不安を増幅する監視カメラ

ロンドンの地下鉄爆破テロ事件をきっかけに、ふたたび監視カメラに注目が集まっている。監視カメラは犯罪やテロの予防になるとして増加の一途をたどっているが、人々の安心感に好転する兆しは見えない。むしろ監視カメラの「流行」がテロや犯罪への不安をかき立て、不安からの出口をますます見えなくさせているのではないか。

最近の監視カメラは、記録された映像から人物を特定し、個人情報のデータベース化ができるなど高度な機能を備えている。こうした監視カメラは既に空港の出入国管理などに利用され始め、今後急速に普及するだろうといわれている。名前を名乗ることで自分が何者なのかを知らせてきた人類の歴史は終わり、顔をカメラにさらすことで何者であるのかが自動的に判別される時代に入ってしまった。

私は、監視カメラの蔓延は深刻な副作用をもたらすと考えている。第一の理由は、監視は合法的に生活している市民に向けられ始めたということである。9・11同時多発テロの首謀者たちは、合法的に米国に居住し、航空券を購入し、国内線に搭乗した。この事件以後、各国の監視政策は、合法的に生活する市民の行動と思想信条への監視を強化する方向に進んできた。警察などの監視カメラは、将来違法な行為を行うかもしれないという前提にたって、人々の行動を記録して残す監視体制の一端を担う可能性が高まることが危倶されている。

第二の理由は、IT産業にとって政府の財政支出も含め、「セキュリティー」が大きなビジネス。チャンスになっていることだ。その結果、人々が不安を抱けば抱くほど商売が繁盛するという本末転倒が起きている。セキュリティー・ビジネスは、人々の不安をかき立てることで売り上げを伸ばそうとする。セキュリティー商品を売るために、現実からかけ離れ、上げ底化された不安が作り出されているという側面を忘れてはならない。

第三に、政府は信用できないということだ。六〇年前に私たちがどのような政府を持っていたかを思い出せばわかるように、政治体制が将来大きく変化する可能性は大いにある。人生80年として、将来80年にわたって、個人の履歴、つまり名前、性別、生年月日、家族関係や指紋、虹彩、DNAなどの生体情報を政府が悪用しないと誰が保証できるだろうか。しかも、出入国管理を通じて他国政府にも個人情報は共有されつつある。とすれば、政府に必要以上の個人情報を持たせないことが最善の策であって、情報収集の装置としての監視カメラを野放しにすべきではない。

監視カメラは、戦争やテロをやめさせることも年間3万人に上るこの国の自殺者をなくすこともできない。ただ見知らぬ人々に対する不安感や偏見を増幅させるだけなのだ。逆に、私は未知の人と挨拶と交わし、歓待できる社会がほしい。そのためには、監視カメラへの依存を断ち、カメラを減らせる政治が必要なのである。

(毎日新聞 2005年8月13日)