企業と危機管理

危機管理(リスクマネジメント)が企業の経営者たちの話題となったのはもうかなり前であり、今回の阪神大震災、地下鉄サリン事件が最初ではない。七○年代には、労働争議を犯罪と同様のカテゴリーとみなして抑止しようという発想があり、八○年代にはホワイト・カラーの犯罪(横領、機密漏洩)などがあり、また日本企業では誘拐事件などが話題となって、海外派遣社員の「危機管理」が課題になった。(最後の点については、『インパクション』81号の「資料」参照)

阪神大震災以来、書店の店頭やマスメディアなどで「危機管理」がひとつの流行語の様相を呈し、様々な本や情報が流れている。『危機管理ミステリー』なんていう本もあるくらいで、危機管理が企業経営にとって文字どおり不可欠な管理課題になっているという側面ばかりでなく、このブームを巧妙にマーケット化して稼ごうというあまり真剣とはいえない傾向まで様々である。

そもそも「危機管理」とはいったいどのような意味なのか。「危機」の定義とは何であり、「管理」とはどのようなことを意味するのか。最近の議論を見る限り、この概念は限りなく拡大・肥大化し、企業を巡るほとんど全ての問題群は「危機管理」の名称の下に処理されるべきものであるとみなされているかのようだ。

例えば日経ビジネス編『いま知りたい危機管理l会社が危ない、あなたが危ない」(日経BPムック)では、「企業を襲った危機の断面」として、六つのケースがルポされている。イギリスのマーチャント・バンク(銀行・証券兼営の金融企業、日本にはないカテゴリーである)ベアリングズ社が金融取引に失敗して倒産したケース、合衆国で不純物を含んだ食品の販売で製造物責任を問われた昭和電工のケース、合衆国のプリジストン・ファイァストンでの十ヶ月に及ぶ労働争議、中華航空機事故に遭遇して、社長以下二十二名をいっぺんに失った長野県の宮井製材協力会のケース、地下鉄サリン事件と営団地下鉄のケース、そして阪神大震災と新明和工業のケースである。

これらのケースに共通する事態は、企業経営の障害となる事柄はその原因が何であれ、すべて「危機」であり、それに対処しなければならない、ということ以外にない。事実、日本アイ・ビー・エムのリスクマネージャー、佐藤政男は「IBMでは、人、モノ、情報を重要な企業資産ととらえています。これらの資産が損なわれるような状況が危機というわけです」と指摘している(前掲書所収のインタビューより)。しかし、企業を最大の防衛すべき組織とみなす危機管理は、幾つかの問題点をかかえざるをえない。

たとえば、企業犯罪に対する危機管理の場合は、当然そうした「犯罪行為」が生じないような経営を行うという意味で、犯罪の防止や抑止の努力をすべきであるということになる。犯罪行為が発生した場合に、それが外部に漏れることは、企業イメージの低下につながる。とすれば、場合によってはそうした犯罪行為の隠蔽がリスクマネジメントの基本に据えられるということは容易に想像がつく。セクシャル・ハラスメントにたいしても、裁判に持ち込ませない(これは裁判を受ける権利を侵害するので違法である)とか、当該の女性を隔離して事実調べを行うなどといったことをマニュアル化しているケースがある。また、現在いくつかの企業がその責任を問われている戦前、戦中の朝鮮人、中国人の強制連行、強制労働問題も企業サイドからすれば管理の対象ということになる。

危機管理は、それを企業の経営者サイドからみるのか、それともそこで働いている労働者の側から見るのかで同じ対処方法になるとは限らない。とくにそれは、労働争議や企業の経営危機に際しての合理化や人事異動の場合に現れる。

労働争議は犯罪ではなく、労働者の基本的権利行使である。にもかかわらず、争議が企業の経営や業績に影響を与える場合、それを危機管理としてとらえるのが最近の傾向であり、これは、労働者の権利を抑制しても企業の危機管理を優先させるという発想にたつものであって、管理する側からすれば、テロや犯罪の脅威と同様の障害として、場合によっては「犯罪」であるかのように見なされがちである。先に紹介した『いま知りたい危機管理』でも、「サラリーマンの危機管理」という項目では、「解雇、退職奨励、出向から身を守る」「中高年むしばむストレスと処方菱」といった会社の方針によって否応なく個々の「サラリーマン」(この用語には女性が含まれないので不適切な表現だ)が直面する人生の危機への対処法が論じられている。本書のこのパートの記述は、他の箇所での経営者の立場からの危機管理への対応と対照的な内容となっている。明らかに個人としての労働者と企業とが利害対立する局面が「危機管理」にはあるのだ。しかし、この点で、労働組合として登場しているのは管理職組合のケースだけであり、もっとも権利の守られにくい一般の労働者やパート労働者の労働組合は登場しない。本書の読者層からそれは当然かもしれないが、一般的にいっても組合側が企業による危機管理を口実とした労働者の基本的権利への抑制に対して、有効に対応できているとは思えず、むしろ安易な労使協調で乗り切ろうとする傾向がありはしないだろうか。

