コロナとナショナリズム

コロナとナショナリズム

1 ワクチンをめぐるあまり論じられないやっかいなナショナリズム問題

やっとワクチン接種が日本国内でも開始され、このニュースで持ち切りだ。先進国なのに、接種が遅くなったことに不満をもらす大国主義丸出しの報道や論評が多いように感じる。

ワクチンが一部の富裕国によって事実上買い占められ、貧しい国、地域に行き渡らないという問題については、「ワクチン」ナショナリズムと呼ばれて話題になってきた。すでに様々な議論もネットに登場しているので、本稿ではこの問題にはあえて言及しない。1 ワクチン開発のもううひとつの問題として、製薬大手多国籍企業が開発競争をすすめるなかで、技術の公開性よりも特許や知的財産を念頭に置いた秘匿性が優位にたち、共同開発も進まず、貧しい地域、国が技術のノウハウを独自に活かす可能性を奪われているという問題がある。市場経済の競争原理が不平等と不効率をもたらす典型的な事例だ。この問題も本稿では取り上げない。この二つの問題はグローバルな社会的平等と、そのために必要な医薬情報と医薬品への自由なアクセスの問題として重要であり、私たちが目指すべき社会は、社会的平等に基く自由な社会であるべきだが、資本主義はこの条件を満たしていないことをCOVID-19パンデミックは端的に示した。だから、本稿で取り上げないからといって本稿の課題よりも軽い課題だということではない。この点に留意しながら本稿のテーマに取り組みたい。

日本へのワクチン供給は、いわゆる先進国全体のなかでも遅れぎみだということが様々に批判されている。国内での新薬の承認が遅れる現象を「ドラッグラグ」と呼ばれ、日本国内では以前から議論になってきた問題だ。遅れている理由はひとつではないと思うし、遅いことが悪いことかどうか、世界の平等なワクチンの配分システムがないなかで、我先にと買い占める行動をとらないことを意図しての遅れであれば、それもまた見識ではある。しかし、日本政府はそうした人道的な見地からワクチンの導入を控えているわけではもちろんない。ドラッグラグを引き起しているのは、国外で開発された新薬が日本国内で承認される手続きに、日本固有のナショナリズムの問題があるからだ。

たとえば昨年末にアストラゼネカが国内治験データの提出準備をしていると次のようにNHKは報じた。

2020/12/18 アストラゼネカは、国内で日本人に実施している治験のデータを2021年3月中に提出する方針で、厚生労働省は海外のデータと合わせて有効性や安全性を速やかに審査することにしています。

加藤官房長官は午後の記者会見で「今回の申請には海外試験の成績などは添付されているが、国内治験のデータなどは現在、整理中で、2021年3月中に追加的に提出される予定だと聞いている。今後、提出されたデータや最新の科学的知見に基づいて、有効性・安全性などをしっかり確認し、判断されていくものと承知している」と述べました。2

このように、「海外試験の成績などは添付されているが、国内治験のデータなどは現在、整理中」と述べられており、厚労省(以下、厚生省時代も含めて、厚労省と表記する。厚労省は2001年以降)が国内治験、あるいは「日本人に実施している治験のデータ」にこだわっていることがわかる。

NHKの別の報道をみると「政府によりますと、ファイザーは20歳以上の日本人160人を対象に行ってきた治験のデータについて…」とか「日本での治験の対象が20歳以上で、日本人の子どものデータが得られない…」といった表現が随所にでてくる。要するに治験対象者が「日本人」ではないことが、ワクチンの承認にとってよっぽど重要な問題らしい、ということがわかる。しかし、報道をみても、「日本人」であることがなぜ重要な問題なのかについて正面から説明されることはない。当然のように外国人のデータをそのまま日本人に当て嵌めることはできないかのようなニュアンスで報道されているのだ。

一連の報道で、海外で開発された医薬品を日本国内で使用する場合には、海外での臨床試験などのデータでは不十分で、国内のデータが必須だということを当然のようにして報じているのだ。とすれば、こだわる根拠は何なのだろうか。

東京新聞は、2月13日に次のようなワクチンの認可が遅い問題についての記事を掲載した。

米ファイザーは昨年12月18日、厚労省にワクチンの承認申請をした。通例、審査には1年ほどかかるが、今回は優先審査が行われたほか「特例承認」が認められ、2カ月という「スピード承認」の運びとなった。 それでも、欧米より動きは遅い。(略)

「遅い」理由を、厚労省幹部は「日本人のデータに基づく検証が必要だから」と説明する。海外とは感染状況やウイルス株、食生活などが異なる。昨年9月、ワクチンの承認審査をする独立行政法人・医薬品医療機器総合機構(PMDA)は原則、国内治験が必要とする指針を公表。ファイザーは国内で160人を対象に追加の治験を行い、1月末にデータを提出した。」l3

厚労省が「日本人」にこだわっていることが上の報道でわかる。「海外とは感染状況やウイルス株、食生活などが異なる」ということを「日本国内」の事情だと言うのであればわかるが、なぜ「日本人」なのだろうか。メディアもまたなぜ海外の治験のデータでは十分ではないのか、言い換えれば、なぜ、日本の地域性ではなく、「日本人」に関して固有のデータを収集しなければならないのか、どのような特段の事情があるのか。

本稿で考えてみたいのは、この問題だ。つまり、「日本人」というナショナリズムの観点とコロナパンデミックへの政府、業界、研究者の問題を考えてみたいのだ。

上の東京新聞の記事のなかに、医薬品医療機器総合機(PMDA)が国内治験の必要についての指針を公表したとある。この指針とは「新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)ワクチンの評価に関する考え方 令和 2 年 9 月 2 日 医薬品医療機器総合機構 ワクチン等審査部」4 だろうと思われる。この「考え方」のなかで、国内治験の必要に関連して「日本人」や「民族」に言及した箇所が以下のようにいくつかある。

海外で開発が先行し、海外で有効性及び安全性を評価する大規模な臨床試験が実施されている場合であっても、国内開発型のワクチン候補と評価の考え方は同様であるが、日本人における有効性及び安全性の確認のため、原則として、国内において臨床試験を実施する必要がある。

(略)

海外で発症予防効果を主要評価項目とした大規模な検証的臨床試験が実施される場合には、国内で日本人における発症予防効果を評価することを目的とした検証的臨床試験を実施することなく、日本人における免疫原性及び安全性を確認することを目的とした国内臨床試験を実施することで十分な場合がある。また、発症予防効果を目的としたグローバル開発(multiregional clinical trial)が計画されている場合には、日本から参画することによっても有効性を評価できる可能性がある。

(略)

SARS-CoV-2 ワクチンのベネフィット・リスクの判断については、各国・地域の状況によって異なる可能性がある。その他、民族的要因の差が SARS-CoV-2 ワクチンの有効性及び安全性に影響することも考えられる。

