今ここに生きるカフカ──『カフカと情報化社会』(粉川哲夫著)

著者の粉川は、最新メディアについての批評と実践活動の方が有名になった感があるが、彼の批評家としての活動の初期の時代からカフカというモチーフは一貫して彼の思考の通奏底音をなしてきた。本書は、著者がカフカを読んできた三十年の足跡をまるごと一本にまとめたものである。とはいえ、本書は、その道一筋の専門的な研究者にありがちな「研究論文の集大成」といった趣きを初めから拒否する方法をとっており、著者がカフカについて書いてきた文章はすべてある種の「資料集」的な扱いをされてポイントを落として二段組で組まれ、第三部「カフカ・クロニクル」として収められている。そして本書の表題ともなっている第一部「カフカと情報社会」と第二部「カフカ・ディアローグ」はともに話し言葉——第一部はモノローグ——を活字にしたものである。この構成は、話し言葉に優先権を与える方法であるように見える。それは、カフカが作品を書く上で非常に大きな影響を受けたイーディシュ演劇と関係があるかも知れない。第二部に収められているエヴリン.T・ベックヘのインタヴューのなかで、カフカがいかにイーディッシュ演劇に多大な関心を抱き、また、そこから多くの影響を受けてきたかが語られているし、また、粉川のモノローグになる第一部のモチーフの一つも、ベックが著した『カフカとイーディッシュ』(一九七一年)に触発される部分が大きいのであるが、もし、カフカの作品がそうした演劇性をそなえたものであるとするならば、カフカを語ることは、書き言葉による以上に話し言葉による方がより適したものであると言えるのである。しかも、粉川はカフカの作品を単なる今世紀初頭の過去の大作家として解釈する位置からは全く遠い位置におり、今ここに生きる作品として、カフカを読むということに徹底しているというところから見た場合、現在に生きる粉川の身体から直接発せられた言葉を媒介としてカフカが語られるということは、一度文字として対象化されて表現される書き言葉によるものとでは決定的に「今、ここ」に関わる関わり方が異なるのである。

粉川は、従来のカフカについての解釈を、それがユダヤ・ヘブライの説教との関わりでとらえる宗教的解釈であれ、カミュのような哲学的な解釈であれ、あるいは精神分析的な解釈や、官僚制批判などの社会的・文化的批判であれ、それらは「カフカの可能性の一部を展開したにすぎません」として退ける。粉川は、『城』の主人公を測量技師とみなしてきた通説には何の根拠もない、など随所に刺激的な解釈を与えている。そしてまた通説とは別の読み方のヒントをカフカ自身が自分の書いた短編『掟の門』を『審判』のなかで登場人物に解釈させている件りのなかから引き出してくる。この『掟の門』というのは、一人の男が門に入れてくれと頼むが、門番は頼みを受け入れず結局何年も門の前で待ちながら死んでしまうのだが、死ぬ直前にこの男は、他に誰もこの門を通してくれと頼みに来るものがいないのを不思議に思って問いただすと、門番は、これはお前だけのための門なのだと答えるのである。『審判』のなかでもエピソードとしてこの話が神父によって主人公Kに語られるが、Kは、門番が男をだましたのだと「解釈」したのに対して神父は、「ある事柄の正しい把握とその同じ事柄の誤った理解は、相互に完全に排斥しあうものではない」と語る。粉川はこの部分を引いて、「これはまさにカフカ解釈の歴史を予見した言葉です」と述べ『審判』を読むということは、情報操作に耐える訓練、情報化社会でしたたかに生きるためのトレーニングをすることになるとでもいうようなところがあります。そしてこれは、カフカの作品すべてにあてはまるでしょう」と指摘している。カフカの記述は、はぐらかしやズラしが多く、理屈の通らないことがあたかも論理的であるかのようにして通用していくことが当たり前のこととして描かれている。これは、私達が官僚の組織と接したときに日常的に感じ取ることのできる事態に非常に近いともいえるし、メディアの報道が事実でないというわけではないが、かといって事実だというのも納得がいかない、というような場合とか、警察や検察のとる調書が本人の供述に基づいているとされながらも、微妙に本人の供述とは異なる論述に改変されており、しかも何処がどのようにおかしいのか、間違っているのかが具体的に指摘できないように巧妙にニュアンスが転換される場合などのように、私達をとりまくミクロな権力の言説の特徴をなすものだが、カフカの作品には、このようなミクロな権力の言説の様式が非常に巧みに作品に取り入れられている。この意味で、粉川の言うようにカフカを情報操作のトレーニングのテクストとして読むことは可能であろう。また、そうした意味でいうと、カフカの作品のなかで「眠り」がもつ重要性に粉川が注目しているのは興味深いことだ。というのは、情報化社会が、まさに情報操作を開始するのは眠りから覚めた時点だからである。言い換えれば、高度に情報管理された社会の中で、眠りは唯一の管理を免れた時間であった、ということである。だから、この睡眠と覚醒の狭間の時間にミクロな権力は最初の介入を行うのだ、ということができそうだ。このことは、逆に睡眠に秘められた操作困難な状態こそが情報化社会にとってのひとつの脅威であるということでもあり、事実二十世紀の科学は、ちょうどカフカが作品を書き始めた頃以降、フロイトの夢判断にはじまり、現代のマインドコントロールのテクノロジーにいたるまで、この睡眠へのミクロナポリティクスが進行し始めたといえる。この意味でも、カフカの作品は興味が尽きない。

もちろん、本書は粉川がこの間繰り返し言及してきた電子情報やそれによって変容させられてきた身体の在り様、あるいは『未来世紀ブラジル』や『チャンス』といった情報操作社会を描いた映画のモチーフとカフカとの関わりをまさに現在のコンテクストにおいて論じているということに最も大きなカフカ論としての特徴があるということは改めて指摘するまでもないことである。
 最後に、本書の中でこうした粉川のいままでのメディア批評などの仕事との関わりとはやや異なることで私の関心を引いたのが、ベックとの対話である。とりわけベックが強調しているカフカとフェミニズム問題、あるいはカフカとセクシユアリティの問題である。ベックが強調しているイーディッシュ演劇との関わりについては第一部のなかでかなり詳しい紹介があるが、フェミニズムやセクシユアリティについてはこの対話でしか触れられておらず、おおよそのところはこの対話だけでも理解できるが、カフカの作品に固有な人間関係の謎を解く鍵のようとも思われ、本格的な紹介が待たれるところである。〔未来社刊、二五○○円十税七五円〕

出典:『インパクション』66号、1992年