絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)
テロ対策を共謀罪法案の軸に据えてきた今回の安倍政権の戦術を念頭に置いて以下の文章を書いている。長いので分載とする。
共謀罪は、一般の刑事犯罪などにも適用されるし、反政府運動——日本ではこの表現はほとんど使われないが、あえてこの表現を復活させたい——などの政治活動にも適用される。この二つは、刑法上区別はできないが、捜査機関の捜査体制は全く異なる対応をとる。政治活動では、主として警備公安警察が共謀罪を捜査活動の道具として利用するが、その利用の手法も動機も一般刑事事件の捜査とは異なるであろうことは、多言を要さないだろう。しかし、国会における法案審議では、もっぱら一般刑事事件を念頭に置いた議論になり、警備公安警察による捜査の手法や逮捕・拘留、取調べについて、それ自身の固有の問題としては審議されることはマレではないのか。一般刑事事件における共謀罪の問題は、極めて深刻である。だから一般刑事事件を前提にして共謀罪の問題を検討し、廃案を主張することは十分可能であるし必要な主張である。その上で、あえて共謀罪が反政府運動に与える問題について別途検討することは必要なことだと思う。このことは政治犯罪を一般刑事犯罪から区別して特権化しようというのではない。広範な反政府運動が犯罪化されている現状があるにもかかわらずこれが刑事事件として隠蔽される一方で、一般刑事事件をもっぱら個人の責任に帰して社会の諸制度が有する諸問題を棚上げにしようとする近代刑法と処罰の基本的な構造への政治社会運動の側からのより一層の関わり、言い換えれば、一般刑事事件に対する法と処罰のメカニズムそのものへの批判を展開することは、反政府運動にとっても不可欠な視点だ。
政治的な動機を持たない一般刑事事件も含めて「犯罪」とはそもそも何なのか、刑罰とは何なのかを考えるとき、その社会的な背景を重視することが必要だ。米国でいえば、黒人やヒスパニックの貧困層の犯罪率が高いことを、彼らの人種的な特性とみなして、人種差別を正当化する主張がある。あるいは、日本の場合も、学校の秩序からドロップアウトする若者たちや、ときには「母子家庭」や「生活保護家庭」を犯罪と結びつける感情や、エスニックマイノリティ(特に非欧米出身者の労働者階級)への偏見は、こうした人びと個々人のパーソナリティそのものに犯罪を犯す「体質」とでもいうべき性格があるとみなす捜査機関や大衆の偏見は未だに根強い。社会的矛盾や抑圧と排除の構造を棚上げして、更にはこうした既存の社会への強制的な統合を意図して刑罰が与えられるとき(応報刑であれ教育刑であれ同じだが)、政治犯への処罰は何を意味するのだろうか。「犯罪者」個人にその行為の責任を負わせて、彼らが社会的な排除の構造のなかで疎外された位置に追いやられることによって生み出されてきた行為として犯罪を捉えるとすれば、刑罰の政治性にこそ注目する必要があるだろう。死刑廃止運動や受刑者の人権問題の運動は、こうした問題に取り組んできたと思う。この点を前置きとしながら、主として以下では、警備公安警察が対象とするであろう反政府運動が共謀罪によって被るであろう問題を念頭に述べる。
1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス
共謀罪の上程は確実視されているが未だに法案は示されていない。しかし、報道などから、政府・自民党は共謀罪を以下のように位置付けているようだ。
(1)共謀罪とは呼ばずに「テロ等準備罪」と呼ぶ。
