社会運動と人間の安全保障

1 人間の安全保障に対する二つの考え方

二〇〇三年に国連人間の安全保障委員会(緒方貞子、アマルテイア・セン共同議長)がコフィ・アナン事務総長(当時)に提出した報告書では、人間の安全保障の基本的な性格は、「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」の二点にあるとされた。この恐怖と欠乏からの自由は、その後、人間の安全保障の基本的な性格として一般に受け入れられてきた。しかし、特に国家安全保障との関係や政府および国連などの政府間組織とのかかわりをめぐって、人間の安全保障の基本的な性格付けには二つの典型的に対立する立場が存在してきた。ひとつは、市民社会を巻き込みながら、政府あるいは政府間組織が人間の安全保障の主導権を握るとともに、人間の安全保障を国家安全保障の補完的な位置に置く立場である。以下、このような立場の人間の安全保障については「政府主導の人間の安全保障」と呼ぶことにする。もうひとつの立場は、人間の安全保障は国家安全保障とはいくつかの重要な局面で両立しえない点こそが重要であると考えて、国家が人間の安全保障の分野の主要な担い手となるべきではないという立場である。以下で論じるように「民衆の安全保障」はこの立場をとる。
 本稿では、政府主導の人間の安全保障への主な批判を紹介したあとで、二つの難問について検討する。ひとつは、国家安全保障における主要なテーマである武力あるいは暴力に関連する問題、もうひとつは、経済、とりわけ資本主義的な市場経済に関する問題である。
 人間の安全保障への疑問と批判は、以下で述べるように社会運動において早くから提起されていたが、同時に、アカデミズムのなかからの批判もある。国際政治の分野では、人間の安全保障が普遍的なヒューマニズムを掲げながら、現実には国民国家の枠組みを前提とした「国民」とそれ以外の「他者」(外国人、難民など)を差別する構造を維持せざるを得ないというジレンマを抱えているために、政府主導の人間の安全保障は「他者」の不安全という犠牲のもとに国民の安全を確保するにすぎないものとなる危険が指摘されたり(土佐、2003)、人間の安全・保障をマイノリテイの権利として明確化することの必要が主張されてきた(武者小路、2004)。他方で、社会学の分野においても、グロー バル化が社会的経済的な不平等と社会的排除を促しており、こうした現状を変えることなく所得の再配分を実施しても、社会的排除の問題は解決しないとし、社会運動の「交渉力と闘争力」にこそ問題解決の鍵があるとする考え方が提起されている(BhallaandLapeyre,2004=2005:238)。社会運動は、現にある政権や政治経済システムを前提とせず、むしろ政治経済の体制そのものを批判し、 別の体制(オルタナテイブ)の創造に重要な意義を見出す。同時に、運動の主体は当事者であり、彼ら自らがその権利の獲得を目指して闘うことこそが重要であって、当事者を力なき受身の被害者とは見ない。これに対して、政府主導の人間の安全保障の考え方では、恐怖や欠乏からの自由を求める当事者を主体として政治経済システムの変革を見すえる枠組みは不明確である。

2 援助の現場からみた人間の安全保障批判

 政府主導の人間の安全保障の考え方に対する批判は、NGOなどによる援助の現場からも提起されている。国家安全保障と人間の安全保障を相互補完的なものとする考え方は、軍隊による武力行使や治安維持活動と貧困救済、保健衛生、教育など非軍事的な支援が担う活動を不可分一体のものと見る考え方に結びつく。こうした考え方では、NGOの活動を自国の国益に従属させるような考え方を生み出し、紛争地域でのNGOの活動をよりいっそう危険にさらす。危険が増せば増すほど、危険を口実とした軍事行動が正当化され、武力紛争が助長されてますます危険が増長されるという負の連鎖が生み出される。こうした負の連鎖は、いうまでもなく紛争地域の人びととNGOなど支援グループの生命の危険をもたらし、「恐怖からの自由」とは正反対の結果をもたらすだろう。
 国連はブロスト・ガリ総長時代に、「平和構築」「人道的介入」「テロとの戦争」などの「国際社会の公共性」が強調されるなかで、「軍隊が展開し、そこに国際機関や各国のODA、NGOが加わっていく構造ができあがって」(越田2006:94)おり、日本の平和協力もこうした枠組みのなかに位置付けられてきた。したがって、政府主導の人間の安全保障である限り、上のような軍隊との関係を断ち切ることはできない。
 現場からの批判の一例として、日本ボランティアセンターがアフガン復興支援における軍隊とNGOの役割を検証したブックレット『軍が平和をつくるんだって?』を紹介しよう。同書は、軍隊による人道支援や復興援助が本当に好ましいといえるのかどうかという問いかけに焦点をあてて、政治情勢が不安定で治安が安定しないなかで、軍隊自体が人道支援に乗り込む弊害を、アフガニスタンの事例から明らかにしている。たとえば、軍と文民がチームを組んで復興支援を行うアフガンの地域復興チーム(PRT)では、戦闘が終結しない段階から軍がNGOや民間団体をまきこむ。軍は人道支援の枠組みを利用して作戦に必要な情報収集を行ったり、人心掌握のために物資をばらまいたり、NGOの拠点を勝手に利用しようとする。その結果として、一般の人たちにとって軍隊と人道支援のNGOとの区別はつきにくくなり、NGOや民間ボランティアグループは「中立」性を保てなくなる。アフガンの反政府勢力からの武力攻撃も、非武装のNGOを標的にしがちになる。大国による軍事介入に批判的な先進国のNGOすらもが、先進国の手先と見なされてしまう不幸な事態が生まれるのである。こうしてNGOなどがターゲットになればなるほど、治安悪化の証明と見なされて、ますます軍隊による武力行使が正当化されてしまう。
 あるいは、越田清和が、東テイモール独立後のインドネシア軍などの武力行使による治安悪化と、国連の「人道的介入」としての多国籍軍派遣について指摘しているように、国連多国籍軍は、暴力の一方の当事者であるインドネシア軍と協力するものであり、国連PKOの復興プロセスも「誰が東チモールを破壊したかを一切問わずに、国連機関や世界銀行が主導する『小さな政府』づくりだった」(越田、2006:104)というように、軍事と経済の不可分一体の関係も軽視できない。
 軍隊が人道支援をすることに疑問を持たない人たちは、政治家やマスコミ含めて多数であるように見える。しかし、軍民一体となった人道支援や復興援助は戦争から平和への確実な道筋をつけるどころか、むしろ、NGOや民間ボランティアも含めたすべての人びとを危険にさらす結果をもたらすのが現実の姿である。
 したがって、国益にとらわれずに現地で活動しようとしてきたNGOやボランティアグループの活動は、軍隊の活動とは一線を画すことによって、「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」の具体的な実践を可能にすることを考えるべきであろう。この意味で、現場の担い手から見えてくる軍隊の存在(国家安全保障の中核的な担い手)への疑問は、政府主導の人間の安全保障が有効には機能しないのではないか、という問題提起として捉えておく必要がある。

