売買春と資本主義的一夫多妻制

1 売春に関するマルクス主義の古典的な解釈

1 普遍的な身売りの特別な表現としての売春——問題の枠組み

『経済学・哲学手稿』のなかでカール・マルクスは、「売淫は、労働者の普遍的な身売りのある特別な表現にすぎないのであって、身売りは、身売りさせられる者だけでなく身売りさせる者もまたこれにはいる関係——後者の低劣さのほうがなおいっそう大きい——であるから、資本家等々もまたこのカテゴリーにはいる」【注1】という端的な定義を与えた。売春に関するマルクスの古典的な定義は、『資本論』にみられるよく知られた定義——過剰人口のなかから生み出されるルンペン・プロレタリアートとする定義——よりもむしろこの初期のテクストにみられる記述のぽうが私たちに有益な示唆を与えてくれる。
『経・哲手稿』ではさらに続けて、「私が何であり何ができるかは、けっして私の個性によって規定されているのではない。私は醜男である、だが私はどんなに美しい女をも買いもとめることができる。だから私は醜くない」【注2】というように、貨幣所有者としての私(男)にとって、貨幣の権力がまさに個性を決定するという資本主義における市場経済の歪みを的確に指摘している。売春をその他の商品売買やサービス商品と区別しようとするさまざまな議論に対して、マルクスは〈労働力〉商品化——初期マルクスにはまだ〈労働力〉商品という概念は確立しなかったが——のある特殊な形態にすぎないと言い放っただけではなく、買い手である男たちにとって、買うことに伴う「意味」——金さえあれば「醜男」も「美男」になる——について言及したことは注目に値する。なぜならば、商品売買には、貨幣の一般的等価物としての経済的な権力と売り手による使用価値イメージの構築という二つの条件を欠かすことができないからだ。金を持った男が自分を「女にもてる男」とイメージするコンテクストは、貨幣という権力をまとった男が、性の市場によって戦略的に紡ぎ出される男のイメージにはまり込んだ結果なのである。
こうして、資本主義が一般化する〈労働力〉商品化の一特殊形態となった性産業のなかの売春労働によって生み出される性商品の使用価値は、この商品を消費する男性にとっては、〈労働力〉再生産のための日常生活における性的欲望の充足過程である。同時に、〈労働力〉再生産における性の欲望と充足は、商品市場の外部にある家事労働にみられる男性と女性の関係にも見出せる.性産業の外部にいる女性からみた場合、家事労働と性の商品市場は、まったく異なる分断された領域のようにみえるが、男性からすれば、自分の身体を媒介として、つねにその半身を性の市場に、残りの半身を家族関係の内部の性の関係に置くことになる。男性にとって、日々会社に出かけて労働することも家庭でリフレッシュすることも同じ日常生活の別の一面であるように、性的な欲望の喚起と充足を性の市場で充足することと妻や恋人によって満たすこととは性的な日常生活の別の一側面なのである。
以上の点をふまえて、本稿では、男性と女性の関係を、市場と家族という二つの領域を媒介する男性という身体の観点に着目して述べてみようと思う。

2 アウグスト・ベーベルによる二重規範の指摘
マルクスの売春に対する関心はさほど大きなものではなかった。それは、彼の資本主義分析が家事労働や性別役割分業などの問題への関心が低かったことと対応している。売春に対してかなり立ち入った議論を展開したマルクス主義の文献としては、アウグスト・ベーベルの『婦人論』がある。ベーベルは、『婦人論』のなかで「市民的社会の必要な社会制度としての売春」という章を独立に設けて、売春を検討した.ここでは、「結婚は市民的社会の性的生活の一面を表わし、売春は他面を表わす。結婚はメダルの表面であり、売春はその裏面である」【注3】と述べた。これが彼の基本的観点である。そして、彼は、男性と女性との間で、次のように二重規範が存在することを指摘した.

「男子仲間は常に、売春の利用を「法律上」与えられた彼らの特権と認めている。それだけにいっそう、売笑婦でない婦人が「あやまち」を犯したとき彼らは厳格に監視し、批判する。婦人も男子と同じ衝動をもつこと、また彼女の生涯の一定の時期には他の時期よりもいっそう強くこの衝動が現われることには、彼らは無頓着である。男子は彼の支配的地位を利用して、彼女に対してその強烈な衝動を無理に抑制することをしい、彼女の貞操をその社会的信用や結婚の条件とする。」【注4】

ベーベルは、性的な衝動に男女差はないにもかかわらず、女性は一方的に禁欲を強いられ、男性は逆に自由な性欲の充足を享受できるシステムに対して、「同一の自然衝動の満足に関する根本的に異なった解釈と判断ほど、婦人の男子に対する従属を端的にかつ不当に表現するものは他にはない」と厳しく批判したのである。そして、次のように売春を位置づける。

「事情は男子にとって特に有利である。自然は生殖行為の結果を婦人に負わせ、男子は享楽のほかには骨折りも責任も持たない。婦人にくらべてこの有利な地位は、男子仲間の大部分の特質を成すあの性的要求における放野を促進する。しかも合法的な性欲の満足をさまたげあるいはこれを制限する多くの原因が存在するために、その結果は自堕落な性欲の満足となるのである。
【傍点】そこで売春は、あたかも警察、常備軍、教会、個人企業制度と同じく、市民的社会にとって一つの必要な社会制度となるのだ。【/傍点】」(傍点原文)【注5】

売春が市民社会にとって必要な制度となっているというベーベルの指摘は、ある種のたとえ話として理解されたことはあっても、文字どおりのものと理解されたことはなかった。警察、常備軍、教会、企業に対する多くの分析や研究に比べて、売春——性の商品市場——の果たす市民社会における役割については著しく軽視されてきたことに、そのことは端的に示されている。
とはいえ、売春は、その他の諾制度——警察、常備軍、教会、企業——のようにつねに市民社会のなかで公然と正当化されていたわけではない。「国家は一方で売春の必要を公認するが他方では売笑婦と売春媒介とを迫害し、処罰する」し、「現に行われている宗教や道徳は売春を極力非難し、法律はその幇助をさえ処罰するが、しかも国家はそれを黙許し、保護するのである」といったように、アンビヴァレントな態度をとる。この国家の態度は、結婚・出産へと女性を導く支配的なライフサイクルを維持することを迫りながら、他方で、資本主義の〈労働力〉の商品化を肯定しつつその特殊形態としての性の商品化だけを否定する商品経済的な合理性を見出せないジレンマがある。
ベーベルはマルクスよりも立ち入って二重規範に言及したが、しかし性の市場を〈労働力〉再生産というコンテクストのなかで理解することはできなかった。この観点からより立ち入った検討を加えることがさらに課題となるわけだが、その前に、自由主義的な売春観から性的な欲望に関する最近の所説まで、いくつかの議論を前もって検討しておこうと思う。

2 売買春論の射程

1 道徳的必要悪説批判——バヴロック・エリスの場合

売買春についてのアプローチは、さまざまな観点からの長い歴史がある。とりわけ、二〇世紀初頭のハヴロック・エリス『性の心理』による売買春についての分析は、そこで扱われている問題の視角も含めて、古典的な売買春の是非論を整理するうえで非常に重要であるばかりでなく、そこで紹介されている新旧さまざまな売買春についての議論は、現在でもなお常識や社会通念などのなかにしっかり根づいているという点からも、検討しておく必要がある。
エリスは、「売春とは報酬と引き替えにさまざまな種類の異性あるいは同性の性的欲望を満たす職業である」【注6】としたうえで、さしあたり、近代的な売買春をそれ以前のものとはっきり区別して論じようとする立場をとる。エリスは、次のように述べている。

「女性が愛や情熱という観念を少しも持たずに、単に職業のために誰にでも身体を売り、そしてそうした職業のために同性からさえ社会の除け者として決定的に、厳しく爪弾きにされるということは、発達した文明社会において初めて見られる現象である。この点から見ても、今日の売春を原始時代の遺物として片づけてしまうことは、全くの過ちと言われねばならない。」【注7】

家族は、近代化の過程のなかで、労働の組織から消費の組織へ、つまり〈労働力〉再生産の組織へと変質するにつれて、性欲の充足という役割が夫婦関係のなかでより重要な位置を占めるようになる。近一代家族の紳は、生産条件によって規制できないために、愛情といった抽象的な観念が必要になるのだ。この愛情という観念の具体的な確認行為として性的な行為が位置づけられたのである。しかし、男性であれ女性であれ、性欲は愛情に媒介されなければ満たされないとは必ずしもいえない。この恋愛結婚という制度と性欲の充足との間の「ズレ」は、資本主義社会が総体として必要とする人口=〈労働力〉の再生産を脅かす可能性をつねにもつ。だからこそ、恋愛結婚の制度から逸脱する性欲をコントロールする固有の制度、規範、言説が要求される。
たとえば、一夫一妻制を維持し、妻と娘の貞操に高い価値を置く保守的なモラリストたちは、売買春は「改良されつつある社会の衛生状態を維持する必要上」不可避であるとか「善良な家庭を防御する砦であり、一夫一婦制を表とするならば、その裏に当たる不可避な現象である」【注8】と見なして容認した。これに対してエリスは、「道徳上から売春を認める議論は、その前提として、我々の今日の結婚制度は無限に尊重すべきものであるということを認めて、現行の結婚制度の支えとして役立つものであれば、どのように醜く、非難すべきものであっても存在させておかなければならないという考えに基づいている」【注9】と指摘している。
エリスは、こうした必要悪説は、現状の売買春を正当化するためのある種の口実にすぎないということを理解していた。売買春の原因として、「管理された複雑な現代生活の機械的なマンネリ化した過程を軽減し、その無味乾燥な単調さを終わらせ、生活に陽気さと変化の要素を加えるという売春の影響力」【注10】と述べているように、都市生活、そこでの生存競争の激しさを指摘する。社交の機会が多く、匿名的で、また好奇心をそそる環境などによって「都市生活は人々の社会的野心を強め、生活費の高騰などによって家庭を作る時期を遅らせる」【注11】という。こうして結婚の代用または補完物としての売春への需要が高まるというわけだ。エリスは、決まりきった疎外された労働、共同体的な人間関係の紳の解体、そして市場経済の私生活への浸透といったいくつかの要因の複合として、売買春が構造化されているとみたのである。
保守的なモラリストたちの売買春についての必要悪説は、男性が売春婦に対してとる侮蔑的な態度とも結びつく。エリスは次のように指摘している。

「現代の道徳的な見地からすると、青年だけに限らないが、多くの男性が依然として売春婦を侮辱しているのは残酷で、不条理であるが、その一方で、売春とは関係がないという理由だけで、その他の女性に対して敬意を払っているのは、売春婦にとってさらに残酷で、不条理な仕打ちである。」【注12】

この侮辱や差別の感情を伴いながら、男性が女性から商品化された性的なサービスを受けるという関係は、たしかに平等な人間観からすれば容認しえない関係であるといえるが、市場経済の契約の平等は、この実質的な不平等をつねに覆い隠す。むしろ一般的な〈労働力〉の商品化の場合も含めて、職業に対する尊敬と侮蔑はそれぞれの社会の文化的な価値観とも密接につながりがある。次にみるクロード・レヴィ=ストロースの「女の交換」説は、この点について検討に値する視点を提供している。

