はじめに
共謀罪と不可分でありながら、共謀罪そのものに比べて反対運動の取り組が必ずしも十分とはいえないのが一連のコンピュータ監視・取締り法制の整備である。なかでもサイバー犯罪条約批准に必要な国内法整備に関わる立法は共謀罪と一体のものとして法案が上程されており、すでに法制化されている盗聴法やプロバイダー責任法、不正アクセス禁止法などの一連のコンピュータ監視法制を質的にさらに強化して、共謀罪を実際に執行する上で欠くことのできない前提条件となるものだ。
共謀罪は、犯罪の実行はおろかその準備すら具体的には着手されていない「相談」の段階や、犯行の実行に直接関与していないが「相談」には関わったといった人々まで犯罪化しようというものだ。だから、共謀の唯一の「証拠」といえるものは、被疑者のコミュニケーションの記録以外にはない。ところが、いつどこで誰と誰が「共謀」の証拠となりうるコミュニケーションを行うのかはあらかじめ特定できるわけではない。だから、捜査当局にとっては、「共謀」の可能性があると判断した場合に幅広くコミュニケーションを監視できるように、これまでは違法であった捜査手法を合法化する法的な裏付けが欲しいということになる。
しかもインターネットをはじめとしてコンピュータのネットワークは国境を越えるグローバルな拡がりをもっている。だから、コミュニケーションの監視と取締りも、国境を越えた捜査当局の法執行権力の行使を可能にするような枠組構築へと向かう傾向を強めている。法執行権力は、各国の警察・司法制度の個別的な性格の違い以上に、むしろある種のグローバルスタンダードを築く方向に向かっているともいえるのである。この点で、米国のグローバルな対テロ戦争、先進国の多国籍企業の利益に支配された新自由主義的な経済のグローバル化というグローバリゼーションの大きな流れと法執行権力のグローバル化は密接な関わりをもっている。
インターネットや携帯電話にみられるように、私たちの日常的なコミュニケーションの大半は、いまではなんらかの形でコンピュータに依存している。人々の個人情報も、紙のファイルに保管されるよりもコンピュータのハードディスクなどの電子的な記憶媒体に蓄積される。こうしたデータベースが相互にネットワークされ、コンピュータが相互にコミュニケーションを行うことでさまざまなデータが処理される。携帯でメールをやりとりしたり、パソコンでインターネット上のホームページにアクセスするときに、コンピュータは、ディスプレイの背後で頻繁にデータをやりとりしている。コミュニケーションという概念はもはや言語や身振りなどを介して人と人が行うものとは限らなくなっており、コンピュータが相互に行う通信もまたコミュニケーションの一部を成すようになっている。コンピュータ監視法制は私たちが実感できないような領域も含めて、法執行機関がコンピュータの介在するコミュニケーションを監視することを合法化し、逆に私たちが行うコミュニケーションそれ自体を場合によっては犯罪化しようとするものである。共謀罪と関わるコンピュータ監視・取締り法制の中心となるのがすでに述べたようにサイバー犯罪条約の批准に必要な国内法整備(以下コンピュータ監視法案と呼ぶ)である。本稿ではこの監視法案を中心にしてコンピュータ監視・取締り法制の問題点とこの法制度と闘う市民的な不服従の権利について述ることにする。
コミュニケーションの権利
コミュニケーションの自由は人々の基本的な権利に属する。ここでいうコミュニケーションの自由とは、圧制に対する不服従や抵抗のために人々の相互の連帯を築く上で不可欠な政治的社会的な影響力を意図した人々のつながりそのものを指す。このなかには、市民運動に参加する人々が監視されたりすることなく、相互に自由にコミュニケーションがとれることとか、在留期限が切れていたり不正規な手続きで入国した移住労働者が労働と生活のために仲間や母国の家族や友人ととりむすぶコミュニケーションとか、労働者が会社の経営者に知られることなく労働組合の組織化をすすめるために職場内でとりむすぶコミュニケーションとか、大方の人々とは異なる性的アイデンティティをもつ人々がとりむすぶコミュニケーションとか、政府や業界にとっては「違法コピー」とみなされるようなデータ交換のネットワークとか、ホームページに「不正・違法」にアクセスして政治的なメッセージの「落書き」をすることとか、大量にメールやデータを送りつけてサーバをダウンさせるようなインターネット上の政治的なデモンストレーションなど、さまざまなものが含まれる。
コンピュータ監視・取締り法制を論ずる場合、同一の技術によるコミュニケーションや外形上の行為からは同種のものとみなされる場合であっても、私は、以下のような区別を設けることが必要であると考える。すなわち、
第一に、純粋に私的な動機や利益のための行為と政治的社会的な動機に基づく行為とは区別すべきであり、後者の権利は前者よりもより幅広く保護されるべきだということ
第二にコミュニケーションの関係が私人相互の間でなされている場合とある種の明白な権力的な支配-服従関係がある場合(たとえば、個人と政府、個人と企業など)を区別すして論じるべきだということ
である。つまり、権力を持たない者たちの政治的社会的な意図に基づくコミュニケーションの権利は保護されなければならないという立場を明確にすることが必要であって、この観点から、サイバー犯罪条約とその国内法整備としてのコンピュータ監視法案の問題点を洗い出すことが必要なのである。
以下で述べるように、サイバー犯罪条約も監視法案もこうした人々の政治的社会的なコミュニケーションの権利を大幅に抑圧する。このような結果になるのは、後に詳しく述べるように、ひとつにはデジタルデータやコンピュータが介在するコミュニケーションを実際とは異なって犯罪捜査により大きな困難を伴うと主張することによって、捜査権限の拡大を狙おうとする法執行機関の権力欲が野放しになっていることにある。もうひとつは、実体法の定義の方法にある。つまり、「自由な社会」を標榜する先進国は、政治活動を一般刑事事件として犯罪化することを通じて弾圧する統治技術を開発してきたが、こうした自由の抑圧を支えてきたのが実定法の定義の手法にあり、この点がここで論じるコンピュータ監視法案にも当てはまるのである。既存の実定法の枠組は、犯罪行為を、行為の外形によってのみ定義し分類する結果として、行為の背景にある意図や動機に配慮せず、さまざまな動機をもつ行為主体を一律に扱い、社会関係に含まれる階級、人種、性などをめぐる明らかな権力関係を考慮しないことを前提にして構築されている。こうした形式的な客観性の外観それ自体が権力に対する抵抗権を犯罪化することになる。