なぜあえて日本人というカテゴリーで「有効性及び安全性の確認」が必要なのだろうか。引用の二段目のように、海外の臨床試験結果を大幅に受け入れるということも「場合がある」という嫌々ながらの受け入れ表現になっていて、そのあとを読むと、無碍に外国の臨床試験を拒否すると日本の製薬資本が海外展開する場合に不利益になるかもしれないという配慮がうかがえる文言になっている。三番目は、「民族的要因の差」という言葉が登場しており、民族間でワクチンの影響に差がある「ことも考えられる」という全く曖昧な理由で「民族」が登場している。

こうした厚労省の「日本人」や「民族」という概念の使用に私は強い違和感と危惧を感じるが、医薬品の世界で、「日本人」や「民族」は頻繁に登場する常套句になっている。

医薬品のグローバル化のなかで、欧米の多国籍医薬品産業は、世界中に薬を売りまくってきた。日本の医薬品貿易も圧倒的に輸入が多く、輸出は横這いがここ20年一貫している。5 日本企業の海外売上高も年々拡大しており、国内売上高は頭打ちだ。つまり、日本の製薬大手は世界市場を獲得しなければ生き延びられず、国内市場をこれ以上外国資本に支配されないような戦略をとらなければならないところにきている。6 ここで、国内市場防衛のために、厚労省が(多分)かなり前から一貫してとってきた作戦が、海外で開発された医薬品は日本国内でそのまま使用することはできないことを「日本人」の「民族的要因」の強調で正当化しようということだったのではないだろうか。

ここでの「民族的要因」は、環境と遺伝子など内生的要因の両方を意味している。そして、この「民族的要因」の強調は、医薬品関連の学会や研究者が研究の前提として受け入れなければ研究もままならないような枠組になっていると感じる。医薬品関連のアカデミズムが研究で用いる「日本人」のカテゴリーは、私からみるととうてい科学的な証拠に基いているとは言い難い。逆にアカデミズムの研究が、虚構としての「日本人」を実体化することに寄与しているとも思う。以下で述べるように、科学がナショナリズムを無意識に受容し、科学的な研究がナショナリズムを強化するというナショナリズムの悪循環の典型である。そして、こうした事態が遺伝子関連の研究ともあいまって、ますます日本人を固有の民族とみなす「科学的な知見」らしきものがまかり通るようになっている。コロナとナショナリズムの問題は、医薬品をめぐる科学的な研究の根本に関わるところにまで浸透している問題としてみておく必要がある。

私のこれまでの理解では「日本人」というカテゴリーが医学的に意味があるものとして扱われてきたということ自体がこれほどまで浸透しているとは自覚してこなかったので、今回のコロナのワクチンの承認問題の報道に接して、厚労省とともに医学薬学において「日本人」という概念が実体概念として生き残っている状況は非常に深刻だと感じている。元凶は厚生労働省の一連のガイドラインにあり、これに製薬会社や研究者の利害が絡んでおり、政策やイデオロギーによって科学が影響を受けるという事態は、戦前戦中から現代まで一貫している。

2 「外国臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因について」

海外で開発されて医薬品の日本での承認をめぐる規制のありかたの問題は長い歴史がある。外国での医薬品の臨床データの扱いについて、厚労省によるいくつかの文書がある。よく引き合いにだされるのが1985年6月29日「外国で実施された医薬品等の臨床試験データの取扱いについて」(薬発第660号厚生省薬務局長通知)7である。後述するようにICH-E5の成立によって、この通知は現在では撤回されている。

この通知では次のように述べられている。

外国で実施された臨床試験データ(ただし、体外診断用医薬品にあっては、「臨床性能試験データ」をいう。)は、第三の各項に適合する場合は審査資料として受入れることとする。ただし、体外診断用医薬品以外の医薬品にあっては、必要に応じ、国内で実施された試験データの提出を求める。なお、吸収・分布・代謝・排泄に関する試験、投与量設定に関する試験及び比較臨床試験については、原則として国内で実施された臨床試験データが必要である。

基本的には外国の臨床データを受け入れることが原則となっているにもかかわらず、「吸収・分布・代謝・排泄に関する試験、投与量設定に関する試験及び比較臨床試験」は国内試験が必須とされ、それ以外でも「必要に応じ、国内で実施された試験データの提出を求める」というように厚労省の裁量が広い。

1992年以降、日米EU医薬品規制調和国際会議(ICH)8では「医薬品の作用に与える民族的要因の影響を科学的に評価し、外国臨床試験データの利用を促進するための方策が検討」され、1998年にICHのガイドラインとして「外国臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因についての指針」が出され、厚労省から各都道府県に通知が発出される。9 この指針がICH-E5と呼ばれるものだ。

従来まで、かなり厳格に国内臨床データの提出を求めてきたのだが、この条件を緩めてICH-E5では、「一定の条件に適合する外国臨床データについては医薬品の製造(輸入)承認申請書に添付される資料として受け入れる」と方針を転換した。ただし、「当該資料を申請医薬品の日本人における有効性及び安全性の評価を行うための資料として用いることが可能か否かを判断することが必要」だという条件がつけられた。そして「日本人」への影響を判断するために「国内で実施された臨床試験成績に関する資料を併せて提出すべき」とした。

要するに、従来よりは緩い基準で海外の医薬品の国内での認可を認めるが、それでも「日本人」に適合するかどうか、追加の国内臨床データを求めるというわけだ。この仕組みが、昨年厚労省が出した「考え方」のなかの「日本人」や「民族」の規定の前提にされているために、国内での治験のデータを一定数集めなければ承認できないとして、早期承認を妨げる要因になったのではないかと思う。

3 日本の医薬品承認プロセスは国際的なルールに基くもののように見えるが…

上述したように、この海外の医薬品の国内承認手続きは、ICH-E5に基いている。つまり、厚労省の文書では、民族的要因についての指針は、「日本EU医薬品規制調和国際会議(ICH)における合意に基づき作成されたもので、外国臨床データを利用して医薬品の製造(輸入)承認申請を行おうとする際に、医薬品の有効性及び安全性に与える民族的要因の影響を科学的に適正に評価するための基本的な考え方並びに当該外国臨床データの日本人への外挿可能性を評価するために国内で実施すべき臨床試験の内容を記述するものである」として、国際的なルールであるかの装いをとっている。

この指針でいう民族的要因(英文ではETHNIC FACTORS)の定義は「集団の遺伝的・生理学的(内因性)特徴と文化的・環境的(外因性)特徴の双方に関連した要因と定義する」である。そして更に詳しく次のように説明されている。

