性の商品化

はじめに——問題の枠組

性の商品化というテーマは、大きくわけて二つの異なる領域を含んでいる。一つは、性にもとづく身体そのものが商品化に直接巻き込まれる場合である。もっとも典型的なのは、売春の場合だろう。もう一つは、性の表象が商品化される場合である。この場合の典型は、ポルノグラフィー(以下ポルノと略記する)であろう。
しかし、実際にはさまざまな境界領域があるし、身体そのものの商品化(後ほどもうすこし厳密に定義するが)とその表象の商品化の間にも相互に関係がある。
性の商品化という場合には、この両者を含むものとし、売春などについては性的身体の商品化とよび、ポルノなどについては性的表象の商品化と呼ぶことにする。
さらに性の商品化という問題群は、市場経済の場に限定して論ずればよい問題ではなく、むしろ市場において商品として売買される場で成り立つ関係を支えているのは、市場の外部にある。つまり、商品が使用価値として消費される現場や、商品として需要する買い手の欲望の形成の構造と深く関わる私的な生活領域や労働の現場が、性の商品化を論ずる場合に無視できない。
本稿では、これらの点をふまえつつ、さらに問題を捉える観点として、女性の性的身体やその表象を消費する買い手——その多くが現実には男性なのだが——の行動とその欲望の生産と消費の問題として捉えてみたい。なぜ男性が主として性的商品の買い手となるのか、そうした男性の欲望がどのように作られるのか、という問題がここでの中心的なテーマとなる。女性のセクシユァリティや売り手の性の商品化は重要なテーマだが、本稿ではほとんど触れていない。これは、私自身が異性愛の男性であるということとも関わって、なによりも男性のセクシユァリティと性の商品化の関わりを明らかにすることを第一の課題としたいという私の問題意織の制約による。本稿で扱えなかった点がもたらすかもしれないさまざまな問題点その他へのアプローチについては今後の別の機会を期したいと思う。
以下、次のような順で検討を進めることにする。まず、性の商品化についての最近の議論を手掛りに、問題の所在を整理する。そのうえで、右に指摘したような性的身体と性的表象の商品化が近代社会の中でどのように制度化されて形成されたのか、その歴史的な概観をみる。端的に言えば、私たちの性的な欲望は、労働する身体として再構築されてきた近代的な身体と不可分なものであり、近代初期の本源的蓄積が生み出したのは、プロレタリアートとしての労働する身体だけでなく、この身体を再生産する日常的・世代的な仕組みとかかわる性的な身体とその表象であったということなのである。【注1】
この欲望の特殊歴史性を明確にするという課題にとって、家族制度や結婚制度と性の商品化との関わりが重要である。この点をふまえて本稿では、資本主義は、恋愛結婚制度と買売春を含む特殊な一夫多妻制という二律背反のなかでセクシュアリティに対して統一した態度をとることのできない矛盾を最初から抱え込んでいるということを示すことになろう。次に、性的表象の商品化を商品の消費者の欲望の生産と消費の問題として捉えなおしてみる。特にポルノに代表される性的表象の商品化は、オナニーの問題と不可分である。オナニーのために喚起される想像の世界における性的な欲望に対する権力の規制という問題を鯖ずる事になるだろう。

性的身体の商品化——売買春論の所説とその問題点

日本での売買春の畿論のなかで、特に性の商品化の観点から売買春について分析する議論が論が活発になったのは、江原由美子編「フェミニズムの主張」【注2】に収められている諸論文、とりわけ橋爪大三郎と瀬地山角による性の商品化に対するある種の肯定論の問題提起【注3】からではないかと思われる。
橋爪大三郎の「売春のどこがわるい」は、道徳鴎による売春批判を退けて、市場経済の論理に内在して、売買春の是非を論じたものとして重要な鈴文である。この請文で特に重要と思われるのは次の三点である。
第一に、売春をはじめとする性の商品化を女性の身体を人間として扱わず、「物」として扱っているとする批判に対する次のような橋爪の反論である。
「関係が物化することは、近代にとって、そして、商品関係にとって、もっとも基本的なことだ。だから、女性(の身体)を物的にみるぐらいのことで、すこしも人権のシステムが侵害されたことにはならない。むしろ売春は、人称的な持続的性愛関係からの遁走の一形態なのだ。売春は、性的サーヴィスの売買であって、人権システムと両立する矛盾しない」【注4】
確かに、近代の商品経済のなかで人格的な依存関係が解体し、いわゆる物象化が成立するようになる。この限りでは、橋爪のいうとおり、女性の身体のみを特に「物」として特別に差別しているということは言いがたい。おしなべて労働する身体は〈労働力〉商品として、自由な意志を抑圧され、その買い手の意志に従うことを余儀なくされるからだ。
いうまでもなく、人間が文字どおり物化するわけではなく、あたかも物のように扱われるわけだが、ここで「あたかも」とか「のように」という言い回しに込められた物化の度合いこそがむしろ物化の基本的な問題発生の場である。橋爪は、売春も他の商品関係も、この物との距離に基本的な差はないということを前提として識誇を組み立てている。これに対して、商品経済全体ではなく特に売春を否定する立場をとる場合には、他の〈労働力〉の商品化と比較して、売春の方が決定的なところで他の〈労働力〉商品化よりも物化の度合いが大きいという理解がその前提にある。
瀬地山も橋爪同様、性の商品化とその他の〈労働力〉の商品化との間に本質的な区別を設けることは難しいとしながらも、それにもかかわらず人々が売春に対して抵抗感を持つ理由として、身体接触の有無、性器挿入の有無を指摘している。【注5】確かにこの点は決定的に大きい違いであるが、しかし、なぜ性的な身体接触や性器挿入に抵抗感がもたれるのだろうか。また、そうした接触の度合いが相対的に少ないストリップショー、テレホンセックス、ブルセラなどに対しても、あるいはポルノのような完全に表象としての性的身体にたいしても同様に物化の観点からの批判がなされるのは何故なのか、これらの点に対しての答えとしては橋爪、瀬地山の立論は十分ではないように思われる。
第二に、性的な産業を家族関係との関わりで鯖じている点である。ラブホテル現象を捉えて橋爪は、「家庭の中では満たされず、しりぞけるしかないような関係がおびただしく存在し、有効需要をかたちづくっている」とし、その原因は「家庭がある種の監禁と排除と抑圧のメカニズムである」【注6】ということとちょうど対応する現象なのだと指摘している。商品化された性の形が家族という市場の外部の関係を視野にいれなければその意義を明らかにできないとした観点は重要である。ただし、橋爪はここからさらに進んでなぜ家庭では満たされず退けられるような「関係」が市場を形成するほど大規模に存在するのかにっいてはたちいった検討を加えていない。
第三に、売春が反道徳的なものとされる理由について論じている点である。橋爪は、売春が悪であるが故に排除されるのではなく、「排除されるからこそ、はじめて、売春は邪悪なものだったことになる」と理解すべきだという。その理由を彼は、人は家庭に生まれ、家庭の性モラルを身につけながら成長し、このモラルが順次外部の対象に拡張されるというようにその道徳観が形成されることに関係するとみている。こうした道徳観からみたばあい、売春はその延長線上にはない。「それは市民的な身体秩序のなかにたしかに位置するが、平均的な性モラル(家庭)の側から出発する限り、その地点へは達しえない」【注7】というのである。
しかし、一般論としてこのように論ずることはできないのではないかと思う。というのも、この売春の排斥観は、男性と女性では決定的に異なっているのではないかと、私には思えるからである。買春をおこなう男性は、この排斥された存在との性的な接触を欲望する。男性にとっての排斥とは、触れたくないから排除するといった感情を伴わない。家庭のモラルの影響をうけながら成長すると言う点では男性も女性もかわりない。にもかかわらず、なぜ男性だけが買春を肯定する意識を形成するのだろうか。この点を明らかにするためには、家庭のモラルという観点だけでは十分ではないようにおもわれる。
また、この売春を不浄とする道徳観の根源を橋爪は、「共同社会が育んだ人倫にもとづくゆえの、先入観であり偏見」であって「合理的な根拠はない」という。たしかにこうした前近代社会の道徳観が近代社会に残樺として存続することは事実として確認できる。しかしまた売春は、資本主義が成熟の域に達したといっていい諸社会においても決して道徳的な非難からまぬがれるような位置を獲得することはなかった。とすれば、不浄や排除の道徳は、前近代的な偏見だけでなく資本主義社会そのものが生み出す価値観でもあるとは道徳は、前近代的上いえないだろうか。
橋爪が売春を排斥する道徳を根拠のないものとしたのにたいして、永田えり子は、それとは逆に性の商品化を否定する性道徳が現に存在するのであり、存在するのにはそれなりの根拠があるのだという観点を重視した。【注8】この性道徳の基本を、公然性をもって性を悪路出させることの否定に求めており、男性も女性もこの点は共有す愚ものとみなしている。確かに、性道徳の共有部分はある。しかし、それにもかかわらず性の商品化はこの性道徳によって抑制されることなく男性に対して一定の無視できない市場を形成しているのは何故なのだろうか。永田はこの点にはたちいっていない。家庭内部では男性も女性も同一の道徳観に基づいた行動をとるが、家庭の外部ではかならずしも同一の道徳が作用しているとはいえないのではないか。むしろ日常生活のサイクルのなかで男性が女性とは異なる消費市場との接触が繰り返され、家庭のモラルとは異なるモラルを男性の友人や職場の人間関係などのなかで構築することと関わりがあるのではないかとおもわれる。
多くの場合、性的欲望を充足する手段の立場に女性が置かれている。市場における性的欲望の充足を日常生活の一部に組み込んでいる男性と違って女性の場合にはこうした性的な欲望の充足を理解するフレームが存在しない。性産業で労働する女性を除いて、女性にとっての性的な欲望充足の日常的な枠組みは、相互に性的な欲望を充足しあえる関係である。この相互性の関係は、それを恋愛、結婚、家族形成の方向に引っ張ってゆけば、保守的なロマンチック・ラブ・イデオロギーと重なるし、逆にそうした方向への縛りを否定すればより「解放」された関係の方向に導かれるだろう。女性の場合、このまったく正反対のベクトルの合力によって実際の性的欲望を充足する規範が規制されるといえそうだ。
ところが男性側は違う条件をもっている。つまり、性的な市場で一方的に性的な欲望を充足できる仕組みをもっている。どのようなサービス産業でも、顧客が一方的にサービスを享受してなんらかの欲望を充足するのだから、性的サービスでも顧客の男性が一方的に性的な快楽を享受することには何の問題もないという批判があるかもしれない。しかし、ここで問題にすべきなのは、性的なサービスが主として男性対象としてのみ市場化きれ、女性は多くの場合この産業の労働者であるかさもなければその市場のサービスからは排除されているという、性的な市場における極端な非対称性なのである。
この非対称性は、男性と女性の日常的な性生活のサイクルに大きな変化をもたらしているように思われる。言い換えれば、男性からみた性的な欲望の充足のための女性との関わり方と女性から見たそれとではかなり違う光景が繰り広げられている。これは、近代以前の共同体における未婚の男女が夜這いとか若者宿などさまざまな制度とルールのもとで享受していた性的な欲望にまつわるコミュニケーションとは決定的に異なるものだ。近代以降に登場した男性と女性の間のこの違いは、資本主義における男性と女性のセクシユアリティの差異となって表れているだけでなく、セクシユァリティにおける抑圧と権力の問題となって現れることにもなっている。

