サイバースペースにおける闘争と「主体」

サイバースペースにおける闘争と「主体」

小倉利丸

生産現場や企業内の人間的な条件の制御と、市場の制御、これこそが20世紀
の資本主義が取り組んできた技術進歩の方向性を決定する重要な要素だった。
少なくともいわゆる民生用の技術が目指す技術の基本的な性格は、時間の効率
性と結果の確定性の技術であり、この技術が主としてターゲットとしているの
は、人間の非機械的な要素の排除、機械への組み込みである。サイバースペー
スは、こうした資本の一連の展開と無関係ではない。【注1】
むしろ人間の非機械的な要素のなかの特に(広い意味での)言語的な要素、コミュ
ニケーションの要素が主要なターゲットとなっている。コミュニケーションを
機械的に制御することは従来の技術ではできなかった。しかし、コンピュータ
を媒介するコミュニケーションは、コミュニケーションの機械への代替を意図
していると見なせる多くの兆候をもっている。いいかえれば、コミュニケーショ
ンは、かつての工場労働者が自らの肉体的身体をもって示した階級闘争の主体
としての有り様と同様の階級的な対立の結節点となっているのである。これま
で個体としての個別の労働者は大衆的な労働者としての集団性を工場や労働者
街を構成する都市のなかで組織した。しかし、コミュニケーションにおける階
級闘争をになう主体は、こうした意味での肉体的な身体、皮膚に覆われた肉体
と脳を境界として設定することはできない。たとえ、殴られる私の痛みを感じ
るのは、ほかならぬ唯一無二のいまここにいる私だとしても闘争する私もまた
今ここにいる私であると限定することはできない。私と連なっている端末は、
私と不可分であるし、その先につらなるデータの流れも私と「不可分」である。

今サイバースペースが巻き込まれているのは、市場の原理でいえば、結果の確
定性の局面である。速度の問題が解決されたというわけではないし、ますます
資本はどん欲な要求を出しているが、これにくらべて結果の確定性問題はずっ
と立ち後れている。人間の意思決定を制御しきれていないからだ。コミュニケー
ションにおける摩擦と制御、主体の後に登場するコミュニケーションの主体、
そしてサイバースペースの階級闘争の主体がテーマとなる。

●コミュニケーションのテーラー主義

ノーバート・ウィナーの人間観19世紀から20世紀にかけてのフレデリック・
W・テイラ-による科学的管理法や、へンリー・フォードの大量生産システム
が古典的な帝国主義の時代における資本主義の人間=労働者管理(操作)の基本
的な実践イデオロギーであったとすれば、丁度これと同等の位置をしめる戦後
冷戦期の人間観の方向性を決定づけたのは、ウィナーのサイバネティックスと
いっていいだろう。ウィナーは反共的なヒューマニストとして、人間の非人間
的な扱いを厳しく批判した。「ファシストや実業界や政界の有力者が抱いてい
る社会理念」としてたびたび彼は、トップダウン型の指揮命令系統に組み込ま
れた人間関係に言及している。こうしたシステムは人間をある高級な神経系を
持つ有機体の単なる「行動器官」に引き下げるものであり「人間の非人間的な
利用」だと批判した。【注2】こうした非人間的な人間の利用は奴隷であれ工
場の単純労働に従事する労働者であれ同じように「人間に対する冒涜」だとい
う。そして彼は、サイバネティックスは、フィードバック機構を組み込むこと
によって、一方的な指示・命令機構とは根本的に異なる人間関係を構築できる
と信じた。

ウィナーは人間とは「自己の行動パターンを過去の経験に基づいて修正し、特
異な反エントロピー的目的の達成に適合させる」【注3】のであって、予定調
和的な行動をとるわけではないとみていた。だから、「命令を下す管理者は、
国家の場合であれ、大学や会社の場合であれ、上から下への命令の流れだけで
なく、両方向的な通信の流れをつくっていかなければならない」【注4】こと、
つまり「社会的フィードバック」の必要を強調したのである。

このフィードバックによって人間は学習を積み重ね、発展することができるの
であって、それがアリの社会との違いだ、という。「多様性と可能性は人間精
神に本来そなわったものであり、人間のもっとも高貴な飛躍の鍵をなすもの」
だという。【注5】 多様性と可能性という観点は私も共有するが、問題は果た
してウィナーのような観点は文字通りの多様性や可能性を保障できるのだろう
か、ということである。

たとえば、フィードバックについてウィナーは次のように述べる。

「フィードバックとはあるシステムがすでに遂行した仕事の結果をそのシステ
ムに再投入することによって一つのシステムを制御する方法である。仕事の結
果が、そのシステムのなす判断とその調整のための数値的データとしてのみ用
いられているならば、それは制御技術者のいう単純なフィードバックである。
しかし、仕事の結果から送り返される情報が仕事の一般方式と仕事遂行のパター
ンとを変更することができるものであるならば、その過程は学習と呼ぶのが当
然である。」【注6】

フィードバックや学習は、双方向のコミュニケーションによる制御を可能にす
るということが前提となっている。しかし、こうしたフィードバックが可能な
ためには、双方向のコミュニケーションを成り立たせる場を、そこに参加する
人たちが前提条件として了解し受け入れている場合である。この前提条件が共
有される場合のみこのフィードバックはシステムを制御しある種の安定的な条
件を探し当てることができる可能性が高くなる。いいかえれば、サイバネティッ
クスが想定できるフィードバックは、システムの自己解体を予定していない。
資本主義的な市場経済のシステムが与件とされた場合、このシステムが内部的
に抱えた矛盾や摩擦がフィードバックの回路を通じて「解決」されるとしても
それは与件とされた資本主義的な市場経済のシステムが解体される(つまり、
システムダウンを通じて異なるシステムへと転位する) ことは想定されていな
い。この想定外の事態は、フィードバックのモデル自体の限界であるにもかか
わらず、逆にこのようなシステムそれ自体の前提を覆す要求や摩擦は、システ
ムに対する敵対として(これは認識として間違っていない)排除される。排除と
は抑圧や犯罪化や政治的な弾圧を意味するのだが、フィードバックから排除さ
れたこうした前提条件への異議申し立てはこのシステムからは見えてこない。

