憲法の横取りとしての「改憲」プロセス

●「改憲」派には新しい国家像がない

いよいよ「改憲」への具体的なプロセスが秒読み段階に入った。2004年には与野党、財界、マスメディアなどが「改憲」に関する様々な提言を出し、2005年の通常国会では、4月の衆参憲法調査会最終報告をはじめとして、国民投票法案を皮切りに、具体的な「改憲」のための手続きと改正の具体的内容の審議へと向かうことになりそうだ。「改憲」の基調は、非武装平和主義の放棄、個人主義に基づく基本的人権の尊重から国家を最優先とするナショナリズムの復興、そして「主権在民」原則の弱体化と政権のための憲法の利用にある。(「改憲」にわざわざカッコを付しているのは、後に述べるように「改憲」論議には改憲の枠を逸脱した憲法の新たな制定という主張が含まれているためである。)

「改憲」派からは現行憲法が時代遅れだとの非難が再三浴びせられてきた。しかしその「改憲」派が提起する「改憲」の内容は、帝国主義戦争と植民地解放戦争のいずれにも敗北を喫した半世紀以上前に死亡宣告された旧憲法の「理念」の蒸し返しの域をでるものではない。

現在、日本の国家体制は未曾有の「国家の正統性」の危機に直面している。自衛隊は、創設当初から半世紀たつ今に至るまで違憲状態にあるという疑惑を払拭できず、その存在の合憲性については主権者の合意が得られていない。にもかかわらずその自衛隊を、小泉政権は事実上の軍隊として海外に派兵し、さらにイラクのような戦場にまで送らねばならないというところに自らを追い込んだ。国際環境の変化は、戦後国家の平和主義の理念を破綻させた、とよくいわれるが、それは間違っている。第三世界の小国ならいざしらず、世界第二位の経済力を持つ国が、非武装平和主義という憲法の基本理念を国際政治の場面で貫徹できなかったのは、日本政府の外交の失敗であり、その責任は政府が負うべきなのである。日本政府には、米国を後ろ盾として経済と軍事によって近隣諸国をねじ伏せるという脅迫的な政治や武力の使用が外交と政治の失敗であるという理解はない。むしろ、自らの責任をあいまいにして、憲法に責任を転嫁しようというのが現在の「改憲」派の基本的な態度である。

「改憲」派にはなにひとつ歴史を創造する新しい理念はない。近隣諸国の経済力と政治力の急速な発展に脅え、米国との半ば脅迫的な同盟関係のなかで、復古主義を主張する支配層内部の極右勢力とでもいいうる部分が「改憲」のなかで大きな発言力を獲得してきた。自民、公明そして民主党も巻きこんで、戦争を新たな政治的経済的なビジネスチャンスにしようというわけだ。再軍備のために、日本人の近隣諸国民衆への潜在的な差別意識をたくみに利用して敵意を煽る。

●戦後ナショナリズムの危機と「改憲」

現在の国際関係の極端な不安定状況は、1980年代から始まったポスト冷戦期がソ連の消滅とともに米国への一極集中をもたらしつつも、この一極集中が一時的なものであって、米国を唯一の基軸国とするグローバルな資本主義へと収斂していないことを示唆している。グローバルな資本主義は国民国家という枠組を相対化せざるをえなくしており、国民国家と植民地から構成された20世紀前半までの世界資本主義の構造と現代のそれとは決定的に異なっている。にもかかわらず、「改憲」派は、役立たずとなった国家主義的なナショナリズムによって国民国家の揺らぎをなんとか押しとどめようという復古主義に頼る以外にない。新たな国家像などはなにひとつない、ここに実は改憲派の最大のアキレス腱がある。

戦後日本のナショナリズムは私生活の物質的な豊かさを国家が下支えする経済的なナショナリズムだったといわれてきた。60年代の経済ナショナリズムはアジアに対する日本の経済帝国主義を復活させた。これに対して、国家が民営化や規制緩和を推進し、もはや経済的な豊かさを下支えする意思をもたないことを宣言してしまった現在、ナショナリズムは行き場のない状態に追いやられている。日本の経済帝国主義もグローバルな資本主義への統合のなかで呻吟しはじめた。金(経済)で「国民」を買収することが出来なくなった国家にできることが復古主義的なイデオロギーへのしがみつきになるのは必然といえる。

