Rio反オリンピック報告―オリンピックの開催都市に何が起きるか?

2016年12月21日(水)19時-

渋谷・隠田区民会館 集会室

東京都渋谷区神宮前6-31-5
※JR原宿 6分 東京メトロ千代田線明治神宮前駅 徒歩2分

8月5日、2016リオリンピックの開会式が華やかに開催されたと報道されました。しかし、現地リオでは、巨大なデモ・学校でのオキュパイ・地下鉄、空港の関税員たちや教員のストライキなどが起り、オリンピック反対とテメル副大統領退陣の声が響く中での開幕でした。

Planetary No Olympics、反五輪の会のいちむらみさこさんが、7月27日-8月10日までリオに滞在し、オリンピックがもたらす状況をリサーチし、オリンピックに対する抵抗アクション「Jogos da exculusao(排除のゲーム)」に参加しました。

これまでもオリンピック開催都市ではたくさんの反対運動があり、オリンピックについての問題意識は確実に広がっています。ハンブルグ、ボストンでは、住民投票で招致しないことを決め、ロシアでは新市長が辞退しています。

今年、リオオリンピック・パラリンピックは開催されましたが、リオの住人たちは黙っておらず開幕中も声を上げ、確実に押し返していました。

そのうねりを、わたしたちはどう引き継ぐか。

2017年1月22日(日)13時半から「2020オリンピック災害」おことわり連絡会による立ち上げ集会が開かれます。また同日正午から、多くの排除をもたらした新国立競技場建設予定地を回り、JSC(日本スポーツ振興センター)に抗議する反五輪の会によるデモが行われます。

それらに先駆けて、今回の報告会では、リオで何が起っていたのか、どのような抵抗があったのか、大手メディアでは報道されなかった写真や映像などを観ながら情報を共有し、次のわたしたち闘いに繋げていきたいと思います。

報告者:いちむらみさこ(Planetary No Olympics / 反五輪の会)

司会:首藤久美子(反五輪の会)

参加費:500円
主催:「オリンピック災害おことわり」準備会

もうこれ以上我慢ならない!──理性を越える情念の革命の復権?

ロルドンの新著の邦訳は『私たちの”感情”と”欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか』というものだが、「偽造」というよりもむしろ飼い馴らされた感情に耐え切れずに内破するマルチチュードの激情への熱い期待、とでもいった方がいいような内容であり、理性主義的な資本主義批判への徹底した疑義に貫かれた刺激的な本でもある。

ロルドンがとりわけ槍玉にあげるのが、合理的経済人を前提として組み立てられた支配的な経済学だが、それだけではなく、理性的な資本主義批判や善意にヒューマニズムに溢れる「一人でもできる社会を変えるための第一歩」的な身の回り革命ごっこ、あるいはヒッピー風ライフスタイルの革命への辛辣なダメ出しである。

「自由意志や自己決定といった主張を退けて──ことによって、自由主義思想の形而上学的土台を破壊する。他方、自由主義思想の反対者が自由主義に対して自由主義の(主観主義的)文法の枠内で異議を唱え続けているという実態をも自覚しなくてはならない。こうした反対者たちは、無意識のうちに自由主義の根本的前提を共有していて、それは予め敗北のリスクを犯していることを意味するのである」27(断らない限り、数字は邦訳書のページ)

つまり、「個人」という主体を疑いようのない自立した存在として前提する一切の立場に対して、彼は異議を唱える。多分左翼リバタリアンとか個人主義的なアナキストは大嫌いなんだろうと思う。(私はそれほど嫌いではない)だから集団性の復権が彼にとっては重要な課題であり、そう、あの60年代を彷彿とさせるような死語となったともいえる「情念の革命」といった言葉がとてもよく似合うのがこの本の魂の部分だろうと思う。私は、組織や集団性が苦手で、党派や政治集団に対してはシンパシーを感じたことは生れてこのかた一度もないが、しかし社会を転覆するという大事業が何らかの集団性をもった力を前提としなければならないことも十分理解するから、どのような集団性なら自分のような人見知りで人付き合いの苦手な人間でも解放の感情を喚起されうるのだろうかというのは、大きな課題でもある。本書でロルドンはこうした私の個人的な悩み事には一切答えてはくれていないが、しかし、別の意味で、集団性を支える情念とはどのようなことなのかを「理解」する上でかなり刺激的なきっかけは与えてくれたと思う。