いかなるコミュニケーションにもなんらかの動機や意図がある。この動機・意図を捨象して、コミュニケーションの外形的な分類によって犯罪と非犯罪のカテゴリー分類を行う手法は一見すると客観的で公正に見える。しかし、たとえば反戦ビラのポスティング検挙に典型的に示されているように、実際に成立した法にもとづいて法執行機関が捜査・検挙を行う権力行使の場面では、行為の外形的な類似性よりも動機や意図によって明らかな選別が行われている。700に及ぶ共謀罪の対象犯罪について捜査機関はいずれの場合についても公正で適正な捜査活動を行うことはできないし、そのようなつもりもないだろう。「対テロ戦争」に参戦し、警備公安警察の力が肥大化している日本の警察機構を前提とした場合、政治的社会的な権利に基づく行為が、選別的により厳しい取締り対象となる危険性にとりわけ大きな注意を払っておく必要がある。
サイバー犯罪条約の背景
サイバー犯罪条約そのものの検討に移る前に、条約制定に至る背景を簡単に説明しておく。90年代の後半になって、インターネットが政府・学術機関による非営利のネットワークから民間への開放、さらに米国の情報スーパーハイウェイ政策の推進にともなう情報通信関連産業の急速な発達がみられ、コミュニケーション環境が大きく変化する。インターネットは不特定多数の人々が相互に自由にコミュニケーションできる環境を歴史上はじめて一般の民衆にあたえるものとなった。同時に、コンピュータに基づく情報通信のインフラがかつての道路、港湾などの社会インフラに取って代わる資本主義的な経済成長の基本条件となる。情報通信関連産業の裾野は非常に幅が広く、コンピュータ関連のハード、プログラム開発などのソフト、通信によるネットワークなどばかりでなく、バイオテクノロジー、ナノテクノロジーといった分野もふくめてほとんどすべての産業、経済、文化の不可欠な環境を支えるようになってきた。
コンピュータを介した情報・コミュニケーション・テクノロジー(以下ICTと呼ぶ)は、人々の基本的な人権である言論表現の自由や団結権などの結社の自由といった自由権やプライバシーの権利に根本的な影響を及ぼし始めた。路上でビラを撒いたり、演説をしたり、紙媒体で出版する自由と同等の自由をコンピュータ・コミュニケーションの世界でも実現することが初期のインターネットのメディア・アクティビストたちにとっての大きな関心事だった。
コンピュータ・コミュニケーションは、コンピュータによって制御された機器に対する実行可能なプログラムの場合、たとえそれが文字や数字で表現されたものであっても、伝統的な意味での言論とは異なって、一定の手続きを経てコンピュータに働きかけコントロールし、現実の世界に物質的な変化を加える力をもつ。機械に命令し機械を動かすことが可能なプログラミングの「言論」は、言論と実行行為を区別する伝統的な言論観とは異なって言論それ自体を行為そのものとみなす観点をもたらした。いわゆる「ハッキング」、コンピュータ・ウィルス、著作権の設定されているコンテンツのコンピュータ・ネットワークを介しての交換など、コンピュータが関与するデータ処理やコミュニケーションもまた現実世界の実行行為と同様のものとして法執行機関は取締りの対象にしようとする。
現代の言論・表現の自由は、コンピュータを人々のコミュニケーションに欠かせない道具とすることを前提とした上でしか達成できない。この点で、サイバースペースの言論の自由は、コンピュータ技術に依存する割合が大きい。したがって、監視技術によって自由が阻害される危険性が高くなり、技術を用いる社会的な背景や動機を無視して同一の技術的を一律に犯罪化、違法化するような技術決定論がはびこることになる。その結果、市民的な自由や不服従の権利、圧制に対する民衆の抵抗権のサイバースペースにおける実行行為が、現実の社会以上に一律に犯罪化される一方で、法執行機関に必要以上の権限を与えかねない危険性をもつ。
もうひとつの重要な背景として、コンピュータ監視法案が、「サイバーテロ」対策として国家安全保障と連動しているという点である。これは、サイバー犯罪条約が議論されていた1990年代後半には見られなかったことだ。いうまでもなく、このきっかけとなったのは2001年の米国9.11同時多発テロであり、その後米国の反テロ愛国者法など先進国による拙速なテロ取締り政策、アフガン、イラクへと拡大していった対テロ戦争の過程で、国家安全保障と連動したテロ対策が新たに中核的な課題として浮上してきた。
冷戦の終結にともなって、モノ、カネ、人、情報が国境を越えて移動するグローバル化が急速に進み、西側先進国政府の国際関係への関心は「共産主義の脅威」から国際的な組織犯罪、「ハイテク犯罪」へと移行していった。ハイテク犯罪に対する国際的な対策の枠組には、G8による取り組みと欧州評議会によるものが90年代に始まり、国連が越境組織犯罪条約に取り組むのもほぼ同じ時期である。1
G8では、国際犯罪対策上級専門家会合が1995年のハリファックス・サミットで設立され、翌年のリヨンサミットで最初の報告を出したことから通称「リヨングループ」と呼ばれる。2000年には日本はこのリヨングループの議長国を務ている。リヨングループの中には、国際組織犯罪条約サブグループ、司法協力サブグループ、ハイテク犯罪対策サブグループなどのいくつかのサブグループが形成されている。G8では、犯罪対策を法執行機関や政府だけでなく、産業界を巻き込んで展開しようとする動きが活発になり、その最初の会議が2000年パリで行われた。この会議には、インテルなどコンピュータや情報通信関連の大企業が多数参加し、日本企業も参加している。その後、政府と産業界との「対話」の重要性を主張して、2000年10月にもベルリンで開催されたが、2001年5月22日から24日に、東京お台場のホテル日航で政府と産業界の合同会議がひらかれ2、200名が参加し、警察庁からは生活安全企画課セキュリティシステム対策室長らが参加した。3東京会合では、本会合とワークショップが非公開で行われ、特にここで議論の中心となったのは、犯罪の証拠を確保するために、インターネットのプロバイダーなどによる通信記録・ログの保存(data retention)、保全(data preservation)をどの程度義務づけるか、サイバー犯罪の予防対策などについて議論された。4