二 近代のセクシュァリテイ形成——エドワード・ショー夕ー『近代家族の成立』を手がかりに——

性の商品化は同時に近代資本主義における家族制度の形成と密接にかかわりながら、一定の制度化と規制の枠組みを与えられてきた。だから、時代と社会によって、売春と婚姻関係における夫と妻の関係はかなり多様であり、売春婦と妻とを一般論として概念的に区別することは困難である。むしろ制度上、両者の区別が必要とされるのであって、その区別の線引きを近代社会はそれに固有の方法で実現してきた。【注9】
ここでは、近代以前と以後とでは家族におけるセクシユァリティの意義が決定的に異なる点を強調しているエドワード・ショーターの『近代家族の形成』【注10】を素材として、ヨーロッパにおける近代化、資本主義化がどのようにセクシユァリティのあり方の変容を促したかについて、整理しておこう。ショーターは、資本主義以降の家族では愛情が強調され、また、婚姻に至る過程での恋愛が重要な役割を担っていたのに対して、伝統社会では、こうした感情がもたれることはほとんどなかったと指摘する。【注11】その原因は、伝統社会では、家族が生産的な役割をになうために、家族形成の基本的な動機がなによりも生産単位としての家族の再生産と維持にあり、その共同体への貢献あるいは責任が、個人の感情に優先したからである。
したがって、伝統社会における夫婦間のセックスは、子産みのためのセックスは当然としても、快楽のためのセックスや、たとえ子産みのためとはいえそこに性的な快楽を伴うことについてはほとんど高い価値を与えられなかった。ショーターは、「セックスも出産も女性の仕事にふくまれていた。すなわち、求めにおうじて夫とベッドをともにすること、および共同体が要求する数の子どもを産むことである」【注12】と割り切り、一般に夫婦間のセックスは「おざなり」であり、妻とは相続人としての男の子を産む「機械」でしかなく、病気になっても家畜ほどにも顧みられなかったと指摘している。【注13】
こうした冷たい関係から恋愛結婚にもとづく家族関係の形成へと転換するのは一八世紀後半である。この工業化の入り口の時代に財産や親の意向よりも、内的な感情を重視するという最初の「性革命」が発生する。そして、さらにその一世紀後の一九五〇—六〇年代にはより一層性的な本能をあからさまにする第二の「性革命」が登場する。とくに一八世紀末の非嫡出子の劇的増加という変化は、前近代社会からの大きな性行動の変化としてショーターは重視した。つまり、性行動がきわめて活発になったのはこの時期以降だというのである。
ショーターによる「愛情生活」に関する伝統社会からの近代のラディカルな断絶の主張は、平均結婚年齢が二〇歳代後半と晩婚であった伝統社会において、思春期から結婚までのかなり長期の期間、どのようにして性欲の処理が行われていたのかという疑問を提起することになる。たとえば、フランドランは、この長期の未婚時代の性欲は、マスターベーション、ホモセクシュアル、獣姦などによって充足されていたと指摘し、ジャック・ソレも旧制度下の庶民の若者たちの一部には性的な自由が見いだせると指摘している。【注14】
しかし、ショーターは、伝統社会では非嫡出子の割合は三%程度であるから、婚外交渉が頻繁にみられたわけではないと述べて、こうした仮説には反対し「一七五〇年以前の大部分の若者の生活にはエロティックな要素はなく、伝統社会では、独身者の性衝動は完全に抑圧(昇華といいか、えてもいいが)されていた」【注15】と解釈している。
歴史の専門家ではない私は、こうした論争のどちらが正しいか判断する資格を持ち合わせていないが、ショーターのような極端な性欲抑圧説にせよ、逆にソレのような性的な自由を強調する脱であれ、両者に共通しているのは、この近代の初期——あるいは中世末期ルネサンス期啓蒙主義、重商主義の時代等々さまざまに言い表すことができるが——において、セクシュアリティの自由と抑圧は近代社会の家族と欲望の形にあわせて暴力的に作り替えられようとした、という点ではその認識は一致しているのである。大衆の日常生活にどこまで浸透したか、農村と都市とではどのようにその秩序形成に違いがあったかなど、おおくの議論すべき論点があるとしても、恋愛結婚にともなう性的な欲望は徐々に肯定される一方で、オナニーや同性愛などは犯罪化されることになるのである。
近代社会で生じた男女間の感情の変化は、愛情が結婚の基準となったこと、つまりロマンチック・ラヴの発生である。たとえ財産などの伝統的な条件に従う場合でも、ロマンチック・ラヴは必要な条件となる。伝統社会の冷ややかな夫婦関係から一転して、両者は相互に共感しあえる感情的な結びつきを不可欠とすることになる。ショーターは次のように指摘している。

「これは、ロマンティック・ラヴと共同体と統制との間の関係が大きく変わったことを意味している。というのも、ロマンスという場合、自発性と感情移入が問題になるからである。自発性と感情移入、それは優しさや愛情を自分なりに表現する能力、および相手の気持ちになれる能力である。ロマンティック・ラヴの一一つの側面は、伝統とはまったく相入れない。(略)感情移入は、男性の生活と情動を女性のそれと慣習的にわけへだててきた性的役割、すなわち、性的分業をあいまいなものにする」【注16】

なぜ、近代化とともに、こうした感情の大きな変化が生まれたのか。ショーターはこの原因を市場経済の発達による伝統社会の共同体的な拘束が解体され、これによって個人としての人格が形成されるようになったことに求めている。この近代化は大量のプロレタリアートを生み出した。彼らは、農地などの生産手段をもたず、従って生産組織としての家族の機能を奪われただけでなく相続すべき財産ももたない。こうした人々が結婚によって形成する家族は、もはや生産的な組織としてその結びつきを維持する必要のないものとなる。同時に、市場経済は個人の利己主義を育てることになる。

「この自己中心の経済的心性が、一八世紀に市場に巻き込まれた一般大衆のさまざまな非経済的生活領域のなかにも浸透し、ことに個人と共同体とを結ぶ絆を弱めたということである。市場において習得された自己中心主義は、共同体さらには家族およびリネージとの関係、そこでの義務や価値規範——要するに、家族や男女の行為を規制する社会の文化的規範すべて——にまで入り込んだのであった」【注17】

しかも、女性がこうした自己中心主義的な市場経済に巻き込まれたことは、両親や共同体の束縛からの理念的な解放にとどまらず性的な自由の形成の条件を整えることになり、また、実際に解放に必要な経済的な自立を実現する手がかり——賃金の獲得——を得たということになるとショーターは一言う。

三 性的身体をめぐる”本源的蓄積”

