オルタナティブの戦後——労働・消費・社会運動の意味

オルタナティブの戦後——労働・消費・社会運動の意味

「戦後」の半世紀は、伝統的な変革の理論や、批判的な資本主義分析の枠組みでは対応できない諸問題を、露出させたものだったといえる。とりわけマルクス主義がその理論的な主軸としてきた労働の領域は、それ自体では成り立たないサブシステムになってしまった。消費領域(マルクス主義的に言えば「労働力再生産過程」)もまた、労働の領域とともに重要な人間活動の領域であるということがあらためて明確になってきた。ここでいう「明確」とは、人々の意識が、仕事の領域だけでなく、トータルな生活へと拡張されてきたということである。そもそも賃金労働にたずさわってきた人々は、一日の半ばを職場で過ごすとはいえ、しかしやはり同時に残りの半日は私生活や消費領域に身を置いてきたのであり、この私的な領域とよばれていた部分が、実は公的な権力や企業の隠された管理対象となっているということが、人々の意識に様々な形で自覚されてきたということである。だから労働者ではなく、消饗者や市民などの役割に利害を見いだす人々が大量に登場することになる。これは、マスメディアや行政などがいう消費者や市民ではなく、これらの言葉に「運動」という言葉が結びつく内容をもつものである。

こうして、戦後の半世紀は、国家の概念をも、比較的単純な階級国家観から、階級的な支配を最終的には貫徹させるものでありつつも、それが被支配階級を排除し、あるいはそれを抑圧するものとしてではなく、むしろこの対立を様々な方法で統合と合意へと変換する装置としての国家へと、その国家観や支配の概念を大きく変化させていった。しかし、こうした合意のシステムが全面化させることはできない。常に、システムのマージナルな部分にこの合意形成から逸脱する領域が形成されるからだ。マージナルな領域からの問題提起にとりわけ注目するのは、こうした領域が単なる抑圧された人々の領域だからではなく、そこには、支配的なシステムによる合意によっては見いだせない、創造的な可能性もまた含まれているからにほかならない。

こうして、反体制連動は、労働運動を基軸とする伝統的な大衆運動から、消費領域に含まれる多様な運動へと拡散していった。それは、相対的に労働運動の比重を低下させることになったが、他方で、資本主義の矛盾は社会化し、「新しい社会運動」と呼ばれるような多様な運動が形成されてきた。さらには運動の当事者自身も「左翼」としてのアイデンティティを持たないか、あるいは否定する、そうした左右のカテゴリーからはみ出す運動の主体も登場するようになる。

以下、戦後の社会運動を概観するが、労働と消費についての観点をふまえて、主として連動のなかから語られた文章や、あるいはそれに近い文献を紹介することにした。しかもその際、六〇年代をひとつの分水嶺として、戦後日本の反体制連動は、大きな変貌を遂げたという観点から、主として六〇年代とそれ以降に焦点をあてる。

六〇年代は、労働運動を大衆運動の中核とし、革新政党や左翼政党が全国政治を担うという伝統的な左翼運動の構えが解体しはじめた時代である。労働運動に加えて、少数民族運動、女性解放運動、部落解放運動、障害者解放運動、反開発の農民運動など様々な運動が台頭し、さらには伝統的な「運動」概念からははみだす都市の様々な異議申し立てが次々に現われる。しかしそれは、必ずしも肯定的な意味で継承されるべき運動ばかりではなかった。暴力による党派闘争や爆弾闘争など、運動が鋭角化すればするほど、そこでは、問題意識が鮮明になる一方、大衆運動が後景に置き去りにされることになった。「全共闘」運動と総称されることが多いこの六〇年代末の自生的なラディカリズムは、新しい可能性を内包していただけでなく同時に負の遺産をもはらんでいた。

出発点としての労働

敗戦直後の大衆運動を特徴づけていたのは、敗戦を契機とした政治的、経済的、社会的な劇的変化を背景としたきわめて戦闘的な労働運動の登場だった。とりわけ、生産管理闘争として知られる諸闘争は、イタリアの工場評議会やドイツのレーテ運動を想起させるような労働者の職場自主管理闘争として貴重な内容を含んでいた。「戦後」の安定した労使関係、あるいは高度成長期の労使関係の形成とは、この生産管理闘争が内包していた可能性をことごとく剥奪することを条件として成り立ったものであるといえるかもしれない。

たぶん、戦後の労働運動史のオーソドクスな概観を描くとすれば、生産管理闘争とその後の一九四七年の二・一ゼネストの敗北、レッドパージといった占領期労働運動の後退戦と、そのなかから形成された総評、そして総評内部の路線論争を経つつ、高度成長とともに春闘の確立をみる、という筋道をたどることになるだろう。同時にこの過程は、学校教科書やマスメディアによって、「豊かな社会」とその豊かさのパイの分け前を受け取る「勤労者」に象徴される貧困からの解放、消費物資に囲まれた「大衆」として描かれがちであった。

むしろ、こごで私は、この高度成長がきわめて多くの犠牲の上に築かれたものであるということに光を当てておく必要があると思う。この犠牲は様々な観点から論ずることができる。労働運動との関わりでいえば、それは、まず高度成長とそれに伴う産業構造の転換がもたらした衰退産業の労働者の過酷な運命に見いだせるだろう。上野英信の『追われゆく坑夫たち』【注1】は、一九六〇年に発行されている。上野は本書のモチーフを、衰退しつつある筑豊炭田の中小炭鉱の労働者の、「むなしく朽ちはててゆく坑夫たちの歯をくいしばった沈黙」「組織されずにたおれてゆく坑夫たちのにぎりしめた拳」を描くことにあったと述べている。上野がこのように述べる前提にある筑豊とは、「まことに近代日本の〈地下王国〉であった。そしてこの獰猛ないぶきにみちあふれた地下王国をささえてきたものは、日本の資本主義化と軍国主義化のいけにえとなった民衆の、飢餓と絶望であった。土地を追われ、職をうばわれ、地上で生きる権利と希望のいっさいをはぎとられた農漁民、労働者、部落民、囚人、朝鮮人、俘虜、海外からの引揚者や復員兵士、やけだされた戦災市民、…それぞれの時代と社会の十字架をせおった者たちが、たえるまもなくこの筑豊になだれおちてきた」そうした場所であった。

石炭産業は、高度成長に突入する一九五〇年代後半から、炭鉱数の減少、労働者数の減少が急激に進行する。炭鉱数は一九五五年の八〇七から一九六〇年の六八二に、そして一九七〇年には一〇二まで激減する。労働者数も、常用労働者で一九五五年の三〇万三〇〇〇人から一九六〇年の二六万五〇〇〇人、そして一九七〇年には六万人にまで激減する。しかし、労働生産性はこの間一貫して上昇しているから、いわば生産性の低い炭鉱の閉山と、より過酷な労働ノルマの強制がこの間に進展したことを示している。これは、炭鉱労働者にすれば失業の恐怖と過酷な労働強化であり、去るも地獄、残るも地獄といった状況であった。上野は、こうした高度成長とともに、大都市部に生み出されつつあったサラリーマンや高学歴の勤労者層の影になって、棄民となりつつあった炭鉱労働者とその家族に光をあてたのだった。

「寄せ場」という空間

高度成長と都市の「豊かさ」を支えたのは、多くの出稼ぎ労働者であり、また帰郷することなく都市に住みついた下層労働者たちだった。東京の山谷、大阪の釜ヶ崎など大都市部には建設、港湾労働に必要な流動的な過剰労働力をプールするための日雇い労働者の街が形成された。これらの地域は、労働者の簡易宿泊施設と路上での〈労働力〉の売買が一体化しているという特徴をもち、「寄せ場」と呼ばれてきた。寄せ場の歴史は近代以前まで遡れるが、現代の寄せ場の風景を決定づけたのは、先にも述べた高度成長に伴う大きな社会変化であった。青木秀男は次のように述べている。

「〈寄せ場〉労働者は、日本経済の高度成長のなかで、さまざまなルートをとおして析出された。彼らは、農業や石炭産業等の伝統的、低成長産業の衰退のなかで、過剰労働力として押し出された。農民、炭鉱労働者、零細 自営業者、その従業員、集団就職者等が、転職、失業、出稼ぎなどの契機をとおして日雇い労働者になった。そして〈寄せ場〉へ流れた。〈寄せ場〉労働者になった一人一人の人生経歴は、無限に多様である。やむをえずなった者。いつの間にかなっていた者。自ら進んでなった者。しかし彼らは、共通の〈運命〉のもとに生きてきた」【注2】

しかし、高度成長がもたらした「一億総中流」の幻想のなかで寄せ場が持った意味は、マスメディアが常識的に流布させた、「人生の敗北者」とか「生活能力のない怠惰な者たち」といったステレオタイプなイメージでは規定できない、よりポジティブな意味を持っていた。例えば、下田平裕身は、次のように述べている。

「(前略)高度成長という当時の社会背景として、日本列島に住む一億全員がなりふり構わぬ激しい経済・社会競争を展開しているという状況があったわけですよね。そのなかで、ほとんどすべての人が〈一般生活人〉〈平均的労働者〉として個性と主張を失い解体され、ステレオ・タイプ化していく。その代償は〈ゆたかになる〉〈中流になる〉〈ひとなみになる〉〈欧米風の生活をする〉ということであったわけですけれども…。そして、競争のなかでこうした〈平均的生活人〉の作り出す生活・労働スタイルの日常的循環は、自分たち自身をも束縛するような秩序を作り出すことになるわけです。寄せ場住民の供給源は、こういう競争のなかから形成される生活と労働の支配秩序そのものであった。脱落・脱出・ドロップアウトといった消極的形態ではあったが、そういう秩序への抵抗を表現していたと言えるのではないか(略)」【注3】

