ノマドの権力と主体の再構成

ノマドの権力と主体の再構成

小倉利丸

●虚構の共同性を掘り崩す携帯文化

この10年ほどの間に、コミュニケーションの環境が大きく変化した。とくにインターネットなどのコンピュータ・コミュニケーションと、携帯電話などのモバイル通信環境が劇的に普及してきた。これら二つのコミュニケーション・テクノロジーに共通した点がある。それは、両方とも双方向のコミュニケーションのテクノロジーだ、ということである。20世紀には数多くのコミュニケーションの革新がみられた。映画、ラジオ、テレビ、衛星放送、ケーブルテレビ、ビデオ、ファックスなどその数は多いが、これらはいずれも一方通行のメディアでしかない。双方向のコミュニケーション手段は、電話と無線通信しかなかったし、移動中の双方向の通信手段は、無線通信しかなく、一方が移動し、他方が固定的な位置にいる場合には公衆電話がかろうじて利用できるにすぎなかった。

コミュニケーションが一方通行か双方向か、また、移動中の双方向のコミュニケーションが可能かどうかという問題は、社会的な合意形成のあり方に大きく関わる。たとえば、マスメディアは、多くの研究が指摘しているように、少数の発信者が不特定多数にたいして情報を提供することをつうじて、世論を形成し、大規模な人口を抱える近代国民国家の枠組を「イメージ」として再生産するある種のイデオロギー装置として機能してきた。出会ったこともない不特定の人々とともに同じ「国民」としてのアイデンティティを共有し、同じ世界観を共有できるような条件は、マスメディア抜きにはなりたたなかったし、したがって、社会的に標準的な生活様式を普及させて、大衆消費社会と呼びうるような極めて均質な生活観もまたマスメディアぬきには成立しえなかったといっていいかもしれない。これは、マスメディアが実体的にも「国民」とか「世論」とよべるような集団的な意思を形成したというのではなく、個人がマスメディアの情報散布環境のなかで、情報発信の力を持ちえないために個人の意思が事実上表面化できなかったにすぎない。こうしたメディア環境は現在では唯一のものではない。コンピュータ・コミュニケーションは、国境を意識しない不特定の双方向通信を可能にし、同時に個人の情報発信力とマスメディアのそれとの溝が埋められるにつれて、集団的な意思とみなされていたもののなかには多様な差異が存在し、決して「国民」とか「世論」といったまとまりに還元できないことがはっきりし始める。言い換えれば、マスメディアの情報環境が構築してきた「国民」や「世論」という観念は、新たなコミュニケーション回路の普及のなかで揺るがざるを得なくなっている。

携帯電話がもたらしているものは、もっとミクロなレベルでの大きな変化である。電話が、家庭のなかの共有空間から個室へと移動したことにみられるように、人々のコミュニケーションの要求には、単に他者との関係欲求だけがあるのではなく、コミュニケーションを周囲に知られたくないといったプライバシーへの要求が伴っている。携帯電話は、どこであれ、通信が開始されると彼/彼女の周囲に一時的な閉鎖的空間が構成される。電車などで携帯電話の使用を「迷惑」だとして禁止する最近の風潮は、携帯の利用者が、電車のなかの共同性を壊し、同じ空間を共有している人たちには理解できない彼/彼女の閉鎖的な空間をこれみよがしにつくられるのが嫌だからであって、根底にあるのは、極めて情緒的な乗客とか利用者などという共同性を個人のコミュニケーションの自由よりも優先すべきだという意識である。携帯電話がうるさくて不快であれば、そのように自分の意思を伝えればよいだけである。当事者間の調整を回避して、交通機関が制度的に携帯を一律に禁止するといった措置に問題解決を委ねる方法は、問題を感じた当事者が責任をもって解決することを避け、ある種の権力に決定権を委譲することであって、権威主義的で抑圧的である。(天皇制的だといってもいい) こうした権威的な解決が受け入れられるのは、公共空間を利用する多様な人々の多様な欲求を認めず、公共空間を公序良俗によって規制しうる単一の共同性に支えられた空間であるというある種の信念が未だに強固であるからだろう。電車での携帯使用禁止は、不特定多数が何のつながりもなく、偶然共有するにすぎない空間にすらある種の共同性があると信じたいこの社会の排他的でかなりの程度までファナティックな観念に対して、携帯文化は、この共同性の虚構を掘り崩す可能性を持っている。携帯文化は、こうした一次元的な共同性の抑圧や虚構の共同性に対して、個人がここから自由に離脱して、自由なコミュニケーション環境を必要に応じてつくり出せる新たな可能性を持っている。携帯が音声だけでなく文字メッセージの端末として急速に普及した背景には、こうした禁止の空間の裏をかくコミュニケーションへの欲求が大きいからだ。オフィスや教室で上司や教師の目を盗んで行なわれる文字メールは、新たな「労働の拒否」の道具となりつつある。