これは、資本主義か、社会主義か、という体制選択の政治的な実践をあらかじ
め封じ込め、所与のシステムがフィードバックの機構を組み込むことさえでき
れば、最大限の「満足」を保証するかのような見掛けが用意できということだ。
その意味で、サイバネティックスは、それが政策のなかで制度化されればあき
らかに一定の政治的な効果を発揮する。もちろんウィナーはこうした政治的な
効果を直接意図したわけではない。テイラーの科学的管理法が、彼個人の主観
のなかでは労資がともに利益を分けあえる共存共栄のモデルだと信じながら、
実際には資本の効率性原理に抵抗する労働者の集団性や移民労働者の文化と敵
対し、その後のフォード主義的な機械化と労働者への管理に道をひらいたよう
に、ウィナーのサイバネティックスは、その後の人間のコミュニケーションの
「フォード主義」的な機械化と社会化された労働者への管理、すなわち資本と
国家に制御されたコミュニケーション・ネットワークの機械化への道を開いた
のである。

このことは、すこし考えれば誰でも気づくことである。しかし、その後の高度
な資本主義がこぞってこのフィードバックモデルを導入した背景には、これだ
けでは説明できない問題がある。それは、人々の日常行動を支える意識の短期
的でミクロな選択と長期的でマクロな選択の間にある亀裂をこのモデルは巧妙
に利用しているといことである。フィードバックモデルは、人々の日常的な行
動や欲求に照準をあわせる。今ここで人々が抱く不満や要求を、いまここで解
決できることへと人々を導くのだ。たとえば、新しい装置の導入が労働組織を
大きく変更するというばあい、装置導入の是非という問題を棚上げにして、装
置が導入されることを大前提として、導入に伴う労働者からの要求に応える
(フィードバックの回路に組み込む)ことへと労働者の意識を促す。賃金の査定
にあたって、労働の成果主義を導入する場合、賃金を生活賃金とみるのか労働
の報酬とみるのかという賃金についての基本的な認識は棚上げにされて、賃金
は労働の成果に応じて支払われるという前提の下に、成果の客観的な評価基準
をめぐる議論へと人々の要求を導くことによってフィードバックのシステムを
構築する。

労働者が日常的な労働のなかで感じる不満や要求は、現象的にみれば極めて個
別的、個人的であったり、あるいは主観的なものだが、従来の大衆化された労
働者とその組織はこうした個別具体的な要求を階級的な平面で解釈する、すな
わち個別具体性を搾取の構造へと媒介する現実を捉える解釈の装置を備えてい
た。この解釈の装置を通じて、組織された大衆的な労働者は、資本に対して拒
否の力を行使する。この拒否の力は、同時に文化的な価値意識として、労働者
の日常を構成することによって、拒否の否定性が創造的な具体性に媒介される。
フィードバックによる労働者制御は、この解釈の装置が依拠する労働者の
階級的な意識構造を個別具体的な日常性のなかで解体する機能を果たす。いい
かえれば、組織された抵抗の力を削ぐのだ。日々の微細な要求に資本は応じな
がら、制度的な解体を回避する。同時に、労働者の拒否の力を支える文化的な
同一性の構造を破壊し、拒否を無駄な努力へと陥れる。この間隙をうめるのが、
資本の用意する消費社会であり、消費者へと階級的な構成を解体する市場の力
である。

しかし、大衆的な労働者の組織と文化を解体して、人々の社会的なアイデンティ
ティを消費者へと転位させるこの試みは、逆に、消費領域(それは、同時に資
本にとっての不確定性の領域でもある)のなかに隠された労働の領域= 労働力
再生産領域を意識化させ、資本主義的な労働の構成が、賃労働の枠組を大きく
超えて社会化されている事実を自覚化させる契機にもなる。消費領域は、資本
による確定性要求がうみだす不断の消費者への監視を通じての個人情報の蓄積
と、国家による総資本の利害を代位する労働力再生産管理(主として家族、教
育、医療、社会保障、そして警察)を促すことになる。ここで私が言いたいの
は、福祉国家ではなく経済計画国家の側面である。この両者は概念的に区別さ
れるべきものだ。本稿で詳しく述べる余裕がないが、福祉国家は、消費社会の
枠組から排除される部分を消費社会の枠組に再編入させるのに対して、経済計
画国家は、国家の総資本的な機能であり、インフラを整備するための公的な資
本投資や 総資本としての消費者制御のシステムである。消費生活を促す(消費
を促したり貯蓄をうながすなどの経済行動)から労働市場への労働力の参入と
退出の制御(家族政策、とりわけ女性政策、移民労働力の規制、再賃労働化可
能な失業者のトレーニング)まで、国家は人々の金の使い道やモデルとなる生
活様式を「国民」的な枠組で提示する。資本が労働現場だけでなく、消費生活
の要求をフィードバックの機構へ組み込もうとすればするほど、資本はアリ地
獄のように、人々の多様で微細な欲望を消費過程へと、すなわち資本による商
品の販売過程に接合し、データを収集し、生産過程にフィードバックさせ、同
時に、フィードバック可能な範囲に人々の欲求を気づかれないように囲い込む
ことを余儀なくされる。