現在の「改憲」は、資本主義のグローバル化のなかで国民国家としてのアイデンティティ・クライシスに直面した日本の支配層が、極右勢力の影響力が徐々に増す中で、打ち出された自己保身のための手段である。こうした「改憲」の政治的なコンテクストを脇において、新しい人権に関する条文を盛り込むかどうかといった改憲論議に参加しようとすることは、むしろ基本的人権の理念総体を扼殺することにしかならない。

●護憲ではない「改憲」反対とは

私は、現在の「改憲」をめぐっては、広範で多様な反対の議論があるにもかかわらず、改憲派もマスメディアも「改憲か護憲か」という平板な二者択一の選択肢のなかに論議を押し込めようとする状況に深い危惧を抱いている。とりわけ私は、護憲という立場をとることなしに断固として改憲に反対するという視点にたって、これまでも改憲反対運動のなかで論じられてきた論点をを明確にすることがなによりも必要だと考えている。「護憲か改憲か」という平板な論争の土俵におさまりきらない創造的な議論を喚起することが今必要になっていると感じるからである。

「改憲」に反対ならば「護憲」ではないか?「護憲」と「改憲」以外の第三の選択肢などありうるのか、という疑問があるだろう。第三の選択肢はいくつかありうる。現在の「改憲」の流れに対して今現在の流れとは別の「改憲」を対置する態度、改憲ではなく新たに憲法を制定し直すべきだという態度、逆に「憲法」そのものを否定する立場もある。憲法が国家の基本設計にかかわるものである以上、議論は国家とわたしたちの関わりについての根源的な理解を問われることになる。「護憲」「改憲」の二者択一に押し込めてはならないのである。

●改憲と新規制定とはどこが違うか

「護憲」か「改憲」か、という二者択一には隠された「罠」がある。特に、もっとも大きな問題は「改憲」のなかに新憲法の制定を事実上含めてしまおうとする考え方が国会や政権与党のみならず野党側にもあることだ。改憲という考え方と新たに憲法を制定し直すという考え方の違いを明確にすることが現在の「改憲」論議を見誤らないためにも必須である。

現在の与党、自民党の態度は、「新憲法起草委員会」という名称からも明らかなように、事実上の新憲法の制定であって、改憲を逸脱しているというのが私の考え方だ。自民党の「改憲」への基本的態度は、非武装平和主義、主権在民、個人主義に基づく基本的人権の尊重という憲法の基本的な柱すべてを根本的に再構築するものだ。これを「新憲法起草」というのは間違っていないが、これを憲法の「改正」手続きで行うことは決定的に間違っている。

現行憲法では第96条で憲法改正の手続きについて定められている。国会総議員の三分の二以上の賛成と国民投票による過半数の賛成が必要であるということが定められているが、特に改正についての制限は明記されていない。だから、どのような改正も形式的には可能にみえる。いいかえればすべての条文をまったく新しいものに差し替えても構わないともとれる。

前例としては旧憲法の改正手続きに基づいて現行憲法が制定されたケースを持ち出すこともできそうに見える。だが、これは間違っている。96条の「改正」規定に新たな憲法の制定も含まれるという解釈は成り立たない。国会に新憲法を制定のための発議の権限があるとすれば、憲法によって縛られなければならない国会が逆にみずからにとって都合のよいように憲法を書き変えるための手続をとることができるということになる。

国民投票も同様であって、現憲法で定められた「国民」に新憲法制定をゆだねることはできない。新たな憲法の制定には新憲法を誰が制定するのかという問題を一から決めなおす手続きが必要である。「国民」という規定は、現在の憲法の権力と権威の源泉であるが、将来の新たな憲法の権力と権威の源泉であるとあらかじめ決めつけることができないからだ。

現行憲法は旧憲法の改正によって成立したことはどのように理解したらいいのだろうか。これは、改正手続による新憲法制定ではないのか。たしかにそのとおりだ。旧憲法の場合、「現人神」と規定された天皇が主権者であって、その天皇が同時に憲法制定権力を有すると解釈できるので、天皇の裁可があれば、改正手続きによって新たな憲法の制定を行うという裏技も通用するといえる。当時の日本政府とGHQは、手続的にはこの裏技を使って現憲法を制定した。しかし、現行憲法を利用してこうした裏技を用いることは不可能な筈だ。民主主義を前堤とするのであれば、憲法の制定主体は天皇にはないし、自民党にあるわけでもない。