2「女の交換」——クロ‐ド・レヴィ=ス卜ロースの場合

クロード・レヴィ=ストロースは、婚姻と生物学的な性交渉とをはっきりと区別した。そして、近親婚をタブーとすることのなかに文化的事実としての婚姻関係を見出そうとした。言い換えれば、両性がどのような関係を結ぶのかということは、一見すると動物の性交や種の維持。再生産と同様、人間にとっても本能的な過程、つまり自然過程だと見なされがちだが、そうではなく文化なのだという点を示したのである。
レヴィ=ストロースにとって、こうした意味での文化とは、規則である。「文化の本源的な役割は、集団が集団として存在することを保証すること」【注13】であり、これは、婚姻関係でもいえることであり、近親婚の禁止とはこの集団としての規則の一例なのだという。
集団の統一性を保つ条件として、レヴィ=ストロースが持ち込むもう一つの「一般性をもったモデル」は、「希少生産物の体系」を基礎とする配分と消費のシステムである。この希少性に基づく配分と消費は、財がその需要に対して慢性的に希少であり、したがってつねに需要を満たされる部分と満たされない部分という社会内部の欲望の不均衡を生み出す。とりわけ彼は、女性が希少性を伴う重要な交換物であるということを指摘した。
生物学的には、男女の出生比率はほぼ半々だから、このかぎりでは女性の希少性は生まれないはずだ。しかし、女性を希少とする一般モデルをレヴィ=ストロースが持ち出すのは、彼が単婚(モノガミー)を例外とみて、「社会的。生物学的観察は、人間においてはこうした複婚〔ポリガミー〕の——引用者注)傾向が自然的かつ普遍的」であって、「我々の目には一夫一婦制は積極的な制度とは映らない」し、「経済的、性的競争が激しくなっている社会では、一夫一婦制は単に一夫多妻制を制限するものでしかない」、いやそれどころではなく、西欧近代社会においてさえも、「一夫一婦制は一般的な規則とはなっていない」【注14】というのである。しかも、ここでいう希少とは単なる数の問題ではなく、男性にとって魅力的な女性がそもそも希少であるという前提でレヴィ=ストロースは設定してしまっているのである。
レヴィ=ストロースの「女の交換」という議論は、繰り返し批判されてきた。たとえば、エリザベート・バダンテールは、『男は女、女は男』で指摘しているように、男性は本性的に一夫多妻制の傾向をもち、すべての女性がつねに男性の関心を引くとはかぎらないことを根拠に、女性は希少な交換対象とならざるを得ないということを、いわば一般的な原則として据えてしまえば、女性にとって不利な普遍的な非対称性から逃れられないことになる。しかも、こうした「女の交換」が近親相姦の禁忌という人間社会一般にみられる規範からもたらされるということになると「女性を物のカテゴリーに入れる状態が続」き、「一見したところ、私たちに逃げ道はいっさい残されていない」【注15】ということになってしまう。
リュース・イリガライも『ひとつではない女の性』において、レヴィ=ストロースは女の交換を普遍的なものと見なしていることを批判して、なぜ男の交換ではいけないのかという問いを立てられない彼の議論について、「女という性的物質の搾取は私たちの社会—文化的地平そのものを形成しているから、この地平内ではこの搾取を解釈することができない」【注16】のだと厳しく批判した。
バダンテールやイリガライらの批判は正当なものだ。しかし、イリガライも指摘しているように、このレヴィ=ストロースの議論は、彼の意図とは無関係に、資本主義における「女の交換」を理解するうえで多くの示唆を与えてくれるとみることもできるのである。特に、彼が近代社会ですら一夫多妻制といえるかもしれないと示唆した点については、もう少し立ち入って検討してみる余地はある。

3 資本主義における「女の交換」

資本は、市場を媒介として、女を取得する。それは性産業での〈労働力〉としての女ばかりでなく、性に基づく労働のさまざまな領域と微細な行為を資本が墓奪するという方法で、資本はその生産過程と流通過程もまた性的な存在に転換し、自らの性欲を充足する。それは、オフィスで強いられる女性たちの「女らしさ」やOLとしての役割に構造化される。他方で、国家は〈労働力〉再生産の領域を夫とともに共有する。セクシユァリティについての倫理・道徳のスタンダードを形成し、社会保障から住宅政策まで、中絶をめぐる法規制からピルなどの避妊薬の許認可まで、相続制度から国籍や戸籍制度まで、国家はさまざまな非市場的な手法によって夫婦関係の微細な性的な欲望と振る舞いに介入する。
資本—国家によるこの女の取得は、夫の妻に対する占有から何割かずつをかすめ取るという巧妙な隠された方法で行われる。そのためにこの社会は、一夫一妻制という安定的な均衡の制度的な外観を利用しながら、他方で資本—国家による権力構造を再生産できるのである。他方で、この女性をかすめ取られた男性たちの側にも、擬似的な一夫多妻制のシステムが準備されている。それが、市場における性産業による女性の供給である。しかし、それは、女性の性的なサービスの一時的な使用権だけを商品化して売り渡すというやり方によるのであって、性的労働力としての女性そのものを引き渡すわけではない。つねに、その資源は、資本の手元に確保され続ける。こうして、性産業で男たちは一時的な一夫多妻制を享受する。それはまさに資本と国家によってかすめ取られた妻への支配を穴埋めする反対給付なのである。
この点をふまえてレヴィ=ストロースの「交換」の議論をみてみよう。レヴィ=ストロースは、次のように述べている。

「婚姻を構成している総体的交換関係は、それぞれが何かを与えたり、受け取ったりする一人の男と一人の女の間に成立するのではない。その関係は、男性から成る二つの集団の間に成立するのであり、そこでは女性はその関係の相手としてではなく、交換される物の一つとして姿を現す。普通そうであるように、娘の感情が考慮にいれられるとしても、このことは真実である。提案された結婚に同意したとしても、彼女はそれで交換の実施をせきたて、許すだけなのであって、交換というものの性格を変えることはできないのだ。」【注17】

資本主義においても、たとえ恋愛結婚のように女性の主体性や意志を尊重しているかのようにみえる婚姻関係の制度が支配的であるとしても、それはより大きなシステムとの関わりでみれば、個別の主体の主観や感情は問題にならないということ、構造的にみれば「女性はその関係の相手とてではなく、交換される物の一つ」であり、主体は男なのだ、ということである。この観点を押さえておくことが、逆に女性の変革の主体としての意義と意味をより明確にすることになる。
主として未開社会を対象としているレヴィ=ストロースの議論に近代資本主義のシステムを読み込むことは、果たして適切なのかと考える読者もいるかもしれない。しかし、レヴィ=ストロース自身、右の議論に続いて次のように述べているのだ。

「婚姻が個人間の契約であるように見える我々の社会においてさえ、この観点を厳重に守らねばならない。なぜなら、婚姻が一組の男と女の間に展開させはじめる互酬性のサイクルは、その婚姻に伴う務めがその種々相を規定するのだが、これはより広大な互酬性のサイクルの副次的な様式にすぎない。この広大なサイクルこそが、一人の男と、誰かの娘あるいは姉妹である一人の女との結合を、その誰かと、この男か他の男の娘あるいは姉妹との結合によって保証するのである。」【注18】

つまり、「婚姻の基礎となる互酬的紐帯は男と女の間に確立されるのではなく、女たちのおかげで男同士の間にうちたてられるのであり、女はその場合、その関係の主な誘因にすぎない」【注19】という関係は、未開社会であれ高度な資本主義社会であれそれらに共通するというわけである。
こうして、レヴィ=ストロースの議論は、売買春の問題を論ずる場合、かなり本質的なところで示唆的なものであるといえる。すなわち、
・交換は市場経済における性産業と非市場経済における婚姻関係を貫くメタレベルの制度であること。
・このメタレベルでは、女性は「物」であり、男性間の交換システムが立ち現れること
・一夫一妻制という外観の背後には隠された一夫多妻制が構造化されており、これが資本主義的な性をめぐる資本—国家の権力構造を再生産していること
である。
だが、レヴィ=ストロースの議論には、男性の性欲に立ち入った議論はないし、交換と分配への高い関心に比べて、「生産」や「再生産」というカテゴリーは背景に退く。また、女性を「物」という位置に置くことだけでは、他方で女性への性的欲望を交換の重要な前提に置く資本主義的交換システムの説明には不十分なのである。

