ロシア-ウクライナ戦争での民衆の抵抗から学ぶ――権利としての戦争放棄
Table of Contents
- 1. ラディカルな平和主義
- 2. 国家に抗しての戦争拒否の闘い――ロシアとウクライナの反戦平和運動
- 3. 暴力についての原則的理解
- 4. 同時代に正確な「事実」を知ることは容易ではない
- 5. 国家と民衆の利害は一致しない
- 6. ハイブリッド戦争サイバー戦争の問題
1. ラディカルな平和主義
1.1. ロシアのウクライナ侵略後の平和運動の戸惑い
反戦平和運動のなかで、「侵略に対して武力による抵抗や反撃を選択しない」と断固とした態度で応える人達の声が確実に小さくなっているように感じている。ウクライナへのロシアの軍事侵略をきっかけに、反戦平和運動のなかでも、自衛隊を完全に否定して文字通りの意味での非武装を主張する人達は、いったいどれだけいるのか。国会野党でこうした主張をする政党はもはや存在しない。立憲民主党は「自衛隊と日米安全保障条約を前提とした我が国の防衛体制というものを考えている政党」であることを明言しており、共産党は原則として「自衛隊=違憲」論の立場だが「急迫不正の主権侵害にさいしては自衛隊を活用」(志位委員長幹部会報告)、社会民主党も「自衛のための『必要最小限度』の防衛力」を肯定している。自衛隊の争点は、自衛隊そのものの是非ではなく、自衛権行使の枠内での自衛隊の存在を容認しつつも、「自衛」の限度を越えて自衛隊を強化しようとする自民党の軍拡路線に焦点を絞って反対をするという現実路線が反戦平和運動の主流になっている。かつて自衛隊の海外派兵に反対する運動の一部に海外に派兵されない自衛隊なら容認するような雰囲気があったように思う。そして今、海外派兵のタガはとっく外れている。敵基地攻撃能力をもたないなら、武力を保有することは容認するところまで野党の9条護憲の内実は後退してしまっているのではないか。紛争解決の手段としての武力行使をいったん認めてしまえば、暴力が正義を体現することになるのは必定であり、歯止めのない軍拡へと向うことは自明だ。
たとえば、「もし日本がウクライナのように侵略されたら…」といった挑発的な想定問答が繰り返されるなかで、これまで9条改憲反対を主張してきた政治家から学者や知識人、平和運動の活動家までがうろたえたり、言葉を濁すことがあれば、そのこと自体が、9条は理念としては大切だが現実はそうはいかないかもしれない…という戸惑いのメッセージになる。ウクライナの悲劇とロシアの暴挙を目の当たりにして、なんとかウクライナの人々を救わなければならないという切実な思いに駆られるとき、武力による反撃は致し方ないのでは、NATOなどの軍事支援も否定できないのでは、それがウクライナの人々の思いであり、最適な戦争終結への道だという方向に考え方が変わることはおおいにありうる。そうなると漠然と「平和」を指向しているリベラル寄りの世論は、不安を煽る現実主義的な発想に屈し、確実に9条改憲に流れるだろう。
しかし、「もし日本がウクライナのように侵略されたら…」という世間に蔓延している問いは、9条改憲や自衛隊の更なる強化に肯定的な側が、みずからの主張を正当化するために、9条改憲に反対する人達に無理難題を突きつけて「改憲もやむなし」ということをしぶしぶ認めさせるための方策のひとつになっている。こうした問いに対して私たちがとるべき「答え」はひとつだ。つまり、明確に武力による威嚇も武力の行使も紛争解決手段として選択すべきではないし、陸海空軍だけでなくいかなる戦力も保持すべきではないから、国家の交戦権も自衛権も否定する、と断固として答えなければならない。「あなたの最愛の家族が目の前で殺されたり虐待されても、あなたは武器をもって反撃しないのか」などという問いに対しても明確に「NO」と答えることだ。このような想定問答に応じる必要はない、とい態度もありうる。たぶん、反戦平和運動の担い手たちも含めて、この詰問を実は内心に抱えており、その答えを必要としていると思う。だからこそ「答え」を用意することは必要だと思う。同時に、戦争や武力行使をめぐる問題は、現実政治や国際情勢に対して、どのような原則的な考え方を示すのか、という問題でもある。すなわち、問題解決の手段として暴力を行使することは、いかなる意味で正当化できるのか。武力行使とは、敵とみなした人間を殺す行為を国家が公然と承認し、更には「国民」を――最近は外国人の傭兵すら動員されている――殺す行為の主体とすることだから、国家の名における殺人をはいかなり理由によって正当化しうるのか、という問いに答えることが必要になる。
1.2. なぜ専守防衛ではなく「武器をとらない」を選択すべきなのか?
19世紀の国民国家の成立は、国民を兵士として動員する基盤を形成した。民主主義であれば、主権者は「国民」である、という建前で権力の正統性が構築される。そうだとすると、民主国家の「国民」は国家の主権者として自国への侵略に対して武力による防衛の義務を負うということになるのだろうか。この問いは、主権者の国家に対する義務には暴力を行使する義務も含まれるのかどうか、という問いでもあり、また、私たちはそもそも「国民」であることを義務づけられているのかどうか、という問題ともかかわる。
防衛白書では「専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう」と定義している。攻められたときに最小限度の攻撃だけを行なう戦争で勝つことはほぼありえない。だから、自衛隊は肥大化してきた。
専守防衛とか必要最小限などの抽象的で明確な定義のない言葉に平和や戦争放棄の可能性を期待すべきことは何もない。こうした言葉に惑わされるべきではない。だから、軍隊をもつか、もたないか、という二者択一の問題として考える必要があり、はっきりと軍隊は不要であると主張しないといけない。
1.3. 自衛のための武力行使を明確に否定すること
護憲や平和憲法擁護の議論の最大公約数になりつつある立ち位置は、自衛力の保有を是認しつつ、この自衛力が実際に行使されないように、外交手段などによって平和の維持に努力すべきだ。
自民党や右翼との対峙の基軸は、「自衛」の暴力の否定を明確に打ち出すことだ。政府がいう「自衛」=自己防衛の「自」とは彼の権力自身のことであって、彼らは、民衆の命を犠牲にして彼らの「自衛」を図る。これを人々に「自分たち」の「自」だと誤解させるようなレトリックがある。人々がナショナリズムの意識をもてば持つほど、この誤魔化しが通用してしまう。
もうすこし身近な言い方をすれば、私は人殺しはしたくないしできない、だからといって自分の安全のために誰かに私のかわりに人殺しをしてもらうというようなことも考えたくない、ということだ。戦争について「殺されたくない」という言い回しがあるが、これでは決定的に不十分だ。なぜなら殺されたくないから、自衛のために殺すことは許容される余地を残すからだ。むしろ殺さないことが重要なのだ。
この極めて素朴な日常生活感覚が社会関係の基礎にあるからこそ、社会は殺し合いを問題解決の選択肢とすることについては、ある種のタブーとして封印する。ところがこの封印の例外に、国家による暴力の独占があり、これが法の支配のもとで正統性を獲得してきたのが近代国民国家だ。今問わなければならないのは、この国家による例外的な暴力をそのままにはできないということだ
平和を徹底させるるために武器をもたないという選択を臆病者の選択というのは権力者の「偽旗作戦」の一環でもある。むしろ武器をとらない(自衛の武力行使すら認めない)という立場は、タフな選択だ。「敵」の脅威だけでなく、味方からの精神的肉体的な抑圧や孤立、戦争体制をとる自国政府による弾圧に晒される。多くの兵役拒否者や脱走兵たちは、この二重の迫害を生きる覚悟をもつことになる。だからこそ、戦争当事国において武器を持たないこと、殺さないことを選択し、なおかつ戦争に抗って闘うことをあきらめない人々との連帯は、彼らを孤立させないためにも、とても大切なことでもある。
1.4. 生きる権利と国家の「自衛権」
