社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか

社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか

――黎明期の「不幸」な出会いにおける「マルクス主義者」の責任

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「被抑圧者」の解放に異論をとなえる者はいないはずである。しかし、「被抑圧者」とはだれのことか、ということになると異論は続出する。「異論」は具体的には、解放の戦略や運動が依拠する階級、階層、集団によって表現されるが、根本的には現にある社会の抑圧の有り様に対する基本認識そのものに関わっている。資本主義社会の抑圧的性格をもっともトータルなかたちで批判的に描き出したマルクス主義に基づく社会主義は、その社会観がある種の全体性をもっているがゆえに、「被抑圧者」の解放のための基本的な社会認識を提供しうるもっとも有力な分析装置であり、かつ、戦略提起である。しかし、まさにこのマルクスとマルクス主義の全体性は、まさにそうであるが故に「異論」を繰り返しうけてもきた。しかも面倒なことは、マルクス主義が全体性を入れうる開放的な構造をもつものであるということと、現にあるマルクス主義がそのような柔軟性をもって自己再生産しうるものとなっているということとは決して同じことではありえないということ、しかも現にあるマルクス主義は、その内部に多様な潮流を内包しているが故に全体性の認識自体に相互の対立を生むズレがみられ、しかも政治的実践領域ではこの対立は政治的対立とヘゲモニーの争奪戦に結びつく傾向があった。そして常にこの対立と矛盾のツケはプロレタリアートへまわされ、彼/彼女らは資本の支配の継続と、プロレタリアートの党を潜称する組織のイデオロギー支配という二重の支配をこうむってきた。
フェミニズムに対するマルクス主義の対応は、こうしたマルクス主義の負の歴史を十分に示している。この小論では社会主義とマルクス主義が、その生成期である一九世紀から二〇世紀初頭にかけてのヨーロッパにおいて、女性に関する諸問題に対してどのような態度をとり、どのような認識を示したかについて、また、マルクス主義がフェミニズムの問題にたいしてもつ意義と限界を明らかにする端緒的試みとしたい。

一、リベラルフェミニズムの射程

一九世紀は、イギリスにおいて資本主義が確立した時代だと言われている。と同時に、自由主義イデオロギーが支配的イデオロギーの地位を確立した世紀である、ということもできる。しかし、リベラルイデオロギーは言うまでもなく全ての社会の構成員に平等に享受・共有されうる理念ではなかった。個人主義、自由競争としての自由主義、法の下での平等といった価値観は、資本の利害を抽象的な人間にアナロジーさせて成り立つものであって、したがって、資本の人格的表現である資本家や、それに準ずる者たち(地主、中産階級)の価値規範であるにすぎなかった。労働者階級にとってのリベラルイデオロギーとは、ネガティブな意味しかもっていなかった。労働者階級にとって個人主義とは、団結権の禁止、孤立した〈労働力〉商品を意味し、自由競争とは労働者相互の競争を意味し、法の下での平等とは法の下に労働者階級が総体として「市民」的権利も義務も関係ないところで平等に社会的不平等を強制させられていることを意味したにすぎない。彼らには労働者社会はあっても市民社会など存在しえなかったのだ。
リベラルイデオロギーと無縁だという意味でいえば女性も同様だった。ビクトリア期の道徳律として女性に強制された「女らしさ」の範形といった非制度的な不自由に加えて、男性との法的な差別が厳然として存在していた。選挙権、参政権といった政治的権利だけでなく、私的所有に関わる私法上の権利についても男性との間に大きな差異がみられた。ベーベルの『婦人論』によれば、イギリスの場合、一八七〇年まで、動産所有は夫のみにしか認められず、不動産所有も夫の監理権が認められていた。また、女性には遺言状の作成といった法的行為は認められず、「英国婦人は裁判官の前には一個の零であ」り、「夫の奴隷」(草間平作訳、岩波文庫)だった。女性womanとは人間manではないということが法的常識としてまかり通っていたのである。イギリスの場合、女性の独立した私的所有権が法認されたのは一八八二年である。つまり、資本主義の確立を一九世紀イギリス資本主義に求めるという場合、——これが主流の見解だろうが——私的所有を一大特徴とする資本主義がその本質とみられる法的権利から女性を排除して成立していたことの意味はあらためて追求されねばならない。一般に、商品経済が全面化する契機を掴んだとされるのは、イギリス革命による土地の私的所有の法認だと考えられている。このことと〈労働力〉商品化によって、私的所有を前提として成立する商品経済が全面化することになる。こうした歴史観からすっぽりと欠落させられてきた性差別を歴史の再構成のなかに組み込むことは、マルクス主義の主流によっては無視されてきたし、ベーベルやエンゲルスもそれに気付きながらも、このことを明確に資本主義の歴史認識として.パラダイム化し、実践的な課題として提起できるところへはたどりつくことができなかった。のちにみるようにエンゲルスの『家族、私有財産、及び国家の起源』にはその端緒は示されていたのであって、これを実践的に発展させえなかったマルクス主義の一世紀にわたる怠惰が六〇年代末以降のラディカルフェミニズの展開のなかで批判にさらされつつ、あらためてテキストの読み直しが試みられてきたといってよいだろう。
自由主義の価値観範を現実のものとして享受する中産階級の男たちにたいして、リベラルイデオロギーの埒外におかれた女たちが何の矛盾も感じなかったと考える方が不自然だろう。この世紀転換期のフェミニズムの運動が中産階級の女性によって主として担われ、その課題が選挙権、参政権をめぐって展開されたのも右のような事情があったからである。それとともにフェミニズムの運動は、その階級的出自に半ば拘束されつつそれを越えようとする試行錯誤をも繰り返すことになる。ケネディー=ティリーはこの時期を扱った論文「もう少しで手の届く所に……」(Marie Kennedy and Chris Tilly, ” At Arm’s Length: Feminism and Socialism in Europe, 1880-1920, in Radical America, 1985, no.4)のなかで幾つかの試みを紹介している。例えばイギリスの場合、全国女性参政権協会連合(the National Union of Women’s Suffurage Societies)には、少数とはいえ労働組合に組織されていた女性による幾つかの支部があった。フランスでは、世界で初めてフィミニストの日刊紙『ラ・フロンデ』を発行したマルガリーテ・デュランは、自分の雇っていた女性従業員のための御用組合をつくるという「温情主義」を示し、女性の加盟を認めない印刷工組合に対して、女性労働者はスト破りをしてでも仕事をとるべきだと主張した。
リベラルフェミニズムと女性労働者の間にも対立が見られる。一九〇〇年にデュランらが主催した女性の状況と権利に関する国際会議でも労働をめぐって鮮明に現われた。ケネディー=ティリーは次のように述べている。

