サイバー安全保障「提言」批判

2025年1月26日 字句の訂正と一部加筆しました。

Table of Contents

1. はじめに

能動的サイバー防御を可能にする法整備が、2025年の通常国会で審議されることになる。能動的サイバー防御という言葉は、安保・防衛3文書1のなかで始めて登場する。この能動的サイバー防御は、官民一体で敵基地攻撃能力を合法化して先制攻撃を可能にする戦争体制のなかのサイバー領域における軍事行動の合法化を目指す枠組であり、すでに成立している経済安全保障の枠組とも連動することになる。また、より幅広い総動員体制を視野に入れれば、マイナンバー制度による人口監視との連動も将来的にはありうると考えてよいだろう。

本稿では、能動的サイバー防御を可能にする法整備のための有識者会議が昨年11月に出した「サイバー安全保障分野での対応能力の向上に向けた提言」(以下「提言」と略記)2を対象にして、その問題点を洗い出し、サイバー領域を戦場にしないことを、戦争放棄の観点から検討する。同時に、サイバー攻撃と呼ばれる事象に特徴的なこととして、この「攻撃」が軍事安全保障に限定されず、より広範にはサイバー犯罪として警察が取り締まりの対象にしてきた事案をも包摂することがいかなる深刻な問題を引き起すかについても検討する。このことは、従来の武力の行使と威嚇という意味での「戦争」という観点で「提言」を解釈することでは十分ではないことを意味している。刑事犯罪領域を「提言」は国家安全保障に繰り込む視点をとっており、結果として、警察の活動もまた軍事・国家安全保障の枠組に包摂されるものとされている。しかも、先制的な敵基地攻撃能力同様に、能動的サイバー防御も先制攻撃を想定しており、全体として、未だ具体的な紛争や抗争が生じていない段階で国家が暴力装置を発動すべき、という考え方をとることになっている。そのために、警察については、治安維持を目的とした予防的な強制力の行使を可能にするような制度の転換が図られることになる。この傾向は、テロ対策同様、警察と自衛隊を横断し、国内と国外をも跨る形で対処の枠組が国家体制全体を覆うような規模へと大きく舵を切るものだと考えている。こうした点を踏まえて、戦争という概念を、自衛隊や警察が組織的に「力forceの行使や威嚇」を行うものと幅広く定義しておきたい。3私は、サイバー領域における「戦争」は、刑事司法の領域をも包摂しつつ、その舞台が情報通信のネットワークという非常に理解しづらい技術的な場で展開されているものであるという点で、従来型の戦争の枠組を前提にイメージして論じたり批判するだけでは、その危険性や問題を十分には捉えきれない特異な性格をもっている、とも考えている。

「提言」の枠組は、安保・防衛3文書で述べられているサイバー領域の軍事安全保障の考え方を新たな法制化へ向けて整理したもので、今後国会に提出される法案の基本的な考え方を示すものだ。「提言」の位置づけは「サイバー安全保障分野での対応能力を欧米主要国と同等以上に向上させるための新たな取組の実現のために必要となる法制度の整備」としているから、憲法9条の規定は最初から無視されている。その上で、官民連携の強化、通信情報の利用、アクセス・無害化、という三つの課題を軸に法整備のための基本を呈示した。議論の争点は幾つもあるが、そのうち通信への網羅的な監視や情報収集、令状主義を形骸化して犯罪捜査よりも治安維持目的での警察力の監視活動を合法化する法整備に関する箇所は、メディアも注目し繰り返し批判的な記事や論評も出されているので、逐一の批判は省き、二点だけ私の考え方を述べるにとどめる。4

2. 「提言」の盗聴あるいは情報収集について

「提言」では、「アクセス・無害化を行うに当たっては、今まで以上に、サイバー攻撃に関する詳細で十分な量の観測・分析の積み重ねが必要」として、盗聴捜査に限らず情報通信への詳細で十分な情報収集を可能にすることを求めている。アクセス・無害化を念頭に置いているので、こうした取り組みは警察など盗聴法が盗聴を認めている捜査機関だけでなく、自衛隊などもその主体として想定されている。従来の通信への捜査機関などによる盗聴は、事件が起きた後で実施されるのに対して、提言が目指す通信情報の利用はこれとは本質的に異なるものだとして、以下のように書かれている。

今般実現されるべき通信情報の利用は、重大なサイバー攻撃による被害を未然に防ぐため、また、被害が生じようとしている場合に即時に対応するため、具体的な攻撃が顕在化する前、すなわち前提となる犯罪事実がない段階から行われる必要がある

従って、単に盗聴法の対象犯罪などを拡大するというだけでは済まされない。つまり

  • 事案の発生前から監視を網羅的に実施できるようにする
  • 警察だけでなく自衛隊もまたこうした権限を付与される

ということが必要要件となる。「提言」では、大胆にも「これまで我が国では存在しない新たな制度による通信情報の利用が必要」だと述べている。

「提言」では通信情報の分析は、問題を未然に防ぐ予防手段であるため、既遂の行為について証拠を収集し事実を解明することを目的とする犯罪捜査とは動機も目的も異なる。「提言」はこの点を次にように強調している。

通信情報を取得しようとする時点では、いかなる具体的態様でサイバー攻撃が発生するかを予測することはできず、あらかじめそのサイバー攻撃に関係する通信手段、内容等を特定することは通常は困難であるから、犯罪捜査とは異なる形で通信情報を取得し利用する必要があり、被害の防止と通信の秘密の保護という両方の目的を適切に果たすためには、これまで我が国では存在しない新たな制度による通信情報の利用が必要である。

上の立場はこれまで政府の見解を真っ向から否定するものでもある。これまで政府は、捜査機関の盗聴が憲法21条の「通信の秘密」に抵触しない理由を以下のように解説している。5

通信傍受は、捜索・差押えと同じように,具体的な犯罪行為が行われた場合に、これに関連する捜査として行うものです。何か犯罪が起きるかもしれないということで通信の傍受を行うことはできません。

また、特定の個人や団体がどのような活動をしているかを探るなど、いわゆる情報の収集のために行うものではありません。

盗聴捜査は「具体的な犯罪行為が行われた場合」であって「何か犯罪が起きるかもしれないということで通信の傍受を行うことはできません」と明言している。「提言」は逆に、「何か犯罪が起きるかもしれないということで通信の傍受を行うこと」が必須だ、としており、従来の政府見解が示していた通信傍受の合憲性の主張の前提を根底から否定するものだ。だから「これまで我が国では存在しない新たな制度」が必要だというのだ。しかもこのような立場は、自民党の改憲草案ですらとっておらず、自民党改憲草案をも越えている。

3. 憲法21条と「公共の福祉」

その上で憲法21条2項の通信の秘密条項については「通信の秘密であっても、法律により公共の福祉のために必要かつ合理的な制限を受けることが認められている」とし、公共の福祉を理由に予防的な通信傍受が可能だ主張している。公共の福祉を理由に通信の秘密の権利を制限するという政府の態度はこの間一貫している。

たしかに憲法12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とあり、13条以下の条文はこの12条の「公共の福祉」という縛りを前提にしていると読むことが可能ではある。しかし、私はこの解釈をとらない。というのも、22条、29条では改めて「公共の福祉」が明記されており、明記されている条文と明記がない条文という違いが存在するのはなぜなのかに注目すべきだと考えるからだ。

私は、一般に言論表現の自由(通信、学問、宗教などの自由)に憲法では「公共の福祉」を明記していないのには理由があると考えている。もし自由の権利に「公共の福祉」という制約を課すことになると、「公共」の解釈いかんでは、国家や社会の支配的な価値観の優位性を認めることになりかねない。特に日本では「公共」を口実として国益を優先させて個人の自由を制約しようとする対応がある。こうした日本の現実をみたとき、また、政府が「公共の福祉」を理由にして行なってきたこれまでの前例を踏まえると、21条の通信の秘密に「公共の福祉」を読み込むと、実際の表現行為、通信内容、学問への国家の監視を正当化しかねない、と思う。例えば、最高裁は「公共の福祉」を理由に死刑制度を合憲としている。(最高裁1948年3月12日、昭和22(れ)119)この解釈の延長線上に、「公共の福祉」を理由に国家の殺人、戦争行為も憲法上正当化される、ということもありうる。あるいは親密な恋人同士がプライベートなやりとりのなかで、公然化されれば猥褻とみなされるようなデータのやりとりを通信することもありえるが、こうした通信を「公共の福祉」を口実に規制するために監視するといった権力によるプライバシーへの過剰な介入も予想できる。だから、各条文で「公共の福祉」を明示していないものについては、「公共の福祉」という制約を課すことのない権利として、つまり、時としては公共の福祉を逸脱しても構わないような表現や通信、学問、宗教が存在する余地があると解釈する必要があると考えている。6

「提言」の主張は、通信の秘密に「公共の福祉に反しない限り」という制約を課すことによって、サイバー領域における「戦争」に連動する情報通信の活動が行なわれていないかどうかを網羅的に監視できる法制度の導入を許すことになることから、通信の秘密全体を否定することになり、こうした解釈は絶対に認めてはならない。

言うまでもないが、「公共の福祉」という解釈の立場をとれば、未だ起きていない事案を事前に監視し取り締まるような権力行使が認められることにはならないことも付言しておく。

4. 通信の秘密は国外に及ぶのだろうか

「提言」が対象としているのは犯罪から戦争あるいは武力紛争に関するサイバー領域に至るまで広範囲にであり、全体の枠組は、国内向けの対応では警察が主体になり、対外的な武力行使関連対応では自衛隊が主体になる、という役割分担が考えられていると思われる。7 そして国内と国外を跨ぐ通信や国外相互の通信への監視には自衛隊が関与する可能性が高くなるかもしれない。この全体の枠組のなかで通信の秘密という私たちの権利を考えなければならないが、同時に情報通信の基盤がグローバルなインターネットによって支えられ、「私たち」という言葉には私たちが繋りあっている世界中の人々とのコミュニケーションが含まれることを自覚的に認識しておく必要がある。