私は、人間の生きる権利を普遍的な権利として前提する。「普遍的」には、自分だけでなく他者の生きる権利をも侵害すべきではない、という意味が含意されており、同時に、「他者」とは――主にここでの議論に引き寄せていえば――国境を越えた向こう側の人々、あるいは敵国で暮す人々を含む。私たちは、主権者として自分が帰属する国家が、この生きる権利に対して責任を負う義務があることを権力の具体的なありかたとして、統治制度のなかで実現できければならない。1
生きる権利の観点からは、政府が戦争という手段を選択することを認めることはできない。しかし、生きる権利と戦争を両立させるような次のような議論が一般的だろう。近代国民国家の義務として、自国民の生きる権利(生命財産を守る、という言い回し)を防衛するために、国家は武力による対処対処能力を保有すべきだ、という議論だ。 この議論は、普遍的な生きる権利とは抵触する。2
現実の世界では、民衆の生きる権利よりも国益が優先される事態が一般化している。侵略され殺される危険は、生きる権利の侵害だ。この戦争行為によって、自国の民衆も相手国の民衆も殺される。民衆の生きる権利は、この殺し合いによって、国家によって保証されるという矛盾がある。つまり、実際に防衛されているのは、国家権力自身の「生きる権利」でしかない。ここには、民衆の生きる権利を権力の「生きる権利」にすりかえるレトリックある。皮肉なことに、このレトリックを支えているのは、国民を主権者とする近代民主主義国家の理念であり、ナショナリズムのイデオロギーだ。
軍隊の存在は、民衆の生きる権利を普遍的な権利として承認していない証拠でもある。これに対して、私たちが追求しているのは、民衆の生きる権利のために、国家権力は、時には自らの「生きる権利」を断念することも必要だ、という観点だ。この断念は、国家と利害関係をもつ民衆が自らの手で、国家に対して民衆の生きる権利を強制することによってのみ実現できる。反戦平和運動がラディカルな観点に立てるかどうかは、自国の軍隊が生きる権利と抵触する存在であることを明確にし、その廃棄を主張できるかどうにかかっている。
1.5. 武力を背景にした外交と非武装の外交は本質的に違うアプローチになる
いちばん問題なのは、軍事力を背景とした外交は、武力による解決を最後の手段だと前提しての交渉になるので、非武装の外交とは全く次元が異なるということを理解することだと思う。
力による解決という選択肢がないばあい、解決は「対話」による以外にないので、「対話」がもつ問題解決の能力が問われる一方で、武力によらない解決の可能性がずっと大きくなる。日本は常に米軍の後ろ盾を前提にしており、更にこれに自衛隊の存在があり、こうした武力を後ろ盾にしない外交を戦後日本が実践してきたことはない。結果として、岸田のような力による脅しの外交しかできなくなるのだと思う。
だから、私のような観点に立つと、自衛隊を廃止し、米軍も排除することが日本にとって必須だと思うが、同時に、どこの国の軍隊も、そしてまた傭兵や軍事請け負い会社もすべて廃止すべき、ということになる。残念なことに、これがグローバルな反戦平和運動の共通の了解事項にまでなっていないのが現実ではないかと思う。
2. 国家に抗しての戦争拒否の闘い――ロシアとウクライナの反戦平和運動
2.1. 戦争とファシズムの影
この戦争は、ロシア側にもウクライナ側にも無視できない極右や排外主義的な愛国主義による影響がある。ウクライナに関していうと、最近やっと注目されるようになったネオナチを思想的背景にもつアゾフ大隊の問題は、その軍や政府への影響について、評価が分かれている。日本や西側のメディアは極力その影響を過少評価しようとしており、ロシア政府や政府系メディアは誇張することによって、「軍事作戦」の正当化を図ろうとしている。ウクライナの国政選挙結果をみる限りウクライナの極右の影響力は無視できるほどの大きさしかないが、東部の戦闘にとってアゾフ大隊の影響力は無視できない。アゾフ大隊は民生部門から政府機関に至る様々な関連団体を含むアゾフ運動のなかの軍事部門ともいうべきこのだ。Centuriaのような軍の幹部候補生のグループもあり、社会に浸透すればするほど、主流の政治システムとの見分けがつかなくなることは、多くの欧米諸国における極右の主流化と共通した現象かもしれない。
他方でロシアの場合は、プーチンの最も有力な後ろ盾がロシア正教であり、有力者たちがこぞってウクライナへの侵略やウクライナのロシアへの併合を主張しており、これがロシアからのウクライナの正教会の離反(ウクライナ正教の成立)を招いたが、人口の多数が信仰する宗教が戦争賛美に絡むことを考えたとき、この戦争を単純にプーチンの狂気とか独裁には還元しない方がいいと思う。そしてロシアのウクライナ東部での戦闘の主要な担い手もまた、ロシアの極右武装集団であり、これにロシア政府もまた大きく依存している。たとえば、カトリック系のウエッブサイトLa Croix Internationalの記事によれば、ロシア正教会のキリル総主教は、ロシアのテレビ説教で、ウクライナの戦争を、「神から与えられた神聖ロシアの統一」の破壊を目論む悪の力に対する終末的な戦いとし、ロシア、ウクライナ、ベラルーシが共通の精神的、国家的遺産を共有し、一つの民族として団結することを「神の真理」だと強調したという。戦争を擁護するこうした主張がロシア正教の最重要人物から出されているように、この戦争はプーチンの戦争に矮小化できない宗教的背景もある。
2.2. ロシアとウクライナの戦時動員体制と反戦運動、反政府運動
2.2.1. ウクライナでの戦争動員
ウクライナでは、徴兵制が2012年に停止された後に2014年に再導入される。ウクライナでは徴兵に備えて、子どもへの軍事訓練が今回の戦争以前から行なわれてきた。18歳の徴兵年齢に先だって、徴兵制に備えた軍事的愛国心教育が学校のカリキュラムの必須項目となっている。この教育には野外訓練や射撃訓練が含まれ、極右団体は、子どもたちの軍事サマーキャンプ開催の予算を政府から獲得している。
ウクライナは徴兵制がある一方で良心的兵役拒否の制度によって兵役免除が可能な建前があるが、これが機能していない。非宗教的信念を持つ人には適用されず、兵役への代替服務も懲罰的または差別的だと批判されてきた。
ゼレンスキーは、4月初旬に「我々は間違いなく、独自の顔を持つ『大きなイスラエル』になる。あらゆる施設、スーパーマーケット、映画館に軍隊や 国家警備隊の隊員がいても驚くことはないだろう。今後10年間は、安全保障の問題が最優先課題になる」と述べた。このことはとくに中東のアラブ地域では衝撃をもって受けとめられた。イスラエルにとってのアラブ系住民への監視のシステムは、ウクライナにとってのロシア系住民の監視のシステムに転用できそうだ。実際にウクライナは欧米諸国では禁じられている高度な顔認証の監視技術を導入するなど、すでに軍事監視社会への道を進みつつある。
2.2.2. 戦争拒否者への弾圧の事例
今回のロシアとウクライナの戦争に関連して、いくつかの事例を挙げると、
- 兵士、戦闘員としての強制的な動員や事実上の道徳的倫理的な圧力による動員の体制がどちらの国にもあり、これは良心的兵役拒否の国内法にも国際法にも反している。
- ロシアでもウクライナでも良心的兵役拒否が機能していない。
- ロシアでもウクライナでも戦場からの離脱の自由が権利として保障されず、部隊からの離脱は一般に「脱走兵」扱いで犯罪化される。兵士を辞める自由は重要な市民的自由の権利であり、会社を辞める権利と同様保障されなければならない。
- 学校や右翼団体の活動で軍事訓練や戦争を賛美する教育や戦争を支える活動が行なわれている。
- どちらの国でも、相手国に関連する言語や文化への不寛容が制度化され、著しく自由な表現への規制がみられる。
2.2.3. ロシアの不服従
ロシアの政治犯の救援を行なっているODVinfoの報告書(別の記事「(ОВД-NEWS)ロシアの反戦、反軍レポート」など)によると戦争が始まって数週間の間に、ジャーナリスト、弁護士、医師、科学者、芸術家、作家など、さまざまなコミュニティの代表者が、ロシア軍の行動への反対を表明する公開書簡を何十通も送っており、ソーシャルネットワークには、戦争を非難する数千の記事が掲載され、反戦集会はロシア全土で開催された。また、ウクライナの住民を支援する団体への寄付が増え、ウクライナで被災した市民への個人寄付も大幅に増加したという。
