あいまいな監視は権力の重要な性質――通俗的な監視社会批判が参照する二つの概念に疑義を提起
本書はライアンのこれまでの監視研究の集大成といってもいい著作である。ライアンは監視研究を端的に「人を見ることについての学問」と定義している。この定義は、日本で常識として理解されている監視の概念をはるかに越えており、あらゆる人間の行為や関係が含まれるような包括的な内容をもっている。「見る」ということを誰が何をどのような意図をもってどのような手段を使って「見る」のか、というふうに「見る」ということの文脈に即して考えてみればすぐわかるように、制度や構造あるいはシステムとしての「社会」から人々の情動や心理といった内面に関わる事柄に至るまで、こうした研究に携わる研究者の社会理解そのものがどのようなものなのかが、監視研究ではストレートに問われる。言い換えれば社会を監視という観点から批判的に分析する試みである。19世紀にその輪郭が形成された近代の社会科学が経済学、法学、政治学、社会学などの諸学によって分割されながらも、いずれの学問もそれ自体によって社会の全体を説明しうるかのような全体性を暗黙のうちに抱いていたとすれば、20世紀末になって「監視スタディーズ」が成り立つということのなかには、これら19世紀的な諸学による知的な社会認識の振り分けが機能不全に陥り、これらとは異なった全体性理解の関心が生まれつつあるのだということが含意されている。ジェンダー・スタディーズやカルチュラル・スタディーズとともに、それよりははるかにマイナーであるとはいえ、監視スタディーズの登場は、社会認識の組み換えの重要な出来事とみることができるだろう。
本書の特徴は、通俗的な監視社会批判が便宜的に参照しがちな二つの概念に対して根本から疑義を提起していることだと思う。一つは、ベンサムのパノプティコンに象徴され、オーウェルの『1984』でその物語としてのリアリティが描出された集権的な監視の権力を前提するような考え方を退けている点だ。監視とは「あいまいなことがら」であるとライアンは断言する。パノプティコンは、権力がその支配の下に置かれた人々についてすべてを把握したい、という欲望の物質的具体化である。それがベンサムの時代の技術的限界だったのだ。コンピュータによる情報処理の高度化を通じて、人々の行動を網羅的に監視するために特殊な建築物に頼る必要はなくなった。人々はどこにいてもその行動を様々な場面で監視するコンピュータ・テクノロジーによる多様なツールの複合体(アッサンブラージュ)に囲まれるようになった。それに伴なって、監視は日常生活そのもの、人々の人間関係そのものと区別をつけることが難しくなってきた。監視と配慮の間には区別し難いグレーゾーンが横たわる。ライアンがフーコーにたびたび言及したり、映画やテレビドラマのような大衆文化に見出される見られることの欲望に注目するのも、このあいまいな監視こそが監視の権力の重要な性質となっているからである。大きな権力が人々を密かに睥睨するような陰謀めいたビッグブラザーを、ライアンは監視の基本的なモデルから排除する。
もうひとつの本書の特徴はプライバシーに基づく監視社会批判の限界を厳しく指摘している点だ。マクファーソンの「所有的個人主義」の議論をふまえて、プライバシーを私たちが「所有するもの」とみなす既存のプライバシー権の考え方は「人格、公共、社会に属するもの、または共有されているものから区分し、個人的なものであるとしばしば解釈されている」として、監視社会批判の方法と理論としては大きな限界があると指摘している。これは特に欧米の監視社会批判の底流にあるある種の個人主義的なリバタリアニズムへの重要な批判であろう。プライバシーの権利は20世紀初頭に登場したことからもわかるように、監視社会はプライバシーの権利との確執のなかで成長してきた。言い換えれば、監視社会のテクノロジーは、常にプライバシーの権利をいかに回避するかという隠された意図をもって開発されてきたということを示唆している。ライアンはこの点を明示的には指摘していないが、監視のテクノロジーがプライバシーの権利の無力化にあることを理解し、だからこそプライバシーの権利だけでは監視社会と闘えないと考えたといえよう。
監視社会は監視を通じて社会の周縁にいる人々を社会の安全を脅かすとみなして、他の人々からふるい分け、監視の対象に据える。この点で監視社会は差別と排除の社会である。これに対してライアンは、監視スタディーズの社会的責務は「最も周縁化されている、非常に弱い立場の人々のことを特に考慮するという正義を追求すること」にあり、こうした周縁化された人々の「声が聞かれなければならず、その人たちの物語こそが語られるべきだ」ということ、そして「監視を実行する大規模な制度、ネットワーク、過程は、個人情報の使用について説明責任を負わなければならないということ」を明確にすることにあると述べている。日本でちょうど共通番号制度や秘密保全法が国会に上程されている現在、監視社会化が新たな段階に入ろうとしているようにみえる。このような時期に本書のような理論的枠組みを提起する著作が翻訳された意義は大きい。また、本書では随所にゲイリー・マークスの議論が参照されているように、日本では紹介されていない監視研究の重要な業績も本書では言及されており、この点でも是非とも監視社会批判に関心を寄せる人々に読んでもらいたい著作である。
監視社会は、今世紀に入ってテロリズム対策を口実に民主主義の仮面をかぶり、人々の安全を人質にして、実際には人々の不安全を助長し、この人工的につくりだされた不安全を養分としながら益々精緻で狡猾な手法で人々への監視を拡大してきた。ライアンはこうした監視社会の肥大化を深く憂慮し、90年代以降世界中に拡がった反グローバル化運動が監視社会批判に及んでいないことにいささかの危惧を抱いている。しかし本書の出版以後、ウォールストリート占拠運動から拡がった新たな運動は、監視社会批判をターゲットの視野に入れてきたと思う。ハッカーのネットワーク「アノニマス」、まさに監視をくぐりぬける匿名性の占拠運動への関与によって、運動がコンピュータ・テクノロジーの領域を巻き込みはじめている。アノニマスは監視社会への新たな対抗的な運動だといえる。ライアンならばこうした社会的ハッカーの存在をどのように論じるだろうか。興味ぶかいところである。(田島泰彦/小笠原みどり訳 岩波書店)
(図書新聞、No.3063 ・ 2012年05月26日)