60年代の情報化

60年代の情報化

情報化社会論の最初のブームといっていい時代が60年代だった。高度経済成
長にともなう工業化の爛熟感が「その次」の社会イメージを要求し、サイバネ
ティックスにみられるような人間と機械のインタラクティブな関係などがこの
時代の情報化を支え、マクルーハンが最初に脚光を浴びたのもこの時代だった。

冷戦の真っ只中の1957年、ソ連は人工衛星スプートニクの打ち上げに成功する。
これに対抗して米国国防総省はARPA(Advanced Research Project Agency)と呼
ばれる科学技術の軍事利用のための開発組織を設置した。このARPAが取り組ん
だプロジェクトの一つに、敵による通信網の攻撃に耐えうる遠距離通信システ
ムの開発があった。つまり、破壊された通信回路を自動的に迂回して、生き残っ
た通信回路を利用して通信を確保できる技術である。このような技術を開発す
るために、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、同サンタバーバラ校、スタン
フォード大学、そしてユタ大学の相互に仕様の異なるコンピュータを繋いで実
験が行われた。

ARPANETと呼ばれたこのネットワークは、軍事目的であるといわれながら、そ
の開発や利用はかなりオープンだったようで、次々に様々な研究者が参加し、
また軍事目的に限らない様々な利用や実験が行われてきた。他方で、コミュニ
ティをベースとしたコンピュータ通信の試みもまた活発に行われるようになり、
自由な双方向のコミュニケーションの道具としてのコンピュータ通信への期待
が初期の時代には支配的だったとも言われている。

軍事目的という極めて高度な国家的な要求がある一方で、マスメディアが大き
な支配力をもっていた時代に、双方向のコミュニケーションを個人が自由にで
きるという全く新しい可能性に大きな夢が拡がりもした。これがインターネッ
トの始まりである。

すでに60年代には、パケット交換などインターネットを支える基本的な通信
技術の考え方が提起されていた。そして、70年代には、現在のインターネッ
トを支える基本的な通信技術の取り決めなど(TCP/IP、イーサネットなど)が
開発された。また、ARPANETには、MILNET(米軍の軍用ネットワーク)をはじめ
次々にさまざまなコンピュータやネットワークが接続するようになる。こうし
て、70年代には、ウエッブの技術を除いて、インターネットの基本的な仕組
みの大半が開発されていたのだ。

80年代にはいって、いくつかの大きな変化が生じた。MILNETがARPANETから
分離される一方で、米国以外でも主として学術研究用にコンピュータネットワー
クが急速に発展する。(ヨーロッパのEARN、日本のJUNET、イギリスのJANETな
ど)。また草の根のパソコンネットワークFidoNetが国際的なネットワークを形
成しはじめる。

そして89年に商用ネットワークとの電子メールの交換が開始され、その後90
年代に入って、WWWが登場し、95年には商用プロバイダーが本格的に事業を展
開しはじめる。こうして90年代後半以降、インターネットは急速に拡大を続け、
米国政府は情報ハイウェイ構想のなかでインターネットを基幹的な通信インフ
ラと位置づけるなど、各国政府とも情報通信を国家政策の中核に位置づけて普
及と開発のための戦略を打ち出すようになる。

このようにインターネットは、その技術的な仕様の面でいえば60年代からの長
い歴史を持っていた。しかし60年代のインターネットはごく一部の人々にの
み知られたものであって、現在のような大衆的なものではなかった。しかし、
中央にある大型のコンピュータが全てをコントロールするというような仕組み
とは異なって、コミュニケーションの環境をコンピュータのネットワークが分
散しながら覆いつくすという形の萌芽がこの時代にあったことは、それが軍事
目的という意図とともに、どこかしらそれ自体がポストモダニズムを予感させ
るものだった。

インターネットが、核戦争を想定した情報通信網の維持をコンピュータネット
ワークとして実現しようとしたように、コンピュータ・コミュニケーションは
冷戦や資本主義対社会主義という20世紀の体制間対立と不可分な環境のなか
で構想されてきた。コンピュータは、この敵対的な関係のなかで味方のための
人工頭脳であると同時に、また敵のための人工頭脳でもあり、しかも武器や兵
器といった直接的な軍事の正面装備がもっている敵と味方に共通する軍事的な
技術とは本質的に異なって、コミュニケーションを統御し、場合によっては人
間にかわって、ある種の状況判断を下し、さらには意思決定に決定的に不可欠
な条件を提示するという意味で、敵と味方が共通して使用するこの装置には、
より一層の不安を掻き立てるものがあった。

