茨城反貧困メーデー2016 in 土浦

安倍政権の「一億総活躍社会」や「すべての女性が輝く社会づくり」、あるいは女性の職業生活における活躍の推進に関する法律(女性活躍推進法)は、労働が愛国主義的な様相をもって国家の目標に従属する構造を露呈させてきた。

http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg12993.html

0.はにめに

安倍政権は三本の矢の政策(金融政策、財政政策、民間投資)による成長戦略を打ち出したが、これらは、いずれも資本の投資環境を「改善」することを目指すものだが、これらに投じられた金は、に含まれていなかったのが労働政策だった。アベノミクスが前提とする経済学がそもそも〈労働力〉とその再生産やジェンダーやエスニシティを扱うことができないという限界が露呈した結果だ。安倍政権の労働政策は、この政権が労働倫理を国家主義的なイデオロギーに押し上げ、労働を国益や愛国心へと繋ぐことを露骨に目指すものだ。他方で、戦争法や武器輸出などから見えてきた経済の軍事化路線が成長戦略によって正当化されるだけでなく、米国のように軍産複合体を形成することによって雇用を維持する構造へと転換する以外に「成長」の回路が見出せないという日本の危機の表われでもある。成長と愛国主義の一体化がより一層鮮明にすることになるとすれば、わたしたちは、雇用のために戦争を容認する価値観との対決に晒されることにもなる。国益に拝跪しなければ仕事が得られないという構造に労働運動がどのように抵抗できるか、という問題に私たちは今真剣にとりくまなければならない。このことは、労働の問題を賃金や労働条件に還元するのではなく、国民国家と資本蓄積を両輪とする資本主義において、人びとが資本と国家のための労働(ここには〈労働力〉再生産労働も含まれる)に動員される構造が本質的にもっている問題に目を向けることが不可欠だということを示している。

以下で述べることは、今ここで直ちに運動に役に立つ観点の話ではなく、資本主義的な労働が本質的に有している無意味さ、なすべき必要がないばかりでなくむしろ社会を破壊し、人びとの生存を脅かす元凶ともなっている労働からの解放に必要な観点から、問題提起したものだ。私たちは「活躍」などする必要を一切認めないし、「活躍」にはもううんざりだ。惰眠を貪るか、団結してたたかうかは、それぞれの判断だとしても、働くことによって奪われ続ける自由と心身に対するとりかえしのつかない傷をこれ以上深くするような力に抗わなければならないと思う。

1.経済とは何か

経済は、社会を構成する人びとの生存に不可欠な条件を保障するシステムである。人びとの「衣食住」を保障することが経済に課せられた責任である。この観点から、資本主義経済が、この条件を満すシステムといえるかどうかを判断すべきである。しかし、経済学が称揚する「労働」は、むしろ効率性と生産性の第一の使命とする経済システムだった。経済学の確立者、アダム・スミス(主流派であれマルクス主義であれ、経済学としての彼の貢献を全否定しない)は、分業によって細分化された単純労働がいかに生産性に寄与するかを強調して、こうした単純労働を「煩労と辛苦」をともなうとしても社会進歩にとって必要だと主張した。しかし、スミスはこうした単純労働の工場で働くことを労働者にとっての意味のある人生の生き方とはしておらず、むしろこの煩労と辛苦の労働の犠牲を肯定し、その上に成り立つ「国富」の増大=成長を擁護した。このような労働による犠牲を国益に従属させる観点は、今日蔓延している「ランティア」労働にも見い出されるし、資本主義だけでなく、ロシア革命後のスタハノフ運動にも見いだされる。以下では主として賃労働に焦点を絞るとはいえ、労働は支払われいない愛国主義的な犠牲的行為としてもその害毒をもたらすものだということを忘れるべきではない。わたしたちは、労働=犠牲的な行為を称揚する発想を転換させなければならない。煩労と辛苦をもたらす労働を否定し、世界市場を目的に無限の拡大を求める資本の生産過程での労働には意味がないということをはっきりと宣言できるような論理を再構築することが必要だ。