3「民衆の安全保障」の考え方

 社会運動のなかからの代表的な問題提起として、以下では「民衆の安全保障」を紹介しよう。民衆の安全保障は、一九九四年国連開発計画(UNDP)の『人間開発報告書』が国家安全保障の不十分さを指摘して「人間の安全保障」を提起した直後から、この報告瞥への批判として提起されてきた。
 そのもっとも早い時期からの提起者の一人である武藤一羊は.UNDPの報告書の評価できる点として、領土や政府の安全ではなく「民衆を参照基準」にとり、持続可能な発展の一部として「個人的、経済的、社会的安全」を重視したことは、これらの分野を無視してきた国家安全保障からの「大きい前進」であると指摘した。そのうえで、その「決定的な弱点」を以下のように指摘した(武藤.1998:112-133)。
 第一に、「国家の軍事機構が、人々の安全にたいする危険の源でありうるし、 現に多くの場合主要な危険である」こと。特に、民衆による「自由、土地、労働者の権利、民主主義」などの要求をかかげた闘争に対して自国の軍隊が銃口を向ける歴史があるにもかかわらず、報告書はこの点を無視していること。
 第二に、「米国の世界軍事警察としての役割を基軸とする世界的規模での暴力行使システム」を人間の安全保障の脅威とは見なしていないということ。「人道的介入」であれば武力行使は正当化できるのか、という問題がこれに深く関わる。
 第三に、人間の安全保障の担い手は国家であるとされ、「民衆自身は、自身の安全を守るもっとも大事な行為者としては取り出されてはいない」ということ。
 武藤は、上述のようなUNDPの人間の安全保障への疑問をふまえて、「民衆の安全保障のコンセプト」を次のように提起している。
第一に、民衆の安全保障は、非軍事化を要求するものであること。「人間生活全体を包括するという点で「人間の安全保障」と共通点をもちつつ、しかし軍事の要素を排除する」ものである。とくに一九九五年に沖縄で起きた米兵による少女強姦事件や繰り返される米兵による女‘性への暴力に対する女性たちの運動のなかから生み出された非軍事化の要求をふまえながら、「軍隊に顕在、潜在する暴力は性差別を深く内包している」ことを強調する。
第二に、民衆の安全保障は、「民衆自身が自らの総合的な安全を、闘い、運動、イニシャチブを通して確かなものにするための主要な行為者であるという立場」をとるということ。ここでは、さらに主体としての民衆について、二つの観点が重視される。ひとつめは、越境する民主主義の提起である。民衆が国境によって分断されている現状に対して、国境を越えて民衆がお互いに連合するような道筋をつけることが重要だと指摘される。「民衆のレベルで境を越えて結び合う努力は民主主義を推進することになるし、逆に民主主義は越境する連合のための条件をつくることになる」が、同時に、ナショナリズムや排外主義に陥りがちな民衆集団の憎悪のキャンペーンとの闘いが必要だと指摘する。二つめは、民衆集団間の社会正義と平等の確立である。「民衆の安全の保障としての民衆の連合の形成は、不平等、ある集団による他の集団の支配、その他社会正義の障碍となる関係が、非暴力的な仕方で解決のプロセスに引き入れられる」ことが条件となる。
 第三に、民衆の安全保障は、過去の植民地支配など不正義についての歴史を直視するものである。過去を国家の価値観によって歪曲したり、過去を無視して「未来志向」などという安直な対応をとるべきではなく、「不正義の歴史的な遺産、このプロセスは、とくに植民地化と戦争からひきつがれた不正義を正すことが、将来の関係の基礎として必要」であるということである。
 この三つの視点は、国家安全保障を前提とした人間の安全保障とは明らかに両立しないだけでなく、さらにたちいって国家安全保障を当然の前提とする考え方に対して、人間の安全保障の理念を追求すれば国家安全保障に対する根本的な疑問と否定に行き着くということを指摘したものといえる。武藤の主張は、非軍事化を要求する点で国家の軍事力を否定し、国境を越える民主主義を要求する点で国家主権の枠内での民主主義を不十分な民主主義と見なしており、さらに国民的アイデンティティを構築するうえでかかせないナショナリズムにもとづく歴史意識を否定し、植民地支配の負の歴史を直視することによって、人びとが「国民意識」に支配される歴史観を拒否している。いいかえれば、国家だからといって軍隊や武力を持つことは正当化されてよいのか、国際関係を視野にいれたとき、国境によって区切られた国民を主権者とするにすぎない民主主義的な合意形成の手続きは、国家間戦争を阻止する有効な手立てとして有効に機能するのか、国家と国家の間の支配の関係をそのまま両国に住む人びとの相互関係と見なしてよいのか、といった近代世界秩序の根本に関わる一連の問いかけが含まれている。
 武藤同様、はやくから政府主導の人間の安全保障への異論を提起してきた花崎皐平は「国境外の地域との交渉権を独占してきた排他的主体としての領域国家という観念」それ自体を再検討すべきであるとし.「国籍を問わず、国境内に在住する住民の人権、市民権の保障、多文化共生を原則とする諸制度など、諸個人に自由で安全なスペースを保障することを原則とするように国家のあり方を考え直すべき」(花崎、2002:68)であり、「国境を越えて地域の民衆が相互に知り合い、助け合うネットワークを作ることだという非軍事、非暴力の民衆外交」(花崎、2002:69)を提起した。
 武藤らの問題提起は、二〇〇〇年に沖縄で開催された先進国首脳会議(沖縄サミット)の対抗フォーラムへと結実する(天野、2000)。この対抗フォーラムの趣意書では「国家の軍隊は人びとの安全を守るどころか、あまりにも多くの民衆を殺し、傷つけ、暴力によってその生活を破壊してきた」こと、「『グローバリゼーション』の名のもとに大企業や投機家に無制限の自由が保証されるなかで、いたるところで貧富の格差が急激に広がり、社会的に弱い立場におかれた何十億の人びとが生きていけない状況におちいり、環境破壊が急速に進んでいます。そこから生じる社会的混乱と乳蝶を、国家の軍事力による威圧と一方的な軍事介入、そして社会の軍事化によって押えこもうとする企てを私たちは「安全保障」と呼ぶことはできない」と批判した。これに対して「民衆の安全保障」を提起し、「人びとが、自分たちの生活、仕事、環境、自由を守り、飢餓や差別に苦しまず、殺されたり傷つけられたりレイプされたりしない生身の平和と安全を、非軍事化をつうじて、自身の力で創りだしていくことを意味」するとした。
 さらにこの趣意書では、「『民衆の安全保障』の考えと行動がすでに沖縄の民衆運動のなかに深く根ざしている」ことを具体的な事例を示しながら強調した。つまり、民衆の安全保障は、政府主導の人間の安全保障への批判として提起されたものではあるが、その考え方は決して新しいものではなく、むしろ民衆運動のなかで繰り返し指摘されてきた論点を民衆の安全保障という概念によって整理しなおすことを通じて、恐怖と欠乏からの自由は、政府主導の政策枠組みでは実現しえないということを提起したのである。

