議会も司法も崩壊する―「デジタル庁」構想の本質とは

菅政権になり、デジタル庁の設置など政府のネット政策が急展開の様相をみせている。また、新型コロナの接触確認アプリの動向は、世界規模で、従来のプライバシーの権利との関連で大きな議論をまきおこしている。

2020年9月16日菅は首相記者会見でデジタル庁新設に言及し、9月23日デジタル改革関係閣僚会議では「デジタル庁は、強力な司令塔機能を有し、官民を問わず能力の高い人材が集まり、社会全体のデジタル化をリードする強力な組織とする必要があります。」と述べ、年末までに基本方針を策定し通常国会に必要な法案提出するとともに、IT基本法の抜本改正も行うとした。

10月26日所信表明演説では、デジタル庁を中心に、中央省庁だけでなく「自治体の縦割りを打破」することに踏みこみ、マイナンバーカードも二年半で全国民配付という目標を提示し、来年三月から保険証とマイナンバーカードの一体化を開始、運転免許証のデジタル化の導入も宣言した。

注目すべきなのは、情報インフラの統合を通じて、地方自治を中央省庁に統合し、省庁の情報インフラの統合によって、官邸の統制を一気呵成にアップグレードすること、そのために民間のITの技術力を大幅に導入するとしたことだ。分権的な行政権力がかろうじて残されてきた地方自治を解体することによって、21世紀型の官邸によって統制される内務省体制の権力構造への転換が浮上してきているといっていい。政権と国内外の民間巨大ITビジネス(これが現代資本主義の支配的な産業であり政治的権力の後ろ盾となりうるものだ)の利害が一致しているところが現政権の強みといえる。

しかし、システムの省庁統合は、コンピュータ回線を繋げば実現できるようなものではない。大規模なシステム統合は民間でも急速に進みつつある分野で、一般にDX(デジタル・トランスフォーメーション)と呼ばれているが、その実現は至難の技で、簡単ではない数年以上の時間がかかることもマレではなく、システムのトラブルは避けられず、行政保有の個人情報を様々なリスクに晒し、とりかえしのつかない被害が起ることが十分に考えられる。

しかも、関連する法改正も一筋縄ではいかないだろう。基本法について菅はIT基本法だけしか言及していないが、知的財産基本法(2002)、サイバーセキュリティ基本法(2014)、官民データ活用推進基本法(2016)があり、下位の法律も膨大な数になる。法制度を調整して実際にデジタル庁を新設するために必要な手続きが必要で、省庁DXの技術的な難問にに加えて問題はより複雑になる。こうした制度の改変のどさくさにまぎれて、必ず私たちの権利を抑圧するような改悪が忍び込むことはほぼ間違いない。最大の注意を払わなければならないと思う。

デジタル庁構想は、安倍政権のSociety5.0の具体化の取り組みとみることができる。Society5.0は、人工知能、次世代通信網5G、そしてビッグデータの活用による未来社会構想だが、5月に成立したスーパーシティ法(国家戦略特別区域法の一部を改正する法律)で法的な裏付けが与えられた。この嘘っぽい将来構造を資本が利用しようとするとき、この欺瞞的な未来社会が実現可能かもしれないと大衆に誤認させるきっかけが与えられることが考えられる。戦前の大東亜共栄圏から最近のバブル経済、小泉改革、そしてアベノミクスも、政権と資本によって煽られた「経済的な豊かさ」の幻想によって資本主義の実態が巧妙に隠蔽されてきた。同じことがSociety5.0やスーパーシティでも繰り返されるのは目に見えている。

政権が絵空事のようにして描くネット社会は、過去から現在に至るまである共通した特徴がある。それは、こうした社会の住人たちの政治的な権利、あるいは民主主義的な意思決定、権力に対して異論を唱える表現の自由や政治的な自由の権利がどのように保障されるのか、ということは一切言及されないという点だ。この未来社会に済む住人はみな既存の政治的な権力を肯定し、自らの私的な幸福を充足することにしか関心を持たないような人間が前提されている。こうした未来社会では、異議を唱える者は、この社会から排除されるか抹殺されることが暗黙のうちに含意されている。権力の本質からすれば、敵対者を啓蒙によって同意を形成することと、この同意からも逸脱する者たちを排除する力を持つこと、この二つのバランスの上に権力としての正統性を再生産しようとする。テクノロジーはこうした権力を支える。コンピュータによる監視の技術は、私生活の利便性、教育による啓蒙、より強固な労働と私生活への監視的介入、そして逸脱者のあぶり出しと懲罰、これらのいずれにも作用する。

従って、コンピュータによる高度なデータ処理、5Gによる家電などモノのインターネットの普及、そしてAIによる将来予測がデジタル庁の基盤になるとすると、現在の議会制民主主義も司法制度もほとんど実質的な権力分立による行政権力への牽制を果せなくなる。それだけではなく、立法と司法が依存する憲法を含む法の支配そのものも有効性が削がれることになる。米国の憲法学者、ローレンス・レッシグはコンピュータのプログラム・コードが法を出し抜くようになると指摘したが、コンピュータが行政権力の中枢を支配する社会では、議員も裁判所も理解しえないコードが法を超越するようになるのは間違いないと思う。今でも、行政のコンピュータであれGoogleやAmazonが運用するビッグデータから捜査機関の盗聴装置やコロナの濃厚接触者追跡アプリや保健医療システムに至るまで、ほとんど全ての資本と国家のコンピュータはブラックボックスのなかにあり、私たちにはアクセスできない。こうしたコンピュータの解析能力を既存の権力者が独占し、投票行動の分析などに利用されることによって、選挙制度そのものが歪められる。選挙の匿名性は有名無実になりつつあり、商業広告の進歩と連動して有権者の投票行動を予測して投票を誘導する技術の進歩は目覚しい。こうした事態のなかで、議会制民主主義は、その理念通りには機能しなくなっている。にもかかわらず理念を現実と誤解すると、議会制民主主義や裁判制度に過剰な期待を寄せることになってしまう。こうなってしまうと権力の思う壺だと思う。

他方で、権力者が武器としているテクノロジーと同じ原理で機能するテクノロジーが私たちの手にもある。このテクロジーが個人情報を収集する権力の手先になるのか、それとも逆に権力と闘うコミュニケーションの武器になるのかは、実は私たちが御仕着せで便利に使ってきたコンピュータの罠を回避するような手だてを講じられるかどうかにかかっている。この手だての第一歩は、匿名性の確保と権力に監視されないコミュニケーション環境の防衛(中心をなすのが権力の介入を許さない暗号化だ)にあると思う。ビッグデータと監視を阻止する手段が私たちの手のなかにもある。世界中の活動家たちが、とりわけ弾圧の厳しい国・地域では匿名性と集団的なプライバシーの防衛は必須だ。こうしたテクノロジーのオルタナティブを私たちが学ぶこともまた運動のライフスタイルを変える一歩になるし、既存の民主主義とは異なる民衆の合意形成の可能性に道を開くことにもなると思う。

初出:人民新聞2020年12月5日(リンクなどを追加しました)

Facebook、Twitter、YouTubeへの公開書簡。中東・北アフリカの批判的な声を黙らせるのはやめなさい

以下の声明は、「アラブの春」10周年にあたり、複数の団体が、現在中東や北アフリカ地域で恒常化しているプラットーム企業(FacebookやTwitter、Youtubeなど)が反政府運動や人権活動家のSNSでの発信を規制したり排除する事態になっていることに対する憂慮として出されました。いくつかの事例が例示されていますが、これら氷山の一角といわれている出来事だけをとっても非常に深刻です。しかも声明で指摘されているように世界規模で権威主義的な政権が拡大をみせており、中東北アフリカで起きていることはこの地域の例外とはいえないでしょう。私たちがこうした問題を考えるときに大切なことは、プラットーム企業は日本でも多くのユーザを抱えており、またアクティビストにとっても必須ともいえるコミュニケーションのツールになっているという点です。その結果として、プラットーム企業への運動の依存が、プラットーム企業の権威的な価値を支えてしまうという側面があります。FacebookやTwitterで拡散することが確かに運動を多くの人々に知ってもらうための道具として便利であり、そうであるが故に、これらの企業が私たちから隠された場所で、密かに権威主義的な政府と密通して活動家やジャーナリストの自由を奪うことに加担しているという側面を、事実上黙認しがちです。私たちがSNSなどの道具とどのように向き合い、どのように彼らからそのコンテンツ・モデレーターとしての権力を奪い返すかが課題になるでしょう。こうした課題を(これまでの通例ではありがちですが)法に代表されるような公的な規制に服させるかという方向で模索することももはやできなくなりつつあります。なぜなら多くの国もまた権威主義的になっており、法の支配や民主主義は私たちの権利のためには機能しないようになりつつあるからです。SNSの時代に、グローバルなプラットーム企業と権威主義国家の二つの権力に対して私たちの社会的平等と自由を構想するためには、たぶん、これまでにはなかった権利をめぐるパラダイムが必要になると思います。(訳者:小倉利丸)


画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Arab-spring-10-anniversary-platform-responsibility-post-header-1024x260.jpg Facebook、Twitter、YouTubeへの公開書簡。中東・北アフリカの批判的な声を黙らせるのはやめなさい。

2020年12月17日|午前10時00分

10年前の今日、チュニジアの26歳の露天商モハメド・ブウアジジは、不公平と国家によるマージナライゼーションに抗議しテ焼身自殺し、これがチュニジア、エジプトなど中東や北アフリカ諸国の大規模な反乱に火をつけました。

アラブの春の10周年を迎えるにあたり、私たち、署名した活動家、ジャーナリスト、人権団体は、プラットフォーム企業のポリシーやコンテンツのモデレーション手続きが、中東と北アフリカ全域で、疎外され、抑圧されたコミュニティの批判的な声を黙らせ、排除することにつながることがあまりにも多いことに対して、私たちは不満と落胆を表明するために結集しました。

アラブの春は多くの理由から歴史的な出来事であり、その傑出した遺産の一つは、活動家や市民がソーシャルメディアを使っていかにして政治的変化と社会正義を推し進め、デジタル時代における人権の不可欠な成功要因としてインターネットを確たるものにしたのかということにあります。

ソーシャルメディア企業は、人々をつなぐ役割を果たしていると自負しています。マーク・ザtッカーバーグが2012年に創業者の有名な書簡のなかでで「人々に共有する力を与えることで、人と人とを結びつける役割を果たす」として次のように書いています。

「人々に共有する力を与えることによって、歴史的に可能になったことは、様々な規模で人々の声を聞くことができるようになってきたということです。このような声は数も量も増えていくでしょう。無視することはできません。時間が経てば、政府は少数の人々によって支配されているメディアを介するのではなく、すべての人々によって直接提起された問題や懸念に対して、より一層応答するようになると予想されます」。

ザッカーバーグの予測は間違っていました。それどころか、世界中で権威主義を選択する政府が増え、プラットフォーム企業は、抑圧的な国家元首と取引をしたり独裁者に門戸を開いたり、主要な活動家やジャーナリスト、その他のチェンジメーカーを検閲したり、時には他の政府からの要請に応じて、彼らの抑圧に貢献してきました。たとえば、

チュニジア:2020年6月、Facebookはチュニジアの活動家、ジャーナリスト、音楽家の60以上のアカウントを、ほとんど確証が得られないという理由で永久的に無効化しました。市民社会団体の迅速な反応のおかげで、多くのアカウントは復活しましたが、チュニジアのアーティストやミュージシャンのアカウントはいまだに復活していません。私たちはこの問題についてFacebookに共同書簡を送りましたが、公的な反応は得られませんでした。 シリア:2020年初頭、シリアの活動家たちは、テロリストのコンテンツを削除することを口実に、2011年以降の戦争犯罪を記録した数千もの反アサドのアカウントやページを削除/無効化するというFacebookの決定を糾弾するキャンペーンを開始しました。訴えにもかかわらず、それらのアカウントの多くは停止されたままです。同様に、シリア人は、YouTubeが文字通り自分たちの歴史をいかに消し去っているのかを記録しています。 パレスチナ:パレスチナの活動家やソーシャルメディアのユーザーは、2016年からソーシャルメディア企業の検閲行為に対する注意喚起ののキャンペーンを行ってきました。2020年5月には、パレスチナの活動家やジャーナリストのFacebookアカウントが少なくとも52件停止され、その後もさらに多くのアカウントが制限されています。Twitterは、確認がとれているメディア機関Quds News Networkのアカウントを停止し、同機関がテロリストグループと関連している疑いがあると報じました。この問題を調査するようTwitterに要請しても、回答は得られていません。パレスチナのソーシャルメディアユーザーは、差別的なプラットフォームポリシーについて何度も懸念を表明しています。 エジプト:2019年10月初旬、Twitterはエジプトでのシーシー政権抗議デモの噴出を直接受けて、エジプトと国外にに住む離散エジプト人反体制派のアカウントを一斉に停止しました。Twitterは2017年12月に35万人以上のフォロワーを持つ1人の活動家のアカウントを一時停止し、そのアカウントはいまだに復活されていません。同じ活動家のフェイスブックのアカウントも2017年11月に停止され、国際的な介入を受けて初めて復活しました。YouTubeは2007年以前に彼のアカウントを削除しています。

このような例はあまりにも多く、これらのプラットフォームは彼らのことを気にかけておらず、懸念が提起されたときに人権活動家たちを保護できないことが多く、このことは、中東北アフリカ地域とグローバル・サウスの活動家やユーザーの間で広く共有されている認識となっています。

恣意的で透明性のないアカウントの停止や政治的言論や反対意見の言論を削除することは、非常に頻繁かつ組織的に行われるようになっており、これらは一回だけの事でもなければ自動化された意思決定のなかで生じる一過性のエラーだとは言い切れません。

FacebookやlTwitterは、(特に米国と欧州の)活動家や人権団体といった民間の人権擁護者の世論の反発に迅速に対応する一方で、ほとんどの場合、中東北アフリカ地域の人権擁護者への対応は十分とはいえません。エンドユーザーは、どのルールに違反したかを知らされていないことが多く、人間のモデレーターに訴える手段が提供されていません。

救済と改善は、権力にアクセスできる者や声を上げることができる者だけの特権であってはなりません。こうした現状を黙認することはできません。

中東北アフリカ地域は、表現の自由に関する世界で最悪の記録を保持しており、ソーシャルメディアは、人々が繋がり、組織化し、人権侵害や虐待を記録するのを支援する上で重要であり続けています。

私たちは、抑圧されたコミュニティでの語りや歴史への検閲や削除に加担しないよう強く求め、地域全体のユーザーが公平に扱われ、自由な自己表現ができるようにするために、以下の措置を実施するよう求めます。

・恣意的・不当な差別を行わないこと。地域の利用者、活動家、人権専門家、学者、中東北アフリカ地域の市民社会と積極的に関わり、異議申し立てへの検証を行うこと。政策、製品、サービスを実施、開発、改訂する際には、地域の政治的、社会的、文化的な複数の文脈やニュアンスを考慮しなければなりません。 ・中東・北アフリカ地域における人権の枠組みに沿った文脈に基づいたコンテンツのモデレーションの決定を開発し、実施するために、必要となる地域や地域の専門知識に投資すること。 最低限必要なのは、アラブ22カ国の多様な方言やアラビア語の話し方を理解しているコンテンツ・モデレーターを雇うことでしょう。これらのモデレーターには、安全かつ健全に、上級管理職を含む仲間と相談しながら仕事をするのに必要なサポートが提供されるべきです。 ・コンテンツの修正の決定が、疎外されたコミュニティを不当に標的にしないために、戦争や紛争地域から発生した事例に特別な注意を払うこと。例えば、人権の誤用や人権侵害の証拠となる文書は、テロリストや過激派のコンテンツを広めたり賛美したりすることとは異なる合法的な活動です。テロリズムに対抗するためのグローバル・インターネット・フォーラムへの最近の書簡で指摘されているように、テロリストや暴力的過激派(TVEC)のコンテンツの定義と節度については、より透明性が必要です。 ・Facebookが利用できないようにしている戦争・紛争地域で発生した事件に関連する制限付きコンテンツは、被害者および加害者に責任を問おうとする組織にとって証拠となる可能性があるため、保存されるべきです。このようなコンテンツが、国際司法当局や国内司法当局に不当に遅延させられることなく提供されるべきです。 ・技術的な誤りに対する公式の謝罪だけでは不十分であり、間違ったコンテンツのモデレーションが修正されなければなりません。企業は、より一層の透明性と告知を提供し、ユーザーに有意義でタイムリーなアピールを提供しなければなりません。Facebook、Twitter、YouTubeが2019年に支持した「コンテンツモデレーションにおける透明性と説明責任に関するサンタクララの原則」は、直ちに実施すべき基本的なガイドラインを示しています。