戦争から2週間あまりの間だけでも、反戦デモでは、未成年者、弁護士、ジャーナリストを含む1万4千人以上が拘束され、活動家、人権活動家、ジャーナリストのアパートの捜索も相次いだ。そして、集会やデモといった集団行動はことごとく抑圧されるようになる。連邦のコミュニケーション・情報・マスコミ監督庁(Roskomnadzor (RKN))は、軍の公式記録を用いることを義務化し、違反した場合には、罰金が課され、更にサイトのブロックも可能になった。また非政府系メディアも次々に閉鎖されはじめ、Twitter、Facebook、TikTok、Google、Youtubeなどが相次いで規制されている。
こうした大規模な弾圧にもかかわらず、抗議行動は様々な創意工夫のなかでロシア全土で展開されている。集団行動が困難ななかで、一人でポスターやプラカードをもって抗議の意志表示をする一人ピケが次々に登場した。たった一人のアクションでもネットで拡散されることでの影響力は大きい。街頭のグラフィティの数も多く、こうしたアクションのノウハウがSNSで拡散された。日本ではあまりお目にかかれないユニークな抗議の手法もある。花壇の植え込みの園芸用ラベルに反戦のメッセージ書いたり、店の商品に、値札に模した反戦メッージを貼ったり、紙幣に反戦のメッセージを書くなどだ。封鎖をまぬがれたTelegramが、重要な情報発信の手段になっている。たとえば、フェミニスト反戦レジスタンスや上述したODVinfoなどが活発に抗議行動を写真や動画入りで発信しつづけている。
こうした合法的な抗議以外に、もっと大胆な行動もみられるようになっている。ロシア軍の軍需物資を運ぶ鉄道への組織的な妨害が、ロシアとベラルーシで頻発している。「ストップ・ワゴン」のウエッブページでは、戦争を阻止するために物資補給を断つ手段として鉄道への妨害があると述べている。このウエッブには、「妨害」に関するノウハウや情報が掲載され、そのSNSでは、脱線や線路の爆破のような目立つ行動はサボタージュの5〜10%程度に過ぎず、多様な妨害がある述べている。また、ロシア軍の兵士募集の施設が度々放火されている。人々は、ロシアの閉塞した状況に直面するなかで、19世紀のナロードニキの運動を想起しはじめている、ともいわれている。
特徴的なことは、ロシア国内の反戦運動で重要な役割を果たしているのが女性たちの運動だ。とくにフェミニスト反戦レジスタンスの活動は重要な意味をもっていると思う。このグループが戦争から100日目に、ロシアを「ファシズムの兆候のある国」だとして声明を出している。この声明のなかで「民主主義制度が解体され、政治が抹殺され、選択肢も選挙もなく、独裁がエスカレートしているこの国で、私たちロシア全土の反戦運動が草の根の主要な政治勢力にならなければならない」と主張した。一部を引用しよう。(全文の日本語訳はこちら)
2.2.4. ウクライナの平和運動+ユーリイ・シェリアジェンコへのインタビュー3
- ウクライナ平和主義者運動の声明
2022年4月17日 私たちは、公式のプロパガンダによって過激で不倶戴天の敵意が強化され、法律に盛り込まれた、紛争当事者にナチスに匹敵する敵や戦争犯罪者という相互のラベル貼りを非難する。(略)私たちは、軍事的残虐行為の悲劇的な結果が、憎悪を煽り新たな残虐行為を正当化するために利用されてはならないことを強調する。それどころか、このような悲劇は闘志を冷まし、戦争を終わらせる最も無血の方法を粘り強く模索することを後押しするものであるべきだ。 (中略) 私たちは、ロシアとウクライナの平和な人々の意思に反して、民間人に兵役の実施、軍事任務の遂行、軍への支援を強制する慣行を非難する。私たちは、このような慣行は、特に敵対行為中に、国際人道法における軍人と民間人の区別の原則に著しく違反するものであると主張する。兵役に対する良心的兵役拒否の権利を軽視するいかなるものも容認することはできない。 私たちは、軍事衝突をさらにエスカレートさせるようなウクライナの武装過激派にロシアとNATO諸国が提供するあらゆる軍事支援を非難する。 - ユーリイ・シェリアジェンコへのインタビュー
ウクライナ平和主義運動事務局長、ユーリイ・シェリアジェンコ博士へのインタビューから。ウクライナの人々の武力抵抗の決断については以下のように答えている。 戦争への全面的な参加は、メディアが伝えるところですが、それは軍国主義者の希望的観測の反映であり、彼らは自分自身と全世界を欺くためにこのような絵を描くために多くの努力を払っています。実際、最近の評価社会学グループRating sociological groupの世論調査では、回答者の約80%が何らかの形でウクライナの防衛に携わっているが、軍や領土防衛に従事して武装抵抗したのはわずか6%で、ほとんどの人は物質的あるいは情報的に軍を「支持」するだけであることが分かっています。それが本当の意味での支持かどうかは疑問です。(略)4月21日のOCHA人道的影響状況報告書によると、510万人が国境を越えたのを含め、約1280万人が戦争から逃れたといいます。
2.2.5. ウクライナの革命的労働者戦線(RFU)の仲間とのインタビュー4
ウクライナのマルクス・レーニン主義を標榜して活動するグループRFUは2019年に結成されたばかりの新しい組織。彼らは、ロシアとウクライナの戦争を「帝国主義戦争」と位置づけて、ロシアにもウクライナにも与しないことを明言している。特にウクライナ国内で明確に自国政権の戦争を批判する活動に取り組んでいるのは、「脱共産主義化」をめざす――これはロシアと共通している――ウクライナではかなり困難な立場だ。
RFUは、「ウクライナで人々が戦い、死んでいく限り、戦争は続くことになるでしょう。これは、どちらの資源が最後まで持つかという消耗戦のようでもあり、現状では膠着状態」と悲観的な見方をしている。その上で、現在の戦争への抵抗について次のように述べている。
西側からの支援にもかかわらず、前線の状況はひどく、損失も大きいので、多くの脱走兵がいます。結局、労働者のために何もせず、むしろ彼らの状況を悪化させる国家のために死にたいと思う人はそれほど多くはないのです。国会議員や外国語を学ぶ学生は軍隊への徴兵が免除されますが、それでも出国は禁止されています。多くの人が書類を偽造して、自分はボランティアや介護者だから兵役は免除されると証明しようとします。徒歩で出国しようとする人たちも多い。ゼレンスキーは「誰でも自由に出国できる」と言いますが、それは本当ではありません。私たちの知人にも前線にいた者がおり、なかでもドンバスの将校は、追跡が難しいので脱走は比較的簡単だと言っていました。もちろん、政府はそのようなことは言いません。脱走や軍の上官の命令に従わないことを厳しく罰する新法もあり、人々の間では戦意が急速に低下しています。裁判所は今、より軽い判決を下すことを禁じられています。
ロシアに併合されたドンバスについては、「左派の人々の中には、ドンバスの共和国は何らかの意味で進歩的で、住民の利益になると考えている人もいますが、そうではありません。これらの共和国は極めて親ロシア的で、ロシア連邦の傀儡」であり「ロシアにとっては、安い労働力を得るためのもう一つの市場」だと批判している。
ウクライナのナショナリズムについては次のように述べている。
(ウクライナは)戦争が始まると、政府の公式路線を支持しない好ましくない人々はすべて職を追われました。ゼレンスキーを中心に、新しいナショナリズムを象徴する一党独裁体制が形成されました。戦争が始まってから、アゾフのような軍事右翼を中心に、ナショナリストの組織が強くなってきました。(中略)戦争で右翼に走る民衆が増えましたが、これは長くは続かないだろうと思われます。民衆はイデオロギー的に右翼的ではありません。右翼への支持は、戦争中の恐怖に基づく文化的な現象に過ぎないのです。
戦時下のウクライナにおける左翼の状況を次にように述べている。
今のところ、大衆は政治活動に参加することができません。左翼的な立場の幅を広げる機会もわずかしかありません。ウクライナでもロシアでも、国家からの弾圧の可能性に直面しています。(中略)現在の状況を革命的な状況に変えることはできませんが、私たちは、人々の中で、特に兵士たちに呼びかけることに全力を尽くしています。
2.2.6. ロシアの反戦運動とウクライナの反戦運動それぞれにみられる固有の困難とは
