会田誠──東京都現代美術館の検閲

会田誠とその家族が制作した作品に対して、東京都現代美術館が作品撤去の要請をしたことが問題になっている。事実関係はもちろんこの手の事件ではいつものことで「曖昧模糊」としている。『朝日』のネットの記事http://www.asahi.com/articles/ASH7W54GFH7WUCVL012.html によれば、美術館側がなぜか生活文化局に「子ども向けとしてはどうか」と相談したというが、もし、これが本当ならもはや美術館などという看板を掲げることはできない。極めておぞましい。まだこれが生活文化局の側から美術館に対してクレームをつけるといった上からの示唆であるのであれば、官僚制度の表現の自由への無理解さを前提にすれば「ありえる」話と思う。もちろん、だから行政からの美術館の自由が重要なのだ!という主張になるのだが。

そもそも、美術館という空間と、この空間に置かれる作品(と作家)と、この作品を見る私たちの関係を、美術館やその監督官庁は完全に誤解している。端的に言うと、日本の美術館は、その空間に置かれた作品の「意味」が美術館のイデオロギー(あるいは美術館が帰属する行政のイデオリギー)によって規定されることが当然だと考えているようだ。作家を選ぶとか作品を選ぶということが、同時に、作家の表現や作品の意味を美術館がコントロール(支配)できると勘違いしている。このような考えを、美術館の専門職である学芸員も共有しているのがこの国の実情のようだ。だから、この国の美術館は、政治的な企画をたてることができず、リアリズムを嫌い、哲学と観念論の逃げこむ。これは、戦後の現代美術がよく知られた文化冷戦のなかで構築してきたイデオロギーの一類型なのだが、そのことにこの国の頭のいい学芸員たちは気づかないフリをしている。だから、原発も沖縄も天皇制も歴史認識も美術館はまともに扱えず、作家たちの大半もまたこうした生臭いテーマを料理する技を持てないために、アートとしての主題として、こうしたテーマを意図的に低く見て回避しようとする。勿論、個々の作家がそれぞれのモチーフを持つべきであって誰もがこうしたテーマの作品を制作すべきだなどとは毛頭思ってもいないが、この国の問題は、こうしたアクチュアルな政治や社会の問題を扱う作家を不当に排除しているということである。だから、会田一家のこの作品についても、会田はブログで、この作品は「『政治的な作品』ではないとし、『個々人が持っている不平不満は、専門家でない一般庶民でも、子供であっても、誰憚ることなく表明できるべきである』と主張している。」(ハフントンポストhttp://www.huffingtonpost.jp/2015/07/26/aida-makoto-geki_n_7876288.html)といった弁解をすることになる。この作品は、わたしから言わせれば政治的な作品であるし、そうあってとくに問題はない。むしろ政治的であるからこそ「檄」としての意味作用が生まれるというべきだろう。アートだから政治的ではない、ということはない。むしろ、「この作品は政治的である。それがどうして問題なのか?」と逆ギレしてもよかったはずだ。

今回の行政の対応は、図書館であれば、そこに収蔵されている書籍が行政の価値観に合うべきであり、学校であれば、そこで学ぶ生徒や学生もまた行政の価値観を身につけるべきであり、というように、その場所の管理者とそこに「有る」モノとの間に、前者によって後者の意味を縛りつけるという支配関係が当然、という考え方に基いている。美術館はよかれあしかれ、その壁を白く塗りたくり、価値中立的な装いをとるのは、そこに置かれた作品もまた価値中立的であることを要求するためではなく、個々の作品が、それぞれ固有の価値(それは政治的であったり社会的であったり、宗教的信条であったり、性的であったり、千差万別だが)を表明することを最大限可能にするような配慮である。現代美術は、この仕掛けに対して、この欺瞞的な価値中立的な空間の本性をいかにして暴露するか、という挑戦のなかで展開されてきた。しかし、どのような作品であっても、それは「作品」としての意味を超えることはできない、というジレンマを抱えてきた。どのように政治的社会的にラディカルなメッージであっても、あるいはどれだけ不道徳であっても、どれだけ猥褻であっても、それらは、文字通りの意味での機能を宙吊りにされた「芸術」というカテゴリーによって解毒されてしまう。だから、そこに、空間の管理者にとっていかに不愉快極まりない作品があったとしても、あるいは、面と向かって美術館や行政を批判するような作品が登場したからといって、そのことをもって、体制が揺らぐようなことはないのであって、動揺するのは笑止千万なはずだが、この国では、あたかも、作品によって、その場所が汚され、その場所の支配者の価値観が毀損されたかのように感じる。これは「公共」が天皇制でいう「おおやけ」でしかないということを意味してはいないか。だから、美術館に置かれた作品を空間の管理者の価値観によって縛るということを当然とする風潮に、表現の自由を最大に尊重すべき表現の場の当事者も加担してしまっているのではないか。今回の会田誠一家の作品は、このことを端的に、またもや(こうした事件は何度も起きている)示している、ということだ。

