集団免疫とロックダウン解除!?―愛国主義の犠牲にはならない!!

新型コロナウィルスのパンデミック化は、ナショナリズムの本質がいったいどのようなものなのかを示している。

日本政府は人々を犠牲にして「国難」を乗り切る集団免疫路線をとっていると思わざるをえない

日本の検査数の少なさをどう判断するか―低コスト高リスクの集団免疫路線としか思えない。文字通りの野放しではなく、調整しつつ感染を拡大させるという綱渡りをしようとしているのではないか。この2週間ほどは引き締めへと向っているようにみえる一方で、政府は網羅的な検査へと転換しようとはしていないことの意味を見過すことはできない。

なぜ検査しないのか?自分の身体がどのような状態にあるのかを知りたい(これは私たちの権利である)というときに、知るために必要な検査を拒否する権限がなぜ保健所にあるのか。日本政府がとっている対応は、口では感染拡大防止を強調して、そのための外出自粛をなかば道徳的に脅かしながら、実際の対応は、感染拡大を事実上容認しているとしか思えない。その理由は

  • 最も感染リスクの高い医療関係者(医師、看護師、技師やヘルパーの労働者だけでなく事務職員も含む)への検査が実施されていない。
  • 福祉関連の施設の関係者への検査が実施されていない。
  • 学校など教育機関の関係者への検査が実施されていない。
  • 基礎疾患をもつ人たちへの検査が実施されていない。
  • 社会的なインフラや物流など人々の生存に関わる仕事を担う人たちの検査が実施されていない。
  • 感染者で軽症あるいは無症状の人の自宅で同居する人たちへの検査が(症状が出ない場合)実施されていない。
  • 症状のない感染者が多く存在していることを知りながら、こうした人たちの存在を把握するための検査をせず、よっぽど深刻な事態にならないと検査されない。

などなど、枚挙にいとまがない。無症状の人たちが多く存在し、こうした人たちからも感染することが知られながら、症状が出ていないことを理由に検査はされない。自宅軟禁状態を強いるメッセージが繰り返し出されるのだが、検査もされず、網羅的に自宅に閉じこめられることになる。本来なら、検査で陰性なら外出してもいいし自由にしていいはずだ。この自由を与えようとはしない。

結果として、検査されない人たちが自宅で3密状態になり、「家庭内感染」が増え、DVや家庭内の人間的なトラブルも深刻化している。やっと最近こうした問題に注目が集まってきたが、理屈からいえば、予測しえたことだ。

なぜ、検査せずに放置しているのか。考えられる理由は二つだ。

ひとつは、コストである。網羅的な検査に必要な投資を抑えたいという意図があるように思う。全員に行なえるだけの検査キットや検査装置、人員がいないという言い訳、あるいは医療崩壊の危機で世論を半ば脅すような宣伝は、責任逃れでしかない。前に書いたように、こうした検査の必要が新型インフルエンザのときに既に指摘さていた。そうであるのに、保健所を統合・削減し、パンデミック対策をサボった厚労省と政府の責任である。明らかに権力がまねきよせた「権力災害」である。政府はあたかも新型コロナ・パンデミックが天災であるかのように、あるいは中国がもたらした「外来種」被害であるかのようにふるまう。こうした振舞いは、検査体制に必要なモノとヒトを確保するポースだけをとり、本当にすべき政府の投資をサボる格好の隠れ蓑になる。

もうひとつの理由は、政府関係者は絶対に口に出しては認めないが、集団免疫を獲得することでパンデミックを収束させるという作戦(あえて意識して軍事用語を用いる)をとっているのではないかという疑念だ。この作戦はとても安上りだ。人々をどんどん感染させ、症状がでなかったり、軽症の場合は放置する。かれらは、働きながら、周囲に感染者を広げつつ、自分の身体を犠牲にして免疫を獲得する。政府はコストもかけずにパンデミック収束の手掛かりを握ることになる。ワクチン開発をまたずに、大半が免疫をもつことができると妄想しているのではないか。他方で、重症者はとりあえず隔離して治療するが生命を犠牲にする人がでる。政府は、これは集団免疫を獲得するためのいたしかたない犠牲だと考えているのではないか。医療関係者がクラスターで大量に感染し、一時的に病院を閉鎖してもその後再開したときには、免疫をもった多くの医療関係者が働くことになる。こうなれば効率的に感染を恐れずに治療ができるとでも考えているのではないか。この作戦ならワクチンの開発をまたずに、抗体をもつ者を増やすことができる。これなら来年のオリンピックに間に合う…とか考えているのかもしれない。またもやオリンピックの犠牲になるのか。私たちは御国のために自分の健康や生命を捧げるつもりは金輪際ない。他方で私たちが要求するのは、政府は私たち、国籍を問わず、この国で暮す人々の生存の権利を保障する義務があるということだ。集団免疫を目論んで権力が不作為に及ぶなどとんでもない!!!!しかし右派はこの集団免疫が大好きなようだ。橋下徹は3月初めに「元気な人はみんな感染してもいい」「元気な人たちが感染して抗体を持てば、集団免疫を持って落ち着く」と語ったことが報じられている舛添要一も「ワクチンや特効薬が開発されないかぎり、緩やかに感染を拡大させて集団免疫を獲得するという戦略も間違いではない」と容認する。国家が個人に優先する愛国主義者は、個人の犠牲など意に介さないのだろう。

集団免疫を密かに狙うという発想は、表に出てこないが、専門家も含めて肯定されているに違いない。ワクチンの発想もある種のコントロールされた集団免疫の発想の延長線にある。集団免疫獲得のために、人口の一部を敢えて犠牲にすること、そのためには検査をしないという戦術がとれらている。こうでも考えなければ、なぜ感染リスクの高い場所での検査が行なわれないのか、その理由が飲み込めない。網羅的な検査をやっている慶應病院は稀有なケースになるのでニュースになるわけだ。国難のために犠牲になってくれ、といういわば特攻隊を彷彿とさせる権力者の生命観だ。こうするためには検査しないことが必要になる。検査すれば法制度上、隔離が必要になる。集団免疫を獲得させるには、早期の発見と隔離をしてしまうと、集団免疫ができない。だから感染者を巧妙に放置しつつコントロールしようとしている。この集団免疫作戦で犠牲になるのは、人との接触が多い職業や、自宅の環境が狭小であり個室隔離などできない人たちなどになる。ここには階級や差別の格差が如実に反映されることになるのではないか。

保健医療の市場経済化や切り捨てのこの四半世紀の歴史のなかで、コストをかけない、制度がそもそも脆弱になっているという背景と一体となって集団免疫方針を密かに遂行してきたのが日本政府のやりかたではないか。権力者にとって私たちの身体は統計上の数字でしかなく、「国難」を乗り切るための捨て駒にすぎない。そう思わざるをえない。

自由も平等も民主主義もどこかに消えた

象徴的な出来事は、民主主義の政治体制を標榜してきた欧米諸国の対応のなかに端的に示された。ヨーロッパとくにイタリアで最初に感染者の拡大とパンデミックの危機が確認されたとき、他のEU諸国はほとんど支援の手を差し延べたようには見えない。EUが足並みを揃えはじめたのはごく最近のことにすぎない。スペイン、フランスなど他のEU諸国に広がりをみせたときも、なぜか国境を超えるウィルスの拡大に対して、EUとしての統一した措置はとられず、常に前面に登場してきたのは、国境を閉鎖する、自国民だけのための防護策、さらには政府が率先してマスクを奪い合うなど各国の政府のナショナリスティックな国民保護の政策だ。ドイツは新型コロナウィルスの対策で「優等生」として評価が高いが、逆に、EUという枠組でみたとき、ドイツと他のEU諸国の間の協調性のなさが目立った。EUという国家連合の統治機構が実際には、人々の生存権の最も基盤をなす保健医療や福祉といった分野では、ほとんど実効性ある機能を果しうるような制度をもてていないことを露呈した。

EU域内の相互の協力が希薄だっただけではなく、EU市民ではない難民の状況は深刻化し、各国の国民の保護が最優先された。ロックダウンのなかで、経済的に苦境に追い込まれる人々や感染率の高い人々の階層に、社会の階級的格差やエスニックグループ相互の力関係が如実に反映した。

同じことはこの東アジアにおいても顕著だった。中国、韓国、日本、台湾、極東ロシアの間にはディスコミュニケーションしかなく、安倍政権の露骨な韓国、中国への嫌悪感が目立つ。

同様に、米国もまた、露骨な自国民中心主義を掲げて国境を超えた人の移動、とりわけ移民の流入を大幅に制限した。トランプは繰り返しこのパンデミックの元凶が中国にあり、敢えて「中国ウィルス」という表現を使った。(麻生もまた「武漢ウィルス」を連発し、中国政府が抗議した)またフランスのマクロン大統領は3月の外出禁止令に際して「われわれは戦争状態にある」「直面しているのは他の国や軍ではない。敵はすぐそこにいる。敵は見えないが、前進している」(ロイター)と述べた。この戦争状態のたとえはその後、各国で一般化した。災厄は常に外部から来るのであって、善良な国民はその犠牲者であるか、外敵と闘う勇敢な戦士なのだ、といった雰囲気をともなって、戦争になぞらえた感情の動員が目立つ。露骨な愛国主義的プロパガンダに利用するのか、それとも婉曲な言いまわしを用いるのかの違いはあってもどこの国もナショナリズムを最大限に動員するようになってきた。

災厄が外部から来るなら、外部との接触を遮断する必要がある。外部は、当初国境だった。検疫によって、国籍による選別を行ない、自国民を保護し外国籍の人たちを排除する。こうした態勢がどこの国でもとられた。次に、国内の各地域ごとの人の移動が規制され、感染拡大地域を封鎖した。こうして感染が拡大していない地域にとって感染拡大している地域は潜在的な「敵」扱いされることになる。地域を越えて移動する者たちは、医学的な検証もなしに、監視され、ウィルスを拡散するリスクをもたらす者と疑われることになった。

他方でロックダウウンや都市の外出禁止などの措置がとられた国や地域では、人々が「自宅」に軟禁(この言葉は使われないが)されることになった。人々は、コミュニティや身近な人間関係のなかに、「敵」と「味方」の境界線を引くようになる。感染者とその家族や親密な関係にある人たちは、周囲から「隔離」されるだけでなく、周囲から災厄をもたらす疫病神であるかのように忌避されるようになる。「敵」とみなされるからだ。本来なら、厄介で死に至るかもしれない病を抱えた人たちをお互いに支えあう努力をすべきコミュニティの人々が、感染者を追い出すことでコミュニティの安全を守ろうする。この相互排除の連鎖は、人々を分断しながら権力の集中をもたらし、警察と軍隊が都市を制圧する構図をもたらした。他者への配慮と人権意識の高い人々の自制の受け入れを権力は巧みに利用してもいる。

国境封鎖―地域封鎖―都市封鎖―コミュニティ封鎖―家族封鎖という一連の流れが、国民を守れとか国難を強調するナショナリズムの構造のなかで循環している。

しかし、実は、事はそう単純ではない。外出禁止やロックダウンに抗議する運動が各国で起きている。フランスでは外出禁止に抗議する大規模なデモがパリで行なわれた。インドでは移民労働者による大規模な抗議が4月15日に起きている。ブラジルはじめラテンアメリカでも規模の大小、組織化のありかたは様々だが抗議の運動が起きている。誰がどのような政治的な意識をもって抗議を組織したおか、あるいは自然発生的であったとしても彼らの行動の政治性をみきわめることはとても大切だ。そしてまた、とても分りにくい。私たちの仲間なのか?

