1960年代 批評の分水嶺

1960年代 批評の分水嶺

戦後から1960年代にかけての日本の美術批評を考える上で、二人の対照的な批評家、瀧口修造と針生一郎は欠くことのできない大きな存在だった。一貫してシュールレアリスムの擁護者でありつづけた瀧口と、芸術を政治や社会との関わりのなかで捉える強靭なラディカリズムを維持し続けた針生は、戦後日本の現代美術が描く楕円の二つの中心ともいえた。60年代は、この二人の批評の方法が臨界点に達すると同時に、美術の表現が大きな転回をとげるなかで彼らの批評の方法もまた一定の総括を迫られた、そんな時代だった。
瀧口のシュールレアリスムヘの関心のありかは、戦前から六〇年代に至るまで基本的には変わっていない。瀧口は戦前、戦後を通じて見事に一貫性を貫いた希有な詩人であり、批評家だった。
瀧口は、一九三八年に三笠書房から『近代芸術』を出版する。この本は、近代以降の芸術を概観したものではなく、ダタ、シュールレアリスムに焦点をあてた極めてラディカルな内容をもった著書だった。事実本書は、戦後三回も再版される。四九年に三笠書房の「唯物論全書」の一冊として出版され、五一年に新書版として同じく三笠書房から再版される。そして六二年に針生一郎の解説を付して美術出版社から「美術選書」の一冊として復刊された。
この解説のなかで針生一郎は、戦前の三笠全書版は三五年から刊行された戦前版の「唯物論全書」の続編という位置づけで、戸坂潤のすすめで執筆されたものだと述べている。しかし瀧口は、唯物論全書版への序文で、本書の内容がいわゆる「唯物論」という範疇にはとうていおさまらない内容を含んでいることから、「唯物論全書jの一冊としての位置づけには抵抗があることを率直に述べている。
たしかに、『近代芸術』を唯物論の範疇に含めることには、かなりの無理があるように見える。しかし、ではなぜ戸坂は戦前、「唯物論全書」の続編に瀧口の著作を企画したのだろうか。しかしもし、戸坂がダダやシュールレアリスムの芸術運動と政治運動の関わりについて、なにがしかの知識を持っていたとすれば、唯物論の範疇に本書を組み込もうとする意図は、決して間違ってはいなかったのである。このことを日本の多くの読者が知ることができるようになるには、六〇年代にはいってブルトンの『シュールレアリスム宣言』の翻訳が出版されるまで待たねばならなかった。
シュールレアリスムは、芸術運動だったが、同時に、芸術という分野に限定することのできない運動でもあった。むしろ二〇世紀の芸術のなかで、ダタ、シュールレアリスム、未来派といった第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて登場してきた芸術運動は、いずれも政治や社会への関心を持つ運動だった。
よく知られているように、シュールレアリスムの創始者、アンドレ・ブルトンやポール・エリュアール、ルイ・アラゴンらは、二七年に共産党に入党する。二四年に出されたブルトンの『シュールレアリスム宣言』とくらべて、二九年に出された『シュールレアリスム第二宣言』は極めて政治性の強い内容を持っていた。しかし、三三年には党を除名されることになるように、シュールレアリストの政治的な問題意識や芸術表現の方法は、当時の公式マルクス主義(スターリン主義)との軋轢や確執をはらんでいた。
瀧口の『近代芸術』がすぐれた同時代の芸術運動についての紹介であるとはいえ、シュールレアリスムの運動に欠くことのできない上記のような政治との関わりについては、極めて寡黙だ。『近代芸術』では、ブルトンらが共産党に入党したことにはいっさい言及さていない。「第二宣言」についても「もっとも注目すべきことは、彼らが唯物論的な思想に視野を拡大し始めたこと」と指摘し、その結果「この運動の芸術的体験や主張の発展に客観性を与え、超現実の現実に対する固有の関係を一層緊張させ、白熱化させることに貢献した」という評価を与えているにとどまる。シュールレアリスムがいったいどのような意味の唯物論的な思想と触れたのか、芸術的体験の客観性とは何を指し、超現実と現実の間にどのような緊張があったのかという点については、じつは明確な説明がない。しかし、ハーバート・リードもまた戦前の論文「シュールレアリズムと浪漫主義の原理」でシュールレアリスムを唯物弁証法の芸術への適用であると解釈しており、唯物論の文脈でシュールレアリスムをする視点は一定の共通理解となっていたともいえるのだが、そこに立ち入れない言論環境が日本を支配していた。滝口は、四一年に福沢一郎とともに治安維持法によって検挙されることになる。滝口が後に回顧しているように、『近代芸術』に納められた文章群は「急速に迫っていたファッシズム的統制に対して、これらの自由芸術擁護のほとんど最後の役割の一端をつとめたもの」(「再版の序」)というのは彼の正直な実感だっただろう。
