(LeftEast:alameda)ロシアの戦争の背景にある階級摩擦

(訳者前書き)ロシア・ウクライナ戦争について日本でも多くの議論があり、私も比較的多くのことを書いているが、主に私の関心は、暴力という手段をめぐる問題に集中してきた。日本の改憲状況のなかで、反戦平和運動が専守防衛や自衛のための武力行使を曖昧に肯定するという欺瞞的な立ち位置へとじりじりと後退してきたことへの危機感があるからだ。他方で、戦争をより広い文脈のなかに位置づけることによって、戦争それ自体というよりも、戦争を選択した体制そのものの構造的な矛盾といったもうひとつの大きな問題に視野を拡げてはこなかった。しかし、戦争を遂行する社会システムや政治体制が抱えている諸矛盾を理解すること、つまりは、既存の体制を与件として平和を構想することができるのかどうか、という根本的な戦争と平和をめぐる体制認識を問うことになり、平和を理解する上で欠かせないことでもある。私は資本主義に戦争を廃棄する可能性を見出すことができないが故に、資本主義の廃棄が平和の不可欠な前提をなすと考えるが、なぜそうなのか、という問題に明確な答えを与えることが私にとっても避けられない宿題になる。以下に訳出したヴォロディミル・イシチェンコの主張は、この観点からも重要な問題提起となっている。なおイシチェンコについては、以前にも訳出紹介したものが二点、このブログ掲載されている。

ロシアの戦争を「プーチンの戦争」とみなすような歴史認識は、時代劇の大河ドラマのような時の支配者によって社会の事象を代表させる典型的な英雄主義史観が横行しているなかで、イシチェンコは、「プーチンは権力欲の強い狂人でもなければ、イデオロギーの狂信者でもない(中略)し、狂人でもない。ウクライナ戦争を起こすことで、彼はロシアの支配階級の合理的な集団利益を守っている」とし、左翼の批判的な分析も「帝国主義」の概念装置の安直な適用に陥りがちで、この戦争を特徴づけている特異性とともに、戦争を引き寄せる資本主義に共通する性質を明かにすることからは程遠いものになりがちである点にも警鐘をならしている。イシチェンコは下記の論文の冒頭で、こうした認識を退けるためのオルタナティブなパラダイムとして、ハンガリーの社会学者イヴァン・セレーニが提唱する政治的資本主義という概念を援用して、ポスト・ソヴィエトのロシアを特徴づける階級構造を描き出そうとしている。彼は「技術革新や特に安い労働力に根ざした優位性を持つ資本家とは異なり、国家からの選択的利益を主な競争力とする資本家階級の一部を、政治的資本家と呼ぶ」と定義している。そしてこの概念に当て嵌まるもうひとつの国家として中国を挙げている。この政治的資本主義とロシアの経済学者ルスラン・ザラソフが提唱する「インサイダー・レント」という概念を用いて、イシチェンコはポスト・ソビエトのロシアに固有の階級構造を明かにしようとする。これらの概念は、ポスト・ソ連あるいは社会主義から資本主義へと転換した社会にとって、いわゆる社会主義の体制が構築してきた労働力再生産や経済組織の構造の資本主義的な継承の特殊性を把握する上で重要な位置を与えられている。このことは、日本が近代化するなかで国家主導の富国強兵政策をとり経済組織を国家の統制に置く戦時総動員体制から戦後の西側資本主義への統合の過程でのいわゆる「経済の民主化」や労動改革などを経つつも、戦前からの構造的な一貫性をも維持してきた経緯と照らしても、興味深いものがある。資本主義と20世紀の社会主義を包含する近代性という概念が、純粋な近代の理念モデルからは排除されている非(前)近代的な要素の不可分性というこの概念の外延をも包摂しなければ、近代性そのものの本質もまた把握しえない、ということに気づかされる。20世紀初頭の資本主義ロシアから革命を経たスターリン体制下のロシア、そしてポスト・ソ連としてのロシアは、私たち日本の近代史とは余りにもかけはなれた歴史的経験にあるように感じるが、西欧に対して後進的な位置にありながら近代化を目指すなかで獲得されてきた支配の構造には、思いのほか多くの共通点を見出すこともできそうに思う。

戦争へと向う構図は単純ではないことは、イシチェンコの分析に登場するアクターと歴史的な背景から浮き彫りにされる単純明快とは言い難い階級闘争の姿からも理解できる。しかし、この論文のタイトルが階級闘争ではなく階級摩擦class conflictとなっていることには重要な含意がある。イシチェンコはロシアだけでなくウクライナにも注目しつつ、西側からのアプローチを軍事や多国籍資本だけでなく、いわゆる「市民社会」(つまり実現不可能あクリーンな資本主義のアクターを代表するわけだが)の回路を通じた西側への統合がもたらす支配階級内部の軋轢に着目する。この市民社会の回路は極めて重要なイデオロギー作用をロシアやウクライナだけでなく、私たちの社会にももたらしている。つまり「市民社会」は、資本主義を理想化するイデオロギー効果を伴っており、これが権力を善導すればよい資本主義が実現するという幻想の担い手になってしまっている。少なくとも、この点では未だ闘争といいうるような階級の構成が登場していないということを示唆しつつも、ラディカルな変革の可能性をも指摘するところでこの論文は終っている。

この論文が、単刀直入にウクライナへの侵略へと向ったロシアの政治権力の意思決定を分析するという方法をとっていないので、なぜ、これがロシアの戦争の「背景」なのかを理解するのは容易ではないかもしれない。戦争を軍が武力行使い動員される事態としてだけ捉えるのではなく、むしろ戦争を可能にし、かつこれを必然ともする戦争する国家の権力構造全体を理解しようとすれば、イシチェンコのようなアプローチには意義があると思う。

イシチェンコが援用する「国家からの選択的利益を主な競争力とする資本家階級の一部を、政治的資本家と呼ぶ」という捉え方は、マルクスの唯物史観の定式でもある土台と上部構造の伝統的な理解を覆して、国家の統治機構を資本=土台の不可欠な蓄積構造のなかに組み込む事態を指すとすれば、私もまた同様の考え方をしてきたので、関心が重なるところがある。中国も視野に入れた政治的資本主義は、その前身をなす20世紀の国民国家社会主義が政治権力による経済統制のモデルとしての経験を継承することで可能になったものともいえるが、他方で、私のように、統治機構の社会基盤となっている情報通信インフラを資本に依存する構造に着目する場合は、産業構造の転換もまた視野に入れるべき問題だということになる。そして、この情報通信の分野が、同時に現代的な軍事産業のひとつの軸をもなしつつあるということにも着目する必要がある。イシチェンコの論文にはこうした観点への言及がないが、政治的資本主義、あるいはインサイダー・レントといった概念を私のような問題意識を持つ者にとっても、検討する価値のある捉え方だと感じた。(小倉利丸)


ヴォロディミル・イシチェンコ Volodymyr Ishchenko
投稿日

2023年5月23日

LeftEast編集部からのお知らせ: このミニシリーズでは、Alameda InstituteのDossier、The War in Ukraine and the Question of Internationalismに掲載された2つのエッセイを再掲する。参考までに目次を掲載する。

今年初めにロシア軍がウクライナに侵略して以来、政治的なスペクトルを問わず、アナリストたちは何が、あるいは誰が、我々をここまで導いたのかを正確に特定することに苦心してきた。「ロシア」、「ウクライナ」、「西側」、「グローバル・サウス」といった用語が、あたかも統一された政治主体を示すかのように飛び交っている。左派であっても、ウラジーミル・プーチン、ヴォロディミル・ゼレンスキー、ジョー・バイデン、その他の世界の指導者の「安全保障上の懸念」「自決」「文明的選択」「主権」「帝国主義」「反帝国主義」に関する発言は、しばしば額面どおりに受け取られる。

特に、戦争開始におけるロシア、より正確にはロシアの支配集団の利益をめぐる議論は、疑問の多い極端へと偏りがちである。多くの人は、プーチンの言うことを文字通り受け取り、NATOの拡張への脅迫観念や、ウクライナ人とロシア人が「一つの人々」を構成するという主張が、ロシアの国益を代表しているか、ロシア社会全体が共有しているかを疑問視することさえしない。他方で、彼の発言は大嘘であり、ウクライナにおける彼の「真の」目標とは全く関係のない戦略的コミュニケーションであるとしてはねつける意見も多い。これらの立場はいずれも、クレムリンの動機を明らかにするのではなく、むしろ謎めいたものにするものである。ロシアのイデオロギーに関する今日の議論は、175年前に若き日のカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって書かれた『ドイツ・イデオロギー』の時代に戻ったかのように感じることが多い。

ある人は、ロシア社会で支配的なイデオロギーが、社会的・政治的秩序を正しく表していると考える。また、「王様は裸だ」と宣言するだけで、イデオロギーの自由な泡に穴を開けることができると考える人もいる。しかし、現実の世界はもっと複雑である。「プーチンが何を求めているのか」を理解する鍵は、彼の演説や論文から、観察者の先入観に合った不明瞭なフレーズを選び出すことではなく、むしろ、彼が代表する社会階級の物質的利益、政治組織、イデオロギー的正統性を構造的に決定する分析を実施することである。

以下では、ロシアの文脈に即して、そのような分析の基本的な要素をいくつか挙げてみる。だからといって、この紛争における西側やウクライナの支配階級の利害に関する同様の分析が無関係であったり不適切であったりするわけではないが、私がロシアに焦点を当てたのは、一部には現実的な理由からであり、またこの問題が現在最も議論を呼んでいるからであり、さらにまたロシアの支配階級がこの戦争の第一責任を負っているからでもある。彼らの物質的利益を理解することで、支配者の主張を額面通りに受け取る薄っぺらい説明から、戦争が1991年のソ連崩壊によって開かれた経済的・政治的空白にいかに根ざしているかという、より首尾一貫した図式へと向かうことができる。

名前に何があるのか?

この戦争において、クレムリンの利益を理論化するために、多くの人が帝国主義という概念を参照している。もちろん、あらゆる分析的パズルに、利用可能なすべてのツールを使ってアプローチすることは重要である。しかし、それと同じくらい重要なのは、それらを適切に使用することである。

この問題は、帝国主義という概念が、ポスト・ソビエトの状況に適用される際に、実質的に何の発展も遂げていないことである。ウラジーミル・レーニンも、他の古典的なマルクス主義者も、ソビエト社会主義の崩壊によって出現した根本的に新しい状況を想像することはできなかっただろう。彼らの世代は、資本主義の拡張と近代化の帝国主義を分析していた。これとは対照的に、ポスト・ソビエトの状況は、縮小、脱近代化、周辺化という永続的な危機にある。

だからといって、今日のロシア帝国主義の分析が無意味だというわけではないが、それを実りあるものにするためには、かなり多くの概念的な宿題が必要である。20世紀の教科書的な定義を参照しながら、現代のロシアが帝国主義国家であるかどうかを議論することは、学問的な価値しかない。説明概念としての「帝国主義」は、「ロシアは弱い隣国を攻撃したから帝国主義だ」「ロシアは帝国主義だから弱い隣国を攻撃した」など、非歴史的かつ同語反復的な記述的ラベル貼りに変わってしまう。

ロシアの金融資本の拡張主義を見ずに(グローバル化したロシア経済とロシアの「オリガルヒ」の欧米資産に対する制裁の影響を考慮して)、新市場の征服(ウクライナでは、自国のオリガルヒの海外資金を除き、事実上いかなる外国直接投資(FDI)も誘致できなかった)、戦略資源のコントロール(ウクライナ国内にどんな鉱脈があるとしても、ロシアにはそれを吸収する産業の拡大か少なくともより進んだ経済国にそれを売る可能性が必要だが、それは――驚くべきことに!――欧米の制裁によって厳しく制限されている)、あるいはロシアの侵略の背後にあるその他の従来の帝国主義的な原因について、一部のアナリストは、この戦争は「政治」または「文化」帝国主義の自律的合理性を持っているかもしれないと主張している。

これは結局のところ、折衷的な説明である。私たちの仕事は、侵略の政治的・思想的根拠が支配階級の利益をどのように反映しているかを説明することにある。そうでなければ、必然的に、力のための力、あるいはイデオロギーの狂信という無骨な理論に行き着くことになる。さらに、これは、ロシアの支配層は、ロシアの偉大さを取り戻すという「歴史的使命」に取りつかれた権力欲の強い狂信的なナショナリズムの人質になってしまったか、あるいは、客観的に利益に反する政策に導かれてつまりプーチンのNATOの脅威に関する考えやウクライナの国家としての否定を共有するという極端な虚偽意識にさいなまれているということを意味することになるだろう。

私は、これは間違っていると思う。プーチンは権力欲の強い狂人でもなければ、イデオロギーの狂信者でもない(この種の政治はポストソ連の空間全体では周辺的でしかない)し、狂人でもない。ウクライナ戦争を起こすことで、彼はロシアの支配階級の合理的な集団的利益を守っているのである。集団的な階級の利益は、その階級の代表者個人の利益と部分的にしか重ならず、あるいは矛盾することも珍しくはない。それでは、実際にロシアを支配しているのはどのような階級であり、その集団的利益は何なのだろうか。

ロシアとそれを越えた政治的資本主義

ロシアを支配する階級は何かと問われれば、左派の人々の多くは、ほとんど本能的に「資本家」と答えるだろう。ポストソビエトの平均的な市民は、彼らを泥棒、ペテン師、マフィアと呼ぶかもしれない。少し高尚な回答としては、「オリガルヒ」であろう。このような回答を、誤った意識の反映と断じることは簡単である。しかし、より生産的な分析の道は、なぜポスト・ソビエト市民が「オリガルヒ」という言葉が意味する窃盗や私企業と国家の緊密な相互依存関係を強調するのかを考えることであろう。

現代の帝国主義の議論と同様に、ポスト・ソビエトの条件の特殊性を真剣に考える必要がある。歴史的に見ると、ここでの「本源的蓄積」は、ソ連の国家と経済が遠心的に崩壊していく過程で起こったものである。政治学者のスティーブン・ソルニックSteven Solnickは、このプロセスを「国家を盗む」と呼んだ。

新しい支配階級のメンバーは、国有財産を民営化するか(多くの場合、1ドル=1円で)、形式的に公的な団体から私的な手に利益を吸い上げる機会を豊富に与えられた。彼らは、国家公務員との非公式な関係や、しばしば意識的に設計された法律の抜け穴を利用して、大規模な脱税や資本逃避を行い、短期的な視野で素早く利益を得るために敵対的な企業買収を実行したのである。

ロシアの経済学者ルスラン・ザラソフ Ruslan Dzarasovは、このような慣行を「インサイダー・レント」というコンセプトで捉え、権力者との関係に依存する企業の財務フローをコントロールすることで、インサイダーが引き出す収入のレント的性質を強調した。このような慣行は、確かに世界の他の地域でも見られるが、国家社会主義の遠心的崩壊とそれに続くパトロン制に基づく政治経済的再統合から始まったポストソ連の変革の性質上、ロシアの支配階級の形成と再生産におけるその役割ははるかに重要である。

ハンガリーの社会学者イヴァン・セレーニIván Szelényiのような他の著名な思想家は、同様の現象を「政治的資本主義」と表現している。マックス・ウェーバーに倣って、政治的資本主義は、私的な富を蓄積するために政治的地位を利用することを特徴としている。私は、技術革新や特に安い労働力に根ざした優位性を持つ資本家とは異なり、国家からの選択的利益を主な競争力とする資本家階級の一部を、政治的資本家と呼ぶことにしたい。

政治資本家は、ポスト・ソビエト諸国に限ったことではないが、歴史的に国家が経済の支配的役割を果たし、巨大な資本を蓄積し、現在は私的搾取のために開放されている分野でこそ、繁栄することが可能である。

政治資本主義の存在を認識することは、クレムリンが「主権」や「勢力圏」について語るとき、時代遅れのコンセプトへの不合理な執着からそうしているのではない理由を理解するために極めて重要である。同時に、このようなレトリックは、必ずしもロシアの国益を明示するものではなく、ロシアの政治資本家の階級的利益を直接反映するものである。

国家の選択的利益が彼らの富の蓄積の基礎となるのであれば、これらの資本家は、彼らが独占的なコントロールを行使する領域、つまり資本家階級の他のいかなる部分とも共有されないコントロールを囲い込む以外に選択肢はない。

このような「領域を示す」ことへの関心は、異なるタイプの資本家には共有されないか、少なくともそれほど重要ではない。マルクス主義理論における長年の論争は、Göran Therbornの言葉を借りれば、「支配階級が支配するときに実際に何をするのか」という疑問が中心であった。その謎は、資本主義国家のブルジョアジーは、通常、国家を直接には運営しないということであった。国家官僚は通常、資本家階級から実質的な自律性を享受しているが、資本家的蓄積に有利なルールを確立し、実施することによって資本家階級に奉仕する。対照的に、政治資本家は、一般的なルールではなく、政治的意思決定者に対するより厳密なコントロールを要求する。あるいは、自ら政治的地位を占め、私的な富を得るために政治的地位を利用する。

古典的な企業家資本主義のアイコンの多くは、国家補助金、優遇税制、あるいはさまざまな保護主義的措置の恩恵を受けていた。しかし、政治資本家とは異なり、彼らの市場での生存と拡大が、特定の役職にある特定の個人、特定の政党、特定の政治体制に依存することはほとんどなかった。多国籍資本は、その本社が所在する国民国家に依存することなく存続することができたし、今後も存続するだろう。ピーター・ティールのようなシリコンバレーの大物が後押しする、国民国家から独立した浮遊起業家都市であるシーステージング・プロジェクトseasteading project[海上に自治都市を建設するという構想l]が思い出される。政治資本家は、外部からの干渉を受けずにインサイダー・レントを得ることができる少なくともいくつかの領域がなければ、グローバルな競争の中で生き残ることはできない。

ポスト・ソビエトの周縁部における階級闘争

政治資本主義が長期的に持続可能かどうかについては、まだ未解決の疑問が残る。結局のところ、政治資本主義者の間で再分配するために、国家はどこからか資源を奪う必要がある。ブランコ・ミラノヴィッチが指摘するように、政治的資本主義にとって汚職は、たとえ効果的でテクノクラート的で自律的な官僚機構が運営する場合であっても、固有の問題である。

政治的資本主義の最も成功した事例である中国とは異なり、ソ連共産党の組織は崩壊し、個人の後援ネットワークに基づく政権に取って代わられ、自由民主主義の形式的なファサードを自分たちに有利なように曲げた。このことは、経済の近代化と専門化の衝動にしばしば逆行する仕事であった。

乱暴に言えば、人はいつまでも同じところで盗みを働くことはできない。利潤率を維持するためには、資本投資や労働搾取の強化によって別の資本主義モデルに転換するか、インサイダー・レントを抽出するためのより多くの源泉を得るために拡大する必要がある。

しかし、再投資も労働搾取も、ポストソビエトの政治的資本主義では構造的な障害に直面している。一方では、ビジネスモデル、さらには財産の所有権が基本的に特定の権力者に依存している場合、多くの人々が長期的な投資に取り組むことを躊躇する。一般に、利益を海外口座に移す方が好都合であることが判明している。

一方、ソ連崩壊後の労働力は、都市化され、教育を受け、決して安くはなかった。この地域の比較的低い賃金は、ソビエト連邦が遺産として残した広範な物質的インフラと福祉制度があったからこそ可能だったのである。この遺産は国家に大きな負担を強いているが、主要な有権者グループの支持を損なうことなく放棄することはそう簡単ではない。

プーチンのようなボナパルティズムの指導者や他のポストソ連の独裁者は、1990年代を特徴付けた政治資本家同士の対立を終わらせようと、政治的資本主義の基盤を変えることなく、一部のエリート層の利益を均衡させ、他の層を抑圧することによって、万人対万人の戦争を緩和させた。

強欲な拡張が内部的な限界に直面し始めると、ロシアのエリートは、抽出のプールを増やすことによってレント率を維持するために、外部への委託を試みた。それゆえ、ユーラシア経済同盟のようなロシア主導の統合プロジェクトを強化することになった。しかし、このプロジェクトは2つの障害に直面した。ひとつは、比較的マイナーな存在である地元の政治資本家たちである。たとえばウクライナでは、彼らはロシアの安価なエネルギーに関心を寄せていたが、同時に自国の領土内でインサイダーのレントを得るための主権的権利にも関心を寄せていた。彼らは、崩壊したソビエト国家のウクライナ地域の領有権を正当化するために反ロシアナショナリズムを利用することはできたが、明確な国家開発プロジェクトを展開することはできなかった。

ウクライナ第2代大統領レオニード・クチマLeonid Kuchmaの有名な本『ウクライナはロシアではない』のタイトルは、この問題をよく表している。

ウクライナがロシアでないなら、いったい何なのか。

ロシア以外のポストソビエトの政治的資本家たちは、ヘゲモニーの危機を克服することに至るところで失敗したため、彼らの支配は脆弱になり、最近ベラルーシやカザフスタンで見られるように、結局はロシアの支援に依存することになった。

ポスト・ソビエト空間における多国籍資本と職業的中産階級の同盟は、政治的には親欧米のNGO化した市民社会によって代表され、劣化し崩壊した国家社会主義の廃墟で一体何を育てるべきかという疑問に、より説得力のある答えを与え、ロシア主導のポスト・ソビエト統合により大きな障害となった。これが、ウクライナ侵略に結実することになるポストソビエト空間における主要な政治的対立を構成している。

プーチンをはじめとするソビエト連邦の指導者たちが実施したボナパルティズム的安定化は、職業的中産階級の成長を促進した。その一部は、官僚や戦略的な国営企業で働くなどして、制度の恩恵を共有していた。しかし、その大部分は政治的資本主義から排除されていた。

彼らの収入、キャリア、政治的影響力の発展の主な機会は、西側との政治的、経済的、文化的なつながりが強まるという見通しのなかにあった。同時に、彼らは西洋のソフトパワーの先兵でもあった。EUや米国が主導する機関への統合は、彼らにとって、「適切な」資本主義と「文明世界」の両方に参加するという、偽りの近代化プロジェクトであった。これは、ソビエト後のエリートや制度、そして、1990年代の惨事の後、少なくともある程度の安定を保つことにこだわった「後進的」な平民大衆に染み付いた社会主義時代の精神性との決別を必然的に意味する。

ほとんどのウクライナ人にとって、これは自衛のための戦争である。このことを認識した上で、彼らの利益と彼らの代弁すると主張する人々との間のギャップについても忘れてはならない。

このプロジェクトの根深いエリート主義的性格が、歴史的な反ロシアナショナリズムに後押しされたとしてもポスト・ソビエトのどの国でも真の意味でヘゲモニーになることはなかった理由である。現在であっても、ロシアの侵攻に対抗するために動員された[ロシアに対する]ネガティブな連合は、ウクライナ人が何らかの特定のポジティブな議題で団結しているということを意味してはいない。同時に、このことは、グローバル・サウスが、グローバル・パワーを目指す者(ロシア)や、帝国主義を廃止するのではなく、より成功した帝国主義と結びつこうとして西側諸国への統合を目指す者(ウクライナ)と連帯するよう求められたときに、懐疑的な中立性を示している理由を説明するのに役立つ。

ロシアの侵略に道を開いた西洋の役割についての議論は、通常、NATOのロシアに対する威嚇的な姿勢に焦点が当てられている。しかし、政治的資本主義という現象を考慮に入れると、ロシアの根本的な転換なしでのロシアの西欧への統合が、決してうまくいくことはなかっただろう理由がわかる。ポスト・ソビエトの政治的資本家からその主な競争力であるポスト・ソビエト諸国から与えられる選択的利益を奪うことで階級としての彼らをなきものにしようと明確に目論む西側主導の制度には、彼らを統合するような方策はなかったのである。

ポスト・ソビエトの空間に対する西側機関のビジョンのなかでいわゆる「反腐敗」アジェンダは、最も重要ではないにしても、不可欠な部分であり、この地域の親西側中産階級によって広く共有されてきた。このアジェンダの成功は、政治的資本家にとっては彼らの政治的・経済的な終焉を意味する。

公の場では、クレムリンは戦争を、ロシアの主権国家としての存続をかけた戦いだと見せようとしている。しかし、最も重要な利害関係は、ロシアの支配階級とその政治的資本主義モデルの存続である。世界秩序の「多極化」的な再編が、しばらくの間は、この問題の解決となるだろう。これが、クレムリンが彼らの特殊な階級プロジェクトをグローバル・サウスのエリートたち売り込もうとする理由であり、クレムリンは「文明を代表する」という主張に基づいて自分たちの主権の「影響圏」を手に入れようとするだろう。

ポスト・ソビエトのボナパルティズムの危機

ポスト・ソビエトの政治資本家、職業的中産階級、多国籍資本の矛盾した利害が、最終的に現在の戦争をもたらすような政治的対立を構造化した。しかし、政治的資本家の政治組織の危機は、彼らに対する脅威を深刻化させた。

プーチンやベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコのようなボナパルティズム政権は、受動的で脱政治的な支持に依存し、ソ連崩壊後の惨事を克服することで正統性を得ているのであって、支配階級の政治ヘゲモニーを確保するような積極的同意からではない。このような個人主義的な権威主義的支配は、後継者の問題があるが故に根本的に脆弱である。権力の継承には明確なルールや伝統がなく、新しい指導者が遵守すべき明確なイデオロギーもなく、新しい指導者を社会化しうるような政党や運動もない。後継者は、エリート内部の対立が危険な水準にまでエスカレートし、下からの反乱の方が成功する可能性が高いという脆弱な場になっている。

2014年のウクライナにおけるユーロマイダン革命だけでなく、アルメニア革命、キルギスの第三革命、ベラルーシの2020年蜂起の失敗、そして直近ではカザフスタンの蜂起など、近年、ロシアの周辺部でこうした蜂起が加速している。最後の2つのケースでは、ロシアの支援が現地政権の存続に不可欠であることが証明された。

ロシア国内では、2011年と2012年に開催された「公正な選挙のために」集会や、Alexei Navalnyに触発されたその後の動きは、重要な意味を持つものとはいえなかった。侵略の前夜、労働不安は高まり、世論調査ではプーチンへの信頼は低下し、引退を望む人々が増えていた。注目すべきは、回答者が若いほどプーチンへの反発が強かったことである。

ポスト・ソビエトのいわゆるマイダン革命は、いずれも階級としてのポスト・ソビエト後の政治的資本家それ自体に対する脅威となるものではなかった。彼らは同じ階級の権力者の一部を入れ替えただけであり、したがって、そもそも反動であった政治的代表の危機を激化させただけである。だからこそ、この種の抗議運動がこれほどまでに頻繁に起こっているのである。

マイダン革命は、政治学者マーク・ベイシンガーMark Beissingerが呼んだように、典型的な現代都市の市民革命である。彼は豊富な統計資料から、過去の社会革命とは異なり、都市市民革命は権威主義的支配を一時的に弱め、中流市民社会に力を与えるにすぎないことを示している。それは、より強固で平等な政治秩序や、永続的な民主主義の変化をもたらすものではない。

典型的な例として、ポスト・ソビエト諸国では、マイダン革命は、多国籍資本からの圧力(直接的にも親欧米NGOを通じて間接的にも)に対して国家を弱体化させ、地元の政治的資本家を脆弱にしただけであった。例えば、ウクライナでは、ユーロマイダン革命後、一連の「反腐敗」機関が、IMF、G7、市民社会によって徹底的に推進されてきた。

彼らは、この8年間、腐敗の重大な事例を提示することはできなかった。しかし、外国人や反腐敗活動家による主要な国営企業や裁判制度の監督機能を制度化し、国内の政治的資本家がインサイダー・レントを得る機会を奪っている。ロシアの政治的資本家には、かつて強大だったウクライナのオリガルヒが抱える問題に神経を尖らせるのに十分な理由があるといえるだろう。

支配階級の統合がもたらす意図せざる結果

ウクライナ侵略のタイミングと、プーチンの迅速かつ容易な勝利という誤算を説明するのに役立つ要因はいくつかある。例えば、極超音速兵器におけるロシアの一時的優位、ヨーロッパのロシアエネルギーへの依存、ウクライナ国内のいわゆる親ロシア派の反対派の弾圧、ドンバスでの戦争の後の2015年ミンスク合意の停滞、またはウクライナにおけるロシアの諜報活動の失敗である。

ここでは、侵略の背後にある階級的対立、すなわち、一方ではレントの割合を維持するための領域拡大に関心を持つ政治的資本家と、他方での政治的資本主義から排除された専門職中間層と連携する多国籍資本との間の対立を、非常に大まかに説明しようと思う。

マルクス主義的な帝国主義の概念は、戦争の背後にある物質的利益を特定することができれば、現在の戦争に有意義に適用することができる。同時に、この紛争は、単なるロシア帝国主義以上のものである。現在ウクライナで戦車、大砲、ロケット弾によって解決されようとしている紛争は、ベラルーシやロシア内部で警察の警棒によって抑圧してきたのと同じ紛争である。

ポスト・ソビエトのヘゲモニー危機――支配階級が持続的な政治的、道徳的、知的リーダーシップを発揮できない無能さ――の激化が、エスカレートする暴力の根本原因である。

ロシアの支配層は多様である。その一部は、欧米の制裁の結果、大きな損失を被っている。しかし、ロシアの体制は支配層から部分的に自立しているため、個々の代表者やグループの損失とは無関係に、長期的な集団的利益を追求することができる。同時に、ロシア周辺部の類似の政権の危機は、ロシア支配層全体に対する存立危機事態を悪化させている。

ロシアの政治的資本家のうち、より主権主義的な分派は、より買弁的な分派に対して優位に立っているが、後者でさえも、政権の崩壊によって、彼ら全員が敗北することをおそらく理解しているだろう。

クレムリンは戦争を開始することで、世界秩序の「多極化」再編を最終目標に、当面の脅威を軽減しようと目論んだ。ブランコ・ミラノヴィッチBranko Milanovicが示唆するように、戦争は、高い代償を払うことになるにもかかわらず、ロシアの西側との関係弱体化に正当性を与え、同時に、さらに多くのウクライナ領土を併合した後に、それを覆すことを極めて困難にする。

同時に、ロシアの支配的な小集団は、支配者層の政治的組織とイデオロギー的正統性をより高いレベルにまで高めている。ロシアにはすでに、中国のより効果的な政治的資本主義にロールモデルとしての明かなヒントを得つつ、より強固で、イデオロギー的で、動員力のある権威主義的な政治体制への転換の兆候がある。

プーチンにとって、これは本質的に、ロシアのオリガルヒを手なずけることによって2000年代初頭に始めたポスト・ソビエトの統合プロセスのもうひとつの段階である。第一段階における大惨事の防止と「安定」の回復という緩やかな物語に続いて、今の第二段階では、より明確な保守ナショナリズム(海外ではウクライナ人や西欧に、ロシア国内ではコスモポリタンな「裏切り者」に向けられる)が、ソ連崩壊後の思想的危機という状況の中で広く利用できる唯一の思想言語となった。

社会学者ディラン・ジョン・ライリーDylan John Rileyのように、上からのより強力なヘゲモニー政治が、下からのより強い対抗的なヘゲモニー政治の成長を助長する可能性があると主張する著者もいる。もしそうだとすれば、クレムリンのよりイデオロギー的で動員主義的な政治への移行は、ポスト・ソビエトのどの国が経験したよりも大衆層に根ざした、より組織的で意識的な大衆政治的反対運動、ひいては新しい社会革命の波が起こる条件が生まれるかもしれない。

このような展開は、世界のこの地域の社会的・政治的な力のバランスを根本的に変え、約30年前にソビエト連邦が崩壊して以来、この地域を苦しめてきた悪循環に終止符を打つ可能性がある。

Volodymyr Ishchenko ベルリン自由大学東欧研究所の研究員である。抗議行動や社会運動、革命、急進化、右翼・左翼政治、ナショナリズム、市民社会などを研究テーマとしている。ウクライナの現代政治、ユーロマイダン革命、それに続く戦争について広く発表している。『ガーディアン』『アルジャジーラ』『ニューレフトレビュー』『ジャコバン』への寄稿が多い。現在、『The Maidan Uprising: Mobilization, Radicalization, and Revolution in Ukraine, 2013-14』というタイトルの集合的なモノグラフを仕事にしている。VolodymyrはAlamedaのアフィリエイターでもある。

不可能な要求が必要なとき――G7に反対する意味とは

以下の原稿はさっぽろ自由学校<遊>の機関誌に掲載されたものです。


札幌で開催されるG7気候・エネルギー・環境大臣会合(以下環境大臣会合と略記)の開催前にこの原稿を書いているので、どのような声明が出されるのかはわかっていません。だから会合の具体的な内容よりも、G7反対するとはどのようなことなのかを考えてみたいと思います。

4月12日付の日本経済新聞のオンライン版に「『無理なものは無理だ』脱炭素巡りG7に綻び」という記事が掲載されました。この記事は、財務省による主要7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議の主要議題に関する文書を紹介したものです。記事本文には次のような記述があります。

「G7の綻びがみえる経済的なテーマもある。「無理なものは無理だ」。4月15日から札幌市で開く気候・エネルギー・環境相会合の声明案を巡り、日本と残り6カ国の間で押し問答が続いている。対立点は石炭火力発電所についての表現だ。

ガス火力よりも温暖化ガスの排出量が多い石炭に関し米欧は「G7以外もけん引するため高い目標を掲げるべきだ」と廃止時期の明示を求める。「それではG20やグローバルサウスはついてこない」と日本は押し返す。電力需要が伸びる新興国ではなお石炭火力の活用が多い。」

グローバルサウスの経済開発を人質にとりながら、脱炭素への取り組みに消極的であることを正当化しようというわけです。財務省にとって環境の問題は「経済」の問題です。経済の観点からみると、気候危機に日本政府や経済ジャーナリズムがいかに後ろ向きかがよくわかります。彼らにとっての危機は、温暖化に伴う環境破壊の危機ではなく、企業や金融機関に関わる危機なのです。気候危機に取り組むためには、温暖化ガスの高排出産業(鉄鋼、航空、電力など)の構造転換が不可欠です。政府は、こうした構造転換リスクが現状維持リスクよりも大きいと判断しているのです。

欧米政府は、日本とは逆に、現状維持のリスクが高いと判断しています。この違いは、政権が直面している政治的危機の違いによるものです。ここ数年、気候危機は大規模な大衆運動として顕在化し、これが政策に影響を与えてる力をもつようになっています。ヨーロッパ諸国、とりわけイギリス、フランス、ドイツなどG7を構成している諸国にとって、気候危機は国内の深刻な政治危機の問題です。逆に政権交代の可能性のない日本では、政権は民衆の気候危機への取り組みの運動の影響を受けにくく、政府は危機感を感じる条件がなく、既得権が優先されます。

ここでいう危機を実感させる民衆の運動とは、ロビー活動するNGOや政府や企業に問題解決を期待するのではなく、気候危機に必要な制度の根本的な転換を迫る運動です。米欧政府も企業もこうした民衆運動に直面しているが故に、構造転換を強いられているといえます。

これに加えて、ロシア・ウクライナ戦争は、既定の脱炭素政策を困難にし、後退する可能性が高くなっています。戦争回避が環境危機を解決する上での唯一の選択肢であるにもかかわらず、各国政府は戦争回避に後ろ向きです。その結果として、欧米政府も民衆の運動がもたらす危機よりも戦争の危機をより深刻な政治的なリスクとみなすようになります。脱炭素よりも経済安全保障が優先されるようになったという点では、日本も欧米各国もほぼ足並みが揃っています。こうして、危機に対応する新しいモデルを打ち出すことで資本主義の延命――利潤動機で行動する企業と軍事的政治的な権力動機で行動する国家の堅持――を図ろうという欧米資本主義の脱炭素ユートピアも破綻しつつあります。

他方で、戦争がうみだしたエネルギー危機とインフレのなかで、民衆の気候危機への抗議運動は後退しているとはいえません。民衆の要求は、化石燃料からの離脱とともに、原発にも環境破壊をもたらす再生可能エネルギーにも反対しています。エネルギー価格をはじめとする生存に必要なモノの高騰にも反対し、大幅な賃上げを要求し、ジェンダーやエスニシティに関わる経済的政治的文化的な平等を要求し、普遍的な人権が国境で差別されることに反対してこれまで以上に多くの難民をより平等な条件で受け入れることを要求し、年金支給年齢引き上げに反対し、働かなくても暮せる自由な時間をより長くすることを要求し、公共サービスを無償にしつつそこで働く労働者の賃金や労働条件の改善を要求し、地域の大規模開発に反対しています。もちろん戦争にも警察の暴力にも反対です。民衆の要求は、権力者を忖度することはなく無理難題を押し付けることが当然の権利として主張されます。要求を支えるのは、不正義への怒りであり、普遍的な価値を言葉の上でもてあそぶ為政者の振舞いを絶対に許すことはできないという怒りです。

私は上に挙げた民衆の抗議をかなり「理想的」に語っていることを自覚しています。しかし、あえてこのように言うことが必要だと感じています。民衆の運動が、要求の条件を現実的なものかどうかを基準にして妥協するとき、運動はかぎりなく権力者に媚を売る卑屈なものになるか、自らもまた権力者であるかのように錯覚して大衆を無視したり蔑視する「市民社会」の権威主義を纏うことになります。この意味で、不可能な要求を掲げることが大切なのです。不可能性は常に、今ここにある支配的な社会制度にとっての不可能性であって、未来の社会選択は、この不可能性からは自由なはずだからです。この意味で不可能性への要求は、民衆にとっての自由の実現要求でもあります。G7に反対するということは、それ自体とてもささやかな行動ですが、この意味での資本主義にとっての不可能性の先にある可能性に開かれた自由を獲得する、という大きな夢に支えられることが必要だと思うのです。

(AngryWorkers)ウクライナの革命的労働者戦線(RFU)の仲間とのインタビュー

(訳者解説) 以下は、ドイツで開催された集会にオンラインで参加したウクライナのマルクス・レーニン主義のグループ、革命的労働者戦線(RFU)へのインタビューと質疑をAngry Workersのサイトの英語から訳したもの。もともとは、ドイツのRevolutionare Perspektiveの仲間たちが企画した会議の模様を文字起ししたものだ。私はこのRFUというグループについてはウエッブで公開されている情報以上のものはもっていない。訳した理由は、ウクライナで明確にマルクス・レーニン主義を標榜して活動するグループを知らなかったからでもある。RFUは2019年に結成されたばかりの新しい組織だ。ウエッブの紹介ではマルクス主義の普及と将来の労働者の党の建設を目指しており、社会的・経済的平等、賃労働者の権利、進歩的な社会を目指すとあり、ある意味でひじょうにオーソドックスな左翼組織だ。ここに訳出したのは、彼らが、ロシアとウクライナの戦争を「帝国主義戦争」と位置づけて、ロシアにもウクライナにも与しないことを明言していること、特にウクライナ国内で明確に自国政権の戦争を批判する活動に取り組んでいるのは、「脱共産主義化」をめざす――これはロシアと共通している――ウクライナではかなり困難な立場だが、もともとマルクス主義の原則からいえば、プロレタリアートには祖国はなく帝国主義に対峙する立場を明確にすれば、RFUのようなスタンスになるだろうと思う。私はマルクスを含めてマルクス主義の系譜に多くを負ってはいても、それだけではないので、私自身の考え方とは違うところもある。また。私は、戦争への反対についても、帝国主義戦争を含むあらゆる戦争=暴力による解放とは異なる解放の回路を模索したいと思っているので、彼らの問題意識とは異なるところもあるのではないかと思う。とはいえ、ウクライナの労働者階級あるいはプロレタリアートも一枚岩ではなく、戦争に対しても多様な主張があることを知ってもらう上でも参考になると考えて訳出した。

Junge Weltによれば、開戦1年目にあたる2月下旬に、ドイツのローザ・ルクセンブルク財団は、ドイツにいるウクライナのアナキストのセルゲイ・モウツシャンと雑誌『コモンズ』の編集者オクサナ・ドゥチャクを招いての集会を企画しているという。二人ともこの戦争をロシアに対するウクライナ独立の民族闘争と位置づけてウクライナ軍への支援を呼びかけている。ウクライナでは左翼、アナキスト、労働組合、中産階級、極右が渾然一体となって最前線にいるという。ドイツの左翼も上述のローザルクエンブルク財団などがウクライナ支援の立場をとり、以下に訳出した集会を企画したRevolutionare Perspektiveなどはロシアにもウクライナにも与しない立場をとり、対立がはっきりしている。日本も同様なので、情勢認識や世界理解の根源的な立ち位置がどこに暮していても問われる事態になっている。戦争が身近な状況になればなるほど、戦争を招き寄せるグローバルな国家と資本の磁場から非戦や絶対平和主義によって身を引き剥がすことを目的意識的に追求することがますます重要な課題になっていると思う。(小倉利丸)

2023 年 3 月 5 日

AngryWorkersによるイントロ。

2023年2月21日にベルリンでRevolutionare Perspektiveの仲間たちが企画したこの会議の音声記録を書き起こし、翻訳した。私たちはRFUについてはほとんど知らない。彼らがマルクス・レーニン主義者であると自称していることから、政治組織の役割に関しては、私たちとは異なる意見を持っているかもしれない。しかし、このインタビューは、ウクライナにおいて、どちらの陣営を支持することも拒む戦争に対する抵抗があることを示していると私たちは考えている。「当初は社会排外主義的な立場だったにもかかわらず、前線に出たことで自分の立場を考え直した友人もいる」と書かれているのは、心強いことだ。この地域の仲間たちは、ロシアであれウクライナであれ、「国益を守れ」という声が主流となる中で、その流れに逆らって立ち上がるという難しい課題を抱えている。このインタビューは、あらゆる困難にもかかわらず、国際主義的な階級闘争に基づいて介入する機会を見出そうとする仲間たちがいることを示すものである。

Revolutionaere Perspektive(ベルリン)によるイントロ

今日のテーマは、戦争に関するウクライナの左翼の立場です。昨年の2月24日、ロシアによるウクライナへの攻撃が始まりました。それ以来、双方で何千人もの兵士や民間人が殺されています。これは権力、勢力圏、資源をめぐる帝国主義戦争です。ウクライナは、ロシア、米国、EUの大国が関心を抱く国です。NATOはウクライナにこれまで以上の重火器を供給し、代理戦争を行っています。左翼の戦争に対する立場は、ここドイツだけでなく、ウクライナでも矛盾したものになっています。今日は、ロシアの攻撃的な戦争とウクライナ政府・NATOの両方に反対するマルクス主義組織「革命的労働者戦線(RFU)」の仲間を招待しました。彼らは首尾一貫した階級的立場をとり、民間人への支援を組織しています。

(…)

RFUからDimitriとRomanoを迎えました。あなた方の組織について教えてください。いつ設立されたのか、何をやっているのか、政治的な目標は何なのでしょうか。

RFUはマルクス・レーニン主義の組織で、2019年末に学校と大学生のTelegramチャンネルで結成されました。2020年、パンデミック中に、現在の形の組織を構成しました。2020年から2021年にかけて、私たちはYouTubeチャンネルとウェブサイトを立ち上げ、多くの政治イベントを開催し、より多くの人々を結集しました。戦争が始まる直前には、ハリコフで団体交渉問題に関連した抗議活動を行い、右翼の参加を阻止しました。戦争が始まった2022年には、多くの民衆がより政治的になり、教育的なイベントを企画したり、労働組合を支援したりする機会が生まれました。私たちは、主に労働者や学生のための法律相談を通じて、民間人を支援するようになりましたが、兵士のための相談も行っています。マルクス・レーニン主義の党を作ることが主な任務だと考えています。

現在のウクライナ戦争の主な理由は何だと考えていますか?