●「改憲」手続きで新憲法制定をしてはならない

現行憲法の「改正」の手続きで基本的な理念を否定するようなことまで行うことが可能になってしまえば、国会は憲法を超越する権力を持つことになる。議院内閣制のもとでは、内閣は議会の多数派で構成され、裁判所は内閣総理大臣が任命するから、この芋づる式の三権分立は権力の相互牽制システムではなく権力の相互補完システムとなる。国会に憲法の制定を含む無限定な改憲の発議が可能であるとすれば、このシステムが総体として憲法に超越する力を事実上得てしまう。これは立憲国家とはいえない。

先にも述べたように、憲法の基本理念は、非武装平和主義、主権在民、個人主義に基づく基本的人権の尊重にある。96条によってなしうる国会による「改正」は最高法規としての憲法の基本原則と規範を否定したり逸脱するようなものであってはならず、これらを補強する意味での改正に限定されると解釈しなければならない。環境権などの新しい権利の主張を9条改憲と抱き合わせにして同じ土俵で論じること自体が手続き的に間違っているのだ。言い換えれば、9条改憲が議題にのせられること自体が違憲なのである。

天皇制を廃止して共和制にするとか平和主義を廃して再軍備を実施するなど、国家の再定義を必要とするような場合がもちろんありうる。このような場合には、憲法を白紙から創出することを意味し、国会や内閣など憲法に拘束された機関ではなくて、そもそもの憲法を制定する権力を持つ者に立ち返って制定のプロセスを踏む必要がある。憲法制定権力が誰にあり、誰にはないのかということは大変難しい問題であって、現行憲法にいう「国民」にあらかじめ限定することもできない。改めて誰がこのような権力の担い手であるのかということ自体が見定められなければならない。

歴史的にいえば、民主主義に基づく憲法の制定では、大多数の民衆が新たな憲法の制定を要求して現在の憲法と権力や権威の源泉を否定して登場することではじめて具体化する。その結果、国家の政体が変更されたり、国家の一分が分離独立したりといったことが生じる。こうした民衆の下からの要求を通じて、憲法を制定する権力の主体が形成され、既存の憲法の枠組とは異なるものとして憲法制定議会などが臨時に設けられる。民主主義を前堤としないのであれば、軍部のクーデタ、王政復古、外国の支配などが新たな憲法制定権力として登場することもありうる。

現在、民衆の側から新たな憲法を制定するような大きな運動はない。むしろ現行憲法の基本的な枠組が承認されている。だからこそ本来の意味での改憲すら実現できてこなかった。こうした現実を無視して政府・与党が「改憲」を装って新憲法を制定するということは、憲法制定権力が自民党の「新憲法起草委員会」に事実上横領されているのではないかという疑念が私にはある。これは、民主主義を装ったある種の一党独裁政権がとる憲法の制定プロセスといってもよく、これは絶対に認めてはならない政治手法である。

現在の与党の作戦は、国家の事実上の再定義(これが最終目標である)と若干の新たな権利の追加という同じ土俵に乗せることのできない全く異なる性格のものを抱き合わせにして「改憲」という枠に入れて、あたかも同じ「改憲」の議題であるかのように偽装しようというものである。私たちは、こうした与党の作戦に対して、まずなによりも現行憲法の基本理念の否定をともなう国家の再定義にあたる議論を、国会の改憲の権限から逸脱するものとして議題から下ろすことを要求しなければならない。再軍備、「国柄」や家族主義などの復古的なイデオロギーによる基本的な人権の制約、天皇の元首化による主権在民の制限などについてはすべて憲法改正の範囲を超える議題である。この点が明確にならない限り、改憲の具体的な手続論に踏みこむことはしてはならない。

●だれが決めるのか?