「働く女性たちは、一週間のうちの一日を家事にあてることを提案する決議案を提出したのに対して、ブルジョワの女性たちは反対した。また、〔規制の法制化のための〕未成年の労働時間調査に対して中産階級の女性は〈もしあなた達が未成年を保護しようとするならば、いったいだれが彼女達を雇うというのでしょうか。結局多くの少女達は売春に走るでしょう〉と述べて、これに反対した。ブルジョワの代表は、労働者階級の女性のかかえている問題の根源が労働者階級の男性の飲酒、怠惰、不誠実にあると繰り返し主張した。」

リベラルフェミニストにとって、女性労働者が置かれている賃労働と家事労働の二重拘束は、実感できないものだったろう。イギリスの場合、ビクトリア期の高度成長のなかで、中産階級の男性の所得の増加は、家事の増加と召使の数の増加をもたらした(一九世紀のイギリスがまれにみる召使社会であったことはよく知られている)。標準で三人の召使を雇っていたといわれる中産階級の家庭においては女性は家庭のなかに閉じ込められ、妻として、母としての役割を強制されるにしても、家事労働に直接手を下す必要のない存在になりえた。当時のフェミニストの多くはこうした「少女や若い女性の軽ちょう浮薄さや家事を無視する傾向に批判的であ」り、「教育面の改善は、ミドルクラスの少女が将来もし独身でとどまったなら、彼女らによりよい仕事を提供してくれるだけでなく、結婚した場合には彼女をより良き妻および母親にするであろうと思われた」(バンクス夫妻、『ヴィクトリア時代の女性たち』、河村貞江訳、創文社)のである。売春の問題についても性道徳についての「二重の規準」[ルビ:ダブルスタンダード]への批判という意味あいがあった。つまり、男性に対する性道徳が女性に対するそれに比べて法的にも社会通念的にも圧倒的に「寛容」であることに対して、女性に課されてきた伝統的な良妻賢母の価値観にそぐうような男性側の「禁欲的」な性道徳の確立を求めたのであって、こうした性道徳や女性観を根底から覆すものではなかった。中産階級のフェミニズムは、労働における接点を労働者階級と共有しえなかった反面、性と女性についての伝統的な価値観は、男性中心の社会主義運動の価値観と必ずしも抵触したとは思われない。しかし、社会主義のなかのフェミニズムには、こうした性と女性についての価値観自体の変革を求めるラディカリズムがあり、この立場からすれば、フェミニズムの主流とも社会主義の主流とも根本のところですれちがわざるをえなかった。

二、社会主義の配置

社会主義にとってフェミニズムとは何であったのかという問いは、幾つかの区別して論ずべき問いを含んでいる。すなわち、(1)マルクス主義にとってフュミニズムとは何であったのか、(2)非マルクス主義的社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか、(3)女性の社会主義者にとってリベラルフェミニズムとは何であったのか、(4)そして、社会主義にとって、女性をめぐる諸問題とは理論的、思想的にどのように位置付けられうるものだったのか。ここでは(1)と(3)について簡単に見ておくこととし、他の課題は次節で検討することとしよう。
エンゲルスの『家族、私有財産、及び国家の起源』がマルクス主義の女性問題、家族問題の捕え方に与えた影響がいかに大きなものであったかは今更言うまでもなかろう。しかし、エンゲルスのテキストは、社会主義運動のなかで実践的な課題へと媒介されて解釈される場合の常として、既成の運動範晴に乗り切れない部分は実践的課題としては「無視」され、たんに学問的な課題として注目されたにすぎない。エンゲルスは、「単婚家族」とそこにおける男性支配が「財産の保全と相続のためにこそつくりだされた」とみるから、無産者であるプロレタリアートの家族には男性支配もなければ「厳密な意味での単婚家族では〔も〕ない」と考えた。そして、こうした労働者階級内部の男女の利害の一致を前提にして次のように述べた。