こうした90年代後半から2000年頃までの先進諸国の主要な国際的関心事は、越境する「組織犯罪」だったが、実はこの中には文字どおりの犯罪組織ばかりでなく、反グローバリズムの国境を越えた民衆運動の大きな高揚の取締りという隠された意図があった。とりわけ1999年のシアトルで開催された世界貿易機関(WTO)の閣僚会議が世界中から集まったデモ隊によって中止に追いやられ、その後、世銀やIMFの総会、先進国首脳会議などがのきなみ大きなデモと抗議行動に晒されてきた。こうした抗議行動の特徴は、活動家たちが国境を越えて移動していること、先進国内部の移住労働者たちが新たな反政府運動の担い手となりつつあること、そしてグローバルな運動を支える上でインターネットが重要な役割を果たしていることだった。従って、先進諸国は、こうした反グローバル化の運動を組織的な犯罪とみなして国際的に弾圧する新たな枠組を模索していた。この時期、各国ともと捜査機関の国際協力のための制度的な枠組みの整備や、インターネットへの監視を強化するために盗聴捜査の権限拡大が進められ、日本でも盗聴法が大きな争点となった。また、日本の場合も2000年前後から出入国管理法の改正が提案されたが、この改正案でも、国際会議を妨害する者の入国を事前に阻止できる新たな規定が盛りこまれた。5
2001年の911同時多発テロ以後、それまで「越境組織犯罪」とか「サイバー犯罪」対策として論じられてきた一連の条約や立法がそのまま国際テロとかサイバーテロなどのテロ対策に横滑り的に拡大・転用されるようになる。G8のリヨングループは、検討対象を国際テロに拡げ、テロ対策の専門家会合であるローマグループとの合同会合を開くようになっており、国際組織犯罪とテロ対策は一体として扱われるようになる。6国連もまた世界情報社会サミット(WSIS)の枠組のなかでサイバー犯罪、サイバーテロ対策を盛りこむようになる。日本の場合も、政府はサイバー犯罪とサイバーテロを併記するようになる。テロ対策は、他方で「対テロ戦争」に結びつけられることによって、国家安全保障の課題とされ、有事法制の枠組のなかに位置づけられることになる。その結果、「テロ」問題は、警察と軍隊をまたがる課題と位置づけられ、その結果、警察の軍隊化、軍隊の警察化が進むことになった。7テロ対策特別措置法は自衛隊による米軍の対テロ戦争支援の立法であったが、国内の米軍基地警備や国際テロ緊急展開チームや特殊部隊(SAT)の動員、テロ資金対策、サイバーテロ対策などの分野での警察による活発な活動が目立つようになり、2003年の「緊急治安対策プログラム」のなかで、警察庁は「テロ対策とカウンターインテリジェンス(諜報事案対策)」および「サイバー犯罪及びサイバーテロ対策」として警察の取り組みのなかに明確に位置づけ、2004年12月の内閣の「テロの未然防止に関する行動計画」では警察庁を中心として政府の包括的なテロ対策の基本方針が出された。8
以上から明らかなように、共謀罪の捜査の実効性を確保するためのコンピュータ監視法案は、犯罪対策の枠組みを越えた国家安全保障や治安維持の性格をもつものである。従って、私たちがコンピュータ監視法案に対する批判の論拠を組み立てる場合も、一般的な刑事立法だけではなく、警察等の法執行機関の治安維持機能の現実を見据えておかなければならない。
サイバー犯罪条約及びコンピュータ監視法案の内容とその問題点
国会で継続審議となっている共謀罪とコンピュータ監視法案9のうち後者の部分は、すでに述べたように、情報処理の高度化にかかわる新たな刑法などの改正の提案であって、欧州評議会10で提起されたサイバー犯罪条約の批准のための国内法整備である。11条約の内容とコンピュータ監視法案の間にはいくつかの違いがあり、後者は前者が求めている国内法整備を全体としてカバーできていない。しかし、基本的な考え方の方向性は共通している。すなわち、コンピュータが関与する行為のなかに新たな犯罪類型を設けるとともに、コンピュータが関与する犯罪に関しては、それ以外の場合よりもより強力な捜査権限を法執行機関に与えるべきであるという考え方が基本にある。以下、この点について、その問題点を述べることにする。
サイバー犯罪条約はまずその前文で条約の趣旨が述べられている。12このなかで、コンピュータ・ネットワークと電子情報(electronic information)が犯罪に利用される危険性があることを前提として、法執行機関に新たな権限を付与するための条約が必要な理由をおおよそ次のように主張している。13
(1)デジタル化されている証拠への対処。コンピュータが関与するデータや情報は紙にインクで記録されるのではなく、数値として扱われて、電気的な信号に置き換えられて記録される(コンピュータの場合は0と1からなる二進数に置き換えられる)。伝統的な考え方では、犯罪の証拠は物(紙やインク)と一体であった。しかしコンピュータの関与する「証拠」ではこのような伝統的な考え方が当てはまらない。条約は、デジタル化された「証拠」が数値そのものであることから、犯罪の証拠が「コンピュータ・ネットワークによって蔵置され(stored)および送信される(transfered)」場合には「物」を前提とした捜査権限ではカバーできない新たな権限を法執行機関にあたえる必要があると主張する。
(2)コンピュータとそのネットワークそのものに関わる新たな犯罪類型。コンピュータはプログラムなしには必要な動作をさせられない。プログラムはコンピュータという機械があってこそ意味のあるものである。こうした相互関係をふまえて、条約は、デジタルデータやプログラムそのものが犯罪である場合(チャイルド・ポルノ、許諾無しでの著作物の複製など)やプログラムが物としてのコンピュータやそのネットワークに対して作用する事態(コンピュータ・ウィルスやいわゆる「クラッキング」行為など)に新たな犯罪類型を設定することを主張する。
