差別・偏見の核心にあるナショナリズムと愛国主義

維新の会の橋下代表による「慰安婦」発言がおおきな批判を呼んでいる。さらに同じ日本維新の会国会議員、西村真悟衆院議員が、橋下の従軍慰安婦発言と関連して「日本には韓国人の売春婦がうようよいる」と述べ、後にその発言を撤回しつつも彼は、海外の報道では「従軍慰安婦がセックス・スレイブ(性奴隷)に転換されている。これが国際的に広がれば、謀略が成功しかねない」から「反撃に転じた方がよい」(サンケイ: http://www.sanspo.com/geino/news/20130517/pol13051714250002-n1.html )と述べ、これがさらに大きな批判を呼んでいる。

これまでの橋下や維新の会のイデオロギーからすれば、こうした発言を私は意外とは思わない。むしろ、これらの発言から私は、日本の愛国主義やナショナリズムは、その本質に差別と偏見を分ちがたいものとして構造化しているということ、そして、いかなることがあっても私は愛国主義者やナショナリストにはなるまいということを再確認させられただけだ。これは、今回の発言で注目を浴びた彼らだけの固有の問題ではない。また、日本人がナショナリズムの心情を発現するときに必ずといっていいほど表出させる差別と偏見の核心に、「性」をめぐる異常な自己肯定と他者の排除が存在していることに関わる問題でもある。ここでいう自己とは、家族であり、他者とは、戦時期にあったは慰安婦とされた女性たち、平時であれば「風俗」で働く女性たちである。これは、今現在の若い世代にまで及ぶこの国の「家制度」と性にまつわる差別の根強さそのものでもある。以下で述べるように、橋下発言の根源にある最大の問題は、戦争を支える銃後の制度として、そして平時にあっては資本を支える家族と妻役割を価値あるものとする一方で、その対極に慰安婦やセックスワーカーを価値なきものとして置く、差別と排除が、明言されることなく前提されている点にある。

特に問題になった5月13日の記者団と橋下との一問一答については、毎日が詳細を掲載している。http://mainichi.jp/area/news/20130514ddn041010034000c.html 橋下の発言は、以下のようにまとめることができるだろう。

(1)旧日本軍の「慰安婦」制度は「性奴隷」といわれるような強制的な制度だったという証拠はない。「軍や政府が国を挙げて慰安婦を暴行脅迫拉致したという証拠が出れば、日本国として反省しないといけないが、今のところはそういう証拠はないと政府が閣議決定している。」
(2)一般論として慰安婦制度は軍隊には必要である。「銃弾が飛び交う中で命をかけて走っていく時に、精神的に高ぶっている集団に休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰でも分かる。」
(3)各国の軍隊に共通して慰安婦制度は存在している(いた)。旧日本軍だけを悪者扱いして批判されるいわれはない、ということ。「なぜ日本だけが取り上げられるのか。慰安婦制度は世界各国の軍が活用した。朝鮮戦争やベトナム戦争でもあった。」「韓国とかの宣伝の効果でレイプ国家というふうに見られてしまっているのが一番問題だ。」
(4)一般に性犯罪を抑止するために「性風俗」を利用することは推奨される。「慰安婦制度じゃなくても、風俗業は必要。普天間飛行場に行った時、『もっと風俗業を活用してほしい」と言ったら、米海兵隊司令官は凍り付いたように苦笑いして『米軍では禁止している』と。建前論ではだめだ。そういうものを真正面から活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的なエネルギーはきちんとコントロールできない。」

また、「『侵略』に学術上きちんとした定義がないことは安倍首相の言う通りだ」という発言についても、橋下や安倍が主張したいことは、学術上の定義問題に借りて、日本のアジア侵略を正当化しようという典型的な植民地主義者の世界観にあるのだが、ここでは踏みこまない。