米国では急速な感染拡大とともに失業も拡大した。失業率は30パーセント、3000万人が失業保険を申請している。こうした中で、仕事への復帰とロックダウン解除を要求する抗議のデモがメディアでも報じられるようになっている。ロックダウンへの抗議の主体が誰なのかがわかりにくい。しかし、極右のニュースサイト、ブライトバードやフォックスニュースと左派メディアデモクラシーナウの報道を比べてみると背景がわかる。「ブライトバード」は「ロックダウン・プロテスト」という特設コーナーを設けて積極的に反ロックダウンの抗議デモを報じ、フォックスニュースも4月17日にケンタッキー州、メリーランド州、ミシガン州、オハイオ州、テキサス州、ウィスコンシン州で起きた反ロックダウンの統一抗議行動を大きく報じている。デモクラシーナウは20日に「右翼ロックダウウン抗議の全国行動」と報じ、この動きが右翼によるものだということを明示した。彼らの発想は、日本の右派と非常に似ている。ところが、日本のディアはこうした動きが右翼による抗議行動であることをはっきりとは示していない。映像で見るかぎり、星条旗が目立ち参加者も白人が中心に印象を受ける。ブライトバードもフォックスニュースモトランプ政権に強い影響力をもつ。こうした右派の反ロックダウンをトランプはツイッターで容認し、早々とロックダウン解除を宣言した。あきらかに右派の行動と共同歩調をとったものだ。こうした連携は、トランプ政権が繰り返してきた動員の仕組みであって自然発生的ではない。こうした一連の動きが秋の大統領選挙をにらんだ極右ポピュリズムの戦略の一環だと理解すべきだろう。こうした背景を抜きにして、しかもかなり規模が大きいかのような誤解を招く報道は、日本における経済の早期再開を模索する資本の思惑(スポンサーの思惑)と無関係なのだろうか。

こうしてみると、右翼は、ある種の戒厳令のなかで、敢えて反ロックダウンを掲げて失業と自宅軟禁でフラストレーションを溜めている人々の感情に焦点を当てつつストリートの主導権を握ろうとしているともいえる。この動きは、マッチョな愛国主義だ。私たちは、政府の言いなりになって自宅に軟禁されたくないが、だからといって、マッチョな連中のように感染なんか怖くねえ!と中指を立てるような虚勢を張るようなマネをしたくはない。

日本の運動状況がどうなっていくのか。集団免疫を画策する政府は、他方で、集会の場所を閉鎖し、デモも自粛させ、長年の文化とメディア運動の脆弱ななかでネットの空間に容易には移行できない左翼や反政府運動は、試行錯誤を繰り返す試練の時を経験している。緊急事態がもたらすナショナリズムと排外主義、相互扶助とは真逆の相互不審を募らせて権力への服従心理を刺激するパンデミックの構造と闘う工夫を、どのように生み出せるのか。現状は明らかに制度の危機だ。しかし、だからといってそれが反政府運動にとっての好機には絶対にならない。むしろ「国民」的な同調圧力のなかで、窒息しかねないところに追い込まれているようにみえる。街頭に出ることに躊躇する人々と、どのように連帯の回路を維持拡大できるか、この課題は運動の将来を左右する重要なものになっていると思う。(24日深夜加筆)

資本主義が招き寄せる循環性パンデミック

私たちが現在直面している新型コロナウィルスの問題は、資本主義における循環性パンデミックとして捉える必要がある。

資本主義下のパンデミックは特殊歴史的な現象だ

新型コロナの蔓延は、資本主義システムの限界がどこにあるのかを端的に、しかも残酷な形で、先進国内部で暮す人々に突き付けた。感染症の蔓延は人類社会にとって未知の出来事ではない。資本主義の歴史のなかでも繰り返されており、再現性がある事象でもある。パンデミックのたびに、1918年のスペイン風邪大流行、新型インフルエンザなどが想起されたりするのだが、しかし、常に、事態が深刻化した後で、忘れられたかにみえた歴史的な経験が忘却の闇から呼び戻されるにすぎず、経験が生かされることはないし、医療の進歩なるものがこの災厄を解決することもない。また再び近い将来、別のパンデミックが到来しても驚くことではない。

この現象を疫病と人類史全体のなかに混ぜ込むような没歴史的な括り方をするべきではない。資本主義には固有のパンデミックを招来するメカニズムがある。資本主義である以上、繰り返されざるをえない歴史的に特殊な事態なのだと捉えておく必要がある。なぜなら、資本主義が私たちの生存の権利を保障できないシステムであることのなかで起きているからだ。

私は繰り返し、感染症検査を無料・匿名で網羅的に実施すべきだ、なぜなら私の身体がどのような状態にあるのかを知る権利があるからであり、それ以外にパンデミックを回避する方法はない、ということを指摘してきた。しかし、現実にはこうした網羅的な検査体制はとられていない。保健所の検査に後ろ向きの姿勢も批判されてきた。検査体制を妨げている原因は、この国がたどり、各国もまた同じ傾向をたどってきた保健医療システムのリストラにある。生存権の抑圧と保健医療の危機管理=治安管理への組み込みの結果が現在のパンデミックをもたらした。

今起きていることは既に予見されていたのに回避できなかった

下のスライドのデータを見てほしい。

新型コロナ以前の最も最近のパンデミックは、2009年の新型インフルエンザだとされている。当時厚生労働省保健局は「地域保健対策検討会」を設置した。その第1回会議で「保健所、市町村、都道府県の現状と課題」という文書が配付された。このなかで保健所が抱えている様々な問題点が「現場からの意見」として提出されていた。そこでの指摘が上に引用したスライドである。今から10年前の厚労省の会議で指摘されていたことだ。ここでの指摘が改善されず、今に至っている。なぜだろうか?

また、上記の検討会の資料「最近の健康危機管理事案に関する問題」2010年のなかで、「新型インフルエンザ(A/H1N1)対策総括会議報告書」の指摘していることとして以下のように言及されている。

「国立感染症研究所、保健所、地方衛生研究所も含めたサーベイランス体制を強化すべきである。とりわけ、地方衛生研究所のPCR体制など、昨年の実績を公開した上で、強化を図るか、民間を活用するのか検討するとともに、地方衛生研究所の法的位置づけについて検討が必要である」

現在私たちが直面している検査がされない事態は、実は新型インフルエンザの当時から周知の事実だったのだ。この指摘は、検査体制を支えるインフラが政府か民間か、という二者択一しかありえないという資本主義の基本的な矛盾を示している。特に、政府が緊縮財政を実施して医療をはじめとする社会保障や福祉などの分野を切り捨てる一方で、民間もまた最大限利潤を追求するという資本の欲望のままに人々の生存権に配慮することなく人々の命と健康を犠牲に資本の延命をはかろうとする場合、政府も民間もともに、人々の生存権をないがしろにしてしまう。上の報告書にあるように、公的機関の強化も図れず、民間も活用できないという事態がずっと続いてきたのだ。政府は検査体制を自前で準備せず、民間もまた高収益が見込めないから受け身になり、人口の生存に見合う医療サービスが政府も民間も保障できない構造が生まれる。民間に依存すれば市場の価格原理で、必ずサービスを受けられない貧困層が犠牲になり、政府は財政を生存に不可欠なサービスよりも国家安全保障に振り向ける方針を改めない。パンデミックにおいて起きうるであろう医療崩壊は、こうした構図が生み出すものであって、あたかも自然災害のようにして生まれたりするわけではない。しかも、医療崩壊を阻止するために犠牲になるのは、感染した人たちであって、医療という制度が犠牲になるとみるべきではない。こうした自体はシステムに予定されていたことであり、既に予想されながら、これが放置されてきた。

他方で、新型インフルエンザをきっかけに成立したのが「新型インフルエンザ等特別措置法」(2012年)だった。「緊急事態措置」だけは法として成立し、具体的なパンデミック対応防止に必要な地域医療や保健サービスの改善にはほとんど取り組まれてこなかった。このことが今回の新型コロナの事態のなかで立証されたといえる。危機を放置・拡大し、緊急事態発令を通じて権力の集中を実現し、検査もとくにしないで、網羅的に人々を自宅に軟禁して「家庭内」感染を誘発する。この強権発動を危機後も維持して、この例外状態を通常の状態としてしまうことによって法の支配をなしくずしにする結果を、権力者たちは無意識に欲望する。これは資本主義という制度に内在する権力欲望だ。

こうした事態を引き起こした原因が地域保健医療体制の大幅な解体・再編にあったことはこれまでも指摘されてきた。その核心のひとつがそれまでの保健所法を改正して成立した1994年(羽田内閣、鳩山邦夫厚生大臣)の地域保健法である。この法律によって保健所の統廃合が一気に進む。1996年の保健所数845から翌年97年には706に激減する。98年に663、1999年に641と毎年減り続ける。(下図 上は厚生労働省ウエッブ、下は全国保健所長会ウエッブ)

保健所の削減を実施したのは、橋本内閣であり、当時の厚生大臣が小泉純一郎だ。社会民主党も当時の格外協力政党だった。80年代後半、中曽根政権下での国鉄民営化から2000年代の小泉政権による郵政民営化へと至る新自由主義改革が、自民党保守だけでなく野党も巻き込んで起きていた時期だ。新型インフルエンザが問題化した時期も一貫して保健所は減少しつづけ、現在もこの保健所削減の流れは止まっていない。2018年には469まで減少している。

保健医療体制と治安管理

また、感染症対策はある種の治安管理の対象として理解されるようになっている。(保健医療における危機管理の歴史的な経緯は「健康危機管理」小史参照)保健所の削減と同時に、厚労省は1997年に「厚生省健康危機管理基本指針」を策定し、健康危機管理対策室を設置する。(現在の「指針」はここ)厚労省のいう危機管理とは「医薬品、食中毒、感染症、飲料水その他何らかの原因により生じる国民の生命、健康の安全を脅かす事態に対して行われる健康被害の発生予防、拡大防止、治療等に関する業務のうち、厚生労働省の所管に属するもの」を指すのだが、実際に危機管理を主に所掌する審議会の部会の議論は、もっぱら治安管理に重点を置いた議論になっている。他の部門との重複を避けたためというのがその理由とされているが、危機管理という概念が本来もっている意味が事実上国家安全保障に回収されてしまっている。

この指針に基づいて策定された「感染症健康危機管理実施要領」では、緊急時対応を行う事象と判断された場合「内閣情報調査室」への通報が、厚生労働省健康危機管理調整会議の開催や職員の現地派遣よりも先に挙げられている。なぜ内調なのだろうか。先の「小史」の説明では2000年前後の一連の地域保健政策の転換のなかで「保健所は、危機管理の拠点として位置づけられました。保健所は平素から地域の保健医療の管理機関として、情報収集や関係機関・関係団体と調整を行うこと、また地方衛生研究所は健康危機管理に際し、科学的かつ技術的側面からの支援を行うこと、平時からの調査及び研究の充実による知見の集積、並びに研修の実施をおこなう」というようにその性格が変化したという。この変化と深く関わるように思う。

2000年代にはいって、感染症対策のなかに生物化学兵器などによるテロ対策が重要な位置を占めはじめた。1997年に厚生省健康危機管理調整会議が設置され、厚生科学審議会に健康危機管理部会が設置される。設置目的は「テロも含む国民の生命、安全を脅かす事態である健康危機の発生時に、緊急の対応について知見を得ることを目的として「健康危機管理部会」を設置する」とあり、第1回の会議に提出された緊急事態への対応のチャートは以下のようになっている。

健康危機管理部会は昨年暮れも開催され、機能している。他方で、2010年には更に「厚生労働省における健康危機管理施策について」として下図のようなチャートが公表されている。しかし、厚生労働省の健康危機管理調整会議が省内全体の調整組織として位置付けられながらその動きはほとんど見えない。下図の「健康危機管理対策室」は現在では「健康危機・災害対策室」と改組されているようで、その役割について以下のような説明がある。