●リアルタイムの合意形成とノマド化する権力

携帯文化は、個人相互の合意形成の基本的な規範を変化させつつある。携帯電話が普及するまでは、移動中の通信はほぼ不可能に近かった。このことは、事前の約束や予定を設定して合意することが物事を円滑に進めるうえで欠かせないということを意味している。手紙や固定電話の場合に、約束を守ることがその個人の人格にすらかかわる重要な資質であるとされたのは、一旦なされた合意形成をリアルタイムに修正するコミュニケーションを積み重ねることや、状況に適合するように適宜変更することがコミュニケーションの仕組みからいってきわめて困難だったからである。約束は、ベンヤミンのいう「アウラ」に近い性質を持っていた。一回性が発揮する関係の唯一性とでもいうべき性質によって、人々は相互の信頼を確信したのである。しかし、携帯文化はこうした信頼を根拠のないものにしつつあるだけでなく、更に窮屈で融通がきかないものだと感じている。
たとえば、携帯電話の普及は、時間と場所をあらかじめ決めた待ち合わせという約束のあり方をほとんど無効にしはじめている。携帯電話の文化では、時間と場所の約束は、厳格なものではなく「だいたいの時間と場所」でよく、早く約束の場所に到着した人が、約束した場所を、近くにある喫茶店に変更したり、遅刻しそうな時に、再度約束の時間や場所を決め直すことができる。約束は一回性のアウラから解放され、反復修正が可能であるだけでなく、この反復を支えるコミュニケーションの積み重ねのなかで、合意形成はより柔軟になる可能性を秘めること二もなる。人々は、コミュニケーションの回路を維持したまま空間的な移動の自由を獲得した。コミュニケーションは社会関係の基本を構成するから、移動に伴うコミュニケーションの切断が回避できるようになればなるほど、人々の移動の自由もまた広がる。こうして、個人のノマド的な傾向を携帯電話文化は促すことになる。

携帯電話は、合意形成を柔軟にしたが、それは、従来以上に人々が容易に他人の行動をリアルタイムでコントロールできると実感できる環境を広げたということでもあるとすれば、この柔軟性は必ずしも好ましいことばかりとはいえないかも知れない。ポケベルが外回りの営業社員をコントロールする通信機器でもあったように、上下関係のある組織のなかで、個人を空間を越えて組織による管理や監視のもとに置く道具として機能するからである。移動する個人を監視し、コントロールする手段はいままでは極めて限られたものしかなかったが、携帯電話、カーナビゲーションなどの移動体端末は、移動する個人を追尾することを可能にした。追尾しながらリアルタイムで双方向に合意形成を繰り返す。こうしたなかで資本主義の企業は、もはや空間的な存在(オフィス、店舗、工場)ではなく、コミュニケーションの組織体となる。資本が労働力に対して行使する権力は、空間的な監視の権力ではない。移動し動き回る個人がポストモダンの資本主義のある種のノマド的な側面を持つとすれば、この個人を管理する新たなノマド的な権力を構成することになる。【注1】

