アウトノミアからオルタグローバリゼーションへ—そしてG8をむかえうつ

社会意識の契機となった仙台の「ぺ平連」運動

 僕がこれまで”何をしてきたのかということと併せて、来年7月の洞爺湖でのG8サミット
のことも念頭に置いて話して欲しいということなので、今日はそのことも含めてお話した
いと思います。(編者註:「アンラーニング・小倉学習会」は07年11月に行われたものなので、小倉さんの話の中の「来年」というのは、全て08年のことを指す)
 まだまだ自分の人生を回顧するような年齢ではないつもりですが、このような場は、こ
れまでの自分の人生の「中間総括」のための一つの良い機会だと思いますので、今まで僕がやってきたことやその中で考えてきたことを、自分でも整理する意味で話してみたいと思います。期待していた話とは違うということもあるかもしれませんが、その点については、また後の質疑のところで補足したいと思います。
 来年7月に、洞爺湖G8サミットが開かれるわけですが、サミットが初めて開催されたのが1975年なので、既に30年以上も続いている先進国の会議ということになります。その30年以上に及ぶサミットの中で、これまで何が論議され、決定されてきたのかについて振り返る作業を、僕は今、やっているところです。偶然ではありますが、ちょうどサミットの30年と、自分が大学を出た後、大学院に進学して、その後大学の教員として富山に来て、いろいろなことを考えてきた歳月とがほぼ重なっています。
 もうずいぶん昔のことですが、1968年を中心に、日本や.世界の各国で学生や若者が、大規模な異議申立ての運動を展開していた時代がありましたが、そのころ、僕は高校生で宮城県の仙台市で暮らしていました。「ベトナムに平和を!市民連合」、略して「ベ平連」という反戦運動組織については、皆さんもよく御存じだと思いますけれども、吉川勇一や最近亡くなった小田実といった人たちが「仕かけ人」となって、共産党や社会党といった革新政党系列の大衆運動でもなく、政治組織でもないという、それまでになかったユニークで新しい市民運動のスタイルが初めて登場しました。僕がいた仙台にも「ベ平連」のグループがあって、そこは僕のような高校生でも気軽に出入りできるような場所でした。
 その頃は、ちょうどベトナム戦争が非常に深刻化してきた時でしたが、日本のベトナム戦争への荷担や日本の米軍基地の問題について肌身で感じるような時代状況の中で、そういった反戦運動に関わりを持ちながら、高校生として、自分なりにいろいろと社会について考えるようになっていきました。そうした雰囲気の中で、自分の周囲の大学生がマルクスを読んだりしていると、それにつられて自分もよくわからないままに読んだふりをしているようなことがありました。マルクス主義では下部構造(土台)と上部構造という言い方をしますが、経済が土台にあって、その上に政治や法といった仕組みがあり、土台である経済が上部構造である政治を規定しているというような社会観が、通俗的なマルクス主義の「公式」としてあるわけです。当時の自分もそのような発想で、まず土台である経済をしっかり勉強するのが本筋だろうと考えて、大学に行くときに経済学部を選んだわけですが、僕が経済学を専攻した理由は、それ以外にはあまりありません。

■「先進国」優位の支配体制はどのように再確立されたのか
 僕が大学生や大学院生として経済学を学んでいた頃の日本の政治・社会運動では、共産党系を中心とするグループが伝統的にあり、今はもうありませんが、社会党の左派系のグループがあり、またその他に新左翼のグループがあるという状況でした。そういったグループのそれぞれが、社会理論や政治・経済的な理論をめぐって対立したり、社会観や理論用語の使い方の違いについて論争したりするということが、たびたびありました。とりわけ、60年代から70年代にかけての時期の政治・経済的な大きな議論のテーマであったのが、日本の帝国主義としての性格をどのように把握するのかということでしたが、それは特に新左翼のグループから共産党の戦後日本資本主義の見方に対する批判として、強く打ち出されていました。
 ちょうどその頃から、日本企業が積極的にアジアの国々へ「進出」して、資本を投資したり、日本製の商品の輸出をしたりすることによって、戦前のような軍事力による植民地支配ではないけれども、もう一度日本がアジアの市場を自分の「庭」として囲い込むことを始めていました。これはアジア各国から見れば、日本による第二の「侵略」であるというような議論が出てきたのも、だいたい70年代ぐらいのことだったと思います。
 当時、日本の国際関係の中での位置をもっぱら日本とアメリカの関係だけで見て、アメリカへの従属やアメリカによる支配といった、いわば「被害者」的なスタンスから日本の戦後を捉えるという見方がとりわけ、共産党などの旧来の左翼では主流でした。それに対して、60年代から日本が他の先進国に近づく勢いで経済成長を遂げて、アジアに対する経済的な侵略を始めているという視点から、日本の帝国主義的なあり方を捉えることができるのではないかという問題意識から、自分が日本の政治・経済的な状況を見るようになったのは、やはり70年代の頃だったと思います。
G8サミットのことについては今日の話の最後でまたふれたいと思いますが、少し先回りして言うと、60年代後半というのは世界的に見ても一つの変わり目の時期だったと思います。近代資本主義国家が16世紀ごろに誕生して以降、スペインやポルトガルからオランダ、フランスそしてイギリスというように先進国の中心になる国は時代ごとに移り変わるのですが、いずれにせよ先進国と見なされていた国は、アジアやアフリカ、南北アメリカ大陸に植民地を持ち、そこを支配することを通じて、世界の市場を支配していくという仕組みがあったわけです。それが第二次世界大戦後、かっての植民地が次々に独立していく中で、どの先進国も、植民地を通じた世界の支配や世界の市場の独占によって自分の国の豊かさを維持していくことが、もはやできなくなっていきます。
 また、20世紀の前半から、ソ連を中心とした社会主義圏というもう一つの政治・経済体制が登場して来たのですが、20世紀後半は、ちょうど冷戦の時代でもありました。そういった社会主義圏と、それから新たに独立した第三世界の国々にはさまれて、先進諸国と呼ばれるような国々を中心とした資本主義圏は、非常な苦境に立たされていました。60年代後半というのは、そのような時代状況の中で、日本がアジアに対して新たに経済的な侵略を進めていった時期でしたが、一方、それは第三世界の国々の側からすれば、かつての植民地主義の時代から継続してきた先進国に主導の世界の政治・経済の支配体制を、何とかくつがえそうとしてきた時代でもありました。それは同時に、国連がそうした国際関係の転換の中で、大きく第三世界の側にシフトしようとした時代でもあったのです。
つまり、国連総会というのは、それぞれの国家の規模や経済力に関係なく、あくまでも第三世界の国々も含めて「一国一票」の制度ですから、アジアやアフリカの植民地が独立して国家の数が増えることで、国連総会で先進国が多数を占めることができなくなり、先進国は自分の利害を通しにくいような状況になります。そこで第三世界の国々は、60年代ぐらいから、先進国主導の帝国主義的な枠組みとは異なる新しい国際関係のシステムを、国連を通じて創り出していこうと考えて、UNCTAD(国連貿易開発機構)というものができるわけです。そのUNCTADを通じて、第三世界の側は、従来の先進国に有利な国際貿易や国際経済の不平等なあり方を変えていくことをめざしました。
それに対抗して、日本のような新参者の先進国と旧来の欧米の先進国が一緒になって、国連の経済的な保護・規制機能を無力化して、先進国に有利な国際経済の仕組みを作ろうとする動きが、その時期にありました。それでは、先進国側は具体的に何をしようとしたのかというと、IMF(国際通貨基金)や世界銀行、それにGATT(関税および貿易に関する一般協定)という3つの国際金融機関を作って、世界の経済システムを先進国に有利なように持って行こうしたのです。そのように、国連の経済的な保護・規制機能を事実上無効にする作戦をとったのが、60年代から70年代にかけての国際政治の舞台での先進国側の動きの一つだったと思います。
 それでは、なぜIMFや世界銀行が、先進国にとって都合がいいものなのかということですが、それらの国際金融機関が実際に何をしているのかはとりあえず横に置いて言いますと、それらの機関の運営上の基本的な原則が、各国の出資額に応じて投票数を割り当てるということになっているからです。つまり一国一票が原則である国連総会の投票方式が民主主義的なやり方だとすると、IMFや世界銀行は一国一票ではなくて、それぞれの国がこれらの機関に出資した出資額に応じて投票の票を割り振るという非民主主義的な意思決定の方式を採用しています。そうなると当然、経済力があって多額の出資をしている先進国が、その分だけたくさんの票をもらえるわけです。IMFや世界銀行は、現在もそうした仕組みを採用していますが、アメリカは確か16%ぐらいの票を持っていて、日本は約6%の票ですが、その他のいわゆるG8と呼ばれる国々の票も全部合わせると、全体の約25%の票を持っています。それ以外の大多数の国はせいぜい1%未満といった程度の票しか持っていないわけです。そのように、IMFや世界銀行では先進国が全体の多くの割合の票を持っているのですが、それに加えて、先進国が後押ししているような特定の第3世界の国々や、先進国の次に経済成長しているような中進国の持つ票を上手くまとめて、IMFや世銀を先進国の側が巧妙にコントロールすることで、世界経済を支配していくということが、この頃から始まっています。
 今、少しややこしい話をしたのは、国連のもつ、第三世界の国々にとっての経済的な保護機能を無力化して、先進国有利の経済システムをつくりだすことに向けた先進国間の利害調整をどう進めるのかということが、75年にサミットと呼ばれている先進国の首脳会議が最初に開かれた際の、一つの重大な議題であったからです。このように、世界経済システムの上で先進国だけに都合の良いシステムが確立されていくのとほぼ同じ時期に、日本がアジアへの帝国主義的な経済侵略を行うようになり、そのことが自分の周囲でも大きな論議になっていく時代に、僕は経済学の勉強をし始めたわけです。とはいえ学生時代にこうした経済の国際機関に深い関心をもったわけではなく、むしろマルクスの『資本論』を中心に理論的な問題に関心をもってきました。国際的な経済機関に関心をもったのはむしろ、反グローバリゼーションの運動に関心をもつようになってからです。