「改正」手続きにはこれまで述べてきた問題に加えて、いったい誰が「改正」を決めるのかについても未解決の問題がある。すでに国会の争点となっている国民投票法案の問題や在日外国人や移住労働者など日本国籍をもたないが日本国内に居住し、日本の法と国家権力の下にある人々が現行憲法の主権者である「国民」の枠外に置かれ、憲法に保障された権利主体から除外されているという問題が指摘されてきた。

さらにこれに加えて、考慮しなければならないことがある。それは対外関係のなかで日本の外交や経済活動によって権利の侵害を被りかねない外国に住む人々の権利をどのように考えるか、という問題である。憲法で普遍的であることをうたわれた基本的人権の権利の享受主体が「日本国民」に限定され、国境や国籍によって制約され、差別扱いされていいのはなぜなのだろうか。「従軍慰安婦」問題や植民地支配にかかわる問題はこのような矛盾を端的に突きつけてきた。憲法9条の平和主義はアジア諸国・民衆に対する植民地支配と戦争責任の証でもあるとすれば、当然のこととして9条改憲の利害当事者は「日本国民」を越える。

現在のように自衛隊が海外に派兵され、イラクでは米軍とともに占領軍の一角を占めるといった事態のなかで、わたしたちは一方の当事者であるイラクの民衆を私たちと対等な権利主体としたうえで自衛隊の派兵問題を討議するような国境を越えた民主主義の枠組をもち得ていない。国境を越えた自衛隊の派兵は、一方の当事者の参加なしに決定されたが、国際関係のなかで一国の民主主義にもとづく手続きで果たして民主主義の実質を尽くしたといいうるのだろうか。

今回の「改憲」に関しても、周辺諸国の政府や民衆からは、戦争放棄条項の廃棄と再軍備が自分たちにむけられる軍事的な脅威であることから大きな危惧をもって注目されているが、彼らには日本の憲法の「改正」に参加する権利も討議に参加する機会も与えられていない。資本や軍隊は自国の民主主義的な手続きによって他国の民衆を搾取し、生命の危険をさらす権利が正当化されてしまうという現在の資本主義のグローバル化の矛盾を「改憲」の問題のなかで私たちはきちんと見据える必要がある。この矛盾を解決する意図をもたず、誰が憲法を決める権利を持つのかという根本的な問いを回避した「改憲」のプロセスは主権者から排除された人々の権利を脅かし、結果的に主権者の権利を脅かすことになる。

●憲法の普遍性と特殊性

そもそも憲法とは何なのだろうか。憲法は「最高法規」と規定されている。最高法規の意味は、一般の法律よりもより重要な社会の原則を定めた法、あるいは一般の法律よりも上位にある法規範であって、法を制定する際の準拠枠だということである。国家の統治や政体の基本原則は憲法によって規定されるので、憲法は国家権力の限界を定めたものでもあって、国会、内閣、裁判所はこの憲法を逸脱することは許されない。国家が憲法を恣意的に自らの都合に合わせて制定すべきではないのはこのためだ。

しかし、憲法がいわゆる「法」なのかどうかについてすら考え方は一つではない。日本語では憲法と呼ばれるために、「法」であることが当たり前だと受け止められがちだが、憲法は英語ではConstitution、ドイツ語ではVerfassungである。いずれにもlawとかRechtなど「法」という言葉は含まれていない。「構成」とか「体制」といった抽象的な概念が国家の基本的な原則や規範を規定する特定の文脈に置かれたときに、日本語でいう「憲法」という意味を持つのである。

「構成」という意味での憲法は、社会集団を構成する人々が自分たちの集団を律するための基本的な原則・規範であって、国民国家に限らずいかなる社会であれ、人間が社会集団を構成する以上、必須となる条件に属するとみなすこともできる。

どの憲法も、憲法を制定する権力を持つ者(たち)が合意できる原則や規範に支えられなければならない。原則や規範に普遍性があればあるほど合意がとりやすいが、同時に、普遍的であればあるほど、他との差異を立てることが難しくなる。集団の特異性を際立たせることで集団の統一性を保とうとすれば、普遍的な原則や規範よりもむしろ集団にしか通用しない原則・規範を立てることになる。多くの場合、この両者は一つの矛盾のないものとして理解される。つまり、集団の特異性は普遍性の具体的な体現とみなされ、その結果その集団が他の諸集団よりももっとも普遍的な原則・規範を体現した特異な存在であると自己規定するわけである。こうして地球上にある複数の憲法はいずれも自らの至高性を主張して譲らず、相争うことになる。

