総武線の両国駅を降りたつと、巨大な台形の建築物が目の前に忽然と出現する。周辺は比較的低い建物が多く、隣の国技館も大きいとはいえ深緑色の屋根に覆われておちついたたたずまいであるのに比べて、この銀色に輝く巨大な構築物は、当分の間は目立ち続けるに違いない。
空が落ちてくるような不安感
この建築物は、巨大だが、高層ビルというほどには高くはないという意味で、近代の巨大建築についての発想をひっくり返したところがある。なによりも、西洋の巨大建築において、「巨大」であることとは同時に高層であることを意味した。これは、バベルの塔の空想から中世の教会建築にみられる尖塔を強調する様式、そしてガウディのサグラダ・ファミリアにもエンパイア・ステート・ピルにも共通してしまう、上に伸びることへの、近代、前近代を問わない西洋における普遍的な欲望の表現ともいえそうだ。それは、日本における権威を強調する近代建築の一つのパターンをなしてもいた。大学の時計台から都庁の新庁舎まで、そうした例を探すのは容易なことである。しかし、江戸東京博物館は、4.1haもの敷地に、高さで言えば江戸城の天守閣の高さの建物にすぎない。両国駅あたりからの外観の印象は、地に這うような巨大さであり、全体として押し潰されたような台形の外観も含めて空へ向かう志向性よりもむしろ地に降りる志向が勝っている。こうした印象は、建物に近づくにつれて鮮明になってくる。これは、ちょうど西洋の教会建築と日本の寺社建築を比較したときに私たちが受け取る印象の違いと近いものがあるといえそうだ。
だが、こうした特徴は、俯瞰的にこの建物を眺めたり、遠方からの外観によって得る印象であって、建物の真下から受ける印象はまた別のものがある。まず私たちは、展示フロアが中空に吊るされ、それを下から見上げる位置に立たされるわけだが、下から見上げる巨大な天井(地上17m)はかなり圧迫感がある。下への志向性と中吊りされた展示フロアの組み合わせの結果、フロアと地面(「江戸東京ひろば」と名付けられている)にはさまれた空間は広く、脇は吹き抜けになっているにもかかわらず、必ずしも開放的な空間にはならず、上下から圧迫されるような息苦しさにとらわれる。あるいは展示フロアの床が空のように広がり、「空が落ちてくる」ような不安にかられてしまう。これは、多分にこうした建築物に慣れていないことによる違和感のなせるわざかもしれないが、なるべくはやくあの「空」にのぼってしまえば潰されることはあるまい、という気分とともにそそくさとエスカレーターに乗ることになる。
東京を支配する為政者の欲望
展示フロアは、5階と6階の二階に分かれているが、吹き抜けの構造になっており、大きな一つの空間のなかに江戸と東京が一望できるように工夫されている。これは、展示室を細分化する従来の博物館の構造と比べて、展示室の構造としては優れていると思う。ただ、空間全体の印象は、外観ほど意外なものではない。東京ドームのような巨大な閉鎖空間に慣れたせいもあるかもしれない。大きな単一の空間に江戸と東京を表現するということは、従来の博物館にありがちなカタログ的な展示ではないインスタレーション的な新しい表現を可能にしたといえる。そうした空間のメリットをどれだけ生かしていけるかが、この博物館の成否の鍵をにぎることになるのではないかと思う。
だから、江戸東京博物館を見るに際して、とりわけ私にとって関心があったのは、博物館という古くからある形式のもとに、この巨大な空間を利用して、憎報化社会の中枢ともいえる東京の過去と現在をどのように「解釈」し、「表現」しようとしているのか、ということであった。言い換えれば、新聞や本などの活字メディアとテレビなどの映像メディアに日々囲まれるなかで人々がなんとなく抱いている「東京」や「江戸」という都市のイメージに対して、この博物館は、何を新たに付け加えているのか、あるいはどのような新しい「理解」を示しているのかに関心があった。だが私のこうした関心は、ややへソ曲がりなものでもあって、この博物館が提示しようとする「東京」を見ることによって、この「東京」を支配する為政者たちの欲望を覗いてみようという興味から発したものでもある。