ロルドンは、自由主義に反対していると称する者たちがよって立つ土台も、自由主義と共通する個人主義への確信にあるとして批判する。個人が自由主義によって自由になるのか、それとも抑圧されるのかの違いはあっても、主題は個人をめぐる幸福というフィクションの範囲を越えないから、社会を総体として転覆するといった野心を持つこともなく、従って権力の今ある構造にとっては手強い敵になることもない。ピケティのような新自由主義批判のスタンスは彼にとっては全く評価するに値しないものだということになる。(これに異論は全くない)

彼は、率直に、社会を変革するということは大事業であって、それなりの集団的な力の結集が不可欠であって、それなしには資本や国家の体制を覆すことはできないのだ、と主張するのだが、その場合、一方で、感情によって動く諸個人が存在し、他方に非人称的な社会構造が存在するということを強く念頭に置いて、この大事業の主体となる集団性を描こうとする。このことを本書の冒頭で次のように、スピノザを引きながら示唆している。

「スピノザ理論は、通常何よりも主体に固有のものと考えられている感情についての、ラディカルな反主観主義的理論なのである」「すなわち、感情と構造の二律背反を乗り越えるために、感情を保持しつつ主体を葬る(感情の作動する必然的な起点と見なされていた主体を厄介払いする)ということ」18

彼はスピノザの理論を「感情の構造主義」と呼び「感情によって動く個人と非人称的な社会構造」を相互に排他的なものではなく、この二つを一つのものとして把握する方法を、スピノザの、とりわけ『エチカ』の重要な概念のひとつであるコナトゥス(ラテン語で、企て、冒険、骨折り、努力、衝動などの意味をもつ)に求めた。感情は確かに個人の主観=主体に帰属するかのようにみなされるし、そのように実感されるが、こうした感情のよって立つ基盤を探ると、そこには個人の心的な作用には還元できない外部から個人にもたらされる作用があり、この「非人称的な社会構造」があってはじめて諸個人の感情が個々ばらばらな主観や実感ではなくて相互に共感したり共振して伝播するような広がりが持てる。この意味で、個人の感情は、個人の心理に還元することもできないし非人称的な社会構造(非人称の構造に感情があるわけではない)による一方的な規定性(通俗的な唯物論が論じるような、存在が意識を規定する、といった粗雑な規定)をも排して、感情と構造の両者の位相を異にするところに成り立つある種の弁証法をスピノザに託して現代社会に対する転覆的な理論のパラダイムとして提示しようとした。

社会構造は諸個人の総和ではない。だから、取り組むべき課題は、社会構造を破壊し新たな構造として創造するという事態を、諸個人の行為とどのように結びつけるか、にある。人々が行動しなければ何ひとつ社会を変える力は現実のものにはならない。しかし、それは個人の個別の営為ではなしえないことでもあると同時に、個人に体現されている行動を促す感情の高揚が、個人の主観を越えて集団的な感情と行動として共振しつつ社会的な力を体現することなしには何ごとも始まらない。こうした集合的な力は、どのようにして生じるのか。逆に、こうした転覆的な集団的な感情を抑制して、既存の権力再生産の限度内に感情という要素を収束させるコントロールのメカニズムはどのようにして発動するのか。本書の邦訳が”感情”と”欲望”の偽造と表現しているのは、この後者のような現にあるシステムを維持再生産することに加担する感情のありかたを指すものだといえる。

