欲望の再生産と貨幣の権力―交換をめぐる未決の問題

欲望の再生産と貨幣の権力 交換をめぐる未決の問題

●非所有と欲望

 私たちは、日常生活の中でごく当たり前のようにして、市場での交換行為を行っている。この交換についてはうんざりするほど膨大な文献が存在するにもかかわらず、市場経済という特定のケースに限定したとしても、「定説」といえるものが未だに確定しているとはいえない。交換行為にはまだ解明されなければならない謎が数多く残されているのである。

従来、市場経済の交換に前提されているシチュエーションはほぼ次のようなものといっていいだろう。すなわち、私的所有の制度と個人の観念が存在し、個人が自己の所有物を自由に処分できることをふまえて、貨幣所有者が商品所有者の設定した価格を妥当な水準であると見なした場合、あるいは妥当ではないが必要に迫られてしぶしぶその価格を受け入れる場合など、いずれにせよ提示された価格に対して、最終的には「合意」が形成されて、交換が成立する、というものである。いままで経済学が取り組んできた主要な課題は、妥当な価格とはどのようにして形成されるのかという価格形成のメカニズムであった。

右の交換のシチュエーションは、商品の非所有者としての貨幣所有者と、貨幣の非所有者としての商品所有者の経済的なコミュニケーション行為であると言い換えることができる。自分が所有していないがゆえに相手の所有する商品または貨幣を需要するのだということになる。この一見ごく当たり前のことはよくよく考えてみると非常に奇妙な現象といわざるをえない。つまり、自分が所有していないモノというのは、自分がそのモノについて未経験であるということであって、ここに、問われることがほとんどなかった問題が存在する。

そのモノを経験するとは、そのモノを所有し、自由に使用=消費することにともなって初めて成り立つ。しかしこうした経験のためには、それに先だってそのものを所有しなければならない。しかし、私たちは、経験以前的な状態にありながら、そのモノを欲望できることに何の疑いももたない。しかし、経験する以前に、そのものを欲しいと思うのはなぜなのか、そして、そのモノによってこの欲望が充足されると信ずるに足る理由がどこにあるというのか。経済学はこの問いを問い以前の自明のこととして処理してしまった。そのために市場経済と欲望の生産という重要な問題もまた見落とされたのである。

欲望は常に将来の経験の先取り、言い換えれば現在の未経験という欠如感覚として成り立つ。欲望という感情が人間に普遍的であるとしても、それが商品や貨幣への欲望としてあらわれる場合には、市場経済を前提にしなければならない。いま、私たちが検討している課題に必要な限りでの欲望とは、この意味で直接間接に商品と貨幣に結びつけられているという点で明らかに特殊な社会関係のなかで再生産される欲望である。しかも、この意味での欲望は、思いの外その射程距離も長い。近代的な家族関係と男女間のセクシユアリティは、家族が伝統的な生産領域から徐々に排除され、〈労働力〉商品の再生産過程=消費過程の制度に転換されるなかで形成されてきた。この過程で、子どもというカテゴリーが形成され、また恋愛や愛情による家族関係の形成がみられるようになる。フロイトがエディプスの三角形に込めた本源的な性的欲望の構造は、西欧近代の社会システムのなかで形成された限定的な欲望モデルであるとともに、それが市場経済の拡張にともなって世界的な広がりを見せてきたという意味では、それは市場経済が前提とする欲望の構造とも結びついている。この家族関係の欲望が男根中心主義として形成され、市場経済のそれが貨幣を中心に形成されたということは、無関係ではない。貨幣と男根は、欲望の相似形をなすからだ。こうして、商品や貨幣に関わる欲望は、市場経済の交換の場面を離れても、日常生活のなかで機能することに汝って、市場を非市場的な社会関係のなかに埋め込むのである。

●交換と欲望

欲望の質が市場経済の内部で市場経済に固有な質を持って形成されるのであるとすれば、交換の前提として欲望を所与とする考え方、たとえばアダム・スミスの「交換性向」といった捉え方は再考を要するということになるし、マルクスのように価値と使用価値の弁証法における使用価値の理解も改めて再検討しておかねばならないということになる。

よく知られているように、『資本論』はその冒頭で次のように述べている。

資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、の〈巨大な商品の集まり〉として現れ、一つ一つの商品は、富の基本形態として現れる。

ここに書かれていることは、ごく当たり前のことのように見える。というのも、資本主義経済の「富」は商品という姿をとる、ということは、私たちの日常生活の「実感」からも理解できるからだ。私たちの「実感」は、商品が店にあふれる大都市や先進国の方が、商品の種類も量も乏しい過疎地帯や低開発諸国、あるいは社会主義圏よりも「富んでいる」と見えるように組み立てられているからである。

しかし、実はこのマルクスの「商品」へのアプローチは、最初から限定された観点を導入している。それが「生産様式」という観点である。「生産様式」という表現が最初から登場していることからもわかるように、マルクスは、この「商品」論を手がかりに、資本主義経済の「生産」における特殊歴史的な社会関係を明らかにする方向をとる。「商品」やその後に検討される「貨幣」「資本」といった概念は、「生産」へと結びつく「流通」として位置づけられる。しかし、流通や交換という領域は生産という領域にのみ結びついているわけではない。もう一方に「消費」という領域がある。マルクスはこの「消費」の領域の存在を知りながら、それを切り捨ててよいと考えた。