このこと前提にして、憲法が私たちの権利として定めている通信の秘密は、日本国内の日本の「国民」にのみ適用される権利ではなく、それ以外の人々に対しても日本政府は通信の秘密を守る義務を負うものと解釈すべきである。つまり、日本は世界中の誰に対しても通信の秘密を侵害するような権力の行使を行うことは憲法で禁止している、ということだ。もし、通信の秘密が「日本国民」のみに与えられた権利であるとすると、外国の主権の問題はともかくとして、日本の政府機関が外国において盗聴活動を行なうことを日本の憲法は禁じていない、ということになる。従来であれば、国外での盗聴捜査は、警察などであれば捜査共助条約などを通じて相手国の捜査機関に依頼するなどになる。しかし、犯罪の実態がなく情報収集を目的に盗聴活動を行なう場合は、この仕組みも使えない。自衛隊の場合も同様に、国外での情報収集の権限の是非についての明文規定はない。しかし、「提言」の趣旨を制度化するとなると、外国の主権内にあるサイバー領域において、その主権を侵害しても日本の国益を優先させて情報収集活動を行うことも視野に入れた法制度になる可能性がある。つまり、スノーデンが日本でやっていたような諜報活動のようなことを日本がやれるようにしたい、ということが想定されている。自衛隊や他の政府機関がスノーデンのような活動を行うことができる法的制度的な枠組は現在では存在しない。今後の政府の方向は、自衛隊など軍事安全保障に関わる組織が国外で諜報活動を行うことを合法化する制度の整備へと向かう可能性がある。これが提言が強調する安全保障の力を「欧米主要国と同等以上に向上」させる、ということに含意されていることのひとつだろう。

以上の点を踏まえて、強調したいことは、通信情報の世界はシームレスに世界を繋いでおり、インターネットのシステムは世界でひとつの構造をもっているという状況で、情報が国境を越えて流通する中で、日本がサイバー攻撃を受け、あるいはサイバー攻撃の主体となるような事態のなかで、私たちは、自分たちの情報通信環境に関連する通信の秘密、言論表現の自由、結社の自由、思想信条の自由といった市民的自由の原則を守るためのより強固で断固とした闘いを組む必要がある、ということだ。市民的な自由の観点からみたとき、国境を越える通信は、日本国内だけでなく国外の人々と私たちの通信の秘密の防御は必須であり、同時に市民的な自由がグローバルな人々の権利の平等を前提とするならば、通信の秘密は差別なくすべての人々に保障されるべき権利である。従ってまた、国際法の原則も踏まえて8、日本政府が国外において、あるいは日本「国民」以外の人々にも通信の秘密の権利を保障するような基本的な姿勢をとることが憲法上の義務でもある、と考えるべきだろう。とりわけ戦争・武力紛争において、市民の運動としては、日本政府が敵国とみなす国の人々に対しても平等にその権利を保障すべき、という観点を明確にした取り組みをすることが重要なことだ。たとえば、外国にあっても、人々が自国政府からの通信への厳しい監視があるという場合、日本政府はこうした人々の通信の秘密の権利を保障する立場をとるべきであり、また、日本国内に暮す外国籍の人たちにも平等に保障されるべきである。

5. 「サイバー戦争」の四つのケース

サイバー領域の「戦争」は、実空間の戦争あるいは戦闘行為とはその範囲も国家、社会の諸制度の関わり方も大きく異なる。サイバー領域の戦争には大きく分けて四つのケースがある。

5.1. サイバー領域で完結する場合

サイバー領域が「戦場」を構成する場合で、その影響がサイバー領域に留まる場合もあれば、結果として実空間における施設や組織、あるいは人間に対して打撃となる場合もある。

この場合にも二つの主要なケースがある。ひとつは、情報通信ネットワーク上を監視して情報を収集し、将来の攻撃の準備をする場合。ネット上のスパイ活動である。もうひとつのケースは、ネットワークを介して重要な社会インフラの機能をマヒさせるなどの攻撃を行なう場合であるが、ハッキングであれ無害化であれ攻撃の手段はサイバー領域を通じたものになり、おおむねサイバー領域で攻撃が完結する場合だ。「提言」が主に対象としているのはこのケースだ。したがって民間の通信事業者などとの連携強化が強調されるとともに、政府の組織体制も明確に指揮命令系統を一本化するような再編が必要だとされている。情報通信のネットワークは国家の中枢から経済基盤や私生活まで、私たちの日常生活を覆うので、官民を巻き込む総力戦体制の構築になる。

「提言」では「アクセス・無害化」という表現を一貫して用いており、このサイバー攻撃には「アクセス」に関わるが「無害化」には至らないケースが含まれている。無害化の場合がかなり過激なシステムダウンなどの印象があるためにメディアなどの注目が集まりやすい反面、「アクセス」はそれに比べて見逃されがちだ。しかしアクセス攻撃は、より広範囲で、かつその行動も露呈されにくいものであって決して無視すべきではない。「提言」が想定している「アクセス」は、私たちがウエッブにアクアスして情報を取得する、といった合法的なアクセスではなく、むしろ、日本国内の現行法では違法とされるいわゆる不正アクセスを合法化し、同時に、国外にあるネットワークなどに対しても、相手国あるいは国際法上からも違法とされるアクセスを実施できるようにするということが想定されていると思われる。つまり、政府機関によるハッキング行為の合法化である。

「提言」では「アクセス」と呼ばれているハッキングには様々な動機がある。近い将来無害化攻撃をすることを前提に行なわれる場合もあるだろうが、網羅的に情報を収集すること自体を目的とする場合もありうる。ビッグデータをAIを駆使して迅速に解析できる現代の技術水準を前提とすると、後者のようなハッキングがより重視されるかもしれない。いわゆる一方的に情報を収集するだけで実空間の社会経済基盤を物理的に機能不全に陥れることに直接直ちにはつながらない場合であっても、こうした収集データが将来において実空間での物理的な破壊攻撃(キネティック攻撃9)の前提情報となりうるからだ。「アクセス・無害化」といっても、どのようにして情報を収集するのか、収集した情報を何を目的に利用するのかなどについては答えは一つにはならないのだ。

ちなみに、アクセス(ハッキング)の攻撃が開始されてから発覚するまでの平均日数は、日本の民間機関の2022年の調査では397日という結果もでている。10少し前、2015年にセキュリティ・インシデント対応企業Mandiantが発表したレポートでは侵害の最も早い兆候から侵害が発見されるまでの平均経過日数は205日、最長の経過日数2,982日とある。11 また2023年に発覚したボルト・タイフーンの場合は潜伏期間が5年にもなると報じられた。12不正侵入を感知するための対策とハッキング技術の高度化のいたちごっこの状態で、発覚までの時間は決して短くはなっていない。

日本が「アクセス」を試みるという場合も、上記の事例のような長期の潜伏が重要な「アクセス」の目的のひとつになることは間違いない。攻撃の事案が起きる前に行動することになるので、長期の侵入を意図することになる。たぶん、長期のハッキング=スパイ行為を様々なところで行いながら、情報収集と解析を繰り返しつつ無害化の標的が選ばれるのだろう。このように考えると、無害化よりも「アクセス」の方がより深刻な通信の秘密やプライバシーの権利への侵害行為になる可能性がある。

同時に、無害化の実行については「提言」では以下のように述べている。

権限の執行主体は、現に組織統制、教育制度等を備え、サイバー脅威への対処に関する権限執行や武力攻撃事態等への備えを行っている、警察や防衛省・自衛隊とし、その保有する能力・機能を十全に活用すべき(である)

自衛隊や警察が関与の中心を担うべきだとしているが、自衛隊には国内での法執行権限がないので、対外的な対応の主体となり、警察はその捜査権限を用いて国内におけるサイバー攻撃への対応を担う、という役割分担を考えているのだろう。言うまでもなく、主体が自衛隊なのか警察なのかはどうでもいい問題ではない。戦争や武力紛争に軍が関与するだけでなく警察が関与して敵のサイバー領域を攻撃するとなると、果して、これが現行法の「警察」活動の枠組に入れうるのだろうか。そもそも警察法2条の「警察の責務」は「犯罪」に関する事案であり戦争や武力紛争ではない。しかし、テロ対策の前例がある。テロが刑事事件のカテゴリーから米国の対テロ戦争をきっかけに、国家安全保障の主要課題に格上げされながらも警察は依然としてテロ対策を重要な活動の柱としてきた。こうして警察は刑事警察からより治安維持へと軸足を移すきっけをつかんだ。今回はより広範囲に戦争全体を網羅する形で警察が軍事安全保障に関与することになる。しかも「提言」では以下のように述べている。

新たな制度の目的が、被害の未然防止・拡大防止であることを踏まえると、インシデントが起こってから令状を取得し、捜査を行う刑事手続では十全な対処ができないと考えられ、新たな権限執行には、緊急性を意識し、事象や状況の変化に臨機応変に対処可能な制度とする必要がある

令状によらない強制捜査や事件の発生がない段階での予防的な治安維持のための警察権力の権限強化が確実に伴うことになる。令状主義の形骸化は、国連のサイバー犯罪条約においても強調されているから、今後、こうした方向は確実に強まると警戒する必要がある。「提言」では、更に、サイバー領域での法執行の権限について、警察官職務執行法のモデルを参照しつつ、これをサイバー領域に拡張し、かつ警察以外に自衛隊などでも利用しうるような法制度を構想している。この件については、本稿では踏み込まないが、別に論じる予定だ。

5.2. 情報戦

「提言」では情報戦についてのまとまった記述はない。安全保障戦略では「領域をめぐるグレーゾーン事態、民間の重要インフラ等への国境を越えたサイバー攻撃、偽情報の拡散等を通じた情報戦等が恒常的に生起し、有事と平時の境目はますます曖昧になってきている」とし「武力攻撃の前から偽情報の拡散等を通じた情報戦が展開されるなど、軍事目的遂行のために軍事的な手段と非軍事的な手段を組み合わせるハイブリッド戦が、今後更に洗練された形で実施される可能性が高い」としていた。そして「偽情報等の拡散を含め、認知領域における情報戦への対応能力を強化する」こと「外国による偽情報等に関する情報の集約・分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化等のための新たな体制を政府内に整備する」と明言していた。

「提言」には情報戦も偽情報も登場しない。たぶん、この課題は別途追求されることは間違いない。多分政府は、このプロパガンダや偽情報といった意味での情報戦領域は、あえて法整備が必要とはいえず現行法で対応可能なものだと判断しているのかもしれない。

一言強調しておきたいのだが、外国が偽情報の拡散を行うという認識は、これに対抗して日本もまた偽情報の拡散を行うであろう、ということも含意していることに私たちは注意する必要がある。しかし、日本政府が発信する偽情報について日本の現行法には何の規制も制約も課していない。むしろ政府による偽情報を規制する制度が必要だろう。

