生存の権利を保障する経済



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1. 経済が本来果すべき責任との矛盾}

わたしたちは、世界の先進国としての生き残りを賭けるグローバリゼーション競争から決別しなければならない、ということが繰り返し論じられながら、うまくいっていない。なぜなのか。

この世界体制に加担することは、この体制が地球規模でもたらしてきた人間と自然の存続の危機(貧困、飢餓、武力紛争、環境破壊など)の加害者でありつづけることだ。言い換えれば、かつての先進国の仲間入りを目指したこの国の豊かさと繁栄の価値観と、この価値観を生み出してきた経済についての考え方そのものが根本的に間違っていた、ということをまず確認する必要があるだろう。では、何が根本的に間違っていたというのか。経済活動の目標は、資本(企業)が利益をあげたり、人びとが貨幣所得を得ることによって「豊か」になることにあると思われがちだが、実はそうではない。

1.1. 経済が果すべき基本的な責任と資本主義的な市場経済の限界

200万年以上にわたって、人類は集団生活を営む生き物として、この集団の生存を維持する仕組みを社会は必ず持たなければならず、実際にもってきた。経済はこの役割を担うのだが、それは、人間集団の生存に必要なものを獲得(生産)し必要とする者たちに分配する仕組みのことである。経済が制度として果すべき責任は、人びとの生存の維持なのであって、資本の利潤獲得を通じて人間集団の生存を維持するという回り道の仕組みを作る出したのは資本主義だけだ。この資本主義の仕組みが、最も効果的な生存の仕組みである、ということが資本主義の擁護者たちの言い分だが、ほんの数世紀の間に、資本主義は生存の仕組みとしてよりも大量殺戮の技術を開発したり、膨大な数の人々を奴隷にし、とりかえしのつかない気候変動をもたらすなど、ごく一部の人たちの生存のために圧倒的に大くのひとたちと自然を犠牲にしてきた。

市場経済は人びとの生存を確保できない経済の仕組みであって、それ自体で独立して社会の経済全体を維持することができないものなのだ。にもかかわらずこの数世紀、市場経済は、社会経済の主役として、これ以上に優れた制度はないかのような過大な評価を与えられてきた。このことが、そもそもの間違いの始まりであった。

もともと市場(「いちば」と発音する方が似つかわしいが)は、社会のなかで余剰となった物と不足する物とをお互いに交換しあう仕組みとして、歴史を越えて少なくとも数千年にわたって社会の経済の周辺に存在してきた。奴隷として人間を売買するというような場合すら古代から存在していたが、そうであっても、市場経済が社会の経済の中枢を担うようになるのは、16世紀以来の数世紀にわたるヨーロッパ諸国による世界の植民地化を経て、19世紀の産業革命以降の時代である。近代社会の経済を支える「理念」は、次のような抽象的な枠組に基づいている。すなわち、人間としての主体性を承認し、自由意志を持つ契約主体として形式上は、自発的な意志に基づいて、自らの労働能力を売る人びとを大量に生み出し、こうした〈労働力〉を動員して利潤を目的として活動する資本が社会の経済を支配する、というものだ。これまでの人類史にはみられない全く新しい「経済」のメカニズムが生み出された。自由を手に入れた人間がみずからの自由を自らの意志で資本に売り渡し、対価としての賃金で生活を支えるのだが、常に貧困と直面する過酷な生活を余儀なくされることになる。このモデルは、暗黙の前提として、近代ヨーロッパの人口の多数を占める白人のなかの主に成人男性を主役としていた。このマッチョなモデルから排除されていたのが、女性や、非西欧世界の人々だった。

資本は相互に競争しながら、より効率的で収益があがる仕組みをつぎつぎに導入することによって、経済の規模をまたたくまに拡大してきた。資本は利潤動機(貨幣の額)に促されて活動する仕組みであるために、その目標には上限がない。より多くの利益を挙げるために、資本のプロセスは、効率性を追求し、機械化によって労働者を排除しつづけることになる。スピードアップと予測可能な将来の見通しが資本の利潤にとっては重要な条件になる。人間に比べて、格段に効率のよい機械を開発することが先端的な技術進歩を意味し、逆に、人間は非効率的で予測しえない行動をとる人間はリスク要因とみなされる。資本主義は機械を手本に、サボらず主人の命令に従い、計画通りに事を運ぶ、そうした人間を誠実で勤勉な好ましい人間とみなすようになる。

1.2. 資本の規模が地球のキャパシティを凌駕しはじめた

メディアの報道でお馴染のように、経済は年々「成長」すべきものだとみなされている。いったいどこまで成長したらこの経済は成長の必要のない「大人」になったということになるのだろうか?