観覧者は、エスカレーターでまず6階まで一気に上がり、そこから5階へと降りながら展示を見ることになる。エスカレーターを降りると目の前に日本橋の実物大の模型(ただし長さは2分の1)があり、この橋を渡ったところから展示が始まる。5階と6階は吹き抜けになっており、日本橋から左下に江戸ゾーンが広がり、右下に東京ゾーンが広がる。6階は江戸ゾーンになっているから、展示スペースとしては江戸期の方が広くとられている。 各展示セクションは、江戸ゾーンが「江戸城と町割り」「武士の暮らし」「町の暮らし」「出版と情報」「江戸と結ぶ村と島」「江戸の四季と盛り場」「文化都市江戸」「江戸の美」「芝居と遊里」などで、東京ゾーンが「文明開化東京」「開化の背景」「産業革命と東京」「市民文化と娯楽」「関東大震災」「モダン東京」「空襲と都民」「よみがえる東京」などだ。学校の教科書のような網羅的な展示である。
網羅的展示の問題点
江戸と東京の全体像をできるかぎりの努力によって示そうという意欲は伝わってくるが、実は、この網羅的な展示の方法がこの博物館の最大の問題点でもあるように思われた。それは、二つの意味で、言えることである。一つは、網羅的であることの不可能性に、はたしてどれだけ自覚的であるか、という問題である。たとえば、江戸ゾーンは、最初に江戸を「都市計画」的な観点から俯瞰する展示がまずあり、その後に、武士や町人の暮し、経済、文化などの個別のテーマに進んでいく。東京ゾーンも同じである。たしかにここには何でもそろっている。しかし、逆に各テーマごとの横のつながりがそれほどはっきりしないから、テーマごとに頭を切り替えて見ていかなければならず、「江戸って何なんだろう」「東京がこれでわかったんだろうか」という混乱とともに展示フロアを後にし、エスカレーターを降りて外に出る頃には疲労感が勝って頭のなかは灰色になってしまう。テレビのように脈絡のない情報の流れに慣れているものの、こうした網羅的な展示は、よほど全体のコンセプトがしっかりしていないと「全体」のイメージを豊富にすることはできない。ワンフロアにするという設計者の意図に対して、「展示計画は、スペースを全部分割して担当者に割り当てられており、グローバルな文化生成のダイナミズムがよくわからない」(菊竹消訓編著『博物館の未来』鹿島出版会9梅樟忠夫との対談より)と批判が起きるのは無理もないところだ。だが、実は問題は、もっとややこしいのであって、網羅的であること、あるいはグローバルであることは、どれだけスペースがあっても十分ということはなく、また、もし、完壁に全体像を示せることがあるとすれば、それは文字通り江戸そのものを再現する以外にないだろう。そのようなことが不可能なことはわかりきっており、グローバルであることの限界も明らかなのである。つまり、どこかに取捨選択の「意志」を働かせざるをえないのだ。そのことにどこまで自覚的であるかどうかが実は問われているのである。
ムード的な江戸賛美で隠蔽
江戸ゾーンのコンセプトは、網羅的とはいえ、庶民の町としての江戸、文化都市としての江戸というところに置かれている。江戸期という身分制社会において、「庶民」というあいまいな概念が成り立つとは言い難いが、展示からは、武士も町方も、大家も店子も皆ある種の「庶民」「大衆」としてくくられそうな印象を受ける。中流の庶民意識にどっぷりつかった私たちにとって、一世紀以上も昔の生活を理解するはっきりとした参照枠があるわけではなく、時代劇のかなりいい加減な人間関係や日常生活風景を展示内容にあてはめて見てしまいがちだからだ。むしろそうした誤った常識を覆すためには、かなりはっきりとした自己主張が必要であるはずだ。すでにかなりまえになるが、江戸ブームのなかでのムード的な江戸社会賛美に対して、玉井哲雄が江戸のコミュニティへの過大評価を諌めて次のように述べたことがあった。