民族的要因(Ethnic Factors)
民族性(ethnicity)という語は、国家又は人々を意味する
エスノス(ethnos) というギリシア語に由来している。民族的要因は、共通の特性や習慣に基づきグループ分けされる人種又は大きな住民集団に関係する要因である。民族性は、遺伝的のみならず文化的な意味合いも有するので、この定義は人種的(racial)のそれよりも広い意味となっていることに留意されたい。民族的要因は内因性又は外因性のどちらかに分類されよう(補遺A) 。
・外因性民族的要因(Extrinsic Ethnic Factors)
外因性民族的要因とは、個人が住んでいる環境や文化に関連した要因である。外因性要因は遺伝よりも文化及び行動様式によってより強く決定される傾向がある。外因性要因には、地域の社会的及び文化的な側面に関係するものが含まれる。例えば医療習慣、食事、喫煙、飲酒、環境汚染や日光への暴露、社会経済的地位、処方された薬の服用遵守、並びに異なる地域の臨床試験の信頼性にとって特に重要なものとして、臨床試験の計画及び実施方法が挙げられる。
・内因性民族的要因(Intrinsic Ethnic Factors)
内因性民族的要因は、住民集団のサブグループを定義、同定する際に有用で、地域間の臨床データの外挿可能性に影響を与え得る要因である。内因性要因の例としては、遺伝多型、年齢、性、身長、体重、除脂肪体重、身体の構成及び臓器機能不全が含まれる。

上記で説明されている様々な外因性と内因性のなかで、あえて「民族」ぶ必然性のある要因は実はひとつもない。外因性の要因でいう環境と文化も内因性要因の身体的特徴も「民族」というカテゴリーで置き換えうるかどうかは民族の定義次第だが、その定義は抽象的であいまいなものだ。むしろ「日本人」というカテゴリーを実体化することが最初から目的とさていて、そのために、外国の政府や研究者との合意を得られるように「民族」というカテゴリーの定義が設定され、これをまず前提して、このカテゴリーに何らかの客観的な要因のようにみなしうるものを配置したに過ぎないのではないか。人種については、「内因性民族的要因」のなかの「遺伝的要因」として位置づけられている。つまり、遺伝学上の自他を区別する人間集団として人種の概念を認め、この人種の概念をその要因の一部として民族的要因が規定される、という構図になっている。後述するように民族の概念定義とともに、人種と遺伝的要因との因果関係は実は恣意的なものにしかなりえない。

厚労省のICH-E5の指針では、民族的要因の指針を設定した背景が次のように説明されている。

「民族的要因が新地域における医薬品の安全性、有効性及び用法・用量に影響を与え得るとの懸念から、これまで外国臨床データに頼ることが躊躇されてきた。このため、過去において、このことが新地域の規制当局が承認のために外国臨床データの全部又は多くを国内で重複して収集することをしばしば求めてきた理由の一つとなっていた。確かに、住民集団間の民族的な差が医薬品の安全性、有効性及び用法・用量に影響を与える場合があるものの、多くの医薬品は、どの地域でも類似した特性や効果を示している。全ての医薬品について臨床評価を広範囲に重複して行わせることは、新しい治療法の導入を遅らせ、また、医薬品開発における資源の浪費となる。」

厚労省のみならず国際機関が露骨に人種と民族の概念を持ち出していること、遺伝的な要因に「人種」概念が堂々と示されていることに驚かざるをえない。10 というのも遺伝学的にみて人種概念は否定されていると思っていたからだ。11

ここで、いくつかの疑問が生じる。なぜ欧米と日本によって構成されている国際機関ICHはこうした民族的要因にこだわるガイドラインを設置ているのか、である。

4 ICH-E5と世界市場争奪戦

外国での臨床試験データを事実上受け入れない1985年の方針から98年のICH-E5に至る経緯には興味深いものがある。厚労省の役人としてICHに実際に関与してきた土井脩は、次のように回顧している。

外国臨床試験データの新薬承認申請資料としての受け入れについては、1985年6月の薬務局長通知により、原則受け入れの方向を示していた.しかし、国内産業を保護するため、実態としてはほとんどの臨床試験を国内でやり直す必要があり、外国に門戸を閉ざしていたのが実態であった。

その後、1990 年に日・米・EC(現在の EU)間で ICH立ち上げのための話し合いが始まった。この時に、厚生省が 3 極間で話し合うべき重要課題の一つとして、GCP とともに外国臨床試験データ受け入れのための条件、すなわち、人種差や民族差をデータの評価にあたってどのように考慮すべきかを国際的にハーモナイズすることを提案した。

厚生省の提案に対しては、多人種、多民族国家である中で医薬品の承認審査を行っている米国や、多民族の集合体である域内での統一的な医薬品の承認審査制度の導入を目指していた EC からは、すぐには賛同が得られなかった。そこで、厚生省は日本が中心となってそのための研究班を組み、ICHでの検討を支援することを提案して、ようやくICHでの検討課題として採用された。

通常 ICH-E5 ガイドラインと呼ばれている「外国臨床試験データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因についての指針」は、1998 年 2 月にようやく合意に達した。厚生省は 3極間の合意を受けて、同年8月には同指針に対するQ&A を付加して、局長通知の形で実施に移した。12

ICHは、グローバル化のなかで、欧米日の各国が医薬品の世界市場争奪戦のルールをいかに自国資本に有利なように展開するかという帝国主義的な世界市場分割の政治力学のなかで機能している機関だ。内田英二はICH設立当時の欧米日のスタンスについて次のように述べている。

ICH が組織された背景として当時の状況は下記のようなものでした。
・1980 年代、日米欧は臨床試験が実施された場所よりも、臨床試験の質(Quality)が外国臨床データの受け入れの決定要因であるとしながらも、新地域の住民集団と医療習慣に則したデータである場合のみ受け入れ可能と主張していた。
・米国が EU データを受け入れなかった理由:臨床試験方法、記録の正確性とアクセス方法、プロトコル遵守、患者の同意、薬剤の収支量等が米国基準を満たしていないと判断。
・日本では外国臨床試験データを日本人に外挿するのは不可能との判断:第Ⅰ相のADME、第Ⅱ相の用量設定試験、第Ⅲ相の比較試験は日本で実施[薬発第 660 号(1985 年)]。13

内田の整理が正しいとすると、各国政府とも、自国領土内への外国資本の参入を阻止を自由競争の建前を掲げつつ画策しようとしており、その有効な手法として住民集団や医療習慣など、領土内に固有の条件を提示して、この条件をふまえた臨床試験の重要性を主張しようとしたり、米国のように、自国のルールを盾にとって外国の臨床試験の妥当性を問題にする手法をとるなど、いずれにしても自国産業保護にこだわった。日本は上の整理でいうと、「日本人に外挿するのは不可能」という主張で産業の防衛を目論んだといえよう。とはいえ、「不可能」」という主張は極めて奇異だ。同じ人間であるにも関わらず「不可能」とまでいえるのだろうか。