署名

Access Now

Arabic Network for Human Rights Information (ANHRI)

Article 19

Association for Progressive Communications (APC)

Association Tunisienne de Prévention Positive

Avaaz

Cairo Institute for Human Rights Studies (CIHRS)

The Computational Propaganda Project

Daaarb — News — website

Egyptian Initiative for Personal Rights

Electronic Frontier Foundation

Euro-Mediterranean Human Rights Monitor

Global Voices

Gulf Centre for Human Rights, GC4HR

Hossam el-Hamalawy, journalist and member of the Egyptian Revolutionary Socialists  Organization

Humena for Human Rights and Civic Engagement

IFEX

Ilam- Media Center For Arab Palestinians In Israel

ImpACT International for Human Rights Policies

Initiative Mawjoudin pour l’égalité

Iraqi Network for Social Media – INSMnetwork

I WATCH Organisation (Transparency International — Tunisia)

Khaled Elbalshy, Editor in Chief, Daaarb website

Mahmoud Ghazayel,  Independent

Marlena Wisniak, European Center for Not-for-Profit Law

Masaar — Technology and Law Community

Michael Karanicolas, Wikimedia/Yale Law School Initiative on Intermediaries and Information

Mohamed Suliman, Internet activist

My.Kali magazine — Middle East and North Africa

Palestine Digital Rights Coalition, PDRC

The Palestine Institute for Public Diplomacy

Pen Iraq

Quds News Network

Ranking Digital Rights

Dr. Rasha Abdulla, Professor, The American University in Cairo

Rima Sghaier, Independent

Sada Social Center

Skyline International for Human Rights

SMEX

Soheil Human, Vienna University of Economics and Business / Sustainable Computing Lab

The Sustainable Computing Lab

Syrian Center for Media and Freedom of Expression (SCM)

The Tahrir Institute for Middle East Policy (TIMEP)

Taraaz

Temi Lasade-Anderson, Digital Action

Vigilance Association for Democracy and the Civic State — Tunisia

WITNESS

7amleh — The Arab Center for the Advancement of Social Media

出典:https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/facebook-twitter-youtube-stop-silencing-critical-voices-mena_jp/ 英語原文:https://www.accessnow.org/facebook-twitter-youtube-stop-silencing-critical-voices-mena/

付記:下訳にhttps://www.deepl.com/translatorを使いました。

政権の危機と運動の危機

私は政権交代にほとんど重要な意義を見出していない。なぜなら、政治権力の本質は、人格に依存するのではなく構造的な問題であり、人はこの構造の人格的な担い手に過ぎないからだ。とはいえ、政権を担う人間の人となりを人々はある種の感覚で捉えて判断することも現実的な政権支持の背景にあることも確かで、NHKの世論調査も毎回政権支持の理由で「他の内閣よりよさそうだから」といった極めて主観的な判断項目を入れている。こうした質問項目がメディアを通じて流されることによって、政治権力の本質を権力者のキャラクターに還元してしまうような政治や権力の理解が、社会を歴史的な構造物とみる見方を退けてしまっていると思う。とくにそう思うのは、トランプの奇矯なパフォーマンスとその陰謀論に基く世界観を彼ひとりの個性とみたのでは現在の米国の極右の感性を支える膨大な大衆感情を軽視してしまうし、トランプに投票した7000万以上の人間がみな陰謀論の信奉者とは思わないが、福音派からQアノンまで広範にわたる社会的平等を理念としても否定する大衆を生み出したのは、大衆ひとりひとりの個人的経験によってではなく、むしろ社会の制度がこうした人々の価値観や世界観を形成してきたことに目を向けなければならないと思う。

日本も米国と五十歩百歩であって、天皇をめぐって新旧メディアから人々の日常生活までを構成している世界感覚は、世界で最も成功した陰謀論のひとつといっても過言ではない。

*

発足間もない菅政権だが、戦後保守=右翼政権の性格と近代日本=資本主義が構造的にもつ本質的な問題が、既にいくつか露呈している。COVID-19対応では相変わらず経済ナショナリズムのために人々の生存を犠牲にする政策がとられており、感染爆発から命の選別へと向うことは必至だ。人的資源=<労働力>として、費用対効果でいえば若年層の救命の方が資本にとっても政府にとっても利益になるから高齢者はまともな医療サービスを受けられずに犠牲になっていくだろう。この冷酷なシステムの構造的な要請を政治がどのようなレトリックで誤魔化すか、これが菅政権に課されたある種の宿題だ。

菅政権発足直後にまずぶち上げたのが「デジタル庁」の設置だった。デジタル庁は、安倍がビッグデータ、AI、そして5Gネットワークを踏まえて凡庸な文明史観をもとにでっちあげたSociety5.0を継承したものといえる。デジタル庁の設置は、省庁横断とマイナンバーの普及がセットになっているように、次世代監視テクノロジーの政府組織への導入であって、これが私たちの市民的自由に及ぼす影響は深刻だ。

デジタル庁問題が深刻なのは、民主主義の基本をなす立法と司法がほぼ完全に解体する、ということだ。法のかわりにコンピュータによるコードの支配が進み、法は形骸化する。なぜならコンピュータに法を遵守する意志はなく、コンピュータのプログラムの適法性は、技術的な難解で国会でも司法でも判断できず、私たち一般の人間も理解できないからだ。政府だけが、民間IT企業と組んで統治の意図をコンピュータのコードに組み込むことができる。AIとビッグデータによる将来予測に政策が依存するようになり、国会での討議や司法による裁判という時間がかかるプロセスよくて現実の後追いがせいぜいのところとなる。機械は過去から社会の常識や規範を「学習」するために、差別、偏見やナショナリズムの偏りを学び、反政府的な言動を社会的なリスク要因としてプログラムされれば、弾圧を正当化する道具にもなる。

*

デジタル庁は市民運動からの批判がいまだ低調なままだが、日本学術会議の任命拒否問題では市民運動もメディアも大学や学会もおしなべて菅への批判を強め、任命拒否撤回の主張が大きくなっている。多くの市民運動も任命拒否を批判するとともに、学術会議擁護の立場をとっているように思う。しかし現場の大学教員としての経験でいえば、学術会議は学問の自由を侵害するような行動をとっており容認できないのだ。学術会議は多くの提言などを出しており、任命問題の是非以前に、そもそも任命された学術会議のメンバーたちがやってきたことをその活動内容に即して検証されるべきだ。

私の経験とは以下のことだ。学術会議は2008年の文科省から大学教育の分野別質保証の在り方について審議依頼を受け、大学教育のある種の学習指導要領作りを始める。教育内容に介入するようなことをやりはじめた。私の専門でもある経済学については、ここで詳細は述べられないが、全く容認しがたい内容で、このガイドラインに則せば私は大学教育での居場所は全くなくなる。私の人生の多くを教育に費してきた者として絶対に譲れない一線だ。学術会議を擁護するなど私にはできない。

それだけではない。出された提言のなかにはとうてい容認しがたいものがある。たとえば、小中高の学校教育への提言ではGIGAスクールの推進を前提としたIT教育の導入を積極的に推し進める提言を出し、生徒の成績などの個人データの収集を積極的に実施すべきだと主張している。また、新型コロナ対策としての医療データの活用のためにマイナンバーカードなどの行政システムを支えるデジタル環境の再整備を主張する提言を出したり、「行政記録情報の活用に向けて」の提言では、統計調査にマイナンバーを利用できるよう提言している。研究にビッグデータを活用するリスクはすでに指摘されている。2016年の米大統領選挙でFacebookの膨大な個人情報を研究目的で提供し、これがトランプ陣営に利用された。研究目的を隠れ蓑にこうした深刻な問題が起きることがありうるのだ。核問題についても原発容認の姿勢は崩れていない。今年9月「原子力総合シンポジウム2020」を「2050 年の持続可能社会の実現にむけたシナリオと原子力学術の貢献」のテーマで開催するが、とうてい反原発運動が容認できるような内容ではない。今年春に学術会議は2050年をみすえたレポートを公表する。「未来からの問い―日本学術会議100年を構想する」と題された400ページのレポートのなかで,安倍政権が政策として推進してきたSociety5.0といういかがわしい歴史認識をまるごと受け入れ、さらには「総務省が推進しているマイナンバー制度も、複数の組織に所属している個人情報を一元化してさまざまな申請をしやすくします。今後、情報管理を徹底することによって、情報の漏洩やなりすましなどの犯罪を防止できれば、もっと用途を拡大できるでしょう。」と礼賛している。今年の9月まで学術会議の議長は京大の人類学者で総長だった山極壽一だ。彼は日本の植民地主義と学術の責任に深く関わる京大の琉球人骨問題で一貫して消極姿勢をとりつづけてきた。その山際を学術会議は会員の互選で選んできたのだ。

学術会議を政府から独立させる議論もあるが、そうなれば学術会議は映倫のような自主規制団体になるだけであり、現状のままなら政権のアウトリーチとしての役割を担うだけだ。表現、思想信条の自由にとって必要なのは、自由に関わる制度を一つでもなくすことだ。私の30年の研究者、教育者の仕事のなかで必要と思ったことは一度もない。学術会議は学問研究にとって不要である。学術会議擁護の運動をしている市民運動などの皆さんには是非、学術会議は擁護すべき機関なのか、再度検証していただくことをお願いしたい。

*

市民運動をはじめとする社会運動は、私の目からみると、これまでにない危機的状況を迎えつつあるようにみえる。COVID-19に関していえば、政権の対応、医療と経済について私たちがどのような判断を下すべきなのかについて、政府や支配的な制度とは別の観点からの提起をすることができているだろうか。マスクを拒否するマッチョな極右の価値観とも自粛と自己責任を強いる政府とも立場を異にする私たちの分析が非常に足りないと思う。市民運動は政党の政策論議や国会政局から自由になり、資本主義経済の本質や身体と医への権利といった根本問題を問い、原則を貫くスタンスをとらなければならないのではないか。既存の教育制度や学者の権威を肯定しすぎてはいないか、とも思う。教育制度による差別と選別への根底からの懐疑を運動の基盤に据えるべきなのではないのか。菅政権と産業界のデジタルへの流れに対しても、デジタルの日常生活を問う運動に至っていない。ネットもパソコンも理解を超える難解な機械であること自体が支配のツールになっているわけだが、同時に、運動として使えるなら、FacebookであれLineであれ何でも使えばいいという安易な利用主義が、ネットに伏在している高度な治安弾圧を自ら呼び込んでいることになっていると思う。

さて、最後に天皇制について一言だけ述べておく。COVID-19と各国の王室動向をみると、いずれも危機にありながら国民統合の積極的な役割を果せていない。天皇制を現代的な問題として重視する意義が見出しにくい状況になっているともいえる。たぶん、これはCOVID-19だけの問題ではなく、社会のコミュニケーション環境がマスメディア中心からSNSなどネット中心へと確実に変化しており、この変化に旧来の統合装置が対応しきれていないことによると思う。この意味でいえば政権や支配層のとってもある種の天皇制の限界に直面しているともいえる。他方で、SNSは多様な極右の言説が流布する場にもなっており、どこの国でも移民・難民への差別と排外主義、様々な伝統主義的な価値観への回帰と宗教的な信条が目立っている。日本の場合も、多様な日本的なるものや日本文化から憎悪のヘイトスピーチまでが星雲状の言説空間を構成しながら、これらの帰結としてナショナリズムと「天皇」と呼びうるような象徴的な空間が、従来とは異なる性格をもって構築されるように思う。マスメディア時代とは根本的に違い、大衆自身がマスメデアやフェイクニュースの言説を受容しつつ、彼ら自身が更に発信主体となって支配的な価値観や心情を支える、といったメカニズムのなかでイデオロギー装置が構築される。この意味で、現実の空間での天皇ではなく、バーチャルな空間において、天皇という言葉すら明示されないような言論のなかに密かにもぐりこむようにして―とりわけリベラルな知識人やある種の左翼もどきの知識人の言説をも包摂しつつ―天皇制イデオロギーが表出するようになるのでは、と感じる。この意味で天皇制を支える構造そのものの変容にも注目しつつ天皇制批判のバージョンアップを図ることが必要になっていると思う。

初出:『反天皇制運動Alert』54号(若干加筆しました)

ワシントンでも北京でもなく。社会主義者、帝国間対立、そして香港

以下は、Democratic Socialists of Americaのウエッブ機関誌、Socialist Forum2020年冬号に掲載された論文、ASHLEY SMITH AND KEVIN LIN、Neither Washington Nor Beijing: Socialists, Inter-Imperial Rivalry, and Hong Kong を訳したもので。です。


民主的社会主義者は、香港と中国本土の進歩的な潮流と下からの連帯を構築する国際主義的な反帝国主義を必要としている。
アシュリー・スミスとケビン・リン

米国と中国は、世界システムの覇権をめぐって激化するライバル関係に陥っている。貿易、知的財産権、発展途上国への投資、影響力の範囲、アジア太平洋地域の軍事的覇権など、あらゆるものをめぐって紛争が勃発している。同時に、両国の不平等と抑圧的な構造は、米国での教師のストライキから香港での民主化を求める大衆運動に至るまで、社会改革のための闘争の波を引き起こしてきた。このような状況の中で、米国の社会主義者は、このライバル関係の中でどのように自分たちを位置づけるべきか、という燃えるような問いに答えざるを得ない。

私たちには二つの危険な罠がある。第一に、私たちは、米国のナショナリズムの罠に陥る可能性があり、その権威主義がより大きな危険とみなされているために、私たちの支配者や国家と並んで北京に対抗し、反帝国主義という社会主義の原則を捨て去ることになる。第二に、私たちはもう一つの「陣営主義」に陥る可能性があり、中国国家を本来は進歩的あるいは反帝国主義陣営の一部として支持し、その搾取的で抑圧的な構造を言い訳にし、それらに対抗する労働者の運動を米国帝国主義の手先として却下し、それによって私たちの国際主義の原則に違反することになる。

2019年の香港の大衆運動は、新しい社会主義運動のリトマス試験紙である。私たちは、ナショナリズムと陣営主義campismの両方を拒否し、両国家に反対し、香港と中国本土の進歩的な潮流と下から連帯を築く国際主義的な反帝国主義の代替案を展開すべきである。

米中対立の根源

アメリカが最後に望んだのは、新たな帝国間のライバル関係だった。アメリカは冷戦時代から唯一の超大国として浮上していた。世界最大の経済力、圧倒的な軍事的優位性、他に類を見ない諸国家の同盟、それゆえに他の追随を許さない世界的な覇権を持っていたのである。それは、自由貿易のグローバル化という新自由主義的な世界秩序を管理し、すべての国家をその中に組み入れ、いわゆる「ならず者国家」を潰し、同業他社の台頭を防ぐことによって、この地位を固定することを目指していた。

3つの展開が一極化された世界秩序に対する短期間の支配力を損なうことになった。第一に、1980年代初頭から新千年紀の最初の10年間に及んだ長期的な新自由主義ブームは、グローバル資本主義の地殻プレートを再調整した。資本蓄積の新たな中心地、とりわけ中国をはじめとする多くの地域経済大国が台頭し、世界システムにおける自国の利益をますます主張するようになった。

第二に、米国はイラクとアフガニスタンでの敗北によって、ウィリアム・オドム将軍が「米国史上最大の戦略的災害」と呼んだものを被り、果てしない反乱鎮圧戦で足止めを食らった。第三に、米国と西欧は大不況の恩恵を受けたが、緊縮財政と景気刺激策を組み合わせても、新自由主義的なブームや第二次世界大戦後のブームのような新たな拡大を引き起こしたわけではない。