従って、寄せ場は、むしろ競争社会のなかで、そこから逸脱せざるをえなかった人々が形成する、高度成長の支配的な社会と「対時するような〈もう一つの社会〉〈オルタナティブな社会〉を表現している」【注4】と下田平は指摘し、こうした寄せ場労働者の存在は、主流と決別した分裂少数派の労働運動から生み出されてきた労働倫理に対抗する生き方と通底するものがあると見ていた。

六〇年代は、この寄せ場が何度も「暴動」を繰り返した時代でもあった。しかも、その「暴動」は六〇年代末の学生運動や反戦派労働運動などよりもかなりはやい時期に、いわゆる労働組合運動や左翼運動の伝統からは自立して派生したものだった。松沢哲成の作成した年表によれば、六〇年代に山谷だけで十三次に及ぶ暴動が発生し、釜ヶ崎でも六一年、六六年、六七年に大きな暴動が発生している。山岡強一は「寄せ場とは何か」【注5】において、高度成長の中で、大量の労働力が寄せ場に流れ込む一方で、手配師制度や飯場の暴力支配が確立し、「結局、既製の労働運動観」「既製の運動のやり方なり考え方だったら取り組めないまんま来て、六〇年代に入っていくということになります」と指摘している。そして、農村や炭鉱から新たに流入してきた人びとによって形成され、彼らが「暴動という形で自分を表現してきたというのが、六〇年代以降の問題であったと思います」と語っている。都市の寄せ場労働者の労働が炭鉱労働に比べて安全で、過酷でもないということであったかというと決してそうではない。たとえば、新幹線の建設工事だけをみても、この工事での下請け労働者の死傷者数は、調べがつく限りでも驚くことに一万人以上を数えているのだ。

「暴動」は単なる暴力の発現ではなかった。その背景には、高度成長のなかで「豊かさ」を謳歌していると表向きは信じられてきたこの日本の社会が、マージナルな領域にその矛盾を集約させてきた結果でもあった。また、国内移民として寄せ場にやってきた人々がもちこんだ流動的で不定形なライフスタイルは、毎日決まった時間に出勤し、ルーティンワークのように消費生活を送る都市の「勤労者」たちの支配的な文化やライフスタイルと抵触した。こうした文化的な価値の差異は抑圧として作用する。「暴動」にはこうした異なる文化を容認しない日本の「豊かな社会」への異議申し立てという意味があるということを見いだす必要がある。この自立的で無定型な異議申し立てに対して、運動の側がようやくこの暴動という形態をふまえて展開できるようになるのは六七年以降である。この間の事情について、松沢は次のように述べている。

「こういった寄せ場反乱に対する運動の側での受け止めは、山谷では、裁判支援(山対協)のほか、文芸サークル『山谷同人』創立、セツルメント運動、文化運動、初めての労働者主体の炊き出しを行った山谷労働者協力会(一九六三年設立、六八年に山谷地域労働組合に)など、多様であった。山労協からは、六七年に日共系の諸要求貫徹連絡協議会が分岐している。キリスト者、学生、知識人など広汎な部分の参加を見ているが、自己を高い、エライものとしての救済主義か、悲惨さを売り物とする範囲を抜け出るものではなかった。だが六七年には梶大介ほかが『さんや同人』を始めやがて山谷解放委員会を創り(山谷自立合同労組)、暴動によるプレッシャーで権力—資本から要求を勝ちとっていく方式を運動的に展開していった。/七〇年代初頭以降、釜共闘・現闘委はこういった部分の闘いを引き継ぎつつも、寄せ場と労働現場を貫く実力闘争を軸とすることによって、寄せ場労働者の怒りを意識的反乱へと編み上げていこうとするものとして、画期的であった」【注6】

「少数派」の提起するもの

六〇年代が「一億総中流化」の時代といわれながら、寄せ場の労働者の運動にみられるように、逆に「少数派」の存在が際だち、そしてまたとりわけそれは伝統的な左翼運動や社会運動に対してもまた、既存の支配的な社会への異議申し立てに対してと同様の、いくつかの鋭い批判的な問題を投げかけた。そうした少数派は、むしろ今現在では「マイノリティ」という横文字で呼ばれることが多くなったかもしれない在日外国人、障害者、被差別部落民、そして決して数的な意味では少数派ではないにもかかわらず、社会的な少数派とでもいえる女性であった。そしてまた、少数派の「派」に込められた集団的な共同性の意味あいをもっともよく体現していたのは、高度成長の支配的な労使関係から決別した分裂少数派の労働組合だった。渡辺勉の「組合規約第一条〈仲間を裏切らない〉」【注7】は、労働者の伝統的で封建的ともみえる関係が資本に対する抵抗の土台となるケースを論じていた。また、鎌田慧の「失業者たちの日本列島」【注8】は、労働運動の枠の外に置かれた失業者に焦点を当てることによって、逆に労働運動の限界を如実に浮かび上がらせている。これらの指摘を通じて私は、基本的な観点として、少数派を支配的な価値観やライフスタイルから切断された創造的な可能性を秘めた存在としてとらえたい。資本主義において、資本が生み出す「価値」に対して、こうした少数派はそれとは通約可能性を持たない「価値」創造の主体となりうるという可能性をそこに見いだしたいのである。

ポスト高度成長のなかで、あるいはポストモダンのなかで、多様性や多元主義が言葉としては共通認識となりつつある。にもかかわらず、むしろそのために、この多様性や多元主義の見かけのなかに「マイノリティ」は言説として包摂されてしまいがちであり、語られる「マイノリティ」とその日常生活を抱え込んだ生身のマイノリティとの間のギャップは逆に拡がっている。だがこのギャップそれじたいすら、当事者の実感に即した場合も含めて見いだしにくくなっており、支配的な「価値」からの切断をラディカルに示すということが、いったいどのようなことなのかを見いだせない、ある種の方向感覚の喪失状態に陥っているように思われる。

この意味で六〇年代から八〇年代にかけて提起された「少数派」としての問題提起をふまえることは、今一度現在の位置を確認し、方向感覚を復活させるために是非とも通らなければならない道筋だといえる。

在日外国人の観点からと女性の観点からの二つの事例によってこの国における「少数派」の問題提起をみておこう。「在日外国人」というテーマは、大きく分けて、戦前の日本の植民地支配や強制連行等と密接に関わる在日朝鮮人・中国人の問題と、とりわけ八〇年代に急増する外国人労働者の問題という、同列には扱えない二つの問題がある。前者については、戦前・戦中に発生した問題であるにもかかわらず、その問題としての自覚が「日本人」側に生み出されるのはやはり六〇年代以降である。少なくとも、一九六五年の日韓条約締結とそれに反対する闘争までは、日本の植民地支配や日本の加害責任の問題は運動の主要な課題にはなっていなかった。日韓闘争の直後に発行された朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)によって、初めてこの問題が自覚化されるようになったといっていいだろう。この意味で本書は、その後の在日朝鮮人・中国人問題と日本の戦争責任、植民地支配責任を語る上で、画期的な意味をもつものといえた。朴は、本書「まえがき」で、「日本帝国主義が朝鮮を植民地として支配した期間、どのように朝鮮人民を搾取し、圧迫を加えたかは、日本ではいまだほんの一部分しか明らかにされていない」ばかりでなく、逆に日本の植民地支配を美化したり正当化する「大東亜戦争肯定論」のような議論すらみられることに強い危倶の念を抱きながら、次のように述べている。

「わたくしたち朝鮮民族は過去、日本帝国主義支配のために苛酷なあらゆる圧迫と搾取を受けてきたが、まさにそれゆえに、帝国主義に対する憎しみは骨の髄にまで徹している。日本国民もまた過去の帝国主義侵略戦争に多くの犠牲が強いられ、また敗戦後、アメリカ帝国主義の支配政策の下での非民主主義的な政治的圧迫をうけた。現在日本国民は、生活と民主主義を守る闘いを一層強力に展開し、また〈韓日会談〉反対、アメリカ帝国主義のヴェトナム侵略反対の運動も広範に進められつつある。/しかし過去の日本帝国主義が朝鮮を植民地として支配したという歴史的事実のために、朝鮮、日本両民族の間には真に平等な国際的な連帯、友好親善を妨げるような何物かが介在していはしないかと思う。もちろんわれわれは前進のためには過去にこだわる必要はない。しかしわたくしは解放後二十年間の日本での生活のなかで過去の支配と被支配の関係が禍して苦々しい経験を多く味わってきた。解放後一貫して日本政府は在日朝鮮人にたいし不当な弾圧と差別政策を行なってきたためである」【注9】

植民地支配と六〇〇万人に及ぶ戦時動員のなかでの朝鮮人の経験は、民族的な経験として現在まで継承されてきたが、逆に日本人の側ではそうした植民地支配も、「慰安婦」や〈労働力〉のための強制連行や軍人・軍属としての徴用といった事実それ自体すら明らかにされることはなかった。その結果として、戦後の日本で生活することとなった六〇万人に及ぶ在日朝鮮人は、植民地支配からの「解放」が実現されながらも、更に差別を強いられ続けてきた。支配民族と被支配民族が、経験を共有することはできない。しかし、少なくとも歴史的な事実認識の共有は可能なはずである。この事実の共有があってはじめて両者の連帯もまた可能になるはずだと朴は述べている。『朝鮮人強制連行の記録』はそのための作業であった。