これに対して「提言」で言及されていない「サイバー戦争」の重要な領域があと二つある。

5.3. 自衛隊の陸海空などの戦力と直接連動したサイバー領域

兵器や装備を実際に使用するためには標的の把握などでコンピュータのネットワークやAIによる情報処理は必須の条件になる。実際の戦争のためには、標的の確認が必要になる。標的が人間の場合は、移動を把握しなければならない。相手国のデータは多ければ多いほどよく、この意味で情報収集は必然的に網羅的になる。この領域は自衛隊の組織内部で対応できる領域であり新たな法制化なしに――自衛隊の組織再編では何らかの法制度の対応が必要だろうが――対処できる領域だと判断し「提言」は言及していないのかもしれない。

このケースに該当する「戦争」として実際に行なわれてるものとしては、現在も進行中のイスラエルのガザ戦争がある。イスラエルはガザの住民に関する膨大な人口や住宅などの地理データを保有している。これらとリアルタイムでの人々の移動を通信やドローンなどで監視し、攻撃対象を特定して空爆などを実施している。こうしたシステムには、米国のGoogleやAmazonも技術やクラウド・サービスで協力している。13

5.4. アクセス・無害化攻撃が実空間における武力行使のための露払いとなる場合

ハッキングやサイバー攻撃といった「アクセス・無害化」が実空間における武力行使のための露払いとなる場合がある。たとえば、相手の軍事施設のネットワークや社会インフラを無害化した後で武力行使へ転ずる、といった使い方がありうる。しかし「提言」ではこの領域に関連する法整備には言及がない。

サイバー領域での長期にわたるスパイ活動や無害化攻撃を遂行した後に、自衛隊の実力部隊が実空間での武力による破壊攻撃活動を展開する、という流れは現在の戦争・武力紛争のひとつのタイプになりつつあるように思う。たとえば、安保戦略で議論になった敵基地攻撃に先行して、情報収集や敵の軍事関連のインフラなどへのサイバー攻撃を仕掛けて反撃能力を削いだ上で敵基地や重要インフラへの攻撃を実行する、という流れが考えられる。脅威圏の外から敵に対処する「スタンドオフ」という考え方が強調されていることからも、こうしたサイバー領域を効率的に活用して実空間での攻撃のリスクを最小化することが当然考えられる。

こうしたケースで日本が戦争に関与する場合、米国などのいわゆる同盟国との連携が重要になりそうだ。たとえば、サイバー領域における先制攻撃を日本が担い、実空間での攻撃を他の同盟国が担う、という役割分担は現在の日本の法制度からすると取り組みやすいかもしれない。現行法では外国の軍隊のようには自由に動員できない自衛隊の制約があり、政府は、改憲を通じて自衛隊が軍隊としての体制を整え、軍事組織関連の法整備が整うことが先決と考えているのかもしれない。事実NATOのサイバー演習「ロックドシールズ14」に日本から自衛隊だけでなく情報通信関連の省庁や民間企業も毎年参加して他のNATO加盟国などとタッグを組んでのサイバー攻撃への取り組みを行なっている。

6. アクセス・無害化攻撃と攻撃元の特定問題

ここでは、敵とみなされたシステムのアクセス・無害化を中心に「提言」の問題点を指摘したい。アクセス・無害化攻撃が必要とされる前提にある現状認識について「提言」は以下のように述べている。

近年、サイバー攻撃は巧妙化・高度化している。具体的には、サイバー攻撃は、複雑化するネットワークにおいて、国内外のサーバ等を多数・多段的に組み合わせ、サーバ等の相互関係・攻撃元を隠匿しつつ敢行されている。また、ゼロデイ脆弱性の活用等により、高度な侵入が行われるほか、侵入後も高度な潜伏能力により検知を回避するなど、高度化している。このため、サイバー攻撃の特徴としては、現実空間における危険とは質的に異なり、実際にある危険が潜在化し認知しにくいということが挙げられる。また、潜伏の高度化等により、攻撃者の意図次第でいつでもサイバー攻撃が実行可能であるとともに、ネットワーク化の進展により、一旦攻撃が行われれば、被害が瞬時かつ広範に及ぶおそれがある。

上の引用にあるように、サイバー攻撃は「サーバ等の相互関係・攻撃元を隠匿しつつ敢行されている」のが通常のありかたになる。一般に実空間での武力行使では、自軍の武力による優位を誇示して相手の劣位を自覚させることで相手の更なる攻撃を抑止しようとする動機があり、攻撃の主体であることを隠さない場合が一般的だろう。これに対してサイバー領域では、逆に、サイバー攻撃の事実があり被害もあるとしても、この攻撃の責任の帰属先が意図的に隠蔽され、また攻撃後も名乗り出ない、ということが少くない。

たとえば、サイバー攻撃の非常に早い時期の典型事例として挙げられるのが、米国のオバマ政権時代、2011年頃から開始されたイランの核濃縮施設への極秘のサイバー攻撃(コードネームOlympic Games)がある。この攻撃は米国とイスラエルが共同で開発したStuxnetと呼ばれるコンピュータプログラム(ワーム)を密かにイランの核施設に送り込みシステムを機能不全に陥らせた。15 このケースはニューヨークタイムズがすっぱ抜いたために明るみに出たが極秘の作戦であリ、現在も米国政府は自らの攻撃だとは認めていない。

攻撃元が誰なのかを特定して攻撃の責任の帰属を明確にすることは戦争における責任問題として重要である。この攻撃元の帰属を「アトリビューション」と呼ぶ。「攻撃者サーバ等へのアクセス・無害化」と「提言」は簡単に言うが、実際には誰に責任があるのかを証明するのは容易ではない難問であり、このアトリビューションの妥当性自体が国際的な紛争の主題にもなる。この点への「提言」の言及は十分とはいえない。しかも「提言」の目的は、武力攻撃事態に至らない状況において、某国の何らかのシステムが将来の攻撃者であると特定して先制攻撃を仕掛けることになる。アトリビューションを予断や陰謀ではなく、第三者にも納得できる証拠によって果して証明できるのだろうか。つまり、無害化攻撃の標的となる「攻撃者」に関するアトリビューションをどう考えるのかが「提言」ではあまりにも軽く扱かわれている。

アトリビューションが重要なのは、一般に、国際紛争を武力行使によって解決するという方法は禁じられており、例外が自衛権の行使になり、正当な自衛権行使であることを主張するためには、攻撃者を客観的な証拠に基いて特定し、第三者からもその証拠の妥当性が得られることを通じて自衛権行使であることを主張できることが重要になるからだ。攻撃された側が独断で「あいつが攻撃するに違いない」と攻撃元を名指しして先制攻撃したとしても国際的な理解が得られなければ孤立するかもしれない。未だに攻撃がない段階で先制的なサイバー攻撃を行使するとなると、このアトリビューション問題は飛躍的に難度が高くなるだろう。しかも、アトリビューションの根拠情報は、自国の機密に属するような諜報活動や、もしかすると違法とされるような情報収集活動あるいは同盟国からの秘密裡での情報提供など、いずれも公開しがたい情報である場合が多いとみてよく、透明性を欠くなかで、国会や世論が誤認する可能性が極めて高くなり、この誤認を修正する余地が極めて低くなる。

7. 日本が攻撃元であることは秘匿されるに違いない――独立機関による事前承認などありえない

サイバー攻撃は、平時においても採用できる軍事攻撃である。上記のアトリビューションの困難さも考慮したとき、日本が「アクセス・無害化」攻撃を名乗りを上げて行うだろうか?むしろ密かに、日本が攻撃元であることを秘匿して実行するはずだ。そして、実行元を秘匿する攻撃こそがサイバー攻撃の一般的な姿でもある。ところが『読売新聞』は、先制的なサイバー攻撃を実施する場合の手続きについて以下のように報じている。

撃元サーバーへの侵入・無害化措置は、通信情報の分析で重大なサイバー攻撃の恐れがあると判明すれば、警察・自衛隊が実施する。事前承認する独立機関は、公正取引委員会などと同様に独立性の高い「3条委員会」に位置づけ、内閣府の外局とする方向だ。16

攻撃事前承認が必要で、しかもこれを独立機関に担わせる、という。私は、攻撃は極秘であることが大前提になるから、このような手続きはありえないと思う。しかも、たとえ第三者委員会のようなものを設置してもアトリビューションの実質を確保できるだけの機密情報が開示されるはずもない。とりわけ同盟国などから提供された情報であればなおさらだろう。独立機関の設置は、立法過程で野党を黙らせる手段として提起されただけのものだ。しかも、更に悪いことには、独立機関は、一般世論に対して、日本の攻撃があたかも客観的で妥当なものであるこをが証明されたかのようなお墨付きを与える効果を生む。

従って、サイバー領域における日本の「アクセス・無害化」攻撃は隠蔽され、公式には公表されることはまずありえない、と考えるべきだ。このことは、日本の軍事・安全保障領域に極めて大きなブラックボックスが構築されることを意味している。法律が成立した後でも、敵国からのサイバー攻撃の報道は頻繁にあるだろうが、日本からのサイバー攻撃などの動きが迅速に報じられることは極めて少ないだろう。しかし実際には日本が水面下で長期戦を覚悟でサイバー攻撃を仕掛けているはずであって、私たちに知らされないなかで、戦争の危機が深化するという事態になる。

こうした事態を回避する唯一の方法は、独立委員会とか第三者委員会を設置して歯止めにするといった見当違いな対応ではなく、サイバー攻撃という手段をとることができないような制度的な枠組を構築し、同時に、サイバー領域を戦争に巻き込むあらゆる兆候を排除するということを徹底することにある。そのためには日本であれ諸外国であれ、攻撃の動機そのものをもたないような国際関係の構築を目指すことこそが最良の手段だろう。

8. アクセス・無害化攻撃と民間の役割

アクセス・無害化攻撃は警察や自衛隊が実施するとされているが、果してその準備から実行までの全過程を民間の通信事業者の協力なしで実施することができるだろうか。ネットワークの動向を現場で最初に把握できるのは、実際にサーバーやネットワークを運用している事業者だ。最近米国を中心に起こされたボルトタイフーンと呼ばれるサイバー攻撃の最初の発見者でありアトリビューションにも重要な貢献をしたのはマイクロソフト社だった。17