ショーターの基本的な筋書きは、要約すれば、次のようになる。伝統社会では性的な欲望は抑圧されている。近代化は、市場経済による共同体の解体とともにこの性的な抑圧を解除するが、同時に近代社会における性の秩序に沿う形で解除する。だから、ロマンチック・ラヴや結婚に結びつく性行為や性的快楽は許容される一方で、オナニーなどは抑圧される。
ショーターが対象とする一六世紀以降の時代は、伝統社会が解体する中世末期であるが、同時に近代初期と位置づけられる時代だ。この時期をマルクスは「本源的蓄積」の時代と呼び、資本主義的な市場経済が共同体を解体し、土地を奪われ追放された農民たちがプロレタリアートとして形成された時代として描いた。しかし、このプロレタリアートが「工場労働者」と呼び得るような社会的な階級として自らの経済的な基盤を市場経済の内部に確立して、社会的な存在意義を認知されるまでには数世紀の時間がかかった。土地を追われた農民たちは浮浪者として放浪し、労働しない怠惰な者達は犯罪者として厳しく処罰された。
たとえば、一五三〇年、ヘンリー八世の時代には、老齢で労働能力のない乞食は乞食免許を与えられるが、強健な浮浪人にはむち打ちと拘禁の処罰が加えられた。「彼らは荷車のうしろにつながれて、からだから血が出るまでむち打たれ、それから宣誓をして、自分の出生地か最近三年の居住地に帰って〈仕事につく〉(to put himself to labour)ようにしなければならない」【注18】とされた。そして、その後この罰則は強化され、「再度浮浪罪で逮捕されればむち打ちが繰り返されて耳を半分切り取られるが、累犯三回目には、その当人は、重罪犯人であり公共の敵であるとして死刑に処せられることになる」。【注19】マルクスは、こうした処罰を「暴力的に土地を収奪され追い払われ浮浪人にされた農村民」に対する「賃労働の制度に必要な訓練」であったとみている。こうした過程は数世紀に及ぶが、その結果としてようやく市場という制度を自明とする労働者階級が形成されるようになる。【注20】
こうした刑罰は何を意味していたのだろうか。農業社会のなかで家族を生産組織として労働してきた人々にとって、雇用されて貨幣取得を目的として、他人の指図を受けながら働くという行為は、伝統的な日常生活様式とは本質的に異なるものだ。ただ単に生産手段を奪われ、賃金を取得するような仕事につかなければ生活が困難になるという「兵糧攻め」のような条件だけでは、人々は賃労働に意味を見いだせないということである。だから、新たに形成された絶対王政の権力は、労働を強制し怠惰を処罰する立法を繰り返し制定し、更にプロテスタンテイズムは勤労をあらたにキリスト教による救済のプログラムに組み込んだ。プロレタリアートは、こうした法的イデオロギー的な強制と訓育のなかで、多くの犠牲を強いられながら、労働する身体を作り上げていったのだった。
マルクスは、労働する身体の新たな構築には多大な関心を払ったが、同時に進行した性的な身体の構築にはほとんど気づかなかった。しかし、この労働する身体の形成の時期とぴったり重なり合うようにして、性的な身体の新たな作りなおしが進む。労働する身体が被った過酷な経験はそのまま、性的な身体にも当てはまるのである。
ジャック・ソレは、「性愛の社会史」のなかで一五世紀から一八世紀にかけてのこの過酷な性的身体の再構築を描いて見せた。ソレは、中世においては、王権やキリスト教の教会などの公共的な権威は民衆の日常生活を操作できるような技術をもてず「不法な性行為は、公教会によって事実上野放しにされていた」と言う。これに対して、「一五〇〇年から一八〇〇年にかけて、官僚国家、軍隊、税制を発明し、納税者に、納税の義務を守らせると同様に性的規律を守らせたのが近代国家であ」り、「この規律の内容は、教会と家族の伝統的な道徳の、性についての教えにかなっていた。だが決定的に新しいのは、この道徳が以後国による裁判権という特別の手段で強制されたことである」【注21】と指摘している。魔女狩り、売春の禁止、公衆浴場の廃止、好色文学の検閲といった大規模な抑圧現象がこの時期に展開される。
たとえば、一六世紀のイタリアでは姦通、人妻に対する接吻は死罪とされた。フランスでは、婚外妊娠にたいする届けが義務づけられたが、これは、嬰児殺しの抑制だけでなく、不法な性行為への監視であった。二度目の妻の娘を強姦した老人が火刑、使用人の子を身ごもった女が終身刑にされるなどという処罰が行われた。一七—一八世紀のフランスの施療院では、貧民、病人、精神異常者とともに、娼婦、無信仰者、男色家、不身持者が収容された。こうした抑圧は一八世紀には更に顕著になる。ソレは、「この抑圧はもっぱら、警察によって家族を保護し、法律と裁判所か牢獄によって、許容された快楽の秩序を保護しようとするものだった」【注23】と述べ、更に次のように指摘している。

「西欧近代を特徴づける性的抑圧の風潮は、世論の自発的な運動とそれに歩調を合わせた公権力の活動の両方に由来している。真剣かどうかは別として、これらの権力は広範な改革の企てにかかわっており、この企ては、権力の新しい力を利用しつつそれらを越えていった。キリスト教のさまざまな宗派に存在したこの努力は、むろん重商主義の国家の新しい関心とも結びついていた。啓蒙主義の世紀は、他の多くの悪夢のなかでも、孤独な快楽には致命的な危険がひそむという学問的作例ソ話をつけ加えるにいたった」【注24】

魔女狩りなどを含むこうした抑圧は、中世社会が引き起こしたというよりはむしろ近代社会がその萌芽の時代に引き起こしたものというべきであり、近代的な性的身体の構築の一環とみるぺきではないだろうか。性的な身体の秩序は、こうして、労働する身体とそれ・を日常的・世代的に支える関係に見合うものとして作り替えられたのである。
近代社会における性的な欲望のありかたは、決して普遍的な人間の本能に起源を持つような欲望に基づくものではない。むしろ性的な欲望は近代の社会が開発した特殊な感情なのではないかと思われる。それはなぜか。この問題は、性的な領域の問題というよりも、欲望一般の問題と大きくかかわりがある。近代社会、とりわけその市場経済の仕組みは、人々の欲望に依拠した日常生活を生み出した。このことが、性的な結びつきの分野にも見いだせるのである。そこで、まず近代資本主義における欲望の役割について簡単に述べておこう。【注25】

四 市場経済の欲望と商品のフェティシズム

ごくありふれた会話として「今日の晩御飯は何が食べたい?」と家族に質問したり、あるいは質問されるということがある。あるいは、会社に着ていく服を何にするか、何にしたいのかをクローゼットの前で迷うということもよくあることだ。
このように私たちの日常生活では、常に自分の選択に委ねられていることがらがさまざまあり、しかもその決定には、私が食べたい食事、私が着たい衣服等々に対する欲望が関まあり、し全与している。
こうした日常生活のありかたは、豊かな社会の証明であるかのようにみなされることがある。たしかにその通りだ。この豊かさとは、私たちの欲望に基づく選択の自由のある社会のことを指している。こうした社会を生み出したのは、実は市場経済が必要とする特殊な欲望の役割によるものなのだ。
資本主義経済では、モノは「商品」という特殊な性質をまとう。このことを資本主義的生産様式の中心に据えて批判的な分析を試みたのがマルクスだったことはよく知られている。(26)マルクスは、商品化されたモノは、そうではないモノと比べて、交換価値に支配されるという特徴があるということを指摘した。交換価値に支配されたモノは、その使用価値が貨幣との交換のための手段とされてしまう。しかしそれだけでなくマルクスは、使用価値というのは、たんなるモノの自然科学的な属性ではなく、歴史的に発見されるものでもあるということを強調した。
たしかに、売れないモノは社会的に意味のないモノとみなされるから、商品として売れるように使用価値を構坐栄するという新たなモチベーションが生み出される。つまり、市場のシステムが存在しなければ存在しなかったであろう需要を前提として、使用価値を形成するのである。
では、市場システムを前提することによって生み出される使用価値とはいったいどのような使用価値なのだろうか。
「経済」という切り口でモノを捉えるということは、生産、流通、分配、消費といった諸側面に即してモノと人、人と人の関係を浮き彫りにするということを意味している。市場経済であれ、それ以外の経済であれ、この点は観察者の目から見れば同じだ。しかし、市場経済には、この「経済」を構造化する上でそれ以外の経済と本質的に異なる重要な性質がある。市場経済がモノと人を動かす力は、商品の需要者、つまり買い手の意思決定にゆだねられる。買い手は、貨幣という何とでも交換できる一般的等価物の所有者として、売買の主導権を握るからだ。一一〇円出せば、好きな缶ジュースを買うことができるが、同じ一一〇円の缶ジュースをもっていても自分の好きな一一〇円のものは買えない。
他方で売り手の資本は、販売の実現のために、様々な仕掛けを市場にほどこす。資本にできることは、広告や情報操作によって欲望の操作を試みること、市場を独占しこの(特定の)商品を買わねば生活できないような環境を作り出すことなど、間接的に買い手Ⅱ消費者の行動に影響を与えようとする。買い手の意思決定の主体性や売り手相互の競争は、こうした資本による操作的な意志の貫徹をつねに不十分なものにしてしまう。だから逆に売り手はますます消費者の欲望を喚起し、いかに自分の商品がその充足に最適な使用価値を持っているかを繰り返しアピールする必要があるのだ。
モノが移動するシステムとして、モノの需要者側が、自分の欲望に応じて選択するという仕組みは、市場経済に固有の現象である。これは、貨幣という一般的等価物を買い手が保持するからこそ可能になった仕組みなのだが、こうした需要者の立場に類似するモノの受け手の立場は、非市場経済ではほとんど想定することが難しい。
カール・ポランニーが指摘しているように、モノの流通・分配の形式は、商品交換の他に、互酬と再分配があ樋。互酬も再分配もモノの供給側に決定権がある。需要側が自分の欲しいものを自由に選択する余地は非常に限られている。いいかえれば、市場経済が発達すればするほど、モノへの欲望はその自由度を増すようになり、この欲望を満たすことのできる商品こそが社会が求めているモノであるという認知の仕組みができあがることにな この市場における欲望の多様性とその充足は、先に資本—労働関係と性的身体の本源的蓄積について述べたところからも判るように、労働と非労働という日常生活を支配する大きな分割線と対応する。労働者たちは、契約によって定められた一定の時間に限って「労働」とよばれる行為を行う。その対価として得た貨幣というオールマイテイの欲望充足の手段によって、私生活の領域で多様な欲望を満たそうとする。こうして貨幣を媒介とする市場経済は、買い手の欲望という動力に過剰な機能を負わせるシステムであり、社会の経済的な富の「豊かさ」とはこの欲望を多様に開発してそれを一時的に充足させることによって成り立つ。欲望の多様性が充たされる条件が整備されればされるほど逆に労働における拘束と不自由は、「疎外」という感情とむすびつくようになる。この「疎外」が更にまた私生活における欲望の喚起を促す。労働はあらかじめ疎外された労働としてあったのではない。むしろ資本主義的な市場経済が私生活に浸透し、欲望の多様性をそそのかすことの副作用として構築されたものだといってもいい。
しかし市場経済は、決して消費者の欲望を満たすことはない。消費者の欲望を喚起するのは、商品に対して買い手が抱いたイメージによるのにたいして、消費者が実際に手に入れる商品はこのイメージされた商品を完全に実現することは決してないからだ。売り手は、売りこもうとしている商品がいかに買い手の欲望を満たすのに最適な性質を備えているかをさまざまに宣伝する。あるいは、買い手が気づいていない新しい欲望の形を提示して、商品と消費者をめぐるファンタジーを組み立てることによって、買い手に新しい欲望の形を与えようとする。多くの売り手がさまざまに与えるモノのイメージから買い手は買い手なりのモノに対する物語を独自に構築する。商品の買い手は、自分がまだ入手していないモノが自分に保障してぐれるかもしれない欲望の充足を夢見てこのモノへの欲求をっのらせる。この物語こそが欲望を喚起するのであって、モノ自体がこの欲望を充足できるという保証はまったくない。マルクスは商品のフェティシズムをこの商品の使用価値そのものに価値性格があたかも内在するかのようにみなす意識であると指摘したが、同時に商品の使用価値には欲望充足の性質があるかのようにみなされるという別種のフエティッシュな性質が組み込まれているのである。だから、買い手は、決して購入した商品に満足することはない。商品のイメージによって喚起された欲望が、商品そのものによって満たされることはないからだ。こうして、ふたたび更に自分の欲望を満たしてくれるモノの取得へと駆り立てられてゆく。
私たちの身体は、このように市場経済の中で、欲望を巡る物語をモノの取得によって一時的に満たしつつも、決定的には充足されないまま新たな欲望に捕らわれるということの繰り返しのなかに投げ込まれている。
こうした市場経済による欲望の再構成は、セクシユァリティに関しても影響を与えないわけにはいかなかった。商品化された性もまた、需要者側の欲望に即して多様化し、この多様化によって需要者側の欲望の多様性もまた促されたといえる。いうまでもなく、こうした多様性は貨幣を持つ者たちの「特権」である。従って、性的な多様性は、資本主義の家父長制的な性質を反映して、男性の需要者をターゲットとした市場の特徴となったと推測することができる。