4 ポスト冷戦期の社会運動と人間の安全保障

 人間の安全保障は、一九九〇年代のいわゆるポスト冷戦の時代、旧ソ連・東欧の社会主義圏が資本主義に統合され、資本主義のグローバル化が現実のものとなった時期に.国連などの国際機関の議論として提起された。また、資本主義のグローバル化は、地域紛争や貧困・飢餓問題を解決するどころかより深刻かつ複雑なものにする一方で、国境を越え多様な課題を抱えると同時に、国境を越える社会運動がその規模も担い手も広範な様々な姿をとって登場してくる。従来の国際関係を国家間関係として理解する伝統的な国際政治の枠組みに対して、政府、民間資本(市場)、市民社会の三位一体によって国際関係を理解しようとする考え方がデイビッド・ヘルドらによって主張されてきたが(Held,1996=1998)、なかでも社会運動は「市民社会」という西欧起源の概念では捉えきれない多様な主体を含んでいる。たとえば第三世界の貧困な土地なし農民、都市スラムの住民、先進国に移住してきた未登録の移住労働者(日本では「不法滞在外国人」などと呼ばれる)など、むしろ「市民社会」からも排除された人びとが主体として多数含まれる。こうした人びとのルーツは近代の歴史の初めから存在していた。これには、黒人奴隷、先住民の伝統的な社会と地主制のはざまに生きる貧農.土地を追われて放浪を余儀なくされた人びと、都市で物乞いや売春で生計を支えたようなマルクスが「ルンペンプロレタリアート」と呼んだ人びとが含まれる。このような人びとがグローバル化のなかで、国家や資本に対抗する新たな多様な社会運動の担い手として登場する。
 九〇年代以降のグローバルな資本主義が抱えた複雑さは、上で指摘したような、これまでマクロでみた世界規模の国際関係では見えてこなかった社会運動の担い手の姿が、国家と資本への異議申し立ての主体として、はっきりと見えるようになったことと密接に関わる。社会運動の重要性が増した理由として、次のような事情が挙げられる。
 ①国際的な紛争が国家間の軍事・政治対立の枠におさまらなくなり、多様化したこと。紛争の原因の一端を国家とその軍隊が担い、国家や国際機関は、政府の軍隊や警察の武装力を維持する一方で、紛争地域における非政府組織や一般民衆に対して「テロリズム」などの名目で武装解除を進めた。その結果、軍隊や警察の武力行使が民衆にとって大きな恐怖の源泉となる事態は変わることなく繰り返される。こうした中で、社会運動は、既存の国家による民衆の不安全へのオルタナティブとしての役割を自覚するようになった。
 ②国家や資本にとって脅威となる「敵」は、反政府武装勢力から犯罪組織まで多様であり、さらに反政府組織にもいわゆる「宗教原理主義」勢力もいれば世俗的な政治革命を目指す勢力もあり、その世界観はひとつではない。多様な社会運動は、それぞれこうした環境のなかで、グローバルな資本主義に対する対抗勢力ではあっても、その唯一のありかたではない。社会変革の方向も多様化する結果として、現在の支配的な政治経済体制に対するオルタナテイブを一言でいい表せるような、多くの人びとが共有できる概念はいまだに登場していない。このような模索状態が、逆に社会運動への強い関心を呼ぶ原因となっている。
 ③先進国を中心とした諸国は.資本主義の政治経済体制を前提とした解決を求めており、グローバル資本主義が抱えている矛盾が棚上げにされる傾向を持つ。経済復興は、政府の規制緩和、外資の導入促進、先進国や国際機関による援助などを通じて、世界市場に開かれた市場経済の構築へと向かうことを促される。その結果として、世界経済の変動に支配されると同時に、ローカルコミュニティの自立的な経済が解体される。問題解決が現行の政治経済システムの根幹を維持したままでも可能なのか、それとも根本的な変革が必要なのかについて、いまだにコンセンサスが見出せていないなかで、社会運動は、ローカルコミュニティ(草の根)の運動として、コミュニティの住民たち自身が主体となる運動としての性質を持つことになる。
 政府主導の人間の安全保障は、現行の政治経済体制を前提とした政策的な対応であるために、グローバルな資本主義体制を維持するための手段としての役割を担わざるをえない。この点で、政府や資本への批判を基本的なスタンスにする様々な社会運動は、人間の安全保障とは根本的に異なるものだ。
 同時に、一九九〇年代半ば以降のグローバルな社会運動が目に見える形で登場してきた時代と、国連で人間の安全保障が議論された時期は重なる。前者は、恐怖と欠乏に対する問題解決において、人間の安全保障の考え方とは異なる解決の方法と目標を掲げてきた。とくに、政府主導の人間の安全保障は、反政府運動の側面を持つ社会運動への対抗戦略という側面もあり、両者の関係は必ずしも共存可能とはいえない関係も含んでいる。
九〇年代の社会運動の出発点としてもっとも注目すべき運動は、一九九四年のメキシコにおけるサパテイスタ民族解放軍による北米自由貿易協定発効の日の蜂起だろう。サパテイスタは、メキシコ南部の貧しいチアパス州の密林のゲリラでありながら、資本主義グローバリゼーションに抗議する行動を呼びかけ、インターネットを通じて世界規模での支援運動を巻き起こした。サパテイスタの闘争は、資本主義のグローバル化に反対しただけでなく、メキシコ社会の家父長制やジェンダー差別、先住民差別の問題やゲリラ闘争と民主主義や市民社会とのかかわりに積極的で独自の問題提起を行い、国家権力の奪取を必ずしも目指さない闘争として自らの役割を位置付けるなど、多くの点でこれまでのラテンアメリカのゲリラ闘争には見られなかった新しい運動の理念を提起した(サパティスタ民族解放軍、1995;Hollowy,2002)。 その後、資本主義のグローバル化への批判は世界各地で続発する。たとえば、一九九〇年代後半に世界規模での広がりをみせた多国籍企業に大きな自由裁量権を認める多国間投資協定(MAI)への反対運動(MAIはその結果破綻する)、そして一九九九年にアメリカ合州国、シアトルで開催された世界貿易機関(WTO)閣僚会議に対する大規模なデモ(その結果として閣僚会議は中止に追い込まれた)は社会運動の歴史に残る大きな闘争となった。こうして九〇年代以降の社会運動は、資本主義のグローバル化に対する民衆の自然発生的な抵抗運動としての性格を持った(Yuen et al. eds.2001; Yuen et al. eds, 2004)。とりわけ二〇〇一年以降毎年開催されるようになった世界社会フォーラムは、こうした多様で自立的な社会運動をグローバルにネットワーク化する試みの中心的な存在となっている (Sen,2004=2004; Sen et al. eds. 2007; Fisher, 2003=2003; Polet et al. eds. 2004)。
 また他方で、グローバルな社会運動は、ベトナム反戦運動以来最大規模といわれるイラク戦争反対運動を世界各地で展開してきた。アメリカをはじめとする主要国の軍隊による国際法上認められていない報復攻撃や先制攻撃、あるいは諜報機関による拘留、暗殺、拉致などの行為がこうした反戦運動のなかで厳しく糾弾されてきた。各国とも反戦運動を含む反政府活動を監視し、反対運動をテロリズムに分類して弾圧する傾向を強めたのである(小倉、2005)。経済の分野でも、一九八〇年代以降、世界規模で強引に推進されてきたいわゆる新自由主義的な経済政策の結果として、第三世界の債務危機、貧困の深刻化、経済と社会基盤の崩壊、あるいは外国による資源支配を背景に、内戦や地域紛争の頻発、巨大開発による地域社会の破壊、工業化がもたらす汚染や事故による環境破壊など、多様で広範囲にわたる問題が、解決の糸口を見出せないまま累積するようになる。特に八〇年代以降、社会運動は、国際通貨基金、世界銀行が推進してきた構造調整政策や国際貿易機関による自由貿易の押し付けを批判してきた。これらの政策が貧困国の債務問題を深刻化させ、貧困層の生存を支える保健医療、福祉・社会保障をことごとく崩壊させたことを、社会運動は厳しく批判してきた。自由貿易と民営化、多国籍資本による投資の自由、土地所有や資源の商品化、近代化を口実とした巨大開発によるコミュニティの破壊への抵抗は、世界中で、貧困国の農村から都市のスラムそして先進国の都市市民に至るまであらゆる階層が国境、民族、文化の違いを越えて共通して闘う課題としてきた。
 このように、ポスト冷戦の時代は西側先進諸国の思惑とは逆に、資本主義の勝利(つまり、市場経済と議会制民主主義による国民国家体制)とはならなかった。貧困をもたらす市場経済と戦争を推進する法律や予算を通過させてきた議会での意思決定が批判にさらされてきたといってもいい。
 社会運動が政府主導の人間の安全保障に抱く基本的な疑問は、政府の軍隊が政府の決定によって行った先制攻撃や捕虜虐待といった軍隊の暴力を果たして根本から解決できるのか、同様に、政府が支持してきた構造調整政策や規制緩和がもたらした貧困や飢餓について、その政府の責任を問う姿勢なしに「欠乏からの自由」を主張することは本当に可能なのか、ということである。政府や企業に責任がある問題なら、それらを政府や企業に委ねるのではなく、かれらの責任を問うことができるように取り組むことが必要となろう。こうして社会運動は政府に対して厳しい批判をなげかけ、必要であれば政権の打倒も辞さない反政府運動という側面を持つ。こうした側面は、政府主導の人間の安全保障の考え方と根本的に異なるものといえよう。