しかし、戦後六〇年代のはじめという時代のなかの本書の意義を戦前と同様の文脈で評価できるかどうかということになると、やはり留保が必要になる。福沢一郎は後に「用意周到な滝口君はシュールレアリスム紹介の場合、決してフランスシュールレアリストの社会政治活動には触れないのを常としていた」と回顧している(福沢一郎「デマを越えて」)。もし、そうだとすれば、戦後なぜ滝口はシュールレアリスムと政治との関わりについて戦前同様言及しようとしなかったのだろうか。
六〇年代は、それまでのシュールレアリスムへの否定的な評価が一転して、再評価を迎えることになる。これは国際的な現象だったが、日本でもブルトンの三つのシュールレアリスム宣言を収めた『シュールレアリスム宣言』の翻訳が六一年に出版されるなど、再評価のための土台が徐々に形成される。この『宣言』ではじめて「第二宣言」の全文が日本語で読めるようになった。
私からすると、滝口が論じてきたシュールレアリスムと政治の関わりと「第二宣言」の観点とではかなり印象が違う。第二宣言は極めて挑発的である。「今なおシュールレアリスムが暴力以外のなにものにも期待をかけていない」とか「今や、家族とか祖国とか宗教とかいう観念をぶちこわすために、すべてのことがなされつつあり、またすべての方法はその目的のために使われねばならないのだ」といったある種のアナキズムの感性を持ちながら、他方で「社会的にはマルクシズムの公式を断乎たる調子でとりいれてきた」とも述べている。ブルトンがフランス共産党に入党した経緯もこの宣言には詳細に語られているし、また共産党との確執も率直に語られている。しかし、シュールレアリスムの実践的な欲求は、公式マルクス主義や政治党派との関わりでのみ論じうるというものではない。ブルトンらが党から除名されたことをもってシュールレアリスムの政治的な実践の終焉とみるとすれば、政治的な行為を党の実践に矮小化することになってしまう。こうした矮小化は、シュールレアリスムが持っていた実践的な欲求が、そもそも党のイデオロギーの枠にはおさまりきらない過剰な部分をもっていたことや、戦時下のレジスタンスも理解できないことになるだろうし、ブルトンらの米国亡命グループは別にして、戦後のシュールレアリストたちが持ち続けた政治的な関心も、視野に収められなくなる。
瀧口のシュールレアリスム論のこうした限界は、瀧口を名指しすることはなかったが、徐々に六〇年代のシュールレアリスム再評価のなかで、自覚されるようになった。たとえば、『シュールレアリスム宣言』の訳者、稲田三吉は解説のなかで、日本の受容において「シュールレアリスムの革命的・政治的局面がかなり等閑視されてきたことである」と指摘し「一九三〇年代の人民戦線とファシズムとの次第に激化してゆく抗争の渦中に投げ込まれたフランスのインテリゲンチャがひとりのこらず当面させられた問題」について、日本の紹介者たちの問題関心の低さを指摘した。
ブルトンは六六年に他界する。この年の『美術手帖』一二月号に掲載された瀧口、針生、飯島耕一による追悼座談会のなかで、飯島は、ブルトンの死を知って、広島の原爆記念館へでかけたと述べ、「シュールレアリスムと原爆とは無関係ではない」と発言した。ダダ、シュールレアリズムは「破壊」を肯定する運動だったが、他方で、原爆もナチズムも別の意味で「破壊」の思想であって、飯島は「破壊の二つの意味」を対置させることの重要性を強調し、シュールレアリスムに関して、技法にのみ関心をよせる従来の関心の持ち方に疑問を提起し、「世界観としてとらえるべきなんだ」と述べた。しかし残念ながら瀧口は、この飯島の挑発的な発言に正面から答えることはなかった。皮肉なことに、六〇年代末の芸術運動は、一方のベトナム戦争、他方の大衆運動による既成の秩序の徹底した破壊欲求という二つの破壊に直面することになった。
瀧口は、戦後、破防法反対運動がようやく美術家たちを動かし始めた時期に、ひじょうにめずらしく政治的な文章を書いている以外は、表現の場においても政治に禁欲的だったようにみえる。瀧口は、シュールレアリスムの紹介者としての先駆的な業績において、その評価を貶められるべきではないが、戦前のシュールレアリスム解釈をそのまま戦後にも維持した彼の観点が、政治や社会と芸術との関わりを嫌うその後の日本の芸術環境のある種の前例となってしまったとすれば、やはり功罪相半ばすると言わざるをえない。