本書は、集団的な行動の重要性を指摘しつつも、かつての前衛党指導のもとでの大衆的な革命運動の称揚といった趣きと共通するところは全くない。なぜならば、党の理念を体現する「綱領」や「宣言」といったテクストが宿命的に負わされている思想や理論を彼は一切信用しないからだ。もっと言えば、そのような理論的な装いを凝らした文章で人々(マルチュードと表現される「大衆」)はみずからの感情を行動に跳躍させるようなことには至らないとの確信がある。体制を転覆させるに足る大衆的な力を支える感情、革命を指向しないではおかないような激情を喚起することは、いったいどのようにしたら可能なのか。彼の問題意識は、この一点をめぐって、人々を駆り立てずにはおかない感情の深部を探る冒険に赴く。だから、本書が具体的な事例として取り上げているのは、1960年代から70年代のフランスの労働者による工場占拠運動といったどちらかといえば、小規模だが既存の社会構造を別のそれに置き換える可能性を秘めた集合的な感情の具体的な運動としての表出に絞られており、国家権力を総体として転覆することが可能なような大規模な大衆運動ではない。ロルドンはスピノザからマルチチュードの概念を継承するが、同様にマルチチュードの概念を自身の理論に取り入れたアントニオ・ネグリとマイケル・ハートと比べると、ロルドンのマルチチュードには、新自由主義の時代のなかで社会変革の主体として登場してきたとネグリらが考える移民労働者や非物質労働者などはほとんど想定されていない。むしろ、ロルドンがイメージする労働者は、古典的な工場労働者であり、彼が例示するケースはことごとく1970年代までのもの、フォーディズムの危機の時代のものであって、新自由主義の時代にこうした労働者の集団的な社会転覆力が大きく削がれてしまったことへの危機感の方が大きいように見える。ロルドンの議論は一定の修正を加えれば移民たちの運動の評価にも用いることが可能な枠組だと思うが、彼がそうしなかった理由は何なのだろうか。本書を通じて私が感じた率直な疑問の一つはここにあった。(移民とマルチチュードの問題には本稿ではこれ以上言及しない)
(さらに…)

越境するアンダークラス──映画『バンコクナイツ』

空族の新作『バンコクナイツ』は、今年観た映画のなかで最も印象に残り、わたしがうかつにも忘れかけていた1970年代のタイの熱い民衆の闘争を思い起させてくれた。とはいえ、決して「政治的に正しい」行儀のいい映画ではない。そこが空族の最大の魅力だ。(以下、ネタばれは最低限に抑えたつもりだが、予断なしに映画を観たい方は読むのを控えてください)

バンコクの歓楽街タニヤ、60年代から70年代にかけてラオスへの米軍空爆でできた巨大なクレーター、1976年タイ軍事クーデタで追われた反政府運動の活動家たちが逃げ込んだ漆黒の森。今回の空族の作品は、バンコクからタイ東北部、そしてラオスへと連なる現に存在する不可視の動線を移動する。セックスとドラッグにしか関心をもたない日本人が、東南アジアで「ビジネスマン」と称する無自覚な植民地主義者として、タイのアングラ経済を支える。しかし、その更に舞台裏で、越境するアンダークラスの逆賊たちの群れが蠢くことを予感させる物語、それがこの映画のある種の示唆するところでもあるように思う。

空族の映画の主人公は、たいていアンダークラスの能天気なノンポリとして登場する。彼らは、いつのまにやらぱっくりと口を空けた闇の世界の深い亀裂の中に彷徨いこむことになる。それでもなお彼らはそれが何なのかを明瞭には把握できないまま狼狽いする。物語のなかでそれが一体何なのかすら理解できないまま理不尽な世界(それも一つではない)に迷いこむ能天気な日本人たち。それを見る私たち(ここでは日本人を意味する、とりわけこの映画では男の日本人を)は、しかし、映画の登場人物のように能天気ではいられない。映画は観客に、「これが何を意味するのか、あなたは分っていなければならないのではないか?」とさりげなく問うのだ。