5 民衆の抵抗の歴史と人間の安全保障

 人間の安全保障が主題とする恐怖と欠乏からの自由は、歴史を遡ってみても、人びとの抑圧からの解放を求める闘争史に共通して見られる普遍的なテーマである。一六世紀以降の近代世界に限ってみても、ヨーロッパ人によるアフリカ、南北アメリカ大陸、アジア諸地域の植民地化に伴って、世界各地で繰り返された先住民への虐殺・迫害と、それに対する植民地支配からの解放を求める闘いがあり、また、アフリカから南北アメリカ大陸に移送された黒人奴隷たちとその末裔による奴隷からの解放の闘争が、数世紀にわたって続いてきた。アジアにおいても、二〇世紀半ばまでの歴史は、植民地支配がもたらした恐怖と欠乏からの解放を求める闘争の歴史だった。日本も植民地主義の加害者として、近代化の過程で、北海道など北方のアイヌ先住民の土地を奪い、琉球を併合し、さらに朝鮮半島、台湾、中国大陸を植民地化し、東南アジアへと侵略を進めた。日本はこの侵略の過程で、一六世紀以降のヨーロッパ諸国同様、被侵略地域の人びとに対して、虐殺や奴隷状態を強いるような暴力による支配と文化やイデオロギーの押し付けによる強制的な同化政策をとった。また、強制連行に見られるように、安価な労働力として被支配地域の人びとを利用するなど、被植民地地域の人びとに「恐怖と欠乏」が強いられる歴史であった。
 民衆運動が近代世界の形成当初から数世紀にわたって繰り返し主張してきたのは、恐怖と欠乏からの「自由」というよりもむしろ恐怖と欠乏を地上からなくすこと、つまり恐怖と欠乏からの「解放」である。「恐怖と欠乏からの自由」は、恐怖や欠乏の存在そのものをなくすことよりも、むしろこれらが自分たちにおよばないように壁を作って防御したり、これらから逃れることに主眼がおかれる。これに対して、「恐怖と欠乏からの解放」は、民衆みずからがこれらに立ち向かい、その存在自体をなくす闘いに立ち上がることが基本的な姿勢となる。欠乏からの解放では、単なる「自由」にとどまらず、経済的な平等への要求が重要な意義を持ってきた。恐怖からの解放では、政府が有する暴力装置(軍隊や警察の治安活動)をも恐怖の源泉と見なして、その廃棄を要求してきた。これらの点は後に論じるように市場経済と国民国家への根本的な疑問と体制を転換する社会運動の正当性にかかわる重要な論点である。したがって、社会運動では、単に恐怖と欠乏からの自由にとどまらず、当事者が闘いの主体となって「恐怖と欠乏からの解放」を勝ち取ることが必要だと考えられてきた。政府やNGOが当事者を代行することは、社会運動が究極において目指すものではなく、この点が政府主導の人間の安全保障とは根本から相容れない立場だといえよう。
 社会運動による恐怖と欠乏からの解放を求める多くの歴史的な経緯に共通しているのは、政府みずからが自国民であれ他国の人びとであれ、人びとの恐怖と欠乏の原因となる場合があり、そうした場合には民衆みずからがこれに抵抗し、時には武力に訴えてでも新しい統治の仕組みを求めて立ち上がったという点である。こうした抵抗の歴史のなかで近代世界の形成と不可分な出来事が三つある。
 ひとつは、カール・マルクスが本源的蓄積と呼んだ出来事である。本源的蓄積とは、村落の共有地を私有地として囲い込み、農民を土地から追い出し、都市の工業労働力として動員して、工業化にもとづく近代資本主義体制を形成する数世紀にわたる過程である。このようにして生み出された土地を奪われた農民や都市の下層労働者層は、繰り返し抵抗を試みた。
 もうひとつは、世界市場の形成に伴う西欧諸国(後には日本が加わる)による植民地形成や奴隷貿易である。南北アメリカにおける植民地の形成では、先住民が土地を追われ大量に虐殺される歴史が繰り返され、奴隷貿易ではアフリカ社会が解体されるとともに北米では奴隷制が資本主義経済の基盤となった。これに対して、数世紀にわたって先住民や奴隷とされた黒人たちによる抵抗の歴史が展開された。
 そして三番目が、一九世紀から二〇世紀にかけて、主としてアジアとアフリカの植民地をめぐる争奪戦として繰り広げられた帝国主義諸国の世界規模での戦争による暴力である。これに対しては、アジア・アフリカの植民地諸国の民衆による植民地からの解放、独立運動が起きる。
 この三つの出来事を通して、民衆のなかには常に、資本主義という政治経済体制に代替する別の体制への要求があった。これを二〇世紀は、ロシア革命以降、社会主義体制として実現してきたが、しかし他方でこの社会主義体制それ自体が文字通りの意味での恐怖と欠乏からの解放を実現できたわけではなく、とりわけ市民的自由への過酷な抑圧があり、社会主義体制のなかでも民衆の社会運動は続いた。
 ハリー・クリーヴァーが指摘しているように、社会主義圏内部の民衆運動は、国家目的に従属させられた労働の強制への抵抗だった。これは、市場と競争を通じて資本の利潤追求と国益に従属させられた労働に対して、資本主義内部の民衆が抵抗してきた内容と重なり合う。民衆の視点からすれば、「社会主義的開発は資本主義的開発の変種」(Cleaver,1992=1996:338)だった。国家の観点に立って理解された二〇世紀後半の国際関係は、資本主義対社会主義の二つのブロックの対立として描かれることが多いが、現在のグローバル資本主義に対する民衆の社会運動へと至る数世紀におよぶ近代世界に対する民衆の抵抗運動は、この二つの体制に対する異議申し立てとしての側面を常に持っており、世界史を動かしてきた第3の流れなのである。だからこそ社会主義圏の崩壊によっても民衆の抵抗運動はなくならず、資本主義が企図したようにはグローバルな覇権を確立できないのである。民衆の抵抗運動としての社会運動は、近代世界の本質的な矛盾に深く切り込んでいるからこそ、消滅することはない。