ウクライナの領土で行われている帝国主義戦争です。ウクライナに武器を提供するNATOによる戦争です。NATO諸国は勢力圏を拡大したいし、ロシアは影響力を失いたくない。経済的、政治的な理由もあります。ロシアはNATOの拡大を望んでいませんでしたが、戦争によってNATOの拡大がスカンジナビア諸国の加盟によって加速されただけだったということがわかります。領土に関しては、クリミアはロシア連邦の黒海海軍が駐留しているため、大きな重要性を持っています。そのため、クリミアは直ちに併合され、ドンバスの他の地域は二の次になりましたが、これが戦争が長引いた理由です。2014年以降、西側諸国はこの地域に武器を供給し、ロシアは輸入代替品を探しながら経済的に戦争に備えました。もしロシアが戦争に勝てば、労働力と資源の大きな市場、資本を蓄積するための領土を手に入れることができ、西側を弱体化させることができます。また、ウクライナは西側の兵器のテストケースであることが明らかになりました。

戦争が始まってから、労働者階級はどのような状況で、どのような権利の攻撃に遭っているのでしょうか。

戦争が始まって以来、労働者の権利は常に侵害され、状況は悪化しています。例えば、ストライキは禁止され、労働者は抵抗する権利もなく賃金を下げられ、解雇も容易になり、労働組合の活動も抑制されています。ウクライナでは高水準のインフレにもかかわらず、賃上げが行われていません。労働組合の残党たちは、使用者の利益のために活動しています。船員の労働組合が抗議したこともありましたが、すぐに阻止されました。失業率の高さも大きな問題で、現在、その割合は30%に達しています。人々は、どんなに条件が悪くても、どんな仕事でも続けたい、受けたいと願っています。また、仕事中に軍事攻撃を受けるリスクも高くなっています。例えば、ショッピングモールが砲撃され、従業員が爆撃から隠れるために退去するのが間に合わず、多くの従業員が被弾してしまいました。

ウクライナ防衛を支持する発言をするアナーキストグループなどの立場についてはどう思われますか?ウクライナの左派のさまざまなセグメントの立場はどうなっているのでしょうか?皆さんは誰と連携しているのでしょうか?    

RFUは最大のマルクス・レーニン主義者のグループです。Social Movementのように、社会排外主義の立場をとり、右翼と協力し、ウクライナ政府を支持する組織もあります。私たちはウクライナに多くの同志はいませんが、ヨーロッパの他の地域の人たちとの協力があります。アナーキストは奇妙な立場を採用し、戦争開始時からウクライナ政府を支持し、政府の味方につくことで労働者階級を裏切りました。また、ウクライナのアナーキストが政治的に独立していないことも示しています。当初は社会排外主義的な立場でしたが、前線に出たことで、自分の立場を見直した友人もいますので、今後、彼らと協力できることを望んでいます。

戦争を止める、あるいは戦争を終わらせるために、どのような可能性を見出していますか?     

難しい質問ですね。どちらが戦争に勝つかを判断するのは難しい。ウクライナ軍は、例えばケルソンで、直面している大軍に対していくつかの戦いに勝利しています。しかし、ロシア軍は失った領土を取り戻そうとするでしょう。ウクライナ軍は、武器の供給が続く限り、自衛を続けるでしょう。この点で、ウクライナは完全に西側に依存しています。ウクライナで人々が戦い、死んでいく限り、戦争は続くことになるでしょう。これは、どちらの資源が最後まで持つかという消耗戦のようでもあり、現状では膠着状態です。

ウクライナ兵の脱走はいますか、また、どの程度いるのでしょうか。

西側からの支援にもかかわらず、前線の状況はひどく、損失も大きいので、多くの脱走兵がいます。結局、労働者のために何もせず、むしろ彼らの状況を悪化させる国家のために死にたいと思う人はそれほど多くはないのです。国会議員や外国語を学ぶ学生は軍隊への徴兵が免除さ れますが、それでも出国は禁止されています。多くの人が書類を偽造して、自分はボランティアや介護者だから兵役は免除されると証明しようとします。徒歩で出国しようとする人たちも多い。ゼレンスキーは「誰でも自由に出国できる」と言いますが、それは本当ではありません。私たちの知人にも前線にいた者がおり、なかでもドンバスの将校は、追跡が難しいので脱走は比較的簡単だと言っていました。もちろん、政府はそのようなことは言いません。脱走や軍の上官の命令に従わないことを厳しく罰する新法もあり、人々の間では戦意が急速に低下しています。裁判所は今、より軽い判決を下すことを禁じられています。

ドンバスのいわゆる人民共和国は、マイダン2014の後に独立を宣言し、現在は併合されていますが、どのように理解されているのでしょうか?

左派の人々の中には、ドンバスの共和国は何らかの意味で進歩的で、住民の利益になると考えている人もいますが、そうではありません。これらの共和国は極めて親ロシア的で、ロシア連邦の傀儡です。マイダンの反動で設立されましたが、人民共和国と呼ぶのは間違いです。なぜなら、その設立は民衆とはほとんど関係がなく、ロシアに利用されているだけだからです。ロシアにとっては、安い労働力を得るためのもう一つの市場なのです。共和国が併合されて以来、ロシアは共和国に投資しています。しかし、ロシアは共和国を戦争行為のための実験場としても使っています。共和国が設立された当初は、左翼の人々が参加していましたが、共和国の政府は、進歩的な思想が広まるのを阻止し、ロシア帝国主義の利益のために行動するためにあらゆる手段を講じています。真の左翼は、帝国主義者の経済的基盤や政治的立場に反対し、帝国主義者に協力することはないでしょう。共和国の左翼活動家の中には、刑務所に入ることになった者もいれば、失踪した者もいれば、殺された者もいます。共産党は禁止されました。これは、共和国が反動的に行動していることを示しています。ロシア国家は、ドンバスにはロシア人しか住んでいない、それがプーチンのイデオロギーだ、ウクライナは独立国家ではない、と言っています。しかし、ドンバスにウクライナ人がいないと言うのは間違いです。この地域は民族的に多様で、ロシア人もウクライナ人も大きなシェアを占めていますが、多くはロシア語を話します。統計上、2001年のドンバスの人口の65%はウクライナ人でした。傀儡共和国が設立されて以来、ウクライナ語は公式に排除され、学校からも、文学からも排除されました。共和国には独立性がなく、政府は排外主義的な立場をとり、ロシアのオリガルヒの手によって機能しています。

では、会場からの質問を受け付けます。-

みなさんが行っている活動は、彼らの立場を考えれば、非常に危険であることは明らかです。プーチンは脱ナチスについて語っていますが、言いかえれば、ウクライナ国家内の極右の影響力をあなたたちはどのように見ていますか?  

プーチンは、戦争によってウクライナのナショナリズムを根絶したいと言いました。しかし、事態は悪化するばかりで、人々の反ロシア的な立場が強化されたことを示しています。また、政府も変わってきています。戦争前は政党が分立しているという意味で、普通のブルジョア民主主義でしたが、いざ戦争が始まると、政府の公式路線を支持しない好ましくない人々はすべて職を追われました。ゼレンスキーを中心に、新しいナショナリズムを象徴する一党独裁体制が形成されました。戦争が始まってから、アゾフのような軍事右翼を中心に、ナショナリストの組織が強くなってきました。良い点は、こう言ってはなんですが、彼らが前線で自滅することです。実権を握っているのはゼレンスキーですから、右翼の国家との同盟関係はむしろ不安定です。右翼が影響力を持ちすぎると緊張が高まる可能性があり、ゼレンスキーはそれを防ごうとするでしょう。戦争で右翼に走る民衆が増えましたが、これは長くは続かないだろうと思われます。民衆はイデオロギー的に右翼的ではありません。右翼への支持は、戦争中の恐怖に基づく文化的な現象に過ぎないのです。      

コミュニストとして私たちは、労働者は銃を自分たちの支配者に向けなければならないと言います。NATOとの戦争でロシアを支持するコミュニスト運動の一部は、私たちを左翼急進主義だと非難しています。若い組織であるあなたたちにとって、現在の状況において「銃を向ける」ことが何を意味するのか、教えていただきたい。あなた方の課題は何でしょうか?弾圧に直面しているのでしょうか?

今のところ、大衆は政治活動に参加することができません。左翼的な立場の幅を広げる機会もわずかしかありません。ウクライナでもロシアでも、国家からの弾圧の可能性に直面しています。私たちは非公然で活動しなければなりません。もし情報機関が私たちの身元を知ったら、殺されることはないかもしれませんが――その可能性もあるかもしれませんが――自由を失うことになるでしょう。Social Movementという組織は、今でも公然と活動していますが、情報機関に監視されています。現在の状況を革命的な状況に変えることはできませんが、私たちは、人々の中で、特に兵士たちに呼びかけることに全力を尽くしています。前線ではリスクが大きいので、限られた範囲でしかできませんが、兵士や将校の友人と連絡を取っているので可能です。残酷な状況そのものが、多くの兵士の考えを変えています。

ウクライナでNATOとロシア帝国主義の両方に反対するあなた方のような組織が存在することは素晴らしいことだ、とまず申し上げたい。戦争に反対する世界的な運動を構築するために必要なことです。そこで、あなたは西側帝国主義国家の私たちに何を期待しているのでしょうか。ドイツやロシアの国家に協力しないと言うだけでは、政治的受動性にすぎません。レーニン主義者は、侵略から準植民地を守ると同時に、二つの帝国主義陣営間の戦争では、自陣営の敗北を支持しなければならないでしょう。  

RFUは、海外の同志と協力したいと考えています。私たちの同志の中には、ドイツに住んでいる者もおり、彼らも支援を必要としています。私たちは、ヨーロッパにいるウクライナからの難民との活動を広げたいと考えており、そのためには支援が必要です。しかし主にマルクス主義者は、自国のブルジョアジーを攻撃する闘争組織を構築し、国際的に他の組織と協力する必要があります。

ソ連崩壊後、ウクライナ国家が行った「脱共産化」の試みと、現在の「脱ロシア化」の取り組みとの関係をどう考えているのでしょうか。ある意味、これは階級的な問題を民族的な問題に変えようとする試みですね。

現政権は、ロシアとウクライナの共通の歴史、両国が同じ国の一部であったことを否定しています。この傾向は2014年以降悪化し、ウクライナに蔓延するヒステリックな状態を維持し、民衆を最後までウクライナ国家のために戦わせるためには、こうした物語が必要なのです。例えば、歴史を書き換えるために、多くの通りやモニュメントが改名されています。ソビエトやコミュニストの文献を持っているところを目撃されれば、警察問題に直面します。

ウクライナの人々の間には、戦争を終わらせるために国の東部を放棄する意思があるのでしょうか。民衆はそのような立場を表明し、公に議論することができるのでしょうか。

そのような立場があるとすれば、少数派に限られるので、私たちはこうした立場には出会うことはありません。ほとんどの民衆は、すべての領土を取り戻すまで戦争を続けることを望んでいます。平和を主張する立場は少数派です。

Social Movementという組織について詳しく教えてください。彼らについてはドイツの改革派と急進派左翼の両方が宣伝しており、Rosa Luxemburg Foundationは、ドイツの左翼にNATOの立場を支持するために彼らを利用しています。

戦争以前から、この組織は革命的な戦略に従っておらず、ただ漠然と「労働者の利益を支持する」と述べているだけだったのです。彼らは主に法的助言を提供しています。彼らは、海外の左翼組織と協力していることで知られています。これらは通常、マルクス・レーニン主義組織ではりません。彼らは、ウクライナ政府は民族解放の戦争を戦っているのだから支援しなければならないと言っています。現在、彼らは地域の労働者に対してそれほど大きな支援はしていません。私たちはむしろこうした点で更なる活動をしています。

ロシアのグループとコンタクトがあるようですが、政治的に近いのはどのグループですか?また、ウクライナのどこで活動しているのか、安全保障上の懸念があるなかで、教えていただければと思います。

主にRussian Workers Front(ロシア労働者戦線)と接触しています。ロシアには多くの左翼組織がありますが、協力し合えるような良い立場にあるものは限られています。ウクライナ全土に同志がおり、併合地域を除いたすべての大都市にグループがあります。

「銃を向ける」という疑問に戻りますが、革命的な状況のための党建設の具体的な手順は何ですか?

私たちは、人々の間で高まっている不満や、自分たちが犠牲になっていると感じている兵士たちと関係を持とうとしています。これにはロシアの同志の支援が必要です。それ以外では、教育活動を続け、労働者が独立した組合を作るのを支援しようと努めています。この活動が共産党の結成に役立つことを期待しています。私たちは、労働者とそのストライキや抗議行動を支援できるように、オフラインの活動に重点を置いています。

西側からの武器供給を止めることで、ウクライナ政府を和平交渉に参加させるチャンスはあるとお考えですか?

ウクライナ政府が交渉に応じるとは考えていません。あなた方にできることは、ウクライナ政府に対する闘いを続けることです。武器供給を止められるかもしれない他の国際組織は、現状ではあまりにも弱すぎます。

戦争放棄のラディカリズムへ――ウクライナでの戦争1年目に考える戦争を拒否する権利と「人類前史」の終らせ方について

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1. ウクライナ戦争の影響

日本の主な平和運動がロシアの侵略とウクライナの抵抗から受け取った教訓は、戦争放棄の徹底ではなく、侵略を阻止するための自衛のための戦力は必要だ、という観点だ。この観点は、憲法9条の改憲に反対する多くの平和運動の側が、自衛隊を専守防衛であれば合憲とみなす憲法解釈を支持してきた経緯の延長線上にあり、その意味では目新しいものではない。かつて反戦運動のなかで無視しえない有力な主張として存在していた非武装中立論が主流の平和運動ではもはや主張されることがなくなってしまった経緯や、更にもっと遡って、憲法制定当時の与党の憲法解釈がそもそも武力による自衛権を違憲とする解釈をとってきたにもかかわらず1、自衛隊の創設とともに、こうした議論はもはやとうの昔に、保守派のなかでは見出されなくなった。おなじ条文がこれほど真逆な解釈を可能にしているのは、憲法というテクストの解釈それ自体が唯一絶対に正しい解釈を獲得できず、常に権力者が――政府、裁判所、有力なアカデミズム――解釈の主導権を握ってきたことの証明でもある。この意味で日本は、法の支配の下にあるのではなく、法を超越する権力によって支配された社会なのだ。他方で反戦平和運動は、自衛隊が自明の存在になり、その廃止などは非現実的な要求であるとして要求項目にすら入らなくなるになるにつれて、戦争放棄は、ひとつの建前あるいは立場表明のための単なるスローガンとなっている。理念や理想を現実の世界に持ち込むことよりも、理念なきリアリズムの政治――選挙の得票数に還元される政治であり、この数字こそが政権を獲得する唯一の手段だとする政治――の罠に置い陥ってきたようにおもう。これで戦争に反対できるのだろうか。いかなる事態に陥ろうとも戦争という手段をとらない、という断固とした決意をどうしたら取り戻せるのだろうか。

2. 防衛予算は「ゼロ回答」以外に選択の余地はない

先制攻撃や敵基地攻撃能力の保有に反対することが現在の反戦平和運動の主要な関心であることに私も同意するし理解できるが、他方で、この主張と表裏一体をなすようにして、専守防衛であれば戦力を保持せずに武力による威嚇にもならずに9条の戦争放棄条項に抵触しないという含意があるのが一般的かもしれない。自衛隊の存在それ自体を容認した上での先制攻撃や敵基地攻撃能力保有反対は、私とは相容れない主張になる。自衛隊それ自体の是非を論じることを回避して、自衛隊の存在を暗黙の上で肯定して防衛予算の規模に着目し、GDP2パーセントはケシカランといいつつ1パーセントなら構わないかのような値切交渉に主な関心が移っているようにも思う。だから「軍拡反対」という場合も、自衛隊の専守防衛を容認して、ここからの逸脱としての「軍拡」に反対するのは、そもそも私にとっては受け入れがたい前提になる。自衛であれ先制攻撃であれ、戦車や戦闘機や武器弾薬の使用価値は、人を殺すことにあるから、防衛予算は人殺しの武器を買う予算なのだ。国家予算を使って人殺しの道具を買うべきではない、だから予算などつけるべきではない。防衛予算は「ゼロ回答」以外に選択の余地はない、これが平和主義が出すべき唯一の回答であるべきだ。だから防衛予算2パーセント反対を強調することによる誤解(1.5パーセントならいいのか、といって議論の矮小化)を避けるべきであって、防衛予算を計上するな、という原則を繰り返すべきなのだ。こうしたことが反戦平和運動の側がとるべき原則だと思うが、このような声はなかなか聞かれなくなっている。

そもそも私は、軍事領域で自衛に限定した武力行使で勝利することはまず不可能だとも考えている。戦闘が継続し、長期化すれば自衛と攻撃との区別をつけることはできない。自軍の犠牲を最小化するための攻撃の手段は、多くの場合、空爆やドローン攻撃など非人道的な武器の使用に依存することになる。その先に核の使用がありうることは誰にもわかることだ。

ロシアの武力による侵略は容認できないという点では、反戦平和運動に共通の了解があると思うが、対するウクライナによる武装抵抗やNATOをはじめとする西側の軍事支援については、賛否が分かれていると思う。ウクライナによる武装抵抗を暗黙のうちに支持し、その系論としてNATOや西側による軍事支援についても支持する立場をとる人たちもいる。戦争が長期化し投入される武器を高度化させてでも領土の完全奪還とロシア軍の撤退を譲れない線だとする立場をとる場合、NATOなど外国の兵器供与や軍隊による介入を否定する論理は見出しにくい。他方でNATOや米国のウクライナの戦争に懐疑的あるいは批判的な立場をとるという場合、これまでNATOや米国が繰り返してきた戦争や戦争犯罪からすれば、それ自体としてはまっとうにみえる主張であっても、ロシアによるウクライナへの侵略行為にほとんど言及しないというケースがありうる。たとえば2月19日にワシントンで開かれたRage Against the War Machineという集会ではNATOやCIAの解体やウクライナの戦争に税金を使うな、など10項目の要求を掲げているが、ロシアへの批判はほとんどみられない。2 この集会は、右派が左派の一部を巻き込んである種の反戦平和運動の統一戦線の体裁をとろうとしたもののように見える。私はこうしたスタンスにも懐疑的だ。

私は、プーチン政権の侵略を正当化する理屈を見出すことはできない。他方で侵略の被害者のウクライナの政権や軍部が正義の体現者だと評価することも難しいというのが私の見方だ。私は、暴力を行使した順番とか暴力の残虐さの程度とか、戦争を肯定した上での国際法違反とか、こうした様々な暴力(武力)行使の正当性がありうるという前提には立たない。後に述べるように、問題解決の手段としての暴力の正当性を認めないからだ。他方で、戦争を終結させるための様々な和平の可能性を探ることについても、実はあまり関心がない。和平の問題は権力者たちが正統性のある意思決定の手続きを伴いながら対処することであり、彼らが実際に軍の指揮権をもっている以上、彼らの動向は重要だが、彼らが言葉にする和平や正論にみえるようなメッセージも、近代国民国家の権力構造のなかから権力の力学による政治的な思惑や計算によってはじき出される「答え」であって、おなじ言葉に民衆が込めるであろう意味とは同じにはならない。私のように、政治評論家や政治組織に属さない者にはうまく論じることができない。関心があるのは、むしろ、戦争が継続している今、戦争に背を向けて戦場や戦争当事国から避難しようとする人達や、兵役を忌避したり軍隊から逃亡するなど、様々な手段で戦争に抗う人達だ。

メディアは毎日のように、中国、ロシア、北朝鮮を不条理な侵略者として報じている。人々は、日本をウクライナと重ねあわせて、侵略される恐怖を抱くような感情が形成されている。同様の不安感情は韓国にもいえるために、韓国では核武装論まで登場しはじめているという。こうして、ウクライナの戦争は、地域の人々の間に心理的な分断と敵意を醸成してしまった。他方で、日本がロシア同様、不条理な侵略者となる可能性を秘めていることにはまったく気づいていないように思う。日清、日露の戦争から1945年に終結した戦争まで、日本の戦争は常に、自衛を口実とした先制攻撃と侵略だったことを皆忘れてしまったようだ。だから、この国で専守防衛と敵基地攻撃の差を議論することにはあまり意味がない。国家の防衛という観点で領土や権益を推しはかろうとする地政学イデオロギーが突出する結果として、犠牲になるのは、権力者や金持ちではなく、関係する諸国・地域の民衆だ、ということが最大の問題なのである。日本の場合、沖縄はまた再びヤマトによって犠牲にされかねないのが「自衛」とか「専守防衛」の意味している現実的な内容だ。専守防衛を肯定する本土の平和運動は、このことをどのように理解しているのだろうか。

3. 国家と民衆の利害は一致しない

「日本が理不尽に他国から侵略されても、あなたは日本を守るために戦うつもりがないのか?」とよく問われる。私は、「国家間の諍いに私を巻き込まないでほしい」「It’s not my business」と考えるので、私には日本を守るという発想はない。そもそもこうした問いの前提にある「日本」や「日本人」という言葉に私は翻弄されたくない。私という存在を可能な限り、国家の利害から切り離したい。そのためには、私を日本人というアイデンティティのなかに押し込めて、国家のアイデンティティに収斂させるように作用する言説や心理と闘う必要がある。

戦争では、問題を、国家レベルで把えざるをえないように仕向けられる。あるいは、戦争をプーチンに代表されるロシア、ゼレンスキーに代表されるウクライナという単純化された枠組で把える傾向がある。中国といえば習近平、朝鮮といえば金正恩で代表させて政治を論じると、それぞれの国のなかで暮すひとりひとりの意思の多様性が無視されてしまう。こうした指導者=権力者をアクターとする国際政治の延長線上に国に分割されて色分けされた領土としての世界地図が描かれがちだ。わたしはこうした世界の論じ方、あるいは戦況を地図上に表示する陣取り合戦のような戦争の見方、あるいはひとりひとりの人間のかけがえのない命を単なる統計上の数字に還元して、どれくらいの戦死者までなら許容できるか、といった冷酷な数字の世界に加担したくない。

私は、武力による紛争の主体である国家と、それぞれの国のなかに暮す人々とは明確に区別すべきだ、と考えている。戦争とは国家による国家の都合で引き起こされる惨事であり、20世紀以降の国民国家では「国民」を主権者とすることによって国家間の戦争に「国民」とみなされる私たちが国家防衛に否応なく動員される理屈が支配的になった。わたしはこの意味での主権者としての国家防衛の義務を認めない。

ここで民衆の側に問われるのは、「私」という主体と私が帰属するとみなされている国家との関係だ。国家との自己同一化が強固であれば、「私」は国家の戦争を自らが命をかけて引き受けるべきものと感じるかもしれない。しかし、世界中の紛争地域で実際に起きているのは、多くの人々が武力=暴力を選択するのではなく、別の選択を必死で模索している、ということだ。地下で密かに隠れて戦闘が終息することを祈るか、わずかな可能性を求めて戦闘地域からの避難を試みる。自らの命を犠牲にするとしても、「敵」を殺すためではなく、誰も殺すことなくわずかな生き述びられる可能性を求めて場所を離れる。ロシアもウクライナも傭兵や強制的な徴兵に依存するのは、多くの人々が戦争という手段を望んでいないことの表れだ。このことは、近代国民国家において否応なく「国民」として主権者の義務を負わされるとしても、自らの生命をも犠牲にする義務や、「敵」を暴力(武力)によって殺害するという手段の行使を強制される、というところにまでは及ばない、ということを示してきたのだ。つまり、多くの民衆は、法や道義などではなく、むしろ民衆の生存の権利が国家による死の義務を超越することをその実践において示してきたともいえる。キリスト教徒であれば、汝殺すなかれ、という神の命令が国家の命令を超越するという主張は、良心的兵役拒否の歴史のなかで繰り返し主張され、また、法的な制度化すら獲得されてきた。同時に無神論者や無宗教の場合も、人間の生存の権利が国家の死の命令(殺すこと、あるいは殺されること)に超越する普遍的な権利である、という確固とした意識が存在してきた。国家は戦争機械でもあるにもかかわらず、その理念において、生存を保障すべきものともされており、この相矛盾する両者のせめぎあいのなかで、民衆に問われているのは、生存の権利を国境を越えて普遍的なものとして主張すべきであり、そのためには戦争機械と化している国家を否定することに躊躇してはならない、ということだ。しかし、現在のロシアやウクライナにおける徴兵拒否者への扱いをみればわかるように、現実の近代国家は、国家の生存を人々の生存よりも上位に置き、人々の犠牲によって国家の延命を図ってきた。

現在のウクライナの戦争は、1年を経て、領土と主権のメンツのために、双方の死者の数がどれほど積み上げられるまでなら耐えられるか、といった残酷なチキンレースにしか私にはみえない。これは、領土をめぐる争奪という観点からみた最適な武力行使の選択でしかなく、人間の命の犠牲を最小化するための最善の選択肢ではない。ロシアもウクライナも、政権が執着しているのは「領土」であり、そこに住んでいる人々への関心が本当にあるのかどうか、私には疑問だ。もし、その場所に暮す人々が本当に大切な人々であるのであれば、その命を犠牲にするような暴力という手段を選択できないと思うからだ。ウクライナの東部に住みロシア語話者で前政権を支持していたような住民をキエフの政権が積極的に受け入れたいと思っていのだろうか。他方で、東部に暮すキエフの政権を支持する住民をロシアの占領者たちは、平等に住民として扱う積りがあるのだろうか。ロマや非ヨーロッパのエスニシティのひとたち、LGBTQ+の人達、こうした社会の周辺部で差別されてきた人達に、この戦争に勝利することが新たな可能性を与えるとは思えない。

4. 難民について

戦争放棄の最大の体現者は、戦場から逃れる難民たちや、戦火にありながら武器をとらずに、命懸けで日常生活を送ろうとする人々だ。法制度上でいえば、兵役拒否を裁判で闘うとか、軍隊からの脱走を選択する人達だ。こうした人達が実は戦時における多数者でもあるはずなのだ。ロシアについては、15万人以上の動員対象者が出国し、ウクライナから西欧に入国した兵役義務者が17万5000人、ベラルーシについては、出国した兵役対象者が2万2,000人という推計もある。国家にとってはこうした人達は厄介だが、むしろこうした生き方を選択する人々のなかに、グローバルな国民国家の統治機構が実現できなかった平和の可能性があると思う。兵役を忌避したり軍から脱走したり、様々な手段を使って武器をとらない選択をして国外に逃れた人達は、出身国にとっては自国の危機を見捨てた裏切り者になる。他方で、難民がたどりついた国にとってもまた、本来なら出身国に帰るべき余所者として扱われる。どちらの国にとっても、そこに住まう者に国家へのアイデンティティを要求しようとする限り、国家に背を向けて生きる人達は厄介な存在だろう。だから極右は、彼らを追い返し、出身国でナショナルなアイデンティティを構築することを求めるのだ。

戦争に難民はつきものだが、難民は上の議論からみたとき、その存在にはもっと積極的な意味を見出す必要がある。彼らは、戦うことによって現にある事態に決着をつけるという選択をしない人たちだ。むしろ、戦わない選択をするために場所を離れるという決断をすることになる。自分たちの暮してきた土地を捨てて、見知らぬ土地へと移動する。その先で受け入れられるかどうかすらわからない不安がありながらも、彼らは戦うことに命を賭けるよりも、転覆して遭難するかもしれないゴムボートを選ぶ。敵とされる人達を殺して、国家が求める領土のための戦闘よりも、誰も殺さないが自分は死ぬかもしれないリスクを負いながらわずかの可能性に賭けるのだ。これは彼らをあまりにもロマンチックに描きすぎているかもしれないが、本質的な事柄は、暴力に対する向き合い方をめぐる、戦場で戦うことを選択した人達との違いにある。この対比を踏まえて、戦争を忌避する人々の生き方のなかにこそ戦争放棄の思想が体現されていると思う。それに比べれば、自衛権や専守防衛などの武力行使の肯定を読み込んだ日本国憲法9条は、戦争放棄とは無援の単なる「絵に描いた餅」にすぎない。この実効性を失なった文言にひたすらしがみつくことが平和主義なのではない。もし9条が文字通りの意味で戦争放棄を具現化するものになるとすれば、戦争を選択した国家を捨てる権利、あるいは戦争を拒否する権利もまた基本的人権として明文化すべきだろう。つまり、日本の軍国主義を防ぐ最大の条件は、日本の民衆が武力を保有する国家に協力しないこと、 民衆が戦力の主体にならない、戦争を支えるあらゆる活動に非協力になれるかどうかだ。このことは、日本の民衆が、「日本人」という擬制のエスニシティに基くナショナルなアイデンティティからいかに自らを切り離せるか、にかかっている。

この観点からみたとき、日本は平和主義に対して世界で稀にみるほど背を向けてきた国家だということが見えてくる。なぜならば、日本はほとんど難民を受け入れていないからだ。戦争から逃れようとする人びとには手を差し出さない日本の態度は何を意味しているのだろうか。日本のナショナリズムの特異性から容易に外国籍の人々を受け入れられないイデオロギー上の枠組がある。この点はやや説明が必要かもしれない。日本の平和運動や伝統的な左翼やリベラルの一般的な認識は、戦前の日本の帝国主義は、1945年の敗戦によって終結したと評価し、戦後の憲法は、戦前の帝国主義からの決別という意義をもつものだと肯定的に評価する。だから、政権政党の自民党による改憲に対して現行憲法の擁護=護憲が基本的なスタンスになる。しかし、私の考え方はちょっと違う。戦前から戦後にかけて、日本は一貫して資本主義国家であり、この国家の基本的な性格には変化はない。この意味で戦前から戦後、そして現在に到るまで同じ支配の構造を維持している。したがってここにナショナリズムとしての一貫性を支える構造があり、それが極めて特殊な「日本人」としてのアイデンティティ構造として構築されてきた、ということだ。このアイデンティティの中心にあるのが天皇イデオロギーとでもいうべき特殊な集団的な収斂システムだ。この意味で、私は、戦後日本の戦前からの連続性を強調する立場になる。私は、この意味での近代日本を総体として否定する観点がないと、戦争を廃絶する社会を実現できないと考えている。

他方で、その裏返しとして、日本の「国民」が戦争状態のなかで、戦うことや戦争に協力することを拒否して「難民」として避難するという選択をとることについて、個人の自由の権利行使だとみなす考え方は、国家の側にも民衆の側にもほとんどみられない。その結果、避難の是非はもっぱら国家が一方的に決めることだとされるのが基本になり、個人の権利とみなされない。このことは、福島原発事故による放射能汚染から自主避難した人々がたどった苦難の道をみればわかることだ。

だから戦争状態になれば、「日本国民」は国家のために戦うこと以外の選択肢は事実上封じられるに違いないと思う。日本政府は、戦争になれば国家のために戦うのが国民の義務であり、逃げ出すなどというのは「国民」のとるべき道ではないという態度をメディアなどを含めて宣伝し、戦争(協力)を忌避する人々を追い詰め、時には犯罪者扱いすることになる。

もし平和運動が専守防衛を肯定してしまうと、こうした戦争を拒否する人達の権利を正当なものとして理解できなくなり、政府の戦争に暗黙のうちに加担する道を選択することになるのではないだろうか。日本政府が「平和国家」などを口にすることがあるが、これは欺瞞以外のなにものでもないことは反戦・平和に関心をもってきた人々には自明だが、他方で左翼の平和主義は、こうした移民・難民を受け入れない日本政府には批判的でありながら、日本の移民政策が平和主義に対する敵対的な態度であると明確に指摘して批判したことを私はあまり思いつかない。

戦争状態が現実のものになってしまったとき、平和運動は極めて無力な主張のようにみえる。戦闘状況のなかで、「平和」を主張することのむなしさは、容易に想像できる。しかし、だからといって、この無力さを理由に、暴力に対して暴力で対峙することが唯一の選択肢になる、と判断していいのだろうか。ここで、やはり、どうしても暴力とはいかない意味での解決の手段になりうるのか、という根源的な問いに立ち戻らざるをえなくなる。

5. 暴力についての原則的理解

近代において、暴力の廃棄は、国家と資本の廃棄と同義だ。暴力の廃棄は、人類の前史に終止符を打つ壮大な挑戦であり、この理想主義なしには平和を実現できない課題でもある。

暴力の問題について、私たちが確認しておかなければならない原則がある。それは、力の強い者が正義を体現しているわけではない、という事実だ。もし力が正義であるなら、ドメスティックバイオレンスでは、加害者である男の暴力が正義になる。力と正義の間には、何の論理的な因果関係も存在しない。

私たちが日常的に経験している暴力について、たぶん、男性と女性では、その対処の選択肢や優先順位が違うように感じる。少なくとも、日本では、そういって間違いない。DVの被害者となる多くの女性たちは、実は、男性以上に日常的に殺傷力のある道具――つまり台所にある包丁や刃物などだが――の使用には長けている。DVの加害者を殺すことで問題を「解決」することは可能だということは誰でもわかることだ。しかし、実際にそうした手段を選択する人はごくわずかだ。多くの被害者は、別の闘い方を選択する。

DVの被害者を支援する活動家たちも、加害者を殺すことが問題の解決になるとは主張しない。むしろ、暴力に対して暴力で対処するのではなく、被害者のために避難場所を用意し、加害者が接触しないような防御策をとり、法的手段を駆使し、同時に、加害者の更生への道を探るのではないだろうか。こうした活動は、DVを引き起す社会的な背景にも目を向けることになる。家父長制的家族制度や資本主義の市場経済がもたらす性差別主義のなかに、暴力によって支配を貫徹させる不合理な欲望を再生産する社会的な構造がある。問題は、暴力による報復や復習では解決できないのだ。暴力をもたらす構造からの解放という目的は、暴力という手段によって実現しえない。人びと、とりわけ男性の意識や価値観を変えるための挑戦が必須になる。こうした身近な暴力の話題を戦争という暴力の文脈のなかに置き換えて考えてみることが必要なのだ。

この暴力と正義の関係は、難しい哲学や政治学の議論ではない。私たちの日常的な解放への実践の積み重ねのなかで理解できることでもある。しかし、国家間の戦争になると、この日常の知恵がすっかり忘れさられてしまう。国家間であっても、DV同様、正義と暴力の間には何の因果関係もない。力が強い者、戦争に勝利した者が正義であることもあれば、不正義であることもある。(何が正義か、という問いを脇に置いて、の話だが)いずでれあっても、多くの犠牲者を生み出す。そしてまた、正義の目的のために戦いながら、戦場で実際に戦争犯罪を犯すのも普通の人びとなのだ。つまり目的が正義であることは手段もまた正義であることを保証するものではないし、正義の装いの下に隠された不正義は戦争ではあたりまえに見出される非人道的な出来事でもある。

暴力と社会変革の関係についての私の現在の基本的な考え方は、以下のようになる。武力を用いた解放は、マルクスの言う人類前史における解放の手段として、その意義を否定することはできない。しかし、将来においても、同様に、武力による解放が必須の手段になるべきではない。現代において暴力に特権的な地位を与えているのは、壮健な成人男性が社会の理想モデルになるような暗黙の価値観に基くものだ。女性、高齢者、子どもよりも、力のある男性の方が正義において優るという価値観だ。戦争の武器や装備がこの価値観を体現し、軍隊の組織原理を規定する。ジェンダーは社会的な概念だから、たとえ女性が兵士として参加しても、その構造が女性にマスキュリニティとファロセントリックな男性性に自己同一化することを強ることになる。

女性は、このモデルを側面から支える。戦場で闘う夫や息子を鼓舞し、その死を意味づけする役割を担い、銃後の兵站の労働力となり、国家に忠誠を誓う次世代を生むことを義務とされる。こうした家父長制的な構造は、性的マイノリティに不寛容でリプロダクティブライツを否定する。こうした暴力による支配に対抗するために、解放の主体もまた暴力に依存するという場合、この力のモデルを受け入れなければ、武力による勝利は見込めない、という悪循環に陥る。だから、正義と暴力の不合理な結び付きを意識的に断ち切る必要がある。

つまり、私たちが目指さなければならない解放の手段は、壮健な成人男性が社会の理想モデルになるようであってはならないのだ。だから、必然的に、この意味での男性性の象徴的な行為でもある暴力を拒否し、非暴力であるべきだ、ということになる。

6. 9条の限界と戦争放棄の新たなパラダイム

日本が憲法で戦争放棄を明記していていも、実際に戦争放棄を体現する国になっていない。その理由は、日本が真剣に過去の侵略戦争の責任と向き合ってこなかったからだということはこれまでも繰り返し指摘されてきた。私もそう思う。戦争責任を負うべき最大の戦犯は天皇ヒロヒトだ。しかし戦後、ヒロヒトは戦争責任を問われることなく、憲法によって日本国家の象徴になった。そして戦犯だった人達が戦後日本の支配の中枢を担い日米同盟の基礎を築いた。他方で、民衆の平和への指向は、被害者意識に基礎を置いたままだった。日本の戦争における加害責任あるいは戦争犯罪は、平和運動の中核的な基盤をなしてはこなかったのではないか。

戦後日本の平和運動を支えてきた理念にはいくつかの特徴がある。第一に、憲法が明記している戦争放棄条項を根拠に、自国の軍隊についても否定的な理解が共通の「理念」として確立してきた。第二に、この理念が広く共有されてきた背景には、日本が関った戦争への反省の特殊性がある。日本は植民地主義の侵略者だったが、戦後の平和を希求する最大公約数は、広島、長崎の原爆や空襲の被害であり、侵略地での日本軍の玉砕に象徴されるような自国兵士の悲劇、植民地での日本からの開拓移民の悲惨な経験など、戦争被害体験だ。だから日本の戦争責任を問う声が政治を動かすほどの影響力をもったことはほとんどない。戦争の最高責任者であった天皇ヒロヒトは、民間の取り組みである女性国際戦犯法廷によって有罪判決が出されているが、一度も公的に戦争責任を問われず、戦犯としても裁かれていない。ヒロヒトは、戦後も国家の象徴として君臨し、戦犯たちが戦後政治の中心を担ってきた。自国の侵略や軍国主義への抑止となる平和主義は、自国の加害責任、侵略の責任に基く必要があるが、戦後日本の平和運動ではこの点が決定的に脆弱だった。とはいえ平和運動は、ここ半世紀近く、日本の戦争責任に注目するという変化を次第にみせてきた。これに対して、政府も右翼、保守派も日本の戦争犯罪、戦争責任を認めない態度は一貫している。

上の背景を踏まえて、9条の限界について四つの理由を述べたい。ここでの限界は、9条そのものではなく、なぜ戦争放棄を実現できないのかについて、戦後日本の統治機構全体の文脈を視野に入れての理由である。

ひとつは、死刑制度の存在だ。政府も世論も死刑存置が圧倒的な多数派を構成している。死刑は、国家が殺人によって正義を実現するという理不尽な法制度だ。世論の死刑への支持は圧倒的多数を占める。日本では、民衆のレベルで、暴力、報復によって「正義」を実現することが容認されている。3死刑制度とは、自国民を矯正できず、報復し抹殺することで秩序を維持しようとする制度でもある。このような国に、どうして戦争放棄など可能だろうか。

では、死刑廃止国であっても軍が存在するのは何故なのか。それは、殺害の対象が「他者」だからだ。では、殺してもいい「他者」とは、いったい誰にとっての他者なのか。それは、私にとっての他者でない。国家にとっての他者だ。私は、「他者」であれば命を奪うことが許されるという考え方に反対だ。ここには、西欧近代国家の普遍的な人権概念と近代国家が生み出す「他者」との間にある克服しがたい矛盾が存在する。

もうひとつは、日本のジェンダーギャップ指数が極端に低いということだ。世界経済フォーラムの統計では116位だ。経済力との関係を考慮すると異常な低さだと言わざるをえない。 日本では、同性婚もLGBTQ+の権利も法制度として認められていない。憲法では個人としての尊重を明記しているが、戸籍制度という世界に類をみない家族を中心とする公的な制度が存在しており、実際には、個人を超越する男性を中心とする家父長制意識を制度が支えている。こうした感情を女性もまた内面化するので、ここでの問題は、単純な生物学的な「性別」の問題ではない。暴力において優位に立つことができる男性性への同調の構造が問題なのだ。前述したように、こうした環境が暴力を正当化する枠組をなしてきた。

第三に、これも前述したように、日本はほとんど難民を受け入れていない、ということだ。法務省のデータによれば、2021年の難民認定数はたったの74人にすぎない。難民認定申請者は2413人だった。この数字は異常というしかない。また、人口1億4000万人のうち在留外国人は約280万人で西欧諸国より圧倒的に少ない。文化的多様性に欠け、他者への排除意識が作用しやすい環境にある。こうした環境は、自国の文化や伝統へのロマン主義的な傾倒を生みやすく、このことが戦争を美化し賛美する文化をもたらす。合理的な他者への評価よりも、感情的な美意識が排除と差別を生む。つまり、日本の平和とは、自民族中心主義がもたらす美学に支えられているので、この日本文化への侵犯への敵意が醸成されやすい。19世紀のヨーロッパのロマン主義も日本浪漫派も戦争の美学によって暴力を賛美した。

最後に、その上で、歴史の教訓として、近代国民国家が戦争なしで国際関係を構築することができたかどうかを問うことが必要だ。世界中に200近くの国家があり、この国家がお互いに、最高法規としての憲法を持ち、互いにその優位を競う世界体制と、家父長制的な暴力と温情主義の弁証法が支配するこの世界のどこに平和の可能性があるのだろうか。現実主義者は、この現実を肯定して、武力による解決を肯定する。上述したように、この解決方法に合理性はない。だから、私は未だ実現しえていない世界を夢想することになる。私は、ある種の理想主義を選択する以外にないと思っている。憲法に戦争放棄、あるいは戦争を拒否する権利を明記することは、このような国民国家の宿命的な暴力的性格を自己批判することでもある。そして、日本は、他者との関係構築において――つまり外交だが――武力を後ろ盾とした交渉とは全く異なる外交パラダイムを持つ必要がある。これは、国民国家の自己否定を内包するラディカルな立場だ。左翼がこうした立場をとることによって、暴力という手段によらない解放の可能性を模索することが、人類の前史に終止符を打つための重要な課題になる。

7. 二人のファノン――締め括りのためのひとつの重要な宿題として

このやや長いエッセイを締め括るにあたり、暴力と解放闘争の議論では避けて通れないファノンの『地に呪われたる者』を取り上げておきたい。解放の暴力を肯定する議論として、その第1章「暴力」はよく言及されるテキストだ。しかし、第1章と対をなす最終章、第5章「植民地戦争と精神障害」にもっと多くの注意を払うべきだと思っている。ファノンは、人種主義的な従来の精神医学を厳しく批判した。この指摘を可能にしたのは、植民地解放の闘いがあったからだ。第5章は、植民地精神医学の分野では、人種主義的な精神医学批判として高く評価されている。4 ファノンは次のように述べている。

「アルジェリア人の犯罪性、その衝動性、その殺人の激しさは、したがって神経系組織の結果でも、性格的特異性の結果でもなく、植民地状況の所産である。アルジェリアの戦士たちがこの問題を論議し、植民地主義によって彼らのうちに植えつけられた信条を怖れることなく疑問に付したこと、各人が他人の衝立であり、現実には各人が他人に飛びかかることによって自殺しているのだという事実を理解したこと――これは革命的意識において本源的重要性を持つべきことであった。」
「戦う原住民の目標は、支配の終焉をひきおこすことだ。しかし、彼はまた同様に、抑圧によってその肉体のうちにたたきこまれたあらゆる真実に反することを一掃すべく心を配らねなならない」(鈴木道彦、浦野衣子訳、みすず書房、p.179。ただし旧版による)