「以前の社会状態から受けつがれた男女の法的不平等は、妻の経済的不平等の原因ではなくて結果である。多くの夫婦とその子供達を包含した昔の共産制世帯では、女性にゆだねられた家計の管理は、男性による食料の調達と同様に、ひとつの公的な、社会的に必要な産業であった。家父長制家族の出現と共に、またそれにもまして単婚制個別家族の出現とともに、事情は変化した。家計の管理はその公的な性格を失った。それはもはや社会とはかかわりをもたなかった。それはひとつの私的奉仕となった。妻は筆頭女中となり、社会的生産への参加から駆逐された。(中略)近代的個別家族は、妻の公然または隠然の家内奴隷制のうえに築かれており、そして近代社会は、個別家族だけをその構成分子とする一つの集団なのである。今日、すくなくとも有産階級では、夫は大多数のばあい稼ぎ手であり、家族の扶養者でなければならないが、このことが彼に支配者の地位を与えるのであって、これは法律上の特権を一つも必要としない。夫は家庭のなかでブルジョワであり、妻はプロレタリアートを代表する。(中略)近代的家族における夫の妻にたいする支配の独特な性格や、夫婦の真の社会的平等を樹立する必要性ならびに方法も、夫婦が法律上で完全に同権となったときにはじめて、白日のもとに現われるであろう。その時には、女性の解放は、全女性が公的産業に復帰することを 第一の前提条件とし、これはまた、社会の経済単位としての個別家族の属性を除去することを必要とする、ということがわかるであろう」(戸原四郎訳、岩波文庫)

ここでエンゲルスが念頭においている女性は、「有産階級」の女性であることは明らかである。したがって、右の引用文から導かれる限りでのエンゲルスの解放の戦略は極めて単純明快である。すなわち、一方で所有の私的性格が、有産階級内の女性を含む全女性と労働者階級を「奴隷」状態においやっているということ、他方で資本主義を支える社会的生産の実質的な担い手は賃金労働者であるということ、こうした関係のなかで、所有の私的性格とそれに根源をもつ女性への抑圧の廃棄は、資本主義の基本的な生産関係である資本—賃労働のあいだの階級闘争によって労働者階級によって戦いとられるものであるから、女性がこの解放闘争の主体となるためには、「公的産業に復帰」し、社会的生産を担うことによって、賃金労働者総体との階級的利害を一致させさえすればよい。『起源』に先だって公刊されたベーベルの『婦人論』でも「階級支配は永遠に終わりを告げ、それと共に婦人に対する男子の支配もまた終わるであろう」という階級闘争への還元という立場をとっていた。彼等の後継者のマルクス主義者もこの視点だけははっきりと受け継いでいる。女性解放をふくむ階級闘争、あるいは男性—女性の関係をブルジョワ—プロレタリアの関係にアナロジーさせて、階級闘争一般に解消する発想からすれば、階級闘争には二つの戦場があることになる。一つは、文字どおりの男女両性を含む賃金労働者の資本にたいする闘争であり、もうひとつは、プロレタリアである妻の、ブルジョワである中産階級の夫との闘争である。しかし、この二つの戦場は自己矛盾に陥らざるをえないものだった。先のエンゲルスの論理に従えば、中産階級内プロレタリアートである妻がその夫と「法律上で》完全に同権」になるということをもって男性支配の本質を鮮明化しようという法的平等の闘争は、それが中産階級内の男女平等を意味する限りにおいて、労働者階級との不平等はむしろ拡大すらしてしまうということである。このことは当時の政治課題に即していえば、選挙権の拡大をめぐるリベラル(ブルジョワ)フェミニズムと社会主義との対立にはっきりとみてとれる。フェミニズムの主流が、男女平等の選挙権の獲得を優先させたのに対して、社会主義の側はこうした制限のあるなかでの選挙権の拡大には必ずしも積極的にはなれなかった。イギリス労働党は、制限選挙のもとでの女性選挙権の法認は、女性票がブルジョワ代表に流れる恐れがあることから、女性選挙権を優先させることには反対していたし、ベルギーの社会主義者のようにまず、男性の普通選挙権の獲得を優先させるべきだという立場をとることもあった。フェミニズムの立場からすれば、男女平等の政治的権利こそが獲得目標であり、財産上の制限は、妥協の対象になりうるものだったが、階級闘争の立場からすれば、財産上の制限こそが撤廃されるべき第一の障害であり、労働者階級への選挙権拡大のためには女性の選挙権の制限は妥協の対象になりうるものだった。もちろん原則的な立場をつらぬければ、フェミニズムであれ社会主義であれ、男女平等の普通選挙権を要求すべきだということになろうが、政治的な力関係のなかで妥協を迫られる現実の政治過程においては、原則を最終的に実現するための妥協の回路のなかにこそその政治を担う全体のもつ社会認識が鮮明に浮き彫りにされる。フェミニズムとは異なって社会主義やマルクス主義は、すくなくともトータルな社会変革を自認しているのであるから、妥協の回路の問題はきわめて重要な問題である。階級的解放の視点と性の解放の視点とがどのように折り合うのかという問題をフェミニズムの運動から提起されたのに対して、マルクス主義は、エンゲルスのテキストを階級優先の戦略的根拠として政治的に解釈することによって、この問題提起をいわば門前払いにした、ということができる。
と同時に、現実の女性をめぐる政治的動きは、もっと錯綜したものだった。イギリスのマルクス主義政党、社会民主連合の指導者のひとり、ベルフォート・バックスは、「女嫌い」として有名であり、女性とは生物的にも知的にも、また道徳的発達においても子供と大人の中間にあるとして、こうした差異を前提として男女平等を考えていたにすぎなかった。フランスでは、労働者階級に大きな影響力をもっていたプルードンが「プロレタリア的反フェミニズム」とでもいうべき立場をとっていたこともあって、フェミニズムと労働者の運動の折り合いはかならずしもよくなく、また、ルイズ・サモナーのような女性のマルクス主義者は、狭い階級的な立場を固持するがために、フェミニズムにたいして、「私達の直接の敵はプロレタリア女性をブルジョワ階級の女性の援軍とするためにプロレタリアの女性をまきこもうと願っている男女である」(ケネディー=ティリー、前掲論文より)といった対立意識のほうが強かった。また、社会主義運動に最も多くの女性を動員しえたドイツの場合、ドイツ社会民主党の内部にツェトキンに代表される優れた女性指導者に恵まれたことがあるにしても、それは女性の利害を常に階級利害に従属させることによってのみ獲得された成果であって、党内において、女性解放について独自の課題を鮮明に打ちだすことも、公式のマルクス主義の教義を根底的に問うこともむしろ希薄であった。しかし、その分、女性の産業的労働への参加と社会主義の実現だけが女性解放の道だという思いには激しいものがあったわけで、ツェトキンやローザ・ルクセンブルグといった指導的な女性が党内左派の立場を堅持していたことのなかに、男性とは別に課されていた女性としての二重の解放への思いを見るべきなのかもしれない。従ってツェトキンの場合も女性解放の主体は、労働者階級内の女性労働者に限定され、ブルジョワ階級内の女性との連帯を求めず、労働者階級内の男女間の矛盾に対しては過小評価することになった。フェミニズムの側も、一九〇二年になるまで女性の選挙権要求すらださないといった状態であったからなおさら両者の接点はありえなかった。
こうして現実のマルクス主義的社会主義の運動の中では、エンゲルスに含意されていた女性をめぐる二つの戦場は、階級闘争の戦場に還元されてしまった。ベーベルやエンゲルスが女性、家族といった問題に注目し、マルクスもモルガン、コヴァレフスキー、バッハオーフェンについての膨大なノートを残しているといった理論的な関心の方向が、実践運動のなかに還流してゆかなかったのはなぜなのか、という運動史上の問題が問われねばならないだろう。
ケネディー=ティリーは、ヨーロッパの社会主義における女性解放の視点についての限界と問題点を次のように指摘している。