五 恋愛の唯一性と欲望の多様性

市場経済に日常生活が巻き込まれるということは、その一部を構成するセクシュアリティもまた市場経済の特殊な欲望喚起の構造に組み込まれるということを意味した。とりわけ都市化によって労働と非労働(私生活)が明確に分割された生活時間のなかで日常生活を営む多数の未婚の男女にとって、前近代社会とは違って、結婚とは労働のカテゴリーと結び付くものではなく、非労働のカテゴリーに配置される事象となった。この私生活が同時に欲望の充足の領域であることによって、資本主義は、性的な欲望による両性の結びつきを恋愛結婚、あるいはロマンチック・ラブとして制度化することに成功したのだ。
結婚制度とは、マクロな社会システムから眺めた場合、人口再生産のシステムであるから、性交と出産、育児をその社会のどのようなシステムがどのようなルールで遂行するのかということは、個々人の意図とは相対的に独立して機能する。親族組織などの伝統的な共同体の紳からきりはなされた個人が膨大な人口を集中させている都市社会で、どのようにして結婚相手を見つけだすか。この問題を資本主義は、非労働の領域で社会的なシステムとして解決しなければならない。ここで動員されたのが個人の性的な欲望である。あるいはこの欲望を背景とするカップリングのための仕組み、恋愛結婚である。
この恋愛結婚は、家族とセクシユァリティに関して新しい状況を生みだした。第一に、結婚と家族の形成が恋愛に象徴される親密な愛情に基づく関係でなければならないということになった。第二に、恋愛期を過ごす男女の私生活上の空間が都市の中に分節化されはじめる。つまり、恋人たちのデートを支える市場の形成である。第三に、性的な欲望が近代的な「自由」な関係のなかで保障される一方で、「もてない男」の性欲Ⅱ性的な需要にたいして性的な市場が対応しはじめるということである。そして最後に、もっともやっかいな問題がここで生じることになる。つまり、恋愛では相手を唯一の存在としてお互いに承認することが基本となるために、市場経済が喚起してきたセクシユアリティの多様性を抑圧する傾向があるということである。もちろん同時複数恋愛は不可能ではないし、現実にも存在するが、それはシステムの意図するところではない。最終的にはただ一人の異性の相手と結ばれることをシステムは要求しているからだ。
恋愛における唯一性と市場が喚起してきた欲望の多様性に基づくセクシユアリテイにおける多様性という二律背反は、どのように折り合いをつけることができるのだろうか。伝統的な解決方法は、つぎのようなものであった。すなわち、貨幣所得を潤沢に分配される男性に対しては、市場においてこの多様性を実現できる仕組みを提供する。すなわち、売買春の市場である。他方で、女性に対しては、性的な欲望そのものの喚起を抑圧し、純潔イデオロギーを付与する。この女性に対する対処はいうまでもなく男性側もまた自分の結婚相手の条件として受け入れる。市場で買う女と結婚相手の女を区別する発想を男性側もまた構築することによって、この女性への要求は社会の要求として避けがたいものになる。
男性と女性とでは、セクシュアリティに対して要求される条件が異なるのは、男性が主たる貨幣所得者であるからというだけではない。もう一つの重要な理由は、女性が子産みの機能を担っているからである.資本主義というシステムが女性に期待するのは〈労働力〉としての機能と同時に子産み、人口の再生産という機能である。共同体が管理していた人口は、近代社会では国民国家が管理するようになる。女性のセクシュアリティに対する抑圧を理解するためには、この人口管理の観点を無視することはできない。一八世紀の権力技術の新たな様相の一つに人口問題があったことはよく知られている。フーコーは、『性の歴史」のなかでこの点について指摘し、「人口をめぐる経済的。政治的問題の核心に、性があった」として、次のように述べている。【注28】
「今や分析しなければならないのだ、出生率や結婚年齢を、正当なあるいは不倫に基づく出生を、性的交渉の早熟さや頻度、それを多産にしたり不毛にしたりするやり方、独身生活や禁忌の作用、避妊法の影響(略)。確かに久しい以前から、国が富み強大であろうとするなら、その人口は多くなければならないということは言われ続けてきた.しかし、少なくとも恒常的に一つの社会が、その社会の未来と運命とは、単に市民の数や美徳、結婚のきまりや家族の構成の仕方だけではなく、各人が己が性【ルビ:セックス】を用いるその用い方にむすびつけられているし」言い出したのは、この時が初めてだ」【注29】
この人口の管理技術と性に対する権力技術はその後の数世紀を通じて一貫して国家が関わる領域でありつづけている。
マクロの観点からは、確かに人口の再生産の問題なのだが、個々の男性と女性にとってはこうした制度の意志は隠されている。同時に、彼らが過ごす日常生活の違いは、セクシユアリティにたいして異なるパースペクティブをもたらし、男性から見える性的な日常生活と女性から見えるそれとの間にも大きな違いが生ずることになる。
ジェンダー/セクシュアリティによって日常生活をややステレオタイプに切り取るとすると、上掲のような表になる。職場や家庭では、男性と女性とでは、決して平等ではなく、その役割は対照的であったり相互依存的であったりする。しかし、性に関わる市場になると男性と女性とではまったく異なった視点にたつことになる。
●図表あり
性的サービス市場について、買春そのものを想定するだけではなく、職場や家庭といった他の領域との接点を念頭において考えてみよう。たとえば、性交渉は直接ないとしても、女性によるサービスを不可欠とし、女性のセクシユアリティが明確に商品化される領域に、バーやクラブなどいわゆる「水商売」がある。直接的な性産業ではないが、いわゆる「水商売」として形成されたきた日本のこの種のサービス業は、男性が顧客であるということを前提としたサービスの仕組みを作り上げてきている。しかも、その顧客は単なるプライベートでの娯楽のためにやってくる男性客だけが相手なのではなく、その無視できない重要な部分は会社の経費によってまかなわれる「接待」とよばれる行動で占められている。この仕組みは、実は労働現場におけるジェンダー間の差別櫛造を反映している。根回しや大切な顧客との交渉やもてなし、インフォーマルな情報交換、事実上の重要な事項についての意志決定の現場が女性が排除され る「水商売」の市場を借りて展開されてきた。【注30】
もうひとつの男性固有の行動が、買春やポルノなど性産業そのものとの接触である。男性は、ここで多様な性的な欲望を充足する手段を手に入れる。ここで重要なのは、性産業が単なる男性の性的な欲望充足の市場として存在するのではなく、性的欲望の多様性に対応する市場であるということなのだ。いいかえれば、買春の市場もポルノの市場も特定のパートナーを見出すまでの性欲の充足のための制度ではなく、それとは相対的に独立した性的な欲望を充足する制度なのである。だから、既婚者もまたこうした性産業の重要な顧客である。こうして、男性は恋愛という唯一性に対して市場の回路を通じて欲望の多様性を手に入れる。
この性的市場を視野に入れた場合、男性の日常生活の行動における女性との性的な接触は、夫婦あるいは恋人との唯一性に基づく関係、「水商売」の女性との非性器的な接触ではあるが性的なメタファを伴うコミュニケーション、そして買春による多様性に基づく関係というかなり幅広い領域を含むことになる。マクロな制度的な要謂としては、妻には人口の再生産の役割が配分されるが、同時に恋愛結婚によって性的な欲望の充足という役割もまた配分される。この性的な欲望の充足は、世代的なく労働力〉再生産ではなく、気晴らしや欲求充足という意味での日常的なく労働力〉再生産の重要な部分を担うものだ。そして、この〈労働力〉再生産の重要な部分としての性的欲望による結びつきについては、実は多くの男性は妻として認知される女性だけでなく、性的市場を通じて不特定の女性の労働とも結びついている。【注31】この結びつきは、特定の男性と女性に着目すれば極めてテンポラリーなものだが、構造的に見れば、男性に女性を配分するシステムである。近代家族における夫婦関係の無視できない条件としての性的な欲望とその充足、あるいは愛情の関係があるということ、そしてまたこうした性愛の欲望充足によって日々の〈労働力〉の再生産を実現することが期待されているとみたぱあい、性的市場での買春は性欲の多様性を補完し、「水商売」におけるサービスは、疑似的な恋愛やロマンチック・ラブの多様性を補完しているともいえるのであり、資本主義の家族制度はその一部に性的な市場と接合したある種の一夫多妻制なのだということができるのである。
近代家族は、恋愛結婚と愛情による結びつきであり、それは何らかの意味で性的な欲望の喚起と充足の関係が夫婦の間で期待されるというきわめて特異な関係性をもっている。だからこそ、この性的な欲望に着目した性的な社会関係に即して、日常生活を切り出すことに意味があるのである。いいかえれば、たとえば、家族のなかで妻が主として食事の支度を担っているからといって、消費市場のレストランのウエートレスからサービスを受けることをもってゥエートレスと男性の間にも一夫多妻制の構造が切り出せるなどというこ 紙幅の関係もあるので、ごく簡単に日本の場合について補足しておく。日本の場合も、近代以前から近代への転換のなかで、婚姻のシステムもさまざまな変化をとげた。ここでもはっきり言えるのは、労働する身体の形成にともなって、恋愛結婚と売買春が同時並行的に制度化されたということだ。ただし、日本の前近代の共同体におけるセクシュアリティの管理は、夜這いや若者宿などにみられるように、西欧のそれとはかなり異なっている。だが、どのようなシステムであれ、最終的には共同体の人口の維持と再生産へとむすびつくようなルールが敷かれていたし、現在の私たちが感じる恋愛感情や性的な欲望と同質のものがあるとはいえない。日本の近代化は、共同体のきずなが弛緩・解体するにつれて、共同体の人口の再生産の束縛から若者のセクシユアリティが解放されるとともに、その欲望を恋愛と市場における売買春が吸収していった歴史だった。見合い結婚は、近代化以降の日本に長く残るが、これは日本の近代化が十分な共同体や親族組織の解体を伴わないで進行した社会経済構造全体の特徴が婚姻制度にも見いだせるものと位置づけることができる。そして、同時にこの近代化のなかで、女性に対する純潔イデオロギーもまた強化されることになったのである。【注32】
日本でも売買春は近代以前からみられる現象であるとはいえ、それぞれの時代状況に規定された売春の制度がみられる。たとえば、市場が神社境内におかれることが多かった近代以前の時代には、売春と神社とのつながりが深く、また、戦国時代のように、戦争にでかける武士による買春需要を敗戦国の女性による売春の供給が支えるという仕組みや、一般に売春は一夜限りの契約だが、男性側の職業によってはもっと長期にわたる場合もあるなど、売買春の場だけをみていたのでは理解できない関係を成り立たせる社会的な構造との密接な関わりの中で売買春も位置づけられる必要がある。【注33】民衆の慣習や宗教的なバックグラウンドが大きく異なる西欧と日本だが、資本主義化にともなう家族の機能変化と近代的な身体Ⅱ労働する身体への転換にともなう性的な身体の変容という点ではほぼ共通した変化が生じているといえるのである。