20世紀の前半のSF小説が、機械と人間との関係に大きな関心をいだき、人間
がみずからを模倣して制作するのは、フランケンシュタイン博士の手になる
「怪物」や機械によって構築されたロボットのような近代の医学や工学的な機
械技術人間社会の不安を描きだしていたとすれば、60年代のSF小説は、情
報化やコンピュータ化の最初期にありながら、現代に通底するコンピュータコ
ミュニケーションに関わるある種の不安と矛盾に着目した優れた作品を次々に
生みだした。この短いエッセイでは、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙
の旅』(1968年、以下『2001年と略す)、フィリップ・K・ディックの
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年、以下、『電気羊』と
略す)そして、スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』(1961年、
以下『ソラリス』と略す)。いずれもその後、映画化され、そして原作以上に
映画について論じられることも多い作品だがここでは、原作に関わる話題だけ
を若干とりあげてみたい。

アーサー・C・クラークの『2001年』では、宇宙船ディスカバリー号のコン
ピュータ、HAL9000は、宇宙船の「頭脳と神経系をなす高度に進歩したコンピュー
タ」という設定が与えられ、このHALのようなコンピュータは、「神経ネット
ワークを自動的に発生させ」「人間の脳の発達と酷似したプロセス」をとる。
HALが次第に人間の指令に従うだけのコンピュータから、ある種の自我を持ち、
人間の指令に逆らい、あるいは密かに人間の行動の裏をかくことによって、人
間を支配する存在になろうとする。しかし、この人間対コンピュータの支配す
るものとされるものの関係は、オーウェルが『1984年』で描いた人間とビッグ・
ブラザーとの関係のようなスタティックな権力支配の関係ではない。むしろク
ラークは、ディスカバリー号の内部で生じた権力の移行のプロセスを描こうと
したのだ。たとえば、HALが反乱を試み始めた直後、ボーマン(デイブ)との
間で次のようなやり取りが行われる場面がある。

「ハル、この船の最高責任者はぼくだ。命令する。手動コントロールをわたせ」
「すまないがね、デイブ、特別サブルーチンC1435ダッシュ4によれば、乗員
が死亡または活動力を喪失した場合、宇宙船の指揮権は船内のコンピュータに
帰属する、とある。きみが理性的な行動をとれない以上、最高責任者はわたし
に移ることになる」
「ハル」冷たく落ち着きはらっていう。「ぼくは活動力を失ってはいない。命
令にしたがわなければ、接続を切るしかない」
「きみがしばらくまえから、そのことを考えているのは知っているよ、デイブ。
しかしそれはたいへんな誤りだ。船内の管理にかけてはわたしはきみよりはる
かに能力があるし、このミッションへの熱意、成功の確信はだれにも劣らない」
(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫版)

ハルは、船内管理に関する優位を確信しているので、あえてここでは強引に指
揮権をとることはせず、ボーマンの命令に従う。なかなか高等なポリティック
スだ。強権的な支配ではなく、テクノロジー上の優位を背景として合意を形成
しようというわけだ。

こうした権力の移行のプロセスがコンピュータと人間の間で、宇宙船というあ
る種のそれ自体で自立した世界のなかで展開される。その際、ここで権力の中
心に据えられたのは、暴力的な抑圧ではなく、管理能力である。言い換えれば
システムを統御する技術が権力問題の中心に据えられ、同時に、この管理問題
に、人間という不確定な要素が関わる。HALにとっは、船内や宇宙空間の工学
的天文学的な管理は全く問題にはならない。むしろHALにとっては予測しがた
い行動をとる人間の管理である。人間がコンピュータにとって本姓として敵対
的だからではなく、計算可能性の域を越えたある種の残余を人間はかかえてい
ることをコンピュータは嫌うのだ。だからHALは冬眠中の人間を起すことに抵
抗を示したのだった。

『2001年』と同じ1968年に出版されたフィリップ・K・ディックの『電気羊』
は、後に『ブレードランナー』として映画化されたが、映画ではアンドロイド
と人間の闘争がアンドロイド同士のありえないはずの恋愛物語と結び付けられ、
かなりロマンチックな物語に仕上げられているが、原作はもっと諧謔的で、人
間の側の異常性を浮彫りにしている。

限りなく人間に近いアンドロイド、今風にいえば、DNAレベルで複製されたク
ローン人間としてのアンドロイドは、惑星植民地の労働力として、ローゼン協
会が植民地のニーズに応じて製造したものだ。資本主義最後の難問であった人
口の再生産(資本主義と言えども、人の出産だけは工業化できなかったのだが)
がアンドロイドを製品化することによって解決されたかにみえた社会が舞台と
なる。

