書評:ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』

ドゥボールが『スペクタクルの社会」を出版したのが一九六七年である。そしておよそ二〇年後の八八年に出版されたのが、本書である。(以下『注解』と略記することがある)タイトルからすると、『スペクタクルの社会』から二〇年間の変化をふまえたある種の続編という位置づけともいえるが、私はまったく別の著作として読んで構わないと思う。

『スペクタクルの社会』はある種の難解さを伴っていた。というのも、それがマルクスやルカーチ.あるいはルフェーブルなどについてのあらかじめの知識を読者に要求し、アフォリズムの体裁をとることによって、コンテクストによって内容を解釈することが困難であったのに対して、『注解』はドゥボール本人の言葉によるスペクタクル社会批判が前面に打ち出されており、理解しやすい記述になっていると思う。と同時に、本書は、前著を読んでいない読者を排除するものではなく、むしろ、今現在のスペクタクル社会のありようとその批判ということであれば、本書の方がずっと説得力があり読みやすいだろう。

六〇年年代のスペクタクルへの眼差しは、ドゥボールとマクルーハンがいわばコインの両面のような位置にあり、ともに主要な「スペクタクル」のターゲットとしていたのは、マスメディアの情報散布や大衆的な消費生活様式だった。しかし、七〇年代以降、大衆というくくり方で総称できるような均質な「一次元的な」(マルクーゼ)消費様式から、ある種の多様性や多元性を消費生活に組み込む巧妙な消費様式が支配的になった。ドゥボールは前著で、スペクタクルの社会を、ナチスやスターリン主義に代表される集中した形態のスペクタクルと、「互いに衝突し合う非常に多彩な新しい商品のなかから賃労働者が自由な選択を行使する」といった「アメリカ化」とによるスペクタクルの二つに区別していた。ドゥボールは、その後の二〇年間のもっともおおきな変化の一つに、この両者のどちらにも属さない「統合されたスペクタクル」という第三のモデルが登場していると指摘している。これが本書のキーワードである。フランスやイタリアに代表されるこの第三のモデルは、スターリン主義の党がおおきな影響力を持つ一方で、政権与党の権力独占が続き、民王主義的な伝統が希薄であるという政治的歴史的条件を背景としつつ、現実とスペクタクルとの明確な境界線がもはや引けず、スペクタクルが現実についてのなんらかの表現やプロパガンダではなく、「現実そのもののなかに統合され」るモデルだという。

こうした統合されたスペクタクルという概念は、ポードリヤールのシミュレーション社会と共通する問題意識を持つと思うが、ドゥボールはこうした統合されたスペクタクルの典体的な例として、七〇年代末のイタリアアウトノミア運動の弾圧をかなり意識している。この弾圧のなかで、イタリア司法当局が転向者を権力的につくりだして、これら転向者の自白によって次々と無実の活動家をでっちあげ逮捕してゆくが、ドゥボールはこうしたやり方を司法のスペクタクル化だという。もはや官僚制は冷静な官吏による退屈な文書主義の励行のための組織ではなく、それ自体がマスメディアによるスペクタクル的な機能を統合しはじめる。中世の見せしめとしての刑罰が近代になって隠されるようになったのと丁度反対に、ポスト近代は再び中世とは異なる文脈で、スペクタクル的な見せしめを制度化しはじめたということができるだろう。こうしたあからさまな権力作用は、それがスペクタクルの装いをまとうことによってその非人間性や残酷さは隠蔽される。人間の死とはいかなるものかに好奇心をもった少年による殺人よりも、官僚制度の冷たい書類の山のなかで、坦々と遂行される死刑執行のほうがずっと非人間的だということを、統合されたスペクタクルは隠蔽してしまうのである。たぶん、八八年に書かれたドゥボールでも予見できなかった事があるとすれば、それは、コンピュータによる監視のシステムの高度化だっただろう。本書の後半でドゥボールは「販売促進(プロモ-ル)のネットワークから、誰も気がつかないうちに、監視—情報歪曲のネットワークへといつの間にか移行している」と指摘している。これは正しいと思う。そして彼はさらに、監視による膨大な個人情報の収集が可能であったとしても、それは同時にこれらの情報を分析するために要する膨大な人員と時間の壁に阻まれさるをえないとその限界を指摘している。
 しかし米国のNSAを中心とする国際的な通信盗聴網、エシュロンのような巧妙な組織的な監視システムは、収集した情報それ自体の一解析をも人工知能に委ねることによって、この矛盾を巧みに切り抜けるテクノロジーを開発してきた。この点では、たぶん、ドゥボールの想像を越えるだけの監視のテクノロジーがすでに『注解』が書かれて以後一〇年の間にも進行しているということを軽視することはできない。

しかし、本書の最後でドゥボールはこうした監視の昂進が、じつは何か監視すべき対象があらかじめ存在して監視するというよりもむしろ、こうした監視のシステム自体がありもしない体制を転覆させようとする党があたかも存在するかのように実体化する作用を持つと指摘している。これはアウトノミアヘの弾圧の際にイタリア政府当局がとった手口として有名だが、それだけでなく、日本でも盗聴法の立法化の際に政府とった態度にみられるように、テロ集団やカルト集団などへの根拠のない恐怖心の煽り立てを試みることを通じて、ありもしないテロリズムの影を実体化してしまう権力のそう想像力に如実に示されている。こうした監視システムによる統合されたスペクタクルへのドゥボールの直感的ともいえる危機感と批判の指摘は、やはり彼でなければなしえない、優れた視点だといえるだろう。木下誠訳、現代思潮社刊、2200円+税
出典:『インパクション』120号、2000年