、ポスト・ファシストの国――これは、歴史家Thomas Kühneが言うところの「平和の文化」によってナチスの過去を克服したかに見えたのだが――から、防衛費を増大させ、重武装の侵略者に反撃する態勢を伝えることに熱心なポスト平和主義の国へのこの30年間のドイツの変容の頂点をなすものなのである。確かに、東西ドイツは第二次世界大戦後すぐに再軍備を行い、冷戦時代には何十万人もの米ソの兵士を受け入れたが、この時期を通じて、二人の東ドイツ反体制者のよく知られた「武器なしで平和を作る」(Frieden schaffen ohne Waffen)という主張を熱心に支持するドイツ人もかなりの数にのぼった。この冷戦時代の平和主義は、1990年代以降、西側諸国が武力による自衛と人道的介入を広く求めるようになったことに直面するなかで転換に迫られ、ショルツのレトリックから消え去った。

過去75年間の戦争を無視することは、プーチンの侵略戦争の深刻さを伝えるのに役立つかもしれないが、ドイツ人の過去、特に第二次世界大戦の教訓に照らして戦争と平和について考える方法の大きな変化をも見落とすことになる。また、ウクライナ戦争に対するドイツのタカ派的な対応がもたらすリスクと結果も見えにくくなっている。かつて多くのドイツ人が第二次世界大戦を、あらゆる形態の軍国主義に反対する理由としてきた。しかし、今日では、これが、残虐行為を防ぐという名目で、国防費の増大を正当化する議論に利用されているのである。


軍国主義に対するドイツの反発は、1945年直後に生まれ、冷戦の間ずっと続いてきた。敗戦と占領の経験に懲りた西ドイツと東ドイツは、ともに平和な国として認識されることを望んだ。両国の憲法は侵略戦争を禁じ、軍隊の役割を平和維持に限定し、西ドイツの軍需メーカーが紛争地域に武器を輸出することを法律で禁止していた。しかし平和への誓いは、ここまでだった。ドイツは、いずれも冷戦時代の軍事同盟の再軍備や積極的なメンバーになることをおろそかにはしなかった。「鉄のカーテン」に沿って位置する両国は、何十万人もの米軍とソ連軍を受け入れ、徴兵制が採用され、冷戦の最盛期には50万人以上のドイツ人が現役兵として兵役についていた。それでも、公式の声明や政府のポリシーは、第三次世界大戦を防ぐことに期待をかけて軍事紛争を制限することに重点を置いていた。

かつて多くの人が第二次世界大戦を軍国主義に反対する理由とみなしたが、今では軍国主義を正当化するために利用されている。

このような態度は、ドイツ社会全体に見受けられた。冷戦時代には、一般の人々が民衆感情と草の根の活動を通じて、重要な「平和の文化」を築き上げた。第二次世界大戦末期にドイツ人が経験した悲惨さと、1945年の敗戦後に彼らが耐えた窮乏が、平和への抗議の第一波を促進したのである。戦争直後、一般ののドイツ人は、自国の再軍備に対して、下からの「私抜きで!」 (Ohne mich!)運動への参加を通じて、個人的に加担したくないという意思を表明した。1949年に西ドイツと東ドイツが成立すると、国家社会主義の東ドイツでは、草の根の抗議運動は難しくなった。しかし、西ドイツでは再軍備や核兵器に対する抗議が1950年代を通じて起こり、ある意味で再軍備や1955年の西ドイツのNATO加盟に影を落すことになった。確かに、スイス、オーストリア、スウェーデンといった中欧の隣国とは異なり、ドイツ連邦共和国は中立国ではなかったが、戦争反対のイメージを醸成することに成功し、この時期に生まれた抗議の文化は長期にわたって影響を与えることになる。

1980年代初頭、軍拡競争が再び激化し、歴史家が「第二次冷戦」と呼ぶ戦争が始まると、両国の市民は再びより積極的な平和推進派に転じた。彼らは、主に、NATOやワルシャワ条約機構による中距離核ミサイルのヨーロッパへの配備に抗議した。西側では、NATOの中距離ミサイル配備の根拠となった「デュアルトラック決定」への反対運動が起き、政治学者ペーター・グラーフ・キールマンゼグの言葉を借りれば「連邦共和国がかつて経験したことのない大衆運動」に発展していった。1983年10月22日、西ドイツの「暑い秋」の中で最大の抗議行動となったこの日、120万人のドイツ人が街頭に立っていた。反ミサイルの運動は、さらに広く、深く拡がった。西ドイツの人々は、多くの市や町に非核地帯を設けるよう地元当局に要求し、NATOのミサイル基地を封鎖するために市民的不服従の訓練を受けた。

社会運動というと「SA(ナチスの準軍事組織)の行進」を想起させ、民主主義秩序の全面的な否定と同一視されかねないこの国において、こうした広範な抗議行動は大きな進展であった。しかし、国会がミサイル配備を承認するのを止めることはできなかった。西ドイツ連邦議会は1983年11月22日、キリスト教民主・自由党の連立政権政党と一部の社会民主党の賛成で、ミサイル配備を容認する議決を可決した。米軍は翌日午前1時からドイツへのミサイル輸送を開始した。西ドイツの人々が、反対を貫きながらも議会の決定を受け入れたことで、ストリート・デモが議会制民主主義の枠内で存在し得ることを証明することになった。その結果、歴史家は1980年代の平和運動が西ドイツで抗議行動を「正常化」したと論じている。

東ドイツでも、核軍拡競争に反対する運動が、1980年代前半に大きな盛り上がりを見せた。ロバート・ヘーブマンとライナー・エッペルマンは、1982年の「ベルリン・アピール」で、社会主義政権に対し、「武器なしで平和をつくる」という平和主義の理想に忠実であるよう挑んだのである。東西に備蓄された兵器は「我々を守るどころか、我々を破壊する」と主張し、ハーベマンとエッペルマンは政府に「兵器を廃棄する」ことを要求した。牧師ハラルド・ブレットシュナイダーは、社会主義圏のスローガン「剣を鋤に」を軍事政策への批判に転化し、この言葉をプロテスタント教会の庇護の下で展開された初期の平和運動のモットーにした。ブレットシュナイダーのグループは、社会主義政権が独自の社会活動を禁止していたにもかかわらず、1982年に「平和フォーラム」を開催し、約6000人の参加者を得た。秘密警察の監視にさらされる中、東ドイツの平和活動家たちは、西ドイツの人々との間で個人として「個人的平和条約」を結ぶなど、平和に向けた新たな活動の方法を見出した。西ドイツの「緑の党」議員で平和活動家のペトラ・ケリーは、1983年10月の会合で東ドイツの指導者エーリッヒ・ホーネッカーに「個人的平和条約」に署名するよう求めたほど、この習慣は広く浸透し、注目されるようになった。しかし、側近の一人のささやかな仲介により、ホーネッカーはこの条約の最後の論点である「一方的な軍縮の開始を支持することをここに約束する」ことへの同意を拒否した。

冷戦時代、一般のドイツの人々は、民衆の感情や草の根の活動を通じて、重要な「平和の文化」を築き上げた。

両国の政府は、武力防衛政策を撤回して一方的な軍縮を進めることを拒否したが、平和活動家が形成したネットワークと彼らが提唱した批判は、深い意味を持っていた。西ドイツは多くの米軍基地とNATOの膨大な兵器を抱えていたが、強力な平和運動が民衆の平和主義的ムードをとらえ、草の根の政治的関与を促したように思われる。東ドイツでは、平和運動はより大きな影響を与えたと思われる。平和運動は、1989年秋の大規模な街頭抗議行動を組織するためのネットワークづくりに重要な役割を果たし、それがドイツ民主共和国の崩壊を促したのである。冷戦がほぼ非暴力で終結したことで、武力紛争のない未来像――戦争はもちろん暴力的な闘いではなく平和的な民衆の抗議が、地政学的変化を促す世界――が描かれるようになった。

国家社会主義が崩壊した後、統一されたばかりのドイツでは、熱い戦争とそれをめぐる論争が身近なものとなった。戦争が続く大陸で復活した大国の責任と、イラクやアフガニスタンに介入したアメリカとの同盟の責任に直面し、ドイツの反戦文化は揺らいだ。1990年8月のイラクのクウェート侵攻に対する米軍主導の対応に消極的だった。これが冷戦時代の平和主義の終りを意味するものだった。冷戦時代の軍拡競争の中で、表向きは武力紛争を否定し、その一方で誠実な軍事同盟メンバーであるという、一見逆説的な組み合わせに象徴される国になった。

1990年のペルシャ湾紛争は、イラクのクウェート侵攻で始まったが、多くのドイツ人は、イラクの侵略者に対して武力を行使する理由はほとんどないと考えていた。むしろ、イラク軍をクウェートから追い出し、イラク領内に深く侵入したアメリカ主導の「砂漠の嵐」作戦に反対し、統一ドイツ全土で抗議行動を起こし、反米感情を高揚させた。例えば、ペーター・シュナイダーは、ドイツ人が米国の介入を批判すると同時に、イラクのクウェート侵攻を非難することに消極的であることを懸念し、その姿勢は、戦争で危害を受けた米兵を看護しないことを宣言したドイツの看護師の行動などにも表れているとコメントした。

統一ドイツで抗議を呼び起こし、激しい論争を引き起こしたのは、海外への武力介入だけではなかった。ほぼ10年続いたユーゴスラビア戦争は、サラエボを4年近くも包囲し、スレブレニツァの虐殺を引き起こし、ついにはドイツ軍の1945年以来の海外派兵を引き起こすなど、恐ろしい事件を含んでいたが、こうした問題にも劇的な影響を及ぼした。特にボスニアとコソボの戦争は、ドイツ軍の海外派遣の可能性や平和維持活動における統一ドイツの役割といった根本的な問題をめぐる議論を引き起こした。このような議論の中で、冷戦時代に多くのドイツ人が抱いていた「戦争の火種を増やすべきではない」という反軍国主義的な考え方が変容していった。

武力介入に対するドイツの態度の変容を最も明確に示しているのは、おそらく緑の党だろう。緑の党は、平和運動が最高潮に達していた1983年に西ドイツ連邦議会に初めて議席を得た。反ミサイルデモへの広範な参加は、緑の党を国会に押し上げることにつながった。緑の党の有力者は、自分たちの党を平和運動の「議会の翼」(より具体的には、緑の党の有力議員ペトラ・ケリーの言葉を借りれば、運動において「立法の役割を演じることplaying leg」)とまで呼び、党の綱領は「連邦共和国が平和と軍縮のために単独で活動できるような政府」を呼びかけていた。1983年の選挙に向け、大西洋の両岸の政界は、緑の党の一方的な軍縮支持がドイツのNATOからの脱退になると警鐘を鳴らしていた。例えば、ロバート・ヘーガーはUS News and World Report誌に、「緑の党は急進的な社会主義者と組み、ドイツを中立主義に導く破壊的な少数派を形成する可能性がある」と警告している。このような大げさな懸念は杞憂に終わった。結局のところ、緑の党の獲得議席数は5%にとどまった。NATOの核ミサイルをドイツ国内に配備することを承認する議決を議会で阻止することも、ましてやドイツを同盟から完全に排除することもできる数ではなかった。

反軍国主義の文化は1990年代に変容し、軍事力が人道的利益のために展開されるようになった。

しかし、かつてドイツの草の根平和運動の議会的表現と理解されていた政党は、1990年代の戦争の中で、NATOを力強く支持する方向に向かう新たな立場を採択した。1998年、社会民主党のゲアハルト・シュレーダー首相の連立政権に緑の党が加わって外相となったヨシュカ・フィッシャーは、この変化の先頭に立ち、ドイツ人が第二次世界大戦から引き出した教訓も変化していることを示唆する発言を繰り返している。ボスニア・セルビア軍によって8000人以上のボスニア・イスラム教徒が殺害された1995年のスレブレニツァ事件直後のインタビューで、フィッシャーは、いつまでたってもぐずぐずしてボスニア・イスラム教徒の武装自衛に貢献しようとしない姿勢を「裸と血のシニスム」と表現した。彼は介入主義を糾弾したり、武力抵抗は紛争の火種になるだけだと主張するのではなく、ボスニアのイスラム教徒の「自衛権」を代弁したのである。

戦争を否定しながら、このように主張をするために、フィッシャーは相反する二つの原則を打ち出した。「二度と戦争はしない!」(Nie wieder Krieg!)と「二度とアウシュビッツを繰り返さない」(Nie wieder Auschwitz!)である。)である。 スレブレニツァの虐殺のような大量殺戮を防ぐために使われる可能性がある限り、フィッシャーにとって、戦争は許容できる――必要でさえある――ものであった。アウシュビッツへの明確な言及は、フィッシャーの主張がドイツの過去への熟考に基づくものであることを明らかにした。同時に、彼の考えは、脅威を受け搾取されている少数民族の武装自衛権、さらには武装蜂起を長い間受け入れてきた自民党の一部と一致するものだった。例えば、西ベルリンの緑の活動家で後に国会議員となったハンス・クリスチャン・シュトレーベレは、サルバドール内戦のさなか、明らかに軍国主義的なスローガンである「エルサルバドルに武器を」を掲げて資金調達キャンペーンの先頭に立った。

しかし、フィッシャーは、ボスニアに小型武器を送るような草の根の募金キャンペーンを考えてはいなかった。その代わりに彼が考えていたのは、ドイツ連邦共和国を含む国家の軍隊が、劣勢に立たされた少数民族のために海外に派遣されるべきかどうかということであった。大量虐殺には武力で対抗しなければならないと主張した同じインタビューの中で、フィッシャーは、ボスニアのイスラム教徒を保護するというプロジェクトにおけるドイツの役割を後悔し、「再びドイツが(戦争で)果す役割はない」(Nie wieder eine Rolle Deutschlands)と宣言している。他のヨーロッパ諸国が凶悪な戦争犯罪を防ぐためにボスニアに介入するのは良いことだが、フィッシャーの葛藤からすれば、自国固有の歴史的犯罪のため、大量虐殺を武力で止める努力にドイツが関与することは許されないのだ。

4年後、この問題が頂点に達した。緑の党が連立政権に入り、外相となったフィッシャーは、NATOのコソボ介入へのドイツの関与について党内の支持を取り付ける必要に迫られたのである。1999年5月13日、ドイツ空軍を含むNATO軍がボスニア・セルビア・インフラへの空爆でコソボ戦争に介入してから50日後、緑の党はビーレフェルト市で特別党大会を開き、NATOの行動とドイツの参加について過去に遡って議論した。

マスコミは、コソボへの武力行使に代表が同意するかどうかで、党が分裂するのではと推測していた。NATOの空爆中止を求めるデモ隊の群集から緑の党代表を守るために、1500人もの警察が出動したのだ。緑の党は崩壊するどころか、444対318という僅差でNATOの介入を遡及的に承認する票が投じられた。ビーレフェルト党大会の忘れがたいイメージは、デモ参加者が会場に押し入り、フィッシャーにペンキ爆弾で襲いかかり、彼の鼓膜を破ったことである。劣勢で脅威にさらされている集団の武力防衛に自国の軍隊が貢献することを激しく拒否するドイツ人は、依然として相当数いたのである。同時に、多くのドイツ人にとって、軍事介入の論理は変化しつつあった。旧ユーゴスラビアでは、この5年間で2度目となる西側の介入によって武力紛争の火蓋が切って落とされたのである。

1990年代の教訓は、ドイツだけでなく西側諸国でも急速に取り込まれた。戦争犯罪や大量虐殺を阻止するためには軍事力が最も有効であるという考え方が支持され、2005年に国連加盟国が全会一致で「保護する責任Responsibility to Protect」(R2P)という枠組みを承認したことで、国際社会は、国家が自国の住民を大量虐殺から守ることができない場合には集団行動が必要であるという考えを採択した。つまり、戦争犯罪やジェノサイドに対して、軍事介入を含む行動を起こすことが、新しい国際秩序の規範となったのである。


このレガシーは、現在に至るまで影響している。緑の党の有力政治家たちは、ショルツ内閣の閣僚として、ウクライナにドイツの武器を送ることを最も強く主張してきた。マスコミはこうした呼びかけを、かつて平和主義だった緑の党が突然の変化を遂げたかのように報じているが、実はこの変化は1990年代から進行していたのである。例えば、2022年4月の『シュピーゲル』誌のカバーストーリーでは、緑の党が「親平和の理想主義者から戦車ファンへ」と変化したことを理由に、緑の党のリーダーたちを「オリーブの緑」と呼んだ。この表現は、2001年11月に同じ雑誌に掲載された、米国のアフガニスタン侵攻への支持を強化するために精力的に活動した、「オリーブグリーン」アンゲリカ・ベア(緑の議会代表団の防衛担当報道官)を取り上げた記事の見出しと直接対応している。2001年、シュピーゲル誌はすでに、緑の党を「かつては平和主義者だった」と評していた。

2005年までには、戦争犯罪から防衛するための軍事化が、新しい国際秩序の規範となった。

ビールの活動の成果もあって、アメリカの侵攻を支持する投票を辞退した緑の議員はわずか4人で、緑の代表団の大多数がこの決定を支持し、ドイツ軍はアフガニスタンに派兵されたのである。フィッシャーは、再び軍事介入支持を主張し、投票後、「共和国を決定的に刷新した」と論じた。しかし、フィッシャーの政治キャリアを「ベルリン共和国の形成」と結びつける伝記を書いたパウル・ホッケノスにとっては、統一後のドイツの外交政策を規定したのは、転換といえるほどの刷新ではなかった。シュレーダー=フィッシャー政権の下で、ドイツは「自信に満ちた、時には独立心のある行動主体であることを示した」とホッケノスは主張する。「経済の巨人、政治の小人」と評された冷戦時代の西ドイツとは大違いである。こうして、統一ドイツは戦争を遂行することで平和をつくる道をとることになる。かつて平和主義者であった多くの人々が、あらゆる戦争反対から武装による自衛の支持に転じたのは、ドイツの敗戦と喪失よりもホロコーストの犯罪を重視する第二次世界大戦観の変化、「二度と戦争をしない!」という原則よりも「二度とアウシュビッツを繰り返さない!」という原則に一貫して重きを置いてきたためであった。

その結果、かつては外国の紛争に介入すること自体に反発があった国が、今では脅威を受けた集団の武装自衛を支援する姿勢を示すことに四苦八苦している。それが顕著になったのは、ロシアのウクライナ侵攻以降である。ショルツは防衛費の大幅な増額を主張しながらも、当初はウクライナへの武器供与をためらい、保守系野党だけでなく連立政権のパートナーからも繰り返し激しく非難された。ショルツ政権の外相である緑の政治家アナレナ・バーボックは、ウクライナへの「重火器を含むさらなる軍事物資」の送付を支持する太鼓を叩き続けている。(アメリカのジャーナリスト、スティーブン・キンザーによれば、ベールボックのタカ派的な発言は、「ドイツの前の世代を形成した恥や反軍国主義を埋め込まずに育った」若い世代の政治家の立場を象徴しているのだという。ベールボックのような政治家は、武力介入がボスニア戦争やコソボ戦争の終結に一役買った1990年代の経験により大きな影響を受けていると思われる)。ベールボックらの圧力に押され、ショルツは徐々に後退し、ウクライナへの武器輸送をどんどん許可していった。

7月までに連邦政府は戦車の納入を開始した。連邦軍にはほとんど装備がなかったため、政府はドイツの兵器メーカーからウクライナに17億ユーロで自走砲100基を売却し、今後数年間に渡って納入するよう取り計らった。ロシアの侵攻から1年近くが経過し、和平交渉に応じる兆しが見えない中、和平のための武器使用を否定する声は、ドイツの議論から消えている。国会では、2021年秋の選挙でNATOからの離脱を主張し、批判が殺到して支持率が半減した左翼党だけが、ロシア侵攻に対して武力闘争よりも平和を優先する立場を取り続けた。左翼党は引き続きドイツの軍備増強に反対し、「危機的地域や紛争地域に武器を送り込む」ことで「大火災を引き起こすリスク」を警告したが、党内は悲惨な危機に陥り、連邦議会の議論ではますます蚊帳の外的な存在に見えるようになってしまった。

議会外の「武器なしでの平和」の提唱者たちにとっても、状況はほぼ同じであった。著名なフェミニストのアリス・シュヴァルツァーは4月、28人の知識人や芸術家が署名したショルツへの公開書簡を、自身の雑誌『エマ』のウェブサイトに掲載し、ウクライナへのドイツの武器援助の中止を訴えた。「追い詰められたなかで行われているエスカレートした軍備増強は、世界的な軍拡スパイラルの始まりとなり、少なくとも世界の健康や気候変動に破滅的な結果をもたらすかもしれない」と、書簡は訴えた。「そして、「あらゆる相違にもかかわらず、世界平和のために努力することが必要である」と結んでいる。

プーチンの侵略をきっかけに、武力闘争の政策提言活動は、急速に新しい常識になりつつある。

10月に米国議会進歩的議員連盟 the Congressional Progressive Caucusが同様の書簡を発表し、米国内で論争が起きたことからも予想されように、エマ書簡の署名者は、緑の党をはじめドイツの政界全体から憤りの言葉を浴びせられた。緑の党の国会議長の一人であるブリッタ・ハッセルマンは、「プーチンが国際法に違反してヨーロッパの自由な国を侵略し、都市全体を破壊し、市民を殺害し、女性に対する武器としてレイプを組織的に展開しているのに」、平和を目指すという考え方自体がナイーブだと示唆した。一方、ラルフ・フックスとマリエルイーズ・ベックという二人のベテラン緑の党は、ショルツへの二番目の公開書簡を組織し、57人の署名を得てスタートすることで対抗した。シュヴァルツァーが「軍拡のエスカレート」に帰結すると注意したのとは正反対に、フックスとベックは「ウクライナに有利な軍事バランスへとシフトするために、武器と弾薬を継続的に供給する」ことを支持する。プーチンが「勝者として戦場を去る」のを阻止することによってのみ、「ヨーロッパの平和秩序」は保たれる、と彼らは主張した。つまり、平和は武器がなければ作れない、銃口で作るものだ、というのだ。

こうした態度は、ドイツの平和主義者の間で、侵略戦争、とりわけ大量虐殺の防止が武力闘争の回避に取って代わりはじめた1990年代の議論と明らかに連続性がある。シュヴァルツァーの手紙に署名したベテランの 緑の党員であるアンティエ・フォルマーにとって、この変化は、今日の緑の党員たちが「ヨシュカの子ども」であることの証拠である。フィッシャーは、”二度と戦争をしないNever again war!” と “二度とアウシュビッツは起さないNever again Auschwitz!” の対比で、戦争に対するドイツ人の態度の変化を見事に表現した。1945年の敗戦と戦後のドイツが置かれた荒涼とした状況が、かつて戦争を全力で拒否するきっかけになったとすれば、ホロコーストに対するドイツ人の責任を果たそうという意欲が高まったことは、別の教訓を引き起こすことになった。ウクライナ戦争をめぐる議論においてドイツの若い政治家が相対的に好戦的であるのは、戦争体験の欠如というよりも、むしろ戦争体験のおかげである。それどころか、ユーゴスラビアやルワンダなどで恐ろしい戦争犯罪が行われるのを見続けた経験が、ロシアの猛攻から自らを守ろうとするウクライナの人々に対する若い政治家の率直な支持を促す義憤を後押ししている。1990年代に10代だったベールボックは、4月にバルカン半島に足を運んだ。スレベルニツァの虐殺を記録した写真展を訪れた彼女は、この恐ろしい事件が「社会的にも政治的にも、ドイツにおける彼女の世代を形成した」とコメントした。

1990年代の教訓を生かすことは、今回の侵略者が膨大な核兵器を保有する主要な軍事大国であることを考えれば、より容易である。かつてフィッシャーは、「アウシュビッツを再び繰り返すな!」というスローガンを、彼にとっては戦争否定の残念な例外としてとらえたが、武力闘争の政策提言活動は、急速に新しい常識となりつつある。


ある者は、ドイツの平和主義の衰退をポジティブな展開と見るだろう。つまり、ドイツの平和主義の衰退は、国際舞台におけるドイツの責任を認め、ドイツ国内に保有するNATOとワルシャワ条約の膨大な兵器庫に支えられた冷戦時代の平和文化の偽善を認めたものだと考える。私たちは、ドイツにおける一般大衆の平和文化の終焉と、断固とした平和主義者の声を軽視することを、そう簡単に喜ぶべきではない。

武力勝利のために行進するのではなく、平和のために活動することについて議論することさえ論外になってしまうなら、あらゆる恐ろしい結果を伴う軍事力による威嚇が常態化することになる。

ひとつには、こうなることで、暴力の拡大が懸念される中で、新たな宿命論を制度化するリスクをはらむことになる。ウクライナにドイツが直接軍事介入することは、今のところ考えられていないのは事実である。ドイツ連邦軍の惨状を見れば、直接介入することで戦場に大きな変化がもたらされるとは到底思えない。しかし、武器がなくても平和は実現できるという考え方にドイツが消極的であることによって、せっかくの資源と権力を平和活動のために活用することが妨げられているのは間違いない。外交官トップのベールボックは「ウクライナに必要なだけ武器を供給する」と繰り返し公言し、同じ緑の党の政治家も停戦交渉は「ウクライナの立場を弱める」と主張するなど、誰も非軍事的解決の方法を考えていないようだ。

むしろ、「ウクライナは勝たなければならない」という感情がドイツや西欧諸国全体に広がっているのは、戦争に勝つことができるという信念と、平和ではなく勝利をドイツの政策の目標にすべきだという信念の表れなのである。プーチンの侵略戦争に対峙する外交にどのような限界があるにせよ、このような態度には、この姿勢には、強い諦めの気持ちと、銃声が止んだときに何が起こるのかを無視する姿勢が顕著に表れている。アドム・ゲタチュウがR2Pの失敗について書いているように。

「  人道的介入の批判者は、残虐行為に対して「何かする」ことを拒否していると常に悪口を言われるが、往々にしてその「何か」は軍事介入と同一視される。その代わりに、NATOのリビア空爆を引き起こしたような人道危機や内戦への対応は、地域のパートナーの役割を重視し、紛争のデスケーリングを目指し、政治的移行にすべての利害関係者を含める多国間・外交プロセスを優先させるべきだろう。… 究極的には、人道的危機の特定のケースに対するわれわれの対応は、より広範な非軍事化キャンペーンの中に組み込まれなければならない。集団的軍縮のための多国間の努力は、世界中の暴力的紛争に対するより広範な対応の一部でなければならない。」

もし、武力勝利のために行進するのではなく、平和のために活動することを話すことさえ、公的な議論の埒外であれば、あらゆる醜い結果を伴う妨害行為が常態化し、平和への努力は例外的なものとなってしまう。不都合なことに、このようなタカ派的な態度は、戦争犯罪や大量虐殺から身を守るための正当な責任なのだと訴えることで容易に正当化されてしまう。実際、ここには、優れた兵器、そして必要な場合には西側の軍事介入が、国際紛争を解決するための最も確実で正しい手段であるという考え方が根底にある。この考えは、「我々の兵器の提供が命を救う」というベーボックの最近の発言に要約される。このように西側の軍事力をもってはやすことは、戦争がもたらす悲惨な人的コストを帳消しにしてしまい、アウシュビッツの再び起こさない、という枠をはるかに超えて、軍事化の暴走を助長するおそれがある。

ポスト・ファシスト、そしてポスト・平和主義の国の観点からすれば、長い間発展してきたこの変化の頂点にあるのが、軍事化と戦争のために人道的懸念を運用することであり、これが歴史の分水嶺になるということである。

スティーブン・ミルダー

Stephen Milder フローニンゲン大学助教授(欧州政治・社会)、ミュンヘンのレイチェル・カーソン・センター研究員(Research Fellow)。著書に『Greening Democracy: Greening Democracy: The Antinuclear Movement in West Germany and Beyond, 1968-1983』の著者。

Twitterをめぐる政府と資本による情報操作――FAIRの記事を手掛かりに

本稿は、FAIRに掲載された「マスクの下で、Twitterは米国のプロパガンダ・ネットワークを推進し続ける」を中心に、SNSにおける国家による情報操作の問題について述べたものです。Interceptの記事「Twitterが国防総省の秘密オンラインプロパガンダキャンペーンを支援していたことが判明」も参照してください。(小倉利丸)

Table of Contents

1. FAIRとInterceptの記事で明らかになったTwitterと米国政府の「癒着」

SNSは個人が自由に情報発信可能なツールとしてとくに私たちのコミュニケーションの権利にとっては重要な位置を占めている。これまでSNSが問題になるときは、プラットフォーム企業がヘイトスピーチを見逃して差別や憎悪を助長しているという批判や、逆に、表現の自由の許容範囲内であるのに不当なアカウント停止措置への批判であったり、あるいはFacebookがケンブリッジ・アナリティカにユーザーのデータを提供して選挙に介入したり、サードパーティクッキーによるデータの搾取ともいえるビジネスモデルで収益を上げたり、といったことだった。これだけでも重大な問題ではあるが、今回訳出したFAIRの記事は、これらと関連しながらも、より密接に政府の安全保障と連携したプラットフォーム企業の技術的な仕様の問題を分析している点で、私にとっては重要な記事だと考えた。

戦争や危機の時代に情報操作は当たり前の状況になることは誰もが理解はしていても、実際にどのような情報操作が行なわれているのかを、実感をもって経験することは、ますます簡単ではなくなっている。

別に訳出して掲載したFAIRの記事 は、昨年暮にInterceptが報じたtwitterの内部文書に基くtwitterと米国政府との癒着の報道[日本語訳]を踏まえ、更にそれをより広範に調査したものになっている。この記事では、Twitterによる投稿の操作は、「米国の政策に反対する国家に関連するメディアの権威を失墜させること」であり、「もしある国家が米国の敵であると見なされるなら、そうした国家と連携するメディアは本質的に疑わしい」とみなしてユーザーの判断を誘導する仕組みを具体的に示している。twitterは、企業の方針として、米国のプロパガンダ活動を周到に隠蔽したり、米国の心理戦に従事しているアカウントを保護するなどを意図的にやってきたのだが、世界中のtwitterのユーザーは、このことに気づかないカ十分な関心を抱かないまま、公平なプラットフォームであると「信じて」投稿し、メッセージを受け取ってきた。しかし、こうしたSNSの情報の流れへの人為的な操作の結果として、ユーザーひとりひとりのTwitterでの経験や実感は、実際には、巧妙に歪められてしまっている。

ウクライナへのロシアによる侵略以後、ロシアによる「偽旗作戦」への注目が集まった。そして、日本でも、自民党は、「偽旗作戦」を含む偽情報の拡散による情報戦などを「新たな『戦い方』」と呼び、これへの対抗措置が必要だとしている。[注]いわゆるハイブリッド戦では「ンターネットやメディアを通じた偽情報の流布などによる世論や投票行動への影響工作を複合的に用いた手法」が用いられることから、非軍事領域を包含して「諸外国の経験・知見も取り入れながら、民間機関とも連携し、若年層も含めた国内外の人々にSNS等によって直接訴求できるように戦略的な対外発信機能を強化」が必要だとした。この提言は、いわゆる防衛3文書においてもほぼ踏襲されている。上の自民党提言や安保3文書がハイブリッド戦争に言及するとき、そこには「敵」に対する組織的な対抗的な偽情報の展開が含意されているとみるべきで、日本も遅れ馳せながら偽旗作戦に参戦しようというのだ。日本の戦争の歴史を振り返れば、まさに日本は偽旗作戦を通じて世論を戦争に誘導し、人々は、この偽情報を見抜くことができなかった経験がある。この意味でtwitterと米国政府機関との関係は、日本政府とプラットーム企業との関係を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。

[注]新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言(2022/4/26)

2. インターネット・SNSが支配的な言論空間における情報操作の特殊性

伝統的なマスメディア環境では、政府の世論操作は、少数のマスメディアへの工作によって大量の情報散布を一方的に実現することができた。政府だけでなく、企業もまた宣伝・広告の手段としてマスメディアを利用するのは、マスメディアの世論操作効果を期待するからだ。

しかしインターネットでは、ユーザーの一人一人が、政府や企業とほぼ互角の情報発信力をもつから、国家も資本も、この大量の発信をコントロールするというマスメディア時代にはなかった課題に直面した。ひとりひとりの発信者の口を封じたり、政府の意向に沿うような発言を強制させることはできないから、これはある種の難問とみなされたが、ここにインターネットが国家と資本から自立しうる可能性をみる――私もそうだった――こともできたのだ。

現実には、インターネットは、少数のプラットフォーム企業がこの膨大な情報の流れを事実上管理できる位置を獲得したことによって、事態は庶民の期待を裏切る方向へと突き進んでしまった。こうした民間資本が、アカウントの停止や投稿への検閲の力を獲得することによって、検閲や表現の自由の主戦場は政府とプラットーム企業の協調によって形成される権力構造を生み出した。政府の意図はマスメディアの時代も現代も、権力の意志への大衆の従属にある。そのためには、情報の流通を媒介する資本は寡占化されているか国家が管理できることが必要になる。現代のプラットフォーム企業はGAFAMで代表できるように少数である。これらの企業は、自身が扱う情報の流れを調整することによって、権力の意志をトップダウンではなくボトムアップで具現化させることができる。つまり、不都合な情報の流れを抑制し、国家にとって必要な情報を相対的に優位な位置に置き、更に積極的な情報発信によって、この人工的な情報の水路を拡張する。人びとは、この人工的な情報環境を自然なコミュニケーションだと誤認することによって、世論の自然な流れが現行権力を支持するものになっていると誤認してしまう。更にここにAIのアルゴリズムが関与することによって、事態は、単なる一人一人のユーザーの生の投稿の総和が情報の流れを構成する、といった単純な足し算やかけ算の話ではなくなる。twitterのAIアルゴリムズには社会的なバイアスがあることがすでに指摘されてきた。(「TwitterのAIバイアス発見コンテスト、アルゴリズムの偏りが明らかに」CNETJapan Sharing learnings about our image cropping algorithm )AIのアルゴリズムに影響された情報の流れに加えてSNSにはボットのような自動化された投稿もあり、こうした機械と人間による発信が不可分に融合して全体の情報の流れが構成される。ここがハイブリッド戦争の主戦場にもなることを忘れてはならない。

[注]検閲や表現領域のようなマルクスが「上部構造」とみなした領域が土台をなす資本の領域になっており、経済的土台と上部構造という二階建の構造は徐々に融合しはじめている。

3. ラベリングによる操作

FAIRの記事で問題にされているのは、政府の情報発信へのtwitterのポリシーが米国政府の軍事・外交政策を支える世論形成に寄与する方向で人びとのコミュニケーション空間を誘導している、という点にある。その方法は、大きく二つある。ひとつは、各国政府や政府と連携するアカウントに対する差別化と、コンテンツの選別機能でもある「トピック」の利用である。このラベルは2020年ころに導入された。日本語のサイトでは以下のように説明されている。

「Twitterにおける政府および国家当局関係メディアアカウントラベルについて

国家当局関係メディアアカウントについているラベルからは、特定の政府の公式代表者、国家当局関係報道機関、それらの機関と密接な関係のある個人によって管理されているアカウントについての背景情報がわかります。

このラベルは、関連するTwitterアカウントのプロフィールページと、それらのアカウントが投稿、共有したツイートに表示されます。ラベルには、アカウントとつながりのある国についてと、そのアカウントが政府代表者と国家当局関係報道機関のどちらによって運用されているかについての情報が含まれています。 」https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/state-affiliated

ラベリングが開始された2020年当時は、国連安全保障理事会の常任理事国を構成する5ヶ国(中国、フランス、ロシア、英国、米国)に関連するTwitterアカウントのなかから、地政学と外交に深くかかわっている政府アカウント、国家当局が管理する報道機関、国家当局が管理する報道機関と関連する個人(編集者や著名なジャーナリストなど) にラベルを貼ると表明していた。その後2022年になると中国、フランス、ロシア、英国、米国、カナダ、ドイツ、イタリア、日本、キューバ、エクアドル、エジプト、ホンジュラス、インドネシア、イラン、サウジアラビア、セルビア、スペイン、タイ、トルコ、アラブ首長国連邦が対象になり、2022年4月ころにはベラルーシとウクライナが追加される。こうした経緯をみると、当初と現在ではラベルに与えられた役割に変化があるのではないかと思われる。当初は国連安保理常任理事国の背景情報を提供することに主眼が置かれ、これが米国の国益にもかなうものとみなされていたのかもしれない。twitterをグローバルで中立的なプラットフォーマであることを念頭にその後のラベル対象国拡大の選択をみると、これが何を根拠に国を選択しいるのかがわかりづらいが、米国の地政学を前提にしてみると、米国との国際関係でセンシティブと推測できる国が意図的に選択されているともいえそうだ。他方でイスラエルやインドがラベルの対象から抜けているから、意図的にラベルから外すことにも一定の政治的な方針がありそうだ。(後述)そして、ロシアの侵略によって、このラベルが果す世論操作機能がよりはっきりしてくる。

ロシアへのラベリングは、ウクライナへの侵略の後に、一時期話題になった。(itmedia「Twitter、ロシア関連メディアへのリンクを含むツイートに注意喚起のラベル付け開始」)

上のラベルに関してtwitterは「武力紛争を背景に、特定の政府がインターネット上の情報へのアクセスを遮断する状況など、実害が及ぶ高いリスクが存在する限られた状況において、こうしたラベルが付いた特定の政府アカウントやそのツイートをTwitterが推奨したり拡散したりすることもありません。」と述べているのだが、他方で、「ウクライナ情勢に対するTwitterの取り組み」 では、これとは反するようなことを以下のように述べている。

「ツイートにより即座に危害が生じるリスクは低いが、文脈を明確にしなければ誤解が生じる恐れがある場合、当該ツイートをタイムラインに積極的に拡散せず、ツイートへのリーチを減らすことに注力します。コンテンツの拡散を防いで露出を減らし、ラベルを付与して重要な文脈を付け加えます。」

FAIRの報道には、実際の変化について言及があるので、さらに詳しい内容についてはFAIRの記事にゆずりたい。

4. トピック機能と恣意的な免責

ラベリングとともにFAIRが問題視したのがトピック機能だ。この機能についてもこれまでさほど深刻には把えられていなかったかもしれない。

FAIRは次のように書いている。

「Twitterのポリシーは、事実上、アメリカのプロパガンダ機関に隠れ蓑と手段を提供することになっている。しかし、このポリシーの効果は、全体から見ればまだまだだ。Twitterは様々なメカニズムを通じて、実際に米国が資金を提供するニュース編集室を後押しし、信頼できる情報源として宣伝しているのだ。

そのような仕組みのひとつが、「トピック」機能である。「信頼できる情報を盛り上げる」努力の一環として、Twitterはウクライナ戦争について独自のキュレーションフィードをフォローすることを推奨している。2022年9月現在、Twitterによると、このウクライナ戦争のフィードは、386億以上の “インプレッション “を獲得している。フィードをスクロールすると、このプラットフォームが米国の国家と連携したメディアを後押ししている例が多く、戦争行為に批判的な報道はほとんど、あるいは全く見られない。米国政府とのつながりが深いにもかかわらず、Kyiv IndependentとKyiv Postは、戦争に関する好ましい情報源として頻繁に提供されている。」

ここで「独自のキュレーションフィード」と記述されているが、日本語のTwitterのトピックでは、「キュレイーション」という文言はなく、主要な「ウクライナ情勢」の話題を集めたかのような印象が強い。Twitterは、ブログ記事「トピック:ツイートの裏側」 で「あるトピックを批判をしたり、風刺をしたり、意見が一致しなかったりするツイートは、健全な会話の自然な一部であり、採用される資格があります」とは書いているが、実際には批判と炎上、風刺と誹謗の判別など、困難な判断が多いのではないか。日本語での「ウクライナ情勢」のトピック では、日本国内の大手メディア、海外メディアで日本語でのツイート(BBC、CNN、AFP、ロイターなど)が大半のような印象がある。つまり、SNSがボトムアップによる多様な情報発信のプラットフォームでありながら、Twitter独自の健全性やフォローなどの要件を加味すると、この国では結果として伝統的なマスメディアがSNSの世界を占領するという後戻りが顕著になるといえそうそうだ。反戦運動や平和運動の投稿は目立たなくなる。情報操作の目的が権力を支える世論形成であるという点からみれば、SNSとプラットフォームが見事にこの役目を果しているということにもなり、言論が社会を変える力を獲得することに資本のプラットフォームはむしろ障害になっている。

しかも「トピック」は単純なものではなさそうだ。twitterによれば「トピック」機能は、会話におけるツイート数と健全性を基準に、一過性ではないものをトピックを選定するというが、次のようにも述べられている。

「機械学習を利用して、会話の中から関連するツイートを見つけています。ある話題が頻繁にツイートされたり、その話題について言及したツイートを巡って多くの会話が交わされたりすると、その話題がトピックに選ばれる場合があります。そこからさらにアルゴリズムやキーワード、その他のシグナルを利用して、ユーザーが強い興味関心を示すツイートを見つけます」

Twitterでは、「トピックに含まれる会話の健全性を保ち、また会話から攻撃的な行為を排除するため、数多くの保護対策を実施してい」るという。何が健全で何が攻撃的なのかの判断は容易ではない。しかし「これには、操作されていたり、スパム行為を伴ったりするエンゲージメントの場合、該当するツイートをトピックとして推奨しない取り組みなどが含まれます」 と述べられている部分はFAIRの記事を踏まえれば、文字通りのこととして受けとれるかどうか疑問だ。

トピックの選別をTwitterという一企業のキュレション担当者やAIに委ねることが、果して言論・表現の自由や人権にとってベストな選択なのだろうか。イーロン・マスクの独裁は、米国や西側先進国の民主主義では企業の意思決定に民主主義は何にひとつ有効な力を発揮できないという当たり前の大前提に、はじめて多くの人々が気づいた。Twitterにせよ他のSNSにせよ、伝統的なメディアの編集部のような「報道の自由」を確保するための組織的な仕組みがあるのあどうか、あるいはそもそもキュレイーションの担当者やAIに私たちの権利への関心があるのかどうかすら私たちはわかっていない。

もうひとつは、上で述べたラベリングと表裏一体の問題だが、本来であれば政府系のメディアとしてラベルを貼られるべきメディアが、あたかも政府からの影響を受けていない(つまり公正で中立とみなされかねない)メディアとして扱われている、という問題だ。FAIRは米軍、国家安全保障局、中央情報局のアカウント、イスラエル国防軍、国防省、首相のアカウントがラベリングされていないことを指摘している。

またFAIRが特に注目したのは、補助金など資金援助を通じて、特定のメッセージや情報の流れを強化することによる影響力強化だ。FAIRの記事で紹介されているメディアの大半は、米国の政府や関連する財団――たとえば全米民主主義基金(National Endowment for Democracy、USAID、米国グローバルメディア局――などからの資金援助なしには、そもそも情報発信の媒体としても維持しえないか、維持しえてもその規模は明かに小規模に留まらざるをえないことは明らかなケースだ。

5. 自分の直感や感性への懐疑は何をもたらすか

FAIRやInterceptの記事を読まない限り、twitterに流れる投稿が米国の国家安全保障の利害に影響されていることに気づくことは難しいし、たとえ投稿のフィードを読んだからといって、この流れを実感として把握することは難しい。フェイクニュースのように個々の記事やサイトのコンテンツの信憑性をファクトチェックで判断する場合と違って、ここで問題になっているのは、ひとつひとつの投稿には嘘はないが、グローバルな世論が、プラットフォーム企業が総体として流す膨大な投稿の水路や流量の調整によって形成される点にある。私たちは膨大な情報の大河のなかを泳ぎながら、自分をとりまく情報が自然なものなのか人工的なものなのか、いったいどこから来ているのか、情報全体の流れについての方向感覚をもてず、実感に頼って判断するしかない、という危うい状態に放り出される。このような状況のなかで、偏りを自覚的に発見して、これを回避することは非常に難しい。

こうしたTwitterの情報操作を前提としたとき、私たちは、ロシアやウクライナの国や人びとに対して抱く印象や戦争の印象に確信をもっていいのかどうか、という疑問を常にもつことは欠かせない。報道の体裁をとりながらも、理性的あるいは客観的な判断ではなく、好きか嫌いか、憎悪と同情の感情に訴えようとするのが戦争状態におけるメディアの大衆心理作用だ。ロシアへの過剰な憎悪とウクライナへの無条件の支持の心情を構成する客観的な出来事には、地球は平面だというような完璧な嘘があるわけではない。問題になるのは、出来事への評価や判断は、常に、出来事そのものと判断主体の価値観や世界観あるいは知識との関係のなかでしか生まれないということだ。私は、ロシアのウクライナへの侵略を全く肯定できないが、だからといって私の関心は、ウクライナであれロシアであれ、国家やステレオタイプなナショナリズムのアイデンティティや領土への執着よりも、この理不尽な戦争から背を向けようとする多様な人々が武器をとらない(殺さない)という選択のなかで生き延びようとする試みのなかにあるラディカリズムにあるのだが、このような国家にも「国民」にも収斂しないカテゴリーはプラットフォーム企業の関心からは排除され、支配的な戦争のイデオロギーを再生産する装置としてしか私には見えない。

国家に対する評価とその国の人びとへの評価とを区別するのに必要なそれなりの努力をないがしろにさせるのは、既存のマスメディアが得意とした世論操作だが、これがSNSに受け継がれると、SNSの多様な発信は総じて平板な国家の意志に収斂して把えられる傾向を生み出す。どの国にもある人びとの多様な価値観やライフスタイルやアイデンティティが国家が表象するものに単純化されて理解されてしまう。敵とされた国の人びとを殺すことができなければ戦争に勝利できないという憎悪を地下水脈のように形成しようとするのがハイブリッド戦争の特徴だが、これが日本の現在の国際関係をめぐる感情に転移する効果を発揮している。こうしたことが、一人一人の発信力が飛躍的に大きくなったはずのインターネットの環境を支配している。その原因は、寡占化したプラットフォーム企業が資本主義の上部構造を構成するイデイロギー資本として、政治的権力と融合しているからだ、とみなす必要がある。

6. それでもTwitterを選択すべきか

政府関連のツィートへのラベリングは、開始された当初に若干のニュースになったものの、その背景にTwitterと米国の安全保障政策との想定を越えた密接な連携があるということにまではほとんど議論が及んでいなかったのでは、と思う。さらにFAIRがイーロン・マスクのスペースXを軍事請け負い企業という観点から、その活動を指摘していることも見逃せない重要な観点だと思う。

情報操作のあり方は、独裁国家や権威主義国家の方がいわゆる民主主義や表現の自由を標榜する国よりも、素人でもわかりやすい見えすいた伝統的なプロパガンダや露骨な言論弾圧として表出する。ところが民主主義を標榜する国では、その情報操作手法はずっと洗練されており、より摩擦の少ない手法が用いられ、私たちがその重大性に気づくことが難しい。私たち自身による自主規制、政府が直接介入しない民間による「ガイドライン」、あるいは市場経済の価格メカニズムを用いた採算のとれない言論・表現の排除、さらには資源の希少性を口実にアクセスに過剰なハードルを課す(電波の利用)、文化の保護を名目としつつナショナリズムを喚起する公的資金の助成など、自由と金を巧妙に駆使した情報操作は、かつてのファシズムやマスメディアの時代と比較しても飛躍的に高度化した。そして今、情報操作の主戦場はマスメディアからプラットフォーム企業のサービスと技術が軍事技術の様相をとるような段階に移ってきた。

コミュニケーションの基本的な関係は、人と人との会話であり、他者の認識とは私の五感を通じた他者理解である、といった素朴なコミュニケーションは現在はほとんど存在しない。わたしは、あなたについて感じている印象や評価と私がSNSを通じて受けとるあなたについての様々な「情報」に組み込まれたコンピュータによって機械的に処理されたデータ化されたあなたを的確に判別することなどできない。しかし、コミュニケーションを可能な限り、資本や政府による恣意的な操作の環境から切り離すことを意識的に実践することは、私たちが世界に対して持つべき権利を偏向させたり歪曲させないために必要なことだ。そのためには、コンピュータ・コミュニケーションを極力排除するというライフスタイルが一方の極にあるとすると、もう一方の極には、資本の経済的土台と国家のイデオロギー的上部構造が融合している現代の支配構造から私たちのコミュニケーションを自立させうるようにコンピュータ・コミュニケーションを再構築するという戦略がありうる。この二つの極によって描かれる楕円の世界を既存の世界からいかにして切り離しつつ既存の世界を無力化しうるか、この課題は、たぶん武力による解放では実現できない課題だろう。