 上に述べた三つの歴史的な出来事は、実は過去の出来事ではない。これら三つの出来事は、近代資本主義の世界における不断の資本蓄積(一般に「経済成長」と呼ばれるが)を維持するための資本と国家の暴力とそれらへの抵抗運動という点で、今現在の世界にも共通するものである。
 本源的蓄積とは、資本が必要とする〈労働力〉を繰り返し生み出す過程であり、人びとをその生存の手段から引き離し、資本のもとで働かざるを得ないような境遇に追いやることである。ここでの労働には、奴隷労働、近代的な雇用契約で保護された賃金労働、家事労働のような支払われない労働(アンペイドワークあるいはシヤドウワーク(Illich,1981=2006)とも呼ばれる)が含まれるが、いずれの労働も資本の利潤形成のための手段(人的資源)と見なされる。特に、土地から追い出され土地なし農民となったり、都市のスラムでなかば失業状態で暮らさざるをえない人びとの問題は、現在のグローバル化において世界規模で見出される貧困地域における「欠乏」にかかわる問題であって、この意味で、マルクスが16世紀から18世紀にかけて本源的蓄積として論じた出来事は、実は今現在も進行し続けているのである。 植民地の形成は、二〇世紀後半になってほとんどの植民地が独立したことによって、過去の問題であるかのように見なされがちだ。しかし、植民地支配の根源にあるのは、資源と安価な労働力の確保、自国商品の販路であったり、競争相手国に対する軍事的な防波堤としての役割であった。植民地は、これらの目的を領土の政治的支配という手段を通じて達成するものだが、植民地の独立後も先進諸国は、こうした植民地の役割を独立後の諸国に継続にして求め、多国籍企業の利害と自国の軍事的な覇権維持を「植民地なき帝国主義」(マグドフ、1981)として継続してきた。
 二度の大戦を経た二〇世紀後半の冷戦は、先進国相互の帝国主義戦争から資本主義陣営対社会主義陣営の覇権争いへとその対立軸を移したが、資本主義陣営が社会主義陣営を敵視した最大の理由は、イデオロギーの違いだけでなく、世界市場の維持拡大にとって社会主義陣営が最大の障害として立ちはだかったからである。冷戦は、先進国によるテロリズムや非合法的な武力行使を蔓延させ、アジア、アフリカ、ラテンアメリカを武力紛争に巻き込んだ。一九九〇年代以降のポスト冷戦期は、旧社会主義圏を資本主義市場経済に再統合するための過酷な本源的蓄積過程を伴い、その結果として旧社会主義圏は貧困と内戦に苦しむことになる。これは、グローバルな資本主義が脆弱な地域を資本主義に統合するための軍事力を伴う暴力的な過程だった。
 社会運動の観点からすれば、近代国家が人びとに対する暴力の源泉にあったことは否定しがたい歴史的な事実であり、しかもそれが上に見てきたように、不断の資本蓄積(経済成長)なくしては生き延びられないという資本主義の本質的な性格と不可分であるとすれば、国家安全保障は、国家の暴力行使を正当化するための理屈付けにはなっても、人びとを恐怖から解放する手段となることを保障するものではないということになろう。
 しかし、他方で、民衆は常に正しい存在であったわけではない。民衆みずからが主体となって新しい政府や政治体制を作り上げたが、その結果として新たな恐怖や欠乏を生み出した例も決して例外とはいえない。民衆みずからが率先して国家の暴力を支持して戦争に加担することがなければ近代国家は総力戦を戦えなかったし、帝国主義諸国の侵略も不可能であったことも事実だからである。近代民主主義国家は、主権者としての国民を兵士として組織する「国民皆兵」とともに、ナショナリズムを教育やメディアを通じて繰り返し喚起して周辺諸国に対する敵対意識を醸成してきた。こうして国民としての民衆は、国家のために敵と戦うというイデオロギーを刷り込まれた兵士や銃後の守り手となる。前線に送り込まれる兵士層は、近代国家の成立当初から貧困層によって成り立ってきた。この意味で、民衆みずからが不正義の戦争の加担者となってきた。「テロとの戦争」においても.国際法上疑問の余地を残すアメリカ合州国によるイラクへの先制攻撃は、アメリカ合衆国国内の世論の支持があって可能になったことを軽視すべきではないだろう。このように、民衆は間違った選択をすることがあり、国家の誤りを正すことなくむしろこれに同調することがありうるのであって.この点を忘れてはならない。
 しかし同時に、その間違いを正すことができるのは、民衆、とりわけ主権者である人びとの自覚と反省にもとづく行動以外にないのである。社会運動とは、この意味で、民衆みずからが犯した過ちを自己批判するとともに、社会的な正義を獲得する行動をとることを重要な課題としてきた。植民地支配や先住民族への迫害に対する批判は、社会運動のなかから、とりわけ植民地とされたり奴隷とされた人びと、先住民族みずからによる批判に対して、支配した側の民衆による真撃な自己批判の過程を通じて、両者の間に恐怖と欠乏からの解放を目指す連帯を、時には国境を越えて生み出してきた。こうした連帯の形成は、政府主導の人間の安全保障には見られない社会運動の重要な役割である。

