ナショナリズムの終焉へ向けて 『大東亜戦争肯定論」批判

ナショナリズムの終焉へ向けて
『大東亜戦争肯定論」批判

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はじめに

戦後五十年の間に繰り返し登場してきたさまざまな「大東亜戦争」(以下、わたしはアジア・太平洋戦争と呼ぶ)の肯定的評価の主要な論点は、中央公論誌上に発表され、一九六四年から六五年にかけて公刊された林房雄の『大東亜戦争肯定論』のなかに何らかの形で現れている。このいみで、「大東亜戦争」肯定派の作品で、本書を超える作品は現れていない。それは、文学者や批評家の場合ばかりでなく、歴史家や研究者でアジア・太平洋戦争を肯定する立場を取る者も含めてそう言うことができそうである。
たとえば、一九九四年秋以降、日本を守る国民会議などが運動の中心となって展開した地方議会における「戦没者追悼決議」の全国運動のなかで、彼らが主張した大東亜戦争=アジア植民地の解放戦争という戦争観は、本書で林が主張した論理を少しもこえるものではなかった。しかし、林の主張は、それだけ保守派の基本的な歴史観を代表するものとして根付いているともいえる。
林の『肯定論』は、必ずしも論理的に首尾一貫しているわけではない。史料の扱いに極めて恣意性が高く、問題が多いことも比較的容易に指摘できる。(この点は、後述する)しかし、こうした事実や論理による反論によって、『肯定論』を批判するのは、批判の方法としては必ずしも有効ではないかもしれない。なぜならば、本書に述べられている「大東亜戦争」観は論理以前的なところで 多くの「日本人」が潜在的に抱いている戦争への評価を言い当てている側面があるからだ。もし、『肯定論』を批判するとすれば、こうした感性的なレベルで本書と同等の歴史観が生み出すかもしれない「共感」のようなものを、私たちがどのような地平で批判できるか、ということにかかっている。林は、社会科学者でもなければ政治家でもなく、文学者として本書を書いたということの重要な意味はここにある。

『肯定論』の論点

林は『肯定論』の論拠として「東亜百年戦争」の最終局面として「大東亜戦争」を位置づけるから、狭義の意味での「太平洋戦争」「十五年戦争」だけをとりあげることではすまない。歴史の幅は、本居、平田学派の時期から戦後六〇年代までと極めて広い。しかも、この歴史の両端、国学の形成と、六〇年代の世界的なナショナリズムと日本の高度成長の時代は、むしろ本書の重要な問題意識の核をも形成している。『肯定論』は次のような基本的な観点によって組み立てられている。
・アジア・太平洋戦争は、江戸末期からの日本の近代化の過程全体と不可分である。
・日本の近代化は、欧米列強によるアジアの植民地化の圧力に対する防衛でもあった。
・日本の朝鮮併合や中国大陸、東南アジア侵略は、欧米諸国への対抗であり、アジア民族解放の契機を含んでいた。
・ナショナリズムは本来的に「牙」をもつものであり、国民国家の分立状態の中では、諸民族の対立とナショナリズムの高揚は避けられない。
こうした基本的な観点は、日本近代史についての次のようなマルクス主義的ないしは近代主義的な理解に対する批判を含んでいる。
・日本はアジアを侵略したのではなく、したがってレーニンの言う意味での帝国主義でもなかった。
・日本の近代化の過程で、帝国主義的な侵略的性質に「変質」したのではなく、日本の近代化の百年は首尾一貫している。
・日本の天皇制はファシズムではなく、民俗的な基盤を持つものである。
ここでマルクス主義とのかかわりで重要なのは、ナショナリズムの問題である。『肯定論』の議論を支える根本にあるのは、林のナショナリズムについての強固な信念であるが、このナショナリズムについては、マルクス主義の側も徹底した対立の構図を描ききれないでいた。このことが、実は重要な問題をはらんでいたのだということである。
林のナショナリズムへの心情は、本書の中で随所にみられるが、例えば「どの国のナショナリズムもこの非情の一面を持つ。民族的エゴイズムとナショナル・インタレスト(国家的利益)をぬいてはナショナリズムは成立しない。その故にナショナリズムはまず自国の富強と自主とを望み、やがて膨張主義となる」【注1】といった攻撃的な論調は、彼のナショナリズムの頑固な一面をよく示している。このナショナリズムの非情さやエゴイズム、自国の富強と膨張主義を積極的に肯定するところに現れている。従って、彼は征韓論も、朝鮮併合も日本のナショナリズムにとっては当然の主張であるとして受け入れる。

「〈征韓論〉発生以来、日本が朝鮮に牙と爪をのばそうとしはじめていたことは事実である。が、その狙った的は〈西洋列強〉であり、〈アジアの自主と解放〉であった。〈文明開化〉の名によって西洋路線に従おうとする流れもあったが、日本をひきずったのはナショナリズムそのものであった。ナショナリズムは、民族エゴイズムの強烈な発露である。その直接の対象とされた朝鮮にとっては迷惑至極なものに相違ない。だが、明治六年の〈征韓論〉は性急な出撃策として、〈内治派〉の恐れたのは、朝鮮民族の反撃のみではなかった。当時、朝鮮を属領視していた清帝国の実力とロシア帝国の南下政策、および間接にこの半島を狙っていた英、米、仏の圧力であった。」【注2】

ここに、林が本書で論じている東亜百年戦争における日本とアジアの関係についての林の基本的な立場がほぼ現れている。彼は、朝鮮併合の「現実」が決して朝鮮のナショナリズムにとっては許容しうるものではなかったことを率直に認め、ナショナリズムによる対立を認め、日本の国益を最優先にすることを当然のこととして認めている。「私は朝鮮併合を弁護する気はない。その必要も認めない。朝鮮併合が日本の利益のために行われ、それが朝鮮民族に大きな被害を与えたことは誰も否定できない。ただ私は朝鮮併合もまた〈日本の反撃〉としての〈東亜百年戦争〉の一環であったことを、くりかえし強調する。」【注3】
しかし他方で、次のような文脈では、「変質」を指摘する。

「満州国もまた〈日韓合邦〉が〈朝鮮併合〉に変質したように変質せざるを得なかった。敢えて私は言うが、これも〈東亜百年戦争〉の進展過程に起こったやむを得ない変質であった。戦争は政治の延長であり、政治の集中的表現である。政治の中にも戦争の中にも〈王道〉はあり得ない。〈覇道〉があるばかりだ。」【注4】

「東亜百年戦争」の首尾一貫性を主張するのが林の基調ではあるが、どうしても一貫性を維持しきれない部分がでてくる。とりわけそれは、理想とし彼が論ずる「日本のアジア解放」が事実においては、むしろアジア諸民族への抑圧や支配であったこと、その溝に自覚的にならざるを得ない局面になると、彼はこの「変質」と「覇道」を持ち出す。
この一見支離滅裂な主張は、次のような組み立てになっている。林の基本的な観点は、アジア諸国が次々と植民地化される帝国主義の時代にあって、日本の欧米列強による従属や植民地化を阻止することである。この課題は、日本が積極的に欧米列強に対抗して反撃することでなければならない。この反撃のなかで、日本が勝利するとすれば、それは同時に、日本という国家の理念の正統性を証明するものである。そして、この理念が欧米列強に優るものであるとすれば、それは、単に日本だけの理念ではなく、より普遍的な理念になりうる筈である。すなわち、日本の理念は、アジアに拡張することができるはずであり、それによって、植民地化からアジアを解放できるはずである。
こうして、日本の理念は、アジアの理念に、さらには世界の理念に拡張され、重ね合わせられてゆく。言い換えれば、これは、いち早く植民地化を免れ、近代化を実現し、欧米列強の仲間入りを果たした日本には、アジアにはない、欧米と対抗しさらにはそれを乗りこえうる「何か」があるに違いないという観念である。こうした観念は、近代化のなかで、繰り返し論じられ、現在に至るまで「日本人の優秀さ」を指摘するさいに顔をのぞかせる非常にポピュラーな自民族中心主義、排外主義的なナショナリズムの考え方である。
だから、『肯定論』への批判の照準はむしろ、こうした論理の中に見られる林のかたくななナショナリズムへの批判でなければならない。私には理屈の上でも感性的にも彼の激しいナショナルな感情を共有できないが、彼のナショナリズムは決して特別なものだとは思わない。とりわけ、欧米諸国に遅れて近代化の過程を歩み始めた諸国において、植民地化されたか否かにかかわらず、欧米諸国の脅威に晒されつづけた国々に生きる人々が、「国民」としてのアイデンティティを模索するなかで、様々な形を取りながら彼のような心性を抱くことはむしろありうることといっていいかもしれない。しかし、この林のナショナリズムにはごまかしがないのだろうか。林はどこかで自らの欺職を隠蔽してやしまいか。
日本の「東亜百年戦争」の歩みを林は更に、戦後の植民地解放闘争と.共通する理念を持ったものとして位置づける。例えば、東京オリンピックについて、林が次のように深い感慨を込めて述べている部分にそれは見いだせる。

「ここにひるがえった国旗は九十余、その三分の一近くは〈大東亜戦争〉後の新興国であり、これに中共、インドネシア、北ベトナム、北鮮の国旗を加えて考えれば、私の言いたいことは理解していただけるであろう。/これらの新興国のすべてを〈大東亜戦争〉の生んだ息子であるとは言わぬ。それは後進諸民族のおのずからなるナショナリズムの成果であり、ソ連共産主義の反植民地主義政策も大いにこれを助けたことであろう。ただ無用な自己卑下をすてて言えば、あの「民族の祭典」においておどろくべき増加を示した新国旗は帝国主義と植民地主義への弔旗であり、このことのために日本百年の苦闘が何物をも貢献しなかったとは、いやしくも歴史を読む者には言えないことだ。民族の分化と独立、その再綜合はさらにつづいてくりかえされるだろうが、この過程を通じてのみ、地球国家は徐々に形成されるのである。」【注5】

林にとって、戦後の植民地解放闘争も、合州国内部の黒人解放運動も、カストロのキューバも合衆国の「白い太平洋」の野望を打ち砕くという一点において、共感しうる運動とみなされている。たとえば、次のようだ。

「世界は激動している。アジアのほかにアフリカ諸国があり、中南米諸国の覚醒が始まっている。アメリカとソ連がそう簡単に手を握れるとは思えないし、また第三勢力をねらって中共を承認したドゴール・フランスの登場は世界情勢をさらにいっそう混乱させるにちがいない。アメリカ国内には黒人暴動が起こっているし、黒人の下層にはさらにプエルトリコ人がおり、そのすぐ隣にはカストロのキューバ島と中南米諸国がある。アメリカ全国民が再び「人喰い鬼」として世界の人類を食いつくすことを決意しないかぎり、今後の歴史はアメリカの注文どおりには動かないであろう。」【注6】

こうした林の問題意識をふまえたとき、日本のナショナリズムが西欧(この場合、北米やオーストラリアのような西欧の旧移住植民地地域を含めておく)の支配的な価値観や政治的経済的文化的な覇権に対して、非西欧の民族解放闘争とどこかで共有できるものがあるとみなす林の観点への批判が重要な意味を持つ。
林のナショナリズム論の骨格を形成しているのは、現実の日本の近代化がアジアに対してとった行動に基づいてはいない。先にも述べたようにその行動について、彼は弁解の余地のない過ちのあったことを認めている。しかし、その過ちを越えてなお、彼が肯定しようとしたのが、その理念である。この理念とは、直接的には東亜連盟の理念である。

「私自身は戦争中も現在も『東亜連盟論』の基本原則には賛成である。(略)『東亜連盟論』の中の不滅の要素は何であるか。それは世界の被圧迫民族の解放、植民地主義と帝国主義の終駕、人類せん滅兵器の出現による戦争の消滅と、世界の統一による平和の到来を説いた部分である。」【注7】

林は、東亜連盟の思想を日本の近代化のなかの諸思想が最後に到達した地点とみる。つまりその総括的な位置に置く。彼が「東亜百年戦争」の全体を貫く理念史を支えているとみなす思想家や政治家たちとは、江戸期の佐藤信淵、平田篤胤、藤田藤湖、佐久間象山、吉田松陰、江戸末期から明治にかけての西郷隆盛、福沢諭吉、板垣退助、中江兆民、樽井藤吉、大井憲太郎、頭山満、内田良平、宮崎滔天、徳冨蘇峰、岡倉天心、陸羯南、高山樗牛、与謝野鉄幹、二葉亭四迷らであり、そして「大東亜戦争」へとつらなる時期では、大川周明、北一輝、石原莞爾たちである。これらの近代日本の政治家や思想家が、果たして文字どおりの「世界の被圧迫民族の解放、植民地主義と帝国主義の終駕」を希求していたのかどうか。結論だけ言えば、侵略と解放の両義的な主張がいずれの場合にもみられ、この両義性が日本のナショナリズムとしてヌエ的に統合されていた。東亜連盟も含めて、文字どおりの被圧迫民族の解放の思想、植民地主義と帝国主義の終篤の思想などとはいいがたいものだった。