外見ばかりでなく、思考や感情においてもほとんど人間と区別がつかないアン
ドロイドを人間の側は、微細な差異を見つけ出して、あくまで人間というカテ
ゴリーから排除しようとする。他方で、人間たちは、クローンの動物をペット
にし、野生の動物に宝石並の希少価値が生みだされる。明らかに人間とは異質
な動物たちをペットして愛玩する一方で、限りなく人間そのもののアンドロイ
ドは徹底して差別される。主人公のリックもまた、紛い物の「電気羊」を飼っ
ているが、いつかは本物を飼いたいと願っている。ファナティックなまでの動
物への所有欲の一方で、なんの感情もなくほとんど人間と変るところのないア
ンドロイドの命を奪うことには一瞬の躊躇もみせない。

『2001年』ではHALと人間との間のコミュニケーションは徐々に敵対的、ある
いは権力闘争の様相を帯び、敵と味方の輪郭が鮮明になるが、『電気羊』は、
誰がアンドロイドなのかという子とそれ自体が、物語のなかで大きな位置を占
める。人間とアンドロイドを見分けるには特殊な装置を使い、特殊な技能を身
につけた者でなければ不可能であり、アンドロイド産業はこうした差異をさら
に埋めるべくより人間に近いアンドロイドを開発する。

なぜ彼らがアンドロイドでなければならないのか、なぜ人間と名付けられ得な
いのかというその根源的なところでの差異が、実はきわめて曖昧で、限りなく
自分に近い他者を探し出して敵としてのレッテルを貼ることで、権力を再生産
するという政治学の教科書のような設定ではあっても、この設定のもつ説得力
は決してあなどることはできない。同時に読者の私たちもまた、その社会が設
定し、定義づけたアンドロイドと命名された者を「敵」と呼ばざるを得ないこ
とになる。こうした関係は私たちの今現在の世界、テロリストと命名されるこ
とによって敵とする関係そのものである。

『電気羊』は、植民星から逃亡してきたアンドロイドを探し出して処分する主
人公と、逃亡アンドロイドの闘いという設定が、本質的には差異のないはずの
両者の間にどのような切断線を引いて敵対関係を構築するかという権力の問題
でもあった。

物語では、この切断線は、アンドロイドが示す感情のパターンが人間と微妙に
ずれるところに見い出されることになるが、しかし、分裂病気質の人間の場合
はアンドロイドと極めて類似した感情パターンをしめすために、百パーセント
確実に人間とアンドロイドを区別することは難しいというただし書きがつく。
アンドロイドに誤認されて殺される人間がいる可能性を人間側は極度におそれ
る一方で、アンドロイドの処理はまるで物を廃棄するように行われる。

自己と他者のありえない境界を、権力が意図的に鮮明な差異として一線を引こ
うとすればするほど、そこでは残酷な暴力が支配する。他者としてのアンドロ
イドはこの線を越えようとする意思を支配者の意図を越えて持つようになるが、
実はこの他者それ自体もまた、支配者の側に属するはずの企業が、支配のため
の労働力としてニーズに応じて供給した結果であった。これは、文字通り、資
本主義とそのもとでの階級闘争の物語であるのだが、ディックはこれを、むし
ろ、階級意識ではなく、フロイト的な意味での無意識のレベルにおける差異が
もたらす亀裂に引き寄せた。この点では、ドゥルーズ=ガタリがこのディック
の自己と他者の間に引いた切断線にインスパイアされた可能性があると私は確
信するし、ディックのこの小説が常にポストモダニズムの文脈のなかで再論さ
れ続けるそれなりの理由もこのあたりあるのだが、しかしさらにこれを現代の
文脈のなかで読み直すとすれば、このアンドロイドは、アントニオ・ネグりの
いうマルチチュードであり、また、ポスト・コロニアルの文脈で語られるサバ
ルタンそのものの姿であると言うことができるかもしれない。植民地から逃亡
し、植民地本国にやってきた奴隷の物語であり、この奴隷たちは、一方で意図
的に植え付けられた支配者による記憶に対して抗い、自らが創造しようとする
あらたな歴史のために闘うのである。