ウクライナの戦争を見るときに、私たちが忘れてならないのは下記の条件だ。
ウクライナの人々の大半は、ロシアの侵略を否定し容認しない立場をとっているとしても、だからといって武器をとって抵抗するという道は選択していない。むしろ多くの人々は、戦場から避難することを選択している。難民となり過酷な将来が運命づけられるとしても戦争に命をかけるという選択をしていない。ウクライナ政府は、成人男性の出国を認めていないために、止むを得ず国内に留まり、直接間接に自衛のための戦争に関与することを余儀なくされている多くの人々がいる。もし、出国停止措置がとられていなければ、もっと多くの男性たちもまた国外に避難することを選択したに違いない。私は戦争に背を向ける彼らの行動にポジティブな意味を見出すことが必要だと考えている。戦争放棄の具体的な行動の核心にあるのは、この戦場からの逃避行動だからだ。戦争放棄とは戦争から逃げることに積極的な意味を与えることにある。
この戦争に対して、明らかに、国家や国家に準ずる武装勢力の組織的な暴力の前に、圧倒的に多くの人々は、物理的な力に関しては無力である。こうした暴力に関していえば無力な存在に、より肯定的な価値を見出し、戦争放棄の思想を構築すべきだ。戦争放棄は国家の思想でもなければ国家の規範でもない。これは無力な一人ひとりの人間が暴力から逃れることを正当化し、暴力を凌駕する力を非暴力不服従に与えるための規範なのだ。
3. 暴力についての原則的理解
3.1. 暴力と正義の間には何の因果関係もない
近代において、暴力の廃棄は、国家と資本の廃棄と同義だ。暴力の廃棄は、マルクスの言い回しを借りれば、人類の前史に終止符を打つ壮大な挑戦であり、この理想主義なしには平和を実現できない課題でもある。
暴力の問題について、私たちが確認しておかなければならない原則がある。それは、力の強い者が正義を体現しているわけではない、という事実だ。もし力が正義であるなら、ドメスティックバイオレンスでは、加害者である男の暴力が正義になる。力と正義の間には、何の論理的な因果関係も存在しない。
私たちが日常的に経験している暴力について、たぶん、男性と女性では、その対処の選択肢や優先順位が違うように感じる。少なくとも、日本では、そういって間違いない。DVの被害者となる多くの女性たちは、実は、男性以上に日常的に殺傷力のある道具――つまり台所にある包丁や刃物などだが――の使用には長けている。DVの加害者を殺すことで問題を「解決」することは可能だということは誰でもわかることだ。しかし、実際にそうした手段を選択する人はごくわずかだ。多くの被害者は、別の闘い方を選択する。
DVの被害者を支援する活動家たちも、加害者を殺すことが問題の解決になるとは主張しない。むしろ、暴力に対して暴力で対処するのではなく、被害者のために避難場所を用意し、加害者が接触しないような防御策をとり、法的手段を駆使し、同時に、加害者の更生への道を探るのではないだろうか。こうした活動は、DVを引き起す社会的な背景にも目を向けることになる。家父長制的家族制度や資本主義の市場経済がもたらす性差別主義のなかに、暴力によって支配を貫徹させる不合理な欲望を再生産する社会的な構造がある。問題は、暴力による報復や復習では解決できないのだ。暴力をもたらす構造からの解放という目的は、暴力という手段によって実現しえない。人びと、とりわけ男性の意識や価値観を変えるための挑戦が必須になる。こうした身近な暴力の話題を戦争という暴力の文脈のなかに置き換えて考えてみることが必要なのだ。
この暴力と正義の関係は、難しい哲学や政治学の議論ではない。私たちの日常的な解放への実践の積み重ねのなかで理解できることでもある。しかし、国家間の戦争になると、この日常の知恵がすっかり忘れさられてしまう。国家間であっても、DV同様、正義と暴力の間には何の因果関係もない。力が強い者、戦争に勝利した者が正義であることもあれば、不正義であることもある。(何が正義か、という問いを脇に置いて、の話だが)いずでれあっても、多くの犠牲者を生み出す。そしてまた、戦場で実際に戦争犯罪を犯すのも普通の人びとなのだ。
3.2. 民衆が戦争を選択しないための必要条件――ナショナリズムからの離脱
実際の戦争状態にあるとき、戦争放棄の実践は、空疎な絵空事でしかない。しかし、戦争によって人々が犬死にを選択しないためには、この絵空事を現実のものにしなければならない。どうすれば現実のものにすることができるかを考えることは、なにが戦争放棄の実践を妨げる要因になっているのかを考えることでもある。
戦争を選択する人々がいるのはなぜなのか。権力者が戦争を選択するということと、一般の市民が自発的に戦争を選択することとは同じではない。市民があえて自らの命を捨てる覚悟をするのはなぜなのか、このことが説明できなければ、放棄を思想的な課題として捉えることもできない。この問題は、近代の戦争の典型でいえば、ナショナリズムや愛国心の問題として捉えられてきたが、ポスト冷戦の時代には、これに加えて、宗教的な信条をも念頭に置くことが必要だろう。他方で、権力者にとってナショナリズムは、権力の再生産に必要なイデオロギー的な要素であって、これは自らの内面に醸成すべきことではなく、社会を構成する人口が内面化できるようにイデオロギー装置を構築するという問題になる。権力者が戦争を選択できるためには、ナショナリズムが必須であるが、同時にこのナショナリズムは戦争を通じて創出されるものでもある。明治期日本が構築したナショナリズムは、近代以前の「日本」の伝統の継承ではなく、同時代に繰り返された帝国主義戦争を通じて、だった。
ナショナリズムの信条が集団心理として構築され、これがイデオロギー的な世界観によって正当化されるようなパラダイムのなかで社会の集団的な紐帯が構築されるとき、こうした集団は「国民ネーション」を構成することになる。この「国民」という枠組をまず解除することなしには、戦争放棄を具体的な実践的な構築物として具体化することは難しい。少なくとも「国民意識」を相対化すること、つまり、私の「国民」としてのアイデンティティは、普遍的なものでもなければ宿命でもなく、私の意思によっていつでも「捨てる」ことができるようなアイデンティティに過ぎないとみなすか、「国民」というアイデンティティは虚偽意識以外の何者でもないということを明確に理解して、情動の動員作用を忌避できるような意識をもつことが条件になる。https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2022/04/12/sensouhouki_no_saikouchiku/
3.3. 民衆が終らせるらせる戦争は、国家による戦争終結と同じではない
私は、基本的に、ウクライナで暮す人であれロシアで暮す人であれ、自らの意思に反して兵士として強制的に動員されないこと、戦争関連の労働を強制されないこと、戦場からの避難の権利が保障されること、つまり戦争によって国家間の問題を解決することに自分の命を賭けるつもりのない人たちの権利が尊重されるべきだ、と考えている。とりわけ明確に戦争に反対する主張をし、行動する人達の表現の自由は、権利として保障されるべきだ。私が注目するのはこうした人々になるが、どちらの国の政府にもこうした立場をとる人達へのリスペクトがなく、戦争する国では例外なく、こうした国家の戦争行為に背を向ける人々が様々な抑圧や時には命を奪われたり暴力の被害にあう事態がみられる。国家であれ何らかの集団であれ、軍事的な組織行動をとるときには、戦争を拒否する権利の保障がないがしろにされるのは、あってはならない市民的権利の侵害だと私は考えている。
戦争を遂行する国において、戦争を拒否する権利を保障することは、平時にはない制約がある。一般に戦争=国家緊急事態では、民衆の自由を制約し、国家目標に民衆を動員する強制力は、制度的にも、また民衆内部の国家への同調心理――ナショナリズムと愛国心――によっても強く作用する。
