サイバースペースの文化と階級

サイバースペースの文化と階級

インターネットに象徴されるサイバースペースはほんの数年前まではコミュニケーションの新たなフロンティアとみなされていた。しかし、インターネットユーザーの急速な増加と、国家の通信インフラとしての戦略的位置付けが明瞭になるにつれて、このフロンティアは急速に資本の新たな市場となり、国家予算が開発投資に振り向けられるようになった。インターネットはもはやかつてほど自由な空間とはいえなくなった。このことは、言い替えれば、自由なコミュニケーション空間が制度化されるなかで、秩序のための権力がこのあらたなコミュニケーションをめぐって展開されはじめたということを意味している。インターネットは、コミュニケーションの道具であり、ミュニケーションの文化と無関係ではなく、サイバースペースそれ自体もまた他のコミュニケーション文化と同様に、社会を構成する物質的・イデオロギー的な構造の一部を構成している。文化的な表象は、文化そのものではない。文化とは、人々の行動、思考、価値観、表現について、論理的因果関係では説明できないが、一定の社会集団の構成員が共通して了解可能な意味の産出、伝播、受容の枠組を指す。例えば、美術作品について、表象としての作品に即して論じるのが美術批評の仕事だとすれば、カルチュラル・スタディーズの課題は、作品が制作され、展示される全体の構造、すなわち作家なるものの社会的な存在がどのようにして可能であり、作品の展示空間がどのようにして形成され、誰がどのような目的で作品に接し、いかなる意味の枠組がそこには働いているかといった、作品が作品として成り立つ社会的な意味空間全体を対象とすることになる。こうした観点は、バーミンガム学派やピエール・ブルデューらフランスの文化社会学など近年の社会学にかぎったことではなく、社会学が文化を対象とする際の共通の枠組である。同時に、こうした文化的な社会の装置は、一定の経済的な投資、管理のためのポリティックスを必要とする。コミュニケーションは、文化的なコードなしにはなりたたないから、このコードそのものを構築、管理、再生産するコミュニケーション環境(技術的であると同時に経済的政治的法的な装置)が必要である。文化的な表象は、こうした文化的生産の土台のうえに形成きれる上部榊造であると同時に、それ自身がまた他の文化的な表象の土台に組み込まれるという、入れ子の榊造を持っている。

ここで検討するサイバー・スペースをめぐる文化もまた同様の構造を持っているが、それ以前の主としてマスメディアが支配的なコミュニケーション環境とはいくつかの点で大きな違いを生み出している。それは、情報発信の無視できない主体として大量の個人が登場したことと、このあらたなコミュニケーション環境が国民国家の枠組に収徹しない越境性を持っている、ということである。ここでは、主としてこの二つの点をめぐって考えてみたい。

マルクス主義は文化を解釈する枠組をどのように提起できるか

マルクス主義の経済決定論は悪名ばかりが高く、その意義はあまり論じられない。とくに文化という領域については、経済過程=土台によって規定される上部構造、イデオロギー過程とみなされ、経済システムとの関わりが内在的に論じられることは少ない。これは、資本主義的な経済システムが、文化的な生産物を商品として生み出すことが少なかった十九世紀の工業化社会の理論モデルの枠組から十分脱し切れていないからである。しかし右に述べたように、この点については再検討が必要である。

十九世紀の社会統合は、排除による統治だといえる。労働者階級は、地主や資本家などの支配層とは異なる文化と生活様式をもち、政治的な参加や市民的権利が制約されていた。労働者の文化は多くの点で支配的な文化と敵対的であったが、しかし資本主義はこの大量の労働者を社会システムの外部に置き、〈労働力〉として資本に組み込み、生活手段の購買者として消費市場との接触を許すにすぎなかった。労働者の階級文化は敵対的ではあっても、システムの内部において敵対的であるのではなく、外部に排除された敵対性だった。