6 恐怖と欠乏からの解放と民衆による力の行使

 民衆による恐怖と欠乏からの解放の闘いは、時には暴力を伴うものだった。計画的組織的なものであれ、自然発生的なものであれ、民衆が力に訴えて圧制や搾取と闘うことはけっして珍しいことではない。そして、こうした民衆の暴力を伴う主要な歴史的出来事のいくつかは、圧制からの解放を実現するものとして高く評価されてきた。特に、植民地からの解放や奴隷制度の廃止、ファシズムに対するレジスタンス、南アフリカの反アパルトヘイトの闘い、パレスチナにおけるイスラエルの占領に対する抵抗運動は、暴力を伴う抵抗の闘いとして肯定的に評価されてきたのである。酒井隆史が指摘しているように「あからさまに暴力と名指ししうる物理力の行使と非暴力と呼ばれるフィールドには、きわめて広いグレーゾーンがあり、さらにそこに、良いか悪いか、正当化されるものかそうでないかという価値付与に関わる言説上のゲームが重なっている」(酒井、2004:9)。酒井が例示しているように、フランス、ラルザックの農民、ジョゼ・ボヴェは、アメリカの農業政策に抗議して建設中のマクドナルドの店舗の一部を壊した。警察はこれを暴力行為と見なして訴追した(Bove’ 2000=2001;2000=2002)。ボヴェの行動は、店舗を損壊させる行為であり、その意味で「暴力」を伴うが、社会運動のなかでは肯定的に評価されてきた。しかし、反グローバル化運動のなかでもヨーロッパを中心に活動するブラック・ブロックと呼ばれる若者たちによる店舗などへの破壊行為の評価は賛否が分かれる。賛否の分かれる論争的なケースはこの他にも社会運動の歴史のなかでは繰り返し登場してきた。たとえば、バスクのスペインからの分離独立運動や北アイルランドのイギリスからの分離独立運動での武装剛争、アメリカ合衆国の黒人解放運動におけるブラックパンサー党などによる武装闘争、日本の新左翼が六〇年代から七〇年代にかけて採用した武装闘争などをめぐっては、その是非について評価が確立しているとはいえない。他方で、イラク占領に反対していわゆるイスラム原理主義のグループが実行してきた「自爆攻撃」や日本の七〇年代に続発した新左翼党派間の「内ゲバ」のような暴力について、これを肯定的に評価する主張はほとんど見出せない。
 それでは、恐怖と欠乏からの解放をもとめる民衆による力の行使を私たちはどのように評価すべきなのだろうか。酒井が指摘しているように力の行使(暴力)には様々な「グレーゾーン」が存在し、過去の事例への評価の問題だけでなく現在から将来に向けて社会運動がとるべき運動の内容に民衆の力による解決という方法をどのように位置付けるか、という重要な問題が含まれている。
 民衆の力の行使=暴力という問題を考えるうえで欠かせないのは.政府や軍隊の暴力の存在だ。ハワード・ジンは『民衆のアメリカ史』のなかで、奴隷制は「心理的かつ肉体的なものだった。奴隷は規律を教え込まれ、『自分の立場をわきまえ』黒さを服従のしるしとみなし、主人の力に畏怖の念をいだき、みずからの個人的必要を犠牲にして、自分の利害と主人の利害を合致させるよう、彼ら自身が劣等であるという観念をくり返したたき込まれた」。他方で反抗する奴隷には「法の力と、むち打ち.火あぶり、手足の切断、死刑などの手段に訴える監督の直接的な暴力とが用いられた。身体の一部の切断は、一七〇五年のヴァージニアの法令で規定された。メリーランドが、一七二三年に制定した法律には、白人をなぐった黒人の耳を切り取ること、また特定の重罪を犯した場合には、奴隷は絞首刑に処せられ、死体は四分され、さらしものにされることが規定された」(Jin,1980=1982:上巻62)。
 ジンによれば、残虐な刑罰の一方で奴隷たちの抵抗は、組織的なものもあったが、多くの場合「サボタージュや怠業や微妙なかたちでの抵抗」だったという。それでも奴隷主たちは、奴隷の反乱の恐怖に常におびえていた。こうした過酷な状況を前提として、奴隷たちの逃亡や怠業といった非暴力の抵抗は、果たしてバランスのとれる手段だったといえるだろうか? 過酷な刑罰に対して、より強い力による抵抗があってもそれは奴隷からの解放の正当な闘争と見なしうるのではないだろうか? それとも、たとえ残虐な刑罰が合法化されているような理不尽な体制であっても、奴隷主を言論で説得し、民主的な立法の手続きに委ねるような平和的な手段をとるべきなのだろうか? 現実の奴隷制度の廃止はどうだったのか。一般によく知られている出来事は、リンカーン大統領による奴隷制度廃止の宣言だが、もし、奴隷たちが従順であったとすれば、はたして奴隷制度廃止という政策が採用されただろうか。むしろ政治を動かしたのは.力の行使を含めた奴隷たちの抵抗の運動であり、この抵抗なくして奴隷制度廃止は実現されなかったのではないか。
 こうした事例は歴史のなかには数多く見出せるが、ここではもうひとつだけ例を示しておこう。キューバ革命の指導者の一人であり、革命後ボリビアに渡りゲリラ活動を続けたエルネスト・チェ・ゲバラは、一九六一年に「キューバ・反植民地地主闘争における歴史的例外か前衛か?」のなかで次のように述べている。