2.資本主義イデオロギーとしての経済学

資本主義経済は、市場経済的な「富」の蓄積を通じて、人びとの生存を保障できると主張する。この主張に根拠を与えるイデオロギーが経済学である。経済学は、「資本」(利潤を目的とする組織)の活動を通じて、上記の「経済」の目的を実現することが理論的に可能であると主張する。経済学は、市場における商品と貨幣の交換システムを前提として、「資本」の目的(利潤)を通じて、「経済」の目的(生存の保障)を実現できるばかりでなく、資本主義(市場経済)こそが最も優れた経済システムであることを主張する。この主張は、次の単純な理由から、成り立たないことは明らかである。すなわち、資本主義は労働市場=〈労働力〉商品化を必須の前提にする。この人間を〈労働力〉として調達するシステムは、必然的に、失業人口の存在を前提にし、失業人口=売れ残りの〈労働力〉は、賃金によって生存を維持できず、生存を維持できない。この意味で、資本主義経済は、経済としての社会的な責任を果すことができないことは明らかである。

3.資本にとっての〈労働力〉

資本主義は、〈労働力〉を売ること以外に生存の手段をもたない人口によって支えられた社会である。しかし、資本が要求する〈労働力〉の条件は社会を構成する人びとの生存の条件よりも圧倒的に狭い。社会を構成する全ての人びとが市場で売買される〈労働力〉であるわけではない。社会の人口のなかには、こどもや高齢者、病人、障害者などを含むが、彼らが〈労働力〉の範疇にあるかどうかは、〈労働力〉の買い手である資本が一方的に判断する。(これは、買うか買わないかは、買い手の判断によるという貨幣の権力関係に一般的にみられる性質である。)つまり〈労働力〉を買うかどうかは資本が決めるということだ。資本が蓄積する貨幣は、資本の権力の大きさの指標である。消費者は売れ残りの商品に責任をもたないように、資本も売れ残った〈労働力〉に責任を持たない。〈労働力〉にはならないと資本が判断する部分の生存を資本は保障しない。そして、こうした売れ残りの〈労働力〉を資本は、買うに値いしない〈労働力〉として差別するが、この差別意識が資本主義の価値意識を支配する。所得の多寡や就業の有無などが人間の「価値」を規定するかのような価値観が、人びとを労働市場での競争に駆りたてる。

4.働くことと生活することとの乖離

労働市場で〈労働力〉を売ることができたからといって、労働者の生存が保障されるわけではない。なぜなら、賃金は資本にとっては「人件費=コスト」にすぎないからだ。労働は、資本にとって最大限利潤を実現するように充用されるべきものであって、生活に必要な原資を保障するものだとはみなされない。資本主義における賃金についての支配的な価値観からすれば、時給900円で一日6時間、週5日しか働くことができないアルバイトやパートの労働者が、この所得で生活できないとしても、そのことに、このような雇用形態をとる資本は責任をもたない。賃金で生活を維持できるかどうかは、あくまでも、労働に対する資本の評価を媒介として間接的に保障されるから、労働者にとっては、生活を賃金によって維持するためには、資本の要求する労働に応えることを通じてしか実現できない。本来的には、生存に必要な賃金を保障するメカニズムは資本には備わっていない。したがって、資本は、人間の一生のうち〈労働力〉となりうる可能性のある時期のなかで、「雇用」した〈労働力〉について、資本の利潤獲得の条件に見合う限りでのみ雇用するにすぎず、その生存を保障する意思も世代の再生産という社会存続の基本的な条件も直接保障しない。資本主義的な市場経済は、この意味でも、社会を構成する人びとの生存を保障できない。だから生存の保障は、市場経済のメカニズムの外部で、労働に関する法的な規制を国家が担うことになる。これは、国家の当然の義務ではなく、歴史の経験からも明かなのように、労働者の闘争なしには実現されてこなかったことであり、労働者の闘争力が後退すれば法規制も後退する。

5.資本による搾取の権利としての働く権利

労働は人間の尊厳とは何のかかわりもない。資本主義における労働は、資本(利潤を目的とする組織)の目的に従属した行為である、というだけである。資本の利潤を目的とする活動に包摂される労働の具体的な行為は、利潤を生むための行為という以上の何の意味もない。資本主義的な搾取は、剰余価値に還元されるべきではなく、意味を剥奪された行為の強制もまた搾取の概念に含まれるべきだ。この意味のない行為が自覚されたときには、「疎外」の感情が生まれることはよく知られてきた。他方で、意味のない行為に意味を付与することが、資本主義におけるイデオロギー装置の基本的な役割となる。その中心をなすのが、「国民」というアイデンティティに収斂するものとしての労働の倫理である。この意味で、労働の倫理の政治的な表現形態が愛国心である。労働者の働く権利と呼ばれるものは、その実質的な意味からすれば、生存の権利を実現するには生存に必須の所得が保障されなければならず、この所得を保障する唯一の手段が資本主義では「資本に雇われて働き、賃金を得る」ということに依存せざるえをえない、という意味であるにすぎない。