資本主義の特異なところは、成長の上限がない、ということだ。というのも、資本は拡大することなしには利潤を生み出せない宿命を背負っているからだ。資本主義のグローバリゼーションは、市場の無限の成長がもたらした資本の肥大化は、資本に利潤を確保させるには、もはや国民国家規模の市場では十分ではないだけでなく、地球規模の市場ですら、日々増殖を繰り返す資本の利潤欲望を満すには不足になりつつあるということを示している。政府部門、公的部門を民間に開放する民営化は、資本に新たな投資の機会を与えた。東西冷戦の終焉は、ソ連、東欧の社会主義圏を資本主義に統合することを通じて、新たな市場を生み出した。しかし、それでもなお、先進国の資本の大半は成長を維持する十分な環境を獲得できていない。中国やインドのような巨大な人口を擁する国々が次々に新興国としてグローバルな市場に統合され、更に自らがグーバルな市場のルールメーカーになるようになった。同時に、これら諸国の資本と欧米の資本はより一層熾烈な競争に直面しはじめている。

労働節約的な技術が急速に普及することによって、膨大な人口を抱えた諸国は、近代化し工業化すればするほど機械化によって人びとは駆逐され、失業と貧困は一向に解決できないというジレンマに追い込まれることになる。グローバリゼーションの行き詰まりは、地球規模の市場に対して資本が過剰であること、しかも、技術進歩は失業を生み出す一方で、人びとの生存はますます不安定にならざるをえない。生存の不安定から人びとが解放される唯一の道は、過剰にな規模にまで拡大した資本を抑えこみ、機械化=省力化を進歩とみなし人件費をコストとみなしてその削減を当然と考える資本の文化に対する対抗的な文化的価値を創造することが必須の条件だろう。この作業は、世界観を大転換させる作業であって、ルネサンスから啓蒙主義に至る近代西欧の文化的な支配がグローバル化を根底で支える価値観として未だに君臨している状態を覆す作業でなければならないのだから、これは壮大な挑戦を意味する。しかし、この挑戦を避けることはできないところににまで来ているのである。

1.3. 「自由主義」が抱えている本質的な限界と矛盾

生産性の低い農業部門を切り捨てて生産性の高い日本が得意とする分野に集中しようという発想は、資本主義の基本的な性格に由来する。しかし、こうしたメカニズムは効率性によってコミュニティの自立性を解体し、支配的で優勢な国や産業への依存関係をもたらす一方で、競争力の乏しい部門はつぶされてしまう。こうした市場の競争力を唯一の尺度とする考え方は、国際関係だけでなく国内の地域間の関係にも同様の不均衡で支配と従属の関係をもたらす。人びとは、競争に負ければこれまで長年働いていた仕事を奪われ、たとえ競争で生き残ったとしても、効率性競争の激化のなかで人びとは疲弊することになる。こうして市場の競争が、失業と生存の不安定に多くの人びとをさらす結果になることは、歴史上繰り返されてきたこととしてよく知られている。にもかかわらず、この市場の自由主義の考え方が根強いのは、多くの人びとが貧困にあえぐ一方で、国家単位でみれば裕福となるというパラドクスが成り立つからだ。そして、「競争」は人びとの能力評価と結び付けられるとによって、失業や貧困を「敗者」の象徴とする差別感情が生み出され、こうした敗者のレッテルを貼られまいとますます人びとは必死になってこの自由主義のレースにのめりこむことになる。自由主義的な市場経済が、個々の人びとは別にして、国家単位での「繁栄」をもたらすために、人びとの生存を犠牲にして国益や資本の利益を優先させる政策が支配的になる。

資本主義の形成以来一貫して存在しつづけている大都市と地方・農村部との格差は、こうした効率的な分業の考え方によって支えられてきた。だが、経済を生存の必要を充足するためのものであるという観点に立つとすると、効率性や競争力よりもコミュニティの自立的な存続可能性や人びとの生活の意味ある活動の一環としての労働といった異なる価値判断の尺度がむしろ優先されるはずなのである。

