主宰者からのお知らせ

プロプライエタリ社会をハックする:セキュリティー・エデュケイション

投稿日:

当初、インターネットは社会を変える民衆のツールとして現れたように見えました。しかし、そのツールはどのような使い方も可能なものでした。猛威を振るう資本の流れは、ドットコムバブルを引き起こし、インターネットを資本に取り込んだのです。それは資本と政府が渇望する民衆管理のツールとして発展し始め、SNSの出現によってその能力は飛躍を遂げています。同時にインターネットの自由の保護に邁進する人たちも現れています。その最先鋒である「Electronic Frontier Foundation(電子フロンティア財団)」が進めるデジタル・セキュリティー・ラーニングサイト「Security Education Companion」を参照しつつ、そのノウハウを共有しましょう。

今回のセミナーの内容
・Security Education Companionの解説
・SNSの設定チェック(Facebookの設定)
Tailsの使い方(起動時に行う設定とデータの保存方法)
※PCとTailsのUSBをお持ちください。予備も用意します(USB代実費)。

日 時:2018年5月18日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

監視社会

戦争を煽るJアラート

投稿日:

(転載に際しての前書き) 下記の文章は昨年(2017年)10月に執筆したものだ。丁度朝鮮半島情勢が緊迫していた時期に、戦争を煽る国内の動員体制の一貫としてJアラートに関心が良せられていた時期である。その後、朝鮮半島情勢の緊張が大幅に緩和されたにもかかわらずJアラートの体制が一貫して維持されている。こうした現状への批判の意味も含めて以下、文章を転載する。


現在日本政府が国内で対応している有事を前提とした「国民保護」を名目とした動員体制は、法制度の枠組も含めて、実質的には戦時動員体制といっていいものだ。この体制は、ポスト冷戦期のグローバル資本主義による旧社会主義圏と第三世界の統合過程がもたらした地域紛争と切り離せない日本の安全保障政策の変質に結果だが、その淵源は、1999年の周辺事態法に遡ることができる。「国民保護」は、2001年「同時多発テロ」を契機に日本が、対テロ戦争の参戦国として、主としてロジティクスの一端を担うことを鮮明にして以降の日米同盟の質的な変化に対応した国内体制の整備であった。法制度でいえば、2003年以降たてつづけに成立した武力攻撃事態対処関連法、有事法制関連法などだが、国民保護法(2004)もまた有事関連法に位置付けられて成立し、Jアラートはこの国民保護法を根拠として制度化された。

 

自然災害と戦争を同じ「災害」の枠組のなかで捉えて、「防災」という概念で一体化する動きは、国民保護法の制定以降顕著になってきた。そして、ここ数年、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮と略す)によるミサイル発射実験のたびに、防災訓練などが、一気に戦争を前提とした戦災訓練へと転換してきた。毎年91日を防災の日として、この時期に繰り広げられてきた自衛隊、消防、自治体、学校、地域住民の防災組織やボランティア組織による防災訓練も、北朝鮮のミサイルへの対応を公然と掲げたミサイル防災の様相を帯びた。これまでも「防災」体制は、一貫していわゆる北朝鮮の脅威を口実として、治安維持の性格を色濃くもってきたが、昨年以降、戦争法制の整備とも連動して、自然災害に対する防災という建前をかなぐり捨てて、直截に戦争防災という様相を露骨に示しはじめたように思う。

 

通称「Jアラート」と呼ばれている全国瞬時警報システムは、消防庁が管轄しているにもかかわらず、実態として自然災害よりも治安維持を内包させた戦争対応といった性格を濃厚にもちはじめ、それに連動して消防そのものもまた、治安維持組織の性格を持ちはじめているようにみえる。

 

 銃後動員体制のインフラとしてのJアラート

 

Jアラートは、総務省消防庁側の配信設備で構成される送信局と、都道府県・市町村側の受信局で構成される。ミサイル発射など有事関連は、内閣官房から国民保護関係情報として発信され、気象庁からは気象関係情報が発信される。これらを消防庁が受け、通信衛星(SUPER BIRD B2)経由で各自治体などに配信する。その後、自治体などへの配信には、通信衛星に加えて、かの悪名高いマイナンバーカードの管理システムなどを担う地方公共団体情報システム機構が運営する総合行政ネットワーク(LGWAN)とインターネットの地上回線も加えられる。各自治体などの受信局設備でこれらの情報を受け、市町村防災行政無線、ケーブルテレビ、コミュニティFMなどに自動起動装置を介して住民に配信される。気象庁からは携帯電話会社を通じて、エリアメール、緊急速報メールが配信される。これを数秒から数十秒以内に実現しようというのがJアラートの目論見だ。

 

Jアラートと総称されているシステムは、実際にはいくつかの独立したシステムから構成されている。内閣官房からの「国民保護情報」と気象庁の災害情報それぞれが独立して有している監視と情報発信のシステム、これらを統合して運用する消防庁のシステム、通信衛星やLGWANなどを介して各自治体が受信するため受信システム、そして、この受信システムからの情報を受けて、情報の種別に応じた処理を行なうシステム、そして情報を受信すると自動的に起動して住民へ情報を配信するシステムなどに分けられる。これらのシステムは、誤作動やシステムの不具合がこれまでもあったように、決して単純な仕組みではない。

 

Jアラートの受信システムは、現在民間企業3社、センチュリー、理経、そしてパナソニックの寡占市場である。受信システムは、ミサイル発射などへのより迅速な対応のためという理由で、来年システム更新があり、パナソニックはこの市場から撤退すると言われており、将来的にはセンチュリーと理経の二者のみが受信システムを販売することになりそうだ。報道によれば現行機種は19年度以降、現行の受信システムは使用できなくなるというから、全ての自治体はシステムの更新投資を余儀なくされる。売り手にとっては、極めて旨味のあるビジネスになる。これまでも全ての市町村にもJアラートを配備するために、国の全額補助などが行なわれてきているので、受信システムメーカーの利権は大きい。適正な価格での市場競争などありえようもない寡占市場だから、まさに戦争や危機で越え太る死の商人が、戦場の兵器だけでなく、銃後の動員体制でも遺憾無く発揮されているといえそうだ。

 

災害から戦争対応へ

 

Jアラートは、設置当初自然災害への緊急避難対応を主とする位置付けだった。瑣末なことのようにみえるが、消防庁はこのシステムを立ち上げる際に「全国瞬時警報システム(J-ALERT)は、津波警報や緊急地震速報、緊急火山情報や弾道ミサイル情報といった対処に時間的余裕のない事態が発生した場合に、通信衛星を用いて情報を送信し、市町村の同報系防災行政無線を自動起動することにより、住民に緊急情報を瞬時に伝達します。」と述べていた。(『全国瞬時警報システム(J-ALERT)についての検討会報告書、実証実験結果及び標準仕様書』2006)

 

ところが最近では「弾道ミサイル情報、津波警報、緊急地震速報など、対処に時間的余裕のない事態に関する情報」というように弾道ミサイルがまずトップに表示されるようになった。いわゆる武力攻撃や有事といった事態で想定されている項目がいくつかあり、航空攻撃情報、ゲリラ・特殊部隊攻撃情報、大規模テロ情が列挙されているが、ミサイル以外の他の項目が「攻撃」を想定しているのに対して、弾道ミサイルに関してだけは「攻撃」の文言がない。そのためにミサイルに関しては、実験であれ演習であれ、攻撃でなくとも攻撃同様の緊急避難の体制をとることになる。このセコい制度上の些細な文言に、実はこのシステムの本質が図らずも露呈している。すなわち有事に対応するための、避難と動員を一体化させて、この枠組に地域住民の草の根の組織から巻き込むということである。そして、実際に、攻撃とも言い難いミサイル発射をあたかも「攻撃」ともみまがう不安と恐怖を煽ることで北朝鮮への敵意を醸成するための格好の口実として利用してきた。こうした動きに、冷静な状況判断をなすこともなく、自治体や企業が半ば自発的に巧妙に同調してきたといえる。

 

他方で、Jアラートでは、原発への攻撃や火災は想定されていても、現実に最も可能性の高い原発事故については例示すらされていない。自然災害と国民保護法が前提している武力攻撃事態のいずれにも該当しないからなのだろう。これまでの災害の実害からすれば、原発事故は地震とも連動する最も深刻な被害をもたらし、繰り返し人災としての事故を起してきたにもかかわらず、まるで原発事故など皆無であるかのような対応である。消防機関と原子力事業者との消防活動に関する連携強化のあり方検討会の「消防機関と原子力事業者との消防活動に関する連携強化のあり方検討会報告書」(http://www.fdma.go.jp/neuter/about/shingi_kento/h28/renkei_kyouka/houkoku/houkoku.pdf)をみても、原発火災を中心とした対応しか検討されていない印象が強く、とうてい東日本大震災と原発事故を正面から総括しているとはいいがたい。火災や自然害とは全く無関係といってもいい「国民保護」への消防庁の力の入れようはかなり異常なものと映る。まるで自衛隊や警察と一体となった治安機関であるかのようですらある。

 

ミサイルによる被害よりも交通事故で死亡する確率の方が格段に高いにもかかわず、この異常な危機の扇動は、言外に、日本の世論を感情に北朝鮮敵視へと誘導することになる。戦争に踏み切ることをより容易にし、改憲を必要とする立法事実を演出する上で、Jアラートは格好の舞台装置となっている。

 

戦争を回避不可能な天災とする発想

 

「国民保護」は、外部からの武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態(武力攻撃事態)と、武力攻撃の手段に準ずる手段を用いて多数の人を殺傷する行為が発生した事態又は当該行為が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態(緊急対処事態)に分けられている。武力攻撃事態の例示としては、着上陸侵攻、ゲリラ・特殊部隊による攻撃、弾道ミサイル攻撃、航空機による攻撃などであり、緊急対処事態の例示としては、原子力事業所等の破壊、石油コンビナートの爆破等、ターミナル駅や列車の爆破等、炭疽菌やサリンの大量散布等、航空機による自爆テロ等が挙げられている。(消防庁国民保護室「国民保護のしくみ」、消防庁ウエッブサイトから)こうした事態を一括して「武力攻撃災害」という珍妙な命名で「災害」と位置付けている。こうして戦争はあたかも天災であるかのように扱われることになる。

 

災害には幅広い意味があるが、災害基本法では異常な自然現象又は大規模な火事など自然災害を指すものとして定義されていた。こうした定義が明らかに、1990年代以降変質した。自然災害そのものも文字通りの意味で「自然」に起因するとはいえない事態であることは、気候変動が深刻化したり自然破壊という人為的な原因を抜きには語りえないことは明らかとはいえ、武力紛争や戦争は、意図的に災害をつくりだすことを目的とした行為であって、意図せざる副作用などといったものではない。にもかかわらず、台風のような自然現象は避けることができないように、戦争もまた避けようのない事態であるかのような認識を前提とした制度が国民保護法制なのである。

 

国民保護法制には、救援、救助、避難などについて国民への協力要請と称する事実上の動員の心理的な圧力も明文化され、地域防災組織やボランティア団体への支援もまた定められている。Jアラートは、こうした「国民保護」法制の枠組のなかで、これを具体的に実施する上で、必要になる緊急避難などの行動へと住民を誘導するためのインフラであるが、同時に、このシステムは、繰り返し避難訓練などにも用いられたり、今回の北朝鮮ミサイル発射に際しても発動されるなどを通じて、ある種の積極的な参加型プロパガンダの手段としても機能している。人々は、日常的に、マスメディアなどを通じて、北朝鮮への敵視感情が繰り返し醸成されるような環境に置かれているが、こうした受け身の態度からJアラートは必要な行動へと人々を促す効果をもつ。