通信事業者が戦争に加担しない限りサイバー領域を巻き込んだ戦争は不可能である。こうなると、武力行使の主体は自衛隊や警察に限定されないことになる。そうなれば、当然相手国の反撃の対象も「民」を巻き込むことになる。それだけではなく、こうしたサイバー戦争の主体に一部に民間が関与した場合、当然民間であっても相手国は力の行使主体とみなして、攻撃の対象とすることも考えられる。もちろん日本が攻撃主体になるときも、同様に正当な攻撃の標的に相手国の民間の通信事業者が含まれることになる。

政府のサイバー攻撃を「民」が一部担うようなケースの場合について、NATOのサイバー戦争に関するルールブックともいえるタリン・マニュアル(バージョン2)18は以下のような解釈を示している。

国家機関の行為に加えて、国家機関として認められない個人または団体が、国内法(例えば、立法、行政行為、または国内法で規定されている場合は契約)によって政府当局の権限の一部を行使する権限を与えられている場合、 その行為は国家に帰属する。ただし、個人または団体が特定の事例においてその権限を行使している場合に限る。例としては、政府から他国に対する攻撃的サイバー作戦の実施を法的に認められた民間企業や、サイバー情報収集を法的に認められた民間団体が挙げられる。p.89

「提言」ではこうした民間企業による戦争への加担、時には戦争犯罪にすらなりうるリスクについて明示せず、関心をもっているとはいえない。しかもサイバー戦争への加担は、実空間での戦争とはちがって、リモートからパソコンなどを用いて容易に「参戦」することができる。事実ウクライナのIT軍は世界中からITの専門的な知識をもつ人材だけでなく、ほとんど専門の知識なしにインストールしたソフトウェアを使って攻撃に参加できる仕組みを作りあげてボランティアを募りサイバー攻撃の体制を構築している。19日本からの参戦は違法とされているにもかかわらず参加者がいることが報じられている。20

能動的サイバー防御に政府が前のめりになるということは、こうしたサイバー戦争に多くの民間人を巻き込むことを意味するだけでなく、参加の動機をもさせるようなサイバー戦争のためのプロパガンダもまた強化されることになる。サイバー攻撃が繰り返され日本国内に被害者感情による不安と怒りを煽るような情報環境が情報戦として展開されることにもなる。

9. 日米同盟のなかでのサイバー攻撃への加担と責任

「提言」で言及がないもう一つの重要な問題が、日米同盟などいわゆる同盟国とか友好国などとされる諸国との関係におけるサイバー領域の連携である。日本がアクセス・無害化攻撃を展開する場合に、日米同盟などとの連携がどのように行なわれることになり、その場合の日本の責任(アトリビューション)どのように判断されることになるのか、など国際紛争における重要な問題への基本的な認識が示されていない。

日米安全保障協議委員会(「2+2」)の協議において、サイバー領域が日米安全保障条約第5条の対象に含まれるということが確認されたという報道がなされている。2023年1月11日の2+2の会合の声明では以下のように述べられた。

閣僚は、同盟にとっての、サイバーセキュリティ及び情報保全の基盤的な重要性を強調した。閣僚は、2022年3月の自衛隊サイバー防衛隊の新編を歓迎し、更に高度化・常続化するサイバー脅威に対抗するため、協力を強化することで一致した。米国は、より広範な日米協力の基盤を提供することとなる、政府全体のサイバーセキュリティ政策を調整する新たな組織の設置及びリスク管理の枠組みの導入など、国家のサイバーセキュリティ態勢を強化する日本のイニシアティブを歓迎した。閣僚は、日本の防衛産業サイバーセキュリティ基準の策定に係る取組を含む、産業サイバーセキュリティ強化の進展を歓迎した。そして、閣僚は、情報保全に関する日米協議の下でのこれまでの重要な進展を強調した。

この文言をアクセス・無害化というサイバー先制攻撃を可能にしようとしている日本政府の方向性を見定めながら読む必要がある。また、2024年7月24日の2+2の声明では以下のように述べられている。

日米は、相互運用性の深化を実現するため、強固なサイバーセキュリティ及び情報保全並びに情報共有の重要性を認識するとともに、情報共有の機会の増加、サイバーセキュリティ、データセキュリティ及び情報保全の更なる向上並びに通信及び物理面でのセキュリティの強化を検討する。 (中略) 閣僚は、同盟にとって、また、同盟が未来志向の能力を開発し増大するサイバー脅威に先んじるために、サイバーセキュリティ及び情報保全が基盤的に重要であることを強調した。閣僚は、情報通信技術分野における強じん性強化のためのゼロ・トラスト・アーキテクチャの導入を通じたサイバーセキュリティ、情報保全に関する協力の深化にコミットした。閣僚は、重要インフラのサイバーセキュリティの強化の重要性について同意し、同盟の抑止力を更に強化するため、脅威に対処する防御的サイバー作戦における緊密な協力の促進について議論した。米国は、情報共有のためのより良いネットワーク防御の実現に資するリスク管理枠組みの着実な実施を含む、国家のサイバーセキュリティ態勢を強化する日本の取組を歓迎した。閣僚は、将来の演習にサイバー防御の概念を取り入れる機会を増やすことについて議論した。閣僚は、二国間のサイバーセキュリティ及び情報保全に関する協議を通じてなされた重要な進展を称賛した。

上にある「増大するサイバー脅威に先んじる」とか「脅威に対処する防御的サイバー作戦における緊密な協力の促進」といった文言に含意されている内容に、サイバー攻撃の意図が含まれていないと解釈することは難しい。安全保障関連の文書の「防衛」とか「防御」という文言は、文字どおりの意味ではなく力の行使や威嚇を自衛権行使として国際法上正当化するための言い換えであって、実際には攻撃という含意だと解釈すべきだろう。

サイバー領域での抑止力にはサイバー攻撃を未然に阻止することもまた抑止力として効果をもつという解釈がありうることも注意したい。相手の攻撃を抑止するための先制攻撃がサイバー領域で実行されることは、前述した米国のイランへのサイバー攻撃ですでに行なわれた実績がある。サイバー領域における攻撃は、実空間での力の行使を阻止するという口実で正当化されやすいし、その実行に対する世論の批判もかわしやすい。この意味でもサイバー攻撃はハードルの低い手段である。このことを踏まえて米軍との連携がサイバー領域で展開されるということは、力の行使や威嚇のハードルの低い領域で日本が参加しつつ、結果として実空間での武力紛争に関与する結果になる、という可能性が高い。21

いずれにせよ、「提言」の枠組では、日本の米軍基地は重要な役割を担うとともに米軍との一体化が進む自衛隊が巻き込まれるだけでなく積極的にその役割を担い、米国のビッグテックがサイバー戦争の担い手である以上日本側の通信事業者もまた積極的な関与が可能なように企業体制の見直しも進められるはずだ。これまでの戦争で日本が後方のロジスティクスなどを担うことがあったが、サイバー戦争ではむしろ日本が攻撃の主体を担う可能性がより大きい。ただし、上に述べたことの殆どは事前に公表されることはないだろうし、そもそも日本に攻撃が帰属するという痕跡すら残されないだろう。

10. 憲法9条と国際法――サイバー戦争の枠組そのものの脆さ

「アクセス・無害化」の先制攻撃という発想がでてくる背景には、自衛のための武力行使は国際法上も正当であり、かつ、憲法9条もまた自衛権としての戦力の保持を認めている、とい自衛戦争肯定論がある。自衛権の行使は相手の武力行使という事実があって、これへの正当な反撃としてなされるものだ、というのが従来の基本的な考え方だった。しかし現在ではむしろ、ロシアのウクライナ侵略のように、先制的な攻撃によって相手の武力行使を抑え込むことも自衛の手段とみなされるようになっていると思う。しかしこうした先制攻撃は相手の自衛権行使を正当化することにもなり、その後の武力行使の応酬と戦争の泥沼化に繋がる。

サイバー領域は、とくに、実空間での物理的な破壊のようなリアリティが乏しく「戦争」というイメージをもたれにくいために、サイバー攻撃の敷居は低い。しかも秘密裡の攻撃が常態となっていることから、戦争に関する法手続きや民主主義的な討議の余地も小さくなる。それだけではなく、情報戦を通じた世論の敵意醸成や偽情報の拡散などといったサイバー領域の敵対的な感情の扇動が行なわれる結果として、外交的な手段であるとか、政府とは別に、市民レベルでの相手国との交流や反戦運動などの可能性が著しい困難に直面する。こうした副作用も含めてサイバー領域での自衛戦争の弊害をきちんと理解する必要がある。この点を理解すれば、私たちがとるべき選択肢は一つしかないことがわかる。それは、「提言」が提起する情報通信領域の網羅的な監視に明確に反対し、グローバルな「通信の秘密」を断固として主張することであり、自衛の手段としての先制攻撃も、サイバー領域におけるスパイ活動やハッキングを含む一切の「アクセス・無害化」の権限も、政府に与えるべきではない、ということである。

「提言」が憲法9条に言及せず、戦争を禁止する国際法への配慮もないということは、無視できない重要な問題だ。憲法9条も国際法上の戦争法や関連する法規の基本的な枠組ができあがった時代には、インターネットもサイバー領域における力の行使や威嚇といった問題が存在していなかった。とはいえ、とりあえずインターネットなどグローバルなサイバー空間にも国家主権が及ぶとみなして、従来の国際法の枠組を無理矢理当て嵌めようという努力が行なわれてきた。しかし、従来の解釈をそのままサイバー領域に当て嵌めることが困難な場合が多くみられる。このために、サイバー領域における力の行使の何が国際法や戦争法に照らすて合法なのかの国際的な合意が存在するのかどうか極めて曖昧な状況にある。こうしたなかで、各国政府が自分に都合のよいように解釈し、その解釈を国際標準として認めさせようとする法の正当性を巡るヘゲモニー争いが起きているともいえる。

各国とも、自国の軍事力や安全保障政策にとって有利なルールを主張している状況は、事実上サイバー攻撃は何でもアリ、という危険な兆候を孕んでいるともいえる。だから日本政府は、この混乱に乗じてサイバー領域における戦争を自らに都合のよい枠組で正当化するための法整備に前のめりになっているのだろう。革新野党が、ここでもサイバー攻撃の不安感情にとらわれた世論や有権者の支持を失ないたくない一心で、サイバー攻撃に対する何らかの力の行使や威嚇の必要性を認めかねない、と私は危惧している。これに対して私たちは、明白な力の行使や威嚇を一切認めない立場をとることで、はっきりと対立点を提起してサイバー領域を明確に戦争から切り離す方向を提起すべきだ。この場合、その核心をなすのが、自衛権という名の力の行使や威嚇も明確に否定することにある。むしろ実空間とは違って、サイバー領域のセキュリティは力の行使や威嚇ではない別の手段で、国家に委ねることもなく、コミュニケーションの主体である私たち自身が自らの手で防衛できる領域でもある。コミュニケーションを国家や営利企業の支配から切り離すことは、同時に、サイバー領域の平和構築の基盤を構築することになるはずだ。