六〇年代後半以降、在日朝鮮人・中国人問題に関わるさまざまな運動は、日本の加害責任を基本的な観点としてとることが共通の了解点となる。このことを「国籍」の問題として鮮明に問いかけたのが宋斗会の日本国籍確認訴訟だった。宋は日本で育ち、「日本人」として教育された在日朝鮮人である。国籍を通じて、日本人であるかどうかを認定する力をもっているのは日本の国家であり、「外国人」と認定されたものは、つねに将来的に安定した生活を保障されず、国家の慈悲によってこの国に居住を許されているに過ぎないといった日本の温情主義的な差別を彼は鋭く告発した。【注10】ここには、民族と国籍、あるいは国家と市民的な権利といった重要な問題が先駆的に現われている。

在日外国人のもうひとつの問題、外国人労働者問題として現われている問題も、実は日本政府の外国人対策という観点から見た場合には、植民地支配のもとでの朝鮮人や中国人に対してなされた扱いと本質的には変わらぬものがある。吉永長生の「在日外国人管理の歴史と現在」【注11】は、こうした戦後日本の外国人管理の歴史とその性格について、その歴史的な経緯とともに、「外に開かれた〈共に生きる〉社会の創出」を目指すという運動の課題を示すものになっている。吉永の文章(正確には講演録である)は、日本の政府が歴代とってきた外国人政策は、「同化と追放という二正面戦略」であったと指摘している。日本に生活の基盤ができる前の外国人労働者に対しては主として追放の政策をとり、生活基盤ができてしまった人々に対しては、帰化を強制するという政策である。主に低賃金労働力として日本の資本にとっては必要不可欠であるために、「同化、帰化の道を歩ませることによって問題の成し崩しの解消をはかり、日本国家にとって好都合な外国人として囲い込み、日本に帰化させてしまう形で、当事者の精神を抹殺する形での解決の道を一つ設ける」というわけである。こうして、外国人管理の政策と制度は、日本の社会の中に多様な文化が共存する条件を否定するものとして機能しつづけてきた。これは、植民地支配の時代の皇民化と本質的に何も変わらないものである。

在日外国人問題は、単なる生活条件や市民権における差別といった制度的な問題に回収できるものではない。むしろ問題の本質は、日本という国家の観念が、「日本人」というナショナリティとべったりくっついてしまっているという、国家と民族に関する「日本人」の側の問題がある。日系アメリカ人とか日系ブラジル人といった表現が成り立つのとは対照的に、朝鮮系日本人やフィリピン系日本人というカテゴリーは存在し得ない。存在し得ない理由は、近代国家日本が構築してきた「日本人」の概念とは、民族的な概念であると同時に日本という国家の国民概念でもあるという二重性を条件としており、従って純粋な契約概念としての国家を構成する主体としての市民の別称ではありえないものとされてきたからである。このことは、国家と社会の概念的な区別を成り立たせなくさせ、国家の支配的な強制力は、逆に、社会的な領域の隅々にまで行き渡り、公共性と私的領域の区別や、国民と区別される市民的権利の観念は成り立ちようがないものにされてきた。こうして、外国人はあらかじめ排除されたものであって、「日本人」と同等の権利を保障される根拠はないという観念が強固に形成され、そもそも排除されて当然の存在がその結果として経済的社会的な不利益を被ることについても、それを当然とみなす社会通念が「日本人」を支配してきた。このことは、沖縄における日本のナショナリズムの強引な押しつけの過程の中にも見事に示されている。知花昌一が、読谷村で行なった日の丸掲揚への抗議行動が示したのは、まさに、人工的に形成されようとする「日本人」への帰属に対する断固とした拒否の意志だった。【注12】
吉永も指摘しているように、多様な人々との共存が重要な課題となるという場合、それは同時に、多様な文化の共存を保障する社会の構築という課題を避けるわけにはいかない。文化という観点から、とりわけ日本社会の画一性の強制という傾向を批判的に再検討しようとする動きが、ここ一〇年ほどの間にかなり強調されるようになってきたように思われる。欧米社会がポストモダニズムの思想による西欧中心主義批判にさらされるなかで、「多文化主義(multiculturarism)という課題が提起されはじめたことや、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』のように、西欧中心の歴史観が形成したステレオタイプの「東洋観」に対する批判の出現とも相呼応するかのように、日本でもこれらの議論とほぼ共通した問題意識に裏打ちされた考え方が提起されるようになってきた。

ダグラス・ラミスは「外国(たとえばアメリカ)」【注13】において、日本人にとっての外国が常に「アメリカ」——アメリカとはそもそも南北アメリカ大陸を指すものだが、日本ではアメリカ=アメリカ合衆国である——であるということによって、本来多様であるはずの外国の意識が、ステレオタイプの「アメリカ」のイメージによって支配されているということを鋭く指摘した。この日本の「アメリカ」観のなかには、日本的なオリエンタリズムと裏返しのナショナリズムが潜んでいることは間違いない。こうして、私たちは、民族的マイノリティの問題を考えるとき、同時に二つの課題を解決しなければならないことに気づく。ひとつは、欧米中心主義の価値意識の克服であり、もうひとつは、この克服が安直な日本=アジア主義に回帰することのない、非西欧的な価値意識の受容の方法という問題である。そして、この課題は、日本の近代が生み出した「日本人」というフィクションを解体させる想像力へと結びついてゆかなければならない。

企業社会の中の性という問題群

文字どおりの意味ではマイノリティではないにも関わらず、マイノリティ問題に含めて議論されることが多いのが女性差別の問題である。数的にいって決して少数ではないにも関わらず、あたかも「少数」であるかのように扱われるというのは、それなりの根拠がある。すなわち、女性の文化が支配的な文化的価値とはなっていないからであり、また、社会の支配的な意思決定権の大半を握る男性にとっては、常に「自分には属さない文化」であるが故に「他者の文化」であり、従って「見えない領域」であるということである。このことは、民族的な少数派が被る差別の構造とはまた別の、社会構造によるものである。

性差別の問題は、労働や所得など経済的な差別から、ポルノグラフィや性的なステレオタイプの強制といった問題までその幅はきわめて広い。以下では、主として女性が生活する社会的な条件のなかで、常に議論の中心となってきた企業と家族、あるいは女性にとっての仕事の問題に焦点を当て紹介したい。

加納実紀代の「社緑社会からの総撤退を」は、女性の企業社会からの自立を実践的な問題意識から提起したものだ。加納は企業社会に巻き込まれる日常生活の人間関係を、「社縁社会」と表現した。加納の論文は、そのタイトルから、女性の社会進出そのものに反対し、家族への囲い込みを容認する識論のように誤解されることがあるが、それは加納の本意ではない。むしろ彼女は、労働、つまり「はたらく」とは「はたを楽にさせる」であることを本質とすべきであり、現代の男性と企業の労働にはそうした有意義な内実はないのであり、そうした男性並の労働に女性が参加することに、意義を見いだすことはできないというラディカルな支配的な労働観への異議申し立てが含意されていた。企業でも家族でもない第三の生き方の模索という加納の問題意識は、企業社会が浸食しつづける企業外部の女性たちの生活領域を、女性たちがどのように単に防衛的な意味でではなく、より創造的な営みとして再構築しうるか、という問題意識や、なによりも企業社会からの自由とはこの社会が強いる関係性からの切断の試みであるということ、という点において、ラディカルな問題意識に貫かれているといっていいだろう。

八〇年代の女性をとりまく状況認識については、『女と総合安保』【注14】や、吉清一江の『まつぴらごめん日本型福祉社会』【注15】に示されているように、フェミニズムの議論は、政治、企業、労働の問題を扱うときにも必然的に家族や消費生活の領域を視野に収めなければならなかった。このように、七〇年代以降のフェミニズムに代表される社会批判の理論的な枠組みは、伝統的なマルクス主義の生産的労働中心の社会観の枠組みから大きくはみだす様々な試みを繰り返し生み出すことになった。【注16】近代経済学者の塩沢由典は、『生活の再生産と経済学』のなかで、マルクスの史的唯物論における人間の生活の社会的生産という観点を「生活」と読み換え、この意味での生活には、生命の再生産、物的財の生産と再生産、生活様式の再生産、文化・知識・社会倫理の再生産という四つの相があると指摘した。塩沢のそもそもの問題意識には、マルクスの土台—上部構造論による社会認識が生産中心主義として理解され、従って、生活の生産というマルクスの観点を「生活が生活を生みだしていく諸過程」としてとらえられていなかったという批判をふまえて、彼なりの新しい枠組みを提示しようというものだった。

塩沢は、マルクスの生産過程にかえて生活の再生産を最終審級とする枠組みを提示する。この観点から、再度資本主義社会の問題を見直す際に、具体的な事例として持ち出しているのが、原発や火力発電所などのエネルギーと地域開発の問題であり、「女たちの運動」であった。とりわけ彼は後者について、「それは生命の再生産・生活様式・生活文化にふれている点で他にみられぬ根底性をもっている」と指摘している。しかし、塩沢がこの論文を書いた一九八〇年には、いまだ理論的な意味で彼が評価しうるフェミニズムの側の業績はほとんど見あたらなかった。塩沢は、一九六〇年の主婦論争を取り上げ、従来のマルクスの労働価値説では回答しえない問題に気づいた点を高く評価していた。こうした問題提起はその後のフェミニズムの理論の中で洗練されてゆくが、他方でマルクス経済学の側は、いまだに十分にその意義を受けとめているとはいえない。

消費社会という課題

大衆消費社会が日本で話題になりはじめたのは、高度成長以降のことだと言っていいだろう。たとえば、大衆社会論について、富永健一は「すべての人々がある程度教育があり、ある程度金持ちで、政治的に平等、都市と農村の違いやホワイトカラーとブルーカラーの違いがほとんど消滅しており、マスコミを通じて同じ文化を享受しているような社会」だと定義して、さらに次のように日本の場合について説明している。