●データ化する人間

ウィナーの社会観を支えたもうひとつの観点が言語やコミュニケーションへの
注目である。注目というのは正確ではないかも知れない。ウィナーは、人間の
本質(更には有機体の本質)はある種のメッセージであり、メッセージのパター
ンを維持するホメオスタシスこそが自己同一性の判定基準をなすという。現代
的な言い回しをすれば、遺伝子情報こそが人間の自己同一性の本質だ、という
ことであろう。ウィナーは遺伝子を情報とみなすような理解が一般的になるよ
りもずっと以前に、こうした現代的な人間の情報への還元に言及していたわけ
である。

ウィナーは「われわれは持続的に存在する物ではなく、自己持続的に存在する
パターンである」【注7】という観点から、人間もパターンである限り、それ
はメッセージであり、メッセージであるならば、それは伝達可能なはずだとい
う。極端な話、人間の体のすべてのパターンを通信でき受信できればどうなる
か…。そうなれば「もとの肉体と頭で行われていた過程が継続するばかりか、
継続に必要な全体的整合がホメオスタシスによって維持される」ということが
ありえるかも、という。【注8】

ここから、ウィナーは人間の境界を生物学的な身体の輪郭によって画されたも
のとみる見方を否定する。「一人の人間の言葉が伝わり、その近く力が届くと
ころの地点にはその人の支配と、ある意味ではその肉体的存在が延長される」
「全世界が見え、全世界に命令が伝わることは、あらゆる地点にいるのとほと
んど同じことである。」【注9】

ウィナーが想像しているのは、SF小説のトランスポーテーションなどではなく、
たとえば、ヨーロッパの建築家がアメリカに設計図を送って建設する場合。現
場にテレックスで指示がだせれば、「建築家の身体と彼の書類との物理的伝送
を、通信による通信文伝送で置き換えることができ」るといった事態のことだ。
【注10】情報通信は、「人間の感覚と行動能力との範囲を世界のすみずみにま
で拡げる」のであり、「物質の輸送と通信文の輸送との区別は、理論的な意味
ではけっして永久的なものではなく、橋渡しできないものではない」【注11】
という。ウィナーが侮れないのは、こうした情報化を拡張する人間観、あるい
は人間の情報化の観点をさらに個人という概念を再度捉え直す契機にまで突き
詰めようとしたことだ。彼は次のように書く。

「一個体の肉体的な自己同一性は、それを構成している物質に存するのではな
い。…一個の生物の生物学的個体性は、ある種の過程の連続性と、その生物
のもつ自己の過去の発達の効果についての記憶とに存するように思われる。こ
のことは、その生物個体の精神的な発達についてもあてはまるように思われる。
計算機の言葉で言えば、一個の精神の個体性は、それの初期テーピング[プロ
グラミング]と記憶の保有と、すでに設計されている線にそってのそれの継続
的発達とに存する。」【注12】

こうして「われわれが一個の人間のパターンをある場所から他所へ電信で送る
ことができないという事実は、恐らく技術的な困難による」【注13】という極
論とすら思える議論を展開する。もし私たちが、[個人」の観念をこの皮膚で
覆われた身体とこの身体の一部をなす脳が構成する自己意識(それにフロイト
のいう無意識を加えても同じことだが)として想定するとすれば、このウィナー
の記述はまるっきりのSF小説の範疇の話でしかない。しかし、「私」という個
人は、そのようには社会的には存在していないのだ。今この文章を読んでいる
あなたは、この文章の著者である「私」をこの文章を通じて認識している(知っ
ている/感じている)が、それは文字通りの「私」が有している自己意識とは異
なるものだ。買い物でクレジットカードを差し出す「私」がいるとして、この
クレジットカードを受け取り、認証作業をコンピュータの端末で処理する店員
は、目の前にいる「私」を買い手として信用するわけではなく、クレジットカー
ド会社が蓄積している「私」の信用情報の私を信用し、このデータ化された私
こそが買い物の真実の相手なのだ。クレジットカードを所有している私は、こ
こでは見事に転倒されて、カードが主体となり、「私」は単なるカードの担い
手になる。自動車免許証にしても、交通警察官が関心を持つのは免許証であり、
「私」ではない。「私」は免許証に記載されたデータを「メートル原器」とし
て尺度される。免許証は、公的機関が発行した個人識別のためのデータであり、
公的権力による正当化を経ているが、「私」は公的機関が発行した身体ではな
い。つねに疑いの眼差しは「私」に向けられる。バスや電車に乗る「私」はチ
ケットでしかなく、学生の「私」は学生証や成績データベースに記載されたデー
タでしかない。