4 市場と権力

性という課題のなかに見出せる権力の主体は一つではない。国家は、法的な強制力の行使を家族関係と性産業が活動する市場経済の双方で発揮できる。しかし、家族法や民法のような法による規制は、慣習的・宗教的な規範に基づく個々の家族関係や夫婦関係によって下から支えられねばならないが、その際に最も重要なことは、こうした法規範は性についてあからさまな規範を設けることができないということである。とりわけ、性的な快楽や性交渉それ自体の規範については何も語れない。性的な快楽を享受することは違法ではないし、子産みの目的以外で性交することもまた違法ではないようにみえる。しかし、ボーダーの部分では必ずしもそうとはいえない。性的な快楽を同性に求める場合やマスターベーションによって得る場合、アナルセックス、オーラルセックス、獣姦に対するタブー意識、近親婚や同性愛の禁止、未成年あるいは子どもの(広義の意味での)性行為の禁止、避妊や中絶に対する批判や禁止は、歴史的には近代以降の社会でも見出せるし、現在もまだ見出せるケースがある。これらがボーダーの位置に置かれているということは、性的快楽や性交の範囲がどこに中心を置き、何を周縁部に配置するかを知るうえで重要な参照枠である。
この参照枠から私たちは、性をめぐる自由と規制の秩序が、さまざまな回路を通じて、最終的には人口の再生産の秩序であり、この秩序におさまりきらない性的な快楽を周縁部で制度化するものとして機能していることがわかるはずだ。この観点からみた場合、近代社会の性の秩序は、基本的には子産みのためだけの性交を社会的に正当な性交・性欲と見なす観点を根強くもち続けていることがわかる。子産みに結果しない性交や性交渉であっても、それは、子産みのための性交・性交渉の秩序を支えるための条件として巧妙に配置されている。避妊措置をほどこしたうえでの男女間の性交や同性による性交は、どちらも結果としては子産みと結び付かないが、両者の性的秩序に対する配置は同じになるわけではない。同性愛はより周辺に排除される可能性が高いのが現在の社会なのもこのためだ。
子産みは、家族制度のなかで人口と〈労働力〉の再生産に結果するものと社会的には位置づけられるが、実際に家族を構成する諸個人にとっては、むしろ恋愛や愛情を紳とする共同生活とその結果としての子産み・子育てと観念される。共同体的な規範や親族組織が社会の基幹的な組織であることをやめ、市場システムが介在する人口数十万から一千万単位の都市からなるこの匿名的な近代社会では、結婚へといたる人々のコミュニケーションを、レヴィ=ストロースが論じたような交叉イトコ婚など親族組織のルールで拘束することは不可能である。これにとって代わったのが恋愛という新たなシステムであることはすでに述べた。性欲の喚起は、このシステムでは人々を結婚—子産みへと導く不可欠な役割りを果たす。
家族制度や夫婦の間での性交渉がつねに子産みを前提とするとはかぎらないし、むしろ多くの場合は、避妊を前提として性的な欲望の充足のために行われる。これは右に述べたことと矛盾しない。なぜならば、夫婦関係の基本が、恋愛に象徴されているように性的な欲望に基づく結びつきとして経験される近代以降の家族では、性的な充足は家族関係の再生産、関係の確認行為として不可欠であるからだ。この確認を通じて家族はその関係を再確認し、同時に子産み、子育てと男性を中心とする〈労働力〉商品の供給を安定化することができる。性的な欲望とその充足は、さまざまなタブーや禁止に取り囲まれており、あたかも反社会的な行為に触れ合うかのような外観があるが、実は性的な欲望の喚起と充足は、近代資本主義が人口と〈労働力〉を再生産するうえで不可欠な装置なのである。
このようにして性欲の表出は肯定されなければならないものになったのだが、この肯定の意味は、右に述べたように恋愛—結婚—子産みというコンテクストのなかでしか近代社会が人口と〈労働力〉の再生産が行えないということであって、性的な欲望一般が無条件で肯定されているわけではない。
商品化された性の領域は、一般に子産みや家族制度の外部に排除された主として男性の性的な欲望に関わる領域である。性的な欲望が子産みのための行為に限定されない人間の場合、性欲のこのはみ出した部分を受け持つのが市場における性産業であり、そこで働くセックスワーカーたちである。この意味で、男性のさまざまな生活上の必要を満たす食品産業や服飾産業と変わるところはない。しかし、一つだけ根本的に異なるところがある。それは、性が権力の基盤であるということだ。食欲を満たしたり、衣服で着飾ることが権力作用と無関係とはいわないが、性関係には人間と人間の関係、とりわけ社会的な再生産を含む関係の基礎が存在する以上、そのコントロールは同時に人間関係のコントロールにならざるを得ない側面をもち、権力の発動の場とならざるを得ないのだ。つまり、性欲の喚起と充足が、主として男性を消費者とする市場の形成を意味し、女性はこのなかで主として男性に対する性的なサービスの労働者となる。性をめぐる消費と労働市場が両性の間に非対称的に配置されているわけだが、このことのなかに、実は市場経済が性をめぐる権力装置としてもまた機能しているということが示されている。
こうして性の二つの側面、快楽と世代の再生産が、資本主義のシステムでは、市場と家族という社会的な分業のなかに振り分けられる。この性的な社会的分業の観点からみて、男性の女性との関係は、フォーマルな婚姻関係の構造の背後に、事実的な性的な関係としては一夫多妻制の社会的な係は、フォーマルな婚姻構造を有しているのだ。
しかも、市場が引き受ける性的な関係、性的欲望の充足のシステムが恋愛—結婚—子産みという支配的なシステムを補完できるように規制することは、市場経済の自由競争に委ねれば自動的に実現できるというものではない。
市場における性の商品化は、売春防止法にみられる違法の領域を含んでいる。しかしこの売春の違法性は、あまり厳格には適用されないばかりか、主として買春を行う男性ではなく、売春を行う女性を反道徳的と見なして、売春目的での雇用契約、場所の提供などを違法としている。需要側ではなく、主として供給側を規制するこの法律が示しているのは、性の商品化がどのような条件のもとであれば合法であるかの基準を与え、性産業の合法領域を示すものになる。合法的な性の商品化の方法は、違法な方法を参照することによってのみ構成できるからだ。
逆に需要側を規制することはきわめて難しい。もし規制しようとすれば需要側を一般に違法とするしかないからだ。この需要側の規制は、むしろ「女を買う」「女遊びをする」ということが家族関係の崩壊を招かないような暗黙の規範を男社会に生み出させる家父長制イデオロギーによる規制として、別の回路からもち込まれる。需要の規制は、「遊び方の節度」の規制として発動されるにすぎないが、現在のシステムはそれで十分維持されると見なされているのである。いやむしろ、それによって恋愛から家族制度へといたる人口と〈労働力〉再生産の支配的なシステムが保証される一方で、性産業は、このシステムから逸脱する主として男性の性的な欲望をこの支配的なシステムの障害とならないように処理する不可欠な装置となるのである。そして、婚姻のフォーマルな制度の外部にあるもう一つの性的な欲望の充足システムのなかで男性がとる性交渉もまた婚姻の制度を支える必須条件であるという意味で、近代社会もまた一夫多妻制の一つの変形とみることができるのである。
他方、女性の性的な欲望は、こうした外部すらもちえなかった。このことも、右にみたように性的な欲望が子産みと家族に収散する近代社会のシステムがもたらした偏りである。子産みのための「資源」として女性の一定数が動員される必要があるわけだから、彼女たちの多くが、子産みとは無関係な市場における性の商品化へと配分されることはシステムの望むところではない。女性の性的な欲望は、まず子産みへと直接・間接に結びつく関係のなかへと導かれねばならない、というようにシステムは機能している。恋愛や夫婦関係のなかで性的な快楽を求めたり、充足を経験することはこの意味でまったく問題はない。しかし、性的快楽は、子産みへと導く行為の必要上その価値を副次的に認められているにすぎない。
こうして、近代社会であっても、性的な欲望はそれ自体に価値があるとは見なされない。マスターベーションや同性愛の禁止は、社会や時代によって大きな揺れがあるが、いずれも性的快楽や性交のスタイルとしては支配的とはいえないのもそのためだ。これは、何回繰り返そうとも子産みには結びつかない性的行為、性的欲望の喚起と充足の行為だからだ。

5 違犯を引き受げ愚市場経済——ジョルジュ・バタイユの場合
性的な欲望が社会秩序に対してある種の違犯的な行為の領域を形成することはさまざまな社会で知られている。同時に、このように性的な欲望を婚姻関係における性行為に還元できないということも多くの社会は認めている。ジョルジュ・バタイュがいう「躁宴【ルビ:オルギア】」にみられる性的な放縦は、やがてキリスト教の教会支配のなかで「サバト」として絶対的な禁止行為とされてしまう。不浄なもの、悪魔的なもの、エロティックなものを俗界へと切り離すキリスト教による漬聖に関する振る舞いは、逆に世俗化が普遍化した近代社会のなかではまったくその効果も意味も失ってしまったかのようにみえる。
世俗的な権力支配のもとで、エロティシズムが罪と自由の間で引き裂かれた時代が一九世紀のヴィクトリア朝における性道徳だった。家族もまたこのエロティシズムをすべて引き受ける制度へと転換することはなかった。家族が性的な関係によって結びつけられた男女の関係を基礎としなければ成り立たないということは、同時に性的な欲望を十分保証する制度であるということを意味するわけではないのだ。
バタイユは、結婚をエロティシズムとは無関係とはみていないが、逆にこの結婚においてエロティシズムが完全に充足されるともみていない。バタイュは結婚には「過程」と「状態」という二つの意味があるという。「過程」というのは、たぶんに性行為それ自身がもたらす快楽を指し示し、「状態」とは婚姻関係が長期にわたって継続する「習慣」『反復」の関係それ自身を示している。この後者の意味での結婚では、女性の経済的な価値、労働力としてまた出産や育児、家事の担い手としての女性の価値が中心をなす。バタイユはこの習慣化され反復される関係の二面性を指摘している。性的な関係が繰り返されることによって、両者の間には関係の習熟とそれに伴う安定した深い理解が得られるに違いないという面が一つ。しかし、エロティシズムとして人間が感じる欲望はこうした繰り返しと関係の習熟にのみ収敵するとはいいがたく、その逆に、この習熟した継続的な関係によって消し去ることができない不規則で無秩序な違犯が引き起こす性的な欲望であるという面がもう一つである。しかも、規則化されて、秩序を支える行為に組み込まれた違犯と結婚のような性的な規範の正当な制度とは、互いにもたれあいの関係をつくりだす。もちろん、このもたれあいは、男性にとって都合のよいもたれあいであると同時に、資本主義社会全体のシステムとしては人口=〈労働力〉の再生産の不可欠な条件なのである。。
バタイユは、性的な欲望とそれに連なるエロティシズムの充足という課題を結婚における男女の性的な行為にではなく、むしろその外側に、つまり「不倫」とか売買春に見出そうとする。

「いったい、結婚によって少しも無力にならないほど深い愛は、不倫な愛に染まらずに近づくことができるのだろうか。不倫な愛のみが、よりもっと強いものがあることを愛に教える力をもっているのではないか。」【注20】

それは、躁宴、サバトにも連なり、あるいはシャルル・ボードレールが「私に言わせれば、恋愛の唯一至上の悦楽は、悪をなす確信のうちにある。男も女も、あらゆる悦楽は悪の中にあるのだということを、生まれながらに知っているのだ」(傍点原文)【注21】と述べたことを引き合いに出して、「快楽は違犯に結ばれている」と述べるような事態と深く関わっている。
バタイユがこうして論ずる性的な欲望の社会的な見取り図は、非常にシニカルなものになる。つまり、夫婦関係として合法化された性的な関係からはエロティシズムの契機は実は奪われている。完全に奪われてはいないとしても、違犯や悪や不規則な行為として現れるエロティシズムは、継続的で深い関係によって犠牲にされる。同時に、家族は性的な欲望の充足のための集団ではなく——それは近親相姦をタブーとしていることからもわかるわけだが——、むしろ近代以前の社会であれば労働の組織であり、近代化以降の社会であれば消費=〈労働力〉再生産のための組織である。教会がつねに家族の側に立とうとするように、家族とはある種の聖性のシンボルであり続けており、それは世俗化された家族イデオロギーにおいても変わるところはない。というのも、近代の家族には消費の裏側に隠された労働が張りつき、この労働は同時に性的な行為の領域に隠された形で張りついているからなのだ。
他方で、この聖性としての家族の関係から逸脱し、そこにおさまりきらない関係は、「悪」の側に追いやられる。恋愛と性の自由が近代社会ではそれ以前の社会に比べて大幅に認められたかのようにみえながら、エロティシズムとしての性的な欲望は家族という制度によって充足されることはなく、その外側に向かう違犯の領域を必要としているようにみえる。しかしこの違犯が文字どおりの「悪」あるいは「罪」として放置されることはありえない。どのような社会であれ、こうした違犯は制度化されることによってコントロールされるからだ。こうして、躁宴やサバト、あるいは近代以前の日本でみられた祭りにおけるある種の性的な放縦や夜這いといった慣習は、近代化された社会のなかでは、「不倫」や売買春という行動によって枠をはめられる。