 

実際、官民あげてのヒテリックなミサイル恐怖症を煽るような行動がとられてきた。JR東日本は列車を止め、文部科学省は、ミサイル発射の度に自治体の教育委員会を通じて小中学校など教育機関に注意喚起の通知を出し、一部の学校では休校などの措置がとられた。そして自治体レベルでのミサイル発射を想定しての避難訓練が頻繁にみられるようになってきた。

 

戦争を煽るJアラート体制への抵抗

 

北朝鮮のミサイル発射に対して、この国の住民たちに与えられた選択肢は、戦争を前提とした避難だけで、戦争を回避するという最も重要な選択肢は―あたかも台風が避けられないのと同じように―最初から放棄させられている。政府は、憲法が義務づけている国民の財産と安全を確保するために必要な措置をとっているかのような装いをとって、防災体制を正当化するが、むしろ戦争を煽る効果に軸足がある。というのも、政府はもっぱら北朝鮮に対する人々の不安感情を煽ることによって、軍事的緊張を正当化することしかしていないからだ。国民保護法制そのものが戦争(武力攻撃事態)を想定しての体制であるから、相手国にとっては、戦争を挑発されているに等しく、戦争準備のための国内体制であると解釈されてもおかしなこととはいえない。こうなればなるほどますます軍事的な緊張が高まることになる。しかも、「国民保護」の名目は、あくまで攻撃の主体は北朝鮮など他国であって、日本は一切の武力行使の挑発行為には加担していないかのポーズをとることのよって、正義の仮面を被りつづける。しかし、現実の東アジア情勢を客観的にみれば、朝鮮戦争の休戦以降、米軍は朝鮮半島から撤退せず、韓国と日本の米軍が恒常的に北朝鮮に対して挑発的な軍事演習などを行ない、日本もまた戦争のロジスティクスの一端を担ったり、あるいは偵察衛星を打ちあげるなどの挑発を繰り返してきた。挑発は双方にあるにもかかわらず、、日本のメディアは日本や米国の挑発を挑発とは報じない。東アジアからの米軍の撤退なしに北朝鮮に核の放棄を迫ることが地域の紛争解決をもらすとはとうてい思えない。

 

だから、本来、平和を希求する人々がこのような国民保護法制の制度に組み込まれることを拒否する態度をとることが重要なのだが、地域でも職場でも、徐々に国民保護体制への巻き込みが進んでいる。たしかに、現状では、Jアラートは半分笑い話のようでもあり、各自治体などのミサイル避難訓練や学校の休校措置なども、過剰反応ではないかという素朴な実感をもつ人々も少なくないが、こうした動員体制は、マニュアル化され、各組織ごとに詳細な防災計画が策定され、担当者が置かれることによって、動員が「仕事」とされ、万が一被害があったときの責任問題を恐れて、各組織ともに過剰な同調行動ばかりが促されて、こうした危機扇動体制への疑問や批判の意思表示すら抑え込まれる雰囲気が蔓延しはじめている。他方で「北朝鮮は何をしでかすかわからない国」という「話し合ってもムダ」とい感情的な嫌悪と不安の感情も広くみられるように思う。こうした感情がヘイトスピーチや排除だけでなく、文字通りの「戦時」となれば、暴力的な敵意にすらなる危険性がある。米国は真珠湾攻撃の後、本土への攻撃はなかったものの、米国在住の日本人をことごとく収容所に収容したように、具体的に目の前には危険な事態などなくとも、排除と敵意は、権力者が煽る不安に支えられて拡大する。その結果として、レイシズムをナショナリズムの名において正当化するような事態が起き、敵対的な感情の対立が、東アジア全体の民衆相互の分断ばかりか、国内の民衆相互の分断と敵対関係を形成し、こうした事態が治安維持活動に口実を与え、警察権力の肥大化に帰結する。こうし一連の動きにJアラートのようなアクティブ型の動員・誘導のシステムは最も効果を発揮してしまうかもしれない。

 

武力攻撃事態や有事への対応などという事態を想定することが現実主義的な政策対応だという誤った考え方がある。しかし、いかなる意味においても、国家が軍事力に依存した解決を図るとき、人々の安全が保障されたためしはない。この列島に暮す人々の安全と安心を確保するための必要条件は、この地域の軍事的なリスク要因を除去すること以外になく、それは、この地域からの米軍の撤退と日本国家の非武装という戦後のラディカルな平和主義が掲げた原点を堅持すること以外にない。どのような事態になろうとも、私たち一人一人が、政府の政策や思惑への同調を拒否して、武力行使は私たちの選択ではないという立場を堅持するという反戦平和運動の原則が再確認されるべきだろう。

(初出『季刊・ピープルズプラン』78号 2017年11月)

 

主宰者からのお知らせ

集会ご案内:5月12日(土)「安倍改憲」と「祝・明治150年」問題

投稿日:

手前味噌ですいません。以下、主催者からの案内を転送します。
お近くの方は是非いらしてください。わたしは憲法学者ではないので憲法
学的な話は一切しません。(できません) 突っ込みどころ満載な話しにな
ると思います。

2018年度 第1回「集い」 ご案内
「安倍改憲」と「祝・明治150年」問題
「安倍改憲」の強い意欲と、この「明治150年記念」キャンペーンをつなぐ串刺しは何?何やらら「におい」を感じませんか?
憲法記念日後ですが、論説・問題点指摘をいただき、共に考え交流してみませんか。
ぜひ、ご参加を!
■日 時 5月 12日・土  13:30~16:30
■場 所 市川市文化会館(下図参照) 第5会議室
■お 話 小倉利丸さん (富山大学名誉教授)
<プロフィール> 1951年~  東京都生れ 法政大学卒 東大大学院経済学研究科中
退 経済学者(現代資本主義論) 現代社会論研究者 教育者 評論家
富山大学経済学部教授(2005年~)
(著書)「多様性の全体主義・民主主義の残酷 9・11以降のナショナリズム」(2005年 インパクト出版社)「抵抗の主体とその思想」(2010年 インパクト出版社)  <共著>「東アジア 交錯するナショナリズム」(2005年 社会評論社) <編著>「危ないぞ!共謀罪」(2006年 樹花舎)

◇資料代   500円     4/19現在、安倍首相(内閣)の
「行政私物化」汚濁、官邸一強に蠢く財務省の「忖度政治」、防衛省の
「公文書」隠蔽他のモラルハザード等が、自浄作用の力なく多くが外部か
らの指摘が風穴を開けるという無様を晒し、「内閣総辞職も時間の問題」
との声も上がる情勢に。その渦中の安倍首相が政治的意欲を燃やし続ける
「憲法改悪」のタイムスケジュールが公表され、とりわけ「9条改悪」
(「新安保法制」下の現自衛隊の明文化)の是非が、私たち国民ひとりひ
とりに問われようとしています(国民投票)。安倍首相の「改憲」論拠は、
一貫して「戦後レジュームからの脱却」(=押し付けられたとする現「日
本国憲法」の否定)にあり、その基本理念は2012年の「日本国憲法改
正草案」に如実であり、「明治憲法」復活を想起させる内容と言えます。
その一方で安倍政権は今年、大々的な「明治150年記念事業」を計画し
ているといいます。官邸HPには「明治以降の歩みを次世代に残すことや、
明治の精神に学び日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。」
「次世代を担う若者にこれからの日本の在り方を考えてもらう契機とす
る。」などとあります。

主催・戦争はいやだ!市川市民の会

共謀罪

声明 知的財産戦略本部・犯罪対策閣僚会議による「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策」に反対する。

投稿日:

以下、JCA-NETの声明を転載します。海賊版サイトへのブロックの問題はこの声明のなかで指摘されていますが、こうしたブロックが公権力とプロバイダーによって恣意的に行なえる土台が構築されかねない極めて危惧すべき政策だと考えます。


声明
知的財産戦略本部・犯罪対策閣僚会議による「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策」に反対する。
2018年4月23日
JCA-NET理事会
東京都千代田区外神田3-4-10 神田寺ビル4階D
問い合わせ先
小倉利丸(理事)
toshi@jca.apc.org

4月13日、政府の知的財産戦略本部・犯罪対策閣僚会議は「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策(案)」を公表した。(以下「緊急対策案」と呼ぶ)

この緊急対策案は「昨今運営管理者の特定が困難であり、侵害コンテンツの削除要請すらできない海賊版サイト(例えば、「漫画村」、「Anitube」、「Miomio」等のサイト。)が出現し、著作権者等の権利が著しく損なわれる事態となっている」と現状を分析した上で、「インターネット・サービス・プロバイダ(lSP)等による閲覧防止措置(ブロッキング)を実施し得る環境を整備する必要」を提言するものになっている。

「緊急対策案」は、ブロッキングが憲法第21条第2項、電気通信事業法第4条第1項に定められている「通信の秘密」条項を「形式的に侵害する可能性がある」こと、また憲法21条の表現の自由への影響を「懸念」するとした上で、敢えて刑法でいう緊急避難(刑法第37条)に該当する案件であるとして、「違法性が阻却」されるという立場をとった。

JCA-NETは、この緊急対策案に対して明確に反対の態度を表明するとともに、この緊急対策案の撤回と、ブロッキングを合法化する法整備に反対する。以下、その理由を述べる。

(1)憲法で保障されている私たちの権利を侵害する政策であること。「緊急対策案」は、政府が自らの政策の策定によって憲法に保障された基本的人権を制約できるという憲法理解を前提にしている。政府は、憲法が定めている私たちの基本的人権としての通信の秘密や言論・表現の自由を尊重すべき義務を負うにもかかわらず、むしろ、その義務を放棄し、逆に私たちに権利の放棄を強いるものである。「海賊版」問題が現在いかなる状況にあろうとも、私たちの通信の秘密や言論・表現の自由を制約する理由にはならない。

(2)ブロッキングはアクセスの犯罪化に道を開きかねない。「緊急対策案」は、いわゆる「海賊版」サイトの閉鎖やコンテンツのアップロードの犯罪化ではなく、アクセスするユーザをブロックという手段を用いて事実上の行政処分と同等の効果を持たせようとしている。海賊版対策としてウエッブサイトを停止させる強制措置は、米国で2011年にSOPA法案(Stop Online Piracy Act、海賊行為防止法案)として立法化が図られたが、検閲に反対する大規模な運動が国際的に起き、頓挫した経緯がある。日本政府はこの経験を踏まえて、米国などに拠点を置くサイトを標的にするのではなく、日本国内のユーザをターゲットにしてその権利を制限する措置にでた。日本政府に従順なISPと市民的自由の権利意識が低いこの国のユーザたちなら容易に飼い馴らせると踏んだに違いない。なんとも馬鹿にされたものだ。日本のユーザは怒らなければいけない。アクセスは権利であり犯罪ではない。アクセスのブロックこそが憲法に保障された権利を侵害する権力犯罪である。