6.資本にとっての労働の意味

労使関係には、資本の意図を労働者が「理解」する関係が含まれる。労働者相互の関係は、資本の意思への集団的な従属と離反の弁証法を含むから、フラットな人と人とのコミュニケーションの関係ではない。資本の人間関係は、指揮・命令、説得、教育、妥協、対立と摩擦をはらむが、組織の目標は「利潤」という単純な指標によって評価可能なために、この指標によって労働者も評価され、排除と統合の波にさらされる。(労働からの解放の闘争は、唯一の評価軸をたてることができない多様性をもつから、その組織は資本にはない固有の困難を伴う)資本にとって、労働者は、外部であり内部である。労使関係には資本の意図を労働者に内面化させようとする力とその困難な関係が含まれる。この内面化の困難(ディスコミュニケーションあるいは労使関係の摩擦・対立)は、一方で機械化=技術革新を促して労働者を排除するが、他方で労働者を資本家的な精神に包摂する価値規範のテクノロジーの開発を促す。18世紀から19世紀にかけて経済学、法学、政治学が登場したのは、この階級的な摩擦を普遍的な市場のルールと政府の統治機構によって調整する必要があったからだ。これに対して19世紀から20世紀にかけて、公教育制度、経営学、社会学、心理学、精神医学といった科学が登場するのは、〈労働力〉の資本主義的な統合の基本的な問題が、肉体労働者に限定されず、階級意識を解体して普遍的な市民や国民意識と資本家的意識を内面化した労働者を必要とするようになったことと無関係ではない。これは、社会主義運動への対抗として、資本主義的な身体の再構築が課題となってきたということである。労働そのものは、資本にとっては利潤を獲得するための活動に統合された人的資源であるが、労働者にとっては、何の意味も生み出さない。労働に意味は、もっぱら資本によって構築される。資本にとって、労働へのモチベーションは、利潤生成にとっての必須条件であるが、労働の意味は、資本によって一義的に決めることはできない。この労働の無意味さが、肉体労働から諸々の精神的な労働へと波及することによって、労働をめぐる意味あるいは意識の問題の解決に資本が直面させられてきた。労働者の側が労働のモチベーションを生成させる過程は、それ自体が資本と労働との摩擦や矛盾を内包させた不安定な闘争の過程である。このことに気づいた労働運動は少ない。存在が意識を規定するという唯物史観の定式とレーニンの『帝国主義』のような資本主義経済の客観分析で十分だという楽観論が支配的だった。この意味で、幸徳秋水が『帝国主義論』の第一章を「愛国心」批判にあてたことの先見の明に、今改めて注目すべきだろう。

7.資本家意識を内面化した無産者たち

熟練工の日常的な「抵抗」を機械化が駆逐する19世紀から20世紀にかけての歴史は、現在においても第三世界で繰り返されている。同時に、駆逐された労働者は、失業と貧困に追いやられ、次世代の〈労働力〉は機械化が困難な領域に投入される。資本組織の巨大化(帝国主義を支えた大資本)は、資本の管理組織を労働者に委ねざるをえなくさせるが、これは同時に、資本家意識を内面化させた労働者を社会的な「層」として生み出すことを必要とした。資本家的な労働の担い手という存在=イデンティティが、こうした労働者の意識を規定しはじめる。物質的生産の現場(鉱山などの資源採掘、都市建設、機械化が不可能な工場など)の労働者だけでなく、〈労働力〉以外に売るものをもたない無産者であるにもかかわらず、資本家意識を内面化させた大量の労働者が生み出される。しかし、同時に、資本家意識の労働者による内面化は、それ自体が存在と矛盾する。この矛盾は、疎外された労働として自覚されて集団的な異議申し立てという政治的な闘争へと展開するだけではない。多くの場合、こうした明示的な政治過程に接合されずに、多様な「社会的病理現象」として処理されるような方向に拡散する。自殺、精神的な疾病、薬物依存、犯罪などとして現象するとによって、人びとの生存を破壊する。伝統的な階級闘争は、こうした領域に拡散する逸脱を解決できる戦略をもたなかったために、これらの諸現象がもたらす労働の危機を、資本主義の支配的なイデオロギーがもっぱら自らの秩序の側に回収することで危機を調整するにまかせてしまった。二つの世界大戦は、階級意識よりもナショナリズムが優位にたつ資本主義のイデオロギー構造の再構築を如実に示しただけでなく、多くの労働者階級の大衆もまたホロコーストの加害者となり、無意味な戦争を積極的に受け入れた。この戦争に動員された人びとの意味と行為の問題は、資本主義的な労働とナショナリズムの問題と構造としては同じものだということを見落してはならない。