政府が共謀罪と呼ばないことで、マスメディアも「テロ等準備罪」と報じることが多くなった。反対運動のなかでは「テロ等準備罪」という名称を使うべきではないという意見が多数かもしれない。私もそう思う。その上でふたつの問題を指摘したい。ひとつは、「テロ等準備罪」という名称は通称であって、法律には正式には盛り込まれないだろうから、これは国会向けの戦術的名称に過ぎないということ。名称のいかんを問わず、立法化されれば共謀罪としての効果を発揮するだろう。二つめは、通称を共謀罪からテロ等準備罪へと変更することによって、たとえ法案の条文が全く同じであったとしても、かつての共謀罪と同じ意味内容をもつ法律といえるかどうかだ。後に述べるように、同じ条文なら、その意味も同じだとはいえない。名称の違いをどのように考えるかが重要なのはこの点である。これは、一般に、法律の文言とその解釈、そして法律が適用される対象(犯罪行為)との関係をどのように考えるか、という問題に関わるかなりやっかいな内容を含んでいる。
(2)対象犯罪は600だが削減もあり。
削減をめぐる議論が日々報じられているように、法案の争点が、削減の是非あるいは、削減の数をめぐる与野党の攻防になる可能性があり、すでに政府は公明党に配慮して対象犯罪の絞り込みを容認するとも報じられている。対象犯罪が絞り込まれればとりあえずよしとしよう、という発想は公明党や一部野党にもある。後述するように、共謀罪の問題は数ではないし、対象犯罪の問題でもない。本質的な問題は、共謀の犯罪化を広範に認めることは、憲法を逸脱し、刑法に想定されている基本的な前提を根底から転換させることになる点にある。「共謀」の犯罪化が法の規範に反しないという法意識をもつ権力の態度・動機が問題なのである。このような根本的な転換それ自体が問題にされずに、法案の条文のあれこれを議論するという態度や、そもそも国会で法案として提起されるような状況自体が問題なのだ。
(3)越境組織犯罪防止条約の批准の前提となる法案。
与党が一貫して共謀罪の必要性の中心に据えてきたのが越境組織犯罪防止条約の批准に必須の前提が共謀罪だというものだ。今回は、この条約の目的があたかもテロ対策にあるかのように条約解釈を根底から変えてきた。これに対して、条約の批准に共謀罪は不要であるというのが反対運動に共通する合意になっている。また、条約とテロ対策とは結びつかないということも反対運動の共通認識だろう。しかし、条約そのものは必要なのかどうかでは運動のなかでも意見が分かれる。
(4)2020年のオリンピックを念頭においたテロ対策に不可欠。
今回の法案上程で持ち出されてきた奇矯な立法事実らしきものが2020年オリンピックへのテロの脅威である。テロ対策を前面に打ち出したために、メディアの注目も、治安維持法など戦前の治安立法との共通性に注目があつまってきた。国会内でオリンピック反対の政党はおらず、オリンピックのためのテロ対策を持ち出す政府を効果的に批判できていない。
(5)「早期成立」を目指す。
会期末の混乱と強行採決を回避したいという公明党が主張し、多分現状では早期の審議入りの可能性が高い。しかし、逆に会期の早い時期に審議入りすると、審議を尽したなどという口実を与えることになる。国会審議のディスクールは、理念的な議会主義のありかたとは裏腹に、現状では茶番でしかない、最大の悲劇は、茶番の帰結が権力に法執行のフリーハンドを事実上与えるという点にある。
共謀罪の前提となる幾つかの社会・政治的な背景として、念頭に置いておくべき論点がある、
(1)戦争法制や秘密保護法の成立。日本は「戦時」である、という認識が必要である。政府は戦時の挙国一致の体制を構築しようとしており、共謀罪はその一環を担うだろう。政府に対する異論や批判を、社会的な秩序を乱す行為として取り締ろうとする傾向を強めるだろう。
(2)泥沼化する対テロ戦争(欧米中心部へ、中東からアフリカへ)。ISなどのイスラーム復興運動との戦争状態が拡散する傾向にある。テロと難民をリンクさせる排外主義。つまり、極右ナショナリズムの台頭を背景に欧米各国で起きている移民、難民の排除と不寛容な態度を当然とする空気は、日本のナショナリズムにも影響を及ぼすだろう。