六 病、悪徳そして消費社会の欲望としてのオナニー

ポルノについての議論もまた、売買春同様性の商品化の範藩で議論できるが、特に中心となってきたのは、ポルノもまた売買春同様女性の身体を物化して捉えているのではないかという批判をめぐる議論と、この物化とかかわって、ポルノが実際に女性に対する性的な犯罪や性暴力の原因になっているのではないかという批判をめぐる議論である。特に後者については、ポルノと性犯罪の間に因果関係があるという立場にたつ論者からは、ポルノに対する法的な規制を要求することの是非をめぐってフェミニストたちの間でも論争が続いている。【注34】
他方で、男性からのポルノへのアプローチはこうしたフェミニストや女性の論者による観点をふまえつつも、やや異なる問題意識をもっているようにみえる。なかでもポルノとオナニーというテーマには重要ないくつかの論点が含まれている。ポルノの効用は、性的な刺激を喚起することにある。ポルノを眺める(読む)男性の私は、文学や写真集を読むようにこの対象に対して自分の身体を対時させるわけではない。このポルノの性的な表象に刺激された私は、自分の性器を刺激するように促される。いやむしろそうした刺激をうながす手段としてポルノは需要される。 とはいえオナニーの問題とポルノの問題とは完全に一致するわけではない。むしろオナニーをめぐる問題の一部としてポルノの問題が含まれるといったほうがいいかもしれない。そこでまず、オナニーをめぐる問題について従来の議論をみてみよう。
歴史的にいえば、近代社会は、性的な欲望を解放する一方で、オナニーについてはかなり長い間異常な性欲の一種、あるいは病的な現象として排斥してきた。
ソレは『性愛の歴史」のなかでかなり詳細にオナニーについて記述している。ソレによれば、一七世紀前半(ルィ一三世治政下)までは勘フランスではオナニーは「宗教的にも医学的にも呪われるべき最悪のものというわけではなかった」が .八世紀にこうした事態が一変し、周知のごとく、自慰のもつ致命的危険という科学的な神話が発明された」【注35】という。ショーターは、こうした神話の代表的な論客がルソーだと指摘しているが、ルソーが特別だったわけではない。金塚貞文は『オナニスムの秩序」の冒頭でカントを引き合いに出して、カントがオナニーに対して、種族の維持という自然目的に反するだけでなく、動物とは区別された人間としての完成を目指す人間の義務にも反するものであり、「このような悪徳をその固有の名称でよぶことすら不道徳と看なされるまでに、これについて考えることからひとの身を背けさせるほどである」と嫌悪感をあらわにしていることを紹介している。【注36】
こうして啓蒙主義の時代に、オナニーは「暴力的な矯風運動の場と化した」【注37】のだが、それは快楽を敵視して労苦に耐える内面を強調する近代のキリスト教倫理に支えられただけでなく、科学がこうした倫理に根拠を与える役割を果たした。オナニーは極度な精力減退 を招き、勤労意欲に敵対するという学説が出される。もっともよく知られた学説は、スイスの医師、ティソーによるものである。ティソーは、荒淫の症例や個人の観察などから、その主張を「科学的」に組み立てた。ティソーによれば過度なオナニーは性的不能症、癲癇、失明、リウマチ、淋病、腫瘍、痔、ヒステリー、眩暈、黄疸などの症状を引き起こし、末期症状としては、やせこけて悪臭をはなち、寝たきりとなり、精液と汚物を垂れ流すことになるというのだ。【注38】
なぜオナニーはこれほどまでに嫌悪され、罪深いものとみなされることになったのだろうか。ソレによれば、プロテスタンテイズムと復興カトリシズムの発展のなかで、性的な事象は恥ずかしい出来事として抑圧され、「呪われた部分」に押し込められ、この文明化の過程は、貞淑ぶってとり澄ますことを義務と心得る新しい人間像を創り出したと述べている。ブルジョワイデオロギーは、性的な身体を嫌悪する一方で、恋愛と家族愛のなかにこのいまわしい事象を抑圧した。「欲望を隠し義務の犠牲にすることは、言葉には表されなかったが、全体の徒になった。この戒律は、外部からの強制と道徳的な内面化によって抑圧の体制を強化するとともに、性的禁忌の広範な流布なしには考えられないエロチシズムを生んだ。そういう状態の中から、近代の人間が存在のもっとも肝心な部分をもぎとられて現れ出たのである」【注39】
オナニーに対する排斥は決して前近代的な迷妄ではなく、むしろ近代社会がその最先端の思想と科学を駆使して排斥しようとしたものだった。プロテスタンテイズム、啓蒙主義、公教育制度、近代医学、これらがこぞってオナニーを排斥したのだ。【注40】他方でこれらのあたらしいワルジョワ的な価値観が擁護しようとしたものには、労働と家族愛、女性に対する純潔イデオロギーがあった。【注41】言い換えれば、近代的な身体とは、労働する身体の再生産として構築されたのである。そして労働者としての個人は、男女別々に制度化された〈労働力〉の再生産と消費のサイクルのなかでみずからの身体と世代的な身体の更新を行う。性的な欲望は、生産単位から〈労働力〉の再生産組織へと社会的な機能がおおきく転換した家族の形成に不可欠であるという限りにおいてその自由を与えられ、また都市化社会と親族組織の解体のなかでカップリングを可能にする仕掛けとして配置された。一見自由にみえる性的な欲望の表出も、その自由を媒介として制度が実現しなければならない労働する身体の秩序を再生産するように機能している。男性と女性とではまったく異なった規範に縛られ、更に家庭の内部と外部、学校の教室と放課後の時間、フォーマルな支配的文化と若者のサプヵルチャーなどで一見すると互いに抵触しあう規範が外見ほどには摩擦をおこすことなくむしろ全体としては性的な権力作用を再生産しているのである。
オナニーもまたこうしたさまざまな性的な規範が実行される場に応じて多様な規範に従属する。親子の間、学校の性教育、同性の友だち、異性の友だち、サブカルチャーを支える性文化産業の言説などは、オナニーにたいして同一のまなざしをもっているわけではないし、時代によって大きな変化をともなうものでもあった。
時代が下がるにつれて、オナニーを罪悪視、不道徳視してきたブルジョワイデオロギーも徐々に後退し、それを正常な性的な現象へと位置づけ直すことが徐々に強いられるようになる。ショーターが指摘しているように、二〇世紀半ばにはこの現象は病的なものから逆に健康に害のあるものとはいえない正常な性欲現象のひとつにまで格上げされるようになる。ちょうどティソーが一八世紀に試みたオナニーの医学的な排斥を裏返しにしたような性医学によるデータがマスターズ=ジョンソンによって示されたのもこのころである。【注42】ショーターもソレもなぜこのようにオナニーにたいする評価が変化したのかその理由について説明できていない。これに対して、金塚貞文は、ティソーらのオナニー害悪説がもっぱら経済的な用語を身体現象に当てはめるように用いられていることに着目して、近代初期には勤勉、節約の経済倫理が身体に適用され「オナニー=浪費という〈寓話〉が形作られた」【注43】と指摘し、したがって経済倫理の変化によって、この節約倫理に基づくオナニー有害論も変化するようになったという仮説を提示している。いわゆる大衆消費社会現象が顕著になる二〇世紀半ばには「市民階級の経済倫理は、もはや、勤勉と節約ではなく、快楽追求と、そのための消費に他ならない」ものになると、個人の身体は、消費の主体となり、欲望は抑圧されるべきものではなく、むしろ開発されるべきものとなり「オナニーが私的な性的快楽の追求として、さらには、それが商品への需要を喚起するものとして、一つの規範的行為と見倣されるようになる」【注44】というわけである。すでに述べたように、市場経済は買い手の欲望を喚起することを通じて消費を促す以外に販売の実現はできない。一九世紀から二○世紀半ばにかけての長期の階級闘争は、労働する身体を睡眠に次ぐ支配的な時間から、次第に短縮され二次的な位置へとシフトさせ、逆に「余暇」が拡大され始めた。これはく労働力〉再生産により長期の時間とコストがかかるようになったといってもいいのだが、そのなかで、とりわけ欲望の開発が重要な位置をしめるようになったことは確かだ。こうした観点からすれば、金塚が言うようにオナニーが無害化されたのは、「身体が、〈消費する主体Ⅱ快楽の器〉となったことの必然的帰結に他ならないのだ」【注45】とい、うのは決して間違ってはいない。しかし、それでもなお、私たちは自分がオナニーをするという経験について公然とは語りがたいところが残る。後ろめたさがつきまとうのである。

