監視社会批判の三つの視点──デイビット・ライアン講演会におけるコメンテータとしての発言

一点目は、今日のテーマは監視ということですが、監視と言う言葉のニュアンスを超えて、真剣に考えなければいけないことは、今日のライアンさんの話しにもあった私たちの市民的な自由、あるいは人権に関わる問題です。私たちの行動や思想を監視することを通じて、市民的自由の行使、人権や権利のためのわたしたちの行動それ自体が違法化される、犯罪化されるということが、必ず監視のあとについてくる、あるいは監視と表裏一体になるのではないか考えています。従って監視問題とは権利それ自体の犯罪化に結びついているということを強く自覚する必要があるだろうと思います。戦前のリヒャルト・ゾルゲがその典型です。ゾルゲは明確な国家に対する抵抗の意思を持ち、コミュニストであり、戦時中に処刑されました。彼が行ったスパイ行為を私たちは、普遍的な権利の観点に立って全面的に肯定しなければいけません。私たちは犯罪化されたから、違法化されたからといって、そうした行為を避けるのではなくて、私たち自身がそうした行為の主体にどうなれるか、ということに深く関わっていかなければいけない時にきていると思います。もう一つの例を挙げるとすれば、1950年代の日本のレッドパージと米国のマッカーシズムでしょう。密告、陰謀、監視がはびこり、思想信条の自由が合法的に抑圧された時代です。これが戦後西側世界の出発点になったことを忘れるべきではありません。

二点目は、なぜ日本政府はスノーデンの告発に対して、沈黙を守っているのか、ということです。ドイツ政府と非常に対照的です。自民党だけではなく、民主党もスノーデン問題に立ち入るかと思ったらそうでもない。やはり戦後の日本の米政府との関係で言えば、実は日本政府の中枢を占めてきた人たち自身が、もしかしたら米政府のエージェントなのかもしれない、とすら思える態度です。いまさら何も米政府に問い質すことはないということであるとすれば、私たちはそうした日本政府を私たちの政府と見なすわけにはいかない、私たちはやはりスノーデンに会わなければいけない、彼は日本にいたし、日本人のガールフレンドもいました。そういう人間だった彼が、日本で何をやってきたのか?それなりの手続きをとって、彼が日本で何をやり、スノーデンファイルの中に公開されてないものは沢山あるといわれているので、それについてもきちんと公開できるようなことをやっていかなくてはならないと思っています。

三点目は、ライアンが最後にユートピアの話しをされたことに関連します。いろいろ監視社会として問題のある社会だけれど、ユートビアを考えようと言われたましたが僕もそう思います。ユートピアはいろいろある、一つはインターネット。インターネットは世界で一つしかないが、この時期もう一つオルタナティブなインターネットは絶対必要だと思っています。もう一つインターネットを作ることは、昔から議論がありました。不可能と言われていたが、ほんとうに不可能かどうか私たちが考えなくてはならない、インターネットの内部で抵抗していくだけでなく、もう一つあるいは三つ四つのインターネットを考えなくてはならない時期に来ているだろうというのが一つ。二つ目はこれもユートビアの話しですが、政府の監視から逃れる方法を考えなくてはならない。20世紀初めの心理学者・精神分析家のジークムント・フロイトがいう無意識がもし本当にあるなら、私たちは無意識の闇の中から遊撃戦をするため、理解できない支離滅裂な訳のわからない人間になる必要があると、それは基本的に必要なことだと。監視する側が把握する「私」と今ここにいる私との間に亀裂を創り出すということです。つまりいくら個人情報を蓄積しても不可解な存在になるべきだということです。しかもIDシステムが前提しているように「私」は一人であることはないし、その必要もないく、複数の自分を私たちは自覚すべきでしょう。これは、、クローン人間とか遺伝子工学などのいかがわしい技術とは無関係なことで、人間が本来持っている「私」のあり方なのです。それを近代世界のなかで私たちは忘れてしまっているだけです。いずれにしてもユートピアの話しですが、いろいろな抵抗を考えていかなくてはならないとライアンの話しを聞きながら考えました。

(2014年7月17日かながわ県民センターで開催されたデイビット・ライアン講演会におけるコメンテータとしての発言)