(3)ISPに違法行為を行なわせ、政府の管理下に置く政策である。「緊急対策案」は、ブロッキングをISPなど「あくまで民間事業者による自主的な取組として、民間主導による適切な管理体制の下で実施されること」としているが、これはISPを政府の管理・監督下に置く体制を構築することになる。ISPは憲法と電気通信事業法が保障している私たちの通信の秘密を遵守する責任を負う。ISPが逆に、この責任を放棄させられて通信の秘密を侵害し検閲行為を行なうことになれば、明かな違法行為の当事者となる。政府公認の犯罪がまかり通ることになる。ISPはユーザのプライバシーや通信の秘密を技術的にも保障すべきであり、政府の検閲の手先となるような政治的な圧力に屈するべきではない。

(4)ネットアクセスの監視を恒常化させ、自由なコミュニケーションを阻止することになる。サイトブロッキングでは、ネットのサイトアクセスをISPが監視し、違法性のあるコンテンツへのアクセスを検知した場合に、当該サイトへのアクセスをブロックすることになる。ISPは常時ユーザの行動を監視する一方で、アクセス先のコンテンツの違法性を判断してブロックを実施する。どのサイトを違法と判断するのかを個々のISPに委ねることは現実的ではないから、結局は政府が著作権等の業界団体を巻き込みながら、違法サイトの判断において主導権を握ることになるだろう。個々のISPは、政府や業界団体の指導のもとでユーザを監視する役割りを強いられる。このような体制のなかでユーザは、常に契約先のISPに監視の目に不安が感じなければならず、ネットにおける自由なアクセスやコミュニケーションを阻害されるようになるのは明かだ。

(5)ISPはユーザのプライバシー情報を政府に提供する目的で保有せざるをえなくなる。通信の秘密を保持するために、ISPは必要のないユーザの個人情報を保持すべきではない。しかし、ブロッキングが実施されることになれば、ISPは将来の訴訟等を前提にしてユーザのアクセスログなどを蓄積しなければならなくなる。しかも、このプライバシー情報は、政府や捜査機関等に開示することを目的として保持するということになる。言論・表現の自由は権力に対してプライバシーの権利、コミュニーションの自由が確立していることが大前提である。政府によるプライバシー情報の把握体制は、この前提そのものを崩すことになる。

(6)監視のない自由なコミュニケーション技術もまた規制される可能性がある。この制度が実効性をもつためには、ISPがユーザの行動を把握できないような技術をユーザーが用いることを規制する方向へと向いかねない。VPNの利用や端末間(エンド・ツー・エンド)の暗号化された通信、アクセス先を秘匿できるネットワークサービスなどがことごとく規制される恐れがあるなど、政府が把握できないようなユーザのネットでの行動が網羅的に規制されるか違法とされる恐れがある。

(7)より一般的なサイトブロッキングに道を開く危険性がある。サイトブロッキングはこれまで児童ポルノに限定されてきたが、それが今回は「海賊版」に拡大されたのであって、こうした規制拡大の傾向を踏まえると、サイトブロックの手法が今後も更に拡大される可能性があると言わざるをえない。「緊急対策案」は、当面の措置として、「『漫画村』、『Anitube』、『Miomio』の3サイト及びこれと同一とみなされるサイトに限定してブロッキングを行うことが適当」としているが、将来はこの限りではない。政府は、刑法の緊急避難条項を拡大解釈し、司法の判断も立法措置もなしで、政府が独断で違法と判断したサイトへのアクセスをブロックできるとした。これは、緊急避難条項の拡大解釈であり、法の支配をないがしろにする行政府の明かな暴走である。現政権は、権威主義的な改憲、秘密保護法、安保関連法制などの戦争法制、盗聴法の改悪、共謀罪新設、2020年の東京オリンピックを念頭においてのサイバーテロ対策など、立て続けに人権をないがしろにする法律や政策を打ち出している。共謀罪のようなコミュニケーションの犯罪化の法律を念頭に入れたとき、また世界各国の独裁的権威主義的な政府のネット規制の現状を踏まえたとき今回の海賊版問題への対処と同様の手段を用いて、違法行為の疑いを理由に、政府への異論や反対運動がブロックされる恐れがある。

(8)「緊急対策案」は政府の人権侵害を正当化し、憲法をないがしろにする法制度への道を開く。政府などの公権力による干渉や監視によって、その自由が侵害される危険性がどこの国でも高まってきている。インターネットにおけるコミュニケーションの自由は、ISPが通信の秘密を遵守しユーザのプライバシーの権利を最優先とすることでその自由なコミュニケーションが保障されるものだ。しかし、この体制は、公権力による介入や干渉に対しては脆弱だ。「緊急対策案」はまさに、コミュニケーションの自由を侵害する典型的な公権力による介入である。緊急対策として導入された制度が既成事実となり、それが立法事実としての口実を与え、結果として憲法をないがしろにする法制度を正当化する恐れがある。このような一連の流れに道筋をつけさせないためにも「緊急対策案」には断固として反対する。

以上の声明は下記を参考にして作成された。

知的財産戦略本部
第4回 検証・評価・企画委員会『模倣品・海賊版対策の現状と課題』内閣府 知的財産戦略推進事務局
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/tyousakai/kensho_hyoka_kikaku/2…
「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策」(案)(概要)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/180413/siryou1.pdf
「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策」(案)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/180413/siryou2.pdf
インターネット上の海賊版サイトに関する進め方について別ウィンドウで開きます
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/180413/siryou3.pdf

各団体が出した声明
一般社団法人インターネットユーザー協会
主婦連合会
「政府による海賊版サイトへのブロッキング要請に反対する緊急声明」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1804/11/news113.html

一般社団法人インターネットコンテンツセーフティ協会
(理事団体)
一般社団法人日本インターネットプロバイダー協会
一般社団法人テレコムサービス協会
一般社団法人電気通信事業者協会
「著作権侵害サイトへのブロッキングに関する声明」
http://netsafety.or.jp/news/info/info-026.html

一般社団法人モバイルコンテンツ審査・運用監視機構
「インターネット上の漫画海賊版サイトのブロッキング要請に対するEMAの意見」
http://www.ema.or.jp/press/2018/0411_01.pdf

情報法制研究所(JILIS)
「著作権侵害サイトのブロッキング要請に関する緊急提言の発表」
https://www.jilis.org/pub/20180411.pdf

共謀罪

私たちのサイバーセキュリティを! 共謀罪で萎縮しないための実践セミナー

投稿日:

以下の文章は4月2日に開催された同名の集会で配布したものです。発言の機会を与えてくださった主催者に感謝します。

1 はじめに

共謀罪反対運動は、下記のような批判を共謀罪に投げかけてきました。

「普通の市民団体や組合が組織的犯罪集団に!!
政府・法務省は、共謀罪はテロリスト集団や組織的犯罪集団が対象であり、普通の団体には適用されないといっていますが、これはウソです。法案には組織的犯罪集団とはどういう集団なのかなどの規定はありません。市民団体、組合、会社などの団体のメンバーが一度共謀したと判断されればその団体は組織的犯罪集団とされます。共謀罪は思想・意見・言論を処罰し、結社=団体を規制する、現代の治安維持法です。(2017年4月6日 日比谷集会呼びかけ)」

わたしは、こうした反対運動が提起した共謀罪反対の危惧を、共謀罪推進側が言うような、単なるプロパガンダだとは考えていません。皆さんもまたそうだと思います。わたしたちが市民的な自由や人権のために闘えば闘うほどわたしたちは組織的犯罪集団とみなされることになる。そうした環境のなかにいるのだ、ということを冗談でも誇張でもなく受け止めて、闘い方に創意工夫をこらすことが必要になってきたのです。

1.1 治安維持法の時代との違い

共謀罪は治安維持法の再来として批判されてきましたが、実態は戦前とはかなり違ってきています。特に、インターネットなどのコンピュータを介したコミュニケーションが与える影響は戦前にはないものです。実世界の私たちの行動にへばりついて、四六時中監視することはさほど意味のあることとは考えられません。私たちがどこにいるのかは、尾行しなくても常時持ち歩くスマホのGPSが教えてくれます。車に載ればNシステムが追跡する。ネットのメールやSNSでのコミュニケーションは通信事業者のログでほぼ把握できます。ウエッブで内閣、警察、自衛隊から企業までどこをチェックしても、必ず相手のサーバはこちらの行動を伺う技術を持っています。街中の監視カメラも次第に、ネットワーク化され、顔認証システムが搭載され、データベースと連動するようになっています。

膨大なデータを処理するのも人間ではなくコンピュータです。たった1ギガのメモリに日本語A4で40万枚から100万枚もの文書が収録できるのです。8ギガのメモリがたったの1000円程度です。しかも、政府やマスコミが警鐘を慣らす「サイバー攻撃」なるものの攻撃者になっているのは、どこの国でも政府、警察、軍隊であり、その攻撃の的は国内にいる反政府運動活動家や人権活動家なのです。

1.2 共謀罪でどのようにリスクが拡大したか

共謀罪は思想・信条を処罰する法律です。共謀罪の処罰を恐れて、私たちが思想・信条を曲げたり、反政府運動から撤退するようなことがあってはならないわけですが、同時に、共謀罪の成立によって、従来であれば違法とはみなされなかった事態が違法とされるために、捜査機関による捜査や検挙といった弾圧の可能性が拡がったことも事実です。共謀罪が前提にしているのは、会議などの議論が政府にとって不都合な異議申し立てや反政府運動などに繋ることを恐れています。他方で私たちは、行動の正当性を確保するために、仲間や多くの人たちと議論を重ね、合意を形成する過程を大切にしなければなりません。

もし、捜査機関などが、共謀罪の捜査を口実に、私たちの会議や議論の場に同席することがあるとしたら、私たちはそれでも自由な議論ができるでしょうか。言うべきことも言えなくなって沈黙する人、会議などにそもそも参加することを躊躇する人、権力の顔色をうかがいながら権力におもねるような発言をする人など、議論そのものが自由であることを阻まれて歪められるのではないでしょうか。もちろん、警察がいようといまいと、検挙される危険があろうとも、自由に自分の意見を言えるタフな人もいるに違いありません。しかし、多くの人々はそれほどタフではないのではないかと思います。

1.2.1 匿名であることの大切さ

たとえば、選挙の場合を考えてみましょう。私たちの社会では思想・信条の自由が憲法で保障されているにもかかわらず、選挙で誰に投票したのかを人に知られないように無記名で投票します。なぜ正々堂々と自分が誰に、あるいはどこの政党に投票したのかを言えないのでしょうか。自分の思想・信条を自由に表明し、その結果としていかなる意味でも社会的な不利益を被ったり差別や偏見にさらせれない社会ができない限り、無記名投票は民主主義を支える重要な条件です。「匿名」であることが自由を保障する重要な前提条件であるということは、選挙だけでなく一般に言いうることです。

あるいは、マイナンバー制度のように個人のプライバシー情報を網羅的に把握可能な仕組みは、思想・信条の自由など基本的人権が保障されているのであれば、政府がどのような個人情報を把握しようとも恐れることは何もないと言えるでしょうか。

1.2.2 萎縮効果は厳しいものがある(たとえばデモの場合)

