二〇〇五年一二月香港で開催された世界貿易機関(以下WTOと呼ぶ)に対する反対運動は、香港現地の民衆運動に大きな感動を与えただけでなく、わたしたち日本から参加した者にとっても大きな教訓と課題をもたらした。
グローバル化の歴史から
現在のグローバル化と呼ばれる状況を見通すために、簡単に20世紀後半の歴史を振り返ってみよう。第二次世界大戦後まもなく世界は資本主義圏と社会主義圏の間の体制間対立の時代にはいる。これは、冷戦とよばれる時代だが、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中南米における米国による非合法な軍事行動など熱い戦争が第三世界では続いた。大半の植民地地域は独立を勝ち取りはしたものの、南北の格差は縮まらなかった。米国の左翼の経済学者、ハリー・マグドフが「植民地なき帝国主義」と呼び、サミール・アミンなど第三世界の経済学者が60年代には、先進諸国を「中枢」、第三世界を「周辺」とする世界規模での構造的な経済搾取が生み出されているという厳しい批判を展開した。
戦後の資本主義世界体制を支えてきた国際経済機関は、国際通貨基金(IMF)と世界銀行(WB)であり、現在世界貿易機関(WTO)の前身の貿易及び関税に関する一般協定(GATT)だった。これらは、社会主義に対抗して資本主義の経済体制を形成するというはっきりとした政治的な意図を持っており、第二次大戦直後のヨーロッパと日本の戦後復興が社会主義化へと転換しないよう歯止めをかける援助体制をとった。その後、これら地域の経済復興にメドが立つにつれて、援助対象が第三世界地域にシフトしてきた。IMFは通貨、世界銀は経済援助、GATTは貿易を各々担当するので、一見すると経済の組織のようにみえるし、事実これは間違いではないのだが、これらはあくまで先進資本主義国が主導権をとる世界体制のための制度だった。詳細を論じる余裕はないが、これらの国際経済機関の体制を前提として、米国は世界規模の軍事活動に必要な資金を調達できたといっても過言ではないのである。
たとえば、世界銀行の総裁は、慣例として米国から出されるが、現在のウォルフォビッツ総裁は、米国国防副長官をつとめた外交的にはタカ派の新保守主義派(いわゆる「ネオコン」)として知られる人物であるし、ベトナム戦争当時に米国の国防長官をつとめたロバート・マクナマラもその後1968年から80年まで世界銀行の総裁となり、現在の新自由主義的なグローバル化をもたらすきっかけをつくっている。このように、経済と軍事を一体のものとしてとらえて世界戦略を構築するというのが米国の一貫した考え方なのである。米国にとって、経済は国家安全保障に直結しているわけだ。言い換えれば、わたしたちが日本の経済を考える場合、それが一見すると安全保障とは無関係にみえる貿易や金融の問題であっても、きちんと憲法9条を自覚した経済関係を構想しなければならない。
冷戦期は、先進国であれ第三世界であれ、資本主義陣営にとっては、資本主義は貧困や不平等を解決できないという批判に応えるために、福祉や社会保障政策をとることを通じて、資本主義の体制を維持しながら福祉も社会保障も充実できるということを立証しようとやっきになった。資本に十分な収益を保証し、同時に貧困層にも十分な生存権を保証するには、かなりの経済成長が必要であったが、こうした高度成長はどこの先進国も長続きせず、資本主義の世界体制が息切れしはじめるのが70年代以降であり、その過程で、市場経済をさまざまに制約する福祉国家のような「大きな政府」がやり玉に挙げられはじめる。政府は、企業活動をもっと自由にさせ、国際競争力のある分野を優先し、政府が独占している市場の民間への開放(国有企業の民営化)などが次々に主張されるようになる。こうして、1980年代の先進国は、レーガンの米国、サッチャーの英国、そして中曽根の日本に象徴されるような規制緩和と行政改革への転換が始まる。冷戦が社会主義圏の敗北で終結したことは、こうした傾向に追い撃ちをかけ、貧困や不平等が放置されるような企業の利益を第一とする考え方がまかり通るようになる。本来、経済とは人々の生活の必要を満たすための社会のシステムであるはずが、経済=企業の収益のための活動という誤解が支配的となり、金融市場が異常に膨張しギャンブル化しはじめる。株や債券は実体経済の投資資金の調達手段から価格差益を目当てのギャンブルの手段となった。マネーゲームにどんどん資金が流れ込む一方で、貧困は深刻化する。こうした傾向が企業の利益を優先するグローバル化が押し進めてきた。