Footnotes:

1

https://www.cas.go.jp/jp/siryou/221216anzenhoshou.html

2

サイバー安全保障分野での対応能力の向上に向けた有識者会議、https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo/index.html。 提言は https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo/koujou_teigen/teigen.pdf

3

ここでいう「力」とはforceを意味する。forceは「武力」とも訳すことができる。

4

朝日新聞社説:サイバー防衛 厳格な歯止めの議論を 2024年8月24日、https://www.asahi.com/articles/DA3S16017418.html 毎日新聞社説、能動的サイバー防御 国民の権利を侵さぬようhttps://mainichi.jp/articles/20240611/ddm/005/070/088000c、 信濃毎日新聞社説 サイバー防御 厳格な歯止めが不可欠だ https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2025011200013、 市民団体などの反対声明として下記がある。秘密保護法対策弁護団、【声明】通信の秘密を侵害する能動的サイバー防御制度の導入に反対する声明 https://nohimituho.exblog.jp/34227610/ (共同声明)能動的サイバー防御と関連する法改正に反対します―サイバー戦争ではなくサイバー領域の平和を https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/296

5

https://www.moj.go.jp/houan1/houan_soshikiho_qanda_qanda.html 最高裁判例も参照。https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/400/050400_hanrei.pdf

6

実は現行憲法で公共の福祉を明記していない条文について、自民党の改憲草案では、これを明記する方向での改正を提案している。 https://storage2.jimin.jp/pdf/news/policy/130250_1.pdf つまり自民党は現行憲法の「公共の福祉」が明記されていない条文については、公共の福祉を逸脱する場合も憲法が私たちの権利を保障していると解釈される余地があることを危惧している。私はヘイトスピーチのような言論を全く支持していない。ヘイトスピーチは差別を肯定する言論であり、社会的な平等に基づく人々の自由の権利と真っ向から対立する。これは公共の福祉の問題ではなく、構造的な差別の問題である。

7

傍受令状の請求可能なのは、検察官、司法警察員、麻薬取締官及び海上保安官だけである。犯罪捜査のための通信傍受に関する法律第4条。https://laws.e-gov.go.jp/law/411AC0000000137

8

「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。 」国連、市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)条約本文 https://www.nichibenren.or.jp/activity/international/library/human_rights/liberty_convention.html

9

「Kinetic warfareは、外交のような「ソフト」な力とは対照的に、軍事 戦闘やその他の直接破壊的な戦争形態を指す言葉。法律戦lawfare、制裁、サイバー戦、心理戦、情報戦その他のタイプの「ソフト」な力と対照的である。この用語は、2000年代に入ってから広く使われるようになる前に、軍事用語として登場した。」wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Kinetic_warfare

10

https://www.cscloud.co.jp/news/press/202402216761

11

https://cyberdefensereview.army.mil/CDR-Content/Articles/Article-View/Article/1135998/active-defense-security-operations-evolved

12

(Gigazine)中国政府系ハッカー集団「ボルト・タイフーン」が5年間以上もアメリカの主要インフラに潜伏していたことが判明、台湾侵攻の緊張が高まる https://gigazine.net/news/20240208-china-volt-typhoon-infrastructure-5-years/

13

たとえば以下を参照。(+972magazine)「ラベンダー」: イスラエル軍のガザ空爆を指揮するAIマシン https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/972magazine_lavender-ai-israeli-army-gaza_jp/ (+972Magazine)「大量殺戮工場」: イスラエルの計算されたガザ空爆の内幕 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/972magazine_mass-assassination-factory-israel-calculated-bombing-gaza_jp/

14

防衛省「NATOサイバー防衛協力センターによるサイバー防衛演習「ロックド・シールズ2024」への参加について」https://www.mod.go.jp/j/press/news/2024/04/23c.html

15

https://www.nytimes.com/2012/06/01/world/middleeast/obama-ordered-wave-of-cyberattacks-against-iran.html

16

2025年1月15日。 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20250114-OYT1T50191/

17

「Microsoft は、標的を絞った悪意あるステルス活動を発見しました。米国内のさまざまな重要インフラストラクチャ組織を狙い、侵害後に資格情報アクセスとネットワーク システム検出を実行することを目的とした攻撃です。」 https://www.microsoft.com/ja-jp/security/security-insider/emerging-threats/volt-typhoon-targets-us-critical-infrastructure-with-living-off-the-land-techniques ただし中国は攻撃元であることを否定し反論している。中国の反論は Volt Typhoon:A Conspiratorial Swindling Campaign targets with U.S. Congress and Taxpayers conducted by U.S. Intelligence Community https://www.cverc.org.cn/head/zhaiyao/futetaifengEN.pdf

18

https://www.cambridge.org/jp/universitypress/subjects/law/humanitarian-law/tallinn-manual-20-international-law-applicable-cyber-operations-2nd-edition?format=PB

19

2022年段階の記事によると、ウクライナの戦争では、ロシアが傭兵を積極的に投入していることが知らているが、ウクライナもまた52カ国から約4万人が義勇兵として申し出ており、ウクライナ領土防衛国際軍団に参加した。ウクライナのIT軍への参加呼びかけのツイートには、30万人が返信しているという。Ann Väljataga、”Cyber vigilantism in support of Ukraine: a legal analysis” March 2022 https://ccdcoe.org/uploads/2022/04/Cyber-vigilantism-in-support-of-Ukraine-a-legal-analysis.pdf

20

(NHK)“サイバー攻撃=犯罪だが…” ウクライナ「IT軍」の日本人 参戦の理由 https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pM2ajWz5zZ/

21

抑止力という言葉が核兵器であれば、核の使用の絶対的な阻止を意味し、通常兵器であればその使用が一定程度あったとしても、ある規模以上の使用を断念させるだけの武力の行使という意味の抑止力が含まれるから抑止力=武力の不使用を意味しない。

Author: toshi

Created: 2025-01-22 水 08:58

Validate

暴力をめぐる「生のあやうさ」と「葛藤」――ジュディス・バトラーの非暴力論

Table of Contents

1. はじめに

多くの人々が非暴力を口にしながらも、現実には暴力という手段によって目的を達成しようとする事例は事欠かず、個人レベルでも集団でも民主主義を標榜する法の支配に従属する国家に至るまで、ごくあたりまえに見い出される。この厄介な現実に対峙するためのひとつの切り口として、ここではジュディス・バトラーの非暴力論について考えてみることにする。1

バトラーは、911「同時多発テロ」や対テロ戦争、Black Lives Matter、中絶をめぐる論争や性暴力、そしてイスラエルの建国以来繰り返されるパレスチナへの戦争まで、状況に敏感に呼応して暴力と非暴力の問題に繰り返し言及してきた。彼女の基本的なスタンスは明確で、暴力という手段を否定し非暴力を選択するという立場だ。しかし、その主張はやや難解だ。議論の前提になっている精神分析(フロイトだけでなくとりわけメラニー・クライン)やエマニュアル・レヴィナスの哲学などは、活動家の間の共通理解にはなっていないだろう。非暴力抵抗運動の活動家がジーン・シャープの本を読んだりするような手軽さはないかもしれない。そもそも彼女の議論のスタイルは、運動のマニュアルにも綱領にもなりえるものではない。しかし、彼女の問題意識は、特に暴力(武力)を解放の手段としては選択しない様々な非暴力抵抗運動としての反戦平和運動のなかで議論されるべき重要な問題提起を含んでいると私は考えている。以下の私の議論も、こうした観点に引き寄せて論じている。

バトラーの議論の前提にあるのは、私たちの生存は権利としても現実のあり様としても、十分に保障されてはおらず、むしろ常に生を奪う暴力の危険をかいくぐるようにして生きている、という生存についての認識がある。これを「生のあやうさ」と呼んでいるのだが、このあやうさは人皆平等にそのリクスを負っているのではなく、極めて大きな不平等が存在している。生をあやういものにする暴力と不平等が現実の社会を構成しているなかで、非暴力を論じるのがバトラーの問題の枠組になる。バトラーの論は、暴力にまみれた世界のなかにあって、暴力の被害の当事者が自衛のために暴力を正当な選択とみなすことによって、ときには加害と被害がその立場が逆転されたり暴力の連鎖が再生産される事態を理解する上でも、また、ここから抜け出すために主体が抱え込まざるをえない暴力との危うい関係を直視する上でも、示唆的である。他方で、バトラーの議論では、具体的な事例に即した議論を敢えて避けて抽象度の高い議論を展開するために、彼女が想定している状況がDVのような親密な人間関係のなかでの暴力なのか、それともテロリズムなのか、あるいは国家間の戦争なのか、容易には判断しがたい場合があり、また、論じられている暴力が加害者の側からなのか被害者の側からなのかについても、明示的ではない場合がある。読む側が、どのような状況を念頭に置いて彼女の議論を解釈するのかで、その解釈にはかなりの違いが生まれるようにも思う。とはいえ、バトラーにとっての暴力には、ジェンダーの領域に関わる暴力、米国社会が内包している暴力とともに、彼女の出自でもあるユダヤ系知識人としてイスラエルがパレスチナに対して建国以来一貫して行使してきた暴力の問題が常に背景としてあることを念頭に置くことが必要だと思う。

2. 規範としての暴力

バトラー自身は非暴力の確信的な主張者だが、非暴力は容易な選択肢ではないこと、むしろ困難な選択であり、これをあえて選択するための思想的な根拠を明確にしようという問題意識がある。というのも現在の社会において非暴力は、規範を時には装いはするものの、国家の本質=統治の根源になりえていないからだ。家父長制的な親密空間から警察、軍隊に至るまで、暴力こそが規範になっているのが現在の社会のありかたであり、法は暴力を正当な行為として承認する枠組であり、この意味では法は暴力を規範とするとみていい。規範であるということは、その暴力は法的に承認されているか、あるいは道徳的に正当化されている、ということを意味している。このような暴力をめぐる規範の枠組を与件として、この規範に抵触しない範囲で非暴力を主張することは、暴力を規範として再生産する枠組そのものを暗黙のうちに肯定することになる。したがって、非暴力とは、暴力の規範を解体することを指向することでなければならないのだが、その道筋は以下で述べるように容易ではない。しかし、容易ではないからこそ、この規範として承認された暴力に屈することなく非暴力を指向するこを断念すべきではない、ということにもなる。