しかし、「生産様式」があるように、資本主義的「消費様式」と呼びうるものがある。「消費生活」がどのようなものであるのかによって、需要される商品の種類や質も変化するはずだから、消費様式は「商品」論のもう一つの重要な柱になっていいものなのだ。そして、実は更に「流通様式」という第三の「様式」も考慮しなければならない。

では、なぜ消費様式を問題の枠外に置いたのだろうか。『資本論』ばかりでなく、一九世紀に確立した古典的な経済学は、「消費生活」を重要な考察の対象にしなかった。なぜならば、労働者大衆の生活は、極めて単純であり、供給される生活手段の種類や質も限られており、消費生活はいわば「定数項」として扱いうるもの、あるいは賃金の額についての議論——労働市場論や労資関係論——をふまえるだけでよかった、と信じられていたからだ。もちろんこうした先入見は、当時の労働者の貧しい生活を観察していた外部の観察者たちのものであって、市場経済的な意味での物質的な貧しさにすぎない。

二〇世紀にはいると「消費生活」の内部に立ち入った議論が見られるようになる。その最初の試みは、ソースタイン・ヴェブレンやヴェルナー・ゾンバルトによるものだといっていいだろう。さらに、一九六〇年代になると、アンリ・ルフェープル、ジャン・ボードリャールなど特にフランスのマルクス主義やその影響を受けた人々が「日常生活」と資本主義の関わりを問題にし始める。たとえば、ギ・ドゥポールが一九六七年に書いた『スペクタクルの社会実木下誠訳、平凡社)では次のような書き出しで始められている。

近代的生産条件が支配的な社会では、生活全体が巨大なスペクタクルの集まりとして現れる。

ドゥボールは、『資本論』で「巨大な商品の集まり」と述べられていた部分を「巨大なスペクタクルの集まり」と言い直している。そして、「社会の富」のかわりに「生活全体」という表現が見られる。いつも何か「わくわくするもの」や「おもしろいもの」「刺激のあふれたもの」「めずらしいもの」「新しいもの」を求める私たちの日常生活をドゥボールは「スペクタクル」と呼んだのだ。これは、「消費様式」に焦点をあてて資本主義を見ようとした典型的な例であろう。こうして、多くの選択の幅をもち、大量の広告などによる消費生活情報が氾濫する現在では、むしろ「消費様式」は生産様式とならんで「富の基本形態」たる商品の性格を決定する要因となっている。

しかし、さらに本質的な問題がここにはある。それは、消費様式に組み込まれている欲望と交換の関係である。欲望は、交換行為以前に、交換行為を促す感情として将来の買い手の心に埋め合わせられるべき欠如として生起するものであるとすれば、こうした欲望の再生産は、経済学のいう消費過程においてなされることになる。交換行為もそれ以外の様々な経済行為だけでなく、非経済的な行為も析対象からはずしてしまった伝統的な経済学のパラダイムは、商品の生産、流通、分配といった経済学本来の領域においても深刻な影響を被らざるをえないのである。

●欲望の構造

市場経済では「ポテトチップスが欲しい」という需要者による欲望が交換の動力となり、ポテトチップスの供給者の提示する価格について合意が形成されれば、需要者は価格にみあう貨幣を手放し、自分の特定の欲望を充足するモノの所有権を手に入れることになる。

供給者もまた「お金が欲しい」という欲望を抱いており、そのことを需要者は知っているが、「お金が欲しいからポテトチップスを売ります」という売り方は一般的とはいえない。価格は表示されなければならないが、「お金が欲しい」という表示にはなっていない。むしろ売り手は、貨幣の取得を交換に提供する商品の正当な(あるいは買い手にとってはヨリ有利な)報酬であるかのような外観をつくる。

この「ポテトチップスが欲しい」という例のぱあい、彼/彼女は、財布に一五〇円も持っていれば、自分の欲望を満たすことができる。この自明のことのなかで説明を要することというのは、「なぜ彼/彼女はポテトチップスを欲しいと感じているのか」ということである。つまり、「ポテトチップスが欲しい」ということは、言い換えれば、需要者である彼/彼女はポテトチップスを持っていないということ、ポテトチップスの欠如の感情を前提としているということだ。所有していないから所有したいという非所有‐所有の関連は自明なものと見られているが、これは自明ではない。なぜならば、自分の所有していないものがどのように自分の欲望を満たすことができるのかふくめた日常生活のなかで、人々はモノの需要へと向かう欲望を形成する。そして、これは市場経済の交換に固有の性質でもあるのだ。