合意形成と約束とは、不可分である。合意形成は約束がとり結ばれるプロセスであり、約束とはその結果の当事者間の法である。そして一般に、社会を構成する者たちが相互に取り交わす約束=社会契約が法となる。合意形成が当事者相互のコミュニケーションを伴うわけだから、コミュニケーションの回路や技術などの条件が変化すれば当然合意形成の方法も変化する。合意は、次の合意までの間の期間について、当事者間を拘束する。合意形成とその結果としての約束=法とはこれだけのことである。この合意形成が制度化され、「装置」として固定化されるのは、合意形成の要請ではなく、合意形成の当事者の規模と当事者間のコミュニケーションの条件が要請することである。近代的な契約が価値増殖の前提となる資本-賃労働関係では、労働過程の熟練工と徒弟のコミュニケーションが構築していた自立的な労働環境を機械化にともなって解体し、資本を介したコミュニケーションへと転換していく歴史が19世紀から20世紀始めにかけてみられた。テイラーの科学的管理法はその最初の試みの一つだが、資本はこのコミュニケーションの管理を通じて、労働過程を実質的に包摂できるようになった。しかし、大量の労働者の集団は、資本のコミュニケーション管理に対抗する労働者の自立的なコミュニケーションの回路を構築する。労働者が職場の空間的な配置を巧妙に利用するだけでなく、都市空間をも巻き込みながらその大衆的な集団性を構築しようとする。資本と異なって、日常生活の空間を職場の外にもつ労働者たちにたいして、資本主義はマスメディアによるコミュニケーション環境の構築と、代議制への労働者階級の利害の反映によって、階級闘争の制度内調整のシステムを次々に構築した。資本は、日常的な階級闘争と景気変動のなかで、労働組織と技術の革新を不断に迫られ、労使間の合意形成やマーケッティングのための情報テクノロジーを高度化させてきた。

●資本主義におけるノマド的な亀裂の生成

資本主義は、封建制の身分的な拘束からの解放だけでなく、家族制的な零細な生産様式と農村人口を解体させ、都市化による匿名性の社会を生み出した。資本主義はこの匿名の社会集団を、階級として構成することになるが、階級的な紐帯は、労働組合、政治団体や都市の労働者コミュニティなどの組織と、こうした組織の線に沿って構築されるコミュニケーションの回路をつうじて具体化される。同時に、資本はこうした集団とコミュニケーションの回路を解体しようとすることもあれば、調整のための手段として利用することもある。しかし、この階級間の調整は最終的には、法的な合意によって支えられなければならず、この合意形成の政治的な場が代議制である。代議制の役割は、社会が抱える当面の最大の矛盾を、社会の基本的な権力構成に変更を加えることなく、つまり、資本主義というシステムの基本を維持したままで調整するための合意の制度である。初期の資本主義にとって、社会的な矛盾の焦眉の解決すべき問題は、封建制的な制度との調整であり、19世紀においては、職人層を中心とする機械化に敵対的な労働者であったり、児童労働へと拡張される資本の欲望の調整であり、20世紀前半においては、ジェンダーやエスニシティという要因を副次的なものとみなす組織された大衆化された労働者の調整であった。こうして大衆化された労働者の調整のなかで、今度はジェンダーやエスニシティが当面の調整を必要とする矛盾として現れてくる。【注2】