第5章に関して私が重要だと思うのは、こうした抽象的な議論の前提になっている具体的な症例についての詳細な記述だ。後に心的外傷性ストレス(PTSD)と呼ばれることになる戦争がもたらす深刻な被害は、解放戦争においても例外ではなかった。解放戦争そのものは、精神的な外傷を生み出すことがあっても、これを克服することはできない。だから症例と総括的な文章との間には、埋めなければならない大きな溝があると思う。そのことにファノンは気づいていたと思うが、残念ながら彼は1961年に他界した。アルジェリアの独立は翌年1962年だ。彼は、戦後を経験していない。

20世紀の戦争を遂行してきた主要な国々は、心的外傷の課題を残酷な戦争に耐えうる兵士のパーソナリティの構築と、そのための精神医学の動員として展開してきた。5これに対して解放戦争の側がオルタナティブを提起できているとは思えない。ファノンは、戦争で心を病んだ人達の回復を解放された社会に委ねているが、同時に、暴力の問題について「すでに解放されたマグレブ諸国でも、解放闘争中に指摘されたこの同じ現象が持続し、独立とともにいっそう明確になっているのだ」(前掲、p.178)という示唆的な文章を残している。

この第5章と暴力という手段によって解放を実現することを論じた第1章の間には、十分な整合性があるとはいえない。特に、第5章における個別の症例を論じている精神科医としてのファノンと、この症例を総括して植民地解放運動全体の文脈のなかに位置づけようとする解放戦争の闘士としてのファノンの間には未解決の溝があると思う。

戦争におけるPTSDの問題をDVにおけるPTSDとひつながりのものとして把えたジュディス・ハーマンの仕事に私は多くのことを学んだ。(参照文献をごらんください)また、最近沖縄の地上戦がもたらしたPTSDに注目したいくつかの著作によっても示唆を受けた。6専守防衛であっても戦争となれば、たとえ生き延びたとしても、このPTSDの問題は一生を通じて残ることになる。だから、PTSDを、解放実現のための止むを得ない犠牲と考えるべきではないと思う。殺すこと、殺されることだけではなく、戦争や暴力にはあってはならない多くの「止むを得ない」犠牲があり、これを代償としてなし遂げられる「解放」に私は未来を託す覚悟はない。これもまた、武器をとらない、という私の選択の重要な理由になっている。

8. 参照文献

ここに紹介する3冊の本は、この原稿を書くときに常に念頭にあった本だ。いずれも刊行年は古いが、今読むべき本だと思う。いずれもまだ書店で入手できる。

●トルストイ『トルストイの日露戦争論』平民社訳、1904年。

1904年6月27日のロンドンタイムズに掲載された長文のエッセイBethink Yourselves!を幸徳秋水らが翻訳した。日露戦争(1904-1905)が勃発すると、戦争に反対する幸徳秋水などの社会主義者が「平民社」を設立。平民社は、トルストイのエッセイ “Bethink Yourselves!”を翻訳し、出版した。トルストイはこのエッセイでロシア皇帝と天皇を同時に批判し、断固として戦争に反対した。幸徳は解説の中で、戦争のない社会としての社会主義の主張がないことを批判しつつもトルストイの主張をほぼ全面的に支持している。ウクライナで戦争が起きている今、非戦論の文献として最も優れたもののひとつと思う。 英語原文は下記で読める。(マルクス主義のアーカイブサイトにトルストイの文章が掲載されているのも珍しいかもしれない) https://www.marxists.org/archive/tolstoy/1904/bethink-yourselves.html 平民社訳は、国会図書館のオンラインで閲覧が可能だが、『現代文 トルストイの日露戦争論』として国書刊行会が2011年に出版しており、入手できる。

●ジュディス・ルイス・ハーマン、『心的外傷と回復』、中井久夫訳、みすず書房。1999年。

ハーマンはその序文で次のように書いている。(原書から小倉の訳)

『心的外傷と回復』は、性的暴力や家庭内暴力の被害者を対象とした20年にわたる研究と臨床の成果である。 トラウマと回復』は、性的暴力や家庭内暴力の被害者を対象とした20年にわたる研究と臨床の成果を示すものである。また、この本は、他の多くのトラウマを抱えた人たちとの経験の積み重ねを反映している。 また、他の多くのトラウマを抱えた人々、特に戦闘に参加した退役軍人や政治的恐怖の犠牲者に対する経験も反映されている。 政治的恐怖の被害者である。本書は、公的な世界と私的な世界、個人と個人の間のつながりを回復するための本である。 公私の間、個人と地域社会の間、男性と女性の間のつながりを取り戻すための本だ。

●デイヴィッド・デリンジャー、『「アメリカ」が知らないアメリカ―反戦・非暴力のわが回想』吉川勇一訳、藤原書店、1997年

武装抵抗の支持者の中には、非暴力主義者を臆病者と揶揄する人もいる。本書は、非暴力不服従としての平和主義の実践は議会主義や日和見主義とは全く異なる生き方であることをよく示した自伝。第二次世界大戦中、デリンジャーは、ファシズムやナチズムを完全に否定しながらも、徴兵を拒否し、ドイツ爆撃に反対し、そのために投獄された。第二次世界大戦後は、2004年に亡くなるまで、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争と、すべての戦争に反対し、何度も投獄を繰り返し経験した。日本では小田実らのベ平連の運動との交流があり、小田実との共著『「人間の国」へ―日米・市民の対話』ギブソン松井佳子訳、藤原書店、1999年がある。

Footnotes:

1

「自衞をする場合に、外交の力によつて自衞することもありましようし、或いは條約の力によつて自衞することもありましようし、その方式はいろいろありましようが、とにかく日本を守るということは、武力による自衞権を行使しないということははつきり憲法の條章によつて、この点は明らかである 」吉田茂 第7回国会 参議院 予算委員会 第18号 1950年3月22日

2

https://rageagainstwar.com/ この集会にはピンク・フロイドのロジャー・ウォーターやクリス・ヘッジスなども発言者として登場した。

3

「死刑制度に関して、「死刑は廃止すべきである」、「死刑もやむを得ない」という意見があるが、どちらの意見に賛成か聞いたところ、「死刑は廃止すべきである」と答えた者の割合が9.0%、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合が80.8%となっている。なお、「わからない・一概に言えない」と答えた者の割合が10.2%となっている。  都市規模別に見ると、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合は中都市で高くなっている。  性別に見ると、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合は男性で高くなっている。  年齢別に見ると、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合は30歳代で高くなっている。」2019年、基本的法制度に関する世論調査、https://survey.gov-online.go.jp/r01/r01-houseido/index.html

4

角川雅樹「Frantz Fanonと 植民 地心理〜マルチニークとメキシコの事例から〜」ラテンアメ リカ研究年報 No.11(1991年);「フランス植民地の精神医学」akihitosuzuki’s diary、https://akihitosuzuki.hatenadiary.jp/entry/2008/12/01/104634 ;Keller, Richard C., “Pinel in the Maghreb: Liberation, Confinement, and Psychiatric Reform in French North Africa”, Bulletin of the History of Medicine, 79(2005), 459-499 ;UNCONSCIOUS DOMINIONS, Edited by warwick anderson, deborah jenson, and richard c. keller, Duke University Press, 2011.

5

戦争による心的外傷についての最初のまとまった研究は、フロイトらの研究『戦争神経症の精神分析にむけて』である。フロイトの「緒言」が『フロイト全集』(岩波書店)第16巻に収録されている。フロイト後の経緯については、アラン・ヤング『PTSDと医療人類学』、中井久夫他訳、みすず書房、参照。

6

蟻塚亮二『沖縄戦と心の傷 トラウマ診療の現場から』、大月書店、2014;沖縄戦・精神保健研究会『戦争と心』、沖縄タイムス社、2017、参照。

Author: toshi

Created: 2023-02-27 月 22:49

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サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(2)――従来の戦争概念を逸脱するハイブリッド戦争

Table of Contents

サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(1)

1. 武力攻撃以前の戦争?

国家安全保障戦略にはハイブリッド戦という概念も登場する。たとえば、以下のような文言がある。

サイバー空間、海洋、宇宙空間、電磁波領域等において、自由なア クセスやその活用を妨げるリスクが深刻化している。特に、相対的に 露見するリスクが低く、攻撃者側が優位にあるサイバー攻撃の脅威は 急速に高まっている。サイバー攻撃による重要インフラの機能停止や 破壊、他国の選挙への干渉、身代金の要求、機微情報の窃取等は、国 家を背景とした形でも平素から行われている。そして、武力攻撃の前 から偽情報の拡散等を通じた情報戦が展開されるなど、軍事目的遂行 のために軍事的な手段と非軍事的な手段を組み合わせるハイブリッド 戦が、今後更に洗練された形で実施される可能性が高い。 p.7

ここでは、「武力攻撃の前 から偽情報の拡散等を通じた情報戦」などのハイブリッド戦に着目している。ハイブリッドが意味するのは、従来からの陸海空による武力行使としての「戦」とともに、これらに含まれず、武力行使のカテゴリーにも含まれないが戦争の一環をなす攻撃領域を指している。だから、「ハイブリッド戦」は、従来の武力行使の概念を越えて広がりをもつ特異な戦争=有事の事態の存在を示している。この観点からすると、情報戦は、ハイブリッド戦の一部として位置づけうるものだ。そして、前回論じたグレーゾーン事態の認識は、このハイブリッド戦を展開するための「戦場」認識になる。ここでは、平時であってもハイブリッド戦のなかの情報戦は遂行可能であり、これは有事(戦時)における情報戦とはその役割も行動も異なるが、平時だから「戦」は存在しない、ということにはならない、という語義矛盾をはらむ認識が、少なくとも国家安全保障戦略のハイブリッド戦理解の前提にはある。この矛盾を巧妙に隠蔽するのがグレーゾーン事態になる。ロシアのウクライナへの侵略に際してもハイブリッド戦という文言が用いられたが、この場合は、武力行使とほぼ同時に通信網へのサイバー攻撃や偽情報の拡散などによる攪乱といった軍事行動を指す場合になる。1他方で国家安全保障戦略のハイブリッド戦の概念は、戦時だけではなくグレーゾーンから平時までを包括して、そもそもの武力攻撃と直接関連しないようなケースまで含めた非常に幅広いものになっている。これは、9条の悪しき副作用でもある。戦争放棄の建前から、戦時(有事)を想定した軍事安全保障の組織的な展開を描くことができないために、むしろ災害を有事に組み込んで自衛隊の役割を肥大化させてきたように、本来であれば軍事安全保障とは関わるべきではない領域が主要な軍事的な戦略のターゲットに格上げされてしまっているのだ。

2. 戦争放棄概念の無力化

「武力攻撃の前」にも「情報戦」などのハイブリッド戦と呼ばれるある種の「戦争」が存在するという認識は、そもそもの「戦争」概念を根底から覆すものだ。憲法9条に引きつけていえば、いったい放棄すべき戦争というのは、どこからどこまでを指すのかが曖昧になることで、放棄すべき戦争状態それ事態が明確に把えられなくなってしまった。いわゆる従来型の陸海空の兵力を用いた実力行使を戦争とみなすと、武力攻撃以前の「戦」は放棄の対象となる戦争には含まれなくなる。しかし、武力攻撃以前の「戦」もまた戦争の一部として実際に機能しているから、これを国家安全保障の戦略のなかの重要な課題とみなすべきだ、という議論にひきづられると、ありとあらゆる社会システムがおしなべて国家安全保障の観点で再構築される議論に引き込まれてしまう。国家安全保障戦略では、戦力や武力の概念がいわゆる非軍事領域にまで及びうるという含みをもっているのだが、これに歯止めをかけるためには9条の従来の戦力などの定義では明かに狭すぎる。条文の再解釈が必要になる。9条にはハイブリッド戦を禁じる明文規定がなく、非軍事領域もまた軍事的な機能を果しうることへの歯止めとなりうる戦争概念がないことが一番のネックになる。政府の常套手段として、たとえば自衛についての概念規定が憲法にないことを逆手にとって「自衛隊」という武力を生み出したように、ハイブリッド戦もまた9条の縛りをすり抜ける格好の戦争の手段を提供することになりうるだろう。

つまりハイブリッド戦争を前提にしたとき、反戦平和運動における「戦争とは何か」というそもそもの共通認識が戦争を阻止するための枠組としては十分には機能しなくなった、といってもいい。あるいは、反戦平和運動が「戦争」と認識する事態の外側で実際には「戦争」が遂行されているのだが、このことを理解する枠組が反戦平和運動の側にはまだ十分確立していない、といってもいい。このように言い切ってしまうのは、過剰にこれまでの反戦平和運動を貶めることになるかもしれないと危惧しつつも、敢えてこのように述べておきたい。

だから、従来の武力攻撃への関心に加えて、武力攻撃以前の有事=戦争への関心を十分な警戒をもって平和運動の主題にすることが重要だと思う。今私たちが注視すべきなのは、武力攻撃そのものだけではなく、直接の武力行使そのものではないが、明らかに戦争の範疇に包摂されつつある「戦」領域を認識し、これにいかにして対抗するか、である。注視すべき理由は様々だが、とくに戦争は国家安全保障を理由に強権的に市民的自由を抑制する特徴があることに留意すべきだろう。また、ここでハイブリッド戦として例示されているのは、「他国の選挙への干渉、身代金の要求、機微情報の窃取」のように、従来であれば司法警察の捜査・取り締まり事案とされてきたものが、「戦」の範疇に含められている。これらすべてが、私たちの市民的自由の基盤になりつつあるサイバー領域での戦争事態であると位置付けられていることに注目する必要がある。いわゆる正義の戦争であって例外ではない。だから戦争の範疇が拡大されるということ――あるいは軍事の領域が拡大されるということ――は、同時に私たちの市民的自由が抑圧される範囲も拡がることを意味する。

3. サイバー領域を包摂するハイブリッド戦の特異性

ある意味では、いつの時代も戦争は、事実上のハイブリッド戦を伴なっていた。冷戦とはある種のハイブリッド戦でもあった。文化冷戦と呼ばれるように、米国もソ連も文化をイデオロギー拡散の手段として用いてきた。この意味で「軍事目的遂行 のために軍事的な手段と非軍事的な手段を組み合わせる」ことは新しい事態ではない。だが、今回の国家安全保障戦略は、サイバー領域をまきこんだ軍事作戦をハイブリッド戦と称して特別な関心をもつようになった。これまでの有事=戦時と平時の関係に対して、サイバー領域を念頭に置きながら、政府自らが、その境界の曖昧さこそが現代の戦争の特徴である宣言したこと、平時を意識的に有事態勢に組み込むことの必要こそが、安全保障の戦略であると宣言したこと自体が新しい事態だといえる。

一般に、有事と平時を大きく隔てる環境は、私たちの市民的な権利の制約として現われる。この権利の制約は、有事を口実として国家安全保障を個人の自由よりも優先させるべきだとする主張によって正当化される場合が一般的だ。ここでいう個人の自由のなかでも特に、有事において国家が人々を「国民」として統合して国家の軍事行動の遂行を支える意思ある存在へと収斂させようとするときに、これと抵触したり抵抗する自由な意思表示や行動を権力的に弾圧しようとするものだ。平時と有事の境界が曖昧になるということは、平時における市民的自由を有事を基準に抑制する法や制度が導入されやすくなることでもある。つまり例外状態の通例化だ。

しかし、サイバー領域を含む平時と有事の曖昧化、あるいはグレーゾーン事態なるものの蔓延は、これまでにはない特徴をもっている。それは、両者の境界の曖昧化が、マスメディアによるプロパガンダのような上からの情報操作だけではなく、私達の日常的な相互のコミュニケーション領域に深く浸透する、ということだ。サイバー領域そのものが双方向のコミュニケーション空間そのものであることから、この領域では、有事は、市民的自由を抑制して国家意思に個人を統合しようとする政府の強権的な政策を生みやすい。統制や検閲の対象は放送局や出版社などではなく、ひとりひとりの個人になる。だから、統制の技術も異なるし、その制度的な枠組も異なるが、伝統的なメディア環境に比べて、その統制の影響は私たち一人一人に直接及ぶことになる。ここに有事と平時をまたぐグレーゾーンというバッファが設定されることによって、統制のシステムはより容易に私たちの日常に浸透することになる。

4. サイバー領域と国家意思への統合

最大の問題は、にもかかわらず、ほとんどの人達は、このことを自覚できるような情報を与えられないだろう、ということだ。戦争を遂行しようとする国家にとっては、私達は、その戦争を下から支える重要な利害当事者――あるいは多くの場合主権者――でもある。国家の指導者層にとって民衆による支持は、必須かつ重要な武力行使正当化の支えだ。私たちが日常生活の感情からあたかも自発的に国家への自己同一化へと向っているかのような実感が生成されることが、国家にとっては最も好ましい事態だといえる。そのためには統制という言葉に含意されている上からの強制というニュアンスよりもむしろ自発的同調と呼ぶべきだろうが、そうなればなるほどサイバー領域における国家の統制技術は、知覚しえない領域で水面下で機能することになる。「民衆の意思を統治者に同化させる」ことが軍事にとって必須の条件だと述べたのは孫子2だが、この古代の教義はサイバーの時代になっても変らない。

国家による有事=武力行使の正統性が民衆の意思によって確認・承認されて下から支持されていることが誰の目からみても明らかな状況が演出されない限り、国家の軍事行動の正統性は確認されたとはいえない。インターネットのような双方向のグローバルなコミュニケーション環境はこの点でマスメディア体制のように、限定されたメディア市場の寡占状態――あるいは独裁国家や権威主義国家ならば近代以前からある広場での大衆敵な国家イベントによる可視化という手法もある――を利用して人々の「国民統合」を可視化することは難しくなる。マスメディアと選挙で民意の確認を表現する20世紀の同意の構造は、ここでは機能しない。SNSのような国境を越える双方向コミュニケーションを前提にして、民衆を「国民」に作り替えて国家の意思へと収斂する状況の構築は、民衆の多様な意思が星雲状に湧き出すようにして顕在化し露出するサイバー空間では制御が難しい。しかも、20世紀の議会主義として制度化された民主主義を、政府がいくら自らの権力の正統性の基礎に置き、法の支配の尊重を主張しようとも、実際の民衆の意思はこの既存の正統性の制度の掌からこぼれ落る水のようにうまく掬いとることができないものとしてSNSなどに流れることになる。だから政府は、こうした逸脱した多様な異議を再度国家による権力の正統性を支える意思へと回収するための回路を構築しなければならない。3これが有事であればなおさら、その必要が強く自覚されることになる。ハイブリッド戦とは、実はこうした事態――政府からは様々なグラデーションをもったグレゾーン事態――をめぐる「戦争」でもある。

5. サイバー領域における抵抗の弁証法

サイバーが国家安全保障における重要な位置を占めている理由はひとつではない。上述の民衆の意思の再回収という観点でいえば、SNSなどに特徴的なコミュニケーションのスタイルでもある極めて私的な世界から不特定多数へ向けての人々の感情の露出が、時には政府の政策と対峙するという事態が生じることになる。これは伝統的なマスメディア環境にはなかった事態だ。たとえば、インフレに直面しながら一向に引き上げられない賃金への不満は、SNSで日常生活に関わる不満として表現されるが、これが井戸端会議や労働組合の会議での議論と違うのは、不特定多数との共鳴や摩擦を通じて、時には大きな社会的な抗議や反発を生み出す基盤になりうる、という点だ。たった一人の庶民が被った権力からの不当な仕打ちは、それが映像として拡散することによって多くの人々に知られることになり、我がこととして受け取られて、抗議の行動へと繋がる回路は、アラブの春から#metooやBlack Lives Matter、香港の雨傘からロシアの反戦運動まで、世界中の運動に共通した共感や怒りの基盤となっている。これは「私」と他者との間の共感/怒りの構造がSNSを通じて劇的に変化してきたことを物語っている。このプロセスは、「偽情報」を拡散しようとするハイブリッド戦の当事者にとっても魅力的だ。このプロセスをうまく操れれば「敵」の民衆を権力者への同一化から引き剥がし攪乱させることができるからだ。こうして私たちは、ナショナルなアイデンティティから自らを切り離す努力をしないままにしていれば、否応なしに、この「戦争」に心理的に巻き込まれることになる。

もともと20世紀のメディア環境において言論表現の自由を権利として保障する体制は、金も権力ももたない庶民が政権やマスメディアのように不特定多数へのメッセージの発信力をもっていないという不均衡な力学を前提としたものだった。ところがインターネットは、この情報発信の非対称性を覆し、権力者と民衆の間の格差を大幅に縮めた。マスメディアの時代のように、無数の「声なき民」の実際の声を無視してマスメディアや選挙で選出された議員の主張を「世論」だと主張することはできなくなった。マスメディアや議員によっては代表・代弁されない、多数の異論の存在が可視化されているのが現在のコミュニケーション環境、つまりサイバーの世界だ。

だから、こうしたネット上のメッセージを国家の意思へと束ねるために新たな技術が必要になる。この技術は人々の行動を予測する技術として市場経済で発達してきたものの転用だ。自由な行動(競争)を前提とする市場経済では、自由なはずの消費者の購買行動を自社の商品へと誘導するための技術が格段に発達する。こうして、サードパーティクッキーなどを駆使したターゲティング広告やステルスマーケティングなどの技法によって、固有名詞をもった個人を特定してプロファイルし、将来の購買行動に影響を与えるように誘導する技術が急速に普及した。この技術は、選挙運動で有権者の投票行動の誘導に転用するなどの政治コンサルタントのビジネスを支えるものになったことは、2016年の米国大統領選挙、英国のEU離脱国民投票などでのケンプリッジアナリティカのFacebookデータを利用した情報操作活動で注目を浴びることになった。4

もうひとつの傾向が、事実をめぐる政治的な操作だ。権力による人々の意識や行動変容を促す伝統的な技術は、検閲と偽情報の流布だった。検閲は基本的に、権力にとって好ましくない表現や事実を事前に抑制する行為を意味する。偽情報は公表すべき事実を権力にとって都合のよい物語として組み換えたり改竄することを意味する。現代の情報操作の特徴は、これらを含みながらも、より巧妙になっている。ビッグデータの膨大な情報の取捨選択や優先順位づけなど人間の能力では不可能なデータ処理を通じて新たな物語を構築する能力だ。この取捨選択と優先順位付けは主に検索エンジンが担ってきたが、これにChatGPTのように双方向の対話型の仕組みが組み込まれることによって、コミュニケーションを介して人々を誘導する技術が格段に進歩した。検閲とも偽情報とも異なる第三の情報操作技術だ。

グレーゾーン事態への対処としての安全保障戦略は、国家が私たちの私的な世界を直接ターゲットにして私たちの動静を把握しつつ、私たちの状況に最適な形での世界像を膨大なデータを駆使して描くことを通じて、国家意思へと収斂する私たち一人一人のナショナルなアイデンティティを構築しようとするものだ。同時に、私たちは、自国政府だけでなく、「敵」の政府による同様のアプローチにも晒される。いわゆる「偽情報」や事実認識をめぐる対立は、それ自体が、国家のナショナリズム構築にとっての障害となり、この障害は戦時体制への動員対象でもある人々の戦意に影響することになる。

Footnotes:

1

たとえばマイクロソフトの報告書参照。The hybrid war in Ukraine、Apr 27, 2022 https://blogs.microsoft.com/on-the-issues/2022/04/27/hybrid-war-ukraine-russia-cyberattacks/

2

浅野裕一『孫子』、講談社学術文庫、p.18。

3

グローバルサウスや紛争地帯では、政権が危機的な事態になるとインターネットの遮断によって人々のコミュニケーションを阻止し、政府が統制しやすいマスメディアを唯一の情報源にするしかないような環境を作りだそうとする。米国や英国など、より巧妙な情報操作に長けた国では、情報操作を隠蔽しつつ世論を誘導するターゲティング広告やステルスマーケティングなどの技術が用いられる。

4

ブリタニー・カイザー『告発 フェイスブックを揺るがした巨大スキャンダル』、染田屋茂他訳、ハーパーコリンズ・ジャパン、2019; クリストファー・ワイリー『マインドハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』、牧野洋訳、新潮社、2020参照。

Author: 小倉利丸

Created: 2023-02-17 金 22:21

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サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(1)――グレーゾーン事態が意味するもの

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サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(2)

1. 未経験の「戦争」問題

昨年暮に閣議決定された安保・防衛3文書への批判は数多く出されている。しかし、「サイバー」領域に関して、立ち入った批判はまだ数少ない。日弁連が「敵基地攻撃能力」ないし「反撃能力」の保有に反対する意見書」のなかで言及したこと、朝日新聞が社説で批判的に取り上げたこと、などが目立つ程度で、安保・防衛3文書に批判的な立憲民主、社民、共産、自由法曹団、立憲デモクラシーの会、いずれもまとまった批判を公式見解としては出していないのではないかと思う。(私の見落しがあればご指摘いただきたしい)

サイバー領域は、これまでの反戦平和運動のなかでも取り組みが希薄な領域になっているのとは対照的に、通常兵器から核兵器に至るまでサイバー(つまりコンピュータ・コミュニケーション・技術ICT)なしには機能しないだけでなく、以下で詳述するように、国家安全保障の関心の中心が、有事1と平時、軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧化するハイブリッド戦争にシフトしていることにも運動の側が対応できていないように感じている。この立ち後れの原因は、日本の反戦平和運動の側ではなく、むしろ日本のサイバー領域における広範な反監視やプライバシー、言論・表現の自由などの市民的自由領域の運動の脆弱さにあると思う。この意味で、こうした領域に少なからず関わってきた私自身への反省がある。

今私たちが直面しているのは、ネットが日常空間と国家安全保障とをシームレスに繋いでいる時代になって登場した全く未経験の戦争問題なのだ。戦時下では、個人のプライベイートな生活世界全体を戦時体制を前提に国家の統治機構に組み込むことが必須になるが、サイバーはその格好の突破口となりかねない位置にある。この点で、私たちのスマホやパソコン、SNSも戦争の道具になりつつあるという自覚が大変重要になっている。Line、twitter、Facebookを使う、YoutubeやTikTokで動画配信する、といった多くの人々にとっては日常生活の振舞いとして機能しているサイバー空間のサービスと戦争との関係に、反戦平和運動はあまり深刻な問題を見出していないように思う。SNSなどは運動の拡散の手段として有効に活用できるツールであることは確かだが、同時に、この同じツールが反戦平和運動を監視したり、あるいは巧妙な情報操作の舞台になるなど、私たちにとっては知覚できない領域で起きている問題を軽視しがちだ。

2. グレーゾーン事態、有事と平時、軍事と非軍事の境界の曖昧化――国家安全保障戦略の「目的」について

2.1. 統治機構全体を安全保障の観点で再構築

国家安全保障戦略の冒頭にある「目的」には次のように書かれている。

Ⅰ 策定の趣旨
本戦略は、外交、防衛、経済安全保障、技術、サイバー、海洋、宇宙、情報、 政府開発援助(ODA)、エネルギー等の我が国の安全保障に関連する分野 の諸政策に戦略的な指針を与えるものである。p.4

旧戦略では「本戦略は、国家安全保障に関する基本方針として、海洋、宇宙、サイバー、政府開発援助(ODA)、エネルギー等国家安全保障に関連する分野の政策に指針を与えるものである。」となっていた。今回の改訂で、外交、防衛、経済安全保障、技術、情報が明示的に追加されることになった。経済安全保障についての議論は活発だが、情報安全保障については、実はほとんど議論がない。しかし、情報産業が今では資本主義の基軸産業となっていることを念頭に置くと、旧戦略と比較して、情報と経済が明示されたことは大きい。今回の戦略は、以前にも増して国家の統治機構全体を安全保障の観点で再構築する性格が強くなっているといえる。

今回の国家安全保障戦略は、国家の統治機構全体の前提を平時ではなく有事に照準を合わせて全ての社会経済制度を組み直している。政府が有事と表現することには戦時が含まれ、軍事安全保障では有事と戦時はほぼ同義だ。グレーゾーン事態とか有事と平時、あるいは軍事と非軍事といった概念を用いて、国家安全保障を社会の全ての領域における基本的な前提とした制度の転換である。だから、今回の国家安全保障戦略は、有事=戦時を中心とする統治機構の質的転換の宣言文書でもある。

2.2. 恣意的なグレーゾーン事態概念

たとえば国家安全保障戦略には以下のような箇所がある。

領域をめぐるグレーゾーン事態、民間の重要インフラ等への国境を越えたサイ バー攻撃、偽情報の拡散等を通じた情報戦等が恒常的に生起し、有事と平時 の境目はますます曖昧になってきている。さらに、国家安全保障の対象は、 経済、技術等、これまで非軍事的とされてきた分野にまで拡大し、軍事と非 軍事の分野の境目も曖昧になっている。p.4

ここでグレーゾーン事態と呼ばれているのは、純然たる平時でも有事でもない曖昧な領域概念だ。防衛白書2では、国家間に領土、主権、経済権益などの主張で対立があるなかで武力攻撃には該当しないレベルを前提にして、自衛隊による何らかの行動を通じて自国の主張を強要するような行為をグレゾーン事態として定義している。従来自衛隊といえば陸海空の武力(自衛隊では「実力組織」と言い換えている)を指す。しかし、防衛力整備計画の2万人体制でのサイバー要員3とその任務を前提にすると、武力行使を直接伴うとはいえない領域へと自衛隊の活動領域が格段に拡大することになる。

従来、自衛隊が災害派遣として非軍事領域へとその影響力を拡大してきた事態に比べてサイバー領域への拡大は、私たちの日常生活とコミュニケーション領域そのものに直接影響することになる。自衛隊の存在そのものが有事=戦時を前提としており、その活動領域が非軍事領域に浸透することを通じて、非軍事領域が軍事化し、平時が有事へとその性格が変えられ、国家安全保障を口実とした例外的な権力の行使を常態化させることになる。

平時と有事を座標軸上にとり、その中間にグレーゾーンが存在するとみなすような図式はここでは成り立たない。なぜならば、グレーゾーンの定義はもっぱら政府の恣意的な概念操作に依存しており客観的に定義できないからだ。平時と有事、軍事と非軍事についても同様に、その境界領域はあいまいであり、このあいまいな領域を幅広く設定することによって、平時や非軍事を有事や軍事に包摂して国家の統制を社会全体に押し広げて強化することが容易になるような法制度の環境が生みだされかねない。

2.3. 変わらない日常のなかの知覚できない領域で変容が起きる

だから、法治国家であるにもかかわらず、今私たちが暮すこの環境の何が、どこが、グレーゾーンなのか、あるいは有事なのか、軍事に関わっているのか、といったことを法制度上も確認する明確な手立てがない。

たとえばJアラートの警報はどのように位置づくのだろうか。あるいは、次のような場面をイメージしてみよう。私のスマホは、昨日も今日も同じようなサービスを提供しており、私の利用方法にも特段の違いがないとしても、サイバー領域の何らかの事態によってグレゾーン事態や有事としての判断を政府や防衛省が下したばあいに、通信事業者が政府の要請などによって、従来にはない何らかの対処をとることがありえる。これは防災アプリのように明示的にユーザーに告知される場合ばかりではないだろう。昨日と今日のスマホの機能の違いは実感できないバックグラウンドでの機能は、私には知覚できない。しかし多分、サイバーが国家安全保障上の有事になれば、たとえば、通信事業者による私たちの通信への監視が強化され通信ログやコンテンツが政府によってこれまで以上に詳細に把握されるということがありうるかもしれない。次のようなこともありえるかもしれない。「敵」による偽情報の発信が大量に散布される一方で、自国政府もまた対抗的な「偽情報」で応戦するような事態がSNS上で起きている場合であっても、こうした情報操作に私たちは気づかず、こうした情報の歪みをそのまま真に受けるかもしれない。検索サイトの表示順位にも変更が加えられ「敵」に関するネガティブな情報が上位にくるような工作がなされても私たちは、検索アルゴリズムがどのように変更されたかに気づくことはまずない。4

上のような例示を、とりあえず「コミュニケーション環境の歪み」と書いておこう。「歪み」という表現は実は誤解を招く。つまり歪んでいないコミュニケ=ション環境をどこかで想定してしまうからだ。この「歪み」で私が言いたいことは、そうではなくて、従来のコミュニケーション環境――それはそれなりの「歪み」を内包しているのだが――に新たな「歪み」が加わる、ということだ。こうした「歪み」は、実感できるものではないし、これを正すこともできない。むしろコミュニケーション環境に対する私たちの実感は、この環境をあるがままに受けいれ、また発信することになる。自らの発信が再帰的に歪みの構造のなかで更なる歪みをもたらす。こうしたことの繰り返しにAIが深く関与する。軍事・安全保障を目的として各国の政府や諸組織が関与するサイバーと呼ばれる領域は、伝統的な人と人の――あるいは人の集団としての組織と組織の――コミュニケーションとは違う。ここには、膨大なデータを特定のアルゴリズムによって処理しながら対話する人工知能のような人間による世界への認識とは本質的に異なる「擬似的な人間」が介在する。しかし人間にはフェティシズムという特性があり、モノをヒトとして扱うことができる。AIは人間のフェティッシュな感性に取り入り人間のように振る舞うことになるが、これは、AIの仕業というよりも、人間が自ら望んだ結果でもある。たぶん、こうした世界では、AIが人間化するよりも人間がAIを模倣して振る舞う世界になるだろう。こうして「私たち」のなかに、AIもまた含まれることになる。

グレーゾーン事態は、私たちの市民的自由や基本的人権を侵害しているのかどうかすら私たちには確認できない事態でもある。このコミュニケーション環境全体の何が私のコミュニケーションの権利を侵害しているのかを立証することは極めて困難になる。権利侵害の実感すらないのであれば、権利侵害は成立しない、というのが伝統的な権利概念だから、そもそもの権利侵害すら成り立たない可能性がある。

Footnotes:

1

松尾高志は、「有事法制」とは戦時法制のこと。「有事法制」は防衛省用語。(日本大百科)と説明している。戦争放棄を憲法で明記しているので、「戦時」という言葉ではなく有事を用いているにすぎないという。憲法上の制約から戦時という概念を回避して有事に置き換えられる結果として、自然災害も戦争もともに有事という概念によって包摂されてしまう。この有事という概念には、本来であれば戦時に限定されるべき権力の例外的な行使が、有事という概念を踏み台にして、非戦時の状況にまで拡大される可能性がある。有事は、災害における自衛隊の出動と軍隊としての自衛隊の行動をあいまいにする効果がある。

2

防衛白書 2019年、https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2019/html/nc007000.html

3

「2027 年度 を目途に、自衛隊サイバー防衛隊等のサイバー関連部隊を約 4,000 人に 拡充し、さらに、システム調達や維持運営等のサイバー関連業務に従事 する隊員に対する教育を実施する。これにより、2027 年度を目途に、サ イバー関連部隊の要員と合わせて防衛省・自衛隊のサイバー要員を約2 万人体制とし、将来的には、更なる体制拡充を目指す。」防衛力整備計画、p.6

4

たとえばGoogleは年に数回コアアップグレードを実施し、アルゴリズムの見直しをしているという。米国最高裁が人工妊娠中絶についての解釈を変えて中絶の違法化を合憲とした後で、米国ではオンラインで人工妊娠中絶のサポートサイトが、検索順位で下位へと追いやられる事態が起きた。「(Women on web) GoogleのアルゴリズムがWomen on Webのオンライン中絶サービスへのアクセスを危険にさらす」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/googles-algorithm-is-endangering-access-to-women-on-webs-online/

Author: 小倉利丸

Created: 2023-02-17 金 13:08

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変ってしまうと困る「社会」とは何なのか――戸籍制度も天皇制もジェンダー平等の障害である

荒井勝喜・前首相秘書官発言に対して、岸田が早々に更迭を決めた背景には、ジェンダーの多様性を本気で認めるつもりのない岸田が、これ以上傷口を拡げないための措置だと思う。 ジェンダーはG7の議題のなかでも優先順位が高い課題だが、日本はこれを、リップサービスだけで乗り切る積りだったと思う。

同性婚を法的に認めていないG7の国は日本だけだということがメディアでも報じられるようになった。岸田が「社会が変わってしまう」と発言したことも注目されている。この発言は、ほぼ荒井のオフレコ発言と主張の基本線に変りはないため、荒井が答弁原稿を書いたのではとの憶測があったが、朝日は、これを否定して岸田のアドリブだと報じている。ここで岸田のいう「社会」とは、法制度のことではない。法制度に同性婚を組み込むと変わる「社会」のことだ。ではその社会とは何なのか、このことをメディアは議論していないし、野党も議論できない?

岸田のいう「社会」とは、日本に固有だと岸田が考える伝統的な社会、つまり家族観のことだと解釈しないと、荒井=岸田が同性婚や性的マイノリティに否定的なのかを理解できない。どこの国にも伝統的な家族観はあり、それを変えてきたが、日本は変えられないでいる。これは、LGCTQ+の運動が非力だとかではなく、逆に、性的マジョリティがマイノリティの権利を理解して平等な権利主体として認識して行動することができないというマジョリティ側の問題なのだ。では、なぜそれほどマジョリティがマイノリティへの理解や共感をもてないのか、これを私のようなマジョリティが考えないといけない重要な問題だ。 荒井が語ったのは、理屈ではなく好き嫌いの感情だったことも、ここでは重要な意味をもつ。

どこの国でも資本主義的な家父長制が支配的なことには変りない。しかし、日本に固有なのは、個人よりも家族を優先させる特異な制度上の縛りがあることと、大衆的な婚姻文化――結婚式が両性の合意ではなく両家の合意として演出される違憲状態が定着しているとか――、そして何よりも戸籍制度だ。そしてこの国の強固な家父長制とセクシズム+レイシズムは、象徴天皇制を後ろ盾にした日本的な近代家族観と「日本人」のアイデンティティとも密接な関りがあると思う。 他方で、G7を舞台に、性的マイノリティの権利についての提言を主張するかもしれないが、「市民社会」組織のスタンスから戸籍制度と天皇制をジェンダー不平等の根源にある制度として廃止を提言できるかどうか、私はこの点に注目している。

荒井は秘書官室全員が同性愛嫌いだと発言してもいて、岸田も価値観を共有していることは明らかで、この価値観が戦後生れであってもしっかりと保守層い定着していることは注目すべきことだ。そして、旧統一教会など保守・極右の宗教団体や圧力団体もまた同性婚やジェンダーの多様性を嫌悪してきたことと今回の差別発言とはシームレスに繋がっている。

近代日本が戦前から構築してきた家族観が戦後民法によって改革されたかのように論じる向きもあるが、それは紙に書かれた法律の世界の問題であって、庶民の家族観は戦前からの明確な切断を自覚していない。核家族かどうか、とか専業主婦か共働きか、といった女性差別を解消するかもしれないと期待されてきた家族の変化も、実は期待外れで、戦後生れの核家族の男たちがしっかりと伝統的な家父長制意識を内面化しており、そのことが企業の「風土」を作り、労働運動や革新・左翼の運動もまた主流になればなるほどこの「風土」を共有している。あえて「庶民」と書いたのは、男性の所得が比較的低く共働きを必要とする世帯においても、家父長制意識は再生産されているし、結婚=入籍という等式が常識を形成しているからだ。女性の「社会進出」は自分の人生のために働くのではなく、「家」の家計のために働くことの結果にすぎない。女性の「社会進出」は日本ではジェンダー平等に寄与しているとは思えない。だから日本のジェンダーギャップは、あの不愉快な資本家クラブ、世界経済フォーラムの統計でも世界の120位なのも、こうした日本の現実を象徴している。ある程度の制度的な保障がある女性の場合ですらこうした状況だから、ましてや、権利を大幅に奪われている性的マイノリティの人達の場合の困難は、物理的にも精神的にも更に深刻だ。

たぶん、戸籍制度をなくさないと、多様な性的アイデンティティを平等に権利として保障できない。制度的には戸籍制度がかなりネックになっていると思う。こんな制度があるのは日本だけで、韓国も廃止した。戸籍制度は本来個人を基盤に人権を定義している憲法とは真っ向から対立しているが、このことに自覚的なのはむしろ保守派で、憲法の個人主義を家族主義に従属させる意図をもっているのが自民党の改憲草案だ。だから、今回露呈した問題は、荒井とか岸田といった個人の問題ではなく、政権政党をはじめとする保守派総体も問題であり、それは、価値観だけではなく、この国が近代の統治機構を構築する際に、その根幹に据えた戸籍制度と天皇制という奇妙な装置に由来するものだとはっきりと自覚する必要があると思う。

『戸籍と天皇制』の著者、遠藤正敬は、次にように書いている

「結婚の時には夫婦が氏を同一にしなければならないという面倒事がありながら、みんながそうしているから自分たちもと"自然"に婚姻届を役所に出す。戸籍に登録され、血縁や氏に帰属することを尊重する風潮は、自我の突出を抑制して集団への恭順ないし同調を美徳とする精神を内包している。
 戸籍制度に対する日本人のこうした無抵抗な順応は一体、何に由来するのであろうか。そう考える時、天皇制に対する国民意識のなかに、これと酷似したものを見出さざるを得ない。」

世論調査で同性婚やLGBTQを容認する人達が多数であるという結果が報じられているが、これも私は疑問だ。遠藤の言い回しを借りれば「無抵抗な順応」のなかで無自覚でいられる場合と、そうではなく自分事として身にふりかかっている場合とでは、回答が変わるからだ。たぶん回答者の多くは電通の調査でも示されているように「他人事」なので、容認しているにすぎず、性的マイノリティが抱えている日常的な偏見や制度的な差別を理解しているわけではないと思う。だから、たとえば、自分自身の「家」に関わる問題として自覚されると、この容認の数は、減るだろう。つまり、同性との婚姻ですら「本人が誰を好きになろうと構わないが、結婚は別だ。籍をどうするんだ」といった議論が必ず家族の誰かが持ち出して、入籍できないなら、結婚はできない、みたいな議論がでてきて紛糾するに違いないからだ。このときに、戸籍制度があることで個人の性に関わる差別が制度化されているということに気づくよりも、逆に、戸籍制度を容認・前提して「仕方がないこと」として婚姻の自由を抑制する判断が支配的になるだろうことは容易に推測できる。

実は、私達の日常生活いおいて戸籍も天皇も必需品ではない。ほとんど意識することにない、存在であるが、にもかかわらず廃止を主張することへの抵抗は極めて大きい。これは、戸籍制度と近代天皇制は表裏一体で家族観や価値観に関わるからだ。人々の価値観が変って戸籍も天皇も制度としては不要であるという方向に向かうことを保守派は異常に危惧しているようにめいるが、私は社会的平等い基く個人の自由が何よりも重要な人権の基礎だと考えているので、戸籍も天皇制も廃止すること以外の選択肢はありえないと思っている。

ウクライナ防衛コンタクトグループの会合を目前にして。あらためてG7も軍隊もいらない、と言いたい。

メディアでも報道されているが、20日からドイツのラムシュタイン米空軍基地でウクライナ防衛コンタクトグループ(NATOが中心となり、米国が議長をつとめてきたと思う)の会議がある。50ヶ国が参加すると米国防省が発表している。当然日本も参加することになるだろう。