市場経済が、欲望を動力とする交換関係を取り結ぶということが、他のモノの流通様式に対してどれだけ際だっているかを確認しておこう。カール・ポランニーがモノの流通(分配)のシステムを、互酬、再分配、交換の三つに分類したことはよく知られている。互酬とは、たとえば、マリノウスキーが詳細な民俗誌を記したトロブリアンド諸島のクラ交易のように、対価なしで財が流通するものだが、ここでは、財の受け渡しの相手は厳格に決められており、何を相手に贈与するかの決定権は、送り手の側にある。同様に、再分配の場合も——これは、古代エジプト王朝のような巨大文明に典型的に見られる王や支配者がその社会の構成員に財を分配するシステムであるが——分配される財を決定するのは財の供給側である.これらのシステムでは、一般に財の受け手の側に欲望の動機が存在しなくても、財は流通する。それは、欲望とは別の動機で財の流通・分配が制度化され、社会の経済もまた運動しているからである。

ところが、市場経済は、財の需要者の側に商品への欲望が存在し、供給者の側に貨幣への欲望が存在しない限り、機能しない。欲望は埋め合わせを必要とする欠如の感覚であるとすれば、商品の需要者は、その商品の欠如Ⅱ非所有が欲望の源泉となるわけだが、なぜその商品の非所有が欠如として実感されるのか。この実感の意味内容は多様で暖昧で気まぐれですらある。

従ってアルカイックな社会におけるモノの流通や分配を理解するためには、親族構造や宗教儀礼などが欠かせないのと同様に、資本主義の市場経済においては、日常生活の欲望の構造を明らかにすることが欠かせない作業噸のである。とすれば、消費様式を経済の分たされたと実感できるのは、ポテトチップスを食べて「おいしかった」とか「満足した」と思う場合であるが、そうした状態は、所有を前提としている。

そのモノについて、経験以前的状態にありながらなおかつ、そのモノを獲得し、「消費」すれば、自分の欲望は満たされるであろうと需要者が判断して、欲望が喚起される場合、当のモノそれ自体の経験によるのでないとすれば、何によってなのだろうか。所有によって現実化する欲望の充足が、経験以前的状態に先取りされるメカニズムはどのようなものなのか。このメカニズムは、一方で欲望そのものの性質に依存するとみていいのだが、他方で欲望充足を経験以前的状態のなかで先取りするメカニズムが市場経済の流通様式に組み込まれているということでもある。

では、この流通様式に組み込まれているメカニズムとは、どのようなものなのか。従来、商品に対してその所有者(売り手)は、商品の単なる人格的な担い手とみなされ、所有者に固有な機能が存在するとはみなされなかった。しかし経験以前的な状態において買い手に欲望を喚起する作業は、商品体それ自体では十分に果たせない。商品体それ自体に拘束されずに、自由にこの商品体をダシにして、買い手の欲望形成の活動を積極的に展開するのがその商品の所有者の行為である。ここで商品の売り手は、第一次的には、商品の記号的機能を形成する。記号化された商品は、情報として、その指し示すものから離脱して 情報に固有の流通の回路——商品それ自身の流通に付随するものとして「パラマ‐ケット」と呼んでおく——を通じて、買い手となるかもしれない大衆的消費者に伝達される。この記号化された商品は、その受け手によって記号として解釈されるのではなく、商品本体についてのイメージとして再生される。商品の使用が想像されうる必要があり、同時にこの過程で、現在の受け手のなかに欠如の感情を生気させなければならない。この受け手に伝達された段階で、記号化された商品は、ある場合には象徴的な機能を発揮し、またある場合には想像的な機能を発揮する。そして大半の記号化された商品は、そのどちらも果たせずたんなる記号として漂うだけで欲望を換起することはない。

ポテトチップスがコンビニの棚でじっと買い手が現れるのを待っている間に、その所有者は、めまぐるしく動き回り日々この商品を記号化し、パラマーケットにその記号化された情報を押し込んでゆく。もちろん、コンビニにたたずむポテトチップスとて黙って何も語らないのではない。このポテトチップスのために、その所有者はパッケージという記号機能を付与してやる。パッケージはポテトチップスではなく、その記号化として、同じ棚にならぶ競争相手との間で、熾烈な象徴/想像作用を争うのである。

こうした所有者の記号化の労働は、パラマーケットで機能するマスメディア資本などを巻き込み、さらには消費者をもその記号化の手先として組織しようと試みる。もし、こうした組織化の作業が成功すれば、この商品は社会的な欲望となる。それは、大衆的な消費者によって「流行」として受け取られるだろう。そしてさらにそのなかの一部は、日常生活の伝統として定着する。こうなるとこの商品の象徴的な機能はもはや商品の所有者には属さない。それはこの社会自体が再生産を担うことになる。しかし、売り手はこれに満足しない。なぜならば、資本主義的な市場経済において、モノの供給者は、こうした伝統Iあるいはブルデュ‐のいうハビトゥスーの維持が目的ではないからだ。彼らは、価値増殖を目的とするのであり、従って、このように定着した伝統、あるいは象徴的な機能を彼ら自らが破壊しようとする。

こうして、私たちの欲望とは、具体的なあるモノにむかうにも関わらず、欲望を構成するのは、そのモノについてのイメージでしかない。言い換えれば、モノについての情報から組み立てられたイメージに欲望するのだ。流通様式とは、モノや貨幣の流通と同時にこの情報から組み立てられたイメージ——それが分節化され制度化されると広告資本やマスメディア資本のようにそれ自体が一定の市場を構成することになる——の流通を伴うことによって市場経済の生産と消費を媒介する機構となるのだ。後に述べるように需要者の欲望のイメージはこうした商品供給者や資本によって単に外部注入的に組み立てられるものではない。 右にみたのは、商品の供給者の側からの観点であった。これに対して、需要者の側にはこれとは対称性をもたない欲望形成の要因がある。