戦時下での民衆の国家目標への心理的同調と、民衆動員のための仕掛けを通じて、ナショナリズムが再生産され、同時に、その形が形成されもする。あらかじめナショナリズムと呼べる何かがあるわけではない。あるいは、ロシア人とかウクライナ人と呼ばれる人達のナショナルなアイデンティティがあらかじめあるのではなく、戦争を通じて、こうしたナショナルなアイデンティティが人工的に構築され、これが近代以前、あるいは太古の時代から連綿として継承されてきた「民族」的なものであるかのような物語を通じて「文化」として構築される。日本の近代が、江戸から明治へと転換するなかで「日本人」としてのナショナルなアイデンティティが構築されるのは、明治維新期の内戦と廃藩置県、そして何よりも日清・日露戦争を通じてのことだったことを忘れてはならないだろう。
ウクライナでもロシアでも、戦争に背を向ける人たちがおり、だから国内には戦争に関して相反する考え方をもつ人達がおり、国内に戦争について異論をもつ人々がいることを棚上げにして、「ウクライナ人」「ロシア人」というような括りかたで論じることはできないと思う。
いずれの国も多民族国家であり、様々な文化的背景をもつだけでなく、エスニシティ、ジェンダーから思想信条まで多様である。そのなかで私は、戦争を拒否する人達、つまり人を殺すことによって自らが殺されないことを選択しない人達の生き方は、いずれの国にあっても過酷であって、臆病者や反愛国者のレッテルを貼られてコミュニティから排除・迫害され、投獄や暴力にすら晒されながらも、その意志を守り通そうとする人達を支持したいと思っている。こうした態度を選択する人々の生き方や権力との対峙のなかに、必ず日本における殺さない選択をする場合に学ぶべきものがあるに違いないからだ。
ウクライナの戦争は、これまでになかった深刻な影響を私たちに残すかもしれない。ひとつは、この戦争の結果がどうなろうとも、戦争を鼓舞するウクライナ側とロシア側の極右にとっては更に大衆的な支持を獲得するチャンスになった、という点だ。いずれの国においても、極右に共通する暴力的な排外主義、家父長主義、差別主義がナショナリズムや愛国主義によって免罪され、更に、ウクライナや西側の極右にとっては、「正義」の担い手にすらなり、西側諸国の建前の人権尊重を退けて、政治の基本的な枠組を地政学的な軍事安全保障優先へと導くことになる。ロシアに関しても、日本国内の印象はアテにならず、G20の参加諸国の対応をみても欧米諸国が多数を占めることができなくなっており、まさに「正義」が二分した状態だ。この戦争をきっかけにして、グローバルに極右がメインストリームに浸透し、多くの人々が自覚しないままにメインストリームが極右化することになるのではと危惧する。
制度的には、戦争の終結は、外交交渉や政府の決断など、国家権力の意思決定に委ねられるし、歴史の正史では、そのように扱われる。しかし、民衆の行動も考え方も国家の態度によっては代表しえない多様なものだ。日本のばあい、民衆の戦争協力は決して積極的ではないが、公然と拒否するほどの力をもつには至っていない。リムパックのような大規模軍事演習で周辺諸国の脅威を煽りつつ、日本や米国の挑発については沈黙することによって、潜在的な厭戦気分を政府は必死になって繰り返し払拭しようと試みている。
私たちは、民衆のなかにある多様な言葉にならない戦争に背を向ける感情や態度が直面している不安や危機をそのままにしていていはいけない。戦争に背を向けること、いかなる軍事的な危機にあっても武力による解決は間違いであることを、情緒に訴えるだけではなく、明確な理論的な言葉にしなければならない。それなくしてナショナリズムや愛国主義といった戦争のイデオロギーを無化することはできない、と思う。国家に武力を行使させないためには、国家に武力を保持させないことが大前提だ。自衛隊も米軍も廃止以外の選択肢はない、ということを、戦争を目前としているからこそ言い切ることが必要だ。あいまいな「自衛力」の容認のような態度をとるべきではない。この意味で、戦争の渦中にある国で暮す人々がいかに戦争に背を向けようとしているのか、そこから一切の武力を否定する反戦平和運動の原則を再構築することが、日本の反戦平和運動では必要になっていると思う。https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2022/09/03/shiminnoiken30_202208/
4. 同時代に正確な「事実」を知ることは容易ではない
4.1. (事例)満州事変はどのように「理解」されていたのか
4.1.1. 陸軍の公式見解
たとえば、1931年10月に陸軍省が出した「満州事変概要」という文書がある。この冒頭に満州事変の概要として次のような説明がある。いわゆる満州事変が起きたのが9月18日で、この概要の執筆は9月23日とあるので、直後に陸軍省が状況をまとめて報じたものだ。
「近時支那の帝国に対する態度は、甚だ好ましからぬものがあった。最近両国間に起った事件は、大小三百余件にも及び、特に其内でも駐支公使のアグレマン問題、万宝山、青島事件、支那官兵の中村大尉虐殺事件は、吾人の今尚忘るること出来ない重なる事柄である。其他本年七月以降満州に起った事件は、十二件にも及び、皆我が居留民や軍人軍隊に対して不法行為を為し、侮辱或は迫害を加えて居る。又八月下旬支那側の公式宴会席上では、日本と一戦を交え満州より駆逐せよとか、日本軍人は、近時実戦の経験に乏しいが、支那側は、国内戦で十分修練をして居る。随て若い将校達は鼻息が頗る荒い等と、文武の要人が公然豪語して居るが如き、昔日の消極的排日は漸次積極的の侮日行為と化し、遂には挑戦的態度に出づるに.至った事件発生の数日前には、今回事件の中心をなして居る北大営の王以哲旅団長は、「予は日支間の現況に鑑み●きの露支事件に於ける韓光弟(事件を起し勇敢に戦い死没す)たるべし」と放言したり、また満州の各地で支那人間に、「近々日本勢力駆逐」とか、「近日南満で支那軍憲よりの衝突がある筈」等との風説や、情報が、相次いで伝えられて居った。
右様の次第で、支那側就中満蒙に於ける対日態度は、極度に挑戦的であって、自然日支間の空気が先鋭化し、重大なる自体が勃発せねばよいがと憂へて居った矢先に、今回奉天付近で支那軍隊の満鉄破壊の暴挙が此の両者間の張り切った感情に付け火をして、遂に事件を重大化するに至ったのである。」
「満鉄破壊の暴挙」の詳細については、「事柄其のものは極めて明瞭であり且つ簡単である」として、以下のように説明している。
「これはまことに重大なることではあるが、事柄其のものは極めて明瞭であり且簡単である即ち九月十八日午後十時三十分頃支那将校の率いる二三中隊は北大営(旅長王以哲の率いる約七千人在営す)西南側の満鉄線路を爆破し次であたかも当時線路巡邏中の我守備兵を襲い且柳条溝分遣隊方面に前進した。此の報に接した我虎石台守備中隊は直に之を救援すべく線路上を南下した所が支那軍は北大営西南側より兵営ににげ込んだので我中隊が之を追うて北大営に進入せんとすると兵営内に在った支那軍は猛烈に住家を之に浴せた為同中隊は兵営の一角に占拠して対抗したが支那兵は更に機関銃、歩兵砲等を増加したので中隊は一時苦戦に陥ったが(野田中尉重傷す)間もなく在奉天の独立守備隊第二大隊(長 島本中佐)主力の応援する所となり共に北大営攻撃を開始したが鉄嶺方面に在りし独立守備第五大隊(長 田所中佐)の主力は此報を聞きて増援し概ね十九日未明過ぎに北大営の敵を駆逐した、営内には無数の打ち殻薬莢と、各所に小銃弾、手榴弾等の実包が相当に分配されたまま遺留されてあった」
4.2. とはいえ人々は自分が戦争に行くことに積極的になれたとはいえない側面がある。
陸軍省統計年報1938年 https://dl.ndl.go.jp/pid/1446686/1/1
5. 国家と民衆の利害は一致しない
5.1. ウクライナとロシアの戦争を鏡とみなす日本の政府や世論
メディアは毎日のように、中国、ロシア、北朝鮮を不条理な侵略者として報じている。人々は、日本をウクライナと重ねあわせて、侵略される恐怖を抱くような感情が形成されている。同様の不安感情は韓国にもいえるために、韓国では核武装論まで登場しはじめているという。こうして、ウクライナの戦争は、地域の人々の間に心理的な分断と敵意を醸成してしまった。他方で、日本がロシア同様、不条理な侵略者となる可能性を秘めていることにはまったく気づいていないように思う。日清、日露の戦争から1945年に終結した戦争まで、日本の戦争は常に、自衛を口実とした先制攻撃と侵略だったことを皆忘れてしまったようだ。だから、この国で専守防衛と敵基地攻撃の差を議論することにはあまり意味がない。国家の防衛という観点で領土や権益を推しはかろうとする地政学イデオロギーが突出する結果として、犠牲になるのは、権力者や金持ちではなく、関係する諸国・地域の民衆だ、ということが最大の問題なのである。日本の場合、沖縄はまた再びヤマトによって犠牲にされかねないのが「自衛」とか「専守防衛」の意味している現実的な内容だ。専守防衛を肯定する本土の平和運動は、このことをどのように理解しているのだろうか。5