『肯定論」への当時の批判

『肯定論』が最初に『中央公論』に掲載された当時、相当な反響があった。そして、『中央公論』一九六五年七月号は、羽仁五郎の「『大東亜戦争肯定論』を批判する——すべての戦死者にささぐ」を掲載し、さらに九月号では特集「『大東亜戦争肯定論』批判」という大々的な特集を組んでいる。この特集では、井上清、星野芳郎、吉田満、小田実、細谷千博が批判の論文、エッセイを書き、川喜多二郎、武田泰淳、橋川文三、原田勝正が座談会を、また、伊藤隆、宇野俊一、鳥海靖、松沢哲成が共同執筆で文献サーベイの文章を寄せている。また、この年の一月号には会田雄次、加藤周一、堀田善衛、松村剛による座談会「ナショナリズムの日本的基盤」が掲載され、四月号では丸山静雄が「『大東亜共栄圏』の教訓」を執筆するなど、戦後三十年という節目ということもあり、また明治百年を目前にひかえ、日本近代の歴史的な節目における戦争の位置づけをめぐって徐々に議論が活発化し始めた時期だった。ベトナム戦争が本格化しはじめ、再び日本が戦争と直接の関わりを持ち始めた年でもあった。そしてまた、日韓条約の締結と高度成長による国内消費市場の成熟を背景として、対外的な経済進出(経済侵略)が本格化し、日本帝国主義の復活のメルクマールとなる年でもあった。
当時の『肯定論』批判はどのようなものだったのか。批判のスタンスは大きく三つにわけることができるだろう。一つは、羽仁五郎、井上清ら、マルクス主義歴史学者による批判、第二に、吉田満や星野芳郎らのみずからの体験に基づく批判、そして橋川文三らの思想史の文脈による批判である。(本稿では、紙数の関係から、第二の観点からの批判には言及しない)
羽仁や井上の基本的な批判のスタンスは、マルクス主義の人民史観を拒絶する林の『肯定論』に対して、そもそもその立脚点が異なるという立場からの批判である。マルクスの文字通りの階級闘争と土台—上部構造論から歴史を再構成することには様々な無理があるとはいえ、林が『肯定論』で歴史の原動力を、主として政治指導者、石原莞爾などの満州派の軍人イデオローグ、そして玄洋社などの民間右翼に求めるのに対して、明治維新であれ、自由民権運動であれ、歴史を動かす主体としての人民を対置することにはそれなりの意義はある。アジアの植民地解放も、日本による欧米列強との戦争によって解放されたのではなく、アジア人民の解放闘争、抗日運動によるという観点はないがしろにされるべきではない。
林の英雄史観では、『肯定論』に登場する英雄たちとかれらに体現されている理念が全てであって、無名の大衆が歴史の主体として登場することはない。林にはこうした大衆を描く方法がそもそもないのだ。この意味で、井上や羽仁の批判は有効であるが、しかし他方で、井上、羽仁らの人民史観は、あくまで支配階級と戦う正義を体現する人民が主体として想定されることになる。階級的にはブルジョアジーと対立するはずの日本の人民がなぜ植民地の領有から帝国主義戦争へと動員され、また翼賛的な体制を支えることになったのかについて、説得力のある議論を展開することはできていない。

史実による批判

伊藤隆ら若手の歴史学者による批判は、明治維新、日清・日露戦争、第一次世界大戦とナショナリズム、太平洋戦争に関して、林の主張を文献によりながら詳細に批判し、『肯定論』が「うっぷん晴しの性格を多分にもった著しく主情的な評論」だと批判している。この共同論文は、文献に基づく反論としては、現在でも有効なものだから、彼らによる史料批判のなかで、特に重要な点を紹介しておく。
(1)明治維新について。
林は「東亜百年戦争」史観によって、維新の指導者たちの開国・攘夷論を常に欧米列強に対抗するナショナリズムとして描いた。しかし、共同論文で著者らは、橋本左内にしても吉田松陰にしても、「欧米との協調の下に朝鮮・満州・中国を征服する方針」【注8】をとっていたと指摘している。また、「明治九年、黒田清隆が全権使節となって軍艦を率いて朝鮮を訪れ、日鮮修好条規の調印に圧力をかけたやり方は、アメリカ公使館から借り受けたペリーの復命書によって、二十余年前、彼が日本に対しておこなった砲艦外交をそのまま真似たもの」であり、欧米列強の武力による侵略という林の主張は、そのまま日本とアジアの関係にもあてはまることも指摘している。
したがって、「東亜百年戦争」は、日本が戦っただけではなく、他のアジア諸国もまた戦った。たとえば、太平天国の乱は、「民族的抵抗のあらわれ」であり、「かれらの百年戦争は、やがて単に欧米に対してばかりではなく、日本の「侵略」に対する「反撃」戦争ともなり、日本の敗北によって一応民族の独立を達成しえた」【注9】のだ。
(2)日清戦争から日露戦争
林は、日清戦争を日本の防衛戦争であり、「聖戦」と位置づけている。「聖戦」観は、首相山形有朋が朝鮮を日本の「生命線」と把握するなど、「当時一般的に存在していた考え方」である。戦争を侵略や不正義の行為であると自己規定して、軍や国民を動員する国家はありえない。どのような場合であれ、犠牲をともなう戦争の正当化は、防衛のやむをえざる戦いであり、「敵」の不正義をあげつらうことは常套である。従って、林の定義をうけいれてしまうと、「恐らく世に〈防衛戦争〉あるいは〈聖戦〉ならざる戦争は存在しなかった」【注10】ことになる。
では、個々の戦争は、どのような意味で「聖戦」などとはいえないものであったのか。日清戦争は、不平等条約から解放された日本が、「列強と同じ資格を獲得するための戦争」だった。それは、福沢が「脱亜論」で「西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するのも隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ」とした立場に鮮明に表れている。従って、遼東半島割譲という講和条約も、帝国主義列強の対立の構図の中では、当然ロシア、ドイツ、フランスの干渉を招く国際環境にあった。
林は、日本が「アジアの自主と解放」のために戦ったというが、義和団の乱(一九〇〇年)では、「日本は列国とともに出兵し、連合軍の半ばに達する兵力を提供した。この乱は、諸列強による中国分割競争の激化に触発されておこった中国民衆の抵抗であったが、わが国はこのアジア民衆の昂揚を鎮圧するために最も大きな役割を果たしたのである」【注11】日本が西欧列強と手を組んだのはこれに限らない。一九〇二年の日英同盟もそのひとつである。
日露戦争についても、「少なくとも日本が朝鮮あるいは満州を支配しようとする戦争」だった。また、朝鮮併合についても、日本主導の併合に反対した黒竜会の内田良平を高く評価している点についても、共同論文では「黒竜会の内田や杉山茂丸らが、山県・桂らと密接な連絡をとりながら、朝鮮合併策を実現したことは彼らの山県宛書翰によって明らかである」【注12】と反論している。また、ロシアとの関係では、一九〇七年に日露協商を締結し、「満蒙地域を両国で独占的に分割するという基本方針を協定」し、ロシアという敵からの防衛としての「満蒙」が存在していたのではなく、逆に、ロシアとのパワーポリティクスのなかで、「満蒙」の植民地としての分割が常に日本の最終的な目標であった。ロシアが敵になるのは、この「満蒙」の植民地化に対する脅威であるからにほかならなかった。こうして「日清戦争から朝鮮併合に至るまでの日本の役割は、欧米諸列強の抑圧から「アジアの自主と解放」を実現することにあったのではなく、欧米諸列強とともに「アジアの抑圧」を行ったのであるという事実は何としても否定することはできない」【注13】。
(3)第一次世界大戦とナショナリズム
共同論文は、林の「東亜百年戦争」論に大正期の記述がみられないことを指摘している。この時期日本は、第一次大戦参戦、シベリア出兵、中国への二十一箇条要求があり、中国では五・四運動、朝鮮では三・一運動、台湾ではやや遅れて霧社事件が起きている。むしろこうしたアジア民衆の闘争こそがアジアの反植民地闘争であって、「アジアの反撃」といえるものだった。問題は、「こうした新しいナショナリズム=「アジアの反撃」を、日本のナショナリストがどう認識したか、は極めて重大な問題」であるにもかかわらず、北一輝や大川周明に言及する際にも林はこうした観点に触れていない。林は、北の屈折したナショナリズム、中国の反日ナショナリズムを了解しながらも、「究極のところ中国ナショナリズムとの対決を是認するに至るプロセス」【注14】を明らかにしていないと指摘している。
(4)太平洋戦争
とくに、満州事変と石原莞爾の「最終戦争論」、そして東亜連盟論に対する林の評価が太平洋戦争期では鍵を握ることになる。張作森の爆殺以後、「奉天政権は中央政府の構造的一部とされるに至り、満州事変直前において、中国にとって満州問題は今やまさに中国全土の問題になりつつあった。」【注15】これに対して、日本にとって満州は、ポーツマス条約や二十一ケ条要求、そして日清・日露戦争によって獲得された当然の権益とみなす国民感情をその内容とする「特殊権益」であるとみなされた。満州事変は、この対立のなかで生じたものだ。また、石原は、林の「理想主義者」という評価とは逆にむしろ「冷静な戦争哲学をあくまでも持したリアリスト」であるとして、共同論文では、満州についての石原の評価を次のようなものであったと指摘している。

「彼[石原莞爾]は満蒙問題については、九・一八事件[関東軍による柳条溝の満鉄線路爆破、満州事変の勃発]前後においてこれが領有論を持し、朝鮮等と同様な総督政治を考えていたのであり、その石原構想にリードされて事変が惹起されたのだから、そもそもの最初から〈王道楽土主義〉による〈満州国〉建設コースが考えられていたとする林氏の考えは全く倒錯しており、読者を誤らしめるものでなければこれを混乱せしめようとするもの、と言わねばならない。」【注16】

東亜連盟論も、中国における抗日運動の展開に対応して出された理念であり、林はこの点でも「時間的順序を無視してその前後を逆転」したものだ。日米開戦についても、三国同盟との関わりを無視した林の議論の無理を衝いている。ドイツが一九四〇年五月に西部戦線で大勝利を収めた時期に、日本国内では、これに呼応するように南進論が一気に拡がった。当時の陸軍の資料でも、「南方発展ノ為、対外的ニハ独伊等新興国家群トノ政治的結束ヲ強化」【注17】すべきことを主張していたのであり、著者らは「かくて,欧米列強の一部と提携してアジアを侵略するという明治維新以来のコースが、ここでも採用された」【注18】と指摘する。
当時、まだ若手の歴史家であった伊藤隆らの詳細な批判は、以上のように現在でも十分その反論としての基本的な観点として有効である。ただし、彼らの批判には二つの問題がある。一つは、彼らの批判のなかで、天皇の位置づけ、その戦争責任に関わる問題に触れられていないということである。「文献に基づく批判」という制約があるため、まだ昭和天皇関係の資料も現在ほどは公表されていなかったから、無理からぬところもあったにとは思うが、この点の欠落は、少なくとも現在の時点では落とすことができない。第二の問題としては、文献批判の限界の問題である。事実誤認の指摘によって林の主張を切り崩すことは、一面では極めて有効で決定的な場合もあるが(たとえば、欧米列強との提携の事実など)、他方では、そうした事実によっては、林の主張の根幹をなしている信念としてのナショナリズムは揺るがないという問題がある。事実関係がどのようであったのかということとは相対的に区別されて、当事者としての歴史や事実の実感にどのようにきりこむことができるか、という問題である。つまり、なぜ林は、欧米列強によるアジアの植民地化とそれに対抗し、アジアを解放する理念を戴いた日本のアジア解放戦争という姿で、当時の日本をとらえたのか、そしてまた現在に至るまで、こうした観点から戦前の日本帝国主義を評価しようとする極めて根深い傾向が見られるのは何故なのか、という問題である。これは、イデオロギーとしてのナショナリズムの問題であり、事実や文献資料によっては覆せない問題である。
当時の林への批判は、強制連行事件や「従軍慰安婦」問題、捕虜の虐待、虐殺あるいはより日常生活のレベルで行使されてきた植民地支配、軍政下での抑圧や弾圧、日本人による偏見と差別といった問題全体に、よりたちいって明らかにすべきであるといった指向性はそれほど強くは感じられない。また、歴史学による批判でも、マルクス主義の人民史観や自らの戦争体験という強固なバックボーンへの確信によって、林のようにファナティックな右翼思想は容易に駆逐できるにちがいない、という自信が批判する側にはあるように見える。繰り返し「平和憲法」の風化が指摘されながらも、戦後の「平和教育」と「民主主義」に対する信頼がまだ存在していたように見える。
一九九五年の現在から見た場合、事態はある種のねじれ現象を示している。日本の戦争責任や戦後補償問題は、当時よりもよりたちいった議論がなされるようになっている。強制連行や「従軍慰安婦」問題は六〇年代当時は、マスメディアが注目したり、政府が対応に追われる課題にはなっておらず、わずかの人々が関心をよせる課題だった(日本共産党も当時は、日本の加害責任には積極的ではなかったはずだ)。この意味で、事態は大きく進展したといえる。しかし他方で、林の『肯定論』の論調は、むしろ様々な意匠をこらして、拡散し、大衆的な意識のなかに根強く再生産されつづけてきた。『中央公論』はもはやマルクス主義知識人を登場させることはなく、論壇ジャーナリズムからいわゆる左翼知識人はほとんど姿を消した。この意味では、人民史観とマルクス主義は大幅な後退を経験した。また、伊藤隆のように、その後の歴史家としての仕事は、むしろ戦前期の日本に対する見方をマルクス主義による歴史観から「解放」し、アカデミズムの側から——つまり、実証的に——日本の「帝国主義」や天皇制の役割についての肯定的な評価を下す道をとる研究者も登場してきている。【注19】