ひとつは、過去の経験である。「ポテトチップスを食べたことがあり、美味しかった」といった自らの過去の経験を有していれば、それが経験以前的な欲望として「もう一度あのポテトチップスを食べたい」という欲望を喚起することがあるのは経験的にいっても日常的にみられる事態であり、説明を要することはなにもないように見える。この場合、「経験以前的」とはいえず、むしろ経験を前提とした欲望のようにみえる。しかし、そうではない。なぜならば、ポテトチップスを食べて美味しかった経験があれば、常にこの欲望が喚起される訳ではないからである。美味しいものは他にもあり、なぜ今ここでクッキーでもなく柿の種でもなくポテトチップスを選択することになったのかということは、過去の経験だけでは説明できない行動であり、また過去の経験における欲望と現在の欲望が同じものであるということもいえないからだ。自己の経験は他の何物にもまして選択の有力な根拠になるということも必ずしもいえない。なぜならば、以前に食べたポテトチップスではなくて、食べたことのないポテトチップスを選択することもあるからである。そうした未経験のモノとの比較において、自己の経験は絶対的ではない。しかも、経験として記憶にとどめられることばかりではなく(フロイトの無意識のように)、過去の経験が現在の記憶に持ち込まれる理由もまた説明を要することだ。具体的な個人のレベルに降りて、具体的な個々のケースに接近すればするほど、その経験とその記憶と、それらを背景として経験以前的な欲望が喚起される条件は多様である。こうして、過去の経験は現在の欲望の決定的な条件ではない。

もう一つ別のケースがある。たとえば、友人がポテトチップスを美味しいと話題にする時のように他者の経験を知る場合である。この場合、私たちは容易に彼/彼女の経験を共有できるように想像するが、それは一般論としては成り立たない。経験の共有が可能な関係があらかじめ設定されていなければならない。たとえば、ポテトチップスを食べたことがなくても、それがスナック菓子であり、おやつやビールのなどのアルコール類のつまみとして食するカテゴリーに属するものであるというカテゴリー認識が必要なのである。さらに、間接的な経験の場合には、直接経験者との関係がどのようであるのか、親しい友人なのか、逆に嫌いな相手なのか、あるいは会社の上司であるとか他の家族のメンバーであるとか、その相手との様々な関係によっても左右される。

このように、ここでも経験は個別的であり、その実感はとりわけ多様である。にも関わらず、自分の個人的な経験は、決して孤立したものであって、他者には理解できないものと考えられることはまれである。特に、この経験が日常生活に埋め込まれたものとみなされればそれだけいっそう経験の共有は当たり前のこととみなされる。欲望の生産を支えるのは、こうした経験の共通意識である。そして、この共通意識が形成されるのは様々なレベルでの文化であるとしかいいようのないものなのである。

この経験の個別性と多様性が、日常生活そのものであり、それが文化として構築される場面で、資本と大衆的消費者は欲望をめぐるアリーナを構成する。ここで、性々にして、資本の意図したイメージの形成は裏切られる。若者文化のなかで使用される商品の多くは、そうした憂き目にあう。オートバイ仲』自動車、ロック音楽やファッションなどいずれも、送り手の意図を逸脱した使用を文化的な価値として有している。これは消費者の側による意図的な使用の逸脱であるが、逆に資本の側が意図的に日常生活から逸脱したイメージを構成することもある。たとえば、多くのアルコールやタバコ、化粧品のコマーシャルは、日常生活におけるそれらの消費様式とはかけ離れている。家電製品にしてもそのCMのイメージはどの日常生活の家庭の風景とは似ていない。こうした逸脱が可能なのも、欲望が商品それ自体によってではなく、その記号化‐情報化‐再イメージ化を様々な媒介者を通じて繰り返しながら構成されているからである。また、国際的な市場経済の拡張が文化帝国主義として第三世界から批判されることには根拠があるのだ。こうして、モノの使用と欲望もまた、それが資本の意図と対立する要素をはらんでいるために、十分にこの資本主義の闘争の主題になりうるのである。

●交換の非対称性

「大衆消費社会」という表現に示されているように、右に見た売り手による記号形成の労働は、商品の売り手に固有の行為であって、貨幣所有者は自らの貨幣についてこうした行為を行うことはない。しかも、資本主義的な市場経済では、この商品所有者の行為は特定の人間や組織がもっぱら担う。抽象的な市場交換モデルが暗黙のうちに想定する商品の売り手は、買い手となり、買い手は売り手となるといった対称的な役割の交替関係は存在しない。資本主義では、商品の買い手が、商品の売り手になるのは非常に特殊なケースに限られ、社会の大多数は常に商品の買い手の役割を繰り返す。したがって、この社会は一面では「大衆消費社会」として現れるわけである。では、大衆的消費者が、商品の買い手から商品の売り手となるのはどのような場合かというと、それは自ら〈労働力〉を商品として売る場合に限られる。こうして資本主義の大多数の人々は、多様な商品を買い入れ、それにともなう欲望に拘束され、他方で常にただ一つの商品、〈労働力〉だけを売り続けるのである。