これまでに、日本は防衛大臣や防衛省幹部が出席しており、事実上NATOに同伴するような態度をとっているので、とくに20日からの会議には、日本が安保・防衛3文書と軍事予算増額という方針を――国会での議論がないままに――既定の事実とみなし、かつ、G7議長国+安保非常任理理事国として参加するので、参加の意味はこれまでとは違って、とても重要なものになる。

この間のG7諸国のウクライナへの軍事支援は異例なことづくめだ。 英国が自国の主力戦車「チャレンジャー2」14台を提供したことはかなり報じられているが、それだけでなく、戦車は「AS90自走砲、ブルドッグ装甲車、弾薬、誘導多連装ロケットシステム、スターストリーク防空システム、中距離防空ミサイルなどの大規模な軍事援助パッケージの一部」である。(VOA報道 ) ドイツも主力戦車「レオパルド2」戦車、マーダー装甲兵員輸送車、パトリオット防空ミサイル砲台、榴弾砲、対空砲、アイリスT地対空ミサイルを提供。[日本報道では、戦車の提供については、保留と報じている。そのほかの武器については不明、21日加筆]ドイツの戦車提供は、ポーランドやフィンランドからの圧力があり、また武器供与に関しては、緑の党が極めて積極的な姿勢をみせている。 欧州連合(EU)理事会のシャルル・ミシェル議長も戦車提供を支持している。戦車提供の是非が議論になっていたが、英国が掟破りをしたことがきっかけで、戦車提供のハードルが一気に下がった。ウクライナは春までに戦車を数百台規模で必要としているといわれている。(上記VOA)

肝心の米国は、ニューヨークタイムスの報道では、かなり姑息で、中東での紛争に備えてイスラエルに供与した30万発をポーランド経由で提供されると報じられている。また、韓国にある米軍の備蓄もウクライナに送られているようだ。戦闘が膠着状態にあるなかで、ウクライナもロシアも砲弾不足とみられている。タイムズは「米欧の当局者によると、ウクライナ軍は月に約9万発の砲弾を使用しているが、これは米国と欧州諸国を合わせた製造量の約2倍に相当する。残りは、既存の備蓄や商業販売など、他の供給源から調達しなければならない。」と報じている。春までに供給を確保できるかどうかが勝敗の鍵を握るという専門家の話も紹介されている。 こうした報道では、砲弾の消費とは人の命の「消費」でもあり、どちらがより多くの人命を奪えるかが勝敗を決める、と言っているに等しい。しかし、あといったい何人が戦争で殺し・殺されなければならないのか、といった話はでてこない。むしろ、ロシアを凌駕する武器、弾薬の供給の必要、という話ばかりだ。

20日のドイツでの会議では、こうした武器弾薬の供給についての具体的な話になると思われ、そうなれば、日本は何も提供しない、などということは言えないということになるだろう。昨年から一貫して続いているNATOやウクライナからの武器供与の圧力を政府は見すえて、安保・防衛戦略と予算見直しをしているので、ウクライナの問題が重要な意味をもっている。それに加えて東アジアの「危機」キャンペーンで世論の不安を煽る。昨年、岸田は初めてNATOの首脳会議い出席する。また、日本は2014年からNATOのパートナーシップ相互運用性イニシアティブに関与してきているし、人的交流もある。日本がNATOとの関係をより具体的に緊密化するだけでなくアジア最初のNATO加盟国にすらなりかねない勢いとも感じる。

20日の会議がドイツで開催されるのは、米国の思惑として、NATOへのドイツの関与をより一層強固なものにしたい、ということもあるかもしれない。ドイツはもはや、かつての第二次世界大戦のホロコーストと戦争を反省したドイツではない。ウクライナへのロシアによる「ホロコースト」を許さないためには戦争も辞さない、というように世論も政党も、その態度が変化しており、これが平和運動の一部にも受け入れられてしまっている。スティーブン・ミルダーは、戦後ドイツの平和運動の変質を扱ったエッセイ「ウクライナと蝕まれる平和主義」(Boston Review)でこのことを指摘している。 ミルダーの指摘が正しいとすると、日本は、繰り返し朝鮮民主主義共和国による核の脅威や中国による軍事的な覇権といった危機の扇動を人々の心理に刷り込むことを通じて、核の脅威を抑えるためには(自衛のための)戦争以外の選択肢はない、だから戦争はやむなし、という世論を構築してきた。岸田が口にする「非核」は、核の脅威を口実とした平和の軍事化にほかならない。武力による反撃や先制攻撃を正当化するために、もっぱらロシア、中国、朝鮮の核の脅威が利用され、核抑止力の論理は、むしろ、通常兵器による際限のない殺し合い――核さえ使わなければいくら殺し合ってもいいだろう、というモラルハザード――を加速化してしまい、ここに日本も自ら積極的に加担しうるための理論武装をしてきた。こうして平和運動のなかですら非武装や自衛隊違憲論は少数派となり――わたしはこの少数派だが――「侵略されたら、攻撃されたら、核の先制攻撃をされたら、それでも非武装でいいのか」という脅しの前に、「それでも非武装であることがベストだ」という当然の答えを出せずに、武力による平和という欺瞞に屈服してしまった。

今年は広島でG7開催になるが、日本とG7との関わりは、同時にNATOとの関わりでもあり、安保・防衛3文書と軍事予算問題は、こうした国際関係の観点を抜きにはできない極めて大切な問題だと思う。20日の会議には注目したい。G7から芋蔓式にNATOへの関与や武力による解決へと引き込まれている現実をみたとき、私たちがとるべき主張は、G7の解体はもとより、外国であれ自国であれ軍隊を廃止すること、という当然の主張を何度でも繰り返す必要がある。

(Boston Review)ウクライナと蝕まれる平和主義

(訳者前書き) ここに訳出したのは、戦後ドイツの平和運動がウクライナの戦争のなかで直面している、平和主義そのものの危機、つまり、武力による平和の実現への屈服の歴史を概観したもので、日本の現在の平和運動が陥いっている矛盾や課題と主要な点で深く重なりあう。その意味でとても示唆的な論文だ。

ドイツは戦後ヨーロッパの平和運動の重要な担い手だった。ナチスによるホロコーストという戦争犯罪への反省から、二度とホロコーストを引き起こさないという誓いとともに、二度と戦争を引き起こさない、「武器によらない平和」という考え方を支えてきた。自らの加害責任を明確にすることから戦後のドイツの平和への道が拓かれる。これは、日本が戦争責任、加害責任を一貫して曖昧にしてきたのとは対照的な姿だと受けとめられてきた。一方で、ドイツは日本のような戦争放棄の憲法を持つことなく、軍隊を維持し、NATOにも加盟してきた。とはいえ、ドイツの民衆は米軍やNATOによる軍拡や核兵器反対運動の重要な担い手であり、それが、ドイツの議会内左翼や緑の党を一時期特徴づけてもいた。しかし、日本同様、ドイツもまた、ポスト冷戦期に、戦後の平和主義そのものが左翼のなかで事実上崩壊する。ただし、特徴的なことは、ホロコーストは二度と起こさない、という誓いが、ホロコーストを招来するような武力紛争い対しては、武力によって介入することも厭わない、というようになり、それが、コソボからウクライナへと継承されるとともに、国連の対応にも本質的な変化が生まれてくることを著者は指摘する。このあたりの著者の記述は、私たちにとっても重要だし、示唆的でもある。

決定的に軍拡に前のめりになったのがウクライナの戦争においてだった。以下でスティーブン・ミルダーが述べている平和主義が壊死するに到る経緯は、ある意味で、日本の護憲主義が絶対平和主義や非武装中立の理念を放棄して、9条護憲といいながら専守防衛と自衛隊合憲を当然の前提にするという欺瞞に陥いった経緯と多くの点で重なりあう。緑の党が平和主義を放棄して積極的な武力介入へと変質する経緯も他人事とはいえない。ウクライナへの軍事支援や武力抵抗の是非をめぐって日本の左翼のなかにも考え方の対立がある。同様のの対立がドイツでも起きている状況をみると、今日本で起きている軍拡と平和主義の解体的な危機の問題は、日本だけの問題ではなく、ある種の普遍的な問題でもあるということに気づかされる。私は、いかなる場合であれ、武器をとることは選択すべきではない、という立場だが、このような立場が日を重ねるごとに無力化される現実に直面するなかで、平和主義者が国家にも資本にも幻想を抱くことなく、国家と資本から解放された未来の社会の実現を暴力に依拠しないで実現するための構想ができていただろうか、ということをあらためて考えなければならないと感じている。平和主義(これは議会主義と同じ意味ではない)の敗北の歩みは、平和主義の破綻ではなく、そのパラダイム転換が求められていることを示している、と思う。(小倉利丸)

A mass peace demonstration in Bonn, Germany, on June 10, 1982, on the occasion of a NATO summit. Image: Wikipedia

ドイツの指導者たちは、戦争に対応して国防費を大幅に増やし、第二次世界大戦後に生まれた平和主義の文化との決定的な決別を示し、軍縮の大義に大きな打撃を与えている。

スティーブン・ミルダー
ヨーロッパ, グローバル・ジャスティス, 軍国主義, ウクライナ, 戦争と国家安全保障

    2023年1月11日

11カ月前、ロシアがウクライナに侵攻した日、Alfons Mais中将は自身のLinkedInアカウントにこう書き込んだ。「私が率いる連邦軍は、多かれ少なかれ破たんしている」「(NATO)同盟を支援するために政府に提示できる選択肢は、極めて限られている」と彼は書いた

ドイツの装備の悪い軍隊は、戦争を拒否するドイツの誇らしい象徴というよりは、西ヨーロッパが自らを守ることができないことの兆しと受け止められているのだ。

報道では、マイスの悲観的な見方は事実に基づくものだ。ドイツ連邦軍はNATOのアフガニスタン長期作戦に参加し、現在もドイツの兵士は国連平和維持活動の一環としてマリに派遣されているが、ロシアのような核保有国に対抗するには明らかに力不足だった。昨年2月現在、ドイツ連邦軍は40台の最新型戦車しか保有しておらず、ヘリコプターの約6割が戦闘不能とされている。一方、海軍は、新たな任務を担うことはおろか、以前から計画していた作戦を遂行するのに十分な艦船があることも確認されていない

これらの統計は、米国の莫大な国防費や軍事力とは対照的であり、ドイツが1945年以来数十年の間、攻撃的な軍国主義から平和主義的な抑制へと転じたことの証拠である。戦場で大国と対峙するつもりのない軍隊に、戦車やヘリコプターは何の役に立つのだろうか。しかし、ウクライナで戦争が勃発すると、不手際で装備の整わない連邦軍というイメージは突然、別の意味合いを持つようになった。それは、ドイツの誇り高い戦争拒否の象徴ではなく、西ヨーロッパの自衛能力の欠如の象徴として注目を集めるようになったのである。

ドイツ連邦軍の装備を改善し、ヨーロッパの安全保障に対するコミットメントを証明するために、ドイツの指導者たちが昨年精力的に行った努力は、戦後のドイツ史における劇的な転機と評されるようになった。オラフ・ショルツ首相は昨年2月、1000億ユーロという前代未聞のローンを組むと宣言し、それを正当化するために「必要な投資と軍備プロジェクト」のための「特別基金」といった言い回しを使った。軍備強化へのコミットメントを疑う余地のないようなものにするために、ショルツは国防予算の年次増額を発表した。戦争が始まって3日後、ショルツは国会で、ロシアの侵攻は「わが大陸の歴史の分岐点」だと述べて、この国防費のすさまじい増額を正当化した。この主張は、ドイツ人の歴史的想像力の大きな事柄との関連で理解されなければならない。すなわち、第二次世界大戦である。首相は、「私たちの多くは、両親や祖父母の戦争の話をまだ覚えています。そして、若い人たちにとっては、ヨーロッパで戦争が起こることはほとんど想像もつかないことなのです」と説明した。彼の主張は広く受け入れられた。6月までに連邦議会は、連邦軍資金の大幅増額というショルツの計画を実行に移すために必要な憲法改正案を可決した。

現実には、実際の分水嶺は、第二次世界大戦以来初めて「ヨーロッパでの戦争」が突然出現したことでは ない。それは、1990年代のユーゴスラビアでの熱い戦争だけでなく、冷戦時代の数十年にわたる軍国主義を消し去った、歴史的な記憶喪失の驚くべき一連の出来事である。真のより大きな変化は、ほとんど何も語られることはなかった。つまり、これは、この30年間、ドイツは、ポスト・ファシストの国――これは、歴史家Thomas Kühneが言うところの「平和の文化」によってナチスの過去を克服したかに見えたのだが――から、防衛費を増大させ、重武装の侵略者に反撃する態勢を伝えることに熱心なポスト平和主義の国へのこの30年間のドイツの変容の頂点をなすものなのである。確かに、東西ドイツは第二次世界大戦後すぐに再軍備を行い、冷戦時代には何十万人もの米ソの兵士を受け入れたが、この時期を通じて、二人の東ドイツ反体制者のよく知られた「武器なしで平和を作る」(Frieden schaffen ohne Waffen)という主張を熱心に支持するドイツ人もかなりの数にのぼった。この冷戦時代の平和主義は、1990年代以降、西側諸国が武力による自衛と人道的介入を広く求めるようになったことに直面するなかで転換に迫られ、ショルツのレトリックから消え去った。

過去75年間の戦争を無視することは、プーチンの侵略戦争の深刻さを伝えるのに役立つかもしれないが、ドイツ人の過去、特に第二次世界大戦の教訓に照らして戦争と平和について考える方法の大きな変化をも見落とすことになる。また、ウクライナ戦争に対するドイツのタカ派的な対応がもたらすリスクと結果も見えにくくなっている。かつて多くのドイツ人が第二次世界大戦を、あらゆる形態の軍国主義に反対する理由としてきた。しかし、今日では、これが、残虐行為を防ぐという名目で、国防費の増大を正当化する議論に利用されているのである。


軍国主義に対するドイツの反発は、1945年直後に生まれ、冷戦の間ずっと続いてきた。敗戦と占領の経験に懲りた西ドイツと東ドイツは、ともに平和な国として認識されることを望んだ。両国の憲法は侵略戦争を禁じ、軍隊の役割を平和維持に限定し、西ドイツの軍需メーカーが紛争地域に武器を輸出することを法律で禁止していた。しかし平和への誓いは、ここまでだった。ドイツは、いずれも冷戦時代の軍事同盟の再軍備や積極的なメンバーになることをおろそかにはしなかった。「鉄のカーテン」に沿って位置する両国は、何十万人もの米軍とソ連軍を受け入れ、徴兵制が採用され、冷戦の最盛期には50万人以上のドイツ人が現役兵として兵役についていた。それでも、公式の声明や政府のポリシーは、第三次世界大戦を防ぐことに期待をかけて軍事紛争を制限することに重点を置いていた。

かつて多くの人が第二次世界大戦を軍国主義に反対する理由とみなしたが、今では軍国主義を正当化するために利用されている。

このような態度は、ドイツ社会全体に見受けられた。冷戦時代には、一般の人々が民衆感情と草の根の活動を通じて、重要な「平和の文化」を築き上げた。第二次世界大戦末期にドイツ人が経験した悲惨さと、1945年の敗戦後に彼らが耐えた窮乏が、平和への抗議の第一波を促進したのである。戦争直後、一般ののドイツ人は、自国の再軍備に対して、下からの「私抜きで!」 (Ohne mich!)運動への参加を通じて、個人的に加担したくないという意思を表明した。1949年に西ドイツと東ドイツが成立すると、国家社会主義の東ドイツでは、草の根の抗議運動は難しくなった。しかし、西ドイツでは再軍備や核兵器に対する抗議が1950年代を通じて起こり、ある意味で再軍備や1955年の西ドイツのNATO加盟に影を落すことになった。確かに、スイス、オーストリア、スウェーデンといった中欧の隣国とは異なり、ドイツ連邦共和国は中立国ではなかったが、戦争反対のイメージを醸成することに成功し、この時期に生まれた抗議の文化は長期にわたって影響を与えることになる。

1980年代初頭、軍拡競争が再び激化し、歴史家が「第二次冷戦」と呼ぶ戦争が始まると、両国の市民は再びより積極的な平和推進派に転じた。彼らは、主に、NATOやワルシャワ条約機構による中距離核ミサイルのヨーロッパへの配備に抗議した。西側では、NATOの中距離ミサイル配備の根拠となった「デュアルトラック決定」への反対運動が起き、政治学者ペーター・グラーフ・キールマンゼグの言葉を借りれば「連邦共和国がかつて経験したことのない大衆運動」に発展していった。1983年10月22日、西ドイツの「暑い秋」の中で最大の抗議行動となったこの日、120万人のドイツ人が街頭に立っていた。反ミサイルの運動は、さらに広く、深く拡がった。西ドイツの人々は、多くの市や町に非核地帯を設けるよう地元当局に要求し、NATOのミサイル基地を封鎖するために市民的不服従の訓練を受けた。

社会運動というと「SA(ナチスの準軍事組織)の行進」を想起させ、民主主義秩序の全面的な否定と同一視されかねないこの国において、こうした広範な抗議行動は大きな進展であった。しかし、国会がミサイル配備を承認するのを止めることはできなかった。西ドイツ連邦議会は1983年11月22日、キリスト教民主・自由党の連立政権政党と一部の社会民主党の賛成で、ミサイル配備を容認する議決を可決した。米軍は翌日午前1時からドイツへのミサイル輸送を開始した。西ドイツの人々が、反対を貫きながらも議会の決定を受け入れたことで、ストリート・デモが議会制民主主義の枠内で存在し得ることを証明することになった。その結果、歴史家は1980年代の平和運動が西ドイツで抗議行動を「正常化」したと論じている。

東ドイツでも、核軍拡競争に反対する運動が、1980年代前半に大きな盛り上がりを見せた。ロバート・ヘーブマンとライナー・エッペルマンは、1982年の「ベルリン・アピール」で、社会主義政権に対し、「武器なしで平和をつくる」という平和主義の理想に忠実であるよう挑んだのである。東西に備蓄された兵器は「我々を守るどころか、我々を破壊する」と主張し、ハーベマンとエッペルマンは政府に「兵器を廃棄する」ことを要求した。牧師ハラルド・ブレットシュナイダーは、社会主義圏のスローガン「剣を鋤に」を軍事政策への批判に転化し、この言葉をプロテスタント教会の庇護の下で展開された初期の平和運動のモットーにした。ブレットシュナイダーのグループは、社会主義政権が独自の社会活動を禁止していたにもかかわらず、1982年に「平和フォーラム」を開催し、約6000人の参加者を得た。秘密警察の監視にさらされる中、東ドイツの平和活動家たちは、西ドイツの人々との間で個人として「個人的平和条約」を結ぶなど、平和に向けた新たな活動の方法を見出した。西ドイツの「緑の党」議員で平和活動家のペトラ・ケリーは、1983年10月の会合で東ドイツの指導者エーリッヒ・ホーネッカーに「個人的平和条約」に署名するよう求めたほど、この習慣は広く浸透し、注目されるようになった。しかし、側近の一人のささやかな仲介により、ホーネッカーはこの条約の最後の論点である「一方的な軍縮の開始を支持することをここに約束する」ことへの同意を拒否した。

冷戦時代、一般のドイツの人々は、民衆の感情や草の根の活動を通じて、重要な「平和の文化」を築き上げた。

両国の政府は、武力防衛政策を撤回して一方的な軍縮を進めることを拒否したが、平和活動家が形成したネットワークと彼らが提唱した批判は、深い意味を持っていた。西ドイツは多くの米軍基地とNATOの膨大な兵器を抱えていたが、強力な平和運動が民衆の平和主義的ムードをとらえ、草の根の政治的関与を促したように思われる。東ドイツでは、平和運動はより大きな影響を与えたと思われる。平和運動は、1989年秋の大規模な街頭抗議行動を組織するためのネットワークづくりに重要な役割を果たし、それがドイツ民主共和国の崩壊を促したのである。冷戦がほぼ非暴力で終結したことで、武力紛争のない未来像――戦争はもちろん暴力的な闘いではなく平和的な民衆の抗議が、地政学的変化を促す世界――が描かれるようになった。

国家社会主義が崩壊した後、統一されたばかりのドイツでは、熱い戦争とそれをめぐる論争が身近なものとなった。戦争が続く大陸で復活した大国の責任と、イラクやアフガニスタンに介入したアメリカとの同盟の責任に直面し、ドイツの反戦文化は揺らいだ。1990年8月のイラクのクウェート侵攻に対する米軍主導の対応に消極的だった。これが冷戦時代の平和主義の終りを意味するものだった。冷戦時代の軍拡競争の中で、表向きは武力紛争を否定し、その一方で誠実な軍事同盟メンバーであるという、一見逆説的な組み合わせに象徴される国になった。

1990年のペルシャ湾紛争は、イラクのクウェート侵攻で始まったが、多くのドイツ人は、イラクの侵略者に対して武力を行使する理由はほとんどないと考えていた。むしろ、イラク軍をクウェートから追い出し、イラク領内に深く侵入したアメリカ主導の「砂漠の嵐」作戦に反対し、統一ドイツ全土で抗議行動を起こし、反米感情を高揚させた。例えば、ペーター・シュナイダーは、ドイツ人が米国の介入を批判すると同時に、イラクのクウェート侵攻を非難することに消極的であることを懸念し、その姿勢は、戦争で危害を受けた米兵を看護しないことを宣言したドイツの看護師の行動などにも表れているとコメントした。

統一ドイツで抗議を呼び起こし、激しい論争を引き起こしたのは、海外への武力介入だけではなかった。ほぼ10年続いたユーゴスラビア戦争は、サラエボを4年近くも包囲し、スレブレニツァの虐殺を引き起こし、ついにはドイツ軍の1945年以来の海外派兵を引き起こすなど、恐ろしい事件を含んでいたが、こうした問題にも劇的な影響を及ぼした。特にボスニアとコソボの戦争は、ドイツ軍の海外派遣の可能性や平和維持活動における統一ドイツの役割といった根本的な問題をめぐる議論を引き起こした。このような議論の中で、冷戦時代に多くのドイツ人が抱いていた「戦争の火種を増やすべきではない」という反軍国主義的な考え方が変容していった。

武力介入に対するドイツの態度の変容を最も明確に示しているのは、おそらく緑の党だろう。緑の党は、平和運動が最高潮に達していた1983年に西ドイツ連邦議会に初めて議席を得た。反ミサイルデモへの広範な参加は、緑の党を国会に押し上げることにつながった。緑の党の有力者は、自分たちの党を平和運動の「議会の翼」(より具体的には、緑の党の有力議員ペトラ・ケリーの言葉を借りれば、運動において「立法の役割を演じることplaying leg」)とまで呼び、党の綱領は「連邦共和国が平和と軍縮のために単独で活動できるような政府」を呼びかけていた。1983年の選挙に向け、大西洋の両岸の政界は、緑の党の一方的な軍縮支持がドイツのNATOからの脱退になると警鐘を鳴らしていた。例えば、ロバート・ヘーガーはUS News and World Report誌に、「緑の党は急進的な社会主義者と組み、ドイツを中立主義に導く破壊的な少数派を形成する可能性がある」と警告している。このような大げさな懸念は杞憂に終わった。結局のところ、緑の党の獲得議席数は5%にとどまった。NATOの核ミサイルをドイツ国内に配備することを承認する議決を議会で阻止することも、ましてやドイツを同盟から完全に排除することもできる数ではなかった。

反軍国主義の文化は1990年代に変容し、軍事力が人道的利益のために展開されるようになった。

しかし、かつてドイツの草の根平和運動の議会的表現と理解されていた政党は、1990年代の戦争の中で、NATOを力強く支持する方向に向かう新たな立場を採択した。1998年、社会民主党のゲアハルト・シュレーダー首相の連立政権に緑の党が加わって外相となったヨシュカ・フィッシャーは、この変化の先頭に立ち、ドイツ人が第二次世界大戦から引き出した教訓も変化していることを示唆する発言を繰り返している。ボスニア・セルビア軍によって8000人以上のボスニア・イスラム教徒が殺害された1995年のスレブレニツァ事件直後のインタビューで、フィッシャーは、いつまでたってもぐずぐずしてボスニア・イスラム教徒の武装自衛に貢献しようとしない姿勢を「裸と血のシニスム」と表現した。彼は介入主義を糾弾したり、武力抵抗は紛争の火種になるだけだと主張するのではなく、ボスニアのイスラム教徒の「自衛権」を代弁したのである。

戦争を否定しながら、このように主張をするために、フィッシャーは相反する二つの原則を打ち出した。「二度と戦争はしない!」(Nie wieder Krieg!)と「二度とアウシュビッツを繰り返さない」(Nie wieder Auschwitz!)である。)である。 スレブレニツァの虐殺のような大量殺戮を防ぐために使われる可能性がある限り、フィッシャーにとって、戦争は許容できる――必要でさえある――ものであった。アウシュビッツへの明確な言及は、フィッシャーの主張がドイツの過去への熟考に基づくものであることを明らかにした。同時に、彼の考えは、脅威を受け搾取されている少数民族の武装自衛権、さらには武装蜂起を長い間受け入れてきた自民党の一部と一致するものだった。例えば、西ベルリンの緑の活動家で後に国会議員となったハンス・クリスチャン・シュトレーベレは、サルバドール内戦のさなか、明らかに軍国主義的なスローガンである「エルサルバドルに武器を」を掲げて資金調達キャンペーンの先頭に立った。

しかし、フィッシャーは、ボスニアに小型武器を送るような草の根の募金キャンペーンを考えてはいなかった。その代わりに彼が考えていたのは、ドイツ連邦共和国を含む国家の軍隊が、劣勢に立たされた少数民族のために海外に派遣されるべきかどうかということであった。大量虐殺には武力で対抗しなければならないと主張した同じインタビューの中で、フィッシャーは、ボスニアのイスラム教徒を保護するというプロジェクトにおけるドイツの役割を後悔し、「再びドイツが(戦争で)果す役割はない」(Nie wieder eine Rolle Deutschlands)と宣言している。他のヨーロッパ諸国が凶悪な戦争犯罪を防ぐためにボスニアに介入するのは良いことだが、フィッシャーの葛藤からすれば、自国固有の歴史的犯罪のため、大量虐殺を武力で止める努力にドイツが関与することは許されないのだ。

4年後、この問題が頂点に達した。緑の党が連立政権に入り、外相となったフィッシャーは、NATOのコソボ介入へのドイツの関与について党内の支持を取り付ける必要に迫られたのである。1999年5月13日、ドイツ空軍を含むNATO軍がボスニア・セルビア・インフラへの空爆でコソボ戦争に介入してから50日後、緑の党はビーレフェルト市で特別党大会を開き、NATOの行動とドイツの参加について過去に遡って議論した。

マスコミは、コソボへの武力行使に代表が同意するかどうかで、党が分裂するのではと推測していた。NATOの空爆中止を求めるデモ隊の群集から緑の党代表を守るために、1500人もの警察が出動したのだ。緑の党は崩壊するどころか、444対318という僅差でNATOの介入を遡及的に承認する票が投じられた。ビーレフェルト党大会の忘れがたいイメージは、デモ参加者が会場に押し入り、フィッシャーにペンキ爆弾で襲いかかり、彼の鼓膜を破ったことである。劣勢で脅威にさらされている集団の武力防衛に自国の軍隊が貢献することを激しく拒否するドイツ人は、依然として相当数いたのである。同時に、多くのドイツ人にとって、軍事介入の論理は変化しつつあった。旧ユーゴスラビアでは、この5年間で2度目となる西側の介入によって武力紛争の火蓋が切って落とされたのである。

1990年代の教訓は、ドイツだけでなく西側諸国でも急速に取り込まれた。戦争犯罪や大量虐殺を阻止するためには軍事力が最も有効であるという考え方が支持され、2005年に国連加盟国が全会一致で「保護する責任Responsibility to Protect」(R2P)という枠組みを承認したことで、国際社会は、国家が自国の住民を大量虐殺から守ることができない場合には集団行動が必要であるという考えを採択した。つまり、戦争犯罪やジェノサイドに対して、軍事介入を含む行動を起こすことが、新しい国際秩序の規範となったのである。


このレガシーは、現在に至るまで影響している。緑の党の有力政治家たちは、ショルツ内閣の閣僚として、ウクライナにドイツの武器を送ることを最も強く主張してきた。マスコミはこうした呼びかけを、かつて平和主義だった緑の党が突然の変化を遂げたかのように報じているが、実はこの変化は1990年代から進行していたのである。例えば、2022年4月の『シュピーゲル』誌のカバーストーリーでは、緑の党が「親平和の理想主義者から戦車ファンへ」と変化したことを理由に、緑の党のリーダーたちを「オリーブの緑」と呼んだ。この表現は、2001年11月に同じ雑誌に掲載された、米国のアフガニスタン侵攻への支持を強化するために精力的に活動した、「オリーブグリーン」アンゲリカ・ベア(緑の議会代表団の防衛担当報道官)を取り上げた記事の見出しと直接対応している。2001年、シュピーゲル誌はすでに、緑の党を「かつては平和主義者だった」と評していた。

2005年までには、戦争犯罪から防衛するための軍事化が、新しい国際秩序の規範となった。

ビールの活動の成果もあって、アメリカの侵攻を支持する投票を辞退した緑の議員はわずか4人で、緑の代表団の大多数がこの決定を支持し、ドイツ軍はアフガニスタンに派兵されたのである。フィッシャーは、再び軍事介入支持を主張し、投票後、「共和国を決定的に刷新した」と論じた。しかし、フィッシャーの政治キャリアを「ベルリン共和国の形成」と結びつける伝記を書いたパウル・ホッケノスにとっては、統一後のドイツの外交政策を規定したのは、転換といえるほどの刷新ではなかった。シュレーダー=フィッシャー政権の下で、ドイツは「自信に満ちた、時には独立心のある行動主体であることを示した」とホッケノスは主張する。「経済の巨人、政治の小人」と評された冷戦時代の西ドイツとは大違いである。こうして、統一ドイツは戦争を遂行することで平和をつくる道をとることになる。かつて平和主義者であった多くの人々が、あらゆる戦争反対から武装による自衛の支持に転じたのは、ドイツの敗戦と喪失よりもホロコーストの犯罪を重視する第二次世界大戦観の変化、「二度と戦争をしない!」という原則よりも「二度とアウシュビッツを繰り返さない!」という原則に一貫して重きを置いてきたためであった。

その結果、かつては外国の紛争に介入すること自体に反発があった国が、今では脅威を受けた集団の武装自衛を支援する姿勢を示すことに四苦八苦している。それが顕著になったのは、ロシアのウクライナ侵攻以降である。ショルツは防衛費の大幅な増額を主張しながらも、当初はウクライナへの武器供与をためらい、保守系野党だけでなく連立政権のパートナーからも繰り返し激しく非難された。ショルツ政権の外相である緑の政治家アナレナ・バーボックは、ウクライナへの「重火器を含むさらなる軍事物資」の送付を支持する太鼓を叩き続けている。(アメリカのジャーナリスト、スティーブン・キンザーによれば、ベールボックのタカ派的な発言は、「ドイツの前の世代を形成した恥や反軍国主義を埋め込まずに育った」若い世代の政治家の立場を象徴しているのだという。ベールボックのような政治家は、武力介入がボスニア戦争やコソボ戦争の終結に一役買った1990年代の経験により大きな影響を受けていると思われる)。ベールボックらの圧力に押され、ショルツは徐々に後退し、ウクライナへの武器輸送をどんどん許可していった。

7月までに連邦政府は戦車の納入を開始した。連邦軍にはほとんど装備がなかったため、政府はドイツの兵器メーカーからウクライナに17億ユーロで自走砲100基を売却し、今後数年間に渡って納入するよう取り計らった。ロシアの侵攻から1年近くが経過し、和平交渉に応じる兆しが見えない中、和平のための武器使用を否定する声は、ドイツの議論から消えている。国会では、2021年秋の選挙でNATOからの離脱を主張し、批判が殺到して支持率が半減した左翼党だけが、ロシア侵攻に対して武力闘争よりも平和を優先する立場を取り続けた。左翼党は引き続きドイツの軍備増強に反対し、「危機的地域や紛争地域に武器を送り込む」ことで「大火災を引き起こすリスク」を警告したが、党内は悲惨な危機に陥り、連邦議会の議論ではますます蚊帳の外的な存在に見えるようになってしまった。

議会外の「武器なしでの平和」の提唱者たちにとっても、状況はほぼ同じであった。著名なフェミニストのアリス・シュヴァルツァーは4月、28人の知識人や芸術家が署名したショルツへの公開書簡を、自身の雑誌『エマ』のウェブサイトに掲載し、ウクライナへのドイツの武器援助の中止を訴えた。「追い詰められたなかで行われているエスカレートした軍備増強は、世界的な軍拡スパイラルの始まりとなり、少なくとも世界の健康や気候変動に破滅的な結果をもたらすかもしれない」と、書簡は訴えた。「そして、「あらゆる相違にもかかわらず、世界平和のために努力することが必要である」と結んでいる。

プーチンの侵略をきっかけに、武力闘争の政策提言活動は、急速に新しい常識になりつつある。

10月に米国議会進歩的議員連盟 the Congressional Progressive Caucusが同様の書簡を発表し、米国内で論争が起きたことからも予想されように、エマ書簡の署名者は、緑の党をはじめドイツの政界全体から憤りの言葉を浴びせられた。緑の党の国会議長の一人であるブリッタ・ハッセルマンは、「プーチンが国際法に違反してヨーロッパの自由な国を侵略し、都市全体を破壊し、市民を殺害し、女性に対する武器としてレイプを組織的に展開しているのに」、平和を目指すという考え方自体がナイーブだと示唆した。一方、ラルフ・フックスとマリエルイーズ・ベックという二人のベテラン緑の党は、ショルツへの二番目の公開書簡を組織し、57人の署名を得てスタートすることで対抗した。シュヴァルツァーが「軍拡のエスカレート」に帰結すると注意したのとは正反対に、フックスとベックは「ウクライナに有利な軍事バランスへとシフトするために、武器と弾薬を継続的に供給する」ことを支持する。プーチンが「勝者として戦場を去る」のを阻止することによってのみ、「ヨーロッパの平和秩序」は保たれる、と彼らは主張した。つまり、平和は武器がなければ作れない、銃口で作るものだ、というのだ。

こうした態度は、ドイツの平和主義者の間で、侵略戦争、とりわけ大量虐殺の防止が武力闘争の回避に取って代わりはじめた1990年代の議論と明らかに連続性がある。シュヴァルツァーの手紙に署名したベテランの 緑の党員であるアンティエ・フォルマーにとって、この変化は、今日の緑の党員たちが「ヨシュカの子ども」であることの証拠である。フィッシャーは、”二度と戦争をしないNever again war!” と “二度とアウシュビッツは起さないNever again Auschwitz!” の対比で、戦争に対するドイツ人の態度の変化を見事に表現した。1945年の敗戦と戦後のドイツが置かれた荒涼とした状況が、かつて戦争を全力で拒否するきっかけになったとすれば、ホロコーストに対するドイツ人の責任を果たそうという意欲が高まったことは、別の教訓を引き起こすことになった。ウクライナ戦争をめぐる議論においてドイツの若い政治家が相対的に好戦的であるのは、戦争体験の欠如というよりも、むしろ戦争体験のおかげである。それどころか、ユーゴスラビアやルワンダなどで恐ろしい戦争犯罪が行われるのを見続けた経験が、ロシアの猛攻から自らを守ろうとするウクライナの人々に対する若い政治家の率直な支持を促す義憤を後押ししている。1990年代に10代だったベールボックは、4月にバルカン半島に足を運んだ。スレベルニツァの虐殺を記録した写真展を訪れた彼女は、この恐ろしい事件が「社会的にも政治的にも、ドイツにおける彼女の世代を形成した」とコメントした。

1990年代の教訓を生かすことは、今回の侵略者が膨大な核兵器を保有する主要な軍事大国であることを考えれば、より容易である。かつてフィッシャーは、「アウシュビッツを再び繰り返すな!」というスローガンを、彼にとっては戦争否定の残念な例外としてとらえたが、武力闘争の政策提言活動は、急速に新しい常識となりつつある。


ある者は、ドイツの平和主義の衰退をポジティブな展開と見るだろう。つまり、ドイツの平和主義の衰退は、国際舞台におけるドイツの責任を認め、ドイツ国内に保有するNATOとワルシャワ条約の膨大な兵器庫に支えられた冷戦時代の平和文化の偽善を認めたものだと考える。私たちは、ドイツにおける一般大衆の平和文化の終焉と、断固とした平和主義者の声を軽視することを、そう簡単に喜ぶべきではない。

武力勝利のために行進するのではなく、平和のために活動することについて議論することさえ論外になってしまうなら、あらゆる恐ろしい結果を伴う軍事力による威嚇が常態化することになる。

ひとつには、こうなることで、暴力の拡大が懸念される中で、新たな宿命論を制度化するリスクをはらむことになる。ウクライナにドイツが直接軍事介入することは、今のところ考えられていないのは事実である。ドイツ連邦軍の惨状を見れば、直接介入することで戦場に大きな変化がもたらされるとは到底思えない。しかし、武器がなくても平和は実現できるという考え方にドイツが消極的であることによって、せっかくの資源と権力を平和活動のために活用することが妨げられているのは間違いない。外交官トップのベールボックは「ウクライナに必要なだけ武器を供給する」と繰り返し公言し、同じ緑の党の政治家も停戦交渉は「ウクライナの立場を弱める」と主張するなど、誰も非軍事的解決の方法を考えていないようだ。

むしろ、「ウクライナは勝たなければならない」という感情がドイツや西欧諸国全体に広がっているのは、戦争に勝つことができるという信念と、平和ではなく勝利をドイツの政策の目標にすべきだという信念の表れなのである。プーチンの侵略戦争に対峙する外交にどのような限界があるにせよ、このような態度には、この姿勢には、強い諦めの気持ちと、銃声が止んだときに何が起こるのかを無視する姿勢が顕著に表れている。アドム・ゲタチュウがR2Pの失敗について書いているように。

「  人道的介入の批判者は、残虐行為に対して「何かする」ことを拒否していると常に悪口を言われるが、往々にしてその「何か」は軍事介入と同一視される。その代わりに、NATOのリビア空爆を引き起こしたような人道危機や内戦への対応は、地域のパートナーの役割を重視し、紛争のデスケーリングを目指し、政治的移行にすべての利害関係者を含める多国間・外交プロセスを優先させるべきだろう。… 究極的には、人道的危機の特定のケースに対するわれわれの対応は、より広範な非軍事化キャンペーンの中に組み込まれなければならない。集団的軍縮のための多国間の努力は、世界中の暴力的紛争に対するより広範な対応の一部でなければならない。」

もし、武力勝利のために行進するのではなく、平和のために活動することを話すことさえ、公的な議論の埒外であれば、あらゆる醜い結果を伴う妨害行為が常態化し、平和への努力は例外的なものとなってしまう。不都合なことに、このようなタカ派的な態度は、戦争犯罪や大量虐殺から身を守るための正当な責任なのだと訴えることで容易に正当化されてしまう。実際、ここには、優れた兵器、そして必要な場合には西側の軍事介入が、国際紛争を解決するための最も確実で正しい手段であるという考え方が根底にある。この考えは、「我々の兵器の提供が命を救う」というベーボックの最近の発言に要約される。このように西側の軍事力をもってはやすことは、戦争がもたらす悲惨な人的コストを帳消しにしてしまい、アウシュビッツの再び起こさない、という枠をはるかに超えて、軍事化の暴走を助長するおそれがある。

ポスト・ファシスト、そしてポスト・平和主義の国の観点からすれば、長い間発展してきたこの変化の頂点にあるのが、軍事化と戦争のために人道的懸念を運用することであり、これが歴史の分水嶺になるということである。

スティーブン・ミルダー

Stephen Milder フローニンゲン大学助教授(欧州政治・社会)、ミュンヘンのレイチェル・カーソン・センター研究員(Research Fellow)。著書に『Greening Democracy: Greening Democracy: The Antinuclear Movement in West Germany and Beyond, 1968-1983』の著者。

Twitterをめぐる政府と資本による情報操作――FAIRの記事を手掛かりに

本稿は、FAIRに掲載された「マスクの下で、Twitterは米国のプロパガンダ・ネットワークを推進し続ける」を中心に、SNSにおける国家による情報操作の問題について述べたものです。Interceptの記事「Twitterが国防総省の秘密オンラインプロパガンダキャンペーンを支援していたことが判明」も参照してください。(小倉利丸)

Table of Contents

1. FAIRとInterceptの記事で明らかになったTwitterと米国政府の「癒着」

SNSは個人が自由に情報発信可能なツールとしてとくに私たちのコミュニケーションの権利にとっては重要な位置を占めている。これまでSNSが問題になるときは、プラットフォーム企業がヘイトスピーチを見逃して差別や憎悪を助長しているという批判や、逆に、表現の自由の許容範囲内であるのに不当なアカウント停止措置への批判であったり、あるいはFacebookがケンブリッジ・アナリティカにユーザーのデータを提供して選挙に介入したり、サードパーティクッキーによるデータの搾取ともいえるビジネスモデルで収益を上げたり、といったことだった。これだけでも重大な問題ではあるが、今回訳出したFAIRの記事は、これらと関連しながらも、より密接に政府の安全保障と連携したプラットフォーム企業の技術的な仕様の問題を分析している点で、私にとっては重要な記事だと考えた。

戦争や危機の時代に情報操作は当たり前の状況になることは誰もが理解はしていても、実際にどのような情報操作が行なわれているのかを、実感をもって経験することは、ますます簡単ではなくなっている。

別に訳出して掲載したFAIRの記事 は、昨年暮にInterceptが報じたtwitterの内部文書に基くtwitterと米国政府との癒着の報道[日本語訳]を踏まえ、更にそれをより広範に調査したものになっている。この記事では、Twitterによる投稿の操作は、「米国の政策に反対する国家に関連するメディアの権威を失墜させること」であり、「もしある国家が米国の敵であると見なされるなら、そうした国家と連携するメディアは本質的に疑わしい」とみなしてユーザーの判断を誘導する仕組みを具体的に示している。twitterは、企業の方針として、米国のプロパガンダ活動を周到に隠蔽したり、米国の心理戦に従事しているアカウントを保護するなどを意図的にやってきたのだが、世界中のtwitterのユーザーは、このことに気づかないカ十分な関心を抱かないまま、公平なプラットフォームであると「信じて」投稿し、メッセージを受け取ってきた。しかし、こうしたSNSの情報の流れへの人為的な操作の結果として、ユーザーひとりひとりのTwitterでの経験や実感は、実際には、巧妙に歪められてしまっている。

ウクライナへのロシアによる侵略以後、ロシアによる「偽旗作戦」への注目が集まった。そして、日本でも、自民党は、「偽旗作戦」を含む偽情報の拡散による情報戦などを「新たな『戦い方』」と呼び、これへの対抗措置が必要だとしている。[注]いわゆるハイブリッド戦では「ンターネットやメディアを通じた偽情報の流布などによる世論や投票行動への影響工作を複合的に用いた手法」が用いられることから、非軍事領域を包含して「諸外国の経験・知見も取り入れながら、民間機関とも連携し、若年層も含めた国内外の人々にSNS等によって直接訴求できるように戦略的な対外発信機能を強化」が必要だとした。この提言は、いわゆる防衛3文書においてもほぼ踏襲されている。上の自民党提言や安保3文書がハイブリッド戦争に言及するとき、そこには「敵」に対する組織的な対抗的な偽情報の展開が含意されているとみるべきで、日本も遅れ馳せながら偽旗作戦に参戦しようというのだ。日本の戦争の歴史を振り返れば、まさに日本は偽旗作戦を通じて世論を戦争に誘導し、人々は、この偽情報を見抜くことができなかった経験がある。この意味でtwitterと米国政府機関との関係は、日本政府とプラットーム企業との関係を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。