憲法とはこうした普遍性と特異性がないまぜになった矛盾のかたまりである。日本国憲法も例外ではない。日本国憲法では「普遍的な政治道徳」や「永遠」の努力、「永久の権利」などに言及するが、同時に、象徴天皇制のような普遍性をもたない規定も持つために、常に天皇制はこの普遍的な原則・価値の具体的な体現物であるかのように扱われてしまう。

現行憲法の象徴天皇制規定は、共和制は採用せずに象徴天皇制という国家体制を採用するという価値選択についての宣言でもある。国家の「権力は国民の代表者がこれを行使」することが憲法の前文に明記され、議会制民主主義として具体化されている。他方、国家の「権威」については、「国民に由来」すると述べられているにもかかわらず、権威の行使は誰が行うのかについては言及がない。現実には、象徴天皇制が、国家の権威を事実上担い、国民がこの権威に従属する事態が起こっている。いかなる君主制も、政治的な権力を持たないとしても権威を保持しなければ成り立たないために、「国民」に由来する権威が君主制によって簒奪され、「国民」が君主制の権威に従属させられるという転倒現象を避けることができない。現行憲法もこの転倒を防げていない。

宗教も同様であって、政治的な権力から排除されても権威からの排除がなされない限り、宗教が主権者に由来する権威を簒奪することがおきる。この権威の簒奪を通じて、特定の道徳、価値、イデオロギーを憲法の普遍性だと僭称するような仕掛けから憲法は逃れられないのである。

同時に憲法には宗教に対する態度、国家と個人の関係、家族と個人の関係、民族や性に対す態度、人生でもっとも大切にすべき価値など「国民」の価値観に深くかかわる条項が、三権分立などの国家の統治機構の基本やその運用方法などを定めた条項と共に混在する。いいかえれば、憲法は「国民」がとるべき規範や価値観を統治の制度に媒介する役割を担っている。「改憲」の問題もまた、こうした国家にかかわる権威、価値、道徳などに関する「改憲」という側面を持たざるを得ない。自民党の「論点整理」などが「国柄」という概念を持ち出し、現行憲法によって否定された旧憲法の理念の再生を企図しているのは憲法のもつ普遍的な価値ではなく、普遍的な価値を偽装する価値観やイデオロギーにかかわっているだ。

●権力の自己保身のための憲法の横領を許してはならない

現在の改憲論議は、こうした憲法にまつわる限界に自覚的ではない。政府・与党は、みずからが憲法に超越するような力を行使して憲法を支配下に置く一方で、みずからに都合のよい憲法を特権化あるいは物神化して、民衆を支配するための最高法規と位置づけてみずからの権力の至高性の後ろ盾にしようという野望を秘めたものになっている。これは、国民国家がグローバル化のなかで相対的に衰弱しはじめていることへの権力の本能的な自己保身作用のために民衆に犠牲を強いようというものであって、ナショナルなものに収れんしない個人主義や平和主義といった価値観が袋だたきにあっているのである。

私たちは憲法を制定する権力の主体としての権利をもっている。この権利を行使するかどうかは別の話だが、しかし権利主体の責任において、国家権力の自己保身のための憲法制定権力の横領は断固として認めてはならないのである。

参考文献
カール・マルクス『フランスにおける内乱』、村田陽一訳、大月文庫、1970年。
カール・シュミット『憲法論』、阿部照哉・村上義弘訳、みすず書房、1974年。
ハンス・ケルゼン『一般国家学』、清宮四郎訳、岩波書店、1971年。
アントニオ・ネグリ『構成的権力』、杉村昌昭、斎藤悦則訳、松籟社、1999年。
樋口陽一『近代国民国家の憲法構造』、東京大学出版会、1994年。
杉原恭雄『憲法の「現在」』、有信堂、2003年。
山内敏弘編『新憲法入門』、法律文化社、2004年。
雑誌の特集
『ピープルズ・プラン研究』2001年13号「憲法の論じ方を変え改憲論を斬る」
『現代思想』2004年10月「日本国憲法」
『インパクション』2004年144号「憲法という『戦場』」
『季刊ピープルズ・プラン』「姿を現わした改憲の全体像」

出典:ピープルズプラン研究所編『改憲という名のクーデタ』 現代企画室 2005年