Author: toshi

Created: 2023-01-09 月 18:29

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マイケル・クェット:デジタル・エコ社会主義――ビッグテックの力を断ち切る

イラスト:Zoran Svilar

マイケル・クェット
           
2022年5月31日

このエッセイは、ROAR誌とのコラボレーションで企画されたTNIのDigital Futuresシリーズ「テクノロジー、パワー、解放」の一部である。マイケル・クェットのエッセイの後半になる。前半はこちら

グローバルな不平等を根付かせるビッグ・テックの役割を、もはや無視することはできない。デジタル資本主義の力を抑制するために、私たちはエコソーシャリズムによるデジタル技術のルールを必要としている。

ここ数年、ビッグテックをいかに抑制するかという議論が主流となり、政治的な傾向の違いを超えて議論がなされるようになった。しかし、これまでのところ、こうした規制は、デジタル権力の資本主義、帝国主義、環境の諸次元に対処することにほとんど失敗し、これらが一体となってグローバルな不平等を深化させ、地球を崩壊に近づけている。私たちは、早急に、エコ社会主義のデジタル・エコシステムを構築することが必要であるが、しかし、それはどのようなもので、どのようにすれば目的に到達できるのだろうか。

このエッセイは、21世紀において社会主義経済への移行を可能にする反帝国主義、階級廃絶、修復[lreparation]、脱成長の原則を中心としたデジタル社会主義のアジェンダ――デジタル技術の取り決めDigital Tech Deal(DTD)の中核となるいくつかの要素に焦点を当てることを目的としている。DTDは、変革のための提案やスケールアップ可能な既存のモデルを活用し、資本主義のオルタナティブを求める他の運動、特に脱成長運動との統合を目指している。必要な変革の規模は極めて大きいが、社会主義的なデジタル技術の取り決めの概要を示すこの試みが、平等主義的なデジタルエコシステムとはどのようなものか、そしてそこに到達するためのステップについてさらなるブレインストーミングと議論を引き起スことを期待している。

デジタル植民地主義に関する最初のものは、こちらでご覧いただけます。

デジタル資本主義と反トラスト法の問題点

テック部門に対する進歩的な批判は、しばしば反トラスト、人権、労働者の福利を中心とした主流の資本主義の枠組みから導き出されている。北半球のエリートの学者、ジャーナリスト、シンクタンク、政策立案者によって策定され、資本主義、西洋帝国主義、経済成長の持続を前提とした米国・欧州中心主義の改革主義的アジェンダを推進するものである。

反トラスト改革主義が特に問題なのは、デジタル経済の問題は、デジタル資本主義そのものの問題ではなく、単に大企業の規模や「不公正な慣行」の問題だと想定している点である。反トラスト法は、19世紀後半に米国で、競争を促進し、独占企業(当時は「トラスト」と呼ばれていた)の横暴を抑制するために作られた法律である。現代のビッグテックの規模と影響力が、この法律に再び光をあてることになった。反トラスト法の擁護者たちは、大企業が消費者や労働者、中小企業を弱体化させるだけでなく、いかに民主主義の基盤そのものにさえ挑戦しているかを指摘している。

反トラスト法擁護派は、独占は理想的な資本主義システムを歪めるものであり、必要なのは誰もが競争できる公平な土俵だと主張する。しかし、競争は、競争する資源を持つ人々にとってのみ意味のあるものであって、1日7.40ドル以下で生活している世界人口の半分以上の人びとが、欧米の反トラスト法支持者が思い描く「競争市場」でどうやって「競争」していくのか、誰もこのことを問うおうとはしていない。こうした競争は、インターネットの大部分がボーダーレスであることを考えれば、低・中所得国にとってより一層困難なことだ。

ROARで発表した以前の論文で論じたように、より広いレベルでは、反トラスト法擁護者は、グローバル経済のデジタル化によって深化したグローバルに不平等な分業と財やサービスの交換を無視している。Google、Amazon、Meta、Apple、Microsoft、Netflix、Nvidia、Intel、AMD、その他多くの企業は、世界中で使用されている知的財産と計算手段を所有しているため、大きな存在となっている。反トラスト法の理論家たち、特にアメリカの理論家たちは、結局、アメリカ帝国とグローバル・サウスを組織的にこの構図から消し去ってしまう。

ヨーロッパの反トラスト法に関する取り組みも、これと同じである。ここでは、ビッグ・テックの悪弊を嘆く政策立案者が、ひそかに自国を技術大国として築こうとしている。英国は1兆ドル規模の自国の巨大企業を生み出すことを目指している。エマニュエル・マクロン大統領は、2025年までにフランスに少なくとも25社のいわゆる「ユニコーン」(評価額10億ドル以上の企業を指す)を誕生させるべく、ハイテク新興企業に50億ユーロを投じる予定だ。ドイツは、グローバルなAI大国とデジタル産業化における世界のリーダー(=市場の植民地開拓者)になるために30億ユーロを投じている。一方、オランダも “ユニコーン国家 “を目指している。そして2021年、広く称賛されている欧州連合の競争コミッショナー、マルグレーテ・ヴェスタガーMargrethe Vestagerは、欧州は独自の欧州テック・ジャイアントを構築する必要があると述べている。2030年に向けたEUのデジタル目標の一環として、ヴェスタガーは、”ヨーロッパのユニコーンの数を現在の122社から倍増させる “ことを目指すと述べている

ヨーロッパの政策立案者は、大企業であるハイテク企業に原則的に反対するのではなく、自分たちの取り分を拡大しようとするご都合主義者なのである。

その他、累進課税、パブリックオプションとしての新技術の開発、労働者保護など、改革的資本主義の施策が提案されているが、根本原因や核心的問題への対処にはまだ至っていない。進歩的なデジタル資本主義は、新自由主義より優れてはいる。しかし、それはナショナリズムを志向し、デジタル植民地主義を防ぐことはできず、私有財産、利潤、蓄積、成長へのコミットメントを保持するものである。

環境危機と技術

デジタル改革論者のもう一つの大きな欠点は、地球上の生命を脅かす気候変動と生態系破壊という2つの危機に関するものである。

環境危機は、成長を前提とした資本主義の枠組みでは解決できないことを示す証拠が増えている。この枠組みは、エネルギー使用とそれによる炭素排出を増加させるだけでなく、生態系に大きな負担をかけている。

UNEPは、気温上昇を1.5度以内に抑えるという目標を達成するためには、2020年から2030年の間に排出量を毎年7.6%ずつ減らしていかなければならないと見積もっている学者による評価では、持続可能な世界の資源採取の限界は年間約500億トンとされているが、現在、私たちは年間1000億トンを採取し、主に富める者と北半球が恩恵を受けている。

脱成長を早急に実現しなければならない。進歩的な人々が主張する資本主義のわずかばかりの改革は、依然として環境を破壊する。予防原則を適用すれば、永久に生態系の破局を招くリスクを冒す余裕はない。テック部門は、ここでは傍観者ではなく、今やこうしたトレンドの主要な推進者の一人だ。

最近のレポートによると、2019年には、デジタルテクノロジー(通信ネットワーク、データセンター、端末(パーソナルデバイス)、IoT(モノのインターネット)センサーと定義)は、温室効果ガス排出量の4パーセントに加担し、そのエネルギー使用量は年間9パーセント増加している。

また、この数値は大きいようにも見えるかもしれないが、これはデジタル部門によるエネルギー使用量を過少評価している可能性が高い。2022年の報告書によると、大手テック企業はバリューチェーン[訳注]全体の排出量削減には取り組んでいないことが判明した。Appleのような企業は、2030年までに「カーボンニュートラル」になると主張しているが、これは「現在、直営のみが含まれており、カーボンフットプリントの1.5パーセントという微々たるものに過ぎない」。

地球を過熱させることに加えて、コンゴ民主共和国、チリ、アルゼンチン、中国といった場所で、エレクトロニクスに使われるコバルト、ニッケル、リチウムといった鉱物の採掘は、しばしば生態系を破壊することになる。

さらに、デジタル企業は、持続不可能な採掘を支援する上で極めて重要な役割を担っている。ハイテク企業は、企業が化石燃料の新しい資源を探査・開発したり、工業的な農業のデジタル化支援している。デジタル資本主義のビジネスモデルは、環境危機の主要因である大量消費を促進する広告を中心に展開されている。一方、億万長者の経営者の多くは、北半球の平均的な消費者の何千倍もの二酸化炭素を排出しているのだ。

デジタル改革論者は、ビッグ・テックは二酸化炭素排出や資源の過剰利用から切り離すことができると仮定し、その結果、彼らは個々の企業の特定の活動や排出に注意を向けることになる。しかし、資源利用と成長を切り離す考え方は、資源利用とGDPの成長が歴史上密接に関係していることを指摘する学者たちによって疑問視されている。最近、研究者たちは、経済活動を知識集約型産業を含むサービス業にシフトしても、サービス業従事者の家計消費レベルが上昇するため、地球環境への影響を低減する可能性は限定的であることを明らかにした

まとめると、成長の限界はすべてを変えてしまう。もし資本主義が生態学的に持続不可能であるならば、デジタル政策はこの厳しい、挑戦的な現実に対応しなければならない。

デジタル社会主義とその構成要素

社会主義体制では、財産は共有される。生産手段は労働者協同組合を通じて労働者自身によって直接管理され、生産は交換、利潤、蓄積のためではなく、使用と必要性のために行われる。国家の役割については、社会主義者の間でも論争があり、統治と経済生産はできるだけ分散させるべきだと主張する人もいれば、より高度な国家計画を主張する人もいる。

これらと同じ原則、戦略、戦術がデジタル経済にも適用される。デジタル社会主義のシステムは、知的財産を段階的に廃止し、計算手段means of computationを社会化し、データとデジタル知能を民主化し、デジタル生態系の開発と維持をパブリックドメインのコミュニティの手に委ねることになるだろう。

社会主義的デジタル経済のための構成要素の多くは既に存在している。例えば、フリー・オープンソース・ソフトウェア(FOSS)とクリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、社会主義的生産様式のためのソフトウェアとライセンシングを提供する。James MuldoonがPlatform Socialismの中で述べているように、DECODE(DEcentralised Citizen-owned Data Ecosystems)のような都市プロジェクトは、コミュニティ活動向けのオープンソース公共利益ツールを提供しているが、ここでは、共有データのコントロールを保持しつつ市民が大気汚染のレベルからオンラインの請願や近隣のソーシャルネットワークまで、データにアクセスし貢献できるものだ。ロンドンのフードデリバリープラットフォーム「Wings」のようなプラットフォーム・コープは、労働者がオープンソースのプラットフォームを通じて労働力を組織化し、労働者自身が所有・コントロールする卓越した職場モデルを提供している。また、社会主義的なソーシャルメディアとして、共有プロトコルを用いて相互運用するソーシャルネットワークの集合体であるFediverseがあり、オンライン・ソーシャル・コミュニケーションの分散化を促進している。

しかし、これらの構成要素は、目標達成のためにはポリシーの変更を必要とするだろう。例えば、Fediverseのようなプロジェクトは、閉じたシステムと統合することはできないし、Facebookのような大規模な集中リソースと競争することもできない。したがって、大手ソーシャルメディアネットワークに相互運用、内部分散、知的財産(プロプライエタリなソフトウェアなど)の開放、強制広告(人々が「無料のサービス」と引き換えに受けとる広告)の廃止、国や民間企業ではなく個人やコミュニティがネットワークを所有・コントロールしコンテンツのモデレーションができるようデータホスティングへの助成を強制する一連のラディカルな政策変更が必要である。これによって、技術系大企業は事実上、その存在意義を失うことになる。

インフラの社会化は、強固なプライバシーコントロール、国家による監視の規制、監獄セキュリティ国家の後退とバランスをとる必要がある。現在、国家は、しばしば民間部門と連携して、デジタルテクノロジーを強制の手段として利用している。移民や移動中の人々は、カメラ、航空機、モーションセンサー、ドローン、ビデオ監視、バイオメトリクスなどを織り交ぜたテクノロジーによって厳しく監視されている。記録とセンサーのデータは、国家によって融合センターやリアルタイム犯罪センターに集中化され、コミュニティを監視、予測、コントロールするようになってきている。マージナル化され人種差別化されたコミュニティや活動家は、ハイテク監視国家によって不当に標的にされている。活動家はこれらの組織的暴力の機関を解体し、廃止するよう活動し、国家のこうした実践は禁止されるべきだ。

デジタル技術の取り決め

大きなハイテク企業、知的財産、および計算手段の私的所有権は、デジタル社会に深く埋め込まれ、一晩で消し去ることはできない。したがって、デジタル資本主義を社会主義モデルに置き換えるには、デジタル社会主義への計画的な移行が必要だ。

環境保護主義者たちは、グリーン経済への移行のアウトラインを描く新たな「取り決め」を提案している。米国のグリーン・ニューディールや欧州のグリーン・ディールのような改革派の提案は、最終的な成長、帝国主義、構造的不平等といった資本主義の危害を保持したまま、資本主義の枠組みの中で実施される。対照的に、レッド・ネイションRed Nationのレッド・ディールRed Deal、コチャバマバ協定Cochabamaba Agreement、南アフリカの気候正義憲章Climate Justice Charterのようなエコ社会主義モデルは、より優れた代替案を提供している。これらの提案は、成長の限界を認め、真に持続可能な経済への公正な移行に必要な平等主義的原則を組み込んでいる。

しかし、これらのレッドディールもグリーンディールも、現代の経済と環境の持続可能性と中心的な関連性があるにもかかわらず、デジタルエコシステムのための計画を組み込んでいない。一方、デジタル・ジャスティス運動は、脱成長の提案と、デジタル経済の評価をエコ社会主義の枠組みに統合する必要性をほぼ完全に無視している。環境正義とデジタル正義は密接に関係しており、この2つの運動はその目標を達成するために連携しなければならない。

そのために、私は反帝国主義、環境の持続可能性、疎外されたコミュニティのための社会正義、労働者の権利拡大、民主的コントロール、階級の廃絶という交差する価値を具体化するエコソーシャリストのデジタル技術の取り決めDigital Tech Dealを提案する。以下は、こうしたプログラムを導くための10の原則である。

1. デジタル経済が社会的、惑星的な境界線に収まるようにする。

私たちは、北半球の富裕国がすでに炭素予算の公正な取り分を超えて排出しているという現実に直面している。これは、富裕国に不釣り合いな利益をもたらしているビッグテック主導のデジタル経済にも当てはまる。したがって、デジタル経済が社会的・惑星規模の限界内に収まるようにすることが不可欠だ。私たちは、科学的な情報に基づき、使用できる材料の量と種類に制限を設け、どの材料資源(バイオマス、鉱物、化石エネルギーキャリア、金属鉱石など)をどの用途(新しい建物、道路、電子機器など)にどの程度、誰のために割くべきかを決定する必要があるのではないないか。北から南へ、富裕層から貧困層への再分配政策を義務付けるエコロジー債務を確立することができるはずだ。

2. 知的財産の段階的廃止

知的財産、特に著作権や特許は、知識、文化、アプリやサービスの機能を決定するコードに対するコントロールを企業に与え、企業がユーザーの関与を上限を規定し、イノベーションを私有化し、データとレントを引き出すことを可能にするものである。経済学者のディーン・ベイカーDean Bakerは、特許や著作権の独占がない「自由市場」で得られるものと比べて、知的財産のレントは消費者に年間さらに1兆ドルの損失を与えていると見積もっている。知的財産を廃止し、知識を共有するコモンズ・ベースのモデルを採用すれば、価格を下げ、すべての人に教育を提供し、富の再分配とグローバル・サウスへの賠償として機能する。

3. 物理的インフラの社会化

クラウドサーバー施設、無線電波塔、光ファイバーネットワーク、大洋横断海底ケーブルなどの物理的インフラは、それを所有する者に利益をもたらす。これらのサービスをコミュニティの手に委ねることができるコミュニティが運営するインターネットサービスプロバイダやワイヤレスメッシュネットワークの構想もある。海底ケーブルのようなインフラは、利潤のためではなく、公共の利益のためにコストをかけて建設・維持する国際コンソーシアムによって維持さできるだろう。

4. 私的な生産投資を、公的な補助金と生産に置き換える。

Dan HindのBritish Digital Cooperativeは、社会主義的な生産モデルが現在の状況下でどのように活動しうるかについての最も詳細な提案であろう。この計画では、”市民や多かれ少なかれまとまった集団が集まって政治に対する主張を確保できる場を、地方、地域、国レベルの政府を含む公共部門の機関が提供する “とされている。オープンデータ、透明性のあるアルゴリズム、オープンソースのソフトウェアやプラットフォームによって強化され、民主的な参加型計画によって実現されるこのような変革は、デジタルエコシステムと広範な経済への投資、開発、維持を促進することになる。

Hindは、これを一国内での公的オプションとして展開することを想定しており、民間セクターと競合することになるが、その代わりに、技術の完全な社会化のための予備的な基礎を提供することができる。さらに、私たちは、グローバル・サウスに賠償金としてインフラを提供するグローバルな正義の枠組みを含むように拡張することも可能だろう。これは、気候正義のイニシアチブが、グローバル・サウスが化石燃料をグリーンエネルギーに置き換えるのを助けるよう富裕国に圧力をかけるのと同じ方法だ。

5. インターネットの分散化

社会主義者たちは、富と権力と統治を労働者と地域社会の手に分散させることを長い間支持してきた。FreedomBoxのようなプロジェクトは、電子メール、カレンダー、チャットアプリ、ソーシャルネットワーキングなどのサービスのためのデータをまとめてホストしルーティングできる安価なパーソナルサーバーを動かすためのフリー・オープンソースソフトウェアを提供している。また、Solidのようなプロジェクトでは、各自がコントロールする「ポッド」内にデータをホスティングすることが可能です。アプリ・プロバイダーやソーシャル・メディア・ネットワーク、その他のサービスは、ユーザーが納得できる条件でデータにアクセスすることができ、ユーザーは自分のデータをコントロールすることができる。これらのモデルは、社会主義に基づいてインターネットを分散化するためにスケールアップすることができる。

6. プラットフォームの社会化

Uber、Amazon、Facebookなどのインターネット・プラットフォームは、そのプラットフォームのユーザーの間に立って私的仲介業者として、所有権とコントロールを集中させている。FediverseやLibreSocialのようなプロジェクトは、ソーシャルネットワーキングを越えて拡張できる可能性のある相互運用性の青写真を提供している。単純に相互運用できないサービスは社会化され、利潤や成長のためではなく、公共の利益のためにコストをかけて運営できるだろう。

7. デジタル・インテリジェンスとデータの社会化

データとそこから得られるデジタル・インテリジェンスは、経済的な富と権力の主要な源だ。データの社会化は、データの収集、保存、使用方法において、プライバシー、セキュリティ、透明性、民主的な意思決定といった価値観や慣行を埋め込むことになる。バルセロナやアムステルダムのプロジェクトDECODEなどのモデルをベースにすることができるだろう。

8. 強制的な広告とプラットフォームの消費主義を禁止する

デジタル広告は、一般大衆を操り、消費を刺激するように設計された企業のプロパガンダを絶え間なく押し出している。多くの「無料」サービスは広告によって提供され、まさにそれが地球を危険にさらす時に、さらに大量消費主義を刺激している。Google検索やAmazonのようなプラットフォームは、生態系の限界を無視して消費を最大化するために構築されている。強制的な広告の代わりに、製品やサービスに関する情報は、ディレクトリでホストされて自主的にアクセスすることができよう。

9. 軍、警察、刑務所、国家安全保障機構を、コミュニティ主導の安全・安心サービスへと置き換える

デジタルテクノロジーは、警察、軍隊、刑務所、諜報機関の力を増大させた。自律型兵器のような一部のテクノロジーは、暴力以外の実用性がないため、禁止されるべきだ。その他のAI駆動型テクノロジーは、間違いなく社会的に有益な用途を持つが、社会におけるその存在を制限するために保守的なアプローチをとり、厳しく規制する必要があるだろう。大規模な国家監視の抑制を推進する活動家は、これらの機関の標的となる人々に加えて、警察、刑務所、国家安全保障、軍国主義の廃止を推進する人々とも手を結ぶべきである。

10. デジタル・デバイドをなくす

デジタルデバイドとは、一般的にコンピュータデバイスやデータなどのデジタル資源への個人の不平等なアクセスを指すが、クラウドサーバー設備やハイテク研究施設などのデジタルインフラが裕福な国やその企業によって所有・支配されていることも含める必要がある。富の再分配の一形態として、課税と賠償のプロセスを通じて資本を再分配し、世界の貧困層に個人用デバイスとインターネット接続を補助し、クラウドインフラやハイテク研究施設などのインフラを購入できない人口に提供することができるだろう。

デジタル社会主義を実現する方法

抜本的な改革が必要だが、やるべきことと現在の状況には大きな隔たりがある。とはいえ、私たちにできること、そしてやらなければならない重要なステップがいくつかある。

まず、デジタル経済の新しい枠組みを共に創造するために、コミュニティ内外で意識を高め、教育を促し、意見交換することが不可欠だ。そのためには、デジタル資本主義や植民地主義に対する明確な批判が必要である。

知識の集中的な生産をそのままにしておくと、このような変化をもたらすことは困難であろう。北半球のエリート大学、メディア企業、シンクタンク、NGO、ビッグテックの研究者たちが、資本主義の修正に関する議論を支配し、アジェンダを設定し、こうした議論のパラメータを制限し、制約している。例えば、大学のランキング制度を廃止し、教室を民主化し、企業や慈善家、大規模な財団からの資金提供を停止するなど、彼らの力を奪うための措置が必要だ。南アフリカで最近起こった学生による#FeesMustFallという抗議運動や、イェール大学でのEndowment Justice Coalitionなどは、教育を脱植民地化する取り組みが必要となる運動の例を示している。

第二に、私たちはデジタル正義の運動を他の社会的、人種的、環境的正義の運動と結びつける必要がある。デジタル上の権利運動の活動家は、環境保護主義者、人種差別廃止活動家、食の正義の擁護者、フェミニストなどと一緒に活動する必要がある。例えば、草の根の移民は主導しているネットワークMijenteの#NoTechForIceキャンペーンは、米国における移民取り締まりのテクノロジーの供給に挑戦している。しかし、特に環境との関連で、まださらなる運動が必要だ。

第三に、私たちはビッグ・テックと米帝国主義に対する直接行動と情宣を強化する必要がある。グローバル・サウスにおけるクラウドセンターの開設(例:マレーシア)や、学校へのビッグテック・ソフトウェアの押しつけ(例:南アフリカ)など、一見すると難解なテーマであるために、多数の支持を動員することが困難な場合がある。特に、食料、水、住居、電気、保健医療、仕事へのアクセスを優先しなければならない南半球では難しいことでもある。しかし、インドにおけるフェイスブックのFree Basicsや、南アフリカのケープタウンにおける先住民族の聖地でのアマゾン本社建設といった開発に対する抵抗の成功は、市民による反対の可能性と潜在力を示している。

こうした活動家のエネルギーは、さらに進んで、ボイコット、投資撤収、制裁(BDS)の戦術を取り入れることができる。これは、反アパルトヘイト活動家が南アフリカのアパルトヘイト政府に機器を販売するコンピューター企業を標的にした戦術である。活動家は、今度は巨大なハイテク企業の存在をターゲットに、#BigTechBDS運動を構築することができるだろう。ボイコットによって、巨大ハイテク企業との公共部門の契約を取り消し、社会主義的な民衆の技術ソリューションに置き換えることもできるだろう。投資撤収キャンペーンは、最悪のハイテク企業から大学などの機関への投資を撤回させることも可能だ。そして活動家たちが、米国や中国、その他の国のハイテク企業に的を絞った制裁を適用するよう国家に圧力をかけることも可能となろう。

第四に、私たちは、新しいデジタル社会主義経済のための構成単位となりうる技術労働者協同組合を構築する活動が必要だ。ビッグテックを組合化する運動があり、これはハイテク労働者を保護するのに役立つだろう。しかし、ビッグテックの組合化は、東インド会社や兵器メーカーのRaytheon、Goldman Sachs あるいは Shellの組合化のようなもので、社会正義ではなく、穏やかな改革しか実現しない可能性がある。南アフリカの反アパルトヘイト活動家が、アパルトヘイト下の南アフリカでアメリカ企業がビジネスから利益を出し続けることを可能にした「サリバン原則」――企業の社会的責任に関する一連のルールと改革――やその他の穏やかな改革を拒否し、アパルトヘイト体制を窒息させることを優先したように、私たちはビッグテックとデジタル資本主義のシステムを完全に廃止することを目指していかなければならない。そして、そのためには、改革不可能なものを改革するのではなく、業界の公正な移行を実現するために、代替案を作り、技術労働者との関係を持つことが必要だ。

最後に、あらゆる階層の人々が、デジタル技術の取り決めを構成する具体的なプランを開発するために、技術専門家と協働で活動する必要がある。これは、現在の環境に対するグリーン「ディール」と同じくらい真剣に取り組む必要がある。デジタル技術の取り決めによって、広告業界など一部の労働者は職を失うことになるので、これらの業界で働く労働者のための公正な移行が必要である。労働者、科学者、エンジニア、社会学者、弁護士、教育者、活動家、そして一般市民は、このような移行を実現するための方法を共同でブレーンストーミングすることができるだろう。

今日、進歩的資本主義は、ビッグ・テックの台頭に対する最も現実的な解決策であると広く考えられている。しかし、彼らは同じ進歩主義者でありながら、資本主義の構造的危害、米国主導のハイテク植民地化、脱成長の必要性を認識していない。私たちは、自分たちの家を暖かく保つために壁を焼き払うことはできない。唯一の現実的な解決策は、唯一無二の家を破壊しないために必要なことをすることであり、それはデジタル経済を統合することでなければならない。デジタル技術の取り決めによって実現されるデジタル社会主義は、私たちが抜本的な改革を行うための短い時間枠の中で最良の希望を与えてくれるが、議論し、討論し、構築することが必要だろう。この記事が、読者のみなさんたちに、この方向に向かって協力的に構築するよう促すことができれば幸いである。

著者について
ロードス大学で社会学の博士号を取得。エール大学ロースクール情報社会プロジェクトを客員研究員として務める。著書に「デジタル植民地主義」(原題:Digital colonialism)がある。また、VICE News、The Intercept、The New York Times、Al Jazeera、Counterpunchで記事を発表している。

TwitterでMichealを見つける。マイケル・クウェット(@Michael_Kwet)。

訳注:バリューチェーン:企業の競争優位性を高めるための考え方で、主活動の原材料の調達、製造、販売、保守などと、支援活動にあたる人事や技術開発などの間接部門の各機能単位が生み出す価値を分析して、それを最大化するための戦略を検討する枠組み。価値連鎖と邦訳される。(日本大百科全書)

【経営・企業】原材料の調達,製造,販売などの各事業が連鎖して,それぞれが生み出す利益を自社内で取り込むやり方.(imidas)

私たちはハイブリッド戦争の渦中にいる――防衛省の世論誘導から戦争放棄概念の拡張を考える

戦争に前のめりになる「世論」

防衛省がAIを用いた世論操作の研究に着手したと共同通信など各紙が報道し、かなりの注目を浴びた。この研究についてのメディアの論調は大方が批判的だと感じたが、他方で、防衛予算の増額・増税、敵基地攻撃能力保持については、世論調査をみる限り、過半数が賛成している。(NHK毎日時事日経サンケイ) 内閣の支持率低迷のなかでの強引な政策にもかかわらず、また、なおかつ与党自民党内部からも批判があるにもかかわらず、世論の方がむしろ軍拡に前のめりなのではないか。与党内部の意見の対立は、基本的に日本の軍事力強化を肯定した上でのコップのなかの嵐であって、実際には、防衛予算増額に反対でもなければ、東アジアの軍事的な緊張を外交的に回避することに熱心なわけでもない。

私は、政権与党や右翼野党よりも、世論が敵基地攻撃含めて戦争を肯定する傾向を強めているのはなぜなのかに関心がある。政府とメディアによる国際情勢への不安感情の煽りが効果を発揮しているだけではなく、ウクライナへのロシアの侵略に対して、反戦平和運動内部にある、自衛のための武力行使の是非に関する議論の対立も影響していると推測している。私はいかなる場合であれ武器をとるな、という立場だが、9条改憲に反対する人達のなかでも、私のようなスタンスには批判もあり、専守防衛や自衛のための戦力保持を肯定する人達も少なくないのでは、と思う。こうした状況のなかで、鉄砲の弾が飛び交うような話でもない自衛隊による世論誘導の話題は、ややもすれば、問題ではあっても、核兵器やミサイルや戦車ほどには問題ではない、とみなされかねないと危惧している。実際は、違う。世論誘導という自衛隊の行動は、それ自体が戦争の一部をなしている、というのが現代の戦争である。戦争放棄を主張するということは、こうした一見すると戦争とは思えない事態を明確に否定し、こうしたことが起きないような歯止めをかける、ということも含まれるべきだと思う。

防衛省の次年度概算要求にすでに盛り込まれている

信濃毎日の社説では、世論誘導の研究を来年度予算案に必要経費を盛り、国家安全保障戦略の改定版にも明記する方針を固めていると書いている。防衛省の次年度概算要求書では「重要政策推進枠」としてサイバー領域における能力強化に8,073,618千円の要求が計上されている。AIに関しては『我が国の防衛と予算、令和5年度概算要求の概要』のなかに以下のような記述がある。

「指揮統制・情報関連機能
わが国周辺における軍事動向等を常時継続的に情報収集するとともに、ウクライナ侵略でも見られたような認知領域を含む情報戦等にも対応できるよう情報機能を抜本的に強化し、隙のない情報収集態勢を構築する必要。迅速・確実な指揮統制を行うためには、抗たん性のあるネットワークにより、リアルタイムに情報共有を行う能力が必要。
こうした分野におけるAIの導入・拡大を推進」

https://www.mod.go.jp/j/yosan/yosan_gaiyo/2023/yosan_20220831.pdf

上で「ウクライナ侵略でも見られたような認知領域を含む情報戦等にも対応」とある記述は、偽旗作戦と呼ばれるような情報操作、世論操作を念頭に置いていると解釈できる。そして情報機能の強化のために「AIを活用した公開情報の自動収集・分析機能の整備」とも書かれている。また民間人材の活用にも言及し「AI適用システムの構築等への実務指導を実施」と述べられている。民間とは日本の場合は、AIの商業利用におけるノウハウを軍事転用することが含意されるが、そうなればいわゆるステルスマーケティングなどメディアが報じた自衛隊による世論誘導技術が含まれて当然と思う。また、サイバー政策の企画立案体制等を強化するため、「サイバー企画課(仮称)」及び情報保証・事案対処を担当する「大臣官房参事官」を新設するとしている。

法的規制は容易ではないかもしれない:反戦平和運動のサイバー領域での取り組みが必須と思う

信濃毎日も社説で批判してように、政府が率先して虚偽の情報を拡散させたり、逆に、言論統制で自由な言論を抑圧するなど、世論誘導の軍事的な展開の危険性は問題だらけだが、政府側が言うように、民間資本がステルスマーケティングなどとして展開している手法であって、違法性はない、という主張に反論するのは、実はかなりやっかいかもしれない。倫理的に政府による世論誘導は認めるべきではない、という議論は立てられても、違法性や犯罪とみなすことは、戦前によくあった意図的な誤報や流言蜚語を流すようなことでもない限り、反論は容易ではない。政府が広報として政府の政策や主張を述べることを通じて、世論は常に誘導されている。この誘導技術をAIを用いてより洗練されたものにしようということであると解釈すると、現在の日本の法制度の枠組を前提として、防衛省の世論誘導技術の導入を効果的に阻止できる仕組みは果たしてあるのか。だからこそ、こうした行為を自衛隊が主体となって実施する場合、それが「戦争」概念に含まれる行為だという戦争についての新たな定義を提起しておく必要がある。言い換えれば、自衛隊がAIやサイバー領域で行動すること自体を違法とする枠組が必要だということだ。

しかし、法的な枠組が全くないともいえない。ありうるとすれば、特定デジタルプラットフォームの透明性及び公正性の向上に関する法律あたりかもしれないが、この法律は商取引を前提としたプラットフォーマーへの規制だ。こうしたプラットーマーに対する規制を政府の世論誘導や軍事安全保障の目的での不透明な世論誘導をも対象にするように拡大することは容易ではないとも思う。

今回のような防衛省の研究開発は、法制度上も、反戦平和運動や議会内の左派野党の問題意識と運動の取り組みという対抗軸の弱さからみても、野放し状態だといっていい。対抗運動による弁証法が機能していないのだ。

これまでの防衛省のAIへの関わり:ヒューマン・デジタル・ツイン

ターゲティング広告など企業の消費者誘導技術や、その選挙などへの転用といった、これまで繰り返し批判されてきたAIについての疑問(たとえばEFF「マジックミラーの裏側で」参照)があるにもかかわらず、こうした批判を自衛隊の世論操作技術研究はあきらかに無視している。

この報道があったあとで、岸田は、この報道を否定する見解を出したことが報じられた。 「岸田総理は、「ご指摘の報道の内容は、全くの事実誤認であり、政府として、国内世論を特定の方向に誘導するような取組を行うことは、あり得ません」と文書で回答」 とテレ朝 は報じている。しかし、上述の概算要求をみても、この否定は、それこそ意図的な官邸発のフェイクの疑いが拭えない。

概算要求の他に、防衛省のAIへの取り組みについては、すでに今年4月に イノベーション政策強化推進のための有識者会議「AI戦略」(AI戦略実行会議)第9回資料 として防衛省は「防衛省におけるAIに関する取組」という資料を提出している。 このなかで、「AI技術がゲームチェンジャーになり得る」という認識を示し、また「AIによる利活⽤の基礎となるデジタル・ツインの構築」という項目がある。曲者はこの「デジタルツイン」という一般には聞き慣れない言葉にある。デジタル・ツインとは、「現実世界で得られたデータに基づいて、デジタル空間で同様の環境を再現・シミュレーションし、得られた結果を現実世界にフィードバックする技術である。」(NTTdata経営研究所、山崎 和行)と説明されるものだ。現実空間とそっくりな仮想空間を構築して、現実世界を操作するような技術をいう。上の防衛省の資料のなかに「ヒューマン・デジタル・ツイン」という概念が示され「⾏動・神経系のデータと神経科学的知⾒に基づいてヒトのデジタル・ツ
インを構築し、教育訓練や診断治療への応⽤のための研究開発を推進する」とも書かれている。前述の山崎のエッセイによれば、ヒューマン・デジタル・ツインとは「人間の身体的特徴や、価値観・嗜好・パーソナリティなどの内面的な要素を再現するデジタルツイン」のことであり、「実際の人間の行動や意思決定をシミュレーション可能なヒューマン・デジタルツインが実現すれば、産業分野でのデジタルツインのようにビジネスに大きな変革を与える」と指摘している。こうした分野を軍事安全保障に応用しようというのが先の防衛省の資料である。ビッグデータを用いた行動解析や予測に基く世論操作技術そのものであり、防衛省としては、こうした研究は既に既定の事実になっている。もし私のこうした理解が正しければ、岸田の否定は意図的に虚偽の情報を流してことになる。

海外でのAIの軍事利用批判

AIの軍事利用の規制を求める国際的な運動はあるものの(たとえばこれとかこれ) EU域内市民への世論調査でも政府の国家安全保障のためのAI利用への危惧が金融機関での利用に次いで二番目に大きくなっている。(ECNLの調査)他方日本では反戦平和運動のなかでのAIやサイバーへの関心が極めて薄いために、取り組みが遅れているところを突かれた印象がある。

AIが悪用される危険性についてはかなり前から指摘さていました。たとえば、2018年に発行さいれた14の団体、26名が執筆しているレポート、The Malicious Use of Artificial Intelligence: Forecasting, Prevention, and Mitigation (人工知能の悪意ある利用。予測、予防、緩和)では次のように指摘されている。

「政治的な安全保障。監視(大量収集データの分析など)、説得(標的型プロパガンダの作成など)、騙し(動画の操作など)に関わる作業をAIで自動化することで、プライバシー侵害や社会的操作に関わる脅威が拡大する可能性がある。また、利用可能なデータに基づいて人間の行動、気分、信念を分析する能力の向上を利用した新しい攻撃も予想さ れる。これらの懸念は、権威主義的な国家において最も顕著に現れるが、民主主義国家が真実の公開討論を維持する能力も損なわれる可能性がある。」

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/ecnl_new-poll-public-fears-over-government-use-artificial-intelligence_jp/

ここで危惧されていることがまさに今回露呈した防衛省によるAIを用いた世論誘導に当てはまるといえる。 (日本でも下記のような記事がずいぶん前に出ている。「 AIがフェイクニュース、自然なつぶやきで世論操作が可能に」 )以上のように、岸田が否定しているにもかかわらず実際には、世論誘導技術が防衛省で研究が進めらているのではないかという状況証拠は多くあるのだ。

防衛省の世論誘導研究は、あきらかに日本の世論を、軍隊が存在して当たり前という近代国家の定石に沿った価値観の上からの形成として構想されているに違いないと思う。自衛隊のアイデンティティ戦略としてみれば、まさに国民の総意によって自衛隊=人殺しができる集団への支持を獲得することが至上命題であり、改憲はそのための最後の仕上げでもあるといる。改憲のためには世論誘導は欠かせないハイブリッド戦争の一環をなすともいえる。

自民党「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」は偽旗作戦もフェイクも否定しない

自民党は今年4月に「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」を出した。そのなかに「戦い方の変化」という項目があり、サイバー領域にかなり重点を置いた記述になっている。ここで次のように書いていまる。

「今般のロシアによるウクライナ侵略においても指摘されるように、軍事・非軍事の境界を曖昧にした「ハイブリッド戦」が行われ、その一環としての「偽旗作戦」を含む偽情報の拡散による情報戦など、新たな「戦い方」は今、まさに顕在化している。」

https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/203401_1.pdf

デマを拡散させることが新たな戦い方だと指摘し、こうした戦い方を否定していない。より具体的には「ハイブリッド戦」として次のように述べている。やや長いが、以下引用する。

「いわゆる「ハイブリッド戦」は、軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧にし、様々な手段を複合的に用いて領土拡大・対象国の内政のかく乱等の政策目的を追求する手法である。具体的には、国籍不明部隊を用いた秘密裏の作戦、サイバー攻撃による情報窃取や通信・重要インフラの妨害、さらには、インターネットやメディアを通じた偽情報の流布などによる世論や投票行動への影響工作を複合的に用いた手法と考えられる。このような手法に対しては、軍事面にとどまらない複雑な対応を求められる。 こうした「ハイブリッド戦」は、ロシアによる2014年のクリミア侵攻で広く認識され、本年のウクライナ侵略においてもロシアがその手法をとっていると指摘されている。このような情勢を踏まえ、「ハイブリッド戦」への対応に万全を期すため、サイバー分野や認知領域を含めた情報戦への対応能力を政府一体となって強化する。」

「情報戦への対応能力(戦略的コミュニケーションの強化を含む。) 本年のロシアによるウクライナへの侵略を踏まえれば、情報戦への備えは喫緊の課題である。情報戦での帰趨は、有事の際の国際世論、同盟国・同志国等からの支援の質と量、国民の士気等に大きくかかわる。日本政府が他国からの偽情報を見破り(ファクト・チェック)、戦略的コミュニケーションの観点から、迅速かつ正確な情報発信を国内外で行うこと等のために、情報戦に対応できる体制を政府内で速やかに構築し、地方自治体や民間企業とも連携しながら、情報戦への対応能力を強化する。 また、諸外国の経験・知見も取り入れながら、民間機関とも連携し、若年層も含めた国内外の人々にSNS等によって直接訴求できるように戦略的な対外発信機能を強化する。」

自民党の提言は、偽旗作戦も情報操作も戦争の一環とみなし否定するどころか、これをどのようにして軍事安全保障の戦略に組み込むか、という観点で論じられている。こうした自民党の動向を踏まえれば防衛省がAIを用いた世論誘導を画策していてもおかしくない。

ハイブリッド戦争と戦争放棄

もうひとつ重要なことは、ハイブリッド戦では、軍事と非軍事の境界が曖昧になるみている点だ。こうなると非軍事技術が軍事技術と不可分一体となって、非軍事領域が戦争の手段になり戦争のコンテクストのなかに包摂されてしまう。戦争の中核にあるのは、戦車や戦闘機、ミサイルなどであるとしても、それだけが軍事ではない、ということだ。ハイブリッド戦を念頭に置いたばあい、いわゆる自衛隊の武力とされる装備や兵力の動員だけを念頭に置いて、戦争反対の陣形を組むことでは全く不十分になる。バイブリッド戦は現代の総力戦であり、前線と銃後の区別などありえない。とりわけサイバー空間は、この混沌とした状況に嵌り込むことになる。こうした事態を念頭に置いて、戦争放棄とは、どのようなことなのかを具体的にイメージできなければならないし、憲法9条は、こうした事態において、今まで以上に更に形骸化する可能性がありうる。9条をある種の神頼み的に念じれば、平和な世界へと辿りつくのではという期待は、ますます理念としても成り立たなくなっている。これは、9条に期待をしてきた人達には非常に深刻な事態だということをぜひ理解してほしいと思う。私のように9条は、はじめから一度たりとも現実のものになったことがない絵に描いた餅にすぎない(だからこそ、戦争放棄は憲法や法をアテにしては実現できない)、と冷やかな態度をとってきた者にとってすら、とても危機的だと感じている。

世論操作の技術が民間の広告技術であっても、それが戦争の技術になりうると考えて対処することが、平和運動にとっても必要になっている。そのためには、私たちが日常生活で慣れ親しんでいる、ネットの環境に潜んでいる、私たちの実感では把えられない監視や意識操作の技術にもっと警戒心をもたなければならないと思う。実感や経験に依拠して、自分たちの判断の正しさを確信することはかなり危険なことになっている。パソコンやスマホはハイブリッド戦争における武器であり、知覚しえないプロセスを通じて私たちの情動を構築することを政府や軍隊がAIに期待している。しかし、台所の包丁のように、デジタルのコミュニケーションを人殺しや戦争に使うのではない使い方を自覚的に獲得すること、私たちが知らない間に戦争に加担させられないような感情動員(世論誘導)の罠から逃れる術を獲得することが必要になる。しかし、反戦平和運動は、なかなかそこまで取り組めていないのが現状だろう。

サイバー空間は私たちの日常生活でのコミュニケーションの場所だ。この場所が戦場になっている、ということを深刻にイメージできないといけないと思う。サイバー戦争の放棄とは、自衛隊や軍隊はサイバースペースから完全撤退すべきであり、サイバー部隊は解体すべきだ、ということだが、これは喫緊の課題だ。戦争や武力や威嚇、あるいは自衛の概念は従来の理解ではあまりにも狭すぎて、戦争を放棄するには不十分だと思う。サイバー空間も含めて、「戦争」の再定義が必要だ。そのための議論が必要だと思う。コミュニケーションは人を殺すためにあってはならないと強く思う。

(Boston Review)デジタル植民地主義との闘い方

以下は、Boston Reviewに掲載されたトゥーサン・ノーティアスの記事の翻訳である。日本語による「デジタル植民地主義」への言及が最近目立つようになっている。たとえば、「技術革新がもたらしたデジタル植民地主義」は、以下で翻訳した記事でも言及されているFacebookなどによるアフリカなどグローバルサウスの囲い込みと先進国やビッグテックとの溝を紹介しつつも世界銀行による問題解決に期待しているような論調になっている。米国ビッグテックの一人勝ちのような現象を前に、「日本はこのままだとデジタル植民地に、迫り来る危機の「正体」」のように日本経済の危機感を全面に押し出してナショナリズムを喚起するような記事もある。植民地という概念に含意されている政治、歴史、文化、経済を横断する抑圧の人類史の文脈――ここには明確な資本主義否定の理論的な関心が含意されている――を踏まえた上で、そうだからこを「デジタル」における植民地主義は深刻な問題であると同時に、民衆によるグローバルな闘争の領域としても形成されつつある、ということを見ておくことが重要になる。そうだとすれば、果して世界銀行に期待しうるだろうか。別途書くつもりだが、世界銀行による貧困や格差へのグローバルな取り組みのなかに組みこまれているデジタルIDのグローバルサウスへの普及のためのインフラ整備といった事業には、かつての植民地主義にはないあらたな特徴も見出せる。ここに訳した記事は、先に訳したマイケル・クェットの論文とは違って、より戦略的に植民地主義と対抗する運動のありかたに焦点をあてている。(小倉利丸)

関連記事:マイケル・クェット:デジタル植民地主義の深刻な脅威

Image: oxinoxi / iStock


ビッグテックによるデータと利潤の追求が世界中に広がる中、グローバル・サウスの活動家たちは、より公正なデジタル社会の未来への道を指し示している。

トゥーサン・ノーティアス Toussaint Nothias

2022年11月14日
昨年1月6日は、親トランプ派の暴力的な暴徒が米国連邦議会議事堂を襲撃した日として歴史書に刻まれることになるだろう。しかし、ラテンアメリカ、アジア、アフリカに住む何百万人もの人々にとって、この日は全く異なるものをもたらした。それは、いつもと違うWhatsAppからの通知であった。

WhatsAppは世界で最も人気のあるメッセージングアプリで、20億人以上のユーザーを誇っている。Facebookは2014年にこのサービスを約220億ドルで買収したが、これは技術史上最大規模の買収であり、WhatsAppが世界的な成長でFacebook自身のMessengerを上回り始めた後だった。2016年までに、WhatsAppはグローバル・サウスに住む何億人ものユーザーにとって、インターネットコミュニケーションの主要な手段となった。

2009年に設立されたWhatsAppは、ユーザーの個人情報を絶対に売らないという約束で、Facebookの買収時にもその信条が繰り返された。しかし、昨年1月、WhatsAppは利用規約とプライバシーポリシーの更新を開始し、ユーザーに通知を出して、新しい規約に同意するように求めた。新ポリシーによると、WhatsAppはユーザーの電話番号、デバイス識別子、他のユーザーとのやり取り、支払いデータ、クッキー、IPアドレス、ブラウザーの詳細、モバイルネットワーク、タイムゾーン、言語などのユーザーデータを親会社と共有できることになった。実際には、WhatsAppとFacebook間のデータ共有は2016年に始まっていた。2021年の違いは、ユーザーがオプトアウトできなくなったことだ。新しいポリシーを受け入れられなければ、アプリの機能は低下し、使えなくなる。

WhatsAppの事例は、グローバル・サウス全域のコミュニティに浸透している、ビッグテックによる危害の一例だ。これは、独占的な市場での地位がいかにデータの抽出を促進し、人々は選択肢や説明責任に関する正式な仕組みをともなわずにプラットフォームに依存することになるかを示している。これらの問題は世界中で起きているが、その危害はグローバル・サウスではより深刻である。

オンライン偽情報の例を見てみよう。ミャンマーの活動家たちは、Facebookがロヒンギャに対する暴力を煽っているとして、何年も前からその役割を非難してきたが、最近のAmnesty Internationalの報告書で明らかになったように、こうした懸念は聞き入れられないでいる。一方、フィリピンでは、ロドリゴ・ドゥテルテの権威主義的な政府がソーシャルメディアを武器にした。2015年、ジャーナリストでノーベル賞受賞者のマリア・レッサと彼女の新聞社Rapplerは、基本的なオンラインサービスへの無料アクセスをフィリピン人に提供するため、Facebookと提携してInternet.orgイニシアチブを立ち上げた。しかし、アルゴリズムを駆使した大規模な偽情報の拡散を何年も目撃した後、レッサは2021年までに、テック業界で最も声高な一般市民の批判者の一人になっていた。ミャンマーとフィリピンでは、Facebookが「無料」アクセスの取り組みを積極的に推進したことで、オンライン上の偽情報の拡散が加速された。

グローバル・サウスにおけるこうした課題に対するテック企業の投資は、米国での取り組みとは比べものにならない。内部文書によると、Facebookは、米国はこのプラットフォームのユーザーの10%未満しかいないにもかかわらず、誤報に関する予算全体の84%を米国に割り当てている。案の定、Mozilla財団は最近、TikTok、Twitter、Meta(Facebookが今年ブランド名を変更したもの)が、大統領選挙の際にケニアでさまざまな地元の選挙法に違反したことを明らかにした。ついこの間も、NGOのGlobal Witnessは、2022年のブラジル選挙を前に、不正な選挙関連情報を含む広告を出稿することによって、Metaのポリシーをテストにかけた。その結果、同社の選挙広告ポリシーに真っ向から違反する広告がすべて承認さ れた。Global Witnessは、ミャンマー、エチオピア、ケニアでも同様のパターンを発見している。