「大家・店子の関係などはもっとも代表的な例であるが、江戸時代の大家・店子関係は完全に身分的な支配・被支配の関係である。ところが近代以降の純粋な契約関係の上にたつ大家・店子関係という認識で、江戸時代の<大屋といえば親も同然、店子といえば子も同然>という言葉を解釈することから、江戸時代の大家と店子の関係は親子関係のように情愛のあるものということにされてしまう。だが事実はまったく違い、江戸時代における大家と店子は、大家が江戸町方支配機構の末端として店子を支配していたという関係にあり、店子は公的な場では必ず大家を通してしかその存在を認められていなかった」(『江戸一失われた空間を読む』三省堂)。
こうして、近代の契約社会では大家が店子の私生活に干渉することは許されず、相互の権利義務関係がはっきりと契約書に明記されていた時代の人間関係をそのまま思い浮かべて江戸の「庶民生活」を想像すると大きな誤りを犯すことになる。同様のことは武士階級とその他の諸階級との関係でも同じことが言える。最近では、武士をサラリーマンに見立てるCMをたまに見かけるし、「企業戦士」などという言い回しにもそうした類推が窺われるが、武士の仕事と職人などの仕事の質的な違いは、ホワイトカラーとブルーカラーの違いなどというものとは比較にならない相違があったことをついつい見落としてしまう。確かに展示を詳細に見ると、武士のいわゆる「勤務時間」は午前中しか働かないなど極端に短いし、仕事に就いている日数も非常に少ないのに対して、職人層の労働日数は現代の平均を上回っているといったことに気づく。しかし、そうした比較は自覚的に展示を見て、各セクションを行ったり来たりしないと難しい場合が多い。テレビの時代劇などの感覚に慣れてしまっている観客に対して、もし、「事実」の正確な表現を試みるのであるならば、それなりの現実の厳しさや、場合によっては残酷さもはっきりと示す必要があろう。そうした展示がないわけではなく、またかなりの努力も払われているものの、そうした「堅い」視点がどこかアミューズメント・パークっぽい、観客に媚びる意図によってうまく伝わらない場合があるのだ。博物館は、必ずしも学校の堅苦しい勉強の施設である必要はないが、遊園地などの娯楽施設である必要もない。必要なことは、常識を覆されたり、問題を発見することによるおもしろさを示しそみせることであり、新しい価値観の形成のヒントを探るという意味でのデータベースであるべきなのだ。
都市計画を反省する視点
東京についての展示のコンセプトは、初期は欧化のための都市計画に焦点が当てられ、大正デモクラシー以降の時期は大衆の生活に焦点を当てるという方法になっている。近代以降の東京を考える上で、何よりも必要なことが二つある。一つは、都市計画をめぐって繰り返されたさまざまな構想に関する事柄と、近代国家日本の権力の中枢を体現する都市に関わる事柄である。
都市計画については、「市区改正計画」と呼ばれた初期の頃から、さまざまな構想が出されながら、その多くは実現されず、実現にこぎつけたものでも、完成したとは言えないものが数多くあった。たとえば、模型で展示されている銀座煉瓦街にしても、ウォーレスによる当初の計画が実現されるのには、大蔵省と東京府との対立など巨大プロジェクトにともなう政治的な駆け引きがあった。また、ウォーレスが総煉瓦づくりをめざしたのに対して、実際にできあがった煉瓦街は、大通りに面した部分であり、「便所、台所、廊下といった下屋と、倉、物置、風呂といった付属屋」は蔵造と塗屋造が認められ、「店の裏手にはもっぱら蔵造と塗屋が並ぶ」(藤森照信『明治の東京計画』岩波書店)という状態になった。正面から見ると酒落た洋風、脇の小路からみると木造モルタルという今でもよく見かける見かけだおしの洋風建築の発想の根源が実はこうしたところにあるのかもしれない。東京の都市計画を見る場合のおもしろさは、この中途半端さなのであり、そのことを展示はむしろきちんと示すべきなのである。