あるいは、日本では、デモをするときに「デモ申請」なる手続を警察にする必要がありますし、デモコースやデモの時間、デモの隊列の組み方などをこと細かに指定されます。本来、デモも言論・表現の自由に属することですから、こうしたデモ申請という手続きやデモの規制は人権侵害ですから、こうした人権侵害のルールは無視してもいいはずです。しかし、実際にはなかなかそうはならず、無届けデモによる弾圧を恐れて(萎縮効果ですが)、デモ申請をし、デモの主催者もまたデモの参加者にルールを守らせるための一定の秩序維持の体制をとります。このように、私たちの自由は、憲法が謳うほど確固たるものではありません。非常に脆弱で、萎縮効果を繰り返し受けながらじりじりと自由の領域を狭めるように後退してきたのではないでしょうか。

1.2.3 警察の監視下で自由な議論はできない

このように、共謀罪がない時代であっても、萎縮しないで闘うことは決して容易なことではありませんでした。萎縮しないで闘うことは、決意表明の問題ではないと思います。今まで以上に厳しい状況を耐えながら断固として闘い続けることが必要になってしまえば、運動は大衆化せず、戦闘的な活動家たちが大衆から孤立して闘うことしか残されなくなります。社会を変える運動が大衆的な広がりを獲得するには、人々が自由闊達に、政府や権力や権威を批判あるいは否定し、未だ実現しえない社会を構想しながら、政府に対抗する日常生活の場を創出できなければなりません。このような議論の場を政府や警察の監視や圧力によって歪められないように防衛することは、私たちの基本的人権を確実なものとするために必要なことです。そして、その防衛の手段と方法は、政府や警察がどのような強制力をもって私たちの自由を奪いうるのか、という彼らの力の基盤によって規定されます。共謀罪がない時代と比べて共謀罪がある時代は、私たちがとるべき防衛の手段もまた、この悪法による影響を排除するための、今まではさほど重要とは思われなかったような条件を念頭に置いて再構築することが必要になります。

2 ネットやパソコンによるコミュニケーションと共謀罪

共謀罪の容疑を裏付けるためには、捜査機関は、実行行為以前の「話し合い」の段階での情報収集を行なう必要があります。「話し合い」の内が共謀罪に該当するのはかは、まだ検挙、起訴、裁判の実績がないので不明ですが、捜査機関や検察、裁判所が決めることになり、私たちは、「もしかしたら共謀罪で立件されるかもしれない」という不安を持てば、それが萎縮に繋ります。

2.1 これまでの捜査機関の強制捜査を踏まえると…

会議、メーリングリスト、メールでの意見交換などは一体のもので、ネットでのコミュニケーションと現実に顔を合わせての会議とが有機的に組合されて実行行為に必要な合意形成が行なわれると思います。これらの議論全体が捜査機関によって共謀を裏付ける証拠として強制捜査や潜入捜査、監視や盗聴の対象になるでしょう。裁判所もまた、共謀罪を前提として、強制捜査の令状を幅広く発付するでしょうから、共謀罪によって捜査機関は広範囲にわたって従来にはない捜査権限を手にすることになります。

従来から捜査機関による捜査の常套手段として次のようなことが行なわれてきました。

  • 家宅捜索におけるパソコン、住所録、メモなどの押収
  • 集会会場などの張り込み(場合によっては潜入)
  • デモでのビデオや写真撮影
  • 尾行
  • 職場などへの嫌がらせ的な聞き込み

以上のような捜査機関の行動は私たちにもある程度把握できますが、把握できな活動として以下の活動が行なわれています。

  • 盗聴法に基く通信の盗聴
  • プロバイダや金融期間などが取得している個人データの取得(任意あるいは令状による)

これらは、いずれも捜査に協力した(させられた)通信事業者は、当該のユーザに捜査機関による捜査があったことを告知してはならないという守秘義務が課せられるので、私たちには全く知らされません。これらを通じて、従来の捜査では、活動家の人間関係を洗い出すこと、住所録などから、職業や住所などの個人情報を取得すること、組織での役割りを特定することなどに使われてきたのではないかと推測されます。

2.1.1 捜査機関は共謀罪捜査でどのような「証拠」を欲しがるのか

共謀罪によって、捜査機関は、実行行為そのものだけでなく、「話し合い」が犯罪とされることから、捜査機関はこれまで以上に、保管されているデータの内容に関心をもつようになります。たとえば

  • 会議録や会議メモ どのような議論がなされ、誰が発言したのかなど。音声データがパソコンに残されている場合も多いと思います。
  • メーリングリスト 誰が何を発言したのか。メーリングリストのメンバーはだれか。
  • 会計関連のデータ。誰がカンパや会費を納入しているか。

こうしたデータを相互につきあわせながら、共謀罪に問えるターゲットを絞ることになるのではないかと思います。多分こうしたデータを長い期間にわたって膨大な分量を蓄積してデータベース化するだろうと思われます。ビッグデータの時代ですから、データがいかに膨大であっても、その解析技術も高度化しているので、膨大なデータであること自体は全く支障がありません。

捜査機関は、強制捜査だけでも運動への多きな威嚇になることを知っていますから、共謀罪で立件しないとしても、何年かたって共謀罪で立件されるといった事態になるための証拠を積み重ねるということになるでしょう。

裁判所の強制捜査を拒むことはほぼ不可能でしょう。プロバイダーが私たちの個人情報を提供したとしても、それが法令に基くものなら避けられないでしょう。実はもっと悪いことに日本のプロバイダーは法令に基づかない場合でも、任意で個人情報を提供する余地を残すような曖昧な「プライバシーポリシー」を掲げているのが一般的です。

2.1.2 どのようにして仲間や支援者たちのプリアバシーを防衛するか

私たちのパソコンにあるのは「私」の情報だけではありません。私のパソコンのデータのなかには、私宛に送られてきた知人、友人、あるいは活動仲間のメールや意見、思想・信条にかかわるものの含まれています。こうした第三者の思想・信条を「私」のパソコンを踏み台にして捜査機関が取得することになります。

米国の捜査機関は、捜査対象となっている人物の人間関係を「三等親」まで追跡すると言われています。つまり、私と直接コミュニケーションをとっている相手、その相手がコミュニケーションをとっている相手、さらにその相手がコミュニケーションをとっている相手まで追跡するというのです。たった1台のパソコンから把握できる情報は膨大なものになります。私個人の思想・信条が捜査機関に把握されるだけならいざしらず、何の強制捜査の対象にもなっていない人たちの個人情報まで取得されてしまうことを、萎縮しないで闘うぞ!という決意表明だけで済ますわけにはいかないと思います。

2.2 何がもできないのだろうか?

強制捜査の権限をもつ捜査機関に対して、私たちは何もできないのでしょうか?巨大な権力をもつ監視社会を敵に回して私たちは、それこそ完全に無力なのでしょうか?そうではありません。

2.2.1 私たちがすべきこととは

何はともあれ、私たちが挑戦しなければならないのは、次のような事柄です。

  • 強制捜査を拒否することはたぶんほとんど不可能だろうと思います。パソコンなどの押収は裁判所の令状があれば拒否できないでしょう。しかし、押収されたパソコンのデータに捜査機関がアクセスしようとしても技術的に困難であるような仕組みを使うことはできないものでしょうか?
  • 私たちが知らないうちに、プロバイダーなど私たちが契約している通信事業者が個人情報やメールを提供してしまう場合があります。しかし、捜査機関が押収したメールが捜査機関には読めないというような仕組みを使うことはできないのでしょうか。
  • たとえプロバイダーのメールや個人情報が押収されても、私たちは今まで通り必要な議論や運動のための戦略や戦術を議論しながらも、そもそもそこには肝心の共謀の容疑を裏付けるような捜査機関が欲しがるようなメールやデータが存在しないということは可能でしょうか。

これらはいずれも可能なのです。そしてその可能性については、広く知られてもいます。たぶんこうした技術の利用で最も先端をいっているのは企業でしょう。顧客の個人情報が漏洩しないように防御すること、競争相手から自社の社外秘の技術や経営戦略などを防御すること、国内外の本店と支店などとの間で盗聴などされないでコミュニケーションをとりこと、こうしたことが保障できるコミュニケーションの技術はインターネットのなかに長年にわたって確立されてきています。それを市民運動などは使ってこなかったのです。

2.2.2 世界中の活動家、ジャーナリスト、弁護士などの経験から学ぶ

世界中には、独裁的で抑圧的な国が多くあります。そうした国でもねばり強く抵抗運動を展開する人々や人権活動家、弁護士やジャーナリストがいます。当局の追跡や監視を逃れてネットにアクセスし情報を発信しつづける人々の数は決して少くありません。こうした人々はどうやって自分たちの言論の自由を確保しているのでしょうか?逮捕覚悟で、発信者や発信場所が特性できるような方法で発信しているのでしょうか?敵に知られずに情報発信を持続させることや、コミュニケーションを行動へと繋げる工夫を技術的なことも含めて、皆が必死になって模索しています。こうした人々の経験や知恵に私たちも学ぶべきではないでしょうか。

萎縮しないことは大切ですが、今まで通りの情報発信のスタイルを維持するのであれば、それは、私だけでなく仲間や支援してくれている人々皆をリスクに晒すことになります。こうした仲間を守り、コミュニケーションの回路を確保すること、そのために出来うる最大限のことを実践すること、それが今必要になっていることだと思います。

本日の集会では、次に二つについて、やや具体的にお話をして、当局の監視を排除して私たちの自由な空間を確保するための具体的な方法についても概略をお話します。

2.3 パソコンとネットのセキュリティの基本認識

パソコンであれネットであれ、わたしたちのセキュリティを防衛する手段の基本は、匿名性の確保と「暗号化」です。これ以外の方法はないと思ってください。

パソコンとネットのセキュリティについて次の点を常に念頭に置いてください。

2.3.1 メールは誰でも見ることができる。

宛先の人以外には絶対に知られたくないメールは電子メールで送るべきではありません。電子メールは契約しているプロバイダーのメールボックスに蓄積されます。プロバイダーのメールサーバの管理者はこのメールを読むことができます。インターネットは多くのサーバを経由して世界中と繋っています。場合によっては配送経路の途中で盗聴される危険もあります。

対策としては、重要なメールのやりとりは暗号化するか、自分の契約しているプロバイダーを使わずに、暗号化メールサービスを提供しているサイトを使う。暗号化メールサービスのサイトは世界中にいくつかありますが、以下のサイトは日本語の解説があります。

protonmail

https://protonmail.com/jp/

無料で登録ができます。個人情報は一切必要ありません。パスワードを紛失したときの回復に使うメールアドレスを別途一つ用意する必要があります。

インターネットの途中の経路での盗聴を防ぐ基本的な方法はVPN(バーチャル・プライバシー・ネットワーク)を使うことでしょう。このサービスは、多くの企業などが普通に利用しているものなので、サービスもいくつもあります。

2.3.2 パソコンのデータを暗号化する

パソコンのログインパスワードは気休めでしかない。パソコンの電源を入れたあとで、パスワードを入力しないとアクセスできないように設定していても、これはセキュリティとしてはほとんど意味がありません。このパスワードを回避してデータにアクセスすることは比較的容易です。

パソコンのデータを暗号化するには二つ方法がある。

  • ハードディスク全体を暗号化してしまう。(電源を入れたときに、ハードディスクの暗号は復号化する鍵を入力したあとで、通常のログインパスワードを入力する)
  • 暗号化して保護すべきデータを個別に暗号化する。住所録とか会議録など第三者に見られたくないデータを個々に暗号化する。