テクノロジー企業はしばしば、技術者が「低リソース」と呼ぶ言語での誤報や不当な情報をキャッチするのは難しいと主張し、この問題を解決するために必要なのはより多くの言語データであると主張する。しかし、実際には、この問題の多くは、ヨーロッパ以外の地域に対する投資不足に起因している。ケニアの事例では、メタ社のシステムはスワヒリ語と英語の両方でヘイトスピーチを検出することができなかったのだが、これはデータ不足が原因であるという主張とは矛盾する。一方、ビッグテックのコンテンツモデレーターの多くはグローバル・サウスに配置され、その多くが劣悪な環境で活動している。

このような状況を憂えて、Sareeta Amrute, Nanjala Nyabola, Paola Ricaurte, Abeba Birhane, Michael Kwet, Renata Avilaら学者や活動家は、ビッグテックが世界に与える影響をデジタル植民地主義の一形態で特徴づけている。この見解では、主に米国を拠点とするハイテク企業は、多くの点でかつての植民地大国のように機能している、というのだ。米国を拠点とするハイテク企業は、拡張主義的なイデオロギーに基づき、世界規模で自社の経済的ニーズに合わせてデジタル・インフラを整備している。そして、世界中の低賃金で社会から疎外された労働者を搾取している。そして、地域社会に危害を加えながら、ほとんど説明責任を果たさず、実に驚異的な利益を引き出している。主に白人で、男性で、アメリカ人のソフトウェア・エンジニアからなる小さなグループによって設計された社会的慣習を制度化し、彼らが拡大しようとする社会の自己決定を損なう。そして、このすべてをいわゆる「文明化」の使命に結びつけた昔の植民地支配者のように、彼らは「進歩」「開発」「人々の結びつき」「善行」の名において、これらすべてを行うと主張している。

しかし、不当な力が存在する場所には、抵抗があるものだ。世界中の活動家は、デジタル植民地主義の台頭に対抗する独自のデジタル正義のビジョンを持って対応してきた。説明責任を求め、ポリシーや規制の変更を推し進め、新しいテクノロジーを開発し、これらの議論にさまざまな人々を巻き込むことから、グローバル・サウスにおけるデジタル上の権利コミュニティは、すべての人にとってより公正なデジタル社会の未来への道を指し示している。彼らは困難な闘いに直面しているが、すでに大きな成果を上げ、拡大する運動の触媒となり、変革のための強力な新戦略を開発している。その中から、特に3つの戦略について考えてみる。

戦略 1: 言葉を見つける

デジタル上の権利に関する議論は誰にとっても難解なものだが、米国内の関係者の影響力が非常に大きいため、世界の人口の4分の3が英語を話せず、これらの問題について話すための母国語の専門用語がないため、特に不透明なものとなっている。ナイロビ在住の作家で活動家のNanjala Nyabolaは、この課題を解決するために、彼女の「スワヒリ語のデジタル上の権利プロジェクト」を立ち上げた。単純な事実として、世界中の人々が自分たちのコミュニティで、自分たちの言葉でこれらの問題を議論することができなければ、デジタル政策に関する包括的で民主的なアジェンダは存在し得ないということなのだ。

Nyabolaは、ケニアの小説家Ngugi Wa Thiongoがアフリカの母国語で執筆するよう呼びかけた反植民地主義的な活動からヒントを得た。昨年から、Nyabolaは東アフリカの言語学者や活動家と協力し、デジタル上の権利やテクノロジーに関するキーワードにキスワヒリ語の翻訳を提供する活動を開始した。この共同作業の一環として、Nyabolaと彼女のチームは、キスワヒリ語で出版している地元や海外のメディアと協力し、テクノロジー問題の報道にこの語彙を採択するよう働きかけた。また、この地域の学校で配布され、図書館で販売されるフラッシュカードのセットも開発し、オンラインでも入手できるようにした。

このプロジェクトのパワーは、そのシンプルさ、共同作業という性質、そして簡単に再現できることにある。このビジョンの核心は、人々は自分たちの生活を形成しているシステムについて、文脈に応じた知識を得ることで力を得るべきであるということだ。もしグローバルなデジタル上の権利に関する政策提言活動が世界中の多くの人々にとって意味のあるものになるのであれば、このような辞書を数多く開発する必要がある。

戦略2:パブリック・オピニオンを獲得する

デジタル上の権利提言活動は、その根拠となる法律により、しばしば規制を変更し影響を与えることを目指す。この活動は、時に法律の専門家による技術的な作業に陥りがちだが、広く世論を形成することもまた、ポリシーを変える上で中心的な役割を果たす。2015年にインドの活動家が主導したネット中立性(インターネットサービスプロバイダは干渉や優遇措置なしに、すべてのウェブサイトやプログラムへのアクセスを許可すべきであるという原則)を求めるキャンペーンほど適切な例はないだろう。

Facebookは2013年にInternet.org(後にFree Basicsと改名)を立ち上げ、Facebookがコントロールするポータルを通じて、世界中のユーザーがデータ料金なしで選りすぐりのオンラインサービスにアクセスできるようにすることを目指していた。この提案は、グローバル展開とユーザー拡大というFacebookの積極的な戦略の中心をなすものだった。

偶然にも、2015年にインドでFree Basicsが導入されたとき、インドでは「ゼロレーティング」(オンラインサービスへのアクセスを「無料」で提供する慣行)に関する新たな議論が起きていた。当時、いくつかの通信事業者はゼロレーティングの導入に熱心だったが、デジタル上の権利活動家はこれをネット中立性の侵害と批判していた。ゼロレーティングの明確な例として、フリーベーシックスは攻撃や非難などを対象からそらす役割をになうことになった。地元の活動家、プログラマー、政策通は、Save the Internetというキャンペーンを立ち上げ、このプログラムに強く反対する。彼らのウェブサイトでは、人気コメディアンのグループ、All India Bakchodによるネット中立性に関する説明ビデオが紹介され、このビデオは350万ビューを記録し、大流行となった。活動家たちは1年近くにわたり、ネット中立性の解釈をめぐってFacebookと全国的かつ大々的な闘いを繰り広げた。彼らは、自己決定の価値、地元企業の保護、外国企業によるデータ抽出への抵抗などを力強く主張した。

このキャンペーンは、企業の大きな反発を受けた。活動家がデモ行進を行うと、Facebookは地元新聞に広告を掲載した。活動家がTwitterやYouTubeに投稿すると、Facebookは国中の看板広告を購入した。そして、Access NowやColor of Changeといったデジタル上の権利提言活動の国際的なネットワークから活動家が支援を受けると、Facebookはコンピュータを利用した偽の草の根運動キャンペーンを行い、インドの通信規制当局にFree Basicsの支持を表明するメッセージをあらかじめ記入したものを送るようユーザーに呼びかけた。(約1600万人のユーザーがこれに参加した) しかし、このような反対運動にもかかわらず、一般向けのキャンペーンは成功した。インドの規制当局は、ネットの中立性を維持し、ゼロレーティングを禁止し、Free Basicsを事実上インドから追い出すことを決定したのだ。

この勝利は、世界中のデジタル上の権利活動家の間で当然のことながら広く祝福さ れたが、それは同時に、永続的な挑戦の重要性を物語っている。インドで禁止されたにもかかわらず、Free Basicsは他の地域、特にアフリカ大陸で拡大を続け、2019年までに32カ国に達した。また、インドのキャンペーンは、貧困層や農村部の声を除外し、中小企業のためにネット中立性についての中産階級の見解を定着させたと主張する人もいる。とはいえ、このキャンペーンは、グローバルなデジタル上の権利提言活動の将来にとって重要な教訓を含んでいる。おそらく最も重要なことは、デジタル上の権利に関する政策の技術的な問題に対して広範な人々を動員することが、多国籍ハイテク企業の力を抑制する上で大きな役割を果たし得るということである。

戦略3:階級横断的かつ国境を越えた組織化

組合結成と組織化は、ビッグテック自体における変化と説明責任のための有望な手段としても浮上している。2018年、2万人を超えるGoogleの社員が、給与の不平等や同社のセクハラへの対応などに抗議して、ウォーキングアウトを行った。同年、マイクロソフトの社員は、同社の米国移民税関捜査局との業務提携に抗議した。2020年6月1日には、ドナルド・トランプによる扇動的な投稿に対して何もしないという同社の選択に反対するため、数百人のFacebook社員が就業拒否を行った。今日のハイテク企業の組織化は、ホワイトカラー本社の枠を超え、アップルストアで働く小売労働者やアマゾンの倉庫で働くピッカーや パッカーにまで及んでいる。このような組織化の次のフロンティアは、世界中の労働者を取り込むことだ。そして、誰が “テックワーカー “なのか、私たちの理解を広げなければならない。

Adrienne Williams、Milagros Miceli、Timnit Gebruは最近、人工知能の誇大広告の背後にある国境を越えた労働者のネットワーク、あるいは人類学者のMary Grayとコンピュータ科学者のSiddarth Suriがこの業界に蔓延する「ゴーストワーク」と呼ぶものに注目するよう呼びかけている。これにはコンテンツモデレーターだけでなく、データラベラー、配送ドライバー、あるいはチャットボットになりすました人などが含まれ、その多くはグローバル・サウスに住み、搾取的で不安定な条件で労働している。こうした不安定な労働者の抗議のコストは、シリコンバレーの高給取りのハイテク労働者よりもはるかに高い。Williams、Miceli、Gebruが、ハイテク企業の説明責任の将来は、低所得と高所得の従業員の間の横断的な組織化にあると主張するのは、まさにこのためである。

Daniel Motaungのケースを見てみよう。2019年、南アフリカ出身の大学を卒業したばかりの彼は、Facebookの下請け企業であるSamaのコンテンツモデレーターとして最初の仕事を引き受けた。彼はケニアに転勤し、秘密保持契約に署名し、その後、彼が校閲するコンテンツの種類が明らかにされた。1時間2.20ドルで、同僚の一人が「精神的拷問」と表現するほど、Motaungは絶え間なく流れるコンテンツにさらされていた。Motaungと彼の同僚の何人かが、より良い賃金と労働条件(メンタルヘルスサポートを含む)を求めて労働組合活動を行ったところ、彼らは脅迫され、Motaungは解雇された。

この特別な組合結成の努力は失敗に終わったが、Motaungの話は広く知られ、『Time』の表紙を飾った。彼は現在、メタ社とサマ社を不当労働行為と組合潰しで訴えている。グローバル・サウスにおけるコンテンツモデレータの非人間的な労働条件を勇敢に告発することで、Motaungは、技術的説明責任を求める現在の運動の一部となるべき労働者のカテゴリーに対して必要な注意を喚起したのである。彼の活動は、低賃金で働くハイテク労働者が侮れない存在であることを示している。また、明日の内部告発者や組織化された人々のための着地点を準備することを含め、ハイテク業界と外部とのパイプラインを変えることの重要性を示している。


これらの取り組みや他の多くの取り組みを通じて、グローバルなデジタル上の権利提言活動の未来が今まさに描かれようとしている。ある者はハイテク権力に抵抗し、ある者は代替策を開発する。しかし、その場しのぎの進歩にとどまらず、このような活動には持続的な資金調達、制度化、そして国際的な協力が必要だ。

デジタル上の権利提言活動の「グローバル」な側面は、当たり前のことと考えるのではなく、意識的かつ慎重に育成されなければならない。グローバルなデジタル上の権利コミュニティの最も重要なイベントであるRightsCon会議の最近の分析では、Rohan Groverは、セッションを主催する組織の37パーセントが米国を拠点とし、「グローバル」な範囲を主張する組織の49パーセントが米国で登録された非営利団体であることを発見した。現在のデジタル上の権利活動は、そのほとんどが欧米の資金による組織的な支援に依存しており、そこには企業による取り込みが潜んでいる。

しかし、すべての人にとってより公正なデジタルの未来への道筋は、すでに明らかになりつつある。グローバル・サウスで生まれた戦略の中核には、集団的な力の緊急性と必要性を示すビジョンがある。彼らは、企業内外から圧力をかける必要があること、ビッグテックの大都市といわゆる周辺地域から、政策立案者、弁護士、ジャーナリスト、組織者、そしてさまざまなハイテク労働者から圧力をかける必要があることを指摘している。そして何より、テクノロジーがすべての人に説明できるようにするために、なぜ人々によって主導される運動が必要なのかを、彼らは示しているのだ。

トゥーサン・ノーティアス(Toussaint Nothias
スタンフォード大学デジタル市民社会研究所のアソシエイト・ディレクター、アフリカ研究センターの客員教授。

(ラディカル・エルダーズ)私たちの “小綱領(ミニ・プログラム)”

長年社会運動や市民運動などに関わりながら高齢者となった世代にとって、ここに紹介する米国の運動は、ちょっとした問題提起として受けとめてもらえるのでは、と思う。ラディカル・エルダーズは、コロナ下で、1年半にわたる組織化、議論、計画の後、2022年3月26日に設立され、米国内の55歳以上の左翼運動活動家の集団だとその紹介文にある。私も含めて高齢者のアクティビスト(私はこう自称するにはかなり躊躇するが)は、つい、自分を主体としつつも、やはり次の世代への継承に腐心し、資本主義が高齢者に対して固有の矛盾や問題を生み出しているということについての当事者としての関わりについては、優先順位が下りがちかもしれない。しかし、COVID-19が今では、高齢者がもっぱらリスクを負う感染症になるなかで、若年層の重症化リスクが低減していると判断されるにつれて、政府の対応はますます不十分になっている。これは米国でも日本でも同じ状況だ。他方で、米国では、マスク着用へのイデオロギー的な反発もあって、高齢者が感染予防でマスクを着用しづらい環境があることについても危惧している。当然のことだが、資本主義が必要とする人間とは資本が利用できる<労働力>であるか、その可能性をもつ人びとであって、いかなる意味においてももはやその可能性をもたない人びとは文字通りの「コスト」でしかない。やっかいなことに、このコストでしかない人間にも選挙権があり人権があるために、完全には無視できない、ということだ。だから、<労働力>ではありえないか、そうであっても高齢者であるが故に買いたたかれる人びとが、制度への抵抗の意思を明確に示すことが重要になる。福祉や医療産業が、こうした人びとに市場を通じてサービスを供給するとしても、所得に応じてサービスは差別化され、貧困層はサービスから排除される。ラディカル・エルダーズは、医療・福祉領域での完全な無料化を主張している。しかし、以下にあるように、彼らは、これだけではなく、気候変動やグローバルな貧困、戦争への強い関心とともに、デジタルとリアル空間におけるアクセスの権利や高齢の受刑者の解放も要求している。(小倉利丸)

関連記事:ラディカル・エルダーズ」現在進行中のCovidの危機について

私たちの “小綱領(ミニ・プログラム)”
(ここをクリックすると、私たちのミニ・プログラムのPDFがプリントアウトできます(英文))

私たちは、米国とその植民地に住む年配者で、破綻した抑圧的な社会システムを、公正で安定した持続可能な社会に置き換えるための闘争に人生を捧げてきた者たちです。

私たちの経験は、それらの闘いが成功するためには、資本主義、植民地主義、帝国主義に明確に反対し、人種差別や白人至上主義、性差別や同性愛嫌悪、年齢差別や能力差別、組織的に排除または抑圧された人々の非人間的な扱いなど、それらの抑圧の実現形態を特に標的としなければならないことを教えています。だからこそ、私たちはこれらの抑圧された集団が直面している問題に細心の注意を払い、意識的にこれらの集団の中にリーダーシップを求めるのです。

私たちのプログラム、要求、計画は、高齢者が公正な社会のための闘いにおいて重要な役割を果たすという理解、そして私たちの闘いは、支配者が私たちが平和で快適な自然な生活を送る手段を否定する社会における生存のためのものだという信念から生じています。

また、私たちの闘いは、同じような生活を求めるこの社会のすべての人々の闘いに寄与するものであり、私たちは自分たちのためだけでなく、子どもや孫、そして将来の世代のためにも闘うのだということを理解しています。

この精神に基づき、私たちは次のことを確実にできる生活を要求します。

– 私たちは人類最後の世代ではありません。私たちの子どもや孫は、私たちが与えようと努力した人生を歩むことができます。

– 私たちの社会は以下のようであるべきでしょう…

  • 気候変動や水・空気の汚染に立ち向かう。
  • 世界の飢餓と疾病をなくすために活動する。
  • すべての化石燃料プロジェクトを終了し、再生可能なエネルギー経済へ移行する。
  • 米国の軍国主義的な外交政策をやめ、戦争、戦争煽動、国際的な威嚇のための莫大な予算をなくす。
  • すべての人々の権利を尊重する。

– 私たちは皆、生活できる連邦年金を保証される。

– 私たちは、プライバシーと家族や友人との接触を守り、私たちの尊厳を尊重し、私たちの安全を優先させる住居を保証される。

– 私たちは、完全に無料で利用できる医療、医薬品、健康維持、在宅医療、介護施設にアクセスすることができる。

– すべての税金は、人間の生命の質と保護を保証するために使われる。

– 私たちは、都市と地方、ローカルと長距離の効果的な公共交通の国家プログラムを利用することができる。

– 私たちは、あらゆるレベルの対面式およびデジタル式の教育を、自由かつ完全に利用することができる。

– 私たちは、フィルタリングされていない高速ブロードバンド・サービスを、自由かつ十分に利用することができる。

– 私たちは、すべての投票所と、すべての人が真に利用しやすく融通の利く投票手続きに、十分かつ簡単にアクセスすることができる。

– 現在投獄されているすべての高齢者を直ちに解放する。

私たちは、これらの点に同意するすべての人が、これらの点を支持し、あなたのコミュニティ内でこれを配布し、あなたの組織がこれらを公に支持するようにすることを求めます。

私たちはあなた方の過去と現在の一部であり、私たちの闘いはあなた方の未来の一部なのです。

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(LeftEast)時機を失した思想。革命とウクライナに関するノート


(訳者前書き) ここに訳出したのは、ウクライナ出身のコミュニスト、アンドリューがLeftEastに寄せたエッセイである。彼は、ウクライナ東部ハルキウ出身で、ハルキウの大半の家庭同様、ロシア語を家族のなかでは話す環境で育ったと、別のインタビューで語っている。ハルキウの住民の大半はロシア語話者だが、だからといってロシア支持だということではないとも語っている。

彼のこのエッセイを読んで、そのスタンスは、私とかなり近いと感じたので、訳そうと思った。私のブログで「いかなる理由があろうとも武器をとらない」と書いたときに、念頭にあったのは、左翼のなかでの、ロシアの侵略に対して武装抵抗することの必要性を主張する議論への違和感があったからだ。現実にウクライナでロシア軍に対して左翼が武装抵抗を選択したとすれば、効果的に遂行するためには、ウクライナ軍やNATOからの軍事支援を否定することは極めて困難だろうと私は判断したが、それだけでなく、日本国内の反応がとても気になった。ウクライナが侵略される状況を目の当たりにして、護憲平和主義を主張してきた人々のなかにかなりの動揺があり、自衛隊や自衛のための武力は容認するが先制攻撃には反対といった、ほとんど無意味な平和主義がむしろ主流を占めてしまったことへの危機感が強かった。これまで私はいわゆる平和主義を主張したことはなかったし、武装抵抗の意義をむしろ肯定する考えを書いてきたこともあったが、今、私は武器を革命の手段として用いることは間違っているとはっきり主張するようになった。アンドリューが武装闘争一般を否定しているのかどうかは不明だが、ウクライナの戦争についてははっきりと、武力は選択肢にならないと主張している。

アンドリューはウクライナで戦争に加担することが、ナショナリズムの構築に加担することにしかならず、それが国民国家の形成を過渡期としてコミュニズムへと至るといった、一昔前の社会主義革命の教科書のような筋書はありえないということをはっきりと断言している。私もそう思う。戦争は、むしろナショナリズムを構築する主要な契機となることは、日本近代の歴史をみれは明らかだと思う。実際には、ナショナリズムが戦争を媒介に作り上げられるにもかかわらず、権力者は、あたかもナショナリズムが戦争前から、いわば「自然」なものとして存在していたかのような虚構をメディア、アカデミズム、教育などを通じて浸透させる。今ウクライナで目撃しているのはこうした事態ではないかと思う。

マルクス主義のなかでは、一国主義か国際主義internationalismかという問題のたてかたが便宜的になされることがあるが、これでは、internationalismがnationalismを基礎とした間ナショナリズム、inter-nationalismとしての国際主義にしかならず、ナショナリズムを払拭できない。植民地からの解放=国民国家の形成という20世紀の解放の道程は、歴史的意義を認めるとしても、それが、最適な解放への道にはならずに、グローバルな国民国家のヘゲモニー構造に組み込まれ、かつ、武力紛争など生存の危機を常に被る結果になった、というのが20世紀の歴史的教訓であって、国民国家が平和や平等な統治機構のモデルにならないことは、この数世紀の人類史が証明してきたことだ。かといって、コスモポリタニズムは、えてして人々が暮すミクロな社会圏の多様性を無視することになりかねない。アンドリューは、最小の抵抗を重視している。これは重要なことであり、人々が一人であれ少数であれ、「党」や全国的な組織に依存することなく抵抗の主体になりうる潜勢力の具体的な姿でもある。

「戦争のない国」といった語義矛盾――戦争を予定しない国家は存在しない――に気づかない護憲の主張が日本では余りにも多すぎると感じてきた。アンドリューはウクライナのナショナリズムを軽視すべきではないと警告している。この警告は、対岸の問題ではない。先ごろ捕虜交換で釈放されたアゾフ大隊のメンバーは、ウクライナで賞賛されているだけではなく、これまでアゾフを極右人種差別主義とみなしてきたニューヨークタイムズがアゾフ大隊を賛美するかのような記事を掲載するまでになってしまった。極右が英雄となる事態は、もちろん、ロシアでも起きてきたことであって、このウクライナの戦争は、どちらが勝っても負けても、戦士は英雄とされ、戦争に抵抗した人々は過酷な弾圧や精神的物質的な制裁を課されることは目にみえている。

彼は、自分の問題提起がなかなか受けいれられないかもしれないという予感をもって書いているように思える。ウクライナでは公的な政治の世界に左翼が占めうる余地が極めて小さい。逆に、そうだからこそ、現実主義的な妥協を批判する余地があるともいえる。彼は左翼のなかにある曖昧な態度を「柔軟剤」にたとえ、ロシアあるいはNATOに寛容になりがちな左翼を批判し、原則的な視点を提起する。逆に、日本のように、革新政党が国会に議席をもち、憲法幻想が強固な国では、ナショナリズムを払拭することはかなり難しい。しかし、だからこそ、戦争を、ナショナリズムを否定する視点から原則を曲げないで見据える議論をすることが、日本ではより重要だと思う。この点で「国家を防衛することを拒否することから出発してのみ、戦争そのものを止めうる唯一の力を練り上げることができる」と彼が主張している点はとても大切な観点になる。

翻訳に際して、いつも迷うのだが、nationやnationalismを、可能な限りカタカナで表記したが、nation-stateは「国民国家」と訳した。nationが国家なのか国民なのか民族なのか、文脈だけでははっきりしないし、nationalismも国民主義、民族主義、国家主義のいずれかに限定することも好ましくないと思い、カナカナ表記あるいは言語を括弧で補った。また。左翼を大文字で表記している場合があり、これも場合によっては原語を補った。また、表題の「時機を失した思想」は、原語ではuntimely thoughtである。untimelyには、時代を先取りするといったニュアンスもる。(小倉利丸)


写真提供:Dominik Kiss(Unsplash.comより)

アンドリュー
投稿日
2022年9月18日
andrewはウクライナ出身のコミュニストで、Endnotes第一部第二部第三部参照)およびTous Dehorsに掲載された「ウクライナからの手紙」の著者である。この記事は、9月10日にWoodbine NYCで行われたプレゼンテーションに基づくものです。


戦争や危機は、正常な状態を一時停止させ、資本主義を支える苦しみと脆さの両方を想起させることで、常に革命家たちの希望をかき立ててきた。

過去の世代の重荷を取り除き、ナショナリズムの神話の力に気付くことは、私たちの時代の革命的可能性を実現するための第一歩となるだろう。エネルギー危機がもたらした長い景気後退下にある私たちの立場から、避けられない欲求不満の反乱を予期して、この歴史の謎をどのように解くことができるかを考えてみることにする。

この危機の分析を試みるには、まず、一定程度問題の枠組みを明確にする必要がある。つまり、答えることが時間の無駄になるような問題と、逆に答えることが生産的であるような問題があるのには理由があるのだ。戦争やナショナリズムに関する古いマルクス主義的な議論の周りをぐるぐる回るのではなく、それらを現在の文脈のなかで把え、過去のコミュニスト運動の失敗の余波の中で私たちの政治的景観を位置づけることによって、もっとうまく対処できるのではないか。今日、あらゆる闘争が旧来の労働者運動のレガシーとは対立しているが、コミュニストの夢の敗北が具体的に体現されたものとしてのソビエト後の空間は、これらの問題に正面から向き合うことを余儀なくさせている。探求の形式を正当化するなかで、私たちは必然的に歴史的内容とコミュニスト戦略の問題に触れることになる。

何よりもまず、「左翼Left」の統一された応答を何とかして作り出そうとする話し合いは、そもそもの出だしが間違っている。こうした地政学の平面で行動することを選ぶ代わりに、私たちの時代の意識的な革命家の弱点を認識することができれば、今日の革命の展望を問い直すことができるだろう。自然発生的な行動の重要性を理解すれば、前衛主義的な幻想を捨て去ることができるだろう。歴史的な反乱を見れば、断絶を生み出す出来事の予測不可能性と、既存の組織の「キャッチアップ」の役割が分かるはずだ。この予測不可能性は、完全な悲観主義だと誤解されてはならない。もし私たちがニヒリズムを政治的手法として採択するとすれれば、暴力の革命的潜在力を予測する方法はないとはいえ、神話の支配の循環に私たちを連れ戻すにすぎないであろう暴力を認識する簡単な方法はある、ということを見ることになろう。つまりこれは、地政学的な運命の川を操作することだけを目論むナショナリストの戦争への動員の試みと失敗に終わる暴力だということだ。法と国家に具現化された神話を自然なものとする力に反対することは、それらを歴史化しようとするコミュニストの試みであるばかりでなく、それらを排除しようとするコミュニストの意図でもある。

ウクライナ戦争をめぐる議論では、私たちが合理的な議論を考え出すことができれば直ちにあらゆる問題を解決するかのような聴衆をイメージして、政治的任務を「説得」と見なすことがあまりにも頻繁にみられるが、これは革命的プロセスの誤認を意味している。革命的な教育は、説得ではなく、アナーキーの諸勢力に味方することによって生まれる。革命的な切断は、急速に変化する条件や新たなつながりの構築を含むだけでなく、事前に予測することが不可能な新たな解決策を生み出すことも必要になる。 私たちをコミュニストにするのは、新たな革命的な組織形態の発明へと向かう開放性であって、旗やスローガンではない。そして、何らかの行動が革命的であるのは、れが他の手段への拡がりをみせ、それらに結びつくことによって解放に向かう場合だけである。

私たちは、革命の自発性と新しさの重要性を認識することによって、労働者の運動――悲しいことに、最近あまりにも多くの話し合いが泥沼化しているのだが――の神話から決別することができるかもしれない。その分裂の歴史的「教訓」を認識することは、民族自決の誤りを認識することを意味するだろう。この歴史認識は、政治的あるいはアカデミックな前衛というよそよそしい環境の中で獲得されるものではなく、私たちの惑星を覆う果てしのないこの世界の観念を具体化するガラクタの山に直面して、活気をなくした大衆運動の限界として感じられるべきものである。願わくば、この寄稿が、日常の暗闇の中で、解放への可能な道を探し出すのに役立つことを願っている。

戦争に対する私たちの立場を確立するにあたっては、国家に関するほとんどの考え方が、広範なコミュニストの伝統に由来していることを理解しなければならないだろう。レーニンと当時の社会民主主義の伝統では、政治のナショナルな形態は、その内実――産業[工業]経済――を「後進国」から「完全な先進国」へと引き上げることを可能にするというだけの理由で正当化された。今では、産業近代化はもはや革命的な地平にはなく、経済と政治はそれほど明確に分かれているようには見えないないことは、繰り返すまでもないことだと思う。何百万人もの人々が貧困と失業に陥り、残された産業基盤は、まず脱工業化によって、そして今度は戦争によって粉々にされた。ウクライナにおける資本主義の復興は、宇宙規模の搾取を伴うことになる。ウクライナ政府は、難民への援助を最小限にとどめ、住宅計画を一切実施せず、「不要不急」の予算支出を削減し、来るべき冬に「誰もが自己責任で」と警告するという道筋を嬉々として示してきた。国家の中に左翼的な政治が存在しないのだから、なおさらである。閉鎖された国境のために、国境越しに壊された何百万もの家族がいるのだが、ヨーロッパの植民地主義の犠牲者には与えられなかった優しさによって受け入れられている。自由化された難民定住制度の優しさによってもまた、彼らはジェンダー化された非正規労働の中に投げ込まれている。

ナショナルな自己決定[民族自決]を理由にウクライナ国家とNATOブロックへの降伏を正当化することは、あなたが現代の左翼Leftの影響力と、国民国家の枠内での解放政治の可能性を過大評価していることを意味するだけではない。それはまた、あなたが、愛国者たちを脱愛国化outpatriotすることを試みつつ、この存在論的なナ ショナリティの世界をよりよくマネジメントしようと夢想していることも意味している。南半球の至るところで生活費の高騰に抵抗しているプロレタリアが、ウクライナのために危機を乗り切れ、と言われるとき、防衛主義者defencistの主張は完全な思い込みの域に達している。階級的な共同作業はウクライナを越えて広がることが期待されており、「諸制度を貫く長征」はNATOにまで達するようになった。

枠組みの問題をクリアした上で、合理的な分析を行うには、「柔軟剤」を断つことが必要になる。つまり、多くの左翼出版物Leftist publicationsがこの状況の現実に直面することを避けるために用いる様々な言い訳という柔軟剤に切り込むことが必要だろう。

まず第一に、大惨事の規模を明確にするために、国際法上のニュアンスをすべて取り払い、ロシアがウクライナで大虐殺を行っているということ、このカタストロフィをきちんと記録に留めることだ。無差別の砲撃、しばしば単に民間インフラに向けられたもの、国外追放、拷問、処刑、エスニックグループ全体をナチスと結びつけて破壊しないまでも再教育の対象としている、といったことだ。現代の戦争の残虐性と破壊性の規模を理解することは、より多くの兵器が問題を解決してくれるなどという幻想を抱かないということだ。私は、ロシアのナショナリスト的な拡張の目的と手段が、すべての人にとって明確であることを願うばかりである。ロシアとベラルーシのパルチザンの行動は、その高い評価があるので、あえて正当化するような議論も必要ないから、ここでは「西側」の反戦戦略に焦点を当てたいと思う。

左翼の立場を水で薄めて、難しい選択に直面しないようにする第二の「柔軟剤」、つまり、米国、欧州連合、英国のこの戦争への関与を「間接的」に過ぎないという建前も捨てなければならないだろう。今日、ウクライナは基本的な予算と産業のニーズを欧米に依存し、「支援」のもろさを思い知らされつつ武器の輸送はほとんど「ジャストインタイム」のスケジュールで行われている。ウクライナ政府は、独自に交渉する能力がないことを何度も示し、今ではほとんど毎週、攻撃、標的、戦術がアメリカのいずれかのエージェンシーによって選択されていることを誇らしげに報告している。終わりのない戦争を支えるナショナルなアウタルキー[国家的自給自足]という幻想を抱いて延命するウクライナ国内で拡大するナショナリスト運動が、戦争推進派の西側諸派の影響力の強さと張り合っているにすぎない。

私たちは、このナショナリストの運動の神話にもっと注意を払うべきである。極右少数派がウクライナの左翼組織を完全に窒息させ、現在の秩序を脅かすような公然の取り組みを不可能にしていることに加え、主流の愛国主義も存在するのである。この10年間、ウクライナの国家建設[nation-bilding]はある種の激しさを増している。この激化は、政府のトップダウン戦略によるものではない(実際、ウクライナの大統領、閣僚、議員の多くは、もっと別の環境を望んでいる)。注意深く調べれば、権力関係のネットワークの拡がりの図式が浮かび上がってくるだろう。このネットワークは、必ずしも制度に付随しているわけではなく、学校や大学、街の広場や街頭行進、雑誌の論壇や若者のサブカルチャーなど、地域ごとに展開されることによって構成されている。このような調査を行うことは、ナショナリズムへの高い評価を真剣に受け止め、ナショナリズムの中で行動するのではなく、これを弱体化させる方法を模索することなのだ。

成長するNGOセクターによって作り上げられたユーロマイダン運動のリベラルな気取りを受け入れるのではなく、また、単に人気の世論調査を理由にその正統性を否定するのではなく、ナショナリズム運動の背後にある真の大衆的な結集を理解する必要がある。地域的な要因や出来事を単独で捉えた場合の相対的な影響の小ささを無視しなければ、私たちは、ナショナリストの主体性subjectivitiesを構築する上で互いに強めあう様々なプロセスのネットワークを理解することができるだろう。この主体化のプロセスは、完全な非政治化と同時に起こる。つまり、ウクライナでファシストやアナーキストであることは、今やフーリガンであること、サッカーの過激論者[football ultra]であることにほかならないのだ。この一見「ポスト・ポリティカル」な風景の背後に、右翼への大規模なシフトが隠されている。

この右翼へのシフトの表れの一つが、ナショナリスト的な歴史的記憶の構築であり、それは常に、ある種のナショナリスト的な未来の構築を伴っている。バンデラという英雄的シンボルの創造におけるウクライナ・ファシズムへの賞賛、高貴なコサックを原ウクライナ人とするロマン主義化、1917年の革命を永久に変ることのないウクライナに対するクーデターであり占領であると表現するような変化、ホロドモールを大衆的な革命後の産業国家の矛盾の表れではなく、ロシア人によるウクライナ人に対する大量虐殺というイメージが定着したことは、存在論的に無垢で高潔な ウクライナ人を創造するという戦略の一部として見た場合にすべて納得がいく。常にロシア人や国内の裏切り者に脅かされているだけでなく、常に西側に裏切られそうになっている危険な存在としてのウクライナ人だ。私たちにとってより重要なのは、歴史の終着点としての国民国家を仮定し、いかなる反乱も裏切り者であると貶める、つまり遺伝的にロシア的であると貶めるのが、反乱に対抗する見方なのだという点である。この神話が、春に前線と隣接する地域で行われた略奪防止の弾圧を促進し、公共生活のあらゆる領域で反逆者狩りを煽り続けている。

革命的敗北主義の課題は、ナショナリストの神話を実践的に弱体化させ、戦争と平和の二項対立を超越することである。つまり、コミュニスト運動だけが、拡大し続ける帝国戦争の敵となり、もう一つのナショナリストの動員によってではなく、まさに帝国戦争の存在条件を弱体化させることによって、帝国戦争に抵抗できるのだ。私たちは、いかなる抵抗も折り悪く非愛国的だと呼ぶのではなく、非常事態の中で不満が爆発することに期待しなければならない。しかし、アナーキーの党をコミュニストと主張するのは早計である。戦争は、神話的暴力の最大の動機であって、私たちは、現代のポグロムと普遍化するコミューンを区別できなければならない。

革命的敗北主義は、受動的プロジェクトの対極にある。つまり、国家を防衛することを拒否することから出発してのみ、戦争そのものを止めうる唯一の力を練り上げることができるのである。戦争に勝ち目がないと主張するとき、私たちは、反撃の不可能性を主張しているのではなく、通常戦の手段による解放の不可能性を主張しているのである。軍隊に参加する左翼は、徴兵制とファシストの海でばらばらになるだけでなく、その誇り高き宣言とともに、目前の問題を解決する正当な手段として軍隊と地政学的外交を支持することに手を貸すことになる。戦争の「理由」を探ろうと試みるなかで、それでもなお「自然な」ナショナリティ[nationalities]の前提に基づいて作戦行動をすることは言い訳にはならない。なぜならば、植民地主義やファシズムは、指導者を排除したり国を占領したりすることで防げるものではなく、それらが育くまれる労働、ジェンダー、人種の世界の基盤を焼き払うことで防げるということを、私たちは完全に自覚しているからだ。

これらの解明を経て、私たちが国家とナショナリズムに対する最も小さな反乱の兆候を探し、戦争の経済的影響がますます広がるなかで、国境をも越えてその伝染と拡散の可能性を理解しようとしなければならないのか、その理由が明確になる。( 必要な ) 外交的解決の可能性について議論するのは刺激的かもしれないが、アメリカの帝国戦争機械の諸派、ロシアの大量虐殺のナショナリスト運動、ウクライナ政府またはファシスト大隊、これらのなかに、私には選択できる味方はいない。金融化された軍事複合体の力の大きさと、それに関わる激昂した愛国主義的な人々の存在は、私たちがこれとは別の次元での可能性を探さなければならないということを意味している。よりマシな「左翼Left」政党に期待するのではなく、ウクライナ国内外において、個人や集団による盗みや徴兵忌避、脱走、社会の雰囲気のなかにあるあらゆる愛国的デタラメと逆らう攻撃などを促し活用することを模索すべきである。 現状維持は破局の継続であり、より良い国民国家は革命への過渡期としては機能し得ないことを認識しつつ、私たちは、直ちに約束を履行するための探求に乗り出さなければならない。この探求は困難であり、失望をもたらすことを覚悟しなければならないが、これは必要なことなのである。

マイケル・クェット:デジタル植民地主義の深刻な脅威

(訳者前書き)以下は、トランスナショナル・インスティチュートのサイトに掲載された論文の翻訳。グローバルな情報資本主義をグローバルサウスの視点から批判した論文として、示唆に富む。この論文は全体の前半部分である。デジタル植民地主義という観点は、日本がデジタル政策の一環としてIT産業のグローバルな展開に力を入れていることも踏まえて忘れてならない観点だ。とくに監視技術と連動した生体認証やAIの技術については、国連のSDGsの政策を巧妙にとりこみながらグローバルサウスの政府への売り込みが進んでいる。また、この論文の教育の章で論じられているように、学齢期から成人までの長期を追跡するシステムの構築や、子どものことから慣れ親しんだ大手IT企業のOSやソフトウェアに拘束されるコミュニケーションスキルの形成は日本のギガスクール構想とも重なる論点だ。同時に、この国のデジタルのプラットフォームが営利目的の資本に支配され、オープンソースやフリーソフトウェアが周辺に追いやられている現状のなかで、日本の活動家たちが、マイクロソフトやAppleのOSを使うことやGAFAのサービスを使うことの意味に無自覚であることについても、この論文では「果たしてそれでいいのか」という問いを投げかけるものになっている。同時に、オープンソースへの関心をもって四苦八苦しながら自分のPC環境を資本や政府の支配から切り離そうとして試行錯誤している活動家たちにとっては、パーソナルな挑戦がどのようにグローバルな資本主義との闘いと連動してるのかを見通す上で、勇気づけられる内容にもなっている。

他方で、先進国にいる私たちから隠されがちなサプライチェーン全体の多国籍企業による支配と表裏一体をなすグローバルサウスにおける搾取(労働力と環境)の問題は、IT産業が主導する現代にあっても古典的な植民地主義、帝国主義の時代と本質は変わっていない。この問題は、国連のような国際組織が取り組む貧困や開発のパラダイムでは解決できないだろう。他方で、この論文ではごくわずかしか言及されていないが、デジタルテクノロジー、とりわけブロックチェーンなどの技術を用いた自律的なコミュニティーの金融への挑戦など、日本ではほとんど議論されていないオルタナティブな社会システム(デジタル社会主義とも言われている)についても興味深い示唆がある。(小倉利丸)

マイケル・クェット

イラスト:Zoran Svilar

2021年3月4日

このエッセイは、TNIがROAR誌と共同で企画した「テクノロジー、権力、解放に関するデジタルの未来」シリーズの一部である。
過去数十年の間に、米国に拠点を置く多国籍「ビッグテック」企業は何兆ドルもの資金を集め、グローバルサウスのビジネスや労働からソーシャルメディアやエンターテインメントに至るまで、すべてをコントロールする過剰な権力を手に入れた。デジタル植民地主義は、いまや世界を飲み込んでいる。

2020年、億万長者たちは山賊のように儲けた。ジェフ・ベゾスの個人保有資産は1130億ドルから1840億ドルに急増した。イーロン・マスクは、純資産が270億ドルから1850億ドル超に上昇し、一時的にベゾスを追い越した。

「ビッグ・テック」企業を率いるブルジョワジーにとって、人生は素晴らしいものだ。

しかし、これらの企業が国内市場で支配力を拡大していることは多くの批判的分析の対象になっているが、その世界的な広がりは、特にアメリカ帝国の有力な知識人たちによって、ほとんど議論されることのない事実である。

実際、ひとたびその仕組みと数字を調べれば、ビッグ・テックがグローバルに展開されているだけでなく、根本的に植民地主義的な性格を持ち、米国に支配されていることが明らかになる。この現象は、“デジタル植民地主義 “と呼ばれている。

私たちは今、デジタル植民地主義が、前世紀における古典的な植民地主義のように、南半球にとって重大かつ広範囲な脅威となるリスクを抱える世界に生きている。格差の急激な拡大、国家と企業による監視の台頭、高度な警察・軍事テクノロジーは、この新しい世界秩序がもたらす結果のほんの一例に過ぎない。この現象は新しいと思う人もいるかもしれないが、過去数十年の間に、世界の現状に定着してしまったのである。相当強力な反権力運動がなければ、状況はもっと悪くなるだろう。

FairCoinと、商品や ServiceをFairCoin建てで提供するオンラインのFairMarketを提供するために、Commons Bankが設立された。この暗号通貨をコントロールすることで、Faircoopは、資本や国家の搾取的な支配の外で生計を立てようとする自営業者に法律や銀行サービスを提供するFreedomCoopのようなコモンズ中心の反資本主義のイニシアチブに資金を提供することができる。

上記の事例は一見バラバラに見えるかもしれないが、市場ベースの価格設定に内在する評価を再考する方法として、しばしば「ブロックチェーン」と呼ばれる「暗号台帳テクノロジー」を利用するという点で共通している。ブロックチェーンは、資本主義的でない新しい価値の測定と追求の方法を提供することで、資本主義に代わる経済の道を追求する能力を約束する。そのための社会的・政治的な力があるとして、そのような試みはどのようなものだろうか。

デジタル植民地主義とは何か?