このように考えれば、私たちの日常生活はデータ化され、断片化された個体に
取り囲まれた世界であり、むしろ生身の身体がそのまま登場し、それ自体とし
て相互に関わること(あるいはそれに近い状態)の方が極めてマレであり、むし
ろそうした関わりは困難になっていることに気づくはずだ。こうした諸個人の
データ化は、決してコンピュータ化にはじまったことではない。コンピュータ
化以前のデータ化されたシステムのなかで、近代社会を支配してきたのは、市
場経済における価格情報と国家の官僚組織である。市場は諸個人相互の関係を
価格として数量化することを通じて、個としての差異を量に還元した。こうす
ることによって、紙と鉛筆によって計算可能な量関係へと抽象化することがで
きたわけだ。コンピュータによる情報処理の高度化が実現するまで、人類は、
古代から近代まで、その計算に要する基本的な速度は変えることができなかっ
た。だからこそ市場は価格への還元を通じて最も効率的な情報処理のシステム
として機能し続けたわけだ。逆に、コンピュータ化とは、こうした量への単純
な還元を不要にした。個別性や差異をそのままデータ化して処理できるように
なるとともに、市場経済は、価格=交換価値への還元とは別の水準での市場支
配を実現できるようになった。使用価値はもはや交換価値の敵ではないし、貨
幣の物神性や交換価値により使用価値の支配は、問題にならなくなった。使用
価値は交換価値の同伴者となって、人々を市場に従属させ、使用価値は使用価
値それ自身で物神性の担い手となる。こうして、私たちは、(交換)価値からだ
けでなく使用価値からも解放されなければならなくなったし、同時に、社会に
散逸している「私」を再度私の下に統合し、私の自立した管理のもとで再構成
する作業にとりかからなければならなくなったのだ。

●二項対立の隙間

近代的な主体や個人の解体を思想家たちが気づいたのは、それよりもかなり前
に、今世紀の後半に入り、コンピュータ科学が個人を情報化可能なデータとし
て解体しはじめるなかで模索されてきた人間観が、現実の社会関係のなかで自
覚化だれるようになったことによる。この意味でポストモダニズムの思想は唯
物論の手のひらで踊っていたにすぎない。

しかし、こうした主体の解体を自覚化させたのは、サイバネティックスやコン
ピュータ科学そのものであったのではなく、これらが対象とした制御可能な人
間たちの外部に登場した招かれざる他者たちだった。この他者たちを経由して、
フィードバック不可能な集団の存在が浮上し、主体の解体が自覚化されたわけ
である。

ジャック・デリダが差異や差延という概念によって論じようとしたのは、この
フィードバックによる制御のシステムの外に出ることをテキストの解釈の領域
で模索したものといえる。ハバーマスが目的合理性の行動に侵蝕されるコミュ
ニケーション的な相互行為を目撃しながら、民主主義の合意形成のために格闘
しているその同じ場面で、デリダは、むしろ目的合理性をターゲットにその解
体を情報伝達の基本的な公理それ自体にむけて仕掛けた。デリダがへーゲルの
弁証法における矛盾の第三項における止揚を、差異の自己の現前性への「監禁」
だと批判した文脈は、形而上学への批判ではなく、そのようにして認識され、
問題を解決しようとしてきた近代的な知と技術—彼はそれを主として言語と
テクストに関して、また、人類学におけるエスノグラフィの技術について論じ
たわけだが—の問題として提起していた。デリダが『ポジシオン』のなかで、
「脱構築の一般的な戦略」と呼んだものは二項対立の中性化を回避し、「諸対
立の閉鎖的な分野のなかに、その分野を堅固ならしめつつ、ただ単に居住す
ること
をも避ける」戦略としてであった。デリダは次のように言う。

「重層的な、位置のずれた、また位置をずらすようなエクリチュールによって、
一方では、高位にあるものを引き下げる逆転、高位にあるものの昇華的ないし
観念化的系譜を脱構築する逆転、他方では、ある新しい『概念』—もはや以
前の体制のなかには含みこまれるままにはならないものの、かつて一度もそう
されるままにならなかったものの概念—の侵入的浮上、この両者のあいだの
隔たりを標記する必要があります」【注14】

この「隔たり」を標記できるのは「寄せ集め的」と彼が呼ぶテキストによって
しか可能ではなく、これによって、一点を指定することを不可能にし、リニア
なテクストを拒否することができると考えた。この考えの背景にあるのは決定
不可能性のもつ可能性である。決定不可能であることによって、二項対立に
「住み、それに抵抗し、それの秩序を混乱させる」「決してなんらかの第三項
を構成せず、思弁的弁証法の形式におけるなんらかの解消を引き起こすもので
は決しありません」【注15】という。こうした秩序の混乱因子、あるいは第三
項の構成の拒否をデリダは、多様性というだけでは不十分であり(それは、弁
証法の地平に回収されかねないからだが)、テクストを真理の名において固定
する一切の試みを拒否できる別の「一般性を有する操作子」、「散種」を提起
する。

「散種は、非-有限数の意味論的諸効果を産出するものなので、なんらかの単
一な始源的な現前者に連れ戻されるままにならないし…なんらかの週末論的
現前性にも連れ戻されるままになりません。散種はある解消不可能な、生産的
な多様性を標記しているのです。ある種の欠如の代補と波瀾が当該のテクスト
の限界を打ち破り、そのテクストの網羅的かつ囲い込み的な形式化を、あるい
は少なくともそのテクストの諸テーマの、所記の、意義作用の飽和化的な分類
学を禁じるわけです」【注16】

このテクストが、人文学的な、あるいはアカデミズムの学問的な領域にあるの
であれば、それは新しい可能性を具体的に引き起こす、その限りでは生産的な
多様性を標記しているかもしれないが、実践的なテクストにおいてこのような
ことはいったい可能なのだろうか。デリダは、かれの脱構築の方法がある種の
思想の遊びとなり、現実がつきつける様々な決断をつねに留保したり回避する
(差延の反動的な解釈)現状維持のニヒリズムとして利用されることに警告を発
している。たとえば、デリダは正義における決断の問題をとりあげて、法の自
己規定が含む決断、正義の決断に対する脱構築の態度を「決断不可能性」とし
て示すが、これはイエスかノーか、という二者択一の分岐において立ち止まる
のではなく、二つの決断のなかで揺れ動く緊張関係であるだけでなく、次のよ
うな経験を含むものだという。