5.2. 自衛と侵略の武力行使を峻別できるのか
そもそも私は、軍事領域で自衛に限定した武力行使で勝利することはまず不可能だとも考えている。戦闘が継続し、長期化すれば自衛と攻撃との区別をつけることはできない。自軍の犠牲を最小化するための攻撃の手段は、多くの場合、空爆やドローン攻撃など非人道的な武器の使用に依存することになる。その先に核の使用がありうることは誰にもわかることだ。
ロシアの武力による侵略は容認できないという点では、反戦平和運動に共通の了解があると思うが、対するウクライナによる武装抵抗やNATOをはじめとする西側の軍事支援については、賛否が分かれていると思う。ウクライナによる武装抵抗を暗黙のうちに支持し、その系論としてNATOや西側による軍事支援についても支持する立場をとる人たちもいる。これは、ウクライナの武力行使が自衛のための武力行使だからだ。しかし、戦争が長期化するなかで、投入される武器を高度化させてでも領土の完全奪還とロシア軍の撤退を譲れない線を自衛のための武力行使の判断基準にする立場をとる場合、NATOなど外国の兵器供与や軍隊による介入を否定する論理は見出しにくい。
5.3. 批判の対象としてのNATO、ロシア政府、ウクライナ政府
他方でNATOや米国のウクライナの戦争に懐疑的あるいは批判的な立場をとるという場合、これまでNATOや米国が繰り返してきた戦争や戦争犯罪からすれば、それ自体としてはまっとうにみえる主張であっても、ロシアによるウクライナへの侵略行為にほとんど言及しないというケースがありうる。たとえば2月19日にワシントンで開かれたRage Against the War Machineという集会ではNATOやCIAの解体やウクライナの戦争に税金を使うな、など10項目の要求を掲げているが、ロシアへの批判はほとんどみられなかった。この集会は、右派が左派の一部を巻き込んである種の反戦平和運動の統一戦線の体裁をとろうとしたもののように見える。私はこうしたスタンスにも懐疑的だ。
私は、プーチン政権の侵略を正当化する理屈を見出すことはできない。他方で侵略の被害者のウクライナの政権や軍部が正義の体現者だと評価することも難しいというのが私の見方だ。私は、暴力を行使した順番――先制攻撃か自衛のための反撃か――とか暴力の残虐さの程度とか、戦争を肯定した上での国際法違反とか、様々な暴力(武力)行使を正当性がありうるとみなす議論の前提には立たない。後に述べるように、問題解決の手段としての暴力の正当性を認めないからだ。
5.4. 政府間の和平交渉は私たちの主要な関心にはならない
他方で、政府が戦争を終結させるための様々な和平の可能性を探ることについても、実はあまり関心がない。和平の問題は権力者たちが正統性のある意思決定の手続きを伴いながら対処することであり、彼らが実際に軍の指揮権をもっている以上。彼らの動向は重要だが、彼らが言葉にする和平や正論にみえるようなメッセージも、近代国民国家の権力構造のなかから権力の力学による政治的な思惑や計算によってはじき出される「答え」であって、おなじ「和平」という言葉に民衆が込めるであろう意味とは同じにはならない。政治評論家や政治組織に属さない私のような者にはうまく論じることができない。関心があるのは、むしろ、戦争が継続している今、戦争に背を向けて戦場や戦争当事国から避難しようとする人達や、兵役を忌避したり軍隊から逃亡するなど、様々な手段で戦争に抗う人達だ。彼らの多くは、和平が成立した後になっても、勝者の側にいても敗者の側にいても、犯罪者として訴追されたり難民としての資格を失ったり、マイノリティとして差別と偏見にさらされ続けることになるだろう。
5.5. 指導者に代表させて議論してはならない
「日本が理不尽に他国から侵略されても、あなたは日本を守るために戦うつもりがないのか?」とよく問われる。私は、「国家間の諍いに私を巻き込まないでほしい」「It’s not my business」と考えるので、私には日本を守るという発想はない。そもそもこうした問いの前提にある「日本」や「日本人」という言葉に私は翻弄されたくない。私という存在を可能な限り、国家の利害から切り離したい。そのためには、私を日本人というアイデンティティのなかに押し込めて、国家のアイデンティティに収斂させるように作用する言説や心理と闘う必要がある。
戦争では、問題を、国家レベルで把えざるをえないように仕向けられる。あるいは、戦争をプーチンに代表されるロシア、ゼレンスキーに代表されるウクライナという単純化された枠組で把える傾向がある。中国といえば習近平、朝鮮といえば金正恩で代表させて政治を論じると、それぞれの国のなかで暮すひとりひとりの意思の多様性が無視されてしまう。こうした指導者=権力者をアクターとする国際政治の延長線上に国に分割されて色分けされた領土としての世界地図が描かれがちだ。わたしはこうした世界の論じ方、あるいは戦況を地図上に表示する陣取り合戦のような戦争の見方、あるいはひとりひとりの人間のかけがえのない命を単なる統計上の数字に還元して、どれくらいの戦死者までなら許容できるか、といった冷酷な数字の世界に加担したくない。
私は、武力による紛争の主体である国家と、それぞれの国のなかに暮す人々とは明確に区別すべきだ、と考えている。戦争とは国家による国家の都合で引き起こされる惨事であり、20世紀以降の国民国家では「国民」を主権者とすることによって国家間の戦争に「国民」とみなされる私たちが国家防衛に否応なく動員される理屈が支配的になった。わたしはこの意味での主権者としての国家防衛の義務を認めない。
5.6. 生存の権利を軸に、私と国家の関係を切り替える
ここで民衆の側に問われるのは、「私」という主体と私が帰属するとみなされている国家との関係だ。国家との自己同一化が強固であれば、「私」は国家の戦争を自らが命をかけて引き受けるべきものと感じるかもしれない。しかし、世界中の紛争地域で実際に起きているのは、多くの人々が武力=暴力を選択するのではなく、別の選択を必死で模索している、ということだ。地下で密かに隠れて戦闘が終息することを祈るか、わずかな可能性を求めて戦闘地域からの避難を試みる。自らの命を犠牲にするとしても、「敵」を殺すためではなく、誰も殺すことなくわずかな生き述びられる可能性を求めて場所を離れる。ロシアもウクライナも傭兵や強制的な徴兵に依存するのは、多くの人々が戦争という手段を望んでいないことの表れだ。
このことは、近代国民国家において否応なく「国民」として主権者の義務を負わされるとしても、自らの生命をも犠牲にする義務や、「敵」を暴力(武力)によって殺害するという手段の行使を強制される、というところにまでは及ばない、ということを示してきたのだ。つまり、多くの民衆は、法や道義などではなく、むしろ民衆の生存の権利が国家による死の義務を超越することをその実践において示してきたともいえる。キリスト教徒であれば、汝殺すなかれ、という神の命令が国家の命令を超越する、主張することに示されてきたのは、良心的兵役拒否の歴史のなかで明らかであり、また、制度化すらされてきた。同時に無神論者や無宗教の場合も、人間の生存の権利が国家の死の命令(殺すこと、あるいは殺されること)に超越する普遍的な権利である、という確固とした意識が形成されてもきた。戦争機械でもある国家は矛盾を抱え込んでいる。一方で国家は、その理念において、生存を保障する義務があるものともされながら、生存の権利を奪うことを目的とした軍隊を保持することも許されている。この相矛盾する両者のせめぎあいのなかで、民衆に問われているのは、生存の権利を国境を越えて普遍的なものとして主張することであり、そのためには戦争機械と化している国家を否定することに躊躇してはならない、ということだ。しかし、現実の近代国家は、国家の生存を人々の生存よりも上位に置き、人々の犠牲によって国家の延命を図ってきた。こうした国家のための犠牲を「国民」が甘受し、あるいはより積極的に受け入れる素地となるのがナショナリズムであり愛国心である。