「自然災害、感染症パンデミック、テロリズムなど、人々の健康を脅かす危機に十分備え、いざという時に対応することが私たちの部署の任務です。危機を早期に探知するため、平時より国内の関係機関、部局等から健康被害が懸念される事案の情報の収集体制を整え、それらの情報の関係部局間での共有を図っています。実際に健康被害が発生した場合には、適切な公衆衛生対応や、救護・搬送を速やかに関係省庁・部局が連携して行える体制を整え、訓練もしておく必要があり、そのための総合的な調整を行っています。」(大臣官房厚生科学課健康危機管理・災害対策室 室長補佐谷村 忠幸)

少なくとも厚生労働省のサイトを概観して検索した限りではこの対策室が何をやっているのか把握できなかった。上の説明をみても、情報収集を主にした厚労省内部のある主の情報組織であって、とうていパンデミックに対処することができるような組織とは思えない。

私はこの上のチャートをみながら現在の新型コロナ・パンデミックにこの図式のなかの組織がどのように機能しているのかうまく理解できなかった。そもそもこの複雑怪奇に錯綜する矢印の流れのなかで、感染症にかかった一人ひとりの命や健康が救われるメカニズムがどのよう機能するのか皆目見当がつかない。理解できるのは、情報の収集が主目的なようだ、ということだけである。健康危険情報を網羅的に地方組織などから収集してそれを中央政府が把握して分析し、国家安全保障には何かの役には立つのかもしれないが、人々の命や健康に対処するような情報の流れとは思えない。情報公開や知る権利を保障する情報のフローが全くない。

90年代の橋本政権以降の、新自由主義的な構造改革は、一方で、民営化を推し進め、保健医療を市場経済に包摂する一方で、テロ対策など国家安全保障の枠組に組み入れて、地域の人々の最もセンシティブな医療情報を安全保障情報として扱うことのできる制度的な再構築を図ったともいえる。

こうして、90年代以降、人々に日常生活に深く関わる感染症よりもテロ対策が優先され、感染症の最大の脅威があたかもバイオテロであるかのような一連の対応がとられ、健康危機管理部会もテロ対策を繰り返し議題にあげてきた。2014年以降は化学兵器テロを、更に近年はオリンピック・パラリンピックを睨んでテロ対策の研究に資金を投入し研究チームを作ってきた。(下図、第12回厚生科学審議会健康危機管理部会資料)

危機管理のなかでもテロ対策を焦点をあてる一連の厚労省のポリシーは、保健医療の基本が国益を優先させ、国家のための保健医療の危機管理にしかなっていないことを如実に示している。上のスライドにあるように、東京オリンピック・パラリンピックに向けた厚労省の大規模イベント検討体制の関心の的はテロ関連の事案だという印象が強い。厚労省の危機管理の定義は幅広いものであったはずが、ここではテロ対策を中心にした記述になっている。感染症発生動向調査も「生物剤を用いたテロ」といった記述しかない。

パンデミックは自然の疫病ではなく、政府と資本のシステムが招いたものだ

政権にとって、危機とは私たちの生存の危機ではなく、権力の危機を意味している。危機を招来する「敵」がシステムを毀損しかねない感染者たちとその予備軍、つまり私たちだ。今回の新型コロナに対して内調(内閣情報集約センター)がどのような行動をとっているのかほとんど情報がでてこない。同時に、急速なIT技術の高度化と監視社会化のなかで、スマホやIoT情報から人々の行動を監視・把握するための技術開発が急速に進んでいる。そして5Gのインフラ整備がこれに便乗する。パンデミックの危機管理にIT産業は新たな市場を見出し、政府はこの技術の開発・導入を財政と法制度で後押しし、人々を常時監視できる体制の確率に格好の口実を獲得した。検査体制が進まないこととは何とも対照的な事態だ。人間関係の追跡技術は、パンデミックが収束しても継続的に維持され大きな需要があると資本は予測しているのだ。パンデミック後の私たちの自由も平等も生存の権利もおしなべて大幅な抑制を強いられる状況になってしまった。

新型コロナ・パンデミックは、自然がもたらしたものでも「外来」の疫病でもない。これまでの経緯を振り返れば明かなように、この社会の政治、経済、法のあらゆる制度の本質とその矛盾が引き寄せた危機である。先進国は資本主義の最も富が集中し豊かさを享受してきた地域であるはずだが、そうであっても、人々の生存権を保障できるような制度を実現できていない。新自由主義的な資本主義の制度は、政府機能を市場によって代替させるものだが、戦争、経済恐慌、「自然災害」(そのほとんどが人類社会にその元凶がある)であれ、今回のようなパンデミックであれ、危機は市場と政府を横断して生み出されるのが一般的だ。市場は政府が担ってきた保健や医療システムを代替するインセンティブをもつとはいえず(儲かる仕組みがなければ投資しない)、政府は財政の基盤を生存の保障ではなく権力の維持・拡大の動機にもとめるために、そのいずれも十分に機能できない。新自由主義は市場に比重を置いており、ケインズ主義や福祉国家は政府に比重があるが、そのどちらであれ上述の政府と資本のジレンマからは逃れられない。近代資本主義は、その制度が掲げた基本的人権の理念を制度が自ら裏切らなければ制度そのものが維持できないという矛盾をかかえており、ここに危機の本質がある。私たちが求めなければならないのは、生存の権利を平等に保障できるシステムであり、これは近代社会の政府と資本の構造では実現できないのだ。

この危機は、今にはじまったものではない。この危機は、歴史的にみても繰り返され、また世界規模で広がりをみせている。資本主義である限り再現性があるということだ。パンデミックが繰り返し出現するのは、保健医療の制度的な基盤が、社会のなかで最も権利を抑圧されて平等の理念から最も遠いところで生きざるをえない人々をないがしろにする仕組みになっているからだ。<労働力>商品化に依存する生活形態が支配的な社会では、誰もが失業のリスクを負う。失業は労働市場の存在を認める限り、必須の条件だ。制度が不可避的に必要とする失業者や非正規あるいは移民労働者など不安定雇用層は制度を支える必須の存在でありながら生存の権利を最も保障されない人々である。この階層が、リスクを回避するどころか、逆にリスクを過剰に負わされもする。この仕組みはパンデミックでも繰り返される。問題は根本的に解決されるのではなく、一時的に人口のマージナルな層を犠牲にしつつパンデミック後の「成長」に焦点をあてて資本相互の生き残りの競争が展開される。

パンデミックを阻止できない構造が資本主義にはある。資本主義のシステムではこうした生存の危機に対処できず繰り返されざるをえない循環性をもつ。この構造を見誤ると、パンデミック後を資本主義のシステムがパンデミックを克服したかのような幻想にとらわれてしまう。一時の栄華を享受したあとに、また再びのパンデミックが襲い、システムの支配層は政府であれ資本であれ、社会の周辺部を犠牲にして延命する。危機はそれ自体で体制の崩壊を招かない。資本主義に解決を委ねない民衆の行動だけが、この循環性のパンデミックを解決する唯一の道だ。

銀行が医療企業に、コロナウイルスの重要な医薬品、医療用品の価格引き上げ圧力をかけている

以下の記事の飜訳です。あまりいい訳ではありませんが。

出典:Banks Pressure Health Care Firms to Raise Prices on Critical Drugs, Medical Supplies for Coronavirus
Lee Fang
March 20 2020, 4:03 a.m.
https://theintercept.com/2020/03/19/coronavirus-vaccine-medical-supplies-price-gouging/

銀行が医療企業に、コロナウイルスの重要な医薬品、医療用品の価格引き上げ圧力をかけている

イ・ファン

2020年3月19日午後7時3分

ここ数週間、投資銀行家は、危機から利益を得る方法を検討して、治験薬を開発している製薬会社や医療供給会社を含む新型コロナウイルスと最前線で闘う医療企業に圧力をかけている。

メディアは主に、今不足している医療用品や衛生用品の市場を利用して、マスク(注1)や手指消毒剤(注2)を買いだめして、より高い価格で転売する個人に焦点を当てている。しかし、医療業界の最も大きな意見は、医療企業に投資する銀行家や投資家同様、パンデミックへの緊急支出から数十億ドルの利益を得ることに固執している。

過去数週間にわたり、投資銀行は、薬価引き上げの機会について、投資家との電話や医療カンファレンスで率直な態度をとってきた。場合によっては、銀行家は医療の幹部から激しい非難を受けた。あるいは、幹部はオピオイド危機に対する世論の圧力を避けるためにCovid-19に注意を逸らしているんだというような冗談を言っていた。

Covid-19の症状を治療する最も有望な薬剤であるremdesivirを製造している会社Gilead Sciencesは、投資家の圧力に直面している会社のひとつだ。

remdesivirは、デング熱、西ナイルウイルス、ジカ熱、MERSおよびSARSの治療薬として開発された抗ウイルス薬だ。世界保健機関は、「コロナウイルスの治療に真に有効性があると考えられる現時点で唯一の薬剤」、これがremdesivirだと述べている。

この薬は、連邦政府の国立衛生研究所の助成金(注3)を得てアラバマ大学と共同で開発されたが、カリフォルニアに本拠を置く大手製薬会社であるGilead Scienceが特許を取得している。同社は、過去に価格設定について厳しい批判に晒されてきた。かつて、C型肝炎治療薬の1年間の供給に対して84,000ドル(注4)を請求した。これも政府の研究支援で開発(注5)されたものだ。Remdesivirは、25億ドルの一時的な利益を生み出すと推定(注6)されている。

今月初めの投資家のカンファレンスで、投資銀行Cowen&Co.の社長Phil Nadeauは、Gilead Science社が「Remdesivirの商業戦略」を計画していたのか、それとも「Remdesivirからビジネスを生み出す」ことができるかどうかについて、Gilead Scienceの幹部に質問(注7)した。

Gileadの執行副社長であるJohanna Mercierは、同社は現在、パンデミックの解決策を見つけるために最善を尽くし、製品を寄付し、「リスクをとりながら製造し、能力向上」を行っていると述べた。彼女は、同社は現在、主にremdesivirへの「患者アクセス」と「政府アクセス」に焦点を当てていると語った。

Mercierは、「これが季節性疾患になるとか、備蓄が必要になれば商機になるかもしれないが、それはずっと後のことだろう」と付け加えた。(注8)

Barclays Investment Bankの社長、Steven Valiquetteは先週、N95マスク、人工呼吸器、医薬品のヘルスケア販売業者であるCardinal Healthの幹部に、同社がさまざまな供給品の価格を引き上げるのかどうかについて質問を浴びせかけた。

Valiquetteは、さまざまな製品の潜在的な価格上昇について繰り返し問いただしている。彼は、「価格の面」で「品不足のリスクの一部を相殺する」ことができるかどうかを尋ねた。

Cardinal Healthの最高経営責任者であるMichael Kaufmannは、「これまでのところ、コロナウイルスに関連する重大な価格上昇はまだ見られていない」と述べた。Kaufmannによると、Cardinal Healthは価格決定を行う際にさまざまな要因を検討し、「当社は常に最低コストを獲得できるように積極的に闘う」と付け加えた。

「利益全体の基盤に関するかぎり、すべての種類で純益が一貫したものになるように、品不足の可能性を相殺するように価格引き上げはできるのか?」とValiquetteは問いかけている。

Kaufmanは、価格決定は、一部の医薬品販売に関して柔軟性が高いとはいえ、プロバイダーとの契約に依存すると答えた。「コスト面を変更することで、若干の調整を行うことができる」と彼は述べた。

電話会議でのこの議論は、3月10日のthe Barclays Global Healthcare Conferenceで行われたものだ。ある時点で、Valiquetteは、コロナウイルスに関する「ポジティブな面」は、オピオイド関連訴訟へのCardinal Healthに対する「質問がこれまでより少なくなる」かもしれないという「良い兆候だ」があることだと冗談めかして語った。