七 オナニーにおける内面の「不道徳」という問題

ショーターによると、近代初頭においてオナニーの社会的な分布には地域差と階級差が明確にみてとれるという。つまり、農村よりは都市部に、下層階級よりは中産階級に、また高等教育をうけたものほどオナニーの普及率は高いというのである。中流階級の若者がポルノ小説を読みふけっている時に、下層階級の若者はむしろ買春行動をとっていたという。【注46】こうした差異はどうして生まれたのか。赤川学は、個室という居住空間の成立と黙読を主とする近代小説の形成にその原因を求めて、次のように述べている。
「ポルノグラフィを受容する主体の登場は、大量安価で黙読を要求する近代小説の成立と、個室空間においてひとりで黙読するという実践様式の編成という一一つの線分が交錯する場所において誕生した。それは同時にポルノグラフィを使ってオナニーをする実践の場所、すなわち〈オナニーの補助道具としてのポルノグラフィ〉という私たちが定義する意味でのポルノグラフィの誕生でもあった。それは大人たちに不安を引き起こし、その不安は〈オナニー有害〉論や〈ポルノグラフィ有害〉論のような言説を通して表明されたのであった」【注47】
個室の普及と識字率の上昇にともなって、ポルノとオナニーは男性の性文化全般に見いだされるごく普通の出来事になっていった。一九世紀の小説を中心とするポルノは、二〇世紀にはいって更に写真や映画、ビデオとその媒体を多様化させるようになる。こうしてみると、オナニーとは、単なる自分の性器に対する刺激による快感の昂進という現象ではなく、より本質的には小説やビジュアルな図像によって与えられる性的なファンタジーを自づから作り出そうとする意欲こそがその根源にあるといっていい。それは、現に存在する女性の代替物なのではなく、むしろ現に存在する女性の性欲や性的接触とは本質的に異なる行為なのである。
こうした性欲の表象、それも赤川が定義するようにオナニーの補助手段として利用きれることにその唯一と一言っていい使用価値があるポルノは、男性の性的な欲望にどのような形をあたえているのだろうか。フェミニズムからの批判にあるように、女性の身体をたんなる性欲充足のための「モノ」とみなす価値観を促すという機能をポルノが果たしているといえないわけではないが、しかし、性的な欲望の発現はもうすこし錯綜した仕組みを備えているようにみえる。ポルノもまた商品の使用価値のフェティッシュな性格から逃れることはできない。つまり、他の一般商品と同様、消費者が求める性欲の物語をポルノという商品は肝心なところで満たしてくれないのだ。
赤川は、ポルノビデォを素材として、「アダルトピデオの愛好者は、演じている女優が本当に〈本番〉をしているのか、エクスタシーを感じているのかといったことに神経症的なまでの興味を示す」と指摘する。【注48】つまり、男優はペニスの勃起と射精によってその興奮を明示的に示せるのにたいして、「女性の快楽の視覚的証拠は、男性の快楽以上に確認しにくい」のだ。だからこそポルノビデオは、この証明不可能な女性の快楽の真実性をあの手この手で表現してみせようと悪戦苦闘するわけである。しかし、それは常に満足のいく回答として画面上には現れない。画面上に登場する女性に同一化できない受け手の男性にたいして、「自己を、女性には同一化不可能な他者、すなわち男性として再潔させること」、これこそがポルノの「基本的戦略」だと赤川は指摘している。
ポルノに端的に示されているその使用価値のフェティシズムは、商品の使用価値一般が有するそれとまったく同一の仕組みを持っている。ポルノビデオを前にして、今度こそ自分の欲望を完全に満たしてくれるモノに出会うに違いないと想像する。しかし、そうした想像は、ポルノビデォのパッケージや広告が作品とは相対的に別に受け手を唆すために発進しているメッセージを根拠に、受け手が勝手に構築する物語のなかでのことである。画面上に展開されるセックスの情景と自分が想像したそれとの間には決して完全な一致はあり、えないからだ。【注49】それは、商品への欲望は、つねにその商品のイメージが作り出す欲望の物語に即して喚起された欲望に導かれるために、決して一致することはないからなのだ。この欲求不満が性産業の需要を支えている。それは、その他の多くの商品の需要を支える構造とほぼ同じ仕掛けである。 商品に対する欲望の構造がこのようにポルノであれ他の商品であれ一般に同じであったとしても、なぜポルノにたいしては道徳的あるいは倫理的な規制がより強く作用するのだろうか。たしかにオナニーは、悪徳でもなければ病気でもない、健全な性欲現象といわれている。事実、学校教育における教師の性教育の指導書などをみても、オナニーを禁止するような記述はなく、むしろ正常な性欲の発現であることを生徒達に指導することが求められている。
だが、オナニーはもはやなんの問題もない性行動となったというわけではない。実は、語られがたい事柄がまだあるのだ。それは、オナニーが促す想像力の問題である。ポルノがオナニーの補助手段であるという赤川の定義を踏まえるとすると、男性がオナニーをするときに頭の中で何を想像しながら自分の性器を刺激しているのか、そのイメージの内容こそがポルノを反道徳的とする根源にあるように思う。多くの場合、ポルノが描く性行為のシチュエーションは、日常生活において通常ありうるとはいえないケースである。OL、女子大生、女子高生、スチュワーデス、看護婦、女教師、婦人警官、主婦などの職業を背景に、夫婦、恋人といった関係よりも、ゆきずりの他人、隣室の覗き、恋人の友だち、上司と部下、教師と生徒、患者と看護婦、親子、兄妹、姉弟などの物語が設定される。多分、オナニーとポルノが問題になるのは、この多様な欲望の物語がはらんでいる、現実においては犯罪であったり、タブーであるような内容にたいして性的な欲望を喚起されるという性欲の在り方にたいしてなのではないだろうか。性教育の指導書にはオナニーは禁じられてはないが、実際にオナニーする男の子が、自分が気に入っている学校の教師を想像したり、隣に座っている女の子のことを考えたり、あるいは自分の姉妹や母親を想像してオナニーすることはいけないことなのかどうか、実際には犯罪となる強姦をイメージして性欲が喚起されることはいけないのかどうかという具体的な問題に対して、「それは想像上のことだから自由に自分の気持ちいいようにイメージしてよいのだ」と言い切るような形では答えを出せないでいる。ポルノが女性の身体をモノ化しているという場合も、批判が表象としてのポルノに向けられているかぎりは問題の核心には触れていない。問題の核心は、対象を自由にもてあそびながら自分の性的な欲望を喚起し、性器を勃起させて射精する男性の内面に展開される物語の反道徳的で自分勝手な物語の構築をも批判すべき対象とみなすか、それともそれは個人の想像の領域であって外面に表出されることがなければ免罪さ・ れるものなのか、そこのところをはっきりさせる必要があるというところにあるように思う。
ポルノを規制する権力は、近代における個人の自由や内面の自由という理念と折り合いをつけながら、こうした個人の想像の物語における道徳性を問う仕掛けを模索してきた。医学的な害悪であれ性犯罪の原因説であれ、抑圧の対象はポルノではなく、ポルノに象徴される個人の想像力の「反道徳性」なのである。しかし、何を考えているのか、何を想像しているのかということを確認する手立てはない。商品化されたポルノや性的な表象は、いわばこの内面の想像力を推測する状況証拠とみなされるのだ。男性が買春することにくらべてそれ以上に表現物としてのポルノⅡわいせつ物への取締が厳しいのは、このポルノが構築する想像力の世界の「なんでもあり」が権力のタブー意識、観念としてであれ支配的なイデオロギーが想定する性愛の理想的なモデルに抵触するからなのだろう。表象としての性器が現実の性器以上に忌避されるのは、表象のほうが内面の想像力を喚起する力が大きいからだと考える以外にその理由を見いだすことは難しい。
現実にはありえない性的なシチュエーションにたいして欲望が喚起され、しかもこの欲望が多くの場合はオナニーという形で自足して、現実の他者との関係へと転化されないのは、近代社会が生み出した特有の欲望と行為の構造と関わりがある。高度に細分化された分業と貨幣を媒介とした市場経済の浸透によって、私たちの行為は多くの場合私たちの欲望とは無関係に発動する。空腹を満たすために狩をして獲物を捕らえるという単純な人間と自然の物質代謝とか欲望と行為の連関はありえない。空腹を満たすために私たちは、自分の日常生活と全く無関係に、オフィスで書類を書いたり、自動車を売りさばいたり、知識を伝達したりといった「仕事」をして貨幣を稼ぎ、そして商品としての食料を買い込むのである。この構想と実行の分離は、欲望をめぐる発動にも影響を及ぼしているといえる。現代の労働者達は、会社で仕事しながら、それとは無関係な想像力を頭の中で働かせることができる。子供の頃から、私たちは学校の教室で、授業中に空想にふけることで退屈な時間をやりすごす訓練をつんできたからだ。
しかし、多分、ポルノが他の表象と比べてより一層排斥の対象となるのは、この空想の世界が、頭の中にとどまらず、この空想に耽る人は性器をまさぐり、刺激するという性的な行為に促されるという点で、自己の身体に対するある種の実践をともなってしまうからなのではないだろうか。【注50】
道徳や倫理とは内面の精神の持ち方なのか、それとも行為として表出されたその結果によって判断されるべきものなのか。欲望と行為を切断した近代社会は、一見すると内面の自由を解放したようにみえる。事実、法が個人の自由を人権として立てる場合、法の強制力が内面の自由に干渉することを厳しく制限している思想信条の自由はこうして保護されているわけだが、しかしわいせつな表現を違法とすることにみられるように、性的な欲望の喚起についてだけは多くの場合、例外を構成してきた。この分野に関してはまだ内面の自由は保障されていない。ポルノがオナニーのための補助的な手段であり、同時にポルノは違法なわいせつ物の中心をなす表現物であるということから、近代社会はオナニーとして表出される性的な欲望への抑圧の意図を放棄していないということがわかる。この抑圧は、家族にしる学校にしろ、この多様で倒錯的ですらある性的な想像力にたいして対応できる言説を持ちえていないからにほかならない。逆にポルノの市場経済は冗舌であり、多様な性的欲望の表象を繰り返し供給する。このいずれにおいても、性的な欲望は抑圧され、煽動され、そのあげくにいっこうに性的な充足は保証されることもない。