ハーバーマスが生活世界の植民地化と呼び、ベネディクト・アンダーソンが幻想の共同体としての国民国家の形成を論じたさいに、ともに注目したのは、右にみたような一九世紀に典型的な市民社会と統治の意志決定機構の外部に排除された労働者階級が、次第にシステムの内部に介入あるいは組み込まれ、単なる〈労働力〉としてではなく、市民的な椎利主体、国民、消費者などの役割行為主体としての役割もになうようになるという産業革命以降の資本主義の展開だった。彼らはともに、この労働者階級のシステムへの内在的な統合にとっての重要なファクターとして、マスメディアの発達に注目した。

マスメディアと国民国家の形成は、不可分の関係にある。マスメディアは単に国家のための一方的な情報散布の機構として重要なわけではなく、近代国民国家を支える民主主義的な政治過程の技術的な前提をなし、同時に、せまい意味での政治意識の統合や世論形成、商業広告による消費欲望の喚起、ジェンダー、人種などへの態度、理想的な(あるいはその逆の)ライフスタイルや職業、人生の意味など、人々の日常生活意識、価値観、感性、行動についてのある種の「物差し」としての役割を担ってきた。しかし「物差し」は一つではない。例えば、新聞や雑誌の場合、比較的知識層が好むクォリティ・ペーパーから大衆娯楽やゴシップを扱うイエロー・ジャーナリズムまで多様であり、テレビにしても複数のチャンネルが複数の情報を提供するし、同じチャンネルであっても、ニュース報道とワイドショーでは同じ事件であってもその扱いが異なる。人々はこれらの多様な選択肢のなかから、一つを選びとることを繰り返すのが、メディアへのアクセスの基本的な振る舞いとなる。選択することが、大衆の意思表示の唯一の手段であった。

しかし、こうした複数の選択肢は、実質的にはなんら多元的な選択肢の保障とはなっておらず、画一的な情報環境が生み出す疑似的な多様性にすぎず、大衆はメディアに操作される受動的な主体にすぎないといわれてきた。アドルノの文化産業論やマルクーゼの一次元的人間などから、ギー・ドゥボールのスペクタクルの社会論など、マスメディア全盛の六〇年代まではこうした議論が数多く論じられた。本質としてはこうした議論が間違っているわけではないが、画一的な本質が多様性や多元性と感じられるのはなぜか、ということを説明しない限り、こうした画一性論は、説得力をもてない。私は、むしろマスメディアがつくり出した環境を画一的であるとみなす必要はないと思っている。それは、資本主義的な多様性、多元性の表現であって、それ以上でもそれ以下でもない。

資本主義的な多様性は、市場経済的な条件と、資本による技術選択の条件から生み出される。市場経済は、個人主義に基づく自由と平等という理念を生み出した。これは、職業選択の自由、市場での取り引きの自由、市場での雇用契約における形式的な自由意志と平等な関係を意味するに過ぎない。こうして〈労働力〉も一般の生産物も、商品売買契約における選択、意志決定の自由をもつが、このような意味での自由が確保されるためにはこの資本主義の枠組を再生産する多様性が保障されていなければならない。この資本主義的な多様性は、消費生活の局面でいえば、欲望の多様性と関わり、欲望の多様性は商品の使用価値の多様性に結びつけられて、市場経済の枠組のなかに抑え込まれる。資本の技術は、商品の使用価値生産の技術であるから、こうした使用価値の欲望を具体的な形にして、競争相手の資本の商品との差異を本質的で決定的な差異であると自ら信じるところに成り立っている。マスメディアは、こうした資本が生み出す差異のカタログを選択肢として提示する装置であって、前述のように、消費者はこの選択肢からどれか一つ選ぶ「自由」を与えられる。

従って、二十世紀前半に開始された大量生産システムは、画一的な生産システムだが、使用価値の意味は決して画一的ではない。ここに大量生産システムが画一的でありながら多様性の幻想を維持できる秘密があった。全く同質の使用価値を大量に供給するシステムは、商品の物的属性からすれば全く同一の商品が供給=消費される画一化の風景としてイメージされやすい。たとえば、パソコンの世界で最も多く使用されているOSはマイクロソフトのウィンドウズであり、ワープロソフトはワードであり、マイクロソフト社は、世界中で似たりよったりの広告を打っている。しかし、重要な点は、おなじソフトを使う人々が同じ目的で同じ内容のものを生み出すわけではないという点なのだ。同じことは、大衆消費時代の商品にもいえる。テレビや冷蔵庫といった家電製品はそれぞれの人々の消費欲望の形に対応した欲望の意味を(常に不十分なレベルで)体現しているのであって、おなじ商品を買った人達は同じ「夢」をみているわけではない。これが、市場経済的な「豊かさ」を支える根源にある。