さらに、競争と効率性の価値は、政治の分野にも影響を及ぼしてきた。政治の中心が東京に集中しているのは、権力の効率性の結果であり、これは国内の権力関係に格差をもたらしてきた。沖縄のように軍事インフラが集中している地域は、この軍事インフラの優位性を活かして、軍事基地に特化することが「効率的」であるということになる。原発施設についても同様に集中立地による地域分業の効率性の理屈が成り立つ。これは、リスクを特定の地域に集中して負担させ、他の地域はこのリスクを回避しつつ利益だけを得るという非人道的な結果をもたらす。効率的なリスク管理のシステムによって、リスクの上限レベルを引き上げられる。その結果として、リスクは軽減するどころがむしろ逆にリスクを最大化してしまう。そしてこうしたリスクをもたらすような政策の意思決定者は、このリスクから最も遠い大都市に立地する政府であったり官僚組織であったりするから、地域間の深刻なリスク格差を構造化してしまう。こうした不均衡な条件のなかで、効率性をめぐる競争に人びとを巻き込み、その結果が再びまたこの不均衡を再生産するという。悪循環が生まれる。

1.4. 中央と地方——地域間格差

地域間の経済的政治的な不均衡や格差、リスクの集中、あるいは貧困や失業といった生存の不安は、人びとの政治と経済の現状に強い抵抗や異議申し立てを生み出す。たとえば、失業と貧困問題を市場経済は解決できないことから、19世紀から20世紀にかけて、国家に経済機能を集中させる「社会主義」の主張が大きな影響力を持つようになる。高い失業率が 民主主義を通じて政権を不安定にしかねない要因となることもあるため、20世紀の資本主義諸国は二つの方法で、大衆の抵抗に対抗した。一つは、こうした権力基盤を不安定にしかねない社会集団に対して、政府が警察や軍隊などによる治安維持機構を強化して、大衆の抵抗を力づくで抑え込む方法である。抵抗を抑え込むことができる強権的な国家の存在は、独裁国家であれ軍事政権であれ、資本の立場からすれば、安全な投資環境だとみなされ歓迎されることになる。

もうひとつは、夢を売る方法である。今は貧しくとも努力すれば報われ、豊かな暮らしが約束されるという夢物語である。この「物語」は、マスメディアの広告などから都会へのあこがれを刺激する若者文化、学校教育などを通じた社会の進歩や発展についての価値観の形成に至るまで、多様な回路で人びとの人生の目標のなかに組み込まれる。大都市はこうした夢を具体化する空間となる一方で、地方や田舎を進歩や発展から遅れた場所とみなす価値観が形成される。たとえば、東京は、近代国家日本の成立以来、この競争と成功の「物語」を具体的に体験でき実証する場所でありつづけてきた。そして、世界規模でいえば、先進国は途上国や貧困国からみると、同様にこの競争と成功の具体的な現実となり、将来のあるべきモデルとなる。

しかし自由主義のモデルでは、全ての人びとに豊かさや繁栄を約束することはできない。競争は、そこに参加する人びとや組織の能力を公正に判定し、能力に応じて適切に富を配分しているのかといえばそうではない。もし公正な富の配分が市場の競争を通じて実現できるのが資本主義社会の公正さの証しであるとすると、日本の資本主義化のなかで、富が集中する東京が最も優れた人材の存在する場所だということになろう。さらに世界規模でみれば米国こそが世界で最も優れた国であるということになる。これは言い方を変えれば、地方は劣った存在であり、途上国もまた劣った国々であるということになる。しかし、近代社会の別の価値観では、人間は生まれながらにして平等であるという。人種や性別、生まれた場所による優劣はない。市場の競争は本当に人や国の優劣についての公正な評価メカニズムを持っているのだろうか。国別の国民総所得には極めて大きな格差があるが、これが人間の能力の優劣の指標になると考える者はよっぽどの人種差別主義者でもないかぎりいないだろう。つまり、市場の評価は的確に人間の能力を評価できないのだ。にもかかわらず、日常生活のレベルでは、所得の多寡によって人の能力を測るようなことがまかり通ってしまう。こうして市場は、自由と平等を謳いながら、差別と偏見を構造化することに加担してきた。

1.5. 自然を排除し、地方を差別する世界観・価値観

過疎地あるいは開発の「遅れた」農林水産業地域は、たしかに人口は少ないのだが、同時に重要な食糧など一次産品の供給地域であって、人間の住まない土地や自然は、自然生態系に支えられた場所であり、都市部の人口を維持するうえで欠かせない食糧などの供給を担っている、という観点が全く欠落している。