Cardinal Healthは、中毒性の高い鎮痛剤を数百万も警告を無視して蔓延させて非難されているいわゆる鎮痛剤過剰投与(ピルミル)と呼ばれる薬局を経営する企業の1つだ。Kaufmannは、和解のための交渉が進行中だと指摘している。

翌日 、バークレイズグローバルヘルスケアコンファレンスで手術用ガウン、N95マスク、およびその他の医療機器の調達と製造を行うヘルスケアロジスティクス企業、Owens&Minorがプレゼンテーションを行なった。(注9)
音声データ

Covid-19危機を引用して、Valiquetteは同社に「需要の多い製品の一部で価格を引き上げることができるか」と尋ねた。その後、Valiquetteは「おそらく政治的な動きはないが」とクスクス笑いをしながら付け加えたが、価格引き上げを検討するかどうかについては「考えてみたい」というふうに会社側から言われている。

こうした質問を、Owens & Minorの最高経営責任者であるEdward Pesickaは厳しく非難した。「このような危機のさ中に、私たちの使命は真の顧客にサービスを提供することである。また、誠実さの観点から価格契約を締結している。従って、私たちはこれを利用して、客を「殺到」させて、価格を吊り上げ、短期的な利益を得るようなことはしない」と述べている。

複数の州でのオピオイド訴訟の被告でもあるCardinal Healthに同様の製品を供給するもうひつとの医療供給会社、AmerisourceBergenは、バークレイズのイベントでValiquetteから同様の質問に晒された。

AmerisourceBergenの社長兼最高経営責任者であるSteve Collisは、彼の会社が、医薬品の価格を制限するための政治的要求を押し返す取り組みに積極的に関与していると述べた。

Collisは、最近、「コロナウイルスのワクチン」の開発に関与する他の製薬会社との夕食会に出席した。薬価への介入が制限されるなかで事業を行っている米国企業は、専門家の間で批判を浴びてきた業界リーダーの1つであることを思い出していた。つまり、製薬業界への規制がないことが収益性の低いと見られるウイルス治療への投資を差し控えさせているという批判だ。Covid-19のワクチンを開発している大手企業は、ドイツ、中国、日本に拠点を置いている。これらの国は、製薬業界への政府の影響力が強い国でもある。

Collisによると、AmerisourceBergenは「DCの主要な利害関係者と極めて積極的に活動しており、われわれの優先事項は、薬価に関する合理的かつ責任ある議論に焦点を当て、政策変更のインパクトについて政策立案者を教育すること」だという。

カンファレンスの会話の後半で、ValiquetteはAmerisourceBergenにオピオイド訴訟について尋ねている。この訴訟は、さまざまな医薬品および医薬品販売代理人の被告らにとって最大1500億ドルの費用がかかる可能性がある。オピオイド訴訟の対象企業の1つPurdue Pharmaは、訴訟の脅威に対応するためにすでに破産保護(訳注)を追及している。

「多くを語ることはできない」とCollisは答えた。しかし彼は、会社が、示談交渉にパンデミック危機への対応における会社の重要な役割を利用していることをほのめかした。「この危機、コロナウイルス危機は、われわれが、きわめて財務体質が強力な会社であること、そしてわれわれのビジネスに投資しわれわれのビジネスと顧客との関係を成長させ続ける上で強力なキャッシュフローを持つことがいかに重要であるかということを何度も強調してきた」とCollisは語った。

コロナウイルスがオピオイド危機に関与している企業に利益をもたらすのではないかという希望は、すでに何らかの形で実現している。ニューヨーク州検事総長のLetitia Jamesは先週、3月20日に始まる予定のCardinal HealthやAmerisourceBergenを含むオピオイド企業や流通業者に対する訴訟がコロナウイルスの懸念から延期されると発表した。

市場の圧力により 、大規模な医療企業は、研究開発ではなく株の買い戻しやロビー活動に数十億ドルを費やすようになった。この件について、Barclaysはコメントを拒否し、Cowen&Co.はコメントの求めに応じなかった。

コロナウイルスの予期せぬ副作用は、営利目的の医療経営者たちに潜在的なリスクをもたらす可能性がある。スペイン(注10)では、政府が Covid-19患者の治療の需要を管理するために、民間の病院を含む民間医療提供者への管理を掌握した。

しかし、米国の製薬業界は大きな政治的影響力をもっている。保健福祉省長官Alex Azarは、大手製薬会社Eli Lillyの米国法人の社長を務め、医薬品ロビー団体であるthe Biotechnology Innovation Organizationの役員を務めていた。

先月の議会公聴会で、AzarはCovid-19のワクチンまたは治療は手頃な価格に設定すべきだという考えを拒否した。「手頃な価格にできるように努力したいとは思うが、投資する民間セクターが必要なので、価格をコントロールできない」「優先事項は、ワクチンと治療薬を入手することである。価格管理はできない」と述べた。

ワクチンその他の薬物治療研究に対する財政支援を提供するために、3月上旬に、最初の83億ドルのコロナウイルス支出法案が可決された。これには、政府が手頃な価格をめぐる懸念よりもむしろ危機に対処するすることの大切さを表明して、新薬導入の遅れを防ぐ規定を含まれていた。報道によれば、立法文案は業界ロビイストによって作られたものだ。

The Interceptが以前報じたように(注11) 、現在、ドナルド・トランプのコロナウイルス・タスクフォースに就任しているホワイトハウスの主要な国内政策アドバイザーであるJoe Groganは、Gilead Sciencesのロビイストを務めていた人物だ。

「市場からのプレッシャーにもかかわらず、企業のCEOはかなりの裁量権を持っている。この場合、価格の調整に非常に注意する必要があり、評判を落すだけではすまない問題に直面するだろう」と公益監視機関、Public CitizenのRobert Weissmanは、The Interceptとのインタビューで語った。

「彼らの不利益を防ぐとともに、彼らの独占に対するより構造的な制限を押し進めて当局が前に進むといった反動があるかもしれない」と、Weissmanは言う。

Weissmanのグループは、ミシガン州選出の民主党下院議員Andy Levin議員が政府に防衛生産法を発動してヘルスケア用品の国内製造を拡大するよう呼びかける活動を支持している。

他にも価格の上昇を防ぐために政府がとることができる手段があるとWeissmanは付け加えた。

「Gileadの製品は特許や独占で保護されているが、製品に政府が投資しているのだから、製品に対して政府は大きな発言権をもっている」として次のようにWeissmanは言う。

「政府は、資金提供を支援した製品のジェネリック医薬品競争を行うとか、非独占的ライセンスを防止するといった特別な権限を持っている」とWeissmanは言う。「政府の補助金と関係のない製品であっても、政府自身が買収したり購入するためにジェネリック医薬品競争のライセンス供与を強制することができる。」

製薬会社は、一過性の可能性となれば治療の利益が限られているため、ワクチン開発を回避することがよくある。テストキット会社その他の医療用品会社は、国内生産、特に短期の利用のために工場全体の規模を拡大する市場インセンティブをほとんど持っていない。だから、LevinとWeissmanは、政府は必要な医薬品とジェネリック医薬品の生産を直接管理すべきだと主張している。

先週の金曜日、Levin議員は換気装置、N95人工呼吸器、その他の不足に直面している重要な物資の生産を政府が担うよう求めた民主党下院議員たちが署名した書簡を配布した。

以前には考えられなかった方針が採用された。トランプは、危機の間に必要な物資を生産するよう民間企業に強制できる防衛生産法の発動を発表し、水曜日に承認された。特にこの法律は、大統領が緊急時に使用される重要な商品の価格上限を設定することを許可している。

原注
1 https://www.buzzfeednews.com/article/christopherm51/ukraine-coronavirus-robbery-masks

2 https://www.fox2detroit.com/news/brothers-who-stockpiled-nearly-18000-bottles-of-hand-sanitizer-donate-stash

3 https://www.uab.edu/news/health/item/11082-investigational-compound-remdesivir-developed-by-uab-and-nih-researchers-being-used-for-treatment-of-novel-coronavirus

4 https://theweek.com/articles/831637/why-government-allowing-drug-research-monopolized-profit

5 https://www.brookings.edu/opinions/publicly-funded-inequality/

6 https://www.aljazeera.com/ajimpact/gilead-stock-surges-comments-coronavirus-drug-200224194452522.html

7 http://wsw.com/webcast/cowen57/gild/index.aspx

8 https://soundcloud.com/the-intercept/cardinal-health-at-barclays

9 https://event.webcasts.com/viewer/event.jsp?ei=1290273&tp_key=22cb849886

10 https://www.businessinsider.com/coronavirus-spain-nationalises-private-hospitals-emergency-covid-19-lockdown-2020-3

11 https://theintercept.com/2020/03/13/big-pharma-drug-pricing-coronavirus-profits/

訳注 破産保護:米連邦破産法第11条、再建型倒産処理手続を内容とするもので、債務者自らが債務整理案を作成できることから、日本でいうところの民事再生法に相当します。また、チャプター11を適用した企業では、全ての債権回収や訴訟が一旦停止され、事業を継続しながら、過去の「負の遺産」を法律によって強制的に断ち切り、存続価値のある企業を目指して経営再建に専念できることから、比較的短期間での再建が可能と言われています。https://www.ifinance.ne.jp/glossary/global/glo089.html)

危惧すること:コロナウィルス問題と私たちの政治的な権利について

2月27日にいくつかのメーリングリストに「危惧すること」と題して投稿した文章を再掲しますが、もはや状況が追い越した感あるので、最初に補足の文章を載せ、その後ろに27日の文章を掲載します。27日の投稿にある米国のインフルの数字は日刊ゲンダイからとったものですが、CDCのデータではこれより少なく、死者は2万人、感染者は3400万人としており、25000人の根拠がわかっていないのに使ってしまってます。こういうのは好ましくない使い方で反省です。なお、米国の実態は調査されていないのでわからないし、そもそも検査キットが米国では足りないと米副大統領が語っているニュースをBBCで見ましたが、これは実態が正確に把握できていないということでもあります。ですから、日本と同じザル状態なので今後拡がるかも知れません。

インフルエンザもまともに押えられない米国CDCは日本のメディアがいうほど効果的な組織ではないと思います。5日の米国のDemocracy Nowの番組では、最大の問題は、米国の公的保険制度の不備にあること、貧困層が保護されないこと、貧困層ほどテレワークなどというシャレた仕事ができないサービス業についていることなどを指摘しています。

安倍が韓国と中国からの渡航を事実上禁止にしました。他方で、外国が日本人の渡航を制限すると逆ギレする。これは露骨なレイシズムであり自民族中心主義です。こうした事態を感染の問題ではなく、政治あるいは「地政学」(嫌いなことばだが)としてみる必要があるでしょう。こうした見方もメディアの報道では少ないし、そもそも私たちの間でも議論ができていないと思います。つまり、政治は政治の観点で感染症を観ているのであって、私たちの生存権の権利を保障しなければならないという義務に基づいて行動の選択をとっているわけではない、ということです。政治家や権力者の言葉は、権力の再生産にとって利益になるのかどうかという観点を踏まえて解釈する必要があると思います。

他方で、コロナがかなり経済に打撃になっているので、人々が騒ぐほど怖くはないということを強調する傾向もあります。たとえば、BBCは昨日の放送で、致死率は1パーセントでインフルエンザの10倍あるが、家で安静にしていれば多くの人は治るということを強調していました。 政治状況に応じて判断は変動し、専門家の言説が利用される、ということでしょう。