そもそもICHという組織が学術機関ではなく「ヒトに使用される医薬品の承認に関する規制のハーモナイゼーションですので、行政サイドのもの」(内田英二14)だから、学術的な厳密さよりも、政策的判断が優先されるということだろうが、そうだとしても政策の科学的客観性を確保したいと各国政府は考えるだろう。このとき日本が持ち出した「民族要因」に果して科学的な客観性はありうるのか。

また、津谷喜一郎/中島和彦はICH-E5について次のように日本と諸外国の温度差について指摘している。

1998 年 2 月にICH-E5: Ethnic Factors in the Acceptability of Foreign Clinical Dataが、約 6 年の歳月をついやしてようやく step 4 に達した。この間、ガイドラインは draft 1 から draft 20 まで改訂されたものである。この ICH-E5 ガイドラインに基づき、日本の厚生省から「海外臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因についての指針」の通知が公布された。その後、日本では ethnic diference が多くの人によって議論され、bridging studyが開発戦略に組み入れられ、実施されるようになった。本通知に基づき承認された医薬品は 1999 年から 2005 年までで 41 品目と報告されている。一方、欧米での臨床評価やグローバル開発では ethnic diference はあまり考慮されていない。15

以上の経緯をふまえると、日本政府は、「人種差」や「民族差」を医薬品貿易のいわば非関税障壁として利用する一方で、「民族」ごとの臨床試験などが不可能な欧米は、むしろ「民族差」を排除した統一的な基準を要求することで多国籍資本にとって最も効率的な市場支配を維持するスタンスをとったわけだが、いずれの側にとっても、第一の動機は資本の利益と国益が優先されたものであり、ICH-E5はその政治的妥協の産物であるとともに、ここに学術研究が加担したということでもある。

5 厚労省の自民族中心主義によるレイシズム

「民族的要因」の主張を可能にする社会認識では、事実上、単一民族国家観に基いて民族差を強調することにならざるをえない。もし誠実に「民族的要因」への配慮を検討するのであれば、「民族的要因が新地域における医薬品の安全性、有効性及び用法・用量に影響を与え得るとの懸念」について、日本国内で暮す全ての「民族」ごとに臨床試験を実施しなければならないはずだ。「日本人」とは異なる「民族的要因」による影響を受けるという問題は、日本国内の外国人の人びとにも該当する問題であるから、日本国内のエスニックマイノリティについてもその「民族的要因」による懸念を検討すべきだろう。ところが、厚労省は、外国人を臨床試験から排除すればそれでよいと考えている。外国人の「民族的要因」には配慮をしていない。

厚労省は、「民族的要因」のうちの外因性要因として「外因性要因は遺伝よりも文化及び行動様式によってより強く決定される」を挙げているが、エスニックマイノリティの文化、行動様式が「日本人」のそれとは異なるものであるとするのであれば、臨床試験を日本に住む外国人のエスニックグループごとにきちんと実施する必要がある。もし逆に、こうした文化、行動様式が日本国内では外国人であっても、日本人と同様だというのであれば、外国人を臨床試験から外す理由はなく、そもそも民族的要因という概念に意味はないことになるか、エスニックマイノリティが「日本人」に同化しているかのようにみなすことになり、その固有の文化を否定することになる。いずれにせよエスニックマイノリティを正当にこの国に暮す人びととして認知していないことになる。このように厚労省はエスニックグループを無視、排除しつつ「日本人」のみを特別の存在として取り出す。これは自民族中心主義の典型であり、極めて巧妙に偽装された官製レイシズムである。

土井の文章には「厚生省は日本が中心となってそのための研究班を組み、ICHでの検討を支援することを提案」とあるが、この間の事情については、内田(前掲論文)がやや詳しく述べはいるものの、研究班の研究がどのようなものだったのかについて具体的なデータは提供されておらず、この点については、研究者がどのように「民族的要因」の科学的妥当性を論じようとしたのか、今後検討が必要だろう。

6 論理的一貫性に欠ける「民族的要因」を日本がゴリ押した?

ICH-E5をめぐる経緯をもう少し追ってみよう。上述のように、日本は、当初日本人の特異性を理由に外国での臨床試験を拒否するために、日本人の特異性を証明しようと研究者も動員してやっきになったようだが、結果として諸外国の政府や企業には受け入れられず、外国の臨床試験の結果を受けいれつつも、「外国で承認された薬物をそのまま承認することにはならない」という強引な主張となる。こうしたやりとりのなかで、「人種差要因をさらに細かく遺伝的要因と環境要因とに分けて検討してはどうかという提案」がなされこれがICH-E5にもりこまれることになる。その後も駆け引きは続き、トリアージに概念やブリッジングスタディ概念などが導入されて妥協が図られる。結果として6年が費された。

内田の論文は、ICH-E5の成立経緯についてかなり詳細に論じているが、しかし、そもそも民族や人種といった概念による人間集団をどのように特定するのか、というそもそもの議論がほとんどなされていないように思う。厚労省は、ICH-E5の指針の解釈についての問答集を作成し、更に問答集についての説明の文書も作成している。たとえば日本人という概念については次のように説明されている。

外国在住の日本人(日本人の両親を持ち、日本で生まれ育ち現在外国で生活している)、 あるいは日系2世、3世(外国で生活している日本人の両親から生まれ、又は祖父母が外国に移住しさらに両親が日本人で外国で生活している)などを対象に実施した薬物動態試験データは、日本人の薬物動態に関するデータとして利用可能であるのか。 (答) 食事や環境などにより薬物動態に差が出ることが想定される場合を除いては、利用可能である。

「日本人」の定義にもさまざまな議論があるところであるが、少くとも日系3世までなら、内因性要因からは日本人と同じと見なせるであろうとの議論に基づき作成された質疑応答である。外因性要因により薬物動態が変化するといった例外的な状況除いては、例えばカリフォルニア在住の日系3世を対象に行った薬物動態試験データを日本人の薬物動態データとして利用可能である。」

ここで日本人としての規定の基準になっている内生的要因は、家族の系譜を根拠にしていることから事実上「遺伝的要因」のなかの「人種」概念によって規定される要因を指していると解釈する以外にない。

7 遺伝子で「日本人」を特定することはできない

日本側の主張が成立つためには、日本人という純血種の存在が証明されなければならないが、そもそも純血種の遺伝子構造がどのようなものなのかを特定することは不可能だから、遺伝的要因といった内因性の民族的要因なるものの証明は不可能だ。外因性要因はますます不可能だ。環境要因は、同じ場所に暮す様々なエスニック集団が共有するからだ。日本には、「日本人」と自認する人びとが純粋な種として存在するという単一民族の神話を前提にすることでしかこうした議論は成立たない。このような虚構としての「日本人」を政府も製薬会社もみずからの利益のために構築してこれを利用し、これを欧米の政府が政治的な思惑から容認したということだろう。その結果として、医学薬学の分野で、人種や民族の概念がほとんど厳密な定義が不可能であるという根本的な理解が欠落したまま、研究者の日常生活における常識としての「日本人」意識がそのまま研究の前提となってしまったように思われる。これは、典型的なナショナリズムと科学的な研究がリンクする構図だ。