針生によるプロレタリア芸術運動の総括

大戦間期の芸術運動を、政治運動の側から捉え返そうとした批評家が針生一郎である。『近代文学』と『新日本文学』の二つの雑誌上でたたかわされた政治と文学論争を学生時代に経験し、五〇年代には若手の批評家として『美術批評』で、主としてリアリズムをめぐって論争を展開してきた。いいかえれば、針生にとっては、瀧口とは異なって、芸術の問題はプロレタリア文化運動と切り離せないものとして意識されてきた。
針生は、六〇年安保のうねりを目前にしながら、彼自身の芸術運動の理論的な総括とでもいうべき論文「マルクス主義芸術論」を書く。針生は、第二インターの芸術論争を振り返りながら、三〇年代初頭に確立された反映論的なマルクス主義芸術論が、単なる階級心理や世界観の受動的な反映ではないこと、「芸術の相対的な独立性、創作方法の能動的な役わり」の意義を認めた点などを評価する一方で、反映論のかかえる問題を次のように指摘した。

「この反映論は芸術的表現をあくまで客観的現実に内在する法則の反映とみる立場をふくみ、そこに芸術社会学から尾をひく客観主義を陰に陽にしのびこませる結果となった。それは芸術創造の過程における感動や想像力の役わりを軽視して、素朴なリアリズムの概念とむすびつき、また芸術の政治的効用を強調するためには、以前にもましてイデオロギーの党派性を教条的にふりかざすほかない。そして、『客観的現実』の概念がソヴィエト社会の現状に、イデオロギーが当面の政策的顧慮に、機械的に結びつけられたとき、芸術論がマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの教条のスコラ的な解釈学に終始し、そこから一歩もでようとしない風潮が生じたのは当然である。」
そして、三〇年代以降のソヴィエトは、多様な芸術上の冒険をことごとく閉塞させ、体制順応の文化的保守主義に支配されてしまう。こうして針生は「社会主義リアリズムはスタイル、手法、ジャンルの多様性をみとめる、とくり返し説かれたにもかかわらず、じっさいにはどの分野でも形式の画一化と紋切り型の表現がめだった」と指摘した。そしてこうした教条主義は、三六年以後の形式主義批判と芸術家の粛清、さらに戦後の「社会主義社会にはもはや理想と現実の矛盾、本質的な葛藤は存在しない」とする「無葛藤理論」へと受け継がれていくと厳しく批判した。こうした批判は、芸術におけるリアリズムを教条的な社会主義リアリズムにとらわれることのない表現における革命のなかで再解釈する針生の批評の視点を切り開くことになる。その一方で針生は、ソ連・東欧など社会主義圏や第三世界の芸術運動にことのほか大きな関心を持ち、積極的な日本への紹介者として活動しつづけた。これは他の美術批評家にはみられない大きな貢献であった。