これらの動きの組み合わせは、他の大国、特に中国だけでなく、ロシアやトルコ、イランなどの地域大国にも、自分たちの利益を促進するためのスペースを与えた。しかし、相対的に衰退したにもかかわらず、米国は世界で最も優位にある帝国主義大国であることに変わりはないが、国際的なライバルである中国と、それ以下の大国のホストに直面している。このようにして、米国は非対称な多極世界秩序を支配しているのである。

中国の解放と発展の袋小路

このような動きの中で、中国は過去数十年の間に急進的な変貌を遂げてきた。ヨーロッパ、日本、アメリカの帝国主義の手で一世紀に及ぶ屈辱の後、中国は、経済的、政治的、軍事的覇権を求めてアメリカに挑戦することを熱望する新しい資本主義・帝国主義の大国として台頭してきた。

現在では世界第2位の経済大国となり、第2位の軍事予算を持ち、地政学的にも影響力を発揮している。

その台頭を予想していた人はほとんどいないだろう。中国共産党(CCP)は大規模な民族解放闘争を主導し、1949 年に人民共和国を設立し、根本的な社会変革を約束した。中国共産党は何百万人もの人々を貧困から救い出したが、社会主義を人間の必要性を満たすために労働者が生産を民主的にコントロールすることと理解するならば、社会主義を確立したわけではなかった。

その代わりに、中国共産党は、欧米に追いつくために、労働者の消費と政治的民主主義を経済発展に従属させた一党国家を樹立した。その努力の中で、政権は、ほとんどのポストコロニアル国家がしたのと同じ課題、すなわち自国経済の低開発に直面した。

この問題を克服するために、国家は、国家資本主義的発展のスターリンのプロジェクトを模倣することと、大躍進のような経済的重力に逆らう自発的な試みの間で揺れ動いた。どちらも、スターリンの死後、特にソ連との分裂後、中国は世界の他のシステムからますます遅れをとり、中国の低開発を克服することはできなかった。いわゆる文化大革命の間に官僚の間で派閥争いが続いた後、毛沢東委員長は、中国の地政学的孤立を克服するために、ソ連に対抗して米国と同盟を結んだのである。

資本主義・帝国主義国としての中国の台頭

またもや官僚間の戦いの後、鄧小平の勝利派は、中国の経済発展戦略を国家資本主義から世界資本主義市場への国家主導の参加へと方向転換させた。中国共産党は一党独裁国家と経済の主要部門の国家所有を維持し、同時に非効率的な国営企業を民営化し、中国の民間資本家の進出を奨励し、多国籍資本投資に経済を開放した。しかし、国家の発展主義戦略は、農民から引き出された新しい労働者階級を搾取し、中国市場に参入するための条件として、多国籍企業に対して中国の国有企業と共同事業などの形で技術を共有し、移転することを要求したのである。

天安門での学生・労働者の蜂起を国家が鎮圧した後、開発プロジェクトは一時的に中断された。しかし、すぐに国際的な投資が中国に戻り、中国の安い労働力を利用して利益を上げようとする多国籍企業がアメリカ、日本、ヨーロッパの市場向けに製品を製造した。中国は1990年代に投資市場をさらに開放し、その戦略は特に2001年のWTO加盟後の2000年代に飛躍した。

中国は世界の新しい労働現場となった。世界のGDPに占める中国の割合は、1990年代初頭の約2%から現在では16%を超えるまでに急増した。『シティ:ロンドンと金融と金融のグローバル・パワー』を書き、帝国主義についての貴重なブログを運営するトニー・ノーフィールドは、中国を世界システムの中で2番目に強力な国家としてランク付けしている。しかし、20世紀の大部分がそうであったように、国家の所有権と経済の国家主導が資本主義と完全に両立していることを理解できていないために、彼らは中国を資本主義や帝国主義とは見ていない。

実際には、時折社会主義のレトリックを唱えようが、中国の国家と経済は完全に資本主義である。中国には800人以上の億万長者がいるが、その多くは共産党の党員証を持っている。中国の国有企業、国有企業に支えられた民間資本主義企業は労働者を搾取し、米国、日本、EUと同じように資本主義の競争論理に従っている。そして、中国の国有企業や民間企業は、先進資本主義経済のための巨大なマキラドーラであるというだけではなく、はるか昔に招かれた多国籍企業に挑戦するために、価値連鎖を急速に上りつめている。

中国は自らを大国と宣言する

中国の新たな経済力に基づき、習近平政権下の国家は、中国の国家再生を完成させ、大国としての地位を確立することを明確に目標としている。習近平は、米国、日本、欧州の多国籍企業に対抗するために、ハイテク分野で民間資本主義の国家チャンピオンを生み出すための「メイド・イン・チャイナ2025」プログラムを開始した。通信企業の華為は5G技術で世界をリードしており、その成功の旗手となっている。

習近平はまた、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、ラテンアメリカ、カリブ海地域にインフラを構築し、中国を中心とした世界経済を再構築することを約束する1兆ドル規模の一帯一路構想(BRI)を立ち上げた。その目的は、中国の膨大な余剰生産能力を輸出し、成長する経済の原材料を確保し、製品の新市場を見つけようとする、紛れもなく帝国主義的なものである。そして、その影響は国全体に及び、ブラジルのような一部の国を脱工業化し、すべての国を中国資本主義のニーズに応えるために縮小させ、従属的な開発に閉じ込めてきた。

この経済力を支えるために中国は、大規模な軍事近代化プログラムを実施しており、特にアメリカの中国台頭を抑えようとする動きを無力化するように計画されている。そして、南シナ海と東シナ海の島々を占領し、そこに軍事基地を建設し、ますます強力になった海軍でこの地域をパトロールしている。その経済的・軍事的な重みに基づいて、中国はまた、地政学的にもより積極的になり、米国が支持する国連決議に拒否権を行使したり、イランのような米国の軌道外にある様々な地域大国に対する米国の侵略に異議を唱えたりしている。

もちろん、中国の帝国主義国家への発展には、すべての資本主義国家や経済を苦しめている矛盾がないわけではない。中国は、国家と企業の負債、過剰な生産能力と過剰生産、投機的投資、収益性に対する賃金圧力、そして経済の減速という大問題に直面している。これらの条件は、搾取される労働者階級と抑圧された人口からの不満と抵抗を炸裂させる。

アメリカと中国の間の帝国の対抗意識

米国の相対的な衰退と中国の台頭が相まって、両国家とその関連資本主義企業の間に巨大な帝国間の対立を引き起こしている。米国では、中国が自国の経済的、政治的、軍事的覇権に対する脅威を増大させているというコンセンサスが支配層の間で高まっている。そのため、米国は、これまでの係わり合いと封じ込めを組み合わせた「係わり合い」政策を放棄し、より対立的な姿勢をとっている。

1970 年代以降、米国の歴代政権は、新自由主義世界秩序に対する米国の優位性を中国に受け入れさせるために、飴と鞭を使って中国を説得する目的で、どちらか一方の極への関与を強調してきた。しかし、米国の相対的な衰退と中国の台頭に直面し、オバマ政権下の米国は、「アジアへの枢軸」を皮切りに、封じ込めへと決定的にシフトし始めた。オバマ大統領は、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)を通じた米国の新自由主義的ルールの下で経済的に地域を統合し、アジア諸国との長年にわたる政治関係を強化・拡大し、中国を抑止するために米海軍をアジア太平洋に再配備することを目指していた。

しかし、オバマ大統領の枢軸は失敗に終わった。トランプ大統領がホワイトハウスに入ったとき、オバマのTPPは炎上した。従来の米国の同盟国は、今ではこの地域に対する米国のコミットメントを疑っており、米国と中国の間でバランスを取ることを選んでいる。トランプは、経済ナショナリズムを通じて、米国帝国主義の相対的な衰退を克服しようとしてきた。彼は、グローバル資本主義を統括することよりもアメリカを第一に考え、同盟国と敵対国の両方との取引関係を確立し、すべてにおいてアメリカの経済的、軍事的、地政学的な力を強化することを目的として、アメリカを第一に考えるようにシフトしてきた。

彼はアメリカの帝国戦略を、いわゆる「対テロ戦争」から大国間競争に向けて方向転換し、特に中国をワシントンの主要な敵対国に指定した。トランプ氏は北京との貿易戦争を開始し、多国籍企業に対してサプライチェーンを中国から移転するよう圧力をかけ、華為技術(ファーウェイ)社の米国内での5G製造を禁止し、同盟国にも同じようにするよう圧力をかけ、中国に対抗するために特別に設計された米軍の増強を開始した。

しかし、トランプは前任者と同様、米国の多国籍企業が経済的に統合されている国家に立ち向かうという矛盾に巻き込まれたままである。中国は米国債を1兆ドル以上保有している。そして、中国にあるフォックスコンの巨大な工場がなければ、世界でiPhoneを売ることはできない。だからこそ、ヒラリー・クリントンは 「どうやって銀行家に厳しくできるというのか?」と有名な不満を口にしたのだ。

その結果、トランプの戦略は、世界資本主義の構造全体をひっくり返すような2つの経済を切り離すという脅しと、中国が米国の多国籍企業に市場をさらに開放するという要求との間で揺れ動いている。とはいえ、中国の経済的、軍事的、地政学的な力の増大に直面して、ますますライバル関係が高まる方向に向うことは明らかである。実際、トランプ政権のマイク・ポンペオ国務長官は、中国の与党である共産党を「現代の中心的な脅威」と強調しており、私たちは新たな冷戦の危機に瀕しているかのようだ。

しかし、これは第一次世界大戦や第二次世界大戦で終わった過去の帝国間の対立の再来ではないだろう。なぜならば、経済統合が進んでいることや核兵器を保有していることから、それぞれの国が手を引く可能性が高いからだ。したがって、この対立は地政学的な競争に偏向する傾向がある。しかし、両国ともに軍備を整え、世界経済が新たな危機を迎えようとしている今、経済統合とテロの軍事的なバランスが戦争を完全に排除するとは誰も信じてはならない。

両国に対する下からの抵抗

この2つの大国がかつてないほどのライバル関係の中に閉じ込められている間に、その支配階級による労働者の搾取と集団・国家・国内少数民族への抑圧が、両国で階級闘争と人民運動の新たな花を咲かせている。これは、下からの国際連帯の可能性と必要性を開く、体制とその国家に対する世界的な反乱の高まりの一部である。米国では、数十年にわたる新自由主義政策、大不況、そして大多数の人々の条件を改善することができなかった長期的な回復が、闘争、政治的な急進化、そして二極化の波を爆発させた。

左翼の側では、ウォール街を占拠したことが、労働者階級の急進化の最初の表れであった。私たちの時代は、「We Are the 99 Percent」や「The Banks Got Bailed Out, We Got Sold Out」のようなスローガンと、「One Percent」を私たちの階級的な敵として挙げることによって形作られてきた。このことは、他の多くの闘争の中で、Black Lives MatterからMe Tooまで、抑圧に対する新しい抵抗の出現と連動していた。

これらは、バーニー・サンダース、アレキサンドリア・オカシオ・コルテス、そして民主党内の他の人々による公然と社会主義的なキャンペーンのための空間を開き、意識をさらに高め、特に数十年にわたり公共部門で緊縮財政の負担を強いられてきた教師たちの間で階級闘争を奨励した。彼らは、最初は孤立していた2012年のシカゴ教職員組合のストライキに始まり、ここ数年で全国を席巻した「赤い州の反乱」で爆発的なストライキの波を起こした。これらのことから、サンダースは2020年に向けて、人種弾圧やその他の問題についてより優れた政治的立場を持ち、より強力な選挙戦を展開することが可能となった。

中国では過去30年間、社会闘争の波が押し寄せてきた。その中には、より良い賃金、福利厚生、労働条件の改善を求める国家資本主義部門と民間資本主義部門の両方でのストライキ、汚染に対する大規模な都市環境抗議、土地収奪に反対する農民の暴動、ジェンダーの不平等とハラスメントを暴露する声高きフェミニスト運動の出現などが含まれている。しかし、最も劇的なのは、中国の権威主義的な措置が強まったことで、2014年の「雨傘運動」から2019年の「反強制送還抗議」まで、香港の民主的権利を守るための闘争が爆発したことである。

しかし同時に、低経済成長の持続は、各国の体制派と右翼の反動的な応答に場を提供してきた。トランプは、彼の偏屈なナショナリズムに基づいて、中産階級を中心とした選挙基盤を活気づけた。習近平もまた、権威主義的なナショナリズムに転向し、監視の強化や労働者の組織化、フェミニスト運動、中国自身のいわゆる対テロ戦争における新疆ウイグル族への取り締まりを正当化するために、それを利用している。おそらく最も重要なのことは、習近平政府が、香港の民主化運動に対する香港の抑圧的な対応を支援してきたことである。

ナショナリズムと陣営主義の罠

両帝国列強におけるこの闘争の波の中で、民主的社会主義者は、世界の労働者と被抑圧者の間に真の国際連帯―私たちの運動の創立原理と戦略―を構築したいと望むならば、二つの罠を避けなければならない。一つの罠は、ナショナリズムであり、アメリカとその国家と支配階級の中国に対する社会的愛国的な同一化である。これはトランプ派の新右翼だけでなく、民主党の既成政党やそのリベラルな反体制派にも利用されている。

労働運動がこのようなナショナリズム、特にアジアの国家や民族に対するナショナリズムに陥った深刻な歴史がある。アメリカ労働連盟の中国排除法支持、1980年代に日本企業に対する保護主義的な政策を支持した自動車労働者、そして今日のトランプの対中貿易戦争を支持する誘惑に至るまで。社会主義者は、次の2 つの明白な理由から、そのようなナショナリズムに反対すべきである。

第一に、ダナ・フランクが彼女の古典的な著書『バイ・アメリカン:経済ナショナリズムの知られざる物語』の中で論じたように、国や資本のボスも決して労働者の仕事を守るために保護主義を実施しているわけではない。彼らがそうするのは、産業を再構築し、組合を破壊し、労働者を解雇し、仕事に残った労働者から生産性を高めるための余地を獲得するためであり、すべては外国との競争に対抗して利益と競争力を高めるためである。

第二に、そしておそらくもっと重要なことは、このようなナショナリズムは、両国の労働者と抑圧された人々の間の連帯の絆を断ち切り、各国の支配者が世界的な底辺へ向う競争の中で私たちを互いに敵に回すことを容易にしてしまうことである。実際には、アメリカと中国の労働者は、Apple、lGoogle、GMのような共通の搾取者に対して、多くの場合、団結するという共通の利益がある。

もう一つの主な罠は、冷戦時代に生まれた陣営主義であり、アメリカの多くの社会主義者がソビエト圏に味方してワシントンに反旗を翻した時に生まれた傾向である。少なくとも当時は、資本主義の代替案を支持していると間違って主張できたかもしれない。今日ではそのような主張はできない。それは単に、「敵の敵は味方」という悲惨な論理につながり、米国の軌道の外にある資本主義国家がどんなに反動的で、搾取的で、抑圧的であろうとも支持することになる。このことは、それらの国家内のあらゆる反対運動を、政権交代を企図している米国帝国主義の反動的な手先として非難する傾向を生み出している。

国際主義者のオルタナティブ

ナショナリズム、陣営主義、棄権に代わるものは、国際主義的な反帝国主義である。

米国の社会主義者は、まず第一に、そして何よりもワシントンの帝国主義に反対しなければならない。ワシントン帝国主義は、依然として支配的な国家権力であり、グローバル資本主義のいわゆるルールの原理的実施者であり、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが有名に言ったように、「今日の世界における暴力の最大の供給者」である。スペイン・アメリカ戦争でフィリピンとプエルトリコを征服して世界の権力者になってから、ベトナム、アフガニスタン、イラクでの戦争に至るまで、アメリカは、解放と民主主義を求める闘争の敵であることを証明してきた。