「今日、すべての先進諸国は大衆社会になっているが、日本における大衆社会の出現は、とりわけ戦後改革と高度経済成長という二大イベントの産物に帰せられる。すなわち、戦後改革は、国民主権を実現し、男女平等の普通選挙を実施し、地主と小作の区別を撤廃し、職員と工員の区別を消滅させ、旧制高校・旧制帝大のエリート教育システムを解体し、シャウプ税制による高度の累進課税を推進した。そのあとに高度経済成長が到来して、所得水準の均等的な上昇、農村人口の急激な激減と生活様式における都市化の進行、大量生産・大量消費の実現によるテレビその他の家電製品やマイカーの普及、食生活からスーツとジーンズ・Tシャツ・スタイルにいたるまでの消費パターンの均質化などがすすんだ」【注17】

私は、ここに述べられているような一般論としての大衆社会と、一般論に還元できないし大衆としてもくくることのできない大衆内部の溝や差異について述べてきたつもりだから、右の文が文字どおりすべての人々に当てはまるということはない、ということをあえてここで再び論証する必要はないだろう。しかし、右の文章はまったくでたらめなわけではない。ただし、戦後改革は国民主権を実現しはしたが、在日外国人には平等な権利を与えなかったし、男女平等の普通選挙は実施されても男女間の社会的経済的な平等は実現されず、地主と小作の区別は撤廃されたが、おしなべて農業は解体の憂き目にあい、職員と工員の区別や旧帝大の権威は文字どおりには消滅せず、強固な学歴社会は一貫して再生産され続けた。しかし、ある種の一億総中流という意識だけは蔓延した。実態はどうあれ、中流意識と日本は豊かであるという観念を支えてきたのは、まさにマスメディアであった。「マスコミを通じて同じ文化を享受しているような社会」は、マスメディアが「この社会の構成員は皆中流であり、豊かである」というメッセージによってそうした観念にいろどられた文化が形成されてゆくということになる。

こうした「豊かさ」が、少数派となった下層の労働者大衆をより容易に切り捨てることになったのに対して、たぶん「公害」とか環境問題は、自覚されるか否かにかかわらず、「豊かさ」のただなかにいる人々の生活意識そのものを問い直すきっかけを与えたといえる。

公害の発生とそれに対する闘いのなかから、非常にすぐれた文章が数多く生みだされている。たとえば、東大闘争の自主講座運動のなかから生まれた宇井純の『公害原論』【注18】、水俣病をテーマとした石牟礼道子の『苦海浄土』【注19】、火力発電所反対闘争を描いた松下竜一の『暗闇の思想』【注20】など数多い。たとえば、小出裕章の論文「放射能汚染の中の反原発」【注21】は、チェルノブイリ原発事故以後の反原発運動の大きな広がりのなかで書かれたものである。原発事故は、すべての人々をある意味で被害者にする。しかし、被害者であるという意識だけに支えられた運動でよいのかどうかという問題を、とくに放射能汚染食品の輸入あるいは汚染の測定問題を取り上げて論じたものである。一九八六年にチェルノブイリ原発で事故が起き、その後、拡散した放射能汚染は、ヨーロッパ全土に拡がった。そして、ヨーロッパから輸入される食品にも残留放射能が検出されるようになった。問題は、そうした汚染食品を私たちは受け入れるべきかどうか、という問題である。生活協同組合など安全な食べ物にこだわってきた団体のなかには、こうした汚染食品を取り扱わないという方針を打ち出すところがでてきた。逆に、国の安全基準を下回っているのだからという理由で、何の注意もせずに供給しつづけるところもあった。これに対して、小出は、「放射能で汚れた食べ物を私は食べたくない。日本の子供達にも食べさせたくない。しかし、日本という国が少なくとも現在原子力を選択している限り、日本人は自らの目の前に汚染した食糧を上らせて、原子力を選択することの意味を十分に考えてみる責任がある」と主張した。汚染食品の規制強化は、それらの食品を規制の緩やかな飢餓国へ向かわせることになるということ、そうした差別を再生産させるような運動の方針をとるべきではないということをはっきりと述べている。ここから、さらに小出は、「唯一の被爆国」という誤った常識や朝鮮人被爆者への差別の問題など、日本の加害責任とナショナリズムに偏りがちな被害者意識に基づく運動のあり方に対して、告発や糾弾ではなく、運動の飛躍の期待をこめて議論をすすめている。

小出のこの問題提起は、いままでの反公害運動が到達した運動のひとつの重要な地平を示している。日本の原発の放射性廃棄物の、南太平洋への日本政府による投棄計画など、政府レベルでは邪魔者を国境の外に排除すれば事足りるという発想が強いが、逆に運動の中では、こうした問題についての理解はチェルノブイリ事故当時に比べてずっと深まっている。国際的な連帯運動もこうした理解を押し進める大きなきっかけとなっている。

小出の観点は、日常生活の問題を地球規模での人とモノの関わりとして見通すという想像力を地域運動や市民運動が不可欠の運動の条件としなければならないことを鋭く指摘したものだった。たしかに、生活保守主義に基づく「消費者運動」のなかには、自分さえ安全であればという発想に基づく危機感によりかかる傾向が常にあった。しかしまた、七〇年代以降、運動が全国政治や党に担われなくなるにつれて、逆に運動に参加する人々ひとりひとりが自分の経験として、こうした排外主義の傾向を克服するという傾向もみられたのである。

解体する農から抵抗する農へ

高度成長のなかで一貫して解体されてきた農業について、以下では、むしろそのなかから新しい農業のあり方を模索する試みの例を取り上げて紹介する。それは、有機農業の実践と都市消費者とのオルタナティブな流通回路の形成の試みである.星寛治の「農とは何か——工業化・石油づけ農業をこえる道」【注22】は、従来の農民運動が追求してきたものが「賃金や物量に集約されてきた感がつよい」ために、「生活様式そのものが工業化社会と石油文明の所産であるという矛盾に、あまり思いをいたさなかったことはいなめない」と批判し、有機農業運動を実践していく経緯について論じたものだ。

星の問題意識は、逆に都市消費者の側でもそれに見合った生活の見直しとも対応している。従来の家計を支えるための生活協同組合運動から、七〇年代以降、いわゆる産直や共同購入運動は、安全な食べ物と生産者と消費者のより密接なコミュニケーションによる食をめぐる生活様式の変革として展開されてきた。そうした対応のなかで、都市の消費者のライフスタイルも眼に見えないところで変化し、そうした変化が、環境やエコロジーを、場合によってはマスメディアも取り上げるような「流行現象」にまで押し上げる素地となっているともいえるのである。エコロジーがこうした流行としての商品化の波にのまれるとき、エコロジーの市場は拡大し、それに伴って生産と流通も拡大する。しかし、そうした拡大は、それをライフスタイルの根底で支える生産者や消費者の実質に加えて、企業が利潤を目的として上乗せしたいわば水増し部分によって支えられている。それは気分や投資のトレンドとしてのエコロジーである。もちろんこれらの担い手もまた都市の消費者であり、農村部の農業の担い手である。こうした流行が、流行である限り、別の流行に置きかわってしまったとき、この水増し部分は消え去るが、しかしそれ以上に、肥大化した市場とともに拡大した生産者の投資や消費者側の組織もまた大きな打撃を受けることになる。企業は新たな市場にむけてさっさと資金を引き上げ、撤退してしまうが、そもそも新しいライフスタイルを模索しようとしてきた消費者や生産者の非企業的な組織は、もろにこうした流行の盛衰の影響を受けることになる。それは、場合によっては、以前よりも深刻な経営上の危機をもたらすかもしれない。このとき、初発に抱いていたオルタナテイブなライフスタイルへの志は一度市場化の洗礼をうけるなかで、市場経済の論理にからめとられる方向で拡大せざるをえなかった規模を維持するという選択を強いられる。巨大化した生協をいまや誰も巨大化したスーパーと区別しないように。そこで扱われている食材等がややましになったとしても、そうした物の質を商品として提供するのではない別の使用価値へのこだわりは希薄化せざるをえない。

たとえば、生活クラブ生協の創立者のひとり岩根邦雄は、「生活クラブをつくった目的は、日本の市民社会の中の確固たる政治闘争、あるいは社会運動の主体をつくっていく、ということであった」【注23】と回顧している。生活クラブが設立されたのは六〇年代半ばだが、岩根は、この六〇年代は労働運動が変革の主体の中心的な担い手であることをやめた時代だと指摘し、それにかわって「日常性に根ざし、しかし物事は本質的にとらえ徹底的に考える、思想的にはラディカルに、しかし実践的には日常性に根ざした運動が歴史的に要請されていた。それが私たちの前に出されていた課題だった。それに対して、私は生活クラブという組織をつくることによって応えようとしたのである」【注24】と述べて 生活クラブはよく知られているように、共同購入運動を基盤に、生活者ネットという政治団体を形成し、自治体レベルでの選挙運動などいわゆる政治運動に関わってきた。しかしまた、岩根のような鮮明な問題意識が生活クラブの、個々のメンバーに共有されているとは思えない。そこには、必ず埋められない溝がある。ただどのような溝があるにせよ、日常性に根ざし、あたかも政治とは無関係な大衆の生活のミクロなしベルでの実践が、結果的に政治的なものを引き寄せたということなのであり、現代の社会が、いかにミクロ・ポリティクスを構造化した社会であるかを如実に示しているということはいえる。しかし、だからこそ、そこにポリティクスを持ち込むべきであるという主張と、だからこそ逆に、ポリティクスを排除したいという欲求との間の溝は大きいように思われてならない。これは、労働運動を体験するなかから労働者が政治化するということがありえたように、消費者もまたその連動を通じて政治化するということはありえるだろうが、しかし、政治化しない労働者たちによっても制度としての労働運動は再生産されてきたように(それは同時に、運動としての役割の歴史的な終焉をむかえるが)、政治化しない消費者たちによって消費者運動が再生産されるということもありうる。先の話の繰り返しになるが、こうしたケースが資本にとってもっとも「資源化」しやすい消費者なのである。