■ポランニーの思想との「出会い」を通じて経済学の枠組みを問いなおす
 IMFや世界銀行について経済学の立場から研究する場合、それはあくまでも経済のシステムとして見るということであって、先進国による国際的な支配体制が国際的な経済システムを通じてどのように形成されているのかといった「政治」の問題への関心は必ずしも大きくはありません。結局、学問の世界ではそれぞれ「縄張り」があって、経済の問題は経済学で取り上げ、政治的な分析はせず、政治学ではそれぞれ国際政治専門の学者と国内政治専門の学者がいるというように専門化されてしまっていて、それぞれの専門領域の中で理論をつくり出して議論していくというようになっていますから、政治と経済、国家間の関係と国内の状況が現実には融合しているとしても、これらを総合的に理解することは必ずしも十分にはなされてきていないと思います。しかし、自分としては、やはり、現実の世界は、決して、ここまでが政治の問題でここからは経済の問題だといったような「縄張り」で動いているわけではないし、そういった縄張り意識に囚われてしまうことで、目の前の現実が見えなくなってしまうのではないかということを、70年代の後半の、大学院生の頃から大学に就職する時期にかけて考えるようになっていきました。
 私はマルクス経済学を当時学んでいましたが、その中でも「経済学」という枠組みの限界や疑問も感じていました。この限界への挑戦のきっかけとなったのが、カール・ポランニーという、第一次大戦から第二次大戦にかけて活躍した、『大転換』という本を書いた思想家との出会いでした。彼は、「経済人類学」の創始者とも言われているのですが、発想としてマルクス主義とも共通する部分もありますが、マルクス主義そのものにはあまり囚われない視点で、近代的市場経済の批判のための問題提起を行っています。「大転換」という本は、私が大学院生の頃に日本語に翻訳されたのですが、その中で彼は、市場経済は、「労働」と「貨幣」、「土地」の三つを商品化することで社会を解体するという恐るべき破壊力をもつものなので、それらの商品化をどこかで押しとどめないと社会は崩壊してしまうという警告を行っています。(*1)
 ポランニーは、先進資本主義社会だけではなく、経済学と人類学の両方の理論を結びつけて、アフリカの伝統社会がどのように営まれているかも含めて市場社会を分析しているのですが、一般的に経済学者があまり取り上げない、例えば、家族や宗教といった領域が社会にとっていかに重要な経済的な制度でもであるかを強調しています。伝統的な社会を見ていれば、家族は生産の役割も担うし、宗教的な儀礼を通じて共同体のメンバーの間で共有される世界観がつくられたりもするわけで、そういった賃労働以外の領域が社会にとって重要だというのは、ある意味では当然のことですが、近代的な社会では、そのことが見えなくなってしまいます。家族というのは私的なことだし、宗教というのは経済とは何も関係がないという話になるのですが、ポランニーの理論に触れることで、家族や消費のあり方といった「再生産」と言われる領域の重要性に気がつくようになっていきました。(*2)