上記の二つを併用することもできる。

2.3.3 匿名でネットサーフィンする

インターネットのウエッブにアクセスするときは、かなりの個人情報が相手に取得されていると覚悟する必要があります。テレビと違って、自分の目の前にあるパソコンとアクセス先のホームページを運用しているコンピュータとの間では非常に多くのデータのやりとりがなされています。相手は私の固有名詞を知ることができない場合もありますが(ショッピングサイトでは固有名詞も判明してしまうでしょう)、調べることは不可能ではないと考えた方がいいでしょう。

最も有名な匿名でのウエッブアクセスの手段は、Torブラウザと呼ばれるホームページ閲覧ソフトを使うことだろう。このソフトは捜査機関が「闇サイト」にアクセスするために用いられているなどという風評を流して、その使用を抑制したがっているもの。しかし、これはネットでの尾行を阻止するためには必須の道具でしょう。

3 最後に:実際に日常のパソコンとネットで使えるようになることが大切

共謀罪の「効果」は長期にわたる捜査機関による情報収集と思わぬ時に思わぬ容疑で検挙や摘発へと向う危険性のあるものです。安倍政権が特に危険な政権なのではなく、今後どのような政権になろうとも共謀罪などの治安立法がある限り、警察は私たちへの弾圧の手を緩めることはないでしょう。私たちは、これに対して、出来る限りの方法で私たちの基本的人権を守るための手立てをとらなければなりません。悪法を廃止するには、大衆的な運動が必須です。その運動はどのようなものであれ、明確な反政府運動です。政府に抗うことなしに私たちの権利を回復することはできないからです。そしてこうした運動そのものを潰すことが共謀罪をはじめとする治安立法の趣旨でもあるわけですから、こうした悪法に立ち向かうことができる技術を持つこと必要でしょう。

なによりも、まず、私たちが日常的に使っているネットやパソコンの習慣をこうした共謀罪の時代に対応して変えなければなりません。コミュニケーションのライフスタイルを変えることは実は非常に難しいのです。つい慣れ親しんだこれまでと同じ環境でも大丈夫なのでは、と油断してしまいがちです。

今日の集会が終ってからが本番です。みなさんが帰宅し、まずやるべきは、自分と仲間のコミュニケーションを守り抜くために、できるこを始めることです。暗号化と匿名性を確保したネットとパソコンの利用へと是非一歩一歩進んでいってください。

3.1 (補足)わたしは何をやってきたか

共謀罪が成立して以降、上記のような危惧を抱いてわたし自身がやったことは下記です。(ネットやパソコンに関連して)

  • パソコンのデータのセキュリティの強化。(ハードディクスの暗号化)
  • クラウドサービスの見直し。(Dropboxから有料のTresoritに変更)
  • モバイル環境の見直し(タブレットの暗号化)
  • 暗号化メールサーバのサービスの利用
  • 匿名性を重視したブラウザの導入
  • VPNの導入(有料)
  • 一部のメーリングリスト管理のサーバの引越しと利用頻度の低いメーリングリストの廃止
  • 共謀罪を念頭にしたプライバシーの権利を具体的に防衛するツールの紹介サイトの開設
  • プライバシーとセキュリティについての実践セミナーの開催

まだ取り組めていないこと

  • まだ引越しできていないメーリングリストがある
  • プロバイダーの見直し作業(よりプライバシーの権利を重視するプロバイダーへの変更)
  • 何年も使用していない古いパソコンや記憶媒体のデータの保護措置

まだまだ不十分なのですが、できるところから、ネットの情報を調べたり、セキュリティの本を読んだり、パソコンやネットの初歩的な技術を学んだりしながら、右往左往しながら取り組んできました。

こうしたことは反対運動に取り組んでこられた皆さんそれぞれがなさっていることと思います。本日の集会はこれまでの対抗的な取り組みの知恵を出し合い、知識を共有しながら更に強固な私たちのプライバシーの権利を防衛するための相談の集まりにしたいと思います。

3.2 (補足)anti-surveilanceのウエッブ紹介

 

主宰者からのお知らせ

私たちのサイバーセキュリティ講座 共謀罪で萎縮しないために

投稿日:

市民活動、組合、会社などの団体のメンバーが一度共謀したと判断されれば、その団体は組織的犯罪集団とされます。私たちは、そうした環境の中にいるのだということを、冗談でも誇張でもなく受け止めて、闘い方に創意工夫を凝らすことが必要になってきたのです。

お話し: 小倉利丸さん (おぐら としまる)
批評家。専門は現代資本主義論、情報資本主義論。富山大学名誉教授。
共謀罪に対抗して私たちの自由を防衛するためのサイト
https://antisurveillance.researchlab.jp/
著書:『絶望のユートピア』 (桂書房) 共著:海渡雄一『危ないぞ共謀罪』(樹花舎)

2018年4月2日(月)19:00〜21:00
中野区産業振興センター2階セミナールーム1(45人)

施設概要・アクセス


会場の都合で先着順
資料代:500円
共催:安倍政権にNO!東京・地域ネットワーク
草の根市民広場
問合せ: 090-8311-6678

主宰者からのお知らせ

Good bye 商用SNS!! Kick out リーガルマルウェア!!

投稿日:

facebookは5000万件の個人データを不正にCambridge Anaryticaという調査会社に渡し、このデータが米国大統領選挙のために不正使用させた疑いがもたれています。トップのザッカーバーグは、不正行為を認めて謝罪する事態にまで発展し、facebookボイコット運動が拡がりはじめています。他方で、昨年以来、米国ではあらためて政府捜査機関による合法的なマルウェアを利用して大量の個人情報を盗み出す捜査手法に批判が集っています。ここ日本では、民間のビッグデータを扱うIT産業とマイナンバーのような個人情報を一元的に管理する政府のシステムとが私たちのプライバシーやコミュニケーションの自由を脅かす危険な状況になっています。4月のセミナーでは、こうした事態について簡単に概要を参加した皆さんと共有しながら、自分の使っているパソコンやコミュニケーション環境をどうしたらいいか、具体的な対策を議論します。

・facebookのボイコットをマジに議論します。金儲けや国家安全保障を理由に私たちの個人情報を売り渡すようなSNSと決別して、何を使うか。どうすべきかを考えます。
・捜査機関が使う合法マルウェアの実態と、それへの対策を議論します。

そしてこれまで同様、Linuxユーザの皆さん相互の間での情報交換の時間を設けます。ぜひパソコンを持参して参加ください。

日 時:2018年4月20日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二


「プロプライエタリをハックする」のセミナーは、多国籍企業や政府から自立したコンピュータスキルの共有を目指しています。Linuxパソコンがなくても大丈夫。全くの初心者、ネット、パソコンが苦手な皆さん大歓迎。ノートパソコンを何台か用意します。

ナショナリズム天皇制批判

国による「大嘗祭」および天皇の「即位」にかかるすべての儀式の撤回要請

投稿日:

以下、安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京の要請文を転載します。


内閣総理大臣安倍晋三 様
宮内庁長官   山本信一郎 様

私たちは、「大嘗祭」および天皇の「即位」にかかるすべての儀式を国が行う事について、政府の方針を撤回されるよう要請します。

2018年3月26日

安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京
http://seikyobunri.ten-no.net/

政府は、天皇退位と新天皇即位の日程を、それぞれ2019年
4月30日、5月1日と決め、2019年秋に予定されている「即位式」「大嘗祭」の日程も決まりつつあることが知らされています。そして官房長官を長とする政府の「式典準備委員会」は、
「即位礼正殿の儀」および、「剣璽等承継の儀」をはじめとする5つの「即位の礼」関連儀式を国事行為とし、「大嘗祭」については、「宗教上の儀式としての性格を有するとみられることは否定できない」としながらも、「極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格があり、費用を(公金である)宮廷費から支出することが相当」としました。国事行為であれ、公的行為であれ、現実に国の予算が支出され、国の儀式としてなされることに違いはありません。30年前の政府見解を前例として踏襲する形で論争を避ける、というコメントも付けられていました。しかし、あらかじめ反対意見を寄せつけない形式は、民主主義にも「国民主権」にも反するものです。
私たちは、「大嘗祭」および天皇の「即位」にかかるすべての儀式を国が行なう事について、以下のように考え、反対します。そして、政府の方針を撤回されるよう求めます。
憲法は、主権が「国民」にあることをはっきりとうたっています。天皇は「日本国と日本国民統合の象徴」であり、定められた「国事に関する行為のみを行」うと規定されています。国事行為は実際の政治権能を持たない儀礼的な行為であって、宮内庁という役所も持つ、国家の制度(国家機関)として天皇は存在しています。さらに、憲法20条では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という政教分離原則が定められ、99条で、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定されています。私たちは、「即位礼」「大嘗祭」を国の儀式として行なうことは、この「国民主権」「政教分離規定」「憲法擁護義務」に抵触するものと考えます。
一連の「代替わり」儀式は、それが神道儀式であるというばかりでなく、天皇を神格化する儀式です。天皇は即位した後、「大嘗祭」という皇室神道の儀式を経て神格化するという説が有力です。神格化された天皇の名の下に始めた戦争に敗北したあと、天皇は敗戦処理のひとつとして、「人間宣言」によって自ら、「現人神」であることを否定せざるを得ませんでした。
新天皇即位儀式のひとつである「剣璽等承継の儀」は、「日本神話」に由来する「神器」(レプリカ)を継承する宗教的儀式に他なりません。「大嘗祭」は、亀卜という占いで悠紀斎田・主基斎田の地を定め、神道儀式に則り生育させた稲を採取し、新天皇が新穀を天照大神に供え、共に食して五穀豊穣などを祈る宗教儀式です。また、国事行為とするという「即位礼正殿の儀」をはじめ一連の儀式も、即位の礼について神々に報告を行なう儀式など、宗教的な行為と結びついています。
国の機関が、このような宗教行為を公に行なう事自体が、憲法上許されることではありません。政府は、これらの儀式を行うことを「重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」などと強弁しています。しかし、これらの「伝統」と呼ばれる儀式のほとんどが、明治以降の近代天皇制の儀式として新たに作り出されたものであり、「大正」「昭和」「平成」の「代替わり」時に行われたに過ぎない、決して「伝統」などと言える代物ではありません。
また、「即位後朝見の儀」は、天皇が三権の長らに向かい、高い位置から即位を宣言し、「国民」を代表する首相らが下からそれに応えるという儀式ですが、それは「象徴と主権者の関係」というより「君主と臣下」の関係を表すもので、「国民主権」原則に反します。一連の儀式の意味が、天皇を神格化して主権者である「国民」の上に置く国家による儀礼である以上、それは事実上「国家神道」の祭祀であって、国家が宗教活動を行なうことを禁止する政教分離原則に対する重大な侵犯行為となります。

以上の理由により、私たちは、天皇の「即位礼」「大嘗祭」を、国が関与して行なう事に反対し、政府方針の撤回を要請します。

主宰者からのお知らせ

プロプライエタリ社会をハックする──ビッグデータの光と影

投稿日:

◎ターゲット・マーケティングの戦略◎

今回のセミナーは特別ゲストをお呼びして、ビッグデータの集め方やターゲット・マーケティングの技法をトークしてもらいます。その方法を知ることで、資本への隷属から逃れるプライバシーの守り方を学びます。
トークの時間は1時間程度です。前後にLinuxインストールや暗号化のおさらいをしますので、PCをお持ち下さい。