 「選挙によって権力を獲得することについて語る者がいる時、われわれの問いはいつも次のようなものである。ある国で、大衆の運動が広範になり、選挙で多数の票を得て自分たちの政府をつくったとしよう。その結果.勝利した綱領に基づいて社会的大変革が開始されるならば、この時、直ちにその国の反動階級との闘いに突入することになるのではないだろうか? 軍隊は常に反動階級の抑圧の道具ではなかったか? そうだとするならば論理的には、この軍隊は、反動階級の命令をうけて新しく樹立された政府との闘争に入るだろう、と考えられる。」(ゲバラ、1982:40-41)

 ゲバラは、民主的な手続きによる体制転換が可能であったとしても「軍隊が根本的な社会改革を喜んで受け入れ、ひとつの社会層(カースタ)としての存在の解消をおとなしく認めることはほとんどありえない」と考えている。この彼の予言は不幸なことに的中した。彼の死後、一九七〇年にチリで初めて選挙による社会主義政権が誕生したが、七三年に軍事クーデタで倒され、その後ピノチェット軍事独裁政権のもとで過酷な弾圧が続いた。これは例外ではなく、平和的な手段による民衆の変革が軍によって転覆させられる事態はその後も世界各地でみられることになる。
 ゲバラのこの指摘は、民衆による力の行使をめぐる難しい選択問題を提起している。もし、政府や議会が民主的で人権に配慮する理想的な存在であれば、そもそも恐怖と欠乏からの解放運動は不要であって、政府や議会の民主的な討議を通じて解決される可能性が高いだろう。他方で、抑圧的で非民主的な政府であればあるほど、民衆が恐怖と欠乏にさらされる可能性は高い。植民地支配や先住民虐殺から航空機による無差別空爆(その最たるものが原爆の使用だった)に至るまで、政府の軍隊が圧倒的に大きな武力を保有しながら、時には自国の民衆に対しても暴力の行使を行ってきた歴史がある。今なおそうした現実が続いている。このような暴力に訴える政府に、民主的な改革を期待して、民衆が力の行使を放棄することは合理的な選択だろうか。むしろ抑圧的な政府であるからこそ民衆は力の行使の選択を余儀なくされるのではないか。このように考えると、恐怖と欠乏からの解放という課題を達成するためには、民衆の力の行使という選択肢を残しておくことは必要なことなのである。酒井が指摘しているように、現実の社会運動の行動様式は、非暴力か暴力かとか合法活動か非合法活動か、といった二者択一のなかにあるのではないということを忘れてはならないだろう。
 多くの社会運動は、人を傷つけるような暴力に対しては否定的であるが、財産に対する「暴力」には必ずしも否定的ではない場合がある。これは社会運動ばかりでなく、人々の権利実現のための行動として重要な論点である。一九世紀以降、まったく無権利だった労働者たちが、労働運動の長い歴史を通じて、団結権、ストライキや職場の封鎖(ピケット)などの行動の合法化を勝ち取ってきた。これは、企業に経済的な打撃を与えるとしても労働者の権利を優先させることを認めさせたものだ。同様に、都市機能を低減させたり麻痺させる街頭のデモンストレーションもまた市民的自由の権利として合法化されてきた。また、野宿者の空き家占拠、ダム、道路、空港、軍事基地、森林伐採などに反対して座り込むなどの阻止行動は、合法と違法のグレーゾーンにある場合が多く見られ、警察などが違法と見なして検挙などの行動をとるとしても、社会運動のなかではこうした警察の検挙は民衆の抵抗の権利の犯罪化であり、正当な非暴力直接行動であると解釈される場合が多く見出される。社会運動は、合法的で言論や議会の討議にだけ期待するような意味での「平和主義」ではない。しかし同時に、武装闘争を主要な闘争手段とする運動でもない。ジーン・シャープが論じているように、社会運動は、民衆がみずからの「安全」をできる限り武装(暴力)に依存しないで、圧制や暴力的手段に訴えるような政府とどのようにして闘うのかという「非暴力行動」を自覚的に構築することが、運動のありかたとして重要な課題となるような運動なのである(Sharp,1970=1979)。