デジタル植民地主義とは、デジタルテクノロジーを使って他国や他領土を政治的、経済的、社会的に支配することである。

古典的な植民地主義では、ヨーロッパ人は外国の土地を占領し入植し、軍事要塞、海港、鉄道などのインフラを設置し、経済浸透と軍事征服のために砲艦を配備し、重機械を建設し、原料を採掘するために労働力を利用し、労働者を監視するためのパノプティカルな構造物を建設し、高度な経済開発に必要なエンジニア(例えば、鉱物抽出のための化学者)を動員し、さらに、植民地支配のためにデジタル技術を利用した。製造工程に必要な先住民の知識を奪い、原料を母国に輸送して工業製品を生産し、安価な工業製品で南半球の市場を弱体化させ、不平等な世界分業の中で南半球の人々と国の従属関係を維持し、市場と外交と軍事支配を拡大し、利潤と略奪を図った。

言い換えれば、植民地主義は領土とインフラの所有とコントロール、労働力、知識、商品の獲得、そして国家権力の行使に依存していたのである。

このプロセスは何世紀にもわたって発展し、新しいテクノロジーが開発されるたびに追加されていった。19世紀後半には、大英帝国のために海底ケーブルによる電信通信が可能になった。また、情報の記録、保存、整理に関する新しい技術は、フィリピン征服の際にアメリカ軍の諜報機関によって初めて利用された。

今日、Eduardo Galeanoの言う南半球の「Open Vines」は、海を横断する「Digital Vines」であり、主に米国に拠点を置く一握りの企業が所有しコントロールするハイテクエコシステムを繋いでいる。光ファイバーケーブルの中には、GoogleやFacebookが所有またはリースしているものがあり、データの抽出と独占を進めている。今日の重工業は、AmazonやMicrosoftが支配するクラウドサーバーファームであり、ビッグデータの保存、プール、処理に使用され、米帝国の軍事基地のように拡大している。エンジニアは、25万ドル以上の高給取りのエリート・プログラマーからなる企業軍団である。搾取される労働者は、コンゴやラテンアメリカで鉱物を採取する有色人種、中国やアフリカで人工知能データにコメントを付ける安価な労働力、そしてソーシャルメディアのプラットフォームから有害なコンテンツを排除した後にPTSDに苦しむアジアの労働者たちである。プラットフォームと(NSAのような)スパイセンターはパノプティコンであり、データは人工知能ベースのサービスのために処理される原材料である。

より広義には、デジタル植民地主義は不平等な分業を定着させるものであり、支配勢力はデジタルインフラや知識の所有権、計算手段のコントロールを利用して、南半球を永久に従属させる状況に置いてきた。この不平等な分業が発展してきたのである。経済的には、製造業は 価値体系の下位に追いやられ、ハイテク企業が主導権を握る高度なハイテ ク経済に取って代わられた。

デジタル植民地主義の構造

デジタル植民地主義は、ソフトウェア、ハードウェア、ネットワーク接続といった、コンピューティングの手段を形成するデジタル世界の「もの」の支配に根ざしている。

これには、ゲートキーパーとして機能するプラットフォーム、仲介業者によって抽出されたデータ、業界標準のほか、”知的財産 “や “デジタル・インテリジェンス “の私的所有権も含まれる。デジタル植民地主義は、労働搾取、政策取り込み、経済計画から、情報サービス、支配階級の覇権、プロパガンダまで、従来の資本主義や権威主義的統治の手段と高度に統合されるようになった。

まずソフトウェアに目を向けると、かつてプログラマたちによって自由かつ広く共有されていたコードが、次第に私有化され、著作権の対象となるようになった過程を目の当たりにすることができる。1970年代から80年代にかけて、アメリカ議会はソフトウェアの著作権を強化し始めた。これに対して、「フリー&オープンソースソフトウェア」(FOSS)ライセンスという形で、ソフトウェアの使用、研究、変更、共有の権利をユーザーに与えるという流れが生まれた。これは、企業のコントロールや利潤のために利用されることのない「デジタル・コモンズ」を創出するもので、「南半球」の国々にとって本質的な利益をもたらすものだった。しかし、自由ソフトウェア運動が南半球に広がると、企業の反発を招いた。Microsoftはペルー政府がMicrosoftのプロプライエタリなソフトウェアから脱却しようとしたとき、ペルーを非難した。また、アフリカ政府が政府の省庁や学校でGNU/Linux FOSSオペレーティングシステムを使うのを妨害しようとした。

ソフトウェアの私有化と並行して、インターネットはFacebookやGoogleのような仲介サービス業者の手に急速に一元化された。重要なのは、クラウドサービスへの移行が、FOSSライセンスがユーザに与えていた自由を無効にしてしまったことだ。なぜなら、そのソフトウェアは大企業のコンピュータで実行さ れるものだからだ。企業のクラウドは、人々から自分のコンピュータをコントロールする能力を奪ってしまう。クラウドサービスは、ペタバイト単位の情報を企業に提供し、企業はそのデータを使って人工知能システムを訓練する。AIはビッグデータを使って「学習」する。例えば、フォントや形が異なる「A」という文字を認識するためには、何百万枚もの写真が必要だ。人間に適用した場合、人々のプライベートな生活の機微な情報は、巨大企業が絶え間なく抽出しようとする非常に貴重な資源となる。

南半球では、大多数の人が低レベルのフィーチャーフォンやスマートフォンを使っており、データ量に余裕がないのが実情だ。その結果、何百万人もの人々がFacebookのようなプラットフォームを「インターネット」として実感し、彼らに関するデータは外国の帝国主義者によって消費される。

ビッグデータの “フィードバック効果 “は、状況をさらに悪化させる。より多くの、より良質なデータを持つ者は、最高の人工知能サービスを作ることができ、それはより多くのユーザーを引き付け、サービスをより良くするためにさらに多くのデータを提供し、といった具合になるのだ。古典的な植民地主義のように、データは帝国主義勢力の原材料として取り込まれ、帝国主義勢力はデータを加工してサービスを生産し、グローバルな大衆に還元することで、彼らの支配をさらに強め、他のすべての人々を従属的な状況に置く。

Cecilia Rikapは、近刊の『Capitalism, Power and Innovation: Intellectual Monopoly Capitalism Uncovered』の中で、次のように述べている。米国のハイテク大手がいかに知的独占に基づく市場支配力を持ち、超過利潤(rent)を引き出し、労働力を搾取するために、下位企業の複雑な商品連鎖を支配しているかを示している。これにより、彼らはグローバルなバリューチェーンを計画・組織化するための「ノウハウ」と「人材」を蓄積し、知識を私有化し、ナレッジコモンズや公的研究成果を収奪する能力を手に入れた。

例えば、AppleはスマートフォンのIPとブランドから収益を引き出し、商品連鎖に沿った生産を調整している。台湾のFoxconnが運営する製造工場で携帯電話を組み立てる人々、コンゴでバッテリーのために採掘される鉱物、プロセッサを供給するチップメーカーなど、下位の生産者はすべてAppleの要求と気まぐれに服従することになる。

つまり、テクノロジー大手は、商品連鎖の中でビジネス関係をコントロールし、その知識、蓄積された資本、中核的な機能部品の支配から利益を得ているのである。そのため、彼らは製品を大量生産する比較的大きな企業に対しても、下請けとして値切ったり、切り捨てたりすることができる。大学も共犯者である。帝国主義中核国の最も権威ある大学は、学術生産空間において最も支配的な主体である。一方、周辺部や半周辺部の最も脆弱な大学は、最も搾取されており、研究開発のための資金、研究成果を特許化する知識や能力、自分たちの仕事が収奪されたときに反撃する資源がないことが多いのである。

教育の植民地化

デジタルの植民地化がどのように行われるかの一例が、教育分野にある。

南アフリカの教育テクノロジーに関する私の博士論文で詳しく述べたように、Microsoft、Google、Pearson、IBMなどの巨大なテック企業は、南半球全体の教育システムでその勢力を拡大している。Microsoftにとって、これは何も新しいことではない。上に述べたように、Microsoftはアフリカの政府を脅迫して、学校も含めてフリーソフトウェアをMicrosoft Windowsに置き換えさせようとした。

南アフリカでは、Microsoftは教師トレーナーの軍隊を現地に置き、教育システムでMicrosoftソフトウェアをどう使うかについて教師を訓練している。また、ヴェンダ大学などの大学にWindowsタブレットとMicrosoftのソフトウェアを提供し、そのパートナーシップを大々的に宣伝している。最近では、携帯電話会社のVodacom(英国の多国籍企業Vodafoneが過半数を所有)と提携し、南アフリカの学習者にデジタル教育を提供するようになった。

Microsoftは、南アフリカの9つの州教育局のうち少なくとも5つで契約しているトップサプライヤーであるが、Googleも市場シェアを獲得しようとしている。南アフリカの新興企業CloudEdと提携し、州政府との初のGoogle契約締結を目指している。

Michael and Susan Dell Foundationも参入し、州政府にData Driven District (DDD)プラットフォームを提供する。DDDソフトウェアは、成績、出席率、「社会問題」など、教師や生徒を追跡・監視するデータを収集するよう設計されている。学校は収集したデータをリアルタイムではなく毎週アップロードするが、最終的な目標は、官僚的な管理と「縦断的データ分析」(同じグループの個人について収集したデータを長期にわたって分析すること)のために、生徒の行動や成績をリアルタイムで監視することである。

南アフリカ政府は基礎教育省(DBE)のクラウドも拡大しており、最終的には侵襲的なテクノクラート的監視に利用される可能性がある。MicrosoftはDBEに対し、「ユーザーのライフサイクルに渡って」データを収集することを提案し、Microsoft Office 365のアカウントを保持している人は、学校から始まり、成人するまで、政府が教育と雇用の関連性などに関する長期的な分析を行えるようにすることを提案した。

ビッグテックによるデジタル植民地主義は、南半球の教育システム全体に急速に広がっている。ブラジルから執筆したGiselle Ferreiraとその共著者は、「ブラジルで起きていることと、南アフリカの事例(そしておそらく『グローバルサウス』の他の国々)に関するKwet(2019)の分析との類似は顕著である」と述べている。特に、GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)企業が恵まれない学生にテクノロジーを惜しみなく提供するとき、データは平然と抽出され、その後、地域の特異性を重要視しないような方法で扱われる、と述べている。

学校は、ビッグテックにとって、デジタル市場のコントロールを拡大するための絶好の場所になりつつある。南半球の貧しい人々は、政府や企業が無償でデバイスを提供してくれることを当てにしていることが多く、どのソフトウェアを使うかを他人に決めてもらわなければならない。市場シェアを獲得するために、フィーチャーフォン以外の技術にほとんどアクセスできないような子どもたちに提供されるデバイスに、大企業のソフトウェアをあらかじめ搭載しておく以上に効果的な方法はないだろう。これは、将来のソフトウェア開発者を取り込むという利点もある。彼らは、何年も彼らのソフトウェアを使い、そのインタフェースや機能に慣れた後で、( フリーソフトウェアに基づく人々の技術ソリューションではなく) Googleや Microsoftを好むようになるかもしれない。

労働力の搾取

デジタル植民地主義は、南半球の国々がデジタルテクノロジーのための重要なインプットを提供するために、下働きとしてひどく搾取されている点にも表れている。コンゴ民主共和国は、自動車、スマートフォン、コンピューターに使用されるバッテリーに不可欠な鉱物であるコバルトを世界の70%以上供給していることは、以前から指摘されている。現在、民主共和国の14家族が、Apple、Tesla、Alphabet、Dell、Microsoftを、コバルト採掘産業における児童労働の恩恵にあずかっているとして提訴している。また、鉱物の採掘過程そのものが、労働者の健康周囲の環境に悪影響を及ぼすことも少なくない。

リチウムは、チリ、アルゼンチン、ボリビア、オーストラリアが主な埋蔵国だ。中南米各国の労働者の賃金は、裕福な国の基準からすると低く、特に彼らが耐えている労働条件を考えると、その差は歴然としている。データの入手可能性は様々だが、チリでは鉱山に雇用される人々の月給は約1430ドルから3000ドルの間であるのに対し、アルゼンチンでは月給は300ドルから1800ドルと低くなることもある。2016年、ボリビアでは鉱山労働者の月給の最低額が250ドルに引き上げられた。一方、オーストラリアの鉱山労働者の月給は約9,000ドルで、年間20万ドルに達することもある。

南半球の国々は、ハイテク企業にとって安価な労働力を豊富に提供する場所でもある。人工知能データのアノテーション、コールセンターの労働者、Facebookなどのソーシャルメディア大手のコンテンツモデレーターなどだ。コンテンツモデレーターは、ソーシャルメディアのフィードから、血なまぐさいものや性的なものなど、不快なコンテンツを削除する仕事であり、しばしば精神的なダメージを受ける。しかし、インドのような国では、コンテンツモデレーターの年収はわずか3,500ドルであり、しかもそれは1,400ドルから引き上げられた後の金額である。

デジタル帝国は中国か米国か?

欧米では、米国と中国が世界のテクノロジー覇権をめぐって争う「新冷戦」について、さまざまな議論が交わされている。しかし、技術のエコシステムをよく見てみると、世界経済では米国企業が圧倒的に優勢であることがわかる。

中国は数十年にわたる高成長を経て、世界のGDPの約17%を生み出し、2028年までに米国を追い抜くと予測されており、米国帝国は衰退しつつあるという主張(以前は日本の台頭とともに流行した物語)に一役買っている。中国経済を購買力平価で測ると、すでに米国を上回っている。しかし、経済学者のSean Starrsは、国家を「テーブルの上のビリヤードの玉のように相互作用する」自己完結した単位として扱うのは誤りであると指摘する。現実には、アメリカの経済支配力は「低下したのではなく、グローバル化した」のだとStarrsは主張する。このことは、特にビッグ・テックを見たときによくわかる。

第二次世界大戦後、企業の生産活動は国境を越えた生産ネットワークに広がっていった。例えば、1990年代には、Appleのような企業が電子機器の製造を米国から中国や台湾にアウトソーシングし始め、Foxconnのような企業が雇用する搾取工場労働者を利用するようになった。米国の多国籍ハイテク企業は、例えば、Ciscoのような高性能ルータースイッチのIPを設計する一方で、製造能力を南半球のハードウェアメーカーにアウトソーシングすることがよくある。

Starrsは、Forbes Global 2000のランキングによる世界の上位2000社の上場企業を25のセクター別に整理し、米国の多国籍企業が圧倒的に多いことを示した。2013年現在、上位25部門のうち18部門で利潤シェアの面で優位に立っている。彼の近著『American Power Globalized:Rethinking National Power in the Age of Globalization』でStarrsは、米国が支配的な力を維持していることを示している。ITソフトウェア&サービスでは、米国の利益シェアが76%であるのに対し、中国は10%、テクノロジーハードウェア&機器では、米国が63%に対し中国は6%、エレクトロニクスでは、それぞれ43%と10%である。韓国、日本、台湾などの他の国も、これらの分野では中国より優れていることが多い。

したがって、よく言われるように、世界のハイテク覇権争いにおいて米国と中国を対等の競争相手として描くことは、非常に誤解を招くことになる。例えば、2019年の国連の「デジタル経済報告書には、次のように書かれている。「デジタル経済の地理は、米国と中国の2カ国に高度に集中している」。しかし、この報告書はStarrsのような著者が指摘した要因を無視しているだけでなく、中国のハイテク産業のほとんどが中国国内を支配しており、5G(Huawei)、CCTVカメラ(Hikvision、Dahua)、ソーシャルメディア(TikTok)などのいくつかの主要製品やサービスだけが、海外でも大きな市場シェアを持っているという事実も説明していないのである。中国も一部の外国ハイテク企業に多額の投資をしているが、これも外国投資のシェアがはるかに大きい米国の支配を真に脅かすとは言い難い。

現実には、米国が最高のハイテク帝国である。米国と中国以外の国では、米国は検索エンジン(Google)、ウェブブラウザ(Google Chrome、Apple Safari)、スマートフォンとタブレットのオペレーティングシステム(Google Android、Apple iOS)、デスクトップとラップトップのオペレーティングシステム(Microsoft Windows、macOS)、オフィスソフトウェア(Microsoft Office、Google G Suite、Apple iWork)、のカテゴリーでリードしています。クラウドインフラとサービス(Amazon、Microsoft、Google、IBM)、SNSプラットフォーム(Facebook、Twitter)、交通機関(Uber、Lyft)、ビジネスネットワーク(Microsoft LinkedIn)、ストリーミングエンターテイメント(Google YouTube、Netflix、Hulu)、オンライン広告(Google、Facebook)など、さまざまな分野でリードしている。

つまり、個人であれ企業であれ、コンピュータを使っているのであれば、米国企業が最も恩恵を受けているということだ。彼らはデジタルのエコシステムを所有しているのだ。

政治的支配と暴力の手段

米国のハイテク企業の経済力は、政治的・社会的領域における影響力と密接に関係している。他の産業と同様、ハイテク企業の幹部と米国政府の間には回転ドアがあり、ハイテク企業や企業連合は、自分たちの特定の利益、そしてデジタル資本主義全般に有利な政策を求めて、規制当局に多大なロビー活動を展開している。

一方、政府や法執行機関は、ハイテク企業とパートナーシップを結び、自分たちの汚い仕事をさせる。2013年、Edward Snowdenは、Microsoft、Yahoo、Google、Facebook、PalTalk、YouTube、Skype、AOL、AppleのすべてがPRISMプログラムを通じて国家安全保障局と情報を共有していることを明らかにした。その後、さらに多くの暴露があり、企業が保存し、インターネット上で送信されたデータが、国家によって利用されるために、政府の巨大なデータベースに吸い上げられることを世界中が知ることになった。中東からアフリカラテンアメリカに至るまで、南半球の国々がNSAの監視対象になっている。

警察と軍はハイテク企業とも協力している。ハイテク企業は、南の国々を含め、監視製品・サービスの提供者として喜んで小切手を切っている。たとえば、Microsoftは、あまり知られていないPublic Safety and Justice部門を通じて、Microsoftのクラウドインフラ上で技術を運用する「法執行」向け監視ベンダーと幅広いパートナーシップのエコシステムを構築している。これには、ブラジルとシンガポールの警察が購入した「Microsoft Aware」と呼ばれる街全体の指揮統制用監視プラットフォームや、南アフリカのケープタウンとダーバンで展開されている顔認識カメラ付き警察車両ソリューションが含まれる。

また、Microsoftは刑務所産業にも深く関わっている。少年の「犯罪者」から公判前、保護観察、刑務所、そして出所して仮釈放されるまでの矯正の一連の流れをカバーする様々な刑務所向けソフトウェア・ソリューションを提供している。アフリカでは、Netopia Solutionsという会社と提携し、「脱走管理」や「囚人分析」を含むPMS(Prison Management Software)プラットフォームを提供している。

NetopiaのPrison Management Solutionが具体的にどこに展開されているかは不明だが、Microsoftは、”Netopiaはモロッコの(Microsoftパートナー/ベンダー)であり、北・中央アフリカの政府サービスをデジタルに変革することに深くフォーカスしている “と述べている。モロッコは反体制派を残虐に扱い、囚人を拷問した実績があり、米国は最近、国際法に反して西サハラの併合を認めている。

フランシス・ガルトン卿がインドと南アフリカで行った指紋押捺の先駆的な仕事から、アメリカがフィリピンを平定するために生体情報と統計・データ管理の技術革新を組み合わせ、最初の近代的監視装置を形成したことまで、帝国権力は何世紀にもわたって、まず外国人を対象に住民を警察・管理するテクノロジーをテストしてきた。歴史家のAlfred McCoyが示したように、フィリピンで展開された監視テクノロジーの数々は、最終的に米国に持ち帰られ、国内の反体制派に対して使われることにつながるモデルの実験場となったのである。Microsoftとそのパートナーのハイテク監視プロジェクトは、アフリカ人が引き続き、収容所実験の実験台として機能し続けることを示唆している。

結論

デジタルテクノロジーと情報は、あらゆる場所の政治、経済、社会生活において中心的な役割を担っている。アメリカ帝国プロジェクトの一環として、アメリカの多国籍企業は、知的財産、デジタル・インテリジェンス、計算手段の所有とコントロールを通じて、南半球での植民地主義を再構築している。コンピュータが実行する中核的なインフラ、産業、機能のほとんどは、アメリカの国境を越えた企業の私有財産であり、彼らはアメリカ国外において圧倒的な支配力を誇っている。Microsoftや Appleなどの最大手企業は、知的独占企業として世界のサプライチェーンを支配している。

不平等な交換と分業が行われ、周辺部での依存関係が強化される一方で、大量の移民と世界の貧困が永続化する。

富裕国とその企業は、知識を共有し、テクノロジーを移転し、世界の繁栄を共有するための構成要素を平等な条件で提供する代わりに、自らの優位性を守り、安価な労働力と超過利潤のために南を揺さぶることを目指している。デジタル・エコシステムの中核的な構成要素を独占し、学校や技能訓練プログラムに自社の技術を押し込み、南の企業や国家のエリートと提携することで、ビッグテックは新興国市場を取り込んでいる。警察や刑務所に提供される監視サービスからさえ、彼らは利潤のために利益を得るだろう。

しかし、集中した権力の力に対しては、常に反撃する人々が存在する。南半球におけるビッグテックへの抵抗は、アパルトヘイト下の南アフリカでビジネスを展開するIBMや Hewlett Packardなどに対する国際的な抗議の時代まで遡る長い歴史がある。2000年代初頭、デジタル植民地主義に抵抗する手段として、南半球の国々は自由ソフトウェアとグローバルコモンズを一時期受け入れた。そのような取り組みの多くはその後衰退したとのだが。ここ数年、デジタル植民地主義に対抗する新しい動きが出てきている。

この図式の中では、もっと多くのことが起こっている。資本主義が生み出した生態系の危機は、地球上の生命を永久に破壊する恐れが急速に高まっており、デジタル経済の解決策は、環境正義やより広範な平等のための闘いと相互に関係する必要がある。

デジタル植民地主義を一掃するためには、資本主義や権威主義、アメリカ帝国、そしてその知的支援者と対決しようとする草の根運動と関連して、根本原因や主要なアクターに挑戦する異なる概念的枠組みが必要である。

著者について
ロードス大学で社会学の博士号を取得。イェール大学ロースクール情報社会プロジェクトの客員研究員でもある。Digital colonialism: US empire and the new imperialism in the Global Southの著者。また、VICE News、The Intercept、The New York Times、Al Jazeera、Counterpunchで記事を執筆している。

このエッセイは、TNIのFuture Labのseries on Technology, Power and Emancipationの一部であり、ROAR誌と共同で企画されたものである。

他のエッセイは以下の通り。 The Intelligent Corporation: Data and the digital economy および  Blockchains: Building blocks of a post-capitalist future?

連載「意味と搾取」ご案内

青弓社のオンラインサイト「青い弓」で表記のタイトルで連載を開始しています。無料でお読みいただけます。現在、第二章まで掲載済みです。 人工知能の時代における監視社会に対する原理的な批判を意図しています。

表題の意味と搾取に含意されているのは、マルクスの搾取理論(剰余価値に収斂する価値理論)を搾取の特殊理論として位置づけ直し、搾取の一般理論の構築を目指すものです。つまり、搾取と呼ばれる事態は、マルクスが想定した剰余労働の剰余価値という事態を越えて労働(家事労働のようないわゆるシャドウワークも含む)総体から人間の行為や「(無意識を含む)意識」全体を覆う人間にとっての意味の資本主義的な「剥奪と再意味化」とでもいうべき事態と関わるものだという観点に基くものです。監視社会と呼ばれる事態がなぜもたらされてきたのかという問題は、資本主義が究極に目指しているのが、経済的搾取を越えて、この社会に暮す人々の意識と存在の文字通りの意味での「資本主義化」であり、完全な操作可能な対象としての人間という不可能な悪夢にあるという問題と関わります。そしてこの問題は、マルクスが十分に分析することなく脇に置いた商品の使用価値への注目を必要とするものでもあります。使用価値が人間(労働者であり消費者でもある存在)の行為の意味を再構築するだけでなく、それ自体がアルゴリズムの構造に組み込みうるかのようなテクノロジーの開発が突出してきた事態と関わります。20世紀資本主義はマルクスの資本主義批判への資本主義的な応答だと私は考えています。そのことを、土台の上部構造化、上部構造の土台化という唯物史観の資本主義的な脱構築と、コンピュータ化がもたらしたこれまで人類が経験してこなかった「非知覚過程」の構造化を通じた搾取の構造化として構想しています。更に、こうした資本主義的な包摂を支える科学への批判とともに、この包摂を超える観点を模索することを企図してこの連載を書きはじめました。ネットで読むには長すぎるかもしれませんが、ぜひお読みください。

序章 資本主義批判のアップデートのために

0−1 あえて罠に陥るべきか…

0−2 連載の構成

第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

1-1 機械と〈労働力〉――合理性の限界

機械が支配した時代

道具、機械、歴史認識

資本の秘技

1-2 身体性の搾取をめぐるコンテクスト

知識・技術・身体性の搾取

経済的価値をめぐる資本主義のパラレルワールド

非合理性と近代の科学技術

1-3 融合する土台と上部構造――支配的構造の転換

構造的矛盾の資本主義的止揚

資本主義の支配的構造

第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱

2-1 デホマク

ビッグデータ前史

IBMと網羅的監視

制御の構成――社会有機体の細胞としての人間=データ

法を超越する権力

2-2 行動主義と監視社会のイデオロギー

意識の否定――J・B・ワトソン

支配的な価値観を与件とした学問の科学性

道具的理性――資本主義的理論と実践の統一

行為と動機――行動主義と刑罰


三章以下は7月以降に公開されます。

Appleが暗号政策を転換(エンド・ツー・エンド暗号化が危機に)

ここ数週間、監視社会問題やプライバシー問題にとりくんでいる世界中の団体は、アップルが政策の大転換をしようとしていることに大きなショックを受けました。これまでユーザしか解読できないとされていたエンド・ツー・エンド暗号化で保護されていたはずのiCloudに捜査機関が介入できるようにするという声明をAppleが出したのです。以下はこのアップルの方針転換への世界各国91団体による反対声明です。日本ではJCA-NETが署名団体になっています。

いつものことですが、人権団体が取り組みにくい問題(今回は主に児童ポルノ)を突破口に、暗号化に歯止めをかけようとする米国政権の思惑が背後にあると思います。日本でもデジタル庁が秋から発足します。官民一体の監視社会化に対抗できる有力な武器は暗号化ですが、そのことを「敵」も承知していて、攻勢を強めているように思います。今回はAppleの問題でしたが、日本政府の暗号政策での国際的な取り組みの方向は明確で、捜査機関には暗号データを復号可能な条件を与え、こうした条件を満たさない暗号技術の使用を何らかの形で規制しようとするものになるのではと危惧しています。とくにエンド・ツー・エンドと呼ばれる暗号の場合、解読できるのは、データの送り手と受け手だけです。自分のデータをクラウドに上げている場合、クラウドでデータが暗号化されており、その暗号を解読する鍵をクラウドサービスの会社も持っておらず、コンテンツにアクセスできない、といった場合がこれに該当します。これまでAppleのiCloudはこのようなエンド・ツー・エンド暗号化でユーザーを保護してきたことが重要な「売り」だったわけですが、この方針を覆しました。メールではProtonmailやTutanotaが エンド・ツー・エンド暗号化のサービスを提供しています。Appleが採用した方法は、私の理解する範囲でいうと、自分が保有しているデバイスの写真をiCloudにアップロードするときにスキャンされて、児童ポルノに該当すると判断(AIによる判断を踏まえて人間が判断するようです)された場合には、必要な法的手続がとられたりアカウントの停止などの措置がとられるというもののようです。これをiPhoneなど自分が保有しているデバイスに組み込むというわけです。これはある意味ではエンド・ツー・エンド暗号化の隙を衝くようなやりかたかもしれません。画像スキャンや解析の手法と暗号化との組み合わせの技術が様々あり、技術の詳細に立ち入って論評できる能力はありませんが、問題の本質的な部分は、自分のデバイスのデータをOS提供企業がスキャンしてそれを収集することが可能であるということです。スキャンのアルゴリズムをどのように設計するかによって、いくらでも応用範囲は広がると思います。児童ポルノはこうした監視拡大の最も否定しづらい世論を背景として導入されているにすぎず、同じ技術を別の目的で利用することはいくらでも可能ではないかと考えられます。OS提供企業が捜査機関や政府とどのような協力関係を結ぼうとするのかによって、左右されることは間違いありません。ちなみに、iCloudそのものは暗号化されているというのが一般の理解で、わたしもそう考えてきましたが、復号鍵をAppleが保有しているとも指摘されているので、もしこれが本当なら、そもそものエンド・ツー・エンドの暗号化そのものすら怪しいことになります。

このAppleの決定はたしかに意外ではありますが、他方で全く予想できなかったことかといえばそうではないと思います。とくに米国の多国籍IT企業は、トランプの敗色が濃くなったころから、掌を返したようにトランプやその支持者を見限ったように、企業の最適な利益を獲得するために権力に擦り寄ることはとても得意です。バイデン政権は民主党伝統の「人権」政策を押し立てるでしょうから、今回のAppleの決定もこうした政権の傾向と無関係だとは思いせん。そして、常にインターネットをめぐる問題、あるいは私たちのコミュニケーションの自由を規制しようとする力は、「人権」を巧妙に利用してきました。人道的介入という名の軍事力行使もこの流れのひとつであるように、人権も人道も政治的権力の自己再生産のための道具でしかなく、資本主義がもたらす人権や人道と矛盾する構造を隠蔽する側に立つことはあっても、こうした問題を解決できる世界観も理念も持っているとはいえないと思います。今回は「児童ポルノ」など子どもへの性的暴力が利用されました。児童ポルノをはじめとする子どもの人権を侵害するネットが槍玉に挙げられることはこれまでもあったことですが、こうした規制によって子どもへの性的暴力犯罪が解決したとはいえず、子どもの人権の脆弱な状況に根本的な改善がみられたわけでもなく、もっぱら捜査機関などの権限だけが肥大化するという効果しかもたらしていません。現実にある暴力や差別などの被害を解決するという問題は、現実の制度に内在する構造的な問題を解決することなくしてはありえないことであり、その取り組みは既存の権力者にとっては自らの権力を支えるイデオロギー(家父長制イデオロギーや性道徳規範など)の否定が必要になる問題です。だからこそ、こうした問題に手をつけずに、ネットの表象をその身代わりにすることで解決したかのようなポーズをつくることが繰り返されてきたのだと思います。

この公開書簡の内容はいろいろ不十分なところもあります。上述したようにAppleがなぜ方針転換したのかという背景には切り込んでいませんし、暗号化は悪者も利用する道具であることを前提してもなお暗号化は絶対に譲ってはならない私たちの権利だという観点についても十分な議論が展開されていません。こうした議論が深まらないと、網羅的監視へとつきすすむグローバルな状況に対抗する運動も政策対応以上のものにはならないという限界をかかえてしまうかもしれません。議論は私(たち)に課せられた宿題なので、誰か他の人に、その宿題をやってもらおうという横着をすべきではないことは言うまでもありませんが。

(付記)iCloudの暗号化については以下のAppleのサイトを参照してください。

https://support.apple.com/ja-jp/HT202303?cid=tw_sr

下記の記事が参考になりました。

(The Hacker Factor Blog)One Bad Apple

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出典: https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/130

JCA-NETをはじめとして、世界中の91の団体が共同で、アップル社に対して共同書簡を送りました。以下は、その日本語訳です。 英語本文はこちらをごらんください。


公開書簡

宛先:ティム・クック
Apple, Inc.CEO

クック氏へ。

世界中の市民権、人権、デジタルライツに取り組む以下の団体は、Appleが2021年8月5日に発表した、iPhoneやiPadなどのApple製品に監視機能を搭載する計画を断念することを強く求めます。これらの機能は、子どもたちを保護し、児童性的虐待資料(CSAM)の拡散を抑えることを目的としていますが、保護されるべき言論を検閲するために使用され、世界中の人々のプライバシーとセキュリティを脅かし、多くの子どもたちに悲惨な結果をもたらすことを懸念しています。

Appleは、テキストメッセージサービス「Messages」の画像をスキャンする機械学習アルゴリズムを導入し、ファミリーアカウントで子どもと特定された人との間で送受信される性的表現を検出すると発表しました。この監視機能は、アップルのデバイスに組み込まれます。このアルゴリズムは、性的に露骨な画像を検出すると、その画像がセンシティブな情報の可能性があることをユーザーに警告します。また、13歳未満のユーザーが画像の送受信を選択すると、ファミリーアカウントの管理者に通知が送られます。

性的表現を検出するためのアルゴリズムは、信頼性が低いことが知られています。芸術作品、健康情報、教育資料、擁護メッセージ、その他の画像に誤ってフラグを立ててしまう傾向があります。このような情報を送受信する子どもたちの権利は、国連の「子どもの権利条約」で保護されています。さらに、Appleが開発したシステムでは、「親」と「子」のアカウントが、実際には子どもの親である大人のものであって、健全な親子関係を築いていることを前提としています。こうした前提は必ずしも正しいものではなく、虐待を受けている大人がアカウントの所有者である可能性もあり、親への通知の結果、子どもの安全と幸福が脅かされる可能性もあります。特にLGBTQ+の若者は、無理解な親のもとで家族のアカウントを利用しているため、危険にさらされています。この変更により、送信者と受信者のみが送信情報にアクセスできるエンドツーエンドで暗号化されたメッセージシステムを通じた機密性とプライバシーがユーザーに提供されなくなります。このバックドア機能が組み込まれると、政府はアップル社に対して、他のアカウントへの通知や、性的表現以外の理由で好ましくない画像の検出を強制することが可能になります。

また、Appleは、米国の「National Center for Missing and Exploited Children(行方不明および搾取される子供のための全国センター)」やその他の子供の安全に関する組織が提供するCSAM画像のハッシュデータベースを自社製品のOSに組み込むと発表しました。これは、ユーザーがiCloudにアップロードするすべての写真をスキャンします。一定の基準に達した場合には、そのユーザーのアカウントを無効にし、ユーザーとその画像を当局に報告します。多くのユーザーは、撮影した写真を日常的にiCloudにアップロードしています。このようなユーザーにとって、画像の監視は選択できるものではなく、iPhoneやその他のAppleデバイス、そしてiCloudアカウントに組み込まれています。

この機能がApple製品に組み込まれると、Appleとその競合他社は、CSAMだけでなく、政府が好ましくないと考える他の画像も含めて写真をスキャンするよう、世界中の政府から大きな圧力を受け、法的に要求される可能性があります。それらの画像は、こうした企業が人権侵害や政治的抗議活動、「テロリスト」や「暴力的」コンテンツとしてタグ付けした画像であったり、あるいはスキャンするように企業に圧力をかけてくる政治家の不名誉な画像などであるかもしれないのです。そしてその圧力は、iCloudにアップロードされたものだけでなく、デバイスに保存されているすべての画像に及ぶ可能性があります。このようにしてAppleは、世界規模での検閲、監視、迫害の基礎を築くことになります。

私たちは、子どもたちを守るための取り組みを支援し、CSAMの拡散に断固として反対します。しかし、Appleが発表した変更は、子どもたちや他のユーザーを現在も将来も危険にさらすものです。私たちは、Appleがこのような変更を断念し、エンドツーエンドの暗号化によってユーザーを保護するという同社のコミットメントを再確認することを強く求めます。また、Appleが、製品やサービスの変更によって不均衡な影響を受ける可能性のある市民社会団体や脆弱なコミュニティと更に定期的に協議することを強く求めます。

敬具

[署名団体]
Access Now (Global)
Advocacy for Principled Action in Government (United States)
African Academic Network on Internet Policy (Africa)
AJIF (Nigeria)
American Civil Liberties Union (United States)
Aqualtune Lab (Brasil)
Asociación por los Derechos Civiles (ADC) (Argentina)
Association for Progressive Communications (APC) (Global)
Barracón Digital (Honduras)
Beyond Saving Lives Foundation (Africa)
Big Brother Watch (United Kingdom)
Body & Data (Nepal)
Canadian Civil Liberties Association
CAPÍTULO GUATEMALA DE INTERNET SOCIETY (Guatemala)
Center for Democracy & Technology (United States)
Centre for Free Expression (Canada)
CILIP/ Bürgerrechte & Polizei (Germany)
Código Sur (Centroamerica)
Community NetHUBs Africa
Dangerous Speech Project (United States)
Defending Rights & Dissent (United States)
Demand Progress Education Fund (United States)
Derechos Digitales (Latin America)
Digital Rights Foundation (Pakistan)
Digital Rights Watch (Australia)
DNS Africa Online (Africa)
Electronic Frontier Foundation (United States)
EngageMedia (Asia-Pacific)
Eticas Foundation (Spain)
European Center for Not-for-Profit Law (ECNL) (Europe)
Fight for the Future (United States)
Free Speech Coalition Inc. (FSC) (United States)
Fundación Karisma (Colombia)
Global Forum for Media Development (GFMD) (Belgium)
Global Partners Digital (United Kingdom)
Global Voices (Netherlands)
Hiperderecho (Peru)
Instituto Beta: Internet & Democracia – IBIDEM (Brazil)
Instituto de Referência em Internet e Sociedade – IRIS (Brazil)
Instituto Liberdade Digital – ILD (Brazil)
Instituto Nupef (Brazil)
Internet Governance Project, Georgia Institute of Technology (Global)
Internet Society Panama Chapter
Interpeer Project (Germany)
IP.rec – Law and Technology Research Institute of Recife (Brazil)
IPANDETEC Central America
ISOC Bolivia
ISOC Brazil – Brazilian Chapter of the Internet Society
ISOC Chapter Dominican Republic
ISOC Ghana
ISOC India Hyderabad Chapter
ISOC Paraguay Chapter
ISOC Senegal Chapter
JCA-NET (Japan)
Kijiji Yeetu (Kenya)
LGBT Technology Partnership & Institute (United States)
Liberty (United Kingdom)
mailbox.org (EU/DE)
May First Movement Technology (United States)
National Coalition Against Censorship (United States)
National Working Positive Coalition (United States)
New America’s Open Technology Institute (United States)
OhmTel Ltda (Columbia)
OpenMedia (Canada/United States)
Paradigm Initiative (PIN) (Africa)
PDX Privacy (United States)
4
PEN America (Global)
Privacy International (Global)
PRIVACY LATAM (Argentina)
Progressive Technology Project (United States)
Prostasia Foundation (United States)
R3D: Red en Defensa de los Derechos Digitales (Mexico)
Ranking Digital Rights (United States)
S.T.O.P. – Surveillance Technology Oversight Project (United States)
Samuelson-Glushko Canadian Internet Policy & Public Interest Clinic (CIPPIC)
Sero Project (United States)
Simply Secure (United States)
Software Freedom Law Center, India
SWOP Behind Bars (United States)
Tech for Good Asia (Hong Kong)
TEDIC (Paraguay)
Telangana (India)
The DKT Liberty Project (United States)
The Sex Workers Project of the Urban Justice Center (United States)
The Tor Project (Global)
UBUNTEAM (Africa)
US Human Rights Network (United States)
WITNESS (Global)
Woodhull Freedom Foundation (United States)
X-Lab (United States)
Zaina Foundation (Tanzania)

愛国主義のイデオロギー装置としてのオリンピック:シモーヌ・バイルス途中棄権への右派メディアの非難

米国の体操選手、シモーヌ・バイルスが途中棄権したことは、たぶん、世界的にはトップの報道の出来事ですが、日本のメディアの関心は低いですね。

Daily Beastによると、米国内の右派メディアなどがバイルスに対して一斉に非難の声を上げているとのこと。 「保守的な評論家やライターの多くが、バイルスに「傲慢」「利己的」というレッテルを貼り、彼女が子どもたちの良いお手本にならないと主張」という記事のなかで、いくつかの右派の論客やメディアを紹介しています。

いずれも、メンタルの問題を理由に途中棄権するなどは許せないというわけですが、国を代表している選手が自分の都合で棄権し、しかも謝罪すらしない、結果として金メダルはロシアがさらった…といったことを罵っている。こうした人たちが複数の右派メディアなどで繰り返しているようです。(右派メディアそのものにアクセスして確認できていません)バイルスは、先に、自身の性的虐待被害とメンタルな問題を抱えてきたことを公表しています。彼女が黒人で最も人気のあるアスリートのひとりであることとともに、彼女のこれまでの行動にも右派にはがまんならなかったのかもしれません。

国際スポーツを国別の戦いとみなし、アスリートを国家の代表とみなすことに疑問の気持ちをもつ人は極めて少ない。スポーツは国別の競技でなければならない理由はないにもかかわらず、ほとんどの人が国別競技を肯定しています。なぜなのかを考える必要があります。 国別競技は、愛国主義と共振して増幅されるような心理構造をつくりだし、右派のアイデンティティでもある愛国主義がこの関係を率直に示しているように思います。表彰式はこの心理をシンボリックに可視化して再生産する仕掛けですから、もともと人々が本来的にもっている愛国心が表出したというよりも、オリンピックそのものが愛国心を生み出す装置の一翼を担い、アスリートがこの装置を表舞台で担うようにスポーツの教育や産業ができあがっているということでしょう。だから途中棄権などは愛国主義を刺激して攻撃される。戦争における徴兵拒否、敵前逃亡、戦線離脱などへの非難とほぼ同じ心理が作用していると思います。

バイルスのようなケースがでてきたので、ニュースになったわけですが、表面化されない形でオリンピックがナショナリズムや愛国主義を人々の心理に浸透させる効果が発揮されていて、このことをほとんどの人は気づかずに当たり前の感情として受け入れている。日本の場合ももちろん同じ構図があると思います。メディアのオリンピック中継は感情を愛国主義に動員する格好の手段になっています。だからボイコットなのですが、多くの人たちは、この感情に誘惑されて観て感動したい、ということになります。バッハも政府も広告代理店もテレビもネットも愛国主義の装置になりうるということを忘れてはならないと思っています。

欧州におけるFar Right政治テロ

以下は、ROARマガジン 10号のオンライン版に掲載されたLiz FeketeへのROARの編集者Joris Leverinkのインタビュー記事の飜訳です。文中、日本語ではほぼ一括して「極右」と訳される“extreme,” “far,” “hard,” “ultra”-right” が使い分けられているので、これらは原語のままとしました。(小倉利丸 2021年5月16日改訳)

フランスの大統領選に立候補したマリー・ルペン、ドイツのPEGIDA(ペギーダ)、ハンガリーのEU国境で移民を狩るファシスト集団など、過去20年間、欧州各地で過激な右翼政党や運動が復活している。こうした人種差別的なイデオロギーの人気が高まっている背景には、欧州の多くの政府が実施している新自由主義的な緊縮財政政策の結果、経済的な不安定さや社会的な不安定さ、政治的な偏向が高まっていることがある。

COVID-19のパンデミックは、草の根の連帯活動を通じて人々をひとつにまとめ、私たち全員の利益のために社会の中で最も弱い立場にある人々を守ることの重要性を再認識させた。しかし、このパンデミックは、移民や難民などの社会的弱者をスケープゴートにしたり、ますます不足する資源を獲得するための無価値な競争相手にしたりすることで、社会の断片化、個人化、偏向化をさらに進める可能性も秘めている。

ROARの編集者Joris Leverinkのこのインタビューでは、Institute of Race Relationsのディレクターであり、『Europe’s Fault Lines:Racism and the Rise of the Right』(Verso Books, 2019)』の著者であるLiz Feketeが登場します。リズ・フェケテは、人種差別と極右を研究してきた数十年の経験をもとに、ヨーロッパにおける至高主義イデオロギーの深い根源、far rightのさまざまな現れ方、extreme rightによる警察や軍への浸透、新自由主義、緊縮財政、権威主義、外国人恐怖症などとの関連性について説明している。

右翼からの脅威の高まりに対応して、彼女は 「文化的多元主義を守るために…ヨーロッパの人道的伝統の中で最も優れたものをすべてとり入れる 」反ファシスト運動の必要性を訴えている。

●この10年間で、極右の政党や運動の力、広がり、訴求力が恐ろしく高まっています。2011年のブレイビクの襲撃事件から、2017年のルペンのフランス大統領選への立候補、そして最近ではハヌアでの人種差別的な襲撃事件まで。しかし、これは新しい現象とは程遠いものです。あなたは、ヨーロッパには 「人種差別と権威主義の長い歴史がある 」と主張していますね。ヨーロッパ全体での右派の台頭を理解するのに役立つ、歴史的な背景を少し教えてください。

私は歴史家ではありませんので、ファシズムをめぐる活動や執筆活動の中で学んだことをもとにしています。

ヨーロッパの暗い過去は、通常、ナチスドイツやソ連の全体主義体制の観点からのみ理解されていますが、フランスやイギリスを中心とした植民地主義や、南ヨーロッパの独裁政権なども、ヨーロッパに長い影を落としています。

ナチス・ドイツやソ連を強調しすぎて、フランスやイギリスの経験を犠牲にすることは、我々の社会で中心的な地位を占めていた人々が犯した犯罪を忘れてしまうような、一種の歴史的近視を引き起こします。人種差別は、植民地時代と帝国時代の重要な組織メカニズムであり、南ヨーロッパの権威主義は、冷戦時代に西ヨーロッパの大国によって育てられました。アイルランド、バスク、カタルーニャなどの地域や民族自決運動の弾圧は、ヨーロッパの歴史の重要な部分を占めています。

1961年にパリで行われたフランスとアルジェリアの戦争に抗議した300人ものアルジェリア人が殺されたり、警察にセーヌ川に投げ込まれて溺れたりしたことも忘れてはなりません。

このように、ヨーロッパの歴史の中で極端な例外として描かれている2つの全体主義体制に焦点を当てることで、フランコのスペイン、(ゲオルギオス・パパドプロス)大佐政権下のギリシャ、サラザールのポルトガルにおける反共産主義の右派独裁政権に対する西欧列強の支援が見えなくなってしまうのです。また、戦後の人種科学や優生学プログラムへの継続的な熱意も記録から消えている(例えばスウェーデンでは、1976年までロマの女性に対する強制的な不妊手術が行われていた)。

私は、独裁政治、植民地主義、人種科学、優生学の遺産にますます興味を持っています。これを単なる歴史の問題としてではなく、「黄金の夜明け」に関する最近の記事で書いているように、この遺産は今も私たちの中にあると考えています。

独裁は、帝国と同様に、過去のものではなく、現在の私たちを支配する構造、政策、プロセス、政治文化にその痕跡を残す支配の構造です。

●21世紀の極右勢力にはさまざまな顔があり、その代表者はブリュッセルの欧州議会の廊下からヨーロッパ南部の国境のパトロールまで、どこにでも見られます。“extreme,” “far,” “hard,” “ultra”-rightの違いは何でしょうか。また、なぜこのような区別をすることが重要なのでしょうか?

誰もがナチスやファシストだと言うだけでは、効果がありません。彼らを本気で打ち負かそうとするならば、道徳的であるだけではなく、戦略的、戦術的である必要があります。

学者たちは、右翼をそれぞれの “ファミリー “という観点から研究しています。右翼のどのファミリー、傾向、異なるグループ、政党、組織から生まれてくるのかを理解することは重要です。しかし、学者は分類にとらわれる傾向があり、何が変化しているのかが見えてこないのです。私は『Europe’s Fault Lines』の中で、万華鏡のイメージを使って次のように論じています。「政党や傾向の形成と再形成は、万華鏡の中のガラスの破片の動きのようなもので、筒を回転させるたびに新しいパターンや形態をとる」。

私は、一見バラバラに見えるさまざまな選挙基盤が集まったときに生まれる新しいパターンを示すために、また、イギリスの保守党のようなかつての中道右派政党が極右のプログラムの要素を取り入れている様子をとらえるために、「強硬右派hard right」という言葉を使っています。

「極右extreme right」とは、伝統的な保守政党の右に位置する政党で、特に人種差別的な言葉やレトリックの使用をいとわず、民主主義の枠組みの中で活動し、選挙に参加し、暴力を主張するまでには至らない傾向にある政党を指します。

最後に、「極右far right」は、ごく少数の例外を除き、暴力を否定せず、その国のファシストやネオナチの過去とより密接に関連しているという点で、極右extreme rightとは区別されます。

1990年代以降、extremist政党は、社会の周辺部から中心部へと移動し、地方レベルでの権威を強化し、欧州各地の自治体や地域政府に権力基盤を確立してきました。私たちは、中心部と周辺部、そして極右extreme rightと新たに構成されたhard rightとの間の収斂と親和を目の当たりにしています。

●最近の著書の序文では、「今日の人種差別、ポピュリズム、ファシズムについて何が新しいのか、そして1930年代の古典的ファシズムと何が違うのかを発見したい」というニーズが執筆の動機になったと述べています。今日の人種主義、ポピュリズム、ファシズムについて何が違うのか、そしてこの違いを理解することがなぜ私たちの政治的組織化に重要なのか、説明していただけますか?

古典的ファシズムは、1930年代に国民国家間の帝国的な対立が激しかった時代に生まれました。今日では、国境を越えた資本の代理人となった国民国家の力がはるかに弱まっているため、状況は異なっている。古典的なファシズムも「国家の恐怖」によって運営されていましたが、今日の世界では、異論を唱える人々や過剰人口をテクノロジーによって選択的に抑圧することができるため、国家が大衆を見境なく抑圧する必要はなくなっているのです。

私たちが目にしているのは、警察が主導する、未登録の移民、多文化貧困層、黒人やますます増加する権利を奪われた白人に対する戦争です。忍び寄る流動化―テクノロジーを通じた政府―が舞台裏ですでに起きているために、型どおりの例外状態を設ける必要はもはやありません。

残念なことに、この「技術的フィックス」と権威主義的な漂流は、パンデミックによって激化しています。ロックダウンは、多文化が共存する地域での厳重な取り締まりをもたらし、ロマや移民のコミュニティは、対象を絞った隔離や軍事的な監禁区域に置かれています。国はこの危機を利用して、コロナウイルスのデータプラットフォームを構築し、警察産業複合体、特に移民局とつながりのある民間企業が、機密性の高い個人情報にアクセスできるようにしています。

ファシズムは、単なるイデオロギーや思想の集合体ではなく、人間の生活そのものに対する姿勢なのです。このような動きは、社会的、市民的、民主的な権利だけでなく、人間の尊厳をも脅かすものです。

なぜこれが組織化にとって重要なのか?私たちは、誰が最も抑圧され、最も監視されているのかを特定しなければなりません。国家権力の影響力は私たち皆に異なる影響を及ぼしていることを認識し、これに対応して行動し、社会で最も抑圧され、犠牲になっている人々を中心に組織化しなければならないのです。

最後に、私たちは、いわゆるナショナリストのたわごとを断ち切らなければなりません。国民国家の力が弱まっていることを理解すれば、これが偽のナショナリズムであることがわかります。hard rightはナショナリストを装っていますが、彼らはグローバリゼーションの恩恵を受けているグローバルエリートの一員です。ナショナリズムは、グローバルエリートの中での闘争という目的のための手段にすぎません。私たちはナショナリストの戦争を見ているのではありません。世界の舞台で影響力を競い合う、グローバリゼーションの対立軸を見ているのです。米国のヘゲモニーは衰退し、新たなヘゲモニー軸が形成されつつあります。

●先の質問に続いて、近年、政治的中道は「ポピュリズム」という言葉を使って、左派と右派の政治を非難しています。例えばイギリスでは、ジェレミー・コービンもナイジェル・ファラージもポピュリズムであると非難されています。しかし、これは政治的視点の重要な違いをなきものにしてしまう危険性があります。ポピュリズムという言葉は、今でも有効だと思いますか?新しいポピュリズムは必要ですか?