この橋下の発言には、明らかな間違いであること、事実認識としては「正しい」こと、価値判断としては間違っていること、論理的に整合しないこと、が混在している。

事実としての間違いは、慰安婦制度が強制を伴なった性的な〈労働力〉の徴用であったにもかかわらず、これを否定したことである。古代から近代に至る長い人類史のなかで、奴隷がどのような境遇で、調達され、労働に従事していた(させられていた)のかを踏まえれば、慰安所の女性を「性奴隷」と呼ぶことは、誇張とは言えない。また、すでに何人もの当事者の証言によって慰安婦が性奴隷といえる強制性を経験してきたことが明かであるにもかかわらず、軍の公式の記録がないことを理由に、慰安所の制度とそのための〈労働力〉の徴用を強制労働の制度と認めないのは、権力者のレトリックの域を出ない。(注1)

橋下は他方で、軍隊であれば「慰安婦制度が必要なのは誰でも分かる」と言う。もしそうであるなら、軍が規律を維持するためにも、誰もが率先して就きたいような仕事ではない慰安婦制度を維持するためには、強制性をともなってでも必要な慰安婦の数を徴用すべきだと軍が考えることの方が自然だろう。橋下が慰安婦必要論にたつのであれば、なおさら、必要なだけの規模の慰安婦を調達するための強制性が存在することの方が、自由意志による契約だけで実現可能であったとみることよりも論理的に整合性があるのではないか。

上記(4)にあるように、米軍は風俗の活用を「禁止」しているというが、これにたいして橋下は「建前論ではだめだ」と批判した。たしかに、戦後沖縄の米軍が沖縄の性風俗産業に与えた影響の大きいことはよくしられており、すでに多くの調査や研究がある。この点で橋下は事実としては間違った指摘をしていない。海兵隊指令官の応答は建前論であって、事実を無視しているという橋下の批判もその通りだ。だが、この海兵隊指令官の応答を「建前論」だというのであるなら、慰安婦の強制性を否定するという橋下の主張もまた「建前論」でしかない。むしろ橋下の主張の整合性をとるとすれば、上に述べたように、「軍隊の規律を維持するためには、軍隊の規模に応じた慰安婦が必要であり、その数の確保のためには、強制的な徴用があっても当然だ」ということになるはずだ。橋下のような価値観の人間にとっては、植民地とされた国の人間が、宗主国のために「犠牲」となることは、この500年の西欧の植民地主義が繰り返してきたことであって、日本の植民地主義だけが批判されるいわれはない、と考えるのだろう。このあたりが、たぶん、彼の本音だろう。

旧日本軍にかぎらず、軍隊が様々な形態の性的サービスのシステムを必要としてきた歴史があり、旧日本軍だけが、批判されるべきではなく、したがって、わたしは橋下とは逆に、あらゆる軍隊制度が批判されるべきであると考える。軍隊が性の秩序を維持するために強制的あるいは搾取的な性制度を付随させなければならないということを、国家の安全保障や国益を理由に正当化することはできない、というのが私の立場だ。橋下の発想の背景には、逆に、「お国のために男は、有無を言わさずその命を賭けているのだから、女が強制的であれ体を賭けることがあってなぜいけないのか」という、国家への絶対的な従属、個人の自由の否定があり、更に、この国家主義は、日本と植民地とされた地域との支配従属の構造のなかで、朝鮮人、中国人の女性たちへの支配と強制を正当化する。国家とは、本質的に、このようなおぞましい統治の機構であるいがいになく、国家が掲げる高邁な理念は、このおぞましさを包み隠すデマゴギーにすぎない。このことは、戦前、戦中、戦後を一貫している。

慰安婦制度が明かにしたのは、軍隊そのものの存在が、たとえそれが武力行使を実行していない存在であったとしても、その存在それ自体が、基本的人権の侵害となるような存在だということである。日本が軍隊を持つべきではない理由は、憲法9条の制約があるから、というのはいかにも狭すぎる。9条だけでなく、軍隊そのものが憲法が保障するあらゆる基本的人権に抵触するからだ、という観点を忘れてはならない。このことを慰安婦制度は問いかけているのではないか。

