(訳者の長すぎる前書き)以下は、戦争に反対する恒久的なアセンブリthe Permanent Assembly Against the War(PAAW)が11月5日に出した声明だ。これまでも私のブログでPAAWの声明などを紹介してきた。この声明はTransnational Social Strike(TSS)のサイトに掲載されたものから訳した。TSSのグループが日本にあるのかどうかや、このグループの背景など詳細を私は知らないが、自己紹介のページ(日本語)では以下のように述べられている。
「私たちは日々、職場や社会の状況が変化していることを経験している。労働争議の組織は、同じ事業所、工場、学校、コールセンターなどで働く人々の間の分裂によって弱体化している。連帯は、国籍、契約、雇用期間、移民の居住許可などの政治的条件、女性に対する家父長制的暴力の違いによって挑戦されている。TSSプラットフォームは、このような状況を打開するローカルな方法はない。国境を越えたつながりを構築する政治運動のみが、このような状況を覆し、共通の力を蓄積することができる、という認識から生まれた。
私たちは過去10年間、ストライキが最も強力な闘争形態であり、さまざまな主体を結びつける道具として再び台頭してきたことを目の当たりにしてきた。移民ストライキ、フェミニスト・ストライキ、物流倉庫における組織的ストライキは、私たちがインスピレーションを得ている経験であり、私たちはその誘発と拡大を目指している。ストライキは私たちにとって、この不平等で不公正な社会の土台となっている柱にダメージを与えることを目的とする力の名称である。この力を行使するための条件を構築することこそ、使用者と政治家に従属する現状を打倒するために必要なことである。」
そして、TSSのプロジェクトとして、Amazon Workers International (AWI)、Climate Class Conflict (CCC)、E.A.S.T. (Essential Autonomous Struggles Transnational)、The Transnational Migrants Coordinationなどが挙げれらており、The Permanent Assembly Against the Warも、そのひとつだという。
私が、TSS-PAAWに共感をもったのは、ウクライナ戦争への彼等のスタンスだ。彼らは次のように宣言している。
「私たちは、戦争の論理と、それが押し付ける国家的・宗教的分裂を拒否します。私たちは、自らを守る人々とともに、徴兵制を拒否し、自分の国に従わず死なないことを決めたすべての人々とともに、立ち上がります。私たちは、戦争の代価を支払うことを拒否するすべての人々と共に立ち上がります。私たちは、すべての人に開かれた国境と移動の自由を要求します。」(「戦争を内部から拒否し、平和のために打って出る――ソフィアからの発信」)
私は国家のために死ぬ(殺す)ことをいかなる場合であれ選択すべきではないと繰り返し述べてきた。同時に、私は、確信的な無神論者として神への信仰を強いる一切の権力を支持することもありえない。私にとってウクライナとロシアの戦争において、何よりも、この戦争に抗うか、あるいは戦争に様々な手段で背を向け、国境を越えてでも殺すことも殺されることもよしとしない様々な人々に強い関心と共感を寄せてきた。
同時に、私は、武力行使(武装闘争)という手段が、民衆の解放のための手段として、これまで成功したことはなく(革命後の社会が解放された社会への必然の道筋だとはいえないということ)、他方で、いわゆる議会制民主主義と総称される手段による統治機構の平和革命もまた、革命の名に値する解放された社会への道筋を見出しえなかったという、人類前史の解放闘争の教訓を銘記すべきだとも考えてきた。よく知られているように、イスラエルのパレスチナに対する武力行使やガサのアパルトヘイトは10月7日に始まったことではない。ハマースの攻撃を私は不可解な武力攻撃であり、その軍事的な目的は全く理解できない。