戦争と平和の「リアリズム」(1946-1956)

戦争と平和の「リアリズム」(1946-1956)

敗戦から一カ月あまりで 早くも文部省と帝国芸術院は文展を復活させた。民心の慰労と進駐軍に日本美術を紹介するとの触れ込みであった。他方、一九四六年四月には「民主主義美術の創造と普及、美術の人民への解放、人民の美術的資質の昂揚、戦争画家の追及」を旗印に日本美術会が結成される。敗戦の年から翌年にかけて、二科、行動美術、院展、国展、春陽会、光風会、青竜会、独立、一水会、自由美術などが次々に復活、結成された。戦後、九州派の最年少作家として出発した菊畑茂久馬は、一九八一年に、こうした敗戦直後の日本の美術界を振り返って、「わずか一年余で完全に戦前の陣形が整えられた」として次のように述べた。

「ここに見るのは戦中美術の跳梁、民主革命美術の跋扈、自意識の身の丈を上まわる我執のエネルギー、自己保存-これだけの材料が既に五〇年代の前半に用意されていた。やがて立ち現れる”政治なんか知らないよ”といった今日のモダニズム芸術も、<連合軍がその武力によって日本の民衆にもたらした政治及社会的自由は、我が国における民主主義革命の端緒を開いた>(蔵原惟人『民主主義と文化革命の諸問題』-『新生』一九四六年一月号)というありがたい戦後解放の虚構性に実は思いもかけずその出自の源を持っているのである。すべてはここから始まっているのである」(『戦後美術の原質』葦書房、一九八二年所収)

この菊畑の指摘は、あまりにも事態を単純化しすぎているきらいはあるが、しかし、的確にこの時代が生み出した戦後の出発点となる美術状況を描き出じている。

節操論争——戦争協力も「国民の義務」

戦時期の美術は、他の文化・芸術の領域と同様、様々な美術団体が次々に解散あるいは統合され、一九四三年には日本美術および工芸統制協会(美統)と日本美術報国会(美報)が結成される。そして、藤田嗣治、宮本三郎ら多くの美術家が軍の求めに応じるなどしておびただしい数の戦争画を描き、当時さかんに開催された戦争美術展に出品された。
敗戦直後、戦争に協力してきた美術家たちがこんどはこぞって進駐軍の慰安のための展覧会に協力するようになる。はやくも一九四五年一〇月四日から一八日まで東京日本橋の三越本店で油絵と彫刻の展覧会が「進駐軍慰問、都民慰安のための展観」として毎日新聞社主催で開催される。この展覧会の斡旋者が戦時中に陸軍美術協会の中心的なメンバーだった藤田嗣治、猪熊弦一郎、鶴田吾郎らであった。戦時期は日本軍に、敗戦後はかつての敵であった米軍に協力する変わり身の早さに対して、宮田重雄が同年一〇月一四日付の『朝日新聞』鉄筆欄で「美術家の節操」を寄稿する。宮田は、この文章で藤田らを名指しして、「陸軍美術協会を牛耳り、戦争中ファシズムに便乗した人たちであれば、今さらどの面下げて、進駐軍への日本美術紹介の労などがとれるのか」と厳しく糾弾した。これに対して同月二五日付の『朝日新聞』の鉄筆欄で、鶴田吾郎と藤田嗣治が反論を寄稿し、さらに雑誌『美術』一九四五年一一月号で伊原宇三郎が、藤田らの立場を擁護する文章を寄稿するなど、一定程度の広がりをみせた。これが戦争協力論争とか節操論争と呼ばれたもので、戦後のもっとも早い時期の戦争責任問題に関わる美術界での議論だった。
この宮田の批判に対して藤田は、「元来、画家は自由愛好者で軍国主義者であろうはずは断じてない」としながら、たまたま開戦の大詔が渙発されたから、国民の義務を遂行したまで」と反論した。