「我々の見解からすれば、ヨーロッパ社会主義フェミニズムの欠落点で最も重要なのは、支配階級のイデオロギーの力への認識であった。第一に、〈建国の父〉たちが社会主義フェミニズムのビジョンに重大な限界を与えた。たとえば、マルクスの資本主義分析は、一貫して男性労働者に焦点をあてており、家庭内外の女性の労働には注目しなかった。したがってマルクスは、ビクトリア期の性別役割についての考え方をそのまま受け入れ、またそうあるべきものとしても受け入れてしまった。第二に、ヨーロッパ社会主義運動の中心的な位置をしめた男性の労働組合主義者は、〈プロレタリア的反フェミニズム〉といわ れるような態度をとる傾向があった。これは女性の役割について保守的な考え方をもつだけでなく、女性労働者との競争をおそれ、女性は家庭にとどまるべきであるという厳格な規定を生承出した。女性の労働組合主義者は、フランス、ドイツ、イギリスの労働運動の十分の一を担っていたにすぎず、こうした態度に反対できるほど強力ではなかった。
第三に、社会主義政党のイデオロギーが保守的で、女性解放を視野の外に置く考え方を推し進め、自らの墓穴を掘ることになってしまった。これが防衛さるべきイデオロギーになってしまったために、社会主義運動が、女性を含めて広がりながら、女性の問題に関する社会主義者の視点は、以前と同じ限界に画されたままであった。」

マルクス主義が女性解放運動という問題において抱え込んだ問題は、二つの側面から見る必要がある。ひとつは理論的な問題であり、もう一つは実践的な問題である。ケネディー=ティリーの指摘をこのふたつの側面から更に敷桁すれば、理論的な問題としては、家族とそこにおける性別役割分業、性交や男女の関係の在り方、子産みあるいは産児制限(避妊)といった、資本主義的な意味での社会的再生産の外部にあるとみなされている問題が、実は女性—男性という性を軸とした社会認識として見た場合にはむしろ資本主義的な性の構造を再生産する基軸にあるということ、このことをどのようにしてマルクス、エンゲルスの資本主義観のなかに接合しうるか、ということである。マルクス、エンゲルスのテキストの読まれ方は、実践的な運動のもつ組織内部の利害関係やその背景、組織の力量と客観的な情勢との対抗関係等をふまえて政治的に読まれてきた。ケネディー=ティリーの「建国の父」への批判は、彼等が明示的に誤解の余地のない方法で、理論的実践的に女性の問題をとりあげていないという意味でいえば当然のものだが、しかし、これらの諸問題を正当に位置付けて資本主義を批判的に解析し、解放の戦略をたてうる開放的な体系として読むことは決して不可能ではない。あらかじめ設定されていた実践運動における男性中心主義的な組織と戦略が、テキストの開放的な読み方を阻害し、それを打ち破れるだけの理論家の実践的努力に限界があったのだ。マルクス、エンゲルスの思想に対する解釈の正統性は、党や労働者の組織の支配的イデオロギーとなることによって獲得されるということ、とりわけ党に組織された【ルビ】大衆的労働者【/ルビ:プロレタリアート】への教育の権限を獲得しうるということ、このことがある限りにおいて、支配的イデオロギーの地位をめざすヘゲモニー争奪戦が生ずる余地を常にもっている。マルクス主義内の社会主義フェミニズムの理論と思想が、テキストの再創造化へ向かわずに、既存のテキスト解釈のなかで、限定された女性解放に収束したのは、実践的な自律性の獲得の困難と無関係ではなかった。