[注]新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言(2022/4/26)

2. インターネット・SNSが支配的な言論空間における情報操作の特殊性

伝統的なマスメディア環境では、政府の世論操作は、少数のマスメディアへの工作によって大量の情報散布を一方的に実現することができた。政府だけでなく、企業もまた宣伝・広告の手段としてマスメディアを利用するのは、マスメディアの世論操作効果を期待するからだ。

しかしインターネットでは、ユーザーの一人一人が、政府や企業とほぼ互角の情報発信力をもつから、国家も資本も、この大量の発信をコントロールするというマスメディア時代にはなかった課題に直面した。ひとりひとりの発信者の口を封じたり、政府の意向に沿うような発言を強制させることはできないから、これはある種の難問とみなされたが、ここにインターネットが国家と資本から自立しうる可能性をみる――私もそうだった――こともできたのだ。

現実には、インターネットは、少数のプラットフォーム企業がこの膨大な情報の流れを事実上管理できる位置を獲得したことによって、事態は庶民の期待を裏切る方向へと突き進んでしまった。こうした民間資本が、アカウントの停止や投稿への検閲の力を獲得することによって、検閲や表現の自由の主戦場は政府とプラットーム企業の協調によって形成される権力構造を生み出した。政府の意図はマスメディアの時代も現代も、権力の意志への大衆の従属にある。そのためには、情報の流通を媒介する資本は寡占化されているか国家が管理できることが必要になる。現代のプラットフォーム企業はGAFAMで代表できるように少数である。これらの企業は、自身が扱う情報の流れを調整することによって、権力の意志をトップダウンではなくボトムアップで具現化させることができる。つまり、不都合な情報の流れを抑制し、国家にとって必要な情報を相対的に優位な位置に置き、更に積極的な情報発信によって、この人工的な情報の水路を拡張する。人びとは、この人工的な情報環境を自然なコミュニケーションだと誤認することによって、世論の自然な流れが現行権力を支持するものになっていると誤認してしまう。更にここにAIのアルゴリズムが関与することによって、事態は、単なる一人一人のユーザーの生の投稿の総和が情報の流れを構成する、といった単純な足し算やかけ算の話ではなくなる。twitterのAIアルゴリムズには社会的なバイアスがあることがすでに指摘されてきた。(「TwitterのAIバイアス発見コンテスト、アルゴリズムの偏りが明らかに」CNETJapan Sharing learnings about our image cropping algorithm )AIのアルゴリズムに影響された情報の流れに加えてSNSにはボットのような自動化された投稿もあり、こうした機械と人間による発信が不可分に融合して全体の情報の流れが構成される。ここがハイブリッド戦争の主戦場にもなることを忘れてはならない。

[注]検閲や表現領域のようなマルクスが「上部構造」とみなした領域が土台をなす資本の領域になっており、経済的土台と上部構造という二階建の構造は徐々に融合しはじめている。

3. ラベリングによる操作

FAIRの記事で問題にされているのは、政府の情報発信へのtwitterのポリシーが米国政府の軍事・外交政策を支える世論形成に寄与する方向で人びとのコミュニケーション空間を誘導している、という点にある。その方法は、大きく二つある。ひとつは、各国政府や政府と連携するアカウントに対する差別化と、コンテンツの選別機能でもある「トピック」の利用である。このラベルは2020年ころに導入された。日本語のサイトでは以下のように説明されている。

「Twitterにおける政府および国家当局関係メディアアカウントラベルについて

国家当局関係メディアアカウントについているラベルからは、特定の政府の公式代表者、国家当局関係報道機関、それらの機関と密接な関係のある個人によって管理されているアカウントについての背景情報がわかります。

このラベルは、関連するTwitterアカウントのプロフィールページと、それらのアカウントが投稿、共有したツイートに表示されます。ラベルには、アカウントとつながりのある国についてと、そのアカウントが政府代表者と国家当局関係報道機関のどちらによって運用されているかについての情報が含まれています。 」https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/state-affiliated

ラベリングが開始された2020年当時は、国連安全保障理事会の常任理事国を構成する5ヶ国(中国、フランス、ロシア、英国、米国)に関連するTwitterアカウントのなかから、地政学と外交に深くかかわっている政府アカウント、国家当局が管理する報道機関、国家当局が管理する報道機関と関連する個人(編集者や著名なジャーナリストなど) にラベルを貼ると表明していた。その後2022年になると中国、フランス、ロシア、英国、米国、カナダ、ドイツ、イタリア、日本、キューバ、エクアドル、エジプト、ホンジュラス、インドネシア、イラン、サウジアラビア、セルビア、スペイン、タイ、トルコ、アラブ首長国連邦が対象になり、2022年4月ころにはベラルーシとウクライナが追加される。こうした経緯をみると、当初と現在ではラベルに与えられた役割に変化があるのではないかと思われる。当初は国連安保理常任理事国の背景情報を提供することに主眼が置かれ、これが米国の国益にもかなうものとみなされていたのかもしれない。twitterをグローバルで中立的なプラットフォーマであることを念頭にその後のラベル対象国拡大の選択をみると、これが何を根拠に国を選択しいるのかがわかりづらいが、米国の地政学を前提にしてみると、米国との国際関係でセンシティブと推測できる国が意図的に選択されているともいえそうだ。他方でイスラエルやインドがラベルの対象から抜けているから、意図的にラベルから外すことにも一定の政治的な方針がありそうだ。(後述)そして、ロシアの侵略によって、このラベルが果す世論操作機能がよりはっきりしてくる。

ロシアへのラベリングは、ウクライナへの侵略の後に、一時期話題になった。(itmedia「Twitter、ロシア関連メディアへのリンクを含むツイートに注意喚起のラベル付け開始」)

上のラベルに関してtwitterは「武力紛争を背景に、特定の政府がインターネット上の情報へのアクセスを遮断する状況など、実害が及ぶ高いリスクが存在する限られた状況において、こうしたラベルが付いた特定の政府アカウントやそのツイートをTwitterが推奨したり拡散したりすることもありません。」と述べているのだが、他方で、「ウクライナ情勢に対するTwitterの取り組み」 では、これとは反するようなことを以下のように述べている。

「ツイートにより即座に危害が生じるリスクは低いが、文脈を明確にしなければ誤解が生じる恐れがある場合、当該ツイートをタイムラインに積極的に拡散せず、ツイートへのリーチを減らすことに注力します。コンテンツの拡散を防いで露出を減らし、ラベルを付与して重要な文脈を付け加えます。」

FAIRの報道には、実際の変化について言及があるので、さらに詳しい内容についてはFAIRの記事にゆずりたい。

4. トピック機能と恣意的な免責

ラベリングとともにFAIRが問題視したのがトピック機能だ。この機能についてもこれまでさほど深刻には把えられていなかったかもしれない。

FAIRは次のように書いている。

「Twitterのポリシーは、事実上、アメリカのプロパガンダ機関に隠れ蓑と手段を提供することになっている。しかし、このポリシーの効果は、全体から見ればまだまだだ。Twitterは様々なメカニズムを通じて、実際に米国が資金を提供するニュース編集室を後押しし、信頼できる情報源として宣伝しているのだ。

そのような仕組みのひとつが、「トピック」機能である。「信頼できる情報を盛り上げる」努力の一環として、Twitterはウクライナ戦争について独自のキュレーションフィードをフォローすることを推奨している。2022年9月現在、Twitterによると、このウクライナ戦争のフィードは、386億以上の “インプレッション “を獲得している。フィードをスクロールすると、このプラットフォームが米国の国家と連携したメディアを後押ししている例が多く、戦争行為に批判的な報道はほとんど、あるいは全く見られない。米国政府とのつながりが深いにもかかわらず、Kyiv IndependentとKyiv Postは、戦争に関する好ましい情報源として頻繁に提供されている。」

ここで「独自のキュレーションフィード」と記述されているが、日本語のTwitterのトピックでは、「キュレイーション」という文言はなく、主要な「ウクライナ情勢」の話題を集めたかのような印象が強い。Twitterは、ブログ記事「トピック:ツイートの裏側」 で「あるトピックを批判をしたり、風刺をしたり、意見が一致しなかったりするツイートは、健全な会話の自然な一部であり、採用される資格があります」とは書いているが、実際には批判と炎上、風刺と誹謗の判別など、困難な判断が多いのではないか。日本語での「ウクライナ情勢」のトピック では、日本国内の大手メディア、海外メディアで日本語でのツイート(BBC、CNN、AFP、ロイターなど)が大半のような印象がある。つまり、SNSがボトムアップによる多様な情報発信のプラットフォームでありながら、Twitter独自の健全性やフォローなどの要件を加味すると、この国では結果として伝統的なマスメディアがSNSの世界を占領するという後戻りが顕著になるといえそうそうだ。反戦運動や平和運動の投稿は目立たなくなる。情報操作の目的が権力を支える世論形成であるという点からみれば、SNSとプラットフォームが見事にこの役目を果しているということにもなり、言論が社会を変える力を獲得することに資本のプラットフォームはむしろ障害になっている。

しかも「トピック」は単純なものではなさそうだ。twitterによれば「トピック」機能は、会話におけるツイート数と健全性を基準に、一過性ではないものをトピックを選定するというが、次のようにも述べられている。

「機械学習を利用して、会話の中から関連するツイートを見つけています。ある話題が頻繁にツイートされたり、その話題について言及したツイートを巡って多くの会話が交わされたりすると、その話題がトピックに選ばれる場合があります。そこからさらにアルゴリズムやキーワード、その他のシグナルを利用して、ユーザーが強い興味関心を示すツイートを見つけます」

Twitterでは、「トピックに含まれる会話の健全性を保ち、また会話から攻撃的な行為を排除するため、数多くの保護対策を実施してい」るという。何が健全で何が攻撃的なのかの判断は容易ではない。しかし「これには、操作されていたり、スパム行為を伴ったりするエンゲージメントの場合、該当するツイートをトピックとして推奨しない取り組みなどが含まれます」 と述べられている部分はFAIRの記事を踏まえれば、文字通りのこととして受けとれるかどうか疑問だ。

トピックの選別をTwitterという一企業のキュレション担当者やAIに委ねることが、果して言論・表現の自由や人権にとってベストな選択なのだろうか。イーロン・マスクの独裁は、米国や西側先進国の民主主義では企業の意思決定に民主主義は何にひとつ有効な力を発揮できないという当たり前の大前提に、はじめて多くの人々が気づいた。Twitterにせよ他のSNSにせよ、伝統的なメディアの編集部のような「報道の自由」を確保するための組織的な仕組みがあるのあどうか、あるいはそもそもキュレイーションの担当者やAIに私たちの権利への関心があるのかどうかすら私たちはわかっていない。

もうひとつは、上で述べたラベリングと表裏一体の問題だが、本来であれば政府系のメディアとしてラベルを貼られるべきメディアが、あたかも政府からの影響を受けていない(つまり公正で中立とみなされかねない)メディアとして扱われている、という問題だ。FAIRは米軍、国家安全保障局、中央情報局のアカウント、イスラエル国防軍、国防省、首相のアカウントがラベリングされていないことを指摘している。

またFAIRが特に注目したのは、補助金など資金援助を通じて、特定のメッセージや情報の流れを強化することによる影響力強化だ。FAIRの記事で紹介されているメディアの大半は、米国の政府や関連する財団――たとえば全米民主主義基金(National Endowment for Democracy、USAID、米国グローバルメディア局――などからの資金援助なしには、そもそも情報発信の媒体としても維持しえないか、維持しえてもその規模は明かに小規模に留まらざるをえないことは明らかなケースだ。

5. 自分の直感や感性への懐疑は何をもたらすか

FAIRやInterceptの記事を読まない限り、twitterに流れる投稿が米国の国家安全保障の利害に影響されていることに気づくことは難しいし、たとえ投稿のフィードを読んだからといって、この流れを実感として把握することは難しい。フェイクニュースのように個々の記事やサイトのコンテンツの信憑性をファクトチェックで判断する場合と違って、ここで問題になっているのは、ひとつひとつの投稿には嘘はないが、グローバルな世論が、プラットフォーム企業が総体として流す膨大な投稿の水路や流量の調整によって形成される点にある。私たちは膨大な情報の大河のなかを泳ぎながら、自分をとりまく情報が自然なものなのか人工的なものなのか、いったいどこから来ているのか、情報全体の流れについての方向感覚をもてず、実感に頼って判断するしかない、という危うい状態に放り出される。このような状況のなかで、偏りを自覚的に発見して、これを回避することは非常に難しい。

こうしたTwitterの情報操作を前提としたとき、私たちは、ロシアやウクライナの国や人びとに対して抱く印象や戦争の印象に確信をもっていいのかどうか、という疑問を常にもつことは欠かせない。報道の体裁をとりながらも、理性的あるいは客観的な判断ではなく、好きか嫌いか、憎悪と同情の感情に訴えようとするのが戦争状態におけるメディアの大衆心理作用だ。ロシアへの過剰な憎悪とウクライナへの無条件の支持の心情を構成する客観的な出来事には、地球は平面だというような完璧な嘘があるわけではない。問題になるのは、出来事への評価や判断は、常に、出来事そのものと判断主体の価値観や世界観あるいは知識との関係のなかでしか生まれないということだ。私は、ロシアのウクライナへの侵略を全く肯定できないが、だからといって私の関心は、ウクライナであれロシアであれ、国家やステレオタイプなナショナリズムのアイデンティティや領土への執着よりも、この理不尽な戦争から背を向けようとする多様な人々が武器をとらない(殺さない)という選択のなかで生き延びようとする試みのなかにあるラディカリズムにあるのだが、このような国家にも「国民」にも収斂しないカテゴリーはプラットフォーム企業の関心からは排除され、支配的な戦争のイデオロギーを再生産する装置としてしか私には見えない。

国家に対する評価とその国の人びとへの評価とを区別するのに必要なそれなりの努力をないがしろにさせるのは、既存のマスメディアが得意とした世論操作だが、これがSNSに受け継がれると、SNSの多様な発信は総じて平板な国家の意志に収斂して把えられる傾向を生み出す。どの国にもある人びとの多様な価値観やライフスタイルやアイデンティティが国家が表象するものに単純化されて理解されてしまう。敵とされた国の人びとを殺すことができなければ戦争に勝利できないという憎悪を地下水脈のように形成しようとするのがハイブリッド戦争の特徴だが、これが日本の現在の国際関係をめぐる感情に転移する効果を発揮している。こうしたことが、一人一人の発信力が飛躍的に大きくなったはずのインターネットの環境を支配している。その原因は、寡占化したプラットフォーム企業が資本主義の上部構造を構成するイデイロギー資本として、政治的権力と融合しているからだ、とみなす必要がある。

6. それでもTwitterを選択すべきか

政府関連のツィートへのラベリングは、開始された当初に若干のニュースになったものの、その背景にTwitterと米国の安全保障政策との想定を越えた密接な連携があるということにまではほとんど議論が及んでいなかったのでは、と思う。さらにFAIRがイーロン・マスクのスペースXを軍事請け負い企業という観点から、その活動を指摘していることも見逃せない重要な観点だと思う。

情報操作のあり方は、独裁国家や権威主義国家の方がいわゆる民主主義や表現の自由を標榜する国よりも、素人でもわかりやすい見えすいた伝統的なプロパガンダや露骨な言論弾圧として表出する。ところが民主主義を標榜する国では、その情報操作手法はずっと洗練されており、より摩擦の少ない手法が用いられ、私たちがその重大性に気づくことが難しい。私たち自身による自主規制、政府が直接介入しない民間による「ガイドライン」、あるいは市場経済の価格メカニズムを用いた採算のとれない言論・表現の排除、さらには資源の希少性を口実にアクセスに過剰なハードルを課す(電波の利用)、文化の保護を名目としつつナショナリズムを喚起する公的資金の助成など、自由と金を巧妙に駆使した情報操作は、かつてのファシズムやマスメディアの時代と比較しても飛躍的に高度化した。そして今、情報操作の主戦場はマスメディアからプラットフォーム企業のサービスと技術が軍事技術の様相をとるような段階に移ってきた。

コミュニケーションの基本的な関係は、人と人との会話であり、他者の認識とは私の五感を通じた他者理解である、といった素朴なコミュニケーションは現在はほとんど存在しない。わたしは、あなたについて感じている印象や評価と私がSNSを通じて受けとるあなたについての様々な「情報」に組み込まれたコンピュータによって機械的に処理されたデータ化されたあなたを的確に判別することなどできない。しかし、コミュニケーションを可能な限り、資本や政府による恣意的な操作の環境から切り離すことを意識的に実践することは、私たちが世界に対して持つべき権利を偏向させたり歪曲させないために必要なことだ。そのためには、コンピュータ・コミュニケーションを極力排除するというライフスタイルが一方の極にあるとすると、もう一方の極には、資本の経済的土台と国家のイデオロギー的上部構造が融合している現代の支配構造から私たちのコミュニケーションを自立させうるようにコンピュータ・コミュニケーションを再構築するという戦略がありうる。この二つの極によって描かれる楕円の世界を既存の世界からいかにして切り離しつつ既存の世界を無力化しうるか、この課題は、たぶん武力による解放では実現できない課題だろう。

Author: toshi

Created: 2023-01-09 月 18:29

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マイケル・クェット:デジタル・エコ社会主義――ビッグテックの力を断ち切る

イラスト:Zoran Svilar

マイケル・クェット
           
2022年5月31日

このエッセイは、ROAR誌とのコラボレーションで企画されたTNIのDigital Futuresシリーズ「テクノロジー、パワー、解放」の一部である。マイケル・クェットのエッセイの後半になる。前半はこちら

グローバルな不平等を根付かせるビッグ・テックの役割を、もはや無視することはできない。デジタル資本主義の力を抑制するために、私たちはエコソーシャリズムによるデジタル技術のルールを必要としている。

ここ数年、ビッグテックをいかに抑制するかという議論が主流となり、政治的な傾向の違いを超えて議論がなされるようになった。しかし、これまでのところ、こうした規制は、デジタル権力の資本主義、帝国主義、環境の諸次元に対処することにほとんど失敗し、これらが一体となってグローバルな不平等を深化させ、地球を崩壊に近づけている。私たちは、早急に、エコ社会主義のデジタル・エコシステムを構築することが必要であるが、しかし、それはどのようなもので、どのようにすれば目的に到達できるのだろうか。

このエッセイは、21世紀において社会主義経済への移行を可能にする反帝国主義、階級廃絶、修復[lreparation]、脱成長の原則を中心としたデジタル社会主義のアジェンダ――デジタル技術の取り決めDigital Tech Deal(DTD)の中核となるいくつかの要素に焦点を当てることを目的としている。DTDは、変革のための提案やスケールアップ可能な既存のモデルを活用し、資本主義のオルタナティブを求める他の運動、特に脱成長運動との統合を目指している。必要な変革の規模は極めて大きいが、社会主義的なデジタル技術の取り決めの概要を示すこの試みが、平等主義的なデジタルエコシステムとはどのようなものか、そしてそこに到達するためのステップについてさらなるブレインストーミングと議論を引き起スことを期待している。

デジタル植民地主義に関する最初のものは、こちらでご覧いただけます。

デジタル資本主義と反トラスト法の問題点

テック部門に対する進歩的な批判は、しばしば反トラスト、人権、労働者の福利を中心とした主流の資本主義の枠組みから導き出されている。北半球のエリートの学者、ジャーナリスト、シンクタンク、政策立案者によって策定され、資本主義、西洋帝国主義、経済成長の持続を前提とした米国・欧州中心主義の改革主義的アジェンダを推進するものである。

反トラスト改革主義が特に問題なのは、デジタル経済の問題は、デジタル資本主義そのものの問題ではなく、単に大企業の規模や「不公正な慣行」の問題だと想定している点である。反トラスト法は、19世紀後半に米国で、競争を促進し、独占企業(当時は「トラスト」と呼ばれていた)の横暴を抑制するために作られた法律である。現代のビッグテックの規模と影響力が、この法律に再び光をあてることになった。反トラスト法の擁護者たちは、大企業が消費者や労働者、中小企業を弱体化させるだけでなく、いかに民主主義の基盤そのものにさえ挑戦しているかを指摘している。

反トラスト法擁護派は、独占は理想的な資本主義システムを歪めるものであり、必要なのは誰もが競争できる公平な土俵だと主張する。しかし、競争は、競争する資源を持つ人々にとってのみ意味のあるものであって、1日7.40ドル以下で生活している世界人口の半分以上の人びとが、欧米の反トラスト法支持者が思い描く「競争市場」でどうやって「競争」していくのか、誰もこのことを問うおうとはしていない。こうした競争は、インターネットの大部分がボーダーレスであることを考えれば、低・中所得国にとってより一層困難なことだ。

ROARで発表した以前の論文で論じたように、より広いレベルでは、反トラスト法擁護者は、グローバル経済のデジタル化によって深化したグローバルに不平等な分業と財やサービスの交換を無視している。Google、Amazon、Meta、Apple、Microsoft、Netflix、Nvidia、Intel、AMD、その他多くの企業は、世界中で使用されている知的財産と計算手段を所有しているため、大きな存在となっている。反トラスト法の理論家たち、特にアメリカの理論家たちは、結局、アメリカ帝国とグローバル・サウスを組織的にこの構図から消し去ってしまう。

ヨーロッパの反トラスト法に関する取り組みも、これと同じである。ここでは、ビッグ・テックの悪弊を嘆く政策立案者が、ひそかに自国を技術大国として築こうとしている。英国は1兆ドル規模の自国の巨大企業を生み出すことを目指している。エマニュエル・マクロン大統領は、2025年までにフランスに少なくとも25社のいわゆる「ユニコーン」(評価額10億ドル以上の企業を指す)を誕生させるべく、ハイテク新興企業に50億ユーロを投じる予定だ。ドイツは、グローバルなAI大国とデジタル産業化における世界のリーダー(=市場の植民地開拓者)になるために30億ユーロを投じている。一方、オランダも “ユニコーン国家 “を目指している。そして2021年、広く称賛されている欧州連合の競争コミッショナー、マルグレーテ・ヴェスタガーMargrethe Vestagerは、欧州は独自の欧州テック・ジャイアントを構築する必要があると述べている。2030年に向けたEUのデジタル目標の一環として、ヴェスタガーは、”ヨーロッパのユニコーンの数を現在の122社から倍増させる “ことを目指すと述べている

ヨーロッパの政策立案者は、大企業であるハイテク企業に原則的に反対するのではなく、自分たちの取り分を拡大しようとするご都合主義者なのである。

その他、累進課税、パブリックオプションとしての新技術の開発、労働者保護など、改革的資本主義の施策が提案されているが、根本原因や核心的問題への対処にはまだ至っていない。進歩的なデジタル資本主義は、新自由主義より優れてはいる。しかし、それはナショナリズムを志向し、デジタル植民地主義を防ぐことはできず、私有財産、利潤、蓄積、成長へのコミットメントを保持するものである。

環境危機と技術

デジタル改革論者のもう一つの大きな欠点は、地球上の生命を脅かす気候変動と生態系破壊という2つの危機に関するものである。

環境危機は、成長を前提とした資本主義の枠組みでは解決できないことを示す証拠が増えている。この枠組みは、エネルギー使用とそれによる炭素排出を増加させるだけでなく、生態系に大きな負担をかけている。

UNEPは、気温上昇を1.5度以内に抑えるという目標を達成するためには、2020年から2030年の間に排出量を毎年7.6%ずつ減らしていかなければならないと見積もっている学者による評価では、持続可能な世界の資源採取の限界は年間約500億トンとされているが、現在、私たちは年間1000億トンを採取し、主に富める者と北半球が恩恵を受けている。

脱成長を早急に実現しなければならない。進歩的な人々が主張する資本主義のわずかばかりの改革は、依然として環境を破壊する。予防原則を適用すれば、永久に生態系の破局を招くリスクを冒す余裕はない。テック部門は、ここでは傍観者ではなく、今やこうしたトレンドの主要な推進者の一人だ。

最近のレポートによると、2019年には、デジタルテクノロジー(通信ネットワーク、データセンター、端末(パーソナルデバイス)、IoT(モノのインターネット)センサーと定義)は、温室効果ガス排出量の4パーセントに加担し、そのエネルギー使用量は年間9パーセント増加している。

また、この数値は大きいようにも見えるかもしれないが、これはデジタル部門によるエネルギー使用量を過少評価している可能性が高い。2022年の報告書によると、大手テック企業はバリューチェーン[訳注]全体の排出量削減には取り組んでいないことが判明した。Appleのような企業は、2030年までに「カーボンニュートラル」になると主張しているが、これは「現在、直営のみが含まれており、カーボンフットプリントの1.5パーセントという微々たるものに過ぎない」。

地球を過熱させることに加えて、コンゴ民主共和国、チリ、アルゼンチン、中国といった場所で、エレクトロニクスに使われるコバルト、ニッケル、リチウムといった鉱物の採掘は、しばしば生態系を破壊することになる。

さらに、デジタル企業は、持続不可能な採掘を支援する上で極めて重要な役割を担っている。ハイテク企業は、企業が化石燃料の新しい資源を探査・開発したり、工業的な農業のデジタル化支援している。デジタル資本主義のビジネスモデルは、環境危機の主要因である大量消費を促進する広告を中心に展開されている。一方、億万長者の経営者の多くは、北半球の平均的な消費者の何千倍もの二酸化炭素を排出しているのだ。

デジタル改革論者は、ビッグ・テックは二酸化炭素排出や資源の過剰利用から切り離すことができると仮定し、その結果、彼らは個々の企業の特定の活動や排出に注意を向けることになる。しかし、資源利用と成長を切り離す考え方は、資源利用とGDPの成長が歴史上密接に関係していることを指摘する学者たちによって疑問視されている。最近、研究者たちは、経済活動を知識集約型産業を含むサービス業にシフトしても、サービス業従事者の家計消費レベルが上昇するため、地球環境への影響を低減する可能性は限定的であることを明らかにした

まとめると、成長の限界はすべてを変えてしまう。もし資本主義が生態学的に持続不可能であるならば、デジタル政策はこの厳しい、挑戦的な現実に対応しなければならない。

デジタル社会主義とその構成要素

社会主義体制では、財産は共有される。生産手段は労働者協同組合を通じて労働者自身によって直接管理され、生産は交換、利潤、蓄積のためではなく、使用と必要性のために行われる。国家の役割については、社会主義者の間でも論争があり、統治と経済生産はできるだけ分散させるべきだと主張する人もいれば、より高度な国家計画を主張する人もいる。

これらと同じ原則、戦略、戦術がデジタル経済にも適用される。デジタル社会主義のシステムは、知的財産を段階的に廃止し、計算手段means of computationを社会化し、データとデジタル知能を民主化し、デジタル生態系の開発と維持をパブリックドメインのコミュニティの手に委ねることになるだろう。

社会主義的デジタル経済のための構成要素の多くは既に存在している。例えば、フリー・オープンソース・ソフトウェア(FOSS)とクリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、社会主義的生産様式のためのソフトウェアとライセンシングを提供する。James MuldoonがPlatform Socialismの中で述べているように、DECODE(DEcentralised Citizen-owned Data Ecosystems)のような都市プロジェクトは、コミュニティ活動向けのオープンソース公共利益ツールを提供しているが、ここでは、共有データのコントロールを保持しつつ市民が大気汚染のレベルからオンラインの請願や近隣のソーシャルネットワークまで、データにアクセスし貢献できるものだ。ロンドンのフードデリバリープラットフォーム「Wings」のようなプラットフォーム・コープは、労働者がオープンソースのプラットフォームを通じて労働力を組織化し、労働者自身が所有・コントロールする卓越した職場モデルを提供している。また、社会主義的なソーシャルメディアとして、共有プロトコルを用いて相互運用するソーシャルネットワークの集合体であるFediverseがあり、オンライン・ソーシャル・コミュニケーションの分散化を促進している。

しかし、これらの構成要素は、目標達成のためにはポリシーの変更を必要とするだろう。例えば、Fediverseのようなプロジェクトは、閉じたシステムと統合することはできないし、Facebookのような大規模な集中リソースと競争することもできない。したがって、大手ソーシャルメディアネットワークに相互運用、内部分散、知的財産(プロプライエタリなソフトウェアなど)の開放、強制広告(人々が「無料のサービス」と引き換えに受けとる広告)の廃止、国や民間企業ではなく個人やコミュニティがネットワークを所有・コントロールしコンテンツのモデレーションができるようデータホスティングへの助成を強制する一連のラディカルな政策変更が必要である。これによって、技術系大企業は事実上、その存在意義を失うことになる。

インフラの社会化は、強固なプライバシーコントロール、国家による監視の規制、監獄セキュリティ国家の後退とバランスをとる必要がある。現在、国家は、しばしば民間部門と連携して、デジタルテクノロジーを強制の手段として利用している。移民や移動中の人々は、カメラ、航空機、モーションセンサー、ドローン、ビデオ監視、バイオメトリクスなどを織り交ぜたテクノロジーによって厳しく監視されている。記録とセンサーのデータは、国家によって融合センターやリアルタイム犯罪センターに集中化され、コミュニティを監視、予測、コントロールするようになってきている。マージナル化され人種差別化されたコミュニティや活動家は、ハイテク監視国家によって不当に標的にされている。活動家はこれらの組織的暴力の機関を解体し、廃止するよう活動し、国家のこうした実践は禁止されるべきだ。

デジタル技術の取り決め

大きなハイテク企業、知的財産、および計算手段の私的所有権は、デジタル社会に深く埋め込まれ、一晩で消し去ることはできない。したがって、デジタル資本主義を社会主義モデルに置き換えるには、デジタル社会主義への計画的な移行が必要だ。

環境保護主義者たちは、グリーン経済への移行のアウトラインを描く新たな「取り決め」を提案している。米国のグリーン・ニューディールや欧州のグリーン・ディールのような改革派の提案は、最終的な成長、帝国主義、構造的不平等といった資本主義の危害を保持したまま、資本主義の枠組みの中で実施される。対照的に、レッド・ネイションRed Nationのレッド・ディールRed Deal、コチャバマバ協定Cochabamaba Agreement、南アフリカの気候正義憲章Climate Justice Charterのようなエコ社会主義モデルは、より優れた代替案を提供している。これらの提案は、成長の限界を認め、真に持続可能な経済への公正な移行に必要な平等主義的原則を組み込んでいる。

しかし、これらのレッドディールもグリーンディールも、現代の経済と環境の持続可能性と中心的な関連性があるにもかかわらず、デジタルエコシステムのための計画を組み込んでいない。一方、デジタル・ジャスティス運動は、脱成長の提案と、デジタル経済の評価をエコ社会主義の枠組みに統合する必要性をほぼ完全に無視している。環境正義とデジタル正義は密接に関係しており、この2つの運動はその目標を達成するために連携しなければならない。

そのために、私は反帝国主義、環境の持続可能性、疎外されたコミュニティのための社会正義、労働者の権利拡大、民主的コントロール、階級の廃絶という交差する価値を具体化するエコソーシャリストのデジタル技術の取り決めDigital Tech Dealを提案する。以下は、こうしたプログラムを導くための10の原則である。

1. デジタル経済が社会的、惑星的な境界線に収まるようにする。

私たちは、北半球の富裕国がすでに炭素予算の公正な取り分を超えて排出しているという現実に直面している。これは、富裕国に不釣り合いな利益をもたらしているビッグテック主導のデジタル経済にも当てはまる。したがって、デジタル経済が社会的・惑星規模の限界内に収まるようにすることが不可欠だ。私たちは、科学的な情報に基づき、使用できる材料の量と種類に制限を設け、どの材料資源(バイオマス、鉱物、化石エネルギーキャリア、金属鉱石など)をどの用途(新しい建物、道路、電子機器など)にどの程度、誰のために割くべきかを決定する必要があるのではないないか。北から南へ、富裕層から貧困層への再分配政策を義務付けるエコロジー債務を確立することができるはずだ。

2. 知的財産の段階的廃止

知的財産、特に著作権や特許は、知識、文化、アプリやサービスの機能を決定するコードに対するコントロールを企業に与え、企業がユーザーの関与を上限を規定し、イノベーションを私有化し、データとレントを引き出すことを可能にするものである。経済学者のディーン・ベイカーDean Bakerは、特許や著作権の独占がない「自由市場」で得られるものと比べて、知的財産のレントは消費者に年間さらに1兆ドルの損失を与えていると見積もっている。知的財産を廃止し、知識を共有するコモンズ・ベースのモデルを採用すれば、価格を下げ、すべての人に教育を提供し、富の再分配とグローバル・サウスへの賠償として機能する。

3. 物理的インフラの社会化

クラウドサーバー施設、無線電波塔、光ファイバーネットワーク、大洋横断海底ケーブルなどの物理的インフラは、それを所有する者に利益をもたらす。これらのサービスをコミュニティの手に委ねることができるコミュニティが運営するインターネットサービスプロバイダやワイヤレスメッシュネットワークの構想もある。海底ケーブルのようなインフラは、利潤のためではなく、公共の利益のためにコストをかけて建設・維持する国際コンソーシアムによって維持さできるだろう。

4. 私的な生産投資を、公的な補助金と生産に置き換える。

Dan HindのBritish Digital Cooperativeは、社会主義的な生産モデルが現在の状況下でどのように活動しうるかについての最も詳細な提案であろう。この計画では、”市民や多かれ少なかれまとまった集団が集まって政治に対する主張を確保できる場を、地方、地域、国レベルの政府を含む公共部門の機関が提供する “とされている。オープンデータ、透明性のあるアルゴリズム、オープンソースのソフトウェアやプラットフォームによって強化され、民主的な参加型計画によって実現されるこのような変革は、デジタルエコシステムと広範な経済への投資、開発、維持を促進することになる。

Hindは、これを一国内での公的オプションとして展開することを想定しており、民間セクターと競合することになるが、その代わりに、技術の完全な社会化のための予備的な基礎を提供することができる。さらに、私たちは、グローバル・サウスに賠償金としてインフラを提供するグローバルな正義の枠組みを含むように拡張することも可能だろう。これは、気候正義のイニシアチブが、グローバル・サウスが化石燃料をグリーンエネルギーに置き換えるのを助けるよう富裕国に圧力をかけるのと同じ方法だ。

5. インターネットの分散化

社会主義者たちは、富と権力と統治を労働者と地域社会の手に分散させることを長い間支持してきた。FreedomBoxのようなプロジェクトは、電子メール、カレンダー、チャットアプリ、ソーシャルネットワーキングなどのサービスのためのデータをまとめてホストしルーティングできる安価なパーソナルサーバーを動かすためのフリー・オープンソースソフトウェアを提供している。また、Solidのようなプロジェクトでは、各自がコントロールする「ポッド」内にデータをホスティングすることが可能です。アプリ・プロバイダーやソーシャル・メディア・ネットワーク、その他のサービスは、ユーザーが納得できる条件でデータにアクセスすることができ、ユーザーは自分のデータをコントロールすることができる。これらのモデルは、社会主義に基づいてインターネットを分散化するためにスケールアップすることができる。

6. プラットフォームの社会化

Uber、Amazon、Facebookなどのインターネット・プラットフォームは、そのプラットフォームのユーザーの間に立って私的仲介業者として、所有権とコントロールを集中させている。FediverseやLibreSocialのようなプロジェクトは、ソーシャルネットワーキングを越えて拡張できる可能性のある相互運用性の青写真を提供している。単純に相互運用できないサービスは社会化され、利潤や成長のためではなく、公共の利益のためにコストをかけて運営できるだろう。

7. デジタル・インテリジェンスとデータの社会化

データとそこから得られるデジタル・インテリジェンスは、経済的な富と権力の主要な源だ。データの社会化は、データの収集、保存、使用方法において、プライバシー、セキュリティ、透明性、民主的な意思決定といった価値観や慣行を埋め込むことになる。バルセロナやアムステルダムのプロジェクトDECODEなどのモデルをベースにすることができるだろう。

8. 強制的な広告とプラットフォームの消費主義を禁止する

デジタル広告は、一般大衆を操り、消費を刺激するように設計された企業のプロパガンダを絶え間なく押し出している。多くの「無料」サービスは広告によって提供され、まさにそれが地球を危険にさらす時に、さらに大量消費主義を刺激している。Google検索やAmazonのようなプラットフォームは、生態系の限界を無視して消費を最大化するために構築されている。強制的な広告の代わりに、製品やサービスに関する情報は、ディレクトリでホストされて自主的にアクセスすることができよう。

9. 軍、警察、刑務所、国家安全保障機構を、コミュニティ主導の安全・安心サービスへと置き換える

デジタルテクノロジーは、警察、軍隊、刑務所、諜報機関の力を増大させた。自律型兵器のような一部のテクノロジーは、暴力以外の実用性がないため、禁止されるべきだ。その他のAI駆動型テクノロジーは、間違いなく社会的に有益な用途を持つが、社会におけるその存在を制限するために保守的なアプローチをとり、厳しく規制する必要があるだろう。大規模な国家監視の抑制を推進する活動家は、これらの機関の標的となる人々に加えて、警察、刑務所、国家安全保障、軍国主義の廃止を推進する人々とも手を結ぶべきである。

10. デジタル・デバイドをなくす

デジタルデバイドとは、一般的にコンピュータデバイスやデータなどのデジタル資源への個人の不平等なアクセスを指すが、クラウドサーバー設備やハイテク研究施設などのデジタルインフラが裕福な国やその企業によって所有・支配されていることも含める必要がある。富の再分配の一形態として、課税と賠償のプロセスを通じて資本を再分配し、世界の貧困層に個人用デバイスとインターネット接続を補助し、クラウドインフラやハイテク研究施設などのインフラを購入できない人口に提供することができるだろう。

デジタル社会主義を実現する方法

抜本的な改革が必要だが、やるべきことと現在の状況には大きな隔たりがある。とはいえ、私たちにできること、そしてやらなければならない重要なステップがいくつかある。

まず、デジタル経済の新しい枠組みを共に創造するために、コミュニティ内外で意識を高め、教育を促し、意見交換することが不可欠だ。そのためには、デジタル資本主義や植民地主義に対する明確な批判が必要である。

知識の集中的な生産をそのままにしておくと、このような変化をもたらすことは困難であろう。北半球のエリート大学、メディア企業、シンクタンク、NGO、ビッグテックの研究者たちが、資本主義の修正に関する議論を支配し、アジェンダを設定し、こうした議論のパラメータを制限し、制約している。例えば、大学のランキング制度を廃止し、教室を民主化し、企業や慈善家、大規模な財団からの資金提供を停止するなど、彼らの力を奪うための措置が必要だ。南アフリカで最近起こった学生による#FeesMustFallという抗議運動や、イェール大学でのEndowment Justice Coalitionなどは、教育を脱植民地化する取り組みが必要となる運動の例を示している。

第二に、私たちはデジタル正義の運動を他の社会的、人種的、環境的正義の運動と結びつける必要がある。デジタル上の権利運動の活動家は、環境保護主義者、人種差別廃止活動家、食の正義の擁護者、フェミニストなどと一緒に活動する必要がある。例えば、草の根の移民は主導しているネットワークMijenteの#NoTechForIceキャンペーンは、米国における移民取り締まりのテクノロジーの供給に挑戦している。しかし、特に環境との関連で、まださらなる運動が必要だ。

第三に、私たちはビッグ・テックと米帝国主義に対する直接行動と情宣を強化する必要がある。グローバル・サウスにおけるクラウドセンターの開設(例:マレーシア)や、学校へのビッグテック・ソフトウェアの押しつけ(例:南アフリカ)など、一見すると難解なテーマであるために、多数の支持を動員することが困難な場合がある。特に、食料、水、住居、電気、保健医療、仕事へのアクセスを優先しなければならない南半球では難しいことでもある。しかし、インドにおけるフェイスブックのFree Basicsや、南アフリカのケープタウンにおける先住民族の聖地でのアマゾン本社建設といった開発に対する抵抗の成功は、市民による反対の可能性と潜在力を示している。

こうした活動家のエネルギーは、さらに進んで、ボイコット、投資撤収、制裁(BDS)の戦術を取り入れることができる。これは、反アパルトヘイト活動家が南アフリカのアパルトヘイト政府に機器を販売するコンピューター企業を標的にした戦術である。活動家は、今度は巨大なハイテク企業の存在をターゲットに、#BigTechBDS運動を構築することができるだろう。ボイコットによって、巨大ハイテク企業との公共部門の契約を取り消し、社会主義的な民衆の技術ソリューションに置き換えることもできるだろう。投資撤収キャンペーンは、最悪のハイテク企業から大学などの機関への投資を撤回させることも可能だ。そして活動家たちが、米国や中国、その他の国のハイテク企業に的を絞った制裁を適用するよう国家に圧力をかけることも可能となろう。

第四に、私たちは、新しいデジタル社会主義経済のための構成単位となりうる技術労働者協同組合を構築する活動が必要だ。ビッグテックを組合化する運動があり、これはハイテク労働者を保護するのに役立つだろう。しかし、ビッグテックの組合化は、東インド会社や兵器メーカーのRaytheon、Goldman Sachs あるいは Shellの組合化のようなもので、社会正義ではなく、穏やかな改革しか実現しない可能性がある。南アフリカの反アパルトヘイト活動家が、アパルトヘイト下の南アフリカでアメリカ企業がビジネスから利益を出し続けることを可能にした「サリバン原則」――企業の社会的責任に関する一連のルールと改革――やその他の穏やかな改革を拒否し、アパルトヘイト体制を窒息させることを優先したように、私たちはビッグテックとデジタル資本主義のシステムを完全に廃止することを目指していかなければならない。そして、そのためには、改革不可能なものを改革するのではなく、業界の公正な移行を実現するために、代替案を作り、技術労働者との関係を持つことが必要だ。

最後に、あらゆる階層の人々が、デジタル技術の取り決めを構成する具体的なプランを開発するために、技術専門家と協働で活動する必要がある。これは、現在の環境に対するグリーン「ディール」と同じくらい真剣に取り組む必要がある。デジタル技術の取り決めによって、広告業界など一部の労働者は職を失うことになるので、これらの業界で働く労働者のための公正な移行が必要である。労働者、科学者、エンジニア、社会学者、弁護士、教育者、活動家、そして一般市民は、このような移行を実現するための方法を共同でブレーンストーミングすることができるだろう。

今日、進歩的資本主義は、ビッグ・テックの台頭に対する最も現実的な解決策であると広く考えられている。しかし、彼らは同じ進歩主義者でありながら、資本主義の構造的危害、米国主導のハイテク植民地化、脱成長の必要性を認識していない。私たちは、自分たちの家を暖かく保つために壁を焼き払うことはできない。唯一の現実的な解決策は、唯一無二の家を破壊しないために必要なことをすることであり、それはデジタル経済を統合することでなければならない。デジタル技術の取り決めによって実現されるデジタル社会主義は、私たちが抜本的な改革を行うための短い時間枠の中で最良の希望を与えてくれるが、議論し、討論し、構築することが必要だろう。この記事が、読者のみなさんたちに、この方向に向かって協力的に構築するよう促すことができれば幸いである。

著者について
ロードス大学で社会学の博士号を取得。エール大学ロースクール情報社会プロジェクトを客員研究員として務める。著書に「デジタル植民地主義」(原題:Digital colonialism)がある。また、VICE News、The Intercept、The New York Times、Al Jazeera、Counterpunchで記事を発表している。