天皇と「東亜百年戦争」の観点

林は、意図してかどうかわからないが、昭和天皇が、林のいう「東亜百年戦争」あるいは「大東亜戦争」において、どのような位置をしめるのかという点について、全く言及していない。
天皇制は、林が首尾一貫しているとみなす「東亜百年戦争」の時代に同時に企図され、形成されてきたものである。明治期の近代国家形成に大久保利通や伊藤博文が大きな影響力をもったことはよく知られている。大久保は、近代国家創出に際して、君主の独裁制、「君民共治」の立憲君主制、そして共和制という三つの選択肢を示し、それらを逐次検討する中から、日本の近代国家としての政体を立憲君主制として設計した。大久保は、三つの選択肢のうち「君民共治」に近いシステムを構想するが、「民」にはナショナリズムの意識が希薄であり、「君」としての天皇もまた長期にわたって政治的には無力であった。従って、天皇の権威を構築すること、言い換えれば大衆的な下からの権威の正統化を図ることが明治初期の重要な課題となった。明治維新期に尊皇嬢夷が主張されたといってもそれはごく限られた階層に関することだった。佐藤誠三郎は次のように述べている。

「政治的にアクティヴな狭い範囲の〈志士〉階層に対してのみであり、未だナショナルな視野を持ちえない民衆のレヴェルでは〈朝廷あるを知らざる強情の人質〉(略)が支配的であった。〈今日名分を以て少し有志の者は朝廷に尽くす事は当然と相心得可く候へども、未だ一般にはその通りに参りかね候場合之有り〉(略)しかも新政府の実質的中核をなしていた大久保等藩士出身朝臣でさえ、「雲上人」たる公卿層にさえぎられて、天皇と直結することが容易にできなかったのである。したがってかかる「上下隔絶」を打破し、天皇を藩士出身朝臣および民衆の双方に開放することが、天皇の権威を政治的資産として利用する前提条件であった。」【注20】
佐藤は、東京への遷都と地方巡幸は、「宮廷改革を断行するとともに民衆を「皇化」しようという意図によるもの」であり、また、天皇による閲兵式は封建的な領主に対する忠誠にかえて、近代国家の象徴的な権威への忠誠を確立するための政治的なイベントであったことを指摘している。T・フジタニも指摘しているように、近代国家は、同じ生活空間を共有している共同体的な人間関係を越えて、「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)を構築しなければならなかった。【注21】これもまた西欧列強の動向を敏感に反映したものであった。首都の権威的な外観の計画的な建設や王室儀礼、万国博覧会の開催などが西欧諸国で一九世紀後半以降、活発になり、「伝統」が人工的に作り出されることになった。そうした西欧諸国の状況に重なる時期が日本の明治維新だった。封建的な政治権力が崩壊し、中央政府の権力基盤が確立するに至っていない明治初期の東京は、とうてい近代国家の権威を象徴できる都市とはなりえなかった。フジタニは、だからこそ天皇が必要であったのだと指摘している。明治初期の近代国家形成において、天皇はこうした権力のシステムの要請のなかで作り出された人工的な支配装置だった。明治維新期に限らず支配層には、「万世一系」の天皇を絶対視する立場はみられない。むしろ、大衆の政治意識や国家意識などをも勘案する支配者の冷徹な計算がみられる。
明治期の新たな国家体制の基盤が確立するにつれて、天皇主義イデオロギーの強化がはかられてくる。学校教育への国家介入の経過はこの過程の非常にみやすい例である。一八八六年(明治一九年)に教科書検定条例が公布、一八八八年に紀元節歌を学校唱歌とし、一八九〇年に教育勅語が全国の学校に配布される。明治中後期のこのイデオロギー装置の整備とその浸透は、大正期に一時足踏みする格好になる。これは、大正天皇が意志決定能力をもちえなかったことと全く無関係とはいえないだろう。しかし、逆に天皇の「聖」性を保護するより巧妙な防護システムが形成されるのもこの時期である。
往々にして、天皇と右翼は、一心同体であって、両者を区別することにはさほど大きな意味はないとみなされがちである。とりわけ左翼は、この点の評価が甘くなることがある。しかし、むしろ天皇制がイデオロギー的に右翼の国粋主義や排他的なナショナリズムにのみその基盤を持っているのであるとすれば、天皇制が近代国家の支配的なシステムとなることはできなかっただろう。天皇制が当時果たした機能は、なによりも国民的な動員の基盤であり、グラムシがへゲモニーと呼んだ機能に最も近いものである。この点から、昭和天皇の昭和維新派の軍人や右翼らへの関わりをみたとき、明らかに、両者の間には状況認識のずれがある。
昭和天皇がとった態度が、軍部革新派とはズレがあることはいくつかの事実のなかで明らかになっている。たとえば、田中義一内閣のもとで起きた張作森爆殺事件について、真相究明と軍法会議に犯人をかけることがいったん決定され、天皇にも上奏されながら、陸軍の強硬な反対にあって軽微な行政処分だけになったとき、天皇はこのことを厳しく叱責し、それがきっかけで田中内閣が崩壊する。また、二・二六の皇道派将校のクーデタに対して天皇が「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺裁ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等」となじり、彼らを鎮圧できないのなら「朕自ラ近衛師団ヲ率イ、此ガ鎮定二当ラン」と述べたこともよく知られている。一九四一年秋の日米開戦が決定される経緯の中で、天皇は開戦には必ずしも賛成ではなかったといわれている。たとえば、同年九月六日の御前会議について、藤村道生は次のように述べている。

「六日の御前会議でも、原枢密院議長が外交交渉を主とするべきであると主張した。これに対し、海軍大臣だけが答弁して、統帥府が答えなかったため、天皇は慣例を破って、〈唯今の原の質問はもっともである。統帥府は何故答えぬか〉と声を励まして問うたうえ、懐中から 西方の海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ〉という明治天皇の御製を読み上げ、〈余は恒にこの御製を拝講して故大帝の平和愛好の御精神を紹述しようと努めているものである〉と付言した。」【注22】

昭和天皇のこうした立場は、戦後の「平和主義」的な天皇神話の形成と、戦争責任は、軍部の独走にあり、天皇には必ずしも正確な情報が伝わっていなかったとする言い訳の根拠として利用されることになった。たしかに、昭和天皇のスタンスは、徹底した膨張主義ではないし、冒険主義でもない。その点で、革新派将校や大陸浪人、民間右翼のスタンスとははっきり一線を画すことができる。しかし、昭和天皇は非戦論者ではない。いやむしろ、自らに責任が及ばないということを見極めた上で、戦争への態度を決定するというきわめて狡猾な「主戦論」者といえるかもしれないのだ。
通説では、昭和天皇は結果的には当時の軍部の動きを理解した上で追認した、とみられることが多いようだ。しかし、昭和天皇は決してこうした受け身の姿勢ではなかったことが徐々に明らかにされてきている。従来の天皇の政治との関わりに関しては、天皇を専制君主的に捉えるか、逆に天皇機関説的に捉え、天皇個人の意志が政治には関わらないとみるかのいずれかであったが、最近の吉田裕や中園裕らの研究では、天皇個人とその側近が政治の意思決定過程に具体的にどのように関与したのかについて、より立ち入った研究がなされるようになっている。
明治憲法では、天皇は補弼者を必要とし、補弼機関の一致のもとでの天皇の裁可によって政治的意思決定が行われる。大正天皇から昭和天皇への皇位継承にあたって、天皇の政治的な機能は大きく変化した。大正天皇には、意志決定の責任能力がなかったことはよく知られている。したがって、天皇を補弼する制度がむしろ前面に出て、天皇個人の裁可はある種の象徴的な儀礼とならざるをえなかった。天皇個人の意志がストレートに政治と結びつきようがなかったからであるとともに、天皇に責任が及ばず、しかも「聖意」の政治的正統性を保障できる制度が必要だった。これに対して、昭和天皇は、この大正天皇体制を徐々に修正し、政治への積極的な関与が可能なシステムを形成しようとした。
昭和天皇は積極的に大権保持者としての政治への関与を試みるとともに、天皇制は、単なる「機関」以上の機能を持ち始めることになる。たとえば、粟屋憲太郎は、昭和初期について、次のように述べている。

「昭和天皇は、天皇機関説的な「立憲君主」の域にとどまらず、大権保持者として自己の意思を国政に反映させることに執着した。この天皇の姿勢を宮中側近は基本的に支持した。ここに西園寺との齟齬が生じる原因があった。ともかく宮中の奥深く、即位とともに昭和天皇は政治的に活性化、能動化し、天皇制国家の中枢で、宮中側近の支援をえながら「政治的君主」の道を歩みはじめたのである。これ以降、天皇の政治的言動を無視しては、政治史は把握できない。天皇・側近は、天皇制国家の主要な政治主体として定置されたのである。」【注23】

張作森爆殺事件についても、昭和天皇は事件そのものに不満を表明したものの結局は軽微な処分ですませたこと、若槻内閣に対して、一九三一年の満州事変の不拡大方針を指示したにもかかわらず、朝鮮軍の満州への越境進軍を容認し、関東軍による錦州爆撃についても「当然ノコトナラン」「関東軍目下ノ兵力ハ少ナクハナイカ」などと下問するなど、むしろ膨張主義に加担する言動もみられる。関東軍に対する勅語でも、「満州事変を自衛のためのものとし、『果断神速』の関東軍の行動を全面的に賞賛したものだった」【注24】 と粟屋は指摘している。中園は、田中義一内閣期をとりあげて、「昭和天皇が〈聖意〉の政局反映と大権保持者としての存在を志向」していたことを詳細に跡づけている。【注25】中園はいくつかの興味深い論点を提示している。一つは、天皇が現実の政治過程に介入するような発言をすればするほど、現実の政治にたいする責任をも問われざるを得ない立場に追い込まれ、これは明治憲法が「神聖不可侵」と規定した天皇の立場とは場合によっては抵触してしまう。天皇機関説はこの不可侵性を保持するためには有効なのだが、それは「聖意」を政局に反映させようとする昭和天皇の意向とは対立することになる。中園は、「昭和天皇の志向と立憲制の維持を両立させるためには、補弼者が全責任をもって〈聖意〉の実践を成し遂げる必要があった」と指摘する。宮中側近は、田中内閣にこうした意味での全責任を担った補弼者の立場を要求したのだが、逆に、田中内閣は元老の全面的な支援を得ていると新聞記者に述べるなど、責任が元老に転嫁されかねない言動をしたため、宮中側近は、「元老への責任転嫁が天皇へのそれに繋がる恐れがある」ことを危倶したと言われている。昭和天皇は、議会情報を宮中側近から詳しく入手し、「情報収集力は相当なもの」とみられている。こうした情報をもとに天皇は下問し、天皇の意向を汲みながらも、その全ての責任を天皇にではなく自らの全責任において遂行し、その責任が天皇に及ばないというシステムが、田中内閣期の天皇とその側近の内閣との主導権争いの果てに成立した。
中園は、ここから「宮中秘密主義」という興味深い論点を導き出している。天皇の言葉が不用意に外部にもれないよう、徹底した情報管理が行われるようになる。これは、「国体問題が政府のみならず野党などに、常に政争の原因として格好の材料とされてきたことを防ぐため」つまり「天皇不可侵を貫くため」だった。こうしたシステムによって昭和天皇の「聖意」の現実政治への反映の回路が政治システムとして組み込まれたのである。中園は、次のように述べている。