階級的な構成が制度化されて、資本の価値増殖のシステムに接合されるようになればなるほど、労働力としての諸個人の矛盾はこの制度化された構成からはみ出す部分、調整のシステムの及ばない部分に現れる。ドゥルーズ=ガタリが「逃走線」と呼んだこうした新たな亀裂が表面化する。あるいは、多数性を獲得する。これは、資本主義としての基本的な構造(資本の価値増殖とそのために動員される労働力の再生産)をそのままにして、この構造が生み出す矛盾を、増改築を繰り返しながら処理せざるを得ない資本主義の基本的な欠陥によるものだ。「国民」という主体は、こうした資本主義の基本的な矛盾をメタレベルで受け止めるイデオロギー装置である。資本主義が制度的に生み出すさまざまな亀裂をさしあたり「国民」という観念でうけとめることによって、矛盾の第一次性を回避しようとする。ある種のワイルドカードとしての「国民」は、多様性が生み出す摩擦を融解する観念だが、この観念を支えるためには、少なくとも「国民」という観念の共同性を支える意識の存在を確保する何らかのメカニズムが存在しなければならない。マスメディアは、見知らぬ人々を共通した記憶の構築によって、一体のものとする想像力を支え、敵と味方の識別のための基準を提起し、世論の対立を調停する装置として、資本主義のさまざまな亀裂を越えた一方通行のコミュニケーションの回路となる。【注3】このマスメディアの制度と、公教育が日常生活における「国民」的な意識の基礎を構築するのだが、これらは常に、資本主義が抱える亀裂が生み出す新たな転覆的な主体との対抗関係のなかで再構成を迫られる。ノマド化は新たな亀裂である。

人々のノマド的な傾向に対するミクロな権力やネットワークの権力の対抗がノマド的な権力であるとすれば、こうしたミクロな権力構成の変化は「国民」という観念の形成装置そのものにも影響を及ぼさないわけにはいかないだろう。それは、市場経済がポストモダニズムに突入し、差異化や多様性をあらたな市場とし、流動する人口を動的に管理するシステムを次々に生み出す中で、19世紀的な投票と討議のシステムをそのまま維持してきた代議制による合意形成と法の制定という方法が、疑問の余地なく有していると思われた権力の権威的な基盤が揺るぎ始めたということでもあるのだ。

●合意形成システムとしての代議制の機能不全

代議制は、大規模な社会集団が、主として一方通行のコミュニケーションシステムを用いて合意形成を行なう場合のシステムである。選挙は、少数の者がまず立候補し、一方的に政見を表明する。そして、投票者は、立候補者とのインタラクティブな討論なしに、この政見を踏まえて、その是非を投票によって数量化して評価する。一方通行の意思表示の組合せなのである。しかし、近代社会はこの合意形成が一方通行のコミュニケーション・テクノロジーによるものだとはみなさず、むしろもっとも「理念的」で社会を構成する諸個人相互の権利の実現にとって最適なシステムであるとみなした。たしかにコンピュータによる情報処理のテクノロジー存在しなかった時代に、紙と鉛筆で、「国民」の意思を確認する最も合理的な方法は、選挙や投票といった個別意思の量化による処理以外にはありえなかった。しかし、現代のような携帯電話によるリアルタイムでの合意形成や、コンピュータネットワークによる双方向のコミュニケーション環境では、伝統的な代議制による合意形成は、必ずしも最適な合意形成の制度とはいえないことを日常の経験から人々は徐々に気づき始めている。さらに、情報処理技術が高度化し、消費者、納税者、住民などとしての個人はますます個別的な識別技術に基づいて、個別に管理されるようになりながら、政治的な意思表示は、たった一票という票でしか認められないというギャップは、投票行動の動機づけを大きく減退させる要因になっている。このような方法で投票者の全意思を代表するなどということがもはや大多数の人々にとって説得力のあるものとはならなくなっているのである。こうした代議制による民主主義が、理念的に最適な合意形成とはいえないことが徐々にはっきりしてきた。

私たちは、代議制にまつわる「公理」を改めて再審に付さなければならない。たとえば、選挙への参加を自明の権利行使とみなしてきた従来の理解はもはや通用しない。なぜ人々は投票をするのかこそが、説明を要するのである。というのも、今では無視できない数の人々が投票の権利を放棄しているからだ。