私はポピュリズムという言葉が好きではありませんし、ほとんど使っていません。ポピュリズムという言葉は、エリートが基本的に現状を維持するための強力なツールなのです。ジェレミー・コービンのプログラムは国際社会主義の要素を取り入れた社会民主主義的なものだったのに、彼をポピュリストと呼ぶのは馬鹿げています。ナイジェル・ファラージは右翼的な権威主義者で、ポピュリズムを手段として使っていますが、彼の政治は右翼的な権威主義の伝統にしっかりと根ざしています。

右翼的な文脈でポピュリズムという言葉を使うことにはまだ意味があると思いますが、私は「右翼ポピュリスト」と分類されるような政治的ファミリーを実際に見たことがありません。むしろ、ポピュリズムは権威主義のサブセットであると考えています。ポピュリズムとは、代表制民主主義の要素を排除しようとする極右勢力が採用する政治スタイルです。そのために、彼らは、民主主義の特定の側面を排除したいと考えているので、民意、フォルクvolk(民衆)、あるいは国民投票のより一層の必要性について語るでしょう。

実際、メディアで宣伝されている外国人嫌いのポピュリズムは、ネイティビスト(訳注1)の想像力の最悪の本能に訴えかけるように設計されているように思えます。その意味で、ポピュリズムは反民主主義的な動きの一部なのです。私は左翼的なポピュリズムを主張するつもりはありません。左翼は民主主義を放棄するのではなく、拡大するべきです。

●あなたは著作の中で、新自由主義、緊縮財政、そして右派のネイティビズムの受容の関係を指摘しています。どのようなメカニズムなのか、詳しく教えてください。

*写真キャプション:トリエステで行われたイタリアのネオ・ファシスト「CasaPound」のデモ。Photo by Erin Johnson / Flickr

欧州が中東やアラブ諸国での戦争を支援することで、イスラム教徒に対する敵対的なイメージが強まり、イスラム恐怖症が助長される一方で、世界経済のグローバル化や新自由主義の受け入れによって生じた不安感が、”自国民優先 “のネイティビズムを生み出す土壌となってきました。

EUが新自由主義を受け入れ、後には緊縮財政を導入したことで、加盟国レベルでも、強力な中核国がアジェンダを設定するEU内でも、欧州の権威主義が強化されました。

保守主義の主流の中にある超国家主義者の反乱によって強化された再構成されたhard rightが、ネオリベラリズムの宿敵を代表しているのか、それともその解決策を表しているのかは、決して明確ではありません。パンデミック前には、ナショナリズムとネオリベラリズムが融合し、少なくとも短期的には、EU加盟国の多くで政治文化の中心が非自由主義的な方向に向かうことが示唆されてましたが、これは移民への対応だけのことでありませんでした。しかし、逆説的ではありますが、パンデミックの発生により、この状況が変わりそうな兆しが見えています。人々は怯えており、市民的自由やロックダウンを破る権利に焦点を当てた far-rightの反応は、彼らが支持を失っていることを意味しています。全てがどうなるのか不確実なのです。

EUのポスト共産主義の国々では、民主化の名のもとに新自由主義的な市場改革が行われました。ここでは、共産党政権崩壊後に実施された「移行プロセス」の成果に対する広範な反発を利用して、権威主義的な右翼政党が躍進しています。

豊かな富と自由を約束する新自由主義は、もはや説得力のあるシナリオではなく、特に組織的な腐敗が政治プロセスの中で制度化されつつあリます。それゆえ、ナショナリズムの絆創膏や、反多文化主義や反移民のナラティブが心地よく感じられるのです。ハンガリー、ポーランド、スロバキアの主流の政治家たちは、権威主義、民族ナショナリズム、国民国家という使い古された言葉を口にし、19世紀風の社会ダーウィニズムや反ロマ、反移民の人種差別主義に口実を与えています。また、超富裕層のナルシスティックなライフスタイルに直面して、社会的コントロールを維持するために、カトリックやカルヴァン主義といった宗教の規律的な力が呼び覚まされてもいます。

新たな腐敗したエリートも、さほど新しくもない腐敗したエリートも、近代の移民をほとんど受け入れてこなかった国では、被害者感情を上手にあやつり、流入外国人が自国を占領するなどと言って恐怖 を煽りたてます。新自由主義の荒廃から国民を守ることができなかった自分たちの失敗や、今ではCOVID-19抑制の失敗した目を背けたあげくに中国叩きの口調が際だっています。

新自由主義のエリートたちは、かつては「地球村」の美徳を讃えていましたが、グローバル化をより愛国的で権威主義的な包装で包むことによって、ナショナリストの挑戦に応えようとしています。実際には、権威主義的な解決策は常に新自由主義の一面であり、その表面的なイデオロギーとは対照的に、その実践においてはナショナリストが構築可能なものが多くあります。弱者を処罰することは、ハンガリーの権威主義的ナショナリズム同様、イギリスの新自由主義にも内在しています。

ナショナリズム、ネイティビズム、軍隊精神、市民と移民の境界線の設定、イスラム教徒 を “内なる敵” に見立てた国家安全保障の約束、これらはすべて目的のための手段であり、市場―国家とともに成長してきた技術的な安全保障装置であり、この中で、民衆は自分で自分を取り締まることにひそかに手を染めているのです。この意味で、ナショナリズムは新自由主義との決別を表すものではなく、民主主義との決別を可能にする環境を提供しているのです。

●far-rightの武装勢力は、政治家、活動家、移民、難民、イスラム教徒などを攻撃したり、暗殺したりして、ますます殺傷能力のある武器をもつようになっています。あなたは ultra-rightの草の根の反乱」や 「人種差別の反乱」について書かれていますね。まず、ここで扱っている組織やイデオロギーの種類について説明してください。また、システムレベルでは安定と民主主義、ローカルレベルでは特定のグループや個人に対する脅威はどの程度のものなのでしょうか?

彼らの唯一の真のイデオロギーは人種差別と人種戦争です。しかし、この点において、彼らはインターネット上に出回っている様々な陰謀論を利用することが可能です。ユーラビアeurabiaから白人ジェノサイドGreat Replacementからオルタナティブ右翼の白人エスノナショナリズムや白人至上主義まで。

Ultra-rightの組織は、 far-rightの国境警備隊、組織化されたサッカーのフーリガン、コンバットスポーツグループ、 Autonomous Nationalists、アイデンティタリアンなど様々です。『Europe’s Fault Lines』の中で、私はultra rightは「流動的で、絶えず変化し、進化するシーンを構成している。その様々なイデオロギーの形成は、網の目のような関係でゆるやかにつながっており、音楽、サッカー、格闘技などの特定のサブカルチャーが提供する空間で、時には分裂し、時には集結する」と書いています。

国家がやるべきことをやっていれば、ultra rightは安定と民主主義の脅威にはならないはずです。ヨーロッパの国家は、ultra rightに対処するために簡単に展開できる膨大な力を持っていますが、問題はultra rightが彼らの視野に入っていないことです。その理由は、ultra rightの主な標的が国家や国家機関ではなく、少数民族だからなのです。

特定の国家体制にとって、このような非民主的な勢力は、危機の際には道具として頼ることができ、国家ができないような汚い仕事をするために利用することができます。しかし、その一方で、彼らは地域レベルで特定のグループや個人に対する脅威を増大させています。モスクやシナゴーグ、亡命者センター、ギリシャ・トルコ国境やギリシャの島々の人道支援者への攻撃が増えています。一つの人種差別が他の人種差別を引き起こすのです。このような状況は非常に憂慮すべきものであり、私が生きてきた中で、これほどまでに激しいものは考えられません。特に、ソーシャルメディアが緊張感を煽り、自警団の活動を短期間で動員する役割を果たしているためにそうなっています

●今日のヨーロッパでは、極右の武装勢力はどのような形で現れているのでしょうか?

ヨーロッパでは、政治的に組織化された、人種的な動機に基づいた明かに悪質な暴力が発生しています。それが最も顕著なのは、産業が空洞化した農業地帯であったり、港町や都市の保護・サポートの施設(lieux de vie)(訳注2)であったりするのですが、こうした場所では未登録の移民やロマの人々がキャンプをしたりする一方で、警察やfar-rightの自警団の残虐な暴力にさらされており、警察なのか自警団なのかの見分けがつかないことすらあります。

ザクセン州ケムニッツでネオナチ、サッカーのフーリガン、格闘技の狂信者の組み合わせによって追い詰められた「外国人」たちは、2018年8月にこの組織的暴力と警察の共犯関係を身をもって体験しました。ドイツ警察は2日間にわたって路上をほとんど統制できなかっただけでなく、連邦情報機関のトップであるハンス-ゲオルク・マーセンは、外国人排斥の暴力について「意図的な誤報」が流布されており、人種差別主義者が外国人を追い詰める様子を撮影したビデオは偽物であると訴えたのです。数カ月にわたってさらに扇動的な発言をした後、マーセンは解雇になりましたが、彼は依然としてアンゲラ・メルケル首相のキリスト教民主党のメンバーであり、首相の亡命政策に対する抗議として2017年に結成された党内グループ「Werteunion」の声高な支持者でもあります。

これはドイツだけの問題ではありません。ヨーロッパ全体で、警察や諜報機関は極右暴力の被害者を組織的に見殺しにし、ファシズムの成長と直接的または間接的に共謀しています。この共謀には、「陰謀を企てる、協力する」という積極的な意味と、「道徳的、法的、公式に」反対すべきことに「目をつぶる」「知らないふりをする」という行動の失敗の両方に理解されるなければなりません。

軍や警察の一部が極右勢力を支持している証拠は、明白です。英国では、軍人が極右テロリスト集団「ナショナル・アクション」に所属していたとして起訴されています。フランスでは、Jean Jaurès Foundationによる報告書「Who do the Barracks Vote For(兵舎は誰に投票するのか)」が、軍や準軍の存在感が強い地域でfar rightへの支持が高まっていることを警告しています。フランス議会のfar right に関する調査報告書の最初の提言は、far right グループに関与している軍人や元軍人の監視を強化することでした。

しかし、このような場当たり的な取り組みや遅々として進まない調査では、脅威のレベルに対応できません。当局は居眠り運転しているようなものです。ネオナチの「黄金の夜明け」がギリシャの警察や軍に深く組織的に侵入していたこと、その議員全員が現在アテネで裁判にかけられていること、そして最近ドイツで発覚した「Uniter Group」の陰謀について、警鐘を鳴らすべきだったのではないでしょうか?

ネオナチ政党「黄金の夜明け」は、クーデターを計画していた軍の精鋭部隊、国家情報局、反テロリスト特別部隊、移民警察、機動制圧部隊(Force of Control Fast Confrontation)などに侵入していたことが明らかになったときには、国会で第3党となっていました。

一方、Uniter Groupは、ドイツとオーストリアの現役・元兵士による極右ネットワークで、連邦軍の物資から武器・弾薬を盗み、Xデーに抹殺すべき政治家や左翼関係者のヒットリストを作成したとして捜査を受けています

●ヨーロッパには、人種差別や権威主義の長い歴史があるだけでなく、反ファシストや反権威主義の組織化の歴史もあります。ファシズムや外国人嫌いの暴力の復活に対して組織化することの重要性、どのような戦略や戦術を追求すべきか、そしてその目的は何か、あなたの見解を説明していただけますか?

民主主義の基本理念である文化的多元主義を守るためには、反ファシズム運動が必要ですが、それだけでなく、反人種主義的で、地域社会にしっかりと根付く必要があります。また、反ファシズム運動は、社会主義的な多元主義や左翼的な文化的民主主義の刷新の中心となり、ヨーロッパの人道的な伝統の中であらゆる最も優れたものを受け入れる必要があります。反ファシスト運動は、単にファシストに対抗して動員するだけではなく、ギリシャの反ファシストたちが主張するように、「私たちがどのような世界に住みたいかという政治的闘争であり、民主主義、連帯、社会正義のための闘いでもある」のです。

現在の反ファシスト運動は、1970年代の過去の抵抗運動の最盛期に比べて、人種的にもジェンダー的にもはるかにインクルーシブになっています。反ファシズムは、グローバルエリートが受け入れている多文化主義と機会の平等というおとぎ話のようなものに対するダイナミックな反撃として再浮上しています。

反ファシズムとは、進歩的で包括的なコミュニティに結集し、共通の敵に毅然と立ち向かう集団的な闘いです。しかし、現代の反ファシズムが新自由主義やファシズムに対する物質的・文化的な反撃として成長するためには、far rightに対する動員と、極右勢力を育てている制度や文化に対する批判を組み合わせなければなりません。私たちは、暴徒による暴力が発生するたびごとに、国レベル、ヨーロッパレベルで迅速に行動しなければなりません。

リズ・フェケテLiz Fekete

ロンドンのInstitute of Race Relationsのディレクターであり、Race & Class Journalの顧問編集者でもある。最新の著書は、『Europe’s Fault Lines: Racism and the Rise of the Right (Verso Books, 2019)』は、2019年のBread & Roses Award for Radical Publishingを受賞した。

訳注1:ネイティビズムnativism 。Liz Feketeは上記の著書のなかでこの言葉を「移民から生来のあるいはすでに定住している住民の利益を守るという考え方」と説明している。民族や人種といった概念を避けており、いわゆるレイシストと一括りにできない立場をとりつつ移民否定を主張する。エコロジストのなかにも移民は生態系に反すると主張して移民に反対する考え方がある。Alexandrer Reid RossはAgainst Fascist Creepのなかで、日本でも映画Endgameの原作者で知られているDerrick Jensenはネイティビズムの立場からメキシコ国境の閉鎖を主張したと指摘している。

訳注2:lieux de vie。wikipedia(フランス語)では以下のように説明されている。「家庭的、社会的、心理的に問題のある状況にある子供、青年、成人を少人数で受け入れ、個人的なサポートを提供する社会的または医療的な小規模施設のこと」

付記:読者の方から飜訳の不備をご指摘いただきました。いくつか重要な改訂を行いました。ありがとうございます。(2021年5月17日)

Far-Right Political Terror in Europe

匿名公共サービスを可能とする社会システムへの転換を考えたい

デジタル監視社会化法案と私が勝手に呼んでいるいわゆる「デジタル改革関連法案」が参議院で審議中だ。

議論の大前提にあるのは、デジタル庁に賛成であれ反対であれ、政府・行政が住民に対して必須となる公共サービスを提供するためには、住民の個人情報の取得は必須であり、これを前提とした政府・行政組織は当然だという発想だ。この発想が前提となって、サービスや利便性のために個人情報を提供することに疑問をもたない感覚が私たちのなかにも醸成されてきた。

この個人情報を差し出すかわりに公共サービスを受けとるというバーターは、近代国民国家が人口統計をとり、国勢調査を実施し、徴兵制を敷き、外国人や反政府活動家を監視し、福祉・社会保障を充実させる政策をとるなかで、19世紀から20世紀にけて、ファシズムであれ反ファシズムであれ、あらゆる政府の基本的な性格として定着してきたものといえよう。コンピュータ・テクノロジーの人口監視への応用から現代のビッグデータ+AI+5Gによる監視社会の傾向は、この近代国民国家によるサービス・利便性と個人情報の提供という関係をひとつの土台としている。

もうひとつの要因が個人情報の商品化だ。人々は、無料のサービスをSNSなどで享受することに慣れてきてしまったが、実際には、SNSなどのサービスを利用する代りに、個人情報を提供している。つまり、SNSなどの無料にみえるサービスは、自覚されることなく個人情報を対価として支払っている。大手SNSなどは、こうして取得した個人情報を様々なパッケージにして広告主の企業や、時には政府に売り、莫大な利益を上げている。個人情報が商品化し、市場価値を付与されることによって、ますます個人情報は資本にとって欠くことのできない収益源になる。この構造が個人情報を収集し解析するテクノロジーの開発を促し、こうした技術開発で優位に立つことが、現代の資本主義の資本蓄積における覇権を握る鍵となる。同時に、イデオロギーとしても、これこそが社会の進歩であるとみなされることになる。

個人情報を収集することによってこそより一層の公共サービスも可能になるという言い回しに、あたかも妥当性があるかのような印象が形成されてきた背景には、こうした構造があることを踏まえておく必要がある。

個人情報を取得させない社会システムへの転換

今私たちが、考えなければならないのは、こうした長期の国民国家と市場経済の傾向を不可避であり、必然的あるいは宿命だとみなすのではなく、それ自体が歴史的な産物、つまり近代資本主義システムの帰結だということを理解することだ。そうすることによって、この支配的な流れとは別の発想から社会の政治や経済のありかたを創造する可能性があることに気付くことが大切だと思う。では、どのような社会を構想すべきなのか。個人情報の問題からみたとき、私たちが前提とすべきなのは、極めてシンプルな原則だ。

・個人情報は「私」が管理すべきものであって、他者の管理に委ねるべきものではない。
・政府・行政であれ資本であれ、個人情報を保有することなく、住民の権利としてのサービスを提供できるようなシステムを構築すべきである。

このシンプルな原則はつっこみどころ満載で、いくらでも疑問点を提起することだできるが、そうであっても、統治機構のありかたとして目指すべき目標にするだけの価値があると思う。

個人情報を提供せずに必要なサービスを享受するなど不可能に思えるかもしれないが、実は、こうしたサービスのありかたは身近にも多く存在している。現在すでに存在する匿名サービス、匿名を前提とした相互扶助のほんのいくつかの例を、思いつくまま列挙してみよう。
● 野宿者支援 野宿者の個人情報を取得することなく食事や生活物資の提供
● 難民支援キャンプ EU域外から来る難民のためのキャンプでの難民支援では難民の個人情報を取得しない。ただし難民を監視する政府などは難民に対する顔認証などの技術を導入
● フリーマーケットでの取引など現金ベースでの交換や物々交換
● 公的な行政サービスとしてもHIV-AIDSの検査 匿名での検査が可能。検査時に検査番号をもらい、後日この番号で検査結果を受けとる。

すでによくよく考えれば、庶民の相互扶助では個人情報を詮索することが必須の条件だとは想定していない。

教育と労働の現場で個人情報が果している機能

実は、多くの公共サービスでは、不要な個人情報を大量に取得している。たとえば、学校教育では児童・生徒の個人情報を取得する。他方で、市民が開く講座のような場合、参加する上で個人情報のやりとりはほぼなくてもよい。学校教育など公教育ではなぜ個人情報が必要なのか、それが教育にとって必須の前提になるのはなぜなのか、個人情報は「教育とは何なのか」という本質問題と関わる。義務教育が教育にとって本質ではない子どもたちの個人情報を把握するのは、教育が人間を管理するためのシステムになっているからではないか。

教育にとって必要最低限の、子どもや生徒、学生の個人情報とは何なのだろうか。過剰な情報を学校だけでなく教育委員会や上部組織が把握しているのではないか。たとえば、成績も個人情報である。成績は学習の結果を数値化したものでしかない。教育を数値化してデータ化することが、教育の目的になってしまい、本来必要なはずの、教育の目的がこれで果たせるのだろうか。実は、教育はそれ自体が動的なものであって、データ化にはなじまないはずのものだ。学んだ内容は児童、生徒、学生の人格そのものとなるのであって、数値化されたり成績として評価されるようなものとは関係がない。市民たちが自主的に主催する多くの学習会や研究会では試験制度や点数評価といったことは実施されない。成績で数値化することと、市民たちの学習会のシステムとどちらが教育として「正しい」ありかたなのか。

教育とは何かという本質論を踏まえたとき、既存の学校という制度や教育の制度は、データ化を前提とした制度であって、それ自体が個人情報を政治権力が制御するための装置になっているのではないか。近代国家の学校という制度は、果して教育にとっての唯一の制度なのかどうか、という問題まで議論すべきことを、個人情報の問題は提起している。

仕事をする場合はどうか。日雇いの仕事で日払いのばあい、仕事に応募した者が雇用者からいつどこに来るかを指示され、約束された時間と場所に行き、そこで仕事をし、現金で賃金の支払いを受ける、というプリミティブな労働市場のばあい、個人情報の提供は必要最低限になる。雇用主にとって必要なのは<労働力>であり、労働者の個人情報ではない。このことに徹底すれば、匿名の労働者であることに何の問題もない。しかし、資本主義の労働市場はこの匿名性の労働市場を早々と放棄して、データ化へと「進化」した。長らく定着している履歴書を出すという方式そのものは、<労働力>のデータ化の典型だが、これは何を意味しているのだろうか。雇用主は労働者を<労働力>として管理するという場合、労働者を物のように自由に扱うことのできない厄介な存在であること、時には反抗し、嘘をつき、仕事をサボるかもしれない存在だとも疑ってもいる。履歴データは、労働者を<労働力>としてではなく、<労働力>の主体である労働者そのものを恒常的に管理するために、本人の個人情報を媒介にして労働者の人格をコントロールしようとする発想に基いている。<労働力>だけではなく労働者のパーソナリティを総体として管理しようとする意志をもつ資本は、労働者をデータとして管理する労務管理の専門的な技術を一世紀以上にわたって開発してきた。こうした社会の人間に対する認識を背景として、個人情報をより詳細に把握し、これを将来の行動予測に繋げて、コントールしようとする技術がますます発達してきた。COVID-19のなかでテレワークの普及はまさに<労働力>ではなく労働者個人を24時間監視する技術への転換をもたらす可能性をもっている。そしてこうした監視と管理に多くのIT企業が金儲けのチャンスを見出している。

個人情報の収集という問題は、そもそも自分の<労働力>は自分のものであり、どのように働くのかをコントロールされたり管理されることは自分の身体の自由を剥奪することなのだが、資本主義は、労働市場を合法化し、<労働力>が商品として売買されることを当然の前提として成り立っているために、人間が自らの身体に対して自由を獲得することには大きな制約がある。そのなかで、デジタル化によるデータ化は、個人情報の商品化をますます昂進させる傾向に拍車をかけるだろう。

言うまでもなく、国家が国民として管理する場合に必要となる人口管理は、ナショナリズムのようなイデオロギーの再生産を不可欠の課題とするわけだが、人々を「国民」として分類し、更にこの「国民」を思想・信条によって更にカテゴリー化する仕組みの問題を視野し入れずに、個人情報の問題を論じることはできない。

ネットのコミュニケーションにおいても個人情報を取得しないサービスは多くある

ネットにおいても匿名によるサービスは多くある。たとえば、

●DuckDuckGoなどの検索サービスはGoogle検索のように利用者を追跡しない。
●ProtonMailやTutanotaといったメールサービスはGamilのように個人情報を提供せずにメールアカウントを取得でき、しかもメールサーバに保存されるメールは暗号化される。
● 仮想通貨によるカンパや寄付 海外の活動家団体では寄付者の個人情報を取得しない手段として利用されている。
● チャットアプリSignalは、発信者が自分で、自分のメッセージの有効期限を決めることが可能だ。必要以上に自分のデータを相手が保持し続けないような技術はすでに存在する。
● 暗号で用いられるハッシュ関数は、元データをこの関数によってハッシュ値に変換した場合、ハッシュ値から元のデータを復元することはできない。パスワードの管理にこの仕組みが用いられている。

などは、私自身も利用しているものだ。

卓袱台返しが必要なとき

議会野党の腰の引けたデジタル監視社会化法案への対応は論外として、社会運動が見据えるべきは、議会の政局に左右されたり短期的な運動の方針だけでなく、長期的な社会のグランドデザインの描き直しに真正面から取り組むことを期待したい。デジタル庁やデジタル監視社会化法案を議論する際に、法案そのものだけでなく、社会そのものをその土台から再検討するような議論をしなければならないと思う。つまり、統治機構が個人情報を取得することなく、なおかつ、必要な公共サービスを必要は人々に提供できるシステムはどのようにしたら可能なのか、である。政治的経済的な権力の装置は個人情報を保有し蓄積することでその権力を再生産し強大化させる。こうした権力の傾向を押し止めて、 私たち自身が主体的な意思決定の立場をとりうるような社会を創造するとすれば、その前提として、匿名を前提とした公共サービスの可能性を技術的にも思想的にも見出すような議論が今必要だと思う。

法・民主主義を凌駕する監視の権力と闘うための私たちの原則とは

1 はじめに

政府のデジタル政策が急展開している。地方創生・国家戦略特区として立ち上げられたスーパーシテイ構想、国土交通省が主管するスマートシティ、安倍前首相が2020年1月の世界経済フォーラムで日本の国家戦略として強調したSociety5.0など、政府、自治体はこぞってコンピュータと情報通信ネットワーク技術を社会基盤とする政策を打ち出し、民間もまたこうした政府の政策と連動した対応をとってきた。こうしたなかで、民間では、情報通信テクノロジーの活用を組織全体で統合的に運用できるような大幅な構造転換を目指すデジタル・トランスフォーメーション(通称DX)がブームになっている。菅政権の目玉政策のひとつ、デジタル庁構想もこうしたDXの政府版といえるが、国と自治体、さらに官民一体の情報通信インフラ構築を目指そうという大規模な構造転換の野望がある。本稿執筆の段階では、「デジタル改革関連法案」が衆議院を通過し参議院で審議中で、早期の成立が目指されている。1 600ページにもなる大部の法改正の論点は、今後きちんとした検証と批判が必要になるだろうが、問題は法律に収斂させることのできない深刻な問題をはらんでいる。

デジタル関連の構造転換と法整備は、後述するように、行政だけでなく立法府のありかたも含めて統治機構全体に重大な影響をもたらすから、統治機構DXとでも呼ぶべきものだと思う。とくに注目したいのは、デジタル化を推進する政府・与党の考え方のなかには、私たちの日常生活からグローバルな国家・安全保障や経済、文化まであらゆる局面をひとつの情報通信プラットフォームの上に統合して一体のものとして扱おうとするために、個人データ・情報の蓄積と流通については官民の壁を可能な限り取り払い、個人データ・情報の相互運用を柔軟に行なえるようにしたいと考えられている。民間も政府も目標とする政策や投資戦略をより効果的に実現できる社会インフラを構築したいということだ。結果として犠牲になるのは、私たちのプライバシーの権利をはじめとする基本的人権そのものだ。

政府のデジタル政策については、マイナンバー制度や捜査機関の盗聴捜査などについてはこれまでも繰り返し批判が提起されてきたが、総体としてデジタル政策への批判的な観点を提起するということになるとまだ十分ではない。たぶん、国会の野党も市民運動も、デジタル化そのものは世界の趨勢なので、デジタル化そのものを否定する主張はしづらいのかもしれない。こうなるとデジタル関連法案に対しては是是非非あるいは修正案で妥協を図るという与党の思う壺にハマることになる。あるいは、そもそもデジタルをめぐる極めて難解な技術や制度の前にお手上げになって的確な対抗アクションをとれないまま、とりあえず法案反対の運動を立ち上げることになるかもしれない。デジタル政策のねらいは、私たちのライフスタイルをまるごとデジタルの新しい体制のなかに組み込むことにある。そのために政府も企業も私たちのプライべートから仕事の仕方までを変えることを目論んでいる。だから私たちに必要なことは、私たちもまた政府や企業の思惑の罠にはまらないライフスタイルの変革が必要になる。

基本的人権の保障は政府に課された義務だが、この義務が自覚されて政策や技術に反映されたとはいえないのではないかと思う。そこで、以下では、とくに情報通信インフラと密接に関わる思想信条の自由、言論表現の自由、通信の秘密やプライバイーの権利など私たちの基本的な人権の観点から、デジタル庁設置や一連の法改正を含む最近の動向をどう理解したらいいのかを述べてみたい。

2 プライバシーの権利は100年の権利だ

人間の一生を100年とすると、個人情報を100年にわたって厳格に保護できなければならない。しかし、近代の統治機構も民主主義のシステムもこの時間軸を考慮するという点では多くの限界をかかえている。

実は、個人情報のルールが法律で定められているということ自体に脆弱性がある。違法行為のリスクだけではなく、そもそもの法律の寿命と個人情報の寿命が不釣り合いだという点が最大の問題だ。個人情報のなかでも本人を特定する上で重要な名前、生年月日、国籍、住所、性別、更にマイナンバーといった基本的な情報は一生のうちで不変であるか極めてまれにしか変化しない。生体情報であれば変更できないから文字通り一生ものになる。こうした情報を政府や企業が保有するという場合、長寿命の情報に膨大な個人のデータが紐づけされて個人情報全体が構築されてゆく。これがビッグデータの時代の特徴になる。この個人情報の100年の寿命にみあうような保護の仕組みは存在せず、法律や制度は条文そのものであれ解釈であれ頻繁に変更可能だ。5年後、10年後に私たちの個人情報がどのように扱われることになるのかは、全く見通せない。「法律で保護されている」ことは保障にはならない。この国に今よりずっとひどい独裁政権が成立してしまえば、個人情報の扱いは全くいまとは異なるものになる。法に個人情報の保護を委ねることで実現できる文字通りの保護の力は極めて限定的だ、ということだ。

今、世界中で、昨日までそこそこ「平和」をかろうじて維持してた国・地域が、一晩で、独裁やクーデタ、あるいは反政府運動への暴力的な弾圧によって様相が一変するという事態が頻繁に起きている。とくに対テロ戦争以降、この傾向がはっきりしてきたと思う。ビッグデータを掌握する政権や軍部は欧米の監視テクノロジー産業の技術を利用してネットへの支配力を強化している。2こうした現実を踏まえた防衛が必要になる。

このように、自分自身の権利を守るための最も重要で権力に対しても有効な社会的な枠組は、法的な権利であるというのが、法治国家であるとすると、最低でも100年は維持されなければならないプライバシーの権利は、残念ながら法律では守れない。しかし、この事実が深刻な問題として自覚された上で、立法府で法案が審議されることはほとんどないのではないか。個人情報やプライバシー関連の法がたとえ理想的であるとしても、それは対症療法以上のものにはなりようがない。しかも現代のプライバシーは法よりもコンピュータのコードやプログラムなどの設計によって影響されるようになっているために、なおさら法の機能は限定されてしまっている。

逆に、個人情報を取得してこれを自らの利益のために利用したい政府や企業の側からすると、個人情報は100年の賞味期限のある美味しい資源であって、これを法が的確に制御できないという現実は、彼らにとっては極めて有利な環境になっている。デジタルが支配的な社会は、私たちがこの法の限界を自覚して対処しない限り、法の支配が後退する社会になる。

3 「デジタル」をめぐる三つの原則

ここではデジタル化がもたらす法の限界を自覚して対処するための原則を三つに絞って示してみようと思う。原則として考慮すべきことは、コンピュータが介在する情報通信システムが私たちの基本的権利を侵害しないための条件とは何なのか、という点である。人権の基本理念は、コンピュータによる情報通信技術などが存在しなかった時代に作られたのだが、人権の普遍性を承認するのであれば、デジタルの時代に普遍的な権利を維持するだけでなく、更に、かつての時代には不可能であった人権の普遍性の実現を妨げている諸要因を排除して、更に一層確実に人権の確立へと向うことに、今この時代が寄与できるのかどうかが試されている。

3.1 原則その1、技術の公開性―技術情報へのアクセスの権利

コンピュータが存在しなかった頃、行政は個人情報や重要な書類は、定められた部署で、ファイルして鍵のかかる書類棚や金庫に収め、誰が閲覧あるいは複写したのかなどのアクセス記録を紙で管理していた。とくに難しい技術や知識がなくても、書類の管理は誰にでもわかる仕組みだった。同じことがコンピュータが導入されても可能になっていなければならない。しかし、コンピュータのデータを紙の書類と同じように扱うことは実はとても難しい。ネットワーク化とデータベースの共有が進むことで、この仕組み全体が極めて難解かつ不透明になっている。コンピュータによる情報管理がルール通りになっているかどうかを調べるためには、システムの仕組みが公開されており、誰でも検証可能になっていなければならない。専門的な知識が必要であればあるほど、この技術の公開性は必須の条件になる。

統治機構がデジタル化を進めるということは、権力の仕組みがコンピュータの複雑で一般には理解することが非常に難しい技術のブラックボックスに覆われてしまう、ということを意味している。すでに進んでいる行政のデジタル化ではブラックボックス化も進展している。マイナンバーのシステムがどのようになっているのか検証できない。捜査機関が使用している通信傍受装置の仕様も秘密のメールに包まれている。これは、物事の意思決定の前提となるデータを誰がどのように処理・保管・共有しているのかがほとんどわからないにもかかわず、コンピュータで処理されたデータが「エビデンス」とみなされて法、政策、裁判を左右するようになるということでもある。行政の手続きの透明性も大幅に損われることになる。そうならないためには、システムの公開性は必須の条件になる。

だからデジタル関連法案の審議の大前提になるのは、上程された法案の文言の検討だけでは意味をなさない。法案が構想するデジタルシステムの設計図も同時に検討されなければ審議はできない。そして、立法府での議論だけでなく、司法における裁判でも、技術がもたらす権力犯罪を明かにできるような技術の透明性が確実に保証される必要がある。刑事捜査におけるデジタルフォレンジックの技術が高度化する一方で、被告弁護人がデジタル証拠の鑑定を確実に行なうためには、捜査機関の技術それ自体が公開されていなければならないのだが、こうした問題がまだ十分には議論されていないように思う。

もし人間が統治機構の実施の主体であれば、人間が法を理解し判断して執行するから、法が基準になることで十分だ。しかし、コンピュータ化は、データの収集、蓄積、解析からその実行に至る肝心の部分をコンピュータのプログラムに委ね、またAIの導入によって、その意思決定や判断もまた機械に委ねて自動化されるようになる。ところがコンピュータは人権の意識を持つことができない。また、人間が理解するように法律の趣旨や立法事実、法をめぐる文脈、国会などでの審議や世論の動向なども含めて法の解釈を判断することもできない。コンピュータのプログラムは行政の裁量に委ねられ(民間業者が委託して行なうことも含めて)、立法府は介入できないし、技術が非開示であれば裁判所は行政の主張を鵜呑みすることになる。法でどのように規定されているかということとコンピュータのシステムの設計がどうなっているのかとは直接の対応関係にはない。しかし、法治国家であるならば、コンピュータシステムの適法性、合憲性を検証することは立法府や裁判所の義務でなかればならない。現行の法案審議の方法、あるいは伝統的な法制定のプロセスでは、この義務を立法府が果すことは不可能であって、裁判所も的確な判断を下せる立場をとれず、行政府は立法府を出し抜いて事実上の行政独裁ともいえる体制を構築することがとても容易になる。

3.2 原則その2、個人情報を提供しない権利―匿名の権利

私たちが、集会をしたりデモをするとき、とくに名前や住所、連絡先を屆けたりはしない。集会の会場のなかに施設の管理者が立ち入ることもない。匿名で参加することはごく当たり前のことだ。また、選挙で投票する場合も無記名だ。現金で買い物をするときも、素性を明かすことはない。他方で、署名運動に賛同して名前や住所を書くこともあるし、運動団体が発行している出版物を購読するときも個人情報を提供する。いずれも、自分の情報を提供するかどうか、提供するとすればどのような個人情報を提供するのかを自分で確認して選択する余地がある。

同じようにネットの環境でも市民的な自由の権利を確保するために匿名を選択できなければならない。ところがオンライン会議のサービスなどでは、参加者の個人情報や会議内容にサービス提供者が技術的にアクセス可能な場合が一般的だろう。コロナの影響で街頭デモを実施しづらい状況のなかで、ツイッターデモと呼ばれるようなSNSでの集団行動が工夫されてきたが、ツイッターは匿名ではないから街頭のデモのような匿名性は保障されていない。ネット上の行動では、デモとはいえ参加者はアカウントなど実空間のデモでは不要な個人情報を晒さなければデモに参加できない。

戦前であれば憲兵が集会場に入って監視をしたが、たぶん、ネットの技術環境は、限りなく戦前の状況と似た状況に陥る危険性をもっている。サービス業者の善意を信頼することだけが、この危険性を回避する道になっている。しかしこの善意もかなり怪しい場合も多いのだ。ネット上の多くのサービスは、個人情報の取り扱いについてのガイドラインを公表し、第三者への提供をしないことを約束しているが、例外条項を設けて、企業の判断で捜査機関などへの情報提供が可能なように定めているケースがほとんどだ。3本来なら裁判所の令状が必要であるのに、それよりも緩い条件で捜査機関など第三者に個人情報を提供している現状は、法の趣旨を逸脱している。FacebookなどSNSの多くが実名での登録、電話番号の登録など個人を特定できる情報の提供を義務づけるなど、実空間における匿名性の水準が実現できていない。

しかも誰もこうしたリスクを実感できないから、あたかも自由であるかのように錯覚してしまう。また、オンラインの買い物もユーザ登録やクレジットカード情報に依存するので匿名では買い物はできない。このことに皆慣れっこになってしまっており、買い物サイトが個人情報を収集していることを気にしなくなっており、他方で仮想通貨などを用いて匿名性の高い売買をどこかいかがわしいものとみなす風潮もみられるようになっている。しかし、必要なことは実空間でできる匿名での行動をネットの空間でも確保できることなのだ。

3.3 原則その3、例外なき暗号化の権利―通信の秘密の権利

他人に聞かれたくない、知られたくない会話や会議の場合、部屋に鍵をかけることで秘密の確保はかなりのところ可能だということを私たちは経験的に知っている。だから不審者の侵入を防ぐために戸締りをするのは日常生活の基本動作になる。他人に聞かれたくない会話には様々なケースがある。医師や弁護士がクライアントと相談したりジャーナリストが内部告発者と通信する場合など、通信の秘密が死活問題になる場合もある。会社はライバル会社に漏洩しないようにオンラインの会議を運営したいだろうし、労働組合も労働者の権利を確保するために会社側に情報を知られない工夫が必要になる。政治家にとって密談や根回しは日常的に必要なコミュニケーションかもしれない。子どもたちも親や学校に知られたくない友達どうしの大切な秘密があったりもする。

一般に、ネットワークを管理しているサーバーの管理者は、技術的な必要から非常に大きな権限をもつ必要があり、サーバーが管理している個人のデータにアクセス可能だ。4これに対して、こうした秘密のコミュニケーションをオンラインで確保する方法はひとつしかない。それはコミュニケーションを暗号化し、たとえ第三者に盗聴されたとしても内容を理解できないような技術を利用することだ。インターネットの回線上を暗号化する仕組みはかなり普及してきたが、サーバーのデータの暗号化はまだ十分には普及していない。エンド・ツー・エンド暗号化と呼ばれる仕組みは、通信の送信者と受信者だけが通信内容を解読可能なように暗号化し、サーバーであってもデータの内容は暗号化された状態でしかアクセスできないもので、最近になって急速に普及しはじめている。エンド・ツー・エンド暗号化を利用できるサービスであるかどうかは、ユーザーがサービスを選択する上での重要な判断基準になりつつある。Facebook傘下のWhatsAppという世界で10億人が利用している大手のメッセージアプリがあるが、エンド・ツー・エンド暗号化への疑問からエンド・ツー・エンド暗号化を保障しているSignalに大量のユーザーが流れたことが昨年から今年にかけて話題になった。オンライン会議サービスのZOOMもエンド・ツー・エンド暗号化をめぐる会社の説明と技術の実態が異なったことで大きな批判を浴びた。

エンド・ツー・エンド暗号化は、私たちがネットで自由に誰にも監視されないコミュニケーションを可能にする最後の砦だ。このエンド・ツー・エンド暗号化は、ネット上のデータを網羅的に収集してビッグデータとして利用しようという政府や企業の個人情報の資源化の思惑に反する性質ももっている。データが大量に収集されても、それらが暗号化されていて解読できなければ意味をなさないからだ。個人のデータを大量に扱うサーバーやクラウドサービスがビッグデータの収集のための手段になりうることを懸念する人たちは、エンド・ツー・エンドの暗号化を利用するようになっている。そして、個人のデータをビジネスの収益源に利用しないクラウドやメールのサービス事業者はエンド・ツー・エンド暗号化を積極的に採用したり、クラウドを暗号化するなどサービス事業者自身もまたコンテンツの内容を把握できないことを明確にすることによってユーザーのプライバシーを保障する動きがでてきている。こうした動きは、プライバシーと通信の秘密の最後の砦である暗号化の権利にとって重要だ。

捜査機関は、犯罪捜査やテロ対策上、暗号化は好ましくないと主張するようになっている。昨年10月に日米などの政府が国際的な共同声明5で、捜査機関などが例外的に暗号を解読できるような仕組みを義務づけるべきだと主張しはじめている。EUでも同様の傾向がみられ、個人情報保護の優れたガイドラインとされてきたDGPRの改悪につながりかねない動きが具体化している。

以上のように公開・匿名・暗号の三原則は、相互依存的な性格をもっている。自分が利用しているサービスが匿名性やエンド・ツー・エンド暗号化を保障しているかどうかは技術が公開されており第三者が検証できることが前提になる。匿名での通信であっても、通信内容が暗号化されていなければ意味をなさないだろう。だからこれら三つの原則は一体をなすものなのだ。

4 3原則を無視したデジタル社会はどうなるか

残念ながら政府のデジタル政策もデジタル関連法案も公開・匿名・暗号の三原則を満たしていない。だから、政権が構想する高度なコンピュータ技術が日常生活に浸透した社会は、総じて私たちのプライバシーの権利を大幅に後退させる危険性がある。政府の様々なデジタル政策で例示される住民モデルは、もっぱらサービスを生活や仕事の利便性に活用できるケースを強調し、市民的な権利としての、集会・結社の自由や表現の自由の権利保障や選挙など民主主義の制度に関わる問題が論じられることはまれなために、この問題が見過ごされがちだ。以下、いくつかの事例で考えてみたい。

4.1 ビッグデータ選挙―個人情報の奪い合いで勝敗が決まる

選挙制度がビッグデータを駆使するようになって制度の性格が大きく変質してきた。これは選挙予測の世論調査の問題ではなくて、有権者の投票行動そのものを操作する手法がはっきりと変化したという問題だ。

このことを自覚させられたのは、2016年の米国大統領選挙だった。この選挙で勝利したトランプ政権は、FascebookやGoogleなどの協力を得ながら、ビッグデータを駆使した選挙の作戦を展開した。この選挙のコンサルタントを担ったのが、ブレクジットや米国共和党の選挙をサポートしてきた英国のコンサルタント企業、ケンブリッジ・アナリティカ(CA)だった。トランプ陣営はデジタル広告に1億ドルを支出し、そのほとんどがFacebookに投じられたという。6 ユーザーの膨大なデータを保有するプラットフォーム企業がスタッフをトランプ陣営に送りこみ、CAはこうしたデータをターゲティング広告の手法を駆使して選挙に利用した。Facebookのユーザーのばあいに限っても、有権者ひとりあたり収集されたデータポイントは平均で570になる。CAは米国の有権者について2億4000万人のデータ保有していると豪語して宣伝していた。7 CAはデータ分析手法を駆使して、トランプ陣営からの豊富な資金を用いてFacebookやGoogle系列の広告サービス(Youtubeなど)で有権者ひとりづつの特性に合わせた選挙広告を展開した。ターゲットを絞って設定された広告を5000回以上、更にこのそれぞれの広告が形を変えながら1万回以上も繰り返されたという。CAの手法がどの程度成功したのかについては異論もあり、データ分析と選挙運動での利用の手法はまだ開発途上だ。しかし確実に言えることは、様々なデータベースに分散している個人情報を収集・統合して選挙運動に活用できるようなデータに調整すること自体がビジネスとして成立っており、こうした情報の販売を行なう企業がすでに存在しているということだ。国によって個人データの収集ルールは異なるが、民間が商業広告向けに開発した技術が選挙など政治の意思決定システムに転用可能であることによって、選挙の意味もその公正性も根本から変質する可能性がある。8

従来の選挙でも頻繁に選挙用のチラシが各戸配付されたりするが、商業広告におけるターゲティング広告やデータ分析を転用しながら、ビッグデータ選挙では有権者個人の思想信条を把握して投票行動を誘導する高度な技術が独自に進化する傾向にある。ビッグデータが選挙を左右するようになり、選挙に勝つために、政党も候補者もなりふり構わず個人情報収集によって有権者の投票行動を分析して投票行動に影響を与えるようなアプローチをとろうとし、こうしたノウハウや技術をもつコンサルタントやプラットフォーム企業に依存するようになるだろう。その結果、個人情報は政党にとっても立候補者にとっても勝利のための必須の資源となる。言い換えれば、プライバシーや人権に配慮して、有権者の投票行動の匿名性を尊重する候補は、不利になるということを意味している。

選挙がビッグデータと連動して人びとの思想信条などの個人情報の収集と解析、そして行動変容を促すようなある種の心理操作の舞台になる。問題はここにとどまらない。具体的な固有名詞をもった個人別に政治的傾向を分類したデータベースを選挙運動を通じて収集した政党が政権についたとき、こうした個人別の思想信条のデータベースもまたこうした政党によって保持することになる。政権与党は、政府機関としてではなく、政党としてこうした政治的な傾向に関する膨大な個人情報を収集する組織へと変質することも可能になる。選挙運動は同時に、有権者の思想調査の格好の機会を提供することにもなる。将来、この国が最悪の独裁国家になったとき、こうしたデータは権力者にとって有権者監視の格好の手段になるだろう。こうした問題を解決するには、選挙におけるビッグデータの収集を阻止する何らかの手だてを講じる必要があるが、同時に、ビッグデータ選挙を展開するような政党や候補者には投票せず、苦戦しても個人情報の収集や解析を選挙手法としては採用しない候補者を支持することだろう。

4.2 プライバシー空間が消滅する―IoTとテレワークが生み出すアブノーマルなニューノーマル

実空間では、プライバシーを守るための私生活の場所が経験的にも実在してきたが、この空間は次第に消滅しつつある。プライバシーの空間を構成する多くの機器がネットワークによって外部と繋るようになっている。いわゆるIoT(モノのインターネット)と呼ばれる仕組みだ。

お掃除ロボットのルンバは部屋を掃除しながら空間の位置マッピング(部屋の間取りや床材、汚れ具合などのデータ)を取得し、これをメーカーに送信する。9電力消費を監視するスマートメーターは、東京電力の場合、30分ごとに電力消費データを電力会社に送信する。10 Amazonの音声認識ロボットのAlexaとの会話は、Amazonのサーバーに送られ少なくとも3ヶ月はアマゾンの担当者も聞くことができる状態で保存され、会話は機械学習だけでなく「人により確認する教師あり機械学習」と呼ばれる人間が実際に会話を聞くこともある。11 エアコンやドアホン、子どもや高齢者向けの見守りロボットなど、IoTの種類は急速に増えている。

他方で、テレワークの普及によって、自宅で作業する人びとをリモートで監視するシステムも急速に普及してきた。テレワーク監視ツールも多種多様だが、たとえばMeeCap12はパソコンンのマウスやキーボード操作を逐一全て記録できるが、こうしたサービスが今では当たり前になりつつある。GIGAスクール構想は自宅が学校の秩序に組み込まれるきっかけになりかねない。こうしたサービスによって、プライベートな空間はオフィスとなる。自宅はプライベートな場所ではなくなるつつある。

伝統的なプライバシーの権利についての議論の前提にあった私的な場所、他人にみだりに覗かれずにひとりにしておいてもらえるような空間がそもそも解体しつつあるのだ。自宅も路上も職場や学校もおしなべて同程度にプライバシーの権利が保障されない場所になっていく、これが政府が民間とともに構想しているニューノーマルなライフスタイルということになるだろう。

こうした傾向は次世代通信網の5Gの整備が進むと一気に加速する可能性が高い。5Gは通信速度、回線いずれも飛躍的に大きくなり、私生活のあらゆる機器をネットに接続させてビッグデータとして処理するための情報資源抽出力が格段に大きくなるからだ。他方で、様々な家電メーカーの機器が併存する家庭の家電構成を前提にして、メーカーの壁を越えて家電を統合的にコントロールできるようなネットワークの標準化が不可欠になる。経産省などがいわゆるスマートホームの構想として、企業を越えた技術仕様の標準化に取り組んでいる。13 他方で、情報銀行のような個人情報の官民共有と情報市場を構築して情報を商品として売買する枠組の構築も進められている。14

プライベートな空間のなかで保護されていたはずのプライバシーがIoT機器を通じて私たちの実感を越えて企業や政府が情報を共有できるようになると、もはや、プライベートな場所はプライベートではありえないものに変貌してしまう。こうした事態がいったいどのようなことを意味しているのか、私たちのプライベートな空間での言動がどのように漏出しているのかを知るためには、こうしたシステムがどのような仕組みになっているのかを私たち自身が確認できなければならない。これが上述の原則の第一になる。

プライベートな人間関係が自由なコミュニケーションを確保できるためには、自分の行動や言動を逐一把握されないように行動できる自由が必要だ。ところがIoTや5Gの普及によってビッグデータが日常の行動を把握できるほどの能力をもつようなところでは、この自由が事実上抑圧されてしまう。

民間企業による個人情報の商品化は極めて深刻な問題だ。個人情報を情報市場で取り引きすることになると、個人情報は個人に帰属する権利ではなく、企業の私有財産とみされるようになってしまう。官民がデータ共有の共通のプラットフォームを構築する上での法的な制約を解除しようとするデジタル関連法案は、私たちの個人情報の権利を奪い、これを民間企業や政府の「所有」へと移転するものだという点も見落せない。技術開発の現場は、こうした法整備に先行して情報通信テクノロジーが、スマートホームやIoT機器の普及を通じて個人情報の囲い込みを可能とするような環境を既成事実化し、法がこの既成事実にお墨付きを与えるということになっていると思う。

4.3 現状の環境では、政府と資本によるデジタル化は権利侵害にしかならない

統治機構に導入される技術がどのようなものであれ、憲法によって保障されている自由の権利を保障するものでなければならない。この保障の核心をなすのは、政府に対して異議申し立てを行うことが単に法的に可能であるだけでなく技術的に可能なように制度設計ができているかどうかである。多様な思想信条から構成される社会のコミュニケーションが、政治的な意思決定の手続きを通じて、権力の交代を可能にするような基盤が構築されていることが民主主義の前提である。従来、この仕組みは三権分立と選挙制度などで担保されてきたが、この仕組みは、ブラックボックスに覆われたコンピュータ技術が支配的になっている現代では、その有効性が大幅に後退している。

ビッグデータによって人びとの私生活や仕事が左右されるような社会は、どのようなデータが収集され、誰が何の目的でこれらを利用できるのかという問題が市民の自由の権利を侵害しかねない環境を作り出す。そうならないためには、データを収集したり利用する技術の透明性の確保は最低限の条件になる。透明であればいいということではなく、透明性は、人びとが膨大な個人情報の収集という現実の前におじけずいて抵抗を断念したり、無関心を生み出してしまうかもしれない。そうならないだけの私たちの抵抗の権利を確保しなければならない。

私は、現在の統治機構とIT業界の企業システムを前提にする限り、いかなるITのこれ以上の推進にも反対だ。インターネットもコンピュータも普及していない半世紀以上前の時代に回帰するべきだとも考えていない。テクノロジーの開発と社会インフラのありかたについての基本的な原則が、現在の社会システムでは私の考えと根本的に相容れないのだ。