「原爆の図」の「リアリズム」——時代の文脈の中で

敗戦直後の時代は、こうした芸術家の戦争責任を問う声が一部で厳しく叫ばれはしたものの、むしろ社会的、政治的な問題意識をもつ芸術家たちが主として関心を抱いたのは、つかの間の「平和」の後にあらわれた新たな戦争への危機感だった。朝鮮戦争、中国をはじめとする社会主義圏の拡大と日に日に強まる東西対立のなかで、「平和」はひとつの重要なキーワードとなった。しかも、戦後の言論、表現の自由は無条件ではなかったのであって、原爆や米軍の戦争行為への批判は厳しく検閲され、一九四九年二月のレッドパージの開始、一九五〇年六月の朝鮮戦争勃発によって占領政策は同時に露骨な思想と運動の弾圧の様相を呈した。
丸木(赤松)俊、丸木位里の「原爆の図」が描かれ始めたのはこうした時代だった。しかも原爆投下の記憶も生々しく、その被害者や経験者が多く生きていた時代である。しかも原爆という主題は占領軍にとってのある種のタブーであった。ヨシダ・ヨシエが『丸木位里・俊の時空』(青木書店)のなかで述べているように、当時大田洋子の『屍の街』や峠三吉『原爆詩集』が検閲され、丸木夫妻の絵本『ピカドン』は何度も占領軍による押収処分を受けるという時代だった。数年にわたる長いデッサンと構想を経て、一九五〇年初めに第一部「幽霊」が完成し、この年二月の日本アンデパンダン展に出品され、夏には「火」「水」の三部までが完成する。
絵画という手法で、原爆という主題を扱うことが写真や映像表現とは異なるどのような表現を可能にするのかという問題は、社会的なテーマを扱うリアリズムの芸術が一般に問われてきたものでもあった。「原爆の図」を見る私たちは、明らかに原爆の被害を撮影した映像とは異なる印象を受け取っている。そこには確実に作家の手を経ることによるある種の抽象作用が働いている。描く対象は、凄惨なホロコーストによって倒れ傷ついた夥しい人間たちである。作家が一人一人の死体や傷ついた身体を描く作業は、いったいどのような思いに支えられたものなのか。美術や芸術では、おぞましいものや凄惨な場面すら作家の手によって見る価値のあるものへと変えられてしまう。
敗戦直後、「原爆の図」は、当時の社会主義リアリズムの運動や平和運動の文脈のなかで、原爆の悲惨を伝える記録性を備えた絵画であるとみなされて、運動のなかで受容され、展示されてきた。しかし、他方で当時から「原爆の図」のリアリズムについては異論もあったのである。
ヨシダは先の著作で「原爆の図」をめぐる自身の体験を語っている。ヨシダは、一九五〇年代初めに、「原爆の図」の最初の三部作を藤沢の旅館で展示し、その後「虹」「少年少女」を加えた五部作を木箱に詰めて全国各地を巡回した。この彼自身の活動を回顧しながら、広島、長崎の展覧会場における意外な反応について書いている。つまり、被爆体験の記憶も新しい当時、「この作品では被爆の現実が描ききれていない」という批判を浴びたのである。実際に被爆者たちが自らのケロイドの傷跡を観客に晒しながら、作品への批判もなされたという。ヨシダは、こうした経験を踏まえて次のように書いている。

「『原爆の図』には、描くことと描ききらないこととの、実は十重二十重の呪縛があるのです。百のリアリズム論議よりも、切実な想像力とリアリズムとのあいだの陥穽が待ちかまえていたはずなのです」

他方で、菊畑は、同時代の「原爆の図」の受容は「原爆を落とした者に対する日本人民の抗議の威力を示すものだ」といった賛美が大方の評価であったとしつつ、先の著作で次のように書いている。

「[原爆の図は]死者を冒涜し視姦した—罪—の意識は、誰よりも画家自身が背負っていたはずではなかったか。悲惨な情景描写にほくそ笑んだ筆、残忍な魔性の色に濡れた墨の汁、絵がさわってはいけない道を、一瞬、そこを通ったからこそ、ともあれあの『原爆の図』が普遍の海に人間社会の修羅の実像をうつしたのではないか」

社会的なテーマをもつ作品のある種の宿命として、作品の意味や価値がその時代の文脈に依存せざるを得ないということがある。戦中の戦争画はその典型であるが、「原爆の図」とてその例外というわけにはいかないのである。しかも、絵画という表現が、現実の生身の体験と同じ平面で拮抗しうるわけもないとすれば、悲惨な死を描いたはずの作品が、時代を経る中でまったく逆に、美的な表現へと転倒されることもありうるのだ。では、「原爆の図」は美しい作品といってはいけないのか? もし、美しいとすればそれは何が美しいのだろうか?逆に美しさなど微塵もないとすれば、この作品を見る私たちが作品の何に引き寄せられるのだろうか? ただ単に怖いもの見たさだけなのか? つまり、作品の意味は決してそれ自体で自立することはできないのであって、常に社会的政治的な文脈に依存せざるをえない。「原爆の図」が芸術としての普遍性をもつことだけを手放しで喜んでいいわけではない。「原爆の図」をはじめとする社会的政治的な主題を対象とする作品が、その社会的政治的な本来の意味を持ちつづけるためには、この作品を受容する今現在の私たちの社会が原爆や戦争についてどのような立場をとっているのか、という問題と切り離せないのである。