その後厚労省は国際共同治験に関する一連の文書を出す。

2007年 国際共同治験に関する基本的考え方について https://www.japal.org/wp-content/uploads/mt/20070928_0928010.pdf

2012 「国際共同治験に関する基本的考え方(参考事例)」 https://www.pmda.go.jp/files/000157901.pdf

2014 国際共同治験開始前の日本人での第Ⅰ相試験の実施に関する基本的考え方について https://www.pmda.go.jp/files/000157480.pdf

2018 国際共同治験の計画及びデザインに関する一般原則に関するガイドラインについて https://www.pmda.go.jp/files/000224557.pdf

上の最後の文書もまたICHのガイドラインでICH-17と呼ばれている。この文書では随所に「内因性・外因性民族的要因」への言及がみられる。国際共同治験そのものが医学薬学の分野における民族的要因を実体化することを前提とした枠組になっている。こうして、これまでのグローバル化のなかで地域の差異を無視した医薬品の効率的な輸出拡大を目指す傾向が、ここにきて変化をきたしてきたように思う。中島和彦は「最近になって欧米とも、民族的あるいは地域的な差異を考慮する必要性を認識しはじめているようである」と変化のあることを早い時期に指摘している。16

最近になっても「民族差」を肯定する議論は少くないように思う。たとえば頭金正博は次のように述べている。(論文の「要約」を引用)17

医薬品の有効性や安全性には、民族差がみられる場合があり、グローバルな多地域で新薬開発を進めるためには、医薬品の応答性における民族差に留意する必要がある。そこで、有効性と安全性の民族差の評価においてレギュラトリーサインス研究が必要になる。具体的には、薬物動態をはじめとして、効果や副作用における民族差がどの程度あるのか、また民族差が生じる要因は何か等の課題をレギュラトリーサインス研究18によって明らかにすることがグローバル開発では必須になる。グローバル開発戦略に関しては、日米 EU医薬品規制調和国際会議(ICH)E5 ガイドラインが公表されて以来、ブリッジング戦略が 2002 年頃までは多く用いられた。一方、ブリッジング戦略は、諸外国で開発が先行することを前提とした開発戦略であり、ドラッグ・ラグの問題が提起されるようになり、最近では、同じプロトコールを用いて複数の地域(民族)を対象にした臨床研究を同時に実施する、いわゆる国際共同治験が行われるようになった。近年の薬物動態での民族差に関する研究の進展により、遺伝子多型等の民族差が生じる要因が解明される例も多くみられるようになった。一方、有効性や安全性に関する民族差については、民族差が生じる詳細な機構は不明であるが、抗凝固薬の例にみられるように、定量的に民族差を評価することが可能になった。また、最近は有効性や安全性を反映するバイオマーカーに関する研究も進展しているが、バイオマーカーにも民族差がみられる可能性もあり、留意する必要がある。今後は、これらの知見を基にして効率的なグローバルでの医薬品開発の促進が期待される。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj/148/1/148_18/_pdf/-char/ja

なぜこうした変化が起きているのか。これは政策の問題であると同時に学問領域の動向の変化でもある。政治的には、欧米の民族意識に何らかの変化がでてきているのかもしれない。医学薬学の分野における遺伝子研究の展開のなかで、遺伝的多型マーカーやヒトゲノムの解析などによって人間集団の再構築が人種や民族概念を実体化しうる根拠として利用されるケースがごく普通に登場してきている。欧米にけいる極右の台頭やナショナリズムに基くポピュリズムが政府や研究者の心情に影響がないとはいえないかもしれない。「民族的要因」が国際的なガイドライン策定の場で市民権を獲得してしまっているようにみえる。

8 民族・人種と医学・薬学研究

医学や薬学の分野の個別の研究では、民族や人種は実際にどのように扱われているのだろうか。厚労省が自国の産業保護のための口実として民族的要因などを持ち出したにしても、臨床試験の現場で民族的要因などを考慮するような科学的あるいは学問的な研究ははたして成立つのだろうか。現実にはどうも成立っているようなのだ。

たとえば「人種間の違いと人種内の違い―体内動態、薬効における遺伝子多型―」という論文では、つぎのような記述がある。

40 mg 単回投与後に得られる血中濃度には人種差が観察され、African Americans (AA、黒人)に比べ、European American (EA、白人)で高値を示す(Fig. 2)。(略)これらの頻度の違いが白人と黒人にみる体内動態の違いの大きな原因と考えられる。残念ながら、日本人(JP)での 40 mg 単回投与試験の報告がないため、単純な比較は難しいが、….19

あるいは、「公表申請資料にみる薬物動態の民族差」という論文では、

….民族間の薬物に対する感受性の相違による場合と、薬物動態の相違による場合がある。そこで、どのような場合に日本人において海外とは異なる用量を設定する必要があるのか、薬物動態的特性ついて検討した。20

とその研究対象を「日本人」とし、研究の結果として「日本人集団と外国人集団における薬剤吸収率の差が反映した。」「内因性民族的要因の影響も否定できない」とも述べている。ところが肝心の「日本人」集団のサンプルガ「日本人」であることの客観的な根拠が示されていない。

こうした個別研究だけではなくて、たとえば、日本製薬工業会医薬品評価委員会臨床評価部会の報告書「臨床パッケージにおける外国データの利用状況-国内承認品目を対象とした詳細調査・分析-」(2006)21でもレポートの目的に「国際共同治験を用いた品目について、昨年度と同様に、臨床データパッケージの構成、国内外での薬物動態の比較、内因性・外因性民族的要因及び一貫性評価に関する内容をまとめた」とあるにもかかわらず、用いられている分類は、日本人と外国人、日本人と白人、あるいは日本、台湾、韓国といった国・地域別の区別でしかなく、これに「民族」という概念を当てはめたり、「人種(日本、中国、フィリピン、台湾、マレーシア、インドネシア)」(同報告書55ページ)というように、国と人種を同一視するという社会科学であればありえない概念の利用法になっている。

こうした表現があたりまえに用いられている背景には、研究者自身が、一国家一民族という単一民族国家を前提にしてしまっているからだろう。これは研究者としての専門的な研究に、研究者が抱いている偏見が研究方法に影響している典型的なケースだ。ちなみにこの報告書で取り上げられた医薬品のほとんどが民族的要因に有意な差が明確に存在したという事例は報告されていない。内因性の差異を指摘している場合であっても体重などの差であって、これを「民族的要因」とするのは強引だ。