おわりに

性の商品化は、それだけを独立して廃棄できるというようなものではない。近代社会の家族制度や性的な想像力の行使などもふくむ性的な身体の秩序と深く関わっている。だから、家族の価値を一方で維持しつつ、他方で性の商品化を批判することはできないし、そうした立場にたつ国家の法もまた解決のための手段としては役に立たないどころかむしろ性産業で働く多くの女性達をますます差別と抑圧のなかに排除するだけであろう。 性産業が男性を購買層とする市場を構築してきた長い歴史は、同時に男による「女の交換」としての結婚制度と対をなすものだった。そしてまた、表象としての性の市場ともいえるポルノは、現実の性的な関係とは区別された多様で倒錯した性的な欲望の想像力を喚起するがゆえに、そしてまたその想像力の世界が男性のオナニーという性行為に結びつくがゆえに、単なる表象の世界に完結するものとはいえなかった。これらはいずれも、男性を消費者とする市場として発達してきたのであって、男性の性的な欲望が近代社会のなかでどのように構築されてきたのかという視点からの議論を欠くことのできない分野なのである。そして、男性のセクシユァリティについての隠された仕組みを明らかにすることによって、逆に権力の秩序を支えてきたジェンダーの深層構造もまた明らかにされるはずである。

引用・参照文献
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・アクロス編集部『気持ちいい身体』、PARCO、一九九六
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・上野千鶴子・他『セクシュアリティの社会学』、岩波書店、一九九六
・江原由美子・編『性の商品化』、勁草書房、一九九五
・江原由美子・編『フェミニズムの主張』、勁草書房、一九九二
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・金塚貞文『オナニスムの秩序』、みすず書房、一九八二
・川村邦光『セクシュアリティの近代』、講談社,一九九六
・川村邦光『オトメの祈り』、紀伊國屋書店、一九九三
・川村邦光『オトメの身体」、紀伊國屋書店、一九九四
・佐伯順子『遊女の文化史』、中央公論社、一九八七
・佐伯順子「『恋愛』の前近代・近代・脱近代」、前掲『セクシュアリティの社会学」所収
・ショーター、エドワード 『近代家族の形成』、田中俊宏.岩橋誠一、見崎恵子、作道澗訳、昭和堂、一九八七
・瀬地山角 「よりよい性の商品化へ向けて」、前掲『フェミニズムの主張』所収
・ソレ、ジャック『性愛の社会史』、西川長夫訳、人文書院、一九八五
・田崎英明・編『売る身体/買う身体』、青弓社、一九九七
・ダプリアム、J.F.ホルスタイン、J.A.『家族とは何か』、新曜社、一九九七
・デュピー、ジョルジュ他 『愛とセクシュアリテの歴史』、新曜社、一九八八
・永田えり子「〈性の商品化〉は道徳的か」、前掲『性の商品化』所収
・中山太郎『売笑三千年史」、復刻版、パルトス社、一九八四
・橋爪大三郎 「売春のどこがわるい」、前掲『フェミニズムの主張』所収
・フーコー、ミシェル『性の歴史』、渡辺守章訳、新潮社、一九八六
.フランドラン、ジャン=ルイ「晩婚と性生活」、『性と歴史』宮原信訳、新評論所収、一九八七所収
・マガジンハウス・編 『平凡パンチの時代』、マガジンハウス、一九九六
・マルクス、カール 『資本論』、第一巻、マルクス・エンゲルス全集刊行会訳、大月書店
・森栗茂一『夜通いと近代売春』、明石書店、一九九五
・Ann Alison, Nightwork, sexuality,pleasure and corporate masculinity in a Tokyo hostess club, University of Chicago Press, 1994