★トークゲスト:池田佳穂
広告代理店の開発本部でターゲット・マーケティングに従事。現在はアートセンター・オンゴーイング、TERATOTERAで翻訳のほか、海外アーティスト対応など行う。3月より定期的になんとかバー「池田バー」店主。版画女子デビューも果たす。

日 時:2018年3月2日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

オリンピック

憲法とナショナリズム――近代国民国家が抱える構造への批判

投稿日:

1 はじめに――近代150年の断絶と継続

1.1 一貫性の構造

「明治150年」が端的に象徴している時間の観念は、近代を天皇の即位と死の循環によって表象する元号という「暦」の尺度のなかで規定しようとするイデオロギー的な時間の観念である。

日本の近代を明治元年に出発点を求めることが妥当かどうかという問題を脇に置くとして、直ちに日本の近代をのっぺらとした150年という時間のなかで、ある種の一貫性をもった統治機構として位置づけようとすることは、1945年を重要な分水嶺とする認識――これは戦後憲法の理念を肯定し、旧憲法を否定する歴史認識と不可分だろう――と明らかに衝突する。

たぶん政治学者や歴史学者であれば、戦前と戦後という重要な分水嶺を軽視した150年の連続性を端的に象徴する「明治150年」には強い違和感を感じるに違いない。私もまた、こうした違和感を共有するが、しかし、支配者がこの戦前と戦後の分水嶺をあたかも無視するかのようにして喧伝する「明治150年」を単なるイデオロギーの問題、つまり物質的な基礎を伴わない空論の類いだとして退けることも間違っていると思う。

現在の日本の状況を判断するときに、私たちが主観的に抱く現状への強い拒絶の感情を抱かざるをえない極右政権や支配層に対するルサンチマンに身を委ねることを今しばらく禁欲して、彼らのいう150年という時間の連続性の根拠を探してみることは無駄なこととは思わない。むしろ彼らが抱いている150年の連続性の根拠を私たちもまた、しかし、彼らとは明確に真逆な立場から見据えながら、その根拠をなす構造に土台から楔を打ち込むことができるなら、それはむしろ150年という一貫性の構造を根底から覆えしうる梃子の支点を見出すことにもなるはずだ。

1.2 150年に通底する共通の構造とは

150年を近代日本を象徴する時間の幅だとして、戦前、戦中、戦後を貫く近代日本の共通する構造は何か。憲法の枠組からすれば旧憲法と現行憲法という重要な切断面があるにしても、それだけが絶対ではない共通する構造とは何か。たとえば、すぐ次のような連続面を想起することができる。

  • 資本主義であること
  • 国民国家であること
  • 天皇は国家の象徴機能を担うこと
  • 国旗と国歌が日の丸と君が代であること
  • 習俗や慣習としての家父長制。民法は改正されたが家制度が慣習として維持された
  • 人口の多数が日本人としてのアイデンティティを持っていること
  • 刑罰の基本構造が変らないこと。現行刑法は1907年に制定されている

これらをみると、実は戦前と戦後の分水嶺をなす1945年あるいは戦後憲法の体制に比べて、150年のこの国の構造を支える一貫性の方がより根底的な部分を占めていることがわかる。国家や社会の大きな構造的な土台とイデオロギーの基本は、戦前も戦後も一貫したものを維持している。戦後憲法とある種の「民主化」がこの一貫性の構造を甘くみてしまったのではないか。より冷静に、近代の日本を振り返ったとき、資本主義としての構造が残り、「日本人」としてのアイデンティティが残った、というよりもむしろ、戦後も一貫してこれらが再生産されてきたという事実の重さに気付く必要があると思う。

この観点からすると、改憲は、150年間の近代日本の構造的な土台が現代資本主義の新たな構造(グローバル化と情報通信コミュニケーションを資本蓄積の基盤とする対テロ戦争という戦時体制)に適合するように統治機構を再構成するという問題なのであって、改憲に反対するということは当然の課題であるにしても、私たちが見据えるべきなのは、近代日本の土台それ自体が依然として強固に、戦前から一貫したものとして維持されたままであることに、どのように楔を打ち込めるか、なのである。これは「日本」をめぐる国家と資本への決別の方向性を見失わないために、直近の政治情勢だけではなく次の社会を構想する想像力を、近代総体を大胆に覆しうるものとして獲得できるかどうかにかかっている。

2 虚構としてのナショナリズム

憲法は国民国家の統治の枠組を規定する最高法規であるが、同時に、このことは国民国家という近代社会の統治機構を原則として肯定することを前提として成り立っている。憲法に明記されている国家権力の枠組――その権力の及ぶ範囲の確定――は、「国民」が主権者として国民国家の枠組を承認し、この枠組を前提とした権利と義務の担い手となる。言い換えれば、私たちが自己のアイデンティティを「国民」に置かないという選択肢をとることが憲法の枠組のなかでは不可能だ、ということである。1この憲法の限界を明確に自覚することが、左翼による資本主義と近代の呪縛――この国に即せば日本の近代と日本の資本主義――からの解放にとっての原則的な立場になるのだと思う。

2.1 支配者の150年という時間の幅を支える大衆意識

「明治150年」という時間の区切りは、露骨なナショナリズムの表現だが、同時に「近代」という時代の表現でもあるという意味でいえば、近代日本の一貫性がそこには暗黙のうちに強調され、その結果として、1945年を象徴的な分水嶺とする「戦後」と「戦後憲法」の意義を相対的に後退させて、明治以降の近代全体の時間軸のなかで二義的な位置に置こうとする露骨な権力者のイデオロギーを感じることができる。このことが、戦後憲法を戦前の帝国憲法との比較において相対的に優れた憲法であると評価する者達にとっては受け入れ難い観点であった。しかし問題は、この支配者のイデオロギーを支えているものは何なのか、である。「明治150年」という時間を前提とした国家イベントが成功しているとはいえないが、しかし、この時間を明確な虚構として否定する運動や主張は更に希薄なように思う。

「明治」という元号を出発点とする天皇の時間、支配者の時間への懐疑が公然とは議論されない雰囲気は、そもそも元号そのものの是非が争点にすらならず、むしろ元号を当然のこととして(どうでもいい習慣だとする立場も含めて)受容する感情と密接にむすびついている。近代日本を天皇の時間によって象徴させることは、政策的なレベルの問題ではなく、「昭和歌謡曲」とか「平成の歌姫」とか「大正ロマン」とか、諸々の大衆文化の表象を指し示すときに用いられてきた大衆文化の歴史の観念でもあり、こうした大衆文化が借用する元号+文化の一体性の方がむしろ大衆の心情の襞に取り去りがたい経験や記憶として蓄積される効果をもつ。

大衆文化から国家儀礼の時間まで、戦後は、戦前・戦中のある側面を明確に継承しつつ成り立ってきたもので、その切断の傷の深さは致命的ではなく、むしろ皮下脂肪あたりに到達する程度のものだ。この断絶と継承の錯綜した構造のなかに「戦後」が存在してきたのであり、その延長線上に現在という時代が存在する。2

2.2 戦争とナショナリズム

戦争はナショナリズムに収斂する人々の心情/信条を構成することなしにはなしえない。このナショナリズムに憲法はどのような関係をもつものだろうか。戦後憲法を念頭に置いてみた場合、いわゆる戦争放棄=平和国家の統治機構を肯定するナショナリズムであるならば、それは否定すべきものではなく「好ましいナショナリズム」である、という考え方がありうる。

しかし、こうした考え方が前提しているのは、そもそものナショナリズムを根拠づけるナショナルなものの実体を肯定しているということでもある。具体的にいえば、日本のナショナリズムとは「日本人」とか「日本国民」と呼ばれる集団に何らかの客観的あるいは合理的な根拠があるものとして肯定するということだ。しかし、果して「日本人」とか「日本国民」と呼ばれるものにどのような合理的な根拠があるというのだろうか?「あなたが日本人だとして、あなたを日本人とする根拠は何に基づくのですか?」もしこの問いを「民族」的な社会集団によって根拠づけようとしても、そもそもの民族なる概念に科学的客観的な根拠はない。他方で、「国籍」といった法制度によって根拠づけようとすると、国籍が前提としている「日本人」であることの根拠は、「日本」という国家の領土や戸籍といった制度に依存する決定であって、これらの統治機構の正統性がどこから生まれたものなのかを問わずにはいられないことになる。こうして私が日本人であるのは、私が日本人だからだ、というトートロジーから逃れられないことになる。「日本経済」、「日本文化」からDNAによる民族の判定まで、様々な「科学」や「学術」の研究は、「日本」という枠組を自明のこととしてその存在を疑いえないものであるに違いないという結論を置いた上で、この結論に合わせて理論を構築するという間違いを犯していることが多い。これは虚構だと言うことで退けられるような脆弱なものではない。神という虚構を真実とみなす宗教の教義や信仰の体系が実際に統治機構や権力の制度として社会を支配してきた長い文明の歴史をみればわかるように、虚構は科学や真理によって覆すことはできない。科学や合理主義は唯一の武器ではなく、多くの武器のなかの一つに過ぎない。3

2.3 「日本人」への帰属意識

たぶん最も現実に効果をもっている「日本人」としての自己意識は、日本人としての実感にあるのであって、科学とか学問とか法制度などとは異なる文脈のなかで構築されるものではないか。この日本人としての虚構の集団性に実体を与えているのは、国民国家の統治主体、つまり主権者という権力を正統化し、かつ権力の源泉をなす人口への帰属を前提として現実世界のなかに構築される制度や機関――役所、警察、軍隊、学校、都市計画、コンピュータのネットワークやデータベースなど――である。この実体は、権力が具体的な強制力をもって人々(ここには「日本人」であるかどうかではなく、領土の中にいるかどうかが問われるわけだが)の自由を制約できるような実体として作用する。

憲法は、この虚構の集団性を「法」によって正当化する特異な虚構の体系4である。どこの国の憲法であれ、国民国家の統治原則を規定した法として、主権のありかと主権が及ぶ人的空間的な範囲が規定される。憲法は抽象的な人民を主体にしたり「臣民」にしたりすることはできず、固有名詞をもった人々(戸籍であれ国籍であれ、明確な固有名詞による人口の集合がその本質をなす)に対する特定の国民国家の統治機構としてしか成り立たない。つまり、具体的な国家とそこに帰属する「日本人」とか「中国人」といった「人」を前提としている。普遍憲法は存在しないのである。だから最高法規を謳う憲法が国家の数だけ存在し、その結果として、相互の摩擦と対立、唯一至高の統治機構の座を争奪する無益な争いが起きる。この意味でいえば、憲法は近代の国家間の摩擦と戦争の根源をなす。

憲法が主権者とする「国民」は、同時に、個々の人々の日常生活や意識・感情のなかで、感性的かつ無条件に当然のこことして自らの「国民」としての帰属意識によって受け止められるという意味でいえば、法を越えた概念を内包している。日本人であることは問いの問題ではなく、問い以前の自明の前提として置かれる。この自明の前提は理論や科学の世界によって根拠づけられるものではないから、理論や科学によって批判したとしても、そのことによって人々が自らの実感としての日本人であることを否定できるわでもないし、このような実感に基づく民族排外主義を払拭できるわけでもない。