リアリズムの問題——花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』

「原爆の図」に限らず、リアリズムの問題は当時の芸術運動において重要な論争課題だった。というのは、当時の芸術表現の潮流では、一方で、抽象絵画とシュールレアリスムという二〇世紀前半の現代美術の大きな流れに対するものとしてのリアリズム芸術の意義と可能性が様々に模索され、議論されていたからである。たとえば、一九四七年に始まった日本美術会主催の日本アンデパンダン展は、社会主義リアリズムの立場にたつ芸術家たちが多く出品した展覧会だったが、『美術批評』一九五二年三月号に掲載された第五回展の展覧会評(匿名)では、社会的なテーマを扱う作品が多くなっている反面「テーマに寄りかかり、テーマをみせるだけで安心するのはやはり形式主義である」とも批判された。しかし、他方で、社会性や政治性を持つ表現とは、単にそうした対象の世界を忠実に二次元のキャンヴァスに写し取ればよい、という水準をこえた様々な試みがみられるようになる。素朴な写実主義とはもはやなんらの共通性も持ち得ないような、芸術家による世界の解釈や批判が如実に示される作品が多く登場し、また高い評価を得たのもこの時代である。
たとえば、鶴岡政男、利根山光人、池田龍雄、河原温などの作品は、リアリズムではあるが写実主義とはいえない系譜に属した。利根山の「いけにえ(ダムシリーズ)」は、実際に佐久間ダムを訪れ数十日にわたって労働者と生活をともにして現場でのデッサンをふまえて作品化されたもので、ルポルタージュ絵画などとも称されたが、この作品は決して写実的ではなく、作品に接したダムで働く労働者たちからは、失望の声すらきかれた。鶴岡の大きな手が肩と一体となって重荷のようにのしかかってうずくまり、必死で押しつぶされまいとして耐える身体像や、池田のデフォルメされた工場の機関やゲオルグ・グロッスの諷刺画のように描かれた人物像の主題は、鮮明なブルジョワ社会批判であり、描かれている対象の具体性ははっきりと示されながら、決して写実的とは言いがたいリアリズムの作品である。
こうしたなかで、特に美術批評の世界では、花田清輝が提起した「内的レアリズム、外的レアリズム」論が注目された。『美術批評』が創刊されて間もない一九五二年三月号の座談会「近代絵画の問題」(末松正樹、花田清輝、土方定一、吉川逸治)で、花田は二〇世紀の前半はシュールレアリスムも抽象芸術も含めて、内的なレアリズムの時代であるとし、後半は、逆に「物質的な現実がもう一度問題になる」として次のように述ベた。

「[内的なレアリスムは]現実との対決を避け、内部の世界に逃避するというふうに一般に言われているわけです。しかし僕はそこを飛び越してしまった大衆路線一啓蒙的な意味のレアリスムー本槍というやつには、やはり賛成できないわけなんです。どうしても、内的な二十世紀芸術のプロセスを一応自家薬寵中のものにしてから始まるレアリスムが僕らにとって問題だと思う」

大衆に迎合する啓蒙的なレアリスムを批判する一方で、抽象絵画やシュールレアリスムをくぐったレアリスムを高く評価する。
花田のレアリスム論は、対象を主体の外部にある客観的な存在とみるのではなく、表現主体との関わりと不可分なものとしての外部を再構成、再解釈することの重要性を指摘したものだ。この認識は,当時の新しいレアリスム芸術を擁護する重要な立論となった。

トリスタン・ツァラ「シュールレアリスムと戦後」——レジスタンス側からの戦中の亡命者批判

一九四七年にパリのソルボンヌ大学で行われたトリスタン・ツァラの講演「シュールレアリスムと戦後」(江原順訳『美術批評』三八号、一九五五年二月)は、一九世紀以来の芸術の前衛運動を総括しながら、「一体この戦争がわれわれに残したのは何か」と問い、ファシズム批判にとどまらず、レジスタンスに背を向けてアメリカへ亡命したアンドレ・ブルトンやサルバドール・ダリらへの批判が率直に語られている。
ツァラは、第二次大戦前のダダからシュールレアリスムにいたる芸術家、知識人の運動を回顧する中で、その労働者階級やマルクス主義との結びつきを回顧する一方で、戦後のシュールレアリスムの運動にはこうした政治性が見出せないと率直に批判した。この批判は、戦時期、とりわけナチスドイツによるフランスの占領期にシュールレアリスムの芸術家たちがとった態度と深く関わっている。ツァラは次のように言う。

「いうまでもなく占領はわれわれの反逆の仕方、現実の理解の仕方にふかく影響しました。この期間、シュールレアリスムが戦争とわれわれの心や行動とから逃避したことを、われわれは知っていますもそれなのに、どうしてそれを歴史的に正当化できるでしょうか。」

よく知られたように、アンドレ・ブルトンやサルバドール・ダリらは米国に亡命し、アラゴンやツァラらはレジスタンスに参加した。ツァラは、「ブルックリンの岸からは、いかなる場合にも、自由をまもるために必要な手段の調合をふくむ処方菱はやってきません」と亡命した芸術家たちを厳しく批判した。そして、シュールレアリスムは、理論的な役割をもはや終え「今日では、提起される諸問題になにひとつ必要な答えをあたえることはできない」とする一方で、広告や流行など、毒性のない美的な表現だけが生き残っているにすぎない、とその役割がもはや過去のものとなったことをはっきりと指摘した。さらに、彼は次のように問いかけた。