マスメディアが支配的なコミュニケーション環境は、資本主義的な多様性を生み出すとともに、この欲望に秩序を与える。投票行動から消費者の商品選択行動に至るまで、自由とは選択肢からどれか一つを選択する自由である。この選択肢の提示は、マスメディアによって実質的におこなわれる。膨大な情報を取捨選択して、カテゴリー化し、ランクを付ける作業は、情報の縮減作用であるといってもいいし、情報エントロピーを低下させる作用だといってもいい。こうして、搾取の構造と階級的な差異は、消費生活における多様性の差異の下にかくれてしまう。この多様性は同時に資本主義という社会システムの維持と再生産、そして国民国家として「国民」という政治的主体のアイデンティティの形成という秩序の維持と再生産に寄与するものでなければ、成り立たない。言い換えれば後者の秩序が維持される限り、前者の多様性はどのように展開されようと何ら問題にはならないし、むしろ多様性が危機をむかえ、人々がこの資本主義的な多様性に疑いを抱きはじめると、後者の秩序も危機に陥る。じつは、マスメディアが支配的な情報環境がコンピュータによるコミュニケーションのネットワークの普及とともに危機に陥っている背景には、こうしたシステムへの危機が内在しているのだ。

サイバースペースと階級文化の再構成

こうして、マスメディアがもたらしたコミュニケーションの自由は、たんなる選択の自由にすぎなかった。表現の自由、言論の自由といわれる割には、実際に私たちが獲得しえた情報発信の自由や情報アクセスの自由は、マスメディア時代には極めて限られたものだった。政治的な意志表示は投票として数量化され、マスメディアにたいして双方向のコミュニケーションをとることは困難であり、情報を共有しているはずの多くの読者、視聴者と直接接触する手段はほとんど持てなかった。他方で、マスメディアは取材の自由を独占し、それ以外の人びとは、情報源へのアクセスを大幅に制約きれた。

双方向のコミュニケーションとしてのコンピュータによる通信は、こうした選択的な自由に終止符を打ち、情報の秩序を再度、秩序化される以前の原型に戻した。データ処理能力の高度化は、皮肉なことに、選択肢とか数量化といった情報の縮減過程を通さなければ処理できなかった多様な情報をますます「生」に近い複雑なデータとして流通させられるだけのキャパシティーを持つようになった。自らの要求を具体的に提示することが可能になるにつれて、選択肢は不要になり、投票という意志表示のかわりに、自分の政治的な立場をそのまま文字で(お望みとあらば映像も簡単に利用できるが)表明できるようになった。こうして、投票に基づく政治的な意思決定は、民主主義の制度としての信頼性を徐々に喪失してきたようにみえる。本来数量に還元することなどできない政治的な意志が、コンピュータによるコミュニケーションの普及によって、その表現の手段を独得しはじめた。

このような新たな情報環境の中で、代議制は有権者の意志を不正確にしか表せないにもかかわらず、この制度に基づいて制定される立法措置は、権力の強制力を伴ってすべての人々を規制する。近代的な権力は、単なる強制力としてではなく、下からの合意形成によってその正統性が支えられているのであって、民主主義的な代談制への信頼もこれに由来しているのであったが、コンピュータネットワークはこの代議制の正統性を根底から覆す技術的可能性を持っているわけだ。