三、ユートピア社会主義、非マルクス主義的社会主義とフェミニズム

ではマルクス主義以外(以前)の社会主義のなかで、女性解放の問題はどのように捉えられていたのであろうか。社会主義とフェミニズムの「出会い」はマルクス主義の様に「不幸」なすれ違いばかりとは限らなかった。サンシモン主義者、フーリエ、オーエンといったユートピア社会主義者が女性解放に大きな意義を与えていたことはよく知られている。フーリエが、「女の特権の伸長はあらゆる社会的進歩の一般的原則である」(『四運動の理論』、巌谷国士訳、現代思潮社)と述べたことは、後にエンゲルスが『空想から科学へ』で取り上げたことから有名になった。フーリエは、「社会進歩」の重要な指標として女性の「自由」や「特権」という要素を取り入れたことによって極めて特異な歴史観を展開することになる。

「哲学者からは大いにほめそやされているイギリス立法だが、性についてはおよそ恥さらしな権利を男に認めている。たとえば妻の情夫から損害賠償金をとりたてる夫の権利がそれである。フランスではそれほど粗野な形ではないが、女の奴隷状態の根本はやはり同じである。」
「すでに見たように、最良の国民とは、必ずや最高の自由を女にあたえている国民である。文明人におけると同様、野蛮人や未開においてもこのことが見られた。」(フーリエ、前掲書)

ここで問題なのは、フーリエの主張が実証に耐えうるものかどうかにあるのではなく、どのような意味において女性の「自由」が社会進歩の指標と考えられているのか、にある。フーリエの構想する世界は、独特の概念と極めて混沌(場合によっては混乱といってもよいかもしれない)とした叙述とによって容易にその全体像をイメージすることが困難である。『四運動の理論』では、八万年におよぶ人類の全歴史のなかで、最初の五千年を「幼年または上昇不統一」の時代ととらえて、彼の生きた時代は丁度この上昇不統一期から「生長または上昇結合」の三万五千年への移行期にあるとしている。この幼年期は、「不統一所帯に組織された五つの不幸期」、すなわち、未開、家長制、野蛮、文明、保証の五つの時期を含む全体として「不幸」な時期だと考えられている。これらの時期がいかなる意味において「不幸」なのか、その例として、女性に強制されている文明期における主婦役割をあげて次のように述べている。

「若い娘達の趣味を調べてわかるのは、よい主婦になりそうな娘は四分の一そこそこしかいないということである。あと四分の三はこの種の労働を少しも好まず、もっぱら衣裳とか色事とか消費とかに趣味をもっている」

文明期の女性の一般的な傾向と現実の女性にたいする役割強制の矛盾をフーリエは、女性の責任に帰するのではなく、神の意志に反して全女性に主婦役割を強制する文明社会こそが批判されるべきだとして、「悪いのは社会機構の方なのだ」と主張した。従って、本来、主婦役割を好まぬ四分の三の女性を、主婦役割の強制から解放することを彼は考え、彼の想定する「統合秩序」の成立した社会では、「所帯仕事が組合のおかげで簡略化されるため、それには今日用いられている女の四分の一も必要でなくなる」と考えられている。そもそもの女性の「奴隷状態」の原因をフーリエは「不統一所帯」あるいは「孤立家族」と彼が呼ぶ現代の家族制度に求める。したがって、これにかわる新たな生活の集団形成として、八〇名の主人と二〇名の召使——主人と召使の関係はある種の友人関係と考えられているが——からなる「累進所帯」あるいは「九集団部族」を構想する。この共同生活体では「家事を遊戯と心得る女」や「台所を受け持つ集団がいろいろと仕事を引き受け」る一方で、「台所係や家庭経済の仕事に生来不向きな男女は一切所帯のことに手を出さず、毎日自分の労働をし終えてからは、じぶんの部族や男女両性の近隣部族の夕食会とか親睦会とかに行き来して、もっぱら愉しみにふけることだけを考えていればよい」という。
個々人の欲求を無視した抑圧的な性別役割分業に対する解答がこれだとすると、男女の性愛も「累進所帯」のなかでは家族制度とはべつの規範によって秩序づけられねばならないことになる。フーリエは、「文明においては、宿命的な縁組が成立したとたん、人は永久に一切の権利を手に入れ、偽善の果実を十分に堪能する。その結果ほとんどの夫婦は、結婚後数日してだまされたと嘆き、そのまま一生だまされたままなのである。」(前掲書)と考えていたから愛情を偽善の犠牲にしない性愛の規範と、共同体の維持に必要な世代の再生産を新たに構想しなければならなかった。

「ひとりの女は同時につぎのものをもつことができる。一、ひとりの夫、これは二人の子供をもてるもの、二、ひとりの子持、これはひとりの子供しかもてないもの、三、ふたりの馴染み、これは同棲してきた男で、〔相続に対する〕資格を保持しているもの(中略)女は懐妊してしまった相手の馴染みにたいして、子持の資格を拒むことができる。彼女はまた不満のある場合には、このような相手の望む上位の資格を拒むことができる。男の方もいろいろな相手の女に対しておなじようにふるまう。」