(3)新たな戦争=サイバー戦争。一方でハッカーアクティビストとの「戦争」があり、国家機密が、内部通報者やWikileaksなどを通じて公開される状況に対する政府の取り締まりがある一方で、政府情報機関によるハッキングが「情報戦」として展開されている。ハッキングはテロリズムの一類型へと組み入れられはじめた。通常兵器が通信ネットワークと連携されることによって、米国のドローン攻撃に典型的にみられるような国家によるテロリズムがネットワークの技術を取り込んで展開されている。サイバースペースと現実空間の境界をまたぐ戦争状態がある。こうした意味での戦争状態の転換に9条を根拠とする日本の反戦運動は十分に追いついていない。
(4)米国のグローバルな覇権主義の危機(ロシア、中国の台頭)。トランプの排外主義 (右からの反グローバリゼーション)は、資本主義的グローバリゼーションのなかで、米国の覇権主義が相対的に後退していることを示している。世界の覇権構造の基軸が、欧米から中国、ロシアなどにシフトしつつあることを示している。これは、欧米が構築してきた戦後西側のルール(安倍政権のいう「国際社会」なる概念はこの意味で用いられているのであって文字通りの「国際」ではない)が危機にあり、日米同盟も危機を免れず、その変質は必至だろう。
(5)「法の支配」を否定する権力者たち。民主主義を後ろ盾にする独裁者たちが次々に登場している。法を超越する独断的な指導者がもてはやされ、国家の官僚制度も法規範を逸脱することを当然のこととする腐敗が進行する。彼らを支持する民衆にとっても法の支配への信頼が希薄になりつつある。これまでも、一方で欧米の価値観を掲げ、自国内では自由と民主主義を保障しながら、その価値観を防衛するという名目で、外国では軍事力を含む戦争や抑圧を繰り返すのが欧米の戦後のやり口だった。(ベトナム戦争、ラテンアメリカの独裁支援、中東やアフリカで繰り返される軍事介入などなど)「テロとの戦争」は、国内においても自由と民主主義を抑制せざるをえない状況を生み出した。(米国の愛国者法、フランスの戒厳令の長期化など)その結果として、自由と民主主義が虚構の神話であることが露呈し、極右の価値観が国内政治で無視できない勢力として台頭するようになった。
(6)以上は、日本だけでなく、欧米諸国に共通するが、日本では、親米極右政権の欺瞞的なイデオロギーの危機が進行している。安倍政権は、国内極右ナショナリズムと「親米」路線の矛盾をかかえる一方で、中国が日本を追い抜き世界第二位の経済大国となったことなど戦後日本のナショナリズムを支えた経済的豊かさが破綻に瀕しているために、戦後ナショナリズムの再構築に迫られているが、その解答を戦前回帰以外に見出せていない。
(7)安倍政権にとっての「敵」は誰か。政権にとっての「国益」とは何か。国内最大の「敵」は、欧米諸国が言うような意味でのテロリズムではない。沖縄反基地運動、反原発運動、反戦争法運動は、政権にとっては「一般市民」ではないから、これらの反政府運動がテロリズムとしてフレームアップされる可能性がある。これらの反政府運動に対する抑え込みが共謀罪のターゲットになることは間違いない。政権を危機に追い込むほどの力をもっていない運動であるにもかかわらず、政権は、こうした運動に対する世論の「不安」感情を扇動するだろう。対外的な「敵」としての朝鮮民主主義人民共和国、中国、韓国(領土問題、「慰安婦」問題から経済的な脅威まで)との関係は、国内の移住労働者や「在日」への監視と偏見・差別を助長することになる。
こうしてみると、日本をとりまく世界の状況は、大きな構造的な地殻変動の渦中にあるといえそうだ。従来の戦後民主主義の枠組がこの国でまだ機能しているという前提にたって、この国の政治や国会の動向を理解することは、今この国で起きている事態の深刻さを軽く見ることになるのではないだろうか。
2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない
私たちがまず問わなければならないのは、戦後の憲法と刑法の規範を「公理」としながら、なぜ共謀罪のような「法」が登場できるのか、国会でこうした法案を審議することがなぜ可能なのか、である。なぜ「論外」とはならないのか。なぜ「荒唐無稽」だとみなされないのか。