「天皇は自らが大権保持者であることに自覚と責任を有し、必要とあれば〈聖意〉を積極的に政局へ反映させるべく努めていたということができよう。また人事、議会運営、内政、外交のあらゆる問題に関心を持ち、各補弼機関からの情報を収集して常に政治情勢を監視していたことから、天皇は補弼者に政治の全てを委任してそれに黙従する〈機関説〉的な立憲君主ではなく、側近(特に「宮中側近」)を中心に下問、奉答を繰り返しながら、政局を〈聖意〉に則る方向に向けさせるよう努めていた君主だ。(略)側近の方は基本的には天皇の意向を支持する態度を取っていた。しかし彼らは天皇に盲従していたわけではなく、政治的状況如何で〈聖意〉の発揚を促進及び抑制・制止して〈聖意〉の調節を行っていた。そしてその中心的役割を担ったのが〈宮中側近〉であり、彼らは内大臣を中心に常に合議体制を敷いて事態に対処し、必要時や大事には彼らの合意の上に更に元老の指示と協力を仰いで、元老との合意の下に事を処理していたのだった。」【注26】

この聖意のシステムと立憲政治のシステムが特殊な近代天皇制の構造を作りだした。田中内閣の崩壊を決定した「聖断」や「終戦」の「聖断」は、現実の日本の政治に対して具体的で明瞭な影響力を行使しながらも、それが天皇の正統性と不可侵性を維持しその政治的責任を回避できたのはこのシステムによる。
言うまでもなくこうした天皇制を支えたシステムの構造が「臣民」とか「国民」とよばれた大衆にとって自覚される透明なものであっては意味をなさない。大衆から見える部分は、全ての現実的な政策上の責任をとり、政治的な利害対立のなかで権力抗争を繰り返す政治家や軍部の姿であり、天皇は、「不可侵」のベールによってこうした現世的な利害から超越した位置にあるかのような外観が装われたのである。現実の政治システムのバックグラウンドで作動する天皇の機能は、「聖性」と「世俗性」を両立させるために、明治以降の近代国家形成の中で人工的に考案されたものだった。
この沈黙の統治システムが危機に瀕したことが一度だけある。それは、アジア太平洋戦争の敗戦によって、連合国から戦争責任が問われる可能性が出てきたときである。一九四六年一月一九日に、連合国最高司令官は「極東国際軍事裁判所の設置に関する命令」を出す。極東裁判は、同年五月に開始される。これに対して日本側は、既に敗戦直後から.「自主裁判構想」を打ち出し、陸軍軍法会議で「戦犯」の処罰を行おうと画策した。「民心ヲ安定シ国家秩序維持二必要ナル国民道義ヲ自主的二確立スルコトヲ目的トスル緊急勅令案」がこれである。この「勅令案」の第一条には次のようにある。

「本令ハ民心ヲ安定シ国家秩序維持二必要ナル国民道義ヲ自主的二確立ス為国体ノ順逆ヲ紊リテ天皇の輔翼ヲ謬り、ソノ大平和精神二髄順セズシテ主戦的、侵略的軍国主義ヲ以テ政治行政及ビ国民ノ風潮ヲ指導シ、又ハ指導ヲ輔ケ、因リテ明治天皇ノ勅諭二背キテ、軍閥政治ヲ招来シ、朋党比周以テ之二与ミシ情ヲ識リテ之ヲ助長支援シ、以テ満州事変、支那事変、又ハ大東亜戦争ヲ挑発誘導シ、内外諸国民ノ生命財産ヲ破壊シ、且国体ヲ危殆二陥ラシメタル者、施設又ハ社会組織二付、之ヲ処断し除却シ、又ハ解消セシムルコトヲ以テ目的トス。」【注27】

この罪状に該当する者は、「反逆罪」として最高で死刑までが課せられるとしている。これは、幣原内閣期に考案されたものとみられているが、このなりふりかまわぬ「国体護持」の弁明は、天皇制の残酷さをむしろ如実に示している。東京裁判史観批判が保守派から繰り返し出されるが、むしろ、それ以上に保守派はこうした自己保身にしか関心のない「国体」そのものを批判すべきであろう。
この緊急勅令が正統性を持つためには、その前提として、昭和天皇が「大平和精神」の持ち主であり、満州事変以降の「侵略的軍国主義」を明確に否定しようとしていたことを具体的に示しておく必要がある。それがいわゆる昭和天皇の「独白録」である。この記録が取られた時期が一九四六年三月であるということは、昭和天皇の「独白録」が天皇への戦争責任の追及を免れるための証拠づくりという意図を持って、一定のシナリオに即して残されたものではないのかという疑いを抱かせるものだ。この「独白録」は、戦犯訴追という未曾有の事態に対応するために、宮中秘密主義の原則を犬きく逸脱した希有な例といえるかもしれないのだ。【注28】事実、四六年一月二二日にロンドンの連合国戦争犯罪委員会にオーストラリア代表が提出した戦犯リストには、昭和天皇もリストアップされており、中国、ソ連も天皇の訴追の方針を維持していた。【注29】この意味で、「独白録」は、文字どおりには理解できない。しかし、この天皇制の危機のなかで、「平和主義」の天皇像が創作されてくるわけであり、一九四六年という時点における天皇と側近による言説として、この「独白録」は史料としてと言う以上に社会学的心理学的分析対象として興味深い。
この「独白録」は、何を意味しているのだろうか。林の議論との関わりで言えば、もし、「独白録」にあるような存在が天皇の戦争への関与であったとすれば、そこには「アジアの解放」の理念もなければ「欧米帝国主義打倒」の精神もない。ただあるのは、戦争というゲームをいかにして勝つかだけに熱中している理念のかけらすらないパワー・ボリティシャンの姿だけだ、ということである。そして、もし、この記録が一定の情報操作のための昭和天皇による「芝居」であるとすれば、そうまでしてみずからの責任を回避しようとする天皇とその制度を「国体」と仰ぐ「日本」には正義などありようがない、ということである。いずれにせよ、この「独白録」は、林がありもしない幻影に一方的に片思いしていたという非情な現実を暴露することになっている。
昭和天皇は、文字どおりの独裁的な君主であったわけでもなければ単なる「機関」として、内閣や軍部の方針を無条件に受け入れ、形式的な裁可を与える存在でもなかった。天皇という制度は、さまざまな政治的軍事的な利害を調整するへゲモニー権力だった。昭和天皇は、大衆的な合意が得られる状況を自ら作り出してきたナチス・ドイシやイタリアのファシズムとは異なる。このことは、事変の不拡大方針を支持するかと思えば、逆に積極的に関東軍の行動を賞賛してみせたりするなど、満州事変期の昭和天皇の混乱した判断によく示されている。彼は、議会や内閣の力関係、軍部の動向、世論などを勘案しながら、大衆的な合意がどのようなベクトルで成り立つのかを慎重に見極めるという一歩引いたところに位置しつつ意志決定に明確な影響力を行使していたのである。そして、敗戦という状況は、彼が考慮すべき補弼機関として、新たに占領軍司令部が加わったにすぎない。

日本帝国主義の「理念」と実態

林は、帝国主義としての日本を一貫して否定する。「この百年間に、台湾と朝鮮半島とカラフトの南半と南洋の粟粒島のおこぼれを領有したからといって、どこが帝国主義であるか」【注30】と彼はいう。彼にとって帝国主義とはつぎのようなことを指す。

「歴史上の帝国主義とは、東洋では大唐帝国、ジンギスカンの大元帝国、大征服者乾隆皇帝の大清帝国、西洋ではシーザーとオーガスタス皇帝の大ローマ帝国、短命なナポレオンの帝国、ロマノフのロシア帝国、太陽の没することなき大英帝国、スターリン・フルシチョフの共産帝国など」であって、日本には「帝国主義国家の名に価する資格を持ち得たことはざんねんながら一度もない。」【注31】

これは、常識的な歴史上の「帝国」を取り出して「帝国主義」と名付け、恣意的に日本をそこから排除したにすぎない。林なりに真正面から「東亜百年戦争」の意義を論じようとする場合の姿勢とくらべて、彼の「日本=帝国主義」論批判はあまりにも杜撰であり、まったく魅力に欠ける。
ここでは、林の議論の筋道とはやや離れるかもしれないが、「東亜百年戦争」の時代を私達がどのようにみたらよいのかについて、「帝国主義」論の観点から整理してみたい。
林の『肯定論』では、戦前の日本資本主義の経済的な側面については、ほとんど言及がない。しかし、帝国主義としての日本という問題は、資本主義としての日本がどのような状況にあったのかという問題抜きに語れない。また、経済システムという側面から日本のアジア侵略を見た場合、林が『肯定論』で論じているような「アジアの解放」といった側面はほとんど見いだせないことがわかる。
たとえば、「満州国」の建国や日本の「満蒙特殊権益」論について、林は東亜連盟の理念があたかも現実そのものであるかのように論じている場合が多い。特に林は、東亜連盟について、つぎのような『昭和維新論』からの引用によって、その理念を高く評価し、「満州国」もまたそうした理想の実現をめざし、志半ばに挫折し「変質」したとみている。

「日本は断じて領土的野心を持つべきでなく、独立せる諸国家の連盟加入も一にこの自発的意志によるべきである。東亜連盟の指導原理は王道主義であり、東亜諸国の道義的団結である。(略)日本の天皇が東亜連盟の盟主として仰がるるときは、即ち東亜連盟の基礎確立せる日である。しかし、東亜諸民族がこの信仰に到達すべき自然の心境を撹乱しているのは、日本民族の不当なる優越感であることを猛省し、速やかにこの大不忠の行為を改めねばならぬ。天皇の連盟の天皇と仰るるに至っても、日本国が盟主なりと自称することは固く慎まねばならない。」【注32】

林にせよ東亜連盟にせよ、天皇を仰ぐことをアジアの人々に強制しながら、盟主になることを慎むなどということが、成り立ちようがないことであるということを真剣には考えていない。これは、「日本人」向けのプロパガンダであり、決してアジアの人々を納得させる論理ではない。
林は、青年連盟や東亜連盟に「満州国」建国における「五族協和」の理想を信じた人達がいたが、逆に「満州国」の日系軍人はむしろ「五族協和」には否定的で「掃討と弾圧あるみ」といった態度をとったと指摘している。こうして、「満州国もまた〈日韓合邦〉が〈朝鮮併合〉に変質したように変質せざるを得なかった」「これも〈東亜百年戦争〉の進展過程に起こったやむを得ない変質であった」と言う。こうして、林は、「戦争は政治の延長であり、政治の集中的表現である。政治の中にも戦争の中にも〈王道〉はあり得ない。〈覇道〉があるばかりだ」【注33】と居直ってしまう。もし、政治であれ、戦争であれ「王道」なるものが成り立ちようがないのであるならば、「王道」を主張することは無意味というしかないだろう。
では、そもそも東亜連盟や青年連盟に、林が言うような理念があったのだろうか。たしかに林が言うように、東亜連盟の提唱者、石原莞爾は「民族を超えての同志感に燃ゆるに至らねばならない」と述べ、「昭和維新」は「満州建国以来十カ年の間に、単に日本人のみならず、中国人・朝鮮人等、東亜の諸民族の共同生活の体験の上に造られたものであります」【注34】と述べている。ここには、日本民族の優位の主張はなにひとつない。しかし、東亜連盟の「道義政治」の主張、西欧の「覇道」に対してアジアの「王道」を主張するとき、そこには、天皇抜きには成り立たない理念が確固として存在していた。石原は次のように述べる。

「東亜の諸民族が東亜連盟運動即ち王道連盟の本業を正しく把握したならば、天皇を連盟の盟主と仰ぎ奉ること余りにも自然であると信ずる。此事は今日日本人として声を大にして主張することは慎むべきだと考へながら、此根本問題に対する吾人の信念を東亜の同志に隠すこと、亦良心の許さぬ所であるから、敢えて之を発表するのである。/天皇が東亜連盟の盟主と仰がるるに至っても、日本国は盟主ではない。」【注35】

石原が構想したのは、国家連合の盟主としての天皇であって、日本国は覇権を唱えるべきではないというのだ。当然の事ながら、アジアからは、なぜ天皇を盟主としなければならないのかについての理解は得らなかった。事実、石原は、「我々は陛下の御稜威のもとに共同一致して、八紘一宇のわが肇国の精神を少なくとも現在の段階においては東亜の諸民族に充分徹底させなければならないのであります。この事がなかなか解らないのであります」【注36】とその理念の浸透しないことを嘆いている。こうした嘆きは、他方で、「日本は道義東亜の再建、東亜諸民族の大同団結は道義に基づかんとするものであるが、これを阻害するものには、その東亜外と、東亜内とにかかわらず、その反省を促すために実力の行使をも躊躇するものではない」【注37】という発想に容易に結びついていった。これとは逆に、国内的には、東亜連盟は「王道主義」とは言っても「皇道主義]とは言わないではないかとか、国際連盟とどこが違うのか、西欧流の民主主義ではないかといった批判が皇道派から出される。これに対しては、結局の所、日本の覇権を主張する論理によって自己防衛を図っていった。こうして、東亜連盟は、その理念的な部分を見ても、決して文字通りのアジア主義などではありえない。結局東亜連盟とは、「東亜」を「日本」に還元する論理以上のものを生み出すことはできなかった。だから、それは松沢哲成が指摘しているように、「客観的にはデマゴギー」でしかなかったし、「理論的・思想的に一致協同あるいは提携すべき理由や条件などが確固として述べ切れなかったので、実践的な積み重ねといったもので埋め合わせようとした」【注38】 といった域を出ることはできなかった。もちろん、そのつまずきの石は、天皇に体現された日本のナショナリズムであることは言うまでもないことである。
林が、東亜連盟とともに、アジア解放の理念を掲げたと指摘している満州青年連盟も同様である。青年連盟にはより明確な経済的な利害についての主張がある。満州青年連盟は、その規約によれば「満蒙ニ於ケル邦人青年ノ大同団結ヲ図リ満蒙諸問題ヲ研究シ民族的発展ヲ期スルヲ以テ目的トス」(第二条)とあるように、日本人の利害のみを代表する団体であることを明確にしていた。青年連盟が発行した『満蒙・問題と其真相』(一九三一年)では、満州の日本にとっての実利的意味がよりはっきりと論じられている。