TwitterでMichealを見つける。マイケル・クウェット(@Michael_Kwet)。

訳注:バリューチェーン:企業の競争優位性を高めるための考え方で、主活動の原材料の調達、製造、販売、保守などと、支援活動にあたる人事や技術開発などの間接部門の各機能単位が生み出す価値を分析して、それを最大化するための戦略を検討する枠組み。価値連鎖と邦訳される。(日本大百科全書)

【経営・企業】原材料の調達,製造,販売などの各事業が連鎖して,それぞれが生み出す利益を自社内で取り込むやり方.(imidas)

私たちはハイブリッド戦争の渦中にいる――防衛省の世論誘導から戦争放棄概念の拡張を考える

戦争に前のめりになる「世論」

防衛省がAIを用いた世論操作の研究に着手したと共同通信など各紙が報道し、かなりの注目を浴びた。この研究についてのメディアの論調は大方が批判的だと感じたが、他方で、防衛予算の増額・増税、敵基地攻撃能力保持については、世論調査をみる限り、過半数が賛成している。(NHK毎日時事日経サンケイ) 内閣の支持率低迷のなかでの強引な政策にもかかわらず、また、なおかつ与党自民党内部からも批判があるにもかかわらず、世論の方がむしろ軍拡に前のめりなのではないか。与党内部の意見の対立は、基本的に日本の軍事力強化を肯定した上でのコップのなかの嵐であって、実際には、防衛予算増額に反対でもなければ、東アジアの軍事的な緊張を外交的に回避することに熱心なわけでもない。

私は、政権与党や右翼野党よりも、世論が敵基地攻撃含めて戦争を肯定する傾向を強めているのはなぜなのかに関心がある。政府とメディアによる国際情勢への不安感情の煽りが効果を発揮しているだけではなく、ウクライナへのロシアの侵略に対して、反戦平和運動内部にある、自衛のための武力行使の是非に関する議論の対立も影響していると推測している。私はいかなる場合であれ武器をとるな、という立場だが、9条改憲に反対する人達のなかでも、私のようなスタンスには批判もあり、専守防衛や自衛のための戦力保持を肯定する人達も少なくないのでは、と思う。こうした状況のなかで、鉄砲の弾が飛び交うような話でもない自衛隊による世論誘導の話題は、ややもすれば、問題ではあっても、核兵器やミサイルや戦車ほどには問題ではない、とみなされかねないと危惧している。実際は、違う。世論誘導という自衛隊の行動は、それ自体が戦争の一部をなしている、というのが現代の戦争である。戦争放棄を主張するということは、こうした一見すると戦争とは思えない事態を明確に否定し、こうしたことが起きないような歯止めをかける、ということも含まれるべきだと思う。

防衛省の次年度概算要求にすでに盛り込まれている

信濃毎日の社説では、世論誘導の研究を来年度予算案に必要経費を盛り、国家安全保障戦略の改定版にも明記する方針を固めていると書いている。防衛省の次年度概算要求書では「重要政策推進枠」としてサイバー領域における能力強化に8,073,618千円の要求が計上されている。AIに関しては『我が国の防衛と予算、令和5年度概算要求の概要』のなかに以下のような記述がある。

「指揮統制・情報関連機能
わが国周辺における軍事動向等を常時継続的に情報収集するとともに、ウクライナ侵略でも見られたような認知領域を含む情報戦等にも対応できるよう情報機能を抜本的に強化し、隙のない情報収集態勢を構築する必要。迅速・確実な指揮統制を行うためには、抗たん性のあるネットワークにより、リアルタイムに情報共有を行う能力が必要。
こうした分野におけるAIの導入・拡大を推進」

https://www.mod.go.jp/j/yosan/yosan_gaiyo/2023/yosan_20220831.pdf

上で「ウクライナ侵略でも見られたような認知領域を含む情報戦等にも対応」とある記述は、偽旗作戦と呼ばれるような情報操作、世論操作を念頭に置いていると解釈できる。そして情報機能の強化のために「AIを活用した公開情報の自動収集・分析機能の整備」とも書かれている。また民間人材の活用にも言及し「AI適用システムの構築等への実務指導を実施」と述べられている。民間とは日本の場合は、AIの商業利用におけるノウハウを軍事転用することが含意されるが、そうなればいわゆるステルスマーケティングなどメディアが報じた自衛隊による世論誘導技術が含まれて当然と思う。また、サイバー政策の企画立案体制等を強化するため、「サイバー企画課(仮称)」及び情報保証・事案対処を担当する「大臣官房参事官」を新設するとしている。

法的規制は容易ではないかもしれない:反戦平和運動のサイバー領域での取り組みが必須と思う

信濃毎日も社説で批判してように、政府が率先して虚偽の情報を拡散させたり、逆に、言論統制で自由な言論を抑圧するなど、世論誘導の軍事的な展開の危険性は問題だらけだが、政府側が言うように、民間資本がステルスマーケティングなどとして展開している手法であって、違法性はない、という主張に反論するのは、実はかなりやっかいかもしれない。倫理的に政府による世論誘導は認めるべきではない、という議論は立てられても、違法性や犯罪とみなすことは、戦前によくあった意図的な誤報や流言蜚語を流すようなことでもない限り、反論は容易ではない。政府が広報として政府の政策や主張を述べることを通じて、世論は常に誘導されている。この誘導技術をAIを用いてより洗練されたものにしようということであると解釈すると、現在の日本の法制度の枠組を前提として、防衛省の世論誘導技術の導入を効果的に阻止できる仕組みは果たしてあるのか。だからこそ、こうした行為を自衛隊が主体となって実施する場合、それが「戦争」概念に含まれる行為だという戦争についての新たな定義を提起しておく必要がある。言い換えれば、自衛隊がAIやサイバー領域で行動すること自体を違法とする枠組が必要だということだ。

しかし、法的な枠組が全くないともいえない。ありうるとすれば、特定デジタルプラットフォームの透明性及び公正性の向上に関する法律あたりかもしれないが、この法律は商取引を前提としたプラットフォーマーへの規制だ。こうしたプラットーマーに対する規制を政府の世論誘導や軍事安全保障の目的での不透明な世論誘導をも対象にするように拡大することは容易ではないとも思う。

今回のような防衛省の研究開発は、法制度上も、反戦平和運動や議会内の左派野党の問題意識と運動の取り組みという対抗軸の弱さからみても、野放し状態だといっていい。対抗運動による弁証法が機能していないのだ。

これまでの防衛省のAIへの関わり:ヒューマン・デジタル・ツイン

ターゲティング広告など企業の消費者誘導技術や、その選挙などへの転用といった、これまで繰り返し批判されてきたAIについての疑問(たとえばEFF「マジックミラーの裏側で」参照)があるにもかかわらず、こうした批判を自衛隊の世論操作技術研究はあきらかに無視している。

この報道があったあとで、岸田は、この報道を否定する見解を出したことが報じられた。 「岸田総理は、「ご指摘の報道の内容は、全くの事実誤認であり、政府として、国内世論を特定の方向に誘導するような取組を行うことは、あり得ません」と文書で回答」 とテレ朝 は報じている。しかし、上述の概算要求をみても、この否定は、それこそ意図的な官邸発のフェイクの疑いが拭えない。

概算要求の他に、防衛省のAIへの取り組みについては、すでに今年4月に イノベーション政策強化推進のための有識者会議「AI戦略」(AI戦略実行会議)第9回資料 として防衛省は「防衛省におけるAIに関する取組」という資料を提出している。 このなかで、「AI技術がゲームチェンジャーになり得る」という認識を示し、また「AIによる利活⽤の基礎となるデジタル・ツインの構築」という項目がある。曲者はこの「デジタルツイン」という一般には聞き慣れない言葉にある。デジタル・ツインとは、「現実世界で得られたデータに基づいて、デジタル空間で同様の環境を再現・シミュレーションし、得られた結果を現実世界にフィードバックする技術である。」(NTTdata経営研究所、山崎 和行)と説明されるものだ。現実空間とそっくりな仮想空間を構築して、現実世界を操作するような技術をいう。上の防衛省の資料のなかに「ヒューマン・デジタル・ツイン」という概念が示され「⾏動・神経系のデータと神経科学的知⾒に基づいてヒトのデジタル・ツ
インを構築し、教育訓練や診断治療への応⽤のための研究開発を推進する」とも書かれている。前述の山崎のエッセイによれば、ヒューマン・デジタル・ツインとは「人間の身体的特徴や、価値観・嗜好・パーソナリティなどの内面的な要素を再現するデジタルツイン」のことであり、「実際の人間の行動や意思決定をシミュレーション可能なヒューマン・デジタルツインが実現すれば、産業分野でのデジタルツインのようにビジネスに大きな変革を与える」と指摘している。こうした分野を軍事安全保障に応用しようというのが先の防衛省の資料である。ビッグデータを用いた行動解析や予測に基く世論操作技術そのものであり、防衛省としては、こうした研究は既に既定の事実になっている。もし私のこうした理解が正しければ、岸田の否定は意図的に虚偽の情報を流してことになる。

海外でのAIの軍事利用批判

AIの軍事利用の規制を求める国際的な運動はあるものの(たとえばこれとかこれ) EU域内市民への世論調査でも政府の国家安全保障のためのAI利用への危惧が金融機関での利用に次いで二番目に大きくなっている。(ECNLの調査)他方日本では反戦平和運動のなかでのAIやサイバーへの関心が極めて薄いために、取り組みが遅れているところを突かれた印象がある。

AIが悪用される危険性についてはかなり前から指摘さていました。たとえば、2018年に発行さいれた14の団体、26名が執筆しているレポート、The Malicious Use of Artificial Intelligence: Forecasting, Prevention, and Mitigation (人工知能の悪意ある利用。予測、予防、緩和)では次のように指摘されている。

「政治的な安全保障。監視(大量収集データの分析など)、説得(標的型プロパガンダの作成など)、騙し(動画の操作など)に関わる作業をAIで自動化することで、プライバシー侵害や社会的操作に関わる脅威が拡大する可能性がある。また、利用可能なデータに基づいて人間の行動、気分、信念を分析する能力の向上を利用した新しい攻撃も予想さ れる。これらの懸念は、権威主義的な国家において最も顕著に現れるが、民主主義国家が真実の公開討論を維持する能力も損なわれる可能性がある。」

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/ecnl_new-poll-public-fears-over-government-use-artificial-intelligence_jp/

ここで危惧されていることがまさに今回露呈した防衛省によるAIを用いた世論誘導に当てはまるといえる。 (日本でも下記のような記事がずいぶん前に出ている。「 AIがフェイクニュース、自然なつぶやきで世論操作が可能に」 )以上のように、岸田が否定しているにもかかわらず実際には、世論誘導技術が防衛省で研究が進めらているのではないかという状況証拠は多くあるのだ。

防衛省の世論誘導研究は、あきらかに日本の世論を、軍隊が存在して当たり前という近代国家の定石に沿った価値観の上からの形成として構想されているに違いないと思う。自衛隊のアイデンティティ戦略としてみれば、まさに国民の総意によって自衛隊=人殺しができる集団への支持を獲得することが至上命題であり、改憲はそのための最後の仕上げでもあるといる。改憲のためには世論誘導は欠かせないハイブリッド戦争の一環をなすともいえる。

自民党「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」は偽旗作戦もフェイクも否定しない

自民党は今年4月に「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」を出した。そのなかに「戦い方の変化」という項目があり、サイバー領域にかなり重点を置いた記述になっている。ここで次のように書いていまる。

「今般のロシアによるウクライナ侵略においても指摘されるように、軍事・非軍事の境界を曖昧にした「ハイブリッド戦」が行われ、その一環としての「偽旗作戦」を含む偽情報の拡散による情報戦など、新たな「戦い方」は今、まさに顕在化している。」

https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/203401_1.pdf

デマを拡散させることが新たな戦い方だと指摘し、こうした戦い方を否定していない。より具体的には「ハイブリッド戦」として次のように述べている。やや長いが、以下引用する。

「いわゆる「ハイブリッド戦」は、軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧にし、様々な手段を複合的に用いて領土拡大・対象国の内政のかく乱等の政策目的を追求する手法である。具体的には、国籍不明部隊を用いた秘密裏の作戦、サイバー攻撃による情報窃取や通信・重要インフラの妨害、さらには、インターネットやメディアを通じた偽情報の流布などによる世論や投票行動への影響工作を複合的に用いた手法と考えられる。このような手法に対しては、軍事面にとどまらない複雑な対応を求められる。 こうした「ハイブリッド戦」は、ロシアによる2014年のクリミア侵攻で広く認識され、本年のウクライナ侵略においてもロシアがその手法をとっていると指摘されている。このような情勢を踏まえ、「ハイブリッド戦」への対応に万全を期すため、サイバー分野や認知領域を含めた情報戦への対応能力を政府一体となって強化する。」

「情報戦への対応能力(戦略的コミュニケーションの強化を含む。) 本年のロシアによるウクライナへの侵略を踏まえれば、情報戦への備えは喫緊の課題である。情報戦での帰趨は、有事の際の国際世論、同盟国・同志国等からの支援の質と量、国民の士気等に大きくかかわる。日本政府が他国からの偽情報を見破り(ファクト・チェック)、戦略的コミュニケーションの観点から、迅速かつ正確な情報発信を国内外で行うこと等のために、情報戦に対応できる体制を政府内で速やかに構築し、地方自治体や民間企業とも連携しながら、情報戦への対応能力を強化する。 また、諸外国の経験・知見も取り入れながら、民間機関とも連携し、若年層も含めた国内外の人々にSNS等によって直接訴求できるように戦略的な対外発信機能を強化する。」

自民党の提言は、偽旗作戦も情報操作も戦争の一環とみなし否定するどころか、これをどのようにして軍事安全保障の戦略に組み込むか、という観点で論じられている。こうした自民党の動向を踏まえれば防衛省がAIを用いた世論誘導を画策していてもおかしくない。

ハイブリッド戦争と戦争放棄

もうひとつ重要なことは、ハイブリッド戦では、軍事と非軍事の境界が曖昧になるみている点だ。こうなると非軍事技術が軍事技術と不可分一体となって、非軍事領域が戦争の手段になり戦争のコンテクストのなかに包摂されてしまう。戦争の中核にあるのは、戦車や戦闘機、ミサイルなどであるとしても、それだけが軍事ではない、ということだ。ハイブリッド戦を念頭に置いたばあい、いわゆる自衛隊の武力とされる装備や兵力の動員だけを念頭に置いて、戦争反対の陣形を組むことでは全く不十分になる。バイブリッド戦は現代の総力戦であり、前線と銃後の区別などありえない。とりわけサイバー空間は、この混沌とした状況に嵌り込むことになる。こうした事態を念頭に置いて、戦争放棄とは、どのようなことなのかを具体的にイメージできなければならないし、憲法9条は、こうした事態において、今まで以上に更に形骸化する可能性がありうる。9条をある種の神頼み的に念じれば、平和な世界へと辿りつくのではという期待は、ますます理念としても成り立たなくなっている。これは、9条に期待をしてきた人達には非常に深刻な事態だということをぜひ理解してほしいと思う。私のように9条は、はじめから一度たりとも現実のものになったことがない絵に描いた餅にすぎない(だからこそ、戦争放棄は憲法や法をアテにしては実現できない)、と冷やかな態度をとってきた者にとってすら、とても危機的だと感じている。

世論操作の技術が民間の広告技術であっても、それが戦争の技術になりうると考えて対処することが、平和運動にとっても必要になっている。そのためには、私たちが日常生活で慣れ親しんでいる、ネットの環境に潜んでいる、私たちの実感では把えられない監視や意識操作の技術にもっと警戒心をもたなければならないと思う。実感や経験に依拠して、自分たちの判断の正しさを確信することはかなり危険なことになっている。パソコンやスマホはハイブリッド戦争における武器であり、知覚しえないプロセスを通じて私たちの情動を構築することを政府や軍隊がAIに期待している。しかし、台所の包丁のように、デジタルのコミュニケーションを人殺しや戦争に使うのではない使い方を自覚的に獲得すること、私たちが知らない間に戦争に加担させられないような感情動員(世論誘導)の罠から逃れる術を獲得することが必要になる。しかし、反戦平和運動は、なかなかそこまで取り組めていないのが現状だろう。

サイバー空間は私たちの日常生活でのコミュニケーションの場所だ。この場所が戦場になっている、ということを深刻にイメージできないといけないと思う。サイバー戦争の放棄とは、自衛隊や軍隊はサイバースペースから完全撤退すべきであり、サイバー部隊は解体すべきだ、ということだが、これは喫緊の課題だ。戦争や武力や威嚇、あるいは自衛の概念は従来の理解ではあまりにも狭すぎて、戦争を放棄するには不十分だと思う。サイバー空間も含めて、「戦争」の再定義が必要だ。そのための議論が必要だと思う。コミュニケーションは人を殺すためにあってはならないと強く思う。

(Boston Review)デジタル植民地主義との闘い方

以下は、Boston Reviewに掲載されたトゥーサン・ノーティアスの記事の翻訳である。日本語による「デジタル植民地主義」への言及が最近目立つようになっている。たとえば、「技術革新がもたらしたデジタル植民地主義」は、以下で翻訳した記事でも言及されているFacebookなどによるアフリカなどグローバルサウスの囲い込みと先進国やビッグテックとの溝を紹介しつつも世界銀行による問題解決に期待しているような論調になっている。米国ビッグテックの一人勝ちのような現象を前に、「日本はこのままだとデジタル植民地に、迫り来る危機の「正体」」のように日本経済の危機感を全面に押し出してナショナリズムを喚起するような記事もある。植民地という概念に含意されている政治、歴史、文化、経済を横断する抑圧の人類史の文脈――ここには明確な資本主義否定の理論的な関心が含意されている――を踏まえた上で、そうだからこを「デジタル」における植民地主義は深刻な問題であると同時に、民衆によるグローバルな闘争の領域としても形成されつつある、ということを見ておくことが重要になる。そうだとすれば、果して世界銀行に期待しうるだろうか。別途書くつもりだが、世界銀行による貧困や格差へのグローバルな取り組みのなかに組みこまれているデジタルIDのグローバルサウスへの普及のためのインフラ整備といった事業には、かつての植民地主義にはないあらたな特徴も見出せる。ここに訳した記事は、先に訳したマイケル・クェットの論文とは違って、より戦略的に植民地主義と対抗する運動のありかたに焦点をあてている。(小倉利丸)

関連記事:マイケル・クェット:デジタル植民地主義の深刻な脅威

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ビッグテックによるデータと利潤の追求が世界中に広がる中、グローバル・サウスの活動家たちは、より公正なデジタル社会の未来への道を指し示している。

トゥーサン・ノーティアス Toussaint Nothias

2022年11月14日
昨年1月6日は、親トランプ派の暴力的な暴徒が米国連邦議会議事堂を襲撃した日として歴史書に刻まれることになるだろう。しかし、ラテンアメリカ、アジア、アフリカに住む何百万人もの人々にとって、この日は全く異なるものをもたらした。それは、いつもと違うWhatsAppからの通知であった。

WhatsAppは世界で最も人気のあるメッセージングアプリで、20億人以上のユーザーを誇っている。Facebookは2014年にこのサービスを約220億ドルで買収したが、これは技術史上最大規模の買収であり、WhatsAppが世界的な成長でFacebook自身のMessengerを上回り始めた後だった。2016年までに、WhatsAppはグローバル・サウスに住む何億人ものユーザーにとって、インターネットコミュニケーションの主要な手段となった。

2009年に設立されたWhatsAppは、ユーザーの個人情報を絶対に売らないという約束で、Facebookの買収時にもその信条が繰り返された。しかし、昨年1月、WhatsAppは利用規約とプライバシーポリシーの更新を開始し、ユーザーに通知を出して、新しい規約に同意するように求めた。新ポリシーによると、WhatsAppはユーザーの電話番号、デバイス識別子、他のユーザーとのやり取り、支払いデータ、クッキー、IPアドレス、ブラウザーの詳細、モバイルネットワーク、タイムゾーン、言語などのユーザーデータを親会社と共有できることになった。実際には、WhatsAppとFacebook間のデータ共有は2016年に始まっていた。2021年の違いは、ユーザーがオプトアウトできなくなったことだ。新しいポリシーを受け入れられなければ、アプリの機能は低下し、使えなくなる。

WhatsAppの事例は、グローバル・サウス全域のコミュニティに浸透している、ビッグテックによる危害の一例だ。これは、独占的な市場での地位がいかにデータの抽出を促進し、人々は選択肢や説明責任に関する正式な仕組みをともなわずにプラットフォームに依存することになるかを示している。これらの問題は世界中で起きているが、その危害はグローバル・サウスではより深刻である。

オンライン偽情報の例を見てみよう。ミャンマーの活動家たちは、Facebookがロヒンギャに対する暴力を煽っているとして、何年も前からその役割を非難してきたが、最近のAmnesty Internationalの報告書で明らかになったように、こうした懸念は聞き入れられないでいる。一方、フィリピンでは、ロドリゴ・ドゥテルテの権威主義的な政府がソーシャルメディアを武器にした。2015年、ジャーナリストでノーベル賞受賞者のマリア・レッサと彼女の新聞社Rapplerは、基本的なオンラインサービスへの無料アクセスをフィリピン人に提供するため、Facebookと提携してInternet.orgイニシアチブを立ち上げた。しかし、アルゴリズムを駆使した大規模な偽情報の拡散を何年も目撃した後、レッサは2021年までに、テック業界で最も声高な一般市民の批判者の一人になっていた。ミャンマーとフィリピンでは、Facebookが「無料」アクセスの取り組みを積極的に推進したことで、オンライン上の偽情報の拡散が加速された。

グローバル・サウスにおけるこうした課題に対するテック企業の投資は、米国での取り組みとは比べものにならない。内部文書によると、Facebookは、米国はこのプラットフォームのユーザーの10%未満しかいないにもかかわらず、誤報に関する予算全体の84%を米国に割り当てている。案の定、Mozilla財団は最近、TikTok、Twitter、Meta(Facebookが今年ブランド名を変更したもの)が、大統領選挙の際にケニアでさまざまな地元の選挙法に違反したことを明らかにした。ついこの間も、NGOのGlobal Witnessは、2022年のブラジル選挙を前に、不正な選挙関連情報を含む広告を出稿することによって、Metaのポリシーをテストにかけた。その結果、同社の選挙広告ポリシーに真っ向から違反する広告がすべて承認さ れた。Global Witnessは、ミャンマー、エチオピア、ケニアでも同様のパターンを発見している。

テクノロジー企業はしばしば、技術者が「低リソース」と呼ぶ言語での誤報や不当な情報をキャッチするのは難しいと主張し、この問題を解決するために必要なのはより多くの言語データであると主張する。しかし、実際には、この問題の多くは、ヨーロッパ以外の地域に対する投資不足に起因している。ケニアの事例では、メタ社のシステムはスワヒリ語と英語の両方でヘイトスピーチを検出することができなかったのだが、これはデータ不足が原因であるという主張とは矛盾する。一方、ビッグテックのコンテンツモデレーターの多くはグローバル・サウスに配置され、その多くが劣悪な環境で活動している。

このような状況を憂えて、Sareeta Amrute, Nanjala Nyabola, Paola Ricaurte, Abeba Birhane, Michael Kwet, Renata Avilaら学者や活動家は、ビッグテックが世界に与える影響をデジタル植民地主義の一形態で特徴づけている。この見解では、主に米国を拠点とするハイテク企業は、多くの点でかつての植民地大国のように機能している、というのだ。米国を拠点とするハイテク企業は、拡張主義的なイデオロギーに基づき、世界規模で自社の経済的ニーズに合わせてデジタル・インフラを整備している。そして、世界中の低賃金で社会から疎外された労働者を搾取している。そして、地域社会に危害を加えながら、ほとんど説明責任を果たさず、実に驚異的な利益を引き出している。主に白人で、男性で、アメリカ人のソフトウェア・エンジニアからなる小さなグループによって設計された社会的慣習を制度化し、彼らが拡大しようとする社会の自己決定を損なう。そして、このすべてをいわゆる「文明化」の使命に結びつけた昔の植民地支配者のように、彼らは「進歩」「開発」「人々の結びつき」「善行」の名において、これらすべてを行うと主張している。

しかし、不当な力が存在する場所には、抵抗があるものだ。世界中の活動家は、デジタル植民地主義の台頭に対抗する独自のデジタル正義のビジョンを持って対応してきた。説明責任を求め、ポリシーや規制の変更を推し進め、新しいテクノロジーを開発し、これらの議論にさまざまな人々を巻き込むことから、グローバル・サウスにおけるデジタル上の権利コミュニティは、すべての人にとってより公正なデジタル社会の未来への道を指し示している。彼らは困難な闘いに直面しているが、すでに大きな成果を上げ、拡大する運動の触媒となり、変革のための強力な新戦略を開発している。その中から、特に3つの戦略について考えてみる。

戦略 1: 言葉を見つける

デジタル上の権利に関する議論は誰にとっても難解なものだが、米国内の関係者の影響力が非常に大きいため、世界の人口の4分の3が英語を話せず、これらの問題について話すための母国語の専門用語がないため、特に不透明なものとなっている。ナイロビ在住の作家で活動家のNanjala Nyabolaは、この課題を解決するために、彼女の「スワヒリ語のデジタル上の権利プロジェクト」を立ち上げた。単純な事実として、世界中の人々が自分たちのコミュニティで、自分たちの言葉でこれらの問題を議論することができなければ、デジタル政策に関する包括的で民主的なアジェンダは存在し得ないということなのだ。

Nyabolaは、ケニアの小説家Ngugi Wa Thiongoがアフリカの母国語で執筆するよう呼びかけた反植民地主義的な活動からヒントを得た。昨年から、Nyabolaは東アフリカの言語学者や活動家と協力し、デジタル上の権利やテクノロジーに関するキーワードにキスワヒリ語の翻訳を提供する活動を開始した。この共同作業の一環として、Nyabolaと彼女のチームは、キスワヒリ語で出版している地元や海外のメディアと協力し、テクノロジー問題の報道にこの語彙を採択するよう働きかけた。また、この地域の学校で配布され、図書館で販売されるフラッシュカードのセットも開発し、オンラインでも入手できるようにした。

このプロジェクトのパワーは、そのシンプルさ、共同作業という性質、そして簡単に再現できることにある。このビジョンの核心は、人々は自分たちの生活を形成しているシステムについて、文脈に応じた知識を得ることで力を得るべきであるということだ。もしグローバルなデジタル上の権利に関する政策提言活動が世界中の多くの人々にとって意味のあるものになるのであれば、このような辞書を数多く開発する必要がある。

戦略2:パブリック・オピニオンを獲得する

デジタル上の権利提言活動は、その根拠となる法律により、しばしば規制を変更し影響を与えることを目指す。この活動は、時に法律の専門家による技術的な作業に陥りがちだが、広く世論を形成することもまた、ポリシーを変える上で中心的な役割を果たす。2015年にインドの活動家が主導したネット中立性(インターネットサービスプロバイダは干渉や優遇措置なしに、すべてのウェブサイトやプログラムへのアクセスを許可すべきであるという原則)を求めるキャンペーンほど適切な例はないだろう。

Facebookは2013年にInternet.org(後にFree Basicsと改名)を立ち上げ、Facebookがコントロールするポータルを通じて、世界中のユーザーがデータ料金なしで選りすぐりのオンラインサービスにアクセスできるようにすることを目指していた。この提案は、グローバル展開とユーザー拡大というFacebookの積極的な戦略の中心をなすものだった。

偶然にも、2015年にインドでFree Basicsが導入されたとき、インドでは「ゼロレーティング」(オンラインサービスへのアクセスを「無料」で提供する慣行)に関する新たな議論が起きていた。当時、いくつかの通信事業者はゼロレーティングの導入に熱心だったが、デジタル上の権利活動家はこれをネット中立性の侵害と批判していた。ゼロレーティングの明確な例として、フリーベーシックスは攻撃や非難などを対象からそらす役割をになうことになった。地元の活動家、プログラマー、政策通は、Save the Internetというキャンペーンを立ち上げ、このプログラムに強く反対する。彼らのウェブサイトでは、人気コメディアンのグループ、All India Bakchodによるネット中立性に関する説明ビデオが紹介され、このビデオは350万ビューを記録し、大流行となった。活動家たちは1年近くにわたり、ネット中立性の解釈をめぐってFacebookと全国的かつ大々的な闘いを繰り広げた。彼らは、自己決定の価値、地元企業の保護、外国企業によるデータ抽出への抵抗などを力強く主張した。

このキャンペーンは、企業の大きな反発を受けた。活動家がデモ行進を行うと、Facebookは地元新聞に広告を掲載した。活動家がTwitterやYouTubeに投稿すると、Facebookは国中の看板広告を購入した。そして、Access NowやColor of Changeといったデジタル上の権利提言活動の国際的なネットワークから活動家が支援を受けると、Facebookはコンピュータを利用した偽の草の根運動キャンペーンを行い、インドの通信規制当局にFree Basicsの支持を表明するメッセージをあらかじめ記入したものを送るようユーザーに呼びかけた。(約1600万人のユーザーがこれに参加した) しかし、このような反対運動にもかかわらず、一般向けのキャンペーンは成功した。インドの規制当局は、ネットの中立性を維持し、ゼロレーティングを禁止し、Free Basicsを事実上インドから追い出すことを決定したのだ。

この勝利は、世界中のデジタル上の権利活動家の間で当然のことながら広く祝福さ れたが、それは同時に、永続的な挑戦の重要性を物語っている。インドで禁止されたにもかかわらず、Free Basicsは他の地域、特にアフリカ大陸で拡大を続け、2019年までに32カ国に達した。また、インドのキャンペーンは、貧困層や農村部の声を除外し、中小企業のためにネット中立性についての中産階級の見解を定着させたと主張する人もいる。とはいえ、このキャンペーンは、グローバルなデジタル上の権利提言活動の将来にとって重要な教訓を含んでいる。おそらく最も重要なことは、デジタル上の権利に関する政策の技術的な問題に対して広範な人々を動員することが、多国籍ハイテク企業の力を抑制する上で大きな役割を果たし得るということである。

戦略3:階級横断的かつ国境を越えた組織化

組合結成と組織化は、ビッグテック自体における変化と説明責任のための有望な手段としても浮上している。2018年、2万人を超えるGoogleの社員が、給与の不平等や同社のセクハラへの対応などに抗議して、ウォーキングアウトを行った。同年、マイクロソフトの社員は、同社の米国移民税関捜査局との業務提携に抗議した。2020年6月1日には、ドナルド・トランプによる扇動的な投稿に対して何もしないという同社の選択に反対するため、数百人のFacebook社員が就業拒否を行った。今日のハイテク企業の組織化は、ホワイトカラー本社の枠を超え、アップルストアで働く小売労働者やアマゾンの倉庫で働くピッカーや パッカーにまで及んでいる。このような組織化の次のフロンティアは、世界中の労働者を取り込むことだ。そして、誰が “テックワーカー “なのか、私たちの理解を広げなければならない。

Adrienne Williams、Milagros Miceli、Timnit Gebruは最近、人工知能の誇大広告の背後にある国境を越えた労働者のネットワーク、あるいは人類学者のMary Grayとコンピュータ科学者のSiddarth Suriがこの業界に蔓延する「ゴーストワーク」と呼ぶものに注目するよう呼びかけている。これにはコンテンツモデレーターだけでなく、データラベラー、配送ドライバー、あるいはチャットボットになりすました人などが含まれ、その多くはグローバル・サウスに住み、搾取的で不安定な条件で労働している。こうした不安定な労働者の抗議のコストは、シリコンバレーの高給取りのハイテク労働者よりもはるかに高い。Williams、Miceli、Gebruが、ハイテク企業の説明責任の将来は、低所得と高所得の従業員の間の横断的な組織化にあると主張するのは、まさにこのためである。

Daniel Motaungのケースを見てみよう。2019年、南アフリカ出身の大学を卒業したばかりの彼は、Facebookの下請け企業であるSamaのコンテンツモデレーターとして最初の仕事を引き受けた。彼はケニアに転勤し、秘密保持契約に署名し、その後、彼が校閲するコンテンツの種類が明らかにされた。1時間2.20ドルで、同僚の一人が「精神的拷問」と表現するほど、Motaungは絶え間なく流れるコンテンツにさらされていた。Motaungと彼の同僚の何人かが、より良い賃金と労働条件(メンタルヘルスサポートを含む)を求めて労働組合活動を行ったところ、彼らは脅迫され、Motaungは解雇された。

この特別な組合結成の努力は失敗に終わったが、Motaungの話は広く知られ、『Time』の表紙を飾った。彼は現在、メタ社とサマ社を不当労働行為と組合潰しで訴えている。グローバル・サウスにおけるコンテンツモデレータの非人間的な労働条件を勇敢に告発することで、Motaungは、技術的説明責任を求める現在の運動の一部となるべき労働者のカテゴリーに対して必要な注意を喚起したのである。彼の活動は、低賃金で働くハイテク労働者が侮れない存在であることを示している。また、明日の内部告発者や組織化された人々のための着地点を準備することを含め、ハイテク業界と外部とのパイプラインを変えることの重要性を示している。


これらの取り組みや他の多くの取り組みを通じて、グローバルなデジタル上の権利提言活動の未来が今まさに描かれようとしている。ある者はハイテク権力に抵抗し、ある者は代替策を開発する。しかし、その場しのぎの進歩にとどまらず、このような活動には持続的な資金調達、制度化、そして国際的な協力が必要だ。

デジタル上の権利提言活動の「グローバル」な側面は、当たり前のことと考えるのではなく、意識的かつ慎重に育成されなければならない。グローバルなデジタル上の権利コミュニティの最も重要なイベントであるRightsCon会議の最近の分析では、Rohan Groverは、セッションを主催する組織の37パーセントが米国を拠点とし、「グローバル」な範囲を主張する組織の49パーセントが米国で登録された非営利団体であることを発見した。現在のデジタル上の権利活動は、そのほとんどが欧米の資金による組織的な支援に依存しており、そこには企業による取り込みが潜んでいる。

しかし、すべての人にとってより公正なデジタルの未来への道筋は、すでに明らかになりつつある。グローバル・サウスで生まれた戦略の中核には、集団的な力の緊急性と必要性を示すビジョンがある。彼らは、企業内外から圧力をかける必要があること、ビッグテックの大都市といわゆる周辺地域から、政策立案者、弁護士、ジャーナリスト、組織者、そしてさまざまなハイテク労働者から圧力をかける必要があることを指摘している。そして何より、テクノロジーがすべての人に説明できるようにするために、なぜ人々によって主導される運動が必要なのかを、彼らは示しているのだ。

トゥーサン・ノーティアス(Toussaint Nothias
スタンフォード大学デジタル市民社会研究所のアソシエイト・ディレクター、アフリカ研究センターの客員教授。

(ラディカル・エルダーズ)私たちの “小綱領(ミニ・プログラム)”

長年社会運動や市民運動などに関わりながら高齢者となった世代にとって、ここに紹介する米国の運動は、ちょっとした問題提起として受けとめてもらえるのでは、と思う。ラディカル・エルダーズは、コロナ下で、1年半にわたる組織化、議論、計画の後、2022年3月26日に設立され、米国内の55歳以上の左翼運動活動家の集団だとその紹介文にある。私も含めて高齢者のアクティビスト(私はこう自称するにはかなり躊躇するが)は、つい、自分を主体としつつも、やはり次の世代への継承に腐心し、資本主義が高齢者に対して固有の矛盾や問題を生み出しているということについての当事者としての関わりについては、優先順位が下りがちかもしれない。しかし、COVID-19が今では、高齢者がもっぱらリスクを負う感染症になるなかで、若年層の重症化リスクが低減していると判断されるにつれて、政府の対応はますます不十分になっている。これは米国でも日本でも同じ状況だ。他方で、米国では、マスク着用へのイデオロギー的な反発もあって、高齢者が感染予防でマスクを着用しづらい環境があることについても危惧している。当然のことだが、資本主義が必要とする人間とは資本が利用できる<労働力>であるか、その可能性をもつ人びとであって、いかなる意味においてももはやその可能性をもたない人びとは文字通りの「コスト」でしかない。やっかいなことに、このコストでしかない人間にも選挙権があり人権があるために、完全には無視できない、ということだ。だから、<労働力>ではありえないか、そうであっても高齢者であるが故に買いたたかれる人びとが、制度への抵抗の意思を明確に示すことが重要になる。福祉や医療産業が、こうした人びとに市場を通じてサービスを供給するとしても、所得に応じてサービスは差別化され、貧困層はサービスから排除される。ラディカル・エルダーズは、医療・福祉領域での完全な無料化を主張している。しかし、以下にあるように、彼らは、これだけではなく、気候変動やグローバルな貧困、戦争への強い関心とともに、デジタルとリアル空間におけるアクセスの権利や高齢の受刑者の解放も要求している。(小倉利丸)

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私たちの “小綱領(ミニ・プログラム)”
(ここをクリックすると、私たちのミニ・プログラムのPDFがプリントアウトできます(英文))

私たちは、米国とその植民地に住む年配者で、破綻した抑圧的な社会システムを、公正で安定した持続可能な社会に置き換えるための闘争に人生を捧げてきた者たちです。

私たちの経験は、それらの闘いが成功するためには、資本主義、植民地主義、帝国主義に明確に反対し、人種差別や白人至上主義、性差別や同性愛嫌悪、年齢差別や能力差別、組織的に排除または抑圧された人々の非人間的な扱いなど、それらの抑圧の実現形態を特に標的としなければならないことを教えています。だからこそ、私たちはこれらの抑圧された集団が直面している問題に細心の注意を払い、意識的にこれらの集団の中にリーダーシップを求めるのです。

私たちのプログラム、要求、計画は、高齢者が公正な社会のための闘いにおいて重要な役割を果たすという理解、そして私たちの闘いは、支配者が私たちが平和で快適な自然な生活を送る手段を否定する社会における生存のためのものだという信念から生じています。

また、私たちの闘いは、同じような生活を求めるこの社会のすべての人々の闘いに寄与するものであり、私たちは自分たちのためだけでなく、子どもや孫、そして将来の世代のためにも闘うのだということを理解しています。

この精神に基づき、私たちは次のことを確実にできる生活を要求します。

– 私たちは人類最後の世代ではありません。私たちの子どもや孫は、私たちが与えようと努力した人生を歩むことができます。

– 私たちの社会は以下のようであるべきでしょう…

  • 気候変動や水・空気の汚染に立ち向かう。
  • 世界の飢餓と疾病をなくすために活動する。
  • すべての化石燃料プロジェクトを終了し、再生可能なエネルギー経済へ移行する。
  • 米国の軍国主義的な外交政策をやめ、戦争、戦争煽動、国際的な威嚇のための莫大な予算をなくす。
  • すべての人々の権利を尊重する。

– 私たちは皆、生活できる連邦年金を保証される。

– 私たちは、プライバシーと家族や友人との接触を守り、私たちの尊厳を尊重し、私たちの安全を優先させる住居を保証される。

– 私たちは、完全に無料で利用できる医療、医薬品、健康維持、在宅医療、介護施設にアクセスすることができる。

– すべての税金は、人間の生命の質と保護を保証するために使われる。

– 私たちは、都市と地方、ローカルと長距離の効果的な公共交通の国家プログラムを利用することができる。

– 私たちは、あらゆるレベルの対面式およびデジタル式の教育を、自由かつ完全に利用することができる。

– 私たちは、フィルタリングされていない高速ブロードバンド・サービスを、自由かつ十分に利用することができる。

– 私たちは、すべての投票所と、すべての人が真に利用しやすく融通の利く投票手続きに、十分かつ簡単にアクセスすることができる。

– 現在投獄されているすべての高齢者を直ちに解放する。

私たちは、これらの点に同意するすべての人が、これらの点を支持し、あなたのコミュニティ内でこれを配布し、あなたの組織がこれらを公に支持するようにすることを求めます。

私たちはあなた方の過去と現在の一部であり、私たちの闘いはあなた方の未来の一部なのです。

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(LeftEast)時機を失した思想。革命とウクライナに関するノート


(訳者前書き) ここに訳出したのは、ウクライナ出身のコミュニスト、アンドリューがLeftEastに寄せたエッセイである。彼は、ウクライナ東部ハルキウ出身で、ハルキウの大半の家庭同様、ロシア語を家族のなかでは話す環境で育ったと、別のインタビューで語っている。ハルキウの住民の大半はロシア語話者だが、だからといってロシア支持だということではないとも語っている。

彼のこのエッセイを読んで、そのスタンスは、私とかなり近いと感じたので、訳そうと思った。私のブログで「いかなる理由があろうとも武器をとらない」と書いたときに、念頭にあったのは、左翼のなかでの、ロシアの侵略に対して武装抵抗することの必要性を主張する議論への違和感があったからだ。現実にウクライナでロシア軍に対して左翼が武装抵抗を選択したとすれば、効果的に遂行するためには、ウクライナ軍やNATOからの軍事支援を否定することは極めて困難だろうと私は判断したが、それだけでなく、日本国内の反応がとても気になった。ウクライナが侵略される状況を目の当たりにして、護憲平和主義を主張してきた人々のなかにかなりの動揺があり、自衛隊や自衛のための武力は容認するが先制攻撃には反対といった、ほとんど無意味な平和主義がむしろ主流を占めてしまったことへの危機感が強かった。これまで私はいわゆる平和主義を主張したことはなかったし、武装抵抗の意義をむしろ肯定する考えを書いてきたこともあったが、今、私は武器を革命の手段として用いることは間違っているとはっきり主張するようになった。アンドリューが武装闘争一般を否定しているのかどうかは不明だが、ウクライナの戦争についてははっきりと、武力は選択肢にならないと主張している。

アンドリューはウクライナで戦争に加担することが、ナショナリズムの構築に加担することにしかならず、それが国民国家の形成を過渡期としてコミュニズムへと至るといった、一昔前の社会主義革命の教科書のような筋書はありえないということをはっきりと断言している。私もそう思う。戦争は、むしろナショナリズムを構築する主要な契機となることは、日本近代の歴史をみれは明らかだと思う。実際には、ナショナリズムが戦争を媒介に作り上げられるにもかかわらず、権力者は、あたかもナショナリズムが戦争前から、いわば「自然」なものとして存在していたかのような虚構をメディア、アカデミズム、教育などを通じて浸透させる。今ウクライナで目撃しているのはこうした事態ではないかと思う。

マルクス主義のなかでは、一国主義か国際主義internationalismかという問題のたてかたが便宜的になされることがあるが、これでは、internationalismがnationalismを基礎とした間ナショナリズム、inter-nationalismとしての国際主義にしかならず、ナショナリズムを払拭できない。植民地からの解放=国民国家の形成という20世紀の解放の道程は、歴史的意義を認めるとしても、それが、最適な解放への道にはならずに、グローバルな国民国家のヘゲモニー構造に組み込まれ、かつ、武力紛争など生存の危機を常に被る結果になった、というのが20世紀の歴史的教訓であって、国民国家が平和や平等な統治機構のモデルにならないことは、この数世紀の人類史が証明してきたことだ。かといって、コスモポリタニズムは、えてして人々が暮すミクロな社会圏の多様性を無視することになりかねない。アンドリューは、最小の抵抗を重視している。これは重要なことであり、人々が一人であれ少数であれ、「党」や全国的な組織に依存することなく抵抗の主体になりうる潜勢力の具体的な姿でもある。