■労働を拒否する「労働』運動としての「アウトノミア」運動
 先ほど言ったベトナム反戦運動以外にも、60年代から70年代にかけて、例えばアメリカでの公民権運動や女性解放運動といった様々な新しいタイプの社会運動が登場してきました。従来の左翼やマルクス主義での基本的な社会観では、労働者と資本家という二つの階級間の対立や階級闘争を主軸として新しい社会へ向かっていくのであり、したがって社会変革の主要な担い手となるのは労働者階級であるということになります。しかし、当時は、階級間の対立や階級闘争という発想の枠に収まらないような、例えば民族問題や差別の問題、また、ジェンダーの問題をどう考えるのかということが次々に提起されるという状況がありました。そうした階級以外の様々な問題を、どのように社会全体に関わる問題として取り上げていけるのかということを考えさせられた時代でした。
 環境の問題もそうですが、そのような問題が、日本でマルクス主義理論と呼ばれているものの中ではきちんと取り上げられることのないままになっているという印象が自分にはありました。そうではなく、やはりそこから抜け出す道をさがさなければいけないと考えるようになったことが、今に至るまで、自分が通常の経済学の分野での問題意識とは違うところで物事を考えようとすることになる出発点になったように思います。そのように、自分があれこれ考えるようになったことを、具体的に考えるための手掛かりを与えてくれたのが、60年代末から、徹底的な政治弾圧を受けて運動が壊滅する70年代末までの10年近くもの間、若い労働者や学生、失業者たちを中心に活発に展開されたイタリアの「アウトノミア」運動でした。(*3)この運動も同時代的に関心をもったのではなく、80年代になって、アントニオ・ネグリらへの弾圧が国際的に関心をもたれるなかで、粉川哲夫さんらによる運動の紹介に触れて関心を触発されたものです。
 「アウトノミア」(Autonomia)というのは、英語で言えば、「オートノミー」(autonomy)で、「自治」や「自律」といった意味なのですが、そう言ってしまうとこの運動のもつ意義や独自性が正しく伝わらないことになります。一言で言えば、「アウトノミア」とは、既存の支配関係や権力関係から自らを「切断」して、新しいライフスタイルや社会関係をつくりだそうとする運動でした。それは、特定の個人やグループによって始められた運動というよりは、60年代末のイタリアの運動の中から自然発生的に生まれたもので、特に都市部の労働者や若者がその中心的な担い手でした。
 「アウトノミア」の中心的な理論家・活動家の一人であるアントニオ・ネグリの名前は、最近、日本でもよく知られるようになっていますが、彼は「労働の拒否」ということを掲げていました。それはどのようなことなのかと言うと、労働の「尊厳」ということを根拠にして、労働者保護を訴えたり、労働条件の改善を求めるような労働運動のあり方自体を拒否するということであり、いわば、労働を拒否する「労働」運動といったものを唱えていたのです。日本とは違ってイタリアの憲法では、イタリア社会は労働者の労働によってつくられるものであるということが明記されていて、労働の問題が政治的な重要性を持つというイタリア特有の社会的な背景があります。(*4)
 ネグリの主張は一見極端なもののように思えますが、労働者がストライキを行うことの根拠は何であるのかということや、現代資本主義社会の中での労働には本当に意味があるのかといった根元的な問いかけがそこに込められていると、自分としては受けとめていました。(*5)
 この70年代というのは失業が大きな社会問題になった時代で、その失業の中で基本的に二つの方向が失業に対する運動として出てきています。一つには、「職をよこせ」、 つまり、失業からの解放としての雇用の安定を要求するわけですが、他方では、働いていようが働いていまいが、人間としての生存に必要な基本的な所得は保障すべきだという主張が出されたのです。アウトノミアの運動では、基本的に後者のような考え方を取っていて、「社会的賃金」という言い方をしていますが、人々が生存するために必要な基本的な所得は、働いているとか働いていないとかに関係なく、社会が保障すべきだという考え方が主張されていました。最近、日本でも「ベーシックインカム」ということが結構話題になっていますが、そういう考え方の基本になる議論が、この時代に出てきています。
 そういう議論が出て来る背景には、一つは失業の問題がありますが、もう一つには女性たちの運動の中での問題提起も影響を与えています。日本と同様に、イタリアも比較的に専業主婦の女性層が多く、家父長的で、女性に対する差別や男性中心主義的な考え方が強い社会だったのですが、イタリアの女性たちが、「家事労働に賃金を!」というスローガンを掲げたわけです。これは文字通り、「家庭内での家事労働に対して、賃金を払え」と要求しているという側面もあります。しかし、他方では、そうした問題提起によって、この社会の中には賃金が支払われない労働や見えない労働というものが存在していて、そういった無賃金の見えない労働によって社会が支えられていたり、資本主義社会的な搾取の仕組みが維持されているということを突きつけると同時に、社会のあり方を転換することをめざすという、戦略的な意図をもって行われた主張だと思います。(*6)
また、「家事労働に賃金を!」という主張と併せて、「学生にも賃金を払うべきだ」という議論が出てきます。これもある意味では当然の話で、学生にとっては勉強するということが義務や「仕事」であり、資本主義社会のシステムでは、働かなければ生活のための賃金が得られないわけですから、働かずに勉強している若者はどうやって食べていけばいいのか、という原則的な問いがあるはずです。そうすると、これはまっとうな議論だと僕は思いますが、学生であっても所得を保障されるべきだという考え方が、当然出てきます。
 そこまで考えると、そもそも企業に雇われて働かないと賃金を得られないという仕組み自体がどうもおかしいのではないか。賃金というのは一つの象徴的な言い方ですが、そもそも生存に必要な所得や、社会制度へのアクセスの権利というものは、会社で働いているか、それとも失業者であるかといったことや、子供・高齢者・障害者であるかないかに関わりなく、原則として保障される社会でなければおかしいという議論が出てきます。その議論をさらに突き詰めていくと、「それでは、働かないで遊んでいてもいいのか」という議論が当然出てくるわけですが、後の時代になると、そういう論議は、経済学者の間でも真面目に取り上げられるようになります。実際、遊んでいても生存の権利はあるわけですから、その権利は保障しなければならないと僕は思います。その時に、逆に企業で働くことの意味が問われることになってくると思いますし、イタリアのアウトノミア運動に出会うことで、僕は働くということの意味をずいぶん考えさせられました。
 非常に乱暴な結論になりますが、資本主義のシステムの中で働くことの意味というのは、ほとんど見いだせないのではないのかと、僕は考えています。しかし、働くことに意味は無いと言ってしまっては身も蓋もない話ですので、この社会の中ではいろんな形で働くことの意味を注入されたり、働くことを意味づけるための仕組みが作られたりするわけです。しかし、人が働くことで得られるものが何かあるとして、それと働かないことで得られるかもしれないものとを比べてみた時に、働くことによって得られるかもしれないものの方が重視されるようにこの社会の仕組みができているということ自体に、やはり、大きな問題があるのではないか。そのように考えるようになったのは、ちょうどこの頃だったように思います。
 アウトノミアの運動では、その他にも、例えば、現代資本主義社会の捉え方として、企業の外に都市や人々の私的な生活があるというよりも、生産現場の外での余暇や再生産といった領域も含めて、社会全体がいわば一つの工場であるかのような形で資本によって管理される方向へと進んでいるのではないかといった分析が行われています。また、労働者階級などと言うと、19世紀から20世紀にかけての生産工場での労働者を中心とした非常に古典的な労働者のイメージを思い浮かべてしまいますが、イタリアでのアウトノミア運動が展開されていたのは、そういった古典的な工場労働者ではない、特にサービス業や不安定雇用の労働者が急速に増えていった時代でもありました。そのような新しく登場してきた労働者たちをどう名付けるかということで、ネグリは「社会化されたプロレタリアート」や、「社会的プロレタリアート」という言い方をしています。その後、ネグリは「マルチチュード」という新しい概念を提示したりしていますが、それにつながるような問題提起が行われていたのも、ちょうどこの時期だったと思います。
 しかし、イタリアのアウトノミア運動は、1979年に、イタリア政府による過酷な大弾圧によって、暴力的に潰されました。ネグリも、78年の「赤い旅団」による、キリスト民主党党首でイタリアの元首相のアルド・モロ誘拐・殺害事件の首謀者の一人という、でっちあげの罪名で逮捕されました。その後、83年に、ネグリは獄中から国会議員に立候補して当選することで、一旦は監獄から出所するのですが、そのわずか数ケ月後、再収監の危機を脱してフランスに亡命しました。(*7)
 そのように、アウトノミア運動の何千人という規模の活動家たちが逮捕されたり、国外に亡命するということが70年代末から80年代にかけて起きているのですが、そのことが逆に、アウトノミアの運動をイタリアの外にもいろんな形で広めていくきっかけになりました。フランスやドイツ、アメリカ、カナダといった国でも、アウトノミア運動の活動家たちと同じような考え方をする人たちが次々と登場してきたのは、アウトノミア運動に対する弾圧の後の時代です。僕自身は、ネグリが獄中に囚われていた頃に、日本でのネグリ救援運動のちょっとしたお手伝のようなことをやったりしていたわけですが、自分にとってアウトノミアの運動のもつ意義は、今でもとても大きなものとしてあります。