この交換における非対称性が大衆的な消費者——他方ではく労働力〉の売り手であるか、あるいはこの〈労働力〉の売り手が取得する貨幣によって二次的に生活を支えられる家族の構成員であるわけだが——の意識に、資本とは異なってどのような意識を形成するかという問題はほとんど議論されてこなかった。

商品の記号化とさらには象徴作用や想像作用へと拡げられてゆくその所有者による機能は、大衆的消費者には奪われている。彼らはこれらの作用の受け手であることを強いられる。もちろん、それは一方的で受動的であるということでは決してない。パラマーケットが日常生活の末端に達すれば達するほどそこでは、資本の記号化とは別の様々な記号化の作用が働くし、そこでは、消費者は受動的であるとは限らないからだ。他方で、〈労働力〉の売り手としては、今度は商品の売り手と同様の記号化の担い手となりうるのだろうか。ところが、ここでもまた〈労働力〉の記号化の主要な担い手は、資本の側に奪われていることが多い。理想的な労働者像や、要求される労働者としての資質は、〈労働力〉の買い手によって形成される。労資間の協調と摩擦は、このイメージをめぐって展開される相互の関係抜きには論じられない。〈労働力〉はその売り手の身体そのものに付着し、そこから離れて記号化されることが困難なものだ。これが、モノの商品化とは大きく異なる。こうして、大衆的消費者は、記号化から象徴作用‐想像作用という領域で最初から割の合わない立場を強いられる。市場において、売り手と買い手は対等であるなどというのは、その非対称性からいって、資本主義が生み出したイデオロギーにすぎない。

●物神性=モノそれ自体の欲望充足力

ここでさらに重要な修正が加えられなければならない問題が「商品の物神崇拝的性格」の概念規定に生じる。マルクスが物神崇拝的性格を商品に見出すというときには、モノに一定の交換力がそなわっているということ(たとえば、ポテトチップスに一五〇円という価格がついて、交換されうるという性質)がモノそのものの属性のようにみなされ、社会関係からそうした性質が形成されるということを指して定義されたものだった。従って、貨幣の場合のように一般的等価物としての性格に特化したものの場合には、物神性もまた典型的に示され、貴金属が貨幣とされる社会的な関係によってはじめて金や銀が貨幣特有の機能を保障されるにもかかわらず、金や銀の物質的な属性それ自体が貨幣性を普遍的に有しているように錯認されるというわけである。

(図版あり)

このように、社会関係によって形成された属性が、モノそれ自体の普遍的な属性として錯認されることを物神性というのであれば、右のような交換力のレベルでの物神性は、さらにその根底に欲望をめぐる物神崇拝性によって支えられているということをつけ加えておく必要があるだろう。すなわち、商品や貨幣それ自体に欲望を充足する性質があるとみなす観念のことを「物神崇拝的性質」、あるいは商品や貨幣の「フェティッシュな性質」ということができるということである。ただし、のちに貨幣についてのくるように物神性の意味は商品と貨幣とでは異なる。そして、商品はそれ自体では物神性を完壁には発揮できない。欲望に関わる物神性が商品の買い手に生ずるためには、買い手は、また貨幣の所有者であることを必要とするのだ。

私たちが経験以前的に抱く欲望は、商品として値札がつけられた当のモノそのものの欠如によって形成されたのではなく(当のモノの取得によってその欲望は充足されるのではなく)、この商品についてのイメージに対して抱かれるにすぎない。このイメージ化された情報の意味内容に対応するシニフィエは商品そのものではなく、この情報のマトリクスが生み出す商品に対するイメージである。

私がここで繰り返し述べていることは、以下のように、様々なニュアンスの違いはあれ、多くの人たちが示唆してきたことでもある。 たとえば、ロラン・バルトは、『モードの体系』で、ファッション・雑誌の言説分析を行っているが、そこでは、この雑誌が指示してい る当の衣服それ自体は登場しない。登場しなくても、意味作用はある種の完結した世界を構成できるということを彼は示した。ボードリヤールは『物の体系』で広告はモノの生産や使用に関しては全く役にたたないが、しかし物の体系に入っているという場合、「広告はその機能がほとんどすべて、二次的であり、広告のイメージと言説は大体がアレゴリー的であるために、広告は理想的な物になり、こういう物の体系をあらわに示す」と指摘した。広告が指し示すはずの物と広告とが実はその立場を逆転させ、広告が消費者にとってのすべてであるというわけである。広告が「理想」だとしたら、当然広告の指示するモノは「理想」ではありえない。マルク・ギョームは、もっと率直に次のように語っている。

「消費されるモノやサービスは、想像界の扉を開く。たとえば今日のような車の利用方法や、車がかきたてる過激な行動と感情は、車の想像力を考慮に入れずしては理解できない。この想像力の原理とは何であるのか。日常の消費行動がそれを解きあかしてくれはるかに幅広い獲得物を連想させてくれる。この連想が物に映像を付与するのであるが、この物と映像のうち〈消費される〉のは、多くの場合映像だけなのである。この映像の生産が明らかになるのは、広告が介在して〈一級品のイメージ〉とか独自の様式とかブランドを創り出し、それらを称揚し、ありとあらゆる種類の象徴的意味表現でもって消費を飾りたてるときである。」