6 性欲の多型性とその抑圧——ジョン・マネーの所説

ジョン・マネーは『ラブ・アンド・ラブシックネス』で性欲の多型性を明らかにした。言い換えれば、男性/女性という性の二分類に基づく、ステレオタイプの性欲は文化的・社会的に形成されたものであって、それが生得的であったり遺伝的であったり、生物学的であることはないと退けた。
ジェンダー役割がいわれるほどステレオタイプ的ではないということになると、いくつかのやっかいな問題が出てくる。
それは、男性であれ、女性であれ、対となる相手との関係が非常に複雑になるということだ。異性愛と婚姻による家族の形成というシステムが最も安定するのは、男性の性役割と女性のそれとが相互に対応あるいは相互補完的であるという仮定が成り立つ場合だけだ。つまり、男性が女性に対して感じる性欲も彼女から得る性的な満足も、相手の女性が誰であっても基本的には変わるところがなく、女性に関しても、相手の男性が誰であれ、基本的な性欲とその充足に変わりはないというのであれば、婚姻による男女の対の関係は、少なくとも性欲の充足という観点からみて永続的であることが自然であるということになる。
しかし、マネーが明らかにしたのは、そうではない。むしろタブーとされた異常性愛とされるケースも含めて、性欲の喚起を促す事情とその充足のあり方は非常に多様だということである。しかも、そうした多様性は、個人の内部にも存在しうるのであって、異性愛であると信じている人が本当に異性愛だけしか受け入れられないのかどうかはわからない。これは、フロイトが無意識を発見すると同時に、人間の性的な欲望を、肛門や口唇欲求として、あるいは近親相姦を潜在させるものであることをむしろ普遍的に見いだすことができるが、同時に無意識のなかに抑圧して意識化されないものとして保持されるとしたこととも平仄があうものだとみてもいいだろう。あるいは、むしろ、キンゼー報告以来ある種の常識になりつつあるように、予想以上に多くの人たちは同性愛をなんらかの形で経験していると実証主義的に論じてもいい。また、さまざまなフェティシズムやパラフィリアは、個人のなかに複数共存することもありうることも知られている。とすれば、こうした多様性を前提するとすれば、特定のパートナーに対して、相手もまた対等に満足する性的な行為の組み合わせを見出すことは非常に困難になるかもしれないということになる。
マネーの指摘する多様な性的な快楽の形にもう少し立ち入ってみよう。マネーは、パラフィリアやフェティシズムについて、次のような興味深いことを指摘している。

「パラフィリァの多くは、生得説/養育説の擁護者に対して、特殊な問題を突きつけている。たとえば、女性用の絹の靴下蕊あるいはおしめをとった幼児が使うゴム製のトレーニングハンツをフェティッシュとするケースを考えてみるとよい。ストッキングというフェテイッシュ、ゴムというフェティッシュと性的興奮との間に不可避な関係を指令している遺伝的すなわち生得的決定因子が存在する、と推測するのはばかげたことに思えないだろうか。同じことがクリスマフィリァ(浣腸愛——引用者注)についても言えよう。クリスマフィリアの場合、性的行為をやり遂げることは、パートナ‐があらかじめ浣腸をしてくれるかどうかにかかっている——これは、あまりにもたびたび浣腸されたために浣腸がエロティックな興奮のもとになってしまったという、ほぼ明らかに幼年期を起源とする手続きなのである。」【注22】

普通の——と一般に考えられている——性的な行為において周辺的な関わりのものが中心的な役割を演ずるということが、さまざまな形で見出されるのだ。パラフィリアと呼ばれる行為のなかには明らかに違法・有害な行為がある。たとえば快楽殺人症、強姦症、相手を操って自分を殺させるケースなどをマネーは指摘している。このようなカテゴリー化は、現実の性的な行為が多くの場合これらのカテゴリーのグレーゾーンで行われるというやっかいな問題を簡単にかたづけてしまう恐れがある。事実マネーも、有害と無害の境界については「一定のルールはない」【注23】のであり、なんらかのルールがあるとすれば「パートナーの守っている聖域にまで侵入し不当に侵害し、合意がないため一方的に後遺症を残す」場合ということになろうと述べている。大島渚が『愛のコリーダ』で描いた首を絞めながらのセックスの場面は、きわめて異常な情景のようにみられるが、パラフィリアのなかでもアスフィクシオフィリァと呼ばれて窒息によって性欲を高める場合として知られており、必ずしも異例とはいえない。とすれば、心中という死にいたる性的な行為もまたパラフィリアの一つの類型といえるかもしれず、そうなるとこのパラフィリアには文化的なコンテクストを無視できず、しかもこの文化的なコンテクストのなかで性的な欲望もまた形成されうるということになる。【注24】
このパラフィリアが本稿の主題である売買春にとって重要なのは、二つの観点からである。一つは、多くの場合、一夫一妻制における特定のパートナーとの間で可能な性的な形には限界があるが、性的サービスの商品化は、多様なサービスを提供できるからである。もう一つは、このパラフィリアがイメージの喚起と深く関わるという問題に関連する。マネーは次のように述べている。

「あらゆるハラフィリアに共通する特色とは、それらが必ず空想によるドラマあるいは儀礼を伴うことであり、そしてこの空想はイメージ——主に視覚的イメージ——の中でリハーサルされるか、それとも一人以上のパートナーの助演を得て、さらに演出用小道具も加えたりあるいはとくに用いずに、上演つまり実現されるということなのである。」【注25】

このイメージの喚起は、市場経済における消費者行動を促す基本的な条件である(この点についてはのちに立ち戻る)。

7 性的異端の世俗化と家族における非性的コミュニケーション

かつて教会が性的異端を罰する時代があったが、現代ではこうした機能を世俗的権力が受け継いでいるということは、欧米の文献ではごく一般的に指摘されることである。マネーもこうした性的な道徳に対する「検閲」の世俗化を指摘する。教会に代わって、法律や民衆のなかの慣習などを通じて、性的な規範やタブーが社会的に再生産される。

「世俗的権威が絶対的な指令を下すとき、それは独裁政権となる。我われは今日、人々の性的 行動だけでなく、人々が読み、目にし、聞き、さもなければ心の中に抱いているかもしれぬこ とまでも制約する、性的独裁政権(sexual dictatorship)の中に生きている。いかなる逸脱も、〈世俗的異端〉とみなされるのだ。」【注25】

しかし、ここに特徴的なパラドクスが生まれる。性的な規範を世俗化する圧力が生ずる一方で、この性的な規範を明確な言説によってコントロールする手段を民衆はもちえないということである。とりわけ、家族がその子どもに対して性的な言説をもつことができず、性的な事柄が一般に子どもにとってタブーの領域に追いやられる。

「親は普通、子どもたちのエロティック/性的発達について何でも通じているのが当然だと考えているのだが、その一方で、彼ら自身の私事については、子どもたちに何一つ明かせないのである。その結果、一方的になった対話は、家庭での性教育から、真の率直さをまこと効果的に奪ってしまうことになる。(略)人間の経験を構成する要素のうちでもエロティックなセクシュアリティは、我われが自分自身の子どもたちに直接かつ視覚的に伝えるのに失敗し、その代わりに言い伝え、同年齢の子どもたちの間で慣例化しているフォークウェイズ、本、そしてことによると代理人に任命した人たちを頼りにして、子どもたちへの伝達を任せきりにしている唯一の経験要素なのである。」【注27】

世俗化された性的規範のこの宙づり状態が、フロイトのようなエディプスコンプレクスの仮説を生み出したことは間違いないが、同時に歴大な性産業のための市場を生み出したこともまた間違いない。家族の「清潔」な道徳は、売買春に対する防波堤であるどころかむしろその逆であって、性的な産業を支える社会的な基盤なのである。

3 資本主義と結婚・家族制度

1 なぜ性的快楽をめぐる市場が構築されるのか

売買春が古代ギリシャからみられる現象であるということから売買春の普遍性を主張する議論のように、近代社会にみられる売買春を近代以前のそれと同一視する考え方は支持できない。というのは、資本主義はそれ固有の生産関係によって経済を支配し、しかもこの経済の基軸を商品生産関係が占めており、このことは、商品生産それ自体が経済の周辺部に位置するにすぎない前資本主義的な生産様式とは商品売買の社会的な機能が決定的に異なるからだ。売買春という性的な快楽のサービスの商品化は、資本主義においては支配的な生産様式の内部に位置するが、それ以外の社会では周辺的な経済様式のなかに位置するにすぎないからである。
たしかにどのような社会システムも、それ以前の社会が保持していたさまざまなシステムを自らのシステムに取り込むか、あるいは廃棄するかの選択に迫られる。封建制から資本主義への移行は、生産関係や、法制度、政治制度からみれば決定的な切断が見出されるが、他方で家族関係、言語や文化、大衆的な慣習などについては、多くの場合継続性が見出せる。そして、資本主義における「売春」も、それ以前の「売春」を継承している側面がたしかにある。しかし近代の「売春」は、工業化とともに大量に流入するようになった都市の商品化された〈労働力〉の資本主義的な特質との関わりを無視しては論じられない。つまり、買春の主要な人口は、一九世紀から二〇世紀半ばまでは工場労働者であろうし、〈労働力〉の構成がホワイトカラーにシフトするにしたがって、買春の中心もまたホワイトカラーへと移る。工場労働者もオフィスの労働者も資本主義の成立とともに生み出された新しい人間類型である。こうした需要側の変化を無視することはできないし、これら需要者がどのような性的欲望を抱いて性行為のサービスを享受しようとしているのかは、近代以前の「売春」を近代以降のそれと同一視した歴史貫通的な売春一般論では解明できない。言い換えれば、性商品の使用価値の有する歴史的性格をふまえる必要があるということである。
商品交換、あるいは商品の消費行為のなかでも、売買春は今まで経済学者には注目されてこなかった。というのも、資本主義がまず最初に確立したイギリスの一九世紀で市場経済の中核を担ったのは綿工業や製鉄業のような製造業であり、アダム・スミスもマルクスも、経済の中心に物的生産とそれに必要な労働を据え、サービス労働を軽視したためだ。
しかし、ここで重要なのは、生産される商品が物なのかサービスなのかということではない。そのいずれであれ、商品売買が経済と日常の消費生活の中心を占めるようになったということである。こうした社会では、人々の欲望の構造は、商品の購買行動を中心に非市場経済ではみられない特徴的な行動を生み出す。売買春の問題は、この商品経済における消費欲望の問題をふまえなければ理解できない問題である。言い換えれば、売買春を性的な欲望に固有の問題とみるのではなく、むしろ消費欲望おける性的な側面とみて理解しておく必要があるのである。
こうして売買春は、二つの観点からみておく必要があるということになる。一つは、家族および〈労働力〉の再生産の観点から、性的な欲望が夫婦関係においてどのように位置づけられるのかを理解しておくということ、もう一つは、市場経済における商品の消費欲望の観点から、性的な快楽の充足を市場を介して充足しようとする消費者の欲望がどのようにして構築されるのかを理解しておくこと、である。

2 家族の社会的な機能

資本主義システムの唯一の限界は、人口の再生産を資本制的な生産様式のなかで行えないということである。家族は、労使関係や企業組織の外部に必然的にこの資本の組織を支えるために構成されなければならない。
家族の基本的な機能は、マクロの社会システムからみれば人口の再生産であり、日々の〈労働力〉の再生産である。育児を含む家事労働は、この意味で〈労働力〉の再生産であり、男女間の特定の性別役割分業に基づいている。たとえば、レオポルディナ・フォルトゥナーティは、次のように述べている。

「資本主義的な男女関係は、個人の関係ではなく、生産関係であり、男性に媒介された資本と女性の間で行われる交換である。これは極めて複雑な過程であって、その現象形態と実際の機能とが二重化して作用する。この複雑さは、二つの側面をもつその交換に反映している。一方でそれは可変資本と家事労働の交換であり、他方で可変資本と売春労働の交換である。つまり、男性労働者の賃金が女性の家事労働か売春労働と交換されるというその形式的なレベルで あらわれると同時に、実際は、可変資本と家事労働の交換、男性労働者によって媒介される資本と女性労働者の交換なのである。」【注28】