フーリエのここでの規範形成は、二重の要素を含んでいる。一つは、関係と愛情のかい離を最小化することによって、偽善と不幸な性愛から女性を解放することであり、もうひとつには、その中に親子関係を組み込むことによって、個人の自由が共同体の再生産秩序と抵触しない方法を案出しようとしたことである。このことは、男女の性交が、意図するしないにかかわらず両者の間で閉じられずに、社会的な世代の再生産と接点をもつ場合が含まれざるをえないということを、ユートピア社会であれ必ずなんらかの方法で解決しなければならないということを意味している。フーリエの構想そのものがこの意味で検討の価値あるものかどうかはどうでもよいことであって、ここでおさえておかねばならないのは、たとえユートピアであれ、それが一定の秩序をもった社会として構想されねばならない以上、一方で、行動の規範を設定しなければならず、他方で、諸個人の自由を最大限拡大しなければならない、ということである。とりわけ、性愛は、人間の根底的な欲求であり、しかもその欲求が他者との関係のなかで営まれ、なおかつ妊娠、出産を伴う可能性があるから、社会関係の根底に触れざるをえない。だからこそ性愛をめぐる人間関係にたいして、その社会がどのような行動規範を課しているかは、諸個人の自由、欲求充足の自由の尺度として重要なのであって、フーリエの、女性の自由を社会進歩の尺度とみる直感は決して荒唐無稽でも些末な議論でもなかったのである。
ロバート・オーエンの協同社会の構想もフーリエ同様、家族と性愛についての現代社会へのラディカルな批判に基づいて展開された。マリー・アン・クローソンは「自律と包括、一九世紀におけるフェミニズム、イギリスのユートピアンとアメリカ社会主義」
(Mary Ann Clawson, “Of Autonomy and Inclusion, Nineteenth Century Feminism, British Utopians and American Socialists,” in Radical America, 1984, no.2-3)のなかで、オーエンの考え方について次のように述べている。

「宗数は〈競争社会〉の基礎にある迷信と個人主義をはびこらせる。個人的な富の形成によって、〈社会的権力の土台〉、即ち私的所有や所有欲があらゆる人間関係に入り込む。結婚は、女性を男性の所有物に転化し、核家族の確立をもたらすことによってかかる競争社会の感情的な土台を提供する。核家族は、小規模で内向的な集団としての精神的、物質的生活の組織であるが故に社会的不統一を促進する。」

オーエンは、「結婚、宗教、私有財産」(『新道徳世界』、『世界の名著』続八巻所収)のなかで、性交を乱交、自然な性交、不自然な性交の三つの類型に分け、乱交は「最も恐ろしい肉体的、精神的な混乱と嫉妬と口論と殺人を生承出すものであり、現今のイギリス社会全般にひろがっている悪徳と犯罪のすべては、すべてこの種の性交に由来する」と述べ、現状における最もスタンダードな形態とみられる不自然な性交についても、「人間の自然の本能に逆らって案出されたものであり、多数の人びとを、小数者の特権と優位性のもとに、無知と服従の状態のもとにおく」としている。そしてこのいずれもが「僧侶によって、人類にたいして加えられてきた桎梏の結果」であり「僧侶の人為的でしかも解消不可能な結婚がつくりあげたもの」と痛烈に宗数批判を展開している。しかもこうした不自然な性交は、人びとの仲を裂き、権力者の横暴の源泉である「私有財産制をつくり、かつそれを奨励するものであり、男と女をきわめて複雑な欺まんの体系におしこむこと」になると述べられており、自然な性交を保証しうる社会システムの構築が極めて重要な社会変革の課題として捉えられていたのである。
オーエン主義者達は、性や家族の問題を制度の問題、政治的な改革要求によって解決しうるものとは考えていなかった。だから民事婚や離婚の自由に対する制度改革要求は改良主義としかみなかった。彼等の実践のスタイルに一貫していたように、こうした。パーソナルな領域の問題に関しても自分達の手で可能な限り実行に移すことを試みた。例えば、マーガレット・チャペルスミスやエマ・マーティンのような女性のオーエン主義者は、大衆の前で聖職者と激しい論争を交したし、——チャーチズムの運動でも実現されなかったことだといわれているが——地方レベルでの組織では女性も意思決定に参加し、男女別々が普通の時代に一緒に食事をとり、交際し、また、宗教儀式にのっとらない結婚式をおこなったりした。また集会場としてつくられた「ソーシャル・インスティチューションズ」は、伝統的なラディカリズムの拠点だった。パブの男性中心主義に対して、男女が協同して討論し活動できる拠点形成という画期的な意味をもっていた。
残念ながらこれまでに述べてきたようなユートピア社会主義の思想や社会批判は、マルクス主義へは正当なかたち——つまり、「科学的」な批判的摂取——では受け継がれなかった。その理由については後にみるとして、ここでは、こうした家族と性をめぐる解放のユートピアンの後継者とでもいうべき人物について簡単に触れることで、フェミニズムに関わる社会主義者の対応のひとつのポジティブな場合をみて承ようと思う。こうした意味でユートピアンの後継者とでもいうべき人物を捜すとすれば、エドワード・カーペンター(一八四四〜一九二九)をおいては他にいないだろう。カーペンターの著作は既に多くが戦前に翻訳紹介されているらしいが(残念ながら未見である)、戦後はほとんど忘れ去られており、六〇年代後半以降の欧米で、性の解放が課題になりはじめるとともに再評価されはじめたこととは対照的である。この意味では昨年暮れに出版された都築忠七による優れた伝記『エドワード・カーペンター伝』(晶文社)は、貴重な仕事といえる。ここでは主として都築の仕事に依拠しながらフェミニズムにかかわるカーペンターの主張をみておくことにしたい。
カーペンターは中産階級の出身であり、また、ケンブリッジの聖職のフェローであるという身分と特権をことごとく放棄して、労働者階級のなかに身を投じたという特異な個人史が、彼のユートピアンとしての社会主義思想を支えていた。都築は次のように述べている。