バンコクの世界有数の歓楽街は、ベトナム戦争における兵力を支えるセックス・ロジスティクスの一環として成長してきた。軍事用語のロジスティクスは食糧、燃料、武器・弾薬の補給を意味するという説明しかされないが、兵士の休息と娯楽もまた重要なロジスティクスの一環をなしてきた。これが今では、新自由主義経済戦争の〈労働力〉(ビジネスマン)を支える物流ならぬサービスロジスティクスとして日本の多国籍企業を支える存在になった。タニヤのセックスワーカーたちは、資本主義的な一夫多妻制の典型的な構造のなかにある。このことを映画はかなり端的に描いていると思う。この映画に登場する女性たちのしたたかさは、伝統的に職人労働者がもっていたしたたかさに通じるものがある。あるいは戦前のプロレタリア作家、宮島資夫が描いた「坑夫」のような、ど外れな存在に重なるかもしれない。翻弄されるバカ丸出しのビジネスマンたちが金と権力を握る理不尽さとの孤立した闘いが、ここタニヤには恒常的に存在する。たぶん、「バンコクナイツ」というタイトルとフライヤーの雰囲気についつられて映画を見に来た、ビジネスマンたちは、アテが外れて不快な思いをして映画館を出るに違いない。いいことだ。

脚本を担当した相澤虎之助は、上映後のトークで、富田監督や自身の東南アジアでの経験から、日本の旅行者というとドラッグ、セックス、ガンシューティングが目的ではないかと必ずといっていいほど質問されることから、この三つがいかに東南アジアの経済に大きな影響をもっているかに気づかされ、これがこれまでの映画制作のモチーフになってきたと述べていた。そして『バビロン花物語』はタイ北部のケシ栽培、『ビロン2』はベトナム戦争を主題としたが、ようやくこの『バンコクナイツ』で最後に残されたモチーフ、セックスを主題にした映画を制作できたと述べた。

わたしはこれに加えて、二つの重要なモチーフがあると思う。ひつとは、越境するアンダークラス。『サウダーヂ』は日本を舞台に、日系ブラジル人やタイ人の移民労働者の物語であり、移動する者たちが常に物語の中心に据えられている。闘う労働者ではなく、いつのまにかシステムを破壊する力をそれとは知らず発揮してしまうアナーキーな存在へと変貌する姿が描かれる。もうひとつは、「地方」である。今回のバンコクナイツの先行上映も空族の拠点である甲府で開催された。『国道20号線』も地方を走る国道が舞台だ。地方のアンダークラスという視点は、決定的に東京のようなグローバル都市の非正規労働者と同じようには語れない固有性がある。これはグローバル都市にはない地方のアンダークラスが潜在的に持っている豊穣な可能性に繋っている。私はこの映画を甲府という場所で観ることができて本当によかったと思う。

『バンコクナイツ』もバンコクの歓楽街からタイ東北部へと引き寄せられる。実は、タニヤで働く女性たちもまた、タイ東北部やラオス出身者であったり、あるいはタイ、ラオスから中国に拡がる地域に住むモン族の出身だったりする。こうなると「ゾミア」の世界になる。

最後に、ひとつやっかいな問題について書いておきたい。空族がセックスの問題を最後まで取り組まないできた理由のひとつは、これまでの映画もそうだが、主人公が男であるということとの関わりのなかで、セックスワーカーの世界を描くということの困難があったのではないかと思う。男の監督や脚本家が女を描くことができるのか?は、常に問われてきた問題でもある。このことは、映画を男の私が観るのと、女性が観るのとでは同じ感想にはならないかもしれない、ということでもある。ラオスのクレーターに集合するアジアの若者たち、ある種の梁山泊を想起させるファンタジーのようでもあるが、そこにはタニヤの女たちはいない。漆黒の森にもいない。この欠落がたぶんこの物語を次に引き継ぐ上での大きな鍵になるように思う。タニヤがゾミアに変貌する潜在的な可能性がすでに女たちが担っているのだから。

他方で、主人公が男であるという場合に、女は脇役なのだろうか?主体は他者なしには主体にはなりえないが、主体=主人公という位置を確たるものにするには、他者を他者のままに、主体の周辺に配置する以外にない。この映画では、女たちは、ことあるごとに、主人公の主体を揺さ振りつづける。すれ違うコミュニケーションがそれを象徴しているようにも思う。どこかでこの主客の転倒がありうるのでなければ、物語は、既定の路線を逸脱できない。どのような脱線と転倒が起きるか。そのための伏線はこの作品でほぼ出揃ったように思う。

(2016年11月13日、甲府桜座にて)