原爆と原発:被ばくの歴史として

原爆と原発:被ばくの歴史として

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1. G7では語られない被曝・汚染の問題

原爆と原発は、その技術的な仕組みから、共通した性質をもっている。とくに、放射線被ばくは、核兵器の廃絶と原発の廃棄の主張にとっての中心的な問題だ。

放射線による被曝がもたらす被害が問題視されるのは、それが人体に対して深刻な健康上の影響を与えるからだ。この意味で放射線の被害は純粋に医学的な問題であるようにみなされがちだが、放射線防護の規制は必ずしも医学的な見地から規制のルールが定められてきたわけではなかった。今回はこの放射線防護をめぐる国際的な動向の歴史をふりかえることによって、放射線がもたらす影響評価が、医学的な判断のみならず、それ以上に「経済の論理」によって大きく左右されてきたことを論じる。

経済の論理とは、リスクを最小化する努力よりもコストや収益を考慮して一定のレベルでリスクへの配慮を断念することを正当化しようとする考え方である。原発の危険性を指摘してきた自然科学者たちは、原発の構造上の危険性や放射性物質による被曝の危険性を指摘してきたが、その指摘は単に原子炉の構造上の問題だけでなく、放射線防護に必要な十分な措置をとることを妨げる「コスト」や収益を優先させることを正当化する経済の論理への厳しい批判をこれまでも繰り返し提起してきた。

2. 被曝の政治学ー被曝規制の歴史

20世紀の原子力政策や原子力防護の国際的な動向は、米国の動向に大きく左右されてきた。その理由はいくつかあり、また、原発政策は、軍事・安全保障や経済といった「国策」だけでなく、脱・反原発の社会運動によって大きく影響され、推進と撤退が繰り返されてきた。つまり、

  • いち早く原爆を実用化し軍事目的の核開発をリードしたこと
  • 戦後の冷戦体制のなかで、グローバルな軍事基地とNATOなどの軍事同盟とともに核軍拡競争を主導したこと
  • こうした軍事的な核開発の副産物として、「核の平和利用」1としての原発開発が進められたが、その技術と商用化の中核企業として米国企業の存在があること
  • 繰り返される原発事故と放射線障害や汚染被害に関する専門家内部の見解の対立が続いていること
  • 大事故によって繰り返し原発への社会的批判が高まり、原発の是非が争点となって、政策の変更や政権の交代がもたらされてきたこと

これらの要因は、国際的な政治・経済関係の変化のなかで変容する。核兵器を米国が独占していた第二次世界大戦終結直後から核兵器保有国は増え続けてきた。戦後から1980年代まで続いた冷戦体制における核軍拡の時代は、米ソがお互いに相手を仮想敵とみなす時代だった。核兵器はこうした明確な「敵」に向けられた力の誇示(核抑止力)と位置付けられてその保有が正当化される一方で、核保有国の拡大を抑制する大国の利害が働いた。

1990年代以降、ポスト冷戦=「テロとの戦争」の時代となった21世紀では、力の均衡した仮想敵国相互の力関係に規定された国際関係が消滅し、同時に先進諸国が脅威とみなす多様な「敵」(国際組織犯罪、テロリズム、民族や宗教をめぐる紛争など)の時代となり、核は抑止力としてだけではなく戦術核あるいはすでに実戦で用いられて深刻な被曝被害をもたらすような劣化ウラン弾のような核の通常兵器化が進展した。

被曝の問題を論じる上でこうした核兵器の問題が重要なのは、被曝防護の政策の背景には、核開発を妨げない範囲で放射線被爆を容認する考え方に基づく放射線防護の傾向が一貫して見い出せるからである。そして、このような傾向に加えて、原子力の平和利用=商用利用(原発)が市場経済の観点からみて採算がとれる範囲で被曝防護の基準を設定しようとする力学が働いてきた。

つまり、原子力の人体や環境への影響の問題への政府や産業界の対応は、被曝や汚染がもたらす被害を最優先の問題と位置付けたものにはなってこなかったのである。核開発という国策を前提とするばあい、被曝の問題は、過小評価されるか隠蔽される可能性が大きい政治的な問題となってきたのである。