他方で、イスラエルのガザ侵略は、このハマースの攻撃を格好の口実としたホロコーストの実践であるだろうことは、この国の基本法の精神(シオニズム)の帰結として解釈可能だ。残酷極まりないことだが、ある社会集団を根絶やしにし、世代の再生産を断つためには、女性や子どもたちを殺すことは必須の条件でもある。この戦争は、これまでのパレスチナで繰り返されてきた出口のない悲劇のように感じられて胸がつぶれる思いだが、それ以上に、攻撃の苛烈さだけではなく、このガザ侵略の背景にあるイデオロギーが、支配層のみならずシオニズムの大衆的な受容のなかに(つまりSNSなどの投稿として)拡散していることに私は戦慄せざるをえない。
たぶん、唯一の出口があるとすれば、それは、イスラエルの国内での反戦運動とともに、パレスチナ側が武力に頼らない、「民衆的な要素を最大限に押し出す戦術と戦略を採用した大衆運動」の形成―エドワード・サイードが「悲劇は深まる」(『オスロからイラクへ』、中野真紀子訳、みすず書房所収)のなかで指摘したことだ―が、相互に有機的に繋がりあうことで構築される国境を越えた運動の形成ではないかと思う。こうした運動にとって、エスニシティや宗教の違いが足枷になると考えられてきたが、むしろそうではないかもしれない。これらに、階級やジェンダーや多様なマイノリティのアイデンティティの交錯がもたらす既存の闘争を支える枠組へのゆさぶりを通じて、これまで私たちが獲得しえなかった相互の連帯を可能にする未知のアイデンィティの獲得への道筋が見出しうるという期待を持つべきだと思う。以下の声明で「イスラエル側かハマス側か、ゼレンスキー側かプーチン側か、西側かそれ以外か、といった安易な分断の餌食にはならない。既存の戦線を拒否するということは、私たちの政治、すなわち国家、国民、民族、宗教といった地政学的想像力に乗っ取られない国境を越えた社会運動の政治のための空間を開こうとすることである。私たちは、不正や抑圧と闘うことが、他の不正や抑圧を受け入れることだとは認めない。戦争、女性に対する暴力、人種差別、搾取が続くならば、解放はない」と述べていることと、上で私が舌足らずに述べたこととの間に、共通した問題意識があると私は感じている。(小倉利丸)
2023年11月 5日
戦争に反対する恒久的なアセンブリ(PAAW)
2023年10月28日の声明
翻訳 アラブ語 – ヘブライ語 – ウクライナ語 – ギリシャ語 – ポーランド語 – イタリア語 – フランス語 – ルーマニア語 – ドイツ語
10月7日以来、私たちはイスラエル政府による長期にわたる搾取と暴力のシステムを支持するのか、それとも民族解放の名の下にハマスが主導する虐殺を支持するのか、どちらかの側につくよう再び迫られている。私たちはメディアやイスラエルの政策を支持するあらゆる機関から、パレスチナ人の大量殺戮を受け入れるか、イスラエルとユダヤ民族を滅ぼしたいかのどちらかを選べと言われてきた。戦争の政治は、侵略、防衛権、人道的介入といった言葉をほとんど無意味にしたさまざまな基準に根ざしている。ある占領は悪であり、別の占領は善である。戦争の政治は常にその正当性を見いだすが、私たちは闘い、私たちの国境を越えた平和の政治を推進する必要がある。
私たちは、ガザでの空爆を中止するよう求める。パレスチナの占領とアパルトヘイトに反対し、即時停戦を求め、軍事機構に反対するデモや行動を支持し、参加する。虐殺は止めなければならない。しかし、私たちは、この呼びかけが戦争の論理を崩壊させるのに十分でないことを知っており、私たちが望む平和とは、ひとつの戦争ともうひとつの戦争の間の期間ではない。