(3)官民協力。コンピュータのネットワークは、インターネットのプロバイダであれ電話などの通信事業者であれ、経営も技術開発も民間資本に大きく依存している。したがって、法執行機関がその権力を発揮する上で、民間資本との協力が不可欠であると主張する。法執行機関による強制力は、これまで裁判所の令状によって担保されてきたが、条約は、令状による法執行濫用に歯止めをかけることよりもむしろ迅速に法執行機関が行動し、民間資本を協力させるようにすべきであると主張する。
(4)法執行権力のグローバル化。インターネットに代表されるように、コンピュータのネットワークは、電話回線、通信衛星回線、無線など通信が可能なインフラが存在すれば、国境を容易に越える。条約は、このことを前提に、コンピュータ・ネットワークに関わる犯罪捜査の権限もまた国境を越えられなければならず、これまでの国際的な捜査協力を更に質的に強化することが必要だと主張する。
こうして条約では、法執行機関に「サイバー犯罪と戦う」上で必要な権限を付与し、「犯罪の探知(detection)、捜査(investigation)及び訴追(prosecution)を国内的にも国際的にも促進すること並びに迅速で信頼し得る国際協力のための措置を定めることによって、コンピュータ・システム、コンピュータ・ネットワーク及びコンピュータ・データの秘密性、完全性及びコンピュータ・データの濫用を抑止するために、この条約が必要である」と述べている。
他方で条約は「法執行の利益と基本的人権の尊重との間に適正な均衡を確保することが必要であることに留意」すると述べられてはいる14ものの、関心は一方で、欧州評議会、国連、OECD(経済協力開発機構)、G8(主要八ヶ国)などのよるサイバー犯罪取締りに関する条約や協力を実効あるものとするという点に置かれている。最大の問題はいうまでもなく、サイバー犯罪の取締りのための法執行機関の権限強化によって基本的人権への侵害が避けられないという点にある。サイバー犯罪が社会に与えるネガティブな影響と人権とのバランスを考慮した場合、ある程度の人権の制約は許容されるべきであるという公益優先論を政府はとるが、後に述べるようにこの条約は適正な均衡を確保できていないばかりか、むしろ法執行機関に(国境を越えた)過大な権限をあたえることを前提に、本来的には不適正と言わざるを得ない権力の濫用を強引に「適正な均衡」に格上げする結果をもたらしている。
前文に続くサイバー犯罪条約は、コンピュータ関連犯罪の内容を定めた刑事実体法の規定と捜査の手続きを定めた手続法や国際捜査協力のルールを定めた部分に分けられる。刑事実体法では、コンピュータ機器、ネットワークに直接関わる犯罪および、通信の内容に関する犯罪(児童ポルノ、著作権)など違法行為が定義されている。刑事手続法の部分は、上記実体法で明記された犯罪に限定してその捜査手続きを規定したものではなく、一般に、コンピュータが関与する犯罪および犯罪に関する捜査や証拠収集などについて、法執行機関の権限を定めたものだ。従ってこの条約がカバーする範囲は非常に幅がひろく、ほとんど全ての人々の日常生活そのものに深く関わりをもつ。つまり、いわゆるハッカーやコンピュータウィルスの散布などといったコンピュータを用いた「ハイテク犯罪」の取締りという限定された目的のためではなく、ネットワークに接続されているかどうかに関係なく、すべてのコンピュータとデジタルデータに対して、法執行機関が従来よりも大幅な捜査の権限を行使できるようにするという点にある。サイバー犯罪条約に基づけば、紙に書かれている住所録や日記は、裁判所の令状がなければ捜索・押収はできないが、デジタル化されたデータとしてのメールの送受信の記録などは令状なしに、場合によっては国外の捜査機関すらアクセス可能となるかもしれないのだ。こうした条約の国内法整備が共謀罪とセットで提案されているために、携帯電話を持ちパソコンで仕事をするごく平均的な市民生活が全面的に警察などの法執行機関の監視下にくみこまれることになりうるのである。15
令状主義と条約のスタンスの本質的な違い。
サイバー犯罪条約の最大の問題のひとつが、令状主義と抵触するような法執行機関の権限拡大である。日本の場合、法執行機関による強制捜査は裁判所による令状に基づくべきであるというのが、憲法に基づく基本的な権力規制の仕組みである。この令状主義は次のように憲法33条と35条に明記されたもっとも重要な法執行機関にの権力濫用を抑止する制度である。16
第33条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。裁判所の審査によって不当な人権侵害を阻止することが目的である。
第35条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
35条では、法執行機関による侵入、捜索、押収が可能な条件として、「正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状」が必要であるとしている。この場所と物の限定は、非常に重要な意味を持つ。この点は、警察権力に大きな権限をあたえた旧憲法の規定と比較してみればわかる。旧憲法25条では単に「日本臣民は法律に定めたる場合を除く外其の許諾なくして住所に侵入せられ及捜索せらるることなし」とあるにすぎなかった。言い替えれば、旧憲法の下では、令状主義は憲法上の要請ではなかったから、法律で定めてしまえば、法執行機関は自由に侵入、捜索などが可能となった。令状主義は、この旧憲法下での権力濫用のという近代日本の国家権力の性格への反省の上に立って、厳格に法執行機関の権限を制約することが必要であるということから定められている。
これに対して、サイバー犯罪条約では、おおよそ次のような流れに沿ってコンピュータのデータへの法執行機関による証拠保全の権限やデータへのアクセスの権限を確保している。
コンピュータに関わるデータは、コンピュータに蓄積されているデータ(これを「蔵置」されているデータと呼んでいる)であるのか、通信によるデータであるのかに分けて扱っている。前者の場合は自分で作成したデータや、通信以外の方法で取得したデータ(たとえば他人からCD-ROMなどの記録媒体で取得したデータ)が含まれることになる。後者は電子メール、ウエッブなど通信を介して取得したデータということになる。