「満州青年連盟は全日本国民に愬へる」で始まる「主文」の冒頭には、次のように満州がただ日本にってのみ意味のある地域であることが指摘されている。「日本は今世界の何処に在るか。/維新の鴻業は国運を開拓して、克く明治の文明を渙発した。大正の一新は東西文明の再融合に努め、遂に日本をして対西欧の地位に躍進せしめた。欧州大戦後、日本は世界の三大強国の範に列したことは、偶々是れを証するものと看倣すべきか、惟ふに、日本は無批判に、日本国民は無批判に此の光栄に坐すことが久しい。/叢爾たる波上の日本を験討して、何処に強国らしき偉大さが在るか。/人口過剰、国土狭少、この悲痛なる二元的命題は、必然食糧難と産業資源難の基因を為してゐる。普天の下、率土の濱、生活難ならざるなく、就職難ならざるなき有様は、啻に世界的景況の如何と、国内経済界の順逆を問はず、須らく是等の範疇を超絶した難象である。この破局的国勢を支持するもの、産業統制か、非ず。国家の施政か、当たらず。伝来の家族制度か、或いは然らん。併もこの封建的形骸的家族制度にして、果たして何時まで是れに耐え得られることか./破局的日本は何処へ行く。/何人も此の質問に晦渋せざるを得ない。吾人は確信す。日本の国難を抜本的に解決するものは、独り満蒙の開拓あるのみ。/謂ふところの満蒙とは如何、広袤七万五千方里の大自然の裡に、僅に三千万の希薄な人口を擁するに過ぎぬ。この大自然たるや、日本の工業資源をして、百年これに依拠せしめて尚尽きざるものである。吾国の食料問題を解決したる上に、更に四千万の人口を容るふに足る。この広漠たる自然こそ、将来、発展的日本民族の優生地と為すべきである。」【注39】

ここに明確なように、満州の意味は、日本の過剰人口の吸収先であり、食糧と工業原料の供給基地以外の意味を持っていない。ここには、資本主義のシステムとしての「日本」が当時抱えていた問題の解決という視点しか見いだせない。この資源と人口流出先としての満州という位置づけは、「大東亜共栄圏」としてアジア全体に拡張されていった日本の自給自足の広域経済圏構想なるものが登場することによって、「日満支」がこの共栄圏の「コア」の部分を形成するものへと格上げされていった。
小林英夫によれば、二〇世紀初頭の東南アジアから極東にかけての地域の国際経済は、大きく二つの「経済圏」を構成していたとみられている。即ち、「大英帝国がマレー半島のゴムと錫を軸にタイ、仏印、蘭印を包み込んで形成したく東南アジア域内交易圏〉であり、もうひとつが日本による〈東北アジア交易圏〉の形成である。後者は、日本による一八九五年の台湾領有、関東州、満鉄付属地、一九〇五年の樺太領有、一九一〇年の朝鮮併合心ミクロネシア領有(一九一三年、委任統治)といった一連の植民地形成に伴うものだった。」【注40】
「東南アジア域内交易圏」は、貿易構造が多角的で、アメリカ合衆国など域外との交易も重要な位置を占めていたのに対して、「東北アジア交易圏」は、次のように、日本と各地域との単線的な交易関係が中心であった。

「朝鮮からは米、台湾からは米と砂糖といった食糧が日本に移入され、関東州と満鉄付属地からは大豆や大豆粕などの農産物、農産物加工品、鉄鉱石や石炭などの工業原料、銑鉄など工業製品が移入された。樺太からは材木とパルプが、南洋群島と称されたミクロネシアからは海産物、燐鉱石、砂糖などが移入された。そして繊維や雑貨を中心とした軽工業製品が日本から植民地に移出された。たしかに関東州、「満州」と朝鮮、台湾との間での交易はおこなわれていたが、対日移出量と比べればその量は多いものではなかった。」【注41】

そして、台湾銀行の支店網を足がかりに、日本は東南アジア交易圏への経済的な進出を、展開してゆくことになる。朝鮮半島から「満州」への展開とこの南方への展開は、日本の資本主義としての工業化と、過剰人口の処理などと密接に関わった資本主義価値増殖システムと労働力再生産システムによって当初から規定されていた。
植民地政策は、こうした帝国主義としての日本の性質を極めてはっきり示している。たとえば、以下に引用するように、韓国併合に関する閣議決定(一九〇九年七月六日)では、のちの「大東亜戦争」期に主張されるようなイデオロギーは全く見いだせない。

「帝国の韓国に対する政策の我実力を該半島に確立し之か把握を厳密ならしむるに在るは言うを俟たす。日露戦役開始以来韓国に対する我権力は漸次其大を加へ殊に一昨年日韓協約の締結と共に同国に於ける施設は大に其面目を改めたりと雖も同国に於ける我勢力は尚未た全く満足すへからざるものあるを以て帝国は今後益同国に於ける実力を増進し其根底を深くし内外に対し争ふへからさる勢力を樹立するに努むることを要す。而して此の目的を達するには此際帝国政府に於いて左の大方針を確立し之に基き諸般の計画を実行することを必要とす。第一、適当の時機に於て韓国の併合を断行すること韓国を併合し之を帝国版図の一部となすは半島に於ける我実力を確立する為最確実なる方法たり帝国が内外の形勢に照らし適当の時機に於て断然併合を実行し半島を名実共に我統治の下に置き且韓国と諸外国との条約関係を消滅せしむるは帝国百年の長計なりとす。(以下、略)」【注42】

このように、朝鮮併合はもっぱら日本にとっては、「我実力を確立する為最確実なる方法」だというわけである。農業社会から急激な工業化へのテイク・オフを試みる後発資本主義の例にもれず、農村部に過剰な人口と、封建的な社会関係を清算することなく、経済的な基幹産業と資本主義的な労使関係を国家主導で形成していった日本の資本主義は、数次の戦争を繰り返す中で、国家主導の工業化と経済計画の必要とともに〈労働力〉政策にかんしても、計画的な発想を持ってきた。過剰人口は.こうした計画化——統制経済——にとって極めて不安定な要因だった。従って、世界大恐慌以後の失業問題の解決が「満州」への移民政策として立案され、逆にアジア・太平洋戦争の進展によって軍事動員によって、労働力人口が逼迫すれば、強制連行による植民地〈労働力〉の「再配置」が「計画」される。軍事力の秩序維持のために、性欲処理のための「慰安婦」という名の〈労働力〉配置が「計画」される。いずれも、「統制」(強制)による〈労働力〉配置の発想に他ならない。ここには、資源としての〈労働力〉という発想以上のものは何もない。この発想は、より「民主的」な手続きをともなって戦後の社会政策にも継承される。
また、国家計画経済は、自給自足的な経済圏の確立によって、計画の実効性を向上させようとする傾向を持ち、大東亜共栄圏構想も、経済システムレベルでいえば、こうした計画化としての日本資本主義の安定的な価値増殖機構とみることができる。ここには、域内の人々に対する平等な分配の計画もなければ、経済的な地域自立の計画もない。もっぱら日本の資本と国家のための広域経済圏の確立であり、その障害としての欧米列強との軍事的な対決だった。
日本の経済システムは、その軍事経済的な構造をべつにすれば、戦時動員体制がそのまま戦後復興の経済構造として維持されてきたことはよく知られている。むしろ、経済システムの転換期は、二つの世界大戦の間の時期にもとめられるのが通説だろう。この時期にケインズの一般理論やカレッキの「政治的景気循環」の理論が登場し、公共投資などによる完全雇用政策の可能性が論じられるようになる。また、フォーディズムにみられる大量生産と大衆消費、アメリカニズムによる労働者のイデオロギー統合といった戦後的な社会関係が萌芽的に形成される。また、この時期はロシア革命と社会主義の現実化によって、資本主義が対抗する体制との関わりの中で、自己の正統性を確立しなければならない時代の出発点ともなった。社会主義がかかげた貧困の解消、平等な権利と富の配分に対して、資本主義は体制内改革による貧困の解決と分配の公正を実現しなければならなかった。これらが、国家の経済と〈労働力〉再生産過程への介入を制度化したのである。このことは、戦前、戦後を通じて一貫しているといってよい。
もし、経済システムにおいて、断絶があるとすれば、植民地システムの崩壊に伴う経済ブロックの解体だろう。往々にして、帝国主義=植民地領有というように狭く捉えられてしまうと、戦前の帝国主義のシステム全体が、あたかも戦後の植民地の解放と共に解体したとみなされることになるが、第三世界論や従属理論、あるいはウォーラステインの世界システム論が明らかにしているように、植民地という領土の領有問題だけがシステムの特徴を決定しているわけではない。剰余の国際的な移転や、多国籍企業の形成、IMFや世界銀行といった国際金融機関による第三世界の経済システムへの介入が、第三世界の経済システムと〈労働力〉再生産システムに対する経済的な支配権を握る非領土的な方法として、戦後の世界経済で構造化されている以上、そこに帝国主義の不存在を主張することは、むしろ困難といわざるを得ない。【注43】
こうして、経済的なシステムとして見た場合、そこにはアジアの経済的な自立を促す要因は全くない。全てが、日本の資本と日本の軍事的な支配を支えるためのシステム作りであったと言う以外にないだろう。この点で、林の論拠は全くその接点をもちえない。ただし、林の議論と接触する部分があるとすれば、上記のような経済的な帝国主義の形成とそのための、植民地や資源と〈労働力〉の動員、配置の政策は、それ自体では大衆的な合意を形成できず、合意形成や動員のモチベーションのための意識操作が必要になるということである。林の議論は、まさにこの意識操作に乗ったものだといえる。

ナショナリズムの牙

林のナショナリズム論には二面ある。ひとつは、好戦的で、自民族中心主義的な次のような主張である。

「帝国主義的と言えば、日本は明治維新の前に「西力東漸」を意識した時から、すでに十分に帝国主義的であった。ただし、私の言うそれは、レーニン的意味の「帝国主義」とは違い、〈資本主義の最高段階〉とは関係ない。それはネールの言う意味の自主と解放を求める民族の活気としてのナショナリズムの発現であり成長である。成長したナショナリズムは膨張政策に転化し、牙と爪を発達させて、まず台湾、朝鮮がその被害をうけ、つづいて満州が狙われたという意味だ。佐藤信淵をはじめとする幕末の思想家たちの描いた予想国の中には、朝鮮、台湾、カラフト、シベリアのみか、東南亜諸国まで「日本の反撃」のための「侵略対象」として明記されている。」【注44】

これは、政治にも戦争にも王道などはなく、覇道あるのみ、という主張とも符丁の合う側面がある。
これに対して、既に紹介したように、石原莞爾の東亜連盟論を支持する場合は、アジア民族の解放を論じ、たとえ皇室を戴くとしても、決して日本はアジアに覇権を主張せず、また、樽井藤吉の「大東合邦論」を支持するという別の側面がある。自民族中心主義と、アジアの諸民族の解放とがなぜ疑問もなくこのように一個の人格の中に共存できたのだろうか。天皇などという日本固有の神道の祭祀であり、民族的な統合の装置がなぜアジア全体をまとめる理念的な地位を獲得できると素朴にも信じられてしまったのか。しかも、こうした観念は、何もファナティックな右翼や皇道主義者に限られたわけではなく、政府の高官から京都学派の「世界史の哲学」に至るまで、こうした観念はさまざまなバリエーションを持ちながら共通した日本の将来像の土台を築いていた。
日本の場合、ナショナリズムということで何らかの座標軸の原点的な位置を占める要素を探すとすれば、「天皇」がその位置を占める。そして、この天皇との距離のなかに、ナショナリズムのマトリクスが描ける。言い換えれば、日本のナショナリズムは、近代の「天皇」と不可分なものだといえるのだ。いうまでもなく、ここでの「天皇」とは、自覚化された存在ではなく、大衆の意識のバックグラウンドで作動する。それが、戦争や、国家的な行事、あるいは儀礼的な空間のなかであらわになる。
林のナショナリズムのアジア主義的側面は、『肯定論』のなかでも、批判者の側の批判の切っ先が鈍る部分である。それは、日本のアジア侵略への批判を共有する論者であっても、この侵略とともに形成された日本の思想には、西欧的な価値観の克服と独自の世界観や価値観の構築のための試行錯誤、あるいは欧米列強による植民地化に抵抗するアジアの側の抵抗の思想と論理の模索が見いだせるのではないか、ということが繰り返し指摘されてきたからである。『肯定論』でも、「かって〈進歩的文化人〉と呼ばれ、敗戦日本の〈頭脳と良心〉たることを自認していた青年学者たちのあいだにも、最近明治以来の〈右翼またはナショナリスト思想家〉たちの著作の原典研究が行われている」として、竹内好、吉本隆明、橋川文三、高橋和巳らの名前を挙げている。とりわけ竹内のナショナリズム論については、繰り返し肯定的に言及している。これは、丸山真男に対する徹底した批判とはきわだった対照を示している。
林の竹内評価には、私は賛成できない点が幾つかある。とくに、林が竹内を引き合いに出すとき、そこには、日本のアジアへの侵略に対するある種の弁解や肯定的な評価を竹内を借りて述べようとするところがあり、それは竹内への誤解につながりかねないと思うからだ。たしかに、竹内には「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある」とか「侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感までを否定するのは、湯といっしょに赤ん坊まで流してしまわないかをおそれる」【注45】といった論じ方がある。しかし、竹内は、これによって日本の侵略を肯定しない。覇道を論じ、ナショナリズムの牙を肯定することはない。とりわけ、日本に関してはそう言うことができる。ここが、決定的に林とは違う点だ。だから、ナショナリズムという場合にも、竹内は次のような区別に自覚的だった。