今にいたるまで、緊急事態を先取りして自治体ベースで進んでいる公共施設の閉館を表現の自由や民主主義の問題との関わりで論じる人が少ないと思います。人々が異論を唱えたり主張するために議論する空間が規制される現状を、人々の側が「仕方がない」で受け入れてしまう。緊急事態の立法化を目論む安倍は言語道断ですが、むしろこれを先取りしている自治体や自粛だけして代替策を模索することを断念しているように見える市民運動などの運動側にも問題があると思います。集会の場所が借りれないとすれば、これは憲法に保障された権利の制約だということを深刻に受けとめるべきですし、自粛は、この権利を自ら(仕方なく)放棄するという重い決断なのだということですから、代替案を工夫すべきだと思います。こうした草の根からの自粛状況にむしろ安倍政権への権力集中が支えられてしまっているということを冷静に分析することが必要でしょう。だから、感染のリスクがあっても集会はすべき、なのか。私は必ずしもそうは思いません。高齢者も多いので、決意と気合に依存するのも限界があるでしょうし、決意主義の弊害を経験してきた世代としては、こうした態度には躊躇も感じます。それぞれの判断が大切で判断の根拠を示すことも大切です。メディアや政権の判断を鵜呑みにしていないということを示す必要があります。そして、いかなる判断を下そうとも、代替案は用意して権利が縮小されない工夫は必要です。

企業はしたたかで、客が来なくて売り上げが減るなら損失をカバーするための代替策を探します。運動は金による損得ではないのでボーっとしてしまいがちですが、自由や権利の「損得」を冷静に判断して、代替策を工夫することがとても大事な時期に来ていると思います。いずれにせよ、コロナ問題を医者や「専門家」に任せるべきではないと思う。この問題についての政治の判断からメディアやマーケットの動向まで、状況は優れて政治的かつ資本主義的な損得に依存しているのだということを忘れないようにしたいと思います。

最近のできごとでいえば、80年代、90年代のHIV-AIDSをめぐるパニックは先進国がこうした感染という問題のなかで偏見や差別がどのように露呈するかを反省する上でとても参考になる時代であり、同時に、この偏見や差別と闘った貴重な運動の時代だと思います。

コンテイジョンという映画があることを富山の友達が教えてくれました。これは、かなりよくできた感染パニック映画。 開発されたウィルスワクチンを最初に誰が使うのかという微妙な問題と倫理との相克も描かれています。

もうひとつ、こうした事態のなかで想起されていいハズの国連用語があります。それは「人間の安全保障」です。このことばは外務省のホームページにもある公的な概念ですが、これに注目する言説もほとんどありません。人間の安全保障human securutyではなく民衆の安全保障people’s securityとすべきだという議論が沖縄の反基地運動のなかから提起され、国家の安全保障では民衆を守ることはできないということが議論されてきた経緯もあります。(小倉の文章)こうした議論もまた想起されるべきでしょう。

以上思いつきも含め補足でした。以下当初いくつかのメーリングリストに投稿したもの です。

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小倉です。煮えきらない投稿です。

コロナで緊急事態的な状況になっています。この新型コロナウィルスのリスクの客観的な評価がなかなかできません。そもそもクルーズ船が唯一の感染源とはいえないようなケースも発見されており、中国武漢が発祥の地だという推測も本当にそうなのか、確証が薄れているように思います。

中国政府にとって武漢での流行は、香港の反政府運動を押さえこむ上で格好の材料に使え、実際に香港の運動は大きく後退したし、トランプにしても中国経済を弱体化できる道具として新型コロナは事実を隠蔽するよりも事実を誇張する方が政治的な利得が大きいともえいます。 逆に日本政府は事実を把握しない、できる検査をしないことで統計データの暗数(あんすう、wikiとかに解説あり)を操作して実態を過少に評価してオリパラ開催に固執することの方に利益がある。トランプにしてもすでにインフルエンザで25000人も死者を出す大流行を隠蔽しつつコロナに注目が集まる方が都合がいいし、大集会を繰り返す大統領選挙では集会自粛は誰も言い出したくない。株価は下ってますが、テレワークのIT企業はかなりのビジネスチャンスと思っている。監視システムの拡大も避けられないでしょう。

状況は医学や疫学の問題だけでなく政治的な意向を反映しているので、客観的にどのように判断するのが正しい予防やリスク回避なのかさっぱりわかりません。こうなると不安だけが先行して自粛の同調圧力が強まり、運動もまた失速します。予防とリスク回避が何より大切という場合、過剰な萎縮ではないこと、政府やメディアの宣伝に同調しているのではないこと、政府のデマとは無関係の独自の判断だというための客観的な判断基準にもとづいていること、とはいえないようにも思います。逆に、こうしたことがあってもがんばって集会やデモをやるぞ!という決意先行は、威勢はいいけれど、リスク判断を決意によって代替できるわけではないから、理論的な説得力はない。 今回は新型コロナウィルスですが戦争状態の危機になると同種の状況が生まれるのかもしれません。

今後のことで危惧するのは、

(1)集会などが次々に中止になる。主催者判断の自粛だけでなく、公共施設が貸さない、という判断になる可能性もあります。国会の議員会館の院内集会の中止もありえないことではないでしょう。憲法に保障された集会の自由を奪われるわけです。

(2)国会は通常国会の会期中ですし自治体の議会も開かれていると思います。様々な法案の審議中ですが、無観客試合みたいな感じで一方的にヤバい法案が次々に通過する可能性がある。裁判所も傍聴制限を強化するかもしれない。裁判公開の原則が崩れます。とくに、非常事態の官邸への権力集中を容認するような法案とかが、コロナを口実に作られるかもしれず、たぶん野党も同調するでしょう。

(3)国会すら機能停止になるとすれば、あるいは国会審議の時間的な余裕がないという理由で執行機関の内閣に権力が集中し、行政が暴走する。例外状態を口実に超法規的なことをやりかねない。

娯楽関連のイベント中止は、確かにコロナの流行状態をみると仕方ないかなあと思いつつ、他方で、オリパラとの関連では、福島の放射能汚染の隠蔽の現実を踏まえると、実はもっと深刻に捉えるべきなのかとも思い、そうであるなら集会などの自粛もありなのかとも思います。いずれにせよ集会などの実施、中止の判断の政治的な性格をきちんと把握する必要があると思います。医学と疫学だけに委ねられない。確信をもって判断できませんが、こうした自粛の先に政治的な意思決定や民主主義を支える仕組みそのものがもっている権力を抑制しえない限界が露呈するように思います。

こういう事態で、天皇が何を言うのか、沈黙したままでいられるのか、ということも注目ですが、ぼくが注目したいのは天皇ではなくて、天皇の言動を受け止める「国民」の側の受け止め方の方です。これが天皇制を支える基盤だと思うのです。

ちなみにわたしの関連では29日に集会を開きます。これは予定通りの開催です。 監視社会に対抗する プライバシーの権利運動 ―韓国からの報告― http://www.jca.apc.org/jca-net/node/68

内田樹の天皇制擁護論批判――明仁の退位表明をめぐって――

目次

  • 1. はじめに
  • 2. 象徴的行為
    • 2.1. 象徴的行為の再定義?
    • 2.2. 代替わりの一連の儀礼と象徴としての機能は一体なのか
  • 3. 憲法の天皇条項と「霊的存在」
    • 3.1. 条文そのもの
    • 3.2. 「霊的」存在の肯定
  • 4. 「國軆」による国民統合と民主主義的な多様性のあいだの矛盾の弁証法的統一?
    • 4.1. 統合と民主主義
    • 4.2. 退位とシャーマン
  • 5. 合理的・科学的批判の限界への挑戦へ

1 はじめに

明仁が生前退位を公的に表明したときの発言については、様々な論者が見解を表明してきた。以下では内田樹の天皇制擁護論を取り上げて、私なりの意見を述べておく。内田の発言は、明仁が生前退位を表明した「おことば」についての独自の解釈を示しながら、かつては天皇制に懐疑的であった彼がなぜ天皇主義者に転向したのかを述べており、現代のリベラリストの天皇制擁護論の特徴を示している。彼の擁護論の特徴は、リベラルであることや安倍政権への否定的な評価に立ちながら、むしろそうであるが故に象徴天皇制を積極的に肯定するという観点を、論理を超越したある種の宗教性に依拠して論じている点にある。以下で引用している文章は「私が天皇主義者になったわけ」(『私の天皇論』、月刊日本2019年1月増刊号、2018年12月 所収)に掲載されたインタビューである。

2 象徴的行為

2.1 象徴的行為の再定義?

内田は、明仁が「象徴的行為」という言葉を用いたことに注目する。

象徴天皇にはそのために果すべき「象徴的行為」があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。その象徴的行為とは「鎮魂」と「慰藉」です。

象徴的行為の中心をなすのが、鎮魂と慰藉だとし、憲法7条の国事行為「儀式を行うこと」を鎮魂と慰藉を行うこととして解釈する。

憲法第七条には、天皇の国事行為として、法律の公布、国会の招集、大臣や大使の認証、外国大使公使の接受などが列挙されており、最後に「儀式を行うこと」とあります。陛下はこの「儀式」が何であるかについての新しい解釈を示されたのです。それは宮中で行う宗教的な儀礼のことに限定されず、ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り沿うことである、と。

ここで問題になるのは天皇にとっての「儀式」とは何なのか、「ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り沿う」とはどのような意味をもち、それはどのような儀式的な行為を伴うものなのか、である。内田は7条の「儀式」を厳格に非宗教的な行事として解釈するのではなく、天皇という名称が本来もっている宗教性を内包するものだという「新しい解釈」を天皇が示したことを評価する。憲法でいう「儀式」=象徴的行為は従来、非宗教的な行事としての儀式であると解釈されきた。明仁が儀式に込めている象徴天皇としての内面の意思がどのようなものなのかは、この儀式を解釈する側に委ねられている。内田は、「儀式」に宗教性を読みとることを肯定した。内田は、あたかも明仁が「新しい天皇制解釈」を表明したかのように述べているが、実は、解釈の主体は内田にある。行為や言葉といったメッセージは、発信者と受信者双方がそれぞれにメッセージの意味を解釈しあうことの繰り返しを通じて、その行為の社会的な意味が形成される。天皇の国事行為としての「儀式」を宗教性のないものと解釈するのはメッセージの受け手の側であり、従来、憲法で定められた天皇の象徴としての行為は宗教性を持つべきではないとされ、だから実際の天皇の象徴行為も宗教性がないと解釈されてきたが、この解釈の枠組を否定し、天皇の象徴行為に宗教性を認め、これを積極的に意味ある行為として肯定した。この解釈の転換は、天皇の「おことば」が引き金になったとしても、この「おことば」を受信した側に、しかもリベラルな知識人の側に起きたということが重要なのである。意味を生成する場がある種の転換をみせたことを意味しており、天皇の象徴行為の宗教性が、たとえ憲法を逸脱しているとしても、肯定すべきとする主張が、解釈の通説になる兆候がある。同時に重要なことは、内田のような解釈は、天皇をめぐって、国事行為とこれには含まれない宗教儀礼という二分法がそもそも成り立たないことを指摘しているということだ。明仁は間接的にこのことを示唆し、内田は明示的にこの二分法を退けた。こうなると、そもそも象徴天皇制のもとで憲法20条が成り立つのかが疑問視されるということになる。