アンドロイドという人間自らが生みだした対象が自らとの間であらたな矛盾を
生みだすという物語は、敵というカテゴリーが実は社会的な生成物であって、
いっさいの普遍性をもたないということに気づく一つの契機を与えてくれるが、
しかし、敵はいかに判別が困難であるとはいえ、あくまでも、自己の外部に対
象化可能な存在だった。これに対して自己の外部に敵を想定するということそ
のものをある種脱構築してみせたのが、レムの『ソラリス』である。『2001年』
や『電気羊』よりもかなり前、60年代の前半に書かれたこの作品では、人間
の欲望そのものが環境を生成するという物語であり、しかもこのような生成が
ソラリスという惑星の大半を覆う海それ自体が「思考力をもつ怪物」であり、
「それ全体が脳」であるという想定に基づいている。ソラリスは、人間の無意
識の欲望を察知して、具体的な人間の姿として示す。『電気羊』はアンドロイ
ドという人間そのものといっていい複製と人間の物語だったが、『ソラリス』
は、人間の無意識を察知するソラリスの海がこの無意識の中に抑圧している存
在を具体的に作り出す。主人公は、かつていっしょに暮らし、ちょっとした諍
いがもとで自殺した昔の恋人を突然宇宙船のなかに見い出し、それが幻覚なの
か現実なのかわからずある種の錯乱状態に陥る。主人公の同僚のスナウトのこ
とばをかりれば、次のようなことだ。

「人間は誰しも、自分の頭の中だけにしまって置いて、決して実行したり、実
現したりしようとは思わないような事柄なり…状況なりを、多かれ少なかれ
思い描いているものだ。…それが何かの瞬間、気が違ったせいか、自己喪失
にかかったせいかは知らないけれども、頭の中だけにあったことが突然現実に
なる。」(飯田則和訳、ハヤカワ文庫版)

そして、人間は未知の宇宙で人間以外の何者かとの出会いを求め、「他の惑星
の住人に地球の文化を伝え、交換に、他の惑星の遺産をもらおうと望んでいる」
などというのは、嘘でしかないという。人間が外界の世界で出会うことを望ん
でいるのは「自分をうつす鏡」だけであり、ソラリスという未知の惑星の海は、
この人間の隠された無意識を物質化するのだ。

『ソラリス』の物語は、こうして『電気羊』のアンドロイドのような複製の物
語でもなければ、『2001年』のHALのように、宇宙船という世界それ自体の支
配をめぐる権力の物語でもなく、むしろ、パーソナルな存在そのもの、無意識
の力が、宇宙船全体の秩序を徐々に解体してしまうといったパーソナルなポリ
ティックスの物語である。ここにおいては、存在が意識を規定するのではなく、
また意識が存在を規定するのでもなく、物質化した意識が主人公の存在を規定
する。主体と客体の二分法はこの世界では意味をなさず、自他の闘争もまた成
り立たない。客体は主体であり、自らの存在を脅かす他者はみずからの意識が
生み出したものにほかならず、この他者を抹殺するには自らを抹殺する以外に
ない。

レムは、すでに米国SFのもつある種の冷戦の鏡としてのSFのプロットに自覚的
であって、『ソラリス』のモチーフは、こうした冷戦のポリティックスの文脈
では読みきれない他者を描こうとしたわけで、その点で他の作品よりもかなり
早い時期に書かれた作品でありながら、むしろ、自己と他者の闘争関係のステ
レオタイプを脱構築するもっとも大きな可能性を秘めた作品でもあった。

60年代のSFは、多くの場合、他者や未知の世界は、戦後の冷戦体制を反映した
設定となっており、またそのように解釈されてきた。しかし、むしろポスト冷
戦のなかで、とりわけインターネットの普及の中で、これらの物語は再解釈可
能な意味を持ち続けてきたと思う。

インターネットがその後急速に普及する中で、これら60 年代のSF が主題に据
えようとしコミュニケーションと権力と他者の問題は、宇宙船やら未知の惑星
などといったシチュエーションではなく、まさに、いまここにある地球のなか
で、しかも人間同士の間で再現されてしまったのである。

すでに、グローバルな経済のネットワークは、グローバルな情報通信のネット
ワークと不可分であり、多国籍企業も政府も国際機関も彼らの意思決定の前提
につねにコンピュータによって処理されたシミュレーションのデータや予測、
あるいは金融市場におけるプログラム取引のように、その大半をコンピュータ
に委ねるような構造を自ら作り上げ、自らがその支配者であると同時にそれに
支配されている。そして、グローバル化は、非西欧世界に接し、多様性や異文
化を資本の価値増殖の資源としながらしかし結局のところかれらが欲望するの
は、自らと同じ姿をもつ他者なのであった。インターネットはある種のHALで
あり、ある種のソラリスの海であり、また同時に、アンドロイドの地下通路で
もある。

初出:『文学史を読みかえる―大転換期』栗原幸夫編、インパクト出版会、2002