コロナのワクチンの治験の現場はどうなっているのか。治験者を募集しているサイトでは次のような条件で募集している。

https://gogochiken.jp/disease/corona/ 治験参加の条件 コロナ治験に参加する場合は以下の通り参加条件がございます。 日本国籍の方 ※注意:外国籍の方、またハーフ、クォーターの方の参加はできません。

国内臨床試験がICH-E5をふまえるとすると、国内の治験の対象者は「日本人」ということになるが、この条件を日本国籍で代用するやりかたは、はたして正しいのか。日本国籍を保有している者を民族のカテゴリーとしての「日本人」とみなすということは、国籍と民族、人種の関係に関する基本的な人権に関わる理解に反している。国籍法では、日本人の規定はなく、「日本国民」の規定だけだ。国籍を民族や人種と対応させることを正当化する制度はない。注意事項にある「ハーフ、クォーターの方」は、日本国籍を取得していてもハーフ、クォーターであるばあいは参加できないという意味だろう。この注意書きの前提は、日本国籍ではなく日本人と外国人との間に生まれた子どもを想定ている。このことからみても「日本国籍」といいながら実際は「日本人」を指しているのだろう。そもそも厳密に日本人を定義したり、人種、民族を定義することはできないのだが、こうした収集されたデータから、科学的な装いをもつ「日本人」が構築される。

自然科学は普遍的な真理への指向が強い。生物学も遺伝学も、客観的な事実として客観的に検証されることによって、ある種の事実の真実性を確証できるとみなす。民族や人種がこうした真理の言説とリンクされると、民族や人種が生物学的な真実として証明されたかのような体裁を獲得する。民族や人種に基づく政治は、こうした普遍的な真理の装いを欲がる。もしそれが自民族の優位性や普遍性を証明するのであれば、民族・人種が永遠の存在であることを科学的に証明されたとみなして利用するだろう。逆にある民族・人種の劣等生もまたこの意味で証明可能だということになれば、民族・人種間の優劣のヒエラルキーが構築され、科学の名のもとに固定化、実体化される。

遺伝学の研究を通じて、人種の違いを科学的に論証しようとする傾向へと研究がひきずられていく。しかし、こうした研究が前提にする人種としての人間集団が、純粋な人種集団であるという証拠はない。逆に、ある集団を「人種」としてひとまとめにして、この集団に共通する特徴を抽出して、他の集団との違いを特定することになると、この集団があたかも「人種」としての実体を遺伝子レベルで持つかのようにみなされる。

「民族」の場合も同様だ。日本人であることの遺伝子上の客観的な基準もなしに、本人の自己理解、見た目、居住している場所、言語や文化の共有といった曖昧な要因に基いて、とりあえずの日本人らしい集団をピックアップして、その遺伝子上の特徴を探ったとして、これが純粋な日本人の存在を証明することにはならない。日本人ではない人が混在する可能性を避けられないし、そもそも基準となる日本人の遺伝子上の特性は、こうした研究の前提には与えられておらず、サンプルとなった人間集団が純粋の日本人であるという証拠はどこにもなく、この研究の結果としてしか日本人の遺伝子なるものは構築されない。純粋な日本人は、こうした研究の結果、人為的に作り出されたものにすぎない。

こうした問題が等閑視されて、日本人とか人種を前提とした研究が繰り返されると、臨床試験の研究にあるように、極めてアバウトに日本人らしい集団で真の日本人を科学的に創作することに疑問を感じなくなる。そして科学的な客観性やデータを根拠に、人種や民族の差異が実在するかのようにみなされるようになる。差異は容易に差別や相互のヒエラルキーをともなう優劣へと結びついてゆく。

9 人種概念についての国際法と憲法

人種概念を用いることへの疑義は国連でも早い時期から提起されてきた。「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(65年採択)」では「人種的相違に基づく優越性のいかなる理論も科学的に誤り」any doctrine of superiority based on racial differentiation is scientifically falseと表現されて、人種にもとづく相違そのものの存在を肯定しているのだが、ほぼ同じ頃に出された「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際連合宣言(63年採択)」では「人種的相違又は優越性のいかなる理論も科学的に誤り」 any doctrine of racial differentiation or superiority is scientifically falseとして人種的相違の理論が科学的に誤りであるとする宣言を採択している。22

国連のアパルトヘイトに関するパンフレットでは次のように述べられている。

a 今日生きている世界中の人間は同じホモサピエンスに属するもので,もともと同一の祖先にさかのぼる。
b 人間を生物学的に「人種」に分けることは科学的ではなく、単に昔からの習慣によるものであって、これに上下の等級をつけるようなことは不可能である。多くの人類学者は、人間が様々に異なっていることの重要性をみとめてはいるが、「人種」に分けることには科学的いみを認めていない。 c 現在の生物学では,文化の程度の差を発生学的な差にもとめることを否定している。23

20世紀半ばのこうした議論は、現在極めて深刻な危機にある。社会的歴史的に構築されてきたイデオロギーが科学によって更に理論武装して、登場してきている。現在は、こうした傾向が情報科学とコンピュータの高度化に支えられて加速化している。

ナショナリズムの問題は、人種の実体化と文化や環境の要因が一体化した民族の概念を媒介として、国家の統治機構を支える「国民」の感情的な意識であるが、これが、それぞれの時代のなかで普遍性を司る科学や学問を味方につけて、正当化されている。

ICH-E5の考え方は、民族要因の一部に人種を組み込んでいる。結果として、民族は人種によって規定されることになり、人種と民族が生物学的な根拠をもつ概念とされる。臨床試験で民族ごとの特異性を科学的に主張しようとすればするほど、科学性を裏づける根拠として遺伝子などの生物学的な要因を重視することになる。文化や言語などの外因的要因は数値化したり統計的に処理したり、実験による再現性や検証可能性にもなじまない質的な性質をもっているために、その扱いについての方法は自然科学の方法では扱うことができないために、指針などで示されていても実質的には意味をなすものにはなっていない。

それでは、民族的要因を外因性要因に絞り、遺伝的要因などの内因性要因を排除すれば、それなりの妥当性を認めることができるのだろうか。医薬品の臨床試験に関しては、こうした方法で民族的要因を残すことにはほとんど意味がないように思う。臨床試験をめぐる民族的要因として議論になる問題に用量の妥当性が論じられたりする。しかし、こうした問題は、「民族」よりも個体差を問題にすべきだろう。

ICH-E5で指摘されている「民族的要因」が与える医薬品の安全性への危惧には疑問があるが、百歩譲って人種・民族的要因が重大な問題であって看過できないとしたばあい、なぜ「日本人」だけにしか臨床試験を行なわず、「日本人」以外の「人種」「民族」を無視してよい理由はどこにあるのだろうか。

憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と人種による差別を禁じている。憲法の規定をふまえれば、「日本人」だけを特別扱いする臨床試験や治験は憲法に反する扱いになる。こうした扱いを政府が行うことは明確な違憲行為だ。

10 見逃される科学のなかのナショナリズム―科学的合理性と科学的不合理性の共存

竹村康子は、「人種概念の包括的理解に向けて」のなかで、次のように日本の人種概念をめぐる研究の特異な状況について述べている。

「日本では、生物学的人種が破綻したことを積極的に提唱している研究者は例外で(略)厳密な境界線が存在せずとも生物学的実体までは否定できないとるす見解がひろく支持されている。国際的には、人種が生物学的に有効な概念ではないとする見解が通説であることの変りはない。しかしこの数年の間にヒトゲノムの集団病理学などの進展によって、一部の研究者によって人種実体論ともいえる説が劣勢を巻き返しており、問題はいっそう複雑化している」24

他方で、ゲノム解析によって、集団内の多様性のほうが集団間の多様性より大きいという研究も多く発表されている25(竹村、61)

国際的には人種の生物学的有効性に疑問がもたれているなかで26、なぜ日本で生物学的な人種が科学研究で生き延びてしまったのかは、日本の近代科学史と国策としての科学や学術との関係を戦前まで遡って検討しなければならないことだろうと思う。27

冒頭の新型コロナとワクチンをめぐる問題に立ち戻ると、今、日本で、人びとの生存や健康の権利が二つの側面から挟み撃ちにあっているのだということがわかる。

ひとつは、グローバル化のなかの製薬資本をめぐる市場争奪戦のなかで、いかにして日本の資本の利益を日本政府が防衛しつつ、世界市場への日本の製薬資本の侵出の足掛かりを構築できるか、という主としてグローバル資本主義の市場と地政学の領域が、人びとの生命を犠牲にする構図だ。ここでは、資本の論理と政府がもつ医薬品に対する許認可の権力がどこの国でも、国際関係の力学のなかで、自国の資本にとって最適となる「解」を模索して交渉する。この交渉のなかで、合意の正当性を保障しているのが、科学的な合理性の装いだ。ここに研究者が関与することになる。

もうひとつは、上記のプロセスのなかで、自国資本と自国政府の利害が最も共通する、自国内部の市場とその規制を自国第一主義で貫徹するために必要な枠組の構築だ。ここで、日本は民族と人種にこだわるイデオロギーによって日本の特殊性を正当化した。これが日本のナショナリズムの典型的な表出場面になるが、これが単なるイデオロギーではなく科学的な装いをもって正当化される局面では、遺伝学から最新のデータ解析の技術までを駆使する科学的合理性の領域が前面にでるので、人種、民族が科学的に立証されたかのような印象が与えられ、これがメディアや啓蒙的な科学の一般書の類いで流布されることになり、ここにも科学者が寄与することになる。ところが、この科学的な局面の前提には、科学者が憶測や偏見を含めて根拠以前に抱いている「日本人」とか「人種」についての「常識」があり、この常識なしには実は科学的な研究は成立たない構造になっている。そして、この科学と「常識」あるいは偏見を国家がひとつの「像」として束ねるところに、ナショナリズムの心情と信条が形成される。

この構造はとてもやっかいだ。学問研究の手続きや手法そのものやデータの処理は改竄があったり、恣意的な処理はなされていない。しかし医学薬学には民族や人種が社会的に構築されたカテゴリーであるということを理解できる方法がないのかもしれない。社会科学からすれば非科学的な概念が、熟慮されることなく研究の前提に置かれるような舞台装置が組み立てられている。こうした舞台は、科学的な研究に「日本人」のイデオロギーを持ち込む動機をもつ国家の思惑によって用意されているように思う。グローバル資本主義の市場の競争と国民国家相互の覇権の構造のなかで、「日本人」という観念が科学の装いをまとって実体化されるとき、ナショナリズムもまた科学を味方につけることになる。

今回は医薬学の領域とナショナリズムの問題について問題提起したが、こうした問題はあらゆる学問分野に様々にあらわれているのではないか。たぶん、近代科学と近代のナショナリズムがともに「近代」という時代のなかで形成されてきたことを念頭に置くとすると、ナショナリズムへの批判、つまりナショナリズムを克服した社会を構想するという課題にとって、自然科学の克服もまた重要な課題にならざるをえないように思う。

(付記)私は、エスニシティを自然科学的に根拠のあるカテゴリーとしては認めないが、何らかの人間集団が文化や歴史を共有するなかで、あるいは他の人間集団と交流することで変容しつつも集団としてのアイデンテイティをもちつづけ、集団への帰属意識をもつことを否定しない。こうした集団的なアイデンティティへの帰属は、だれであれ、複数の集団への帰属であることが普通だ。近代国民国家は、こうした人間集団を「国民」として統合しようとするとともに、日本の場合は「日本人」に支配的な集団としての正統性を与えてきた。集団のアイデンティティは社会的歴史的に構築・再構築・脱構築を繰り返すなか維持されるから、自然科学的な意味での科学的客観性にはなじまない。にもかかわらず社会集団に自然科学的な客観的な実体を与えることは社会集団を歴史を超越した普遍的な集団という地位を与えて特権の正当化を企図するものであって、わたしはこうした考え方をとらない。

(付記2)ワクチンの接種がはじまった現在でも、「日本人」を特別視する観点が隠然とした力をもっている。優先接種には、ワクチンが日本人に深刻な副反応を起すことがないかどうかを検証する目的もあるとされている。日本人に固有の影響があるのではないか、という根拠のない憶測がメディア報道の前提にあるように感じる。

(謝辞)本稿は、2021年2月14日に開催された「『日の丸・君が代』の強制を跳ね返そう!2.14神奈川集会とデモ」での講演をもとに、当日いただいた質問などを踏まえて加筆したものです。主催者と参加された皆さんに感謝します。

Footnotes:

1

ヴァジャイ・プラシャッド「ワクチンナショナリズム?希望という名の不治の病」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2020/12/06/vaccine-nationalism/ 原文はThe Bulletに掲載。

5

『医薬品の貿易収支の推移 医薬品産業強化総合戦略~グローバル展開を見据えた創薬~』(参考資料) https://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10807000-Iseikyoku-Keizaika/0000096429.pdf 医薬品産業強化総合戦略は、安倍政権の骨太の政策の一環として厚労省がとりまとめたもの。