「アジアの上に重くのしかかっている帝国主義の力を除くためには、みずから帝国主義を採用するか、それとも世界から帝国主義を根絶するか、この二つの道しかない。アジアの諸国の中で、日本は前者をえらび、中国をふくめて他の多くの国は、後者の方向をえらんだ。排他的ナショナリズムに代えるに弱者の連帯のナショナリズムをもってしたのである。」【注46】

竹内は、アジアのナショナリズムを欧米のそれと明確に区別している。欧米では、ナショナリズムが、資本主義的な自由貿易とその帰結として膨張主義に伴うものであったのに対して アジアのナショナリズムは、こうした欧米の膨張主義と植民地主義への抵抗として形成されたとみる。従って、「抵抗」がナショナリズムのキーワードとなるわけであり、アジア諸国とは異なり、植民地化を免れ、資本主義化を比較的早期に実現した日本は,この「抵抗」という準拠枠から見た場合、ナショナリズムとしては評価し得ないということになる。
この観点から、アジア主義をみる竹内は、次のように言う。

「私の考えるアジア主義は、ある実質内容をそなえた、客観的に限定できる思想ではなくて、一つの傾向性ともいうべきものである。右翼なら右翼、左翼なら左翼のなかに、アジア主義的なものと非アジア主義的なものを類別できる、というだけである。そういう漠然とした定義をここでは暫定的に採用したい。」【注47】

このように、アジア主義という座標軸は、左右両翼を束ねるパラダイムとなりうる要素を持っていたというのである。とりわけ、左翼やマルクス主義者が転向する過程は、このアジア主義の座標に沿っての左から右への移行であることをみたとき、アジア主義という座標軸ぬきには戦前日本のナショナリズムを論ずることはできないだろう。【注48】初期のナショナリズムには膨張主義も「抵抗」の契機も未分化に含まれており、国権も民権も明確な区別が不可能なものだった。だから、明治維新にせよ、自由民権運動にせよ、観点によっては、それは日本のナショナリズムの侵略的な性質の出発点にもなれば、人民による抵抗と民権運動の起源にもなりうるものであった。竹内は、こうしたあれかこれか、という二者択一の観点を否定する。

「発生的には、明治維新革命前後の膨張主義の中から、一つの結実としてアジア主義がうまれた、と考えられる。しかも、膨張主義が直接にアジア主義を生んだのではなくて、膨張主義が国権論と民権論、または少し降って欧化と国粋という対立する風潮を生み出し、この双生児ともいうべき風潮の対立の中からアジア主義が生み出された、と考えたい。」【注49】

明治末期に、「北一輝が平民社と黒竜会の間で動揺していた時期」を境として、アジア主義の座標軸は大きく右旋回する。そして、大正半ばから昭和にかけての時期に、この未分化な状態がはっきりと左右の線にわかれ、アジア主義の右翼に対して、左翼はプロレタリア・インターナショナリズムを対置させるのだが、結局は「左翼からは、民族問題をネックにして脱落者が続出する」ことになる。そして、「その還帰する先が、多くはアジア主義であり、西郷である」【注50】ということになった。
左翼がなぜ民族問題でつまずいたのか、についての竹内の説明はさほど深いものではない。石母田正による説明、つまり、「日本の社会主義が黎明期においてすでにコスモポリタンの、直輸入型の傾向があった」という説明をそのまま紹介するにとどまっている。日本の近代国家の枠組みも、天皇制という創作品も、輸入された制度である。左翼の問題は、「直輸入」を根付かせられなかったということであるわけだが、特にその際に、問題になるのは、国境を越えた連帯というインターナショナリズムが具体的に、国家の枠組みの解体として構想できなかったところにある。それだけではなく、樽井藤吉の「大東合邦論」のような構想がマルクス主義や左翼の側からは提起しえないでいた、ということがある。同時に,民族問題が大衆意識やイデオロギーと関わる問題であることが早期に気づかれなかった。イデオロギー的な弾圧が厳しくなる一方で、戦前のマルクス主義は、日本資本主義論争に象徴的に表れているように、資本主義問題の基本を経済過程の問題に集約して論ずる傾向が多かった。天皇制についても、それは政治的な統治の制度や封建遺制として、批判の対象にされたとはいえ、そのイデオロギー的な側面やインターナショナリズムを妨げる排外主義的なナショナリズムの再生産装置の問題としては十分には理解されていなかった。【注51】ここに、当時のマルクス主義の決定的な限界があった。竹内の関心は、左翼やマルクス主義ではなく、むしろアジア主義が右翼によって独占され、結果的に侵略のイデオロギーとして機能してしまったという問題の方向にある。竹内は、平凡社の『アジア歴史事典』(一九五九~六二年)の「大アジア主義」(野原四郎稿)を紹介し、植木枝盛、樽井藤吉、大井憲太郎らの民権派の「アジア連帯」と玄洋社の「大アジア主義」を区別する考え方を「やや機械的に過ぎる」として、次のように述べている。

「このように規定された〈大アジア主義〉が〈明治政府の大陸侵略政策を隠蔽〉したというのも、私の考えとはちがう。これは第二次大戦中の国策便乗の思想家たち(その一例として、後に述べる平野義太郎がある。)には当てはまる説明だが、玄洋社には当てはまらない。玄洋社は〈大陸侵略政策を隠蔽〉したのではなくて、先取りしたのであり、むしろ政府の〈隠蔽〉に反対したのである。そもそも〈侵略〉と〈連帯〉を具体的状況において区別できるかどうかが大問題である。」【注52】

玄洋社が大陸侵略政策を先取りしたというのは確かにその通りだろう。ではなぜ、それが、国策として跡づけられたのか。また、この国策はなぜ大衆の支持を(消極的な肯定も含めて)得ることが出来たのか。このことは、玄洋社そのものの経緯をみても理解できない問題である。これは、思想の問題ではなく、思想がシステムと接触するところで生ずるシステムの構造的な転換の問題である。
ちょうど明治維新期の支配者たちが、国学というイデオロギー的資源を開発し、それを近代天皇制として精製したように、アジア主義の民間のイデオロギー的資源もまた、統治のイデオロギーとして組み込まれた。右翼や大アジア主義者は、こうした国家のイデオロギー装置によるイデオロギー資源の簒奪と徹底して対決しなかった。それは、ソ連の支配的なイデオロギーとしてのマルクス主義がたどった運命と共通したものを感じる。もし、侵略や日本の覇権を主張するものではなかったというのであれば、そうした思想の簒奪と闘わなかったことに対する自己批判と、そうした簒奪を行使した国家への徹底した批判が視野に入らない限り、大アジア主義には何ら見るべき思想もないというしかない。多分、大アジア主義が,その名称とは裏腹に、日本の思想という個別性を越えられなかったところが、マルクス主義とは全く異なっている。マルクス主義は、国際主義の理論的な背景として、階級的な連帯を構想した。プロレタリアートとしての利害がナショナリズムの利害に優先する、あるいは優先するような対抗的な戦線を構築すべきであるということを主張した。アジア主義は、こうした意味での国境を越えられる思想的な内実がない。そこには、常に、日本のナショナリズムとその根幹にある「皇室の敬愛」というイデオロギーや心情を否定できない弱さがある。にもかかわらずの「アジア主義」を掲げるという矛盾を徹底してつきつめなかったし、そうした批判を左翼も出し切れなかった。【注53】
私は、先に、ナショナリズムが大衆的な合意とどのような接点をもっていたのか、という問いを投げかけた。当時最も積極的にこの問題を論じようとしたのは、吉本隆明だろう。彼は、「〈大衆〉を依然として、常住的に〈話す〉から〈生活する〉(行為する)という過程にかえるものとしてかんがえる」として、次のように述べた。

「大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の〈ナショナリズム〉は、再現不可能性のなかに実相があるものと見倣される。このことは、大衆がそれ自体としては、すべての時代をつうじて歴史を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのもののなかに虚像として以外に登場しえない所以であるということができよう。しかし、ある程度これを実像として再現する道は、わたしたち自体のなかにある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば〈内観〉することからはじめる以外にありえないのである。」【注54】

吉本のこの主張は、ある意味では正論である。大衆は不可知である。しかし、知識人として、この不可知な大衆を不可知なままに放置することはできない。そこで、吉本は、大衆の「原像」を、知識人の大衆論によって媒介されたものとして示すのではなく、当時の大衆が口ずさんだに違いない大衆歌曲を通じて論ずるという方法をとった。【注55】
吉本は、「戦友」を明治期の政治的ナショナリズムを論ずるためのひとつの範型としてとりあげ、三宮金次郎を「社会にむかう大衆の〈ナショナリズム〉」の表現として引用している。吉本は、この、明治期の政治的社会的な大衆のナショナリズム意識が、大正期にはその「主題を失った」という。「かなりや」「花嫁人形」「あの町この町」などの歌曲を引きながら次のように述べる。

「おそらくこのことは、支配層において、国権意識によって大衆を統合しうるという意識と、腕一本で支配層にもなりうるという資本制意識によって、大衆を統合しうることが、潜在的には、信じられなくなったことの象徴であり、おなじように、大衆にとってそれが信じられなくなったということを象徴している。」【注56】

そして、昭和期に入ると、「大衆のナショナルな心情は、さらに農村、家、人間関係の別離、幼児記憶などに象徴される主題の核そのものを、〈概念化〉せざるをえなくなるところまで移行した」【注57】とみる。この大衆の側におけるナショナリズムの実感性の喪失が、他方で知識人によるナショナリズムの概念化からさらには「ウルトラ=ナショナリズム」として「結晶化」する契機の「現実的な基盤」となったとみるわけである。このナショナリズムの実感の喪失と概念化を吉本は「おみやげ三つ」や「鞠と殿様」などによって象徴されると解釈する。
吉本が巧みなのは、この時代の変化を童謡や大衆歌謡をテクストとして論ずることによって、知識人が主として相手にしてきたアカデミズムの文献や政治史料、あるいは純文学などを大衆の原像に触れるものではないと峻拒する戦略にある。明治期から大正期、そして昭和期への変遷として彼が述べていることについては、新しいことは何もない。明治期の国家体制の構築と日清、日露の二度の戦争を通じて形成された政治的、社会的なナショナリズム、大正期の消費社会的モダニズムがもたらしたナショナリズムの相対的な後退、そして昭和期の天皇制の再政治化にともなうナショナリズムの再構築、これらは大衆歌謡を引用しなくても十分説明が可能な筋書きである。
吉本が見誤ったことがあるとすれば、大衆の原像、あるいはナショナリズムの基盤を農村と家族に求めようとした点だ。彼は、次のように昭和期のナショナリズムについて、述べている。

「ただここでは、大衆の〈ナショナリズム〉の心情的な基盤の喪失は、知識層が、〈ナショナリズム)を思想としてウルトラ化するために必要な基盤であったことを指摘すれば足りる。支配層は、これに対し、経済社会的には大衆の〈ナショナリズム〉の最後の拠点である農村、家族にたいする資本制的な圧迫と加工を加え、政治的には、大衆の〈ナショナリズム〉の〈概念化〉を逆立ちさせたウルトラ=ナショナリズム(天皇主義)によってこれに吸引力を行使したのである。」【注58】