被曝という問題は、「誰が被曝するのか」という観点でみたときには、三つの領域に分けて考えることができる。

  • 広島・長崎、ミクロネシアの核実験など、核爆弾による被曝(被爆)
  • 核関連施設での労働被曝
  • 不特定多数の住民や環境への被曝・汚染

被曝を原発の核燃料の生産から使用済み核燃料の処理に至る生産過程に即してみると次のようになる。

  • ウラン採掘現場での被曝
  • 原発の稼動と点検などでの被曝
  • 廃棄物処理に伴なる被曝

本稿ではこれら被曝の全体をカバーしているわけではない。原発の事故をふまえて、被曝をめぐる防護基準が純粋に医学や科学の観点で定められてはきていないこと、むしろ人体に影響があるにもかかわらず、一定の被曝を容認する政策がとられてきたことを述べ、必要な限りでその他の論点にも言及する。2

2.1. 前史

放射線の歴史は、19世紀末に始まる。ウィルヘルム・レントゲンによるX線の発見、キュリー夫妻によるラジウムなどの発見、アーネスト・ラザフォードによるアルファー線、ベータ線の発見などである。

1927年 米国、放射線医師などを職業病から守ることを任務にX線およびラジウム防護諮問委員会が設置される。放射線防護は「耐容線量」と呼ばれる考え方に基いていた。これは「ある線量値以下であれば放射線はなんらの生物・医学的悪影響をおよぼさない、と考えられた被曝の防護基準」3によって規制するというものである。当時の耐容線量の考え方は、医学的に悪影響のない線量が存在することを前提とするが、こうした考え方は現在では採用されていない。

1931年、米国のX線およびラジウム防護諮問委員会が最初に耐容線量を設定した。1934年、これを基にICRPの前身である「国際X線およびラジウム防護委員会」が、週5日労働の「正常な健康状態にある人が耐えうるX線被曝線量として一日あたり0.2レントゲン」とし、これを「耐容線量」として勧告した。41935年に米国のX線およびラジウム防護諮問委員会は耐容線量を一日0.1レントゲン(年で25レントゲン)に引下げた。これが、第二次世界大戦の米国による原爆開発計画であるマンハッタン計画における原爆製造過程での被曝規制の基準として用いられた。一日の被曝基準を1ミリシーベルトとする当時の基準は、現在の基準(公衆で年間1ミリシーベルト)と比較して極めて高く、甘いものだった。この基準の甘さは当時から指摘されていた。1927年にマラーがショウジョウバエの実験で放射線突然変異を発見する。この発見をきっかけに、30年代に遺伝学者から「耐容線量」に対する批判がひろまる。

他方で30年代には、X線の医療への応用が拡がりをみせ、更に、1938年にウランの核分裂が発見されたことをきっかけとして、本格的な原子力開発が開始される。原子力開発にカーネギー・メロンやモルガンなどの大財閥や、その後の原発メーカーとして成長してゆくGEやウェスチングハウスなどが参入しはじめる。同時に、放射線障害が放射線従事者などにあらわれはじめるが、原爆開発の必要から線量引き下げの議論が実際の基準の引下げに生かされることはなかった。

重要なことは、放射線の発見からその社会的応用(医療から兵器まで)が拡がるなかで、放射線のリスクの基準は、単純に医学上の健康への被害だけで判断されなくなったということである。遺伝的障害など医学上問題が指摘されていたとしても、社会の必要とのかねあいのなかで、リスクを容認する方向で評価された。医学上の問題は、軽視されるか隠されてしまい、多くの人びとは、医学上の危険性についての議論を理解することなく、安全であるから許容されていると誤って理解する認識の枠組が出来上がってしまった。

2.2. 第二次大戦後、ICRP設立の時期

戦後の被曝問題は、二つの流れのなかで大きな論点となった。一つは広島・長崎の原爆による被曝による障害から戦後の核保有国による大気中核実験による世界規模での被曝の問題である。もうひとつは、原子炉の運転など商用利用に伴なう被曝の問題である。

2.2.1. 広島・長崎の被曝

1948年、米国は広島、長崎の原爆による被曝の被害調査を実施する。これは、軍と原爆開発に携わってきた学術研究者などからなる原爆傷害調査委員会(ABCC)の調査である。この調査は、治療目的ではなく新たな核戦争に利用するためのデータを収集するためのものだった。

ABCCの調査については、放射線による遺伝的障害の発生について明確な証拠がないとするなど放射線の被害を過小評価するものであったために、そのデータの有効性に疑問がもたれてきた。5