8

ICHについて。「日米EU三極の医薬品規制整合化の達成のために、平成2年4月に運営委員会が発足し、日本、米国、EUの規制当局及び医薬品業界代表者を構成員とする会合として、ICH(International Conference on Harmonization)が創設された。以後、平成3年、5年、7年、9年、12年及び15年にICH国際会議が開催され、整合化ガイドラインの作成に成果をあげている。 」「日米EU医薬品規制調和国際会議(ICH)について 」 https://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/03/dl/s0329-13n.pdf 2015年に組織が再編、拡大されている。役割は「薬事規制の国際調和を推進するため、医薬品の承認審査や市販後安全対策等にかかる共通のガイドラインを作成すること」で設立当初から変らないという。 https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000102412.html

9

1998年8月11日 都道府県知事宛 「外国で実施された医薬品の臨床試験データの取扱いについて」厚生省医薬安全局長 医薬発第739号 同 各都道府県衛生主管部(局)長宛 「外国臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因について」厚生省医薬安全局審査管理課長 医薬審第672号 ICHをめぐる議論、とりわけ後述するICH-E5をめぐる議論については、本稿で直接言及した文献の他に、下記が重要である。『変わる新薬開発の国際戦略―ICH E5ガイドラインのインパクト』薬業時報社、1999年。

10

「人種」の概念、科学で使わないで 米で差別助長を懸念 Asahi 2019年3月27日 https://www.asahi.com/articles/ASM3P1P8BM3PUHBI002.html

11

磯 直樹 「「人種は存在しない、あるのはレイシズムだ」という重要な考え方 遺伝学では「人種」は否定されている」 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73415 磯は、2018年、米国人類遺伝学会(ASHG)は「人種」概念を用いないよう声明を出したこと、山川出版の高校教科書『新世界史 改訂版 世B313』でも「人種という区分に科学的根拠はない」との記述があることなどを紹介している。

12

土井脩(医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス財団理事長)「外国臨床試験データの受け入れ」『医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス』 Vol. 45 No. 1(2014) https://www.pmrj.jp/publications/02/pmdrs_column/pmdrs_column_49-45_01.pdf

13

内田英二「ICHでのエスニックディファレンスの議論の歴史」YAKUGAKU ZASSHI 129(2) 213―221 (2009)

14

内田英二 前掲論文「ICHでのエスニックディファレンスの議論の歴史」

15

YAKUGAKU ZASSHI 129(2) 209―211 (2009)

16

「ディファレンスからシミラリティへ」YAKUGAKU ZASSHI 129(2) 223―229 (2009)

17

「医薬品のグローバル開発におけるレギュラトリーサイエンスの役割」(日薬理誌 148 2016))

18

「レギュラトリーサイエンスとは我々の身の回りの物質や現象について、その成因や機構、量的と質的な実態、および有効性や有害性の影響をより的確に知るための方法を編み出し、その成果を用いてそれぞれの有効性と安全性を予測・評価し、行政を通じて国民の健康に資する科学です。

薬学の分野では、レギュラトリーサイエンスの対象として医薬品、食品、生活環境等があげられます。具体的には、医薬品・医療機器・化粧品等での品質・有効性・安全性確保のための科学的方策の研究や試験法の開発、さらに実際の規制のためのデータの作成と評価などです。」「レギュラトリーサイエンスとは」日本薬学会 https://www.nihs.go.jp/dec/rs/whats_rs.html

19

家入一郎、樋口駿、YAKUGAKU ZASSHI 129(2) 231―235 (2009)

20

小村 純子、伊藤達也、中井亜紀、緒方映子、今井麻貴、臨床薬理、2004 年 35 巻 1 号

22

50年代に次の声明が出されている。ユネスコ声明「人種問題についての専門家によるユネスコ声明―社会科学者による[見解]」1950 ユネスコ声明「人種問題についての専門家によるユネスコ声明―自然科学者による[見解]」1951

23

『人種差別の実体アパルトヘイトとは……』国際連合広報センター 1968

24

竹村康子「人種概念の包括的理解に向けて」、竹村編『人種概念の普遍性を問う』、人文書院、2005、58-9

25

竹村、前掲書、61ページ。

26

「人種の違いは、遺伝学的には大した差ではない」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/101800399/ ナショナルジオグラフィック日本語版、英国人遺伝学者アダム・ラザフォードへのインタビュー。 ドロシー・ロバーツ: 人種に基づく医学の問題 | TED Talk https://www.ted.com/talks/dorothy_roberts_the_problem_with_race_based_medicine/transcript?language=ja

27

民族衛生学会が1930に設立されていることは記憶されてよいことかもしれない。「民族」という学会名は長年の議論を経てやっと2017年に日本健康学会に改称する。この学会の沿革を学会のウエッブから引用しておく。厚労省の民族や人種への執着とどこかで通底するところがあるのではないだろうか。

「学会設立の発会式には首相を含む政治家が多く出席し、設立趣旨としても「生命の根幹を浄化し培養せんとする・・・」「政治・経済・法律・宗教の浄化」も謳うなど、かなり思想的な動機を持った集まりであったことがうかがわれる。機関誌「民族衛生」の創刊号で、設立の中心的人物であった永井潜は、学会の使命を「民族としての人間本質の改善に外ならない」とし、その改善のためには環境の改善は無力であり、遺伝的性質に働きかけるべきという優生運動的主張を展開している。

学会は1935年からは、より啓蒙的・実践的活動を中心とするため「民族衛生協会」と改称、研究は協会内の「学術部」が担当した(この学術部の別名が民族衛生学会であった)。永井は1937年に同じ研究室の福田邦三に理事長を引き継いでいる。1958年に「協会」と分離し、学術に中心を置いた「学会」が復活するまで終戦を挟む25年間弱、断種法や日本民族優生保護法などの法案の案文作りに積極的にかかわったり、これらの法案を議論する政府委員会を支えるなど、一貫して優生思想を推進したことが指摘されている。

こうしたpro-優生思想的なスタンスは戦後にも残り、1946年の「民族衛生」の巻頭言において、永井は再び断種法や国民優勢法などの重要性を強調している。この間、1940年には「国民優勢法」が国会で成立、終戦をはさんで1948には同法を廃止して、「優生保護法」が制定された。前者の成立に民族衛生学会を含む協会が強くコミットしたことは間違いないが、後者の成立において積極的な関与があったのか否かは定かでない。永井は、終戦後も優生運動についての見方を変えることがなく、1956年に最後の著書「性教育」(雄山閣出版)を発刊し、1957年に亡くなった。永井の逝去と関係があると思われるが、翌1958年、民族衛生学会は協会と分離し、独自の会長・執行部と会則を持った学術団体となった。」 (歴史と沿革 https://jshhe.com/about/history) なお下記も参照。莇昭三「15年戦争と日本民族衛生学会(その1) 「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」3ー2 2003、5月。「15年戦争と日本民族衛生学会(その2)「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」4ー2 2004、6月。また日本のワクチンメーカーと戦争協力については以下を参照。田井中 克人「731部隊とワクチンメーカー」「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」7ー2 2007、6月。