この通信データの場合は、通信の本文にあたる部分(これを「通信内容」と呼ぶ)と宛先や日時、通信経路などコンピュータが通信のために残したり必要とする通信そのもののためのデータ(これを「通信記録」と呼ぶ)に分けられている。さらに、通信については、すでに行なわれた通信と将来行なわれる通信に分けられる。従って、通信については以下の四つに分けられる。
(a)すでにコンピュータに蓄積(蔵置)されているデータで「通信記録」にあたる部分。
(b)すでにコンピュータに蓄積(蔵置)されているデータで「通信内容」にあたる部分。
(c)将来コンピュータに蓄積(蔵置)されるであろうデータで「通信記録」にあたる部分。
(d)将来コンピュータに蓄積(蔵置)されるであろうデータで「通信内容」にあたる部分。
このうち将来行なわれる通信への法執行機関のアクセスとは、盗聴捜査のことと考えていい。令状主義を前提にした場合、蓄積(蔵置)されたコンピュータデータであれ将来のそれであれ、法執行機関がアクセスする場合は、令状に基づくことが前提となる。しかし、サイバー犯罪条約の趣旨はそうではない。条約では「自国の権限のある当局」が上記のデータにアクセスできるように法整備を促しているに過ぎず、(d)についてのみ「自国の国内法に定める重大犯罪」に限定しているだけである。「自国の権限ある当局」とは裁判所の場合もあれば警察などの法執行機関の場合もあり、そのいずれになるかは各国の国内法に委ねられている。
これに対して、国内法整備として提案されている法案では、令状の不要なケースを「通信履歴(記録)」の保全要請に限定している。通信履歴の保全について令状がいらない理由を次のように述べている。
「保全要請の対象となる通信履歴には、通信の秘密の保護が及びますが、保全要請は、通信プロバイダ等がその業務上記録している通信履歴を消去しないように求めるにすぎず、その内容を捜査機関に開示させるものではないことから、令状を要することとする必要はなく、通信の秘密を不当に制約するものではない」17
ここには法務省が考えている令状主義が根本的にわたしたちのそれと違うことが露呈している。法務省は、通信の秘密を侵害しないといことを根拠に令状が不要であると主張しているが、これは明らかに憲法35条に反する。これまであまり注目されてこなかったが、憲法では、令状の要件のひとつに「侵入」の場合を捜索、押収とは区別して列記している点に注目する必要がある。これは、法執行機関が捜索・押収にいたらない場合であっても、意に反する強制的な侵入を行う場合には令状が義務づけられていることを意味している。保全とは、現実の世界でのできごとに例えてみれば、原状を維持するために立入禁止措置をとることに等しい。このことを保全要請では警察官が直接出向いて必要な措置をとるかわりに通信事業者にその意図と無関係に強制的に実施させるのであって、明らかに権力による「侵入」に該当することは疑いない。そうである以上、その措置が妥当であるかどうかの判断を警察に委ねるべきではないのは言うまでもない。
ところが条約の国内法整備に関わる論議では、手続法上の争点を単なる立法技術に矮小化する傾向がある。つまり、争点はまず次のように設定される。令状主義を徹底させてどのようなケースであれ、法執行機関がコンピュータのデータにアクセスできるのは裁判所の令状がなければならないということするのか、逆に、憲法に定められている令状主義の例外を幅広く認めて、アクセス権限を法執行機関に与えて裁判所の令状なしでもデータへのアクセスを認めるのかという選択肢の問題とみなされる。その上で、令状主義が憲法の明文規定としてある以上、無令状でのすべてのコンピュタデータへの法執行機関による自由なアクセスは不可能であることから、国内法整備に関しては、厳格な令状主義を貫くのか、それとも一部は令状なしのアクセスを認めるのか、というように現実の争点が絞られる。その結果として、上記の(a)から(d)および蓄積(蔵置)されたデータの間にプライバシーで保護される度合の大きいものから小さいものへの序列をつけて、どこまでなら令状無しの強制捜査が容認できるかという政治的な駆け引きに還元されてしまう。
しかし、人の拘束であれ物の捜索・押収であれ単なる侵入であれ、憲法の令状主義の趣旨は「裁判所の審査によって不当な人権侵害を阻止すること」にある。つまり人権侵害の程度が低いか高いかではなく、権力による人権侵害を抑制することそれ自体が令状主義の基本であって、どのような場合であれ、令状なしの侵入・捜索・押収は権力の不当な人権侵害の可能性を内在させると見るべきなのである。したがって、国会における国内法整備に関する議論は、令状なしでのデータへのアクセスをどこまで認めるかという立法技術論的な議論であってはならず、令状主義の憲法上の基本を踏まえて、いかなる法執行機関による無令状アクセスも厳格に違法とする立場を堅持することが必要である。
このような厳格な令状主義は、非現実的だという批判がありうる。しかし、むしろ無令状によるコンピュータデータ(たとえそれが蓄積(蔵置)された通信記録であるとしても)へのアクセスの方が実はわたしたちの常識からみて、明らかに容認できないことである。コンピュータの通信記録という直感的にはわかりにくいものが対象になっているために、令状無しのデータアクセスが大した問題ではないかのように誤解されやすいし、誤解させるような政府・与党側の世論操作も起こりやすい。しかし、もし同じことがらが、郵便物を対象に行われるとした場合を想定してみたらどうだろうか。警察からの要請で、郵便局では郵便物のコピーをすべてとって保管しなければならないとか、毎日警察官が郵便物が適正に保管されているかどうかをチェックするために、郵便局の意に反して郵便局の集配施設に令状もなく自由に立ち入れるようなことが警察の裁量によってできるとしたら、それでも権利侵害はないといえるだろうか。
さらに進んで、条約にあるように通信記録への令状なしでのアクセスを許してしまう事態の場合になると、プロバイダに置いているメールボックスのメールの差出人や消印などを警察が令状もなしに覗いてよいということになる。警察官が郵便局で配達途中の郵便物の宛名や差出人などを記録するようなことが毎日行なわれるのと同じことになる。手紙で長年許されてこなかったことが電子メールで許されてよいはずがない。もし電子メールでこうした無令状の捜索が認められてしまえば、郵便物についても同様のことが行なわれたとしても論理的にはこれを拒否できないということになりはしないか。