企業の危機管理で繰り返し強調されるのが、強力なリーダーシップの確立と、軍隊をモデルヶースとした危機管理への対応である。そして、一般の社員に対しては、メンタルケアを含む精神面での危機乗り切りを強調する。こうしたリーダーシップへの待望論は、とくに管理職や企業の経営者に大きいようだ。雑誌『プレジデント』のように、毎号戦国の武将や旧帝国軍隊の指導者たちを登場させて、そのリーダーシップや戦陣訓の類を論ずることが日本のビジネス・ジャーナリズムの定型的なアプローチとなっている。戦争は人を殺す政治的な権力の間の闘争であって、市場経済における競争のルールとは多くの点で異なるはずなのに、それらの間にある種の類縁性を求めたがる姿勢そのものに資本主義の企業がもつ潜在的な闘争性がある。これは、幾つかの点で、重大な問題を生み出す.そのひとつが、リーダーシップと統制を優先させることが同時に、組織内部の人々や市民の自由と権利を制限するということである。

たとえば、小田晋は、企業だけでなく、学校でのいじめや犯罪の凶悪化など日本の現在の社会システムが危機に対応できていないということを次のように説明している。

「もちろん、自由と人権を国策として掲げるということが《悪かろうはずがない。しかし、一度これを国策に掲げると、それを護符にして社会の解体を企図しようとする、〈社会解体促進同盟〉〈犯罪応援団〉〈暴走族の友〉とでもいえるような勢力に歯止めをかけるには、特別な努力が必要になってくる。〈そんな人々が本当にいるのか〉と疑問に思う向きがいるかもしれないが、これが実在するのである。
ベトナム戦争時代の米国と、七十年安保闘争時代の日本の過激派の考えの根本にあったのは、H・マルクーゼらのフランクフルト学派の思想だった。それは拡大解釈されてさまざまな〈ヒューマンライツ・モンガー(人権を売り物にする人々)〉とでもいえる人たちの考えの根底をなしてきた。(略)フランクルト学派の影響を受けた人々は、(略)警察や矯正施設、精神病院、学校から家庭まで、次々と槍玉にあげていった。その後、政治的・経済的革命の見込みがなくなると知った全共闘世代の一部は、自分は安全な場所にいながら、機会をとらえて〈治療処分反対〉〈管理教育反対〉〈楽しい離婚〉とそれぞれがもっともらしい主張をしているが、底流は同じである」

こうして、小田は、「私たちの生活を脅かす社会病理現象、とりわけ異常犯罪、カルト集団、非行などの危険性を直視し、これらの制圧を真剣に考えることが、産業人を含む日本人全体の危機管理といえるだろう」と述べ、「反社会集団の行動を抑制するための施策、精神障害犯罪者に対する治療処分制度の導入」やいじめ抑制のための「少年法改正」そしてオウム真理教への破防法適用を具体的に提案している。

小田は、精神障害者の犯罪は保安処分対象であっても、精神病院の人権侵害は問題にしなくていいという立場である。いじめは少年法を改正しても根絶すべきであるが、教師の暴力は「管理教育」の必要として捉えられているように見える。しかし、そもそも何が危機であり、どのような危機を問題にすべきかということは、意外と打算的なリスクと利益の比較衡量で判断されている場合が多いのだ。たとえば、年間一万人近くの死者を出す交通事故は、自動車の社会的な効用との比較衡量によって、自動車会社の製造物責任は問われないし、原発にしてもそうである。

危機に際して、人権の抑制や個人の自由の規制は当然であるという考え方が、このように「ビジネス」の世界では支配的になりつつある。これは、裏返せば、危機のなかで、全体の管理のために犠牲となる人々がいたとしても、それは我慢すべきことだという主張ともつながりかねない。阪神大震災で避難所生活を余儀なくされている人々がおかれている環境はこうした人権侵害にたいする「我慢」の強制状態である。それを危機管理というのであれば、わたしは、そのような管理はとうてい受け入れるべきではないと思うのだ。

出典:『インパクション』93号、1995年