本稿では主にバトラーの「非暴力の要求」とい文章(『戦争の枠組』清水晶子訳、筑摩書房、第5章、以下引用のページは訳書による)を中心に考えてみたい。誰もが暴力の被害者にも加害者にもなりうると同時に、暴力という手段を選択しない立場をとる主体にもなりうる。いずれの場合にも、それなりの言い分がある。事柄は具体的な状況の文脈のなかでしか判断できないかもしれない。しかし、バトラーはより抽象度の高いところで議論を組み立てる。大前提として彼女は、非暴力とは原則的な立場ではない、ことを強調する。今現在、私たちが直面しているのは、非暴力が原則にはなりえず、暴力があらゆる局面で露出するような社会を前提として、なおかつ、その中で原則にはなりえない非暴力を選択する、という極めて困難な選択に挑む、という課題だ。2

バトラーは暴力が振われる状況において、この暴力に応答する主体もまた暴力を用いるであろうということ、この暴力の応酬もまたひとつの「規範」のなせるわざであると述べる。現代の社会においては、こうした暴力に対して対抗手段として暴力を選択することは、報復のレベルが当初の暴力的な加害との間でバランスがとれてさえいれば、あるいは自己の主権を防衛する正当な応答であると第三者が判断できるだけの客観的な根拠があることが示せさえすれば、こうした暴力は肯定され、非暴力の出る幕はない、ということになる。これが現実主義的な国際関係における暴力をめぐる規範の枠組だ。この枠組が規範になっている現在、人々は、こうした暴力を否定するのではなく、こうした規範に沿った行為である限りにおいて、暴力を積極的に肯定さえしていることになる。非暴力を論じる場合の出発点は、こうした規範化された暴力を批判することにある。

だから、非暴力を主張するということは、こうした暴力の規範によって正当化された暴力を否定するのでなければその意味をなさない。とりわけ国家が行使する暴力が、法の適正な手続きを経ており、かつ、主権者たちがその行使を支持している客観的な状況が存在するばあい、社会の多数は、こうした国家の暴力を肯定する。民主主義国家であれば、主権者としての「国民」の多数がこうした国家の暴力の正当性の根拠をなす。そのなかで、非暴力を主張するということは、この暴力を正当化する規範から逸脱する非暴力を主張するということだから、非暴力を主張する者たちは、規範化された暴力とこれを否定する非暴力との関係そのものを生きることを意味する。しかし、非暴力を主張する「わたし」もまた社会の一員であって、この暴力を正当化する規範を構成する枠組の部外者なわけではない。ある意味では、非暴力を主張する「わたし」にとっても、暴力の規範について、社会の多数がこの規範を承認する理由や感情を一面では理解しているはずなのだ。その上で、「わたし」は多数者が承認する暴力の規範をあえて否定する立場をとることになる。このような立場の選択は、容易には理解されないはずのものだ。非暴力は、国際関係が緊張状態を増し、国内の治安が悪化すればするほど、空論とみなされ、その評価が落ちる。しかし、こうした事態であるからこそ、容易ではない非暴力の主張に固執することに意味があると思う。

3. 暴力でかたちづくられる「わたし」

バトラーは「非暴力は単一の主体にとっての葛藤だ」と述べている。「主体に働きかける規範は社会的な性格を持つと言うことでもある。非暴力の実践に賭けられているのは社会的な絆なのだ」(p.200)というのだ。バトラーは、個人主義的な人間観を斥け個人を社会関係のなかで捉え、非暴力の実践は暴力の網の目のなかに組み込まれている私たちを結びつけている関係それ自体を組み換えることだという。だから社会が暴力の規範を承認するなかで、「わたし」が非暴力を主張するということは、必然的に「わたし」を構成している社会関係=絆もまた、暴力の規範と、これを否定する非暴力の主張という相反するベクトルのなかに投げ込まれざるをえないことになる。「わたし」は、「わたし」よりもその存在において圧倒的に巨大な社会の規範に対峙し、立ち向かうという困難な立場をあえてとること、そのような否定的な絆として社会と関係する、ということになる。

社会が規範化された暴力を承認し、そのなかで生きている「わたし」――この「わたし」は非暴力を主張するのだが――は、一面では、この暴力にまみれた社会的な存在のなかの「わたし」という観点からすれば、「わたし」のなかには不可避的に規範的な暴力を内面化する契機がある、ということになる。これはキャサリン・ミルズがバトラーへの批判として提起した観点だとバトラーが紹介している。これに対してバトラーは「わたしたちは少くとも部分的には暴力を通じてかたちづくられる」ことを認めるが、そうだとしても次のように主張することは可能なはずだ、と反論する。

わたしたちをかたちづくる暴力と、いったんかたちづくられた後のわたしたちがみずからふるう暴力との間に、何らかの決定的な破損が生じることはありうる、と。それどころか、人が暴力を通じてかたちづくられるというまさしくそれ故に、自らをかたちづくる暴力をくりかえさない責任が、それだけいっそう差し迫った重要性を持つのかもしれない。p.202

私も同様の観点を主張してきたので、この観点にほぼ同意する。暴力を宿命としてきた社会や個人の歴史から、この先の社会と個人の未来もまた暴力を宿命とすると予測する、こうした手法をバトラーは否定し、むしろ暴力を通じてかたちづくられた「わたし」の責任は、この暴力を繰り返さないことにあると断言する。暴力によってかたちづくられる「わたし」といっても、家父長制のなかで女性としての「わたし」と男性としての「わたし」とでは、全く正反対のかたちづくられ方となるだろう。その上で、これはひとりひとりの人間の私的な生育歴の場合であれ、社会が形成されてきた歴史的な経緯――建国の神話あるいは史実――であれ、これらをたしかに形成してきたにちがいない暴力を、歴史的事実としては否定することはできない。しかも厄介なことに、この社会の多くの人々が、こうした暴力には肯定されるべき側面があるとすら評価しているために、暴力は容易に再生産されてしまう。躾としての「愛の鞭」であれ、あの戦い(暴力)があったからこそ今のこの社会(国家)が生まれたのだ、という暴力への賞賛であれ、こうした言説を支える実感に対して、非暴力という主張が実感のレベルで納得を得られるのは容易なことではない。この困難を承知のうえでバトラーは、上に引用したように「自らをかたちづくる暴力をくりかえさない責任」を自らに課す。

ここでバトラーが念頭に置いている暴力をめぐる規範なるものは、法などで制度化された軍や警察による合法的な暴力装置に関するルールといった実定法的なものというよりも、むしろ、各個人が内面化している暴力についての閾値――正当なものとして容認しうる暴力とそうではない暴力を分かつ境界――についての慣習的な直感とでもいうべきものが関心の中心にあるように思う。バトラーが法や制度とは言わずに、より曖昧な「規範」という言葉で問題を提起するのは、暴力という行為の是認を人々の内面的な価値判断として問題にしたいからだろう。一世代前であれば、許容され肯定されていたかもしれない家庭内の大人による子どもに対する躾のための体罰――学校の教師の体罰でも同様だが――は、暴力をめぐる規範としては容認しうるものとみなされたが、現在では、容認しえない暴力として分類される。日本では戦後直後には、自衛力も含めて武力を保持することは国家の暴力規範としては是認できないが、米軍の駐留とその暴力の存在を是認しうるという暴力規範の閾値が支配的だった、ともいえる。その後この規範もまた変容して多くの人々が――「平和憲法」を擁護して改憲に反対する無視できない数の人々ですら――自衛のための戦力の保持を容認するようになる。暴力をめぐる規範は変容するが、いずれも暴力は一定の規範に沿う形で調整されて法(あるいは法解釈)として正当化される。だからこそ、既存の規範において容認される暴力を否定することが非暴力にとっての重要な立場となる。このことを踏まえた上で、暴力のなかで自己を形成してきた「わたし」が、自らをかたちづくる暴力を将来においていかにして繰り返さないという行為が、集団性を獲得することを通じて、この暴力規範の閾値をゆさぶる可能性があることにもなる。そして更に、そもそもの暴力それ自体を無化する方向へと社会を変える可能性もこうした責任を自覚した行為のなかから生み出されるだろう、ということでもある。

4. 暴力の背景

バトラーは暴力においてかたちづくられる「人」のなかには「国家的な敵意の構造を通してかたちづくられている」場合があり「敵意の構造は、市民的、そして私的な生活においてさまざまなかたちの支流をなしている」とも言う。その上で、次のように問う。

その形成の作用が人の生涯を通じて続くとき、形成史における暴力をどう生きるのか、暴力を反復するなかでいかにずらしや反転をひきおこすのか、についての倫理的な難局が生まれる。p.205

「倫理的」という意味は、道徳のような外部からの要求ではなく、自己自身の内面からの判断として非暴力という判断を選択することだ。自分自身が暴力の直接の加害あるいは被害の当事者ではないにしても、暴力を経験としてもちながら育ち、今現在の生活もあるということは、誰にでもありうる環境でもある。この現実から将来においても暴力を規範として繰り返されることを宿命とか必然とはみなすような決定論が生み出されるのだが、これをどのようにしたら回避できるのか。当事者でなくても「いかにずらしや反転をひきおこすのか」という極めて実践的な問いに直面せざるをえないことになる。暴力の現実があるなかで非暴力を選択するとはこういうことを意味している。バトラーは畳みかけるように問う。

わたしはみずからの形成の暴力をどのように生きるのか?その暴力はわたしの中でどう生きつづけているのか?その暴力はいかにわたしを、わたしの意志にかかわらず、前進させる(carry)のだろう、わたしがその暴力を保持している(carry)まさにその時にさえ?そして、どのような新しい価値の名において、わたしはその暴力を反転させそれに反対できるのだろう?そういう暴力の向きを変えることが可能だとして、それはどのような意味においてなのか?p.205

このような問いが投げかけられる背景は様々想定できる。バトラーは米国で、とくに、2001年9月11日のいわゆる「同時多発テロ」事件を経験しており、本書は2009年に書かれていて、『生のあやうさ』(2003年)の続編ともいえる位置にあるが、他方で、ジェンダーと暴力の問題に日常的に直面してきた経験もまた彼女の問題意識の背景にある。常に世界のどこかで戦争をし、国内では銃の所持が合法化されている米国は、国家レベルでも私生活のレベルでも暴力という経験のなかでしか人は成長できず、物事を考えることができない社会であり、社会とはそういうものなのだと誰もが自覚せざるをえない環境にある。だから暴力のなかでどのように生きるのか、同時に暴力は「わたし」のなかでどのように肯定され維持されてしまうのか、といった一連の問いが切実なものになる。