じつは、こうしたマスメディアを媒介とした代議制と法の正統性は、マスメディア体制のなかにあってもその外部にあるメディアによって常に脅かされてきた。例えば、自由ラジオや海賊放送によって、常に合法電波のマスメディアの秩序は脅かされる可能性をもっている。電波のメディアでは不特定多数の送り手が、不特定多数の受け手に対して、メッセージを送ることができ、しかも、街頭での表現行為のように、意図しない聴衆をまき込む作用がある。マスメディアは、この言論の公共空間を独占することによって、世論形式のヘゲモニーを握る。自由ラジオは、この秩序としての公共空間のカオスとしての意味をもっていた。多くの「民主主義」国家が、出版に関する検閲を廃止したり違法としているのは、一見すると言論の自由の証明のように見えるが必ずしもそうではない。多くの場合、少数のマスメディアによるマーケットの秩序のヘゲモニーが確立され、流通の市場経済的な統制が整備されていることを前提として、検閲を市場のシステムに委ねることができる場合に、国家の検閲が廃止きれているにすぎない。電波メディアは、そのメディア特性から、情報の回路を物理的にコントロールすることが困難なために、情報発信それ自体を法的に規制しているのだが、権力のコントロールの意志は、電波も出版も本質的には変らない。いずれの場合であっても、個人の情報発信の余地は小さかった。しかし、にもかかわらず、ミニコミという形による出版と流通は、オルタナティブな情報の回路として重要な役割を担ってきた。

自由ラジオもミニコミも、マスメディアの優位のなかで、かろうじてオルタナティブの情報を提供できるにとどまった。これにたいして、インターネットは、不特定多数の個人による膨大な情報発信によって支えられているネットワークである。こうした情報発信の手段を民衆が手にしたことは、これまで一度もなかった。

国民国家に収斂するアイデンティティの終り

コンピュータのネットワークには国境はない。しかも個人や小集団がこの国境を越えたネットワークで相互につながりあう関係は、地理的なコミュニティにたいしてサイバースペースのバーチャルなコミュニティを形成する。人々の社会的なアイデンティティが家族から地域の地理的コミュニティへ、そこからさらに国民国家へと地理的な同心円的広がりがあり、ナショナルなアイデンティティを地域や家族と国際関係の問に必ず媒介する仕組みがあったが、バーチャルなコミュニティはこうした同心円的なアイデンティティの構造をつきくずす。想像の共同体としての国民国家とこのあらたなバーチャルなコミュニティは、個人のアイデンティティの拠り所をめぐって明らかに競合関係にある。前述したように、近代国民国家の共同性は、マスメディアによって支えられていたわけであり、このマスメディアによる情報環境支配の弛緩は、同時に国民国家に収斂する為国民的なアイデンティティをもまた衰弱させざるをえないだろう。代議制がインターネットのウェッブやニュースグループへの投稿ほどには自分の主張を代弁できず、「国民」という枠組においてしか諸個人の利害を体現できない国家に比べて、国境や地理空間を越えてつながる個人をベースにしたバーチャルな利害集団の方が共同性の意識においては優先することはおおいにありうる。国家は、具体的な権力装置を持ち、徴税と財政支出によって経済的な権力も発揮するから、単なるコミュニケーションの連なりとしてのバーチャルなコミュニティにくらべれば数段おおきな実際的な力をもつ。しかし、この現実的な力は、自発的な同意や共感をそれ自体として生み出せをければ安定するものではない。この自発的共感や同意の形成に深くかかわっていたのがマスメディアだったのだから、このマスメディアの影響力の相対的な低下は、投票行為の意味の崩壊とともに、同意と共感にささえらえた国民幻想を掘り崩し、強制力としての法的経済的な権力を露出させる。

インターネットに象徴されるネットワークのこうした性格をマスメディアも国家も黙ってみすごすわけではない。インターネットのような双方向のコミュニケーションは別の観点からすれば国家によるあらたな支配の道具にもなる。たとえば、ハーバーマスが生活世界という概念を持ち出した時、かれは国家による「国民」の統治のシステムと市民の日常生活との間には一定の断絶があるということを想定していた。これは、西欧の政治思想に伝統的な国家や公的な領域と私的な領域との区別を継承している。二〇世紀のケインズ国家、あるいは福祉国家はこの伝統的な公共的な枇造と私的な柵造の外的な接合を解消し、医療や社会保障などを通じて個人の身体や家族関係に介入しつづけたが、それも結局は、個人をデータ化して管理するのであって、リアルタイムに個人の動向を把握できていたわけではない。