たとえば、原発事故は、人間だけでなく、自然を汚染し、半永久的に農林水産業を営むには不適当な場所にしてしまう。強制的に住民を移住させ、かれらの仕事を奪うだけでなく、海や山林、田畑の除染という不可能に近い作業(この作業そのものが再び被ばく労働に頼らざるをえないこととなる)が何十年(いやそれ以上だろう)もの間続けられることになる。過疎地にリスクを押し付けるということが、自然生態系への深刻な被害を伴い、その修復は不可能に近いことになるということを、原発立地の法的制度的な枠組は一切配慮してこなかった。これは悪しき人間中心主義、より正確に言えば、都市中心主義の発想である。

このように、田や畑、山林や海に人は住んではいない、だからこうした人里離れた場所にリスクの大きな施設を建設してよいという発想には、人以外の自然環境が全く考慮されていないし、こうした自然を必須の条件として生活する人びとの暮しへの想像力も働いていない。生態系に深刻な打撃を与える自然環境の汚染は、人を中心にリスクを計算するような社会が引き起こす。自然環境は社会の「外部」にあり、社会が必要とする資源を無限にもたらすか、さもなくば社会が生み出した廃棄物を捨てるゴミ捨て場としか認識されていない。福島原発事故は、農地、山林、海の汚染がいかに深刻であり、またその除染がいかに困難なことなのかをあらためて思い知らせることになったが(チェルノブイリ原発事故でこの問題は十分知られていたはずのことだ)、それでもなお、汚染された自然を放棄すればそれでよいと考えたり、汚染によって引き起こされる人間だけでなく動植物の被ばく被害の評価を過小評価することによって、事態の深刻さを過小評価してやりすごそうとする小手先の対応が目につく。農山漁村の共同体が解体され、その生産の場でもある自然を放棄するような決定が容易になされるのは、こうした場所が、社会の中枢にはなく、社会の周辺に位置しているものと見なされているからだ。

現代の社会は、自然を社会の外部に排除するだけでなく、人間や自然を深刻なリスクに直面させるような技術が、あたかも人類の進歩のであるかのように高い評価を与えられるような社会である。では、なぜこのような社会観、自然観が生み出されてきたのだろうか。このような社会は、工業化として始まった近代社会に共通してみられる社会ー自然観と深く関わっている。先進国になること、豊かな社会になることとは、高度な科学技術社会となることを意味し、これは、自然生態系に依存する社会から人間の意志のままに自然をコントロールできるような技術が優れた技術であるとみなされる社会へと転換することを意味していた。農業のような定住型であれ、牧畜のように遊牧型であれ、自然生態系に依存する社会が近代以前の人類社会の基本であったが、近代社会は、この基本を覆した。この大転換をもたらしたのは、それまで社会の周辺にあった「市場」という経済の交易システムが社会の支配的な経済へとその位置を変えたことと深くかかわっていた。市場は、異なる社会(共同体)の間を繋ぐ特異な性質を持つ。政治、文化、宗教、産業、自然環境が異なる社会の間で、生産物を商品として交換するためのメカニズムが市場には備わっていた。だから、自然生態系に依存する社会を補完するものとしてほとんどどのような社会体制にあっても見出すことができるが、しかし、市場が社会の経済を支配するようになったのは近代の資本主義社会が最初である。このことが、大きな悲劇をもたらすことになった。

ある共同体がその構成員の必要のために、自然環境から資源を調達するばあいと、資本が利潤を目的として資源を商品として市場で販売する場合とでは、自然環境に与える影響は決定的に異なる。たとえば、森林から木材を伐採して住居建設の資材として用いる場合、共同体の成員が自分の家の建設のためにだけ木材を伐採するのであれば、自分の家の建設に必要な木材が伐採されるだけだろうから、無際限の伐採は行なわれない。あるいは、共同体が持続的に住居のための木材を調達できるように森林資源を管理する場合、住居の耐久性と森林資源の再生の時間的な再生産のサイクルを念頭に置いて乱伐にならないような配慮が、将来の共同体の維持に不可欠な条件となるだろう。共同体の成員にとって、生存のための時間と空間についての判断は、世代を越える時間と空間を前提とすることになるだろう。