「カーペンターの社会主義は、ヴィクトリア期のイギリスの上品な社会の、個人的でもあり社会的でもある疎外の悲惨さを自覚したことから出発した。性的疎外も広がっており、彼の場合には同性愛によって、それがさらに増幅された。そして牧師補として彼が訓練を受けた、そのヴィクトリア期の数会の福音に、ホイットマンの福音がとって代わった。のちに告白しているように、〈まずまずの、とりすました、小さな奥さん〉に結婚していたら、最後に彼は僧正になっていたことだろう。そうせずに彼は、労働者といっしょに生活し、世捨て人として生涯を終えた。それにもかかわらず彼は、労働者の解放とならんで婦人の解放を信じつづけた。彼らはいずれも、商業文明の犠牲者だった」(都築、前掲書)

カーペンターは、アナルココミュニストとでもいうべき思想を持ちながら、同性愛者として、同性愛をふくむ性の解放の実践者であり、その生活と文明に対する態度は、十分にエコロジストといって差し支えないものであったし、医療や監獄、死刑といった近代の抑圧的な制度に対してもラディカルな批判をなげかけていた。彼は決して科学と文明に対して全幅の信頼を寄せる進歩主義者ではなかった。むしろ文明は「掠奪階級あり、寄生状態あり、調和の喪失あり」の「社会的病気」と捉え、「病気を治癒する望みは、〈社会のなかでコミュニティに向かう運動と内なる野蛮すなわち自然運動〉 ——この二つの運動を通じて調和を取りもどす努力」にあるとみていたし、社会主義的な道徳とは、「共同の生の実現」と「個人の愛情や表現の是認」にあり、「そのための方法はまず〈定式を捨てること〉だ」と考えていた。彼は全国的な社会主義運動の政治よりもシェフィールドという地域から社会主義を構想しようとした。この問題意識の拡がりは、彼の個人史が、階級、性、そして都市と農村を横断して営まれたということと無関係ではあるまい。
同性愛は、キリスト教社会では犯罪である。男性の同性愛は、イギリスの場合、一八六一年まで死刑の対象であった。しかし、それ以後も重大犯罪であったことは事実で、一八八五年の刑法改正では「売春婦の同意年齢が一三歳から一六歳に引き上げられたが、これにラブシェア修正条項が追加され、それによってはじめて、男性の同性愛行為がすべて不法行為とみなされるようになった」(都築、前掲書)。こうした同性愛にたいする敵視のなかで、彼は、性に関する四篇のパンフレットを一八九四年から一八九五年にかけて出版する。その四番目のパンフレット『同性の愛と自由社会におけるその地位』のなかで、非常に慎重な表現で同性愛の擁護を展開している。

「一般に同性の愛が、俗に想像されるような極端な形をとると考えるのは、おおきな間違いであるといいたい。多数の事例がそうであるように、その関係は、抱擁や愛撫という意味では肉体的といえても、明確に性的でさえないのである。」
「〔同性愛は〕社会的またはヒロイックな営承にあり、肉体の子供ではないが精神の子供の誕生、我だの生命や社会のそれを変えるような哲学的理念や理想の懐胎にある。」(都築、前掲書)

都築は、カーペンターがこのように述べる時に同性愛に対するある種のヒロイズムがあったと解釈しているが、必ずしもそうとはいえないように思える。彼の現実の同性愛者としての生活は、むしろそれとは反対に同性愛者であることが彼にとっての自然なセクシュアリティの発現であり、右に述べられていることは、そうした個人の自由に対する道徳的、制度的な抑圧への憤りの昇華された表現と承れるのではなかろうか。だからここで主張されている同性愛の擁護は、あくまでも「ラブシェア修正条項」をにらんでの、愛といえば精神主義的な理屈付けをしなければ受け入れることのできない性的に保守的な異性愛者への煙幕であるとみるべきだろう。二番目に出された『女性——自由社会における女性の地位』のなかではもっと率直に、文明社会における女性の従属について次のように述べている。

「自由な世界から、彼女自身の好みの追求から、ますます彼女を締め出し、華麗な寝室かハーレムにひき篭もらせるか、さもなければ炉辺の苦役へ追いやるようになる。…次第に、生きるためのただひとつの選択を彼女に許すようになる。——自由な女になって性を奪われ、宿無しになって死ぬか、さもなければ結構な衣食と結構な名前とのために、自分を身も心も売って、御主人様に終身の隷属を誓う。——しかも悲しいことに、すぐにも嫌いになるような御主人様に」(都築、前掲書)

カーペンターは、こうした女性の解放のためには、「人間労働や人間愛を利益のために交換・販売することを含め、商業制度の全体が廃止される」ことが必要だと見ていた点は、他の社会主義者の見解と共通するが、しかし、決して階級闘争優先にはこだわらず、ブルジョワフェミニズムのラディカリズムを正当に評価しようとしていたし、家事労働からの解放が、生活の簡素化と不可分だと考えるところは、たんに家事と社会化だけでは十分ではなく、文化革命とでもいうべき生活過程のトータルな自己変革の内容を伴わねばならないことを自覚していた。この意味で、ユートピア社会主義者と同様に、日常生活から政治過程までをふくむトータルな社会革命を重層的なレベルで構想していた、といえる。しかし、彼が、パーソナルな領域で実践してきた性の解放は、政治過程における社会主義運動と必ずしも有機的に結びついていたわけではなかったし、彼の思想家、実践家としての資質が必ずしも社会変革のための「組織者」の資質にはなりえないものであったという点においては、彼のパーソナル・ポリティックスは孤立を避けえなかった。
カーペンターにはやくから注目していた社会史家のシェイラ・ロウボタムは、「一八八〇年代の社会主義のリバイバル以来、個人の生活様式と左翼のポリティックスの間の結びつきが繰り返しあらわれた。しかし、新たな生活を追求することと日々の実践的なアジテーションの間には常に緊張関係があったし、個人的な文化的転換をいかに政治的な戦略に関連づけるかについての明確な理念があったわけでもなかった」(Sheila Rowbowtham, Hidden From History, Vintage, New York)と的確な判断をくだしている。しかし他方で彼女は、ユートピア社会主義者の持っていた優れた側面についても指摘している。