家事労働を〈労働力〉の再生産=供給労働とみた場合、この家事労働はたしかに男性に媒介された資本と女性労働者の交換と見なせる側面はある。つまり、女性の家事労働者は〈労働力〉再生産労働を提供し、これに対して資本は、男性労働者の賃金を媒介として、この女性による家事労働の成果=商品化されたく労働力〉を取得するというわけである。家事労働が資本との間接的な交換なのかどうか、男性労働者は単なる資本の媒介者なのかどうか、家事労働を社会必要労働量に還元できるのかどうかといった点については多くの論争があるが、今ここではこの点には立ち入らない。その点を別にすれば、家庭内で行われ、一般的には非社会的な行為と見なされる家事労働が、実は資本主義における剰余価値生産に不可欠な〈労働力〉再生産部分を担っているという点については、エンゲルスから現代のマルクス主義フェミニストにいたるまで、繰り返し指摘されてきたことだ。しかしフォルトゥナーティの特徴は、家事労働と売春労働を「労働力再生産労働の二つの主たる特殊な社会的な労働形態」【注29】と見なして、並列し、生産的な労働に組み入れたことだ。つまり、性的な欲望の充足という課題が、日常生活における衣食住の充足とともに、男性労働者の〈労働力〉再生産にとって必須条件であるということがここには暗黙のうちに前提されているのだ。この点を家事労働との関わりで指摘したことは重要である。
しかし、この指摘のなかで、欠落している論点がある。それは、性的な欲望の充足が、なぜ家族関係、あるいは夫婦関係の内部で充足しないのか、なぜ市場における性的なサービスの供給に依存する側面があるのか、という問題である。この問題は前述のように性的欲望の多型性に関わるが、またあとにみるように、家事労働が供給するサービスとしての衣食住もまた、市場のサービスによって代替されたり、あるいは市場のサービスとの棲み分けが行われたりするのはなぜなのか、という問題とも共通する充足されるべき欲望の商品経済的な多型性の形成にも関わる。

4 恋愛結婚という制度

1 特殊資本主義的なカップリング機構としての恋愛

〈労働力〉再生産を担う制度としての家族の核となる成人男性と女性のカップルはどのようにして社会的に組み合わされるのか。この組み合わせを促す社会的な条件は何か。
親族をベースとする共同体が解体して、匿名の諸個人が〈労働力〉として流入することによって構成される資本主義的な都市では、男性と女性が出会い婚姻に至るプロセスにおける伝統的な親族組織による役割は徐々に崩壊し、まったく見ず知らずの男女が出会う新しいルールがこれにとって替るようになる。この新たなルールが恋愛であることは前に述べた。近代の恋愛は、性的な欲望を婚姻による家族形成へと媒介する性愛の特殊形態である。恋愛は、つねに婚姻に結びつくとはかぎらないが、逆に婚姻は多くの場合、恋愛を前提とする。したがって、恋愛はつねに潜在的に婚姻に帰結する可能性があるものと見なされる。
こういったからといって、恋愛という現象が、資本主義に特有というわけではない。たとえば、ブロニスワフ・マリノウスキーは、その古典的な研究『未開人の性生活』のなかで、トロブリアンド諸島の性生活や婚姻について記述している。トロブリアンド諸島の住民の場合、子どもの性的な行為や性についての知識や性的なタブーは西欧世界の基準からすればかなり緩やかであり、子ども時代から性的な接触が頻繁に繰り返されており、恋愛関係も早い時期からみられる。恋愛における相手選びは、一見すると自由なようにもみえるが、必ずしもそうではないという。同一トーテム階級に属する者は結婚の対象からはずされ、同じ政治的領域内の一〇か一二の村々のなかで結婚する。また、高い身分の女性は低い身分の男性とは結婚しないのが普通とされる。こうして、「配偶者の選択は、同一氏族のものではなく、身分も大して違わず、ある種の地理的領域内に住み、しかもふさわしい年齢の者に限定されている」。【注30】こうした条件のなかで自由な恋愛が許されたのである。
恋愛という個人の意志に基づくカップルの形成と制度による禁忌、この二つの組み合わせは、資本主義社会でも見出せる。配偶者の選択は、同一民族である場合が多く、また出身階級も同一である場合が多い。地理的には、同一の国民国家内部に居住する場合が多い。さらにこれらに加えて、宗教や職業上の差別などが配偶者選択にとっての制約条件となる場合がみられる。他方で、資本主義が封建社会に対して自らの優位性を主張する場合にもち出される近代主義の価値観は、個人の自由と平等を主張する。恋愛は、家制度や人種、年齢などさまざまな制約を超えて達成される個人の自由の象徴のように物語化されてきた。これが、恋愛結婚にまつわる支配的なイデオロギーを生み出した。
恋愛が封建制から資本主義初期にかけての西欧の貴族階級やブルジョワジーのなかに、封建的な身分関係との対抗関係とともに登場したそのあり方が、その後の典型的な資本主義的な恋愛結婚の枠組みと物語を構築した。たとえば、エリ・ザレッキィは、次のように述べている。

「貴族の間の家族関係は、経済的取引とみなされ、そうしたものとして処理された。クリストファー・ヒルによると、一七世紀のイギリスでは、『婚姻法は、……ほとんど財産法の基礎であった』。婚姻は個人の利益よりむしろ、家族の利益にしたがってとりきめられた。恋愛や性生活は婚姻外に、しかもたいていは男の手で求められた。人為的に仕組まれる結婚は二重の規範と、妾と、庶子とを必要とした。初期ブルジョアジーの主要なテーマ(とりわけ文学にあらわれた)は、「金の力」というシニカルな個人的関係への攻撃と、経済生活と個人生活【傍点】双方【/傍点】の領域としての家族の防衛であった。
恋愛と個性という貴族の理想は、家族と正面から対立するなかで発達した。商品生産という領域のかなたにある洗練された宮廷社会のなかで、貴族は、精神主義ではあるが非キリスト教的な恋愛イデオロギーを発展させた。(傍点原文)」【注31】

封建制の支配的なイデオロギーが個人の自由に対して家制度を上位に置くものであったとすれば、個人——主として貴族階級の男性を指すわけだが——の自由意志の体現としての恋愛は、その周辺に位置する性愛の様式であった。近代社会が封建制のイデオロギーを批判して、個人主義イデオロギーを支配的イデオロギーの位置につかせたということをふまえれば、この性愛と婚姻の様式をめぐる中心と周縁の関係も逆転することになったとみていいかもしれない。つまり、周縁に位置した恋愛が今度は中心の位置に据えられたのである。
しかし、結婚と家族の形成は、その当事者の主観とは別に社会的な観点からすれば〈労働力〉再生産システムを支える制度的な枠組みであり、資本主義的な階級構造と労働市場における階層構造を再生産するものでなければならない。こうした資本主義的な生産/消費様式に規制されざるを得ないとすれば、この家族の形成をもたらす恋愛に関しても、まったく個人の自由な意志に依存するとはいえない。民族差別や職業上の差別意識は、同時にカップルとなる男女の組み合わせに一定の傾向を生み出す。恋愛結婚の対象として同じ民族を暗黙の前提としたり、同じ学歴の相手を選択しようとしたり、相手の勤め先の企業のブランドに左右されたりということは、対象選択の差別意識と不可分だが、当事者の意識に即せぱ自由な意志決定ということになる。恋愛として発現する自由な諸個人による自由な愛情の関係とは、こうした現実の差別の構造を隠蔽するイデオロギーとして機能することになる。

2 恋愛結婚システムの副次的作用

こうして、資本主義社会であっても、トロブリアンド諸島の住民同様、自由な恋愛と社会的な規範との双方が複合的に組み合わされて恋愛結婚が制度化される。前述したように、大量の人口が集中し、しかも流動性が非常に大きな都市中心の資本主義の社会システムでは、親族組織に依存したカップリングがきわめて困難であるから、人口の再生産のシステムを維持するためには、恋愛結婚のシステムは不可欠の方法だといえた。そして、個人主義と自由・平等の近代主義の理念は、恋愛にきわめて高い価値を与えることになった。同時に、この価値観は、この資本主義が本質的にもつ階級的な構造と差別を巧妙に隠蔽するイデオロギー装置ともなったのだ。
他方で、この恋愛結婚のシステムは、さまざまな副次的な作用を性愛のあり方、あるいは性的な欲望の充足のあり方にもたらした。
第一に、性的な欲望と恋愛という感情との結びつきに特権的な位置が与えられた。性的な欲望が恋愛と結びつかないさまざまなケースは、抑圧されるか、周辺に排除された。このため、性的な欲望は恋愛という感情とは相対的に区別されて発動されるため、さまざまな矛盾を抱えることになった。この矛盾は、性的な欲望の抑圧と多様な充足の間を大きく揺れ動くことになる。この両極、禁欲と放縦は、矛盾するのではなく資本主義的な性秩序の二面をなすことになる。女性の場合、恋愛と恋愛に結びつかない性的な行為は、禁欲と放縦の二重の女性像に結びついた。恋愛は、特定の男性以外との性交渉をもたないということを通じて、象徴的な禁欲を意味し、恋愛に結びつかない性的な行為は、セックスワーカーのように不特定の男性との性交渉を含意する性的な欲望の露骨な象徴とされた。女性は、単に禁欲を強いられてきたわけではなく、同じ性のなかでこの二つのまったく相反するようにみえる性的な態度に振り分けられてきたのである。すでに指摘したが、ベーベルが「結婚は市民的社会の性的生活の一面を表わし、売春は他面を表わす。結婚はメダルの表面であり、売春はその裏面である」と述べたように、支配的なイデオロギーはこのうち女性の象徴的な禁欲の側面を特権的な「表」の態度に、その性的な放縦の象徴的な機能の側面を「裏」として配置した。
第二に、恋愛は、婚姻と人口の再生産へいたる可能性を期待されるがゆえに、異性愛であること、未婚の男女間の感情であることが望ましいという一定の規範と結びつけられた。恋愛は、異性間に限る必要はない。しかし恋愛が結婚を導くための不可欠な前提条件となる資本主義では、恋愛あるいは性的な愛情の関係が何よりも異性愛であることに特権的な位置が与えられてきた。同性愛の排除を西欧のキリスト教文化はその宗教的な理由によって正当化しようとしてきたが、これは資本主義が制度的に必要とした同性愛の排除をイデオロギー的に裏づけるために利用したものであるとみたほうがいい。というのも、非キリスト教社会であっても、婚姻の基本的な条件が異性間のそれであることを法的に規制することになっているからであり、それは、同時にそれぞれの国民国家が国家の人口政策の基礎になりうるような家族という制度を組み込んでいることと無関係とはいえないからである。性的な欲望とその充足や愛情の関係だけであれば、それが同性によって満たされることと異性間で満たされることの間に特段の区別があるとはいいがたい。両者の間にある差異は、人口の再生産という観点だけである。
こうして、同性愛や恋愛と結びつかない性的な欲望は、婚姻制度Ⅱ人口の再生産に結びつかないものとしてへ周辺的な欲望として排除された。私たちの性的な欲望は、人口の再生産=子産みという行為から大きくかけ離れているように思われている。たしかに、個々人の性的な行為は子産みとは無関係な性欲それ自体の充足のために行われる行為であることが圧倒的に多い。にもかかわらず、マクロの制度からみた場合、私たちの性的な行為は巧妙に人口の再生産のシステムのなかに組み込まれているのである。