コンピュータ・テクノロジーに関わる問題は多岐にわたるが、中心をなす問題は、コンピュータ・テクノロジーの開発、導入、普及に際して、社会の側が踏まえるべき原則はとても簡単なことだ。つまり、基本的人権をテクノロジーの原則が逸脱しないことを保障することであり、テクノロジーが社会的な平等に基く自由の権利を確たるものにできる方向で実用化すること、である。とくにコンピュータ・テクノロジーは人びとのコミュニケーション領域に深く浸透して、コミュニケーションそのものに影響を及ぼすから、この基本的な権利への明確な自覚と理解のない開発、導入、普及は一切認めるべきではない。コミュニケーションの権利は、政治の世界にありがちな妥協の問題ではない。

4.4 現行の民主主義の限界という問題

今回の「デジタル改革関連法案」で私が最も危惧することのひとつは、私たちの個人情報の扱いがどうなるか、私たちの権利がより強固に保障される方向でデジタル技術が導入されるのかどうか、である。残念ながら、こうした方向での改革はほぼ考えられていない。15

他方で、今ある法律が優れたものだと仮定して、果して100年の期間維持されることを想定して制定されているだろうか。民主主義の制度では法は適正な手続きを経て変更あるいは廃止することが可能だからこそ民主主義としての意味がある。つまり100年不変であることは法の民主主義的な性格とは相反するのだ。同様に、議会も政府も選挙によって定期的に権力の人的構成が変化する。もし将来のこの国の政権や法制度が100年にわたって、人権をより尊重する方向で進歩するということが理論的にも現実の制度の機能からみても、確実ならば、人の100年に及ぶ個人情報を政府に委ねることに問題はない。企業についても同様だ。しかし、そのようなことを想定すること自体が民主主義の本質とも制度的な前提とも矛盾する。つまり、現在の民主主義の制度では100年にわたる個人情報を確実に私たちの権利として確保できる制度的な設計がないのだ。なぜないのかといえば、民主主義の制度が構想されたときに、現代のような個人情報をめぐる権利の問題が主要な関心にはなかったからだ。では、独裁であればこうした問題に対処できるのか。そうとはいえないだろう。

この問題は、よく言われるように、自己情報コントロールの権利では保護できない問題でもある。自己情報コントロールは、自分の個人情報を相手(政府や企業)に引き渡した後に、政府・企業が保有する私に関する情報のアクセスやその使い方、あるいは削除をふくむ処理の権利を確保しようとするものだが、これもまた法制度である限りにおいて100年維持できる保障はない。勿論ないよりあった方がずっとマシだが、あくまで対症療法にすぎず、法の制定と解釈をめぐる力関係のなかで、常に脆弱になるか無意味化される。

この民主主義と個人情報の権利保護のあいだにある構造的な齟齬の問題はとても深刻だ。コンピュータによるデータ処理の高度化によって、いわゆるビッグデータと呼ばれるような膨大なデータの収集が可能になっている現在、上に述べた人の一生についてまわる個人情報はますます脆弱になるばかりであり、その保護の手だては一向に進んでいかないからだ。個人情報を守れ、という数少ない人たちの声が、唯一の歯止めになっているに過ぎない。

5 三つの原則を維持するための方法はまだある

もし私たちが、プライバシーの権利を防衛する手だてを法にすべて委ねてしまえば、デジタル化のなかで進行する個人情報の政府、企業による囲い込みには対抗できないだろう。デジタル関連法案への反対は、こうした事態に対処する上での必要条件であっても十分条件ではない。

ビッグデータの収集が私生活にまで浸透する事態のなかで、私たちのデータを収集する入口になっているのがネットに繋っているスマホやパソコン、あるいはIoT機器だ。こうした機器を便利な生活必需品とみなすのではなく、私たちのプライバシーを防衛するための闘う道具だとみなして、その使い方やつきあい方を変える必要があるし、変えることによって可能になることも沢山ある。

私たちひとりひとりが、そしてまた様々な社会運動が、公開・匿名・暗号という三原則を手元にあるIT機器を使う場合の目安にすることができるかどうかが、ひとつの課題になる。自分が使っている機器やソフトの技術がきちんと公開されているかどうか(一般に公開されているソストをオープンソースソフトと呼ぶ)、匿名性や暗号化などをはじめとして個人情報の扱いをプライバシーポリシーなどで確認し、機器の設定を変更することだけでも、かなりの防衛手段になる。ソフトやネットサービスのビジネスモデル(どのようにして企業は収益をあげているのか)を調べることも大切だ。便利かどうかはIT関連の機器を用いる場合の基準の優先順位では三原則よりも低く抑えて判断することが必要だ。

こうした些細だが実はとても面倒なことをひとりひとりが、自分の参加しているネットワークも含めて取り組むことによって、ネットを活用する文化そのものを変える力になる。利便性のために個人情報を知らず知らず提供していたり、友人知人がSNSをやっているから自分もやらざるをえないというように、人間関係を人質l16にとられてSNSのアカウントを取得して個人情報を提供するなど、わたしたちが日常行なっているネットのライフスタイルそのものが実はデジタル庁構想を支える大衆的なネット文化を形成している。個人情報を商品化してビジネスに利用する傾向は欧米の資本主義がIT産業中心に展開している現状では必然的な傾向だろう。他方で、政府が人びとの動静を監視するために膨大な個人情報を収集して統制しようとする傾向が権威主義的な国々に共通した傾向だ。どこの国もこの二つの傾向の様々な組み合わせのなかでデジタル政策を展開しており、公開・匿名・暗号の三原則とプライバシーの権利を最優先にできる社会システムはまだどこにも存在しない。だからこそ、私たちはまだない新しい社会のシステムを目指したいと思う。

Footnotes:

1

デジタル社会形成基本法案、デジタル庁設置法案、デジタル社会の形成を図るための関係法律の整備に関する法律案の内容については内閣官房の「第204回通常国会」の国会提出法案を参照。https://www.cas.go.jp/jp/houan/204.html

6

ブリタニー・カイザー『告発 フェイスブックを揺るがした巨大スキャンダル』、染田屋 茂,道本美穂,小谷力,小金輝彦 訳、ハーパーコリンズ・ジャパン、250ページ。

7

カイザー、前掲書、192ページ。

8

Tate Ryan-Mosley「「データ戦」の様相を呈する米大統領選、売買される情報とは?」 MIT Technology Review、Vol.31、2020年。社角川アスキー総合研究所。

13

「スマートホーム検討資料 平成29年5⽉ 商務情報政策局 情報通信機器課」https://www.meti.go.jp/press/2017/05/20170523004/20170523004-1.pdf

14

「個人情報を含んだ多種多様かつ大量のデータを効率的かつ効果的に収集、共有、分析、活用することがIoT機器の普及やAIの進化によって可能になってきており、諸外国ではこのようなデータを活用したビジネスなどが展開され、より高度化されつつあります。」(情報銀行とその役割について(概要編) http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-info_bank01.html

15

デジタル・ガバメント閣僚会議 https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/egov/ デジタル改革関連法案ワーキンググループ https://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/dgov/houan_wg/dai1/gijisidai.html 参照

16

あなたのプライバシーに関する決定をFacebookに任せない553,000,000の理由

付記:『世界』2021年4月号「デジタル庁構想批判の原則を立てる」を加筆しました。

コロナとナショナリズム

コロナとナショナリズム

1 ワクチンをめぐるあまり論じられないやっかいなナショナリズム問題

やっとワクチン接種が日本国内でも開始され、このニュースで持ち切りだ。先進国なのに、接種が遅くなったことに不満をもらす大国主義丸出しの報道や論評が多いように感じる。

ワクチンが一部の富裕国によって事実上買い占められ、貧しい国、地域に行き渡らないという問題については、「ワクチン」ナショナリズムと呼ばれて話題になってきた。すでに様々な議論もネットに登場しているので、本稿ではこの問題にはあえて言及しない。1 ワクチン開発のもううひとつの問題として、製薬大手多国籍企業が開発競争をすすめるなかで、技術の公開性よりも特許や知的財産を念頭に置いた秘匿性が優位にたち、共同開発も進まず、貧しい地域、国が技術のノウハウを独自に活かす可能性を奪われているという問題がある。市場経済の競争原理が不平等と不効率をもたらす典型的な事例だ。この問題も本稿では取り上げない。この二つの問題はグローバルな社会的平等と、そのために必要な医薬情報と医薬品への自由なアクセスの問題として重要であり、私たちが目指すべき社会は、社会的平等に基く自由な社会であるべきだが、資本主義はこの条件を満たしていないことをCOVID-19パンデミックは端的に示した。だから、本稿で取り上げないからといって本稿の課題よりも軽い課題だということではない。この点に留意しながら本稿のテーマに取り組みたい。

日本へのワクチン供給は、いわゆる先進国全体のなかでも遅れぎみだということが様々に批判されている。国内での新薬の承認が遅れる現象を「ドラッグラグ」と呼ばれ、日本国内では以前から議論になってきた問題だ。遅れている理由はひとつではないと思うし、遅いことが悪いことかどうか、世界の平等なワクチンの配分システムがないなかで、我先にと買い占める行動をとらないことを意図しての遅れであれば、それもまた見識ではある。しかし、日本政府はそうした人道的な見地からワクチンの導入を控えているわけではもちろんない。ドラッグラグを引き起しているのは、国外で開発された新薬が日本国内で承認される手続きに、日本固有のナショナリズムの問題があるからだ。

たとえば昨年末にアストラゼネカが国内治験データの提出準備をしていると次のようにNHKは報じた。

2020/12/18 アストラゼネカは、国内で日本人に実施している治験のデータを2021年3月中に提出する方針で、厚生労働省は海外のデータと合わせて有効性や安全性を速やかに審査することにしています。

加藤官房長官は午後の記者会見で「今回の申請には海外試験の成績などは添付されているが、国内治験のデータなどは現在、整理中で、2021年3月中に追加的に提出される予定だと聞いている。今後、提出されたデータや最新の科学的知見に基づいて、有効性・安全性などをしっかり確認し、判断されていくものと承知している」と述べました。2

このように、「海外試験の成績などは添付されているが、国内治験のデータなどは現在、整理中」と述べられており、厚労省(以下、厚生省時代も含めて、厚労省と表記する。厚労省は2001年以降)が国内治験、あるいは「日本人に実施している治験のデータ」にこだわっていることがわかる。

NHKの別の報道をみると「政府によりますと、ファイザーは20歳以上の日本人160人を対象に行ってきた治験のデータについて…」とか「日本での治験の対象が20歳以上で、日本人の子どものデータが得られない…」といった表現が随所にでてくる。要するに治験対象者が「日本人」ではないことが、ワクチンの承認にとってよっぽど重要な問題らしい、ということがわかる。しかし、報道をみても、「日本人」であることがなぜ重要な問題なのかについて正面から説明されることはない。当然のように外国人のデータをそのまま日本人に当て嵌めることはできないかのようなニュアンスで報道されているのだ。

一連の報道で、海外で開発された医薬品を日本国内で使用する場合には、海外での臨床試験などのデータでは不十分で、国内のデータが必須だということを当然のようにして報じているのだ。とすれば、こだわる根拠は何なのだろうか。

東京新聞は、2月13日に次のようなワクチンの認可が遅い問題についての記事を掲載した。

米ファイザーは昨年12月18日、厚労省にワクチンの承認申請をした。通例、審査には1年ほどかかるが、今回は優先審査が行われたほか「特例承認」が認められ、2カ月という「スピード承認」の運びとなった。 それでも、欧米より動きは遅い。(略)

「遅い」理由を、厚労省幹部は「日本人のデータに基づく検証が必要だから」と説明する。海外とは感染状況やウイルス株、食生活などが異なる。昨年9月、ワクチンの承認審査をする独立行政法人・医薬品医療機器総合機構(PMDA)は原則、国内治験が必要とする指針を公表。ファイザーは国内で160人を対象に追加の治験を行い、1月末にデータを提出した。」l3

厚労省が「日本人」にこだわっていることが上の報道でわかる。「海外とは感染状況やウイルス株、食生活などが異なる」ということを「日本国内」の事情だと言うのであればわかるが、なぜ「日本人」なのだろうか。メディアもまたなぜ海外の治験のデータでは十分ではないのか、言い換えれば、なぜ、日本の地域性ではなく、「日本人」に関して固有のデータを収集しなければならないのか、どのような特段の事情があるのか。

本稿で考えてみたいのは、この問題だ。つまり、「日本人」というナショナリズムの観点とコロナパンデミックへの政府、業界、研究者の問題を考えてみたいのだ。

上の東京新聞の記事のなかに、医薬品医療機器総合機(PMDA)が国内治験の必要についての指針を公表したとある。この指針とは「新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)ワクチンの評価に関する考え方 令和 2 年 9 月 2 日 医薬品医療機器総合機構 ワクチン等審査部」4 だろうと思われる。この「考え方」のなかで、国内治験の必要に関連して「日本人」や「民族」に言及した箇所が以下のようにいくつかある。

海外で開発が先行し、海外で有効性及び安全性を評価する大規模な臨床試験が実施されている場合であっても、国内開発型のワクチン候補と評価の考え方は同様であるが、日本人における有効性及び安全性の確認のため、原則として、国内において臨床試験を実施する必要がある。

(略)

海外で発症予防効果を主要評価項目とした大規模な検証的臨床試験が実施される場合には、国内で日本人における発症予防効果を評価することを目的とした検証的臨床試験を実施することなく、日本人における免疫原性及び安全性を確認することを目的とした国内臨床試験を実施することで十分な場合がある。また、発症予防効果を目的としたグローバル開発(multiregional clinical trial)が計画されている場合には、日本から参画することによっても有効性を評価できる可能性がある。

(略)

SARS-CoV-2 ワクチンのベネフィット・リスクの判断については、各国・地域の状況によって異なる可能性がある。その他、民族的要因の差が SARS-CoV-2 ワクチンの有効性及び安全性に影響することも考えられる。

なぜあえて日本人というカテゴリーで「有効性及び安全性の確認」が必要なのだろうか。引用の二段目のように、海外の臨床試験結果を大幅に受け入れるということも「場合がある」という嫌々ながらの受け入れ表現になっていて、そのあとを読むと、無碍に外国の臨床試験を拒否すると日本の製薬資本が海外展開する場合に不利益になるかもしれないという配慮がうかがえる文言になっている。三番目は、「民族的要因の差」という言葉が登場しており、民族間でワクチンの影響に差がある「ことも考えられる」という全く曖昧な理由で「民族」が登場している。

こうした厚労省の「日本人」や「民族」という概念の使用に私は強い違和感と危惧を感じるが、医薬品の世界で、「日本人」や「民族」は頻繁に登場する常套句になっている。

医薬品のグローバル化のなかで、欧米の多国籍医薬品産業は、世界中に薬を売りまくってきた。日本の医薬品貿易も圧倒的に輸入が多く、輸出は横這いがここ20年一貫している。5 日本企業の海外売上高も年々拡大しており、国内売上高は頭打ちだ。つまり、日本の製薬大手は世界市場を獲得しなければ生き延びられず、国内市場をこれ以上外国資本に支配されないような戦略をとらなければならないところにきている。6 ここで、国内市場防衛のために、厚労省が(多分)かなり前から一貫してとってきた作戦が、海外で開発された医薬品は日本国内でそのまま使用することはできないことを「日本人」の「民族的要因」の強調で正当化しようということだったのではないだろうか。

ここでの「民族的要因」は、環境と遺伝子など内生的要因の両方を意味している。そして、この「民族的要因」の強調は、医薬品関連の学会や研究者が研究の前提として受け入れなければ研究もままならないような枠組になっていると感じる。医薬品関連のアカデミズムが研究で用いる「日本人」のカテゴリーは、私からみるととうてい科学的な証拠に基いているとは言い難い。逆にアカデミズムの研究が、虚構としての「日本人」を実体化することに寄与しているとも思う。以下で述べるように、科学がナショナリズムを無意識に受容し、科学的な研究がナショナリズムを強化するというナショナリズムの悪循環の典型である。そして、こうした事態が遺伝子関連の研究ともあいまって、ますます日本人を固有の民族とみなす「科学的な知見」らしきものがまかり通るようになっている。コロナとナショナリズムの問題は、医薬品をめぐる科学的な研究の根本に関わるところにまで浸透している問題としてみておく必要がある。

私のこれまでの理解では「日本人」というカテゴリーが医学的に意味があるものとして扱われてきたということ自体がこれほどまで浸透しているとは自覚してこなかったので、今回のコロナのワクチンの承認問題の報道に接して、厚労省とともに医学薬学において「日本人」という概念が実体概念として生き残っている状況は非常に深刻だと感じている。元凶は厚生労働省の一連のガイドラインにあり、これに製薬会社や研究者の利害が絡んでおり、政策やイデオロギーによって科学が影響を受けるという事態は、戦前戦中から現代まで一貫している。

2 「外国臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因について」

海外で開発されて医薬品の日本での承認をめぐる規制のありかたの問題は長い歴史がある。外国での医薬品の臨床データの扱いについて、厚労省によるいくつかの文書がある。よく引き合いにだされるのが1985年6月29日「外国で実施された医薬品等の臨床試験データの取扱いについて」(薬発第660号厚生省薬務局長通知)7である。後述するようにICH-E5の成立によって、この通知は現在では撤回されている。

この通知では次のように述べられている。

外国で実施された臨床試験データ(ただし、体外診断用医薬品にあっては、「臨床性能試験データ」をいう。)は、第三の各項に適合する場合は審査資料として受入れることとする。ただし、体外診断用医薬品以外の医薬品にあっては、必要に応じ、国内で実施された試験データの提出を求める。なお、吸収・分布・代謝・排泄に関する試験、投与量設定に関する試験及び比較臨床試験については、原則として国内で実施された臨床試験データが必要である。

基本的には外国の臨床データを受け入れることが原則となっているにもかかわらず、「吸収・分布・代謝・排泄に関する試験、投与量設定に関する試験及び比較臨床試験」は国内試験が必須とされ、それ以外でも「必要に応じ、国内で実施された試験データの提出を求める」というように厚労省の裁量が広い。

1992年以降、日米EU医薬品規制調和国際会議(ICH)8では「医薬品の作用に与える民族的要因の影響を科学的に評価し、外国臨床試験データの利用を促進するための方策が検討」され、1998年にICHのガイドラインとして「外国臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因についての指針」が出され、厚労省から各都道府県に通知が発出される。9 この指針がICH-E5と呼ばれるものだ。

従来まで、かなり厳格に国内臨床データの提出を求めてきたのだが、この条件を緩めてICH-E5では、「一定の条件に適合する外国臨床データについては医薬品の製造(輸入)承認申請書に添付される資料として受け入れる」と方針を転換した。ただし、「当該資料を申請医薬品の日本人における有効性及び安全性の評価を行うための資料として用いることが可能か否かを判断することが必要」だという条件がつけられた。そして「日本人」への影響を判断するために「国内で実施された臨床試験成績に関する資料を併せて提出すべき」とした。

要するに、従来よりは緩い基準で海外の医薬品の国内での認可を認めるが、それでも「日本人」に適合するかどうか、追加の国内臨床データを求めるというわけだ。この仕組みが、昨年厚労省が出した「考え方」のなかの「日本人」や「民族」の規定の前提にされているために、国内での治験のデータを一定数集めなければ承認できないとして、早期承認を妨げる要因になったのではないかと思う。

3 日本の医薬品承認プロセスは国際的なルールに基くもののように見えるが…

上述したように、この海外の医薬品の国内承認手続きは、ICH-E5に基いている。つまり、厚労省の文書では、民族的要因についての指針は、「日本EU医薬品規制調和国際会議(ICH)における合意に基づき作成されたもので、外国臨床データを利用して医薬品の製造(輸入)承認申請を行おうとする際に、医薬品の有効性及び安全性に与える民族的要因の影響を科学的に適正に評価するための基本的な考え方並びに当該外国臨床データの日本人への外挿可能性を評価するために国内で実施すべき臨床試験の内容を記述するものである」として、国際的なルールであるかの装いをとっている。

この指針でいう民族的要因(英文ではETHNIC FACTORS)の定義は「集団の遺伝的・生理学的(内因性)特徴と文化的・環境的(外因性)特徴の双方に関連した要因と定義する」である。そして更に詳しく次のように説明されている。

民族的要因(Ethnic Factors)
民族性(ethnicity)という語は、国家又は人々を意味する
エスノス(ethnos) というギリシア語に由来している。民族的要因は、共通の特性や習慣に基づきグループ分けされる人種又は大きな住民集団に関係する要因である。民族性は、遺伝的のみならず文化的な意味合いも有するので、この定義は人種的(racial)のそれよりも広い意味となっていることに留意されたい。民族的要因は内因性又は外因性のどちらかに分類されよう(補遺A) 。
・外因性民族的要因(Extrinsic Ethnic Factors)
外因性民族的要因とは、個人が住んでいる環境や文化に関連した要因である。外因性要因は遺伝よりも文化及び行動様式によってより強く決定される傾向がある。外因性要因には、地域の社会的及び文化的な側面に関係するものが含まれる。例えば医療習慣、食事、喫煙、飲酒、環境汚染や日光への暴露、社会経済的地位、処方された薬の服用遵守、並びに異なる地域の臨床試験の信頼性にとって特に重要なものとして、臨床試験の計画及び実施方法が挙げられる。
・内因性民族的要因(Intrinsic Ethnic Factors)
内因性民族的要因は、住民集団のサブグループを定義、同定する際に有用で、地域間の臨床データの外挿可能性に影響を与え得る要因である。内因性要因の例としては、遺伝多型、年齢、性、身長、体重、除脂肪体重、身体の構成及び臓器機能不全が含まれる。

上記で説明されている様々な外因性と内因性のなかで、あえて「民族」ぶ必然性のある要因は実はひとつもない。外因性の要因でいう環境と文化も内因性要因の身体的特徴も「民族」というカテゴリーで置き換えうるかどうかは民族の定義次第だが、その定義は抽象的であいまいなものだ。むしろ「日本人」というカテゴリーを実体化することが最初から目的とさていて、そのために、外国の政府や研究者との合意を得られるように「民族」というカテゴリーの定義が設定され、これをまず前提して、このカテゴリーに何らかの客観的な要因のようにみなしうるものを配置したに過ぎないのではないか。人種については、「内因性民族的要因」のなかの「遺伝的要因」として位置づけられている。つまり、遺伝学上の自他を区別する人間集団として人種の概念を認め、この人種の概念をその要因の一部として民族的要因が規定される、という構図になっている。後述するように民族の概念定義とともに、人種と遺伝的要因との因果関係は実は恣意的なものにしかなりえない。

厚労省のICH-E5の指針では、民族的要因の指針を設定した背景が次のように説明されている。

「民族的要因が新地域における医薬品の安全性、有効性及び用法・用量に影響を与え得るとの懸念から、これまで外国臨床データに頼ることが躊躇されてきた。このため、過去において、このことが新地域の規制当局が承認のために外国臨床データの全部又は多くを国内で重複して収集することをしばしば求めてきた理由の一つとなっていた。確かに、住民集団間の民族的な差が医薬品の安全性、有効性及び用法・用量に影響を与える場合があるものの、多くの医薬品は、どの地域でも類似した特性や効果を示している。全ての医薬品について臨床評価を広範囲に重複して行わせることは、新しい治療法の導入を遅らせ、また、医薬品開発における資源の浪費となる。」

厚労省のみならず国際機関が露骨に人種と民族の概念を持ち出していること、遺伝的な要因に「人種」概念が堂々と示されていることに驚かざるをえない。10 というのも遺伝学的にみて人種概念は否定されていると思っていたからだ。11

ここで、いくつかの疑問が生じる。なぜ欧米と日本によって構成されている国際機関ICHはこうした民族的要因にこだわるガイドラインを設置ているのか、である。

4 ICH-E5と世界市場争奪戦

外国での臨床試験データを事実上受け入れない1985年の方針から98年のICH-E5に至る経緯には興味深いものがある。厚労省の役人としてICHに実際に関与してきた土井脩は、次のように回顧している。

外国臨床試験データの新薬承認申請資料としての受け入れについては、1985年6月の薬務局長通知により、原則受け入れの方向を示していた.しかし、国内産業を保護するため、実態としてはほとんどの臨床試験を国内でやり直す必要があり、外国に門戸を閉ざしていたのが実態であった。

その後、1990 年に日・米・EC(現在の EU)間で ICH立ち上げのための話し合いが始まった。この時に、厚生省が 3 極間で話し合うべき重要課題の一つとして、GCP とともに外国臨床試験データ受け入れのための条件、すなわち、人種差や民族差をデータの評価にあたってどのように考慮すべきかを国際的にハーモナイズすることを提案した。

厚生省の提案に対しては、多人種、多民族国家である中で医薬品の承認審査を行っている米国や、多民族の集合体である域内での統一的な医薬品の承認審査制度の導入を目指していた EC からは、すぐには賛同が得られなかった。そこで、厚生省は日本が中心となってそのための研究班を組み、ICHでの検討を支援することを提案して、ようやくICHでの検討課題として採用された。

通常 ICH-E5 ガイドラインと呼ばれている「外国臨床試験データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因についての指針」は、1998 年 2 月にようやく合意に達した。厚生省は 3極間の合意を受けて、同年8月には同指針に対するQ&A を付加して、局長通知の形で実施に移した。12

ICHは、グローバル化のなかで、欧米日の各国が医薬品の世界市場争奪戦のルールをいかに自国資本に有利なように展開するかという帝国主義的な世界市場分割の政治力学のなかで機能している機関だ。内田英二はICH設立当時の欧米日のスタンスについて次のように述べている。

ICH が組織された背景として当時の状況は下記のようなものでした。
・1980 年代、日米欧は臨床試験が実施された場所よりも、臨床試験の質(Quality)が外国臨床データの受け入れの決定要因であるとしながらも、新地域の住民集団と医療習慣に則したデータである場合のみ受け入れ可能と主張していた。
・米国が EU データを受け入れなかった理由:臨床試験方法、記録の正確性とアクセス方法、プロトコル遵守、患者の同意、薬剤の収支量等が米国基準を満たしていないと判断。
・日本では外国臨床試験データを日本人に外挿するのは不可能との判断:第Ⅰ相のADME、第Ⅱ相の用量設定試験、第Ⅲ相の比較試験は日本で実施[薬発第 660 号(1985 年)]。13

内田の整理が正しいとすると、各国政府とも、自国領土内への外国資本の参入を阻止を自由競争の建前を掲げつつ画策しようとしており、その有効な手法として住民集団や医療習慣など、領土内に固有の条件を提示して、この条件をふまえた臨床試験の重要性を主張しようとしたり、米国のように、自国のルールを盾にとって外国の臨床試験の妥当性を問題にする手法をとるなど、いずれにしても自国産業保護にこだわった。日本は上の整理でいうと、「日本人に外挿するのは不可能」という主張で産業の防衛を目論んだといえよう。とはいえ、「不可能」」という主張は極めて奇異だ。同じ人間であるにも関わらず「不可能」とまでいえるのだろうか。

そもそもICHという組織が学術機関ではなく「ヒトに使用される医薬品の承認に関する規制のハーモナイゼーションですので、行政サイドのもの」(内田英二14)だから、学術的な厳密さよりも、政策的判断が優先されるということだろうが、そうだとしても政策の科学的客観性を確保したいと各国政府は考えるだろう。このとき日本が持ち出した「民族要因」に果して科学的な客観性はありうるのか。

また、津谷喜一郎/中島和彦はICH-E5について次のように日本と諸外国の温度差について指摘している。

1998 年 2 月にICH-E5: Ethnic Factors in the Acceptability of Foreign Clinical Dataが、約 6 年の歳月をついやしてようやく step 4 に達した。この間、ガイドラインは draft 1 から draft 20 まで改訂されたものである。この ICH-E5 ガイドラインに基づき、日本の厚生省から「海外臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因についての指針」の通知が公布された。その後、日本では ethnic diference が多くの人によって議論され、bridging studyが開発戦略に組み入れられ、実施されるようになった。本通知に基づき承認された医薬品は 1999 年から 2005 年までで 41 品目と報告されている。一方、欧米での臨床評価やグローバル開発では ethnic diference はあまり考慮されていない。15

以上の経緯をふまえると、日本政府は、「人種差」や「民族差」を医薬品貿易のいわば非関税障壁として利用する一方で、「民族」ごとの臨床試験などが不可能な欧米は、むしろ「民族差」を排除した統一的な基準を要求することで多国籍資本にとって最も効率的な市場支配を維持するスタンスをとったわけだが、いずれの側にとっても、第一の動機は資本の利益と国益が優先されたものであり、ICH-E5はその政治的妥協の産物であるとともに、ここに学術研究が加担したということでもある。

5 厚労省の自民族中心主義によるレイシズム

「民族的要因」の主張を可能にする社会認識では、事実上、単一民族国家観に基いて民族差を強調することにならざるをえない。もし誠実に「民族的要因」への配慮を検討するのであれば、「民族的要因が新地域における医薬品の安全性、有効性及び用法・用量に影響を与え得るとの懸念」について、日本国内で暮す全ての「民族」ごとに臨床試験を実施しなければならないはずだ。「日本人」とは異なる「民族的要因」による影響を受けるという問題は、日本国内の外国人の人びとにも該当する問題であるから、日本国内のエスニックマイノリティについてもその「民族的要因」による懸念を検討すべきだろう。ところが、厚労省は、外国人を臨床試験から排除すればそれでよいと考えている。外国人の「民族的要因」には配慮をしていない。

厚労省は、「民族的要因」のうちの外因性要因として「外因性要因は遺伝よりも文化及び行動様式によってより強く決定される」を挙げているが、エスニックマイノリティの文化、行動様式が「日本人」のそれとは異なるものであるとするのであれば、臨床試験を日本に住む外国人のエスニックグループごとにきちんと実施する必要がある。もし逆に、こうした文化、行動様式が日本国内では外国人であっても、日本人と同様だというのであれば、外国人を臨床試験から外す理由はなく、そもそも民族的要因という概念に意味はないことになるか、エスニックマイノリティが「日本人」に同化しているかのようにみなすことになり、その固有の文化を否定することになる。いずれにせよエスニックマイノリティを正当にこの国に暮す人びととして認知していないことになる。このように厚労省はエスニックグループを無視、排除しつつ「日本人」のみを特別の存在として取り出す。これは自民族中心主義の典型であり、極めて巧妙に偽装された官製レイシズムである。

土井の文章には「厚生省は日本が中心となってそのための研究班を組み、ICHでの検討を支援することを提案」とあるが、この間の事情については、内田(前掲論文)がやや詳しく述べはいるものの、研究班の研究がどのようなものだったのかについて具体的なデータは提供されておらず、この点については、研究者がどのように「民族的要因」の科学的妥当性を論じようとしたのか、今後検討が必要だろう。

6 論理的一貫性に欠ける「民族的要因」を日本がゴリ押した?

ICH-E5をめぐる経緯をもう少し追ってみよう。上述のように、日本は、当初日本人の特異性を理由に外国での臨床試験を拒否するために、日本人の特異性を証明しようと研究者も動員してやっきになったようだが、結果として諸外国の政府や企業には受け入れられず、外国の臨床試験の結果を受けいれつつも、「外国で承認された薬物をそのまま承認することにはならない」という強引な主張となる。こうしたやりとりのなかで、「人種差要因をさらに細かく遺伝的要因と環境要因とに分けて検討してはどうかという提案」がなされこれがICH-E5にもりこまれることになる。その後も駆け引きは続き、トリアージに概念やブリッジングスタディ概念などが導入されて妥協が図られる。結果として6年が費された。

内田の論文は、ICH-E5の成立経緯についてかなり詳細に論じているが、しかし、そもそも民族や人種といった概念による人間集団をどのように特定するのか、というそもそもの議論がほとんどなされていないように思う。厚労省は、ICH-E5の指針の解釈についての問答集を作成し、更に問答集についての説明の文書も作成している。たとえば日本人という概念については次のように説明されている。

外国在住の日本人(日本人の両親を持ち、日本で生まれ育ち現在外国で生活している)、 あるいは日系2世、3世(外国で生活している日本人の両親から生まれ、又は祖父母が外国に移住しさらに両親が日本人で外国で生活している)などを対象に実施した薬物動態試験データは、日本人の薬物動態に関するデータとして利用可能であるのか。 (答) 食事や環境などにより薬物動態に差が出ることが想定される場合を除いては、利用可能である。

「日本人」の定義にもさまざまな議論があるところであるが、少くとも日系3世までなら、内因性要因からは日本人と同じと見なせるであろうとの議論に基づき作成された質疑応答である。外因性要因により薬物動態が変化するといった例外的な状況除いては、例えばカリフォルニア在住の日系3世を対象に行った薬物動態試験データを日本人の薬物動態データとして利用可能である。」

ここで日本人としての規定の基準になっている内生的要因は、家族の系譜を根拠にしていることから事実上「遺伝的要因」のなかの「人種」概念によって規定される要因を指していると解釈する以外にない。

7 遺伝子で「日本人」を特定することはできない

日本側の主張が成立つためには、日本人という純血種の存在が証明されなければならないが、そもそも純血種の遺伝子構造がどのようなものなのかを特定することは不可能だから、遺伝的要因といった内因性の民族的要因なるものの証明は不可能だ。外因性要因はますます不可能だ。環境要因は、同じ場所に暮す様々なエスニック集団が共有するからだ。日本には、「日本人」と自認する人びとが純粋な種として存在するという単一民族の神話を前提にすることでしかこうした議論は成立たない。このような虚構としての「日本人」を政府も製薬会社もみずからの利益のために構築してこれを利用し、これを欧米の政府が政治的な思惑から容認したということだろう。その結果として、医学薬学の分野で、人種や民族の概念がほとんど厳密な定義が不可能であるという根本的な理解が欠落したまま、研究者の日常生活における常識としての「日本人」意識がそのまま研究の前提となってしまったように思われる。これは、典型的なナショナリズムと科学的な研究がリンクする構図だ。

その後厚労省は国際共同治験に関する一連の文書を出す。

2007年 国際共同治験に関する基本的考え方について https://www.japal.org/wp-content/uploads/mt/20070928_0928010.pdf

2012 「国際共同治験に関する基本的考え方(参考事例)」 https://www.pmda.go.jp/files/000157901.pdf

2014 国際共同治験開始前の日本人での第Ⅰ相試験の実施に関する基本的考え方について https://www.pmda.go.jp/files/000157480.pdf

2018 国際共同治験の計画及びデザインに関する一般原則に関するガイドラインについて https://www.pmda.go.jp/files/000224557.pdf

上の最後の文書もまたICHのガイドラインでICH-17と呼ばれている。この文書では随所に「内因性・外因性民族的要因」への言及がみられる。国際共同治験そのものが医学薬学の分野における民族的要因を実体化することを前提とした枠組になっている。こうして、これまでのグローバル化のなかで地域の差異を無視した医薬品の効率的な輸出拡大を目指す傾向が、ここにきて変化をきたしてきたように思う。中島和彦は「最近になって欧米とも、民族的あるいは地域的な差異を考慮する必要性を認識しはじめているようである」と変化のあることを早い時期に指摘している。16

最近になっても「民族差」を肯定する議論は少くないように思う。たとえば頭金正博は次のように述べている。(論文の「要約」を引用)17

医薬品の有効性や安全性には、民族差がみられる場合があり、グローバルな多地域で新薬開発を進めるためには、医薬品の応答性における民族差に留意する必要がある。そこで、有効性と安全性の民族差の評価においてレギュラトリーサインス研究が必要になる。具体的には、薬物動態をはじめとして、効果や副作用における民族差がどの程度あるのか、また民族差が生じる要因は何か等の課題をレギュラトリーサインス研究18によって明らかにすることがグローバル開発では必須になる。グローバル開発戦略に関しては、日米 EU医薬品規制調和国際会議(ICH)E5 ガイドラインが公表されて以来、ブリッジング戦略が 2002 年頃までは多く用いられた。一方、ブリッジング戦略は、諸外国で開発が先行することを前提とした開発戦略であり、ドラッグ・ラグの問題が提起されるようになり、最近では、同じプロトコールを用いて複数の地域(民族)を対象にした臨床研究を同時に実施する、いわゆる国際共同治験が行われるようになった。近年の薬物動態での民族差に関する研究の進展により、遺伝子多型等の民族差が生じる要因が解明される例も多くみられるようになった。一方、有効性や安全性に関する民族差については、民族差が生じる詳細な機構は不明であるが、抗凝固薬の例にみられるように、定量的に民族差を評価することが可能になった。また、最近は有効性や安全性を反映するバイオマーカーに関する研究も進展しているが、バイオマーカーにも民族差がみられる可能性もあり、留意する必要がある。今後は、これらの知見を基にして効率的なグローバルでの医薬品開発の促進が期待される。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj/148/1/148_18/_pdf/-char/ja

なぜこうした変化が起きているのか。これは政策の問題であると同時に学問領域の動向の変化でもある。政治的には、欧米の民族意識に何らかの変化がでてきているのかもしれない。医学薬学の分野における遺伝子研究の展開のなかで、遺伝的多型マーカーやヒトゲノムの解析などによって人間集団の再構築が人種や民族概念を実体化しうる根拠として利用されるケースがごく普通に登場してきている。欧米にけいる極右の台頭やナショナリズムに基くポピュリズムが政府や研究者の心情に影響がないとはいえないかもしれない。「民族的要因」が国際的なガイドライン策定の場で市民権を獲得してしまっているようにみえる。

8 民族・人種と医学・薬学研究

医学や薬学の分野の個別の研究では、民族や人種は実際にどのように扱われているのだろうか。厚労省が自国の産業保護のための口実として民族的要因などを持ち出したにしても、臨床試験の現場で民族的要因などを考慮するような科学的あるいは学問的な研究ははたして成立つのだろうか。現実にはどうも成立っているようなのだ。

たとえば「人種間の違いと人種内の違い―体内動態、薬効における遺伝子多型―」という論文では、つぎのような記述がある。

40 mg 単回投与後に得られる血中濃度には人種差が観察され、African Americans (AA、黒人)に比べ、European American (EA、白人)で高値を示す(Fig. 2)。(略)これらの頻度の違いが白人と黒人にみる体内動態の違いの大きな原因と考えられる。残念ながら、日本人(JP)での 40 mg 単回投与試験の報告がないため、単純な比較は難しいが、….19

あるいは、「公表申請資料にみる薬物動態の民族差」という論文では、

….民族間の薬物に対する感受性の相違による場合と、薬物動態の相違による場合がある。そこで、どのような場合に日本人において海外とは異なる用量を設定する必要があるのか、薬物動態的特性ついて検討した。20

とその研究対象を「日本人」とし、研究の結果として「日本人集団と外国人集団における薬剤吸収率の差が反映した。」「内因性民族的要因の影響も否定できない」とも述べている。ところが肝心の「日本人」集団のサンプルガ「日本人」であることの客観的な根拠が示されていない。

こうした個別研究だけではなくて、たとえば、日本製薬工業会医薬品評価委員会臨床評価部会の報告書「臨床パッケージにおける外国データの利用状況-国内承認品目を対象とした詳細調査・分析-」(2006)21でもレポートの目的に「国際共同治験を用いた品目について、昨年度と同様に、臨床データパッケージの構成、国内外での薬物動態の比較、内因性・外因性民族的要因及び一貫性評価に関する内容をまとめた」とあるにもかかわらず、用いられている分類は、日本人と外国人、日本人と白人、あるいは日本、台湾、韓国といった国・地域別の区別でしかなく、これに「民族」という概念を当てはめたり、「人種(日本、中国、フィリピン、台湾、マレーシア、インドネシア)」(同報告書55ページ)というように、国と人種を同一視するという社会科学であればありえない概念の利用法になっている。

こうした表現があたりまえに用いられている背景には、研究者自身が、一国家一民族という単一民族国家を前提にしてしまっているからだろう。これは研究者としての専門的な研究に、研究者が抱いている偏見が研究方法に影響している典型的なケースだ。ちなみにこの報告書で取り上げられた医薬品のほとんどが民族的要因に有意な差が明確に存在したという事例は報告されていない。内因性の差異を指摘している場合であっても体重などの差であって、これを「民族的要因」とするのは強引だ。

コロナのワクチンの治験の現場はどうなっているのか。治験者を募集しているサイトでは次のような条件で募集している。

https://gogochiken.jp/disease/corona/ 治験参加の条件 コロナ治験に参加する場合は以下の通り参加条件がございます。 日本国籍の方 ※注意:外国籍の方、またハーフ、クォーターの方の参加はできません。

国内臨床試験がICH-E5をふまえるとすると、国内の治験の対象者は「日本人」ということになるが、この条件を日本国籍で代用するやりかたは、はたして正しいのか。日本国籍を保有している者を民族のカテゴリーとしての「日本人」とみなすということは、国籍と民族、人種の関係に関する基本的な人権に関わる理解に反している。国籍法では、日本人の規定はなく、「日本国民」の規定だけだ。国籍を民族や人種と対応させることを正当化する制度はない。注意事項にある「ハーフ、クォーターの方」は、日本国籍を取得していてもハーフ、クォーターであるばあいは参加できないという意味だろう。この注意書きの前提は、日本国籍ではなく日本人と外国人との間に生まれた子どもを想定ている。このことからみても「日本国籍」といいながら実際は「日本人」を指しているのだろう。そもそも厳密に日本人を定義したり、人種、民族を定義することはできないのだが、こうした収集されたデータから、科学的な装いをもつ「日本人」が構築される。

自然科学は普遍的な真理への指向が強い。生物学も遺伝学も、客観的な事実として客観的に検証されることによって、ある種の事実の真実性を確証できるとみなす。民族や人種がこうした真理の言説とリンクされると、民族や人種が生物学的な真実として証明されたかのような体裁を獲得する。民族や人種に基づく政治は、こうした普遍的な真理の装いを欲がる。もしそれが自民族の優位性や普遍性を証明するのであれば、民族・人種が永遠の存在であることを科学的に証明されたとみなして利用するだろう。逆にある民族・人種の劣等生もまたこの意味で証明可能だということになれば、民族・人種間の優劣のヒエラルキーが構築され、科学の名のもとに固定化、実体化される。

遺伝学の研究を通じて、人種の違いを科学的に論証しようとする傾向へと研究がひきずられていく。しかし、こうした研究が前提にする人種としての人間集団が、純粋な人種集団であるという証拠はない。逆に、ある集団を「人種」としてひとまとめにして、この集団に共通する特徴を抽出して、他の集団との違いを特定することになると、この集団があたかも「人種」としての実体を遺伝子レベルで持つかのようにみなされる。

「民族」の場合も同様だ。日本人であることの遺伝子上の客観的な基準もなしに、本人の自己理解、見た目、居住している場所、言語や文化の共有といった曖昧な要因に基いて、とりあえずの日本人らしい集団をピックアップして、その遺伝子上の特徴を探ったとして、これが純粋な日本人の存在を証明することにはならない。日本人ではない人が混在する可能性を避けられないし、そもそも基準となる日本人の遺伝子上の特性は、こうした研究の前提には与えられておらず、サンプルとなった人間集団が純粋の日本人であるという証拠はどこにもなく、この研究の結果としてしか日本人の遺伝子なるものは構築されない。純粋な日本人は、こうした研究の結果、人為的に作り出されたものにすぎない。

こうした問題が等閑視されて、日本人とか人種を前提とした研究が繰り返されると、臨床試験の研究にあるように、極めてアバウトに日本人らしい集団で真の日本人を科学的に創作することに疑問を感じなくなる。そして科学的な客観性やデータを根拠に、人種や民族の差異が実在するかのようにみなされるようになる。差異は容易に差別や相互のヒエラルキーをともなう優劣へと結びついてゆく。

9 人種概念についての国際法と憲法

人種概念を用いることへの疑義は国連でも早い時期から提起されてきた。「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(65年採択)」では「人種的相違に基づく優越性のいかなる理論も科学的に誤り」any doctrine of superiority based on racial differentiation is scientifically falseと表現されて、人種にもとづく相違そのものの存在を肯定しているのだが、ほぼ同じ頃に出された「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際連合宣言(63年採択)」では「人種的相違又は優越性のいかなる理論も科学的に誤り」 any doctrine of racial differentiation or superiority is scientifically falseとして人種的相違の理論が科学的に誤りであるとする宣言を採択している。22

国連のアパルトヘイトに関するパンフレットでは次のように述べられている。

a 今日生きている世界中の人間は同じホモサピエンスに属するもので,もともと同一の祖先にさかのぼる。
b 人間を生物学的に「人種」に分けることは科学的ではなく、単に昔からの習慣によるものであって、これに上下の等級をつけるようなことは不可能である。多くの人類学者は、人間が様々に異なっていることの重要性をみとめてはいるが、「人種」に分けることには科学的いみを認めていない。 c 現在の生物学では,文化の程度の差を発生学的な差にもとめることを否定している。23

20世紀半ばのこうした議論は、現在極めて深刻な危機にある。社会的歴史的に構築されてきたイデオロギーが科学によって更に理論武装して、登場してきている。現在は、こうした傾向が情報科学とコンピュータの高度化に支えられて加速化している。

ナショナリズムの問題は、人種の実体化と文化や環境の要因が一体化した民族の概念を媒介として、国家の統治機構を支える「国民」の感情的な意識であるが、これが、それぞれの時代のなかで普遍性を司る科学や学問を味方につけて、正当化されている。

ICH-E5の考え方は、民族要因の一部に人種を組み込んでいる。結果として、民族は人種によって規定されることになり、人種と民族が生物学的な根拠をもつ概念とされる。臨床試験で民族ごとの特異性を科学的に主張しようとすればするほど、科学性を裏づける根拠として遺伝子などの生物学的な要因を重視することになる。文化や言語などの外因的要因は数値化したり統計的に処理したり、実験による再現性や検証可能性にもなじまない質的な性質をもっているために、その扱いについての方法は自然科学の方法では扱うことができないために、指針などで示されていても実質的には意味をなすものにはなっていない。

それでは、民族的要因を外因性要因に絞り、遺伝的要因などの内因性要因を排除すれば、それなりの妥当性を認めることができるのだろうか。医薬品の臨床試験に関しては、こうした方法で民族的要因を残すことにはほとんど意味がないように思う。臨床試験をめぐる民族的要因として議論になる問題に用量の妥当性が論じられたりする。しかし、こうした問題は、「民族」よりも個体差を問題にすべきだろう。

ICH-E5で指摘されている「民族的要因」が与える医薬品の安全性への危惧には疑問があるが、百歩譲って人種・民族的要因が重大な問題であって看過できないとしたばあい、なぜ「日本人」だけにしか臨床試験を行なわず、「日本人」以外の「人種」「民族」を無視してよい理由はどこにあるのだろうか。

憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と人種による差別を禁じている。憲法の規定をふまえれば、「日本人」だけを特別扱いする臨床試験や治験は憲法に反する扱いになる。こうした扱いを政府が行うことは明確な違憲行為だ。

10 見逃される科学のなかのナショナリズム―科学的合理性と科学的不合理性の共存

竹村康子は、「人種概念の包括的理解に向けて」のなかで、次のように日本の人種概念をめぐる研究の特異な状況について述べている。

「日本では、生物学的人種が破綻したことを積極的に提唱している研究者は例外で(略)厳密な境界線が存在せずとも生物学的実体までは否定できないとるす見解がひろく支持されている。国際的には、人種が生物学的に有効な概念ではないとする見解が通説であることの変りはない。しかしこの数年の間にヒトゲノムの集団病理学などの進展によって、一部の研究者によって人種実体論ともいえる説が劣勢を巻き返しており、問題はいっそう複雑化している」24

他方で、ゲノム解析によって、集団内の多様性のほうが集団間の多様性より大きいという研究も多く発表されている25(竹村、61)

国際的には人種の生物学的有効性に疑問がもたれているなかで26、なぜ日本で生物学的な人種が科学研究で生き延びてしまったのかは、日本の近代科学史と国策としての科学や学術との関係を戦前まで遡って検討しなければならないことだろうと思う。27

冒頭の新型コロナとワクチンをめぐる問題に立ち戻ると、今、日本で、人びとの生存や健康の権利が二つの側面から挟み撃ちにあっているのだということがわかる。

ひとつは、グローバル化のなかの製薬資本をめぐる市場争奪戦のなかで、いかにして日本の資本の利益を日本政府が防衛しつつ、世界市場への日本の製薬資本の侵出の足掛かりを構築できるか、という主としてグローバル資本主義の市場と地政学の領域が、人びとの生命を犠牲にする構図だ。ここでは、資本の論理と政府がもつ医薬品に対する許認可の権力がどこの国でも、国際関係の力学のなかで、自国の資本にとって最適となる「解」を模索して交渉する。この交渉のなかで、合意の正当性を保障しているのが、科学的な合理性の装いだ。ここに研究者が関与することになる。