■商品の「使用価値」それ自体を問いなおす
イタリアのアウトノミア運動との出会いの後、僕が何を考えてきたのかということを時間の流れにそってもう少しお話ししたいと思いますが、日本は80年代末から「バブル」の時代に入り、社会全体が消費に浮かれるような時代になるわけです。そのような時代状況の中で、僕は、そもそも消費というのは何なのかということをずいぶんと考えさせられる場面に直面したのですが、「全てのものを商品化するというのが資本主義社会の悪しき側面であり、それは認めがたいことである」という、非常に単純な議論がその当時、結構ありました。
 マルクス経済学では、商品には交換価値と使用価値という二つの側面があって、本来の意味での物の特性というのは使用価値の方にあるということになっています。例えば、ここに時計がありますが、時計は時刻を表示するという機能をもっていて、それが時計の使用価値ということになりますが、それに値段を付けて商品として流通させたり、価格でその価値を示すことによって、時計であれば時刻を表示するという本来の使用価値や機能がお金に支配されてしまうことになります。ですから、商品の本来の使用価値を取り戻すためにも、交換価値というものを否定しなければならないという議論によくなるわけです。
 しかし、僕は価値(交換価値)を批判して「使用価値の回復」を主張するような使用価値観には疑問がありました。つまり、そもそも商品の使用価値というものに、本当に商品としての価値から自立した意味があるのだろうかと考えるようになったのが、大体この頃のことです。この問題は、ある意味では、エコロジーや環境といった問題にもつながってくることなのですが、「お金で取引されたり、商品として流通するということではなく、その商品の物としての本来の使用価値や有用性を復権すべきだ」といった議論は、意味がないのではないか。やはり、商品として作られていて、社会の中で使用価値をもっているということ自体に、人々のライフスタイルや生活習慣を形成するという作用があるわけです。とりわけ日本のような先進国では、商品の使用価値には、人々が生活する上での基本的な価値観を作りだすという非常にイデオロギー的な性質が含まれていて、使用価値というもの自体をどこかで疑うということがなければまずいんじゃないかということを、考えたりしていました。これは貨幣的な価値には還元できない、モノの「意味」が社会の支配的な価値観やイデオロギーを再生産する機能を果しているのではないか、という観点への関心だと言い換えることができます。
これはライフスタイルをどう考えるかという問題につながっていて、ちょっと厄介なことなのですが、例えば、どこの先進国でも、「車社会」といったあり方が社会にとっての基本になっています。そのような車社会といった社会のあり方に対して、疑問や異義を表明するとすれば、自動車が商品であるということ以前に、やはり自動車がもっている文化的・社会的な価値自体をもう一度問い直さなければいけないのではないか。このことは、自分たちの現在の生活のあり方をどのように違うものへと変えようとするのかという、エコロジストの人たちの議論にもつながる部分があると思います。そのようなことも当時、考えていましたが、それは今でも大きな問題だと思いますし、特に反グローバリズム運動にとって、大きな課題だと考えています。

■自律的な市民メディアをつくりだすことをめざす
 90年代の前半ぐらいから、皆さんもご存知のようにコンピュータが普及し始めて、同時に、インターネットなども普及していく時代に入っていきました。その頃、僕も物珍しさもあってパソコン通信のようなことをやったりしていた時代がありました。当時はインターネットではなく、まだ、パソコン通信といっていた時代でしたが、そのネットワークを通じて、メキシコのサパティスタ民族解放軍の闘争についていろいろと情報を得ることができました。
 その頃のパソコン通信は、まだ、今のインターネットのように、全ての人が自由に使えるといったものではなく、アメリカであれば、ほぼ大学の研究者が利用者の中心でしたし、現在、インターネットのプロパイダーであるニフティーやビッグローブなどはもともとパソコン通信の会社だったわけですが、日本では、まだニフティーがパソコン通信会社であった時に、国内の回線だけではなく、海外ともネットワークでつながる仕組みをサービスとして提供していました。また、大学間のコンピュータのネットワークで海外とのコミュニケーションが何とかできる仕組みがあって、非常に使い勝手の悪いものでしたが、国際電話や国際郵便のやりとりをするよりは確かに格段にスピードが速く、今の電子メールと同じようにコミュニケーションをすることができました。
 そうした現在のインターネットの前身にあたるようなパソコン通信のネットワークを利用することで、世界各地のいろんな運動についての情報がやりとりされるという状況が、90年代前半にできてきました。そのような世界の運動情報のネットワークがあるという話を聞いていた頃のことですが、94年1月に、サパティスタ民族解放軍が、アメリカとメキシコの間での北米自由貿易協定の発効に併せて、メキシコのチアパス州で武装蜂起を行いました。また、彼らはメキシコシティーへの大行進も行いました。その際に、メキシコのサパテイスタの闘争を支える国際的な連帯運動のための重要なコミュニケーションの手段となったのが、パソコン通信やインターネットなのです。(*8)
 私の知人に栗原幸夫という人がいるのですが、彼はアジア・アフリカ・ラテンアメリカ作家会議を主宰したり、文芸批評もする編集者です。また、彼は、かつてのべ平連運動の仕掛け人の一人で、日本の米軍基地からの米兵の脱走兵を、日本国外に脱出させるという運動にも取り組んでいました。彼はもう70歳後半くらいですが、非常に新しいものが好きな人で、インターネットの可能性にいち早く注目していました。そして、「ほっておけば企業や政府が使う道具になってしまうが、その前に、インターネットを市民運動で使えるようにしたほうがいいのではないか。世界的な状況を見ても、サパティスタの運動も含めて、インターネットを活用して情報をやり取りするということがいろいろと出てきているので、使い方をいろいろ考えよう」ということを、僕に相談したのです。そこで、インターネットが商業的に利用可能になってきて、多くの人がインターネットを通じてメールのやり取りができるようになってすぐの時期から、オルタナティブな運動の情報のやり取りができるようなメーリングリストを作りました。それは、amlという名前で、今でも存続しています。[2015年現在、廃止されている]
 1995年にペルーの日本大使公邸が占拠されるという事件が起きましたが、その際に、僕は、日本大使公邸を占拠したMRTA(トウパック・アマル革命運動)側の主張やアムネスティーの動き、また、当時のペルーのフジモリ大統領の政府による人権侵害などについての情報をインターネットで流していましたが、日本大使公邸占拠事件に対して日本中で非難が渦巻いていました。僕は別に、MRTAを支持していたわけではありませんが、東京経済大学の教員の山崎カヲルと一緒に、政府やマスメディアが流すようなものとは違う情報を提供することで、大使公邸の占拠にはそれなりの理由があり、単なるテロリストの暴力というだけではすまない側面があるのだということを示そうとしました。そのことに対しては、当時、夕刊フジや産経新聞など、いくつかの新聞で非難めいたことを言われたりもしていました。
 インターネットがある種の対抗的な道具として機能しているということを、僕自身が実感できたのが、この頃までの時期でした。日本ではその後、政府やマスメディアの側のインターネットを使った情報発信力が強くなり、市民運動が情報を発信して、メディアに対する影響力を発揮することができていると実感できることが、年を追うごとに少なくなってきています。