したがって、社会主義者は、大国同士の帝国間紛争において、「主要な敵は自国にいる」―私たち自身の支配階級とその国家である―と宣言したドイツの革命家カール・リーブクネヒトの有名なスローガンを採用しなければならない。それは、私たちが、すべての米国の軍事的、経済的、政治的介入に反対しなければならないことを意味する。私たちはまた、トランプ政権のコロナウイルスの兵器化と、企業に中国からのサプライチェーンを移転するように圧力をかけるための中国人に対する偏見で例証されたように、米国の政策を正当化するために利用される中国の人々への人種差別に反対する運動を展開しなければならない。

しかし、リーブクネヒトがよく知っていたように、これは我々の主要な敵が我々の唯一の敵であるという意味ではなく、彼がやったように、我々はライバルの帝国主義国家にも反対すべきである。だから今日、私たちは米国の帝国主義に対抗して立ち上がると同時に、ヨーロッパの古い大国も中国のような新しい大国も支持してはならない。これらの大国は、力は劣るが、帝国主義的であり、搾取的であり、抑圧的であることに変わりはない。

したがって、社会主義者は、悪の少ない方を支持するという論理を拒絶し、それらすべてに反対すべきである。私たちは、その代わりに、私たちの国で社会主義のための階級闘争を組織し、他の国の民主主義、社会革命、民族解放のための闘争へと連帯を拡大すべきである。

このアプローチは、グローバルな資本主義システム全体を通じて、各国での下からの大衆革命がみられるこの瞬間には極めて重要なことである。私たちは、これらの闘争が、アラブの春のエジプトの蜂起のように、米国の影響力の範囲内にあろうと、あるいは今、香港のように他の権力の範囲内にあろうと、自分たちの解放のために闘う抑圧された人々の権利を支持すべきである。それらはすべて、私たちが闘っているものの一部であり、国際社会主義のための運動である。

しかし、だからといって、私たちが無批判に運動を支援すべきだということではない。どんな大衆運動にも、複数の傾向があり、進歩的なものもあれば、誤った、あるいは反動的な考えや戦略を持ったものもある。私たちは後者の傾向を批判し、運動の成功のチャンスをいかに阻害しているかを示し、進歩的な勢力を支持すべきである。

香港民主化運動との連帯

このような国際主義的な反帝国主義は、香港の民主主義のための運動に対する私たちのアプローチを導くべきである。社会主義者は、運動との連帯の中で、揺るぎない、同時に批判的な立場をとるべきである。

この闘いは、香港の経済と政治に根ざしている。それは、以前の抗議運動の継続と集大成であり、社会的不平等と、学校に愛国教育を導入しようとする政府の試みと抑圧的な国家安全保障法案に対する深い不満である。それは、中国政府の支配下にあるとみなされるその指導者の選挙での普遍的な参政権を求めて戦っている。

2019年の最近の抗議行動は、香港政府が立法評議会を強行突破し、可決されれば香港当局が犯罪容疑者を中国本土に引き渡すことができるようになるという「引き渡し法案」の修正案を巡って爆発した。このため、一般の香港市民は、中国の法制度の特徴である恣意的で透明性のない法的手続きを被るのではないかと危惧するようになった。

特に香港の社会運動活動家たちは、この法案に反対するために組織化した。その多くは、香港の自由度の高さを利用して中国での社会運動や労働運動を支援してきた進歩的な国際主義者たちである。彼らは、この法案によって、中国国家が大陸全土の運動に対して行ってきた厳しい弾圧が、彼らに対して利用されるようになることを恐れている。

このようなことが起こる不吉な前例がある。例えば、北京は香港で北京に批判的な本を売っている書店員を逮捕するよう圧力をかけた。もし引き渡し法案が可決されれば、中国国家はでっち上げられた刑事告発を利用して、中国国内の香港の活動家を引き渡したり、刑務所に入れたりすることが可能になる。そうなれば、香港の民主的権利と本土の進歩的な運動が後退することになる。

この運動は他の理由でも高揚したが、それは「オキュパイ」をはじめとする世界中の多くの若者が主導する社会運動を引き起こした理由と非常によく似ている。自由市場資本主義の楽園であった香港では、前半世紀の間に不平等が急増した。政府は不動産と金融資本を最優先し、労働者と貧困層を最優先してきた。

引き渡し法案は、抗議の火をつけるきっかけとなった。2019年6月以降、この運動は200万人もの前代未聞の大規模デモ、学校でのボイコット、そして引き渡し法案の修正案が撤回された後も続くストライキを実施してきた。活動家たちは、5つの要求を掲げて団結している。1)反引き渡し法案の完全撤回、2)6月の抗議行動を「暴動」とみなすことの撤回、3)逮捕された抗議者への完全な恩赦、4)警察の行為への独立した調査、5)真の意味での普通参政権である。

この運動は、引き渡し法案の撤回から始まって、すでに勝利を収め始めている。その後、自信に満ち溢れ、11月の選挙区では、運動を支持する候補者に圧倒的な勝利をもたらした。この結果は、運動の圧倒的な支持基盤と、その本質的な民主主義的・進歩的な性格について、疑いの余地を残さないものである。

進歩的な流れを支持する

大規模な抗議行動のほとんどは、政党、人権団体、労働組合、地域団体などの中道左派連合である市民人権戦線によって組織され、運動の重要な力として結束してきた。しかし、オキュパイが多くの思想や潮流を含んでいたように、香港の運動にも多様な力と思想がある。全体的に見ると、政府の横暴や警察の横暴に対抗して民主主義のために闘うという本能を超えて、首尾一貫したイデオロギーでまとまっているわけではないが、反資本主義運動の種を含んでいる。

その種を育てようとしている社会主義者の小さな流れがある。彼らは、国際主義的で反帝国主義的な視点を提唱し、香港の東南アジア移民を含む労働者階級を新しい組合で組織化しようとし、中国本土の労働者を共通の闘争の同盟者と見なしている。しかし、他にも左派の地方主義者のように、独立を要求として優先する政治集団も少なくない。

また、中国本土の人々に対する人種差別的な右翼的要素もあり、これは運動の多くの活動家によって広く非難されてきた立場である。他の潮流は、しばしば自暴自棄になって、香港政府や中国政府による弾圧に対抗して、米国や英国政府に協力するよう訴えようとしてきた。この流れは少数派であるが、米国のメディアと政治家によって、ワシントンで幻想を煽ることを熱望している人々によって、誇張されてしまった。

米国の社会主義者は、この大衆運動に批判的連帯の明確な立場をとるべきである。これに基づいてのみ、我々は右翼を批判し、米国政府が彼らの闘争を支持するという誤った呼びかけに対抗することができるのである。最悪の場合、米国は、中国との大国競争という自分たちの反動的な目的のために、どんな支援も利用するだろうし、シリアで絶望的な状況にある人々にしたように、闘争支援のあらゆる約束を裏切る可能性が高い。

私たちは、国家分裂を超えた労働者階級統一の国際主義的立場を主張している運動の進歩的・労働者階級の流れに、可能な限りの政治的・物質的援助を提供すべきである。香港のこの流れと中国の同様の流れとの絆を築くことによってのみ、国際的連帯のための闘争を前進させ、反動的ナショナリズムの支配を弱め、アメリカと中国の間で激化している対立に対して、下から具体的な代替案を構築することができるのである。

21世紀の社会主義は国際主義的で反帝国主義的でなければならない

これは、多くの社会主義者が冷戦時代にアメリカやソビエト、そしてそのさまざまなサテライトのいずれかと同盟を結んだときに、20世紀に犯した過ちをいかにして回避するかということである。ある者は、民主的なはずのワシントン圏を支持するナショナリズムという悲惨なスタンスに陥り、またある者は、社会主義者であるはずのモスクワを支持する陣営主義に陥った。それぞれが、民族解放、民主主義、社会主義のために立ち上がった大衆運動よりも、抑圧的な国家を支持することを選んだ。

今日、私たちがすべき最後のことは、これらの過ちを繰り返さないことである。今日の中心的な帝国間競争において、どちらかの権力に味方するのではなく、私たちは、「ワシントンでも北京でもなく、国際社会主義」というスローガンを掲げて、自分自身を方向付けるべきである。我々が社会主義者の影響力を構築する方法は、イランからチリ、レバノン、香港に至るまでのすべての革命家と連帯し、彼らの最も進歩的な勢力と組織的なつながりを築くことである。

こうすることによってのみ、私たちの新しい社会主義者の流れは、労働者と被抑圧された人々のグローバルな運動を助け、資本主義の帝国間の対立、階級的搾取、制度的抑圧、そして気候変動のますます終末的な結果を社会主義に置き換えることができる。

付記:下訳にhttps://www.deepl.com/translatorを用いました。

アメリカ大統領選挙から議会制民主主義の限界を考える

アメリカ大統領選挙から議会制民主主義の限界を考える

1 選挙の分析

1.1 ヒスパニックの動向(デモクラシーナウ)

1.1.1 ラテン系 有権者の投票が急増した

Juan Gonzalez1は、今回の大統領選挙の最大の特徴としてヒスパニック(ラテン系)の有権者の投票が急増し、ラテン系有権者3200万人のうち2600万人が投票に行ったことを指摘している。これまで、ラテン系有権者の投票率は5割を切っていたが今回は、史上はじめて50パーセントを上回り、64パーセントになる。2016年の選挙よりも800万人も多い。地域別でもラテン系の投票者の急増はまざましく、投票総数のうち「カリフォルニアとニューヨークです ラテン系の票の割合は息をのむようなものでした カリフォルニア77% ニューヨーク72%」を占めている。ニュージャージー、コネチカット、マサチューセッツ、コロラドもこうした傾向にあり、有権者の人口構成の変化をふまえると共和党が勝利する可能性はないかもしれない。

1.1.2 投票増加のエスニック・グループ別変化

人種別の投票数の増加では、前回の大統領選挙と比較してラテン系に次いでアフリカ系アメリカ人20%増、アジア系アメリカ人は16%増、白人は6%弱の増加だった。米国の世論調査はこうした動向を正確に反映しておらず、共和党支持者が多いキューバ系アメリカ人に偏る反面英語を話さない有権者が過小評価される傾向があり、これが実際の選挙予測との食い違いを生んでいる。

1.1.3 ラテン系有権者の危機感

COVID-19の感染被害は、人種によって不平等にあらわれていることが知られている。医療アクセスや職業上濃厚接触が避けられない仕事に就いていたりといった問題がある。これに加えて、トランプによるあからさまな中南米出身者への偏見(非正規移民を犯罪者集団と決めつけてメキシコ国境に壁を設置するような政策と言動)への危機感や、人工妊娠中絶を違法化しようとする動きへの危惧もあった。ゴザレスは「一つ確かなことは、民主党も共和党も、今後はラテン系の有権者を過小評価したり、無視したりすることはないということです。これは、待望の投票の民主化として広く祝われるべきものである。」と述べている。

ゴンザレスはラテン系のエスニックグループは、生物学的な人種ではなく、むしろ米国社会の差別のなかで自分たちを支配的な社会に対して守ろうとして生まれてきたものだという。

「米国におけるラテン系アメリカ人のアイデンティティは、支配的な社会が他者を定義し分類する必要があったことと、敵対的な社会で生き延びるために団結を余儀なくされたこと、その子どもたちが徐々に交りあいながら新しい社会構造「アメリカのラテン系アメリカ人」を作り上げた。疎外されたグループそのものによって、地に足をつけて有機的に作られた社会的な構造です。」

後に述べるように、今回の大統領選挙は米国がいかに大衆意識の右翼化、とりわけ白人(支配的なエスニックグループ)の右翼化が深刻な状態にあるのかを如実に示していたが、こうした傾向は、トランプの敗北では終りにはならないと警告している。

「白人女性の55%を含む58%の白人アメリカ人がなぜドナルド・トランプに投票したのか?米国が世界で最も強力な帝国主義国家としての地位を固め、国内の経済格差が拡大する中、右翼運動は国内でのみ成長しており、トランプの敗北がその成長を止めることはないだろう。進歩的多数派を構築する鍵は、より多くの若いラテン系住民を投票に動員し続け、有色人種の人々、組織化された労働者、およびそれらの同盟者によって右翼候補支持を抑えこむことだ。」

ここで表題に「左翼」としたが、左翼は多様でひとつではない。ひじょうに漠然とした定義だが、人種、性別、国籍などによる差別を否定し、社会的な平等のために社会の伝統や現状の政治、経済、法制度や文化変革することを厭わない立場と考えておく。政治的権力の否定(国家の否定)を重視するアナキズムから資本の支配の否定を重視するマルクス主義まで考え方は多様であり、また、具体的な政治過程についても、体制内改良の可能性を重視する立場から一切の既存の制度に頼らない立場まで、また闘争の手段を平和的な手段に限定するのか武装闘争を肯定するのかでも立場はまちまちだ。そして、一般に「社会主義」とか「共産主義」と同義とみなされる場合もある現存の社会主義を標榜する国家、中国、キューバなどや20世紀のソ連、東欧のかつての「社会主義」を標榜した国々を「社会主義」として認める立場もあれば、これらを「社会主義」の名に値しないとして否定する立場もある。冒頭に述べたように、こうした多様性がありながら人種、性別、国籍などによる差別を否定し、社会的な平等を目指すという点では共通しているといえる。

ちなみに右翼もまたその考え方は多様だが、共通していえることは、社会的平等を否定し、伝統的な価値を最も重視する立場は共通している。ただし「伝統」の内容は多様であって、宗教的な伝統だけをとっても、西欧社会だけをみてもキリスト教の伝統もあればキリスト以前の多神教の文化(ギリシア、ローマや北欧)まであり、ひとつではない。

1.2 アナキスト(Crimethinc)

Between Electoral Politics and Civil War
Anarchists Confront the 2020 Election2

1.2.1 代表制民主主義の否定と選挙への態度

一般にアナキストは民主主義を直接民主主義であるべきで代表制をとることに批判的な場合が多いので選挙には消極的だ。米国のアナキスト系のサイトCrimethincは、今回の大統領選挙では、アナキストたちも無関心ではいられなかったという。

「アナーキストが選挙の結果を心配するのは当然のことである。警察、刑務所、国境、その他の抑圧を廃止するために戦い続ける中で、選挙での勝利であれ、その他の手段であれ、どの政権が権力を握るかは、私たちがどのような課題に直面するかを決定づけるからだ」

1.2.2 ラディカルな要求の改良主義的なとりこみ

他方で、選挙に全てを委ねることの問題も指摘している。たとえば、BLMの運動のなかから提起されてきた警察の廃止というラディカルな要求の問題がある。警察による殺人も含む暴力は米国の人種差別が制度化、構造化されていることから生まれている。BLMでは、警察の介入を排除してコミュニティを自衛する動きが活発化した。これに対してトランプは、警察の強化から軍の動員まで目論むなどBLMや右翼の暴力と対決してきた諸々の反ファシスト運動、一般にAntifaと呼ばれるが、固有名詞でもなければ特定の組織を指すことばでもない運動をとくに名指しして摘発を主張した。大統領選挙でバイデン陣営は、トランプの治安維持と人種差別主義的な警察擁護に対して、警察の廃止ではなく、警察への財政支出のありかたを改革するという対案を提案することによって、警察をめぐる原則論を退けてしまう。「改革派は、この大胆な提案を薄め、ロビー活動によって警察の『資金繰りを切り崩す』という提案にすり替えたのである。当然のことながら、闘争を政党政治と政府の手続きの領域に還元してしまった結果、警察の財政出動すら理想的に思えてしまう。」

1.2.3 警察と極右の暴力の問題

警察や極右の暴力がエスカレートするなかで、ある種の「内戦civil war」が一部の活動家のなかで現実味を帯びて議論されるようになる。

「極右勢力が内戦を叫んでいる理由は複雑だ。草の根レベルでは、一線級の人種差別主義者たちは、文化戦争と人口動態の変化で自分たちが負け組になっていると感じている。一部の人種差別主義者は、公然とした敵対行為を先延ばしにすればするほど、自分たちの立場が悪くなると結論づけているようだ。彼らが過激化するにつれ、ドナルド・トランプやタッカー・カールソンのような民主主義者は、彼らの忠誠心を繋ぎとめるために、彼らとともに過激化せざるをえなくなる。」