5 消費者からみたセックス商品論

男性に配当される性的な欲望とその充足は、一夫一妻制という枠組みを表向きとしながら、性の商品化によって支えられなければならない仕組みのなかに組み込まれている。これは、男性の本性的な性行動に由来するものではない。むしろこれは、資本主義の市場経済が促した男性の性的な欲望の形である。なぜ、男性なのか。それは、男性がこのシステムでは主たる貨幣所有者であり、〈労働力〉の再生産に必要な消費サービスの主要な需要者だからである。この消費市場が構成する消費者の欲望の構造は、性の商品化のなかで買春行動をとる男性の欲望の構造と共通するものをもっている。言い換えれば、性的な商品の購買は、男性にとっては、レストランで食事をしたり、デパートで服を買ったりする消費者の欲望充足のための貨幣支出行為と、その欲望の喚起と充足の構造においてはさほど大きな違いはない。まず、その点から明らかにしておこう。

1 欲望の特殊社会性
性欲にまつわる複雑な対応——性の多型性——を、おのおのの社会が処理している性と性欲についての特殊なシステムの差異を無視して、人類に必然的な普遍的な要請と見なすことは、間違いである。たぶん、社会の欲望についての感情の形成のありようが異なれば、性欲も異なる内容をもっと考えるのが自然である。なぜならば、性欲とは、それを喚起させる対象との関係のなかで形成されるものである以上、この関係それ自体の形成によって性欲の内容もまた影響を受けざるを得ないのであり、もしそうだとすれば、文化的な差異による性欲喚起の差異を無視することはできないし、無視すべきでもないということになるからである。恋愛結婚がごく当たり前の社会と、ほとんどそうした慣習が見出せない社会では、関係のなかで形成される性欲の構造が同じであるはずはないのである。また、すでに述べたように、恋愛もまたそれ以外の社会的諸制度——親族、階級、職業構造など——との関わりのなかで、対象と煎る人間の選別に一定の篩がかけられる。また、商品化が日常生活の深いところまで普及した社会と、ごくかぎられた空間や階層においてのみ見出されるにすぎない社会とでは、性の商品化や売春のもつ意味が同じであるはずはないのである。
したがって、性欲喚起の差異とは何を意味するのかという問題に答えるためには、資本主義というシステムが構築する欲望の機造から明らかにすること、そして同時に「性の商品化」と呼ばれる事象を主として消費者の観点からみてみることが必要になる。というのも、欲望するのは、消費者であり、この消費者の欲望の視線を構築する巧妙なシステムのなかで、セックスワーカーたちは、資本の剰余と身体搾取にさらされながら、しかし同時に、彼女/彼らは、資本の意図や消費者の欲望の枠組みに都合のいい存在としてだけではない、オートノモスな自己の価値意識——文化的な価値の再構築——を試みてもいるからだ。

2 市場システムの欲望の構造

「性の商品化」とは、それが直接身体を接触させる性行為であれ、ビデオや写真などの映像によって媒介されたものであれ、あるいは小説家の観念のフィルターをいったん通過してフィクションとして再構築されたものであれ、次の点ではいずれも同一の欲望とその充足のメカニズムをもつものとみなされている。
第一に、性商品の買い手は鴬貨幣を支出してその欲望充足の手段を手に入れようとする。
第二に、貨幣と交換に手に入れる性商品によって、消費者は性欲を充足する。
第三に、このメカニズムのなかにあっては、商品化される性の担い手は、消費者の欲望充足の手段という位置に置かれる。
この枠組みは、実はこれだけでは不十分ないくつかの重要な観点を無視している。たとえば、買い手がどのようにして、性商品にアクセスするのか、性商品として消管一者の欲望充足の手段とされる存在は、どのような売り手のシステム——多くの場合は、性産業の資本によって商品化されるわけだが——と市場のシステムのなかに組み込まれているのか、といった問題である。しかし、消費者による欲望喚起のメカニズムを検討するという当面の課題にとって、これらに立ち入る必要はない。
性商品もまた商品である以上、商品の消費者が商品に対して一般に喚起される消費欲望の構造をまず押さえておくことが必要だろう。従来、商品論のマルクス主義的な枠組みでは、モノ本来の使用価値が交換価値に従属させられるという観点から、交換価値の分析とそこから析出された労働価値説が重要な分析のツールと位置づけられた。他方、使用価値は、その本来の「使用」の性格そのものについては、踏み込んだ議論が行われず、いわば普遍的にその「モノ」がもつ有用性に商品の使用価値というカテゴリー上の名称の網がかぶせられるのであって、「モノ」の有用性それ自体を資本主義の構造に関わって立ち入って検討するという問題意識を欠いてきた。
しかし、使用価値の問題は、交換価値に従属する添え物ではない。ミクロの観点からマルクスは、価値形態論では、交換の構造のなかに使用価値の契機が否応なく関わることを示唆せざるを得なかったし(この点を積極的に取り出したのが宇野弘蔵の価値形態論だった)、その延長線上にあるフェティシズム論では、モノそれ自体の使用価値性格がそのものの「価値」の源泉であるかのような転倒した社会意識の形成が論じられていた。また、マクロの観点では、再生産表式のように社会システムの均衡的な再生産構造モデルでは、労働と貨幣と使用価値の三者が過不足なく社会の必要のために生産され、消費され、そしてまた(拡大)再生産される条件を論じていた。今、ここでの議論でとりわけ重要なのは、交換における使用価値の契機とマルクスのフェティシズム論である。

3. 商品交換行為の特殊性

モノの所有権(専有権や一定期間に限っての処分権なども含めて考える)の移転には、いくつかのパターンがある。カール・ポランニーの分類に従えば、交換のほかに、再分配と互酬というパターンが歴史的にも有力なものだ。【注32】再分配は、たとえば古代のエジプトなどの大規模文明において、国王のもとに集まる財物を臣下や民衆に再度配分するというシステムである。互酬は、マリノフスキーが詳細なエスノグラフィを残したトロブリアンド諸島のクラにみられるような、対価なしのモノの所有権の移転である。互酬や再分配は、資本主義のシステムでも決して小さくない役割を担っている。たとえば、再分配は、福祉・社会保障給付などの国家の財政政策で見出せるし、誕生日やクリスマスのプレゼント、あるいは盆暮れの付け届けといった儀礼的な贈与行為は、互酬といえる側面をもっている。しかし、資本主義では市場の商品交換が圧倒的に支配的な位置をしめる。
使用価値に着目した場合、互酬や再分配と交換の決定的な違いは、欲望の関わり方である。互酬も再分配も、モノを受け取る側の欲望の契機は副次的なものであり、どのようなモノを与えるかの決定権は、送り手側にある。したがって、受け手の欲望は、受け取ったモノと送り手との人間関係のなかで事後的に形成される。これに対して、交換は、買い手の欲望が先行する。買い手に「買いたい」という欲望の契機がまず形成されなければ、購買行動は生まれず、モノの移動も実現しない。ここでいう交換は、貨幣と商品との間で行われる市場経済の交換である。

4 経験以前的な欲望の形成
従来、交換に先立つ欲望の存在は、疑問視されることがなかった。そして、交換とは、この欲望を前提条件として、貨幣を媒介として買い手の欲望を充足する当のモノの所有権を獲得し、そのモノを自由に処分することによづて、欲望を充足する、というふうに見なされてきた。しかし、このシナリオには不可解な点がある。つまり、なぜ買い手は、未だ手に入れてもいないそのモノに欲望するのだろうか、という所有に対する欲望の先行性を説明できていないからだ。たとえば、車を買おうとする買い手は、今まで一度も乗ったことのない車に欲望する。食料品のように、日常的に繰り返し購買するものであれば過去の経験に基づいて、その欲望の生成を説明できそうだが、必ずしもそうとはかぎらない。昨日食べたステーキが非常においしかったからといって、今日もまた同じステーキを食べたいと思うとはかぎらない。すでに繰り返し使用経験があるものを選択するとはかぎらず、新製品と呼ばれる未経験の商品をあえて積極的に選択し、過去の経験を否定する場合もある。こうして、買い手の欲望は必ずしも過去の経験に忠実なわけでもない。しかし他方で、昨日も今日も主食と呼ばれる米飯やパンは飽きもせず繰り返し食べる。これは、過去の経験への依存のようにもみえるが、しかし、つねに新たなシチュエーションのなかに過去に用いられた素材が投入されるのであって、文字どおり同じものを経験することはありえないのだ。とすれば、買い手は経験以前的な状態で、なぜ当のモノを欲望するのだろうか。互酬や再分配のようにモノの供給者が主導権を握るならこうした問題は大きくない。とすれば、市場経済が支配的になればなるほど、この特殊な問題、需要者による経験以前的な欲望の問題が重要になってくる。
買い手の欲望の契機については、経済学よりもむしろ社会学が消費社会論のなかで、広告に焦点を当てて論じてきた。皮下注射モデルのような古典的な理解では、マスメディアに媒介された広告の場合に典型的なように、買い手の欲望は、広告によって外部注入的に操作されるということになる。他方で、スチュアート・ホールのエンコード・デコード・モデルでは、メッセージの受け手の相対的に自立した解釈を重視する。【注34】ホールにかぎらず、メッセージの受け手が送り手の解釈や意図を必ずしも忠実に再現するものではないという立場に立つ考え方は、非常に参考になる。性欲を充足するためのメッセージは、他のさまざまな商品の販売に関わるメッセージ同様、性欲一般とか、性的快楽一般ではなく、その商品が消費される社会的葱コンテクストの具体的な表現を先取りする。パリの街並みを走るヨーロッパ産の小型車の広告と同様に、「ロリータ」「熟女」「新妻」「SM」などのキーワードによって喚起されるある種のイメージを性産業の広告の送り手は戦略的に利用するのである。他方で、メッセージの受け手は、こうしたキーワードを受け手なりにデコードするが、それが送り手の意図と一致しているかどうかを確証する手だてはない。しかし、これらのキーワードが受け手の性欲喚起になんらかの効果があるというのは、これらのキーワードが社会的な意味作用をもっているからにほかならない。この意味作用は、隠されていて、目に見えない。言い換えれば、こうした隠された意味作用のコンテクストがあり、そのなかで性的な快楽の一定のシチュエーションがしつらえられる。性の商品化が市場として成り立つ前提には、こうした幅広いイメージを構築する社会的な関係の構造があるのだ。
こうした経験以前的なイメージの形成は、商品本体だけでは実現できない。つまり、それは商品市場によっては果たせない機能なのである。商品はイメージとして情報化されて、買い手に伝達されなければならない。この情報の伝播を担うのがパラマーケットである。【注35】性の市場は、このパラマーケットを「男文化」として分節化して、その伝播の回路を構築する。サラリーマンの読む夕刊紙や週刊誌のアダルト情報や電話ボックスやトイレのチラシ、捨て看と呼ばれる布製の路上看板などから友人や会社の同僚の口コミまで、その回路は多様だ。こうした性の市場にまつわるパラマーケットは、性の男文化に依存しつつ、同時に男文化を生み出し、性の市場に媒介する。性的な欲望の喚起は、ホテルや浴室の密室のなかで生み出されるのではなく、こうしたパラマーケットのなかで生み出されるのだ。いうまでもなく、このパラマーケットの性的な情報は、実際に性交渉の行われる現場で女性たちが提供する性労働によって与えられる性的な刺戟の喚起や充足と同じものではない。一方はイメージであり、他方は現実の身体接触だからだ。この誰でもが知っている違いを誰もが錯誤するように市場経済のパラマーケットによるイメージのシステムは仕掛けている。しかし、パラマーケットによって喚起される欲望が偽物だというわけではない。むしろ実際に生じているのは、商品の本体が実現できる欲望の充足のほうが偽物の位置をとらされてしまうということなのである。