かつて、投票しない人たちの存在について、「なぜ棄権するのか」とか「なぜ投票率が低いのか」といった疑問が投げかけられてきた。これは、投票することを自明の行動とみなした上で、この自明性をあえて否定、拒否する人々の行動を問題にしたからである。しかし、むしろ今私たちが分析すべきなのは、投票行動をとる人たちの方である。最も常識的で実感的な理解として、棄権する人たちが「たった一票の投票で政治全体が変わることなどありえない」というある種の無力感、無意味なことという実感があると推測できる。こうした無意味さは、積み重なれば無関心を生み出すことになる。個人のレベルでいえば、たった一票が全体に与える影響はきわめて小さいということは、決して間違った認識ではない。

権利を行使しない理由は、その行使が明白な効果と結び付いていないからである。棄権する人たちは、自分が多数派に属するに違いないと考えている場合には、自分が一票を行使しなくても、多数派としての利益は享受できると判断し、逆に少数派であると考えている場合は、自分の一票で多数派に転じる可能性はないと判断して、投票にはなんの利益もないと考えるであろう。これは、自分の一票が全体の政治につながる可能性があるという想像力が形成されていないことを意味している。このような人たちにとっては、投票と代議制によって制度化された政治的な共同体が機能していないということでもある。

これに対して、投票行動をとる人たちの動機はさまざまであるが、基本的には投票の方が棄権よりも意味のある行動であるとの判断がなければならない。この判断は、必ずしも容易ではない。一票という微細な権利が、全体の政治的な意思決定と結び付き、さらには自分自身の利害と関わるという全体的な連関がなければならないからだ。こうした連関は個人対全体としては成り立つことは困難な場合が多く、個人を全体の政治制度へと媒介する中間的な制度あるいは集団が必要である。たとえば、町内会などの自治体の事実上の下位組織、政党、労働組合、経営者団体などが、個人の利害を調整する第一次的な集団をなし、この最も身近な集団がリーダーシップをとることによって、個人の意思を集約して投票行動へと促す。こうした第一次集団の動向とマスメディアによる政治・社会情勢、国家イメージの一方通行の情報散布環境によって、投票行動が組織化される。現在生じているのは、この投票-代議制へと動員する全体としての政治の機構がコミュニケーション環境の変化とともに根本的な変質を迫られているということである。

●解放された合意形成か、管理されたレジャーランドか

こうした変化の帰結は、二つの可能性を持っている。一つは、双方向的な合意形成の新たな社会関係の形成である。携帯電話やインターネットの双方向通信を用いる人たちが形成しつつある合意形成や新たな「法」の観念である。合意形成は、常にリアルタイムの修正が可能であり、また、このような新たな「法」観念は、唯一絶対の支配の規範ではなく、複数のオプションが常に提供され、また、そのオプションそれ自身も自ら修正可能な構成をとる。つまり、合意形成=約束は常に未来に開かれ、現在に生きており、過去の決定に束縛されない。
しかし、もう一つの可能性は、逆により強固な権力的な強制の制度化を促すというものである。近代国家は立法、行政、司法の三権分立によって権力の集中を規制しているが、代議制の機能不全とコンピュータによる情報処理技術の高度化は、議会を媒介とした「国民」世論の政治過程への反映という手間のかかる方法をますます疎外して、世論調査などの手法を駆使して行政が直接世論をチェックし、政策的な対策をとるという方法を効率的だとして優遇されることになる。