更に橋下発言の問題は、性風俗一般の是非に及んでいる。橋下は性風俗肯定=性犯罪抑止説の立場だが、性風俗産業は、性犯罪の抑止力になるというのは神話にすぎない。このことは一般論として考えてみてもわかることだ。性風俗産業が存在しない地域には性犯罪が多くみられるのかといえば、そうではない。沖縄だけでなく、基地をかかえた地域では戦後から現在に至るまで、様々な形態の性風俗産業もまた立地してきたが、そのことによって性犯罪が抑止されてはこなかったどころか、むしろ性犯罪の深刻な被害を受けてもきた。

性暴力に帰結する類いの性欲動は、軍隊そのものが構築する死の欲動と表裏一体のものである。このことは橋下がいみじくも吐露しているように、「精神的に高ぶっている集団」、つまり死の欲動による精神の高揚(暴力の高揚)の存在が、暴力の方向を性的な対象へと転移させるものであって、そうだとすれば、こうした「精神的に高ぶっている集団」そのものをなくすことなしには性暴力の解決はありえない。橋下発言に対して、サンケイ新聞の読者欄などで、橋下発言を支持する男性たちの主張では、軍隊に不可避的に伴う犠牲や被害は、受忍すべきことととして肯定すべきとしている。こうした肯定意見は、軍隊の存在そのものを疑問視しないという点で共通している。ここでは詳論できないが、この軍隊の死の欲動は資本の死の欲動と相似形をなしており、一連の性をめぐる欲望の構造を構成していることだけを指摘しておきたい。

性暴力は、性風俗産業における性的な欲望の消費構造と本質的に異なる性欲動の側面をもち、性風俗産業のなかでも起きうるもので、その被害者となるのがセックスワーカーである。性犯罪の抑止のために性風俗を利用せよという主張は、セックスワーカーならば、性犯罪の犠牲になっても仕方がない、という暗黙の発想がその背景にありはしないか。性暴力の欲動は、性風俗が前提としている契約にもとづくサドマゾヒズムを含む性的なサービスとはあいいれず、そもそもが「契約」を一方的に破るという力づくの行為欲求が性欲動へと繋るという特異性が介在している。性暴力の加害者は、強姦するのか性風俗で性欲を満たすか、という選択肢から前者を選択しているわけではない。強姦はむしろ、軍隊の死の欲動と密接にむすびついており、その根源にあるのは軍隊という組織が形成する人格である。あるときは「素人」の女性(ドメスティック・バイオレンスのように、その暴力が妻や恋人に向うことも珍しくない)が、またあるときは風俗で働く女性が、その犠牲になる。

橋下のような発言があるたびに、橋下の発言を批判する側にあっても、性風俗で働く女性たち、セックスワーカーの権利(奴隷としてではなく労働者としての権利)にどれほど関心が寄せられているのか疑問に思うような発言に出会うことがある。

性に関わる労働に限って、その労働の形態の強制性や搾取だけではなく、その具体的な労働そのものについての価値判断がつきまとう。これは、他の強制労働とは明らかに異なる。炭鉱や軍事工場などでの強制労働が問題とされる場合、その結果として生産される生産物によって多くの人命が失なわれるような武器や装備となるとしても、その労働の具体性を価値の低い労働として問われることはないが、性にまつわる労働の場合には、それが妻や恋人との性行為(アンペイドワークとしての性労働)なのか、風俗での性交渉(ペイドワークとしての性労働)なのかで、全く正反対の価値観や態度がとられる。風俗の労働を卑しい労働とみなして、こうした卑しい労働に就かせることへの批判の観点と労働の強制性とが明確に切り分けられないまま論じられることがある。その結果として、セックスワーカーの労働者としての権利についても十分な関心が寄せられないまま、ある種の社会的排除の側に加担してしまうような言説に陥る危険性がみられる。しかも、現在の風俗産業で「自由意志」で働くセックスワーカーたちに対しては、尚更、その自由意志の故に、労働者としての権利などというよりも、そもそもそうした労働からの離脱をこそ要求しかねない。