5 商品フェティシズムの新しい解釈

つまり、市場経済における需要とは、商品のモノそれ自体に対してではなく、モノのイメージに対してまず発動される。イメージに欲望した買い手が、モノを購入するのである。マルクスは、フェティシズム論で、商品の価値がそのモノの使用価値属性それ自身に由来するような錯覚について指摘していた。【注36】たとえば、金を貨幣とするのは、市場経済の社会的なシステムの側の作用であって、社会的な共同作業であるにもかかわらず、金の黄金色の輝きそのものが「金貨」と呼ばれるような「価値」を本来的にもっと見なされてしまう転倒した観念を的確に批判した。この批判は、さらに、商品の使用価値とそれに向けられる欲望に対しても拡張できるものだ。つまり、商品への欲望とは、実は商品についてパラマーヶットを介して構成されたイメージへの欲望の代替にすぎないにもかかわらず、あたかもその商品それ自体が欲望充足を実現する当のものだと見なされてしまうのだ。商品のフェティシズムとは、こうした欲望充足の転倒した観念に対しても与えられなければならない。【注37】
私たちの市場経済的な欲望は、モノのイメージによって形成されたものである以上、商品の使用価値それ自体を手に入れたとしても、そのことによって欲望が満たされるという保証は何一つない。外国のエキゾチックな街並みを走るヨーロッパ車のイメージは、日本の無秩序な街路では満たされない。買い手はこうしたイメージとモノそれ自体の差異を十分理解している。しかし、欲望は理解の範嬉で解決できる性質のものではない。そうではなくて、身体感覚として生成され、解決されなければならないものであって、理解できるということと、欲望の充足とは直接の結びつきはない。
市場経済は、こうして、モノの購買と消費を消費者による欲望の充足過程としてよりもむしろイメージと欲望のズレの身体的な確認の過程となる。買い手にとって、欲望の喚起とその解消が最大の臨界点に達するのは、購買行動をとった時点であり、それ以降は、欲望充足のズレを不断に生み出す過程になる。現実に手に入れたモノによって拘束される欲望充足の枠組みと、購買以前に形成された原イメージが意識的・無意識的に構成するもう一つの参照枠との間に見えざる葛藤がつねに形成される。これが、新たなモノへの欲望を生み出す契機となる。モノを手に入れた消費者はその翌日からふたたび新たなモノへの欲望のために、カタログに目を通し始めるのである。こうして消費と欲望のサイクルは無限に資本の商品生産のサイクルにつなぎとめられることになる。
このように、商品の使用価値とは、買い手にとっては、パラマーケットを介してまずそのイメージとして構築されるのであって、所有権の移転とともに実際に入手された商品それ自身の使用価値は、このモノのイメージとは同一のものではない。もっと極端にいってしまえば、商品体それ自身は、イメージとして構成された欲望の対象のできの悪いイミテーションにすぎない。イメージの世界では自由に自分の思いのままになった欲望喚起の対象が、実際に欲望充足の約束された当のモノを手に入れるや、このモノそのものは、決して買い手の自由にならないという事態に直面する。
性的なサービス労働を行う労働者にとって、こうした商品そのものとは別に流通する情報の回路によるイメージの構築は、きわめて抑圧的だ。なぜならば、つねにイメージは買い手の欲望を喚起するように巧妙に怖築され、実際の性産業の労働者はこのイメージに自らを合わせることを強いられるからだ。こうして、性的なサービスの場面では労働者は単にその剰余労働を搾取されるだけでなく、身体を介した文化的な意味そのものを搾取され続ける。身体の搾取は、こうして文化の搾取を伴って、パラマーケットを媒介として「男文化」に伝播する。

6 性の商品化の局面

ここまでみてくれば明らかなように、性の商品化は、パラマーヶットに媒介された欲望を喚起するイメージの形成とその性商品そのものの購買による「充足」のなかに消費者としての男たちを捕らえる。性的な欲望は、愛情や恋愛とは相対的に区別され、それが市場において満たしうるものであるということは、パラマーケヅトにおいて供給者側が性の欲望とその充足についての物語を提供し、また男たちが「男文化」のなかで読み解く物語の文脈構築がなければ成り立たない。その物語の資源は、性の市場のなかで構築されるだけではない。むしろ家族や企業などのさまざまな組織のなかでタブーとして構築される性関係や倫理を、性の市場における欲望喚起の物語構築のための格好の材料とする。OL、看護婦、女教師、継母、女子大生などがこうした性のパラマーケットでは通常の情報空間とはまったく異なる「意味」作用をもつようになる。
性の多型性は、こうしたパラマーヶットにおける性の商品化に前提される経験以前的なイメージの形成と、性をめぐる商品の供給競争のなかで促される傾向である。この多型性の資本主義的な加速化は、実は性的な欲望の蔓延なのではなく、どのような性的な欲望も実は完全には満たされないという性的な欲求不満の蔓延なのである。パラマーケットが生み出す商品のフェティシズムは、完全に満たされた幸福な消費生活はつねに今現在の生活のなかにはなく、未だ手に入れることのできないあの商品を手に入れることによってしか実現できない、という不断の未来への投企に私たちを縛りつけるように、性の市場も決して男たちを完全に充足させることなどできない。この慢性的な欲求不満は、パラマーケットのなかで性産業と「男文化」が構築してきたものであるにもかかわらず、そのツケは、実際に身体を酷使する性のサービス労働者自身の責任であるかのように見なされ、労働の強化と使用価値の「質的」な向上が押しつけられる。

7 -夫一妻制と売買春の相互補完的な関係についての一般的なモデル
最後に、一夫一妻制と売買春について形式論理的な議論をしておこうと思う。その手がかりとして、たとえば、次のようなエミール・デュルケームの指摘をみてみよう。

「中世期に入って中流階級が勃興してきて、ものの考え方や行動が変化し、自由恋愛と結婚との間に厳格な区別が次第になくなり始めていった。すると、中流階級の人々は自分たちの妻や娘を保護する必要に迫られ、そのためには、男たちの欲求を満足させるための別のはけ口をつくっておくのが安全であるということになり、規制した娼家を公認して、男の道楽心を売春婦による欲求の満足という方向へ向かわせるようになった。」【注38】

デュルケームの指摘は、多くの同時代の論者たちとともに、女性の性欲を無視した議論であるが、この点について今は批判の対象にはしない。むしろ、ここでのデュルケームの議論には、近代的な恋愛=結婚と一夫一妻制の家族制度に売買春を必要とすることが含意されている点を確認しておきたい。
つまり、ここには、次のようないくつかの婚姻と夫婦関係をめぐるゲームのルールが存在することになる。
・婚姻に結果する男女関係は、当事者の意志によること
・したがって、所属する親族集団などによって当事者の意志を無視して相手方を特定することはできない
・男性の性欲は、恋愛あるいは結婚に結びつく可能性がある
・しかしまた男性の性欲は恋人や夫婦関係の内部で充足しうるとはかぎらない
こうしたルールを前提として、一夫一妻制が維持されるためには
・既婚女性と未婚・既婚男性の間の恋愛を抑制すること
・未婚で、婚姻を予定している女性との既婚男性の恋愛=婚姻を抑制すること
・既婚・未婚の男性が、交渉しうる未婚の女性が存在すること
こうした条件は、次のように整理することができる。社会のなかの男性集団をM、女性集団をFとする。それぞれ婚姻関係に入る下位集団をM1、F1とし、それ以外の集団をM2、F2とする。社会全体でM=Fであり、一夫一妻制であるとすれば、M1=F1である。未婚・既婚の男性の性欲を充足する婚姻外の女性が必要であると仮定すれば、この部分は、F2だから、M1+M2>F2となる。
つまり、複数の男性を相手とする女性が存在しなければならないわけだ。近代社会が一夫一妻制を制度上の前提とする以上、婚姻形態やそれに基づく家族関係とは別の制度としてこの複数の男性を対象とする性交渉の社会的な正当性が保証されなければならない。これを満たせる近代社会のシステムは市場システムしかない。
性欲を充足するサービスを商品化し、商品経済の契約関係のなかで性欲を処理することは、市民社会の契約の形式論理のなかではルール違反にはならない。〈労働力〉の商品化によって身体性の搾取が構造化されている資本主義では、性に基づくサービスが市場経済の領域に囲い込まれているかぎり、それは許容されるだけでなく、むしろこの市場経済が処理する男性の性欲によって、一夫一妻制の構造が維持されるわけである。
しかし、こうした市場経済上の契約の正当性は、道徳的な正当性とは必ずしも整合しない。道徳的には、つねに売買春の価値は婚姻による性交渉の価値よりも低いもの、つまり行為の・選択に当たっては、つねに婚姻関係における性交渉が優先されるべきであることが価値観上妥当と見なされる。したがって、婚姻によって特定の男性との永続的な性交渉に入るか、不特定の男性との市場経済的な契約に基づく性交渉に入るかという二者択一の選択肢は、社会のなかでは等価ではない。つねに後者の選択は抑制されねばならない。この抑制の代償として、通常の女性の〈労働力〉よりも高価葱価格が設定される。売春の価格が嵩いの略需給のアンバランス——つまり、希少性の問題——ではなく、むしろこの道徳的価値のオ‐ダ‐における下位の位臓を構造化されたことに対する代償であるとみるのが妥当かもしれない。
こうして、恋愛結婚を前提とする一夫一妻制を維持しながら同時に、婚外の性交渉をも認めるという場合には、恋愛と切断された性欲充足の制度が必要であり、そのためには不特定多数の異性との性交渉を保証する制度が必要なのである。これは、女性が婚外の交渉をもつと仮定した場合でもまったく同様である。つまり、一夫一妻制と男性であれ女性であれ性欲の充足が必ずしもこの婚姻制度の枠内に終息するとはかぎらないという前提条件を置くかぎり、未婚の男性/女性で、不特定の複数の女性/男性に対して性的サービスを提供できる制度が必要になる(同性愛の場合がこれに加わっても事態は変わりはない。)恋愛と切断され、しかも市場経済的なサービスの商品化にも依存しないで婚外の性欲の充足は、「セックスフレンド」とか「ナンパ」などに見出せるが、それらは明確に恋愛と区別されていないし、すべての男女に平等に保証された制度とはなっていない。
近代の一夫一妻制のもつ決定的な限界は、女性と男性が相互に相手を見出す場合に恋愛という感情が不可欠だという点にあり、このことが、売買春の廃止の大きな制約になっているということである(恋愛以外の両性の出会い——たとえば見合い結婚など——であれば売買春の廃止が可能だ、と主張しているわけではない)。恋愛の感情は、性欲の喚起と結びつくとともに、近代社会が生み出した婚姻関係を導く唯一といっていいものである。しかしこの恋愛という感情は、その後の夫婦関係を長年にわたって維持する条件になるとはかぎらない。むしろ恋愛を契機に結びついた男女の婚姻関係は、その後に形成される双方の親族との関係、子どもを媒介とした親子関係など、伝統的な家族制度の枠組みのなかに移し替えられてゆく。しかし、夫婦関係は、近代社会においては、性欲の充足の関係抜きには取り結ばれない関係である。性欲—恋愛という拘束は、恋愛感情なしでも性交や性欲の喚起と充足が可能である以上、つねに不十分な拘束にならざるを得ないのだ。近代の家族は、生産単位であることをやめ、〈労働力〉の日々の再生産と世代的な再生産、そして消費の単位としてのみその存在理由が維持され、しかも共同体が解体し、人口が流動化し、未知の人々によって成り立つ都市空間のなかでの偶然的な出会いの繰り返しのなかから、パートナーとなるべき相手を探すことによって成り立っている。だから、家族という関係の確認を支えるには、愛情とか恋愛といった性欲やその周辺に配置された観念に頼る以外にない。したがって、近代家族から性欲という条件を排除してしまうと、家族の観念それ自体が解体しかねないのだ。
こうした点をふまえて、売買春を廃棄するとすれば、次のような条件が必要になる。
・〈労働力〉も含めて身体サービスの商品化をいっさい認めない
・恋愛を前提とする一夫一妻制を廃棄する
しかし、これらの条件が同時に、
・諸個人の自由で平等な性的交渉を保証する
・恋愛それ自体を肯定する
というもう一つの条件も満たすとすれば、果たしてどのような制度が可能なのか。これは、模索すべき課題とはいえ、資本主義的な生産様式のもとでの近代的な家族関係では解決できないことだけは確かである。