なかでも、世界銀行とIMFが実施した構造調整政策は深刻な後遺症を残した。構造調整政策は、80年代に南北問題が深刻化するなかで、第三世界諸国の債務問題を解決するためには、輸出産業を育成して市場経済を強引に導入しおうというものだった。この構造調整によって、財政は逼迫し、失業や貧困が蔓延し、福祉や教育サービスが急速に後退した時期でもあった。この構造調整政策を最初に打ち出したのは、世界銀行のロバート・マクナマラ総裁だった。こうして、第三世界の農村や地域の小規模な市場は解体され、これら地域の安価な労働力や資源はグローバルな市場経済に統合されるようになるが、その結果は貧困の拡大と回復不可能なまでの国家の債務危機だった。第三世界の経済が世界経済に統合されて、適材適所で輸出競争力のある産業を育てれば外貨が獲得でき、債務も解決でき、人々の暮らしもよくなるという考え方は、確かに経済学の教科書に書いてある。しかし、経済学の教科書は第三世界の現実を見ているわけではなく、箱庭のような「モデル」を使って現実離れした理屈を述べるだけなのだが、こうした教科書の眼鏡でしか現実をみることができないのが国際的な経済機関の官僚たちだということが繰り返し批判されてきた。
1995年1月にGATTの後継機関として、世界貿易機関(WTO)が設立された。農産物や工業製品の貿易だけでなくサービス分野の貿易も扱う貿易全般についての国際機関だが、この機関は次の三つの点で重大な問題を抱えていた。一つは、右に述べた市場経済万能主義がこの機関の基本的な態度であったこと、第二に、政府によるさまざまな保護政策にたいして制裁措置がとれるために政府の主権を制限できるということ、第三に、WTOの意志決定は、形式的には民主主義的な手続きをとりながら、事実上先進国によって決められるために先進国の利害が濃厚に反映されるということである。その結果、どこの国も自国の輸出競争力のある分野では自由競争を主張して、関税の引き下げなどを主張する一方で、競争力の弱い産業を保護しようとする。しかし、保護政策は常に自由貿易違反だという批判にさらされ、最終的には競争力の弱い産業を犠牲にして競争力のある産業で経済力をつけようという圧力に屈しかねない極めて危うい政策をとることになる。米国のような超大国だけが、自国の産業を保護しながら他国の市場を開放させ自国の製品の市場するような政治力を発揮できるが、多くの第三世界の国はそのような選択肢はとれない。現在の先進国は、単なる工業先進国であるだけでなく農業大国でもあり、さらに種子などの特許制度や遺伝子組み替え技術などをもつ巨大な農業多国籍企業の本籍地でもある。
WTOがもたらした深刻な影響は非常に広範囲に及ぶ。人々の生活を支える電力、水道、鉄道などの公共サービス部門の民営化を促し、国際競争力の弱い産業の保護を撤回してこれらの産業で働く人々を失業に追いやる。第三世界に投資する企業が求めるのは、地域の経済の活性化でもなければ人々の豊かな生活でもなく、安価な労働力である。ちょっとでも安い労働力があれば、工場を閉鎖し、農地を放棄して投資先を変える。人々には失業と貧困、もはや自立性をうしなった地域の破綻した経済だけだ。政府は、競争力のある産業を育成してもそれ以外の産業は見捨てることを余儀なくされる。
WTOを包囲する民衆の抗議
新自由主義的なグローバル化に政府が巻き込まれるかどうかは、自由貿易を押しつける国際的な圧力と自国内部の国際競争力のない産業で働く人々からの仕事を奪うなという要求という力関係によって決まるといっても過言ではない。新自由主義政策を思いとどまらせるには、WTOの政策そのものを変えさせるか、あるいはWTOそれ自体を廃止して、別の貿易の仕組を根本的に創造するということと同時に、有権者が自国政府を新自由主義の圧力に委ねないように反対の方向から自国政府に圧力をかけるか、あるいは新自由主義政策をとるような政権を権力の座からひきずり降ろすしかない。
おおげさなことを言っているように見えるかもしれないが、これまでWTO(そしてIMFや世銀も同様だが)をめぐって世界中の民衆が起こしてきた行動はまさに、新自由主義の国際機関を廃止するか根本的に改革し、政府の市場経済中心主義をやめさせることだった。1999年のシアトルにおけるWTO閣僚会議が世界中から集まったデモ隊によって中止に追いやられたこと、2003年のメキシコのカンクンでは閣僚会議は開かれたものの、デモ隊が包囲する一方で、多くのNGOや農民団体、社会運動団体が第三世界政府に強力な働きかけを行うなかで、まったく進展がみられなかったりと、WTOは苦境に追い込まれてもきた。言い換えれば、世界規模で立ち上がる民衆の力は大きな影響力を発揮してきたのだ。その結果、新自由主義を推進しようという先進国政府は、二国間の自由貿易をベースに、地域レベルでの自由貿易をまず定着させるという作戦をとりはじめた。
昨年12月の香港のWTOは、こうしたこれまでの新自由主義グローバル化をめぐる世界中の民衆の闘いが東アジアを舞台に展開することになったという点だけでなく、中国という巨大市場を新自由主義に統合できるかどうか、アジアという多様な地域に新自由主義の画一的な経済をさらに持ち込むきっかけになるかどうかを占う重要な会議だったといってよく、それだけに東アジアの民衆の力量が問われる闘いの場になった。タイに拠点をもつフォーカス・オン・ザ・グローバル・サウスのウォルデン・ベロは、この香港のWTOにおける民衆の闘いは、1999年シアトル、2003年カンクンで民衆側が勝利し、2001年ドーハで新自由主義側が勝利した二勝一敗の状況に中で、WTOを追い詰める決定的に重要な闘いの場になると主張して、「なにも決まらないことが何かが決まるよりもましだ」ということを繰り返し述べた。これは、シアトルのように閣僚会議を中止させる王な力は持ち得ないかもしれないが、会議が合意を得られずに閉会することに持ち込むことがぎりぎりの民衆側の獲得目標だと提起したのだった。