あるいは、ウィトゲンシュタインが言語とその対象の間に立てた問い、記号からその表示するものへの飛躍という問題に関わるということもできるだろう。さらにこれらに加えて、当然、ブルデューやドゥルーズ=ガタリを引き合いに出さねばならないだろう。しかし、本稿は、こうした様々な論者に対して詳細なサーベイと評価を行うことを目的としているわけではない。だが、一言これらの論者の主張に関して言っておくとすれば、彼らの議論を資本主義のポストモダニズムの文脈におしこめてはならない、ということだ。確かに、ポストモダニズムの中で、あるいは商品がますますその実体から遊離した記号としての性格を如実に表すようになってから、右にみたような商品の欲望充足という物神的性格があきらかになったのだが、しかし、このことは、繰り返しになるが、そもそも市場の交換が欲望を不可欠の条件として成り立っているということに由来しているのであるから、市場経済の本質に属することなのであって、ポストモダニズム固有の特徴ではないということだ。

●貨幣における欲望

モノそれ自体、商品体そのものに欲望充足の性質があり、従ってそのモノの所有権を取得し消費することによってこの欲望を充足するものだという従来の理解には重大な疑問があるということについて、貨幣ではそれはどのように現れるのだろうか。一般の商品への欲望は、そのモノについての記号化を起源として、パラマーケットを通じて受け手によって組み立てられた欠如のイメージによって喚起されるが、貨幣の場合、この経験以前的な欲望とはどのような内容をなすのだろうか。

モノの場合、それがたとえサービスやデータのように無体物の場合であっても、ある具体的なイメージや感覚と結びついている。いったん記号化された商品は、受け手によって再び具体的なイメージにエンコードされねばならない・だから、「ポテトチップスが欲しい」ということと「柿の種が欲しい」ということは類似の欲望ではあっても同じではない。ところが、貨幣への欲望は、こうした対比が可能な多様性の文脈を否定された唯一者としての欲望である。少なくとも、国内市場ではそうである。従ってこうした多様性が排除されているために、貨幣は抽象的な富の記号として、量概念しか持たないものとして現れる。貨幣に関わる欲望の充足とは、商品所有者の側で生ずる貨幣の欠如感情だとしても、それは、具体的なイメージとしては結ばないし、そうしたイメージを結ぶ必要は必ずしもないのだ。しかし、貨幣は純粋な量、商品経済的な富の抽象的な量を表現するだけだというのではない。「貨幣が欲しい」という欲望は、それを媒介として、個々の商品に配当されているその象徴的な機能や日常生活における文化的な価値を分配するための原資としての機能がある。貨幣が欲しいのは、その無限の富のある限定された量への欲望だけではなく、こうした文化的な価値のオーダーのなかでのより望ましい位置を獲得するという欲望とも結びついている。大衆的消費者の場合、貨幣それ自体を自己目的とすることにはかなりの制約がある。そんなことをしてもたかが知れているからである。従って、むしろ貨幣への欲望は、消費への欲望へと結びつかざるを得ないのだ。しかし、これは、変ではないだろうか。貨幣への欲望と消費への欲望はどうして両立するのだろうか。延期された商品への欲望充足の代償として利子が得られるということからの比較衡量による、という説明ではこの問いに答えたことにはならない。

貨幣の場合、その取得においてあらかじめ支出が予定されている(何に支出されるかは不確定であるとしても、将来において取得した貨幣の 過半は手放されることが見込まれている)・ということは、消費目的で取 得された商品とは決定的に異なる意味をもつのだということである。 とすれば、別れが運命づけられている恋のように、貨幣は人を魅了するということなのだろうか。それとも違う。恋愛の一回性とは違って、貨幣は日常生活のなかでうんざりするほどこの運命の別れを繰り返すからだ。そうではなくて、貨幣は、それを所有しているということ自体が、こうした将来の商品取得によって満たされると観念されている欲望を最大化させているのである。こうして貨幣は欲望を巡る商品の物神的性格を確実なものにする。貨幣は欲望の触媒なのである。そして、このようにして商品の物神性を確実にすることのできる貨幣は、そのことによって自己否定の道を歩む。なぜならば、貨幣によってその所有者が商品への欲望を確実すればするほど、欲望は商品へと向かうからである。そして、交換それ自体の行為、つまり売買契約の成立の時点では、貨幣への欲望を商品への欲望が凌駕し、逆転する。貨幣への欲望は否定され、商品への欲望が選択される。こうして貨幣と商品は交換され、貨幣はその使命を終える。欲望のゲームは後にも先にも、この交換の瞬間に集中する。この時点を頂点として、当該商品への欲望は衰弱する。あれほど欲しいと思っていたのに、もう消費者は次に欲しいものを物色しはじる。商品それ自体では彼/彼女が経験以前的に抱いた欲望を充足させることはできないからだ。だが、彼/彼女は何も手に入れなかったのか。そうではない。彼らは取得したモノによって、消費社会における文化的な価値の序列のある部分を手に入れたのだということを第三者に示すことができる。ヴェブレンのいう「街示的消費」である。しかし、この価値は日々劣化する。たいていは、モノの物理的寿命よりも早く劣化する。だから、彼らは、もはやそのモノに満足するわけにはいかないのである。