「昔の社会主義者達は、富の再配分とか生産の所有権の変更とか、生産への労働者管理といったことに限らず、人間の諸関係総体の転換を追求していた。資本主義によって、カネでの結びつきを強いられながらも、彼等は自分達が望むことの全てが経済学に還元できないことを悟っていた。彼等は搾取に反対しただけではなく、搾取の結果である人間の創造的な能力の浪費に対しても反対した。従って彼等は、芸術的な試みを放棄しなかったし、公正を望むだけでなく美しさをも望んだのであった。社会主義とは全ての人びとの創造力と芸術的な営みの解放なのであった。それは、感情、身体、精神の間の断絶を治すことであった。」(”In Search of Edward Carpenter,” in Radical America, 1980, no.4)

ロウボタムは、こうしたユートピアンの考えかたが、戦略を欠いていたが故に、改良主義に回収される危険性を常にもっていた半面、現代のように資本主義がますます個人生活の領域に介入する度合いを強めている時代にあってはこうしたユートピアンの理念は極めて重要な問題提起である、とみている。私もこの指摘には全く同感である。問題は、ロウボタムの指摘が、同時にある種のマルクス主義批判という側面を持っているのではないか、ということである。

四、ユートピアンヘの総括と開かれたマルクス主義

エンゲルスが『空想から科学へ』のなかでユートピア社会主義を総括した視座というのは必ずしも上述したような視点を全く無視していたわけではなかった。むしろ、ユートピア社会主義の積極的な意義として正しく評価していた。さきにも述べたように、フーリエに関しては、「見事なのは、男女関係のブルジョワ的形式とブルジョワ社会における婦人の地位に対する彼の批判である。ある一つの社会における婦人解放の程度はその社会の一般的な解放の自然的尺度であるとは、彼がはじめていい出したことばである」と述べられていたし、オーエンについても「彼の社会改良の道を塞じるように思われた大きい障碍が三つあった。私有財産、宗教、現在の婚姻形式、その三つであった。これそのものを改革するならば、どんな目にあわされるか、それを知らされた。それは、いうまでもなく、公的社会における、一般的追放、全社会的地位の喪失であった。けれども彼は断固としてこれらのものを改革することをやめなかった」(大内兵衛訳、岩波文庫)と述べていた。しかし、エンゲルスはこのユートピア社会主義を「現実の基盤のうえにすえなければならない」としてそれを「科学」へと転換しようと試みる段になるとその「地盤」はユートピアンの持っていた構想の幅よりもずっと狭いものしか提示しえなかった。
このことは、彼等がさしあたり獲得しえた「現実の地盤」が『資本論』に限られていた、ということを意味している。往々にしてこの現実の事態をマルクス、エンゲルスのユートピア社会主義への総括が『資本論』で完成されたかのどとくに解釈されるが、エンゲルスの『空想から科学へ』におけるユートピアンヘの評価と彼自身による「現実の地盤」の展開の間のズレをみれば、彼等には「現実の地盤」として語り残した多くの領域があることは明らかである。マルクスの『古代社会ノート』やそれに基づいて書かれたエンゲルスの『起源』は、その後の人類学の成果からみて修正されねばならない点も多く、ケイト・ミレットが『性の政治学』で述べていたように当時の一般的な女性観から決して自由ではなかった面もあるが、それにもかかわらず「現実の地盤」を拡張しようとする試みのための一つの成果だった。しかしこうした成果や、マルクスがへ-ゲルやドイツ古典哲学批判にこめた宗数批判は、経済学批判と内的・有機的に接合されずに、経済学批判だけが現実の運動を正当化する理論として切り取られてしまった。このことは、社会主義運動が運動の次元で、ユートピアンの日常生活変革の視座、労働運動、そして女性解放運動といった諸運動を包括しうる力量をもちえなかった、ということであろうし、総合を試みる理論家が現実の運動に必ずしも後世の歴史家が与えたほどの大きな影響力を持ちえていなかった、ということだろう。
マルクスは『資本論』の冒頭で、資本主義的富の「基本形態」が商品という形態をとると述べた。そしてまたエンゲルスは『起源』のなかで、一夫一妻制の家族形態が「文明社会の細胞形態」であると述べていた。この二つの指摘をひとつのものとしてトータルに掴む試みは、マルクス、エンゲルスに対する教条主義のなかにもなければ、彼等の仕事を否定することのなかにもありえないだろう。彼等がなしえなかった諸問題を明示的に含みこんで、マルクス主義を開いてゆくことは、可能なのであって、むしろこのことの中に、先にロゥポタムも指摘していたようなパーソナルな領域の変革と社会変革を、そのいずれをも他方に従属させることなくひとつのものとして了解しうるパラダイムを築くことなのではないか、と思う。

出典:『クリティーク』3号 1986