この点は、吉本が批判してやまないスターリニストの日本共産党が戦前から有していた天皇制の基盤についての理解と変わるものではない。ナショナリズムの最後の拠点は、果たして、農村と家族だったのだろうか。わたしは、そうは思わない。むしろ、資本主義化が同時に近代的なナショナリズムの形成過程でもあるということを見た場合、ナショナリズムの問題は、都市と工業化、あるいは進歩と繁栄というキーワードを欠くことは出来ないのだ。農村がナショナリズムの基盤になったのも、農本主義者にみられるように、それは、他面での都市化及び工業化と不可分な近代化=西欧化の犠牲の側面としてなのだ。経済システムやテクノロジーとしては、近代化は西欧合理主義を受け入れなければならないし、これを受け入れることによって近代国家としての「日本」は国際競争力を獲得し、発展の経路をとることができる。この意味で近代化は日本のナショナリズムの基盤の一つであることに間違いない。しかし他方で この近代化の結果として社会発展の周辺に追いやられた農村的な心性は、日本を西欧から差異化しうる拠点として、ナショナリズムのもう一方の基盤となった。こうして、日本の近代化にともなって形成されたナショナリズムにはこの相いれない二面が共存し、しかも相互に依存しあいながら存在し続けたのである。
農村は、農業部門としてだけではなく、マクロな〈労働力〉再生産のシステムを支え、過剰人口の供給と吸収にとって不可欠な場所であった。この都市と農村の人口の流動化、そしてマスメディアによる国家像の形成、さらには朝鮮、満州、さらにはアジア大陸から南洋へと無際限に拡がる「日本」の文明化と進歩のイメージ、それらは決して実感のないものでもなければ、概念的なものでもない。たしかに、農村と家族を基盤にはしていないかもしれない。そうした「土と血」を離れて、なおかつ実感できるナショナリティが工業化と近代化のなかで、とりわけ都市部に形成された。それが、大正期の消費社会化をバックグラウンドとする昭和初期という時代であった。これは、人口の多寡の問題とは相対的に無関係である。たしかに戦前の日本の人口構成では農村人口が圧倒的で多く、その大衆像は重要である。しかし、この大衆の多数は、将来の自分や自分の子どもの世代をもまた「おなじこの土地で農業を営む大衆」として人生を過ごすことに最大の「夢」を託すことはなくなった。このことが資本主義の本源的蓄積がもたらす大衆意識の変容の非常に重要な部分である。
文学や大衆歌謡は、この過去、現在、未来の錯綜する大衆の願望や、哀惜、望郷へ絶望などをさまざまに表現する。その表現がどの方向を向いていようと、大衆的な受容との関わりで見る場合には、都市化と工業化、その裏面としての農村と農業という対の社会関係を見落とすことは出来ない。ナショナリズムはこの全体の中で、国家のイメージとして醸成される。大衆が農村にいようが、都市にいようが、あるいは、農村にいて都市をあこがれようが、都市に絶望して農村を目指そうが、そのいずれの選択肢においても、彼らが自分の人生のゲームのルールの前提に「ナショナルな情念」を置き得るような、そうしたメタ意識としてナショナリズムは常に準備される。資本主義は、常に都市と農村の対立を内部に抱え込まざるを得ない以上、この対立に対応できる統合の「理念」を形成しなければならないからだ。それは、労働者階級と資本家階級という階級関係の場合もいえることだ。言い換えれば、ナショナリズムとは国家の正統性と国民統合を最適化させるための関数に他ならない。都市と農村も、労働者も経営者も、この関数の従属変数として処理されることによって、「ナショナリズム」の枠組みのなかに回収される。近代化も近代の超克も、農本主義も大アジア主義も、こうした意味でのナショナリズムのイデオロギー的な生産物である。日本のナショナリズムは、このいい加減さによって滅びずに今まで再生産されてきたのだと言ってもいい。
ナショナリズムの問題について、竹内や吉本は、思想的な課題としてのナショナリズムを彼らの個人的な体験と切り離すことが出来ないものとして理解しようとした。それは、なによりも彼らが積極的に加担したか、あるいは否応なく巻き込まれたか、いずれにせよ彼らの人生のある部分を、とりわけ自らの生死に関わる観念として引き受けなければならなかったし、そのために人生の時間を費やさざるを得なかった、そうした自らの人生と無関係ではない。
そして、彼らの議論が同世代をはじめとして、一定程度の拡がりを持って多くの読者を獲得してきた背景には、共通の大衆的な実感とどこかで共鳴し得たからかも知れない。いや、より正確に言えば、共鳴しえるという「実感」あるいは「観念」が成り立ったからだ。こうした実感の頂点は、六〇年代の高度成長期であり、同時にこの時期を境にこうした個人的な体験に基盤を置くナショナリズムの議論は、直接的には共感の回路を閉じ始めた。
ナショナリズムの問題は、個人的な体験の問題ではなく、より制度的な問題として捉えかえされなければ議論しえないという情況になった。なぜならば、ナショナリズムの経験や歴史として、吉本が語った土台は、林の『肯定論』の土台と同一であった。その土台とは、「日本人」としての経験、歴史的な体験である。吉本も林も、彼らの思想や大衆の原像は、「日本」や「日本人」という枠組みの中に閉じられ、そこから出ることはほとんどありえない。それこそが大衆の原像の基盤であるかのように。これに対して、竹内は、常に中国を、とりわけ魯迅を自らにとっての他者として、参照点の原点に据えた。そのことによって、竹内のナショナリズムは一面で開かれている。しかし、それもまた、彼自身の個人的な経験に根ざすことによって、効果を発揮するものであった。
六〇年代以降、少なくとも、ナショナリズムを問題にするとき、こうした「日本人」という閉じられた共通の経験の基盤に依拠することは、不可能になった。なぜならば、「日本」という国家は、その国境の内部にも外部にも、様々な民族を抱え、同時に、とりわけアジアの諸民族に対する戦争責任も戦後責任もとることなく済ませてきたことが、自覚されてきたからだ。
竹内は、魯迅によって自らの「日本人」としての位置を相対化した。これに対して、六〇年代末以降の日本のナショナリズム批判は、同時代のアジアの無名の人々の戦争体験や、戦後の経験と常に向き合うことなしには、ナショナリズムの問題を論ずることができなくなった。朝鮮人強制連行も、「従軍慰安婦」問題も、入管体制の問題も、それらが運動化するなかで自覚化されてきたのは六〇年代後半以降のことであり、さらにそれは、七〇年代の過渡期を経て、八〇年代には、外国人労働者問題という新たなマイノリティ問題が具体化するなかで、決定的に「日本」と「日本人」の相対化という視座なしには論じられない状況となった。これは、日本だけのことではなく、合衆国の公民権運動や、ブラック・パンサーの運動、ベトナム戦争や第三世界の民族解放闘争の影響があったことは間違いない。
この過程の中で、ナショナリズムの問題は、思想の問題ではなく、なによりもまず、マイノリテイとして、あるいは被支配者としての大衆とのコミュニケーションの問題として視野に入ってきたのではないか。職業や賃金の差別、教育では日本語を強制され、日本的な文化とみなされてきた振る舞いや慣習を強制され、市民的権利の野外に置かれ、プライベートな人間関係においても、「日本人」とは同等に扱われない現実がある。何よりも、ナショナリズムの問題は、こうしたマイノリティの置かれた現実とこの現実を構造化し、再生産できる歴史的な構造を抜きにしては論ずることが出来なくなった。吉本のように大衆の原像という場合の大衆を暗黙の内に「日本人としての大衆」という風には措定できず、また、竹内のように異なる民族の知識人を通じて、アジアの意識を理解する方法が必ずしも普遍的なものとは受け取られなくなった。むしろ、民族的な差異は、日常生活のなかにごく当たり前の風景として入り込み、そして、大衆のイメージを「日本人」に集約することのできないだけのリアリティを持ち始めた。問題は、日常生活の差別であり、また、無名の大衆がかつての戦争の犠牲となってきたことが具体的に問題となり、私たちはこの問題と格闘することなしにはナショナリズムの問題を論じえないという地点に立っている。
吉本にも、竹内にもナショナリズムの問題が差別の問題としては提起されていない。このことに、時代の推転をみることができる。それは、「差別」を免罪符のように持ち出すということとは別のことである。大衆のナショナリズムは常に、排外主義的な差別の意識をもっていたということ、それは戦前も戦後も変わってはいない。この意味での差別という課題が吉本にも竹内にも切実ではなかったということである。「大衆の原像」なるものを、もし論ずるのであれば、そして、それをナショナリズムと関わらせようとするのであるならば、この差別という意識の問題を避けることができないはずなのだ。そのことに、六〇年代までの戦後の知識人は、戦前の知識人同様気づくことはなかった。
ナショナリズムも差別も、それが大衆の意識に上るときは、常に個別的な意識としてである。しかし、ナショナリズムも差別の問題も、構造的な問題である。この構造に対する批判こそが今現在求められている。
十九世紀はナショナリズムが欧米に形成された世紀であるとすれば、二十世紀はこのナショナリズムが成熟した世紀ともいえる。ナショナリズムが国民国家の形成と不可分であるとすれば、国民国家の枠組みの揺らぎは、同時にナショナリズムの揺らぎを招かざるを得ないだろう。
「民族解放」の運動は、植民地解放から自らの民族的な自立と自治を要求するようになることによって、権力の配分システムとしての国民国家ははっきりとその限界を示すようになった。何故ならば、国民国家のシステムは、一民族に一国家を割り当てることができないからだ。国家という枠組みによって、権力の配分を割り当てられなかった民族は、国家の枠組みを配当された民族に比べて、国際的にも国内的にも圧倒的に不利益な条件を強いられる。複数の民族が同一地域に共存している場合に、これら複数の民族に平等に「国家」という権力装置を民族の数だけ割り当てることは、そもそも領土的な拡がりを必要とする「国家」では不可能なことである。
国家内部で、少数民族としてとどまった民族は、議会制民主主義の数の論理のなかで、たとえ公民権を獲得出来たとしても、多数派となることはできない。経済的にも、少数の人口は、小規模な市場に結びつき、市場経済も民族的な伝統や文化の再生産を維持することに関して、多数派に比べて不利益な条件を強いる。ナショナリズムの問題は、むしろこうしたマイノリテイ問題を通して、支配的な民族に問われる問題という相貌をみせている。