他方で、資本が利潤目的で森林資源を市場で販売する場合、森林を買い占め、根こそぎ伐採して木材として市場で販売し、売るものがなくなれば、森林だった場所を放棄して、新たな森林資源を捜す。こうした行為を株式市場などは、3ヶ月とか半年といった短期のサイクルで評価する。こうして乱伐、乱開発がは歯止めなく短時間に進行してしまう。市場で売れる限り、この行為に限度はない。売れれば売れるほど儲かるという「金儲け」の精神性(資本のメカニズム)には、自然生態系への配慮のメカニズムは組み込まれていない。これは、野生生物を密猟するハンターから大手大企業による熱帯雨林の乱開発まで、基本的な自然への態度に異なるところはない。いずれの場合も、破壊される自然は、自己にとっての外部にあってその破壊こそが利益の源泉であるか、あるいは、その破壊は自己にとって余所事であるとして済ませることができるように自己防衛が可能な体制を構築する。

1.6. リスクと利益をめぐる差別と排除の構造

福島原発事故は、この市場経済がもたらした加害と被害の不可視の構造を露出させた。電力の消費によって利便性や経済的な利益を得る地域と、電力生産に伴うリスクを負いながらもその利益を享受することのない地域という地理的な境界線を放射性物質の拡散は反故にした。汚染地図による色分けによって(この色分けそれ自体が正しいリスクの評価に基づいたものかどうかについては評価は分れるとはいえ)、あるいはまた、汚染の地球規模での拡がりのなかで、人びとがとったこのリスクへの反応のなかに、思いもかけない形で人びとの本音が露出した。原発の立地によって潜在的なリスクを負ってきた地域と、いかなる意味においてもリスクからは遠い場所にあると信じて疑わなかった地域とでは、事故への反応は本質的に異なった。福島の人びとは、被ばくを生きるか、それとも、故郷を捨てて「原発難民」となるか、というぎりぎりの選択を生きることを強いられた。

これに対して、原発がもたらした電力を享受してきた大都市では、想定外のリスクに多くの人びとは別の意味で狼狽した。原発現地ではありうるかもしれない被害がここまで及ぶとは、という反応は、万が一重大な事故が起きたとしても、その被害は原発立地現地に留めておかれるべきではないのか、なぜ封じこめられなかったのか、という被害の当事者になることそれ自体の意外性と戸惑いが実はあったのではないか。現地の反応は、被害者となる潜在的可能性は避けられないという大前提にたって、この潜在性は決して顕在化あるいは現実のものとなってはならないというところに感情の収斂があり、その延長線上に、シビアアクシデントはないという電力会社の言葉を信じていたのに裏切られた、という感情が構成されたように思う。これは、事故の被害や犠牲から目をそらすことができる者とそうはできない者との違い、排除しえないリスクを生きることの理不尽さと、汚染が福島現地とは比べ物にならないくらい軽微であってもリスクとしてふりかかってきたことへの理不尽さの感情の違い、この違いの背後には、原発の利益だけを享受するのが本来の都市住民や都市の企業のありかたであり、リスクは現地が負うものだという、言葉にはされていない無意識ともいえる感情が伏在していると私は判断している。

そして、このような都市の感情を支えているもうひとつの重要な要因として、交付金など公的資金による助成制度への複雑な感情があるのではないか。原発立地現地は、リスクだけを押し付けられたわけではなく、自らこのリスクを選択しており、しかもリスクに対する対価ともいうべき多額の公的助成金や電力会社からの援助があるのだから、私が上述したような加害と被害という関係はそもそも成り立たないという感情である。このような金銭の出所は、電力料金であったり納税者の税金であったりするわけだが、これらの多くは、都市の豊かな住民たちの支払いによるものであるから、すでに、都市の住民はリスクへの支払いは終えているというわけだ。リスクを金銭によって清算する(もろもろの保険サービスはこの考え方に基いている)ことができるという考え方を前提にすれば、リスクに対して支払われる対価が妥当な金額であれば(誰が何を基準に「妥当」を判定するかで見解に大きな相違があるが)、そこに更に加害とか被害といった観点を持ち込むこと自体が余計なことのように見える。