■インターネット・ガバナンス運動に関わる
 90年代の後半から2001年の「9.11同時多発テロ事件」が起きる時期にかけて、僕が関心を持って取り組んできたことの一つに、インターネットのガバナンスという問題があります。インターネットは世界中どこでも、メールのアドレスを持っている人とであれば、自由にメールのやり取りができます。今、世界中に10億人以上のインターネットユーザがいると言われていますが(複数のアドレスを持っている人も多いので実数はもっと少ないと思いますが)、同じメールアドレスが重複するということは絶対に起きないようになっています。
 それでは、インターネットの通信が混乱することなしに、例えば、日本にいるAさんから南アフリカにいるBさんへと通信ができるように、誰がそれを管理しているのか、という問題が実はあるのです。このことは今でもあまり知られていないことだと思いますが、例えば、通貨ならIMF、貿易であればWTOという国際機関がありますが、インターネヅトの場合、そのようなよく知られている国際的な組織があるわけではありません。それでは、インターネットを管理するような組織が何もないのかというと、ほとんど知られていませんが、実は、ICANN(Internet Corporation for Acount, Names and Numbersの略語)と書いて、アイキャンと呼ぶ組織があって、インターネットの基本的なインフラに関わる部分を管理しています。
 これは政府の組織ではなく、アメリカ政府に登録されている、民間の非営利組織という位置づけになっています。そのICANNという組織が全世界のインターネットのトップにあり、そこが世界全体で13あるルートサーバーと呼ばれているサーバーを管理していて、世界中のインターネットの通信が混乱しないように運営しています。それと関連して、各国ごとにそれぞれのインターネットのネットワークを管理する管理団体があって、日本にもそのような団体があります。
 皆さんのメールアドレスの最後に、ドットcomとか、ドットnetといった文字がついているはずですが、こういったドットの後ろの文字や記号を勝手に自分でつけることはできません。この一番最後の部分を、トップレベル・ドメインというのですが、これはICANNと各国の管理団体が全部管理していて、これをどうするかは、そこでしか決めることができないのです。トップレベル・ドメインには何種類かありますが、orgというのはオーガナイゼーションの略で、非営利団体ならorgで、民間企業ならcomをつけるといったルールがあります。
 今言ったようなことは、言い換えれば、全世界のインターネットをたった一つの組織だけで仕切っているということなのですが、そういった独占的な状況を放っておくのはまずいのではないかという論議が、インターネットに関わる活動家の中でありました。その頃、僕は日本のJCAネットという、インターネットの市民プロバイダーの運動の活動に関わっていましたが、そのような意味で、インターネットのガバナンスの問題への理解を深めなければならないだろうということで、海外に出て行く機会が増えました。ICANNという組織では、世界の五つの大陸を一年間で一つずつ渡り歩いて理事会の国際会議を行っていますが、NGOと呼ばれるような団体がその会議を追っかけて、そこで批判や提言を行なったりするわけです。そのように、NGOとして、ICANNの国際会議の追っかけをやるということを、インターネット・ガバナンスの問題に関わっている、いくつかの団体が行っていました。そういった国際会議では、表現の自由の問題や、アクセスの問題などいろんな問題が議論されたのですが、僕もそういった活動に関わっていました。
 自由にものが言える2チャンネルという掲示板もあったりして、世間では、インターネットは匿名性が高いと思われていますが、実はインターネットの匿名性というのは、そんなに高くはないのです。一番匿名性が高い遠距離の通信手段というのは、実は手紙なのです。手紙なら、受取人の住所氏名は書かなければなりませんが、差出人の住所氏名は書かなくても、相手に届くわけです。封筒で手紙を出せば、それを開封しない限り、中は見られません。途中で中をのぞかれるということは、電話やインターネットに比べれば非常に少ないし、受取人に気付かれずに覗くのは難しいのです。逆にインターネットや電話は、機械的に盗聴することが非常に簡単です。そのことも含めて、コミュニケーションのプライバシーや、国家による干渉などといったことに対して、非常に大きな注目が集まってきたのはこの頃からです。(*9)
 アメリカのクリントン政権時代のゴア副大統領は、学校にインターネットをどんどん入れる政策を進めたのですが、それと同時に、子供たちがインターネットにアクセスしても大丈夫なように、インターネットの内容を上品なものにしようという議論も当然出てきます。そして、ネットに対する規制を厳しくしようとする際に、アメリカでよく議論になるのは、ゲイやレスビアン、トランスジェンダーといわれる人たちの権利が侵害されてしまうという問題です。僕自身も、インターネット上の表現の自由について、ずいぶん考えさせられました。盗聴法が日本の国会で始めて審議されることになったのは、90年代後半の時期ですが、僕はその頃にこういったインターネットやコミュニケーションの問題に深く関わるようになりました。
 しかし、2001年9月11日に「同時多発テロ事件」があり、それ以降インターネットをめぐる環境がすっかり変わってしまって、ICANNという組織に対するアクセスが非常に難しくなりました。僕は何回か海外に行きましたが、そうそう年に何回も自分のお金で海外に行けるわけはなく、NGOが海外に行くときに費用をサポートするような財団があって、そこからお金をもらって何とかやりくりしていたのです。ところが、そのようなNGOや市民運動グループにお金を援助していた大きな財団が、「同時多発テロ事件」の後、すべてテロ対策にだけお金を出すようになり、表現の自由や市民の権利の保障といったことへの資金援助をしなくなったので、多くの人たちがそういった海外での会議に参加できなくなりました。
 インターネットガバナンスも、それまでは、オープンにインターネットを使って、ユーザーと意思決定していこうという論議があったのですが、そういった論議がなくなって、むしろテロセキュリティー一本やりになってしまいました。そういう状況の中で、それまでのようにインターネットガバナンスの問題に関わることが、事実上できなくなるような状況に追い込まれてしまいした。