●象徴権力としての貨幣

実は、貨幣が創出する貨幣に対する欲望は、経済学が伝統的に維持してきた流通の便宜以上のものであることは経験的にだれもが感じている。それは、より多くの貨幣を所有すれば、その貨幣で取得できる商品の量もまた増大するということだけではないし、商品経済的な富の象徴ということだけでもない。 たとえば、高額の所得が得られる職業が「名誉」(最高裁判所の判事とか大学の学長など)や「犯罪」(麻薬の取引や政治家の汚職など)と結びつけられる場合、それは単にその職業が「名誉」や「犯罪」と結びつけられる以上の意味を「高額の」という付帯条件は与えている。ここでの高額所得の意味は、それらの職業によって得られる貨幣が代表する商品経済的な富の量を想像して与えられるわけではないし、またこうした高額所得に対して欲望が喚起されるというわけではない。そうした狭い意味での経済的な欲望や富の範晴では説明できない機能をここで貨幣は担っている。

たとえば、資本主義の家族によく見いだせる成人男性が主として家族の生活費を稼ぎ出すというケースを考えてみよう。日本の伝統では、この貨幣を妻が管理するケースが多い。このとき、夫が妻に渡す貨幣は、どのような意味をもつのだろうか。ここでは、貨幣はどのような欲望を担っているのだろうか。妻は、家計の維持のために夫の貨幣への欲望を持つ。夫もまた家計を維持するために会社での労働の対価(実は〈労働力〉の対価だが)としての貨幣への欲望をもつ。しかし、この二つは同じ貨幣への欲望と見なすことはできない。貨幣の使用は、異なる文脈のなかでの異なる使用だからである。前者は交換手段としての貨幣であり、後者は支払い手段としての貨幣であるということを言いたいのではない。後者は、性別に基づく権力の象徴として貨幣が機能しているということである。そして前者は、この性的な権力を背景に持ちながらも、ここで発揮されているのは、社会的な欲望としての資本の象徴的な権力を体現するものとしての貨幣なのである。貨幣は、商品について指摘されるような差異の記号ではない。しかし、貨幣は、それによって他者を差異化させる記号になりうるし、その他者の差異化もまた商品のそれとは違って、きわめて多様な文脈のなかで作用できる。しかし、どのような差異化の文脈を貨幣が形成するのかは、原初的には貨幣によっては決定されない。それは、日常生活の伝統であったり、政府の政策による意図的な誘導であったり、違法性の範囲を定めている法の構成であったりと様々である。しかし、ひとたび形成された差異化を再生産する機構の一部を貨幣は確実に担う。従って、貨幣は、ブルデューがいう「象徴権力」の一翼を担っている。マルクスの価値形態論が今後更に意味あるものとして彫啄されうるとすれば、こうした象徴レベルの交換関係を組み込んだ論理を構築することにあるはずであり、そうすれば、欲望の物神性論について先に指摘した内容もまた生きるだけでなく、市場経済におけるイデオロギー論の基礎論ともなりうるはずである。

ひとつだけ補足しておきたいことがある。それは、貨幣と言語を比較可能なものとして捉えようとする考え方についてである。私は、こうした考え方をとらない。貨幣は、言語のコミュニケーション機能や象徴作用を応用できるものでもない。逆に、ブルデューにみられるように言語コミュニケーションに経済的なカテゴリーを過剰に適用することが、彼の問題意識を的確に展開する最善の方法とは思えない。むしろポール・リクールが象徴作用をディスクールの自由な創出としての隠喰と区別しながら「ことばにならないある要素」とか「力、効力、実力の次元に属するもの」と指摘したように、言語的要素を排除しないが、それ以外のものとしてあると捉えることがさしあたり妥当な線ではないかと思う。たとえば、制度的な側面からみても、市場経済を統合する貨幣の象徴権力は、言語のような意味で特定の文化に拘束されていては成り立たない。なぜならば、市場は複数の共同体を、従って文化を媒介するからである。(いうまでもなく、このことは、市場経済に参加する諸個人がいずれかの文化に所属するということや、いずれかの文化が覇権を握る関係と矛盾しない)国際的には、貨幣は市場経済のこうした性質のなかで、国民経済に対してメタレベルでの象徴的な権力の位置をとるのだ。かってそれは、金本位制として、文字どおり複数の市場経済圏を金が媒介した。現在のように情報処理技術が高度化することによって、各国通貨の為替レートの組み合わせによる複雑な国際通貨の体制によってもそれが維持できるわけだが、これはテクニカルな機能によって支えられているだけではない。それは、形式的には貨幣はどのような意味を内包しようと、表象腿おいては量でしかないという側面と、それが各国間では競争と協調のプロセスとして象徴的な権力作用を展開するという側面の折り合いの中で、国際的には統合された資本主義の世界秩序としてたちあらわれるのである。各国の通貨は、それぞれのナショナリズムの象徴的な権力を行使する。「日本の国際収支が黒字である」という表現は、単なる国際的な市場経済の取引における貨幣の動きを量的に表示した客観的なデータではないということは誰でも知っている。それは、単なる経済的な指標ではなく、それは政治的文化的なメタファでもあり、したがって貨幣の象徴権力としての機能が作用しているのだ。しかし、こうした意味でのナショナリズムとしての通貨(貨幣)は、同時にインターナショナルなシステムに媒介され、つねにインターナショナルな覇権を競うことで、ナショナリズムを発揮できるという逆説を含んでいる。この意味で、インターナショナルな機能を持ち得ることが前提されているということなのだ。言語にはこうした構造を構築する能力はない。言語には、量化も価値増殖もありえないからだ。