文化という課題

高度成長を経るなかで、人々の意識は確実に労働運動から拡散し、関心は多様化していった。そのなかで、階級意識もまたある種の解体を経験した。私たちはともすれば、そもそも日本の社会では階級意識などは成り立たなかったと考えがちである。確かにイギリスのような強固な階級意識は形成されなかった。しかし、労働組合への信頼や期待を抱き、なによりも大衆的な革新運動や左翼運動、そして社会主義の未来を漠然と予想する一定の無視できない階層は確実に存在した。それが社会党や共産党を支えてきた大衆の階層である。階級意識は、労働者階級が置かれている客観的経済的な条件によって必然的に形成されるものではなく、それはむしろ様々な闘いへの参加の経験のなかで再生産される。そして、この経験の共有を可能にするものが、支配者や資本とは異なる価値観の集団的形成である。これが一定の社会的な広がりを見せ、なおかつ支配的な価値観と明確な対立軸を形成しているとき、それは階級文化として機能する。なによりもこうした階級文化の形成によって、「大衆社会」が画一的な社会へと変質することが妨げられている。このことが、階級意識の再生産にとって不可欠な条件をなすと言っていいだろう。

こうした観点から戦後を見直したとき、高度成長とはこうした階級意識の条件となる階級的な文化構造を解体した時期であるといえた。歴史的に言えば、こうした階級的な社会分断的構造は、二十世紀初頭の二つの世界大戦に代表されるように、戦争を契機に解体され、国家的な統合へと導かれることが多かった。国家は、労働者を戦争に動員することに成功しない限り、総力戦としての体制を形成することはできない。そのためには、階級利害を超越する国家的な利害における合意を形成し、国際主義的な連帯よりも国家間の対立の優位を強化しなければならない。

実は、高度成長はこれと同様の効果をもたらした。なによりも戦後復興を経て、いよいよ先進国に追いつきうるところにまでたどり着いた日本が、対欧米に関しては、追いつく目標として、またアジアに対しては経済的な覇権の確立という目標として、それぞれ意識されることによって、「日本」へのアイデンティティ形成の条件がつくられてきた。これを文化的に支えたのが、ひとつには東京オリンピックであり、もうひとつが一九七〇年の万国博覧会であった。

こうした国家イベントは、それが国際的な規模になればなるほど、ナショナリズムを鼓舞する格好の舞台装置となる。スポーツと文化は、それ自体が一般に政治とは無関係なものとみなされ、人々の生活や感性に潤いを与えるものであるという建て前があるために、政治的なイベントとしての性質がいかに強烈であったとしても、そのことが直接に大衆的な反感を買うことが少ない。しかし、たとえば、一九六四年の東京オリンピックでは、これを契機に首都圏の都市改造が大規模にすすめられ、国民運動推進連絡会議が総理府に設置され、戦後はじめてといっていい国民総動員の体制づくりが展開された。首都高速道路の建設も新幹線の建設もすべてこのオリンピックとむすびついていた。そして、国家元首として昭和天皇が開会宣言を行なった。このようなイベントの仕掛けを通じて、ナショナリズムがある種の「雰囲気」として形成されてゆく。こうして、東京オリンピックは、国家イベントとしては、大きな反対もなく、高度成長のシンボル的な行事として歴史催刻まれた。

しかし、この東京オリンピックから六年後の一九七〇年に開催された万国博覧会は、この博覧会に直接かかわりがある建築家や文化関係者から大きな異論や批判がなげかけられた。万博もまた、国家動員型で六四二一万人の入場者を数えることになった。ちょうど全共闘運動やベトナム反戦運動が昂揚するなかで、万博に対する反対運動もまた展開された。万博は、七〇年の安保条約改定の年にあたったこともあり、大衆の意識をそらすためのものだという批判もあった。

万博のシンボルが岡本太郎の太陽の塔であったように、このイベントは、従来反権力とか反体制とみなされていたような前衛的なアーティストたちを大々的に起用し、伝統文化中心の文化政策が大きく転換するとともに、文化の領域における前衛の解体を促したイベントだった。しかし、宮内嘉久が「万国博——芸術の思想的責任」【注25】で指摘しているように、万博は文化の次元での知識人、芸術家の動員の開始だった。そしてまた当時の反対運動に関わった建築家たちは、万博を「おのれの内部からつきつけられた刃」、「日常の設計労働・研究活動それ自身が不断に抱えている矛盾の集約的な表現」として捉えた。【注26】ここには、全共闘運動が提示した自己否定の視点がはっきりと見てとれる。しかし闘争の終息とその後の脱工業化の進展のなかで、文化産業や情報産業の比重が高まり、それらの産業に提供されるソフトとしての文化生産を担う人々へのニーズも高まる中で、確実に先端的な文化的な表現から、制度を逸脱するエネルギーが希薄化していった。

これは、何も万博をめぐる状況に限られない。七〇年前後の時代がまたラディカルな文化運動の昂揚と敗北の時代でもあったという観点からみれば、これは文化状況全般にいえたことである。例えば、六九年に新宿西口広場で始まったフォークゲリラや、当時のラジオの深夜放送のなかで歌われたプロテストソングは、時代の流行の衰退とともに、歌われなくなる。音楽のスタイルや歌詞としての表現方法は変わっても、反体制というスタンスは変わらないという若者文化の伝統は、日本ではほぼこの七〇年代で解体する。これは、七〇年代のパンクロック、八〇年代のラップ・ヒップホップというようにその担い手となる若者の集団は同じではないとしても、文化的な伝統として、反体制としてのカウンターカルチャーが持続した欧米とは大きな違いになっている。この対抗文化の解体の原因のひとつは、民衆による自立したメディアの欠如に求められるだろう。マスメディアの中に一時的に生み出された対抗文化の空間(深夜放送がその典型であるし、新宿西口広場もある種それに近い性質をもっていたといえそうだ)が、ことごとく解体されたときに、代替すべきメディアの不在は、多様に分散しつつある市民運動にとっては決定的な打盤だった。このことに気づかれるようになったのは、粉川哲夫らがメディア運動を提起してからのことといってもいいかもしれない。

全共闘運動と暴力の問題

六〇年代末の運動が、それまでの反体制運動や左翼運動と決定的な違いをもったのは、「全共闘運動」と総称されるオートノモスな運動にあるということは、その評価の是非を別にしても、たぶん最も多くの人々に共有されている了解事項であると思われる。しかし、いざその内容について論ずるということになると、現段階ではまだ十分な歴史的な評価や総括が行なわれてきているとは言いがたい。もちろん運動の渦中では、全共闘運動とは何かということが様々に問われてきたし、この運動が告発の対象とした教師の側からも、様々に真摯な応答や反論などが提起されていた。しかし、そうした当時の運動の中から、運動に即して提起されてきた諸問題や評価それ自体もまた、全共闘運動が解体するなかで、現在の時点ではほとんど運動としても思想としても直接的には継承されていないようにみえる。いやむしろ天野恵一が繰り返し指摘しているように、全共闘運動のなかには、継承すべきものばかりでなく、むしろ否定的な要素もまた含まれていた。

全共闘運動とは、いったい何だったのか。その名称にこだわれば、それは「全学共闘会議」の略称であり、自治会組織による学生運動に対する批判のなかから自生的に形成された大衆運動だった。そこには新左翼の諸党派も様々な形で関与し、それが「全共闘」を名乗る場合さえあったので、反日共系の新左翼運動として一括されてしまうことも多かったが、しかし、この運動はそうした新左翼も含めた組織としての左翼運動とは、様々な点で基本的に異なる性質を内包していたのではないかと思う。

第一に、その運動の多くは、きわめて個別的な課題にこだわり、その運動を普遍的な全国的な政治課題として再構築しようという方向にはなかなか向かわなかった。東大闘争にしても、日大闘争にしても、そこで闘われた課題は大学や教育の制度的な問題としては共通したものをもっていた。だから、支援や相互の交流は日常的にあった。しかし、組織として全体をたばねるという指向性は従来の左翼大衆運動に比べると極めて希薄だったのではないか。むしろ小規模な集団が幾重にもおりかさなるようにして、ある種の大衆的な闘争のエネルギーが形成されていたといえるかもしれない。従って、「全共闘」というラベリングは、自称であったとしてもむしろ他者によって規定された集団への認知であったといったほうがいい。当事者に即せば、そう名乗ることはあっても、マスメディアなどが十把ひとからげに「ゼンキョウトウ」と呼称する集団とは違うものだ。一般性に乏しいそれぞれの「全共闘」が存在するのである。この点は、やはり当時の「ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)」にもあてはまるかもしてない。したがって、その特徴をひとことで述べることは非常に難しい。そもそも共通の理念やイデオロギーなどは、「反体制」という漠然としたスタンスを除けば、存在しなかったからだ。もちろん、マルクスやレーニンは今に比べれば非常によく読まれたことは間違いない。しかし、同時に毛沢東もチェ・ゲバラもマルクーゼもバクーニンも読まれたし、これらのテクストはまた東映のやくざ映画や、白土三平の『カムイ伝』や、ちぱてつやの『あしたのジョー』といったコミックの世界と同じ地平で享受されていた。

