東アジアのヤスクニズム展──2015. 7/25(土)~ 8/2(日)

洪成潭(ホン・ソンダム)、韓国全羅南道出身の版画家であり画家でもある。一九八〇年代の光州民衆抗争では光州市民軍文化宣伝隊として参加し、一連作版を制作するなど、戦後韓国の権力の抑圧と闘う民衆を主題とした作品を制作してきた。(日本では『光州「五月連作版画‐夜明け」ひとがひとを呼ぶ』夜光社刊)その一方で、民衆の芸術運動の実践家として市民美術学校開設などの活動もしてきた。一九八九年に国家保安法によって三年間投獄され、過酷な拷問を受け、その後遺症が今でも残っている。このときの拷問の経験を作品にした「浴槽――母さん、故郷の青い海が見えます」が二〇〇七ー八年に日本で開催された『民衆の鼓動-韓国美術のリアリズム1945-2005』展に出品された。

洪成潭の日本との直接の関わりは、今回の展覧会で展示された連作絵画「靖国の迷妄」で日本の植民地支配を真正面からとりあげつづけてきたことだろう。「靖国の迷妄」は、二〇〇七年に東京・茅場町のギャラリーマキでも展覧会が開催されたことがあるが、今回は、当時の作品に加えて、それ以後現在までに制作されてきた多くの作品が一同に会した。一連の「靖国の迷妄」作品群を一度に展示する試みは今回が初めてではないか。洪は、二〇一四年の光州ビエナーレ二〇周年特別展覧会に「セウォル5月」(洪成潭、視覚媒体研究所共同制作)を出品する。この年の旅客船セウォル号の沈没事故は政権を揺がす大問題になったが、洪はこの事件を朴槿恵(パク・クネ)政権の本質が露呈した事件として批判したために展示を拒否された。

この作品を含めて、洪成潭は呵責なき権力批判の表現者であることを徹底して貫き、彼の作品は発表されるたびに、韓国国内のマスメディアに叩かれてきた。たとえば、「セウォル5月」や朴槿恵が彼女の父親そっくりの赤ん坊を産むシーンを作品など現職の大統領を主題にした作品への検閲は非常に厳しく、たぶん公開されることはほとんどないのではないか。また、今年起きたリッパート駐韓米国大使襲撃事件を主題にした「金基宗の刃」(金基宗はリッパート大使を襲撃した人物)がソウル市立美術館に展示されたときには、「税金で運営される市立美術館にテロを美化する絵が展示されていることは、芸術を口実にしたさらなるテロだ。」とすら『東亜日報』に批判された。(電子版、日本語、99日)彼の作品のなかでも現政権を批判したと解釈される作品の海外持ち出しは、事実上禁止されているために、今回の展覧会でも韓国側の税関を無事通過するまで主催者は大きな緊張を強いられたという。

今回の展覧会の会場となったのは、ギャラリーではなく芝居小屋である。壁は黒く塗られ、白い壁に作品を展示する美術の空間とは真逆なのだが、むしろこれが洪の作品にとってはまたとない印象深い空間となった。この展覧会では、靖国問題そのものを直接の主題にして描かれていた初期の作品群から、戦後東アジアの韓国や台湾など旧日本植民地だった諸国が、解放後から現在に至るまで、その政治と社会に内面化させてしまった「ヤスクニ的なるもの」、言い換えれば、抑圧のナショナリスムにも光を当てた作品まで、洪の視野が大きな拡がりをみせてきた流れを一望できるものになった。この意味で、今回の展覧会のタイトルにもなっている「ヤスクニズム」(これはダグラス・ラミスの命名である)はこうした洪の作品の拡がりを的確に表現している。

洪が自らの作品「靖国と松井秀男伍長」に付した詩がオープニングなどで何度も朗読された(朗読は東京演劇アンサンブルの洪美玉さん)。この作品が象徴しているように、朝鮮人でありながら日本名で靖国に祀られた植民地出身の兵士を主題とした作品、あるいは「従軍慰安婦」として強制連行された女性たちの少女時代から切り刻まれて死に至るまでを描いた作品など、朝鮮民衆の心情に寄り添う作品が『靖国の迷妄』の出発点にあった。こうした過去の記憶を出発点とする作品群に対して、最近の彼の作品には別の傾向があらわれている。それが先に触れた九段にある靖国神社という固有名詞の存在に限定できない、ある種のイデオロギーあるいは支配の装置として、東アジアの空間に浸透している「ヤスクニ」である。これは、今ここにある政治や社会に内包された「靖国的なるもの」の問題に焦点を当てるようになってきたということだ。このヤスクニズムを象徴する作品として、会場入口の左側に展示された大作「ヤスクニ-フクシマ」がある。この作品では、中央に靖国神社の鳥居、左に事故で煙を上げる福島原発、右に沖縄のシーサーと米軍のオスプレイが描かれている。画面全体を大きな波とこれに抗うように怒りに満ちた顔で立つ人びとの姿が描かれている。ヤスクニを中心に福島と沖縄を貫く主題をこのように一つの作品として描いたもの私は他には知らない。

実はこの作品にはもうひつとの隠された繋りがある。今回の展覧会では展示されていない「セウォル5月」の作品の左端に靖国神社と安倍首相とともに「ヤスクニ-フクシマ」で描かれている民衆とほぼ同じ人びとが描かれており、フクシマが韓国の民衆と繋ることを洪は自覚的に作品にしている。彼の作品に頻繁に登場する批判の対象は、靖国神社だけでなく、日本、韓国、北朝鮮の指導者たちである。毎年815日に靖国神社を参拝する軍服のコスプレをした日本の右翼や街宣車など、愛国主義に支配されつつある今現在の日本の愚かな大衆状況が描かれる一方で、歴代韓国の指導者たちを戦前の日本の植民地支配とのある種の「連続性」のなかで描くことによって、戦後韓国の政治を鋭く批評する作品など、彼の批評は、婉曲なところがなく容赦ない。彼は、愚か者たちに共通する凡庸さを的確に表現する一方で、民衆を悲劇を悲しみや嘆きに終らせない力強さを持つ者としても表現している。

洪は、実際に兵士となる若者たちの背後にある「母」の存在に着目しはじめているように思う。女性は、戦場にわが子を送り出す悲劇のモチーフの典型としての「母」としてだけでなく、むしろ、兵士を生む存在としての「母」に着目したように思う。ギャラリートークなどでも指摘された意見にも示さてていたが、これは女性を生む性として見るステレオタイプの問題とも接点をもつ難しい主題を、男の視点から描いているという意味で、評価が分れる作品群でもあったと思う。しかし同時に、兵士を再生産する母としての女性と「慰安婦」として徴用された女性が、おなじ表現の空間のなかで共存している。これは洪にとっては必ずしも意図していたことではないだろうが、戦争とナショナリズムを考えるうえで、あるいはヤスクニズムを考える上で、これまでになかった主題を浮き上らせたことになったようにも思う。

この展覧会では光州ビエナーレにおける洪成潭への検閲に抗議して、同じく招待作家であった大浦信行が、自らの作品を燃やして制作した連作の「遠近を抱えて」も同時に展示され、ヤスクニズムと検閲もまたもうひとつのテーマとして、トークイベントでもたびたび議論された。表現の自由は作家が闘うだけの問題ではなく、ギャラリーや観るものの闘う姿勢もまた問われる展覧会であった。

(季刊ピープルズプラン、2015年秋)