「計算可能なものや規則の次元になじまず、それとは異質でありながらも、法/
権利や規則を考慮にいれながら不可能な決断へとおのれを没頭させねばならな
もの…の経験である。決断不可能なものの試練を経ることのない決断は、
自由な決断ではないであろう。それは、ある計算可能な過程を、プログラムと
して組み込むことができるようなかたちで適用すること、あるいは断絶させる
ことなく繰り広げること、にすぎないであろう。そのような、決断は、たぶん
合法的ではあるだろうが、正義にはかなっていないであろう」【注17】

不可能な決断は、立ち止まることではない。むしろ逆に不可能であるがゆえに
つねに動き続けなければならないのであり、この不可能性を通じてしか自由な
意思は発揮できない。

これは、正義をめぐる真偽の前での二者択一の選択という閉じられた関係を想
定してのことではない。デリダはつねにその外部、他者を招き入れる。こうし
てシステムは不可能な判断の前で不安定になるだけでなく、システムそれ自体
を成り立たせる境界それ自体の解体を取り込もうとする。フランス人権宣言、
奴隷解放宣言から現代の解放闘争までを念頭におきながら、「解放を掲げる古
典的理想ほど、すたれずにいるものはほかにはない」と断言し、次のように語
る。

「今日この理想の権威を失墜させようと試みることは、強引なやり方によるの
であれ、手の込んだやり方によるのであれ、少なくともいささか軽率であり、
さまざまなの最悪の共謀関係をとり結ぶことになるのは避けられない。なるほ
ど、支配からの解放[エマンシパシオン]、重荷からの解放[アフランシスマン]、
拘束からの解放[リベラシオン]の各概念を捨て去ることではなく、それどころ
か、われわれが今記述しているさまざまな奇妙な構造を考え合わせながら、こ
れらの概念を練り直すことも必要である。しかし地=政学の大きなものさしに
よって今日判別することのできる、法=政治化されたもろもろのテリトリーを
越えたところに、また自己利益優先で行われる横流しと臨検をすべて越えたと
ころに、それぞれの立場で特定の観点から国際法を自分に合うように捉え直そ
うとする作用をすべて越えたところに、これとは別物であるさまざまなゾーン
が絶えず開かれねばならない。」【注18】

デリダが、ここで念頭に置いている「別物であるさまざまなゾーン」とは、国
境の外にある非西欧世界、国境のこちら側に生活する移民労働者、ジェンダー
の規範を越えるゲイやレズビアンの解放運動、そしてさらには動物解放の主張
までが含まれる。デリダはこの点で、脱構築を実践的な平面において模索する
わけだ。デリダの誠実さはこれでよくわかる。しかし、だからどうだ、という
のか。デリダは、ただ古典的な解放の理念は棄てるべきではない、選択の不可
能性のまえで立ち止まらず突撃せよ、つねに他者の闘争と連帯せよ、と語って
るだけではないか。デリダは現にある闘争を彼の脱構築、散種、差延などの解
読格子の網にすくいとって、彼自身の思想の資源にしているだけなのではない
か? デリダは実践に対して何を投げ返したのか? とりわけあらたなエクリチュー
ルの空間としてのサイバースペースにおける闘争に彼はどのような寄与をした
のか?

サイバネティックスのフィードバックであれ、プログラム言語であれ、制御を
目的とする言語コミュニケーションは、二項対立の分岐のなかを流れる。プロ
グラムにおけるアルゴリズムフローは、真偽判定とループ構文(つまりフィー
ドバック)の組合わせであり、このプログラム全体が第三項を構成する。曖昧
さは一切許されない。これに対してデリダが持ち込むこの全体の制御の流れへ
の切断の要求は、実践的には何を構想することになるのか、それはどのような
戦略によって、たんなる情報ネットワークを回流するデータの表層でしかない
テクストにとどまることなく、ネットワークの物理層に到達する根元的な解体
を企図できるのか。近代の思想はこうした問いに真剣に応える必要のない環境
で構築されてきた。デカルトのコギトは、私がいまここでアクセスしているコ
ンピュータのチップのなかに埋め込まれたプログラムなどという思考の機械的
補綴物を想定していない四、想定する必要もなかった。テクストの解釈の流れ
は、修道院や大学、あるいはアカデミズムのサークルなどの制度化された組織
によって、何年もかかって構築されるものであり、機械はもっぱら物質的な生
産と流通(紡績機械、蒸気機関、自動車、家庭電化製品)において結果の確定性
と時間の効率性に寄与するものでありつづけた。

しかし現代ではそうはいかない。二項対立のアルゴリズムフローによって制御
されたプログラムのうえでしか私たちはコミュニケーションができなのだ。し
かもこの二項対立のアルゴリズムは私たちの意識から隠されている。フロイト
の無意識と丁度同じように私たちのコミュニケーションを背後で「検閲」する
ともいえるかもしれないのだ。たとえば、マーク・ポスターは『情報様式論』
のなかのデリダに言及した章においてデリダの解読格子を次のようにコンピュー
タコミュニケーションに応用して解釈して見せる。

「コンピュータのメッセージ・サービスと共に、言語使用は根源的に伝記的同
一性から分離されたのである。同一性はコミュニケーションの電子的ネットワー
クとコンピュータの記憶システムの中で散乱したのだ」【注19】