たぶん、運動が大きなエネルギーを放出しえる状況というのは、そこに参加している人々が共有する想像力もまた大きく膨らみ、逆に現実は相対的にみすぼらしく見るに値しないものへと後退し、現実そのものをこの想像力によって解体しうるのではないかという可能性に賭けるだけの意味が形成されているときである。「大学解体」も「自己否定」も、一定の距離をとってみれば、その文字どおりの貫徹は、極めて困難な課題である。しかし、にもかかわらず、その困難が困難とは感じられないだけの想像力を形成したのである。しかも、この想像力を形成したのは、何らかの特定できる組織や集団あるいは個人ではなかった。こうした想像力は大衆的な運動の高揚や持続のなかでしか維持できない。それが少数者の想像力に依拠するようになるとき、もはやそれは大衆の想像力を引き寄せられなくなったときである。

大学解体というスローガンは、不断の競争を通じた差別選別のヒエラルキーとしてある教育の頂点にたつものとして、この差別選別の構造そのものの否定としての意味を少なくとも理念的には有していた。教師と学生という関係も、管理するものとされるものという関係として、あるいは〈労働力〉商品を生産するものと、この商品の主体として自己形成するものとして捉えられた。したがって、現にあるシステムを肯定することは、その結果として資本主義的なシステムの維持に加担するということになる。もし、こうした資本主義のシステムが日々差別選別のシステムを再生産しているとすれば、このシステムを支えているのは、単に資本や管理者としての教師、大学当局などだけでなく、そのシステムに巻き込まれている学生自身もまたこのシステムの再生産に責任があるということになる。大学生であるということは、競争のなかで、他者を蹴落として、選別の勝利者となることなくしてはありえない。自分が選ばれるということは誰かが排除されるということであって、誰もが大学生になれるということではない。
こうした問いかけは、根源的なものであり、従って、こうした差別選別のシステムのなかで、選別する側、あるいは管理する側にたつのか、それとも、こうしたシステムそのものを否定し、このシステムから降りるのか、という問いかけを伴うことになる。こうした問題意識が根底にあって、現象的には個別の管理問題や学費値上げ粉砕闘争などが闘われるということになるわけだから、たとえば、ストライキにしても、それは個別の課題を具体的に解決する手段としてではなく、常に「無期限スト」を建て前として設定しなければならなくなる。逆に闘争は、常に現実のもつ重みとの闘争となる。闘いは、自らの解放のための闘いであるわけだが、そのためには現実のシステムが強いる抑圧を拒否できる主体の強靭さが試されることになる。このようにして、闘いは、敵との闘いである以前に、現実のシステムへの帰属(帰還)をめぐる葛藤として、自分自身との闘いとして内向してゆく。現実のシステムの側もまた拒否の態度を貫き続ければ敗北する以外にないと恫喝する。運動の問いが根源的であればあるほど、妥協は容易に敗北の意識に結びつき、倫理的な抑圧となり、闘争を支えた諸個人の想像力は、この抑圧のなかで急速に現実の世界によって呑み込まれてしまう。

七〇年代に入って、大衆運動としての全共闘運動が解体過程に入ったとき、それは、現実的には機動隊の暴力の前に敗北を続けるという形で現われることになる。このときに、ゲバ棒と石と火炎瓶という戦闘スタイルから武装の高度化という発想が生まれてくる。同時に、新左翼党派の間での織烈な党派闘争とその過程で命を失い、再起不能な状態に追い込まれた多くの犠牲者がうまれる。とりわけ、連合赤軍の浅間山荘での銃撃戦と、その後明らかになった同志殺しの経過は、その武装闘争の理念や同志に対する「総括」に示された自己否定的な倫理主義と、根源的な革命の理想主義のいずれをとってみても、当時の時代が有していた大衆的な想像力の否定的な側面を如実に示していた。ブルジョワ社会の中に生まれ育ったものである以上、革命的であるためには、より厳しい自己否定、自己変革と革命の理念に最も近い存在へと自らを高めることが要求された。これは、逆に、そうした徹底性に欠けるとみなされたものたちに対する激しい倫理的な糾弾を伴うことになる。後に獄中で自らの命を絶つことになる森恒夫は、同志にあてた書簡の中で、次のように述べている。

「政治、軍事、経済の独占のみならず、ぼくの個人的な人生観(ブルジョワ的)の党物神を行ったことから、全ての同志は自らの階級性、マルクス・レーニン主義——政治路線等を放棄するかどうかを問われていったのです。極左路線に疑問を持ったり反対した同志、この形而上学的〈銃—共産主義化〉論の非科学性、反マルクス・レーニン主義、プラグマティズムに対して疑問を持ったり、反対した同志、ぼくの独裁制に疑問を持ったり、反対した同志、こうした同志に対して〈総括〉を要求し、過去の闘争の評価等をも含めてぼくの価値観への完全な同化を強要して粛清を実現していったのです」【注27】

彼は、自らのプチブル性こそが、この粛清の本質であるとして、「どうしてもマルクス・レーニン主義の基礎から学習しないと駄目だと確信しています」と書いている。スターリン批判でも繰り返し主張された「真のマルクス主義」による粛清の克服という方法は、他方で支配的なイデオロギーからの攻撃が常にマルクス主義そのものに粛清を招く本質的な「狂気」が内在している、という批判であったことに対する応答でもあった。しかし、私は、粛清の問題にせよ、あるいは党派闘争における「内ゲバ」の問題にせよ、その原因も解決も、それぞれのイデオロギーに固有の原因に還元できるものではないと思う。どのようなイデオロギーであれ、あるいは宗教的信条であれ、そこにはこうした粛清に至る排除の指向性は内包されざるを得ないのであって、特定のイデオロギーだけの問題ではない。というのも、排除の論理を含まないどんなイデオロギーも教義もありえないからだ。では、それは致し方ないことなのか。そうではない。なぜなら、全てのマルクス主義者、全ての自由主義者、全ての全体主義者が粛清に加担するわけではないからだ。あるいは、ユートピア主義が暴力による他者の排除の根源にあるという主張もまた、真理の半面でしかない。なぜならば、やはりすべてのユートピア主義者がそうした排除を肯定するわけではないからだ。粛清によって、せん滅の対象としての他者を文字どおり消滅させることはできない。むしろ、粛清は自らの豊穣な想像力を抑圧し、自己崩壊を招かざるをえない。なぜならば、社会変革の運動は、活動家のための自己目的の運動ではなく、最終的には大衆的な合意を形成し、現にある社会よりもより多くの幸福をもたらしうる社会へと導くことであって、この目標はすでに運動の過程の中で運動の質として繰り返し現われるものだからだ。だから、党派闘争でテロを繰り返す党派や、過去のそうした誤りへの「加害責任」を明確にしえない組織には、新たな社会を建設するという課題を担う資格はないといわざるを得ない。しかし残念ながら、私たちもまた、この深刻な問題を解決する最終的な方法を獲得しえていない。未決の問題であるということを、まずは自覚することから出発するしかないのだ。

東アジア反日武装戦線が提示した課題

支配的なイデオロギーは、イデオロギーとして自覚されない場合が多い。従って、対立する少数者のイデオロギーに見いだされる粛清だけがきわだつ。こうして、脱イデオロギーが主張されたり、ユートピアへの拒絶が主張され、それは結果的に現状肯定という唯一の選択肢を導きよせてしまう。それは、戦争観や歴史観のなかに如実に現われる。たとえば、アジア・太平洋戦争について、日本はみずからの「戦没者」を特別に追悼する仕組みを持っている。靖国神社や毎年夏に行なわれる追悼式典、そして特別な年金制度などである。アジアからは明らかな植民地支配や侵略であった戦争が、日本ではそのように理解を促す教育を意図的に排除してきた。逆に広島・長崎の原爆は「唯一の被爆国」幻想を生みだし、大都市の空襲体験は、台湾・朝鮮の植民地支配を「大日本帝国」の繁栄と受けとめ、満州国の建国を大東亜共栄圏建設の必然的な道程として祝賀し、侵略の銃後を支え、真珠湾奇襲作戦の成功を歓喜の声で迎えた住民たちを、ことごとく被害者に仕立ててしまった。この戦争は、「総力戦」として戦われ、「総動員体制」がとられたこと、そしてたとえ戦場ではないとしても、内地もまた戦争遂行の重要な機能を担うものであるということを国家は徹底して宣伝・教育し、合意形成をうながしていった。加納実紀代らが『銃後史ノート』で行なった詳細な「銃後」研究にみられるように、日本人にはその軽重に差はあれ、侵略戦争に対する責任意識は必要な問題なのである。

東アジア反日武装戦線は、爆弾闘争によって、多数の死傷者を出した「テロリスト・グループ」という側面だけが強調されることが多いが、右に見たような問題意識を徹底的につきつめようとしたグループだった。連合赤軍とは違い、彼らは党としての組織化という意識は非常に希薄であり、また彼らは多くの場合、マルクス主義との関わりよりも、日本のアジア侵略に加担した日本帝国主義本国人としての加害責任意識に支えられていたと言っていいと思う。荒井まり子の「獄中記」は、東アジア反日武装戦線がたどった爆弾闘争の意味を、当時の時代の動きや彼女自身の心の動きとともに非常によく表現している。荒井は、爆弾闘争の計画、実行に加わっていなかったにもかかわらず、精神的無形的幇助として懲役八年の実刑判決を受けている。むしろ自らはえん罪といっていい立場にありながら、彼女は死刑判決を受けた大道寺将司、益永利明の二人とともに、その闘いの誤りを教訓として、死刑という処刑によって全てを終わらせるのではない生き方と闘いを選びとってゆく。爆弾闘争のなかでの誤りは、闘いのなかでしか克服できない。何もしないことは、むしろ現にある不正を容認するにすぎないと荒井は考える。しかし、それは、闘いに犠牲はやむを得ないという自己正当化ではない。更に彼女は次のように書いている。