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

従来の通説では、憲法に定める象徴としての行為者としての天皇は、国の統治機関の一部だから宗教的活動はできない、だから、憲法7条の「儀式」も宗教儀式を含まないし含むことはできない、という解釈であろう。戦後、天皇の神道儀礼と国家との関係が繰り返し問題視されてきたのは、この憲法の縛りと天皇がそもそも天皇という命名の由来でもある神道と不可分な存在であることとの間に、憲法に内在する論理整合性をとることが必ずしも容易ではないという点にあった。神道儀礼が含意されるような儀式は、事実上これまでも天皇儀礼として排除されてはこなかったのだが、一見すると非宗教的とみなされる国事行為もまた、天皇に即せば、宗教的な意味を伴わないような行為はありえないことは自明である。「天皇」と命名された者の行為である以上、宗教性は払拭しえないからだ。政教分離を徹底させるのであれば、そもそも国家の象徴に「天皇」を位置づけること自体が矛盾なのだ。「天皇」という記号は、その意味内容が二重化されている。天皇からすれば、彼の象徴的行為は宗教的な行為と不可分だ。神道儀礼はこれが顕在的に示される場面だとすれば、正月や国体などの旅先での「おことば」から憲法に定められた国事行為は、宗教性を世俗的な装いの下に潜在させつつ維持されており、意味内容は受け手の側には世俗的なものとして解釈されているにすぎない。この意味の二重性は、従来であれば世俗的な意味内容が意味のヘゲモニーを握ってきたが、明仁の「おことば」はこのヘゲモニーを宗教性の側にシフトさせるものだった。このことを内田は敏感に読み取ったといえる。天皇を国家と国民統合の象徴としてしまえば天皇が出席する祝典、儀式はおしなべて宗教行為となり、国による宗教的活動となることが避けられない。つまり、憲法の象徴天皇の規定そのものが20条と矛盾する。護憲という立場は、この矛盾を、天皇の国事行為を非宗教的な行為であるハズだと「解釈」してやり過してきた。20条をとるか1条から8条をとるかは、二者択一である。だから「護憲」という立場は、現行憲法の象徴天皇制をめぐる内的な論理矛盾を糊塗してきたとはいえないだろうか。

このことは明仁の次の発言に露出している。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

2.2 代替わりの一連の儀礼と象徴としての機能は一体なのか

明仁から徳仁への代替わりの儀礼は、いわゆる国事行為であるのかそれとも皇室の宗教儀礼であるのかという議論に収斂させることのできない一体としての構造をもっている。そもそも憲法に定められた国家と「国民」統合の象徴は、「天皇」と呼称されることで宗教性と世襲性とが不可分な存在となる必然がありながら、他方で世俗的な統治機構を表向き標榜する国家の象徴でもあるという矛盾をもっている。この矛盾は、天皇の側からすると、神道祭祀と「日本」の伝統を継承し、その「祈り」の内実をシャーマンとして遂行する以外にない(そうでなければ自らの信仰を否定することになる)ものとして、この矛盾の辻褄を合わせる。他方で、世俗権力の体裁をとる統治機構の側は、逆に、天皇の神道信仰やシャーマンとしての鎮魂を隠蔽して世俗的で憲法に定められた国事行為の主体でしかない存在であるかのように装おうことを通じて、この矛盾の辻褄あわせをする。「国民」は、といえば、この二つの欺瞞の構造のなかで、自らの立ち位置を定める自由を持つにすぎない。

明仁は天皇なき日本は平和を保証できないということを、彼の祈りの現実的な効果として確信しているとすれば、内田は、こうした確信を「国民」の側から、下から支えるような心情を吐露することによって、平和構築の不可欠な存在としての天皇を確信する。いずれも、日本が天皇と「国民」が相互に依存しあいながら、この構図を再生産する以外の選択肢を否定する。

こうしてみると日本国憲法は、世俗的な装いをとりながら、国民が一体のものであって、この一体性が国民そのものによってではなく天皇によって表象される以外にないところで、その正統性のイデオロギー的な基盤を確保するという構造をもっていることがわかる。

3 憲法の天皇条項と「霊的存在」

3.1 条文そのもの

憲法の象徴天皇条項はかなり論理的に矛盾した構造をもっている。

  • 1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」主権者の総意に基く国民統合を象徴する存在が「天皇」と呼ばれるのか、それとも、あらかじめ天皇と呼ばれた存在がおり、この存在をもって国民統合の象徴とし、国民の総意に基いたものとみなす、ということなのかで、天皇という存在の憲法上の規定が真逆になる。法の支配[1]が前提にあり、憲法を国家の統治規範とするのであれば、まず最初に、国民統合の象徴の意味する実質を国民が総意によって確認する手続があり、この手続きを経た存在が「象徴」となるはずだろう。しかし、この象徴が、まず最初に「天皇」という戦前の憲法由来の、更には神話に基く「日本」の伝統的な信仰と統治の主体を意味する内容と結びつけられる場合には、主権者の討議と総意の確認の手続きは、事実上排除されることになる。

日本国民の総意を確認する手続きを経て日本国民を統合する象徴となるものとは一体何なのか、という問題は、国家の正統性を支える重要な主題である。この場合、「日本国民統合」とは何のことなのか、なぜ「統合」という文言が必要なのかという問題は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて」という前後の文脈との関連でいえば、「日本国の象徴」というだけでは足りずに、「日本国民」をこれに加え、更に「統合」という文言をも加えていることからすれば、民主主義が前提とする国民内部の相互に相対立する思想信条などを超越した国民としての一体性を表現したものともいえる。このような一体性を承認することを憲法が要請しているということは、日本という国家が階級、ジェンダー、エスニシティ、世代から宗教や思想の多様性による分断と矛盾を内包している社会であるということを否定するものだ。あるいは、こうした分断や矛盾があるとしても、これを「国民」として天皇に象徴されるものとして「統合」することを憲法が要請している。こうした国家観は、それ自体が擬制であり欺瞞ですらある。

  • 2条 「第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」

象徴が世襲であることは、「天皇」を伝統的な皇室として与件とする立場に立っており、国民の総意に基くとする1条の解釈からは導かれない。世襲であれば必ず総意が成り立つというのは論理的な構造をもっていない。2条は世襲であることを定めることによって事実上1条の「総意」の手続きもまた否定し、世襲がこれらにとってかわりうる手続きであることを宣言している。民主主義的な手続きを経て王政を選択するということはありうるが、こうした選択肢も「天皇」に関しては否定されている。「論理的ではない」とか「不合理な独断」といった批判は可能だが、有効ではない。「世襲」を正当化しているのは、憲法や法に内在する論理ではないために、論理的な批判をそもそも受けつけない。次元が異なるのだ。この論理や近代の法合理性とは異なる世界を「天皇」という概念そのものが内包している。

  • 4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」

天皇は、国事行為しか行なえないことを明文化している。国事行為の内容は7条に具体的に定められている。天皇が国事行為のみしか行なうことができないとすれば、天皇は一切の神道宗教儀礼を行うこともできない。宗教儀礼を行うのであれば、そのときには天皇という名前を用いることはできないはずである。しかし、天皇という言葉の由来が神道にあり、しかも神道の教義抜きには天皇とは何者なのかも定義できないのだから、そもそも4条を徹底するとすれば、天皇を主語に置くこと自体に根本的な矛盾がある。

天皇は実際には、国事行為以外の行為も行う「人間」であり神道の祭祀としての「伝統」の担い手でもある。一般に、人間が何らかの職務を担うとき、職務を指し示す言葉によって、職務にある者としての限定を付し、同じ人間であっても職務にない(プライベートとか言われるが)場合は、その職務の名称を避ける。これは、職務とその役割内容とが一体のものとしてあり、この職務に人間が時間と場所を限定して関与するということを念頭に置いている。ところが天皇という職務とその存在全体の関係はこういうふうにはなっていない。天皇の存在理由は、神道の宗教的な定義から導かれており、それ自体が宗教的な意味を帯びている。こうした存在を与件として国家の象徴機能がその一部をなすものとして組み込まれているといった方がよいようなありかたをしている。

天皇が一方で宗教的な主体であり、他方で憲法の規範に従属する国民統合の象徴的主体であるという二重性は、本質的に矛盾する。この矛盾は、神を否定して、神の座に国家という世俗的でありながら超越的で普遍的な価値の体現者を僭称する事実上の「神」を据えることで折り合いをつけてきたわけだが、どのような近代国民国家も世俗性の背後に何らかの宗教性をまとうことを否定することができていない。国家の観念を支える世俗的で合理的な普遍性としての価値や規範は、常に何らかの宗教的な「神」によって自らの存在理由を補完しなければ自己維持することができてこなかった。これは合理的な判断や推論から逸脱する人間の情動や無意識の世界が未だに「神」から解放されていないことを示している。この問題が最も端的に示されるのが「文化」の領域であるにもかかわらず、20世紀の左翼革命は「文化」の革命に失敗したために、人間の「神」からの解放にも敗北した。

3.2 「霊的」存在の肯定

内田は鎮魂と慰藉を象徴天皇制の再定義の核心に据えたのが明仁だと述べたわけだが、「鎮魂」について更に立ち入って次のように述べている。

どのような共同体にもそれを基礎づける霊的な物語があります。近代国家も例外ではありません。どの国も、その国が存在することの必然性と歴史的意味を語る「物語」を必要としている。天皇は伝統的に「シャーマン」としての機能を担ってきた。その本質的機能は今も変わりません。「日本国民統合の象徴」という言葉が意味しているのはそのことです。

霊的な物語は国家にとって必須であるとし、この物語の担い手がシャーマンでもある天皇であって、国民統合の象徴とはこのことを意味しているのだという。たぶん天皇が「祈り」を捧げるという行為が象徴的な行為であり、この行為をもって国民統合が体現されているのだが、この祈りという行為が霊的な物語によって裏付けられるのであり、世俗的で無宗教の行為としての「祈り」ではない、というのが内田の解釈であろう。わたしは、内田とは逆に、だからこそこうした「祈り」を否定しなければならないと思うわけだが、明仁に限らず、天皇の「祈り」とはどのような内実をもつものなのか、がここでは最も重要なことになる。たぶん、これまで天皇の宮中祭祀などの明らかな宗教儀礼を別にすれば、国事行為としての儀礼であれ慰霊の旅であれ、彼の「祈り」が宗教性をもつものではないという解釈は、内田にいわせれば間違っているということになる。

内田は、鎮魂が問題になることから、ここでの「物語」の中心をなすのが死者への慰霊ということになる。死者の鎮魂慰霊が国家という枠組によって規定されるべきことから、国民統合としての鎮魂慰霊の「象徴的行為」の目的はあくまでも国民の「霊的統合」だという。どこの国でもこうした霊的統合の物語があり、日本には日本の霊的統合の物語があるのは当然だともいう。

恨みを抱えて死んだ同報の慰霊を十分に果さなければ「何か悪いこと」が置きるということは世界のどの国でも、人々は実感しています。死者の切迫とは「これでは死者が浮かばれない」という焦燥のことです。そして、この感覚が現に外交や内政に強い影響を及ぼしている。「成仏できない死者たち」が現実の政治過程に強い影響を及ぼしているという・では、実は古代も現代も変わらない。その意味では私たちは今もまだ「シャーマニズムの時代」と地続きなのです。

内田は、次のように解釈している。

天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。

内田は、憲法が天皇の機能として規定する国民統合としての象徴を「祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること」に繋げ、これを古代からの一貫した天皇の役割であるとするのだが、ここには日本という国家が世俗的な国家であることの余地はほとんど残されないような印象すら与えかねない言いまわしである。古代には「国民」など存在しなかったという揶揄は別にしても、この内田の立ち位置は、天皇の側にあり、自らをもっぱら天皇の振舞いに同期させることにのみ関心を持っていることが端的に示されている。

民衆の側からすれば、天皇の鎮魂や慰藉などという振舞と自らの心情との同期の構造はこれまで次のように想定されてきたと思う。天皇が祈りのなかで描く世界を日本の多くの知識人やメディアは、天皇の眼差しを内面化して理解し、咀嚼して、これを人々に伝える役割を担う。こうして民衆の世界は天皇の世界によって上書きされ、民衆の記憶もまた消去され、天皇の伝統が民衆の伝統を乗っ取る。こうして「国民統合」という観念が実体を伴うかのようにして民衆にも受動的に、しかしまた自発的に受容されてしまう。しかし古代から現代まで継承されているらしいシャーマンとしての天皇による鎮魂と慰藉の「祈り」があるとしても、その内実は闇の中であり、うかがい知ることができない。このような仮説はそもそも荒唐無稽だとして否定することもできるが、荒唐無稽なことがある種の力を発揮するとき、それは「オカルト」と呼ばれて少なくない人々の情動を支配する。代替わりの儀式をめぐる知識人や報道の内容を振り返ると、私は天皇制というカルトがこの国の大半の人々の情動を支配していることを軽視できないと思う。

4 「國軆」による国民統合と民主主義的な多様性のあいだの矛盾の弁証法的統一?