もうひとつは、上記のプロセスのなかで、自国資本と自国政府の利害が最も共通する、自国内部の市場とその規制を自国第一主義で貫徹するために必要な枠組の構築だ。ここで、日本は民族と人種にこだわるイデオロギーによって日本の特殊性を正当化した。これが日本のナショナリズムの典型的な表出場面になるが、これが単なるイデオロギーではなく科学的な装いをもって正当化される局面では、遺伝学から最新のデータ解析の技術までを駆使する科学的合理性の領域が前面にでるので、人種、民族が科学的に立証されたかのような印象が与えられ、これがメディアや啓蒙的な科学の一般書の類いで流布されることになり、ここにも科学者が寄与することになる。ところが、この科学的な局面の前提には、科学者が憶測や偏見を含めて根拠以前に抱いている「日本人」とか「人種」についての「常識」があり、この常識なしには実は科学的な研究は成立たない構造になっている。そして、この科学と「常識」あるいは偏見を国家がひとつの「像」として束ねるところに、ナショナリズムの心情と信条が形成される。

この構造はとてもやっかいだ。学問研究の手続きや手法そのものやデータの処理は改竄があったり、恣意的な処理はなされていない。しかし医学薬学には民族や人種が社会的に構築されたカテゴリーであるということを理解できる方法がないのかもしれない。社会科学からすれば非科学的な概念が、熟慮されることなく研究の前提に置かれるような舞台装置が組み立てられている。こうした舞台は、科学的な研究に「日本人」のイデオロギーを持ち込む動機をもつ国家の思惑によって用意されているように思う。グローバル資本主義の市場の競争と国民国家相互の覇権の構造のなかで、「日本人」という観念が科学の装いをまとって実体化されるとき、ナショナリズムもまた科学を味方につけることになる。

今回は医薬学の領域とナショナリズムの問題について問題提起したが、こうした問題はあらゆる学問分野に様々にあらわれているのではないか。たぶん、近代科学と近代のナショナリズムがともに「近代」という時代のなかで形成されてきたことを念頭に置くとすると、ナショナリズムへの批判、つまりナショナリズムを克服した社会を構想するという課題にとって、自然科学の克服もまた重要な課題にならざるをえないように思う。

(付記)私は、エスニシティを自然科学的に根拠のあるカテゴリーとしては認めないが、何らかの人間集団が文化や歴史を共有するなかで、あるいは他の人間集団と交流することで変容しつつも集団としてのアイデンテイティをもちつづけ、集団への帰属意識をもつことを否定しない。こうした集団的なアイデンティティへの帰属は、だれであれ、複数の集団への帰属であることが普通だ。近代国民国家は、こうした人間集団を「国民」として統合しようとするとともに、日本の場合は「日本人」に支配的な集団としての正統性を与えてきた。集団のアイデンティティは社会的歴史的に構築・再構築・脱構築を繰り返すなか維持されるから、自然科学的な意味での科学的客観性にはなじまない。にもかかわらず社会集団に自然科学的な客観的な実体を与えることは社会集団を歴史を超越した普遍的な集団という地位を与えて特権の正当化を企図するものであって、わたしはこうした考え方をとらない。

(付記2)ワクチンの接種がはじまった現在でも、「日本人」を特別視する観点が隠然とした力をもっている。優先接種には、ワクチンが日本人に深刻な副反応を起すことがないかどうかを検証する目的もあるとされている。日本人に固有の影響があるのではないか、という根拠のない憶測がメディア報道の前提にあるように感じる。

(謝辞)本稿は、2021年2月14日に開催された「『日の丸・君が代』の強制を跳ね返そう!2.14神奈川集会とデモ」での講演をもとに、当日いただいた質問などを踏まえて加筆したものです。主催者と参加された皆さんに感謝します。

Footnotes:

1

ヴァジャイ・プラシャッド「ワクチンナショナリズム?希望という名の不治の病」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2020/12/06/vaccine-nationalism/ 原文はThe Bulletに掲載。

5

『医薬品の貿易収支の推移 医薬品産業強化総合戦略~グローバル展開を見据えた創薬~』(参考資料) https://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10807000-Iseikyoku-Keizaika/0000096429.pdf 医薬品産業強化総合戦略は、安倍政権の骨太の政策の一環として厚労省がとりまとめたもの。

8

ICHについて。「日米EU三極の医薬品規制整合化の達成のために、平成2年4月に運営委員会が発足し、日本、米国、EUの規制当局及び医薬品業界代表者を構成員とする会合として、ICH(International Conference on Harmonization)が創設された。以後、平成3年、5年、7年、9年、12年及び15年にICH国際会議が開催され、整合化ガイドラインの作成に成果をあげている。 」「日米EU医薬品規制調和国際会議(ICH)について 」 https://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/03/dl/s0329-13n.pdf 2015年に組織が再編、拡大されている。役割は「薬事規制の国際調和を推進するため、医薬品の承認審査や市販後安全対策等にかかる共通のガイドラインを作成すること」で設立当初から変らないという。 https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000102412.html

9

1998年8月11日 都道府県知事宛 「外国で実施された医薬品の臨床試験データの取扱いについて」厚生省医薬安全局長 医薬発第739号 同 各都道府県衛生主管部(局)長宛 「外国臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因について」厚生省医薬安全局審査管理課長 医薬審第672号 ICHをめぐる議論、とりわけ後述するICH-E5をめぐる議論については、本稿で直接言及した文献の他に、下記が重要である。『変わる新薬開発の国際戦略―ICH E5ガイドラインのインパクト』薬業時報社、1999年。

10

「人種」の概念、科学で使わないで 米で差別助長を懸念 Asahi 2019年3月27日 https://www.asahi.com/articles/ASM3P1P8BM3PUHBI002.html

11

磯 直樹 「「人種は存在しない、あるのはレイシズムだ」という重要な考え方 遺伝学では「人種」は否定されている」 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73415 磯は、2018年、米国人類遺伝学会(ASHG)は「人種」概念を用いないよう声明を出したこと、山川出版の高校教科書『新世界史 改訂版 世B313』でも「人種という区分に科学的根拠はない」との記述があることなどを紹介している。

12

土井脩(医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス財団理事長)「外国臨床試験データの受け入れ」『医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス』 Vol. 45 No. 1(2014) https://www.pmrj.jp/publications/02/pmdrs_column/pmdrs_column_49-45_01.pdf

13

内田英二「ICHでのエスニックディファレンスの議論の歴史」YAKUGAKU ZASSHI 129(2) 213―221 (2009)

14

内田英二 前掲論文「ICHでのエスニックディファレンスの議論の歴史」

15

YAKUGAKU ZASSHI 129(2) 209―211 (2009)

16

「ディファレンスからシミラリティへ」YAKUGAKU ZASSHI 129(2) 223―229 (2009)

17

「医薬品のグローバル開発におけるレギュラトリーサイエンスの役割」(日薬理誌 148 2016))

18

「レギュラトリーサイエンスとは我々の身の回りの物質や現象について、その成因や機構、量的と質的な実態、および有効性や有害性の影響をより的確に知るための方法を編み出し、その成果を用いてそれぞれの有効性と安全性を予測・評価し、行政を通じて国民の健康に資する科学です。

薬学の分野では、レギュラトリーサイエンスの対象として医薬品、食品、生活環境等があげられます。具体的には、医薬品・医療機器・化粧品等での品質・有効性・安全性確保のための科学的方策の研究や試験法の開発、さらに実際の規制のためのデータの作成と評価などです。」「レギュラトリーサイエンスとは」日本薬学会 https://www.nihs.go.jp/dec/rs/whats_rs.html

19

家入一郎、樋口駿、YAKUGAKU ZASSHI 129(2) 231―235 (2009)

20

小村 純子、伊藤達也、中井亜紀、緒方映子、今井麻貴、臨床薬理、2004 年 35 巻 1 号

22

50年代に次の声明が出されている。ユネスコ声明「人種問題についての専門家によるユネスコ声明―社会科学者による[見解]」1950 ユネスコ声明「人種問題についての専門家によるユネスコ声明―自然科学者による[見解]」1951

23

『人種差別の実体アパルトヘイトとは……』国際連合広報センター 1968

24

竹村康子「人種概念の包括的理解に向けて」、竹村編『人種概念の普遍性を問う』、人文書院、2005、58-9

25

竹村、前掲書、61ページ。

26

「人種の違いは、遺伝学的には大した差ではない」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/101800399/ ナショナルジオグラフィック日本語版、英国人遺伝学者アダム・ラザフォードへのインタビュー。 ドロシー・ロバーツ: 人種に基づく医学の問題 | TED Talk https://www.ted.com/talks/dorothy_roberts_the_problem_with_race_based_medicine/transcript?language=ja

27

民族衛生学会が1930に設立されていることは記憶されてよいことかもしれない。「民族」という学会名は長年の議論を経てやっと2017年に日本健康学会に改称する。この学会の沿革を学会のウエッブから引用しておく。厚労省の民族や人種への執着とどこかで通底するところがあるのではないだろうか。

「学会設立の発会式には首相を含む政治家が多く出席し、設立趣旨としても「生命の根幹を浄化し培養せんとする・・・」「政治・経済・法律・宗教の浄化」も謳うなど、かなり思想的な動機を持った集まりであったことがうかがわれる。機関誌「民族衛生」の創刊号で、設立の中心的人物であった永井潜は、学会の使命を「民族としての人間本質の改善に外ならない」とし、その改善のためには環境の改善は無力であり、遺伝的性質に働きかけるべきという優生運動的主張を展開している。

学会は1935年からは、より啓蒙的・実践的活動を中心とするため「民族衛生協会」と改称、研究は協会内の「学術部」が担当した(この学術部の別名が民族衛生学会であった)。永井は1937年に同じ研究室の福田邦三に理事長を引き継いでいる。1958年に「協会」と分離し、学術に中心を置いた「学会」が復活するまで終戦を挟む25年間弱、断種法や日本民族優生保護法などの法案の案文作りに積極的にかかわったり、これらの法案を議論する政府委員会を支えるなど、一貫して優生思想を推進したことが指摘されている。

こうしたpro-優生思想的なスタンスは戦後にも残り、1946年の「民族衛生」の巻頭言において、永井は再び断種法や国民優勢法などの重要性を強調している。この間、1940年には「国民優勢法」が国会で成立、終戦をはさんで1948には同法を廃止して、「優生保護法」が制定された。前者の成立に民族衛生学会を含む協会が強くコミットしたことは間違いないが、後者の成立において積極的な関与があったのか否かは定かでない。永井は、終戦後も優生運動についての見方を変えることがなく、1956年に最後の著書「性教育」(雄山閣出版)を発刊し、1957年に亡くなった。永井の逝去と関係があると思われるが、翌1958年、民族衛生学会は協会と分離し、独自の会長・執行部と会則を持った学術団体となった。」 (歴史と沿革 https://jshhe.com/about/history) なお下記も参照。莇昭三「15年戦争と日本民族衛生学会(その1) 「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」3ー2 2003、5月。「15年戦争と日本民族衛生学会(その2)「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」4ー2 2004、6月。また日本のワクチンメーカーと戦争協力については以下を参照。田井中 克人「731部隊とワクチンメーカー」「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」7ー2 2007、6月。

議会も司法も崩壊する―「デジタル庁」構想の本質とは

菅政権になり、デジタル庁の設置など政府のネット政策が急展開の様相をみせている。また、新型コロナの接触確認アプリの動向は、世界規模で、従来のプライバシーの権利との関連で大きな議論をまきおこしている。

2020年9月16日菅は首相記者会見でデジタル庁新設に言及し、9月23日デジタル改革関係閣僚会議では「デジタル庁は、強力な司令塔機能を有し、官民を問わず能力の高い人材が集まり、社会全体のデジタル化をリードする強力な組織とする必要があります。」と述べ、年末までに基本方針を策定し通常国会に必要な法案提出するとともに、IT基本法の抜本改正も行うとした。

10月26日所信表明演説では、デジタル庁を中心に、中央省庁だけでなく「自治体の縦割りを打破」することに踏みこみ、マイナンバーカードも二年半で全国民配付という目標を提示し、来年三月から保険証とマイナンバーカードの一体化を開始、運転免許証のデジタル化の導入も宣言した。

注目すべきなのは、情報インフラの統合を通じて、地方自治を中央省庁に統合し、省庁の情報インフラの統合によって、官邸の統制を一気呵成にアップグレードすること、そのために民間のITの技術力を大幅に導入するとしたことだ。分権的な行政権力がかろうじて残されてきた地方自治を解体することによって、21世紀型の官邸によって統制される内務省体制の権力構造への転換が浮上してきているといっていい。政権と国内外の民間巨大ITビジネス(これが現代資本主義の支配的な産業であり政治的権力の後ろ盾となりうるものだ)の利害が一致しているところが現政権の強みといえる。

しかし、システムの省庁統合は、コンピュータ回線を繋げば実現できるようなものではない。大規模なシステム統合は民間でも急速に進みつつある分野で、一般にDX(デジタル・トランスフォーメーション)と呼ばれているが、その実現は至難の技で、簡単ではない数年以上の時間がかかることもマレではなく、システムのトラブルは避けられず、行政保有の個人情報を様々なリスクに晒し、とりかえしのつかない被害が起ることが十分に考えられる。

しかも、関連する法改正も一筋縄ではいかないだろう。基本法について菅はIT基本法だけしか言及していないが、知的財産基本法(2002)、サイバーセキュリティ基本法(2014)、官民データ活用推進基本法(2016)があり、下位の法律も膨大な数になる。法制度を調整して実際にデジタル庁を新設するために必要な手続きが必要で、省庁DXの技術的な難問にに加えて問題はより複雑になる。こうした制度の改変のどさくさにまぎれて、必ず私たちの権利を抑圧するような改悪が忍び込むことはほぼ間違いない。最大の注意を払わなければならないと思う。

デジタル庁構想は、安倍政権のSociety5.0の具体化の取り組みとみることができる。Society5.0は、人工知能、次世代通信網5G、そしてビッグデータの活用による未来社会構想だが、5月に成立したスーパーシティ法(国家戦略特別区域法の一部を改正する法律)で法的な裏付けが与えられた。この嘘っぽい将来構造を資本が利用しようとするとき、この欺瞞的な未来社会が実現可能かもしれないと大衆に誤認させるきっかけが与えられることが考えられる。戦前の大東亜共栄圏から最近のバブル経済、小泉改革、そしてアベノミクスも、政権と資本によって煽られた「経済的な豊かさ」の幻想によって資本主義の実態が巧妙に隠蔽されてきた。同じことがSociety5.0やスーパーシティでも繰り返されるのは目に見えている。

政権が絵空事のようにして描くネット社会は、過去から現在に至るまである共通した特徴がある。それは、こうした社会の住人たちの政治的な権利、あるいは民主主義的な意思決定、権力に対して異論を唱える表現の自由や政治的な自由の権利がどのように保障されるのか、ということは一切言及されないという点だ。この未来社会に済む住人はみな既存の政治的な権力を肯定し、自らの私的な幸福を充足することにしか関心を持たないような人間が前提されている。こうした未来社会では、異議を唱える者は、この社会から排除されるか抹殺されることが暗黙のうちに含意されている。権力の本質からすれば、敵対者を啓蒙によって同意を形成することと、この同意からも逸脱する者たちを排除する力を持つこと、この二つのバランスの上に権力としての正統性を再生産しようとする。テクノロジーはこうした権力を支える。コンピュータによる監視の技術は、私生活の利便性、教育による啓蒙、より強固な労働と私生活への監視的介入、そして逸脱者のあぶり出しと懲罰、これらのいずれにも作用する。

従って、コンピュータによる高度なデータ処理、5Gによる家電などモノのインターネットの普及、そしてAIによる将来予測がデジタル庁の基盤になるとすると、現在の議会制民主主義も司法制度もほとんど実質的な権力分立による行政権力への牽制を果せなくなる。それだけではなく、立法と司法が依存する憲法を含む法の支配そのものも有効性が削がれることになる。米国の憲法学者、ローレンス・レッシグはコンピュータのプログラム・コードが法を出し抜くようになると指摘したが、コンピュータが行政権力の中枢を支配する社会では、議員も裁判所も理解しえないコードが法を超越するようになるのは間違いないと思う。今でも、行政のコンピュータであれGoogleやAmazonが運用するビッグデータから捜査機関の盗聴装置やコロナの濃厚接触者追跡アプリや保健医療システムに至るまで、ほとんど全ての資本と国家のコンピュータはブラックボックスのなかにあり、私たちにはアクセスできない。こうしたコンピュータの解析能力を既存の権力者が独占し、投票行動の分析などに利用されることによって、選挙制度そのものが歪められる。選挙の匿名性は有名無実になりつつあり、商業広告の進歩と連動して有権者の投票行動を予測して投票を誘導する技術の進歩は目覚しい。こうした事態のなかで、議会制民主主義は、その理念通りには機能しなくなっている。にもかかわらず理念を現実と誤解すると、議会制民主主義や裁判制度に過剰な期待を寄せることになってしまう。こうなってしまうと権力の思う壺だと思う。

他方で、権力者が武器としているテクノロジーと同じ原理で機能するテクノロジーが私たちの手にもある。このテクロジーが個人情報を収集する権力の手先になるのか、それとも逆に権力と闘うコミュニケーションの武器になるのかは、実は私たちが御仕着せで便利に使ってきたコンピュータの罠を回避するような手だてを講じられるかどうかにかかっている。この手だての第一歩は、匿名性の確保と権力に監視されないコミュニケーション環境の防衛(中心をなすのが権力の介入を許さない暗号化だ)にあると思う。ビッグデータと監視を阻止する手段が私たちの手のなかにもある。世界中の活動家たちが、とりわけ弾圧の厳しい国・地域では匿名性と集団的なプライバシーの防衛は必須だ。こうしたテクノロジーのオルタナティブを私たちが学ぶこともまた運動のライフスタイルを変える一歩になるし、既存の民主主義とは異なる民衆の合意形成の可能性に道を開くことにもなると思う。

初出:人民新聞2020年12月5日(リンクなどを追加しました)

政権の危機と運動の危機

私は政権交代にほとんど重要な意義を見出していない。なぜなら、政治権力の本質は、人格に依存するのではなく構造的な問題であり、人はこの構造の人格的な担い手に過ぎないからだ。とはいえ、政権を担う人間の人となりを人々はある種の感覚で捉えて判断することも現実的な政権支持の背景にあることも確かで、NHKの世論調査も毎回政権支持の理由で「他の内閣よりよさそうだから」といった極めて主観的な判断項目を入れている。こうした質問項目がメディアを通じて流されることによって、政治権力の本質を権力者のキャラクターに還元してしまうような政治や権力の理解が、社会を歴史的な構造物とみる見方を退けてしまっていると思う。とくにそう思うのは、トランプの奇矯なパフォーマンスとその陰謀論に基く世界観を彼ひとりの個性とみたのでは現在の米国の極右の感性を支える膨大な大衆感情を軽視してしまうし、トランプに投票した7000万以上の人間がみな陰謀論の信奉者とは思わないが、福音派からQアノンまで広範にわたる社会的平等を理念としても否定する大衆を生み出したのは、大衆ひとりひとりの個人的経験によってではなく、むしろ社会の制度がこうした人々の価値観や世界観を形成してきたことに目を向けなければならないと思う。

日本も米国と五十歩百歩であって、天皇をめぐって新旧メディアから人々の日常生活までを構成している世界感覚は、世界で最も成功した陰謀論のひとつといっても過言ではない。

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発足間もない菅政権だが、戦後保守=右翼政権の性格と近代日本=資本主義が構造的にもつ本質的な問題が、既にいくつか露呈している。COVID-19対応では相変わらず経済ナショナリズムのために人々の生存を犠牲にする政策がとられており、感染爆発から命の選別へと向うことは必至だ。人的資源=<労働力>として、費用対効果でいえば若年層の救命の方が資本にとっても政府にとっても利益になるから高齢者はまともな医療サービスを受けられずに犠牲になっていくだろう。この冷酷なシステムの構造的な要請を政治がどのようなレトリックで誤魔化すか、これが菅政権に課されたある種の宿題だ。

菅政権発足直後にまずぶち上げたのが「デジタル庁」の設置だった。デジタル庁は、安倍がビッグデータ、AI、そして5Gネットワークを踏まえて凡庸な文明史観をもとにでっちあげたSociety5.0を継承したものといえる。デジタル庁の設置は、省庁横断とマイナンバーの普及がセットになっているように、次世代監視テクノロジーの政府組織への導入であって、これが私たちの市民的自由に及ぼす影響は深刻だ。

デジタル庁問題が深刻なのは、民主主義の基本をなす立法と司法がほぼ完全に解体する、ということだ。法のかわりにコンピュータによるコードの支配が進み、法は形骸化する。なぜならコンピュータに法を遵守する意志はなく、コンピュータのプログラムの適法性は、技術的な難解で国会でも司法でも判断できず、私たち一般の人間も理解できないからだ。政府だけが、民間IT企業と組んで統治の意図をコンピュータのコードに組み込むことができる。AIとビッグデータによる将来予測に政策が依存するようになり、国会での討議や司法による裁判という時間がかかるプロセスよくて現実の後追いがせいぜいのところとなる。機械は過去から社会の常識や規範を「学習」するために、差別、偏見やナショナリズムの偏りを学び、反政府的な言動を社会的なリスク要因としてプログラムされれば、弾圧を正当化する道具にもなる。

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デジタル庁は市民運動からの批判がいまだ低調なままだが、日本学術会議の任命拒否問題では市民運動もメディアも大学や学会もおしなべて菅への批判を強め、任命拒否撤回の主張が大きくなっている。多くの市民運動も任命拒否を批判するとともに、学術会議擁護の立場をとっているように思う。しかし現場の大学教員としての経験でいえば、学術会議は学問の自由を侵害するような行動をとっており容認できないのだ。学術会議は多くの提言などを出しており、任命問題の是非以前に、そもそも任命された学術会議のメンバーたちがやってきたことをその活動内容に即して検証されるべきだ。

私の経験とは以下のことだ。学術会議は2008年の文科省から大学教育の分野別質保証の在り方について審議依頼を受け、大学教育のある種の学習指導要領作りを始める。教育内容に介入するようなことをやりはじめた。私の専門でもある経済学については、ここで詳細は述べられないが、全く容認しがたい内容で、このガイドラインに則せば私は大学教育での居場所は全くなくなる。私の人生の多くを教育に費してきた者として絶対に譲れない一線だ。学術会議を擁護するなど私にはできない。

それだけではない。出された提言のなかにはとうてい容認しがたいものがある。たとえば、小中高の学校教育への提言ではGIGAスクールの推進を前提としたIT教育の導入を積極的に推し進める提言を出し、生徒の成績などの個人データの収集を積極的に実施すべきだと主張している。また、新型コロナ対策としての医療データの活用のためにマイナンバーカードなどの行政システムを支えるデジタル環境の再整備を主張する提言を出したり、「行政記録情報の活用に向けて」の提言では、統計調査にマイナンバーを利用できるよう提言している。研究にビッグデータを活用するリスクはすでに指摘されている。2016年の米大統領選挙でFacebookの膨大な個人情報を研究目的で提供し、これがトランプ陣営に利用された。研究目的を隠れ蓑にこうした深刻な問題が起きることがありうるのだ。核問題についても原発容認の姿勢は崩れていない。今年9月「原子力総合シンポジウム2020」を「2050 年の持続可能社会の実現にむけたシナリオと原子力学術の貢献」のテーマで開催するが、とうてい反原発運動が容認できるような内容ではない。今年春に学術会議は2050年をみすえたレポートを公表する。「未来からの問い―日本学術会議100年を構想する」と題された400ページのレポートのなかで,安倍政権が政策として推進してきたSociety5.0といういかがわしい歴史認識をまるごと受け入れ、さらには「総務省が推進しているマイナンバー制度も、複数の組織に所属している個人情報を一元化してさまざまな申請をしやすくします。今後、情報管理を徹底することによって、情報の漏洩やなりすましなどの犯罪を防止できれば、もっと用途を拡大できるでしょう。」と礼賛している。今年の9月まで学術会議の議長は京大の人類学者で総長だった山極壽一だ。彼は日本の植民地主義と学術の責任に深く関わる京大の琉球人骨問題で一貫して消極姿勢をとりつづけてきた。その山際を学術会議は会員の互選で選んできたのだ。

学術会議を政府から独立させる議論もあるが、そうなれば学術会議は映倫のような自主規制団体になるだけであり、現状のままなら政権のアウトリーチとしての役割を担うだけだ。表現、思想信条の自由にとって必要なのは、自由に関わる制度を一つでもなくすことだ。私の30年の研究者、教育者の仕事のなかで必要と思ったことは一度もない。学術会議は学問研究にとって不要である。学術会議擁護の運動をしている市民運動などの皆さんには是非、学術会議は擁護すべき機関なのか、再度検証していただくことをお願いしたい。

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市民運動をはじめとする社会運動は、私の目からみると、これまでにない危機的状況を迎えつつあるようにみえる。COVID-19に関していえば、政権の対応、医療と経済について私たちがどのような判断を下すべきなのかについて、政府や支配的な制度とは別の観点からの提起をすることができているだろうか。マスクを拒否するマッチョな極右の価値観とも自粛と自己責任を強いる政府とも立場を異にする私たちの分析が非常に足りないと思う。市民運動は政党の政策論議や国会政局から自由になり、資本主義経済の本質や身体と医への権利といった根本問題を問い、原則を貫くスタンスをとらなければならないのではないか。既存の教育制度や学者の権威を肯定しすぎてはいないか、とも思う。教育制度による差別と選別への根底からの懐疑を運動の基盤に据えるべきなのではないのか。菅政権と産業界のデジタルへの流れに対しても、デジタルの日常生活を問う運動に至っていない。ネットもパソコンも理解を超える難解な機械であること自体が支配のツールになっているわけだが、同時に、運動として使えるなら、FacebookであれLineであれ何でも使えばいいという安易な利用主義が、ネットに伏在している高度な治安弾圧を自ら呼び込んでいることになっていると思う。

さて、最後に天皇制について一言だけ述べておく。COVID-19と各国の王室動向をみると、いずれも危機にありながら国民統合の積極的な役割を果せていない。天皇制を現代的な問題として重視する意義が見出しにくい状況になっているともいえる。たぶん、これはCOVID-19だけの問題ではなく、社会のコミュニケーション環境がマスメディア中心からSNSなどネット中心へと確実に変化しており、この変化に旧来の統合装置が対応しきれていないことによると思う。この意味でいえば政権や支配層のとってもある種の天皇制の限界に直面しているともいえる。他方で、SNSは多様な極右の言説が流布する場にもなっており、どこの国でも移民・難民への差別と排外主義、様々な伝統主義的な価値観への回帰と宗教的な信条が目立っている。日本の場合も、多様な日本的なるものや日本文化から憎悪のヘイトスピーチまでが星雲状の言説空間を構成しながら、これらの帰結としてナショナリズムと「天皇」と呼びうるような象徴的な空間が、従来とは異なる性格をもって構築されるように思う。マスメディア時代とは根本的に違い、大衆自身がマスメデアやフェイクニュースの言説を受容しつつ、彼ら自身が更に発信主体となって支配的な価値観や心情を支える、といったメカニズムのなかでイデオロギー装置が構築される。この意味で、現実の空間での天皇ではなく、バーチャルな空間において、天皇という言葉すら明示されないような言論のなかに密かにもぐりこむようにして―とりわけリベラルな知識人やある種の左翼もどきの知識人の言説をも包摂しつつ―天皇制イデオロギーが表出するようになるのでは、と感じる。この意味で天皇制を支える構造そのものの変容にも注目しつつ天皇制批判のバージョンアップを図ることが必要になっていると思う。

初出:『反天皇制運動Alert』54号(若干加筆しました)

ワシントンでも北京でもなく。社会主義者、帝国間対立、そして香港

以下は、Democratic Socialists of Americaのウエッブ機関誌、Socialist Forum2020年冬号に掲載された論文、ASHLEY SMITH AND KEVIN LIN、Neither Washington Nor Beijing: Socialists, Inter-Imperial Rivalry, and Hong Kong を訳したもので。です。


民主的社会主義者は、香港と中国本土の進歩的な潮流と下からの連帯を構築する国際主義的な反帝国主義を必要としている。
アシュリー・スミスとケビン・リン

米国と中国は、世界システムの覇権をめぐって激化するライバル関係に陥っている。貿易、知的財産権、発展途上国への投資、影響力の範囲、アジア太平洋地域の軍事的覇権など、あらゆるものをめぐって紛争が勃発している。同時に、両国の不平等と抑圧的な構造は、米国での教師のストライキから香港での民主化を求める大衆運動に至るまで、社会改革のための闘争の波を引き起こしてきた。このような状況の中で、米国の社会主義者は、このライバル関係の中でどのように自分たちを位置づけるべきか、という燃えるような問いに答えざるを得ない。

私たちには二つの危険な罠がある。第一に、私たちは、米国のナショナリズムの罠に陥る可能性があり、その権威主義がより大きな危険とみなされているために、私たちの支配者や国家と並んで北京に対抗し、反帝国主義という社会主義の原則を捨て去ることになる。第二に、私たちはもう一つの「陣営主義」に陥る可能性があり、中国国家を本来は進歩的あるいは反帝国主義陣営の一部として支持し、その搾取的で抑圧的な構造を言い訳にし、それらに対抗する労働者の運動を米国帝国主義の手先として却下し、それによって私たちの国際主義の原則に違反することになる。

2019年の香港の大衆運動は、新しい社会主義運動のリトマス試験紙である。私たちは、ナショナリズムと陣営主義campismの両方を拒否し、両国家に反対し、香港と中国本土の進歩的な潮流と下から連帯を築く国際主義的な反帝国主義の代替案を展開すべきである。

米中対立の根源

アメリカが最後に望んだのは、新たな帝国間のライバル関係だった。アメリカは冷戦時代から唯一の超大国として浮上していた。世界最大の経済力、圧倒的な軍事的優位性、他に類を見ない諸国家の同盟、それゆえに他の追随を許さない世界的な覇権を持っていたのである。それは、自由貿易のグローバル化という新自由主義的な世界秩序を管理し、すべての国家をその中に組み入れ、いわゆる「ならず者国家」を潰し、同業他社の台頭を防ぐことによって、この地位を固定することを目指していた。

3つの展開が一極化された世界秩序に対する短期間の支配力を損なうことになった。第一に、1980年代初頭から新千年紀の最初の10年間に及んだ長期的な新自由主義ブームは、グローバル資本主義の地殻プレートを再調整した。資本蓄積の新たな中心地、とりわけ中国をはじめとする多くの地域経済大国が台頭し、世界システムにおける自国の利益をますます主張するようになった。

第二に、米国はイラクとアフガニスタンでの敗北によって、ウィリアム・オドム将軍が「米国史上最大の戦略的災害」と呼んだものを被り、果てしない反乱鎮圧戦で足止めを食らった。第三に、米国と西欧は大不況の恩恵を受けたが、緊縮財政と景気刺激策を組み合わせても、新自由主義的なブームや第二次世界大戦後のブームのような新たな拡大を引き起こしたわけではない。

これらの動きの組み合わせは、他の大国、特に中国だけでなく、ロシアやトルコ、イランなどの地域大国にも、自分たちの利益を促進するためのスペースを与えた。しかし、相対的に衰退したにもかかわらず、米国は世界で最も優位にある帝国主義大国であることに変わりはないが、国際的なライバルである中国と、それ以下の大国のホストに直面している。このようにして、米国は非対称な多極世界秩序を支配しているのである。

中国の解放と発展の袋小路

このような動きの中で、中国は過去数十年の間に急進的な変貌を遂げてきた。ヨーロッパ、日本、アメリカの帝国主義の手で一世紀に及ぶ屈辱の後、中国は、経済的、政治的、軍事的覇権を求めてアメリカに挑戦することを熱望する新しい資本主義・帝国主義の大国として台頭してきた。

現在では世界第2位の経済大国となり、第2位の軍事予算を持ち、地政学的にも影響力を発揮している。

その台頭を予想していた人はほとんどいないだろう。中国共産党(CCP)は大規模な民族解放闘争を主導し、1949 年に人民共和国を設立し、根本的な社会変革を約束した。中国共産党は何百万人もの人々を貧困から救い出したが、社会主義を人間の必要性を満たすために労働者が生産を民主的にコントロールすることと理解するならば、社会主義を確立したわけではなかった。

その代わりに、中国共産党は、欧米に追いつくために、労働者の消費と政治的民主主義を経済発展に従属させた一党国家を樹立した。その努力の中で、政権は、ほとんどのポストコロニアル国家がしたのと同じ課題、すなわち自国経済の低開発に直面した。

この問題を克服するために、国家は、国家資本主義的発展のスターリンのプロジェクトを模倣することと、大躍進のような経済的重力に逆らう自発的な試みの間で揺れ動いた。どちらも、スターリンの死後、特にソ連との分裂後、中国は世界の他のシステムからますます遅れをとり、中国の低開発を克服することはできなかった。いわゆる文化大革命の間に官僚の間で派閥争いが続いた後、毛沢東委員長は、中国の地政学的孤立を克服するために、ソ連に対抗して米国と同盟を結んだのである。

資本主義・帝国主義国としての中国の台頭

またもや官僚間の戦いの後、鄧小平の勝利派は、中国の経済発展戦略を国家資本主義から世界資本主義市場への国家主導の参加へと方向転換させた。中国共産党は一党独裁国家と経済の主要部門の国家所有を維持し、同時に非効率的な国営企業を民営化し、中国の民間資本家の進出を奨励し、多国籍資本投資に経済を開放した。しかし、国家の発展主義戦略は、農民から引き出された新しい労働者階級を搾取し、中国市場に参入するための条件として、多国籍企業に対して中国の国有企業と共同事業などの形で技術を共有し、移転することを要求したのである。

天安門での学生・労働者の蜂起を国家が鎮圧した後、開発プロジェクトは一時的に中断された。しかし、すぐに国際的な投資が中国に戻り、中国の安い労働力を利用して利益を上げようとする多国籍企業がアメリカ、日本、ヨーロッパの市場向けに製品を製造した。中国は1990年代に投資市場をさらに開放し、その戦略は特に2001年のWTO加盟後の2000年代に飛躍した。

中国は世界の新しい労働現場となった。世界のGDPに占める中国の割合は、1990年代初頭の約2%から現在では16%を超えるまでに急増した。『シティ:ロンドンと金融と金融のグローバル・パワー』を書き、帝国主義についての貴重なブログを運営するトニー・ノーフィールドは、中国を世界システムの中で2番目に強力な国家としてランク付けしている。しかし、20世紀の大部分がそうであったように、国家の所有権と経済の国家主導が資本主義と完全に両立していることを理解できていないために、彼らは中国を資本主義や帝国主義とは見ていない。

実際には、時折社会主義のレトリックを唱えようが、中国の国家と経済は完全に資本主義である。中国には800人以上の億万長者がいるが、その多くは共産党の党員証を持っている。中国の国有企業、国有企業に支えられた民間資本主義企業は労働者を搾取し、米国、日本、EUと同じように資本主義の競争論理に従っている。そして、中国の国有企業や民間企業は、先進資本主義経済のための巨大なマキラドーラであるというだけではなく、はるか昔に招かれた多国籍企業に挑戦するために、価値連鎖を急速に上りつめている。

中国は自らを大国と宣言する

中国の新たな経済力に基づき、習近平政権下の国家は、中国の国家再生を完成させ、大国としての地位を確立することを明確に目標としている。習近平は、米国、日本、欧州の多国籍企業に対抗するために、ハイテク分野で民間資本主義の国家チャンピオンを生み出すための「メイド・イン・チャイナ2025」プログラムを開始した。通信企業の華為は5G技術で世界をリードしており、その成功の旗手となっている。

習近平はまた、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、ラテンアメリカ、カリブ海地域にインフラを構築し、中国を中心とした世界経済を再構築することを約束する1兆ドル規模の一帯一路構想(BRI)を立ち上げた。その目的は、中国の膨大な余剰生産能力を輸出し、成長する経済の原材料を確保し、製品の新市場を見つけようとする、紛れもなく帝国主義的なものである。そして、その影響は国全体に及び、ブラジルのような一部の国を脱工業化し、すべての国を中国資本主義のニーズに応えるために縮小させ、従属的な開発に閉じ込めてきた。

この経済力を支えるために中国は、大規模な軍事近代化プログラムを実施しており、特にアメリカの中国台頭を抑えようとする動きを無力化するように計画されている。そして、南シナ海と東シナ海の島々を占領し、そこに軍事基地を建設し、ますます強力になった海軍でこの地域をパトロールしている。その経済的・軍事的な重みに基づいて、中国はまた、地政学的にもより積極的になり、米国が支持する国連決議に拒否権を行使したり、イランのような米国の軌道外にある様々な地域大国に対する米国の侵略に異議を唱えたりしている。

もちろん、中国の帝国主義国家への発展には、すべての資本主義国家や経済を苦しめている矛盾がないわけではない。中国は、国家と企業の負債、過剰な生産能力と過剰生産、投機的投資、収益性に対する賃金圧力、そして経済の減速という大問題に直面している。これらの条件は、搾取される労働者階級と抑圧された人口からの不満と抵抗を炸裂させる。

アメリカと中国の間の帝国の対抗意識

米国の相対的な衰退と中国の台頭が相まって、両国家とその関連資本主義企業の間に巨大な帝国間の対立を引き起こしている。米国では、中国が自国の経済的、政治的、軍事的覇権に対する脅威を増大させているというコンセンサスが支配層の間で高まっている。そのため、米国は、これまでの係わり合いと封じ込めを組み合わせた「係わり合い」政策を放棄し、より対立的な姿勢をとっている。

1970 年代以降、米国の歴代政権は、新自由主義世界秩序に対する米国の優位性を中国に受け入れさせるために、飴と鞭を使って中国を説得する目的で、どちらか一方の極への関与を強調してきた。しかし、米国の相対的な衰退と中国の台頭に直面し、オバマ政権下の米国は、「アジアへの枢軸」を皮切りに、封じ込めへと決定的にシフトし始めた。オバマ大統領は、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)を通じた米国の新自由主義的ルールの下で経済的に地域を統合し、アジア諸国との長年にわたる政治関係を強化・拡大し、中国を抑止するために米海軍をアジア太平洋に再配備することを目指していた。

しかし、オバマ大統領の枢軸は失敗に終わった。トランプ大統領がホワイトハウスに入ったとき、オバマのTPPは炎上した。従来の米国の同盟国は、今ではこの地域に対する米国のコミットメントを疑っており、米国と中国の間でバランスを取ることを選んでいる。トランプは、経済ナショナリズムを通じて、米国帝国主義の相対的な衰退を克服しようとしてきた。彼は、グローバル資本主義を統括することよりもアメリカを第一に考え、同盟国と敵対国の両方との取引関係を確立し、すべてにおいてアメリカの経済的、軍事的、地政学的な力を強化することを目的として、アメリカを第一に考えるようにシフトしてきた。

彼はアメリカの帝国戦略を、いわゆる「対テロ戦争」から大国間競争に向けて方向転換し、特に中国をワシントンの主要な敵対国に指定した。トランプ氏は北京との貿易戦争を開始し、多国籍企業に対してサプライチェーンを中国から移転するよう圧力をかけ、華為技術(ファーウェイ)社の米国内での5G製造を禁止し、同盟国にも同じようにするよう圧力をかけ、中国に対抗するために特別に設計された米軍の増強を開始した。

しかし、トランプは前任者と同様、米国の多国籍企業が経済的に統合されている国家に立ち向かうという矛盾に巻き込まれたままである。中国は米国債を1兆ドル以上保有している。そして、中国にあるフォックスコンの巨大な工場がなければ、世界でiPhoneを売ることはできない。だからこそ、ヒラリー・クリントンは 「どうやって銀行家に厳しくできるというのか?」と有名な不満を口にしたのだ。

その結果、トランプの戦略は、世界資本主義の構造全体をひっくり返すような2つの経済を切り離すという脅しと、中国が米国の多国籍企業に市場をさらに開放するという要求との間で揺れ動いている。とはいえ、中国の経済的、軍事的、地政学的な力の増大に直面して、ますますライバル関係が高まる方向に向うことは明らかである。実際、トランプ政権のマイク・ポンペオ国務長官は、中国の与党である共産党を「現代の中心的な脅威」と強調しており、私たちは新たな冷戦の危機に瀕しているかのようだ。

しかし、これは第一次世界大戦や第二次世界大戦で終わった過去の帝国間の対立の再来ではないだろう。なぜならば、経済統合が進んでいることや核兵器を保有していることから、それぞれの国が手を引く可能性が高いからだ。したがって、この対立は地政学的な競争に偏向する傾向がある。しかし、両国ともに軍備を整え、世界経済が新たな危機を迎えようとしている今、経済統合とテロの軍事的なバランスが戦争を完全に排除するとは誰も信じてはならない。

両国に対する下からの抵抗

この2つの大国がかつてないほどのライバル関係の中に閉じ込められている間に、その支配階級による労働者の搾取と集団・国家・国内少数民族への抑圧が、両国で階級闘争と人民運動の新たな花を咲かせている。これは、下からの国際連帯の可能性と必要性を開く、体制とその国家に対する世界的な反乱の高まりの一部である。米国では、数十年にわたる新自由主義政策、大不況、そして大多数の人々の条件を改善することができなかった長期的な回復が、闘争、政治的な急進化、そして二極化の波を爆発させた。

左翼の側では、ウォール街を占拠したことが、労働者階級の急進化の最初の表れであった。私たちの時代は、「We Are the 99 Percent」や「The Banks Got Bailed Out, We Got Sold Out」のようなスローガンと、「One Percent」を私たちの階級的な敵として挙げることによって形作られてきた。このことは、他の多くの闘争の中で、Black Lives MatterからMe Tooまで、抑圧に対する新しい抵抗の出現と連動していた。

これらは、バーニー・サンダース、アレキサンドリア・オカシオ・コルテス、そして民主党内の他の人々による公然と社会主義的なキャンペーンのための空間を開き、意識をさらに高め、特に数十年にわたり公共部門で緊縮財政の負担を強いられてきた教師たちの間で階級闘争を奨励した。彼らは、最初は孤立していた2012年のシカゴ教職員組合のストライキに始まり、ここ数年で全国を席巻した「赤い州の反乱」で爆発的なストライキの波を起こした。これらのことから、サンダースは2020年に向けて、人種弾圧やその他の問題についてより優れた政治的立場を持ち、より強力な選挙戦を展開することが可能となった。

中国では過去30年間、社会闘争の波が押し寄せてきた。その中には、より良い賃金、福利厚生、労働条件の改善を求める国家資本主義部門と民間資本主義部門の両方でのストライキ、汚染に対する大規模な都市環境抗議、土地収奪に反対する農民の暴動、ジェンダーの不平等とハラスメントを暴露する声高きフェミニスト運動の出現などが含まれている。しかし、最も劇的なのは、中国の権威主義的な措置が強まったことで、2014年の「雨傘運動」から2019年の「反強制送還抗議」まで、香港の民主的権利を守るための闘争が爆発したことである。

しかし同時に、低経済成長の持続は、各国の体制派と右翼の反動的な応答に場を提供してきた。トランプは、彼の偏屈なナショナリズムに基づいて、中産階級を中心とした選挙基盤を活気づけた。習近平もまた、権威主義的なナショナリズムに転向し、監視の強化や労働者の組織化、フェミニスト運動、中国自身のいわゆる対テロ戦争における新疆ウイグル族への取り締まりを正当化するために、それを利用している。おそらく最も重要なのことは、習近平政府が、香港の民主化運動に対する香港の抑圧的な対応を支援してきたことである。

ナショナリズムと陣営主義の罠

両帝国列強におけるこの闘争の波の中で、民主的社会主義者は、世界の労働者と被抑圧者の間に真の国際連帯―私たちの運動の創立原理と戦略―を構築したいと望むならば、二つの罠を避けなければならない。一つの罠は、ナショナリズムであり、アメリカとその国家と支配階級の中国に対する社会的愛国的な同一化である。これはトランプ派の新右翼だけでなく、民主党の既成政党やそのリベラルな反体制派にも利用されている。

労働運動がこのようなナショナリズム、特にアジアの国家や民族に対するナショナリズムに陥った深刻な歴史がある。アメリカ労働連盟の中国排除法支持、1980年代に日本企業に対する保護主義的な政策を支持した自動車労働者、そして今日のトランプの対中貿易戦争を支持する誘惑に至るまで。社会主義者は、次の2 つの明白な理由から、そのようなナショナリズムに反対すべきである。

第一に、ダナ・フランクが彼女の古典的な著書『バイ・アメリカン:経済ナショナリズムの知られざる物語』の中で論じたように、国や資本のボスも決して労働者の仕事を守るために保護主義を実施しているわけではない。彼らがそうするのは、産業を再構築し、組合を破壊し、労働者を解雇し、仕事に残った労働者から生産性を高めるための余地を獲得するためであり、すべては外国との競争に対抗して利益と競争力を高めるためである。

第二に、そしておそらくもっと重要なことは、このようなナショナリズムは、両国の労働者と抑圧された人々の間の連帯の絆を断ち切り、各国の支配者が世界的な底辺へ向う競争の中で私たちを互いに敵に回すことを容易にしてしまうことである。実際には、アメリカと中国の労働者は、Apple、lGoogle、GMのような共通の搾取者に対して、多くの場合、団結するという共通の利益がある。

もう一つの主な罠は、冷戦時代に生まれた陣営主義であり、アメリカの多くの社会主義者がソビエト圏に味方してワシントンに反旗を翻した時に生まれた傾向である。少なくとも当時は、資本主義の代替案を支持していると間違って主張できたかもしれない。今日ではそのような主張はできない。それは単に、「敵の敵は味方」という悲惨な論理につながり、米国の軌道の外にある資本主義国家がどんなに反動的で、搾取的で、抑圧的であろうとも支持することになる。このことは、それらの国家内のあらゆる反対運動を、政権交代を企図している米国帝国主義の反動的な手先として非難する傾向を生み出している。

国際主義者のオルタナティブ

ナショナリズム、陣営主義、棄権に代わるものは、国際主義的な反帝国主義である。

米国の社会主義者は、まず第一に、そして何よりもワシントンの帝国主義に反対しなければならない。ワシントン帝国主義は、依然として支配的な国家権力であり、グローバル資本主義のいわゆるルールの原理的実施者であり、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが有名に言ったように、「今日の世界における暴力の最大の供給者」である。スペイン・アメリカ戦争でフィリピンとプエルトリコを征服して世界の権力者になってから、ベトナム、アフガニスタン、イラクでの戦争に至るまで、アメリカは、解放と民主主義を求める闘争の敵であることを証明してきた。

したがって、社会主義者は、大国同士の帝国間紛争において、「主要な敵は自国にいる」―私たち自身の支配階級とその国家である―と宣言したドイツの革命家カール・リーブクネヒトの有名なスローガンを採用しなければならない。それは、私たちが、すべての米国の軍事的、経済的、政治的介入に反対しなければならないことを意味する。私たちはまた、トランプ政権のコロナウイルスの兵器化と、企業に中国からのサプライチェーンを移転するように圧力をかけるための中国人に対する偏見で例証されたように、米国の政策を正当化するために利用される中国の人々への人種差別に反対する運動を展開しなければならない。

しかし、リーブクネヒトがよく知っていたように、これは我々の主要な敵が我々の唯一の敵であるという意味ではなく、彼がやったように、我々はライバルの帝国主義国家にも反対すべきである。だから今日、私たちは米国の帝国主義に対抗して立ち上がると同時に、ヨーロッパの古い大国も中国のような新しい大国も支持してはならない。これらの大国は、力は劣るが、帝国主義的であり、搾取的であり、抑圧的であることに変わりはない。

したがって、社会主義者は、悪の少ない方を支持するという論理を拒絶し、それらすべてに反対すべきである。私たちは、その代わりに、私たちの国で社会主義のための階級闘争を組織し、他の国の民主主義、社会革命、民族解放のための闘争へと連帯を拡大すべきである。