現在のウクライナの戦争は、1年を経て、領土と主権のメンツのために、双方の死者の数がどれほど積み上げられるまで耐えられるか、といった残酷なチキンレースにしか私にはみえない。これは、領土をめぐる争奪という観点からみた最適な武力行使の選択でしかなく、人間の命の犠牲を最小化するための最善の選択肢ではない。ロシアもウクライナも、政権が執着しているのは「領土」であり、そこに住んでいる人々への関心が本当にあるのかどうか、私には疑問だ。もし、その場所に暮す人々が本当に大切な人々であるのであれば、その命を犠牲にするような暴力という手段を選択できないと思うからだ。ウクライナの東部に住みロシア語話者で前政権を支持していたような住民をキエフの政権が積極的に受け入れたいと思っていのだろうか。他方で、東部に暮すキエフの政権を支持する住民をロシアの占領者たちは、平等に住民として扱う積りがあるのだろうか。ロマや非ヨーロッパのエスニシティのひとたち、LGBTQ+の人達、こうした社会の周辺部で差別されてきた人達に、この戦争に勝利することが新な可能性を与えるとは思えない。https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2023/02/27/sensouhouki_radicalism/
6. ハイブリッド戦争サイバー戦争の問題
6.1. 戦争を支える大衆心理と情報の発信
インターネットとマスコミの大きな違いがいくつかある。
- インターネットでは当事者自身が発信するが、マスコミは取材と編集を経て配信される。マスコミが関心をもたない問題は報じられない。
- 政府のマスコミを統制は容易だが、ネットの発信を統制することは極めて難しい。理由は、マスコミは数が限られているが、ネットは多くの「抜け道」があり、これを全て塞ぐことはかなり難しい。
- マスコミ報道は一方通行だが、ネットは双方向なので、情報の受け手である私たちが当事者とコンタクトをとることも不可能ではない。
戦争の前提となる国内の体制は、「国民」の生命を犠牲にしてでも国家目標を武力によって達成可能な意志統一を図ることである。戦争への合意形成と愛国心や排外主義的な憎悪の心理が「国民」のなかに生み出されることが、戦争の必須の前提条件である。
国家による情報統制と監視の体制はインターネットの時代になって根底から新しいものへと転換した。現代の戦争では、「国民」の生命を犠牲にしてでも国家目標を武力によって達成するという「国民」の相違形成はマスメディアだけではできない。インターネットを通じた個人の情報発信を通じた集合的な決意の形成がより重要になる。スマホやパソコンから人々が受けとる情報だけでなく、自らがSNSなどで発信する情報の蓄積を通じて戦争を支持する大衆心理が構築される。
6.2. 政府の戦争動員のと「グレーゾーン事態」
昨年12月に公表された国家安全保障戦略には次のような認識が示された。
領域をめぐるグレーゾーン事態、民間の重要インフラ等への国境を越えたサイ バー攻撃、偽情報の拡散等を通じた情報戦等が恒常的に生起し、有事と平時 の境目はますます曖昧になってきている。さらに、国家安全保障の対象は、 経済、技術等、これまで非軍事的とされてきた分野にまで拡大し、軍事と非 軍事の分野の境目も曖昧になっている。
ここでグレーゾーン事態と呼ばれているのは、純然たる平時でも有事でもない曖昧な領域概念だ。防衛白書2では、国家間に領土、主権、経済権益などの主張で対立があるなかで武力攻撃には該当しないレベルを前提にして、自衛隊による何らかの行動を通じて自国の主張を強要するような行為をグレゾーン事態として定義している。従来自衛隊といえば陸海空の武力(自衛隊では「実力組織」と言い換えている)を指す。しかし、防衛力整備計画の2万人体制でのサイバー要員3とその任務を前提にすると、武力行使を直接伴うとはいえない領域へと自衛隊の活動領域が格段に拡大することになる。
従来、自衛隊が災害派遣として非軍事領域へとその影響力を拡大してきた事態に比べてサイバー領域への拡大は、私たちの日常生活とコミュニケーション領域そのものに直接影響することになる。自衛隊の存在そのものが有事=戦時を前提としており、その活動領域が非軍事領域に浸透することを通じて、非軍事領域が軍事化し、平時が有事へとその性格が変えられ、国家安全保障を口実とした例外的な権力の行使を常態化させることになる。
平時と有事を座標軸上にとり、その中間にグレーゾーンが存在するとみなすような図式はここでは成り立たない。なぜならば、グレーゾーンの定義はもっぱら政府の恣意的な概念操作に依存しており客観的に定義できないからだ。平時と有事、軍事と非軍事についても同様に、その境界領域はあいまいであり、このあいまいな領域を幅広く設定することによって、平時や非軍事を有事や軍事に包摂して国家の統制を社会全体に押し広げて強化することが容易になるような法制度の環境が生みだされかねない。
法治国家であるにもかかわらず、今私たちが暮すこの環境の何が、どこが、グレーゾーンなのか、あるいは有事なのか、軍事に関わっているのか、といったことを法制度上も確認する明確な手立てがない。
6.3. 行動予測と行動変容の技術が格段に進歩している
インターネットの時代には「ターゲティング広告」と呼ばれる手法が普及するようになる。あらかじめ人々の嗜好や購買履歴、所得、年齢などの膨大なデータを駆使して、個別にアプローチして買わせるように仕向けるやりかただ。この方法は100パーセント成功するわけではないが、失敗を重ねながら、いかにして人々の購買行動を「予測」して、その行動を「変容」させて、自社の商品を買いたいという「欲求」を形成できるかを目標にして開発されてきた。気候変動や環境汚染に無頓着な消費者にはますます無頓着でいいような商品を売り込み、自分の身体の健康に不安に思う消費者には不安を煽りつつ健康維持の特効薬として自社の商品を印象づけ、環境問題を心配する消費者には会社のSDGsへの貢献を印象づけたりしながら売り込む。しかし、重要なことは、こうした市場での私たちの行動は、私たちの内面からでてきた「欲しい」「必要だ」といった実感によるのであって、企業の宣伝に騙されて買わされたわけではない、というふうに感じるような情動が人工的に構築される、という点にある。こうなると、自分の実感に影響を与えている社会のメカニズムを客観的に把握することは大変難しいのだ。
こうした人々の関心を探りながら行動変容を促す技術は、政治の世界でも関心をもたれるようになった。最も有名なケースは2016年の米国大統領選挙でのトランプ陣営の選挙運動だ。トランプはFacebookやGoogleなどの大手のIT企業とタイアップし、同時に保守系の選挙コンサルタント会社のケンブリッジアナリティカを使い、有権者の投票行動を変えさせる作戦をとった。ターゲットになったのは、共和党支持者だがトランプに投票するかどうか迷っている層を狙い確実に選挙に行き、トランプに投票させるように、有権者のプロファイルを利用しながら個別に投票行動に影響を与えるようなアプローチをとった。やっていることは、市場で商品を買わせるように仕向けるやり方を、選挙に応用したものだといってもいいだろう。上に述べたように、人々は自分の「意志」で投票するのだ、という確信をもつことが多いはずだ。実際には、こうした確信を形成するための意図的な「操作」の仕組みが作用していることはほとんど明かにはならない。この手法は、戦争になれば、戦争を支持するような世論を形成することにも応用できるだろう。
このような手法では、膨大な個人情報(ビッグデータなどと呼ばれる)が集積され、人々の考えや行動を分析して、戦争を支持するように行動変容を促すには、どのようなアプローチが可能なのかを、「大衆」というようなあいまいな数量ではなくて、質的に区別された個人レベルで追求しようとする。