しかも、リスクを引き受けるかわりに支払われる補助金や電力会社の助成金などさまざまな名目で地元に落される金は、現地の自治体の財政や雇用・産業構造をこうした補助金などの資金なしには運営できない依存を構造化する効果をもつ。これは、日本の経済の中枢を担う都市部の政治経済(中央政府、財界、影響力のあるアカデミズムなど)への地方の従属を構造化させ、この構造からの地方の離脱と自立を困難にする。この従属的な構造は、現地の人びとに、原発への依存が地域社会の存続にとって不可欠な前提として理解されるような「同意と受容の感情」あるいは「肯定の論理」を形成することになる。だがしかし、リスクを引き受けることで地域経済の振興と経済成長がもたらされ、中枢地域との格差が是正され、新興的な経済発展地域に変貌したというような原発立地地域はどこにもない。にもかかわらず、こうした従属的発展に地方が固着するのは、こうした従属的は発達以外に地方の「豊かさ」を展望できるようなオルタナティブな社会像を選択肢として提示することがあらかじめ封じこめられてきたからだ。東京のようになるか(なれないのだが)、さもなくば田舎に甘んじるか、という退屈な二者択一が唯一の選択肢だと信じこまされてきた。これは、都市も地方の農村部に共通した社会発展観であると思う。

しかし、もし、リスクが金銭で清算可能であるなら、電力供給の恩恵を受ける都市がリスクを引き受け、そのリスクに対する対価を受け取るということがなぜできないのだろうか。都市部での原発立地を禁じる法律は、リスクを金銭で清算する仕組みが過疎地域に対してのみ適用されるべきものだという社会意識を反映している。ハイリスク、ハイリターンという言葉があるように、利益が高いばあいにはそれ相当のリスクも覚悟しなければならないのだが、原発立地については、利益を享受する電力会社や電力消費地はリスクを回避しながら高い収益(リターン)を確保することができており、原発立地現地だけが、「ハイリスク、ハイリターン」の原則の適用をなかば強いられる。

1.7. 地方ー中央の格差と差別の構図とナショナリズム

福島原発事故以降、原発の是非をめぐる論争が高揚するなかで、原発の再稼動あるいは増設を主張する人びとは、原発の必要性を主張する際に、電力の安定供給にとって原発が不可欠であるという主張をたびたび口にするようになった。この安定供給という言葉には、「日本」の経済の繁栄、人びとの豊かな暮しといった意味が暗黙のうちに込められており、原発を稼動させないことが、「日本経済」を支える企業活動や大都市部の人びとの生活に悪影響をもたらすであろうというニュアンスをもつ言葉になっている。原発の電力を供給している地域ではこの原発の電力を利用しないから、安定供給=繁栄と豊かさから原発現地はあらかじめ排除され、リスクと補助金が現地に配分されるのだが、安定供給に貢献することが、地方であっても「日本経済」に貢献できることを証しする数少ない事柄として位置付けられる。このように「日本」の繁栄や成長のなかの不可欠な役割として位置づけられることによって、地方はその「後進性」に積極的な意味づけを見出すことになる。

19世紀末以来、日本が近代化の道を歩み始めてから現在に至るまで、東京が経済と政治の中心から転落したことはない。国内の経済は、国際経済のように国境によって差別や規制が加えられることはなく、この意味では、対等な市場経済の構造の中にありながら、経済競争では一貫して東京が勝者でありつづけてきた。また、地方は、東京に象徴的に表現されている中枢に政治的にも経済的にも従属せざるをえないにもかかわらず、そしてまた、この中枢と地方(周辺)の構造は、経済的な利益の構造においては共通性を持つにもかかわらず、植民地主義による宗主国と植民地との関係と本質的に異なる政治的イデオロギー的な構造を持っている。それは、ナショナリズムに基づく共通感情の存在である。絶望から優越的な感情まで、「日本」あるいは「日本人」というアイデンティティに収斂するような感情、あるいは敵対を妥協と調整あるいは同調へと導く一連の情動の構造が生み出すことになる。いかなる敵対もいかなる矛盾や軋轢も、分離と自立による「日本」からの切断とか「日本人」から別の集合的なアンデンティティの創造へと向うようなベクトルを生み出すような選択肢はあらかじめ閉ざされている。こうした地方の位置は、植民地主義が直面した矛盾と摩擦が分離・独立という選択肢を常に前面に押し出す傾向を持つことと全く異なる。「地方」は東京を精神的に内面化し、「東京」が象徴する「日本」の繁栄と強さに同調することによって、ナショナリズムの磁場に引き寄せられるとになる。

Date: 2023年3月25日

Author: 小倉利丸 toshi@jca.apc.org

Created: 2023-03-21 火 17:38

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