8.資本に包摂される日常生活

無産者という物質的土台によって規定された存在は、資本から相対的に自立した異なる価値規範をもつ「階級意識」の形成を、自動的には保障しない。資本家意識を内面化させることは、個々の労働者の個的な営為ではなく、社会が人びとの意識を形成する制度と文化、職業教育と「消費者」アイデンティティの制度的な構築によって生まれる。つまり、労働をもっぱら所得に還元し、所得によって可能となる消費生活に人びとの主要な関心をふりむける意識配分の構造転換のなかで、無産者の資本家的意識生成が生じる。この過程を媒介するのが意識産業あるいは文化産業であり、現代の情報メディア産業である。こうして「意識」は、上部構造から経済的な土台をなす条件へと変化する。資本の利潤形成の構造(剰余価値を生成する構造)は一貫したものがあるが、この構造を支える資本の組織と〈労働力〉の意識の構成は、生活過程が資本によって包摂され、労働者の階級文化の自立性が喪失されるにつれて複雑になる。無産者であることは労働者としての階級意識を保障しなくなる。同時に、生活手段としての商品の使用価値は、人びとの日常生活の意識を構成する客観的な環境となって、人びとの意識を資本家的な意識(存在と乖離した意識)の再生産を担うようになる。資本主義的な「生存の保障としての経済」のシステムは、資本主義的に生きる=生活する条件を私生活領域に浸透させ、資本家的な意識の再生産の条件を生活そのもののなかに生み出し、資本主義以外の社会に生きることの可能性や潜勢力を抑圧する無意識の作用が支配的になる。〈労働力〉再生産が、物質的労働から、資本家的な労働やコミュニケーション労働へと移行することによって、(フロイトの言う)無意識を含む意識の存在様式は資本の死活問題となる。

9.価値からの使用価値の解放から使用価値そのものへの懐疑へ

資本主義的な労働は、商品の価値=貨幣を支える「抽象的人間労働」が使用価値を支える「具体的有用労働」に優先することによって、資本の搾取に組み込まれるという資本主義批判は、十分ではない。使用価値=具体的有用労働は価値=抽象的人間労働と一体のものであって、後者を否定することは前者を否定することなしには成り立たない。資本主義的労働から資本の要素を引き算した残余から社会主義的な労働を再構築する発想(資本主義的な生産関係から生産力を解放するという発想)は、資本主義社会のなかで形成(開発)されてきた「使用価値」が、資本主義的な価値規範やライフスタイル、あるいはイデオロギーを支える基盤をなしてきたことを軽視している。資本主義社会によって形成(開発)される使用価値そのものの意味を再検証することなしに、既存の使用価値と具体的有用労働を将来社会に継承することはすべきではない。言い換えれば、具体的労働をそのままにして資本家を職場から追放することによって実現される労働者自主管理が、使用価値そのものへの反省を含まないならば、資本主義的なライフスタイルがもたらす価値観の再生産(労働の意味についての虚偽意識の再生産)を残すことになる。資本主義のもとでの労働の大半は、資本にとって必要な労働であり、資本主義的なライフスタイルにとって必要な労働であるにすぎず、廃棄されるべきものである。この意味で、労働者の労働をめぐる闘争は、資本による行為の意味剥奪との闘争であると同時に、資本主義における労働者としてのアイデンティティへの自己否定的な解放という困難な問題を見据えなければならない。しかし、残念なことに、自らの労働を無意味なものとして否定することのなかから解放をつかみとることに成功した革命はほとんどない。これは未踏の挑戦であるが、この挑戦は資本主義に代替する社会創造にとっての必須条件だ。貧困からの解放は、資本家的な豊かさをあまねく実現するような生産力を獲得することにその目的があるわけではない。では、どのような内実が貧困からの解放の内実を構成するのか。このような迂遠で哲学的とのいえる問いをめぐる議論が結論を得るのに必要な時間は、人びとが飢えから解放されるのに必要な時間と比べて圧倒的に大きい。このタイムラグを耐える過渡期の構想が必要になる。