このアプローチは、グローバルな資本主義システム全体を通じて、各国での下からの大衆革命がみられるこの瞬間には極めて重要なことである。私たちは、これらの闘争が、アラブの春のエジプトの蜂起のように、米国の影響力の範囲内にあろうと、あるいは今、香港のように他の権力の範囲内にあろうと、自分たちの解放のために闘う抑圧された人々の権利を支持すべきである。それらはすべて、私たちが闘っているものの一部であり、国際社会主義のための運動である。

しかし、だからといって、私たちが無批判に運動を支援すべきだということではない。どんな大衆運動にも、複数の傾向があり、進歩的なものもあれば、誤った、あるいは反動的な考えや戦略を持ったものもある。私たちは後者の傾向を批判し、運動の成功のチャンスをいかに阻害しているかを示し、進歩的な勢力を支持すべきである。

香港民主化運動との連帯

このような国際主義的な反帝国主義は、香港の民主主義のための運動に対する私たちのアプローチを導くべきである。社会主義者は、運動との連帯の中で、揺るぎない、同時に批判的な立場をとるべきである。

この闘いは、香港の経済と政治に根ざしている。それは、以前の抗議運動の継続と集大成であり、社会的不平等と、学校に愛国教育を導入しようとする政府の試みと抑圧的な国家安全保障法案に対する深い不満である。それは、中国政府の支配下にあるとみなされるその指導者の選挙での普遍的な参政権を求めて戦っている。

2019年の最近の抗議行動は、香港政府が立法評議会を強行突破し、可決されれば香港当局が犯罪容疑者を中国本土に引き渡すことができるようになるという「引き渡し法案」の修正案を巡って爆発した。このため、一般の香港市民は、中国の法制度の特徴である恣意的で透明性のない法的手続きを被るのではないかと危惧するようになった。

特に香港の社会運動活動家たちは、この法案に反対するために組織化した。その多くは、香港の自由度の高さを利用して中国での社会運動や労働運動を支援してきた進歩的な国際主義者たちである。彼らは、この法案によって、中国国家が大陸全土の運動に対して行ってきた厳しい弾圧が、彼らに対して利用されるようになることを恐れている。

このようなことが起こる不吉な前例がある。例えば、北京は香港で北京に批判的な本を売っている書店員を逮捕するよう圧力をかけた。もし引き渡し法案が可決されれば、中国国家はでっち上げられた刑事告発を利用して、中国国内の香港の活動家を引き渡したり、刑務所に入れたりすることが可能になる。そうなれば、香港の民主的権利と本土の進歩的な運動が後退することになる。

この運動は他の理由でも高揚したが、それは「オキュパイ」をはじめとする世界中の多くの若者が主導する社会運動を引き起こした理由と非常によく似ている。自由市場資本主義の楽園であった香港では、前半世紀の間に不平等が急増した。政府は不動産と金融資本を最優先し、労働者と貧困層を最優先してきた。

引き渡し法案は、抗議の火をつけるきっかけとなった。2019年6月以降、この運動は200万人もの前代未聞の大規模デモ、学校でのボイコット、そして引き渡し法案の修正案が撤回された後も続くストライキを実施してきた。活動家たちは、5つの要求を掲げて団結している。1)反引き渡し法案の完全撤回、2)6月の抗議行動を「暴動」とみなすことの撤回、3)逮捕された抗議者への完全な恩赦、4)警察の行為への独立した調査、5)真の意味での普通参政権である。

この運動は、引き渡し法案の撤回から始まって、すでに勝利を収め始めている。その後、自信に満ち溢れ、11月の選挙区では、運動を支持する候補者に圧倒的な勝利をもたらした。この結果は、運動の圧倒的な支持基盤と、その本質的な民主主義的・進歩的な性格について、疑いの余地を残さないものである。

進歩的な流れを支持する

大規模な抗議行動のほとんどは、政党、人権団体、労働組合、地域団体などの中道左派連合である市民人権戦線によって組織され、運動の重要な力として結束してきた。しかし、オキュパイが多くの思想や潮流を含んでいたように、香港の運動にも多様な力と思想がある。全体的に見ると、政府の横暴や警察の横暴に対抗して民主主義のために闘うという本能を超えて、首尾一貫したイデオロギーでまとまっているわけではないが、反資本主義運動の種を含んでいる。

その種を育てようとしている社会主義者の小さな流れがある。彼らは、国際主義的で反帝国主義的な視点を提唱し、香港の東南アジア移民を含む労働者階級を新しい組合で組織化しようとし、中国本土の労働者を共通の闘争の同盟者と見なしている。しかし、他にも左派の地方主義者のように、独立を要求として優先する政治集団も少なくない。

また、中国本土の人々に対する人種差別的な右翼的要素もあり、これは運動の多くの活動家によって広く非難されてきた立場である。他の潮流は、しばしば自暴自棄になって、香港政府や中国政府による弾圧に対抗して、米国や英国政府に協力するよう訴えようとしてきた。この流れは少数派であるが、米国のメディアと政治家によって、ワシントンで幻想を煽ることを熱望している人々によって、誇張されてしまった。

米国の社会主義者は、この大衆運動に批判的連帯の明確な立場をとるべきである。これに基づいてのみ、我々は右翼を批判し、米国政府が彼らの闘争を支持するという誤った呼びかけに対抗することができるのである。最悪の場合、米国は、中国との大国競争という自分たちの反動的な目的のために、どんな支援も利用するだろうし、シリアで絶望的な状況にある人々にしたように、闘争支援のあらゆる約束を裏切る可能性が高い。

私たちは、国家分裂を超えた労働者階級統一の国際主義的立場を主張している運動の進歩的・労働者階級の流れに、可能な限りの政治的・物質的援助を提供すべきである。香港のこの流れと中国の同様の流れとの絆を築くことによってのみ、国際的連帯のための闘争を前進させ、反動的ナショナリズムの支配を弱め、アメリカと中国の間で激化している対立に対して、下から具体的な代替案を構築することができるのである。

21世紀の社会主義は国際主義的で反帝国主義的でなければならない

これは、多くの社会主義者が冷戦時代にアメリカやソビエト、そしてそのさまざまなサテライトのいずれかと同盟を結んだときに、20世紀に犯した過ちをいかにして回避するかということである。ある者は、民主的なはずのワシントン圏を支持するナショナリズムという悲惨なスタンスに陥り、またある者は、社会主義者であるはずのモスクワを支持する陣営主義に陥った。それぞれが、民族解放、民主主義、社会主義のために立ち上がった大衆運動よりも、抑圧的な国家を支持することを選んだ。

今日、私たちがすべき最後のことは、これらの過ちを繰り返さないことである。今日の中心的な帝国間競争において、どちらかの権力に味方するのではなく、私たちは、「ワシントンでも北京でもなく、国際社会主義」というスローガンを掲げて、自分自身を方向付けるべきである。我々が社会主義者の影響力を構築する方法は、イランからチリ、レバノン、香港に至るまでのすべての革命家と連帯し、彼らの最も進歩的な勢力と組織的なつながりを築くことである。

こうすることによってのみ、私たちの新しい社会主義者の流れは、労働者と被抑圧された人々のグローバルな運動を助け、資本主義の帝国間の対立、階級的搾取、制度的抑圧、そして気候変動のますます終末的な結果を社会主義に置き換えることができる。

付記:下訳にhttps://www.deepl.com/translatorを用いました。

アメリカ大統領選挙から議会制民主主義の限界を考える

アメリカ大統領選挙から議会制民主主義の限界を考える

1 選挙の分析

1.1 ヒスパニックの動向(デモクラシーナウ)

1.1.1 ラテン系 有権者の投票が急増した

Juan Gonzalez1は、今回の大統領選挙の最大の特徴としてヒスパニック(ラテン系)の有権者の投票が急増し、ラテン系有権者3200万人のうち2600万人が投票に行ったことを指摘している。これまで、ラテン系有権者の投票率は5割を切っていたが今回は、史上はじめて50パーセントを上回り、64パーセントになる。2016年の選挙よりも800万人も多い。地域別でもラテン系の投票者の急増はまざましく、投票総数のうち「カリフォルニアとニューヨークです ラテン系の票の割合は息をのむようなものでした カリフォルニア77% ニューヨーク72%」を占めている。ニュージャージー、コネチカット、マサチューセッツ、コロラドもこうした傾向にあり、有権者の人口構成の変化をふまえると共和党が勝利する可能性はないかもしれない。

1.1.2 投票増加のエスニック・グループ別変化

人種別の投票数の増加では、前回の大統領選挙と比較してラテン系に次いでアフリカ系アメリカ人20%増、アジア系アメリカ人は16%増、白人は6%弱の増加だった。米国の世論調査はこうした動向を正確に反映しておらず、共和党支持者が多いキューバ系アメリカ人に偏る反面英語を話さない有権者が過小評価される傾向があり、これが実際の選挙予測との食い違いを生んでいる。

1.1.3 ラテン系有権者の危機感

COVID-19の感染被害は、人種によって不平等にあらわれていることが知られている。医療アクセスや職業上濃厚接触が避けられない仕事に就いていたりといった問題がある。これに加えて、トランプによるあからさまな中南米出身者への偏見(非正規移民を犯罪者集団と決めつけてメキシコ国境に壁を設置するような政策と言動)への危機感や、人工妊娠中絶を違法化しようとする動きへの危惧もあった。ゴザレスは「一つ確かなことは、民主党も共和党も、今後はラテン系の有権者を過小評価したり、無視したりすることはないということです。これは、待望の投票の民主化として広く祝われるべきものである。」と述べている。

ゴンザレスはラテン系のエスニックグループは、生物学的な人種ではなく、むしろ米国社会の差別のなかで自分たちを支配的な社会に対して守ろうとして生まれてきたものだという。

「米国におけるラテン系アメリカ人のアイデンティティは、支配的な社会が他者を定義し分類する必要があったことと、敵対的な社会で生き延びるために団結を余儀なくされたこと、その子どもたちが徐々に交りあいながら新しい社会構造「アメリカのラテン系アメリカ人」を作り上げた。疎外されたグループそのものによって、地に足をつけて有機的に作られた社会的な構造です。」

後に述べるように、今回の大統領選挙は米国がいかに大衆意識の右翼化、とりわけ白人(支配的なエスニックグループ)の右翼化が深刻な状態にあるのかを如実に示していたが、こうした傾向は、トランプの敗北では終りにはならないと警告している。

「白人女性の55%を含む58%の白人アメリカ人がなぜドナルド・トランプに投票したのか?米国が世界で最も強力な帝国主義国家としての地位を固め、国内の経済格差が拡大する中、右翼運動は国内でのみ成長しており、トランプの敗北がその成長を止めることはないだろう。進歩的多数派を構築する鍵は、より多くの若いラテン系住民を投票に動員し続け、有色人種の人々、組織化された労働者、およびそれらの同盟者によって右翼候補支持を抑えこむことだ。」

ここで表題に「左翼」としたが、左翼は多様でひとつではない。ひじょうに漠然とした定義だが、人種、性別、国籍などによる差別を否定し、社会的な平等のために社会の伝統や現状の政治、経済、法制度や文化変革することを厭わない立場と考えておく。政治的権力の否定(国家の否定)を重視するアナキズムから資本の支配の否定を重視するマルクス主義まで考え方は多様であり、また、具体的な政治過程についても、体制内改良の可能性を重視する立場から一切の既存の制度に頼らない立場まで、また闘争の手段を平和的な手段に限定するのか武装闘争を肯定するのかでも立場はまちまちだ。そして、一般に「社会主義」とか「共産主義」と同義とみなされる場合もある現存の社会主義を標榜する国家、中国、キューバなどや20世紀のソ連、東欧のかつての「社会主義」を標榜した国々を「社会主義」として認める立場もあれば、これらを「社会主義」の名に値しないとして否定する立場もある。冒頭に述べたように、こうした多様性がありながら人種、性別、国籍などによる差別を否定し、社会的な平等を目指すという点では共通しているといえる。

ちなみに右翼もまたその考え方は多様だが、共通していえることは、社会的平等を否定し、伝統的な価値を最も重視する立場は共通している。ただし「伝統」の内容は多様であって、宗教的な伝統だけをとっても、西欧社会だけをみてもキリスト教の伝統もあればキリスト以前の多神教の文化(ギリシア、ローマや北欧)まであり、ひとつではない。

1.2 アナキスト(Crimethinc)

Between Electoral Politics and Civil War
Anarchists Confront the 2020 Election2

1.2.1 代表制民主主義の否定と選挙への態度

一般にアナキストは民主主義を直接民主主義であるべきで代表制をとることに批判的な場合が多いので選挙には消極的だ。米国のアナキスト系のサイトCrimethincは、今回の大統領選挙では、アナキストたちも無関心ではいられなかったという。

「アナーキストが選挙の結果を心配するのは当然のことである。警察、刑務所、国境、その他の抑圧を廃止するために戦い続ける中で、選挙での勝利であれ、その他の手段であれ、どの政権が権力を握るかは、私たちがどのような課題に直面するかを決定づけるからだ」

1.2.2 ラディカルな要求の改良主義的なとりこみ

他方で、選挙に全てを委ねることの問題も指摘している。たとえば、BLMの運動のなかから提起されてきた警察の廃止というラディカルな要求の問題がある。警察による殺人も含む暴力は米国の人種差別が制度化、構造化されていることから生まれている。BLMでは、警察の介入を排除してコミュニティを自衛する動きが活発化した。これに対してトランプは、警察の強化から軍の動員まで目論むなどBLMや右翼の暴力と対決してきた諸々の反ファシスト運動、一般にAntifaと呼ばれるが、固有名詞でもなければ特定の組織を指すことばでもない運動をとくに名指しして摘発を主張した。大統領選挙でバイデン陣営は、トランプの治安維持と人種差別主義的な警察擁護に対して、警察の廃止ではなく、警察への財政支出のありかたを改革するという対案を提案することによって、警察をめぐる原則論を退けてしまう。「改革派は、この大胆な提案を薄め、ロビー活動によって警察の『資金繰りを切り崩す』という提案にすり替えたのである。当然のことながら、闘争を政党政治と政府の手続きの領域に還元してしまった結果、警察の財政出動すら理想的に思えてしまう。」

1.2.3 警察と極右の暴力の問題

警察や極右の暴力がエスカレートするなかで、ある種の「内戦civil war」が一部の活動家のなかで現実味を帯びて議論されるようになる。

「極右勢力が内戦を叫んでいる理由は複雑だ。草の根レベルでは、一線級の人種差別主義者たちは、文化戦争と人口動態の変化で自分たちが負け組になっていると感じている。一部の人種差別主義者は、公然とした敵対行為を先延ばしにすればするほど、自分たちの立場が悪くなると結論づけているようだ。彼らが過激化するにつれ、ドナルド・トランプやタッカー・カールソンのような民主主義者は、彼らの忠誠心を繋ぎとめるために、彼らとともに過激化せざるをえなくなる。」

選挙運動やBLMのデモがを広がりをみせるなかで、極右が銃を公然と携帯して威嚇するスタイルが拡がると同時に、極右や警察の暴力への自衛手段として、武器を携行するアンティファやコミュニティの活動家も登場する。著者は、「極右が内戦を求めているのであれば、私たちはこのパラダイムを特に疑うべきである」と述べる。しかし、問題は一筋縄ではいかない。暴力を否定して、選挙運動に集中すると、選挙という制度を前提にして選挙で多数をとれるような政策に絞って主張を展開することになるから、警察の廃止などというラディカルな主張はできなくなる。右翼が危機感から武力闘争へと傾斜するなかで、これに武力で呼応することになれば、右翼が前提している武装闘争=内戦の罠にはまることになる。[デモでの銃の拡散は、右翼の武装闘争と土俵を共有していることを反映している」

Crimethincの著者は、武装闘争と選挙運動という二極化に対して「常在的な拒否と反乱」を提起する。

「武器の奪い合いで個々の派閥が互いに戦う内戦の代わりに、私たちは水平的かつ分散的に反乱を広め、権力の制度とそれを支える忠誠心と対峙し、忠誠心を不安定化させることを目指す。このプロセスの第一段階は、いかなる法律、多数派、指導者が私たちの服従を当然のこととする考えを否定することである。第二のステップは、武力だけで目的が達成可能だというロマン主義を捨てることである。第三のステップは、既存の秩序を永続させるような私たちの役割を拒否することである。」

そして、「バイデン大統領の下では、不満を持つ極右からの攻撃が増えるだろう」という見通しのもと、バイデン政権について二つの点を指摘している。

「もしバイデンが大統領職を確保することに成功したら、私たちは直ちに彼と対決することに軸足を移し、彼の政権がどのようにしてトランプのアジェンダを実行し続けているかを示さなければならない。」

こうして彼らも前述したゴンザレスの場合同様、バイデン政権が誕生することで現在の深刻な極右の台頭や警察の暴力の問題が解決するとは考えていない。

Crimethincの著者は、社会全体の変革をどのように見通すのかという観点よりも、小規模なコミュニティの活動の原則に焦点をあてて上のような六つの原則を立てているように思う。こうした問題提起のスタンスはアナキストらしいもので、後述するように、マルクス主義に近い立場の社会主義者の場合は、より大きな体制全体の変革のプログラムへの関心が中心になる。

1.3 コメント(選挙制度と二大政党の限界)

言うまでもなく、アナキストたちが選挙に幻想をもったわけではなく、誰が権力者となるかで権力の抑圧装置としての機能に変化がありうるからだ。他方で、選挙が政治の全てではないのであり、「選挙政治は、人々に、自分の夢を追求するのではなく、2つの悪のうちのどちらか少ない方を支持するように圧力をかけ、それらの夢をますます手の届かないところに押しやってしまう」ことを指摘している。

選挙=議会制民主主義を原則として擁護する立場のばあい、選挙で選ばれた権力に対して抵抗する権利はどのようにして、あるいはどのような手段であれば正当化されるのか、という問題は真剣に議論されることの少ない問題かもしれない。次の選挙で勝利するための選挙運動であれば、選挙による民主主義の手続きの枠内の行動になる。代議制民主主義だけが政治の選択肢であるという考え方は、選挙以外の方法で権力を倒すという選択肢の正当性を否定することになる。しかし、そうであるなら、民衆の思想信条の自由、言論表現の自由によって保障されている直接行動の権利は、議会制民主主義の手続きに収斂するような範囲でしか認められないということになりかねない。言うまでもなく、いわゆる民主主義を標榜する国であっても、大衆の「反乱」ともよべる街頭闘争は重要な政治的な効果をもち、権力に影響を及ぼす。投票行動に還元できない行動の可能性を最大限保障することは、政治的な合意形成のひとつのありかたとしての議会制民主主義の結果とも連動する。

二大政党制は、つねに、この二つの政党のうちのよりマシな方を選択することによって、マシではない方が権力につくことを阻止するという方向で、人々の政治への関わりが誘導されてしまう。このどちらによっても実現できない課題は放置されることになる。これに対して、議会制に還元できない大衆運動はその多様性において少数者の意思表示のあり方として必須の条件をなす。

1.4 Anti Capitalism Resistance

以下は、Anti Capitalism Resistanceのサイトに掲載されたPhil Hearse「選挙後の忍びよるファシズム」という記事の紹介である。3

1.4.1 「忍びよるファシズム」の定義

欧米では、極右の台頭から、主流の政治の携行が右傾化するなかで、あからさまなファアシズムというよりも、人々の警戒をかいくぐるように、密かにファシズム的な傾向が政治や社会に浸透しはじめていることへの警戒が強くなっている。

「忍び寄るファシズム理論は、極右が権力に向かって前進するために使っている人種差別的、外国人恐怖症的、反移民的な波に直接対抗する緊急の必要性を左翼や大衆運動に警告するものであり、アメリカでトランプを選出し、イギリスでBrexitを確保するために使われたメカニズムである。本当の危険は、私たちが傍観し、すべては「普通」に戻るという極端な楽観論を採用していることにある。」

トランプが敗北し、バイデンが大統領になれば、これまでの異常な政治が終りを告げ、やっと正常になる、という安堵感がありとすれば、こうした感覚そのものがもたらす気の緩みを著者は警戒する。今回の大統領選挙については、トランプが敗北したことよりも、敗北しても彼が7000万票を獲得し、その支持者たちの熱狂が冷めない現状や、警察内部に強い支持者が存在することを重視する。

「もしトランプ氏がホワイトハウスから引き剥がされた場合、トランプ主義とアメリカの極右は敗北して政治の舞台から追放されることにはとうていならない。7,000万人の有権者は、トランプにとって計り知れない潜在的な基盤である。今後数週間から数ヶ月の間に、トランプが支持者の大規模な集会で演説し、さらなる闘争に備えているのを目にするかもしれない。トランプ主義は、さらに言えば、共和党をいまだにしっかりと握っている。(中略)共和党議会の人々は、トランプと決別する可能性は低いだろう、なぜなら、彼の忠実な大衆基盤は、共和党議員らがトランプから決別すれば、彼らの政治声明を終わらせることができるからだ。」

プラウドボーイズや武装した民兵の大規模な動員といった現象は明かにファシズムといってよいもので、「たとえ彼らが卍ではなく星条旗を敬礼していたとしても」ファシズムとみなすべきだというだ。こうした勢力は、地域の警察の大きな支持を得ておる、その数は何万人にもなる。「彼らはトランプの大衆基盤の重要な一部なのだ」と警戒する。

トランプの支持者は、均質で完成されたファシスト集団ではない。しかし、彼らの多く、何百万人もの人々は、明らかに(ブルジョア)民主主義を弾圧し、それを独裁的な権威主義政権に置き換えることを支持するだろう。」

1.4.2 なぜ居座るのか

大統領選挙でのトランプの敗北がほぼ明かであるにもかかわらず、トランプは執拗にホワイトハウスに居座っており、これを権力への執着とみなす見方もあるが、著者はむしろ、7000万に及ぶ得票という大衆的な基盤に着目すべきだという。

「トランプがホワイトハウスを離れることを拒否したのは、現段階ではおそらく、土壇場でクーデターを起こそうとしているのではなく、選挙が「盗まれた」という感覚をかきたてることで、トランプ主義者の大衆基盤を構築し、固めようとしていることを示しているのではないだろうか。」

一般に議会政治では、投票行動で敗北した側に投票した有権者は、多かれ少なかれ、その結果を受け入れつつ、次の選挙のために政権批判の運動へと軸足を移すが、今回の選挙ではこうした傾向に加えて、選挙の結果を受け入れないトランプ支持の有権者の数があまりにも膨大に存在し、こうした大衆の支持を固めることを目的にして居座りという戦術をとっているのではないか、というのだ。もしそうだとすると、この戦術は、トランプの政権続投という結果をもたらさないとしても、7000万票をとりこむことで国家の分断を回避しようとすれば、バイデン政権は右傾化せざるをえないことになる。

著者はその一例として人工妊娠中絶の問題をとりあげて次のように述べている。

「極右は、バイデンを妨害し、中絶が禁止されている州をバックアップするために、最高裁と上院のその可能性の高いコントロールの制御を使用して、事実上ロー対ウェイド判例(中絶を合憲とした最高裁判決)を破棄するだろう。バイデンはカトリック教徒であり、彼がこれに反対するかどうかはっきりしない。オバマケア(そのすべての制限を持つ)もまた、四面楚歌になる可能性がある。」

バイデンの民主党が形の上では政権にありながら、その実質が「リベラル」とはいいがたい右傾化した政策へと引き寄せられかねない危険性がある。こうした事態がまさに忍びよるファシズムと呼びうるものということができるかもしれない。

Anti Capitalist Resistanceの別の記事もトランプの大量得票を問題視する。4今回の選挙は、民主党の勝利とはいいがたく、投票率はほぼ互角ともいえるもので、投票率がかなり高(約67%)ために、今回は2016年よりも多くのアメリカ人がトランプに投票したことにもなっていることに注目する。そして、このエッセイで次のような疑問を投げかける。

「トランプは、無能者、ナルシスト、連続嘘つきであるという事実。彼はその「人民の男」の行為があからさまなフェイクのダサい億万長者のビジネスマンであるという事実。彼は人種差別主義者、性差別主義者、いじめっ子、女性への虐待者であるという事実。彼が公然と偏見と暴力と他者への侮蔑を扇動し、殺人警官とファシストの民兵を容認しているという事実、23万人のアメリカ人(集計された数字)が彼の否定と過失のおかげでコロナウイルスで死亡したという事実。にもかかわらず、7000万人弱のアメリカ人が彼に投票した。」

私もこの疑問を共有する。一般に、トランプの見えすいた嘘、白人貧困層の境遇に共感などもっていない彼のライフスタイルなど一目瞭然の現実を無視できない数の有権者が、それでもトランプに投票したのかは、きちんとした分析が必要だ。7000万の米国の有権者を、極端に非常識な愚か者だと判断することはできない。たぶん日常生活では常識をもった行動をしているはずの多くの人々の何かがある種の信じがたい投票行動をとったとすればその理由を合理的に解明しなければならない。このエッセイではそこまで立ち入ってはいないが、トランプへの投票で米国の伝統的なリベラリズムや議会制民主主義への大衆的な懐疑がはっきりしたという。

「トランプは日常的にリベラルな議会制民主主義の手続きやプロトコルに違反している。彼はこれを平然とやっているだけでなく、彼の中核的な支持者は積極的にこれを支持し、多くのアメリカ人が消極的に支持を与えている。」

「もしトランプが選挙に負けてホワイトハウスを去ることになれば、ワシントンに潜伏するのではなく、彼の基盤を動員してバイデン政権を包囲し、BLMや他のラディカルな抗議者に立ち向かう可能性がある。

2024年に78歳で大統領候補になるのはあまり信憑性がなく、共和党のボスたちは動き出したいのかもしれない。有権者の忠誠心は圧倒的にトランプにあって共和党にはない。トランプは、1920年代や1930年代のファシズムに非常によく似た、暴力的で人種差別的な大衆運動のリーダーになる可能性がある。この再動員されたトランプの基盤は、中絶、福祉の権利、公民権法制、エスニックマイノリティやLBGT+コミュニティに反対する新たなキャンペーンに活力を与える部隊としても利用される可能性がある。」

1.4.3 現代のファシズムの三つの原因

このエッセイで著者たちは現代のファシズムの特徴を三点指摘する。ひとつは新自由主義による福祉のコンセンサスの解体である。

「戦後の「福祉」コンセンサス–経済成長、完全雇用、強力な労働組合、生活水準の向上、住宅、教育、健康、年金、福利厚生に対する高水準の公的支出に基づく–の崩壊が、合意に基づくブルジョア支配の基盤を大きく破壊したことである。伝統的産業の衰退、恒久的な失業率の低下、停滞した賃金、腐敗した公共サービス、横行する企業権力、そして異常なレベルにある社会的不平等は、制度の正統性の危機を生み出した。ファシズムとは、社会的な怒りが支配階級に向けられないようにするために、スケープゴートに向ける反動的な政治力の組織化である。

いわゆる新自由主義政策と伝統産業の衰退がもたらした不平等の拡大のなかで、大衆的な怒りをなぜ社会的平等を要求する左翼が受け止められず、ファシズムともいえる傾向に屈することになったのかが左翼にとっても重要な宿題になる。

第二に、大衆的な抵抗や異議申し立てを暴力的抑えこむ弾圧体制である。

危機の影響は、社会と政治を二極化させることである。下からの闘争が爆発的に起こる危険性が残っている。このなかでファシズムは、積極的に反革命的な勢力となり、武装した活動家の中核は、意義を唱える者たちに対する警察の弾圧を直接支援し、受動的な反動的大衆は、抵抗する人々への国家暴力のエスカレートに屈服することになる。こうしたことは、今年の夏のアメリカのBLM抗議行動で明らかになった。

この指摘は、前述したように暴力の問題である。警察と極右が連携してつくりだされる抵抗する大衆への暴力だけでなく、この暴力を容認する「受動的な反動的大衆」の存在がこれを支えてしまう。「ファシズムは、積極的に反革命的な勢力」と述べられているが、BLMが革命と呼びうるような社会体制全体を転覆するような勢力となりうるかどうかははっきりしていないし、運動の参加者の意識も「革命」と呼びうるものとはなっていないのではないか。

三番目に指摘されているのが産軍複合体と多国籍企業支配体制の強化である。

第三に、過剰蓄積と過少消費の長期的危機に悩まされている世界資本主義システムの中で、軍産安全保障複合体がますます重要な一翼を担うようになりつつある。軍隊、警察、刑務所、国境、警備員、電子スパイ、データ収集などへの国家支出が増大し大規模化しているということは、システムの中心にある巨大な多国籍企業に有利な契約がなされていることを意味する。」

ここで記述されていることは、その限りではその通りと思うが、このような多国籍企業と軍の融合は、米国では一貫してとられてきた体制であり新自由主義に固有なわけではなく、むしろ20世紀の米国資本主義を通じてみられる。この産軍複合体とファシズムと呼びうるような右翼大衆運動の構造との結びつきについてはより立ち入った検討が必要だと思う。本稿の課題からそれるので一言だけ付言するが、現代のファシズムは、「サイバ=ファシズム」とでも命名できるようなネットの言説の社会化のメカニズム抜きには論じられないと私は考えており、この意味でいえば、IT関連の資本と国策が連動して大衆的なコミュニケーション空間をファシズムと呼びうるような性格のものにする基盤となっていると思う。

1.4.4 分断される労働者階級

左翼の観点からすると、社会的平等の実現にとって、階級的な不平等の問題は最重要の解決されるべき問題とみなす考え方が19世紀からの伝統だ。にもかかわらず、労働者階級の分断がますます顕著になり、階級としての団結も、団結の先に見通せなければならない平等な社会の構想が後退してしまっている。

「労働者階級の組織は、40年間の新自由主義的な衰退によってすでに劣化している。労働組合の組合員数は劇的に減少し、先進資本主義世界の多くの地域では、労働者階級の組織は事実上存在せず、ストライキ率は、特にイギリスでは底をついている。組織化された、闘争的で、階級意識の高い労働者運動である「自己のための階級」のこの急激な衰退は、労働者階級の内部にファシストの前進のための巨大な空間を作り出した。労働者階級は分裂し、ナショナリスト、人種差別主義者、外国人嫌いの勢力–第二波ファシズム–の大衆基盤は、より重く労働者階級的なものになっている。」

現代のファシズムは原子化され、疎外され、それゆえにナショナリズム、人種差別、性差別、暴力、権威主義の極右政治に開放されている労働者階級を通って「染み出す」ファシズム」であるとみる。「戦後すぐの安定した、高給取りの、組合化された仕事から追い出された、年配の、白人、男性労働者階級に訴えている」ということになるが、こうした階層だけでなく若年の白人労働者階級のトランプ支持も無視できないと思う。というのも、大統領選挙で大きな影響を与えたのは、高齢者のアクセスが多い伝統的なマスメディアだけでなくSNSの影響が無視できないからだ。

このエッセイでは、最後に「私たちは、現実を直視しながら、人類と地球の危機は、革命的な組織の危機なのだと言う。だからこそ私たちは、国際主義、エコ社会主義、民主主義、下からの闘い、被抑圧者との連帯に基づいた新しい革命的組織を構築するプロジェクトに身を投じてきたのだ。」と締め括るが、先に紹介したアナキズムの主張と比較するとマクロの社会変革に関心の中心があるという点で、視点の違いがはっきりしているが、しかし、この紋切り型の宣言は正論だから否定はできないが、かといって魅力的とはいえない。

1.5 コメント(階級、エスニシティ、ジェンダー、環境…をめぐる課題)

トランプに無視できない数の白人労働者階級が投票したであろうことはほぼ間違いない。これはヒスパニック系労働者の投票行動と明かな違いになっている。このような結果は、新自由主義がもたらしたものかもしれないが、しかし、もしそうであるなら、より新自由主義による犠牲を強いられたはずのヒスパニックの票がトランプに流れていない理由が説明できない。レイシズムの観点がこれに加わると、階級かエスニシティか、という別の問題群の重要性が浮上し、更にこれにジェンダーの観点が加わると、更に階級闘争の位置づけのありかたへの再検討の必要がはっきりする。新自由主義だけでなく、社会運動のなかで最も長い伝統をもつ労働運動が新しい資本の搾取の構造に対応した運動を構築できなかったという運動の側の主体のありかたへの反省が必要なのではないかと思う。とすれば、「国際主義、エコ社会主義、民主主義、下からの闘い、被抑圧者との連帯に基づいた新しい革命的組織を構築するプロジェクト」がこれまでどうであり、今後どうあるべきかというある種の総括の視点も必要になると思う。

前述したアナキストの分析では、ここで論じられているような資本主義全体の経済や社会構造への批判や組織のあり方についての視点が重視されていない。このことはコミュニティを基盤にする小規模分散型の抵抗運動を重視するのか、それともより組織された全国的(国際的)な運動を指向するのか、という運動の考え方の違いがでてきている。労働者が労働現場で組織され地域での連携を模索することと、これを全国的に繋ぐ上で必要になる最低限の合意形成の方法は、運動のなかの「民主主義」のありかたと関わる問題でもある。この古くからある問題を、ネットやSNSの時代にどのように再構成できるか、はかなり重要な課題になってきていると思う。

2 バイデン政権への左派からの抗議行動が開始されている

すでに、バイデン政権がほぼ確実になっている今、バイデンの政権移行に対して、かなり深刻な危惧を抱きはじめ、行動にでている。とくにバイデンの移行チームのメンバーや次期政権の主要閣僚候補として名前が挙がっている人たちへの批判が噴出している。

2.1 サンダースの支援者たち

選挙運動でサンダースを支援してきた民主党左派とその支持者たちにとってバイデンのお評判は悪かった。(だからバイデンではなくサンダースを支援したわけだが)RootsAction.orgの代表、ノーマン・ソロモンは、サンダースの支持者たちが、バイデンが民主党の正式な大統領候補になった後に、バイデンに投票するための作戦を意識的に展開してきた。5前回の選挙でヒラリー・クリントンを忌避し左派に影響されてトランプが当選した苦い過去があったからだろう。

「私が代表を務めている組織、RootsAction.orgは選挙戦の間、バーニー・サンダースを支援し、バイデンが数十年にわたって企業の強欲、人種的不正、軍産複合体に仕えてきたことを示す文書を広く配布した。

しかし、トランプかバイデンかという選択は痛いほど現実味を帯びている。魔法のような思考は文学的な価値を持っているが、政治の世界では、二項対立の選択肢が出てきたときに現実から逃避するのは妄想であり、危険だ。選挙結果が他人に与える影響よりも、投票に関する有権者の感情に焦点を当てた一種の自己陶酔に陥ることがあまりにも多い。

ノーム・チョムスキーは「バイデンが好きかどうかは関係ない、それはあなたの個人的な感情だ、誰もそんなことは気にしていない」「彼らが気にしているのは、世界がどうなるかということだ。我々はトランプを排除し、バイデンに圧力をかけ続けなければならない。」と最近のビデオで語っている。」

RootsActionのジェフ・コーエンが立ち上げたプロジェクト「Vote Trump Out 」では、「2段階のキャンペーン 」を展開した。「まず、トランプを追い出すこと。そして初日からバイデンに挑戦する…スイング州に住む「左翼の有権者」を説得するのは簡単で、彼らが躊躇しつつもバイデンに投票するように説得するには、我々がステップ2について真剣に取り組んでいることを知ってもらえれば容易なことだ。」

左派はトランプを政権から追い出し、バイデンを政権につかせることを選択しつつ、バイデンに対しもきちんとした抗議運動を展開することを約束することで左派の支持者を動かそうとした。RootsActionが組織したVote Trump Outのキャンペーンでは次のよに呼びかけている。6

「初日からバイデンに抗議

ドナルド・トランプは、真実、良識、私たちの地球に、そして働く人々に戦争をしかけてています。私たちが危惧することからすれば、2020年にホワイトハウスから彼を追い出さなければなりません。

進歩派、左翼として、ジョー・バイデンとの意見の相違を縮めるつもりはありません。スイング州で民主党の候補者を支持することが、トランプを倒す唯一の手段です。そして、私たちにはトランプを倒す道義的責任があります。

もしバイデンが勝てば、私たちはその大統領初日から彼の前に立ちはだかり、人種的、経済的、環境的正義を前進させるような構造改革を要求することになるでしょう。その前にすべきことははっきりしています。今年の11月は、スイング州で#VoteTrumpOutで投票しなければなりません。」

2.2 移行チームのメンバーの問題

バイデンが当確になって以降、政権移行の具体的な準備が進んでいる。しかし、バイデンが組織した政権移行チームのメンバーや閣僚候補に対して、既に多くの批判が出されている。上述したrootsactionのサイトに「バイデンの移行チームには戦争利得者、政権周辺のタカ派、企業コンサルタントがいる」という記事が掲載されている。7

この記事では、「企業コンサルタント、戦争利権者、国家安全保障のタカ派など、目を見張るほどの数の企業コンサルタントが、ジョー・バイデン次期大統領によって、彼の政権のアジェンダを設定する機関の審査チームに任命された。」として移行チーム一人一人の経歴を紹介している。以下、その一部だけを紹介する。

  • リサ・ソーヤー。彼女は2014年から2015年まで国家安全保障会議でNATOと欧州戦略担当ディレクターを務め、ウォール街のJPMorgan Chaseでは外交政策アドバイザーを務めた。ソーヤーは、Center for a New American Securityの「米国の強制的な経済政策の将来に関するタスクフォース」の一員であり、米帝国への屈服を拒否した国を不安定化させるために使われる可能性のある経済戦争の会議に参加。「ソーヤーは、米国政府はロシアの「侵略」を抑止するのに十分なことをしていないと考えており、欧州の米軍は2012年のレベルに戻るべきであり、ウクライナへの攻撃的な武器の輸出は増加すべと考えている。」
  • リンダ・トーマス・グリーンフィールド。米国務次官補(アフリカ問題担当)。バイデン・ハリス国務省チームのリーダーに任命。「彼女は、リビアでの戦争を推し進め、イラク侵攻を支持し、ルワンダの大量虐殺を可能にした国連の平和維持要員の解任決定に関与したスーザン・ライス元米国家安全保障顧問の揺るぎない味方」
  • トーマス・グリーンフィールド。 「マデリン・オルブライト元国務長官が会長を務める世界的なコンサルティング会社、オルブライト・ストーンブリッジ・グループの一員として、防衛産業のためのロビー活動」
  • ダナ・ストロール。国務省のグループに参加し、「新保守派のワシントン近東政策研究所(WINEP)のフェロー」「ストロールは2019年に上院民主党からシリア研究グループに参加し、シリアでの米国の汚い戦争の次の段階を構想するために参加した。提言には、米国が 「政治的結果に影響を与える 」ための梃子を与えるために、「シリアの資源が豊富な部分 」である同国の3分の1の軍事占領の維持が含まれていた。」
  • ファルーク・ミタ。オバマ政権の元国防総省職員。国防総省移行チームに任命。「イスラエルロビーとのつながりを育んできたイスラム系アメリカ人のPAC(Public Affairs Committee)であるEmgage( https://emgagepac.org 訳注)の役員を務めており、パレスチナ連帯の支持者から怒りの非難を浴びている。」

このリストはもっと続くのだが、彼らのかなりの部分が、オバマ政権時に米国政府で働いていた。特に外交政策について、バイデン政権が進歩的な方向をとると信じてきた人々にとっては落胆せざるをえない人選になっているという。

また、In These Tomes(古くからある左派系の新聞)にサラ・ラザレが「次期大統領は武器会社が資金提供するタカ派的なシンクタンクから引き抜いている。」(2020年11月11日)という記事のなかで次のように述べている。8

「国防総省の機関審査チームを構成する23人のうち、8人、つまり3分の1強が、兵器産業から直接金を受け取るか、兵器産業の一部でもある組織、シンクタンク、または企業での「最近の雇用」にリストアップされている」という。これらの企業には、レイセオン、ノースロップ・グラマン、ゼネラル・ダイナミクス、ロッキード・マーチンが含まれる。」

バイデンになってもやはり米国が構造的に有している政府と軍需産業の癒着は維持されたままだ。

なかでも、国務長官候補、アントニー・ブリンケンと国防長官候補、ミケーレ・フローノイへの批判は厳しい。バイデン次期政権の国務長官候補とされるアントニー・ブリンケンは、米国の戦争遂行に深く加担し、また武器輸出にも関わってきた軍国主義者であると批判されている。9 更に、国防長官候補のミケーレ・フローノイについては、CodePink, Our Revolution, Progressive Democrats of America, RootsAction.org, World Beyond Warなど運動体から連名で、11月30日に国防長官就任反対声明が出されている。10この声明では「私たちは、ジョー・バイデン次期大統領と米国の上院議員に、好戦的な軍事政策を擁護してきた歴史にとらわれず、兵器産業との金銭的な結びつきがない国防長官を選ぶよう強く求める。ミシェル・フローノイはこれらの資格を満たしておらず、国防長官としては不適任である。」として、具体的にこれまでいかに好戦的な外交に加担し、また兵器請負会社ブーズ・アレン・ハミルトンBooz Allen Hamiltonの取締役を務めるなど民間軍需関連企業で働いてきたのかを指摘して次のように結論づけている。

アメリカ国民は、兵器産業に縛られず、軍拡競争を終わらせることを約束する国防長官を必要としている。ミシェル・フローノイは国防総省の責任者になるべきではないし、他の者でもその資格を満たしていない者はなってはならない。私たちは彼女が指名されることに反対する。そして、私たちは、すべての上院議員が彼女が承認されないよう要求する多数の有権者からの声を屆けることができる大規模な全国的な草の根キャンペーンを開始する準備ができている。

ちなみにフローノイは東アジア外交について、今年6月にForeign Affairs11に「アジアの戦争を防ぐには―アメリカの抑止力の衰退が中国の誤算リスクを高める」と述べ、東アジアでの米軍の存在感を増す必要性を強調している。しかもこの米国の軍事力は、従来の軍に加えてサイバー領域での存在感の構築が強調されており、こうなると一般市民も利用するネットワーク全体が軍事化と安全保障の枠組で監視される危険性を招くよせることになる。

「全体的な作戦原則は「基地ではなく場所」に基づくべきである。内輪の範囲内では、中国の計画を複雑にするために、軍は潜水艦や無人の水中ビークル、遠征用航空部隊、緊迫した一時的な基地の間を移動できる機動性の高い海兵隊や陸軍部隊など、より小型で機敏な部隊パッケージにますます依存すべきである。また、安全保障協力に対してより戦略的なアプローチを取ることも不可欠であり、米国の同盟国やパートナーが抑止力に何を貢献できるかを評価し、それぞれのために複数年の安全保障協力計画を策定することも必要である。」

基地ではなく場所、という文言は一見すると辺野古に象徴されるような米軍基地建設に消極的にみえるが、実は逆であって、地域全体を軍事安全保障のシステムに組み込むこと、空間的な軍の自由で機動的な展開をより強化すべきだ、と主張するものだ。バイデン政権は、トランプ政権とは異なって平和主義ではないかとの根拠のない期待を抱くべきではない。

3 暫定的なまとめ

国民国家の選挙制度が、多くの外国籍の住民たちを排除していること、一国の政治に利害をもつ世界の多くの人々に選挙への参加の権利がないこと、制度そのものが多くの不公正や不平等を内包しているであろうことはこれまでも指摘さてきた大問題だが、ここでは、これらについては言及する余裕がない。また、米国の選挙が、共和党と民主党という二者択一の選択肢しかなく、文字通りの意味での左翼の政治勢力が、議会内左翼としてすら存在する余地がない、という極めて偏った政治体制であることもこれまで何度も指摘されてきているのでここでは言及しない。

上記のことを別にして、最大の問題は、トランプが敗北したことを喜べるような状況ではない、ということだろう。その理由はいくつかある。

  • 総得票の半数近い票を獲得し、前回よりも多くの支持を集めたこと。
  • 事実による主張が有権者にとって候補者選択の評価にならなかったこと。よく言われるように「ポスト真実」などと呼ばれる事態が実際の政治過程に大きな影響を与えたこと。
  • 労働者階級の分断が鮮明に示され、「階級」に基く闘争を基本に据えてきた伝統的な左翼や労働運動がこうした状況をどのように総括するかが問われているということ。

これらの原因がどこにあるのかを解明することが重要な課題になる。

上の「理由」だけでなく更に根本的に議論すべき問題がある。

果して選挙による民主主義は、最適な結果を生むシステムなのだろうか。民主主義を支える法の支配の根幹をなす憲法は、本当に民衆の権利を保障するものといえるのか、という問いが更に必要になる。この制度が正義や公正な権力を生み出す上で、最適な方法だという前提で政治と権力について議論してよいのかどうか、が改めて問われている。この問いは、米国に限らず、どこの国の代議制民主主義についてもいえる問題ではないか。日本の場合も、安倍政権への左翼や市民運動からの長年にわたる批判がありながら、政権は長期維持され、左翼の主張が多数を占めるような影響力を持ちえないままだ。大衆は間違った選択をすると安易に言うことは、大衆蔑視になるか左翼の権威主義になりかねない。たぶん、「ポスト真実」の時代に、なぜこうした時代になってしまったのか、なぜ真実よりも人々がフェイクを支持するのかを、正しさの視線からだけで判断するという方法そのものが妥当性を欠いているのだと思う。

どこの国にもある種のナショナルな「神話」がある。米国の「神話」はエスニックマイノリィが重層的な人口を構成するなかで、複数の神話が相互に干渉しあって摩擦を起こしているようにも思う。日本の場合、戦前の現人神神話の時代に、ほとんどの「日本人」がこのフェイクを「信じ」て自らの命を捨て、多くのアジアの民衆の命を奪ったという出来事を単に、真実と虚偽という二分法に頼っては理解できないだろう。同様のことはナチスのユダヤ人ホロコーストを正当化する過程についてもいえる。いずれも膨大な数の虚偽のテキストと言説が生む出された。今からみれば荒唐無稽な世界観や偏見を圧倒的に多くの人々が正義の証と「信じ」て受け入れたのだ。近代科学や合理主義が支配的な社会においてこうしたことが起きた歴史をほぼどこの国ももっている。この点を踏まえるとトランプのアメリカで表出した「ポスト真実」は新奇な現象ではなく、たぶん近代社会が合理主義の裏側で一貫して維持してきた神話の構造に由来するとみるべきではないか。この神話を再生産する根源にあるのは、様々なナショナルなアイデンティティであるとすれば、これは資本主義にとって本質的なことといわなければならない。

そうだとすれば、民主主義的な合意形成が科学や真実に味方するとは限らないということも明かではないだろうか。とはいえ、この時代になってなぜあらためてこうした「神話」が政治的な力をもってしまったのか。そのひとつの原因は、インターネットの普及によって一人一人が不合理な心情(信条)を不特定多数に発信することが可能になった結果として、これまではごく私的な領域でしか流通していなかった荒唐無稽な陰謀論のたぐいが流布する基盤を与えられたのかもしれない。とすれば、なぜ無視できない数の人々がこうした陰謀を信じるのか、という問題に立ち戻ることになる。米国でいえば、建国の神話や聖書の言説などの「神話」がその土壌を形成してきたのかもしれない。

こうなると私たちにとっての政治的な言説の場が再度「正しさ」をとりもどすには、こうした一連のフェイクを生み出す社会的な基盤との闘いなしには、実現できないということになりそうだ。

上述の点を踏まえて、再度代議制民主主義の問題を考えてみると、選挙そのもののプロセスが文字通りの意味での政治的言説の内実を伴う討議の空間を構築することなど全くできていないことに思いあたる。政治学の教科書や、議会政党が選挙と民主主義に与えている理念と、実際の選挙で起きている事態とはほとんど何の接点もない。選挙運動は、有権者に投票所に行かせて投票用紙に候補者の名前や政党の名前を書かせるためのテクニカルなプロセスであり、主要な関心は政治ではなく政治家の名前、政党の名前である。しかも政治家の名前が政治の内実を指し示す記号になっているならいざしらず、それもない空虚な記号である。この問題は実は極めて深刻な議会制民主主義の腐敗を示している。これに対して理想論を掲げることはほとんど意味をなさない。なぜなら、「名前」で投票するというシステムそのものが民主主義の実質を壊死させる原因になっているからだ。なぜ名前なのか、名前に政治の実体などないことになぜ気づかないのか。選挙で名前を書くという行為そのものがもつ空虚な行為が、逆に「ポスト真実」のような真実でないにしても意味が充溢した言説へ人々が魅かれる原因を作っているとはいえないだろうか。

Author: 小倉利丸

Created: 2020-12-07 月 18:16

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