こうした方法は、代議制のように意思決定に時間がかからず、決定の過程でコンフリクトも少ない。しかし、公開の討議もなければ、決定のプロセスも透明性を欠く。逆に、行政権力が意思決定をより的確に行なおうとすればするほど、行政は住民の動向を詳細に把握しようとする。こうして、的確で正確な行政の執行は、他方で微細な住民情報の収集と解析を伴う。言い替えれば、代議制の形骸化は、行政権力による住民監視のシステムを住民サービスとして拡大し、コンピュータの情報処理機能や双方向性のネットワークはもっぱら行政による情報収集と監視のためのシステムとして展開されることになる。住民はある一定の条件さえ満たせば、管理や監視の苦痛を意識しなくても済むレジャーランドの住人となる。
この二つの可能性は二者択一ではなく、ある種の弁証法的な関係を形成する。リアルタイムで不定型な合意形成が個人レベルで拡大する一方で、政府レベルでは行政による住民情報の収集システムが展開される。このネットワークを介した行政権力のノマド化は、代議制の非効率を回避し、官僚制をコンピュータの情報処理で補完することによって、肥大化した政府組織を合理化しながら、個人の多様な要求を可能な限り解析し、対応しようとするかもしれない。

しかし、リアルタイムに合意形成が可能な生活環境のなかで、諸個人の要求は無限に多様化する。この多様な要求とそれを捕捉して行政的な対応に反映させようとするノマド的な権力との間のイタチゴッコが始まる。モダニズムの主体は解体し、ますますとらえどころのない多様な姿をとるようになる。こうして個人は単一の主体ではなく、特異性の繋留点であると同時に、複数の主体を抱え込む。指紋、音声、DNAなどによる本人認証のテクノロジーが進めば進むほど、人々の固有性はこうした生物学的な同一性とますます乖離するようになる。ネットワークで複数のIDを持ち、複数の職業やキャリアをマルチタスク的にこなすようになる。自己同一性は絶対的なものではなくなる。モダニズムは個人を主体として解放することを目指したとすれば、現在の状況は、個人が唯一の主体へと閉じ込められることから解放されるプロセスにある。

これは、今に始まったことではなく歴史的には前例がある。近代的なジェンダーの形成が、生物学的な性とジェンダーを同一化して固定化しようとやっきになればなるほどジェンダーアイデンティティは生物学的な性同一性から乖離し、多様性をみせはじめた。外見による同定のレベルでしか分類を遂行できなかった時代に、ステレオタイプなジェンダーへの拘束は抑圧となった。微細な差異を分類の尺度に利用できる情報処理の現代的な水準では、必ずしも外見を基準にする必要はなくなってきた。しかし、個人はこうした新たな同定のテクノロジーを拘束と感じはじめ、そこから洩れる過剰な部分を自由と感じ始める。この過剰な部分こそが解放の契機となる。

●新たな主体の再構成へ向けて

ノマド的な権力は、不定型で複数性を示し始めた個人を対象とするあらたな権力の構成である。しかし、この権力は、モダニズムの権力と違って、第一次集団に統合して、ナショナルなアイデンティティへと集約するといった観念的な統一性の構築には必ずしも向かない。政府は代議制の形骸化をテコに、個人と国家を直接媒介する組織となりえたにもかかわらず、逆に国家的なアイデンティティ形成には失敗している。国家は理念や理想とは関わりのない生活上のサービス提供機関としてしか人々の関心を呼ばなくなるかもしれない。しかし、国家は単なるサービス機関であることはできない。徴税の権利を行使し、軍事や警察といった暴力装置でもある。したがって、「国民」としてのアイデンティティはどうしても必要なのである。しかし、常に流動化し、コミュニケーションのネットワークは国境を意識しなくなり、資本すらもが容易に国境を越え始め、個人の単一のアイデンティティそのものが解体されてはじめた現状のなかで、国家がアイデンティティの核となるためにはかなり強烈で過剰な唯一性を誇示しなければならないだろう。
以上のことは、どのポストモダンの資本主義社会にも共通する基本的な構造であって、日本だけのことではない。日本という国家は、近代国家としての理念を持たない。理念を踏台にして個人の内面をコントロールするイデオロギー装置が構築できない。だから、統合の機構は内面化を経ない外形的形式的なものになる。ノマド的な権力は抑圧的になる。不定型な個人のコミュニケーションを無理矢理押し込め、監視を強化し、同調的な行動を促そうとする。しかし、そのための決定的な戦略が日本にあるわけではない。天皇制の儀礼的な効果は無視できない要素であるし、マスメディアの寡占環境や言語環境の閉鎖性は外形的な同調行動を促しやすいとはいえ、先に述べたように、コンピュータネットワークはこうした政治的な形式的包摂を解体する。私は、現在進行しつつある政治的な無関心とみえる現象は、決して政治総体にたいして無関心なのではなく、代議制と選挙のシステムを拒否しているにすぎず、代替的な政治的な意思表示の方法が確立されていないからに他ならないと考えている。