選挙運動やBLMのデモがを広がりをみせるなかで、極右が銃を公然と携帯して威嚇するスタイルが拡がると同時に、極右や警察の暴力への自衛手段として、武器を携行するアンティファやコミュニティの活動家も登場する。著者は、「極右が内戦を求めているのであれば、私たちはこのパラダイムを特に疑うべきである」と述べる。しかし、問題は一筋縄ではいかない。暴力を否定して、選挙運動に集中すると、選挙という制度を前提にして選挙で多数をとれるような政策に絞って主張を展開することになるから、警察の廃止などというラディカルな主張はできなくなる。右翼が危機感から武力闘争へと傾斜するなかで、これに武力で呼応することになれば、右翼が前提している武装闘争=内戦の罠にはまることになる。[デモでの銃の拡散は、右翼の武装闘争と土俵を共有していることを反映している」

Crimethincの著者は、武装闘争と選挙運動という二極化に対して「常在的な拒否と反乱」を提起する。

「武器の奪い合いで個々の派閥が互いに戦う内戦の代わりに、私たちは水平的かつ分散的に反乱を広め、権力の制度とそれを支える忠誠心と対峙し、忠誠心を不安定化させることを目指す。このプロセスの第一段階は、いかなる法律、多数派、指導者が私たちの服従を当然のこととする考えを否定することである。第二のステップは、武力だけで目的が達成可能だというロマン主義を捨てることである。第三のステップは、既存の秩序を永続させるような私たちの役割を拒否することである。」

そして、「バイデン大統領の下では、不満を持つ極右からの攻撃が増えるだろう」という見通しのもと、バイデン政権について二つの点を指摘している。

「もしバイデンが大統領職を確保することに成功したら、私たちは直ちに彼と対決することに軸足を移し、彼の政権がどのようにしてトランプのアジェンダを実行し続けているかを示さなければならない。」

こうして彼らも前述したゴンザレスの場合同様、バイデン政権が誕生することで現在の深刻な極右の台頭や警察の暴力の問題が解決するとは考えていない。

Crimethincの著者は、社会全体の変革をどのように見通すのかという観点よりも、小規模なコミュニティの活動の原則に焦点をあてて上のような六つの原則を立てているように思う。こうした問題提起のスタンスはアナキストらしいもので、後述するように、マルクス主義に近い立場の社会主義者の場合は、より大きな体制全体の変革のプログラムへの関心が中心になる。

1.3 コメント(選挙制度と二大政党の限界)

言うまでもなく、アナキストたちが選挙に幻想をもったわけではなく、誰が権力者となるかで権力の抑圧装置としての機能に変化がありうるからだ。他方で、選挙が政治の全てではないのであり、「選挙政治は、人々に、自分の夢を追求するのではなく、2つの悪のうちのどちらか少ない方を支持するように圧力をかけ、それらの夢をますます手の届かないところに押しやってしまう」ことを指摘している。

選挙=議会制民主主義を原則として擁護する立場のばあい、選挙で選ばれた権力に対して抵抗する権利はどのようにして、あるいはどのような手段であれば正当化されるのか、という問題は真剣に議論されることの少ない問題かもしれない。次の選挙で勝利するための選挙運動であれば、選挙による民主主義の手続きの枠内の行動になる。代議制民主主義だけが政治の選択肢であるという考え方は、選挙以外の方法で権力を倒すという選択肢の正当性を否定することになる。しかし、そうであるなら、民衆の思想信条の自由、言論表現の自由によって保障されている直接行動の権利は、議会制民主主義の手続きに収斂するような範囲でしか認められないということになりかねない。言うまでもなく、いわゆる民主主義を標榜する国であっても、大衆の「反乱」ともよべる街頭闘争は重要な政治的な効果をもち、権力に影響を及ぼす。投票行動に還元できない行動の可能性を最大限保障することは、政治的な合意形成のひとつのありかたとしての議会制民主主義の結果とも連動する。

二大政党制は、つねに、この二つの政党のうちのよりマシな方を選択することによって、マシではない方が権力につくことを阻止するという方向で、人々の政治への関わりが誘導されてしまう。このどちらによっても実現できない課題は放置されることになる。これに対して、議会制に還元できない大衆運動はその多様性において少数者の意思表示のあり方として必須の条件をなす。

1.4 Anti Capitalism Resistance

以下は、Anti Capitalism Resistanceのサイトに掲載されたPhil Hearse「選挙後の忍びよるファシズム」という記事の紹介である。3

1.4.1 「忍びよるファシズム」の定義

欧米では、極右の台頭から、主流の政治の携行が右傾化するなかで、あからさまなファアシズムというよりも、人々の警戒をかいくぐるように、密かにファシズム的な傾向が政治や社会に浸透しはじめていることへの警戒が強くなっている。

「忍び寄るファシズム理論は、極右が権力に向かって前進するために使っている人種差別的、外国人恐怖症的、反移民的な波に直接対抗する緊急の必要性を左翼や大衆運動に警告するものであり、アメリカでトランプを選出し、イギリスでBrexitを確保するために使われたメカニズムである。本当の危険は、私たちが傍観し、すべては「普通」に戻るという極端な楽観論を採用していることにある。」

トランプが敗北し、バイデンが大統領になれば、これまでの異常な政治が終りを告げ、やっと正常になる、という安堵感がありとすれば、こうした感覚そのものがもたらす気の緩みを著者は警戒する。今回の大統領選挙については、トランプが敗北したことよりも、敗北しても彼が7000万票を獲得し、その支持者たちの熱狂が冷めない現状や、警察内部に強い支持者が存在することを重視する。

「もしトランプ氏がホワイトハウスから引き剥がされた場合、トランプ主義とアメリカの極右は敗北して政治の舞台から追放されることにはとうていならない。7,000万人の有権者は、トランプにとって計り知れない潜在的な基盤である。今後数週間から数ヶ月の間に、トランプが支持者の大規模な集会で演説し、さらなる闘争に備えているのを目にするかもしれない。トランプ主義は、さらに言えば、共和党をいまだにしっかりと握っている。(中略)共和党議会の人々は、トランプと決別する可能性は低いだろう、なぜなら、彼の忠実な大衆基盤は、共和党議員らがトランプから決別すれば、彼らの政治声明を終わらせることができるからだ。」

プラウドボーイズや武装した民兵の大規模な動員といった現象は明かにファシズムといってよいもので、「たとえ彼らが卍ではなく星条旗を敬礼していたとしても」ファシズムとみなすべきだというだ。こうした勢力は、地域の警察の大きな支持を得ておる、その数は何万人にもなる。「彼らはトランプの大衆基盤の重要な一部なのだ」と警戒する。

トランプの支持者は、均質で完成されたファシスト集団ではない。しかし、彼らの多く、何百万人もの人々は、明らかに(ブルジョア)民主主義を弾圧し、それを独裁的な権威主義政権に置き換えることを支持するだろう。」

1.4.2 なぜ居座るのか

大統領選挙でのトランプの敗北がほぼ明かであるにもかかわらず、トランプは執拗にホワイトハウスに居座っており、これを権力への執着とみなす見方もあるが、著者はむしろ、7000万に及ぶ得票という大衆的な基盤に着目すべきだという。

「トランプがホワイトハウスを離れることを拒否したのは、現段階ではおそらく、土壇場でクーデターを起こそうとしているのではなく、選挙が「盗まれた」という感覚をかきたてることで、トランプ主義者の大衆基盤を構築し、固めようとしていることを示しているのではないだろうか。」

一般に議会政治では、投票行動で敗北した側に投票した有権者は、多かれ少なかれ、その結果を受け入れつつ、次の選挙のために政権批判の運動へと軸足を移すが、今回の選挙ではこうした傾向に加えて、選挙の結果を受け入れないトランプ支持の有権者の数があまりにも膨大に存在し、こうした大衆の支持を固めることを目的にして居座りという戦術をとっているのではないか、というのだ。もしそうだとすると、この戦術は、トランプの政権続投という結果をもたらさないとしても、7000万票をとりこむことで国家の分断を回避しようとすれば、バイデン政権は右傾化せざるをえないことになる。

著者はその一例として人工妊娠中絶の問題をとりあげて次のように述べている。

「極右は、バイデンを妨害し、中絶が禁止されている州をバックアップするために、最高裁と上院のその可能性の高いコントロールの制御を使用して、事実上ロー対ウェイド判例(中絶を合憲とした最高裁判決)を破棄するだろう。バイデンはカトリック教徒であり、彼がこれに反対するかどうかはっきりしない。オバマケア(そのすべての制限を持つ)もまた、四面楚歌になる可能性がある。」

バイデンの民主党が形の上では政権にありながら、その実質が「リベラル」とはいいがたい右傾化した政策へと引き寄せられかねない危険性がある。こうした事態がまさに忍びよるファシズムと呼びうるものということができるかもしれない。

Anti Capitalist Resistanceの別の記事もトランプの大量得票を問題視する。4今回の選挙は、民主党の勝利とはいいがたく、投票率はほぼ互角ともいえるもので、投票率がかなり高(約67%)ために、今回は2016年よりも多くのアメリカ人がトランプに投票したことにもなっていることに注目する。そして、このエッセイで次のような疑問を投げかける。

「トランプは、無能者、ナルシスト、連続嘘つきであるという事実。彼はその「人民の男」の行為があからさまなフェイクのダサい億万長者のビジネスマンであるという事実。彼は人種差別主義者、性差別主義者、いじめっ子、女性への虐待者であるという事実。彼が公然と偏見と暴力と他者への侮蔑を扇動し、殺人警官とファシストの民兵を容認しているという事実、23万人のアメリカ人(集計された数字)が彼の否定と過失のおかげでコロナウイルスで死亡したという事実。にもかかわらず、7000万人弱のアメリカ人が彼に投票した。」

私もこの疑問を共有する。一般に、トランプの見えすいた嘘、白人貧困層の境遇に共感などもっていない彼のライフスタイルなど一目瞭然の現実を無視できない数の有権者が、それでもトランプに投票したのかは、きちんとした分析が必要だ。7000万の米国の有権者を、極端に非常識な愚か者だと判断することはできない。たぶん日常生活では常識をもった行動をしているはずの多くの人々の何かがある種の信じがたい投票行動をとったとすればその理由を合理的に解明しなければならない。このエッセイではそこまで立ち入ってはいないが、トランプへの投票で米国の伝統的なリベラリズムや議会制民主主義への大衆的な懐疑がはっきりしたという。

「トランプは日常的にリベラルな議会制民主主義の手続きやプロトコルに違反している。彼はこれを平然とやっているだけでなく、彼の中核的な支持者は積極的にこれを支持し、多くのアメリカ人が消極的に支持を与えている。」

「もしトランプが選挙に負けてホワイトハウスを去ることになれば、ワシントンに潜伏するのではなく、彼の基盤を動員してバイデン政権を包囲し、BLMや他のラディカルな抗議者に立ち向かう可能性がある。

2024年に78歳で大統領候補になるのはあまり信憑性がなく、共和党のボスたちは動き出したいのかもしれない。有権者の忠誠心は圧倒的にトランプにあって共和党にはない。トランプは、1920年代や1930年代のファシズムに非常によく似た、暴力的で人種差別的な大衆運動のリーダーになる可能性がある。この再動員されたトランプの基盤は、中絶、福祉の権利、公民権法制、エスニックマイノリティやLBGT+コミュニティに反対する新たなキャンペーンに活力を与える部隊としても利用される可能性がある。」

1.4.3 現代のファシズムの三つの原因

このエッセイで著者たちは現代のファシズムの特徴を三点指摘する。ひとつは新自由主義による福祉のコンセンサスの解体である。

「戦後の「福祉」コンセンサス–経済成長、完全雇用、強力な労働組合、生活水準の向上、住宅、教育、健康、年金、福利厚生に対する高水準の公的支出に基づく–の崩壊が、合意に基づくブルジョア支配の基盤を大きく破壊したことである。伝統的産業の衰退、恒久的な失業率の低下、停滞した賃金、腐敗した公共サービス、横行する企業権力、そして異常なレベルにある社会的不平等は、制度の正統性の危機を生み出した。ファシズムとは、社会的な怒りが支配階級に向けられないようにするために、スケープゴートに向ける反動的な政治力の組織化である。

いわゆる新自由主義政策と伝統産業の衰退がもたらした不平等の拡大のなかで、大衆的な怒りをなぜ社会的平等を要求する左翼が受け止められず、ファシズムともいえる傾向に屈することになったのかが左翼にとっても重要な宿題になる。

第二に、大衆的な抵抗や異議申し立てを暴力的抑えこむ弾圧体制である。

危機の影響は、社会と政治を二極化させることである。下からの闘争が爆発的に起こる危険性が残っている。このなかでファシズムは、積極的に反革命的な勢力となり、武装した活動家の中核は、意義を唱える者たちに対する警察の弾圧を直接支援し、受動的な反動的大衆は、抵抗する人々への国家暴力のエスカレートに屈服することになる。こうしたことは、今年の夏のアメリカのBLM抗議行動で明らかになった。

この指摘は、前述したように暴力の問題である。警察と極右が連携してつくりだされる抵抗する大衆への暴力だけでなく、この暴力を容認する「受動的な反動的大衆」の存在がこれを支えてしまう。「ファシズムは、積極的に反革命的な勢力」と述べられているが、BLMが革命と呼びうるような社会体制全体を転覆するような勢力となりうるかどうかははっきりしていないし、運動の参加者の意識も「革命」と呼びうるものとはなっていないのではないか。

三番目に指摘されているのが産軍複合体と多国籍企業支配体制の強化である。

第三に、過剰蓄積と過少消費の長期的危機に悩まされている世界資本主義システムの中で、軍産安全保障複合体がますます重要な一翼を担うようになりつつある。軍隊、警察、刑務所、国境、警備員、電子スパイ、データ収集などへの国家支出が増大し大規模化しているということは、システムの中心にある巨大な多国籍企業に有利な契約がなされていることを意味する。」

ここで記述されていることは、その限りではその通りと思うが、このような多国籍企業と軍の融合は、米国では一貫してとられてきた体制であり新自由主義に固有なわけではなく、むしろ20世紀の米国資本主義を通じてみられる。この産軍複合体とファシズムと呼びうるような右翼大衆運動の構造との結びつきについてはより立ち入った検討が必要だと思う。本稿の課題からそれるので一言だけ付言するが、現代のファシズムは、「サイバ=ファシズム」とでも命名できるようなネットの言説の社会化のメカニズム抜きには論じられないと私は考えており、この意味でいえば、IT関連の資本と国策が連動して大衆的なコミュニケーション空間をファシズムと呼びうるような性格のものにする基盤となっていると思う。

1.4.4 分断される労働者階級

左翼の観点からすると、社会的平等の実現にとって、階級的な不平等の問題は最重要の解決されるべき問題とみなす考え方が19世紀からの伝統だ。にもかかわらず、労働者階級の分断がますます顕著になり、階級としての団結も、団結の先に見通せなければならない平等な社会の構想が後退してしまっている。

「労働者階級の組織は、40年間の新自由主義的な衰退によってすでに劣化している。労働組合の組合員数は劇的に減少し、先進資本主義世界の多くの地域では、労働者階級の組織は事実上存在せず、ストライキ率は、特にイギリスでは底をついている。組織化された、闘争的で、階級意識の高い労働者運動である「自己のための階級」のこの急激な衰退は、労働者階級の内部にファシストの前進のための巨大な空間を作り出した。労働者階級は分裂し、ナショナリスト、人種差別主義者、外国人嫌いの勢力–第二波ファシズム–の大衆基盤は、より重く労働者階級的なものになっている。」

現代のファシズムは原子化され、疎外され、それゆえにナショナリズム、人種差別、性差別、暴力、権威主義の極右政治に開放されている労働者階級を通って「染み出す」ファシズム」であるとみる。「戦後すぐの安定した、高給取りの、組合化された仕事から追い出された、年配の、白人、男性労働者階級に訴えている」ということになるが、こうした階層だけでなく若年の白人労働者階級のトランプ支持も無視できないと思う。というのも、大統領選挙で大きな影響を与えたのは、高齢者のアクセスが多い伝統的なマスメディアだけでなくSNSの影響が無視できないからだ。