■反グローバリズム運動との接点をつくり出す
 その一方で、90年代後半は、大きな反グローバリズムの運動が、先進国でも次々と出てくる時代でした。その中でもとりわけ象徴的だったのは、99年に、アメリカのシアトルで、WTOの閣僚会議が10万人のデモに囲まれて、流会に追い込まれてしまったことです。(*10)そういった反グローバリズムの運動が、アメリカやヨーロッパの国々で、次々と起こってきていたのですが、なぜ日本ではこういう運動が起こらないのかということがく自分としてはとても気になっていました。
 これらの反グローバリズムの運動が中心なスローガンとして掲げていることは、WTO絡みの国際貿易の問題や、IMFによる国際金融や第三世界の国々への債務の問題、世界銀行に関連する開発援助の問題など、世界的な経済の問題がその多くを占めています。しかし、そういった広い意味での現在の国際社会のあり方の問題に対して、日本の社会運動の中からは明確な反応が返ってきません。他の先進国では、第三世界の債務や貧困の問題に対して、多くの人たちが大きな関心を寄せていて、債務帳消しの運動や自由貿易に対する反対運動が大きな大衆運動になっています。この違いは何なのだろうか、というのがその当時の僕の大きな疑問としてありました。当時、僕は、「ピープルズプラン研究所」という団体の一会員でした。そこには、武藤一羊、松井やよりなど第三世界問題に取り組んできた人たちがいて、こういうことを勉強したいといえば何か協力してくれるのではないかという思いから、反グローバリズムの運動が日本ではなぜこのように全く盛り上がらないのか知りたいという話を持ち込んだところ、知りたいのならお前が自分でやれ、ということになってしまい、今では、僕が「ピープルズプラン研究所」の共同代表までやるようなことになってしまいました。ただ、日本は世界的な反グローバリズム運動の波にのりきれないということだけ言っていても何もならないし、それでは実際に反グローバリズム運動というものがどういう運動になっているのかを知りたいという思いから、第1回めの集まりには行けなかったのですが、「世界社会フォーラム」にも参加するようになりました。
 「シアトルの乱」の後の総括の会議の中で、そういった街頭での抗議行動も大事だがそれだけで今の新自由主義的なグローバリゼーションを本当に追い込めるのか、もっと運動間で討議するような場が必要ではないかという論議がありました。そのような問題提起を受けて、毎年、スイスの保養地のダボスで世界のトップ経営者や政治家が集まって開催される「世界経済フォーラム」に対抗する形で、2001年にブラジルのポルト・アレグレ市で、最初の「世界社会フォーラム」が開かれることになりました。その「仕掛け人」となったのは、ブラジルの農民運動・労働運動の活動家や、貧困問題の解決に向けて投機的な国際金融取引への規制を求めるフランスのATTACといった運動体などですが、それらの運動組織の人たちには、多様な運動を担う活動家たちが一同に会して活発な論議を行うことを通じて、「今のようではないもう一つの社会」のあり方がどのようなものであり、それに向けてどのような取り組みが必要であるかといった、共有化された「見取り図」がそこから生み出されるのではないかといった期待があったと思います。「世界社会フォーラム」は、最初は一万規模の集まりでしたが、その後回を重ねるにつれて10万人規模の大きな集まりになっていきました。(*11)
 そもそも日本からはあまり参加者がいないような現状で、批判めいたことを言うのははばかれるのですが、「世界社会フォーラム」の中からは、最初期待されていたような共通の「見取り図」のようなものはなかなか出てこない一方で、ともすれば高い飛行機代を払って参加できるような「先進国」の学者や知識人が年に一回集まって、親睦を深めるだけのものになってしまうようなところがあります。他方で、共同の「綱領」といったものをつくることでそれをもう少し統一のとれた運動にしていこうという動きもあるのですが、そのような動きに反対するグループもあり、「世界社会フォーラム」にとって今は一つの転換期ではないかと思います。
 しかし、そうではあれ、「世界社会フォーラム」に実際に自分で足を運んで参加することで、世界中の運動のあり方の多様性や豊かさを実感することができましたし、何よりもそうした大きな集まりに大勢の若い人たちが参加しているというのが、「世界社会フォーラム」に幅や広がりと魅力を与えているように思います。同時に、「世界社会フォーラム」のようなものを、日本の中でどのようにつくることができるのかということも、僕はずいぶん考えましましたし、いろんな人とも議論もしました。中には、「世界社会フォーラム」の各国版、つまり、日本であれば日本社会フォーラムとでもいったものをつくったらいいのではないかと言う人もいるのですが、僕自身はそういったものをトップダウン式につくってみても運動的な意味はどこまであるのかといった気持ちもあります。
 「世界社会フォーラム」が転換期を迎えているというだけではなく、現在、反グローバリズムの運動全体が、大きなバックラッシュにあっているという印象が、僕にはあります。イラク反戦運動も同じような状況で、イラクでの戦争でアメリカが大きな困難を抱えているわけですが、しかし、反戦運動が大きなうねりとなって、アメリカをイラクから撤退させるほどの力にもなっていませんし、また、日本の「テロ特措法」にしても、残念ながら、市民運動や反戦運動の力で延長が阻止されたわけではありません。そのように、大衆的な運動が閉塞している状況の中で、実は、グローバリズムを推進している側も、次の一手が見いだせないという現状があります。そういった支配者側と運動側とが同時に「地盤沈下」をしているような状況の中で、なんとか反グローバリズムの運動が持ちこたえているというのが現状だと思います。
 日本ではいずれにせよ、反グローバリズムのうねりの高揚があったわけではなく、落ちるときにもそんなに落差がないので、落差で苦しむということはあまりないとはいえ、もちろんこのままでいいわけではありません。そのような意味で、この「世界社会フォーラム」を一つのモデルとして、日本でも多様な運動体が集まって「今のようではないもう一つの社会」のあり方をめぐって討議する場をどのようにつくるのかということは、私たちにとっての大きな課題としてあると思います。
 来年の「世界社会フォーラム」は、特定の国を開催地にするのではなく、多少のずれはありますが、1月26日を「共同行動デー」として世界の各地で分散開催されることになります。東京でも、「ATTAC Japan首都圏」などが中心になって、1月26日に、大きなシンポジウムを開くことが予定されています。それもできれば都心の会議場などではなく、江東区や墨田区の山谷あたりの場所で開催できないかということで、会場を探しているところです。

■G8を迎え撃つ体制は、どのようにつくられようとしているのか
 最後に、来年7月の洞爺湖サミットを迎え撃つ体制作りは、どのようになっているのかということですが、現地の北海道では、「札幌自由学校・遊」などを中心に、道内の市民運動グループやNGOが集まって、「G8サミット市民フォーラム北海道」がつくられました。ただ、北海道の洞爺湖周辺は警備や規制が非常に厳しくなっていて、来年のゴールデンウイークの後は、一般客を宿泊させないようにするという情報もありますので、北海道現地でのデモや抗議行動がやりにくくなってくるでしょう。また、北海道では実際にどこまでそういったことをするのか分かりませんが、今年G8サミットが開かれたドイツでは、会場のあるハイリゲンダムを中心に半径18キロメートルにわたって、侵入を防ぐためのフェンスがはりめぐされました。(*11)洞爺湖サミットの開催にあわせて、洞爺湖温泉街にはプレスセンターの建物がつくられたり、そこに札幌から光ファイバーケーブルを持ってくることになりますが、G8サミットの後で全て撤去されることになる施設や設備を巨額の費用をかけてつくることに対して、今、現地で批判の声が挙がっています。
 私自身はG8サミットそのものに反対する立場で、少なくとも日本はG8サミットから脱退すべきだと思っていますが、日本のNGOの中には、G8サミットに参加する国の首脳と交渉や政策提言をしたいと考える人たちもかなりいます。今までのサミットでも、そのようなNGOがサミット参加国の首脳に、政策提言をしたり、交渉をしたいという要求を行ったりしているのですが、そのようなNGOとの交渉をする場を設けたり、交渉したというポーズをとるためのセレモニーめいたことを、日本政府も何らかの形で行う可能性があります。そのようにサミットに対して、NGOとして政策提言をしたり、交渉をしたいと考える人たちが、「2008年G8サミットNGOフォーラム」というNGOのネットワークをつくっています。市民団体としては、この「G8サミットNGOフォーラム」が数の上では一番大きい組織ではないかと思います。
G8に反対するというスタンスをより明確に示しているのが、「G8を問う連絡会」で、これは、「ピープルズ・プラン研究所」や、ATTAC、日本消費者連盟といった運動体や、「G8サミットNGOフォーラム」に加わっているような団体も一部加わって、つくられました。11月中旬には、より多くの人たちや運動体に向けて「G8を問う連絡会」への参加を求めるための「呼びかけ文」を出したいと考えています。
 なお、、来年の日本でのG8サミットでは、7月の洞爺湖での首脳会議と併せて、東京では「G8開発大臣会議」、大阪では「G8財務大臣会議」、核再処理施設のある青森県では「G8エネルギー大臣会議」、そして富山に近いところで言えば、新潟での「G8労働大臣会議」といったように、10もの閣僚会議が予定されています。それに対して、関西の運動体では、地元での閣僚会議の開催に対して、何らかのアクションを起こすことを計画しているそうです。
 その他、G8サミットに対抗して、大学の学者や知識人を中心として、G8への疑問や批判を表現するための国際シンポジュウムを開催しようという動きもあるようです。また、この前のドイツでのG8サミットも含めて、G8サミットではどこでの場合でも警備の問題が大きなものとしてあり、事前の弾圧も含めて警察の規制や取り締まりが厳しくて、しっかりした救援体制をつくることが必要になっています。最近、原発の問題にも取り組んでいる日弁連の海渡雄一さんという弁護士と少し話をしたのですが、「G8サミットNGOフォーラム」でも、警察の様々な弾圧を危慎しているようです。日弁連全体としてどこまで動くのか分かりませんが、弾圧対策のための何らかの弁護士グループをつくることが、今後の検討課題になっているようです。その他、一般のマスメディアでは報道されないような、G8サミットに対する抗議行動や反対の声を伝えるための市民の手によるメディアセンターをつくろうとする動きも出てきています。(編者註:08年4月、G8サミットに向けた過剰警備・弾圧による人権侵害に対処するための組織として「WATCH/サミット人権監視弁護士ネットワーク」が発足。また、同月には、「G8メディアネットワーク」のサイトがスタートし、08年6月現在、反グローバリズム運動に関わる人たちへのインタビューや、「フリーター」のメーデーの映像など20以上もの動画をネット上で配信)
 以上が現在、私が日本でのG8をめぐる運動側の動きとして知っていることです。