このように、郵便物について警察が行う監視や情報収集と比較すれば理解しやすいように、電子メールやコンピュータ通信に対する警察の監視に対して、条約も国内法整備も過大な権限を与えすぎていることは明らかなことである。
コンピュータのデータは本当に証拠隠滅や改竄が容易だろうか。
条約でもコンピュータ監視法案でも法執行機関が従来の手紙などの郵便物と異なって、より容易に通信記録にアクセス可能であるべきだという主張を正当化するために、コンピュータ通信は改竄や消去などの証拠隠滅行為が容易であるという点を強調する。改竄や消去される前に証拠を押さえなければならないというわけだ。しかし、この理由は以下の点からみて理由にしてはならない。ひとつは、コンピュータが介在しないコミュニケーションであっても消去や改竄が可能な場合がいくらでもあるのに、コンピュータが介在するケースを特別に証拠隠滅の恐れがあると強調することはできないからだ。
そもそも人間の話しことばは、記録されない限り、その場で消滅する。人間は嘘つきだから、話した内容がごまかしであったり事実を隠蔽するようなことであることはいくらでもある。これに比べればコンピュータが介在するデータの脆弱性はむしろかなりの強度を持っている。たとえば、共謀罪に記載されている犯罪類型の大部分は、コンピュータの素人が関わる犯罪だとみていいだろう。電子メールやコンピュータの仕組みに素人の人間がメールの通信記録や通信内容を専門家にさとられずに改竄することはたやすいことだろうか。試しに、読者のみなさんが、自分のメールアドレスではなく友人のメールアドレスを差出人にしてメールを出すことができるかどうか試してほしい。手書きの手紙なら簡単に差出人を偽れるが、電子メールでは容易ではない。あるいはみなさんのところに届いたメールの差出人や到着の日付、メールの内容を変更することが簡単にできるかどうか試してみてほしい。このようなことはある程度コンピュータに精通した人には不可能なことではないが、メールソフトのマニュアルには記載されていないから、容易とはいえない。しかも、もしこうした改竄が可能だったとしても、コンピュータは常時行われた作業を記録しており、メールの差出人や内容が後で変更されたという変更履歴が残ってしまう可能性もある。こうした履歴を消すことも可能だが、それにはさらに高度な知識が要求されるかもしれない。データの消去も同様であって、パソコンのデスクトップにあるごみ箱アイコンに捨ててごみ箱を空にしてもデータは復元可能な場合がいくらでもある。だからデータ消去を専門とするような商売が成り立つのだ。
コンピュータのデータの改竄などによる証拠隠滅の行為と、私たち人間が面と向かって行う内緒話に含まれている「証拠」を掴むこととを比較して、いったいどちらが証拠隠滅の可能性が大きいだろうか。このことは一概には決めきれないのではないか。言い替えれば、証拠隠滅の恐れが高いことがらであれば令状なしで法執行機関が監視したり盗聴できるという政府側の言い分を認めてしまえば、私たち人間の内緒話もまた監視の対象になってもおかしくないのだ。そうなれば監視の対象は際限なく拡がりを見せることになる。とりわけこの点は、共謀罪との関連で私たちは十分念頭に置いておかなければならないことだ。共謀罪は話し合うことそれ自体を犯罪化するものだから、コミュニケーションそのものへの法執行機関による監視を強化し、私たちの基本的人権を侵害する結果となる。共謀罪では話し合うことそれ自体が犯罪を構成する証拠となるから、いったん電子メールであれコンピュータが介在するコミュニケーションへの監視を認めてしまえば、必ず私たち生身の人間の生の会話そのものを盗聴・監視する方向へと向かう。
刑事実体法についての根本問題
市民運動などに対する微罪逮捕が当り前のようになってしまっている日本の現状を考慮して、条約による刑事実体法の規定の方法に問題がないかどうか検討しておく必要がある。条約では、コンピュータ・データおよびシステムの機密性、完全性、可用性に対する罪として、不正アクセス、不正傍受、データ妨害、システム妨害、装置の濫用を挙げ、コンピュータが関与する犯罪として、コンピュータに関連する偽造、コンピュータに関連する詐欺を挙げ、コンピュータのデータのないように関する犯罪として、児童ポルノに関連する犯罪、著作権及び関連する権利の侵害に関する犯罪を挙げている。これらは、コンピュータがネットワークに接続されて通信機能を有しているかどうかとは無関係に、一定の形式的な要件を満たせば犯罪化される。この形式的な要件によって、一律にここに列挙されている行為が犯罪化されることは、人々の市民的な自由や政治的経済的文化的に保障されるべき正当な権利を侵害することになる。
数世紀にわたる民衆の権力との闘いのなかで、政治、経済、宗教などの権力の濫用や抑圧に対して、民衆はさまざまな抵抗権を勝ち取ってきた。労働者が労働組合を結成したり集団で経営者と交渉し、場合によっては組織的に労働を放棄して闘う権利は、多くの犠牲を伴いながら19世紀から20世紀にかけて徐々に労働者の普遍的な権利として確立してきた。女性差別や人種差別からの解放の闘いは、支配者が制定した法にてらせば明らかに「非合法」であったとしても、やがて解放の闘争のなかで正義を体現できない法は敗北を余儀なくされてきた。もちろん反テロ愛国者法や盗聴法のように時代の流れの中で逆に不正義な法が幅をきかすこともある。法は常に正義とともにあるわけではない。法の過ちを正すこともまた、民衆の不断の闘争なしには達成されることはない。民衆は経済的な搾取や政治的な弾圧などに抵抗し闘うなかで自らの権利を獲得してきた。権利としての自由や平等は、あらかじめ基本的な人権として保障されているのではない。これらの権利を否定する既存の権力との闘いの中からようやくその一部を獲得できているにすぎない。いいかえれば、わたしたちの社会は、黙っていても人々の基本的な人権を保障するような社会ではないのだ。