このエッセイでは、最後に「私たちは、現実を直視しながら、人類と地球の危機は、革命的な組織の危機なのだと言う。だからこそ私たちは、国際主義、エコ社会主義、民主主義、下からの闘い、被抑圧者との連帯に基づいた新しい革命的組織を構築するプロジェクトに身を投じてきたのだ。」と締め括るが、先に紹介したアナキズムの主張と比較するとマクロの社会変革に関心の中心があるという点で、視点の違いがはっきりしているが、しかし、この紋切り型の宣言は正論だから否定はできないが、かといって魅力的とはいえない。

1.5 コメント(階級、エスニシティ、ジェンダー、環境…をめぐる課題)

トランプに無視できない数の白人労働者階級が投票したであろうことはほぼ間違いない。これはヒスパニック系労働者の投票行動と明かな違いになっている。このような結果は、新自由主義がもたらしたものかもしれないが、しかし、もしそうであるなら、より新自由主義による犠牲を強いられたはずのヒスパニックの票がトランプに流れていない理由が説明できない。レイシズムの観点がこれに加わると、階級かエスニシティか、という別の問題群の重要性が浮上し、更にこれにジェンダーの観点が加わると、更に階級闘争の位置づけのありかたへの再検討の必要がはっきりする。新自由主義だけでなく、社会運動のなかで最も長い伝統をもつ労働運動が新しい資本の搾取の構造に対応した運動を構築できなかったという運動の側の主体のありかたへの反省が必要なのではないかと思う。とすれば、「国際主義、エコ社会主義、民主主義、下からの闘い、被抑圧者との連帯に基づいた新しい革命的組織を構築するプロジェクト」がこれまでどうであり、今後どうあるべきかというある種の総括の視点も必要になると思う。

前述したアナキストの分析では、ここで論じられているような資本主義全体の経済や社会構造への批判や組織のあり方についての視点が重視されていない。このことはコミュニティを基盤にする小規模分散型の抵抗運動を重視するのか、それともより組織された全国的(国際的)な運動を指向するのか、という運動の考え方の違いがでてきている。労働者が労働現場で組織され地域での連携を模索することと、これを全国的に繋ぐ上で必要になる最低限の合意形成の方法は、運動のなかの「民主主義」のありかたと関わる問題でもある。この古くからある問題を、ネットやSNSの時代にどのように再構成できるか、はかなり重要な課題になってきていると思う。

2 バイデン政権への左派からの抗議行動が開始されている

すでに、バイデン政権がほぼ確実になっている今、バイデンの政権移行に対して、かなり深刻な危惧を抱きはじめ、行動にでている。とくにバイデンの移行チームのメンバーや次期政権の主要閣僚候補として名前が挙がっている人たちへの批判が噴出している。

2.1 サンダースの支援者たち

選挙運動でサンダースを支援してきた民主党左派とその支持者たちにとってバイデンのお評判は悪かった。(だからバイデンではなくサンダースを支援したわけだが)RootsAction.orgの代表、ノーマン・ソロモンは、サンダースの支持者たちが、バイデンが民主党の正式な大統領候補になった後に、バイデンに投票するための作戦を意識的に展開してきた。5前回の選挙でヒラリー・クリントンを忌避し左派に影響されてトランプが当選した苦い過去があったからだろう。

「私が代表を務めている組織、RootsAction.orgは選挙戦の間、バーニー・サンダースを支援し、バイデンが数十年にわたって企業の強欲、人種的不正、軍産複合体に仕えてきたことを示す文書を広く配布した。

しかし、トランプかバイデンかという選択は痛いほど現実味を帯びている。魔法のような思考は文学的な価値を持っているが、政治の世界では、二項対立の選択肢が出てきたときに現実から逃避するのは妄想であり、危険だ。選挙結果が他人に与える影響よりも、投票に関する有権者の感情に焦点を当てた一種の自己陶酔に陥ることがあまりにも多い。

ノーム・チョムスキーは「バイデンが好きかどうかは関係ない、それはあなたの個人的な感情だ、誰もそんなことは気にしていない」「彼らが気にしているのは、世界がどうなるかということだ。我々はトランプを排除し、バイデンに圧力をかけ続けなければならない。」と最近のビデオで語っている。」

RootsActionのジェフ・コーエンが立ち上げたプロジェクト「Vote Trump Out 」では、「2段階のキャンペーン 」を展開した。「まず、トランプを追い出すこと。そして初日からバイデンに挑戦する…スイング州に住む「左翼の有権者」を説得するのは簡単で、彼らが躊躇しつつもバイデンに投票するように説得するには、我々がステップ2について真剣に取り組んでいることを知ってもらえれば容易なことだ。」

左派はトランプを政権から追い出し、バイデンを政権につかせることを選択しつつ、バイデンに対しもきちんとした抗議運動を展開することを約束することで左派の支持者を動かそうとした。RootsActionが組織したVote Trump Outのキャンペーンでは次のよに呼びかけている。6

「初日からバイデンに抗議

ドナルド・トランプは、真実、良識、私たちの地球に、そして働く人々に戦争をしかけてています。私たちが危惧することからすれば、2020年にホワイトハウスから彼を追い出さなければなりません。

進歩派、左翼として、ジョー・バイデンとの意見の相違を縮めるつもりはありません。スイング州で民主党の候補者を支持することが、トランプを倒す唯一の手段です。そして、私たちにはトランプを倒す道義的責任があります。

もしバイデンが勝てば、私たちはその大統領初日から彼の前に立ちはだかり、人種的、経済的、環境的正義を前進させるような構造改革を要求することになるでしょう。その前にすべきことははっきりしています。今年の11月は、スイング州で#VoteTrumpOutで投票しなければなりません。」

2.2 移行チームのメンバーの問題

バイデンが当確になって以降、政権移行の具体的な準備が進んでいる。しかし、バイデンが組織した政権移行チームのメンバーや閣僚候補に対して、既に多くの批判が出されている。上述したrootsactionのサイトに「バイデンの移行チームには戦争利得者、政権周辺のタカ派、企業コンサルタントがいる」という記事が掲載されている。7

この記事では、「企業コンサルタント、戦争利権者、国家安全保障のタカ派など、目を見張るほどの数の企業コンサルタントが、ジョー・バイデン次期大統領によって、彼の政権のアジェンダを設定する機関の審査チームに任命された。」として移行チーム一人一人の経歴を紹介している。以下、その一部だけを紹介する。

  • リサ・ソーヤー。彼女は2014年から2015年まで国家安全保障会議でNATOと欧州戦略担当ディレクターを務め、ウォール街のJPMorgan Chaseでは外交政策アドバイザーを務めた。ソーヤーは、Center for a New American Securityの「米国の強制的な経済政策の将来に関するタスクフォース」の一員であり、米帝国への屈服を拒否した国を不安定化させるために使われる可能性のある経済戦争の会議に参加。「ソーヤーは、米国政府はロシアの「侵略」を抑止するのに十分なことをしていないと考えており、欧州の米軍は2012年のレベルに戻るべきであり、ウクライナへの攻撃的な武器の輸出は増加すべと考えている。」
  • リンダ・トーマス・グリーンフィールド。米国務次官補(アフリカ問題担当)。バイデン・ハリス国務省チームのリーダーに任命。「彼女は、リビアでの戦争を推し進め、イラク侵攻を支持し、ルワンダの大量虐殺を可能にした国連の平和維持要員の解任決定に関与したスーザン・ライス元米国家安全保障顧問の揺るぎない味方」
  • トーマス・グリーンフィールド。 「マデリン・オルブライト元国務長官が会長を務める世界的なコンサルティング会社、オルブライト・ストーンブリッジ・グループの一員として、防衛産業のためのロビー活動」
  • ダナ・ストロール。国務省のグループに参加し、「新保守派のワシントン近東政策研究所(WINEP)のフェロー」「ストロールは2019年に上院民主党からシリア研究グループに参加し、シリアでの米国の汚い戦争の次の段階を構想するために参加した。提言には、米国が 「政治的結果に影響を与える 」ための梃子を与えるために、「シリアの資源が豊富な部分 」である同国の3分の1の軍事占領の維持が含まれていた。」
  • ファルーク・ミタ。オバマ政権の元国防総省職員。国防総省移行チームに任命。「イスラエルロビーとのつながりを育んできたイスラム系アメリカ人のPAC(Public Affairs Committee)であるEmgage( https://emgagepac.org 訳注)の役員を務めており、パレスチナ連帯の支持者から怒りの非難を浴びている。」

このリストはもっと続くのだが、彼らのかなりの部分が、オバマ政権時に米国政府で働いていた。特に外交政策について、バイデン政権が進歩的な方向をとると信じてきた人々にとっては落胆せざるをえない人選になっているという。

また、In These Tomes(古くからある左派系の新聞)にサラ・ラザレが「次期大統領は武器会社が資金提供するタカ派的なシンクタンクから引き抜いている。」(2020年11月11日)という記事のなかで次のように述べている。8

「国防総省の機関審査チームを構成する23人のうち、8人、つまり3分の1強が、兵器産業から直接金を受け取るか、兵器産業の一部でもある組織、シンクタンク、または企業での「最近の雇用」にリストアップされている」という。これらの企業には、レイセオン、ノースロップ・グラマン、ゼネラル・ダイナミクス、ロッキード・マーチンが含まれる。」

バイデンになってもやはり米国が構造的に有している政府と軍需産業の癒着は維持されたままだ。

なかでも、国務長官候補、アントニー・ブリンケンと国防長官候補、ミケーレ・フローノイへの批判は厳しい。バイデン次期政権の国務長官候補とされるアントニー・ブリンケンは、米国の戦争遂行に深く加担し、また武器輸出にも関わってきた軍国主義者であると批判されている。9 更に、国防長官候補のミケーレ・フローノイについては、CodePink, Our Revolution, Progressive Democrats of America, RootsAction.org, World Beyond Warなど運動体から連名で、11月30日に国防長官就任反対声明が出されている。10この声明では「私たちは、ジョー・バイデン次期大統領と米国の上院議員に、好戦的な軍事政策を擁護してきた歴史にとらわれず、兵器産業との金銭的な結びつきがない国防長官を選ぶよう強く求める。ミシェル・フローノイはこれらの資格を満たしておらず、国防長官としては不適任である。」として、具体的にこれまでいかに好戦的な外交に加担し、また兵器請負会社ブーズ・アレン・ハミルトンBooz Allen Hamiltonの取締役を務めるなど民間軍需関連企業で働いてきたのかを指摘して次のように結論づけている。

アメリカ国民は、兵器産業に縛られず、軍拡競争を終わらせることを約束する国防長官を必要としている。ミシェル・フローノイは国防総省の責任者になるべきではないし、他の者でもその資格を満たしていない者はなってはならない。私たちは彼女が指名されることに反対する。そして、私たちは、すべての上院議員が彼女が承認されないよう要求する多数の有権者からの声を屆けることができる大規模な全国的な草の根キャンペーンを開始する準備ができている。

ちなみにフローノイは東アジア外交について、今年6月にForeign Affairs11に「アジアの戦争を防ぐには―アメリカの抑止力の衰退が中国の誤算リスクを高める」と述べ、東アジアでの米軍の存在感を増す必要性を強調している。しかもこの米国の軍事力は、従来の軍に加えてサイバー領域での存在感の構築が強調されており、こうなると一般市民も利用するネットワーク全体が軍事化と安全保障の枠組で監視される危険性を招くよせることになる。

「全体的な作戦原則は「基地ではなく場所」に基づくべきである。内輪の範囲内では、中国の計画を複雑にするために、軍は潜水艦や無人の水中ビークル、遠征用航空部隊、緊迫した一時的な基地の間を移動できる機動性の高い海兵隊や陸軍部隊など、より小型で機敏な部隊パッケージにますます依存すべきである。また、安全保障協力に対してより戦略的なアプローチを取ることも不可欠であり、米国の同盟国やパートナーが抑止力に何を貢献できるかを評価し、それぞれのために複数年の安全保障協力計画を策定することも必要である。」

基地ではなく場所、という文言は一見すると辺野古に象徴されるような米軍基地建設に消極的にみえるが、実は逆であって、地域全体を軍事安全保障のシステムに組み込むこと、空間的な軍の自由で機動的な展開をより強化すべきだ、と主張するものだ。バイデン政権は、トランプ政権とは異なって平和主義ではないかとの根拠のない期待を抱くべきではない。

3 暫定的なまとめ

国民国家の選挙制度が、多くの外国籍の住民たちを排除していること、一国の政治に利害をもつ世界の多くの人々に選挙への参加の権利がないこと、制度そのものが多くの不公正や不平等を内包しているであろうことはこれまでも指摘さてきた大問題だが、ここでは、これらについては言及する余裕がない。また、米国の選挙が、共和党と民主党という二者択一の選択肢しかなく、文字通りの意味での左翼の政治勢力が、議会内左翼としてすら存在する余地がない、という極めて偏った政治体制であることもこれまで何度も指摘されてきているのでここでは言及しない。

上記のことを別にして、最大の問題は、トランプが敗北したことを喜べるような状況ではない、ということだろう。その理由はいくつかある。

  • 総得票の半数近い票を獲得し、前回よりも多くの支持を集めたこと。
  • 事実による主張が有権者にとって候補者選択の評価にならなかったこと。よく言われるように「ポスト真実」などと呼ばれる事態が実際の政治過程に大きな影響を与えたこと。
  • 労働者階級の分断が鮮明に示され、「階級」に基く闘争を基本に据えてきた伝統的な左翼や労働運動がこうした状況をどのように総括するかが問われているということ。

これらの原因がどこにあるのかを解明することが重要な課題になる。

上の「理由」だけでなく更に根本的に議論すべき問題がある。

果して選挙による民主主義は、最適な結果を生むシステムなのだろうか。民主主義を支える法の支配の根幹をなす憲法は、本当に民衆の権利を保障するものといえるのか、という問いが更に必要になる。この制度が正義や公正な権力を生み出す上で、最適な方法だという前提で政治と権力について議論してよいのかどうか、が改めて問われている。この問いは、米国に限らず、どこの国の代議制民主主義についてもいえる問題ではないか。日本の場合も、安倍政権への左翼や市民運動からの長年にわたる批判がありながら、政権は長期維持され、左翼の主張が多数を占めるような影響力を持ちえないままだ。大衆は間違った選択をすると安易に言うことは、大衆蔑視になるか左翼の権威主義になりかねない。たぶん、「ポスト真実」の時代に、なぜこうした時代になってしまったのか、なぜ真実よりも人々がフェイクを支持するのかを、正しさの視線からだけで判断するという方法そのものが妥当性を欠いているのだと思う。

どこの国にもある種のナショナルな「神話」がある。米国の「神話」はエスニックマイノリィが重層的な人口を構成するなかで、複数の神話が相互に干渉しあって摩擦を起こしているようにも思う。日本の場合、戦前の現人神神話の時代に、ほとんどの「日本人」がこのフェイクを「信じ」て自らの命を捨て、多くのアジアの民衆の命を奪ったという出来事を単に、真実と虚偽という二分法に頼っては理解できないだろう。同様のことはナチスのユダヤ人ホロコーストを正当化する過程についてもいえる。いずれも膨大な数の虚偽のテキストと言説が生む出された。今からみれば荒唐無稽な世界観や偏見を圧倒的に多くの人々が正義の証と「信じ」て受け入れたのだ。近代科学や合理主義が支配的な社会においてこうしたことが起きた歴史をほぼどこの国ももっている。この点を踏まえるとトランプのアメリカで表出した「ポスト真実」は新奇な現象ではなく、たぶん近代社会が合理主義の裏側で一貫して維持してきた神話の構造に由来するとみるべきではないか。この神話を再生産する根源にあるのは、様々なナショナルなアイデンティティであるとすれば、これは資本主義にとって本質的なことといわなければならない。