「日本人」を解散する思想へ向けて

林が対象とした近代日本の百年は、政治の側面、経済の側面、そしてイデオロギーの側面という異なる諸側面を総合する視座を持たない限り、一面的にならざるをえない。林の『肯定論』は、このうちある種のイデオロギー的な姿をとって見いだせる日本の近代化についての自己肯定の論理(というよりも主張というべきだろう)である。これに対して、政治的経済的な日本の近代化の側面からの批判が有効ではないとは言わない。
経済的には、一つには、統治の物的再生産と資本の価値増殖として、対外関係は存在する。それは、日本の資本主義化、近代化である。もう一つの経済過程は、〈労働力〉の再生産である。それは、当時の状況でいえば、農業・農村問題であり,人口問題である。植民地を視野に入れれば、それは、日本資本による労使関係の問題であり、移民の問題であった。しかし、こうした〈労働力〉の総体としての再生産は、労働と日常生活現場における資本と国家への統合のイデオロギーなくしては機能しない。
政治的には、国民国家の体制をとり、議会制によってまがりなりにも大衆の政治参加を制限付きではあれ承認しながらさらに、総動員体制の構築を通じて戦争に対処し、あるいはより積極的に戦争に参与しようとする体制をも確立しなければならない。したがって、政治的経済的なシステムは、「国民」の動員を可能にするようなモチベーションを意図的に構築できる合意形成の制度を必要とする。言い換えれば、様々な集団的利害にかえて、「国民」的な利害を最優先にできる「国民的意識統合」の装置が必要になる。農村の小規模な共同体とは異なり、近代国家の構成員は、お互いに見ず知らずの人間でありながら、「国民」という観念によって、共通の意志を形成できるということは、決して容易なことではない。それを、明治期の支配者たちは、天皇主義イデオロギーとその制度化によって遂行した。そして、これが近代日本のナショナリズム、つまり「日本人意識」のバックグラウンドをなすことになった。
このナショナリズムは、対外関係のなかでは、植民地統治の正統性と関わることになる。なぜ日本が台湾、朝鮮を統治しさらに中国大陸から南方へと拡大し、「大東亜共栄圏」なる構想の主人公とならねばならないのか、そのことを説明する論理が必要になる。
こうして、イデオロギーとしてのナショナリズムは当初から両義的だった。対内的には、日本の民族的優位の思想として、対外的には、「五族協和」や民族解放、欧米帝国主義打倒の思想としてあらわれる。このイデオロギーの両義性は、政治的経済的なシステムとしてはまったくうまく機能しなかった。
戦前期のこの政治・経済・イデオロギーのシステムは、戦後もある側面ではそのまま再生産され、戦後のシステムのなかに組み込まれた。言い換えれば、戦後に「残存」したということでなく、戦後的なシステムの中で再生産が保証された。政治システムとしては、国民統合のイデオロギーとしての「日本人」ナショナリズムがそのまま再生産されうるシステムの位置を得た。その基盤には「日本国民統合の象徴」として、そのイデオロギー装置としての位置づけを明確に与えられた「天皇」の制度がある。これは、バックグラウンドで機能するから、かならずしも大衆の意識のなかで強制的に自覚される必要はない。そして、経済システムは、よく知られているように戦前・戦中の官僚主導の市場経済システムがそのまま維持され、それが半世紀をへて「規制緩和」問題としてようやく自覚化されはじめた。そして、イデオロギーとしては、日本人優位の意識と平和主義が継承された。日本人優位主義と結びついた平和主義は、形を変えた「五族協和」や「大東亜共栄圏」である。しかし、それだけでなく、「五族協和」が民族的な支配と抑圧を隠蔽したように、平和主義は日本の再軍備と日米安保体制において日本が占める軍事的機能を隠蔽した(知って知らぬ振りができる、という方が正しい)。
こうしてみると、『肯定論』を支える林の心性を大衆の意識からかけ離れた荒唐無稽な主張とみなすことはできない。「太平洋戦争」をいたしかたなかった戦争と見て、その戦争が結果において日本の侵略とみなされるとしても、その意図においては防衛戦争であり、欧米帝国主義からのアジアの解放戦争であるという主張は、民間の右翼から自民党、さらには社会党の一部にまで浸透しており、アカデミズムでも京都学派の思想的擁護は、晩年の廣松渉の例を挙げるまでもなく、現実から区別された思想それ自体の意義として評価しようとする試みが繰り返されている。この意味で、私たちは未だに『肯定論』の亡霊ともいえる主張に繰り返し直面している。
『肯定論』で主張されていた「理念」と現実は余りにもかけ離れていたことは、今現在から振り返れば、容易に理解できる。しかし、それであってもやはり『肯定論』を支持する日本の潜在的な世論は根強い。このことは、当時も現在も、戦争を支える社会システムは、単にその政治・経済的なシステムによるだけでなく、「イデオロギー装置」の果たす役割が極めて大きいということを示している。「リアルな戦争」は第二次世界大戦までであって、ベトナム戦争以降は、テレビメディアを媒介とした「ハイパー・リアル」な戦争となり、それが湾岸戦争ではきわめておぞましい形で、世界の世論を操作したということがよく言われた。しかし、戦争は何時の場合でも、「ハイパーリアル」な状況を生み出すための装置なくしては遂行できない。電子的なメディアが存在する以前は、それはもっぱら新聞や、雑誌、教育制度や、地域の大衆動員制度(町内会や体制翼賛会など)によって担われた。これらは、いずれも大衆のイメージを操作するのであるから、どちらがより高度なハイパーリアルであるかは優劣をつけることは難しいだろう。そして、ナショナリズムのヌエ的な性格というのも、実は、この戦争のハイパーリアルな側面とリアルな側面という二面と深く関わっていると言える。ただし、このハイパーリアルとリアルという区別は絶対的なものではない。常に相互に干渉しあう。敗北を重ねる戦争をそれでもなおかつ「勝利」といいつのることは、そう簡単なことではない。(ブラジルの「勝組」のように、それは不可能というわけではない、日本の「終戦」という公式用語の流布にも似た要素は見出せる。)
林の『肯定論』の主張の根底には、ヌエ的なナショナリズムが潜んでいた。しかし、先にも述べたように、すでに「日本」の現実はそうした「日本人」のナショナリズムに依拠して論ずべき対象ではない。私たちが、この「日本」において、支配的な民族として、国家に総括される権力の配分を優先的に与えられているという現状を何よりも批判のひとつの課題として据えなければならない。そして、そうした権力の配分システムをかえるべきであり、そうした観点からのみ、歴史の評価もなされるべきなのだ。言い換えれば、「国民国家」の形成にいちはやく成功したことを批判的に、否定的に捉えるべきなのだ。そして、民族的な枠組みによる不平等な権力配分のシステムを変える手がかりをつかむことだ。それは、同時に、近代国家の形成と共に形成された「日本人」というナショナリズムの解体を伴うべきだろう。私たちがもはやどのような意味においても「日本人」というアイデンティティを相手にせず、そこに何の「意味」をも見いだせないという状況、「日本人」を解散する思想を模索しなければならないだろう。
これは少数の被支配的民族のナショナリズムの解体を主張することとは全く違う。なぜならば、問題は、権力配分の不平等にあるから、支配的な民族のナショナリズムのイデオロギーに対してなされるべきナショナリズム廃棄=「日本人」を解散する思想の課題は、「支配的」であるが故に提起される課題なのだ。この課題の彼方に何が待ち受けているのかは、今の私にはわからない。しかし、言えることは、民族的な解放という主題がが国民国家の枠組みを前提とした権力配分として、論じられる限り、そこには解決への糸口はないということである。そして、この前提を変更するという課題は、言うまでもなく「支配的民族」に課された課題なのである。


1. 林房雄『大東亜戦争肯定論』林房雄大人追悼出版刊行会刊、普及版、一九
七六年版、一八九ページ.
2. 同上、一七一ページ。
3. 同上、一六六ページ。
4. 同上、二七五ページ。
5. 同上、三一一ページ。
6. 同上、二六二ページ。
7. 同上、二八四ページ。
8. 伊藤隆、宇野俊一、鳥海靖、松沢哲成弓文献からみた『東亜百年戦争』」『中央公論』一九六五年九月号 二〇一ページ.
9. 同上、二〇二ページ。
10. 同上、二〇三ページ。
11. 同上、二〇四ページ。
12. 同上、二〇五ページ。
13. 同上、二〇五ページ。
14. 同上、二〇八ページ。
15. 同上、二〇九ページ。
16. 同上、二一〇ページ。
17. 「世界情勢ノ推移一一伴う時局処理要綱」についての陸海軍協会における「提案理由(陸軍案)」一九四〇年七月四日。同上、二一一ページより引用。
18. 伊藤隆他、前掲論文、二一一ページ。
19. 伊藤隆は、「昭和史の研究を進展させるためには、まず第二次世界大戦の勝敗及びそれにまつわるイデオロギーから解放されることが必要」であり、戦前の日本を「ファシズム」と規定することは「ミスリード」につながると疑問をなげかけている。(伊藤隆「昭和政治史研究への一視角」『思想』一九七六年六月号、二二四ページ)また、伊藤編『日本近代史の再構築』(山川出版、一九九三年)では、よりはっきりとマルクス主義歴史学との対決姿勢を鮮明にしている。伊藤の歴史観は、林ほど主観的ではなく、史料に基づいた実証主義の立場から、堅実に林のイデオロギーを支える意義を持っている。この意味で伊藤の仕事の意味は林以上に大きいものがある。
20. 佐藤誠三郎による解説、橋川文三『支配者の思想』筑摩書房、四四ページ。
21. T・フジタニ『天皇のページェント』NHKブックス、一九九四年。また、「想像の共同体」については、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』リブロ参照。
22. 藤村道生『日本現代史』山川出版、一三六ページ。
23. 粟屋憲太郎『十五年戦争期の政治と社会』大月書店、五五ページ。
24. 粟屋、前掲書、八四ページ。
25. 中園裕「政党内閣期における昭和天皇及び側近の政治的行動と役割——田中内閣期を中心に」『日本史研究』一九九四年八月号。
26. 中園、前掲論文。
27. 細谷千博、安藤仁介、大沼保昭編『東京裁判を問う』講談社学術文庫、一三二ページ。
28. 寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著『昭和天皇独白録』文芸春秋、一九九一年。
29. 「寺崎英成、御用掛日記」同上書所収、一八八ページ参照。
30. 林、前掲書、一一七ページ。
31. 同上。
32. 東亜連盟編『昭和維新論』、林、前掲書、二八二~三ページより再引用。
33. 林、前掲書、二七五ページ。
34. 石原莞爾「東亜連盟と興亜運動」『東亜連盟』一九四一年七月号、三四ぺージ
35. 石原莞爾「新体制と東亜連盟」『東亜連盟』一九四一年一〇月号、二二ページ
36. 石原「東亜連盟と興亜運動」、前掲、四〇ページ。
37. 阿子島俊治『東亜連盟の本質——連盟論に対する批判を中心に」『東亜連盟』一九四一年年九月号、二九ページ。
38. 松沢哲成『日本ファシズムの対外侵略』三一書房、一九八二年、三三二ぺージ
39. 満州青年連盟『全日本国民に[朔ニ心]ふ、満蒙問題と其真相』一九三一年、一~三ページ。
40. 小林英夫「東アジアの経済圏」、岩波講座『近代日本と植民地』第一巻所収による。以下の記述も小林論文に負う。
41. 小林、前掲論文三四~三五ページ。
42. 安藤良雄編『近代日本経済史要覧』第二版、八九ページ。
43. 帝国主義論の最近の研究については、高橋進「帝国主義の政治理論」前掲『近代日本と植民地』第一巻所収参照。
44. 林、前掲書、二二〇ページ。
45. 竹内好「日本人のアジア観」『日本とアジア』竹内好評論集第三巻所収、筑摩書房、八四ページ。
46. 竹内好「アジアのナショナリズム」同上所収、一一二ページ。
47. 竹内 「日本のアジア主義」、前掲書所収、二六一ページ。
48. 日本資本主義論争の論客であった平野義太郎の場合も、この典型といえる。戦時期のマルクス主義者の転向には、平野に表れているように時局のイデオロギーに積極的にコミットするケースと、実証的な研究に回避しつつマルクス主義やマルクス経済学を棚上げにするケース(宇野弘蔵など)に分けられる.この点については、拙稿「社会科学者の転向——平野義太郎と宇野弘蔵」『検証・昭和の思想2、転向』社会評論社所収(本書に収録)を参照。
49. 竹内、前掲論文、二六一ページ。
50. 同上、三〇三ページ。
51. 日本共産党やコミンテルンが掲げていた「天皇制打倒」の方針の内容は、この点で全く不十分である。コミンテルン三二年テーゼでは、天皇制は「一方主としては地主なる寄生的・封建的階級に依拠し、他方には又急速に富みつつある貧欲なブルジョアジーに依拠して、これらの階級の上部と極めて緊密な永続的ブロックを結びかなりの柔軟性をもって両階級の利益を代表しながら、同時に又その独自の、相対的に大なる役割と、わずかに似非立憲的形態で軽く覆われているに過ぎぬ」(日本共産党編『コミンテルン、日本問題にかんする方針書、決議集』、五月書房、一九五五年、八〇~八一ページ)。二二年テーゼ以来、一貫して、天皇制についての打倒の根拠はその政治的、経済的な側面である。コミンテルン書記局の「日本共産党当面の任務」(一九二八年)にごくわずか「〈神聖なる国体)擁護にその主要目標を向けた社会民主主義者の暴露」(同上、四〇ページ)に言及されているにすぎない。
52. 竹内「日本のアジア主義」前掲書所収、二六〇ページ。
53. 伊藤隆は、マルクス主義史学をかつての皇国史観と並べて、ソ連の崩壊と共にその「命脈を断たれかかっている」と述べている。(前掲、伊藤隆編『日本近代史の再構築』、山川出版「はじめに」より)伊藤のここでのマルクス主義史観はヘ三二年テーゼから一歩も出ないものだ。もし、現に今日本にあるマルクス主義史学もまた伊藤のいうように、三二テーゼの呪縛から解放されていないのであれば、それは命脈を断たれてもいっこうにおかしくはない。そして、その結果何ものこらないとすれば、それは、日本の「マルクス主義史学」の怠慢であって、マルクス主義とは何の関係もない。
54. 吉本隆明「日本のナショナリズム」、『現代日本思想体系4、ナショナリズム』一九六四年、『吉本隆明全著作集』第一三巻所収、勁草書房、一九〇ページ。
55. 吉本は、自らのナショナリズム論を提起する際に、何人かの論者を特に名前を挙げて批判をしている.そのなかに、プラグマティズムによるアプローチとして批判されている鶴見俊輔がいる。確かに『共同研究・転向』では、大衆の側からのアプローチという観点はなく、その意味では吉本の批判は当たっている.しかし、鶴見は後に転向研究を「やり直さなければならない」と自己批判する.つまり「転向論というのは、基本的には大衆の思想論なんだという感じを持ちます」と述べ、知識人に関しても「どういう理論の経路をとったかということよりも、いかなる態度をもって自分は人生を生きるか、のほうが重要だ」と指摘している.そして、西田幾太郎にしても田辺元にしても、その「虚無主義」をそのものとして受け取れない、「いざ戦争となると、そっくり天皇制の風呂敷で包み込まれてしまう」ということのなかで哲学の評価をしなければならないということを強調する.(竹内実との対談「戦争における民衆の転向」『季刊。現代史』創刊号、一九七二年)
56. 吉本、前掲論文、二○七ページ。
57. 同上、二一一ページ。
58. 同上、二一二ページ。

出典:『aala』98号、1995年