このことを20世紀の歴史は教えてくれるが、同じことは、21世紀の日本の社会においてもいえることであって、私たちは、コンピュータが介在する新たなコミュニケーションや情報環境のなかで、私たちの基本的な自由と平等の権利を闘いとってゆかなければならない。
こうした観点から条約の実体法規定を見てみると、そこには私たちの既得権としての市民的な権利、労働者や民衆としての権利を弱め、民衆・民衆の不服従の権利を侵害する可能性があることがわかる。
条約の実定法の定義によれば、たとえば、政府への抗議行動の一環として、政府宛にメールを送る運動や特定のサイトに大量のアクセスを行うことによって、サイトを一時的にダウンさせるような運動(サイバー座り込み運動などと呼ばれる)も個人のサイトやメールアドレスに対して私的な動機による嫌がらせのために大量のデータを送りつけるような行為も外形的にはコンピュータ・システムへの妨害として同じように犯罪化される。同様に、内部告発者が、政府や企業の不正をあばく目的で、職務とは無関係に機密データやプライバシーデータにアクセスする場合も名簿業者に販売する目的で職場で管理されている個人データをコピーして外部に持ち出す行為もともにコンピュータ・システムへの不正な侵入などとして犯罪化される。これらによって政府や企業の犯罪が暴かれることがあっても、同時に秘密を漏洩した者が誰かという犯人探しやこのような外部への通報者の行為もまた処罰されるというケースは珍しくない。
これらの場合、法律は、政府や企業などの情報・データの所有者には情報・データを機密扱いやプライバシー上の保護扱いにできる権利があることを前提として、政府や企業を保護する立場をとりがちだ。権力犯罪や企業犯罪の証拠を隠蔽する手段として、コンピュータの持つセキュリティ機能が巧妙に利用されてもそれらを処罰するよりも、むしろそれらを暴こうとする人々を罰する可能性の方が高いのだ。本来ならば開示されるべき政府等の文書がネットワークのセキュリティ防御機能を濫用して意図的に隠されることがありうる。これに対して、このような技術の権力的な濫用への抵抗の手段として、この濫用を阻止するサイバースペース上のある種の不服従の運動、つまり閉ざされた情報アクセスの扉の前で、この扉をこじ開けようとする実力行使の運動があったとしても不思議ではない。あるいは、閉ざされようとする扉の前に立ちはだかって、扉が閉まるのを阻止する運動があっても不思議ではないだろう。権力の技術の濫用を法が規制するどころかむしろ法がこの濫用を正当化する手段に利用されようとしているとき、これに対する異義申し立てや不服従の手段が外形的な行為からすればシステム妨害といった犯罪とみなされ、その結果として取り返しのつかない人権侵害が放置される危険性は十分にあり得るのだ。
刑事実体法の中で指摘されている犯罪類型のひとつに知的財産権18侵害の犯罪が挙げられている。P2Pによるファイル交換など著作権や著作者隣接権が設定されている著作物がインターネットで著作権者の許諾なしに交換されたり売買されていることから、これを取り締まる必要性を優先させた考え方をとっている。
しかし、知識や情報に所有権を設定し、その利用を規制することについては異論がある。特にコンピュータ科学があらゆる知的な生産分野を支配するようになったために、従来の学問や文化では情報としては扱われず、従って著作権や特許などの設定にはなじまなかった多くの分野で知識に所有権が設定されて新たなビジネスチャンスとみなされるようになってきた。生物の遺伝子情報から映画や音楽などの文化に至るまで、あらゆるものに知的財産権が設定されることが当り前とみなされるようになってきた。
しかし、知識がこのように商品化された結果として、HIV/AIDSの治療薬のように、いわゆる後発途上国の貧困層には手の届かない高額な価格が特許権を盾に設定され、製薬会社の利益のために多くのひとびとの生命が犠牲になっているという現実がある。このような現実に直面しているときに知的財産権を侵害してでも「違法な」コピー薬を開発することの方が、製薬会社の利益に加担するよりもよっぽど人間的であり非犯罪的な行為ではないだろうか。あるいは、学術出版社や新聞社の電子出版では紙媒体以上に厳格な著作権管理がなされ、高額な価格設定によって事実上所得の低い階層や地域・国では利用が困難になる傾向があらわれている。
アジア諸国や若者の間では、ソフトウェアの海賊版が流通している現実を犯罪の蔓延とみるのか、それとも所得格差と知識の商品化に対する持たざる者の抵抗の文化的な在り方とみるのかが問われているのである。私は、知的財産権の侵害として一律に犯罪化するのではなく、情報へのアクセスの権利をめぐって従来の知的財産権を根本から再検討すべき時期にきていること、このことを第三世界の若者文化や医療、農業、教育などの現実の側が提起していると見るべきだと思うのだ。条約が重大犯罪化しようとしている知的財産権侵害の行為はこうしたグローバル化のなかで今現在進行している貧困や搾取の問題を視野に入れた議論が必要になっているのである。
情報化の社会は、ネットワークを通じて人々の生存や生活にかかわる知識の共有を促すのではなく、むしろ企業の利益が優先されて必要な情報や知識がますます商品化され、利益を生むための手段となり、必要な人々の手にもたさられない社会へと変貌しつつある。サイバー犯罪条約や日本の知的所有権や著作権の考え方は企業の収益の保護を最優先とみなす考え方に固執している。他方で、コンピュータに基づく草の根のコミュニケーション世界では、むしろ知的所有権を独占するような考え方を排して知識を共有することのできる新しい仕組みへの模索が現実に大きな力を得ている。
たとえば、マイクロソフト社のウィンドウズのOSの使用許諾書では、自分の購入したソフトであるにもかかわらず、このプログラムの中身を覗くこともできなければ、不具合があっても勝手に修正することも許されていない。コンピュータのソフトウエァの内応は企業秘密であり勝手に覗くことも書き換えることもできない。ウィンドウズという家を購入した住人は、雨漏りしても修理はできず、気に入らない間取りやインテリアを勝手に作り替えることもできない。マイクロソフトの考え方は伝統的な著作権の考え方だが、これに対して、インターネットのサーバやネットワークの管理に広範に利用されている多くのソフトウェアはプログラムの自由な配布と書き換えを認める考え方をとっている。リナックスと呼ばれるOSはこうした考え方に基づくものだ。オープンソースとかコモンズなどと呼ばれる知識を共有することによって人々のコミュニケーション環境をよりよいものにしてゆくことに第一の関心を置く考え方は、マイクロソフトのような伝統的な考え方とは決して両立はしない。