2.4 ナショナリズムの虚構性は「真実」や「正しさ」では排除できない

ナショナリズムとはこうした意味での「日本人」に根拠をもって表出されるある種のイデオロギーや信条のありかたである。もちろん「日本人」という観念に客観的な根拠となるものはないから、根拠のない虚構の観念が根拠になる。しかし、やっかいなのは、虚構――嘘と端的に言い直してもいい――だから間違いであり、否定すべきだ、という風にはならないことと、虚構であるから、それは「悪」であるとか、ナショナリズムの悪を根拠づけることになるといった「正しさ」による「虚構」への排斥という主張は、見当違いの批判だというこである。

なぜならば、どのような社会集団であれ、人間の集団から「虚構」や「嘘」を排除することができないからだ。(「現人神」が現実に暴力的な力を実現した近代日本の経験は、蒙昧な時代ではなく、むしろ近代科学を積極的に受容した時代だった)誤解を畏れずに言えば、虚構や嘘の構築が現行の支配構造――資本主義の政治、経済、文化など――を支えるものであるならば、それとは闘わなければならないが、その闘いにおいて私たちもまた虚構や嘘をある種の武器にして闘う以外にないのだ、ということである。虚構や嘘は人間の本質そのものであって、これから逃れることはできない。「私たちは正しい」とか「正義だ」とかいう言い回しは、それ自体が虚構や嘘である。間違わない人間はいないし、意図的に間違いを犯そうとする人間もいる。最も巧妙に構築されてきたのが合理的な虚構である。それが近代の合理主義と呼ばれてきたものであり、その最大の産物が法制度という「ことば」による規範と秩序の仕組だろう。法学も政治学も国家を前提とするが、国家を虚構とはみなさない。経済学は市場を前提とするが商品や貨幣を虚構とはみなさない。国家や市場を自明の前提として、学問の体系を構築するだけでなく、この砂上の楼閣を具体的物質的な構築物として現実化する力をもつ。

こうした観点を踏まえて、私たちは近代日本を構築してきた虚構としての天皇制に立ち向かうという課題を担うことになる。キリスト者や宗教者であれば、もうひとつの神が天皇制を代替するかもしれない。これは虚構によって虚構を撃つという立場だが、この虚構によって虚構を撃つという方法は無神論者であっても、いかなる社会主義者、共産主義者、アナキストであっても避けることはできない。なぜなら、私たちは「ことば」で支配的な虚構を否定する「物語」を語る以外にないからだ。

3 ナショナリズムなき憲法はない――憲法と天皇制

3.1 強制された「総意」

ナショナリズムなき憲法はありうるのだろうか?ナショナリズムを自民族中心主義と言い直して、支配的な民族の「主義」を意味するものととらえるのではなくて、「国民主義」として、複数の「民族」を包含するものとみなせば、憲法はこの意味での「国民主義」を前提しなければ成り立たないことは明らかだ。この「国民主義」が「民族主義」になるかどうかは、「国民」の定義と憲法の規定如何ということになる。

日本国憲法の場合、冒頭の天皇条項によって、天皇は国民の総意に基くとされている。この「総意」とは「全員一致」を意味する日本語だから、一切の少数の異論も許さず、全員が天皇の地位を承認するということを意味している。これは天皇を日本国の象徴とする意思をもたない者は「国民」とはみなさないという暗黙の関係を含意している。総意を確認する手続を欠いているから天皇の地位の正統性の根拠はないのだが、むしろ現実に起きている事態は、国民である以上、天皇を日本国の象徴とする「総意」のなかの一人であることが確認もされることなく半ば強制的に同意を要求されているということである。

私たちからすれば、総意など成り立っていない。なぜならば、私たちは、憲法がどのように定めようと、天皇を国家の象徴として認めないという意思をもっているからだ。(そもそも国家そのものも認めたくないかもしれない)しかし権力者たちにとってみれば、問題の立て方は逆転して、異論を持つことは総意によって成り立つ天皇の象徴としての地位に反するから、異論を差し挟むことは許されない、私たちの主観的な思想信条がどうあれ、私たちもまた強制的に「総意」の一部を成すべき存在である、ということになる。つまり「総意」の構成者として私たちは有無を言わさず、権力者によって「総意」に組み込まれてしまう。(ここでいう「私たち」とは、日本国籍をもっている者のことを敢えてこのように呼んでいる)ここに、例外的に天皇に対しては、その否定も含む私たちの自由な意思表示や思想信条を持ち、これを表明すること自体に対する抑圧としても作用するし、そのような強引な解釈を含意させることも不可能ではない。解釈とは権力による意味付与であるという側面からすれば、これは彼らにとって当然の振舞いであり、私たちのとっては、この解釈それ自体が、重要な闘いの場を構成することになる。

日本国憲法のナショナリズムは、このようにして天皇を象徴として正当化し、憲法が保障している思想信条の自由、信教の自由など一連の自由の権利と真っ向から対立する。しかし、それだけではない。天皇を日本国の象徴とする「総意」から排除される人々を作りだす。この排除とは天皇制に反対するといった思想信条の立場にもとづくものだけではなく、「おまえたちは『総意』の構成者とはみなさない」という権力者による選別が働くということだ。日本の場合、憲法が「国民」として、国民以外の人口と区別して規定する集団のイデオロギー的な根拠は、天皇を日本国の象徴とする「総意」の構成者であって、そうである限り、象徴としての天皇を否定する――天皇制を否定する――ことは原理的にありえない者たち、ということになっているといえる。

3.2 国民国家と戦争――国家に戦争を阻止する構造はあるのか――

近代国家は、一般論としていえば、主権者が「国民」である以上、「国民」は国家を防衛する義務の主体となる。こうして、国民を主体とする常備軍を持つことを近代国家は前提として成り立ってきた。この観点からすると、現行憲法が「戦争放棄」を明記したことは、この近代国民国家の暴力装置の一部を意識的に放棄するという大胆な選択をしたということになる。

しかし果してどれだけの人々が、意識的に国民国家としては異例のものとして戦争放棄があるのかを自覚しただろうか?戦争放棄は単なる戦争への反省とか悲惨な戦争を繰り返さないためといった情緒的な感情や経験に基づくだけでは、統治機構の実体に組み込むことはきないのであって、国民国家の統治機構全体の制度設計と同時に、他の諸国(それらは常備軍を持ち、時には徴兵制度も持って対外的な政治の手段の一つとして武力行使という選択肢を維持している)との関係のもちかたに固有の努力が必要になる。このことを戦後の政治や外交が――野党も含めて――どれほど真剣に捉えてきただろうか?現実に起きてきたことは、戦争放棄条項を持ちながら、外交は伝統的な国家間の外交戦略の教科書に従い、軍を除く統治機構を異例な国民国家として再構築することはできなかったのではないか?言い換えれば「平和」を構造化するための構想力を持とうという志向性に欠けていたのではないか。

3.3 暴力による解決の本質的な矛盾

暴力による問題の解決が抱えている本質的な矛盾は、「正しさ」を力の強弱に置き換えて処理しようとする不合理な選択を世界中の支配者たちが肯定しているところにある。力の強い者が正しいのであるなら、DVでは男や大人が正しく、被害者は「正しくない」から被害者になったのだ、ということになる。そして大抵は、暴力に訴えざるをえないやむにやまれない事情なるものを持ち出して、被害者にも「非」があるかのような印象が与えられる。どのような問題があったにせよ、その解決を暴力に委ねるという解決方法が、筋の違うものだという基本原則が忘れられてしまう。「1+1=3」は算数では間違いだが、腕力のある者がこれを「正しい」として殴って認めさせることで「1+1=3」が正解になる世界、それが暴力による解決を肯定する世界である。戦争の本質はこの理不尽な解決方法にあるが、最大の問題は、ほどんどの人々がこうした解決を肯定しているところにある。

戦争を放棄するということは、暴力によって相互の利害の対立や摩擦を解決するのではない解決のオルタナティブを模索するということだ。しかも先に述べたように、人間の本質は虚構と嘘と切り離せず、自らがついている嘘や虚構を「正しい」と信じて疑わない社会集団の集合的な観念に基づいて「国家」が構成されているのだから、正しさは問題を解決するための唯一の手法にはならない。

虚構の構造は「法」の世界では、書かれた条文との解釈の間に生まれる。憲法9条は、戦力の保持を禁止しているが、そもそも戦争や戦力の定義は与えられていない。その定義は憲法の外で、解釈として与えられる。誰が解釈の決定権あるいは実効性のある力を行使するのか。それは学者でないし、国会議員でもなく、そのときどきの政府に握られ、この解釈は「財政」という物質的な裏付けをもって具体的なモノ(兵力、武器、兵站物資などなど)として現実の世界のなかに組み込まれる。戦闘機や戦車は戦力ではなく「自衛力」であるという意味が付与される。憲法9条は現実の戦力を「自衛力」として意味づけるための格好の道具となっている。

これに対して、現実主義者は、憲法の文言を現実に合わせて解釈するか改正することを主張する。暴力を肯定する国民国家の枠組を受け入れるべきだというわけだ。これは、どのような言い訳をしようとも、あるいはどのような学問的な装いをとろうとも、国家が抱える対外的あるいは国内的な矛盾や摩擦を暴力で解決するという不合理な選択を肯定することを意味している。DVで腕力の強い者が正しいという発想と本質的に同じ発想が「国家」をめぐるややこしい議論のなかでは実感されないうちに同質の暴力が国家に対しては容認されているのである。

大抵の場合、暴力を正当化するのは敵とみなされた相手への感情的な憎悪や嫌悪などであり、冷静な判断ではないのだが、こうした感情を冷静な判断へと媒介して暴力を正当化する仕組が、外交政策とか国際政治学とかといった政策や学問の専門家が果す役割りということになる。一般に官僚や学者は自己の感情的なバイアスを科学的客観的な言説に置き換えて表現するプロフェッショナルだ。彼が依拠するのは、与件としての「国家」であり「国民」であり法や政策の体系だ。

3.4 解釈の権力と戦争放棄の厳格化のための改憲という選択肢

今必要なことは、こうした憲法の文言に限らず法解釈の権力が私たちにはなく、法の条文ではなくその解釈こそが権力なのだということを踏まえたとき、現行憲法には多くの恣意的な解釈を許す可能性があることを認めて、どのようにして「ことば」とその意味を権力の恣意的な利用に委ねないようにできるかを考えることだろう。9条の明らかな限界は自衛権を明記していないことであるとすれば、自衛権を含む戦力の保持は認めないという文言が必須だということになる。9条を足掛かりにより徹底した国家による戦争放棄への方向を確実なものにするには9条の条文では決定的に不十分な事態にあることを自覚することが必要になっている。(自衛隊と米軍の存在がなによりの証拠だ)5

たぶん、こうした戦争放棄の徹底化に対して、もし、それが実現したとしても、自衛権という文言の意味を骨抜きにした何らかの暴力の手段を国家は持ちたがるに違いない。そうなったときに、こうした擦り抜けをどのように回避するかという問題が生じる。この意味では、法は常に解釈の権力の問題を抱えるから、このジレンマを解決する道はないように思う。イタチごっこの世界でもある。そのとき、私たちは、そもそも憲法によって基礎づけられている国民国家という統治機構それ自体が暴力や抑圧から人々を解放できる枠組なのか、それ以外の「統治」のありかたはないのか?という方向での問いに直面するだろう。目先の政策や政治課題には収斂しない長期の解放の構想力を国家や資本に依存しない社会として描く力こそが左翼性の根本にあるはずであり、こうした理想や創造/想像力を失った左翼の「理論」は容易にファシズムの理論へと変質することは、過去のファシズムの歴史でも現代のネオナチや「オルトライト」などと呼ばれる集団のイデオロギーを見れば自明ともいえることだ。