慰安婦制度への橋下の発言が露呈させている問題の核心は、実は「風俗産業」にではなく、このような問題では正面から論じられることないもう一つの性制度にこそある、つまり、家族あるいは夫婦の性制度である。近代資本主義は、一夫一妻制の婚姻制度の周辺に性産業を含む家事サービス産業を配置した資本主義に固有の一夫多妻制の制度である。妻役割のなかの重要な要素のひとつに性的な快楽の充足があり、これはロマンチックラブから子産みを目的としない性行為という一連の性欲動の資本主義的に固有な欲望の形態に規定された身体性と関わりがある。慰安婦制度や基地周辺の風俗産業は、妻や恋人を同伴できない軍が構築する一夫多妻制度の一類型であって、夫婦関係あるいは家制度、あるいはロマンチクラブ幻想が軍隊を支える銃後の制度であることと表裏一体である。この意味で、慰安婦制度の問題は、家族制度における性欲動の問題として論じるべきものなのだが、このように論じたものがどれほどあっただろうか。(若松孝二の映画『キャタピラー』は、この点を示唆した稀有な例かもしれない)

戦時期の侵略した側にいた銃後の女性たちは、軍隊に行かず、敵を殺すこともなく、強姦や慰安所での慰安婦との性行為で欲望を満すような行為に直面する被害当事者ではないが、しかし、こうした男たちの行為を可能にするような戦争への加担の構造と無関係であったとはいえない。このことは加納実紀代の「銃後史ノート」以来すでに多くの研究がある。聖なる家族の価値は、貶められた慰安婦によって支えられてきたのであって、性制度としての家制度は、この慰安婦問題の埒外にあるとは言えないばかりか、むしろその核心をないしている。慰安婦の「性奴隷」としての性格を否定する保守主義者や右翼が、同時に、家族の絆や愛情という「建前」の価値に固執し、家族に内在する家父長制的な強制性としての性関係を軽視する傾向にあるのは、偶然ではない。夫婦や恋人のおける性と慰安婦や風俗での性は、ここでは、これら制度における女性の権利とは無縁なところで、「肯定」の構造=資本主義的な一夫多妻制、あるいは資本主義的な性の秩序を構成している。

慰安婦制度への根底的な批判は、性産業を否定し、夫婦や恋人たちの愛情にもとづく性関係を肯定する立場では完結できない。むしろ、全てを否定の土台に載せること、とりわけ、性の秩序としての軍隊と家族制度への否定を避けることはできない。なぜなら、強制であれ市場の契約であれ、民法上の契約であれ、これらは不可分の一体的な構造をなし、資本主義の性の搾取(身体性の搾取)を構成しているからだ。制度を疑うことは、この制度を正当化する欲動を疑うことでなかればならない。欲動への懐疑なくしては性の権力秩序を覆すことはできないからだ。この意味で、橋下発言は、右翼、保守主義者の人間を犠牲にするナショナリズムの矛盾を露呈させるものであるだけでなく、さらに、橋下発言を批判する側が、慰安婦制度批判のスタンスを標榜しながら軍隊を容認したり、性産業を否定しながら家族や夫婦の愛情の構造を疑わないといったことであるならば、戦争も資本による搾取も否定できず、人間としての権利の構築を実現することはできないだろう。

参考文献

小倉利丸「性の商品化」、近藤和子編『性幻想を語る』、三一書房。
同「売買春と資本主義的一夫多妻制」、田崎英明編『売る身体・買う身体』、青弓社
同「性の商品化と家族の『聖性』」、立命館大学『言語文化研究』、15巻1号。
同 「人間の安全保障・人身売買・搾取的移住研究会」(2006年11月6日)の報告
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/documents/index.php?content_id=4&page=print

注1 20世紀に入って、一般に奴隷制は廃止され、多くの国で人身売買は違法とされた(日本も明治期のかなり早い時期に人身売買は違法とされた)。しかし、現実には、賃労働の形態を偽装した奴隷労働や人身売買は広範に見出せる。奴隷労働と賃労働の間にはさほど大きな本質的な差異はないことにこそ注目すべきである。

(2013年5月19日 ブログ)