香港WTOで何を獲得目標として闘うのかを、もっとも鮮明に示したのは、1500名を越える代表団を送り込んだ韓国の農民や、ビアカンペシーナにような第三世界を中心として非常に大きな影響力をもつ農民運動団体だったといってもまちがいないと思う。連日韓国の農民たちは多様な抗議行動を展開し、香港のメディアを釘付けにした。一見すると単なるパフォーマンスと思われがちな行動(岸壁から会議場まで海にとびこんで泳ぐ、アメリカ大使館前で頭髪を剃る「剃髪」闘争など)も決してセンセーショナリズムを狙ったものではなく、韓国政府が無視できない「力」が目に見える形で存在することを会議上と本国の政府に自覚させ、本国の世論も無視できない状況をつくり出すという非常にはっきりと自覚的にとられた戦術だった。閣僚会議最終日の閣僚宣言が出るかどうかのせめぎ会いの時間には、韓国の農民を始めとして、千数百名が会議上近くの路上に明け方まで座り込み、全員が逮捕・拘束されるという前代未聞の大量逮捕が発生したが(わたしをはじめ数名の日本からの参加者もこの逮捕者のなかにいた)、これは逮捕されても引き下がらないという強い意思であり、香港の市民に大きな共感を呼んだ。事実、大量逮捕が発生したにもかかわらず、その翌日には逮捕に抗議して香港の市民たちが大規模なデモを行っている。
WTO香港会議は、残念ながら閣僚宣言が取りまとめられて閉幕したが、その内容は抽象的であって、具体的な目標は今後に先送りされた。わたしの判断では、民衆側の「判定負け」だろうとおもうが、香港での闘いということでいえば、今後の闘いに大きな力を与えたと思う。特に、世界中からつまった農民たちの闘いは、中国語で報じられたわけであって、現在中国国内で深刻になっている農村の貧困問題と農民の反乱に必ずや大きな影響を与えるであろうし、中国政府もこうした反グローバル化、新自由主義反対の民衆の声を無視できなくなると思う。
さて、最後に日本政府とわたしたち日本からの反WTO参加者の動きを簡単に述べておきたい。日本政府は会期中に、外務省、経産省、農水省がそれぞれステートメントを発表した。このうち麻生外務大臣の声明が出された日に、日本から参加した者たちで連絡のつく範囲で急遽相談し、この外務省声明への反対声明を準備した。
麻生外務大臣は、2005年12月14日のWTOの閣僚会議で三つの政策を表明した。それは、
第一に、インフラ関連分野で合計100億ドルの資金協力を実施する。
第二に、合計で1万名の途上国への専門家の派遣と、途上国からの研修員の受け入れる。
第三に、後発開発途上諸国(LDC)の全産品に対し、原則無税・無枠の市場アクセスを提供する。
というものだった。この提案を読んでわたしたちは唖然とした。日本政府のこの支援策は、WTOのプロセスを通じて日本の国益や多国籍企業の利益を実現し、むしろ途上国の貧困をより拡大させる可能性があることを確信した。特に、輸出指向の農業の推進は、農業生産のいっそうの効率を求めて、化学化・機械化・単一生産化など農業の変質を促し、自然環境をも破壊するだけでなく、100億ドル支援はWTO交渉で第三世界諸国を抱き込むある種の「見せ金」でしかないこと、研修員の受け入れも、労働者の権利を付与しない研修員制度の悪用などが問題になっている現実を無視していること、「無税・無枠の市場アクセス」は第三世界の地域経済を輸出中心に転換させるだけで、経済の自立はおろか貧困対策にはならないことを厳しく批判した。この対抗声明を英訳し、日本政府とNGOの交渉(会期中毎日夜9時から行われた)で政府側に突き付けた。韓国の運動体が開設したメディアセンターでは、インターネットテレビの放送が連日行われ、この放送でも報道された。これがわたしたちがやることができた日本政府への具体的な働きかけだったが、他の諸国の運動体は、政府への働きかけ、街頭でのデモ、ビクトリア公園のテントなど市内各所で実施されたさまざまな反対集会や会議を有機的に結びつけてより効果的な活動を事前に準備していた。
日本の運動はこの点でまだ「敵」を目前にしてどのように運動を展開するか、日本国内のさまざまな運動を政党や考え方の違いを越えて新自由主義のグローバル化に反対するという一点でまとめあげていく政治的社会的な力をつけていくという点では大きな宿題を負ったと思う。第三世界の諸国の活動家から日本の運動への期待は非常に大きい。それだけ政府の力、日本の企業の力は大きく、これらを効果的に規制するちからは主権者であるわたしたちこそが果たさなければならない課題だと改めて痛感した。
出典:『信州・自治研』2006年3月