「しかし、今の私は〈大義のためには小さな犠牲もやむをえない〉として失敗や過ちを正当化してしまう論理の恐ろしさを思わずにはいられません。これまで革命の名においてどれほどの悲惨がつくり出されてきたかを真剣に考えるならば、自分たちこそが真理や正義の所有者だと思い、疑うこともしなかったとき、そこからは限りない自己合理化と抑圧を生み出してしまうと思うからです。そして、そのような自己合理化を避けるための回路——民衆からたえざる検証を受けること——を持たなければ、どんなにすぐれた戦士であろうとも真に自由と解放につながる道を歩みつづけることは困難ではないかと思うのです。」【注28】

東アジア反日武装戦線は、当時の機動隊や警察権力に対して物理的に敗北し続けることは、同時にこの日本帝国主義が過去から現在に至るまで行なってきた侵略者としての存在を否応なく肯定してしまうことになるのではないかという自問のなかで、天皇の御用列車爆破計画をはじめとする爆弾闘争という戦術を選択することになる。先にも述べたように、物理的な敗北を、大衆運動をたてなおすという方向で総括できなかったのは、彼らだけの責任ではないと思う。冷静な情勢認識が必要な後退戦の局面で、むしろある種の「玉砕」を鼓舞したり、言行不一致の「武装闘争」を主張する雰囲気があったことは間違いないからだ。自らは何ら手を下し得ないが、誰かがやってくれるかもしれない「武装闘争」を期待する雰囲気は、確実に当時の全共闘、新左翼運動の「雰囲気」として存在したからだ。
東アジア反日武装戦線の問題は、ジャーナリズムによって単なる爆弾テロリストたちという捉え方がされることが多い。しかし、獄中にあって彼らは、自分たちの行動を総括するという作業に加えて、死刑囚として死刑廃止運動を積極的に展開するようになる。荒井まり子の「獄中記」もその最後の部分は死刑廃止運動にあてられている。しかし、荒井は益永利明と大道寺将司のふたりの東アジア反日武装戦線の死刑囚の言葉を引用し、死刑問題つにいて重要な指摘をしている。荒井が引用している二人の文章のなかから、さらにわずかだがここに引用しておきたい。

「国家権力というものは、なぜ被告に反省を要求するのだろうか? 権力にとっては、人民に対する見せしめとなるかぎりで被告の『反省』が必要なのではないか。被告が犯罪の本質に迫るような反省を行い、国家の支配の秘密を透視してしまったとき、被告人の反省は権力の眼には、憎むべき反逆行為に映るであろう。しかし、それでも、ぼくがなすべき反省は、そのようなものでなければならないはずだ。/犯罪が、人間の共同性の喪失を意味するものだとすれば、ほんとうの反省とは、犯罪者が自分の犯罪の犠牲となった人に対する共感力を回復することであるはずだ。被害者の痛みを自分の痛みとして感じられる感受性をとりもどすこと。それが、ほんとうの反省の第一歩なのだと思う。それによって初めてぼくらは犯罪というものの本質を見ぬくことができるようになるだろう(益永利明)」

「償いは生きてこそできるものです。死をもっての償いという考えは、封建的道徳であり、権力側に都合の良いものです。処刑されることはいさぎよいことなどではなく、責任の放棄でしかありません。生きてこそ償いはできるのであることを肝に銘じたいと思います。/私は、三菱重工爆破の自己批判と反省の上に立って、右傾化、反動化の波に抗し、闘っていこうと決意しています。死刑制度を廃止させる闘いもその一環であり、全国の死刑囚仲間と力を合わせていこうと心しています(大道寺将司)」【注29】

新しい運動への課題

闘争が長期化し、機動隊や警察権力がこの不定形な闘争のエネルギーに対応する暴力によって、弾圧と抑圧の手法をより巧妙に洗練させるにつれて、多くの参加者たちは、自らの想像力を解体させていった。しかし、全ての人々がそうだったわけではない。敗北の過程でも闘いを手放さなかった人もいるし、再び新たな場面で闘いを再開した人たちもいる。地域運動や反公害運動など、七〇年代以降のあまり組織だっているとはいえない様々な運動には、直接の継承関係があるかどうかとは別に、根源的な問いをうちに秘めた、したたかな闘いが多く見られるようになった。既成の労働組合も政党もあてにしない運動という面や、その担い手に「全共闘」世代でもある団塊の世代が多く見いだされるという点で、確実に六〇年代末に運動の風景は変わったといっていいだろう。しかし、こうしたいわゆる市民運動、地域運動、住民運動などと総称されたりもする様々な運動にも、世代の断絶が現われ始めているということもいわれる。戦後に限ってみても、敗戦直後の労働運動や主として共産党に指導された非合法闘争、そして六〇年安保闘争、その後六五年の日韓闘争を経て六〇年代後半の約一〇年近い闘争の時代まで、断続的ではあれ、学生や青年の階層が政治的社会的な主題に触れて、時代の支配的な趨勢を告発する役割を担ってきた。しかし、その後の四半世紀近くは、こうした意味での学生や青年の運動は見いだせない。

しかし、新しい運動への模索もまた見いだされるようになる。前田俊彦と津村喬の「自分の流儀で生きる」【注30】や花崎皋平と清水慎三の「対抗社会の形成をいかに展望するか」【注31】といったいずれも八〇年代にはいってから行なわれた対談がある。前者は、津村が主宰した『八〇年代』という雑誌に掲載されたが、この雑誌は、七〇年代前半までの叛乱や闘争という、非日常的な空間を形成するという闘いとは正反対のスタンスをとった。津村は「権力と対決することを回避しようというのじゃなくて、眼に見える権力機構とだけでなく、生活のしくみそのものの中で民衆の主権が失われていくことを問題にしようとよびかけている」と語っている。逆に前田は、そうした津村の『八〇年代』のスタンスには「叛乱がかけちょるような気がする」と批判するが、前田のいう「叛乱」とは「たとえば、酒を自分でつくる。これは直接に権力と衝突する」ということであり、いわゆる「叛乱」とは違う姿がそこには想像されている。

彼らの議論の主題としてたびたび三里塚が取り上げられるが、その取り上げられ方は、日常的に権力と闘争する三里塚ではない。たぶん、ここで議論されている三里塚にあたるものは、八〇年代を通じて、各地に自生的に出現した反原発運動や有機農産物の共同購入運動、地域開発から教育、福祉をめぐるさまざまな運動のなかで、運動の現場が創り出した空間のイメージに非常に近いものになっている。二人の言動には、三里塚を特権化することではなく、日常生活のレベルからもう一度捉え返すことを通じて、闘いの何が共有できるかを示そうとしているように見える。

もうひとつの花崎と清水による対談で、花崎は、運動の掲げるべき目標と理念を「アジア・第三世界の契機」と「広義のエコロジカルな諸契機」であると整理した上で、さらに第三の契機として、「〈差別〉という柱を考えてみたのですが、思いなおして個体としての個人の自由(ここでの〈個〉とは、〈公〉と〈私〉とがそこで統一されるべきものとしての意味を背負わせての〈個〉です)、とくに内面的自由の問題にした方がよいのではないかと思ったりして、ここがまだはっきりと定まらない」と述べている。とりわけ二人がこだわっているのは、マクロな社会変革のプロジェクトというよりもむしろシングル・イシューをいかに大切にして闘うか、あるいは多数派形成よりも少数派として闘うことの意味、変革の主体となりうる個人に焦点があてられている。これは既成の労働運動が、ナショナルセンターの構築と全国的な政治的影響力の形成へと向かう流れとは明らかに逆行した問題意識である。ここでも先の前田=津村にみられたような日常生活のレベルや「個」のレベルでの主体性の再椛築という課題がなによりも優先されている。たとえば、ポーランドの「連帯」への共感も、そうしたオートノモスな労働者の運動としての評価がまずあり、それが全国レベルの政治的な状況に影響を及ぼしているというのはいわば結果論としての評価である。

こうした清水=花崎の議論は、さまざまな反響を呼んだ。後に共著として『社会的左翼の可能性」としてまとめられたものを対象として、『新地平』誌は、「『社会的左翼の可能性』をめぐって」というタイトルで、四名の論者による書評を掲載した。そのなかで、たとえば、白川真澄は、花崎=清水のように「自立・自治の多様なネットワークの形成からはじめる」というのではなく、「国家の専横ぶりに対する民衆の危機感に根ざして、日本国家をトータルに批判できる新しい政治闘争と政治思想の獲得からはじめる」べきであると主張し、逆に字井純は、「左翼はもっと局地というか地域というものを見つめるべきではないだろうか。左翼の指向というものはいつも全体的危機とか国家総体といったところから発想して、そこから局地を、地域をみようとするが、それでは失敗することが多い」と正反対の評価を下している。