4.1 統合と民主主義

「日本国民統合」という表現は、国民としての一体性を強く印象づける表現である。国民である以上「一体」であるべきであるとい前提がある。しかも、この一体性は、憲法の後の条文にある基本的人権における自由に関する権利と矛盾する。多様な価値観や思想、信条などを国民が有するとすれば、一体性は存在しえない。一体性あるいは統合と呼ばれるような画一的な国家のありかたがなくても統治機構としての機能を果すことができるように設計されているのが民主主義による統治機構なはずだ。

内田はこの統合と民主主義の間にある矛盾に着目して次にように述べている。

天皇制と立憲デモクラシーという「氷炭相容れざるもの」が拮抗しつつ共存している。でも、考えてみたら、日本列島では、卑弥呼の時代のメヒコ制から、摂関政治、征夷大将軍による幕府政治に至るまで、祭祀にかかわる天皇と軍事にかかわる世俗権力者という「二つの焦点」を持つ楕円形の統治システムが続いてきたわけです。この二つの原理が拮抗し、葛藤している間は、システムは比較的安定的で風通しのよい状態にあり、拮抗関係が崩れて、一方が他方を併呑すると、社会が硬直化し、息苦しくなり、ついにはシステムクラッシュに至る。(中略)

だから今は、昔みたいに「立憲デモクラシーと天皇制は原理的に両立しない」と言う人には、「両立しがたい二つの原理が併存している国の方が住みやすいのだ」と言いたい。(中略)

「國軆」というのは、この二つの中心の間で推力と斥力が働き合い、微妙なバランスを保つプロセスそのもののことだと私は理解しています。「國軆」というものを単一の政治原理のことでもないし、単一の政体のことでもない、一種の均衡状態、運動家庭として理解したい。祭祀的原理と軍事的・政治的原理が拮抗し合い、葛藤し合い、干渉し合い、決して単一の政治香料として教条化したり、制度として惰性化しないこと、それこそが日本の伝統的な「国柄」でしょう。

内田が解釈してみせた明仁の象徴天皇の基本的な性格を鎮魂と慰藉にあるとする見方は、かなりのところまで正しい解釈だと思う。明仁が言外に留保して明言しなかったシャーマンとしての役割に踏み込んだ見解を示す一方で、これを復古主義的で反民主主義的な方向に還元することなく、民主主義との矛盾を内包することを社会の安定にとって不可欠な国家への国民統合の構造であるとするある種の弁証法的な理解は、現にある近代国家日本を、政権や目前に実際に存在する諸々の深刻な諸問題を棚上げして、これらを超越して絶対的に肯定すべき観念として、その必要性を強調してみせた。日本はなにはともあれ肯定される以外に選択肢をもたない絶対的な存在となる。[2]

内田は、「國軆」という観念を持ち出してきて、古代から現代まで一貫する「日本」の歴史的な連続的一体性を肯定する。この肯定を「物語」に基くものであって、史実に基づく必要性を認めない。明仁が「伝統」という文言で言わんとしたこともほぼ同義とみていいだろう。内田は、鎮魂と慰藉という象徴天皇の本質が現実の日本の社会の安定や平和に実際に寄与するものとはみておらず、むしろある種の日本人としてのアイデンティティの拠り所といった意味合いで述べている。明仁はそうではない。この点で内田と明仁との間には本質的に、天皇の象徴的行為の在り方の理解が食い違っている。明仁は次のように述べている。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

4.2 退位とシャーマン

明仁は「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろう」と述べて国事行為と象徴行為の縮小に反対し、また摂政を置く可能性に言及しつつ、これを否定した。その理由は上の二段落目の最初に端的に述べられている。「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます」というのだ。この条はいったいどのように解釈すべきなのだろうか。つまり天皇が病などで危機にあることと社会の停滞や国民の暮しへの悪影響との間に関連があり、この関連は「これまでも見られた」というのだ。私には一体どのような関連があるのかにわかに理解できないが、明仁の観念のなかでは、天皇の象徴行為は、単なる「儀礼」ではなく、その行為が日本の発展や国民の生活に実際の効果をもたらしているという理解がある。これは驚くべき発言であって、社会の発展や平和は主権者である「国民」の主体的な行為などではなく、天皇の健康と相関するというわけだ。

シャーマンとしての実効性を確信して明仁は、その能力の衰えを恐れて代替わりを決意した。明仁にとっての健康問題というのは、国事行為ではなく(それなら摂政に委ねてもよいものだろう)、この国事行為と並んで天皇が果すべきシャーマンとしての役割と関わるものだ。

たぶん、こうしたシャーマンとしての祈りとむすびつけることは曲解であると思われるかもしれない。通説は、かつての裕仁の死去に至る騒動がもたらした影響をオリンピックなどのメガイベントを控えている現状とを重ね合わせての発言だという解釈だろう。しかし、果してそれだけだろうか。明仁は次のように述べている。

天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

日本全国を旅することを象徴的行為と位置づけているが、これは憲法に定められた国事行為になない。いわゆる慰霊の旅などと称されて海外も含めた「戦没者」を慰霊する旅は、国事行為ではない。とすれば、当然のこととして憲法に定められた象徴としての行為でもない。しかし、これを明仁は象徴的行為として、憲法の象徴天皇の機能を拡大して解釈した。この解釈の前提にあるのは、実際に裕仁の時代から行われてきた「旅」を象徴天皇のあたり前の行為として位置づけてきた事実の積み重ねである。

もしそうであるとすれば、「国民を思い、国民のために祈るという務め」として述べられている「祈る」とは何なのかもはっきりする。これは憲法が規定している世俗的でいかなる宗教性からも切り離された行事としての「祈り」のパフォーマンスではない。ローマ法王が世界中を旅して祈るときに、誰も彼が世俗的な祈りを捧げるとは思わないし、実際の祈りのありかたもローマ・カトリックの祈りであることが明瞭なものとして表現される。しかし天皇の「祈り」は、憲法の政教分離の建前のなかで、意味の二重性の構造をもつ。慰霊の旅などは「国事行為」として解釈改憲されるなかで、その祈りとしての表象は世俗的であたりさわりのない非宗教的な体裁をとるが、だからといって明仁の祈りが世俗的な祈りであるとみなすことは、そもそも「天皇」という象徴が負っている歴史的な経緯からみて無理な解釈なのだ。その文言がどうあれ、彼はその内面いおいて神道祭祀として、シャーマンとして祈る以外に祈りようがないはずであって、だからこそ天皇という象徴は二重の意味を担うことになる。

5 合理的・科学的批判の限界への挑戦へ

代替わり儀礼に限らず、天皇や皇室に関わる神道儀礼はほとんどの「国民」にとっては理解しえないばかりでなく、そもそも理解することそれ自体もまた求められていない。しかし、「国民」としての一体性を天皇によって表象されることを確認の手続きもなく「総意」としてあらかじめ与えられることに、ほとんどの「国民」は異議を唱えていない。

たぶん、合理主義的に統治機構を理解しようとする考え方からすると、天皇をめぐる宗教儀礼や信仰に関わる領域は、理解不能か科学的根拠のない神話的世界を、あたかも事実のように見做す荒唐無稽な欺瞞でしかないとして検討の俎上にも乗せないで却下されるか、歴史修正主義のレッテルを貼って歴史的事実や合理的な判断によってその不合理性を退けるというだけのことになる。こうした理解は、学術的でもあり、科学的でもある一方で、宗教的な信仰や神話の世界を肯定したり不合理な世界を受け入れる人間の心情や心理を軽視することになる。合理的で科学的な理解を獲得すれば天皇制の信仰に関わる不合理な世界は消滅するのだろうか。たぶんそんなことはないと思う。なぜなら、人間はその本質において非合理的な要素を抱えているからだ。

他方で、宗教的な信仰の世界、天皇の信仰の世界を内田のように慰霊と慰藉として掬いあげたり、明仁のように「伝統」として非合理的な世界の継承を肯定する場合、彼らは、現実の世界が抱えている深刻な問題を、この世界を構成している構造的な矛盾の問題――資本主義が抱える矛盾と言い換えてもよい――として理解することができていない。人々が抱える深刻な問題は、崇高な「国民」としての一体性の観念や連綿と続くと観念される「國軆」「伝統」によって解決可能であるに違いないという願望によって宙吊りにされてしまう。いやむしろ、現実が直面している諸問題への解決の鍵は「伝統」への回帰あるいは、伝統を想起することのなかにあるということが含意されてもいる。

世俗的な世界観と宗教的なそれとの対立は近代世界に共通してみられる。しかし一般に、大衆は宗教的な世界理解を妨げられることはなく、むしろ宗教的な信仰を支える教義に接近することを宗教者は積極的に試みる。世俗的で合理的な世界と宗教的で神話的な世界とは、可視化可能な対立を構成する。しかし、日本の場合は、戦前であれ戦後であれ、神道の教義は大衆化することはなく、国家神道として強制的に教育のなかに導入された場合であっても、それは信仰としては浅いものでしかなかった。普遍性を装うことに失敗したために、合理的な世界を説得することができず、「民族」の観念を超越した普遍性をついに獲得できずに世界宗教にはなりえなかった。

天皇制廃止を主張したマルスク主義者は、資本主義が階級社会として、社会内部に非和解的な対立の構造を持つことから、国家への国民の統合という観念は、階級意識に対する敵対イデオロギーだという理解を鮮明にもっていた時期があった。アナキストは、国家を権力支配の装置とみなして民衆に敵対するものと理解したから、天皇制は権力支配の制度であって、権力の廃棄=国家の廃棄=天皇制廃棄は民衆の権力からの自由にとって不可欠な条件だとみていた。いずれであれ、「国民」という一体化した社会集団は、資本主義(あるいは20世紀の社会主義)が国民国家としての自己の存在理由を正当化するために構築した社会意識でしかない。ここに憲法の限界もある。憲法は、現にある社会が抱える構造的な矛盾や敵対的な構造(階級、ジェンダー、エスニシティ、るいは自然と人間など)を積極的に肯定しない。むしろ国家の統治機構は、いかなる矛盾や対立があろうとも、それらが「国家」の統治機構を支える方向である種の合意が形成されうるし、形成されなればならないということを前提にしている。この意味で国家とその構成員である「国民」という観念は、近代世界が抱える諸々の対立と矛盾を抑え込む最終的な審級をなしている。多くの西欧諸国は、この最終的な国家の構成員のアイデンティティの収斂点に、人類の普遍的な価値を置くことによって、この収斂が普遍的に承認されざるをえないような体裁をとっている。日本は、その構成員の「国民」としてのアイデンティティを一義的に普遍的な価値には置いていない。恒久平和と国民主権、隷属からの自由といった普遍的な価値が象徴としての「天皇」とリンクさせられることによって、近代国家としての普遍と特殊を構成する特異な構造をもっている。

この特異な構造のなかで、憲法の枠組は、「日本」が抱える近代資本主義としての矛盾や問題をこの構造を解体する方向で模索する道を閉す制度として機能している。近代国家の秩序の枠組は否定しえない至上の価値を有するものであり、憲法前文が主張する普遍的な価値の実現の条件として象徴天皇制を置くことによって、普遍的価値の特殊「日本」的な表れに正統性を与えようとしてきた。繰り返すが、こうした近代国民国家の憲法の枠組は、社会的な矛盾の止揚を社会の構造を変えることによって矛盾そのものを廃棄するという弁証法の罠の外に出る選択肢を認めないのだ。[3]