私たちの課題—サイバースペースにおける抵抗権の確立を
サイバー犯罪条約の刑事実体法の考え方と日本政府のサイバー犯罪についての考え方は基本的に同じとみていい。したがって、これまでに述べた実体法の考え方の問題点はそのまま国内法整備に関してもあてはまるので、ここではこれ以上の言及はしない。結論としていえることは、サイバー犯罪条約もその国内法整備も、人々がコンピュータを介して行う異義申し立ての実践的な行為や、知識や情報へのアクセスの権利といった基本的な人権が大幅に侵害され、こうした権利の行使や権利の防衛のための行為が犯罪化される結果を招くということである。
コンピュータ監視法案は、共謀罪の実効性を高め、その毒をより強いものにすることはあきらかだ。しかし、それだけではない。私たちは、政府・与党が現在検討している治安立法の動向をふまえておく必要がある。この動向は四つある。
ひとつは、盗聴法の改悪である。19盗聴法改悪は、サイバー犯罪条約の批准に際して必要ではないかという議論が繰り返し論じられてきた。こうした状況は基本的に現在も変わっていない。政府・与党は一部メディアや産業界を味方につけ、法曹、ジャーナリズム、野党や反対運動の動向など世論風向きを見つつ、盗聴捜査の拡大のタイミングをはかっている。共謀罪とコンピュータ監視法案が成立すれば盗聴法の改悪は避けられないと考えなければならないだろう。
第二に、テロ対策基本法である。メディアの報道では、2006年1月6日に政府はテロ対策基本法制定に着手したとされている。『毎日新聞』の報道では、「基本法はテロの未然防止を課題としており、テロ組織やテロリストと認定しただけで(1)一定期間の拘束(2)国外への強制退去(3)家宅捜索(4)通信傍受−−などの強制捜査権を行使すること」ができるというものだ。20政府・与党はテロ対策を個別の立法で対応する段階から、基本法を制定して日本の統治体制全体を対テロ戦争対応型に転換することを狙っている。この基本法制定の成否の鍵を握るのが共謀罪やコンピュータ監視法案の行方であることはまちがいない。同時に、基本法が制定されれば再度の共謀罪、盗聴法、コンピュータ監視法等の治安立法の改悪が続くという治安弾圧立法のスパイラル現象に陥る。
第三に、改憲である。自民党の「新憲法草案」では、基本的人権の保障については「常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」とされており、憲法は国家権力を規制するのではなく、逆に「公益及び公の秩序」が個人の人権に優先することを保障する規定になっている。草案では現行憲法の令状主義を踏襲しているが、現行憲法では住居、書類、所持品について侵入、捜索、押収されない権利が明記されているのに対して、草案ではこれらを権利規定からはずしている。共謀罪やコンピュータ監視法案が成立してしまえば、今後の改憲審議のなかで、令状主義の内容が改悪される危険性が十分にある。
最後に、国際的な動向である。国連では、包括的テロ防止条約の合意が懸案となっている。2005年にアナン事務総長は条約への合意を繰り返し促している。21また、各国の捜査機関による相互協力がますます緊密化し、捜査権限の各国での差をなくしある種のグローバルスタンダードを構築しようとする傾向が強まっている。そうした場合、諜報機関や軍に大きな権限を与えている米国など先進国の監視法制が日本にも持ち込まれる危険性がある一方で、日本がいちはやく批准に向けた取組をしているサイバー犯罪条約のように、日本が先例をつくり他の諸国(とりわけアジア諸国)をグローバルな治安監視体制に組み込むような加害者となる可能性もある。私たちの運動の課題は、共謀罪やコンピュータ監視法案を廃案に追い込むという当面の課題に取り組むことと同時に、改憲反対の運動や反戦運動などとの連携、諸外国の反監視運動との連携の強化が、これまで以上に重要になる。
同時に、コンピュータ監視法に関しては、非常に広範な違法/合法のグレーソーンが存在しているということをめぐる私たちの側の合法化への取り組みが重要な課題にしていかなければならない。グレーゾーンには、たとえば、政府関係者に抗議の電子メールを大量に送付したり、ウエッブサーバを一時的に機能不全に追いやるようなサイバーアクション、あるいはデジタル化されている国家の「機密データ」扱いされているが人権上公表されるべきデータの持ちだし、政府や企業側からすれば知的財産権を侵害するとみなされかねないが、人々の生存権や知る権利からみて正当とみられるデータや情報の共有の運動など、市民運動、労働運動など多くの民衆の運動が異義申し立ての手段として必要不可欠な方法が含まれている。すでに述べたように、このグレーゾーンを法執行機関はできる限り犯罪化し取締り対象にしようと意図していることは明らかであるが、これに対して、サイバースペースにおける民衆の不服従運動の正当性を理論的思想的に明確にすると同時に、それらを運動論としてどのように取り組むかは重要な課題になる。残念ながら私たちはこの分野では、まだ十分な理論武装ができていない。その結果、「サイバーテロ」などという脅し文句がはびこり、日本政府が外国の活動家による日本政府サイトへの抗議行動にたいしても、こうした行動が正当であるかどうかすら運動内部での合意がとれていない。インターネットが世界中の民衆の運動をつなぐ以上、これらの運動を監視し弾圧しようとする権力の側もまた世界規模でサイバースペースの抵抗運動を違法化、犯罪化しようとするだろうから、グローバルな視野をもつことが必要になる。圧制に抵抗する権利や国家の安全とは対立する民衆の安全、や言論・表現の自由、コミュニケーションの権利といった民衆がもつべき基本的な権利が、国家の安全や企業の利益の前でたちすくんでいる。共謀罪やコンピュータ監視法を必要としない新しい社会構築のためには、このような民衆の権利の再構築を視野に入れることが必要である。
(『危ないぞ!共謀罪』、樹の花舎、2006年)