場所を管理するということと、この場所において人が表現するということとは別のことだというのは、公共空間や表現の自由を前提とする空間であれば当然のことだ。これは、道路のような公共の場所でも、インターネットのような仮想空間であっても、公民館や学校のような教育の場所であっても原則として前提されるべきことだ。美術館であれば、招待した作家がどのような作品を制作しようと、それによって引き起こされる批判は作家が引き受けるべきものでしかない。作品が鑑賞者を明かな危険に晒す(重すぎて床が抜けるとか)などの場合は協議の余地があるだろう。もちろん、賞賛もまた作家が受けるべきものであって、美術館が褒められる必要はない。そして鑑賞者は、作家の意図や美術館の思惑とは相対的に自立した批評の主体として、この場の主体の一角を占める。場所とはそのようなものであって、そしてはじめて自由な表現の場となりうるはずなのだ。

会田誠の今回の事件は、言うまでもなく、この国の現在の言論や表現の環境総体が置かれている不自由な状況を端的に示しているということをしっかりと見ておく必要がある。4列30メートルの梯団でしかデモができないとか、路上ライブができないとか、露天が開業できないとか、商業広告に占領された電車とか、こどもの権利宣言に反する校則が常態化している学校とか、政治活動を禁止する大学とか、「言えないこと」だらけのマスメディアなど、この国では、場所の支配者がそこに内包される意味の空間を、そこにいる人びとの多様な価値観に開かれたものとはしないで、この空間の支配者の意思に従属させるようとしてきた。この事態を、今回の東京都現代美術館がまさに端的にわかりやすく示してくれたのだ。

さて、以下は、ハフィントンポストに掲載されていた件の作品のテキストである。「檄」の表現にふさわしいつっぱり方が微笑ましい。内容は、そのとおりなので、とくに私にとっては異論はない。(最後が尻切れのようだが、これは上記サイトに引用されているままである)

http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/26/aida-makoto-geki_n_7876288.html
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檄 文部科学省に物申す 会田家
もっと教師を増やせ。40人学級に戻すとかふざけんな。先進国は25人教室がスタンダードだろ。少子化なのに。未来の資源に予算を回せ。教師を働かせすぎ。みんな死んだ目をしているぞ。教師も生徒も放課後部活に拘束しすぎ。部活やってないヤツはダメという風潮。とにかく時間がない。もっとゆっくり弁当食わせろ。十分で食えって軍隊かよ。運動会が変。組体操やめろ。教科書に答えが書いてない。回りくどい、読んでわからない本つくってどーすんじゃい。教科書が独習者の邪魔をしている。教科書検定意味あんのかよ。カラーとかカサ増しいらん。かばんが重い。早くタブレット一つにしろ。特別支援教育がただの隔離政策みたいになってる。あの教室はまるでアルカトラズ。みんな同じように行動させられる。できない人間は目の前から消される。従順人間を作る内申書というクソ制度。いつまで富国強兵殖産興業のノリなんだ。素直な組織人間作って国が勝てる時代はとっくに終わってる。多様性の時代に決まってるだろ。オジンの幸福を減らし、全体の国力も減らしてやがる。一致団結とかもう無理だから。オマエらのコントロールは吉と出ないで凶と出るんだよ。オマエらの設定している学校なんてどうせ不完全。万人向けと思わずもっと謙虚になれ。道徳の時間まったくいらない。役人風情が無限の可能性を持った人の心に介入すんな。大学から哲学を追い出すどころか中学から道徳追いだし哲学教えろ。美術が平均週一以下だと?バカにすんな。テメエら自身がバカになってるだろ。受験テクだけでT大行って、人生安全運転で官僚コースか。そんな奴らに舵とられるから日本は小手先の愚策連発でジリ貧コースなんだよ。オマエらこそイケてる外国に行って小学校から勉強し直したらどうだ。技術の先生は菊の育て方しか教えてくれません。PTAの役員に任命されるのが怖くて保護者が授業参観に来れません。新国立競技場の問題は全部俺に決めさせろ!! アーチストだから社会常識がない。真面目に子育てにやってないと言(以上)

(2015年7月27日 ブログ)