芸術の自律性と「反解釈」——グリンバーグとソンタグ

では、六〇年代の現代美術の世界的な動向を主導するようになったアメリカ合衆国の場合はどうだったのだろうか。六〇年代に美術をめぐる批評の軸となったのは、たぶん(高級)芸術の大衆文化との接点で発生した「ポップ」と総称しうるような新しい表現の是非をめぐる議論だった。当時もっとも大きな影響力を美術界に持っていたクレメント・グリンバーグは、ポップアートやネオ・ダダ批判の急先鋒に立っていた。彼は、このあたらしい芸術はキュービズムや抽象表現主義のなしとげた色彩やデザインの冒険をなしえず、新奇さはあってもオリジナリティに欠け、市場で成功したとしても将来にわたって高い評価を得ることはできない一過性の流行だと否定した。
グリンバーグは、作品の表現様式に徹底してこだわり、作家の構想力に高い価値を置きながら、作品の外に出ることはなかった。キュービズムや抽象表現主義を論じているかぎりは作品の技法や様式の外に出る必要はなかったといってもいい。しかし、ポップア-トはそうはいかなかった。それは、現にある工業製品のとりすました再現、複製だからということではない。その主題には、暴力やセックスのように支配的な道徳と抵触するものが含まれており、社会的な文脈から切り離すことができなかったからだ。
スーザン・ソンタグは、六〇年代のはじめに、芸術作品の批評の方法として、作品の様式に徹底的にこだわることを通じて、グリンバーグとは逆に、作品の社会的な文脈を取り込むことを模索した。
ソンタグが六〇年代半ばに書いたエッセイ「反解釈」や「様式について」のなかで、作品をその表現の形式ではなく、その内容に還元して評価する伝統的な解釈の方法を批判した。彼女は「われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけだすこと」でもないし「そこにある以上の内容を作品からしぼり出すこと」でもなく「【傍点】もの【/傍点】を見ることができるように、内容を切りつめること」だと述べた。「作品と経験の確かな実在感を薄めてしまってはならない。批評の機能は、作品が【傍点】いかにしてそのものであるか【/傍点】を、いや作品が【傍点】まさにそのものであること【/傍点】を、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない」と主張したのである。
芸術作品は、その内容ではなくその表現の形式によって、支配的な道徳や倫理からの攻撃にさらされてきた。たとえばジャン・ジュネの小説に表現されている残酷さ、裏切り、好色などは、まさにその表現の様式によって非難されたわけだが、これにたいしてソンタグは、作品を現実の行為と結びつけて批判する従来の批評の態度を批判し、「ジュネは芸術作品を創造しているかぎり、何も提唱しているのではない。彼は経験を記録し、貪り食い、変形するのである。ジュネの作品のなかではたまたまこの過程そのものが明白な主題なのだ」と述べた。
芸術を特定の道徳的な態度に即して評価を下すということになると、この道徳から逸脱する芸術は、この道徳を侵害するものとみなされ、否定されることになる。こうなると審美的な観点と道徳的な観点という二重の基準がなりたってしまう。ソンタグは「審美的なものと倫理的なものの二種類の独立した反応があって、われわれが芸術作品を経験するとき、われわれの忠誠心を二分して対峙し合うのをみとめることになる。これではまるで芸術的経験をするあいだに、一方では責任ある人間的な行動があり、他方には意識の快楽的な刺激があって、この二つからひとつを選択しなければならないみたいではないか!」と述べてこうした二重基準を批判したのである。
こうして、作品の表現様式が道徳や倫理と関わらざるをえないとすれば、芸術の自律性などといわれるような、外部の世界から作品を切り離した解釈では通俗的な道徳の側からの攻撃に反撃できないことになる。「われわれは世界に住んでいるのだし、芸術の対象がつくられ享受されるのは世界だ」とすれば、作品の解釈をつうじて私たちのこの「世界」にたいする態度によって反撃を試みる以外にないということになる。