4 日の丸・君が代とオリンピックをめぐるナショナリズムの攻勢

2020年の東京オリンピックに向けて、日の丸・君が代が日常的な風景のなかで繰り返し登場するようになるだろう。オリンピックに先立って行なわれる天皇代替わりの行事は象徴天皇制の継続の具体的な制度化の一環としての新元号の制定と即位儀礼によって、象徴天皇制の国家としての「日本」というこの国の近代国家としての枠組とイデオロギーが露出することになり、ここ数年を通じて、ナショナリズムを再構築する時間に入ることになる。そしてこうした時期が同時に改憲と重ねあわせられるように政治のタイムスケジュールが組まれている。

しかし、ナショナリズムの露出と強制が、多くの人々の実感のレベルでは、より不自由で権威主義的な国家の登場といった風にはならないだろう。多くの人々(自らを「日本国民」とみなすことに疑いをもつことのない人々)にとって、代替わりもオリンピックも改憲も、ナショナルなイベントという堅苦しさよりも、新しい時代への幕開けとか、優秀な日本人の活躍とか、より強い日本とかといった情緒的で曖昧な「日本人」の物語を演出するメガイベント以上のものとは感じられないかもしれない。ほとんどの人々にとってはどうでもいいことかちょっとした楽しみ、せいぜいで我慢できる程度の面倒な事であって一時が過ぎれば終るものにすぎないのかもしれない。そうであればあるほど、これら一連の出来事に対して、ことさら目くじらを立てて異論や抗議の声を挙げる者たち(私たち)は、多くの人たちからすれば、理解しえない者たち、異例な反対者、ときには過激派やテロリストとみなそされるかもしれない。

4.1 国家に収斂する「敵」と「味方」の感情的な敵意と歓喜

オリンピックでは、日の丸に限らず、各国の国旗は、選手や関係者の集団を象徴する記号である。この記号は他の同種の記号と併存しながら相互に「競争」のゲームの担い手となる。ゲームは敵対関係を背後に醸成しながら、それを戦争とか経済分野での競争とは異なる回路を通じて敵意の祝宴というスタイルをとり、その勝者のみが、国家を象徴する歌と旗を大衆に前に掲げることが許されるという儀式で締め括られる。

オリンピックに端的に示されている国別のスポーツ競技の本質的な問題は、国別という競技の枠組それ自体にある。戦争で人を殺しあうこととスポーツであれ文化・芸術であれ国別でその技量などを競うことも、根底にあるのは、ある種の敵意の再生産を通じた「国民」や「国家」に収斂するアイデンティティの至高性を証すというものだ。敵と味方という集団の区分を国家や国民を基礎に形成し維持する上でスポーツや文化・芸術の国際的な競技は重要なイデオロギー装置となる。(文化芸術の分野でオリンピックに匹敵するのはノーベル賞だろうか)競技に参加するごくごく例外的な能力をもった個人が「国民」としてのアイデンティティに回収され、国民がこの個人に自己同一化し、そしてその同一化の証しとして、国旗が掲げられ国歌が歌われる。国民は時には民族と同一視される。とくに日本では「日本人」とは日本国籍を持つものというニュアンスよりも民族的な集合名詞としての意味合いが強く、レイシズムを含意した概念としても受け取りうるものだ。

国家や国民が他と比べて優れていることを示そうとする意欲は、スポーツや芸術そのものに必然的な条件ではない。しかし、同時に、近代のスポーツも芸術も、「近代」という時代が持つ身体性や個人と集合的なアイデンティティのありかたと密接に関わってしか存在できないということも明らかである。この意味でいえばスポーツも芸術も学問も、これらに携わる人々が国家や国民としてのアイデンティティの構造から自由であることはできないし、逆に国家もまた一人一人の能力を「国民」の能力(優秀さ)とみなすことができるために、スポーツ、文化・芸術、学問などを支えようとする。

個人としての心身の技量や才能を「日本人」とか「日本」という集団性に還元し、彼や彼女は「日本人」を代表する者としてその栄誉が称えられる。国旗や国歌はこのことを可視化する装置である。敵を倒すことへの歓喜を国別の競技は繰り返し生み出し、これを戦争とは異なる平和の祭典とみなすが、大衆の心理のなかに醸成される敵と味方、歓喜と悲哀の感情の構造は全く同じものだ。大衆は、こうした国家や国民という観念に自らを同調させて感情的な一体化を繰り返し経験として刷り込まれ、その結果として、この経験的な感情を疑うことのできない「実体」あるものとして誤認し、国家や国民を実体あるものへと自ら押し上げ、そこに自らも帰属すると感じる主体になる。

スポーツ競技は身体を伴うだけに、そこには殺す/殺される、という身体が極限で経験する敵と味方の間の闘争関係が巧に代位あるいは隠喩として組み込まれている。スポーツの「争い」は実際の戦争のように人を殺すわけではない、その意味で、国家間の争いを戦争とは別のスタイルで実現できるという意味で「平和」な祭典なのだ、と肯定的にも言われる。しかし、これは肯定すべきことというよりも戦争を支える感情を再生産する仕掛けであることを理解すべきだろう。将来においてありうる敵との殺し合いの感情へと容易に転移できるような、国家と国民という集合的なアイデンティティを人的な被害なしに再生産できるという意味で、オリンピックのような国別のスポーツは、国家にとって意味のある(国家財政を投資する価値のある)イベントなのだ。

4.2 問題の本質はスポーツと戦争の相同性にある

このように、オリンピックのような国別のスポーツは、「殺す」「殺される」当事者になるかどうかではなく、敵意を醸成する感情の共同性が戦争の敵―味方を生み出す感情の共同性とおなじ性格をもっている。スポーツで対戦相手となる選手たちを「敵」とみなして日本の選手が勝利すること、敵をやっつけろという感情の昂りを醸成できるように、利害関係もなければ恨みをもつ根拠もない、事実上メディアの報道でしか知ることのできない相手を憎むことが可能だということがスポーツの歓喜の構造の背景にある。もし人々がスポーツに歓喜できないのであれば、スポーツはメディアの関心を呼ばず、大衆文化としても普及しなかったに違いない。「敵」の存在、しかも国別でそれが設定されているということ、そしてその敵を憎む合理的な理由などなにもないということ、この構図のなかで人々が歓喜するということ。その歓喜の締め括りに、勝者にのみ許される国家を象徴する旗と歌が披露されるという儀式は、すべての敵対的な歓喜の感情が最終的に勝者の国家の象徴に集約されて結末へと至る、不合理極まりない感情の構造を正当化する仕掛けをもっている。国際スポーツはこの意味で「平和」を装いながら戦争の感情を正当化するものでしかない。

おわりに

戦争放棄という重要な私たちにとっての課題は、武器や兵器を廃棄するだけでなく、戦争の心情を形成する国家や国民へと収斂するアイデンティティ形成の文化的なイデオロギー装置をいかにして打ち砕くか、という課題をも含むものでなければならない。オリンピックでいえば、日の丸君が代は、歴史の記憶のなかの戦争との繋がりだけでなく、スポーツそれ自体に組み込まれた敵意の醸成の装置になっているということが問題なのだ。6

そして、憲法をめぐる喫緊の状況のなかで、私たちが時間を費して真剣に議論すべきなのは、近代国家としての日本と資本主義としての日本、近代以降、新旧の別はあっても「憲法」に基づくナショナリズムを基本的な統治構造として持ち、資本主義としての搾取と侵略の構造を維持してきたこと、このような日本を文字通りの意味で総括して、私たちは、次の社会を「日本」とは呼びえない何ものかとして構想する創造/想像力としてどのように獲得するか、という徹底した「夢」を追求し続けることこそが今必要なのではないかと思う。

脚注:

1  近代の伝統的な労働運動や階級闘争が自らの立場として「プロレタリア国際主義」をとるとき、そこには明確に「国民」に収斂させられるアイデンティティへの拒否があった。しかし、戦争の時代は、この拒否を貫徹することの困難をもたらし、多くの左翼の運動は国民主義へと変質する。この変質を巧みに横取りして成り立ってきたのが「国家社会主義」のイデオロギーである。こうした構図はネオナチや極右が左翼の通俗的な解釈を横取りして反資本主義を標榜するなかにも継承されている。

2  現在は、もはや戦後ではなく、対テロ戦争という「戦争」を米国とともに担う国家になっているという意味でいえば、戦時である。戦争とは、宣戦布告し、戦場に戦闘部隊を派遣することをもって開戦とみなすことで生じる事態ではないというのが1945年以降の戦争の現実だ。武装した兵士と武器弾薬や戦闘機や戦車などの兵器だけが兵力・武力なのではない。武力行使は、その背後に広範囲にわたる兵站を必要とし、兵站の更に背後には、武力行使を持続的に可能にするような経済構造と政治的な意思決定、そしてなによりも「国民」の同意と同調をもたらす思想信条の環境が準備されていなければならない。これらが一体となり、また複数の同盟国がこれらの構造を分業として担うなかで、日本は、兵士による殺人を直接担っていないというに過ぎない。朝鮮戦争、ベトナム戦争の時代から現在まで、日本は常に戦争の後方支援と兵站を担うことによって、戦争に加担してきた。戦争責任の問題は、過去の侵略戦争、植民地支配の問題に限られるのではなく、今現在の戦争に関して問わているのだ。

3  近代日本が、天皇を現人神と定めたことの荒唐無稽さは笑い話で済ませられない。近代科学が近代国家を支える知識をなし、近代医学や生物学もまたその科学としての評価を妨げられることはなかった。しかし、科学者たちは、天皇が神であることを科学的に立証しようとしたことはなかった。天皇を現人神とするといった荒唐無稽は非科学的な言説を国家の理念と科学者たちの科学的な知識とが彼らのかなかで矛盾を自覚されることなく共存したのである。こうした共存は軽視すべきでない。客観的な科学は虚構としての国家の観念や宗教的な信条の有効な反論にはなりえないのである。むしろ、科学者ですら神を信じるということを通じて、神の虚構が「真実」の外観をまとうことになり、これが虚構を強化したというべきだろう。

4  虚構だというのは、憲法であれ法であれ、それらが「書かれたテキスト」でしかないからだ。文章として表記されたものは現実そのものではない。現実を指し示すための記号である。この記号に意味を与えるのが、解釈の権力である。私たちが憲法を解釈したり理解する自由があるとしても、その自由は権力作用を剥奪された解釈の自由でしかなく、それが実体的な効果をもつことができるためには、司法の判断に委ねることを強いられる。言論表現の自由は重要な権利だが、この権利には表現を実体化できる力はない。

5  これはなにも9条に限らない。たとえば、残酷な刑罰を禁じた36条(公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。 )は死刑を明記していないから死刑制度が存続しているとすれば、死刑を明記すべきだという改正は必要なことだ。(そもそも監獄が残虐な刑罰ではない、とみなす考え方自体が疑われるべきなのだが)

6  国別で身体の技芸を競う必然性はないだけでなく、いわゆるスポーツと呼ばれる競技そのものもまた、それが身体技芸として普遍的な価値をもつものではないということ、

(2018年2月25日 都教委の暴走をとめよう!都教委包囲・首都圏ネット集会の講演資料より)