ABCC調査は、原爆を投下した米国が原爆の開発に携わってきた研究者を動員しつつ占領中の日本の研究者に協力させて実施した調査であり、中立性と客観性について疑問がもたれてもきた。しかし、このABCCの調査はその規模においても大規模であったこともあり、現在に至るまで、放射線の人体への影響についての「定説」として繰りかえし言及され、低線量被曝の影響を過小評価する一因をなしてきた。一般に、事故などの調査は、その当時者とは別に第三者による客観的な評価によってその原因や影響を判断すべきであるが、核関連の事故では当時者の調査を優先させることがしばしば起きてきた。チェルノブイリ原発事故でも福島原発事故でも当時者(国や電力会社)による事故評価が優先され、第三者評価は容易には実施されないばかりか、政府や業界から独立した批判的な調査は、政治的にも学問的にも無視される傾向があった。

50年前後は戦後核体制の一つの分水嶺の時期である。この時期は、ソ連が核実験に成功し米国の核独占が崩壊し、核兵器がさらにイギリスやフランスなど大国の間に拡がりをみせ始めた時期である。朝鮮戦争の勃発による冷戦6の深刻化などを背景として、欧州諸国を中心に反核運動が大きく高揚した時期である。

1949年 ソ連が原爆実験に成功し、米国はさらなる核軍拡に向い、1951年 ネバダでの核実験など国内核実験で自国民の被曝が避けられなくなる。「アメリカは、核戦争政策を国民に認めさせるために、核戦争になっても微量な放射線被曝であればなんらの被害もなく、核戦争に勝利することができると宣伝しはじめた。」7 ところが他諸国は、広島、長崎の被害をむしろ意識して核戦争の脅威を自覚し、ヨーロッパでは原爆反対運動も盛り上る。たとえば、1947年に、イギリスでは、科学労働者連盟が原爆即時廃棄要求し、フランスでも「科学者連盟」が原爆を最初に使用しないよう求める運動を開始する。1950年に米トルーマン大統領による朝鮮戦争での原爆使用示唆に対して、核兵器の禁止を求めるストックホルム=アピール署名運動が世界規模で拡大した。このアピールは、世界中で5億人が署名する史上空前の大きな反核運動となった。

1954年3月、米国が太平洋のビキニ環礁で実施した水爆実験で、日本のマグロ漁船、第五福竜丸が被災し死者を含む深刻は被曝を被った。この事件をきっかけに日本の戦後の反核運動が始まる。同時に、この時期に繰り返された大気中核実験によって世界規模で大気中の放射能汚染が拡がり、低線量被曝の問題に注目が集りはじめる。

2.2.2. ICRPと被曝線量評価の問題

戦後の放射線管理の体制は、米国においていちはやく制度化されるが、米国の体制は戦時中の核開発の体制をベースに置いた軍産学官の共同管理体制といえた。1945年に第二次世界大戦が終結した直後の1946年に米国原子力委員会が設置され、この原子力委員会の影響下に全米放射線防護委員会(NCRP)が設置される。NCRPは、アメリカ医学会、北アメリカ放射線協会、アメリカラジウム協会、全米規格標準局、全米電機製造者協会、アメリカ原子力委員会、陸軍、海軍、空軍、公衆衛生局、国際放射線防護委員会のメンバーからなり、後に成立する国際放射線防護委員会に大きな影響力を持つことになる。

NCRPを中心に英国とカナダなどとも非公式協議を繰り返しながら1950年に国際放射線防護委員会(ICRP)が誕生する。ICRPは「これ以下なら放射線障害はない」という「閾(しきい)値」は存在しないということを前提として、リスクはあるとしても「リスクを受忍すべき」というリスク受忍論を前提として「許容線量」という考え方が登場する。戦後の放射線防護をめぐる議論はこの「許容線量」のレベルをどの程度にすべきかをめぐって議論が繰り返されてきた。

中川保雄は「許容線量」の考え方を次のように説明している。8

許容線量とは、要はつぎのように言える。核兵器工場などの原子力・放射線 施設の存在と運転の必要性を軍事的・政治的および経済的理由から認めたうえ で、放射線をあびて働く原子力労働者をはじめとする放射線作業従事者、ある いは一般公衆に対して、それらの被曝を受忍させるために、政府などが法令の 規則で定めた放射線被曝の基準であり、狭くはそれらの線量限度を意味する。 放射線障害とのかかわりで言えば、有害な影響が放射線に敏感な人は避けられ ないが、平均的は人間に目立って現れるのでなければ、その被害は社会的に容 認されねばならない、ということを根拠にして国民にあびせられる放射線量で ある。(中略)