そうだとすれば、民主主義的な合意形成が科学や真実に味方するとは限らないということも明かではないだろうか。とはいえ、この時代になってなぜあらためてこうした「神話」が政治的な力をもってしまったのか。そのひとつの原因は、インターネットの普及によって一人一人が不合理な心情(信条)を不特定多数に発信することが可能になった結果として、これまではごく私的な領域でしか流通していなかった荒唐無稽な陰謀論のたぐいが流布する基盤を与えられたのかもしれない。とすれば、なぜ無視できない数の人々がこうした陰謀を信じるのか、という問題に立ち戻ることになる。米国でいえば、建国の神話や聖書の言説などの「神話」がその土壌を形成してきたのかもしれない。

こうなると私たちにとっての政治的な言説の場が再度「正しさ」をとりもどすには、こうした一連のフェイクを生み出す社会的な基盤との闘いなしには、実現できないということになりそうだ。

上述の点を踏まえて、再度代議制民主主義の問題を考えてみると、選挙そのもののプロセスが文字通りの意味での政治的言説の内実を伴う討議の空間を構築することなど全くできていないことに思いあたる。政治学の教科書や、議会政党が選挙と民主主義に与えている理念と、実際の選挙で起きている事態とはほとんど何の接点もない。選挙運動は、有権者に投票所に行かせて投票用紙に候補者の名前や政党の名前を書かせるためのテクニカルなプロセスであり、主要な関心は政治ではなく政治家の名前、政党の名前である。しかも政治家の名前が政治の内実を指し示す記号になっているならいざしらず、それもない空虚な記号である。この問題は実は極めて深刻な議会制民主主義の腐敗を示している。これに対して理想論を掲げることはほとんど意味をなさない。なぜなら、「名前」で投票するというシステムそのものが民主主義の実質を壊死させる原因になっているからだ。なぜ名前なのか、名前に政治の実体などないことになぜ気づかないのか。選挙で名前を書くという行為そのものがもつ空虚な行為が、逆に「ポスト真実」のような真実でないにしても意味が充溢した言説へ人々が魅かれる原因を作っているとはいえないだろうか。

Author: 小倉利丸

Created: 2020-12-07 月 18:16

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ワクチンナショナリズム?希望という名の不治の病

以下は、Vijay Prashad、”Vaccine Nationalism? An Incurable Disease Called Hope”の飜訳です。カナダの社会主義左翼のサイト、The Bulletに掲載されたもの。特に注目しなければならないのは、ワクチンの貧困地域への供給に不可欠な知的財産権の放棄を、日本政府を含む先進諸国が反対し、ワクチンを独占しようとしていることだ。日本のメディアも日本の人口に対してどれだけのワクチンが確保できるかにしか関心をもたない報道を繰り返し、ワクチン開発競争で特許が設定されることがあたかも技術の優秀性の証であるかのようにしかみなしていない。オリンピックを目標にワクチンの世界規模での普及を望むかのようなポーズをとりながら、実際に日本政府はじめ先進国政府がやっていることは、自国民優先の自民族中心主義という隠されたレイシズムだ。この問題は日本に住む者として、深刻に受けとめなければならないと思う。あわせてこのエッセイの最後に言及されているパレスチナの深刻な状況も見逃せない。(小倉利丸:訳者)

(追記)ワクチン・ナショナリズムについては日本でも報道がいくつかあります。(12月11日)

Harvard Business: Reviewワクチン・ナショナリズムの危険な落とし穴(6月22日)

時事通信:【地球コラム】「ワクチンナショナリズム」の醜悪(8月30日)

NHK:「世界に広がる『ワクチン・ナショナリズム』」(時論公論)(9月9日)


ワクチンナショナリズム?希望という名の不治の病

2020年12月4日 – ビジェイ・プラシャッド

世界の負債総額は現在、2019年から15兆ドル増加し、277兆ドルという天文学的な水準に達しています。この金額は世界の国内総生産の365%に相当する。債務負担は、コロナウイルスのデフォルトが始まっている最貧国で最も高く、ザンビアのデフォルトは最も最近のものだ。G20 債務サービス停止イニシアチブ(G20 Debt Service Suspension Initiative)や国際通貨基金(IMF)の COVID-19 金融支援・債務救済イニシアチブ(COVID-19 Financial Assistance and Debt Relief initiative)など、債務サービスの支払いを停止するための様々なプログラムや、様々な援助プログラムは、全く不十分だ。G20 のパッケージは、多くの民間および多国間金融機関を協定に参加させることができなかったため、債務支払いの 1.66%しかカバーできていない。

債務負担は、特にコロナウイルスの不況下では、債務を返済する能力がない国にとっては壊滅的なだけである。先月、UNCTAD のステファニー・ブランケンバーグは、トリコンチネンタル社会研究所に対 して、「最も脆弱な開発途上国における債務の帳消しは避けられず、誰もがこれを認識して いるが、問題はこれがどのような条件で実現するかだ」と語った。

IMF は、金利が一般的に低いため、各国に借金をするように促している。しかし、このことはもう一つの重要な問題を引き起こしている。パンデミックの影響の違いが示しているのは、十分な装備をもった保健労働者の数を含め、堅牢な公衆衛生システムを持つ国の方が、公衆衛生システムを使いつくした国よりも感染の連鎖をうまく断ち切ることができたということである。このことは政治的に広く認識されている事実であるため、各国は新しい資金のうち、より多くの資金を公衆衛生システムの再構築に費やすべきである。しかし、これは現実にはこうしたことは起こっていない。

ワクチンナショナリズム?

現在、ファイザーとモデナの2つのm-RNAワクチン、ガムレヤのスプートニクVとシノバックのコロナバックを含む、様々な企業や国からワクチンの候補が出てきていることは、歓迎すべきニュースだ。これらのワクチンや他のワクチン候補からの報告は、ポジティブな結果を示しており、COVID-19に対する何らかのワクチンがすぐにできるのではないかと期待されている。科学者たちは、民間の製薬会社の主張に注意を払っている。その中には、ワクチンが感染を防ぐかどうか、死亡率を防ぐかどうか、感染を防ぐかどうか、そして最後に、どのくらいの期間保護されるのかなどの疑問が含まれている

ワクチンナショナリズム」がワクチンの開発をめぐる希望を蝕んでいるのを見るのは落胆させられる。世界人口の13%を占める富裕国は、すでに34億本の潜在的ワクチンを確保しており、それ以外の国は24億本のワクチンを事前に発注している。人口7億人の最貧国は、ワクチンの契約を結んでいない。これらの国々は、世界保健機関(WHO)、ワクチンアライアンス(GAVI)、疫病対策イノベーション連合(CEPI)の協力のもとに開発されたコバックスワクチンに依存している。コバックス社は約5億回分のワクチンを確保する契約を結んでおり、これは2億5000万人分のワクチンを接種するのに十分な量であり、最貧国の人口の約20%をカバーすることになる。対照的に、米国は単独で人口の230%をカバーするのに十分な量のワクチンを購入する契約を結んでおり、最終的には18億ドーズ(世界の短期的な供給量の約4分の1)を管理することができる。

インドと南アフリカは、COVID-19の予防、封じ込め、治療に関連した知的財産権の放棄について、世界貿易機関(WTO)に合理的な提案をしている。これは、知的財産権の貿易関連側面に関する協定(TRIPS)の停止を意味する。貧困国のほとんどは、パンデミックの間、医薬品や医療製品への公平で手頃な価格のアクセスを主張しており、WHOはそのTRIPS評議会でこの提案を支持してきた。この提案は、米国、英国、日本、ブラジルによって反対されている。彼らは、パンデミック期間中の知的財産権の停止はイノベーションを抑制するという幻想的な議論をしている。実際には、数社の大手ワクチンメーカー(ファイザー、メルク、グラクソ・スミスクライン、サノフィ)がワクチンの開発を独占しており、その多くは公的補助金を使って製造されている(例えば、モデルナはワクチンの開発に24億8000万ドルの公的資金を受け取っている)。医薬品のような分野でのイノベーションは、公的資金で行われることが多いが、民間企業が所有していることが多い。

5月14日、140人の世界の指導者たちは、すべての試験、治療、ワクチンを特許フリーとし、ワクチンを貧しい国にコストをかけずに公平に分配することを要求する公約に署名した。中国を含む数カ国がこの取り組みに参加している。この考え方は、1つまたは複数のワクチンの処方を公開サイトにアップロードすることで、政府は公共部門の製薬会社にワクチンを無料または手頃な価格で配布するように指示することができ、または民間部門の企業がワクチンを製造し、手頃な価格で提供することができる。生産を多様化する必要があるのは、世界中にワクチンを輸送するのに十分な冷凍配送能力がないからだ。過去50年間、IMFは各国に公共部門を民営化し、一握りの多国籍製薬会社に頼るように押し付けてきたため、公共部門の製薬能力の問題は非常に切迫したものとなっている。この文書に署名した各国政府の首脳は、この傾向を逆転させ、公的部門の医薬品生産ラインを再構築する時が来たと述べている。

このままでは、2022年末までに世界人口の3分の2がワクチンを手に入れることはできないだろう。

人民のワクチン?

「ワクチンナショナリズム」と「人民のワクチン」の間の争いは、借金や人間開発の広大な領域をめぐる北と南の戦いを反映している。貴重な資源は、ウイルスの感染の連鎖を断ち切るための検査、追跡、隔離のために使われなければならない。それらは、何十億人もの人々に2回分の注射をする必要があるであろう医療専門家の訓練を含む公衆衛生インフラの構築のために使われなければならない。また、収入支援食糧供給、家父長的暴力の影のパンデミックに対する社会的保護など、人々の当面の救済のために使われる必要がある。

ワクチンについてヨゲシュ・ジェインやプラビル・プルカヤスタのような医師や科学者と話をしていると、マフムード・ダーウィッシュが2002年にパレスチナを訪問した際に、ウォール・ソウィンカ、ホセ・サラマーゴ、ブレイテン・ブレイテンバッハなどの作家のために企画した、希望についてのこのような瞑想で彼らを迎えたことが思い出された。

「私たちは不治の病にかかっている。解放と独立の希望。私たちが英雄でも犠牲者でもない普通の生活への希望。子供たちが無事に学校に行けるように。妊婦が病院で生きた赤ちゃんを産み、軍の検問所の前で死んだ子どもを産むのではなく、生きた赤ちゃんを産むことを希望します。」

11月29日は、パレスチナ人と連帯する国際デーだ。私たちトリコンチネンタル社会研究所は、解放を求めるパレスチナの人々の闘争への愛と連帯を確認する。私たちは、Khitam Saafin(パレスチナ女性委員会連合の会長)とKhalida Jarrar(パレスチナ解放人民戦線のリーダー)を含む、すべてのパレスチナ人政治犯の解放を求める要求を記録に残したい。イスラエルがパレスチナ人を投獄している刑務所では、COVID-19の壊滅的な発生が確認されている。

Human Rights Israelの医師たちは、ランセットに「占領されたパレスチナの領土でCOVID-19を戦う」という短いメモを書いた。彼らは、献身的なパレスチナの医療従事者の努力を、「パレスチナの医療システムが直面している特異な制限によって妨げられている 」と記述している。これには、東エルサレム、ガザ、西岸の分離、「イスラエルが課している制限」、そしてパレスチナ人全体の投獄ともいえる状態が含まれる。西岸と東エルサレムの300万人のパレスチナ人は、人工呼吸器付きの集中治療ベッドが87床しかない(ガザの200万人のパレスチナ人はもっと少ない)のに、イスラエルはパレスチナ人に水と電気の危機を強制しているのだ。

状況は悲惨である。闘争と希望は、その解毒剤だ。

この記事はThe Tricontinentalのウェブサイトに最初に掲載された。

Vijay Prashadはインドの歴史家、編集者、ジャーナリスト。 Red Star Over the Third World(LeftWord、2017年)の著者であり、 LeftWord Booksの編集長。最新刊はエヴォ・モラレス・アイマが序文を寄稿しているWashington Bulletsがある。

https://socialistproject.ca/2020/12/vaccine-nationalism-incurable-disease-called-hope/

付記:下訳にhttps://www.deepl.com/translatorを使いました。

学術会議と憲法あるいは学問の自由について

以前このブログに書いた学術会議への批判に対して、いくつか批判をいただいた。批判のひとつひとつについて逐一答えるというよりも、前回のブログで書けなかったことを書くことで、たぶん私の答えになると思う。

(1)学術会議と憲法の学問の自由について

菅による学術会議のメンバー任命拒否が、憲法の学問の自由の侵害だという主張がある。しかし、まず学術会議という組織は憲法の学問の自由とどのような関係にあるのかをみるべきだろう。学術会議は、憲法の学問の自由の権利を擁護し、この自由の枠組みに対する政府による介入から学問の自由を防衛するような役割を担うものとなっているのだろうか。

そもそも学問の自由とは何か、について憲法では最小限のことしか語っていない。この最小限の規定しかされていないことが実は自由にとって本質的に重要な意味をもつ。学問の自由は憲法23条に独立した条文として掲げられている。

第23条 学問の自由は、これを保障する。

いわゆる「国民の権利」の諸条文、12条、13条、22条、29条はいずれも「公共の福祉に反しない限り」など「公共」の制約が明記されているが、23条は19条、20条、21条とともに、この限定がない。「国民の権利」に関する条文は、意図的に「公共」という制約を課した条文と、この制約を課していない条文とにはっきり分れている。

23条に「公共の福祉に反しない限り」といった制約がないということを積極的な意義としてとらえる必要がある。このシンプルな条文のシンプルさは非常に重要だ。憲法学者や政治学者の議論は別にして、この国の為政者たちが「公共」を国益と同義とする現実は特殊なことではなく資本主義社会の権力のあり方一般にみいだされる傾向である。この国益=「公共」の支配的な用法を前提にして言えば、学問の自由や21条の集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由が、「公共」という制約のない条文になっているという意味は、国益=「公共」に反することがあってもよい、ということが積極的に含意されているとみなければならないだろう。そうでなければ、そもそも「公共」という文言を意図的に外した意義が失なわれる。とすれば、問題は、どのように「公共」から逸脱すべきなのかということになるが、言うまでもなく、国家が規定する「公共」に反しつつも、そのほかの憲法が保障する自由の権利と抵触すべきではなく、より積極的に言えば、これら自由の権利を拡張するような性質のものとして、学問の自由は権利として保障されるべきだ、ということでなければならないだろう。ヘイトスピーチやレイシストが言論の自由などをもちだしたり、あるいは学問の自由を口実に軍事安全保障や自由を抑圧する監視技術の研究を行う自由の主張は、自由の本来の意味には含まれない。個人としての尊重と、人種、信条、性別、社会的身分又は門地、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を肯定しない社会的平等としての自由のための学問の自由であって、だからこそ、自由と深く関わる領域で制度や組織を置くことは自由の防衛になるとは必ずしもいえないのであって、むしろ、個々の研究者が組織や制度に依存することなく、政府が支配的なイデオロギーとして掲げる「公共」に抗う権利を行使できることこそが学問の自由にとって重要な意味をもつものだと言わなければならない。

同時に、自由という概念と、憲法すらそのなかに含まれる統治の規範や制度は、どのようなものであれ自由を制約する、ということも忘れられがちだ。絶対自由というものがありうるとすれば、一切の制度や規範が存在しない状態でなければ可能とはいえないが、こうした意味での絶対自由は、人間が社会を構成せざるをえない以上、少なくとも私の想像できる範囲では、実現不可能だ。制度や規範は人間の集団にとって不可避である。しかし、そうだとして、自由との関係でいえることがあるとすると、最大限の自由を確保するためには、規範や制度は少い方がいい、ということになる。資本主義社会では、新自由主義を規制緩和だから規範や制度を削減する「自由主義」的な発想だと見なすが、これは間違っている。新自由主義は国家の制度を市場の制度に置き換える立場であって、制度や規範の縛りが「減る」わけではなく、国家の代りに市場が人々の自由を縛る、自由を縛る縛り方が変るだけのことだ。