●おわりに

この貨幣がもつ欲望の質を社会的な欲望として社会のモノの生産と流通の動力に媒介する組織が資本である。こうして、資本もまた「象徴権力」に接合する。こうして資本は、単なる価値増殖体である以上の意味を付与されるが、このことを可能にするのは、価値増殖を体現し同時に象徴的な権力の一翼をも担う貨幣なのである。このような資本は、日常生活の側から見上げた場合、市場経済という死神によって鞭打たれる青白い馬であるだけでなく、それは人生の一部となり、畏怖や軽蔑や羨望の対象となる。資本の機能は、商品や貨幣と違って組織体としての複雑な構造を持っている。資本が同時に近代の家父長制的な家族を生みだしたように、それはまたセクシユアリティや道徳の領域と無関係ではない。この価値増殖の組織体が繰り出す貨幣の機能は、ここで私が論じた貨幣のそれでは尽くすことのできないものを含んでいる。それらについては、別の機会に論ずることにしたい。

最後に、以上のような商品・貨幣の性質をふまえた場合、資本主義に対する批判的な実践とは何を意味するものとなるかについて、ほんの一言だけ触れておきたい。もし、資本主義への批判や階級闘争が、目に見える制度への批判や否定にとどまるとすれば、それはこうした象徴的なレベルでの権力を脅かすものにはなりえない。問題は、市場経済において交換が必然的に要求する欲望の生産をどのように扱うか、なのである。旧ソ連や社会主義圏のように、この欲望を国家的に統制して、交換における欲望を上から抑圧する方法は、逆にそれが失敗して市場の力に屈服させられたときに、歯止めのきかない欲望の奔流を生み出す。西側の資本主義が強固な国家組織を有しているのは、東側とは別の方法で巧妙にこの欲望をコントロールしなければならないからである。多分、市場経済それ自体を完全に廃棄して全く別の流通様式を構築することを考えない限り、この交換の欲望からは解放されない。しかし、それまで私たちは待つことはできないし、そうした状態が一夜にして実現できるわけではない。

少なくとも、私たちは、資本を市場の交換から切断し、同時に国家による欲望のコントロールからも自由になるという方法ならば既に手に入れている。さしあたりはこうした欲望のオートノミーが可能な空間を市場経済の中に埋め込むことと、情報の回路としてのパラマーヶットを資本とそれに従属する欲望の回路から切断して、オルタナティブな回路につなぎ直すということは実践的な課題の射程のなかにはいりうるだろう。六○年代の末に、シチュアシオニストが想像力の復権を主張し、七〇年代にオウトノミストが拒否の戦略を提起したのは、こうした大衆的な消費者でもある労働者や学生が、この記号化と欲望の買からみずから離脱するための解放のこころみだったのだのだということをもう一度思い起こすことが必要であり、サイバースペースが今現在、こうした意味での新たな階級闘争のアリーナになりつつあるということにはそれなりの根拠があるのである。

引用・参考文献

ソースタィン・ヴェプレン、『有閑階級の理論」、小原敬士訳、岩波文庫

小倉利丸、『アシッド・キャピタリズム』青弓社

同、「現代マネー論」、中村祥一編『現代的自己の社会学一所収、世界思想社

マルク・ギョーム、『資本の分身』、斉藤日出治訳、法政大学出版局

アダム・スミス、「国富論』、玉野井芳郎監訳、中央公論社

ギー・ドゥボール、『スペクタクルの社会』、木下誠訳、平凡社

ロラン・バルト、『モードの体系』、佐藤信夫訳、晶文社

ピェール・ブルデュー、『実践感覚』今村仁司他訳、I、Ⅱ、みすず書房

同、『構造と実践』 石崎晴己訳 新評論社

ジャン・ポードリヤール、『物の体系』、宇波彰訳、法政大学出版局

カール・ポランニー、『経済の文明史』、玉野井芳郎他訳、日本経済新聞社

カール・マルクス、『資本論』、マルクス・エンゲルス全集刊行会訳、大月書店版

ポール・リクール、「ことばと象徴」、『解釈の革新』所収、久米博他編訳、白水社

アンリ・ルフェープル、「日常生活批判序説」、田中仁彦訳、現代思潮社

V・A、『アンテルナシオナル・シチュァシオニスト・アンソロジーI、Ⅱ』木下誠監訳、インパクト出版会

出典:『現代思想』19959月号