7 資本主義市場経済は「欠乏からの自由」を実現できるのだろうか

 人間の安全保障論において、平和的な復興とともに社会再建のなかで重要な位置をしめるのが「欠乏からの自由」、すなわち、人びとの衣食住をいかにして充足するか、という貧困の解決である。人間の安全保障報告書(Commission on Human Security,2003=2003)は貧困問題を市場経済における経済活動の自由 の実現にもとづいての解決できると主張する。報告書では、「自由があれば、低所得者や能力開発の機会をつかむことができない人々が危機を未然に回避することができる」(同上、138)。「市場は人々が選択し行動する能力を拡大する」、「市場と貿易は経済成長の礎であり、歴史上類を見ないような蓄財の源でもある」(同上.140)という考え方に立って、「市場を十二分に活用すること」(同上、140)が貧困解決に関する人間の安全保障の基本的な土台となる主張する。しかし.はたして現代のようなグローバルな資本主義の市場経済は「欠乏からの自由」に寄与できるのだろうか?
 報告書の考え方は、市場経済が多様な選択肢を提供しながら、相互の競争を通じて効率的な経営を促し、その結果として一国経済単位で経済成長と所得増加を実現する。この成長と所得増加の成果がいずれは貧困層にも浸透するようになることによって、貧困の解決にも寄与できると考えるわけである。こうした意味での市場にける自由は、馴染み深い主張(トリクルダウン説とも呼ばれる)だが、この市場の「自由」は、以下で述べるように、経済的な平等を実現するわけではなく、結局のところは、貧富の差を容認する議論となる。
 市場の自由を享受するためには、人びとはまず貨幣所得を得ていなければならない。しかも、市場の自由は、一〇〇円持っている人と一万円持っている人では購入できる商品の選択の幅が違うように、市場の自由は、貨幣所得の額に比例する。市場経済は、より多くの所得を得ることが欠乏から自由になることだ、という考え方を人びとに浸透させ、お互いを競争させる。この競争には終わりがないだけでなく、市場の競争からお互いが所得を平等に分け合う動機は生み出されず、互いがライバルとなってしまう。しかも、資本主義的な市場経済では、〈労働力〉も市場で取引されるので、失業者や労働能力を持たない人びとなど所得のない人たちを構造的に生み出す。所得のない人々は、そもそも市場の活動に参加する資格もないとみなされてしまう。
 資本主義的市場経済では、利潤目的の資本の投資活動が経済活動の主要な原動力となる。地球の資源も人びとの労働も資本の投資の手段となる。政府が市場の自由競争を妨げる制度や障害物を取り除くような経済政策をとることを自由主義と呼び、アダム・スミスなど一八世紀の古典派経済学にまで遡る古くからある主張である。一九八〇年代以降、この自由主義を先進諸国が採用するようになる。これを新自由主義と呼ぶ。たとえば、公共サービスの民営化や関税・貿易障壁の撤廃政策をとるべきであるとする新自由主義グローバリゼーションは、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)などの国際機関の基本的なイデオロギーとなり、急速に世界中に広がった。新自由主義政策は、対外債務に苦しむ貧困諸国にも、債務返済の手法として押し付けられた。国連の報告書は、こうした新自由主義的な経済政策が主流をなしている時期に出された。報告書の立場は、政府の市場経済を規制する機能や所得分配機能の強化を重視するケインズ主義に近い立場をとるとはいえ、新自由主義への明確な批判やその政策転換の必要性には言及されていない。
 政府主導の人間の安全保障は、市場経済が人びとを貧困から解放するもっとも好ましい経済システムであるかどうかについて、真正面から検討することを避けており、代替的な経済システムの可能性を最初から排除している。とりわけ新自由主義を政策の中心にすえてきたアメリカ合衆国、イギリス、日本などは、人間の安全保障と新自由主義政策の間の矛盾を覆い隠してきた。しかし、上に述べたように、新自由主義がもたらしてきた貧困や環境破壊の問題を、この政策理念を採用する政府や国際機関にもとで解決することが可能なのだろうか。
 他方、資本主義のグローバル化を批判する社会運動(George,2004=2004;Bello,2002=2004)は、新自由主義を最大の問題のひとつとして取り上げ、これを明確に否定する点で政府主導の人間の安全保障とは基本的な立脚点が異なる。しかし、問題は新自由主義だけでない。たとえ政府による介入を重視したとしても、グローバル化し、小国の経済よりも大きな経済力を持つ多国籍企業が大きな支配力を持つ資本主義経済を十分にコントロールできるだろうか。失業や貧困は、労働力の市場取引を前提とする資本主義ではなくすことは不可能だ。だから、社会運動では、資本主義体制そのものを見直さない限り、根本的に貧困の問題は解決できないと考えて、資本主義経済に対するオルタナテイブを模索することが重要な特徴のひとつとなってきた。
 経済の基本的な役割は、人びとの衣食住を充足することにあるはずだ。しかし、現在のグローバルな資本主義では、生産、流通、消費から金融市場に至るまで一体化が進んでおり、グローバルに力の強い多国籍企業や先進諸国の影響が、貧困地域の農村で暮らす農民や都市スラムの子どもたちに対して、資本の利潤を優先する仕組みとして直接影響するような構造になっている。資本主義経済では、人びとの衣食住をもっとも最適な形で充足するときに資本の利潤が最大化する、というように調整される仕組みにはなっていない。だから奴隷貿易や現代の児童労働のような非人道的な経済が生まれてしまうのだ。こうした構造を断ち切って、経済をその本来の役割である人びとの衣食住を充足するための仕組みに組み換えることが、欠乏からの解放の闘いにとって不可欠となる。
 政府主導の人間の安全保障では、こうした市場経済を根本から問い直して異なる土台の上で経済の制度設計を試みるようなことはできない。特に債務問題を抱える多くの貧困諸国は、人びとの経済活動を債務支払いのための外貨獲得につなげようとする。債務返済や利子支払いで財政が圧迫され、人びとの生活基盤を支える公共サービスが民営化され、その結果として貧困層は基本的な生存のための手段からも排除される。経済成長が可能となったとしても所得分配の構造は不平等なままだ。これに対して社会運動が要求するのは、政府主導の人間の安全保障のいう「欠乏からの自由」ではなく、欠乏それ自体を生み出す構造そのものの廃棄、欠乏からの解放である。そのために資本主義のオルタナティプを模索し、根本的な経済的な平等、いいかえれば経済分野における社会的正義と搾取の廃止をどのようにして実現するかが社会運動の大きな課題となっている。
 二〇世紀の社会運動では、資本主義市場経済が本当に経済システムとして妥当なものかどうかという根本からの問いに対して、その答えを社会主義体制として描くことが支配的だった。社会主義が持っている富の平等な配分という理念は現在でも追求する価値のあるオルタナティブであるが、それを二〇世紀に実際に国家体制として成立させた社会主義が陥ったような市民的自由の抑圧という代償によって実現することについては、現在の社会運動の担い手の多くは否定的だ。グローバルな資本主義に対抗する試みとして、二〇〇一年にブラジルのポルトアレグレではじまった世界社会フォーラムは、そのスローガンとして「もうひとつの世界は可能だ」を掲げた。社会主義という言葉を使わないのは、二〇世紀社会主義の失敗についての反省があるからだが、一八世紀以来様々に論じられてきた「社会主義」の理念を退けているわけではない。また、ケインズ主義的な「大きな政府」や福祉国家政策が当面の代替策として提起される場合でも、資本主義経済以外の選択肢を求めないと決めてかかっているわけではない。とはいえ、いまだ「もうひとつの世界」の具体的な姿が描けているわけではない。
 恐怖や欠乏からの解放は、国民国家と資本の体制と不可分な資本主義ではどうしても解決できない問題であることは、社会運動のなかではほぼ共通の理解が得られているといえる。先進国と途上国、あるいは大都市と農村の社会運動を国境を越えてつなぐ「多様な運動からなる運動」は二〇世紀末にはじまったばかりだ。社会運動は、民衆の安全保障のような政府主導ではない人間の安全保障を運動のなかから生み出した。社会運動と民衆の安全保障に代表されるような人間の安全保障との間の共同作業が可能になるかどうかの試金石は、人間の安全保障が政府からいかにして自立できるかにかかっているといえよう。

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出典:武者小路公秀編著『人間の安全保障』、ミネルヴァ書房、2009年