この戦後半世紀を左翼反体制運動の歩んだ歴史として振り返るとき、そこには、進歩とか発展といった概念では語り得ない、もっと別な運動の質的な転換がみられる。それは、一言でいってしまえば、運動の拡散であり、多元化である。この運動の拡散・多元化は、資本主義が労使の階級対立を制度化し,日常生活そのものを管理の対象とするいわゆる管理社会への移行と、失業者であれ女性であれ、だれもが一票をもつ普通選挙権の成立に伴って、政治的な利害調整の制度もまたこうした多様な「有権者」のニーズにあわせて拡散したということに対応するものであるといえた。もちろん階級構造は消滅したわけではない。しかしこの構造は、多くの人々の意識にのぼる必要のないバックグラウンドで機能するものになっただけである。ある人々にとっては、民族差別こそがまず第一の課題として現われ、また別の人々にとってそれは、性差別であり、また別の人々にとっては原発の問題であり、更にまた別の人々にとっては教育の問題であり、ということなのだが、こうした諸問題はいずれも相互に関係をもっているとしても、しかし私たちは一度に全ての課題に取り組めるわけではない。一つでも手に余るのが実状だろう。従来、そうした多様な課題を統一した観点から整理して位置づけ、個別の取り組みを全体の見通しのなかに再構成してくれたのが政党であった。しかし、党があくまで、全体のなかに個別の課題を位置づけることによって組織されるのに対して、市民運動や地域運動は、個別の課題のなかに全体への見通しや、ある種の普遍的な課題を見いだすという観点をもつから、全体はあくまで運動の過程の中で、結果として得られるパースペクティブというだけである。運動のつながり方も、目標としての全国的な組織ということはほとんど念頭にない。党が常に中心を形成せざるをえないとすれば、こうした新しい社会運動は、リゾーム型の中心のないコミュニケーションの組織としてのみ、ある種の全国的な広がりをもつといえる。わたしは、こうした意味で、十九世紀以来の党による組織化という運動の役割は終わったと思っている。同時に労働組合もまた、それが職場という限定した場を足場とする限りにおいて、その役目は終わったのではないかと思う。なぜならば、資本はもはや職場だけを組織化しているのではなく、日常生活の全体を組織化しようとしており、家族も学校もある種の企業社会のなかに包摂されているともいえるからだ。労働組合が労働者の権利のための組織であるというのであるならば、こうした社会化した企業の支配領域に対応した社会的な労働運動を展開できれば、まだその存在意義はあるかもしれない。

ベルリンの壁の崩壊とソ連邦の解体に象徴されるソ連・東欧の社会主義圏の崩壊の後、この日本では、あたかも社会主義や資本主義に代替する社会システムそのものが無効となり、資本主義の勝利が最終的に宣言されたかのような状況が生み出された。しかし、資本主義は、けっして人々に十分な満足を与えているわけではなく、むしろ第三世界では今までと変わらない資本主義の抑圧が続いている。しかも姜尚中が「アジアとの断絶 歴史との断絶」で鋭く指摘しているように、冷戦の終結とアジアの民主化、そして何よりも民衆レベルでの対日認識の変化に対して、日本側が国家も国民もともに冷戦の思考を抜け切れていないとすれば、私たちは、まずこのような日本の国家のありようと対決しなければならないだろう。

七〇年代以降の多くの社会運動は、すでに既存の社会主義に対する幻想とは無縁なところで自分たちの運動を組み立ててきていた。だから、社会主義圏の崩壊そのものが運動に質的な影響を与えるということは、見られなかったと言っていいだろう。しかし、運動をとりまく大衆状況は大きく転換してしまった。それが伝統的な社会主義やマルクス主義と関わりがあるか否かにかかわらず、様々な異議申し立ての運動は、「そもそも今の社会の仕組みを批判すること自体が非現実的ではないか、現にあるシステムを受け入れざるを得ないのではないか」という、現にある社会への消極的肯定あるいは保守的な態度に、今まで以上に直面することになった。しかし、世界的な視野で見た場合、社会主義圏の崩壊とは無関係に、現にあるシステムに対する根底的な批判と抵抗の連動は決してなくなってはいない。

太田昌国が「壊れた壁、壊せぬ壁」【注32】で、日本の社会が敏感に反応したベルリンの壁の崩壊という歴史的事件の影になって、実は日本自身が作り出している「壁」を見落としているということを、北方領土問題とアイヌの問題などをテーマに指摘している。とくに、国家が意図的に作り出そうとしている国境にたいして、民衆が下からそれをつき崩そうとする試みに着目しながら、しかしなお、「よその世界は変わるが、自らの世界は不変と信じて疑わぬ。倒れるべくして倒れたベルリンの壁に思うことは、わたしの場合、このような日本の現実を対象化することに尽きる」と語っている。まさに、これこそが現在の社会運動に問われた課題であり、二十一世紀に向けた私たちの課題でもあるはずだ。このことはまた、私たちが、・支配的な世界観や世界情勢についての情報を覆し、私たちなりの固有の世界についての見え方を提示するという努力を必要とするということでもあるのだ。

世界情勢というのは、文字どおりのインターナショナルな情勢という意味ばかりではない。さらに、私たちをとりまく日常世界の情勢でもある。こうした意味での情勢をどのように理解し、何が問題なのかを従来の伝統的な社会変革の教科書からではなく、人々の行動のなかから読みとることが必要なのだ。少なくとも、左翼の社会運動は、自らにとって切実な課題は、すべての人々にとってもまた切実であるべきだというふうには考えてきたが、逆に、自分にとっては切実ではない問題を受けとめることができないできた。たとえば、エイズの問題は、単なる薬害の問題ではなく、文化の問題であり、セクシュアリティの問題でもある。同性愛の問題もそうだろう。あるいはハッカーのような「犯罪」や、カルトとみなされる宗教教団をめぐる人々の意識のなかに、私たちはこの世界が明らかに満足のいく社会とはなっていないということを直感できている。そしてたぶん、これから登場してくるさまざまな社会運動は、従来の運動の概念や課題からもまた逸脱した、思いがけない問題をめぐって展開されるかもしれないという予感もある。だからこそ、そうした新しい課題を受けとめられるだけの思想的な枠組みがどれだけ再構築できるか、それがたぶんいままで社会運動を担ってきた人々や世代に課せられており、同時にこのことは、新たな感性と問題意識をもった人々との有意義な討論が必要な時代になったのだということを示している。

(1)上野英信『追われゆく坑夫たち』まえがき、岩波書店、同時代ライブラリー版、iiiページ。
(2)青木秀男「〈寄せ場〉研究の諸問題」『寄せ場」創刊号、日本寄せ場学会、現代書館、四四ページ。
(3)下田平裕身「雇用変動時代のなかの寄せ場」同右『寄せ場』創刊号、八三ページ、
(4)同右。
(5)山岡強一「寄せ場とは何か——戦後の下層労働者」 、三多摩・山谷の会『寄せ場の歴史から未来を見通す』一九八四年。
(6)松沢哲成「寄せ場の形成、機能、そして闘い」同右『寄せ場』創刊号、一九〇ページ。
(7)渡辺勉「組合規約第一条〈仲間を裏切らない〉」『思想の科学』一九七三年一〇月号。
(8)鎌田慧「失業者たちの日本列島」『インパクション』四八号、一九八七年。
(9)朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社、二~三ページ。
(10)宋斗会「日本と日本人を告発する」『序章』一〇号、一九七三年、参照。
(11)吉永長生「在日外国人管理の歴史と現在」、『世界から』三五号、一九八九年。
(12)知花昌一「『日の丸』焼き棄て裁判意見陳述」
(13)ダグラス・ラミス「外国(たとえばアメリカ)」、『内なる外国 菊と刀』、時事通信社。
(14)「女・エロス」編集委員会「女と総合安保」、『女・エロス』一七号、一九八二年。
(15)吉清一江「まつぴらごめん日本型福祉社会」、『女・エロス』一七号、一九八二年。
(16)塩沢由典「生活の再生産と経済学」『思想の科学」八〇年三月号。
(17)富永健一「大衆社会論」『戦後史大事典』改訂増補版、三省堂。
(18)宇井純『公害原論』
(19)石牟礼道子『苦海浄土』
(20)松下竜一『暗闇の思想』
(21)小出裕章「放射能汚染の中の反原発」、『技術と人間』一九八八年五月号。
(22)星寛治「農とは何か——工業化・石油づけ農業をこえる道」、『新地平』一九八二年八月号。
(23)岩根邦雄『新しい社会運動の四半世紀——生活クラブ、代理人運動』協同図書サービス、二〇ページ。
(24)同右、23ページ
(25)宮内嘉久「万国博——芸術の思想的責任」、『現代の眼』一九六八年九月号。
(26)建築家70行動委員会「万博反対運動の論理〈叛〉第一号」、宮内嘉久「〈ノン〉をいわない建築家」、いずれも針生一郎編「われわれにとって万国博とはなにか」田畑書店所収。
(27)森恒夫「坂東国男宛書簡」一九七三年一月一日。森恒夫『遺書』査証編集委員会編、一七ページ。
(28)荒井まり子「獄中記」『辺境」第三次、一九八七年春号、一〇四ページ。
(29)同右、一二三ページ。
(30)前田俊彦、津村喬「自分の流儀で生きる」、『八〇年代』二号。
(31)花崎皋平、清水慎三「対抗社会の形成をいかに展望するか」、『新地平』、一九八四年、六月号。
(32)太田昌国「壊れた壁、壊せぬ壁」、太田昌国『鏡の中の国』、現代企画室。

出典:コメンタール戦後『労働・消費・社会運動』解説。本書に収録するにあたって必要最低限の加筆を行なった。

付記 コメンタール戦後『労働・消費・社会運動』では本文で言及したもののほか下記の文章を収録した。

加納実紀代「社縁社会からの総撤退を」、『新地平』一九八五年一一月号。
天野恵一「戦後批判の運動と論理」、『流動』一九八〇年四月号。
池田浩士「『大量虐殺糾弾』の頽廃について」、『インパクション』六〇号。
粉川哲夫「統合の場から出会いの場へ」、『思想の科学』一九八六年一〇号。
鶴見良行『バナナと日本人』、岩波新書。
姜尚中「アジアとの断絶、歴史との断絶」、『世界』一九九二年一〇月号。

出典:『労働・消費・社会運動』(コンメンタール戦後50年、第6巻)社会評論社、1995年解説。収録にあたって若干改稿