1. セクシユァリティの特殊歴史性や、後に見るように恋愛の特殊歴史性は、最近多くの論者によって繰り返し論じられるテーマとなっている。上野千鶴子『セクシュアリティの社会学』
(岩波書店、一九九六)の「セクシユアリティの社会学・序説」による詳細な文献紹介を参照
2. 勁草書房、一九九二刊
3. 橋爪大三郎「売春のどこがわるい」、瀬地山角「よりよい性の商品化へ向けて」ともに江原編『フェミニズムの主張』(勁草書房、一九九二)所収
4. 同前、一八頁
5. 瀬地山角「よりよい性の商品化へ向けて」江原編、前掲書所収、六四頁
6. 橋爪、前掲論文、同前、一五頁
7. 同前、二六頁
8. 永田えり子「〈性の商品化〉」は道徳的か」江原編『性の商品化』(勁草書房、一九九五)所収。
9. 売春婦と妻とは制度上明確に区別することはできるが、一般論として両者を区別するということになると、さまざまな困難が伴う。たとえば、もっとも一般的な売春婦の定義は、貨幣による対価をともない、不特定の男性と性交渉を行う者という規定だろう。しかし、男性から見た場合の「買春」は、この定義では充たされない。なぜならば、男性にとっては相手が不特定の男性と性交渉をもっているかどうかということよりも、貨幣の対価によって契約きれた期間については、自分が相手の身体を性的に占有できるということが満たされることが必要条件だからだ。この占有時間が長くなれば当然性交渉も特定の男性に限定されてくる。
そうなればなるほど性的な交渉そのものに費やされる時間よりも、食事をするなどのそれに付随するその他の時間の方が大きくなる。
こうした非性的なコミュニケーションが増えれば増えるほどその関係は「妻」との関係と近いものになる。したがって、通説のように 売春婦と妻との違いを女性の側の男性との性交渉のありかたに求めるだけでは十分ではない。
10. 田中俊宏、岩橋誠一、見崎恵子、作道潤訳、昭和堂
11. 「当時の人々が記すところでは、農民の間にはロマンチック・ラヴ——これが出現するのはもっとあとのことである——存在すべくもなかったし、都市の中流階級の家庭にはすでにこの頃にみられた夫婦間の特別な親密さ——これはのちに「家庭愛」となる——も存在しなかった。農民の夫と妻は、それぞれの殻に閉じこもり、冷ややかに対立し合ったままいっしょに暮らしていたのである」(五八頁)
「社会の各層、または多分、都市と農村によって微妙な差異は認められたとしても、夫婦間の冷淡さは、一八〇〇年以前の夫婦生活の基本的特徴であり、どこでもそう大きな違いはなかった。中流階級の上層や知職人をべつにすれば、この〈伝統的な〉行動パターンがほとんどすべての人びとの間で一般的であったのは間違いない」(六一〜六二頁)
12. 同前、七七頁
13. 「農民たちや小ブルジョワは、かれらの妻を子どもを産む機械とみなし、またそのように妻を扱った。すなわち、愛情をもつことなく、妻と機械的に接したのである。女の性は、標準化された商品——この場合は道具のように物ではなく相続人となる男の子ども——の生産にだけの意味しかなかった」同前、七七頁
14. 「晩婚と性生活」『性と歴史』宮原信駅、新評論、所収、およびジャック・ソレ『性愛の社会史』西川長夫他訳、人文書院、一九八五参照
15.ショーター、前掲書、一〇二頁
16. 同前、一五六頁
17. 同前、二七三頁
18.カール・マルクス『資本論』第一巻、マルクス・エンゲルス全集刊行会訳、大月書店、七六二頁
19. 同前、七六三頁
20.「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかに売るものがないという人間が現われることだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要素を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産過程の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的賭関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。(略)事態が普通に進行するかぎり、労働者は〈生産の自然法則〉に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。賓本主義的生産の創成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジー〔資本家階級]は、労賃を〈調節する〉ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押し込んでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の一つの本質的な契機なのである」マルクス、前掲書、九六三〜四頁
21. ジャック・ソレ『性愛の社会史』前掲、一二四頁
22. 同前、一二六頁
23. 同前、一二七頁
24. 同前、一三五〜六頁
25. 以下の記述に関連して、小倉利丸「売買春と資本主義的一夫多妻制」、田崎英明編『売る身体/買う身体」(青弓社、一九九七)も参照
26. 非マルクス派は、商品経済現象の量的な側面についての分析では洗練を重ねてきたが、逆に社会関係としての商品関係という視点はもてないままだった。フェミニストによる資本主義経済分析では主としてマルクス経済学の枠組みを批判的に継承するという方法がとられることには、根拠があるのだ。しかし、一九六〇年代までのマルクス派の分析枠組みは、性に基づく理諭の枠組みを持っていないし、家事労働などの非商品経済領域にたいしても、ほとんど考慮きれていなかった。フェミニズムによる社会批判のなかで、マルクスの理騎、とくに搾取理論や商品経済の物象化的な性質(または初期マルクスに依拠すれば疎外された労働論)、相対的過剰人口や失業と貧困の問題、本源的蓄積の理論などは、女性という社会集団をプロレタリアートとともに明示的にとり上げることによって、理論的な拡張を試みてきた。いわゆる社会主義フェミニズム、唯物論的フェミニズム、オートノミスト・フェミニズムの流れがこれにあ
たる。
27. カール・ポランニー『大転換』吉沢英成訳、東洋経済新報社、一九七五、参照
28. ミシェル・フーコー『性の歴史』第一巻、渡辺守章訳、三五頁以下参照
29. 同前、三五〜六頁
30. 日本のサラリーマンの接待行動についての詳細なフィールドワークとして、次のものを参照。Ann Alison, Nightwork, sexuality,pleasure and corporate masculinity in a Tokyo hostess club, University of Chicago Press, 1994
31. 本稿では、売春を労働と位置づけている。この観点から近代の売春について検討したものとして、タン・ダム・トゥルン『売春—性労働の社会構造と国際経済』田中紀子、山下明子訳、明石番店。日本については田崎英明編『売る身体/買う身体」(青弓社、一九九七)参照
32. 日本の場合、女性の純潔イデオロギーが形成されるのは一九二〇年ころとみられている。この点については、川村邦光『セクシュアリティの近代』(講談社、一九九六)、同『オトメの祈り』(紀伊國屋書店、一九九三)、同『オトメの身体』(紀伊國屋書店、一九九四)参照。妻をセックスワーヵーと位置づけて日本の近代における結婚と売春について考察したものとして菅野聡美「快楽と生殖のはざまで揺れるセックスワーク」、および日本における売春と近代家族を考察したものとして千本秀樹「労働としての売春と近代家族の行方」、いずれも田崎編、前掲書所収を参照のこと。
33. 従来の日本における通史的な「遊女」研究の伝統を批判して、森栗茂一は、「中古の遊女と近世以降の売春婦とは明らかに異なった歴史構造にあり、不連続は否定できない。売買春という行為は、歴史的事実であり、それぞれの時代状況の社会経済構造のなかで、もっと位置づけられる必要があったのではなかろうか」(『夜這いと近代売奪』明石書店、一九九五、八二頁)と批判し、近世以降の中期以降の売買春と近代の売買春のあいだに連続性をみるべきであるとしている。この観点は、西欧における家族史と売買春の歴史にもいえることである。なお日本の売買春の歴史については、中山太郎『売笑三千年史』春陽堂、一九二七、復刻版、パルトス社、一九八四、佐伯順子『遊女の文化史」中央公論社、一九八七、参照
34. 本稿では残念ながらこれらの議論を群しく紹介する紙幅がない。さしあたり、赤川学『性への自由/性からの自由』(青弓社、一九九七)、参照
35. ソレ、前掲書、一三九頁
36. 金塚貞文『オナニスムの秩序』八頁以下参照。カントからの引用は本書による。
37. ソレ、前掲書、一四〇頁
38. 金塚、前掲書、一八九頁より
39. ソレ、前掲書、一四四頁
40. 「公けの禁欲主義が一致してしつこく追いつめたあの官能の歓びをいくらかでも充足させるというかぎり、自慰はタブーとなった。これによって啓蒙主義の時代は、性の最大限の抑圧の始まりを画したのである。宗教と食物、住居と睡眠、衣服と職業、監視と学校のことごとくがおのおのの組織をあげて、肉体に迷い込む悪習に目を光らせていた」ソレ、同前、一四七頁
41. ロジェ=アンリ・ゲランも反マスターベーションの風潮を「啓蒙の世紀」に生まれた「権力に渇えたブルジョワジーによってねつ造された新しい〈価値〉である」とし、その背景には、サドに象徴される貴族の頽廃を嫌い、倹約を価値とする彼らの倫理観とおおいに関わりがあったことを指摘している。(ロジェ=アンリ・ゲラン、「マスターベーション糾弾!」ジョルジュ・デュピー他「愛とセクシュアリティの歴史』新曜社所収、一九八八
42. 日本でも、ちょうど六〇年代が若者の性に対する態度の大きな変化をもたらした時代だといえる。マスターズ=ジョンソンの研究が奈良林祥によって「平凡パンチ」に紹介されるのが一九六六年である。『平凡パンチ』が若者の男性の性文化に与えた影響については、マガジンハウス編『平凡パンチの時代』(マガジンハウス、一九九六)、参照
43. 金塚貞文『快楽(オナニー)する身体と資本主義』、アクロス編集室編『気持ちいい身体」PARCO、一九九六、所収、七五頁。また、次のようにも述べている。「身体は、体液やエネルギーの生産と消費の場として、個体としての自立性を獲得し、自然的生理作用を営む個体となり、その個体の自然的生理作用の一つとしてセックスが位置づけられ、そこに本能なり性的欲望といった衝動が設定され、そうした欲求の充足の過程の中に生殖もまた取り込まれてゆくのである。性的快楽が、身体の生理的欲求の充足の問題として独自に立てられ、宗教的、と道徳的規範から離れ、新たに独自の生理学的規範を獲得したというわけだ」同前、七三頁
44. 同前、七七頁
45. 同前
46. ショーター、前掲書、一〇五頁参照。また、赤川学、 前掲書、第五章参照
47. 赤川、前掲書、九五頁
48. しかし、これはもしかしたら日本のポルノビデオに特徴的な現象かもしれない。数量的なデータによって判断できないので、印象批詳の域をでないが、欧米のポルノビデオでは、むしろ女性の性的な態度がいかに男性の性欲を喚起して「イカせる」ことになるかが主題になっているような構成が多いように思われるからだ。ポルノピデオは、万国共通のものではなく、性行為における文化的な差異を正直に反映している。この点の分析は今後の課題だろう。
49. 小説などの文字のメディアと写真、ビデオなどの映像のメディアとではおなじポルノでもその受け手の想像力に作用する在り方からみたときに、さまざまな無視できない違いがある。文字よりは写真、写真よりはビデオや映画の方が与ええられたイメージへの拘束力は大きい。それが受け手にとって「好ましい」ことといえるのかどうか、セクシユァリティにとってどのような影響があるのかにっいては更に検討を必要とするだろう。
50. カントはこのような現実にはない対象を人間が勝手に作りあげ、そして情欲にかりたてられることを自然の目的に反する悪徳であると批判した近代初期の思想家の一人である。「肉欲によって作り出きれる悪徳は、淫乱といわれるが、この感性的衝動に関する徳は、貞淑とよばれ、それはいまやここでは人間の自己自身に対する義務として考えられなくてはならないものである。情欲が不自然だといわれるのは、人間が現実の対象によってではなく、対象を想像することによって、それゆえ目的に反して自ら対象を創りあげることによって、それへと駆りたてられるという場合においてである。というのは、この場合には、情欲は、自然の目的——しかも生命への愛をも凌ぐ重要な目的、なぜなら、前者の目的はたんに個体の保持を目指すものにすぎないが、後者の目的は種族全体の保存を目ざすものからである——に反する欲望を惹きおこすからである」カント『人倫の形而上学」、金坂前掲書一一頁より再引用。

出典:近藤和子編『性幻想を語る』、三一書房、1998年