近代日本は、近代国民国家としての「世界性」と「特異性」を表裏一体のものとしてきた。このいずれを欠いても近代国民国家としての一体性は維持できない。しかし、普遍的な構造と特異な構造という二重構造は常に矛盾を抱えこむことになる。その矛盾は、国家の歴史と神話(創生の神話か歴史の事実か)と、工業化が基盤とする科学と超越的な存在(検証可能性と神の存在)をめぐって、常に妥協の弁証法に苦しめられることになる。天皇制は、神話や非科学的な神観念を土台とした国民国家としての固有性に依存する。神話を科学や歴史的な史実を根拠に否定することは容易だが、人々が神話を明確に記憶から消しさることはなく、むしろ習俗として日常生活のなかに定着しているのは何故なのかを説明したことにはならない。神の存在は証明されたことはないが、多くの科学者たちは、この根拠のはっきりしない存在を信仰しているという事実があり、こうした近代的な個人はむしろ普通にどこにでもいる人々である。

近代天皇制への人々の不合理な肯定は、天皇制への合理的科学的な批判では覆せないということである。神話や神話に基く儀礼的な行為が体現する象徴作用を否定するとはどのようなことなのか、である。

天皇制を支える儀礼は、オカルトといっていい性質をもち、外部の人達にとって、この日本の儀礼は奇怪なbizarreな文化でしかないと思う。この世界を「日本人」というアイデンティティを直感的にもつ人々が共有している。天皇制は日本ではカルトとはみなされていない。そのことがむしろ問われるべき問題だろう。

注:

1

「法の支配」という表現は、法が支配するのであって、人が支配するのではない、というニュアンスをもっているが、「法」はそれ自体として社会の規範や秩序を物質化できるわけではない。「法」は書かれた文章から構成されるが、「法」が法を書いたのではない。書かれた文章である以上、誰かが書き、誰かが解釈し、誰かが「法」を実体化するような社会の構築物や人々の「理解」を生み出す。「法の支配」の背後にはこうした意味での「人間」がいるわけだが、この人間によって形成される社会は具体的な固有名詞をもった人間の集合であるという意味でいえば、具体的であるが、法は常に抽象的な概念によって文章化される。抽象的な法を具体的な個人に適用する過程を「法」それ自体が支配することはできない。現実に私たちが抑圧を経験するのは、「法の支配」のバックグラウンドで機能する力をもつ特定の人間(たち)の振舞いである。この意味で「法の支配」はそのままで民主主義を保証しない。

2

しかし私はむしろ、日本という観念の相対化なしに、民衆の自由はありえないと考えている。日本に限らず、国民国家が自らを普遍的あるいは歴史的に太古の昔にまでさかのぼりうるか、あるいは普遍的な価値によって基礎づけられるかして、歴史を超越する存在として正当化しようとする一般的な傾向を容認してしまえば、近代世界が陥った戦争と他者支配の歴史を肯定せざるをえなくなる。伝統主義をひっさげながら近代を超克しようとする発想を根底から否定して、将来社会の可能性の一切を伝統と近代からの明確な決別として描くことなしには、抑圧からの解放はありえない。

3

上であたかも合理性と非合理性が対立するかのような図式で述べたが、実際にはこの両者はさほど仲が悪いわけではない。この両者が馴れ合う場がある。それが学術を含む文化と呼ばれる領域だ。文学は神話と、哲学は宗教とそれぞれ踵を接しているだけでなく、政治や法学は国家という観念を前提にするし、経済学ですら「日本経済」というカテゴリーを無反省に用いる。

文化・伝統のレイシズム

1 生前退位「お言葉」のレイシズム

何度も議論され、批判もされてきた明仁の生前退位表明だが、あえてもういちど下記の文言をとりあげてみたい。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

明仁が「国事行為を行うと共に」と述べていることに注目したい。彼は天皇に国事行為以外に天皇の重要な役割があることを明言した。そのあとに「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索」と続ける。憲法では象徴天皇の国事行為は、内閣が責任をもって助言して行なわれる国事行為であるはずだ。しかし、明仁はそのようなものとして天皇の象徴的行為を考えていない。憲法の枠に縛られた国事行為の外にも、天皇が主体となる象徴的行為があることを明言した。これは、象徴としての天皇の行為は、憲法によって制約しえない領域を含み、憲法の外部にあって憲法を超越する、とも解釈できる言い回しだ。戦後民主主義を体現する天皇であるかのように解釈されてきたが、少なくとも、晩年の彼は天皇の象徴的行為の憲法超越性を自覚していたのではないか。ここでいう憲法を超越するといっても、それは、政治的な権力が法を超越するという意味ではなく文化や伝統に内在する象徴権力の超越性を含意させている。

「伝統の継承者」を天皇に与えられた役割だと述べているところは見逃せない。天皇が想定している聞き手はもっぱら日本国民であると同時に、その圧倒的多数を占める(構築されたものとしての)エスニック集団としての「日本人」である。「日本文化」に属さない「文化」や「伝統」は天皇にとって「守り続ける責任」を有さない。そして、「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし」という皇室を主語とする表現は、日本文化総体を念頭に置きつつ、その中心に皇室の文化を据えた表現だ。ここには文化のヒエラルキーも含意されている。しかも、こうした伝統の継承者として「いきいきとして社会に内在」することを使命にするという。社会に内在した皇室は、当然のこととして、日本の文化や日本に固有の価値を伝統としつつ日本社会にこれを内在化させることを通じて「継承」を実現する主体になる。主権在民の理念はここにはない。ここに戦後憲法の本音が透けてみえる。

天皇が日本国民統合の象徴でありながら、同時に「伝統の継承者」でもあるということは、日本が天皇や皇室の伝統を共有する単一民族から構成されているという虚構を肯定した排除の言説、あるいは日本文化を最上位に置いて諸々の文化をその下位に位置づける差別の言説でもある。これを国民統合の象徴の役割としての天皇が担うということは、統治機構のあり方として、差別や排除が構造化されることを意味している。天皇が「伝統」を口にするということは、国民統合をいわゆる「日本文化」を共有する「民族」や社会集団に限定し、それ以外の社会集団の存在を排除するか差別するという構図を統治機構のなかに持ち込むことを意味している。「伝統の継承者」とは、異なる文化の排除の表明であって、レイシズムの言説なのだ。

この戦後の皇室の発言や振舞いに体現されている文化や伝統をめぐるレイシズムは、戦前戦後を通じて憲法が国民統合を、そもそも法によって規制することのできない特異な宗教的な主体である天皇の象徴機能を与えた結果である。この意味で問題の根源は、戦前であれ戦後であれ憲法そのものにある。

2 徳仁のばあい

現在の天皇、徳仁も皇太子時代に「伝統」や「文化」を次のように用いている。

京都府は、我が国の政治や文化の中心地として、千年を超える歴史を有し、海を越えて渡来する文化を取り入れながら、日本文化の基本を形成してきた「こころのふるさと」と言える地域です。また、長い歴史を通じて、常に時代の変化に対応し、今なお、伝統文化の中心であるとともに、新しい文化を創造し続けています。(中略) 京都では、「こころを整える~文化発心」という大変奥深いテーマを掲げて取り組んでこられました。日本文化と日本人の精神性を見直し、次の世代に継承するため、大切にしたい日本の「こころ」のメッセージを募集し発信するなど、多彩な取組が進められていると伺っています。(2011年国民文化祭、京都:宮内庁ウエッブより)

「海を越えて渡来する文化を取り入れながら」という文言は、文化的な多様性を肯定するかのようにみせながら、むしろ「日本文化」が様々な文化を同化させてきた優位的な位置にあることを評価している。上にあるように何度も「こころ」という言葉を使い「日本人の精神性」という表現すら用いている。皇室が「日本人の精神性」に言及したことはほとんどない。宮内庁のウエッブでみるかぎりこの一箇所だけだ。「物」を介した文化から人間の感性や心情に直接関わる文化領域へと踏み込んでいる。この言葉から戦前の「日本精神」を連想するのは過剰反応と思う一方で、かといって全く無関係と言いきれるかどうかは、この言葉が受け手によってどのように解釈されるのかによるだろう。今の日本には「日本精神」を許容する危うさがあるように思えてならない。

あるいは次のような徳仁の「伝統」という言葉の使い方にもレイシズムが隠されている。

現在の世界の水問題は、大変厳しい状況にあります。その解決は、世界の喫緊の課題であり、国際社会が一致し て、強固な連携を図りつつ、ことに当たることの重要さは今更言うまでもありません。しかし、その解決策は、その地方、その河川流域ごとに異なるはずです。その地域の先人達が、場合によっては数千年の歴史をかけて、営々として築きあげてきた流れにそって構築されるべきものでありましょう。それぞれの地域の歴史の流れと伝統が尊重されなければ、本当に地域に役立つものとはならないはずです。(第4回世界水フォ-ラム全体会合基調講演:宮内庁ウエッブより)

ここでは、ある地域に数千年の単位で生活してきた人々による「伝統」に注目している。言いかえれば、その地域に新たに居住するようになった人々を言外に伝統から逸脱する人々であり、 水問題の解決の主体になりえないかのような印象を人々に与えている。天皇や皇室が繰り返し口にする「お言葉」は、ほとんどの「日本人」にとって違和感のない、むしろ退屈ですらある「常識」の類いであることが多い。しかし、こうした日本の「伝統」や「文化」の言説がレイシズムを支える大衆意識の基層を構成してきた。

3 グローバル化する極右と天皇制

冷戦終結以降、世界規模で目立つ政治的な動きは、民衆の反グローバリゼーション運動が明確なオルタナティブを社会主義として掲げなくなるなかで、新自由主義グローバリゼーションを左翼とはある意味で真逆のベクトルで批判する極右の台頭である。明らかに左翼の衰退の隙をついて極右が政治的影響力を強めてきているのだ。

極右は、経済のグローバリゼーションを「マクドナルド化」にみられるような画一的な消費文化、格差、貧困、移民の流入によるコミュニティ固有の価値の破壊として批判し、テロリズムや法制度を通じた移民排斥を実現しようとする。人々は自分が生まれ育った場所で、その場所の文化や伝統を重んじながら暮すことが最も幸福なありかただとし、市場経済競争よりも、文化や伝統に依拠した民族的アイデンティティの再構築を通じたコミュニティの再建を主張する。近代科学技術を環境破壊の元凶とみなして伝統文化のなかに解決を探そうとする。リベラリズムと民主主義を敵視し、家父長制家族制や権威主義を肯定する。米国の福音主義がある一方で、ヨーロッパの極右の一部には近代世界に加担したキリスト教を否定し、キリスト以前へのヨーロッパの古層への回帰、ヨーロッパの原型を北欧やアラブ、インドなど非西欧文化や宗教に求める異教主義的な傾向もある。

「文化」が伝統主義や極右の政治運動と結びついて運動の駆動力として復興しつつあるとき、日本では、裕仁から明仁への代替わりが重なった。グローバルな極右の台頭のなかで、象徴天皇制が世界各地の資本主義延命の文化運動とシンクロしはじめていることに注目したい。天皇制の構造は、見掛けと違って日本に固有とはいえない側面がある。神話や伝統への回帰を武器にするレイシズムと闘う世界の運動と日本の反天皇制運動とが共通の課題を見出すことは難しくなくなっている。むしろ連帯の可能性が拡がっている。このことは、伝統主義と闘う左翼の運動にとって大きな希望だと思う。

出典:『反天皇制運動Alert』44号