さて学術会議だが、学術会議もひとつの制度であり、上の原則を当てはめれば、存在するより存在しない方が自由の幅は拡がる、ということになる。しかし、本当に存在しない方が自由の幅を拡げることになるのだろうか?このことを検証するためには、学術会議のルールと学術会議がやってきたことを検証しなければならないだろう。学術会議が権利として憲法が保障する自由の権利を拡げる役割を果してきたのだろうか。前に書いたように、少なくとも、私自身の利害に関することでいえば、学術会議は、私の教育と学問の自由とはあいいれない立場をとった「大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準」(以下参照基準と書く)を文科省に提出したという点だけでも、私個人にとっては学問の自由を制約する組織だと言わざるをえない。

(2) 学術会議は学者の「国会」ではない

私が参照基準問題を重視するのは、単に、私個人の問題というわけではないことは前にも書いたが、そこに書かなかったことを補足したい。参照基準が決定されて文科省に提出されるプロセスそのものに問題があったと思うのだ。参照基準は全ての大学教育に利害関係のある人々に関わる問題である。にもかかわらず、私の知る限りでは、参照基準の決定にこうした利害関係者の合意をとるという手続きがとられたことはない。

大学教育の利害関係者とは、大学で教育を担当する常勤、非常勤を問わず、すべての教員、研究者、職員を意味するだけでなく、あえてネオリベラリスト風に言えば「教育サービス」の受益者でもある学生もまた重要な利害関係者であることは言うまでもない。大学教育のカリキュラムはこうした人々全てに関わる問題であるにも関わらず、圧倒的多数の教員と全ての学生がこの参照基準の議論に関与しておらず、合意形成の枠組のなかにもいなかった。

「朝日新聞」10月1日では

「日本学術会議は、人文・社会科学や生命科学、理工など国内約87万人の科学者を代表し、科学政策について政府に提言したり、科学の啓発活動をしたりするために1949年に設立された。「学者の国会」とも言われる。」

というふうに学術会議の性格を規定している。NHK10月2日の報道も「「学者の国会」日本学術会議 6人の任命求め総理宛に文書提出へ」という見出しだ。しかし、学術会議を国会にたとえることが妥当なような選考方法は、法律にも下位の規則などでにも規定されていない。朝日は87万人というが、このなかには誰が含まれているのか、どのようにして代表を民主的に選考していうのか、といったことを理解して書かれた記事なのか。後に再度言及するが、代表選考にふさわしい選出方法にはなっていないと思う。このように書くと、学術会議を政権の思いのままにしたい菅政権や学術会議批判を繰り返す右派メディアやネトウヨの思う壺だと思う人たちもいるだろうが、わたしはそうは思わない。彼らは文字通りの意味での利害関係者全体による合意形成の民主主義など欲していないからだ。しかし、他方で、文字通りの民主的な手続きをとれば政権に批判的で民主的な研究者が選ばれるとも思わない。大学全体が保守化して企業や政府とのパートナーシップを積極的に受けいれる体質が強くなっているなかで、むしろ逆になる可能性のほうが高いが、そうした政権や保守派に有利な状況であっても官僚のコントロールが難しい民主主義を政権は好まないと思う。こうした問題も含めて、学術会議が文字通りの意味で学問の自由、市民運動や左派の目指す社会の実現に寄与するような団体であるのかどうかという評価を棚上げにして、任命拒否の一点に焦点を絞る運動方針を市民運動の方針とはしてとってほしくないと思う。むしろ、産官学一体化に学術、研究を包摂するための装置となってきた学術会議への批判的な評価をきちんと出すべきだと思う。学術会議の一部には私にとっても共感できる研究もあることを承知している。しかし、こうした「リベラル」な研究が学術会議という枠組みのなかに位置づけられることによって、逆に学術会議がリベラルを装うイデオロギー装置(文化のヘゲモニー装置と言う方が妥当かもしれない)として機能してしまい、リベラルを巻き込みながら、保守的あるいは政権寄りの学術研究政策の正統性を支えてしまうことになっているとも思う。「リベラル」な研究が学術会議のなかになければ実現できないわけでもなく、市民向けの社会教育ができないわけでもない。

常勤の教員ですら、学術会議のガバナンスの民主主義的な関与が不明確と私は思うが、そうであれば非常勤の教員はますます学術会議への関与の回路は閉ざされている。そして学生については学術会議はおろか今に至るまで大学の教育に対して「教育サービス」の受益者としての権利(消費者の権利といってもいい)すら獲得しえていない。教育の基盤を支える職員なしに教育と研究ができるわけもない。大学教育の直接の利害関係者の参加ができていない反面、菅政権が学術会議を批判するときには、民間研究機関などの研究者の参加を促すことが主眼であって、ガバナンスの民主主義的な意思決定には後ろ向きだ。

上述したように、ガバナンスが民主的になろうが、政府からの独立性が担保されようが、自由の本質からすれば、学術会議という組織の存在は自由を狭めるものでしかない。どのように合意形成が民主的に制定されようと、独立の装いのもとで、実際には一人の研究者、教育者としての自由を制約するような活動をせざるをえない限りは、学術会議は自由を制約する組織でしかない、とみなさざるをえない。

(3) 学術会議の独立はどのような選択肢をとっても不可能であり、かつ個々の研究者にとっては不必要でしかない

学術会議法3条に「日本学術会議は、独立して左の職務を行う」とあり、これが学術会議の独立性を法的に定めたものとして、政府の介入を不当あるいは違法とする根拠とみなされているように思う。しかし、個々の研究者、教育者の独立性を権利として保障するものにはなっていない。4条では、政府の諮問、5条では政府への勧告が定められており、これらの条文が「独立」の意味を制約している。独立しつつも政府との関係のなかで仕事をする機関という位置づけになっているのだ。

実は、そもそも学術会議法の前文が問題である。前文は次のようになっている。

「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」

いいことが書かれていると誤解されそうな文言だが、「科学が文化国家の基礎である」などという文言は受け入れがたい。私の研究も教育も「文化国家の基礎」としての科学という枠組みのなかにはないし、そうあるべきとも思わない。この前文では、科学は、もっぱら文化国家の正統性のために奉仕することが想定されており、このこと自体が、個々の教育者、研究者の自由を縛るものであり、民衆のための科学という観点が皆無だと思う。また、「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献」するなどという文言は、歴史的にみても、口当たりのよい内実の伴わない文言だとは理解されずに国策に従属する研究者を排出するための口実につかわれてきた、と思う。資本主義の日本が平和復興や人類社会の福祉に貢献できる体制だという前提を置くこと自体に疑問を持つことが学問の自由の基本だと私は思う。前文のような口当たりよく聞こえがいいが国家を中心に据える文言が、個々の研究者、教育者の自由を縛り、国益に従属させるものになってきた思う。

「平和」を否定するのか、と言われそうだが、平和という言葉ほど平和から遠い言葉はないとつくづく思う。「平和維持軍」のような平和と軍がひとつの熟語のなかに共存していたり、核の平和利用としての原発の容認(これが学術会議の伝統的なスタンスだ)とか、人道的介入という名の武力行使とか、現実の戦争や軍事安全保障がいかに平和を乱用してきたか、ということは経験済みではないかと思うのだ。研究者がまず疑問に付すべきなのは、このような紋切り型の「平和」とか「文化」とか「国家」を科学によって正当化しうるかのような言説そのものである。国家が科学によって基礎づけられたことなどあったためしがない。同様に文化も科学によって基礎づけられることなどありえない。国家も文化も、そして「文化国家」なる奇妙な概念も、いずれもが多かれ少なかれイデオロギー装置なしにはその正統性を維持・再生産できないということを考えれば明らかなように、「科学」は不合理で科学的に説明しえない権力の正統性をあたかも論理的に説明しうるかのように偽装するために利用され、その結果として、研究者も教育も国策に利用されてきたし、今もそうだ。このような前文に学術会議がどれほど規定されているのかはまた別の問題であるにしても、こうした理念そのものが学問の自由を縛るものだと思う。

そして前文にある「科学者の総意の下に」という文言が、たぶん今回の任命騒動でも問題にされるべきことだと思う。「総意」の確認手続きがどのように担保されているのか、私には理解できない。参照基準のように教育の内容にまで踏み込むのであれば、その利害当事者をきちんと合意形成に含めるべきだろうし、総意というのであれば、内閣総理大臣の任命以前に科学者の総意を確認する手続きをとるようなルールが存在しなければならないと思う。市民運動は、「総意」に含意されている内実をきちんと原則に沿って確認することから政権の対応を批判してほしいと思う。「総意」問題は組織のガバナンスと民主主義にとっての死活問題で、このことは市民運動が組織の意思決定の民主主義をどれだけ重要な問題とみなしているかの試金石だと思う。ここで右翼や政権に足を掬われることを危惧して沈黙してはいけないと思う。

現行の学術会議が政府機関と位置づけられていることへの批判として、文字通りの独立機関にすべきだ、という意見がある。たとえば東京新聞12月4日は井上科学技術担当大臣の発言を報じている。

「井上信治科学技術担当相は4日の記者会見で、日本学術会議について国からの切り離しを求めたことについて「各国のナショナルアカデミーが独立した形をとっており参考にしてほしい」と述べ、海外の事例を参考に会議側に検討を要望したことを明かした。一方で「日本のナショナルアカデミーとしての機能を維持したい」との会議側の要請については「私も賛成だ」とし、その機能を維持した上で切り離しを模索するよう求めたとも話した。」

私はいかなる意味での独立、切り離し論にも反対だ。いわば民営化のような措置だが、学術会議が民間機関化すれば必ず、学術会議は映倫のような自主規制組織になり、なおかつ国の機関ではないために、人々の権利の及ばない組織になる。独立化によって、ますます一般市民であれ利害関係者であれ、民主主義的なコントロールの及ばないブラックボックスとなるから、容認できない。他方で、現状のような国の機関という位置付けであれば、政府の直接の影響を免れることはほぼ絶望的だと思う。いずれであっても、政府は、教育と研究を支配するための文化的なヘゲモニー装置として学術会議に対する権力作用を維持できるだろう。

自由のためには制度は少ない方がよく、代替の制度も不要だという自由の原則からすれば、学術会議はなくした方がよく、それ以外の選択肢は思いつかない。その結果として大方の研究者や学生が不便であったり自由を侵害されることにはならない。そもそも圧倒的多数の研究者や学生にとっては意思決定に参加できる回路が存在しないのだから。

(4) 学術会議の提言と現実の間の乖離

日本学術会議の意義として引き合いに出されるもののひとつに2017年に出された「軍事的安全保障研究に関する声明」がある。たった1ページの簡素なものだ。冒頭で

「日本学術会議が 1949 年に創設され、1950 年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、また 1967 年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。近年、再び学術と軍事が接近しつつある中、われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究、すなわち、軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。」

と宣言し、より具体的には防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」への危惧が表明されている。

「防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015 年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い。学術の健全な発展という見地から、むしろ必要なのは、科学者の研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。」

この学術会議の声明は実際には効果を発揮していないと思う。防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に対しては今年度120件もの応募があり、21件が採択されている。この制度は「防衛技術にも応用可能な先進的な民生技術、いわゆるデュアル・ユース技術を積極的に活用することが重要」として設置されたものだ。研究の採択審査にも多くの研究者が参加しており、採択された研究がどのような軍事技術への転用が可能なのか部外者には非常にわかりにくい。

学術会議はこの宣言のフォローアップ報告『「軍事的安全保障研究に関する声明」への研究機関・学協会の対応と論点』を今年8月に公表するが、上述のように、実際に応募されているケースがあり、この防衛装備庁の採択審査に協力している研究者が多数いるにもかかわらず、こうした研究に応募した研究者、研究機関に対する有効な歯止めのアクションはとれていないように感じる。学術会議は、宣言の一定程度の効果を評価しているが、果してそういえるのか、120件もの応募が実際にあったことを過少評価していないだろうか。こうした学術会議の動向は学術会議の限界でもあると思う。

学術会議は、高邁な理想を提言に盛り込みつつ実際には、その理想を実現できないどころが実現する積りがあったんだろうか、というケースもある。以下は、もはや「時効」かもしれないような半世紀も昔の話だ。

学術会議には「勧告」という制度がある。ここ10年一度も勧告は出されていない。勧告とは「科学的な事柄について、政府に対して実現を強く勧めるものです」と説明されている。 提言などよりもより強い主張ということだろう。

1969年5月10日に「大学問題について(勧告)」が出される。そのなかに「学生の権利の確認について」という項目があり、「学生に対しては、憲法、教育基本法の保障された権利を認め、さらに大学における学生の地位にかんがみ、一定の方式で大学の運営に参加させるべきである」と明記されている。また「大学問題についての中間報告草案(抜すい)」では、更に踏み込んで「学生は、教職員とともにそれぞれ固有の権利と義務をもって大学を構成するものであり、大学の自治に参加すべきものであろう」と書かれている。学術会議は学生運動の暴力の表面的な現象に拘泥している面もあり、その背景をなしている教育の問題を捉えそこねているところもあるが、この勧告では学生を単なる受け身の存在とはみなさず学問、研究の主体の一翼を担うべきものとした。この点を学術会議もこの国の研究者たちもすっかり忘れてしまっている。そして私も今回、このような出来事がなければ把握できなかったことでもある。現代の大学がいかにおおきく後退してしまっているかを改めて実感させられる。学術会議はこうした勧告を出しながら、それをほぼ完全に反故にしたといえるのではないか。大学の教員の大半がこうした学生、職員の管理運営への参加に否定的だったということだろうし(私自身も学生の大学運営への参加を積極的に主張してこなかった)、このスタンスを学術会議もまた受け入れてきたとしか解釈のしようがない。市民運動が問題にすべきなのは、こうした大学をはじめとする高等教育と学者の「国会」を標榜する学術会議の実態が学問の自由をはじめとする自由の権利に値する制度なのかどうかでなければならないと思う。大学の管理運営問題では、教授会の自治への関心は強いのだが、非常勤の教員や学生、職員も含めた教育、研究に関わる全ての人々の平等な参加の可能性についての議論はほとんどされてきていない。国立大学では人事権は教授会から奪われ、大学経営に外部の理事が参加するが、地域社会の多様性はほとんど反映されず、もっぱら企業、財界の有力者ばかりが経営に影響力を行使できるような制度になってしまっている。半世紀前の問われた問題は、こうした文脈のなかで、社会的平等を基礎とした自由の問題として想起されてよいと思う。

他方で学術会議が着実に成果をあげ、積極的に取り組んでいるように思えるものもある。たとえば以前言及したように、安倍政権が目玉のひとつとして打ち出したSociety5.0には繰り返し肯定的な言及がなされている文書が複数あり、また、市民運動のなかでは重要な課題となっているマイナンバーなどのプライバシー侵害の技術についても批判よりも推進の立場が目立つ。原発についても容認の立場が目立つ。どのようにみても市民運動の方向性とは対立する政権や財界の路線を踏襲するスタンスの提言について、不問に付すべきではないと思う。それぞれの運動の課題との関連のなかで厳しく評価すべきだ。任命拒否反対、全員を任命せよという運動の方針では、とりあえず問題を棚上げにすることになってしまうのでは、と危惧する。本当にこれでいいのだろうか、と思う。

学術・研究の分野は、総じて保守的で政権を支える流れが支配的な存在になっていることを見落してはならない。学問・研究の自由は、こうした支配的な流れに抗して、右翼レイシストの自由の概念の簒奪に抗して、憲法が保障した基本的人権を実現するための自由の領域でなければならないが、こうした立場は明らかに少数になりつつあり、周辺に追いやられざるをえない存在だ。自由を希求するが故に、常勤のポストを得られない多くの研究者がいる。学生も院生も将来の就職を人質にとられて自由な研究ができないだけでなく、そもそもの基本的な意思決定の権利を大学や研究組織のなかで保障されていない。学術会議にこうした原則的な自由の擁護者を期待できない。たとえ全員が任命されようとこれまでの学術会議が果してきた文科省や政府の政策を補完する役割が覆されることなど到底ありえないと思う。

学術会議に市民運動は、それぞれの目指す運動の課題の実現との関連で期待することが本当にできるのか、あるいはそうすべきなのか。反戦運動や反基地運動などの平和運動、反原発運動、反監視運動などのスタンスの原則からきちんと批判しないといけないのではないか。批判することで市民運動が失うものなど何もないはずだ。市民運動は、教育や学問の問題でも原則を見失わないでほしいと切に願う。