「フリー・トーク」での議論から

口地域での反G8の動きや、G8をきっかけとする運動間での横断的な動きは?
 参加者A 今日の小倉さんの話の最後で、G8に対する日本の各地での現在の取り組み状況について話されましたが、洞爺湖サミットが開かれる現地の北海道や、東京といった大都市以外での、地域のレベルでの反G8の動きはありますか。また、私は反原発運動に関わっているのですが、G8サミットをきっかけにそのような大きな課題について異なる運動間での横断的な動きが生まれているといったことはあるのでしょう
か。

 小倉 地域での反G8の動きについては何もないということではなくて、私に見えていないだけだと思うのですが、今のところよく分かりません。
 来年のG8サミットでは、政府側としては環境の問題を一つの焦点にしていきたいと考えていると思うのですが、環境の問題を口実にして、「温暖化防止」と連動させながら、エネルギーの確保のために原発を推進していきたいというのは、慢性的な石油不足を抱えているG8サミットに加わるような先進国の思惑として、当然あるでしょう。もともとサミットでは、原発推進ということを繰り返し主張しています。チェルノブイリ原発事故があった86年に開かれた東京サミットでは、声明文が出ていて、原発事故に憂慮を示しつつ、ソ連がきちんと原発の安全性を確保することを怠ったから事故が起きたということであって、西側の原発は安全であると言っています。
 もどかしいのは、先程ふれた「G8サミットNGOフォーラム」では「反G8」ということを掲げないと言っていることで、その中には、環境の部会もあり、風力発電や太陽光発電といったクリーンエネルギーや代替エネルギーに取り組んでいる市民グループが、ポジションペーパーと呼ばれるような意見書を出したりしているようですが、原発に反対している現地の運動とつながりをつくろうとはしていないように思います。逆に、今のところ、反原発運動を担ってきた現地の運動が、反G8の運動とつながることもできてはいないのではないかと思います。
 「G8を問う連絡会」の中にも、遺伝子組み換え作物や巨大アグリビジネスの問題といった、農業問題については取り組もうという人たちが何人か入っているのですが、原発の問題については、もっとこちらからの働きかけが必要なのではないかと考えています。

ロ小倉さんとしてG8に反対する理由は?
 参加者B 自分などはまずG8サミットで何が話されるのかという以前に、この世界 がほんの一握りの権力者によって支配されているのだということを見せつけられること自体が耐え難いという気持ちになってしまうのですが、小倉さんや小倉さんと一緒にG8に反対している人たちは、とりわけ、どのような理由からG8に反対しているのかということを、この機会に聞きたいと思うのですが。
 小倉 G8サミットになぜ反対するのかということについては、最初のきっかけとしては、反グローバリズム運動の一環としてといった程度で、特に深い理解をG8サミットに対してもっていたわけではなくて、先進国の首脳が集まって厳重な警備に囲まれた中で「密談」するということ自体が、まず条件反射的に許せないという気持ちだったと思います。しかし、その後サミットのことをいろいろ調べる中で、それが非常に問題のある(日本の場合は憲法上も参加に問題があります)、しかも現実の国際関係に少なからぬ影響をもつ会合であることを知るようになりました。
 もう少し理屈づけて言いますと、サミットというのは、元々はあくまでも非公式の首脳会議として始まり、現在もそうであるのにも関わらず、現実には先程もお話ししたように10もの閣僚会議があり、更にその下に高級官僚レベルの会議があるというように、G8サミット全体として恒常的に組織だったものとして構成され、財務省会議は年に3回も開催されています。
 国連機関がそれほど良いものだとは思いませんし、IMFや世界銀行にしても一応は投票によづて決定するという手続きがあるわけですが、G8サミットでの一連の会議にはそのような形式的な決定手続きすら存在していませんし、基本的には全て「密室会議」です。この間の反グローバリズム運動の中で問われているような、どうやってグローバルな民主主義をつくりだすのかという議論と真っ向から対立するものであるという意味でも、そのような非民主主義的な意思決定構造をもつG8サミットというものの存在を認めるわけにはいきません。
 これは日本が国連の安保理事会の常任幹事国になっても良いのかという議論とも関わることですが、G8サミットの問題を日本独自の政治的なコンテキストに関連させて言うと、憲法9条をもち、それに拘束されているはずの日本が、世界有数の軍隊をもつ他の先進国と同じテーブルについて、世界の安全保障について「対等」に議論すること自体が本当に許されるのか、という議論があってしかるべきだと思います。実際に、そのことによって、日本が自衛隊の海外派兵や、アメリカとの軍事同盟の中にひきづりこまれるということが起きています。
 例えば、イラク戦争でアメリカが「勝利宣言」を出し、イラクの占領統治を終えて傀儡政権に権力を委譲することになった後に、アメリカ軍がイラク駐留を続けるための枠組みとして「多国籍軍」というものをつくったのですが、それに日本が参加することを当時の首相の小泉がいち早く表明したのは、サミットの場でした。正確に言えば、サミットの前日にブッシュ大統領と小泉との会談があって、恐らく自民党内でも何の相談もなく、そこで小泉が「多国籍軍」への参加を表明したわけですが、そのことによってアメリカが他のサミット参加国の首脳に対して、アメリカのイラク支配政策に対する明確な賛同者がいるということを見せつけることに、日本が協力する形になりました。
 また、これは80年代の話ですが、当時の首相の中曽根が例の「浮沈空母発言」をした年のサミットで、中曽根が、アメリカがソ連を射程に置いて中距離核ミサイルをヨーロッパに配備しようとしたことに対して、「中距離核ミサイルの配備はソ連にとっての脅威になるのだから、結構な話ではないか」と言って、支持を表明するということがありました。それに対して、当時のマスコミでは、「NATOの加盟国でもない日本が、NATOの核戦略に対して口出しをするとはどういうことだ。いつから日本はNATOの加盟国になったんだ」ということで、大きな問題になりました。
そのように、憲法9条に拘束されているはずの日本が、アメリカなどの軍事戦略になし崩し的にひきづりこまれていく可能性が最も高い「密室会議」.がこのG8サミットであるという意味でも、日本はそこから脱退すべきだと思います。(*13)