戦争法案が議論された当時、あたかも戦争法の前と後との間に大きな質的な転換があるかのようにみなして、戦争法のない状態を維持することが9条を守る重要なポイントであるかのようにみなされたことがあったように思う。しかし、戦争法がなかった時代はどのような時代であったかといえば、その時代もまた9条に違反する自衛隊が存在し、海外派兵されていた時代であり、そもそも自衛隊あるいは自衛のための武力をもつこと自体が違憲であるという原則を主張すること自体がきわめて少数の理想主義的な(非現実的な)主張であるかのように見なされていた時代ではなかっただろうか。(とくに1990年代後半の村山政権の時代に、自衛隊合憲、安保体制支持をうちだした時代以降)
法案をめぐる反対運動のなかでは、法の問題を議論する枠組は、現行憲法の体制が旧憲法とは本質的に異なる好ましい体制であることが前提されるのが一般的かもしれない。しかし、現実の日本の法制度も政治や統治の体制も、とうてい書かれた憲法の理念(として私たちが解釈する内容)を体現するものとは言えないばかりか、ますますその理念から遠ざかるような立法が繰り返されてきた。こうした欺瞞的な事態は、憲法制定当時から存在していた。その典型が、日米安保体制と米軍基地の存在である。いったいなぜ、外国の軍隊を領土内に有するような違憲状態が常態化する事態が半世紀以上も続いてきたのだろうか。根本にあるのは、政権政党がこうした事態を法制化してきたにもかかわらず、憲法がそもそも違憲立法を排除する実質的な力を持てないように制度設計されていたからである。どのような違憲立法も国会で成立すれは法としての効果をもつという制度の欠陥を政権は利用してきた。
戦前と戦後を分ける敗戦の年、1945年は、決定的な転換点ではない。戦前も戦後も日本は、近代国民国家であり資本主義体制であった。官僚制は維持され、統治機構を支える人的な構成も維持された。天皇は「象徴」機能をもつという点で戦前から継承された。この政治と経済、ナショナリズムのイデオロギーの連続性は、憲法の断絶よりも強固である。(憲法を除く下位の主要な法律は戦前から継承されている。1907(M40)制定の刑法が現行刑法。1896年(M29)制定の民法、1988年の商法(M32)など。)
また、戦前から戦後にかけて、権力者たちの法意識が根底から変ったという明確な証拠はない。自民党は、一貫して改憲派であるから、戦後憲法や戦後民主主義はかれらの理念ではないし、憲法を国家に対する命令とは解釈せず、国家による国民への命令だと解釈する旧憲法の認識を継承している。彼らにとって法は支配者による民衆支配の規範でしかない。こうした政党が政権を担い続けてきたのだから、自民党政権が「法の支配」を受け入れているとみなすのは根拠のないことだ。政権の独断を抑制してきたのは、戦後の様々な反政府運動の存在である。
憲法は統治権力を抑制する現実的な力を持ちえているとはいえない。上に述べたように、憲法に反する立法は可能であり、法としての効果をもつ。「法の支配」は理念でしかなく、現実には、自主憲法制定派の自民党が、法の執行者(集団:行政府や警察など)として法を解釈し適用し、人の自由を奪う裁量権を持ってきた。権力者が法の支配を遵守する意思を持たないばあい、憲法も法も紙に書かれてはいても、それが文字通りに実在することにはならない。「絵に描いた餅」の憲法に定められた基本的人権や自由権は、極めて脆弱で実在しないと言っても過言ではない。実在しているのは、民衆的な権利を制約するためのルールを優先させ、政府・政権の自由を優先し、その残余を人びとに「自由」とか人権として割り当てているにすぎないのである。(法が認める限りでの自由しかない)この不在を招いたのは、戦後民主主義を過信し、主権者である「国民」が自らの権利のために十分に闘わなかったからだというしかない。一貫して戦後憲法を否定する自民党を政権の座につかせてきたその結果が、現在の日本の状況ではないだろうか。(以下続く)