ネットの時代に、国家からの統制よりも個人がひとりひとり「自由」な意思決定をするなかで、結果として国家の意志へと引き寄せられるような巧妙な仕組みが必要だ。SNSでの情報発信の力は、政府や政治家のSNSの発信力を大きく上回る。圧倒的に多い人口、人気のあるインフルエンサー、それだけですでに政府の発信力を越えることは確実だ。だから、政府は、この巨大な情報発信の世界で、一人ひとりの発信が政府の政策を支える方向をとるように誘導する技術に強い関心を寄せる。
ネトウヨの極端なヘイトスピーチは深刻な問題だが、それだけが問題なのではない。たとえば、平和運動のなかで、朝鮮から飛来するミサイルや中国の威嚇的な行動を不安に思って、戦争放棄という建前への不安が頭をもたげ、更に、「9条を踏まえつつ、ウクライナのように、隣国からの侵略があったときにどう対処するのか」というような宿題を革新系野党が突き付けられたとき、彼らは、自衛隊を容認し自衛のための武力行使を容認することで支持者たちの不安に応えようとしてきたのではないだろうか。侵略があっても武力行使はしない、というスタンスがとれないのは、暴力に遭遇したとき、自衛のための暴力で応戦しなければ、「負ける」あるいは一方的に犠牲になるだけだ、というイメージしか持てないからだ。果たしてそうなのか、このことを真剣に議論する必要がある。あるいは、こうした議論の前提に、ロシアとウクライナの関係を日本と中国の関係になぞらえるような発想は間違いであり、ロシアとウクライナの間で起きていることと、日中関係とは切り離すべきだ、という対応がある。これは正論で間違っていないが、平和運動のなかに浸透している「不安」の核心を把えていないと思う。問題は、現在の日中関係に限らず、一般論として、武力侵略に対して私たちが武力を用いない理由とその意義はどこにあるのか、という原則的な問いへの答えが平和運動のなかでは見かけほど確たるものとして確立していないし、確立させようとする努力もされてこなかった、ということがある。
6.4. 自民党「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」は偽旗作戦もフェイクも否定しない
自民党は2022年4月に「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」を出した。そのなかに「戦い方の変化」という項目があり、サイバー領域にかなり重点を置いた記述になっている。ここで次のように書いていまる。この提言は、その後2022年12月に出された国家安全保障戦略に継承される。
「情報戦への対応能力(戦略的コミュニケーションの強化を含む。) 本年のロシアによるウクライナへの侵略を踏まえれば、情報戦への備えは喫緊の課題である。情報戦での帰趨は、有事の際の国際世論、同盟国・同志国等からの支援の質と量、国民の士気等に大きくかかわる。日本政府が他国からの偽情報を見破り(ファクト・チェック)、戦略的コミュニケーションの観点から、迅速かつ正確な情報発信を国内外で行うこと等のために、情報戦に対応できる体制を政府内で速やかに構築し、地方自治体や民間企業とも連携しながら、情報戦への対応能力を強化する。 また、諸外国の経験・知見も取り入れながら、民間機関とも連携し、若年層も含めた国内外の人々にSNS等によって直接訴求できるように戦略的な対外発信機能を強化する。」
自民党の提言は、偽旗作戦も情報操作も戦争の一環とみなし否定するどころか、これをどのようにして軍事安全保障の戦略に組み込むか、という観点で論じられている。こうした自民党の動向を踏まえれば防衛省がAIを用いた世論誘導を画策していてもおかしくない。
6.5. ハイブリッド戦争と戦争放棄
ハイブリッド戦では、軍事と非軍事の境界が曖昧になる。非軍事技術が軍事技術と不可分一体となって、非軍事領域が戦争の手段になり戦争のコンテクストのなかに包摂されてしまう。戦争の中核にあるのは、戦車や戦闘機、ミサイルなどであるとしても、それだけが軍事ではない、ということだ。ハイブリッド戦を念頭に置いたばあい、いわゆる自衛隊の武力とされる装備や兵力の動員だけを念頭に置いて、戦争反対の陣形を組むことでは全く不十分になる。バイブリッド戦は現代の総力戦であり、前線と銃後の区別などありえない。とりわけサイバー空間は、この混沌とした状況に嵌り込むことになる。こうした事態を念頭に置いて、戦争放棄とは、どのようなことなのかを具体的にイメージできなければならないし、憲法9条は、こうした事態において、今まで以上に更に形骸化する可能性がありうる。9条をある種の神頼み的に念じれば、平和な世界へと辿りつくのでは、という期待は、ますます理念としても成り立たなくなっている。これは、9条に期待をしてきた人達には非常に深刻な事態だということをぜひ理解してほしいと思う。私のように9条は、はじめから一度たりとも現実のものになったことがない絵に描いた餅にすぎない(だからこそ、戦争放棄は憲法や法をアテにしては実現できない)、と冷やかな態度をとってきた者にとってすら、とても危機的だと感じている。
世論操作の技術が民間の広告技術であっても、それが戦争の技術になりうると考えて対処することが、平和運動にとっても必要になっている。そのためには、私たちが日常生活で慣れ親しんでいる、ネットの環境に潜んでいる、私たちの実感では把えられない監視や意識操作の技術にもっと警戒心をもたなければならないと思う。実感や経験に依拠して、自分たちの判断の正しさを確信することはかなり危険なことになっている。パソコンやスマホはハイブリッド戦争における武器であり、知覚しえないプロセスを通じて私たちの情動を構築することを政府や軍隊がAIに期待している。しかし、台所の包丁のように、デジタルのコミュニケーションを人殺しや戦争に使うのではない使い方を自覚的に獲得すること、私たちが知らない間に戦争に加担させられないような感情動員(世論誘導)の罠から逃れる術を獲得することが必要になる。しかし、反戦平和運動は、なかなかそこまで取り組めていないのが現状だろう。
サイバー空間は私たちの日常生活でのコミュニケーションの場所だ。この場所が戦場になっている、ということを深刻にイメージできないといけないと思う。サイバー戦争の放棄とは、自衛隊や軍隊はサイバースペースから完全撤退すべきであり、サイバー部隊は解体すべきだ、ということだが、これは喫緊の課題だ。戦争や武力や威嚇、あるいは自衛の概念は従来の理解ではあまりにも狭すぎて、戦争を放棄するには不十分だと思う。サイバー空間も含めて、「戦争」の再定義が必要だ。そのための議論が必要だと思う。コミュニケーションは人を殺すためにあってはならないと強く思う。
Footnotes:
なぜ生きる権利が普遍的な権利なのか、という問いは、いまここでは立ち入らない。人によっては人間の生を普遍的な権利として承認しないという立場をとることがありうる。他者に死を強制する力を国家や共同体が持つことを否定しない、という考え方だ。この対立は重要であり、生きる権利否定論を丁寧に説得力をもって批判することは重要な課題だが、私にはまだその十分な準備ができていない。
自衛隊法では、自衛隊の任務は、もっぱら国家の安全と防衛であり、「国民」の防衛は含まれない。 3条「(自衛隊の任務) 第三条 自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。 2 自衛隊は、前項に規定するもののほか、同項の主たる任務の遂行に支障を生じない限度において、かつ、武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲において、次に掲げる活動であつて、別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるものを行うことを任務とする。 一 我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動 二 国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」 「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」
Author: 小倉利丸(toshi@jca.apc.org)
Created: 2023-03-22 水 20:56