10.家族と国家が内包する亀裂

資本主義では、失業人口、〈労働力〉として市場に参入できない人びと、あるいは賃金では生存を維持できない人びとなど、資本主義的な市場経済では維持できない人びとの生存を保障する機能は、市場経済の外部に委ねられる。この外部のシステムとして、家族と国家が主要な役割を担う。資本主義という社会体制は、この意味で、資本が支配する市場経済、家族、国家という三つのサブシステムから構成される。これは、いずれも資本主義の特殊歴史的な構築物であって、普遍性はない。また、市場経済の支配的なイデオロギーが無視するジェンダーやエスニシティ、国籍といった属性が家族や国家にとっては無視しえない条件をなす。この意味で、これらサブシステムは相互に異なる支持構造をもつ。また、それ自体で完結した構造をもつというよりも、資本、家族、国家それぞれに内在する矛盾や限界を相互に補完するものとして相互依存的であるとともに、システムからの逸脱としてその矛盾や限界が人びとの集団的な力へと具体化される有り様が、常に存在する。市場経済にとって、生存を支える所得構造と人口の間の矛盾と意味を剥奪された労働とこの空隙を埋めるための意味構築をめぐる摩擦が亀裂を生む。家族にとって性的欲望と婚姻規範との不可能な調整の間に摩擦と亀裂がある。

11.国民統合と〈労働力〉

国家は、社会の統治機構であって、社会を構成する人びとを「国民」として組織することによって権力としての正統性を維持するための組織である。市場経済ではカバーできない人びとの生存を国家がフォローするとは限らない。市場経済由来の人びとの生存の危機が、社会の統治の安定性にとって脅威となるならば、この意味での生存の危機に対応するかもしれない。そうでなければ、国家は生存の危機を放置する。とはいえ国家は、「国民」アイデンティティの構築という無理による矛盾と摩擦を回避できるわけではない。市場は常に国境を越えようとし、国家の規模は、家族や親族組織にとってはあまりにも大きすぎる。資本主義は国家に代替する統治機構を持てないから、国家を統治機構として唯一のものとして前提する「国民」アイデンティティと国家に収斂する価値観を構築しようとするが、ここに全ての人口を統合することに成功した国家はない。闘争の主体は、この意味で、それ自体が複雑で多様な性質をもつ。利潤を目的とする組織を解体することは、人びとの生存を直接目的とする組織を創造することとは同じではない。同時に、人びとはこれらのサウブシステムを横断して「生きる」わけであり、そこには資本主義の「神話」としての普遍的価値(自由と平等)がこのサブシステムの正統性のイデオロギー的な前提をなしている(とりわけ西欧近代の枠組では)。

12.権利の商品化(権利は売りわたすことができる)の廃棄

近代資本主義が普遍的な人間の権利の位置に置く「自由」や「平等」の権利は、それ自体が譲渡可能であって、市場経済ではこれらは商品化可能であって、売買可能なものでしかない。〈労働力〉を売るということは、資本に対して、労働者が、その自由の権利を売るわたし、平等な人間関係を放棄することを意味している。〈労働力〉を売る「自由」、あるいは〈労働力〉売買の形式的な売り手と買い手の対等な契約は、結果において、自由と平等という基本的な人権を売りわたすことを意味している。〈労働力〉の商品化の廃棄とは、権利の商品化の廃棄の一環として捉えられるべきものだ。政治過程では、代議制民主主義は、自己の政治的な権利を代表とされる者に移譲する契約をむすぶことで成り立つ。この代議制は国民国家の規模と関りがある。市場と国家によなない社会は、自由も平等も売り渡すことのできない権利として実現する社会であるとして、このことをどのように実現できるかは未だ未解決の問題である。

13.生存の保障という経済をめぐる最後の難問

経済が生存を保障するシステムであるという場合、これまでの人類の歴史において、生存の保障を直接目的とした経済は存在したことがない。これは、人間集団が、生存の直接性から乖離した象徴的な世界と不可分であるという人間の本質と関わる問題である。言語によって構成される社会的な存在としての人間の相互関係は、必然的に、生存の直接性を不可能とし、媒介を必然とする。利潤を目的とする資本の機能が衰退した結果として、資本を補完する家族や国家の機能が肥大化することで、経済の生存を保障するシステムを維持する方向に転換することは、少なくとも抑圧のない自由な社会の実現にはつながらない。統治の機構としての国家と親密な集団でありかつ世代の再生産を内包する家族をも、解体することが必須の条件となる。

201651日土浦メーデー集会「5/1はたらかないはなぜいけない ▲私たちはウンコ製造機だ▲