原子力開発の推進のためには少々の犠牲もやむをえない、とする思想から生 み出されたものである。「平均的人間」を基準に据えると称して、放射線に最 も弱く、したがって防護においては最も重視しなければならない胎児や赤ん坊 をはじめとする弱者を切り捨てる思想から誕生した。被害が生じることがわかっ ていても、その被害者を\”平均以下\”の人間として切り捨て、社会の発展のため にはその蛮行も許容されるべきであると、多数の「平均的人間」に思い込ませ る。」9

この許容線量の考え方では、放射線防護費用を原子力委員会は、運転費用の3ー4パーセントと見込んだ。この防護費用は、放射線障害をできる限り低くするために必要なコストとして算出されたものではなく、採算を考慮した数値である。いわゆるリスク受忍論に基づくものである。

ICRPは、1950年に最初の被曝線量について、「放射線被曝によってリスクすなわち障害が発生することを認め「被曝を可能な最低レベルまで引き下げるあらゆ る努力を払うべきである」という勧告を出す。\footnote{中川、前掲書、p.44}しかし、この「可能な最低レベル」という考え方は,58年の「勧告」では放棄され、「実行可能な限り低く」という文言に変更される。ここでいう「実行可能な」の意味は、商用原子炉が採算や収益をあげられるレベルを限界として定めることを認めたものであって、医学上の観点を踏まえた「最低レベル」を意味しているわけではない。

2.3. アイゼンハワーの「平和利用」宣言と核実験の「死の灰」問題

2.3.1. アイゼンハワーの国連演説

1953年12月 アイゼンハワー大統領は原子力平和利用を国連で打ち出す。すなち、

  • 商業利用のための国内体制整備。原子力委員会による原子力の独占的管理から原子力の私的所有を認める方向へと方針転換(原子炉の民間利用へ)
  • 原子力潜水艦ノーチラス(1954年進水)の推進用動力炉を商業発電に転用。1957年にシッピングボート原発運転開始。電気出力6万キロワット。
  • 原発技術の輸出開始。各国と「原子力協定」締結。

商業原子炉は、火力、水力とのコスト競争にさらされることになった。こうして、市場の競争原理、コスト原理が安全性を削ぐように作用することになる。。

2.3.2. 日本への導入と第五福竜丸の被曝

1954年 改進党の中曽根康弘代議士らが米国の原発を視察し、帰国後、国会に原発建設予算2億3500万円の原発建造予算、1500万円のウラン探鉱費を1954年度予算修正案として保守三党の共同提案し、国会を通過する。これが日本の原子力開発のはじまりである。

この時期には、米国の太平洋、ビキニ環礁での水爆実験が繰り返され、空気中に放出される放射能による被曝の拡大が世界規模で進んでいた。54年3月1日 広島原爆の1000倍の威力をもつ水爆の実験が実施され、マーシャル諸島住民が243人が被曝し、深刻な被曝被害(流産、死産、こどもの甲状腺異常、癌、障害児出産など)が発生した。マーシャル諸島の被曝と放射能汚染は長期にわたって継続した。この水爆実験では、日本のマグロ漁船、第五福竜丸なども被曝。福竜丸23人が被曝し1名が死亡する。マグロも汚染され大量廃棄され、日本にも汚染された放射能の雨が降る。

1954年8月の原水爆禁止署名運動では2000万人の署名があつまるなど、被曝の被害から世界に拡がる反核運動。米国内でも核実験の被曝被害が出ていた。53年から核実験場ネバダ周辺で被曝が深刻化しはじめた。こうして核実験とその被曝被害の拡大によって、低線量被曝(急性障害での被害ではなく長期にわたって徐々に障害が発生する被害)に注目が集りはじめる。中川保雄は次のように指摘する。

全世界が核戦争で一瞬のうちに死滅するということにならない場合でも、放射能の長期的影響で人類はじわじわと死に追いやられる。この人類の緩慢な死滅に対する恐怖と不安の世界的広がりが、ビキニ後の世界の人びとの放射能問題への対応の出発点となった。広島・長崎後との一番の違いは、微量な放射線被曝にも大きな危険性が潜んでいる、と人びとが広がったことにある。10

