皇室の危機管理

きょうは、「雅子の挫折・皇太子の不満」というタイトルなので、何を話そうか、いろいろ迷いましたが、「皇室の危機管理」という話をしようと思いました。これには二つ意味があります。皇室も一つの家族だとすれば、その家族がある種の危機に瀕しているらしいということで、そういう意味での危機管理という意味合い。もうひとつ、皇室が日本という国家の危機管理にどういう機能を果たしているのか、あるいは果たすべきだというふうに政府なりが考えているのかという、この二つの意味合いがあると思います。
今の皇室を巡る状況をどうみるか。大枠で言えば、いまの日本は「戦後国家」から、いろいろ紆余曲折を経て、ある種の「戦時国家」に突入したといえる状況です。その中で、今まで戦後国家の中で皇室が担ってきたある種の平和外交とか「皇室外交」と呼ばれていた部分──それが始まったのは七〇年代以降だと思いますが──そこで皇室が担ってきた役割というか、機能が大きく変質を迫られていると思うんですね。
けれども、「皇室外交」をめぐっては、たぶん支配層の中でもいろいろ基本的な路線の対立があるだろう。そんなことは僕はどうでもいいんですが、彼らの中では、たぶんかなりシビアな問題があるんではないかと思います。今までの「皇室外交」をどう総括するのか。その中でマサコのスタンスというのは、たぶん今の小泉のような、タカ派路線ではないのかもしれない、もしかしたらその辺に彼女のストレスの原因のひとつがあるのかもしれないというふうに思ったりもするんですが。
いずれにせよ、戦時国家としてどういうふうに皇室を変えなければいけないかというところにきている。その中で起きている問題として、いまの「皇室スキャンダル」があるんだということが一つです。
戦後の天皇制というのは、国家権力の中でイデオロギー装置としての役割を持つということが、憲法上はっきり明記されているわけです。ですから、天皇のあらゆる動きは単なる「私事」ではありえないわけです。戦後の日本国家がやってきたことは、戦前の天皇制がもっていた現人神的な天皇制の性格を、近代的な理想的家族像に転換させながら、つまり家族というものを一つの踏み台にしてナショナルなものへ統合を果たしていくという、そういう仕掛けとしてずっと位置付けてきたと思います。戦後の象徴天皇制は、常に家族というものとのセットで組み立てられてきた仕組みであった。
そうした戦後作られてきた天皇制が、いま大きな過渡期を迎えている。右翼保守層を含めて、天皇についてのある種の国民的な合意がうまくできなくなってきています。どういうふうにして天皇制というものを使うのか、どういうふうにそれをナショナルな統合の装置として機能させるべきかということについての合意ができていないわけです。もちろんもはや現人神幻想は崩壊している。しかし、家族を媒介としたナショナリズムへの統合というものも、もはやうまくいかない。そもそも家族それ自体をうまく再生産できないというところに、皇室それ自体が陥っている。また、何がナショナリズムかということさえはっきりしなくなっている。
戦後の天皇制が持っていたプライベートな家族の物語を通じたナショナリズムの再生産というのはもう限界にきているとすれば、どうするのか。国家イデオロギーの何らかの再構築を、家族的な仕組みを通じてということではない形で、再構成しなければならない。つまりナショナリズムの再生産、あるいは国家イデオロギーの再生産を、天皇の家族みたいなものから、天皇の家族というものを媒介しない、もう少し別の形で作り上げなければいけない。教育基本法などの「改正」を含めた、全体としての日本のイデオロギーの再編は、こうしたことと関わっているのではないかと思います。
もう一つ、日本の危機管理のための皇室という問題に関してですが、明らかに日本は、いまナショナリズムをどう作り直すかいうことについて非常に大きな問題にぶち当たっている。これは日本だけではなくて、先進国のどこでもそうなっている。とりわけ今の戦時国家、テロリズムとの戦争というふうに言われていることの中で、この問題が提起されているのではないかと思います。
合州国が九・一一後に出した報告書の中で、テロとの戦争というのは単なるアルカイダとかテロリストとの戦争ではないのだというふうに明言しています。アルカイダのネットワークを解体するだけではダメだ、イスラムのテロリズムの根源にあるイデオロギーの波及を長期にわたって阻止するということを、はっきり言っているわけですね。言い換えれば、イデオロギーを阻止するためには、イデオロギーで対抗しなきゃいけない。明らかにそういう戦略を出しています。
じゃあ日本は、そこで何が出せるのか。そこでやはり日本政府も含めて、皇室をどう使うか再検討が迫られているのではないか。
少し前、内閣安全保障危機管理室長の伊藤康成が、日本の皇室を国家の安全保障とのかかわりでもう一度、再検討すべきだというようなニュアンスのことを言っています。国連の安全保障理事国の一員になるべきだというような文脈でです。
九・一一以降、天皇自身の非常な政治的な発言が増えているわけです。たとえば、今年、警察法施行五〇周年記念式典に天皇が出席して、そこで次のような発言をしています。
「近年、国内における犯罪の増加に加え、国際的なテロの脅威もあり、国民の生命、身体、財産の保護をめぐる環境は厳しさを増しております。その中で、警察に対する国民の期待は極めて大きく、任務の重要性は、今後ますます高まるものと思われます。全国の警察関係者が、国民の協力の下、今後とも、現行警察法の理念に従い、国際協調に意を用いつつ、国民が安心して暮らせる社会を実現するため、一層尽力されることを願います」
天皇が持ちあげている警察法というのは今年の四月に「改正」されたもので、その「理念」は戦後の刑事警察の基本を根本から変えるものです。警備公安の中に、新たに外事情報部というスパイ組織をつくるといった大幅な警察の組織「改正」なのです。その直後の天皇発言です。天皇が「国際的なテロの脅威」ということを強調していることも含めて、政治的な発言の度合いが極端に強くなっている。そういう、「皇室外交」と呼ばれてきたものの枠外にあって天皇に要求される政治性を、天皇が担わなきゃいけないというところにきている。
他方で、自民党が改憲の論点整理案などでしきりに強調するようになった家族というものを媒介にした天皇への求心力というところでは、逆にほぼ崩壊をせざるを得ない状況にある。アットホームな戦後大衆消費社会イデオロギーを担うという訳割は徐々に薄れて来ている。結局天皇制が生き残る道というのは、たぶん海外の王室同様、政治性を強め、国家のイデオロギー装置としての役割をより鮮明にするという形しかない。政府の改憲案も、天皇の元首規定、政教分離の見直し、伝統文化の強調などや日の丸・君が代の同意に基づく強制隠された強制の装置といった方向で天皇制が集約されていくのではないかという、非常にハードな状況を迎えているのではないか。そういうことでいえば、僕は非常に危機感を持っているということを、強調しておきたいと思います。

出典:2004年9月24日、集会「雅子の挫折・皇太子の不満」反天皇制運動連絡会の主催での発言