あるいは、関東大震災後の「帝都復興計画」にしても、当初の後藤新平の壮大な計画が実際には大幅に締小されることになる。展示やその説明も実現された計画を中心としたものになりがちだが、むしろ実現されなかった計画についての再評価も必要であるし、なぜ実現されなかったのかについてもさまざまな検討が必要である。カタログでは、「当時の国家予算の3倍ないし4倍もかける彼の復興計画は、帝都復興審議会で強硬な反対にあい、計画は縮小された」と述べられているが、区画整理は当然住民の立ち退きなどをともなうわけだから、国家予算問題以外に住民による反対もあったわけである(越沢明『東京の都市計画』岩波新書 参照)。住民には行政とはまったく別のコミュニティへの関わりがあり、都市についての「理解」があるはずである。実はこの利害対立の構図をさまざまな角度から検討を加える中で、住民にとっての都市環境のあり方という問題も浮かび上がるはずである。明治以降の都市開発と都市計画は、常に時間の効率性(交通網の整備)と空間管理の容易さ(区画整理)をめざしてきた。それは、1960年代の高度成長とオリンピックを契機とした高速道路網建設の思想へと一直線に結びついていく。しかし、同時にこうした都市について近代的な発想は、たぶん60年代を境に大きな反省を強いられる。公害、交通渋滞とそれと裏腹にある大量の交通事故。伝統的なコミュニティの解体は、一方で近代的なクールな契約関係の普及をもたらしたが、他方で、地域住民によるコミュニティの自治を妨げ、上からの公共空間の管理を蔓延させもした。展示は、高度成長の前期あたりまでだが、それであっても東京の近代を形成してきた計画の理念への反省を含めることはじゅうぶん可能であるし、新しい発想を生み出すためにも、博物館を単なる権威的な歴史のプロパカンダ施設にしないためにも、多様な観点と複眼的なものの見方こそが、ぜひとも必要なのである。
このことは、権力の中枢としての「東京」を表現しきれていない、ということとも関わっている。大正デモクラシーの時期以降、展示の中心は、庶民生活や文化現象である。このあたりからは、ある年代から上の人にとってはさまざまな懐かしさをこめて展示を見ることはできる。しかし、戦争にしても、戦後の復興期にしても、個々の人々の記憶や体験としてそれらが残っている時期について、個人生活のレベルに焦点をあてることに、私は博物館としてあまり大きな意味はないと思う。やはり、ここでもっとも必要なことは、一方で若い人たちに経験を伝達するという意味で、個人の経験をふまえた展示をしながら、他方で、そうした個人の経験がどのようなところで日本の国家の政策と結びついていたのかを示すことが大切なのではないだろうか。たとえば、戦時期の警察や治安についての説明はほとんどないし、一方で侵略戦争とのつながりも明確ではない。空襲で右往左往した経験をもつ人々は多いだろうし、町内会レベルでの戦時動員体制を経験した人は多いだろう。しかし、そうした動員を支えた全体像を知るものは多くはないはずだ。戦争は「運命」であったわけではなく、計画した者がおり、動員を組織したものがいるわけである。そうした全体像を示すことが必要であろう。スパイに警戒するように呼びかけた戦中の政府のプロパガンダ放送が展示のなかでも聞けるが、こうしたデマゴギーがなぜ発生したのかを明らかにするのにはこれだけでは不十分である。こうしたテーマは、東京が同時に日本の首都でもあったという二重性を考慮すれば、必ずしもこの博物館のテーマからずれるものとはいえない。
語られていない「皇居」