核実験による被害が避けられない事態が現実化するなかで、それでもなお核開発が必要であるということを主張するためには、被曝のリスクを受け入れさせるような理屈が必要となった。こうして、原発であれ原爆であれ、その被曝のリスクがあるとしてもそれを上回る社会的、経済的な利益が得られるのだ、という「リスクーベネフィット」論が主張されるようになる。こうして人びとの健康や安全よりも社会や経済の利益を優先させる考え方が以後定着することになる。

3. (まとめ)政治、経済、科学の相互関係–科学の客観性、学問性という「神話」

この第二次世界大戦直後の10年ほどの時期における被曝問題についての国際的な論争から私たちは幾つかの重要な教訓を得なければならない。特に、低線量被曝の人体への影響が専門家から指摘されるようになってから、「ある線量以下であれば人体への影響はない」という考え方に疑問が持たれ、被曝線量は低いほどよいという主張が有力となるにつれて、放射線防護のコストは上昇し、人びとを被曝させながら安心させるための科学的根拠が希薄になる。

半世紀の放射線被曝の基準値の歴史をみれば明らかなように、被曝の上限は一貫して下げられてきた。(表1参照)この基準値の引き下げは、原子力産業や核兵器開発を推進しようとしてきた政府や業界からの利害、核実験による被曝の被害の実態、反核運動など核開発への異議申し立て運動、医学など学問上の研究成果(この研究もまた中立的なものとは言い難いのだが)など、様々な社会的要因のなかで、様々な利害関係者の力関係のなかで決定されてきた。こうした放射線被曝の議論がどのような社会的要因によって影響されてきたのかを整理すると次のような諸要因の複雑な絡みあいがあることがわかる。

  • 放射線による人体への影響は医学上の問題であるが、健康や生命へのリスクについての判断には、政治や経済の観点によって被曝への影響を判断が大きく作用する。とりわけ「核」を文明の進歩の成果、あるいは国家の「力」の象徴とみなすことが社会的なコンセンサスとなっている場合、「核」のもたらす被害を過小評価し、その政治的経済的メリットが過大に宣伝される。
  • 政治的判断では、核兵器開発や原発の開発が不可避的にもたらす被曝を国益の観点から許容するか、低線量被曝の人体への影響を「ない」ものとみなして、安全を宣伝する政治的な世論操作が行なわれることになる。その結果被害は「受忍」すべきものとみなされ被害者の救済が不十分になりがちである。
  • 経済的判断では、核兵器や原発の開発が、資本の採算に見合うことを優先させるために、被曝に対する防護を技術的医学的に最大限の努力によって低減させる努力がおろそかにされるか無視され、なおかつ、こうした軽視や無視が正当化されてしまう。
  • 他方で、放射能による被曝を危惧する社会運動(反核運動)11が政治的経済的な「核」への依存に対する社会的な規制力となる。

当時から現在に至るまで、被曝をめぐる最も大きな争点は、急性的な被曝の症状が生じない低線量被曝による晩発性のがんや遺伝的影響である。また、一般に原子力関連施設などで働く労働者の被曝限度は一般の人びと(公衆)よりも高い線量であってもよいとみなされている(現在もそうである)が、これは労働者の立場からすれば、受け入れ難い考え方である。一般人であれ原子力施設の労働者であれ、同じ人間であって、放射能に対する医学的な影響に差があるわけではないからである。このような差異を説明できる唯一の根拠は、核施設の運用という社会的経済的軍事的な目的を遂行するためには、一部の人びとがリスクに晒されてるのもいたしかたない、という考え方である。この考え方は個人としての人間の平等な権利を前提とすれば成り立たせてよい考え方とはいえない。個人を犠牲にして社会が繁栄を享受するということを許容するような社会は、いかにその社会が「繁栄」を謳歌するとしても、それが公正で好ましい社会とはいえまい。なぜなら、誰であれ「自分ががんになっても社会が繁栄するならそのために犠牲になる」ということを自発的かつ積極的に選択するような個人を一般的に想定することは困難だからだ。

戦後日本の核開発はもっぱら原発の開発と普及という「核の平和利用」として進められてきたが、世界的にみれば、核開発の主軸は核兵器開発であり、原子炉は核兵器に必要なプルトニウムなど核爆弾の原料を生産する施設であって発電は副次的だった。原子炉が原子力発電のエネルギー生成装置として主として用いられるようになるのは、1960年代以降のことだが、そのばあいであっても、核の平和利用は核の軍事利用と表裏一体の構造を持ち続けてきた。この意味で、日本の戦後の核開発は特異な性質をもつ。これは、憲法9条の戦争放棄条項による制約であるが、他方で、日本が核開発に積極的でありつづけてきたことについて、「核兵器開発」を潜在的にもっているとみなされる原因にもなっている。