「戦争のない国」といった語義矛盾――戦争を予定しない国家は存在しない――に気づかない護憲の主張が日本では余りにも多すぎると感じてきた。アンドリューはウクライナのナショナリズムを軽視すべきではないと警告している。この警告は、対岸の問題ではない。先ごろ捕虜交換で釈放されたアゾフ大隊のメンバーは、ウクライナで賞賛されているだけではなく、これまでアゾフを極右人種差別主義とみなしてきたニューヨークタイムズがアゾフ大隊を賛美するかのような記事を掲載するまでになってしまった。極右が英雄となる事態は、もちろん、ロシアでも起きてきたことであって、このウクライナの戦争は、どちらが勝っても負けても、戦士は英雄とされ、戦争に抵抗した人々は過酷な弾圧や精神的物質的な制裁を課されることは目にみえている。

彼は、自分の問題提起がなかなか受けいれられないかもしれないという予感をもって書いているように思える。ウクライナでは公的な政治の世界に左翼が占めうる余地が極めて小さい。逆に、そうだからこそ、現実主義的な妥協を批判する余地があるともいえる。彼は左翼のなかにある曖昧な態度を「柔軟剤」にたとえ、ロシアあるいはNATOに寛容になりがちな左翼を批判し、原則的な視点を提起する。逆に、日本のように、革新政党が国会に議席をもち、憲法幻想が強固な国では、ナショナリズムを払拭することはかなり難しい。しかし、だからこそ、戦争を、ナショナリズムを否定する視点から原則を曲げないで見据える議論をすることが、日本ではより重要だと思う。この点で「国家を防衛することを拒否することから出発してのみ、戦争そのものを止めうる唯一の力を練り上げることができる」と彼が主張している点はとても大切な観点になる。

翻訳に際して、いつも迷うのだが、nationやnationalismを、可能な限りカタカナで表記したが、nation-stateは「国民国家」と訳した。nationが国家なのか国民なのか民族なのか、文脈だけでははっきりしないし、nationalismも国民主義、民族主義、国家主義のいずれかに限定することも好ましくないと思い、カナカナ表記あるいは言語を括弧で補った。また。左翼を大文字で表記している場合があり、これも場合によっては原語を補った。また、表題の「時機を失した思想」は、原語ではuntimely thoughtである。untimelyには、時代を先取りするといったニュアンスもる。(小倉利丸)


写真提供:Dominik Kiss(Unsplash.comより)

アンドリュー
投稿日
2022年9月18日
andrewはウクライナ出身のコミュニストで、Endnotes第一部第二部第三部参照)およびTous Dehorsに掲載された「ウクライナからの手紙」の著者である。この記事は、9月10日にWoodbine NYCで行われたプレゼンテーションに基づくものです。


戦争や危機は、正常な状態を一時停止させ、資本主義を支える苦しみと脆さの両方を想起させることで、常に革命家たちの希望をかき立ててきた。

過去の世代の重荷を取り除き、ナショナリズムの神話の力に気付くことは、私たちの時代の革命的可能性を実現するための第一歩となるだろう。エネルギー危機がもたらした長い景気後退下にある私たちの立場から、避けられない欲求不満の反乱を予期して、この歴史の謎をどのように解くことができるかを考えてみることにする。

この危機の分析を試みるには、まず、一定程度問題の枠組みを明確にする必要がある。つまり、答えることが時間の無駄になるような問題と、逆に答えることが生産的であるような問題があるのには理由があるのだ。戦争やナショナリズムに関する古いマルクス主義的な議論の周りをぐるぐる回るのではなく、それらを現在の文脈のなかで把え、過去のコミュニスト運動の失敗の余波の中で私たちの政治的景観を位置づけることによって、もっとうまく対処できるのではないか。今日、あらゆる闘争が旧来の労働者運動のレガシーとは対立しているが、コミュニストの夢の敗北が具体的に体現されたものとしてのソビエト後の空間は、これらの問題に正面から向き合うことを余儀なくさせている。探求の形式を正当化するなかで、私たちは必然的に歴史的内容とコミュニスト戦略の問題に触れることになる。

何よりもまず、「左翼Left」の統一された応答を何とかして作り出そうとする話し合いは、そもそもの出だしが間違っている。こうした地政学の平面で行動することを選ぶ代わりに、私たちの時代の意識的な革命家の弱点を認識することができれば、今日の革命の展望を問い直すことができるだろう。自然発生的な行動の重要性を理解すれば、前衛主義的な幻想を捨て去ることができるだろう。歴史的な反乱を見れば、断絶を生み出す出来事の予測不可能性と、既存の組織の「キャッチアップ」の役割が分かるはずだ。この予測不可能性は、完全な悲観主義だと誤解されてはならない。もし私たちがニヒリズムを政治的手法として採択するとすれれば、暴力の革命的潜在力を予測する方法はないとはいえ、神話の支配の循環に私たちを連れ戻すにすぎないであろう暴力を認識する簡単な方法はある、ということを見ることになろう。つまりこれは、地政学的な運命の川を操作することだけを目論むナショナリストの戦争への動員の試みと失敗に終わる暴力だということだ。法と国家に具現化された神話を自然なものとする力に反対することは、それらを歴史化しようとするコミュニストの試みであるばかりでなく、それらを排除しようとするコミュニストの意図でもある。

ウクライナ戦争をめぐる議論では、私たちが合理的な議論を考え出すことができれば直ちにあらゆる問題を解決するかのような聴衆をイメージして、政治的任務を「説得」と見なすことがあまりにも頻繁にみられるが、これは革命的プロセスの誤認を意味している。革命的な教育は、説得ではなく、アナーキーの諸勢力に味方することによって生まれる。革命的な切断は、急速に変化する条件や新たなつながりの構築を含むだけでなく、事前に予測することが不可能な新たな解決策を生み出すことも必要になる。 私たちをコミュニストにするのは、新たな革命的な組織形態の発明へと向かう開放性であって、旗やスローガンではない。そして、何らかの行動が革命的であるのは、れが他の手段への拡がりをみせ、それらに結びつくことによって解放に向かう場合だけである。

私たちは、革命の自発性と新しさの重要性を認識することによって、労働者の運動――悲しいことに、最近あまりにも多くの話し合いが泥沼化しているのだが――の神話から決別することができるかもしれない。その分裂の歴史的「教訓」を認識することは、民族自決の誤りを認識することを意味するだろう。この歴史認識は、政治的あるいはアカデミックな前衛というよそよそしい環境の中で獲得されるものではなく、私たちの惑星を覆う果てしのないこの世界の観念を具体化するガラクタの山に直面して、活気をなくした大衆運動の限界として感じられるべきものである。願わくば、この寄稿が、日常の暗闇の中で、解放への可能な道を探し出すのに役立つことを願っている。

戦争に対する私たちの立場を確立するにあたっては、国家に関するほとんどの考え方が、広範なコミュニストの伝統に由来していることを理解しなければならないだろう。レーニンと当時の社会民主主義の伝統では、政治のナショナルな形態は、その内実――産業[工業]経済――を「後進国」から「完全な先進国」へと引き上げることを可能にするというだけの理由で正当化された。今では、産業近代化はもはや革命的な地平にはなく、経済と政治はそれほど明確に分かれているようには見えないないことは、繰り返すまでもないことだと思う。何百万人もの人々が貧困と失業に陥り、残された産業基盤は、まず脱工業化によって、そして今度は戦争によって粉々にされた。ウクライナにおける資本主義の復興は、宇宙規模の搾取を伴うことになる。ウクライナ政府は、難民への援助を最小限にとどめ、住宅計画を一切実施せず、「不要不急」の予算支出を削減し、来るべき冬に「誰もが自己責任で」と警告するという道筋を嬉々として示してきた。国家の中に左翼的な政治が存在しないのだから、なおさらである。閉鎖された国境のために、国境越しに壊された何百万もの家族がいるのだが、ヨーロッパの植民地主義の犠牲者には与えられなかった優しさによって受け入れられている。自由化された難民定住制度の優しさによってもまた、彼らはジェンダー化された非正規労働の中に投げ込まれている。

ナショナルな自己決定[民族自決]を理由にウクライナ国家とNATOブロックへの降伏を正当化することは、あなたが現代の左翼Leftの影響力と、国民国家の枠内での解放政治の可能性を過大評価していることを意味するだけではない。それはまた、あなたが、愛国者たちを脱愛国化outpatriotすることを試みつつ、この存在論的なナ ショナリティの世界をよりよくマネジメントしようと夢想していることも意味している。南半球の至るところで生活費の高騰に抵抗しているプロレタリアが、ウクライナのために危機を乗り切れ、と言われるとき、防衛主義者defencistの主張は完全な思い込みの域に達している。階級的な共同作業はウクライナを越えて広がることが期待されており、「諸制度を貫く長征」はNATOにまで達するようになった。

枠組みの問題をクリアした上で、合理的な分析を行うには、「柔軟剤」を断つことが必要になる。つまり、多くの左翼出版物Leftist publicationsがこの状況の現実に直面することを避けるために用いる様々な言い訳という柔軟剤に切り込むことが必要だろう。

まず第一に、大惨事の規模を明確にするために、国際法上のニュアンスをすべて取り払い、ロシアがウクライナで大虐殺を行っているということ、このカタストロフィをきちんと記録に留めることだ。無差別の砲撃、しばしば単に民間インフラに向けられたもの、国外追放、拷問、処刑、エスニックグループ全体をナチスと結びつけて破壊しないまでも再教育の対象としている、といったことだ。現代の戦争の残虐性と破壊性の規模を理解することは、より多くの兵器が問題を解決してくれるなどという幻想を抱かないということだ。私は、ロシアのナショナリスト的な拡張の目的と手段が、すべての人にとって明確であることを願うばかりである。ロシアとベラルーシのパルチザンの行動は、その高い評価があるので、あえて正当化するような議論も必要ないから、ここでは「西側」の反戦戦略に焦点を当てたいと思う。

左翼の立場を水で薄めて、難しい選択に直面しないようにする第二の「柔軟剤」、つまり、米国、欧州連合、英国のこの戦争への関与を「間接的」に過ぎないという建前も捨てなければならないだろう。今日、ウクライナは基本的な予算と産業のニーズを欧米に依存し、「支援」のもろさを思い知らされつつ武器の輸送はほとんど「ジャストインタイム」のスケジュールで行われている。ウクライナ政府は、独自に交渉する能力がないことを何度も示し、今ではほとんど毎週、攻撃、標的、戦術がアメリカのいずれかのエージェンシーによって選択されていることを誇らしげに報告している。終わりのない戦争を支えるナショナルなアウタルキー[国家的自給自足]という幻想を抱いて延命するウクライナ国内で拡大するナショナリスト運動が、戦争推進派の西側諸派の影響力の強さと張り合っているにすぎない。

私たちは、このナショナリストの運動の神話にもっと注意を払うべきである。極右少数派がウクライナの左翼組織を完全に窒息させ、現在の秩序を脅かすような公然の取り組みを不可能にしていることに加え、主流の愛国主義も存在するのである。この10年間、ウクライナの国家建設[nation-bilding]はある種の激しさを増している。この激化は、政府のトップダウン戦略によるものではない(実際、ウクライナの大統領、閣僚、議員の多くは、もっと別の環境を望んでいる)。注意深く調べれば、権力関係のネットワークの拡がりの図式が浮かび上がってくるだろう。このネットワークは、必ずしも制度に付随しているわけではなく、学校や大学、街の広場や街頭行進、雑誌の論壇や若者のサブカルチャーなど、地域ごとに展開されることによって構成されている。このような調査を行うことは、ナショナリズムへの高い評価を真剣に受け止め、ナショナリズムの中で行動するのではなく、これを弱体化させる方法を模索することなのだ。

成長するNGOセクターによって作り上げられたユーロマイダン運動のリベラルな気取りを受け入れるのではなく、また、単に人気の世論調査を理由にその正統性を否定するのではなく、ナショナリズム運動の背後にある真の大衆的な結集を理解する必要がある。地域的な要因や出来事を単独で捉えた場合の相対的な影響の小ささを無視しなければ、私たちは、ナショナリストの主体性subjectivitiesを構築する上で互いに強めあう様々なプロセスのネットワークを理解することができるだろう。この主体化のプロセスは、完全な非政治化と同時に起こる。つまり、ウクライナでファシストやアナーキストであることは、今やフーリガンであること、サッカーの過激論者[football ultra]であることにほかならないのだ。この一見「ポスト・ポリティカル」な風景の背後に、右翼への大規模なシフトが隠されている。

この右翼へのシフトの表れの一つが、ナショナリスト的な歴史的記憶の構築であり、それは常に、ある種のナショナリスト的な未来の構築を伴っている。バンデラという英雄的シンボルの創造におけるウクライナ・ファシズムへの賞賛、高貴なコサックを原ウクライナ人とするロマン主義化、1917年の革命を永久に変ることのないウクライナに対するクーデターであり占領であると表現するような変化、ホロドモールを大衆的な革命後の産業国家の矛盾の表れではなく、ロシア人によるウクライナ人に対する大量虐殺というイメージが定着したことは、存在論的に無垢で高潔な ウクライナ人を創造するという戦略の一部として見た場合にすべて納得がいく。常にロシア人や国内の裏切り者に脅かされているだけでなく、常に西側に裏切られそうになっている危険な存在としてのウクライナ人だ。私たちにとってより重要なのは、歴史の終着点としての国民国家を仮定し、いかなる反乱も裏切り者であると貶める、つまり遺伝的にロシア的であると貶めるのが、反乱に対抗する見方なのだという点である。この神話が、春に前線と隣接する地域で行われた略奪防止の弾圧を促進し、公共生活のあらゆる領域で反逆者狩りを煽り続けている。

革命的敗北主義の課題は、ナショナリストの神話を実践的に弱体化させ、戦争と平和の二項対立を超越することである。つまり、コミュニスト運動だけが、拡大し続ける帝国戦争の敵となり、もう一つのナショナリストの動員によってではなく、まさに帝国戦争の存在条件を弱体化させることによって、帝国戦争に抵抗できるのだ。私たちは、いかなる抵抗も折り悪く非愛国的だと呼ぶのではなく、非常事態の中で不満が爆発することに期待しなければならない。しかし、アナーキーの党をコミュニストと主張するのは早計である。戦争は、神話的暴力の最大の動機であって、私たちは、現代のポグロムと普遍化するコミューンを区別できなければならない。

革命的敗北主義は、受動的プロジェクトの対極にある。つまり、国家を防衛することを拒否することから出発してのみ、戦争そのものを止めうる唯一の力を練り上げることができるのである。戦争に勝ち目がないと主張するとき、私たちは、反撃の不可能性を主張しているのではなく、通常戦の手段による解放の不可能性を主張しているのである。軍隊に参加する左翼は、徴兵制とファシストの海でばらばらになるだけでなく、その誇り高き宣言とともに、目前の問題を解決する正当な手段として軍隊と地政学的外交を支持することに手を貸すことになる。戦争の「理由」を探ろうと試みるなかで、それでもなお「自然な」ナショナリティ[nationalities]の前提に基づいて作戦行動をすることは言い訳にはならない。なぜならば、植民地主義やファシズムは、指導者を排除したり国を占領したりすることで防げるものではなく、それらが育くまれる労働、ジェンダー、人種の世界の基盤を焼き払うことで防げるということを、私たちは完全に自覚しているからだ。

これらの解明を経て、私たちが国家とナショナリズムに対する最も小さな反乱の兆候を探し、戦争の経済的影響がますます広がるなかで、国境をも越えてその伝染と拡散の可能性を理解しようとしなければならないのか、その理由が明確になる。( 必要な ) 外交的解決の可能性について議論するのは刺激的かもしれないが、アメリカの帝国戦争機械の諸派、ロシアの大量虐殺のナショナリスト運動、ウクライナ政府またはファシスト大隊、これらのなかに、私には選択できる味方はいない。金融化された軍事複合体の力の大きさと、それに関わる激昂した愛国主義的な人々の存在は、私たちがこれとは別の次元での可能性を探さなければならないということを意味している。よりマシな「左翼Left」政党に期待するのではなく、ウクライナ国内外において、個人や集団による盗みや徴兵忌避、脱走、社会の雰囲気のなかにあるあらゆる愛国的デタラメと逆らう攻撃などを促し活用することを模索すべきである。 現状維持は破局の継続であり、より良い国民国家は革命への過渡期としては機能し得ないことを認識しつつ、私たちは、直ちに約束を履行するための探求に乗り出さなければならない。この探求は困難であり、失望をもたらすことを覚悟しなければならないが、これは必要なことなのである。

マイケル・クェット:デジタル植民地主義の深刻な脅威

(訳者前書き)以下は、トランスナショナル・インスティチュートのサイトに掲載された論文の翻訳。グローバルな情報資本主義をグローバルサウスの視点から批判した論文として、示唆に富む。この論文は全体の前半部分である。デジタル植民地主義という観点は、日本がデジタル政策の一環としてIT産業のグローバルな展開に力を入れていることも踏まえて忘れてならない観点だ。とくに監視技術と連動した生体認証やAIの技術については、国連のSDGsの政策を巧妙にとりこみながらグローバルサウスの政府への売り込みが進んでいる。また、この論文の教育の章で論じられているように、学齢期から成人までの長期を追跡するシステムの構築や、子どものことから慣れ親しんだ大手IT企業のOSやソフトウェアに拘束されるコミュニケーションスキルの形成は日本のギガスクール構想とも重なる論点だ。同時に、この国のデジタルのプラットフォームが営利目的の資本に支配され、オープンソースやフリーソフトウェアが周辺に追いやられている現状のなかで、日本の活動家たちが、マイクロソフトやAppleのOSを使うことやGAFAのサービスを使うことの意味に無自覚であることについても、この論文では「果たしてそれでいいのか」という問いを投げかけるものになっている。同時に、オープンソースへの関心をもって四苦八苦しながら自分のPC環境を資本や政府の支配から切り離そうとして試行錯誤している活動家たちにとっては、パーソナルな挑戦がどのようにグローバルな資本主義との闘いと連動してるのかを見通す上で、勇気づけられる内容にもなっている。

他方で、先進国にいる私たちから隠されがちなサプライチェーン全体の多国籍企業による支配と表裏一体をなすグローバルサウスにおける搾取(労働力と環境)の問題は、IT産業が主導する現代にあっても古典的な植民地主義、帝国主義の時代と本質は変わっていない。この問題は、国連のような国際組織が取り組む貧困や開発のパラダイムでは解決できないだろう。他方で、この論文ではごくわずかしか言及されていないが、デジタルテクノロジー、とりわけブロックチェーンなどの技術を用いた自律的なコミュニティーの金融への挑戦など、日本ではほとんど議論されていないオルタナティブな社会システム(デジタル社会主義とも言われている)についても興味深い示唆がある。(小倉利丸)

マイケル・クェット

イラスト:Zoran Svilar

2021年3月4日

このエッセイは、TNIがROAR誌と共同で企画した「テクノロジー、権力、解放に関するデジタルの未来」シリーズの一部である。
過去数十年の間に、米国に拠点を置く多国籍「ビッグテック」企業は何兆ドルもの資金を集め、グローバルサウスのビジネスや労働からソーシャルメディアやエンターテインメントに至るまで、すべてをコントロールする過剰な権力を手に入れた。デジタル植民地主義は、いまや世界を飲み込んでいる。

2020年、億万長者たちは山賊のように儲けた。ジェフ・ベゾスの個人保有資産は1130億ドルから1840億ドルに急増した。イーロン・マスクは、純資産が270億ドルから1850億ドル超に上昇し、一時的にベゾスを追い越した。

「ビッグ・テック」企業を率いるブルジョワジーにとって、人生は素晴らしいものだ。

しかし、これらの企業が国内市場で支配力を拡大していることは多くの批判的分析の対象になっているが、その世界的な広がりは、特にアメリカ帝国の有力な知識人たちによって、ほとんど議論されることのない事実である。

実際、ひとたびその仕組みと数字を調べれば、ビッグ・テックがグローバルに展開されているだけでなく、根本的に植民地主義的な性格を持ち、米国に支配されていることが明らかになる。この現象は、“デジタル植民地主義 “と呼ばれている。

私たちは今、デジタル植民地主義が、前世紀における古典的な植民地主義のように、南半球にとって重大かつ広範囲な脅威となるリスクを抱える世界に生きている。格差の急激な拡大、国家と企業による監視の台頭、高度な警察・軍事テクノロジーは、この新しい世界秩序がもたらす結果のほんの一例に過ぎない。この現象は新しいと思う人もいるかもしれないが、過去数十年の間に、世界の現状に定着してしまったのである。相当強力な反権力運動がなければ、状況はもっと悪くなるだろう。

FairCoinと、商品や ServiceをFairCoin建てで提供するオンラインのFairMarketを提供するために、Commons Bankが設立された。この暗号通貨をコントロールすることで、Faircoopは、資本や国家の搾取的な支配の外で生計を立てようとする自営業者に法律や銀行サービスを提供するFreedomCoopのようなコモンズ中心の反資本主義のイニシアチブに資金を提供することができる。

上記の事例は一見バラバラに見えるかもしれないが、市場ベースの価格設定に内在する評価を再考する方法として、しばしば「ブロックチェーン」と呼ばれる「暗号台帳テクノロジー」を利用するという点で共通している。ブロックチェーンは、資本主義的でない新しい価値の測定と追求の方法を提供することで、資本主義に代わる経済の道を追求する能力を約束する。そのための社会的・政治的な力があるとして、そのような試みはどのようなものだろうか。

デジタル植民地主義とは何か?

デジタル植民地主義とは、デジタルテクノロジーを使って他国や他領土を政治的、経済的、社会的に支配することである。

古典的な植民地主義では、ヨーロッパ人は外国の土地を占領し入植し、軍事要塞、海港、鉄道などのインフラを設置し、経済浸透と軍事征服のために砲艦を配備し、重機械を建設し、原料を採掘するために労働力を利用し、労働者を監視するためのパノプティカルな構造物を建設し、高度な経済開発に必要なエンジニア(例えば、鉱物抽出のための化学者)を動員し、さらに、植民地支配のためにデジタル技術を利用した。製造工程に必要な先住民の知識を奪い、原料を母国に輸送して工業製品を生産し、安価な工業製品で南半球の市場を弱体化させ、不平等な世界分業の中で南半球の人々と国の従属関係を維持し、市場と外交と軍事支配を拡大し、利潤と略奪を図った。

言い換えれば、植民地主義は領土とインフラの所有とコントロール、労働力、知識、商品の獲得、そして国家権力の行使に依存していたのである。

このプロセスは何世紀にもわたって発展し、新しいテクノロジーが開発されるたびに追加されていった。19世紀後半には、大英帝国のために海底ケーブルによる電信通信が可能になった。また、情報の記録、保存、整理に関する新しい技術は、フィリピン征服の際にアメリカ軍の諜報機関によって初めて利用された。

今日、Eduardo Galeanoの言う南半球の「Open Vines」は、海を横断する「Digital Vines」であり、主に米国に拠点を置く一握りの企業が所有しコントロールするハイテクエコシステムを繋いでいる。光ファイバーケーブルの中には、GoogleやFacebookが所有またはリースしているものがあり、データの抽出と独占を進めている。今日の重工業は、AmazonやMicrosoftが支配するクラウドサーバーファームであり、ビッグデータの保存、プール、処理に使用され、米帝国の軍事基地のように拡大している。エンジニアは、25万ドル以上の高給取りのエリート・プログラマーからなる企業軍団である。搾取される労働者は、コンゴやラテンアメリカで鉱物を採取する有色人種、中国やアフリカで人工知能データにコメントを付ける安価な労働力、そしてソーシャルメディアのプラットフォームから有害なコンテンツを排除した後にPTSDに苦しむアジアの労働者たちである。プラットフォームと(NSAのような)スパイセンターはパノプティコンであり、データは人工知能ベースのサービスのために処理される原材料である。

より広義には、デジタル植民地主義は不平等な分業を定着させるものであり、支配勢力はデジタルインフラや知識の所有権、計算手段のコントロールを利用して、南半球を永久に従属させる状況に置いてきた。この不平等な分業が発展してきたのである。経済的には、製造業は 価値体系の下位に追いやられ、ハイテク企業が主導権を握る高度なハイテ ク経済に取って代わられた。

デジタル植民地主義の構造

デジタル植民地主義は、ソフトウェア、ハードウェア、ネットワーク接続といった、コンピューティングの手段を形成するデジタル世界の「もの」の支配に根ざしている。

これには、ゲートキーパーとして機能するプラットフォーム、仲介業者によって抽出されたデータ、業界標準のほか、”知的財産 “や “デジタル・インテリジェンス “の私的所有権も含まれる。デジタル植民地主義は、労働搾取、政策取り込み、経済計画から、情報サービス、支配階級の覇権、プロパガンダまで、従来の資本主義や権威主義的統治の手段と高度に統合されるようになった。

まずソフトウェアに目を向けると、かつてプログラマたちによって自由かつ広く共有されていたコードが、次第に私有化され、著作権の対象となるようになった過程を目の当たりにすることができる。1970年代から80年代にかけて、アメリカ議会はソフトウェアの著作権を強化し始めた。これに対して、「フリー&オープンソースソフトウェア」(FOSS)ライセンスという形で、ソフトウェアの使用、研究、変更、共有の権利をユーザーに与えるという流れが生まれた。これは、企業のコントロールや利潤のために利用されることのない「デジタル・コモンズ」を創出するもので、「南半球」の国々にとって本質的な利益をもたらすものだった。しかし、自由ソフトウェア運動が南半球に広がると、企業の反発を招いた。Microsoftはペルー政府がMicrosoftのプロプライエタリなソフトウェアから脱却しようとしたとき、ペルーを非難した。また、アフリカ政府が政府の省庁や学校でGNU/Linux FOSSオペレーティングシステムを使うのを妨害しようとした。

ソフトウェアの私有化と並行して、インターネットはFacebookやGoogleのような仲介サービス業者の手に急速に一元化された。重要なのは、クラウドサービスへの移行が、FOSSライセンスがユーザに与えていた自由を無効にしてしまったことだ。なぜなら、そのソフトウェアは大企業のコンピュータで実行さ れるものだからだ。企業のクラウドは、人々から自分のコンピュータをコントロールする能力を奪ってしまう。クラウドサービスは、ペタバイト単位の情報を企業に提供し、企業はそのデータを使って人工知能システムを訓練する。AIはビッグデータを使って「学習」する。例えば、フォントや形が異なる「A」という文字を認識するためには、何百万枚もの写真が必要だ。人間に適用した場合、人々のプライベートな生活の機微な情報は、巨大企業が絶え間なく抽出しようとする非常に貴重な資源となる。

南半球では、大多数の人が低レベルのフィーチャーフォンやスマートフォンを使っており、データ量に余裕がないのが実情だ。その結果、何百万人もの人々がFacebookのようなプラットフォームを「インターネット」として実感し、彼らに関するデータは外国の帝国主義者によって消費される。

ビッグデータの “フィードバック効果 “は、状況をさらに悪化させる。より多くの、より良質なデータを持つ者は、最高の人工知能サービスを作ることができ、それはより多くのユーザーを引き付け、サービスをより良くするためにさらに多くのデータを提供し、といった具合になるのだ。古典的な植民地主義のように、データは帝国主義勢力の原材料として取り込まれ、帝国主義勢力はデータを加工してサービスを生産し、グローバルな大衆に還元することで、彼らの支配をさらに強め、他のすべての人々を従属的な状況に置く。

Cecilia Rikapは、近刊の『Capitalism, Power and Innovation: Intellectual Monopoly Capitalism Uncovered』の中で、次のように述べている。米国のハイテク大手がいかに知的独占に基づく市場支配力を持ち、超過利潤(rent)を引き出し、労働力を搾取するために、下位企業の複雑な商品連鎖を支配しているかを示している。これにより、彼らはグローバルなバリューチェーンを計画・組織化するための「ノウハウ」と「人材」を蓄積し、知識を私有化し、ナレッジコモンズや公的研究成果を収奪する能力を手に入れた。

例えば、AppleはスマートフォンのIPとブランドから収益を引き出し、商品連鎖に沿った生産を調整している。台湾のFoxconnが運営する製造工場で携帯電話を組み立てる人々、コンゴでバッテリーのために採掘される鉱物、プロセッサを供給するチップメーカーなど、下位の生産者はすべてAppleの要求と気まぐれに服従することになる。

つまり、テクノロジー大手は、商品連鎖の中でビジネス関係をコントロールし、その知識、蓄積された資本、中核的な機能部品の支配から利益を得ているのである。そのため、彼らは製品を大量生産する比較的大きな企業に対しても、下請けとして値切ったり、切り捨てたりすることができる。大学も共犯者である。帝国主義中核国の最も権威ある大学は、学術生産空間において最も支配的な主体である。一方、周辺部や半周辺部の最も脆弱な大学は、最も搾取されており、研究開発のための資金、研究成果を特許化する知識や能力、自分たちの仕事が収奪されたときに反撃する資源がないことが多いのである。

教育の植民地化

デジタルの植民地化がどのように行われるかの一例が、教育分野にある。

南アフリカの教育テクノロジーに関する私の博士論文で詳しく述べたように、Microsoft、Google、Pearson、IBMなどの巨大なテック企業は、南半球全体の教育システムでその勢力を拡大している。Microsoftにとって、これは何も新しいことではない。上に述べたように、Microsoftはアフリカの政府を脅迫して、学校も含めてフリーソフトウェアをMicrosoft Windowsに置き換えさせようとした。

南アフリカでは、Microsoftは教師トレーナーの軍隊を現地に置き、教育システムでMicrosoftソフトウェアをどう使うかについて教師を訓練している。また、ヴェンダ大学などの大学にWindowsタブレットとMicrosoftのソフトウェアを提供し、そのパートナーシップを大々的に宣伝している。最近では、携帯電話会社のVodacom(英国の多国籍企業Vodafoneが過半数を所有)と提携し、南アフリカの学習者にデジタル教育を提供するようになった。

Microsoftは、南アフリカの9つの州教育局のうち少なくとも5つで契約しているトップサプライヤーであるが、Googleも市場シェアを獲得しようとしている。南アフリカの新興企業CloudEdと提携し、州政府との初のGoogle契約締結を目指している。

Michael and Susan Dell Foundationも参入し、州政府にData Driven District (DDD)プラットフォームを提供する。DDDソフトウェアは、成績、出席率、「社会問題」など、教師や生徒を追跡・監視するデータを収集するよう設計されている。学校は収集したデータをリアルタイムではなく毎週アップロードするが、最終的な目標は、官僚的な管理と「縦断的データ分析」(同じグループの個人について収集したデータを長期にわたって分析すること)のために、生徒の行動や成績をリアルタイムで監視することである。

南アフリカ政府は基礎教育省(DBE)のクラウドも拡大しており、最終的には侵襲的なテクノクラート的監視に利用される可能性がある。MicrosoftはDBEに対し、「ユーザーのライフサイクルに渡って」データを収集することを提案し、Microsoft Office 365のアカウントを保持している人は、学校から始まり、成人するまで、政府が教育と雇用の関連性などに関する長期的な分析を行えるようにすることを提案した。

ビッグテックによるデジタル植民地主義は、南半球の教育システム全体に急速に広がっている。ブラジルから執筆したGiselle Ferreiraとその共著者は、「ブラジルで起きていることと、南アフリカの事例(そしておそらく『グローバルサウス』の他の国々)に関するKwet(2019)の分析との類似は顕著である」と述べている。特に、GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)企業が恵まれない学生にテクノロジーを惜しみなく提供するとき、データは平然と抽出され、その後、地域の特異性を重要視しないような方法で扱われる、と述べている。

学校は、ビッグテックにとって、デジタル市場のコントロールを拡大するための絶好の場所になりつつある。南半球の貧しい人々は、政府や企業が無償でデバイスを提供してくれることを当てにしていることが多く、どのソフトウェアを使うかを他人に決めてもらわなければならない。市場シェアを獲得するために、フィーチャーフォン以外の技術にほとんどアクセスできないような子どもたちに提供されるデバイスに、大企業のソフトウェアをあらかじめ搭載しておく以上に効果的な方法はないだろう。これは、将来のソフトウェア開発者を取り込むという利点もある。彼らは、何年も彼らのソフトウェアを使い、そのインタフェースや機能に慣れた後で、( フリーソフトウェアに基づく人々の技術ソリューションではなく) Googleや Microsoftを好むようになるかもしれない。

労働力の搾取

デジタル植民地主義は、南半球の国々がデジタルテクノロジーのための重要なインプットを提供するために、下働きとしてひどく搾取されている点にも表れている。コンゴ民主共和国は、自動車、スマートフォン、コンピューターに使用されるバッテリーに不可欠な鉱物であるコバルトを世界の70%以上供給していることは、以前から指摘されている。現在、民主共和国の14家族が、Apple、Tesla、Alphabet、Dell、Microsoftを、コバルト採掘産業における児童労働の恩恵にあずかっているとして提訴している。また、鉱物の採掘過程そのものが、労働者の健康周囲の環境に悪影響を及ぼすことも少なくない。

リチウムは、チリ、アルゼンチン、ボリビア、オーストラリアが主な埋蔵国だ。中南米各国の労働者の賃金は、裕福な国の基準からすると低く、特に彼らが耐えている労働条件を考えると、その差は歴然としている。データの入手可能性は様々だが、チリでは鉱山に雇用される人々の月給は約1430ドルから3000ドルの間であるのに対し、アルゼンチンでは月給は300ドルから1800ドルと低くなることもある。2016年、ボリビアでは鉱山労働者の月給の最低額が250ドルに引き上げられた。一方、オーストラリアの鉱山労働者の月給は約9,000ドルで、年間20万ドルに達することもある。

南半球の国々は、ハイテク企業にとって安価な労働力を豊富に提供する場所でもある。人工知能データのアノテーション、コールセンターの労働者、Facebookなどのソーシャルメディア大手のコンテンツモデレーターなどだ。コンテンツモデレーターは、ソーシャルメディアのフィードから、血なまぐさいものや性的なものなど、不快なコンテンツを削除する仕事であり、しばしば精神的なダメージを受ける。しかし、インドのような国では、コンテンツモデレーターの年収はわずか3,500ドルであり、しかもそれは1,400ドルから引き上げられた後の金額である。

デジタル帝国は中国か米国か?

欧米では、米国と中国が世界のテクノロジー覇権をめぐって争う「新冷戦」について、さまざまな議論が交わされている。しかし、技術のエコシステムをよく見てみると、世界経済では米国企業が圧倒的に優勢であることがわかる。

中国は数十年にわたる高成長を経て、世界のGDPの約17%を生み出し、2028年までに米国を追い抜くと予測されており、米国帝国は衰退しつつあるという主張(以前は日本の台頭とともに流行した物語)に一役買っている。中国経済を購買力平価で測ると、すでに米国を上回っている。しかし、経済学者のSean Starrsは、国家を「テーブルの上のビリヤードの玉のように相互作用する」自己完結した単位として扱うのは誤りであると指摘する。現実には、アメリカの経済支配力は「低下したのではなく、グローバル化した」のだとStarrsは主張する。このことは、特にビッグ・テックを見たときによくわかる。

第二次世界大戦後、企業の生産活動は国境を越えた生産ネットワークに広がっていった。例えば、1990年代には、Appleのような企業が電子機器の製造を米国から中国や台湾にアウトソーシングし始め、Foxconnのような企業が雇用する搾取工場労働者を利用するようになった。米国の多国籍ハイテク企業は、例えば、Ciscoのような高性能ルータースイッチのIPを設計する一方で、製造能力を南半球のハードウェアメーカーにアウトソーシングすることがよくある。

Starrsは、Forbes Global 2000のランキングによる世界の上位2000社の上場企業を25のセクター別に整理し、米国の多国籍企業が圧倒的に多いことを示した。2013年現在、上位25部門のうち18部門で利潤シェアの面で優位に立っている。彼の近著『American Power Globalized:Rethinking National Power in the Age of Globalization』でStarrsは、米国が支配的な力を維持していることを示している。ITソフトウェア&サービスでは、米国の利益シェアが76%であるのに対し、中国は10%、テクノロジーハードウェア&機器では、米国が63%に対し中国は6%、エレクトロニクスでは、それぞれ43%と10%である。韓国、日本、台湾などの他の国も、これらの分野では中国より優れていることが多い。

したがって、よく言われるように、世界のハイテク覇権争いにおいて米国と中国を対等の競争相手として描くことは、非常に誤解を招くことになる。例えば、2019年の国連の「デジタル経済報告書には、次のように書かれている。「デジタル経済の地理は、米国と中国の2カ国に高度に集中している」。しかし、この報告書はStarrsのような著者が指摘した要因を無視しているだけでなく、中国のハイテク産業のほとんどが中国国内を支配しており、5G(Huawei)、CCTVカメラ(Hikvision、Dahua)、ソーシャルメディア(TikTok)などのいくつかの主要製品やサービスだけが、海外でも大きな市場シェアを持っているという事実も説明していないのである。中国も一部の外国ハイテク企業に多額の投資をしているが、これも外国投資のシェアがはるかに大きい米国の支配を真に脅かすとは言い難い。

現実には、米国が最高のハイテク帝国である。米国と中国以外の国では、米国は検索エンジン(Google)、ウェブブラウザ(Google Chrome、Apple Safari)、スマートフォンとタブレットのオペレーティングシステム(Google Android、Apple iOS)、デスクトップとラップトップのオペレーティングシステム(Microsoft Windows、macOS)、オフィスソフトウェア(Microsoft Office、Google G Suite、Apple iWork)、のカテゴリーでリードしています。クラウドインフラとサービス(Amazon、Microsoft、Google、IBM)、SNSプラットフォーム(Facebook、Twitter)、交通機関(Uber、Lyft)、ビジネスネットワーク(Microsoft LinkedIn)、ストリーミングエンターテイメント(Google YouTube、Netflix、Hulu)、オンライン広告(Google、Facebook)など、さまざまな分野でリードしている。

つまり、個人であれ企業であれ、コンピュータを使っているのであれば、米国企業が最も恩恵を受けているということだ。彼らはデジタルのエコシステムを所有しているのだ。

政治的支配と暴力の手段

米国のハイテク企業の経済力は、政治的・社会的領域における影響力と密接に関係している。他の産業と同様、ハイテク企業の幹部と米国政府の間には回転ドアがあり、ハイテク企業や企業連合は、自分たちの特定の利益、そしてデジタル資本主義全般に有利な政策を求めて、規制当局に多大なロビー活動を展開している。

一方、政府や法執行機関は、ハイテク企業とパートナーシップを結び、自分たちの汚い仕事をさせる。2013年、Edward Snowdenは、Microsoft、Yahoo、Google、Facebook、PalTalk、YouTube、Skype、AOL、AppleのすべてがPRISMプログラムを通じて国家安全保障局と情報を共有していることを明らかにした。その後、さらに多くの暴露があり、企業が保存し、インターネット上で送信されたデータが、国家によって利用されるために、政府の巨大なデータベースに吸い上げられることを世界中が知ることになった。中東からアフリカラテンアメリカに至るまで、南半球の国々がNSAの監視対象になっている。

警察と軍はハイテク企業とも協力している。ハイテク企業は、南の国々を含め、監視製品・サービスの提供者として喜んで小切手を切っている。たとえば、Microsoftは、あまり知られていないPublic Safety and Justice部門を通じて、Microsoftのクラウドインフラ上で技術を運用する「法執行」向け監視ベンダーと幅広いパートナーシップのエコシステムを構築している。これには、ブラジルとシンガポールの警察が購入した「Microsoft Aware」と呼ばれる街全体の指揮統制用監視プラットフォームや、南アフリカのケープタウンとダーバンで展開されている顔認識カメラ付き警察車両ソリューションが含まれる。

また、Microsoftは刑務所産業にも深く関わっている。少年の「犯罪者」から公判前、保護観察、刑務所、そして出所して仮釈放されるまでの矯正の一連の流れをカバーする様々な刑務所向けソフトウェア・ソリューションを提供している。アフリカでは、Netopia Solutionsという会社と提携し、「脱走管理」や「囚人分析」を含むPMS(Prison Management Software)プラットフォームを提供している。

NetopiaのPrison Management Solutionが具体的にどこに展開されているかは不明だが、Microsoftは、”Netopiaはモロッコの(Microsoftパートナー/ベンダー)であり、北・中央アフリカの政府サービスをデジタルに変革することに深くフォーカスしている “と述べている。モロッコは反体制派を残虐に扱い、囚人を拷問した実績があり、米国は最近、国際法に反して西サハラの併合を認めている。

フランシス・ガルトン卿がインドと南アフリカで行った指紋押捺の先駆的な仕事から、アメリカがフィリピンを平定するために生体情報と統計・データ管理の技術革新を組み合わせ、最初の近代的監視装置を形成したことまで、帝国権力は何世紀にもわたって、まず外国人を対象に住民を警察・管理するテクノロジーをテストしてきた。歴史家のAlfred McCoyが示したように、フィリピンで展開された監視テクノロジーの数々は、最終的に米国に持ち帰られ、国内の反体制派に対して使われることにつながるモデルの実験場となったのである。Microsoftとそのパートナーのハイテク監視プロジェクトは、アフリカ人が引き続き、収容所実験の実験台として機能し続けることを示唆している。

結論

デジタルテクノロジーと情報は、あらゆる場所の政治、経済、社会生活において中心的な役割を担っている。アメリカ帝国プロジェクトの一環として、アメリカの多国籍企業は、知的財産、デジタル・インテリジェンス、計算手段の所有とコントロールを通じて、南半球での植民地主義を再構築している。コンピュータが実行する中核的なインフラ、産業、機能のほとんどは、アメリカの国境を越えた企業の私有財産であり、彼らはアメリカ国外において圧倒的な支配力を誇っている。Microsoftや Appleなどの最大手企業は、知的独占企業として世界のサプライチェーンを支配している。

不平等な交換と分業が行われ、周辺部での依存関係が強化される一方で、大量の移民と世界の貧困が永続化する。

富裕国とその企業は、知識を共有し、テクノロジーを移転し、世界の繁栄を共有するための構成要素を平等な条件で提供する代わりに、自らの優位性を守り、安価な労働力と超過利潤のために南を揺さぶることを目指している。デジタル・エコシステムの中核的な構成要素を独占し、学校や技能訓練プログラムに自社の技術を押し込み、南の企業や国家のエリートと提携することで、ビッグテックは新興国市場を取り込んでいる。警察や刑務所に提供される監視サービスからさえ、彼らは利潤のために利益を得るだろう。

しかし、集中した権力の力に対しては、常に反撃する人々が存在する。南半球におけるビッグテックへの抵抗は、アパルトヘイト下の南アフリカでビジネスを展開するIBMや Hewlett Packardなどに対する国際的な抗議の時代まで遡る長い歴史がある。2000年代初頭、デジタル植民地主義に抵抗する手段として、南半球の国々は自由ソフトウェアとグローバルコモンズを一時期受け入れた。そのような取り組みの多くはその後衰退したとのだが。ここ数年、デジタル植民地主義に対抗する新しい動きが出てきている。

この図式の中では、もっと多くのことが起こっている。資本主義が生み出した生態系の危機は、地球上の生命を永久に破壊する恐れが急速に高まっており、デジタル経済の解決策は、環境正義やより広範な平等のための闘いと相互に関係する必要がある。

デジタル植民地主義を一掃するためには、資本主義や権威主義、アメリカ帝国、そしてその知的支援者と対決しようとする草の根運動と関連して、根本原因や主要なアクターに挑戦する異なる概念的枠組みが必要である。

著者について
ロードス大学で社会学の博士号を取得。イェール大学ロースクール情報社会プロジェクトの客員研究員でもある。Digital colonialism: US empire and the new imperialism in the Global Southの著者。また、VICE News、The Intercept、The New York Times、Al Jazeera、Counterpunchで記事を執筆している。

このエッセイは、TNIのFuture Labのseries on Technology, Power and Emancipationの一部であり、ROAR誌と共同で企画されたものである。

他のエッセイは以下の通り。 The Intelligent Corporation: Data and the digital economy および  Blockchains: Building blocks of a post-capitalist future?