ウクライナでの戦争が始まって以来、そして今、パレスチナで激化している戦争で、私たちは、政府がいかに地政学的、経済的利益によって動かされる側に立ち、男性、女性、子ども、LGBTQIA*の人々の命に無関心で目を背けているかを目の当たりにしてきた。私たちは、戦争を支持する人々が移民を攻撃し、国境体制と暴力を強化しようとする人々であることを目の当たりにした。私たちは、エスカレーションを脅かす人々が、女性を従属的な立場にとどまらせようとする人々であることも知っている。戦争を支持する人たちは、戦争のためにもっと働くよう私たちに求める人たちであることもわかっている。この状況において勇敢であることは、戦争の論理が用いる二項対立を拒否することを意味する。それはまた、現在のガザにおける戦争において、二つの「側」が同じでもなく、均質でもないことを認識することでもある: パレスチナ人は避難し、分断され、占領されている。イスラム教徒であれキリスト教徒であれ、イスラエルのアラブ系市民とヨルダン川西岸地区のパレスチナ人は、反対意見を飲み込むか、発砲されたり、嫌がらせを受けたり、殺されたりする危険を強いられている。イスラエルはまた、見かけ以上に分裂している: イスラエル国内のユダヤ系市民は兵役を拒否し、戦争を非難し、他の人々はネタニヤフ首相の行動に抗議し、ガザ攻撃の中止を要求するために街頭に出ている。戦争の論理は、イスラエルとガザで起こっていた、ネタニヤフ首相の司法改革やハマスに対するデモやストライキ、そして宗教的急進主義のあらゆるプロジェクトに対する内部闘争を消し去ろうとしている。
既存の戦線を拒否するということは、どちらかの側につくことを拒否するということではなく、私たちに押し付けられた分断に沿ってそうすることを拒否するということである。イスラエル側かハマス側か、ゼレンスキー側かプーチン側か、西側かそれ以外か、といった安易な分断の餌食にはならない。既存の戦線を拒否するということは、私たちの政治、すなわち国家、国民、民族、宗教といった地政学的想像力に乗っ取られない国境を越えた社会運動の政治のための空間を開こうとすることである。私たちは、不正や抑圧と闘うことが、他の不正や抑圧を受け入れることだとは認めない。戦争、女性に対する暴力、人種差別、搾取が続くならば、解放はない。
私たちは戦争に反対し、この戦争が築いている障壁や国境を打ち破るトランスナショナルな平和政治を追求する。国境を越えた平和の政治とは、平和化でも単なる平和主義でもない。私たちは、戦線を越えた政治的コミュニケーションを確立し、社会的な闘いから出発し、戦争反対を意見の運動以上のものにするために、さまざまな主体の間で組織を生み出すことができるような視点を推し進めたい。私たちは、個人的・集団的な戦争拒否が起こっていることを認識している。私たちの戦争の論理に対する拒否は、私たちがどちらの側に立つべきかを理解することを可能にする。私たちは、抑圧された人々の側、死や抑圧、戦争によって生み出される貧困と闘っている人々の側に立つ。10月7日以降に起きていることは、ガザ、イスラエル、そして私たちのすべての文脈において、私たちの闘いを継続することをより困難にしている。この攻撃の後、イスラエルのガザに対する大量殺戮は、パレスチナ人の強制移動の継続とともに、苦しみと怒りの原因を増大させている。このことは、この地域で受け入れがたい人的被害をもたらし、軍事的対立のさらなる拡大を脅かしているが、この戦争の影響は、移民、女性、クィア、労働者の闘いを不可視化し、脅かしているにもかかわらず、その闘いは続いている。
私たちは戦争の常態化を拒否し、ウクライナと同様に、ガザでの殺害と破壊の終結を望んでいる。私たちは、人種差別、暴力、搾取に対抗するトランスナショナルな平和政治のために闘い、家父長的暴力、搾取、人種差別の根源を攻撃することによって、私たちに押しつけられた戦線を越えていく。トランスナショナルな社会的ストライキ・プラットフォームの戦争に反対する常設アセンブリの活動家として、私たちは、賃上げのため、気候正義のため、フェミニストと移民の動員のため、軍事化と国境体制に反対する行動のため、そして家父長制的暴力に反対する11月25日に向けた動員のため、3月8日のフェミニスト・ストライキのため、私たちが参加しているすべてのトランスナショナルなイニシアチブのため、私たちが関与しているすべてのローカルな闘いの中で、これを行うことを連帯して約束する。闘争を継続し、政治的コミュニケーションと組織化を強化することは、戦争を打撃し、私たちがどのような未来を求め、それをどのように築きたいかを明確にするための私たちの手段である。