これにたいして、行政のコンピュータのコミュニケーションネットワークが個人の端末と接続され、このネットワークを介しての個人のコミュニケーションをリアルタイムで捕捉できるようになったり、逆に個々人にたいして、直接に疑似的な対話関係を構築することも可能になる。これは、官僚制度が議会を媒介せずに諸個人と接合きれることを意味するから、コンピュータネットワークが新たな合意形成のシステムになるということだともいえるし、監視の手段になるともいえる。合意形成と監視とは表裏であり、決して矛盾するものではない。人々の私的なコミュニケーションを逐一監視する技術のなかったコンピュータ通信以前の時代には、公共的な言論と討論は、公開の場で展開されることによって、政府は介入しないとしても大衆的なチェックが可能であった。これは、見方によっては言論にたいする公共的な監視、物理的な強制力は緩いとしても読者、聴衆のまなざしが暗黙の言論に対する縛りとなる。民主国家は、マスメディアの情報縮減効果も利用しながら、この監視的な公共的討誰の場を介して合意形成を実現する。しかし個々のコミュニケーションを監視することは不可能だった。

コンピュータのネットワークは、オンライン上の言論をより洗練された方法で解析し、参加者を監視できるようになる。オンライン上の言論は、公共的な討議に限らず、私的なコミュニケーション関しても監視が可能な言論である。音声認識プログラム、テキスト解析プログラムなどを利用してリアルタイムで捕捉することも技術的に可能である。このようなネットワークにたいする聴視を、ハードな弾圧の手段ととらえるだけでは不十分だろう。むしろ、より私的なコミュニケーションのレベルも含めて、コミュニケーションの倫理的なスタイルを提示し、友好的な合意形成を促し、敵対的な言論を排除しようとする。近代国家の成立とともに標準化された言語が、近代的な権力の言語流通の制度として機能したように、コンピュータ・コミュニケーションにおけるメディア・リテラシーは、サイバースペースの言論環境、文化環境を国家権力の合意形成装置のもとに統合する機能を果たすだろう。こうなってしまえば、コンピュータのネットワークは、個人の情報発信の道具であるというその性質によって、逆に個人を情報発信の主体として訓練し、監視する道具となってしまうかもしれない。

こうしたコミュニケーションの監視の技術は、国境を越えたバーチャルコミュニティの形成にたいして、国民国家としてのアイデンティティを再構築するものとして機能する。とすれば、明らかにここには、個々人のアイデンティティの拠り所をめぐる摩擦、あるいは闘争状態が存在することになる。これは、文化をめぐる新たな闘争である。国民的な統合に対する微細な亀裂は国民国家内部にも無数にある。しかしそれらは、空間的な条件と情報発信の能力の社会的技術的な制約によって、公然化するだけの力を持ち得ないというだけである。国民国家への統合の綻びは、この想像の共同体の下に隠されていた資本主義の価値増殖構造と直結する階級構造を露出させるだろう。そして、先進国の外部に排除された強圧的な労使関係は、この世界的なネットワークを介して、再び国内の階級的な差異を際だたせることになろう。メキシコのサパティスタ、東チモールの独立運動、トルコやEUのクルド、スペインのバスク分離運動などの周辺部の”反乱“と呼ばれてきたものは、もはや”周辺“にはない。ネットワークは、こうした周辺部の”反乱”を先進国に逆流させる回路になりつつある。文化が国民性という外観をさまざまなき裂によって解体させるこうした動きは、文化的な表象の連動というだけでなく、ネットワークを管理する技術や、ネットワークを構築する財政的な裏付けへの要求、ネットワークアクセス、そしてコミュニケーションへの監視システムといったさまざまな文化的な表象の流通を支えるバックボーンの国家や資本によみ管理との闘いを含むことになる。こうしたバックボーンとの対決ぬきの表象の闘争は、ネットワークを介しての資本主義的なシステムの合意形成の枠組に回収されざるをえないだろう。

出典:『情況』1999年5月号