「ところが現在は? 戦争をひき起こした問題の解決はみつかったでしょうか? 戦争の終結はどこにあるのでしょう? 粉ごなにうちくだかれて、あらゆる個人のなかにひろがっている終結。新しい疑問、一時の解決、まにあわせの糊塗、おしかぶされた苦しみの堆積、破壊、いまだに疼く傷のふかさ。もう戦争はありません。けれども戦後もありません」

ツァラは、この講演の最後に「ファシズムは不審を抱かせない形で蘇えることがあります。それをみやぶることは知識人の任務です。詩人は自己の根底にある厭世によって、逃避を正当化して、自己を盲目としてはなりません」と指摘したのである。
当時戦後の美術批評の言説で、これほどはっきりと戦前、戦中、戦後のシュールレアリスムの運動をファシズムと戦争との関わりで総括した発言は、少なくとも日本の美術論壇においては見出せないように思う。

戦後ヨーロッパの前衛「コブラ」の場合——革命的シュールレアリスト

ブルトンらのシュールレアリスムの非政治性あるいは商業的な表現への回収に対抗して、ヨーロッパでは新しいアヴァンギャルドの運動が起きる。ここでは、ダダ、シュールレアリスムを出自とするコブラの運動を紹介しておこう。コブラ(CoBrA)とは、コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムという三つの都市の頭文字をとったもので、これらの都市で活動してたアーティストたちの国際的な芸術運動である。一九四八年に、ベルギーの詩人、クリスチャン・ドートルモンとコペンハーゲンのアスガー・ヨルンが主導的な役割を演じて結成されたもので、同名の雑誌を三年ほど発行した。メンバーはこの他に、ブリュッセルのアレシンスキー、アムステルダムのカレル・アペルなどがいる。コブラは、一般に、シュールレアリスム、実存主義、フロイトの精神分析などの影響を強く受け、プロフェッショナルな絵画の手法を批判して、たとえば子供の絵画やポピュラー文化の通俗的な表現を意識的に取り入れようとしたといわれる。しかし、コブラを決定的に特徴づけているのは、むしろフランスのマルクス主義者、アンリ・ルフェーブルが一九四七年に出版した『日常生活批判』から多くの影響を受けていた点である。ブルトンと袂を分かって革命的シュールレアリストというグループをベルギーで立ち上げたばかりのドートルモンは、ルフェーブルに示唆されて、日常生活の実験的な変革と芸術的な表現をむすびつけようと試みはじめていたのである。
ジャン‐クラーレンス・ランバートがコブラについての詳細なモノグラフで指摘しているように、コブラの運動を支える理念には、過去に縛られ、真面目くさり、平凡で退屈な日常生活に対して、将来への多様な可能性、不謹慎さや異例性、祝祭的な行為や夢などを対抗させることによって、ブルジョワ的な日常性を覆すことを試みるラディカルな政治性が秘められていた。コブラは、その後のシチュアシオニストの運動から一九六八年のパリ五月革命へと至る二〇世紀半ばのヨーロッパの前衛文化運動に影響を与えた。ひるがえって日本の場合、この時期の岡本太郎の作品や彼の『今日の芸術』(光文社)といった著作で主張されている反権威主義、反アカデミズムと実験的な精神や非プロフェッショナルを擁護する表現のラディカリズムは、コブラの試みと実践的な平面では大きく重なり合うのだが、残念なことにこの試みを掬い取る思想的な支えは獲得し得なかったのである。こうした思想状況とその後の戦後日本の芸術の非政治性や表象のラディカリズムという「伝統」とは無関係とはいえないと思うのである。
[参照文献]
『美術批評』美術出版社、各号(東京都美術館、マイクロフイルム)
岡本太郎『今日の芸術』(光文社.1954)
花田溝輝『アヴァンギャルド芸術』(未来社.1954)
菊畑茂久馬『戦後美術の原質』(葦書房・1982)
池田龍雄『夢.現.記、一画家の時代への証言』(現代企画室・1990)
小沢節子『アヴァンギャルドの戦争体験』(青木書店・1994)
ヨシダ・ヨシエ『丸木位里.俊の時空』(青木書店・1996)
油井一八縄『戦後美術年表1945-50』(美術年鑑社.1996)
瀬木慎一『戦後空白期の美術』(思潮社.1996)
Jean-Clarence Lambert,COBRA(Abbeville Press, New York, 1983)

出典:『20世紀の記憶 46-1956年』毎日新聞社所収、2000年