他方で日本の場合は、むしろ、暴力は可能な限り隠蔽される。あたかも国家権力は暴力を最小化した存在であるかのように自らを演出し、強制であっても自発的な同意であるかの装いをとろうとする。明確な武力行使の組織である自衛隊を軍隊とは理解せず、憲法上の戦争放棄の規定と矛盾しないとみなすレトリックを多くの人々が受け入れる。日本の米軍基地がアジアの戦争に加担しても、冷戦期の戦後復興がアジアを市場とする経済帝国主義であっても、国境を閉じて移民や難民を門前払いしても、これらの仕組みがおしなべて、他者に対する暴力であるという認識は共有されてこなかった。憲法が残虐な刑罰を禁じているにもかかわらず死刑制度を当然の刑罰とするが、その執行は極力目立たないように演出される。死刑廃止を支持する世論が少数派であることは、刑罰を見せしめや復讐とみなす価値観が根付いていることを示している。学校の体罰も家庭の親の暴力も教育や躾としてその行為に倫理的道徳的な価値すら認める価値観が長年肯定され、人権という観点はどこか「外来」の価値観でしかないような位置に置かれ続けてきた。自らのなかにある暴力を肯定する価値観に気づかない。だからこそ、そこに暴力が伏在しているということを認識しようという努力は払われなかったのではないか。

日本では、暴力の存在は隠蔽され、巧妙にその行為の意味を転換させられ、暴力のなかを生きてきたという「生のあやうさ」の現実が容易に消し去られてしてしまう。だから、なによりも私たちは、上のバトラーの問いに向き合う前に暴力に気づくことから始めなければならない。隠された暴力あるいは潜勢力にとどまる暴力に気づき、その上で暴力は宿命でもなければこれを将来にわたって自分の内面に抱えこむべき理由のないことを確認する方向へと向う必要がある。日本のばあい、こうした過程なしには内面化されて暴力とは気づかれないかたちで国家が行使する暴力が見逃されやすくなり、こうした隠された暴力を厳しく否定する立場そのものが成り立ちがたくなる。

5. 葛藤

暴力のなかで生きざるをえない「わたし」が非暴力を主張するということは、葛藤を抱えこむ覚悟をもつことでもあるとバトラーは述べている。

主体をつくり維持することにともなう暴力なくしては、倫理的な「要請」としての非暴力を理解することはできないだろう。そのような暴力なくしては、葛藤も、責務も、困難もないだろう。重要なのはみずからの産出の条件を根絶することではなく、ただ、そのような産出を決定する力に異議を唱えるように生きる責任を引き受けることなのだ。p.206

逆説的だがバトラーは「人が暴力にまみれているまさにそれゆえに、葛藤が存在し、非暴力の可能性があらわれるのだ」ともいう。非暴力をめぐる葛藤への注目は、私にとっては、重要な示唆与えるものだった。私はともすると、単刀直入に「いかなる場合であれ武器はとらない」と宣言したり、暴力は問題を解決できず先送りにするだけである、といった主張を、ある種の「理屈」としてのみ述べることで十分だと見做しがちであり、スローガンによる決意表明でもなければ理屈による暴力の否定でもない暴力の問題の核心を外してきた。たとえば、「もしミサイルが飛んできたらどうするのか」とか「敵が侵略してきても抵抗しないのか」とか「親兄弟子どもたちが殺されそうになっているときに見殺しにするのか」などといった様々なありがちな「想定問答」――これらはマスメディアや政府が繰り返し煽る不安感情でもあるが――に対して、容易には非暴力という答えを選択することはできない、という実感だ。こうした実感が、国家の自衛権としての武装を容認する感情的な基盤となってきた。バトラーは暴力を選択しかねない切実な状況に真正面から向きあっている。だから、非暴力を選択するということは葛藤を伴うことであり、この葛藤を直視して、そのなかから非暴力という答えを見出すという困難な道を選択する覚悟をもつべきだと言うのだ。3バトラーは非暴力は美徳ではないし、立場でもない、とも言う。暴力の現実に直面するなかで、人は非暴力という選択をめぐる葛藤のなかでみっともなくおたおたし、時には暴力の助けを借りるという誘惑に負けることもあるだろう。しかし、これで終りなのではなく、そこから挫折を反省し自らを責め苛むなかで、再度非暴力への道筋を手放さずに追求しようという葛藤の連続でしかない。

国家規模での暴力との関係がやっかいなのは、国家の側は私との関係を法や行政の強制力や私の側が有する権利などの様々な社会関係を通じて、あらかじめ私との「関係」を構造化している点にある。そのために、ここに生じる相互依存といってもいい関係は確実に不平等である。私の主体的な選択や意思に先立って、私には選択の余地のないものとして、国家がしつらえた国籍や「国民」、ジェンダー役割、エスニシティというアイデンティティが半ば押し付けられることになる。この枠組のなかで家族関係があり、生育環境が準備される。この所与としての逃れることが困難な関係として構成される枠組のなかに暴力が内在する。バトラーはこれを「必然的で相互依存的な関係」と呼ぶ。非暴力は、ここに割って入り、暴力への抵抗を構築しなければならない。バトラーは次のように言う。

意図せざる効果のすべてが「暴力的」ではないにせよ、その中には人を傷つけるような衝撃もあって、身体に力づくで作用し、憤怒をひきおこす。これが、非暴力という動的な拘束状態、あるいは「葛藤」を構成しているのだ。(中略)人が暴力にまみれているまさにそれゆえに、葛藤が存在し、非暴力の可能性があらわれるのだ。p.206

暴力に「まみれている」という言い回しは、暴力が必然であって回避不可能だということではない、ことを意味している。だから、ここに暴力を選択(容認)するのか、それとも非暴力を選択するのか、という葛藤が生まれ、この葛藤のなかで悪戦苦闘する先に非暴力を選択する可能性も生まれる。暴力にまみれているということ自体が皮肉にも非暴力への葛藤の条件であり、しかも葛藤の結果として非暴力ではなく暴力を選択してしまうという失敗もまたしばしば生じさえする。だからこそ葛藤なのだ、とも言う。そして次のように言う。

非暴力はまさしく美徳でもなければ立場でもなく、ましてや普遍的に適用されるべき一連の原則でもない。それは、傷つき、怒りくるい、暴力的な報復にむかいやすく、にもかかわらずそのような行動をするまいと葛藤する(そしてしばしばみずからに対する憤怒をつくりだす)ような、暴力にまみれ葛藤をかかえた主体の位置を示しているのだ。暴力に反対するたたかいは、暴力が自分自身の可能性だということを受け入れる。p.207

暴力と非暴力の葛藤があるなかで、暴力は、非暴力に対してみずからの正当性を主張する。しかも攻撃を受け傷つき報復感情が最大となるような状況――911「同時多発テロ」がバトラーの念頭にあったのだろうか――のなかでは、社会の多数が暴力に承認を与えるような局面となる。こうした報復感情は「性急かつ最大限の道徳的な確信をもって報復に向けた動き」が伴う。葛藤は、暴力と非暴力の選択の間にあると述べたが、単なる暴力というよりも、暴力の行使を要請する道徳的な立場と暴力を差し控えて別の手段をとるべきとする倫理的な立場との間に生じるものだ、といった方がいい側面がある。ここでは道徳的な要請が暴力の側に加担することになるわけだが、こうした意味での道徳を暴力を内包する国家が繰り返し人々に与えたがるものになる。

6. 憎悪と破壊

バトラーは、このやっかいな葛藤の構図に対して、レヴィナスの「顔」の議論を参照しながら「殺す欲望と、殺さないという倫理的必要」の葛藤に言及したり、メラニー・クラインの「喪失をこうむった主体にはのみこみつくすような攻撃性がそなわっている」といった道徳的サディズムあるいは暴力の道徳化を参照する。とくにクラインについては数ページにわたっての言及があり、他者と自己の間の暴力をめぐる錯綜した関係が一筋縄ではいかない構図をもつことが、自殺をも視野に入れて論じられている。憎悪や破壊の対象と自己との関係は、単純な敵・味方の二分法の構図には当て嵌らない。言い換えれば、憎悪の対象とみなされる対象は決して単純な憎悪の対象ではなく、「破壊性にさらかって対象を保護しようとする試み」が内包されている。自らが破壊した対象に対して悲しみを覚えるとも言う。

この指摘は、暴力の構図を非暴力の構図へと反転させるためには、敵対する双方の関係を非敵対的な別の関係へと転換させるプロセスを必要とするが、この転換は何を契機にして可能になるのか、という問題と関わっている。憎悪の感情を収束させるためのひとつの手掛かりとしてバトラーがここで関心をもつのは、暴力としてあらわれる可能性をもつ憎悪が暴力へと駆り立てられることなく、この一見すると制御不可能にすらみえる感情を抑制するメカニズムが自己の内部にありうることに気づくことだ。

これは、いわゆる人間の暴力性をめぐる長い論争へのバトラーなりのひとつの答えではある。4ある種の学説にとっては、人間の破壊性は本能であって人間の本質でもある、ということになるが、バトラーは、こうした議論に巧みなうっちゃりをかます。たとえ破壊性が人間の本性だとしても、この破壊性の方向づけは多様であってひとつではないと指摘し、さらにここには「他者を破壊性からまもろうとする責任の、基盤となりうる」ものが含まれ、この責任は「まさしく、道徳的サディズムに対する、暴力の否認からつくりあげられた純粋さの倫理に独善的にみずからの基礎をおく暴力に対する、代案である」という。暴力は、常に自己の生を守ることだけに執着するから、他者の生を守る倫理的責任を伴わない。そうでなければ暴力は行使できないからだ。こうした暴力が人間社会にとって必然だからこそ、この暴力から守ることもまた人間にとっての責任だということになる。破壊本能を自覚するからこその責任であり、非暴力なのだとバトラーは言いたいのだと思う。このように、バトラーがここで暴力を支える道徳的サディズムに対置しているのが「責任」という観点だ。