デリダの脱構築をこうしたレベルでとらえることは可能だが、これはコンピュー
タのネットワークが人間に理解可能な言語のでベルで処理しているコミュニケー
ションにしか着目していない。たしかに、このレベルで人間は性別、人種、年
齢などの伝記的な同一性から解放されているようにみえる。そうみえるのは、
そのようにしかアクセス条件が設定されていないからだ。たとえば、アクセス
するユーザーを、組織が保有する個人情報(伝記的な同一性)によって認証して
アクセスさせる組織内のコンピュータネットワークの場合、コミュニケーショ
ンの相手をだますことは可能かも知れないが、ネットワークの管理者やコン
ピュータはだませない。もっと大規模な、インターネットのようなネットワー
クの場合、複数のコンピュータが勝手にその記憶装置に個人のデータを断片的
に蓄積し、なんら統一もとれておらず、しかもその真偽さえはっきりしないそ
うした状況を想定したとしても、この状況をもって主体の同一性の解体や散乱
=散種といいうるほど楽観的ではいられない。コンピュータは性別や年齢を識
別する必要がなければ識別しないだけのことなのだ、と考えた方がいい。逆に
識別を必要とすることについては、確実な識別を行使しようとする。メッセー
ジのパケットに刻み込まれた配送経路のデータや、IPアドレス情報などという
コンピュータによるコミュニケーションが存在しなかった時代には不要だった
識別情報が必要になる。伝記的な同一性は、性転換が容易な時代には性別では
なくIPアドレスによって刻まれるという時代は、たぶんIPv6のような次世代の
IPプロトコルが普及し、アドレス空間が飛躍的に拡大すれば間違いなく到来す
るだろう。

サイバースペース上を流れるテキストレベルのデータの分析ではなく、デリダ
がレヴィ=ストロースとルソーに対して行ったのと同様の検証をサイバースペー
スにおけるコミュニティとプログラム言語に対しておこなってみないことには、
デリダの批判の射程と可能性は確定できない。だから、ある種の予言的な言い
回しにならざるをえないが、デリダの脱構築と差延の試みは、たぶん伝統的な
コンピュータ科学の延長線上にある科学的な思考にたいしては有効な批判の観
点を築きえているといえるが、しかし敵もまたこのことに気づいているという
ことに私たちは気づかなければならないということだ。カオスも複雑性も遺伝
子工学も、こうした観点から見た場合に、差延の二項対立への還元の方法論で
ある。差延がいわば素手で、散種という武器をもって闘うのに対して、二項対
立への還元はコンピュータで武装したロボットを差し向ける。散逸した主体は、
敵のピンポイント攻撃を避けることができても、敵もまた同様に散逸し、脱構
築の領域に攻撃のための布陣を敷く。真偽の秩序を転倒させたり、二項対立に
回収されない根拠地を構築したり、ループの罠を突破したりしたとしても、そ
してまんまとアルゴリズムフローの裏をかいたつもりでも、私たちの行動は即
座に解析されて、二項対立の秩序のなかで「理解」されてしまう。差延と脱構
築がこのレベルにとどまってしまえば、もはや創造的にはなりえない。デリダ
の脱構築をサイバースペースのテクストや「主体」のレベルにとどめるのであ
れば、デリダのラディカリズムは改良主義か人文学の知的な遊技に終わるだろ
う。そのあいだに、サイバースペースを経由する情報ネットワークは「地域紛
争」における「人道的介入」のための情報収集の機構として機能しながら、ミ
サイルの標的を特定することになるだろう。

●再びリアルワールドへ

サイバースペースが二項対立とフィードバックの弁証法を整備し、コミュニケー
ションの環境をますます機械化すればするほど、いままではごく当たり前に適
合していたようにみえるコミュニケーションの関係が逆に、極めて粗雑で隙間
だけの、したがって脱構築やら差延やらといったシステムへの異分子の介入の
余地のある不十分な関係にみえてくる。そうなればなるほど、コミュニケーショ
ンはますます機械化による目的合理性と結果の確定性=二者択一のアルゴリズ
ムフローのなかに押し込まれる。コンピュータのプログラムはその性格上、要
求がありさえすればいくらでも条件分岐を微細に設定することが可能だ。

このことは、サイバースペースの閉じられたコミュニケーション空間の側から
その外部環境をなす現実の空間を見渡したとき、その現実はかつて以上に、ま
るで無秩序で、目的合理性の水準を満たさない不満足な環境にしかみえないよ
うになる。資本が要求する結果の確定性要求の水準がそれだけ高くなり、逆に
現実の人間関係や社会空間はそれだけこの水準をみたしえないものへと格下げ
されることになる。これは、資本の情報解析の解像度がそれだけ高度化した反
作用であり、同時に私たちもまたこの社会を構成する人々の二項対立を逸脱す
る行為を見い出し、今までは気づくことのなかった亀裂を発見できるようになっ
たということでもあるのだ。リオタールが主体の解体を論じた時点で、彼がみ
ていた「主体」は確かにある種の解体を遂げたとしても、その後に主体は不在
となったのではなく、主体とは見なされなかった存在が主体としての存在を露
わにしはじめるのである。

デリダが、二項対立と第三項を立てる弁証法を拒否した問題意識は、その後の
ラディカリズムの基本的な合意事項となった。ドゥルーズ=ガタリは、デリダ
が法=政治化されたもろもろのテリトリーを越え、これらとは別物のゾーンに
開かれるべきであると語ったのと同様のことをたとえば社会的な「多数派」に
たいする「少数派」の存在のなかに見い出す。彼らは、少数派とは数の問題で
はなく、「万人の生成変化であり、モデルからずれてしまうかぎり、潜在的な
生成変化なのだ」【注20】という観点から捉える。だれもが「少数派」であり
うる、というわけだ。しかし、少数派は変数であるがいかなる変数であっても
関数全体の枠を壊すことはできない。また、変数は決して定数にはならないし、
定数になってしまえばそれは支配的な「多数派」に転成することでしかない。
しかし、こうした少数派への生成変化は、そのなかに創造的な生成変化を含む
ことによって、その将来への可能性を開くのである。いいかえれば多数派が支
配する価値のシステムそれ自体が廃棄されるための条件(妥協や改良ではなく、
あくまで廃棄、切断、飛躍である)を準備するとすればこの「少数派」として
の「生成変化」は手離してはならないものなのだ。【注21】