6 おわりに

愛情を伴わない性的な欲望、出産を予定しない性的な欲望を処理するシステムは、市場システムが受け持つ。それが売買春である。売買春は、婚姻システムとは区別されたその外部にあるシステムではなく、近代社会では恋愛結婚という婚姻制度に付随する婚姻のサブシステムであり、〈労働力〉の日常的な再生産のための性的欲望充足のためのシステムである。
こうした売買春が制度化されているということを冷静に評価した場合、資本主義の家族制度は、狭義には一夫一妻制だが、広義には一夫多妻制であるとみることができる。売買春は広義の婚姻システムに含まれる、ということである。フォルトゥナーティが、売春を家事労働とともに〈労働力〉再生産労働の条件として併置したことにみられるように、こうした観点は決して突拍子もないこととはいえないだろう。あるいは、ボーヴォワールの次のような指摘を引き合いに出してもいいかもしれない。

「妻にとっても娼婦にとっても性行為は一つの務めである。前者は唯一人の男と終身契約をし、後者はそれぞれ支払ってくれる何人かの客をもつ。前者は一人の男性によって他のすべての男から保護され、後者は皆によって各々の排他的な束縛から擁護されている。」【注39】

これは女性の観点からみれば、妻も売春婦もともに労働としての性行為であるという共通性を指摘したものだが、共通性はこれにとどまらない。すなわち、
・男性にとっては、妻も売春婦も性的な欲望の充足のための行為対象である
・金銭を伴う契約関係である
という点で共通するのである。
異なるのは、妻は出産・育児による世代的な再生産を担うこと、そのために法的に保護されるということ、そして家族を構成し、永続的でセクシユアリティに関わらない人間関係を構築するという点である。この部分は資本主義のシステムが必要としていることであって、性的な欲望と恋愛を同一視して婚姻制度へと促される個々人は、このシステムの意図と重なり合うとはいえ、一致しない動機をもつ。性の商品化によって、多型的な性的欲望を不断に喚起する資本主義のシステムは、こうして一夫一妻制という公式の家族制度の背後に、性的な欲望充足のための特殊な「女の交換」システムを隠しもつのである。それは、男性のメタファとしての資本と男性との間で取り交わされる密かな契約である。資本主義の家族制度がこの売買春を不可欠な補完システムとせざるを得ないとすれば、このシステムを通じて、つねに複数の女性を調達できる男性にとって、性的欲望の充足という視点から捉えられた「妻」役割は、複数の女性によって担われているといって間違いではない。
一夫多妻制は、すべての男性がとりうる婚姻制度ではない。その社会の無視しえない数の男性がとる婚姻の制度である。売買春というシステムは、複数の妻を特定の男性に割り当てる一夫多妻制とは違って、複数の不特定の女性が、市場システムでそのつど不特定の男性の一時的な妻役割を担うことになる。こうして、売買春はより多くの男性に一夫多妻制を可能にする、男性に対して平等に女性を配分するシステムである。まさにこのシステムは、この点でも、近代資本主義の男性中心主義を背後に隠しもった「平等」の理念を体現しているとすらいえるのだ。
私は、買春を推奨しないが、しかし他方で、売春労働を選択した女性たちはその職業から足を洗うべきだなどともいえない。この事実上の一夫多妻制のシステムのなかで、すべての女性がこのシステムから解放されることはありえないからだ。それは、資本主義のシステムのなかで男女を問わず、賃労働や失業を免れえず、また資本の搾取を免れえないのと同じことである。
しかし、工場労働者たちには、資本の価値増殖の欲望をはぐらかし、「労働の拒否」と呼びうる資本のサイクルからの自発的な切断という闘いがありえたように、性の労働に関わる人々もまた、この労働を男性による「女の交換」というシステムから切断する多様な試みがありうるということを指摘しておくことはできる。それは、性産業の資本家たちに対して売春労働に従事する女性たちが労働者として自らの労働をコントロールする権利のために闘うという労働運動の文脈だけでなく、さらには男性の性的な欲望の物語をはぐらかして、男性の性的なファンタジーに基づく欲望を崩壊させることもできるのだ。
性的な欲望は、男性の手にあるようで、実はその物語を構築する主導権は男性にはない。むしろそれは女性たちの手にある。そのことを知っている性産業の資本家たちは、性を支配して性的な物語のヘゲモニーを意図的に女性から奪ってきた。しかし、商品の購買欲望がつねにそのイメージー物語の喚起と現実の商品との間の微妙なズレに依存して形成されるということは、逆にいえば、男たちが構築したがる性的なイメージを女性たちがはぐらかしたり裏切る余地がつねにあるということをも含意している。これは、性産業の女性たちだけでなく、家事労働を担う女性たちにもいえることである。こうした男性の間での「女の交換」を無化する闘いは、〈労働力〉再生産の日常的な構造とそれを支える広義の一夫多妻制のシステムを揺るがすことになる。これは、資本に簒奪された性的イメージに縛られた男性にとっても、解放なのである。性的な多型性が文字どおりの豊かな多様性として登場できるのは、こうした闘いのなかにおいてである。


1. カール・マルクマルクス『経済学・哲学手稿』藤野渉訳、大月書店・国民文庫、一九六三年、一四三頁
2. 同右、一九九頁
3. アウグスト・ベーベル『婦人論』上巻、草間平作訳、岩波文庫、一九七一年、二三六頁
4. 同右、二三六~二三七頁
5. 同右、二三七頁
6. ハヴロック・エハヴロック『性の心理』第六巻、佐藤晴夫訳、未知谷、一九九六年、二四四頁
7. 同右、二四三頁
8. 同右、三〇五頁
9. 同右、三一三頁
10. 同右、三一三頁
11. 同右、三一四頁
12. 同右、三四四頁
13. クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』上巻、馬測東一/田島節夫監訳、番町書房、一九七八年、一〇〇頁
14. 同右、一〇八頁
15. エリザベート・バダンテール『男は女、女は男』上村くにこ/饗庭千代子訳、筑摩書房、一九九二年、二六頁
16. リュース・イリガライ『ひとつではない女の性』棚沢直子他訳、勤草書房、一九八七年、二二四頁
17. レヴィ=ストロース、前掲書、二二九頁
18. 同右、二二九頁
19. 同右、二三〇頁
20. ジョルジュ・パタイュ『エロティシズム』澁澤龍彦訳、二見書房、一九七三年、一六二頁
21. 同右、一八三頁より再引用。
22. ジョン・マネー『ラブ・アンド・ラブシックネスー愛と性の病理学』朝山春江/朝山職吉訳、人文書院、一九八七年、一六一頁~一六二頁
23. 同右、一三九頁
24. 「これらパラフィリアは、社会慣行に従い、科学的というよりは社会的かつ法的に定義されているものである。地球上至る所で等しく烙印を押されているわけではない。したがって、露出症人は人びとが衣服を身に着けちる所だけで適用され、青年性愛(ephebophilia)は、若者と年長者のセックスを禁じる法律がある所でのみ適用される。動物性愛(zoophilia)は、コロンビアのカリブ海沿岸のように、テーンエイジの少年たちがおとなになるためにはロバとセックスをすることが当然とみなされている(略)文化では当てはまらない」(同右、一三九〜一四〇頁)
25. 同右、一三八頁
26. 同右、三〇七頁
27. 同右、八五頁
28. Leopoldina Fortunati, The acrane of Reproduction, Autonomedia, 1995, p.33
29. 同右、p.105
30. ブロニスワフ.K・マリノウスキー『未開人の性生活』泉端一/蒲生正男/島澄訳、新泉社、一九七八年 (新装版)、六九頁
31 エリ・ザレッキィ「資本主義・家族・個人生活」『資本主義・家族・個人生活』所収、加地永都子/グループ7221訳、亜紀書房、一九八〇年、三八頁
32. カール・ポランニー『大転換——市場社会の形成と崩壊』吉沢英成訳、東洋経済新報社、一九七五年、参照。
33. マリノフ(ウ)ススキー「西太平洋の遠洋航海者」『世界の名著71、(中央バックス版)』所収、寺田和夫/増田義郎訳、中央公論社、一九七一年、参照。
34. Stuart Hall, “Encoding, decoding, ” Simon During ed., The Cultural Studies Reader, London, Routledge, 1993参照
35. パラマーヶットについては、拙著・『アシッド・キャピタリズム』青弓社、一九九二年、参照。
36. マルクスは、『資本論』第一巻冒頭で「商品の物神崇拝的性格」について論じている。商品の価値性格は、商品の使用価値の自然的な性質によって生じるものではなく、人と人との社会関係によって生み出されるものであるにもかかわらず、あたかもその商品体それ自体に価値が内在しているかのようにみなされる事態を熱商品の物神性と呼んだ。マルクスは、商品の使用価値それ自体には何の謎もないと考えていた。しかし、私は、使用価値もまた社会関係のなかで形成されたものであり、商品体それ自身に内在するものではない、という視点をつけ加えたいと思う。本稿で論じた物神性=フェティシズムにはこうした拡張された定義が用いられている。
37. この点については、拙稿「欲望の再生産と貨幣の権力11交換をめぐる未決の課題」『現代思想』一九九五年九月号、参照。
38. 『社会学年報』七巻、一九〇四年、エリス、前掲書、二六二頁より再引用。
39. シモーヌ・ド・ポーヴォワール『第二の性』生島遼一訳、新潮文庫、一九五九年、二五六頁

出典:田崎英明編『売る身体/買う身体』青弓社所収、1997年