(前略)責任は、怒りに観ちた要請に対する非暴力的解決を見つけだすという倫理的命令のみならず、攻撃性をも、「自分のものと認める」。正式な法にしたがってこれをおこなうのではなく、まさしく、みずからの潜在的な破壊性から他者を守ろうとするために、そうするのだ。人は、他者のあやうい生を保持しるという名において、愛するものたちを守るような表出様式へと、攻撃性をつくりあげる。攻撃性はこうしてその暴力的な配列に制限をくわえ、他者のあやうい生を尊重しそれを守ろうとする愛の要求に、みずからを従属させるのだ。p.213

こうした観点は敵・味方の二項対立の図式からはでてこない。そもそも「わたし」に課せられた責任とは、攻撃性に加担しかねない葛藤を抱えた私であるというところを出発点としている。相手のあやうい生を認識できるということは、相手のこのあやうい生を脅かし破壊するのではなく、逆に何とかこれを支えるために攻撃性を差し控えるための最大限の努力を傾注するというところに自らの責任を置く。この観点は、国家は好戦的で戦争の準備をしているが、私たちはそうした国家とは無縁な平和を主張する者だ、という平和主義には回収できない観点だ。むしろ平和主義者であっても、その帰属する国家の暴力に責任が伴うだけでなく、葛藤と自己の内面に潜む破壊性に無自覚な平和主義はむしろ暴力を見逃しかねない危険性すらあることを示唆している。

7. 被害者と非暴力

そしてまたバトラーは、暴力によって毀損され迫害される主体という被害者の立場から非暴力を論じることにも否定的である。この点は、特に重要な観点だと思う。

特定の主体が、みずからを定義上傷つけられ、それどころか迫害された存在だと考えるならば、そのような主体がどのような暴力行為をふるうとしても、それは「危害を加える」ものとは理解されないだろう。そのような行為をおこなった主体は、定義上、害を被ることしかできないことになっているのだから。結果として、傷つけられたという地位にもとづいて主体を産出することは、主体自身の暴力を正当化する(そして否認する)恒久的な根拠をつくりだすことになる。p.215

ここでの特定の主体をイスラエルを指すものとして読むことができる。ユダヤ系で確信的な反シオニストでもあるバトラーは、この文章を確実にイスラエルを念頭に、パレスチナに対して繰り返される暴力の歴史を踏まえて書いていることは間違いない。私にとっては、この文章は同時に、戦後日本の欺瞞的な平和主義に潜む落とし穴をも的確に指摘するものになっていると思う。戦後の平和主義の主流は、国家の戦争に対する「国民」の被害者感情に依存し、加害責任の問題を可能な限り最小化するなかで、多くの日本人が犠牲となったという観点に立って、戦争を二度と繰り返すべきではない、というところに平和の起点を置いた。日本の侵略と加害には極力言及せずに、戦争で多大な犠牲を被り――そのわかりやすい例が原爆による被害だ――、その反省の上にたって平和憲法によって戦争を放棄してきた日本、という構図は、定義上戦争において害を被ることしかできない日本が行使するかもしれない暴力なるものは、被害者としての暴力として正当化される、といった理屈に陥る危うさがある。このことを上の文章は気づかさせてくれる。

8. 他者の生との関わり

では、こうしたなかで非暴力の契機とはどのようなものになるのだろうか。

ここに非暴力が出現する機会があるとすれば、それは、あらゆる国民の損傷可能性を承認すること(それがどれほど真実であるとしても)からはじまるのではなく、自分が結びつけられている他者の生とのかかわりにおいてみずから暴力的にふるまう可能性を理解することからはじまる。この他者には、わたしが選んだこともなければ知りもしない者たち、したがって、わたしとの関係が契約の約定に先立つ者たちも、含まれている。p.215

ここで「自分が結びつけられている他者の生とのかかわりにおいてみずから暴力的にふるまう可能性を理解する」と述べていることを、身近な人間関係のなかで捉えようと国家間の軍事安全保障の緊張関係のなかで捉えようと、どちらであれ、他者とは、「わたし」が暴力を行使したいという情動にかられかねないような関係にある他者であることは間違いない。こうした他者への加害の可能性を理解するなかで非暴力の選択が可能になる。

ただし、ここでバトラーが強調するもうひとつの条件がある。それは生のあやうさをめぐる不平等な現実だ。「生きうるもの、嘆かれうるものとみなされる生とそうでない生とに格差を設ける規範」あるいは「損傷可能性を不当にそして不公平に割りあてる」枠組に批判的な介入し疑義を呈することが必須だという。

バトラーの非暴力の主張には、暴力の契機は外から来るとは限らず、暴力を構造化した社会のなかで生まれ成長してきた人間として、「わたし」の内面にある暴力の情動を孕む潜勢力を自覚することの必要性がある。しかも、暴力をある種の規範として内包する社会を生きるということは、生のあやうさを生きることであるにもかかわらず、とくに国家権力がグローバルに優位な地位を占めている国に暮す者たちにとっては、暴力による破壊や毀損は相手=他者が被るものであって、自分が被るものではないはずだ、という前提を置きながら、この相手からの暴力の報復を被るのではないかという不安に常にさいなまれることになる。しかしいずれの側にあろうとも、生のあやうさを生み出す構造からは抜け出すことはできず、そうであるが故に、あやうい生をもっぱら相手に押し付け、自らの生を確たるものにしようという不可能な願望に捉えられる。この構図には非暴力の余地はない。むしろバトラーは、この世界の仕組みが人為的に構築した敵と味方の構図を切り裂いて、生のあやうさを他者に見出し、この他者の生のあやうさの責任を自らのものとして理解することを通じて、暴力の罠を回避する回路を見出そうとしていると思う。

9. おわりに――残された問い

バトラーの議論は決してわかりやすくはないし、彼女自身のある種の躊躇や逡巡が率直に語られつつも非暴力の選択を決して断念しない、という力づよさがある。問題意識は明確だ。非暴力はいかにして憎悪や差別の感情を消滅させることになるのか、あるいは特定の対象にのみ向けられる喪や哀悼の感情を、どのようにして敵とみなされてきた他者に対しても向けうるものとして再構成することが可能なのか。つまり、暴力を規範とする現在の社会のその先に、将来における和解や肯定的な絆の構築がどのようにして見出しうるのか。暴力を構造化し規範化する背景に「生のあやうさ」というキーワードを提起したバトラーの観点は、非暴力という課題が内包している極めて複雑な感情の政治学を提起するものといえた。非暴力をめぐる葛藤のなかで悪戦苦闘することを自覚的に選択することから、暴力を廃棄する社会変革へと至る道筋を見出すことは容易ではないが不可能でもない。しかし、葛藤することこそが非暴力への道であり、暴力の前に非暴力の無力さに挫けそうになる、やはりこの際は国家の武力に委ねることもやむをえないとして妥協してしまいそうになるところで、逆にいかに踏みとどまり非暴力へと至る可能性もに賭けるのか。

「生のあやうさ」や「葛藤」といった概念の枠組は、バトラー自身が過ごしてきた苦闘の経緯そのものであり、表現の抽象度とは裏腹に、実は極めて現実的で切実な経験に裏付けられたものだと思う。とすれば、バトラーの問題提起を非暴力の実践に媒介するために何が必要になるのだろうか。日本の現実に引き寄せて考えるとき、特に最低限の自衛のための戦力保持を肯定するような平和主義という立場がますます有力になりつつあるようにみえるなかで、再度明確に断固として非暴力をつまり自衛権の放棄を選択するということを、葛藤を抱え込みながら主張するということが今切実に必要になっている、ということだ。バトラーは非暴力を原則とすることに否定的だが、むしろ私は逆に、葛藤を自覚しつつも非暴力という原則を立て、この原則の困難性としてたちはだかる現実の社会と人々の心理的感情的な不安や敵意と向き合い、とりわけ自衛権としての暴力批判を説得力をもって提起することだと思っている。

他方で、バトラーの観点からは見えてこない暴力の問題があることも指摘しておきたい。それは、とりわけ国家の暴力や集団としての暴力の場合、暴力は憎悪の感情に代表されるような情動の構造だけで説明できるのかどうか、である。暴力を組織し、敵を破壊しよとする集団的な計画性や法や統治の制度などの枠組形成は、感情の領域だけでは完結せず、説明もつかない。暴力のこの側面はバトラーの方法論ではアプローチが難しいように思う。計画的な軍事としての暴力の対象になるのは「他者」というよりもむしろ単なる標的である。そして自らの側の組織された暴力を統制し管理する仕組みのなかで人間は兵士とされて人間としての本来の存在を与えられることはない。全てが数値化されデータ化され、勝敗の結果は殺傷された数に還元される。このことを了解して暴力の主体が構築される構造が人権や民主主義の近代が生み出してきた戦争の基本的な構図だ。なぜこのようなことが可能なのかを明かにするには、バトラーとは別のアプローチが必要になると思う。このことはバトラーのアプローチが無効だということではない。ある種の物象化された暴力の組織のレイヤーとバトラーが着目した生のあやうさのレイヤーは重層的な構造として暴力を規範化している、というべきだろう。

Footnotes:

1

バトラーは多くの著作で暴力批判を取り上げてきた。そのなかで本稿で対象にしているのは『戦争の枠組』(清水晶子訳、筑摩書房)第5章「非暴力の要求」だけである。バトラーの非暴力論としては、この他に、『生のあやうさ』、括弧自分自身を説明すること』、『非暴力の力』、『権力の心的な生、主体化=服従化に関する諸理論 』、『分かれ道、ユダヤ性とシオニズム批判』などがある。

2

バトラーは非暴力について次のような問いを立てる

  • どのような条件のもとで非暴力の要求に敏感に応答するのか
  • 非暴力の要求が届いたときそれを受け止めることを可能にするのは何か
  • そもそも非暴力の要求が届くにのに必要な準備をするのは何か

本稿では、これらの問いに直接応答できていない。

3

この文脈では、暴力が国家規模の大きな権力との関係で露出する場合と、身近な人間関係のなかで生じる場合とでは、非暴力の意味が全く違ってくるように思う。しかし以下で私は、主に国家による戦争を念頭に置いている。

4

暴力や攻撃を人間の本能とみなす主張に対する批判として、A.モンターギュ『暴力の起源、人間はどこまで攻撃的か』、尾本恵一、福井伸子訳、どうぶつ社、参照。攻撃本能説としては、コンラート・ロレンツやデスモンド・モリスがよく知られている。フロイトも死の欲動を主張することで事実上攻撃性を人間の本性に位置づけるようになる。クロポトキンの『相互扶助』は、攻撃本能批判として読むことができる。

Author: toshi

Created: 2025-01-16 木 16:55

Validate