日本における「ポップ」の文脈

日本でも、六〇年代の芸術が伝統的な意味での政治的な表現よりも、むしろ性的暴力的表現をめぐって、多くのスキャンダルや検閲に直面した。たとえば、戦後の現代美術の最先端の試みを提供してきた讀賣アンデパンダン展は、作品の様式への道徳や倫理からの批判に耐えきれず、六〇年代という時代を乗りきることなく幕を下ろした。ソンタグがこだわろうとした解釈の問題は、この国の現代美術とも深く関わりを持つものといえたのである。
六二年第一四回讀賣アンデパンダン展で作品撤去の事件が起きる。風呂おけに本物の出刃包丁を手にした泥棒姿の人形を入れて出品した広川晴史の作品「そろそろ出かけようか」、糸井貫二の株券と無修整のヌード写真を並べた覗き箱の作品、吉岡康弘の女性の性器の写真、絵の具の袋の上を観客が歩くと袋が破れて絵の具が染み出る時間派の作品が撤去された。出刃包丁が危険である、猥褻である、会場が汚れるなどがその理由だった。(赤瀬川原平『いまやアクションあるのみ、〈讀賣アンデパンダン〉という現象』)。そしてその翌年赤瀬川は畳一畳分もある千円札の模造を出品した。この年を最後に,讀賣アンデパンダン展は中止される。その後赤瀬川は、千円札の包み紙などを制作し、六五年に通貨偽造の容疑で起訴される。六〇年代末には、赤瀬川は『朝日ジャーナル』や『ガロ』などを舞台にパロディ漫画を書く「漫画家」として知られるようになる。
六〇年代の日本の現代美術は、日本的なポップの新しい表現を生み出した。ハイアートとしての芸術と大衆文化の表象との境界は曖昧になるだけでなく、通俗的な文化の表現が芸術の不可欠な「資源」となった。鶴見俊輔がいわゆる芸術と大衆文化の境界にある新しい芸術のカテゴリーを「限界芸術」と命名したのは六〇年だったが、『限界芸術論』として出版されたのが六七年である。そして、漫画、大衆雑誌の表紙絵など、キッチュな表現を批評の対象とした石子順造などが、逆に赤瀬川らの表現をこうした大衆的な表現の文脈のなかに位置づけなおすことで下からの「高級芸術」の解体が試みられていった。こうして、六〇年代は、「高級芸術」と大衆文化の境界が切り崩され、芸術の政治性は、党や階級闘争の側からではなく、性や暴力をめぐる生活世界の側からたち現れるようになった。美術批評が前提していた芸術の解体を解体した時代、それが六〇年代であった。

[参照文献]
瀧口修造『近代芸術』(美術出版社、一九六二)
ハーパート・リード「シュールレアリスムと浪漫主義の原理」、『モダンアートの哲学』宇佐見英治、増野正衛訳(みすず書房、一九五五)
福沢一郎「デマを越えて」、『美術批評』一九五二年五月号(美術出版社)
アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言』稲田三吉訳(現代思潮社、一九六一)
瀧口修造、針生一郎、飯島耕一「アンドレ・ブルトン永遠に封印された謎」『美術手帖一九六六年一二月号(美術出版社)
『コレクション瀧口修造』第9巻(みすず書房、一九九二)
針生一郎『マルクス主義芸術論」講座『現代芸術』第六巻(勁草書房、一九六〇)
クレメント・グリンバーグ「抽象表現主義以後」、川田都樹子、藤枝晃雄訳、『批評空間J臨時増刊(一九九五)
スーザン、ソンタグ『反解釈』高橋康也他訳(竹内書店新社、一九七一、後にちくま学芸文庫)
赤瀬川原平『いまやアクションあるのみ、〈讀賣アンデバンダン〉という現象』(筑摩書房、一九八五、後に『反芸術アンパン』として筑摩文庫)
鶴見俊輔『限界芸術論』(勁草書房、一九六七、後に講談社学術文庫)
石子頑造『俗悪の思想一日本的庶民の美意識一』(太平出版社、一九七一)

出典:毎日クロニクル20世紀の記憶:1961-1967年、毎日新聞社、2000年