■<註〉  *1カール・ポランニーの著書の日本語訳は、彼の主著である『大転換』(東洋経済社)も含めて、現在、大半が絶版になっているが、「ちくま学芸文庫」に、彼の著書として、『経済の文明史』と『経済と文明』が入っている。なお、彼の思想を「大転換」以降から晩年までの時期にわたって、その限界までも含めて紹介しているものとして、佐藤光『カール・ポランニーの社会哲学』(ミネルヴァ書房 06年)がある。[『大転換』は野口建彦、栖原学訳の新訳版が2009年に出版された。]  *2このような問題意識から、フォーデイズム的生産体制の成立がもたらした社会構成上の転換や、消費・再生産といった観点から、既成の経済学の批判に立って、現代社会を捉えなおすことを試みたものとして、小倉利丸『支配の「経済学」』(れんが書房新社 85年)がある。  *3イタリアでの「アウトノミア」運動の展開やその理論については、前掲の「支配の経済学」にもふれられているが、より詳しくは、「インタビュー 小倉利丸/小倉虫太郎十酒井隆史(聞き手):アントニオ。ネグリとは誰か」(現代思想98年3月号)参照。  *4 イタリア憲法の第1条のlには、「イタリアは労働に基礎をおく民主共和国である」、同第4条のlには、「共和国は、すべての市民に労働に対する権利を承認し、この権利を具体化するための諸条件を支援する」とある。  *5 「アウトノミア」時代のネグリの独自の労働概念については、小倉利丸「生産的労働者主義の伝統からの切断 アウトノミア運動の中のマルクス」(現 代思想・前掲号)参照。  *6 「アウトノミア」の時期やその後のイタリアでのフェミニズム運動の展開や、再生産労働や不安定労働の分析を軸にした資本主義批判については、マリア・ローザ.ダラ.コスタ「家事労働に賃金を」(インパクト出版会 86年)、ジョバンナ・フランカ・ダラ・コスタ「愛の労働」(インパクト出版会 91年)参照。  *7 モロ暗殺を口実した「アウトノミア」に対するイタリア政府の容赦のない弾圧の様子や、同じ時代状況を共有しながら「アウトノミア」運動と「赤い旅団」のテロリズムとが運動的な相克関係にあったことについては、前掲の「インタビュー」の他、インタビューに対してネグリが自らの軌跡や思想を語るという形で構成された「ネグリ 生政治的自伝」(作品社 03年)の中でも、生々しく語られている。なお、ネグリは、97年、フランスでの亡命生活に終止符を打ち、イタリアへの「帰還」を行ったが、空港で即座に収監、再逮捕。  その後、ネグリは、昼間、外出できる「労働釈放」となり、02年4月からは獄中から出て指定住居に生活する「選択的拘留」状態だったが、03年に完全釈放。現在、著作活動と併せて、世界各地で活発な講演活動を行っている。 *8 サパティスタの闘争のプロパガンダや支援の手段としてのインターネットの役割に焦点を当てて分析しているものとしては、山本純一「インターネットを武器にしたくゲリラ>」(慶鰹義塾大学出版局 02年)や、毛利嘉孝「文化=政治」(月曜社 03年)の『第5章 情報空間の抗争』参照。 *9 小倉さんはコンピュータ技術や監視テクノロジーの発達がもたらす監視社会化の問題に早くから関わっているが、小倉さんによる監視社会批判の著作としては、以下のものがある:「監視社会とプライバシー」(編著・インパクト出版会 01年)、「エシュロン」(編著・七つ森書房 02年)、「路上に自由を、監視カメラ徹底批判」(編著・インパクト出版会 03年)、「グローバル化と監視警察国家への抵抗」(編著・樹の花舎 05年)、「危ないぞ!共謀罪」(共著・樹の花舎 06年)。  また、審察による電話の盗聴や、ネット上の情報に対する監視・「盗み見」の実態については、併せて、古川利明「デジタル・ヘル」(第三書館 04年)の『第2章「電話盗聴・電子メール盗み見」の歯止めなき拡大』参照。 *10 99年のWTOの閣僚会議を流会に追いやったシアトルでの闘争のスタイルの画期性や意義ついては、前掲の「文化=政治」の『第1章 文化と政治運動の転回点 シアトルの闘争』参照。また、小倉さんがシアトルの反WTO闘争の意義についてふれた文章としては、『グローバル資本主義と闘う課題一アジア社会フォーラムをふまえて』(「季刊 ピープルズプラン」No.21)参照。 *11 北沢洋子「世界は地の底からゆれている 世界社会フォーラム報告一シアトルからムンバイまで」(「世界」04年3月号)では、シアトル以来の反グローバリズム運動の流れをたどりながら、04年のインド・ムンバイでの「世界社会フォーラム」についてレポートしている。併せて、武藤一羊「アメリカ帝国と戦後日本国家の解体」(社会評論社 06年)中の『第二波世界変革運動としての世界社会フォーラム』と『生成の場としての廃嘘 ムンバイ社会フォーラムから』参照。また、「世界社会フォーラム」での論議6討論については、ジャイ・セン他編「世界社会フォーラム 帝国への挑戦」(作品社 05年)参照。なお、小倉さんによる世界社会フォーラムの意義や課題に対する分析・見解については、『座談会 帝国へ挑戦する世界社会フォーラムその現状と可能性 話し手:武藤一羊・小倉利丸・木下ちがや・大屋定晴』(「情況」05年1.2月合併号)、『閉ざされた「自由な空間」から社会的空間のオルタナティブへ一世界社会フォーラム=空間論批判』(「季刊ピー プルズプラン」No.38)参照。 *12 07年のドイツ・ハイリゲンダムでのG8サミットに対する抗議行動の参加者に加えられた警察の暴力的な規制・取り締まりや、日本のマスコミでは報じられない、抗議行動の参加グループの相互のスタンスの違いを尊重した上でのサミットへの対抗行動のあり方については、栗原康「オルターグローパリゼーション運動とアナキズムードイツ反G8運動報告から」(「情況」07年11・12月号)参照。併せて、矢部史郎「反G8サミット運動の現在」(「図書新聞」07年7月7日号(上)・7月14日号(下))も参照。 *13 G8サミットに対する小倉さんのより詳しい批判・分析は、「G8サミットとグローバル資本主義の覇権構造(上)」(季刊「ピープルズ・プランNo.40」)、「同(中)」(同No.41)参照。併せて、「G8を問う」第2回学習会での小倉さんの話の要旨を掲載した「G8を問う!共同行動・富山 リーフレットNo.3」も参照。また、小倉利丸『虚構の帝国を支えるG8サミット』(ATTACフランス編「徹底批判G8サミットーその歴史と現在」作品社 08年)も参照。 付記:注は主催者が作成したものです。主催者に感謝します。 出典:『生・労働・運動』パンフレット No.1 ,2008年 2015/6/26 若干の加筆修正:注は未確認