実は、こうした問題は、都市を単なる地理的な空間としてのみ理解することではもはや不十分であるということを意味している。たとえば、ギー・ドゥボールは資本主義的な都市計画の発想を批判して「サイコ・ジオグラフィー」という概念を提示して、都市の地理空間とは相対的に別の空間相互の心理的な関係を示そうとしたことがある(木下誠訳『スペクタクルの社会』平凡社参照)。確かに、私たちは東京という都市を地図にあるような地理空間として知っているというよりはマスメディアのイメージや、JRとか地下鉄の路線図で知っているのである。こうした路線図は概念的なものであって実際の地理とは関係がない。地下鉄のように外の風景が遮断された乗物は、乗った駅と降りた駅の地理関係とは無関係に心理的な位置関係が成り立ってしまう。こうしてあらかじめ情報によって加工されたサイコ・ジオグラフィックなイメージを抜きにしては都市は成り立たない。博物館は、それ自体がすでに情報発信装瞳であるわけだが、そうである以上、マスメディアによって形成された都市のイメージや私たちがなにげなく抱いてしまっている常識のイメージを、ただ単に整理された形で表現したり、よりセンセーショナルに表現するというだけであってはほとんど意味がないだろう。
こうしたメディアとしての都市という観点から見た場合、やはり江戸東京博物館は「物」や地理空間へのこだわりが大きく、イメージとかイデオロギーといった形にならない都市のサイコ・ジオグラフィックなアウラをあらわにするという点では今一歩というところかもしれない。この意味で、たぶん、東京という都市を語る上で、欠かせないにもかかわらず、この博物館がもっとも語るところの少ないテーマがある。それは、皇居である。あるいは天皇制の空間的な表現といってもいいだろう。明治期の芳川顕正の市区改正案などでもみられるように、都市計画において、皇居や天皇の存在は決して無視されてはいなかったし、さまざまな位置づけがなされてきた。また、皇居周辺の都市計画における官庁街、ビジネス街の配置や建造物の高さの規制、皇居前広場の建設など、とりわけ戦前の天皇制国家の「帝都」建設に占める皇居の意味は大きかったはずである。ヨーロッパの都市との構造的な違いや、天皇制というイデオロギーが近代的な都市の策定とどのように関わり、都市の姿を具体化するさいにどのように影響を及ぼしたのかということは、近代の日本とその中枢に位置する東京という都市のいわば「深層」を理解する上でももっとも興味深いことの一つである。
ノスタルジーより問題提起を
最後に、地方在住者として、一言述べておこうと思う。入場者のなかには地方からの修学旅行生や観光客なども多数含まれているようだ。しかし、そうした地方在住者で東京の地理に詳しくない者にとっては、この博物館の展示は決して親切とはいえない。なぜならば、東京の現在の地図もなく、全体の地理的なイメージをとらえることがひどく難しいからだ。たぶん、東京在住の若者でも、六本木や原宿あたりで遊ぶ者にとっては、日本橋と銀座の位置関係からさらに下町周辺の地理になるとはっきりしなくなるのではないか。だから、前にも述べたように、この博物館によって、江戸や東京についてはっきりしたイメージをもつことは難しいだろうし、したがって、逆に日本中の地方都市がミニ東京的な様相を示しつつあるということの問題についても問題としては理解されないかもしれない。むしろ、度重なる災害等から不死鳥のように蘇り、その度に「高度化」する都市という漠然とした印象しかもてないかもしれない。
総じて、江戸東京博物館は、東京を多様な価値観によって相対化するというよりは、やはり東京を賛美する一つの仕掛けという域を出ていない。地域への愛着を住民が個人の思いとして抱くのは自由なことであるが、博物館は、問題が山積する都市の現状をノスタルジーで覆い隠すのではなく、むしろもう少し醒めた目で、この大都市に住む人々が議論を重ねていくのに必要な問題を提起するメディアとなる必要があろう。
出典:建築ジャーナル1993年10月号