連載「意味と搾取」ご案内

青弓社のオンラインサイト「青い弓」で表記のタイトルで連載を開始しています。無料でお読みいただけます。現在、第二章まで掲載済みです。 人工知能の時代における監視社会に対する原理的な批判を意図しています。

表題の意味と搾取に含意されているのは、マルクスの搾取理論(剰余価値に収斂する価値理論)を搾取の特殊理論として位置づけ直し、搾取の一般理論の構築を目指すものです。つまり、搾取と呼ばれる事態は、マルクスが想定した剰余労働の剰余価値という事態を越えて労働(家事労働のようないわゆるシャドウワークも含む)総体から人間の行為や「(無意識を含む)意識」全体を覆う人間にとっての意味の資本主義的な「剥奪と再意味化」とでもいうべき事態と関わるものだという観点に基くものです。監視社会と呼ばれる事態がなぜもたらされてきたのかという問題は、資本主義が究極に目指しているのが、経済的搾取を越えて、この社会に暮す人々の意識と存在の文字通りの意味での「資本主義化」であり、完全な操作可能な対象としての人間という不可能な悪夢にあるという問題と関わります。そしてこの問題は、マルクスが十分に分析することなく脇に置いた商品の使用価値への注目を必要とするものでもあります。使用価値が人間(労働者であり消費者でもある存在)の行為の意味を再構築するだけでなく、それ自体がアルゴリズムの構造に組み込みうるかのようなテクノロジーの開発が突出してきた事態と関わります。20世紀資本主義はマルクスの資本主義批判への資本主義的な応答だと私は考えています。そのことを、土台の上部構造化、上部構造の土台化という唯物史観の資本主義的な脱構築と、コンピュータ化がもたらしたこれまで人類が経験してこなかった「非知覚過程」の構造化を通じた搾取の構造化として構想しています。更に、こうした資本主義的な包摂を支える科学への批判とともに、この包摂を超える観点を模索することを企図してこの連載を書きはじめました。ネットで読むには長すぎるかもしれませんが、ぜひお読みください。

序章 資本主義批判のアップデートのために

0−1 あえて罠に陥るべきか…

0−2 連載の構成

第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合

1-1 機械と〈労働力〉――合理性の限界

機械が支配した時代

道具、機械、歴史認識

資本の秘技

1-2 身体性の搾取をめぐるコンテクスト

知識・技術・身体性の搾取

経済的価値をめぐる資本主義のパラレルワールド

非合理性と近代の科学技術

1-3 融合する土台と上部構造――支配的構造の転換

構造的矛盾の資本主義的止揚

資本主義の支配的構造

第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱

2-1 デホマク

ビッグデータ前史

IBMと網羅的監視

制御の構成――社会有機体の細胞としての人間=データ

法を超越する権力

2-2 行動主義と監視社会のイデオロギー

意識の否定――J・B・ワトソン

支配的な価値観を与件とした学問の科学性

道具的理性――資本主義的理論と実践の統一

行為と動機――行動主義と刑罰


三章以下は7月以降に公開されます。

Appleが暗号政策を転換(エンド・ツー・エンド暗号化が危機に)

ここ数週間、監視社会問題やプライバシー問題にとりくんでいる世界中の団体は、アップルが政策の大転換をしようとしていることに大きなショックを受けました。これまでユーザしか解読できないとされていたエンド・ツー・エンド暗号化で保護されていたはずのiCloudに捜査機関が介入できるようにするという声明をAppleが出したのです。以下はこのアップルの方針転換への世界各国91団体による反対声明です。日本ではJCA-NETが署名団体になっています。

いつものことですが、人権団体が取り組みにくい問題(今回は主に児童ポルノ)を突破口に、暗号化に歯止めをかけようとする米国政権の思惑が背後にあると思います。日本でもデジタル庁が秋から発足します。官民一体の監視社会化に対抗できる有力な武器は暗号化ですが、そのことを「敵」も承知していて、攻勢を強めているように思います。今回はAppleの問題でしたが、日本政府の暗号政策での国際的な取り組みの方向は明確で、捜査機関には暗号データを復号可能な条件を与え、こうした条件を満たさない暗号技術の使用を何らかの形で規制しようとするものになるのではと危惧しています。とくにエンド・ツー・エンドと呼ばれる暗号の場合、解読できるのは、データの送り手と受け手だけです。自分のデータをクラウドに上げている場合、クラウドでデータが暗号化されており、その暗号を解読する鍵をクラウドサービスの会社も持っておらず、コンテンツにアクセスできない、といった場合がこれに該当します。これまでAppleのiCloudはこのようなエンド・ツー・エンド暗号化でユーザーを保護してきたことが重要な「売り」だったわけですが、この方針を覆しました。メールではProtonmailやTutanotaが エンド・ツー・エンド暗号化のサービスを提供しています。Appleが採用した方法は、私の理解する範囲でいうと、自分が保有しているデバイスの写真をiCloudにアップロードするときにスキャンされて、児童ポルノに該当すると判断(AIによる判断を踏まえて人間が判断するようです)された場合には、必要な法的手続がとられたりアカウントの停止などの措置がとられるというもののようです。これをiPhoneなど自分が保有しているデバイスに組み込むというわけです。これはある意味ではエンド・ツー・エンド暗号化の隙を衝くようなやりかたかもしれません。画像スキャンや解析の手法と暗号化との組み合わせの技術が様々あり、技術の詳細に立ち入って論評できる能力はありませんが、問題の本質的な部分は、自分のデバイスのデータをOS提供企業がスキャンしてそれを収集することが可能であるということです。スキャンのアルゴリズムをどのように設計するかによって、いくらでも応用範囲は広がると思います。児童ポルノはこうした監視拡大の最も否定しづらい世論を背景として導入されているにすぎず、同じ技術を別の目的で利用することはいくらでも可能ではないかと考えられます。OS提供企業が捜査機関や政府とどのような協力関係を結ぼうとするのかによって、左右されることは間違いありません。ちなみに、iCloudそのものは暗号化されているというのが一般の理解で、わたしもそう考えてきましたが、復号鍵をAppleが保有しているとも指摘されているので、もしこれが本当なら、そもそものエンド・ツー・エンドの暗号化そのものすら怪しいことになります。

このAppleの決定はたしかに意外ではありますが、他方で全く予想できなかったことかといえばそうではないと思います。とくに米国の多国籍IT企業は、トランプの敗色が濃くなったころから、掌を返したようにトランプやその支持者を見限ったように、企業の最適な利益を獲得するために権力に擦り寄ることはとても得意です。バイデン政権は民主党伝統の「人権」政策を押し立てるでしょうから、今回のAppleの決定もこうした政権の傾向と無関係だとは思いせん。そして、常にインターネットをめぐる問題、あるいは私たちのコミュニケーションの自由を規制しようとする力は、「人権」を巧妙に利用してきました。人道的介入という名の軍事力行使もこの流れのひとつであるように、人権も人道も政治的権力の自己再生産のための道具でしかなく、資本主義がもたらす人権や人道と矛盾する構造を隠蔽する側に立つことはあっても、こうした問題を解決できる世界観も理念も持っているとはいえないと思います。今回は「児童ポルノ」など子どもへの性的暴力が利用されました。児童ポルノをはじめとする子どもの人権を侵害するネットが槍玉に挙げられることはこれまでもあったことですが、こうした規制によって子どもへの性的暴力犯罪が解決したとはいえず、子どもの人権の脆弱な状況に根本的な改善がみられたわけでもなく、もっぱら捜査機関などの権限だけが肥大化するという効果しかもたらしていません。現実にある暴力や差別などの被害を解決するという問題は、現実の制度に内在する構造的な問題を解決することなくしてはありえないことであり、その取り組みは既存の権力者にとっては自らの権力を支えるイデオロギー(家父長制イデオロギーや性道徳規範など)の否定が必要になる問題です。だからこそ、こうした問題に手をつけずに、ネットの表象をその身代わりにすることで解決したかのようなポーズをつくることが繰り返されてきたのだと思います。

この公開書簡の内容はいろいろ不十分なところもあります。上述したようにAppleがなぜ方針転換したのかという背景には切り込んでいませんし、暗号化は悪者も利用する道具であることを前提してもなお暗号化は絶対に譲ってはならない私たちの権利だという観点についても十分な議論が展開されていません。こうした議論が深まらないと、網羅的監視へとつきすすむグローバルな状況に対抗する運動も政策対応以上のものにはならないという限界をかかえてしまうかもしれません。議論は私(たち)に課せられた宿題なので、誰か他の人に、その宿題をやってもらおうという横着をすべきではないことは言うまでもありませんが。

(付記)iCloudの暗号化については以下のAppleのサイトを参照してください。

https://support.apple.com/ja-jp/HT202303?cid=tw_sr

下記の記事が参考になりました。

(The Hacker Factor Blog)One Bad Apple

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出典: https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/130

JCA-NETをはじめとして、世界中の91の団体が共同で、アップル社に対して共同書簡を送りました。以下は、その日本語訳です。 英語本文はこちらをごらんください。


公開書簡

宛先:ティム・クック
Apple, Inc.CEO

クック氏へ。

世界中の市民権、人権、デジタルライツに取り組む以下の団体は、Appleが2021年8月5日に発表した、iPhoneやiPadなどのApple製品に監視機能を搭載する計画を断念することを強く求めます。これらの機能は、子どもたちを保護し、児童性的虐待資料(CSAM)の拡散を抑えることを目的としていますが、保護されるべき言論を検閲するために使用され、世界中の人々のプライバシーとセキュリティを脅かし、多くの子どもたちに悲惨な結果をもたらすことを懸念しています。

Appleは、テキストメッセージサービス「Messages」の画像をスキャンする機械学習アルゴリズムを導入し、ファミリーアカウントで子どもと特定された人との間で送受信される性的表現を検出すると発表しました。この監視機能は、アップルのデバイスに組み込まれます。このアルゴリズムは、性的に露骨な画像を検出すると、その画像がセンシティブな情報の可能性があることをユーザーに警告します。また、13歳未満のユーザーが画像の送受信を選択すると、ファミリーアカウントの管理者に通知が送られます。

性的表現を検出するためのアルゴリズムは、信頼性が低いことが知られています。芸術作品、健康情報、教育資料、擁護メッセージ、その他の画像に誤ってフラグを立ててしまう傾向があります。このような情報を送受信する子どもたちの権利は、国連の「子どもの権利条約」で保護されています。さらに、Appleが開発したシステムでは、「親」と「子」のアカウントが、実際には子どもの親である大人のものであって、健全な親子関係を築いていることを前提としています。こうした前提は必ずしも正しいものではなく、虐待を受けている大人がアカウントの所有者である可能性もあり、親への通知の結果、子どもの安全と幸福が脅かされる可能性もあります。特にLGBTQ+の若者は、無理解な親のもとで家族のアカウントを利用しているため、危険にさらされています。この変更により、送信者と受信者のみが送信情報にアクセスできるエンドツーエンドで暗号化されたメッセージシステムを通じた機密性とプライバシーがユーザーに提供されなくなります。このバックドア機能が組み込まれると、政府はアップル社に対して、他のアカウントへの通知や、性的表現以外の理由で好ましくない画像の検出を強制することが可能になります。

また、Appleは、米国の「National Center for Missing and Exploited Children(行方不明および搾取される子供のための全国センター)」やその他の子供の安全に関する組織が提供するCSAM画像のハッシュデータベースを自社製品のOSに組み込むと発表しました。これは、ユーザーがiCloudにアップロードするすべての写真をスキャンします。一定の基準に達した場合には、そのユーザーのアカウントを無効にし、ユーザーとその画像を当局に報告します。多くのユーザーは、撮影した写真を日常的にiCloudにアップロードしています。このようなユーザーにとって、画像の監視は選択できるものではなく、iPhoneやその他のAppleデバイス、そしてiCloudアカウントに組み込まれています。

この機能がApple製品に組み込まれると、Appleとその競合他社は、CSAMだけでなく、政府が好ましくないと考える他の画像も含めて写真をスキャンするよう、世界中の政府から大きな圧力を受け、法的に要求される可能性があります。それらの画像は、こうした企業が人権侵害や政治的抗議活動、「テロリスト」や「暴力的」コンテンツとしてタグ付けした画像であったり、あるいはスキャンするように企業に圧力をかけてくる政治家の不名誉な画像などであるかもしれないのです。そしてその圧力は、iCloudにアップロードされたものだけでなく、デバイスに保存されているすべての画像に及ぶ可能性があります。このようにしてAppleは、世界規模での検閲、監視、迫害の基礎を築くことになります。

私たちは、子どもたちを守るための取り組みを支援し、CSAMの拡散に断固として反対します。しかし、Appleが発表した変更は、子どもたちや他のユーザーを現在も将来も危険にさらすものです。私たちは、Appleがこのような変更を断念し、エンドツーエンドの暗号化によってユーザーを保護するという同社のコミットメントを再確認することを強く求めます。また、Appleが、製品やサービスの変更によって不均衡な影響を受ける可能性のある市民社会団体や脆弱なコミュニティと更に定期的に協議することを強く求めます。

敬具

[署名団体]
Access Now (Global)
Advocacy for Principled Action in Government (United States)
African Academic Network on Internet Policy (Africa)
AJIF (Nigeria)
American Civil Liberties Union (United States)
Aqualtune Lab (Brasil)
Asociación por los Derechos Civiles (ADC) (Argentina)
Association for Progressive Communications (APC) (Global)
Barracón Digital (Honduras)
Beyond Saving Lives Foundation (Africa)
Big Brother Watch (United Kingdom)
Body & Data (Nepal)
Canadian Civil Liberties Association
CAPÍTULO GUATEMALA DE INTERNET SOCIETY (Guatemala)
Center for Democracy & Technology (United States)
Centre for Free Expression (Canada)
CILIP/ Bürgerrechte & Polizei (Germany)
Código Sur (Centroamerica)
Community NetHUBs Africa
Dangerous Speech Project (United States)
Defending Rights & Dissent (United States)
Demand Progress Education Fund (United States)
Derechos Digitales (Latin America)
Digital Rights Foundation (Pakistan)
Digital Rights Watch (Australia)
DNS Africa Online (Africa)
Electronic Frontier Foundation (United States)
EngageMedia (Asia-Pacific)
Eticas Foundation (Spain)
European Center for Not-for-Profit Law (ECNL) (Europe)
Fight for the Future (United States)
Free Speech Coalition Inc. (FSC) (United States)
Fundación Karisma (Colombia)
Global Forum for Media Development (GFMD) (Belgium)
Global Partners Digital (United Kingdom)
Global Voices (Netherlands)
Hiperderecho (Peru)
Instituto Beta: Internet & Democracia – IBIDEM (Brazil)
Instituto de Referência em Internet e Sociedade – IRIS (Brazil)
Instituto Liberdade Digital – ILD (Brazil)
Instituto Nupef (Brazil)
Internet Governance Project, Georgia Institute of Technology (Global)
Internet Society Panama Chapter
Interpeer Project (Germany)
IP.rec – Law and Technology Research Institute of Recife (Brazil)
IPANDETEC Central America
ISOC Bolivia
ISOC Brazil – Brazilian Chapter of the Internet Society
ISOC Chapter Dominican Republic
ISOC Ghana
ISOC India Hyderabad Chapter
ISOC Paraguay Chapter
ISOC Senegal Chapter
JCA-NET (Japan)
Kijiji Yeetu (Kenya)
LGBT Technology Partnership & Institute (United States)
Liberty (United Kingdom)
mailbox.org (EU/DE)
May First Movement Technology (United States)
National Coalition Against Censorship (United States)
National Working Positive Coalition (United States)
New America’s Open Technology Institute (United States)
OhmTel Ltda (Columbia)
OpenMedia (Canada/United States)
Paradigm Initiative (PIN) (Africa)
PDX Privacy (United States)
4
PEN America (Global)
Privacy International (Global)
PRIVACY LATAM (Argentina)
Progressive Technology Project (United States)
Prostasia Foundation (United States)
R3D: Red en Defensa de los Derechos Digitales (Mexico)
Ranking Digital Rights (United States)
S.T.O.P. – Surveillance Technology Oversight Project (United States)
Samuelson-Glushko Canadian Internet Policy & Public Interest Clinic (CIPPIC)
Sero Project (United States)
Simply Secure (United States)
Software Freedom Law Center, India
SWOP Behind Bars (United States)
Tech for Good Asia (Hong Kong)
TEDIC (Paraguay)
Telangana (India)
The DKT Liberty Project (United States)
The Sex Workers Project of the Urban Justice Center (United States)
The Tor Project (Global)
UBUNTEAM (Africa)
US Human Rights Network (United States)
WITNESS (Global)
Woodhull Freedom Foundation (United States)
X-Lab (United States)
Zaina Foundation (Tanzania)

愛国主義のイデオロギー装置としてのオリンピック:シモーヌ・バイルス途中棄権への右派メディアの非難

米国の体操選手、シモーヌ・バイルスが途中棄権したことは、たぶん、世界的にはトップの報道の出来事ですが、日本のメディアの関心は低いですね。

Daily Beastによると、米国内の右派メディアなどがバイルスに対して一斉に非難の声を上げているとのこと。 「保守的な評論家やライターの多くが、バイルスに「傲慢」「利己的」というレッテルを貼り、彼女が子どもたちの良いお手本にならないと主張」という記事のなかで、いくつかの右派の論客やメディアを紹介しています。

いずれも、メンタルの問題を理由に途中棄権するなどは許せないというわけですが、国を代表している選手が自分の都合で棄権し、しかも謝罪すらしない、結果として金メダルはロシアがさらった…といったことを罵っている。こうした人たちが複数の右派メディアなどで繰り返しているようです。(右派メディアそのものにアクセスして確認できていません)バイルスは、先に、自身の性的虐待被害とメンタルな問題を抱えてきたことを公表しています。彼女が黒人で最も人気のあるアスリートのひとりであることとともに、彼女のこれまでの行動にも右派にはがまんならなかったのかもしれません。

国際スポーツを国別の戦いとみなし、アスリートを国家の代表とみなすことに疑問の気持ちをもつ人は極めて少ない。スポーツは国別の競技でなければならない理由はないにもかかわらず、ほとんどの人が国別競技を肯定しています。なぜなのかを考える必要があります。 国別競技は、愛国主義と共振して増幅されるような心理構造をつくりだし、右派のアイデンティティでもある愛国主義がこの関係を率直に示しているように思います。表彰式はこの心理をシンボリックに可視化して再生産する仕掛けですから、もともと人々が本来的にもっている愛国心が表出したというよりも、オリンピックそのものが愛国心を生み出す装置の一翼を担い、アスリートがこの装置を表舞台で担うようにスポーツの教育や産業ができあがっているということでしょう。だから途中棄権などは愛国主義を刺激して攻撃される。戦争における徴兵拒否、敵前逃亡、戦線離脱などへの非難とほぼ同じ心理が作用していると思います。

バイルスのようなケースがでてきたので、ニュースになったわけですが、表面化されない形でオリンピックがナショナリズムや愛国主義を人々の心理に浸透させる効果が発揮されていて、このことをほとんどの人は気づかずに当たり前の感情として受け入れている。日本の場合ももちろん同じ構図があると思います。メディアのオリンピック中継は感情を愛国主義に動員する格好の手段になっています。だからボイコットなのですが、多くの人たちは、この感情に誘惑されて観て感動したい、ということになります。バッハも政府も広告代理店もテレビもネットも愛国主義の装置になりうるということを忘れてはならないと思っています。

欧州におけるFar Right政治テロ

以下は、ROARマガジン 10号のオンライン版に掲載されたLiz FeketeへのROARの編集者Joris Leverinkのインタビュー記事の飜訳です。文中、日本語ではほぼ一括して「極右」と訳される“extreme,” “far,” “hard,” “ultra”-right” が使い分けられているので、これらは原語のままとしました。(小倉利丸 2021年5月16日改訳)

フランスの大統領選に立候補したマリー・ルペン、ドイツのPEGIDA(ペギーダ)、ハンガリーのEU国境で移民を狩るファシスト集団など、過去20年間、欧州各地で過激な右翼政党や運動が復活している。こうした人種差別的なイデオロギーの人気が高まっている背景には、欧州の多くの政府が実施している新自由主義的な緊縮財政政策の結果、経済的な不安定さや社会的な不安定さ、政治的な偏向が高まっていることがある。

COVID-19のパンデミックは、草の根の連帯活動を通じて人々をひとつにまとめ、私たち全員の利益のために社会の中で最も弱い立場にある人々を守ることの重要性を再認識させた。しかし、このパンデミックは、移民や難民などの社会的弱者をスケープゴートにしたり、ますます不足する資源を獲得するための無価値な競争相手にしたりすることで、社会の断片化、個人化、偏向化をさらに進める可能性も秘めている。

ROARの編集者Joris Leverinkのこのインタビューでは、Institute of Race Relationsのディレクターであり、『Europe’s Fault Lines:Racism and the Rise of the Right』(Verso Books, 2019)』の著者であるLiz Feketeが登場します。リズ・フェケテは、人種差別と極右を研究してきた数十年の経験をもとに、ヨーロッパにおける至高主義イデオロギーの深い根源、far rightのさまざまな現れ方、extreme rightによる警察や軍への浸透、新自由主義、緊縮財政、権威主義、外国人恐怖症などとの関連性について説明している。

右翼からの脅威の高まりに対応して、彼女は 「文化的多元主義を守るために…ヨーロッパの人道的伝統の中で最も優れたものをすべてとり入れる 」反ファシスト運動の必要性を訴えている。

●この10年間で、極右の政党や運動の力、広がり、訴求力が恐ろしく高まっています。2011年のブレイビクの襲撃事件から、2017年のルペンのフランス大統領選への立候補、そして最近ではハヌアでの人種差別的な襲撃事件まで。しかし、これは新しい現象とは程遠いものです。あなたは、ヨーロッパには 「人種差別と権威主義の長い歴史がある 」と主張していますね。ヨーロッパ全体での右派の台頭を理解するのに役立つ、歴史的な背景を少し教えてください。

私は歴史家ではありませんので、ファシズムをめぐる活動や執筆活動の中で学んだことをもとにしています。

ヨーロッパの暗い過去は、通常、ナチスドイツやソ連の全体主義体制の観点からのみ理解されていますが、フランスやイギリスを中心とした植民地主義や、南ヨーロッパの独裁政権なども、ヨーロッパに長い影を落としています。

ナチス・ドイツやソ連を強調しすぎて、フランスやイギリスの経験を犠牲にすることは、我々の社会で中心的な地位を占めていた人々が犯した犯罪を忘れてしまうような、一種の歴史的近視を引き起こします。人種差別は、植民地時代と帝国時代の重要な組織メカニズムであり、南ヨーロッパの権威主義は、冷戦時代に西ヨーロッパの大国によって育てられました。アイルランド、バスク、カタルーニャなどの地域や民族自決運動の弾圧は、ヨーロッパの歴史の重要な部分を占めています。

1961年にパリで行われたフランスとアルジェリアの戦争に抗議した300人ものアルジェリア人が殺されたり、警察にセーヌ川に投げ込まれて溺れたりしたことも忘れてはなりません。

このように、ヨーロッパの歴史の中で極端な例外として描かれている2つの全体主義体制に焦点を当てることで、フランコのスペイン、(ゲオルギオス・パパドプロス)大佐政権下のギリシャ、サラザールのポルトガルにおける反共産主義の右派独裁政権に対する西欧列強の支援が見えなくなってしまうのです。また、戦後の人種科学や優生学プログラムへの継続的な熱意も記録から消えている(例えばスウェーデンでは、1976年までロマの女性に対する強制的な不妊手術が行われていた)。

私は、独裁政治、植民地主義、人種科学、優生学の遺産にますます興味を持っています。これを単なる歴史の問題としてではなく、「黄金の夜明け」に関する最近の記事で書いているように、この遺産は今も私たちの中にあると考えています。

独裁は、帝国と同様に、過去のものではなく、現在の私たちを支配する構造、政策、プロセス、政治文化にその痕跡を残す支配の構造です。

●21世紀の極右勢力にはさまざまな顔があり、その代表者はブリュッセルの欧州議会の廊下からヨーロッパ南部の国境のパトロールまで、どこにでも見られます。“extreme,” “far,” “hard,” “ultra”-rightの違いは何でしょうか。また、なぜこのような区別をすることが重要なのでしょうか?

誰もがナチスやファシストだと言うだけでは、効果がありません。彼らを本気で打ち負かそうとするならば、道徳的であるだけではなく、戦略的、戦術的である必要があります。

学者たちは、右翼をそれぞれの “ファミリー “という観点から研究しています。右翼のどのファミリー、傾向、異なるグループ、政党、組織から生まれてくるのかを理解することは重要です。しかし、学者は分類にとらわれる傾向があり、何が変化しているのかが見えてこないのです。私は『Europe’s Fault Lines』の中で、万華鏡のイメージを使って次のように論じています。「政党や傾向の形成と再形成は、万華鏡の中のガラスの破片の動きのようなもので、筒を回転させるたびに新しいパターンや形態をとる」。

私は、一見バラバラに見えるさまざまな選挙基盤が集まったときに生まれる新しいパターンを示すために、また、イギリスの保守党のようなかつての中道右派政党が極右のプログラムの要素を取り入れている様子をとらえるために、「強硬右派hard right」という言葉を使っています。

「極右extreme right」とは、伝統的な保守政党の右に位置する政党で、特に人種差別的な言葉やレトリックの使用をいとわず、民主主義の枠組みの中で活動し、選挙に参加し、暴力を主張するまでには至らない傾向にある政党を指します。

最後に、「極右far right」は、ごく少数の例外を除き、暴力を否定せず、その国のファシストやネオナチの過去とより密接に関連しているという点で、極右extreme rightとは区別されます。

1990年代以降、extremist政党は、社会の周辺部から中心部へと移動し、地方レベルでの権威を強化し、欧州各地の自治体や地域政府に権力基盤を確立してきました。私たちは、中心部と周辺部、そして極右extreme rightと新たに構成されたhard rightとの間の収斂と親和を目の当たりにしています。

●最近の著書の序文では、「今日の人種差別、ポピュリズム、ファシズムについて何が新しいのか、そして1930年代の古典的ファシズムと何が違うのかを発見したい」というニーズが執筆の動機になったと述べています。今日の人種主義、ポピュリズム、ファシズムについて何が違うのか、そしてこの違いを理解することがなぜ私たちの政治的組織化に重要なのか、説明していただけますか?

古典的ファシズムは、1930年代に国民国家間の帝国的な対立が激しかった時代に生まれました。今日では、国境を越えた資本の代理人となった国民国家の力がはるかに弱まっているため、状況は異なっている。古典的なファシズムも「国家の恐怖」によって運営されていましたが、今日の世界では、異論を唱える人々や過剰人口をテクノロジーによって選択的に抑圧することができるため、国家が大衆を見境なく抑圧する必要はなくなっているのです。

私たちが目にしているのは、警察が主導する、未登録の移民、多文化貧困層、黒人やますます増加する権利を奪われた白人に対する戦争です。忍び寄る流動化―テクノロジーを通じた政府―が舞台裏ですでに起きているために、型どおりの例外状態を設ける必要はもはやありません。

残念なことに、この「技術的フィックス」と権威主義的な漂流は、パンデミックによって激化しています。ロックダウンは、多文化が共存する地域での厳重な取り締まりをもたらし、ロマや移民のコミュニティは、対象を絞った隔離や軍事的な監禁区域に置かれています。国はこの危機を利用して、コロナウイルスのデータプラットフォームを構築し、警察産業複合体、特に移民局とつながりのある民間企業が、機密性の高い個人情報にアクセスできるようにしています。

ファシズムは、単なるイデオロギーや思想の集合体ではなく、人間の生活そのものに対する姿勢なのです。このような動きは、社会的、市民的、民主的な権利だけでなく、人間の尊厳をも脅かすものです。

なぜこれが組織化にとって重要なのか?私たちは、誰が最も抑圧され、最も監視されているのかを特定しなければなりません。国家権力の影響力は私たち皆に異なる影響を及ぼしていることを認識し、これに対応して行動し、社会で最も抑圧され、犠牲になっている人々を中心に組織化しなければならないのです。

最後に、私たちは、いわゆるナショナリストのたわごとを断ち切らなければなりません。国民国家の力が弱まっていることを理解すれば、これが偽のナショナリズムであることがわかります。hard rightはナショナリストを装っていますが、彼らはグローバリゼーションの恩恵を受けているグローバルエリートの一員です。ナショナリズムは、グローバルエリートの中での闘争という目的のための手段にすぎません。私たちはナショナリストの戦争を見ているのではありません。世界の舞台で影響力を競い合う、グローバリゼーションの対立軸を見ているのです。米国のヘゲモニーは衰退し、新たなヘゲモニー軸が形成されつつあります。

●先の質問に続いて、近年、政治的中道は「ポピュリズム」という言葉を使って、左派と右派の政治を非難しています。例えばイギリスでは、ジェレミー・コービンもナイジェル・ファラージもポピュリズムであると非難されています。しかし、これは政治的視点の重要な違いをなきものにしてしまう危険性があります。ポピュリズムという言葉は、今でも有効だと思いますか?新しいポピュリズムは必要ですか?

私はポピュリズムという言葉が好きではありませんし、ほとんど使っていません。ポピュリズムという言葉は、エリートが基本的に現状を維持するための強力なツールなのです。ジェレミー・コービンのプログラムは国際社会主義の要素を取り入れた社会民主主義的なものだったのに、彼をポピュリストと呼ぶのは馬鹿げています。ナイジェル・ファラージは右翼的な権威主義者で、ポピュリズムを手段として使っていますが、彼の政治は右翼的な権威主義の伝統にしっかりと根ざしています。

右翼的な文脈でポピュリズムという言葉を使うことにはまだ意味があると思いますが、私は「右翼ポピュリスト」と分類されるような政治的ファミリーを実際に見たことがありません。むしろ、ポピュリズムは権威主義のサブセットであると考えています。ポピュリズムとは、代表制民主主義の要素を排除しようとする極右勢力が採用する政治スタイルです。そのために、彼らは、民主主義の特定の側面を排除したいと考えているので、民意、フォルクvolk(民衆)、あるいは国民投票のより一層の必要性について語るでしょう。

実際、メディアで宣伝されている外国人嫌いのポピュリズムは、ネイティビスト(訳注1)の想像力の最悪の本能に訴えかけるように設計されているように思えます。その意味で、ポピュリズムは反民主主義的な動きの一部なのです。私は左翼的なポピュリズムを主張するつもりはありません。左翼は民主主義を放棄するのではなく、拡大するべきです。

●あなたは著作の中で、新自由主義、緊縮財政、そして右派のネイティビズムの受容の関係を指摘しています。どのようなメカニズムなのか、詳しく教えてください。

*写真キャプション:トリエステで行われたイタリアのネオ・ファシスト「CasaPound」のデモ。Photo by Erin Johnson / Flickr

欧州が中東やアラブ諸国での戦争を支援することで、イスラム教徒に対する敵対的なイメージが強まり、イスラム恐怖症が助長される一方で、世界経済のグローバル化や新自由主義の受け入れによって生じた不安感が、”自国民優先 “のネイティビズムを生み出す土壌となってきました。

EUが新自由主義を受け入れ、後には緊縮財政を導入したことで、加盟国レベルでも、強力な中核国がアジェンダを設定するEU内でも、欧州の権威主義が強化されました。

保守主義の主流の中にある超国家主義者の反乱によって強化された再構成されたhard rightが、ネオリベラリズムの宿敵を代表しているのか、それともその解決策を表しているのかは、決して明確ではありません。パンデミック前には、ナショナリズムとネオリベラリズムが融合し、少なくとも短期的には、EU加盟国の多くで政治文化の中心が非自由主義的な方向に向かうことが示唆されてましたが、これは移民への対応だけのことでありませんでした。しかし、逆説的ではありますが、パンデミックの発生により、この状況が変わりそうな兆しが見えています。人々は怯えており、市民的自由やロックダウンを破る権利に焦点を当てた far-rightの反応は、彼らが支持を失っていることを意味しています。全てがどうなるのか不確実なのです。

EUのポスト共産主義の国々では、民主化の名のもとに新自由主義的な市場改革が行われました。ここでは、共産党政権崩壊後に実施された「移行プロセス」の成果に対する広範な反発を利用して、権威主義的な右翼政党が躍進しています。

豊かな富と自由を約束する新自由主義は、もはや説得力のあるシナリオではなく、特に組織的な腐敗が政治プロセスの中で制度化されつつあリます。それゆえ、ナショナリズムの絆創膏や、反多文化主義や反移民のナラティブが心地よく感じられるのです。ハンガリー、ポーランド、スロバキアの主流の政治家たちは、権威主義、民族ナショナリズム、国民国家という使い古された言葉を口にし、19世紀風の社会ダーウィニズムや反ロマ、反移民の人種差別主義に口実を与えています。また、超富裕層のナルシスティックなライフスタイルに直面して、社会的コントロールを維持するために、カトリックやカルヴァン主義といった宗教の規律的な力が呼び覚まされてもいます。

新たな腐敗したエリートも、さほど新しくもない腐敗したエリートも、近代の移民をほとんど受け入れてこなかった国では、被害者感情を上手にあやつり、流入外国人が自国を占領するなどと言って恐怖 を煽りたてます。新自由主義の荒廃から国民を守ることができなかった自分たちの失敗や、今ではCOVID-19抑制の失敗した目を背けたあげくに中国叩きの口調が際だっています。

新自由主義のエリートたちは、かつては「地球村」の美徳を讃えていましたが、グローバル化をより愛国的で権威主義的な包装で包むことによって、ナショナリストの挑戦に応えようとしています。実際には、権威主義的な解決策は常に新自由主義の一面であり、その表面的なイデオロギーとは対照的に、その実践においてはナショナリストが構築可能なものが多くあります。弱者を処罰することは、ハンガリーの権威主義的ナショナリズム同様、イギリスの新自由主義にも内在しています。

ナショナリズム、ネイティビズム、軍隊精神、市民と移民の境界線の設定、イスラム教徒 を “内なる敵” に見立てた国家安全保障の約束、これらはすべて目的のための手段であり、市場―国家とともに成長してきた技術的な安全保障装置であり、この中で、民衆は自分で自分を取り締まることにひそかに手を染めているのです。この意味で、ナショナリズムは新自由主義との決別を表すものではなく、民主主義との決別を可能にする環境を提供しているのです。

●far-rightの武装勢力は、政治家、活動家、移民、難民、イスラム教徒などを攻撃したり、暗殺したりして、ますます殺傷能力のある武器をもつようになっています。あなたは ultra-rightの草の根の反乱」や 「人種差別の反乱」について書かれていますね。まず、ここで扱っている組織やイデオロギーの種類について説明してください。また、システムレベルでは安定と民主主義、ローカルレベルでは特定のグループや個人に対する脅威はどの程度のものなのでしょうか?

彼らの唯一の真のイデオロギーは人種差別と人種戦争です。しかし、この点において、彼らはインターネット上に出回っている様々な陰謀論を利用することが可能です。ユーラビアeurabiaから白人ジェノサイドGreat Replacementからオルタナティブ右翼の白人エスノナショナリズムや白人至上主義まで。

Ultra-rightの組織は、 far-rightの国境警備隊、組織化されたサッカーのフーリガン、コンバットスポーツグループ、 Autonomous Nationalists、アイデンティタリアンなど様々です。『Europe’s Fault Lines』の中で、私はultra rightは「流動的で、絶えず変化し、進化するシーンを構成している。その様々なイデオロギーの形成は、網の目のような関係でゆるやかにつながっており、音楽、サッカー、格闘技などの特定のサブカルチャーが提供する空間で、時には分裂し、時には集結する」と書いています。

国家がやるべきことをやっていれば、ultra rightは安定と民主主義の脅威にはならないはずです。ヨーロッパの国家は、ultra rightに対処するために簡単に展開できる膨大な力を持っていますが、問題はultra rightが彼らの視野に入っていないことです。その理由は、ultra rightの主な標的が国家や国家機関ではなく、少数民族だからなのです。

特定の国家体制にとって、このような非民主的な勢力は、危機の際には道具として頼ることができ、国家ができないような汚い仕事をするために利用することができます。しかし、その一方で、彼らは地域レベルで特定のグループや個人に対する脅威を増大させています。モスクやシナゴーグ、亡命者センター、ギリシャ・トルコ国境やギリシャの島々の人道支援者への攻撃が増えています。一つの人種差別が他の人種差別を引き起こすのです。このような状況は非常に憂慮すべきものであり、私が生きてきた中で、これほどまでに激しいものは考えられません。特に、ソーシャルメディアが緊張感を煽り、自警団の活動を短期間で動員する役割を果たしているためにそうなっています

●今日のヨーロッパでは、極右の武装勢力はどのような形で現れているのでしょうか?

ヨーロッパでは、政治的に組織化された、人種的な動機に基づいた明かに悪質な暴力が発生しています。それが最も顕著なのは、産業が空洞化した農業地帯であったり、港町や都市の保護・サポートの施設(lieux de vie)(訳注2)であったりするのですが、こうした場所では未登録の移民やロマの人々がキャンプをしたりする一方で、警察やfar-rightの自警団の残虐な暴力にさらされており、警察なのか自警団なのかの見分けがつかないことすらあります。

ザクセン州ケムニッツでネオナチ、サッカーのフーリガン、格闘技の狂信者の組み合わせによって追い詰められた「外国人」たちは、2018年8月にこの組織的暴力と警察の共犯関係を身をもって体験しました。ドイツ警察は2日間にわたって路上をほとんど統制できなかっただけでなく、連邦情報機関のトップであるハンス-ゲオルク・マーセンは、外国人排斥の暴力について「意図的な誤報」が流布されており、人種差別主義者が外国人を追い詰める様子を撮影したビデオは偽物であると訴えたのです。数カ月にわたってさらに扇動的な発言をした後、マーセンは解雇になりましたが、彼は依然としてアンゲラ・メルケル首相のキリスト教民主党のメンバーであり、首相の亡命政策に対する抗議として2017年に結成された党内グループ「Werteunion」の声高な支持者でもあります。

これはドイツだけの問題ではありません。ヨーロッパ全体で、警察や諜報機関は極右暴力の被害者を組織的に見殺しにし、ファシズムの成長と直接的または間接的に共謀しています。この共謀には、「陰謀を企てる、協力する」という積極的な意味と、「道徳的、法的、公式に」反対すべきことに「目をつぶる」「知らないふりをする」という行動の失敗の両方に理解されるなければなりません。

軍や警察の一部が極右勢力を支持している証拠は、明白です。英国では、軍人が極右テロリスト集団「ナショナル・アクション」に所属していたとして起訴されています。フランスでは、Jean Jaurès Foundationによる報告書「Who do the Barracks Vote For(兵舎は誰に投票するのか)」が、軍や準軍の存在感が強い地域でfar rightへの支持が高まっていることを警告しています。フランス議会のfar right に関する調査報告書の最初の提言は、far right グループに関与している軍人や元軍人の監視を強化することでした。

しかし、このような場当たり的な取り組みや遅々として進まない調査では、脅威のレベルに対応できません。当局は居眠り運転しているようなものです。ネオナチの「黄金の夜明け」がギリシャの警察や軍に深く組織的に侵入していたこと、その議員全員が現在アテネで裁判にかけられていること、そして最近ドイツで発覚した「Uniter Group」の陰謀について、警鐘を鳴らすべきだったのではないでしょうか?

ネオナチ政党「黄金の夜明け」は、クーデターを計画していた軍の精鋭部隊、国家情報局、反テロリスト特別部隊、移民警察、機動制圧部隊(Force of Control Fast Confrontation)などに侵入していたことが明らかになったときには、国会で第3党となっていました。

一方、Uniter Groupは、ドイツとオーストリアの現役・元兵士による極右ネットワークで、連邦軍の物資から武器・弾薬を盗み、Xデーに抹殺すべき政治家や左翼関係者のヒットリストを作成したとして捜査を受けています

●ヨーロッパには、人種差別や権威主義の長い歴史があるだけでなく、反ファシストや反権威主義の組織化の歴史もあります。ファシズムや外国人嫌いの暴力の復活に対して組織化することの重要性、どのような戦略や戦術を追求すべきか、そしてその目的は何か、あなたの見解を説明していただけますか?

民主主義の基本理念である文化的多元主義を守るためには、反ファシズム運動が必要ですが、それだけでなく、反人種主義的で、地域社会にしっかりと根付く必要があります。また、反ファシズム運動は、社会主義的な多元主義や左翼的な文化的民主主義の刷新の中心となり、ヨーロッパの人道的な伝統の中であらゆる最も優れたものを受け入れる必要があります。反ファシスト運動は、単にファシストに対抗して動員するだけではなく、ギリシャの反ファシストたちが主張するように、「私たちがどのような世界に住みたいかという政治的闘争であり、民主主義、連帯、社会正義のための闘いでもある」のです。

現在の反ファシスト運動は、1970年代の過去の抵抗運動の最盛期に比べて、人種的にもジェンダー的にもはるかにインクルーシブになっています。反ファシズムは、グローバルエリートが受け入れている多文化主義と機会の平等というおとぎ話のようなものに対するダイナミックな反撃として再浮上しています。

反ファシズムとは、進歩的で包括的なコミュニティに結集し、共通の敵に毅然と立ち向かう集団的な闘いです。しかし、現代の反ファシズムが新自由主義やファシズムに対する物質的・文化的な反撃として成長するためには、far rightに対する動員と、極右勢力を育てている制度や文化に対する批判を組み合わせなければなりません。私たちは、暴徒による暴力が発生するたびごとに、国レベル、ヨーロッパレベルで迅速に行動しなければなりません。

リズ・フェケテLiz Fekete

ロンドンのInstitute of Race Relationsのディレクターであり、Race & Class Journalの顧問編集者でもある。最新の著書は、『Europe’s Fault Lines: Racism and the Rise of the Right (Verso Books, 2019)』は、2019年のBread & Roses Award for Radical Publishingを受賞した。

訳注1:ネイティビズムnativism 。Liz Feketeは上記の著書のなかでこの言葉を「移民から生来のあるいはすでに定住している住民の利益を守るという考え方」と説明している。民族や人種といった概念を避けており、いわゆるレイシストと一括りにできない立場をとりつつ移民否定を主張する。エコロジストのなかにも移民は生態系に反すると主張して移民に反対する考え方がある。Alexandrer Reid RossはAgainst Fascist Creepのなかで、日本でも映画Endgameの原作者で知られているDerrick Jensenはネイティビズムの立場からメキシコ国境の閉鎖を主張したと指摘している。

訳注2:lieux de vie。wikipedia(フランス語)では以下のように説明されている。「家庭的、社会的、心理的に問題のある状況にある子供、青年、成人を少人数で受け入れ、個人的なサポートを提供する社会的または医療的な小規模施設のこと」

付記:読者の方から飜訳の不備をご指摘いただきました。いくつか重要な改訂を行いました。ありがとうございます。(2021年5月17日)

Far-Right Political Terror in Europe