他方で、アントニオ・ネグリは、ドゥルーズ=ガタリが「少数派」と読んだ存
在に「多数性」という呼称を与えた。ネグリが主としてイメージしている「多
数性」の担い手は、移民労働者であり、第三世界の労働者たち、人口的には大
量である。しかし、多数性は同時に特異性singularityでもある。特異性とは、
「協調によって生産され、言語コミュニティによって表象され、ハイブリッド
化の運動によって展開される現実性」である。「多数性はすべての人間は世界
市場のグローバルな表面では交換可能であるというイデオロギー的な幻想を引っ
くり返すことによってその特異性を確たるものとする」【注22】、だから、こ
の多数性はグローバル化した資本主義の<帝国>にとっての抵抗体となり、<帝
国>はこの多数性として現れる人々を押さえ込む解決策を持ちえない。

ドゥルーズ=ガタリもネグリも、こうした新たな主体の現実態を女性や移民労
働者として表現するが、しかし、それは近代的な個人の社会的な属性をジェン
ダーやエスニシティといったカテゴリーで再分類したといったものとは違う。
たとえば、ネグリは次のように述べる。

「バイオポリティカルな生産の諸局面全体を通じて、協調とコミュニケーショ
ンは新たな生産的な特異性を規定する。多数性は単に、諸民族を一緒にし、人々
を無差別にいっしょくたにすればなりたつというものではない」「多数性の諸
運動は新たな空間をデザインし、その旅は新たな居住を確立する。自律的な運
動はこの多数性に適した場所を定義するものである。」「身体の生産的な流れ
としての多数性を確立するあらたな地理は、新しい川や港によって規定される。
地球の都市は同時に、協調する人間性の偉大な保管庫となり、流通、一時的な
居住、生きた人間性の大衆的な配分のネットワークのための機関車である。」
【注23】

ネグリは地球上を移動する移民たちの流れと、その係留地点としての」都市に
着目していることは間違いない。しかし、都市に流入する人々を、その労働力
の側面だけでとらえれば、底辺の肉体労働、都市のサービス化、情報化にとも
なって新たに必要とされるようになるいわゆる縁辺労働力であって、その存在
は、本質的にみて19世紀のロンドンのプロレタリアートと何ら異ならないよ
うに見えるかもしれない。しかし、そうではないのだ。かれらの集団性、あら
たな組織性を支えるあらたな集合的な意識がある。存在はやはり意識を規定し
ている。多数性として、拡散=散種としての存在が規定する多数性の意識は、
それ自体が、その順列組合わせによって、無限に増幅する。もはやかつてのよ
うな「主体」には閉じ込めようがない。それは、ある局面では、古典的な解放
の理念を原基として「グローバルな市民権」の意識を構成する。つまり、どこ
で生活しようと、どこで働こうと人々はグローバルな市民権を持つべきだとい
う主張である。しかも、こうした多数性は、生産のために機械を用いるだけで
なく、それ自身が機械そのものとなる、というのだ。「生産手段は徐々に多数
性の精神と肉体に統合される。この文脈では、再領有は、知識、情報、コミュ
ニケーション、そして情動への自由なアクセスを意味する—というのは、こ
れらはバイオポリティカルな生産の本源的な手段だからである」407というわ
けだ。多数性それ自身が機械となる、という認識は、ドゥルーズ=ガタリの
「器官なき身体」やダナ・ハラウェイのサイボーグとしての身体という認識に
つらなるものだということは容易に理解できる。【注24】皮膚に覆われた身体
は、近代以前の社会においては、共同体の規範が基礎におく親族関係が生まれ
ながらにして人々を拘束した社会関係からの解放の拠点として「個人」という
観念を物質化するための戦略拠点だった。この時期に「個人」が社会的に’生
成したのである。しかし、こうして成立した個人は、近代においては逆に、
「個人」のなかに社会性を追い込み、集団性や組織性、諸個人の相互関係を二
次的なものに格下げして、分断化をはかろうとした。マルクスは、機械を資本
の「死んだ労働」として工場労働者の身体にたいする支配とみなした。人間の
身体の延長としての道具や機械、その限りで、これらの延長された身体は、身
体の人口補綴物であるが、しかしこの補綴物は労働者の側には属さず、資本が
支配する。しかし機械のもう一方の側には労働者の身体がひかえている。機械
を媒介として工場は、労働者と資本の意思がぶつかりあう空間なのだ。階級闘
争は身体の抵抗や反乱をいみするだけでなく、みずからの労働の補綴物である
機械をこの過程に巻き込むプロセスであり、資本の側から見れば、機械に組み
込まれた時間の効率性と結果の確定性の原理を労働者の身体に逆注入し、身体
を機械化することである。

マルクスの機械論、労働論のもっともダイナミックな側面は、工場のシステム
が、個人主義的な人間観を自己否定する契機をはらんでいるという点にあった。
世紀末の私たちは、この身体の補綴物が、肉体的な身体だけでなく精神的な身
体に、そしてしたがって、コミュニケーションする身体に拡張された世界を経
験している。