Footnotes:

1

「核の平和利用」は、1953年、当時の米大統領、アイゼンハワーが国連本部で行った演説「平和のための原子力」をきっかけとして戦後の米国の核政策の柱となった。核軍拡が先進国で拡がるなかで、米国は軍事的な核の主導権だけでなく、市場経済を通じた核の商用利用における主導権を握ることを目指した。戦後の冷戦体制において市場経済もまた重要な冷戦の戦場だったのである。日本における「原子力の平和利用」はこのアイゼンハワー演説の翌年、原子力予算が国会を通過して開始されるから、日本の戦後核開発は、米国の「平和利用」戦略と時期的にぴったり一致する。吉岡斉『原子力の社会史』、新版、朝日新聞社、2011年、田中利幸、ピーター・カズニック『原発とヒロシマ、「原子力の平和利用」の真相』、岩波ブックレット、2011年、参照

2

本稿の記述は、主として中川保雄『放射線被曝の歴史』、増補版、明石書店、2011、による。

3

中川保雄.前掲書、p.26

4

1レントゲン=1ラド、ガンマ線で10ミリシーベルト

5

肥田舜太郎、鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』、ちくま新書、2011年、笹本征男『米軍占領下の原爆調査』、新幹社、1995、など参照

6

米国を中心とする資本主義ブロックとソ連を中心とする社会主義ブロックの間の対立

7

中川保雄、前掲書、p.46

8

中川によれば、この時期の米国は、遺伝的リスクを「受忍」すべきという前提で次のように考えていた。

(1)被曝は少ないほど望ましいが「重要な業務を甚だしく妨げるほど限度を低くすることはできない」 いかなる活動も完全な安全はありえない。 (2)実用的被曝線量は何からのリスクをもたらす。「問題は、そのリスクを、平均的な普通の個人に容易に受け入れられる程度に小くすることである。」リスクを放射線被曝をともなわない職業程度にまで小くすること。「リスクがどの程度受け入れられるか、それは、主として障害を免れる可能性に依存している。 (3)放射線への感受性には個体差があるが、「平均的な人間をもって考える」 (4)許容線量は、有害とわかっている高線量から自然放射線の間のどこかにある。「今日までの経験で安全であることが示されている一日あたり0.1レントゲンの近傍であろうが、この線量での被曝の影響を多数の人びとについて観察した年数があまりにも短かすぎるので、そうとは断定できない。現在のとこ、人の生涯線量について厳密に言いうるのは、自然放射線よりもかなり高いレベルで人の生涯中に眼に見える障害が現れることは全くありそうにないということである。」 (5)突然変異の発生率は線量に比例するが、「遺伝異常の自然発生率よりも大きすぎないように被曝量制御することが主要なことである。全人口のきわめて小さい部分が被曝する限り、現在も将来も、将来の世代に発現する遺伝的障害が許容線量のレベルを設定するうえでの制限要因となることはない。しかし被曝人口の割合が増える場合は、この要因がいっそう重要になることを心にとどめる必要がある。」 (6)動物実験では、高線量では寿命の短縮が起きることが確認されているが、低線量では「不確かで定量的な結果は得られない」 全身被曝で損傷を受けやすいのは造血組織である。 (7)耐容線量ではしきい値を前提とするが、「放射線による突然変異にはそのような、しきいとなる線量はないので、厳密な意味では耐容線量は存在しない。」 (8)許容線量 「被曝した本人とそれに続く世代の生涯に放射線障害が発現する可能性を含意するものではあるが、そのような障害が発生する可能性はきわめて小さいので、そのリスクは平均的な人間には容易に受け入れられるであろう。したがって、許容線量とは、その生涯のいかなる時点においても平均的人間に眼に見える身体的障害を生じない電離放射線の線量と定義できる」中川、前掲書、p.39

9

中川、前掲書、p.39-40

10

中川保雄、前掲書、p.74

11

反原発運動は60年代終りころから登場する

Date: 2023年3月25日

Author: 小倉利丸 toshi@jca.apc.org

Created: 2023-03-21 火 17:40

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