代替的な政治的意思表示の方法とは、どのような可能性なのだろうか。国民国家とこれを支える法の観念が大きく変貌するかもしれない。リアルタイムの合意形成の積み重ね、双方向性のコミュニケーション、マルチタスクな個人の複数性、こうした傾向は、個人を一個の具体的な全体として捕捉して管理しようとしてきた近代の個人主義がコンピュータテクノロジーによる究極の個人主義への突き進む中で、個人に収斂する自己同一性それ自体を拒否し始めることになるだろう。

限りない流動化への欲求にとって、個人としての自己同一性もナショナルなアイデンティティもともに窮屈なものでしかない。これは、ネグリが「構成された権力」としての憲法に対置する「構成的権力」の現在的な性質であるといってもいいだろう。【注4】このようになると、法の観念の転換だけではすまなくなり、国民国家という権力の構成それ自体を解体させることになるかもしれない。そして、国民国家の歴史が、近代資本主義の形成とともにあること、資本は個人主義に基づく契約によって労働力を商品として調達せざるをえないことを踏まえた場合、この労働力の商品化それ自体を支えてきた契約の観念そのものが大きな壁にぶつかることになるだろう。リアルタイムのリスケジューリングが可能な双方向のコミュニケーション環境のなかで、過去の契約に依拠する資本は、未来の約束を先取りする複雑な主体の登場の中で、ノマド的な権力へと脱皮しようとやっきにならざるをえず、資本主義の新たな亀裂が、労働力の領域に大きく開かれる可能性がある。人生の大半を資本の価値増殖に支配されて活動するような日常生活それ自体が、自立した価値創造の時間と空間を取り戻すまったく新しい闘いとその主体が醸成される少なくとの客観的な条件は十分揃っているのである。

【注1】 ノマド的な傾向については、下記を参照。ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』、斉藤日出治『ノマドの時代、国境なき民主主義』大村書店、アルベルト・メルッチ『現在に生きる遊牧民(ノマド) 新しい公共空間の創出に向けて』、山之内靖訳、岩波書店。個人への監視のシステムについては、拙稿「監視と自由」『現代思想』1999年10月号参照。
【注2】 アントニオ・ネグリ『転覆の政治学』、小倉利丸訳、現代企画室(近刊)参照。
【注3】 コミュニケーション環境が市場の商品情報の伝達回路として機能する場合、これを「パラマーケット」と呼んだが(拙著『アシッドキャピタリズム』、青弓社)、政治的な意思決定のコントロールの装置としてのコミュニケーション環境についても政治過程に不可欠であるがしかし固有の意味での政治の装置とはいえないという意味で市場に対するパラマーケットと同様の関係を見出すことができる。
【注4】 アントニオ・ネグリ『構成的権力』、杉村昌昭、斎藤悦則訳、松竹籟社、参照

付記 本稿は、1999年12月2日、3日におこなわれたコンファレンス「BEYOND THE FIRST WORLD」のために提出されたコンファレンス・ペーパー「Dilemma of Democracy and Nation-State」に加筆したものである。なお、「Dilemma of Democracy and Nation-State」は、アジア太平洋資料センターの英文季刊誌AMPO2000年1月発行号に掲載される。

(おぐらとしまる 富山大学教員 現代資本主義論)