ドゥルーズ=ガタリのいう「器官なき身体」は、こうした近代社会が私たちを
押し込めようとする身体がつくりだす「意味性と主体化の集合」という幻想、
あるいは私たちがが拘束されている有機体、意味性、主体化からの解放である。
有機体とは文字通りの「身体」であり、意味性とは私とは「意味するもの、意
味されるもの、解釈者であり、解釈される者」ということである。そして主体
化とは同時に「服従」を含む。「きみは組織され、有機体となり、自分の体を
分節しなければならない」「きみは主体であり、主体として固定され、言表の
主語と重ね合わされる言表行為の主体でなければならない」【注25】という
「主体」の抑圧、「主体」となることによる従属の拒否である。

ネグリの多数性も、多様で多方向に移動する移民の流れを捉えるものである以
上、地理的にある地域や都市に集中した移民人口に依拠するものではないこと、
グローバルな市民権の要求とはメキシコのチアパスのサパティスタとベルリン
のトルコからの移民労働者が共有する「市民的な権利」の空間を前提としてる
こと、従って、こうした空間的に拡散しながらもなおかつ集団性を確保できる
条件に依存していることをふまえている。これらの条件によって、地理的な分
断は無効になり、グローバルな<帝国>を包囲するグローバルな闘争のサイクル
が可能になる。こうした条件を用意したのは、グローバルなコミュニケーショ
ン環境であり、この環境に接合している多数性としてあらわれるプロレタリアー
トである。かつて工場において労働者が機械を自らの身体の延長とし、社会化
された生産過程のなかで、都市や家族に中に埋め込まれた労働力再生産過程の
機械に社会化された労働者は自らの身体を接合したとすれば、サイバースペー
スは、身体それ自体を「情報化」することを通じて拡散させ、接合や延長では
なく、サイバースペースの中に散種することによってむすびつく。しかし、こ
れはかつての資本の機械や都市の抑圧(快楽という名の抑圧)同様、資本主義が
予定していた事態であって、それ自体では支配の裏をかいたことにもならない
し、権力の新しい構成をしめしたことにもならない。しかし、このサイバース
ペースにおける主体の再構築は、明らかに資本主義に対して敵対的であり、地
理的な空間の制約をこえて、少数派を多数者として登場させる力に根拠を与え
ている。この意味で、闘争の国際的なサイクルと噛み合っているのであり、だ
からこそサイバースペースのこうした自己価値創造的な転用は、資本主義に抵
抗する闘争となるのである。

この闘争は、サイバースペースが言説の空間として現れるために、あたかも言
説の空間によって闘うことに目がうばわれてしまう。しかし、先にポスターの
デリダ論に言及した際に述べたように、闘争の次元はこのもっともわかりやす
く人目につく次元では決着しない。闘争の次元はこれ以外に二つある。一つは、
ますます複雑性を増し、とらえどころがなくなりつつあるリアルワールドでの
闘争である。各国政府や国際機関が政策的に打ち出すデジタル・デバイドの解
消策は、リアルワールドの下層をサイバースペースに囲い込んで統治しようと
いう意図と切り離して理解されるべきではなく、こうした統治に抵抗いながら
グローバルなコミュニケーションの権利を勝ち取ることは重要な闘いの局面を
なす。もうひとつは、サイバースペースのアーキテクチャーとの闘争である。
これはいわばサイバースペースを背後で支える無意識を構成する部分である。
言説それ自体の問題ではなく、メタレベルの問題である。言説を成り立たせる
プログラムやネットワークを管理する技術と統治の意思決定の問題である。こ
の問題は経験科学の領域に占領させておくわけにはいかない。なぜならば、高
度な技術的な知識が同時にサイバースペースの現実的な統治の問題として登場
しているからだ。技術と法の問題を、理論的思想的政治的な課題の場面に据え
直すことをしないかぎり、このサイバースペースの無意識の領域を破砕するこ
とはできない。

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1 資本主義の社会規範と技術が、時間の効率性と結果の確定性をめぐって展開
されることについては、拙著『支配の経済学』れんが書房新社、『搾取される
身体性』青弓社参照

2 ノーバート・ウィナー『人間機械論』鎭目恭夫、池原止戈夫訳、みすず書房、
23ページ

3 ウィナー、同上書、47ページ

4 ウィナー、同上書、49ページ

5 ウィナー、同上書、51ページ

6 ウィナー、同上書、61ページ

7 ウィナー、同上書、100ページ

8 ウィナー、前掲書、100ページ

9 ウィナー、同上書、101ページ

10 ウィナー、同上書、102ページ

11 ウィナー、同上書、102ページ

12 ウィナー、同上書105ページ

13 ウィナー、同上書、107ページ

14 ジャック・デリダ『ポジシオン』高橋允昭訳、青土社、61-62ページ

15 デリダ、同上書、63ページ

16 デリダ、同上書、67ページ

17 デリダ『法の力』、堅田研一訳、法政大学出版局、59ページ

18 デリダ、同上書、75ページ

19 マーク・ポスター『情報様式論』、室井尚、吉岡洋訳、岩波書店、223
ページ

20 ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』、宇野邦一他訳、河出書房新社、12
5ページ

21 「女性たちは、数がいくらであれ、状態あるいは部分集合として定義可能
な少数派である。しかし彼女らは、生成変化を可能にすることによってのみ創
造することができるのであり、その生成変化の所有権などをもっていない。彼
女は生成変化のなかに入っていかなければならない」、ドゥルーズ=ガタリ、
同上書、125ページ

22 Antonio Negri, EMPURE, Harverd University Press, p.395

23 Antonio Negri, ibid., p.397

24 ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』高橋さきの訳、青土社、参照

25 ドゥルーズ= ガタリ、前掲書、183ページ