エコロジー社会と被ばく労働

福島原発事故は、ほぼ永久に収束することは不可能である。地球規模で拡散した放射性物質を回収することはできず、その一部は、生物に取り込まれ、場合によっては深刻な医学生物学上の影響を及ぼす。また、事故で破壊された原発の廃炉の処理についても、高濃度の放射性廃棄物の処理の技術的な見通しはたっていない。
原発の危険性問題の特異性は、放射性物質による被ばくの危険性問題にあるのだから、被ばくは、民生用であれ軍事用でるかどうかに関わりなく、「核」であるかぎり必然的にその生産から消費に至るまで、危険性がついてまわる。一般に、「常識」的理解では、核兵器は実際に戦争で使用されないかぎり被害は現実のものにならないとか、核の平和利用においても事故さえ起こさなければ安全である、というみなされがちだが、被ばくの問題は、ウランの採掘の現場から製造、管理、廃棄物処理に至るまでついてまわる。しかし、こうした日常的に避けられない被ばくの現実は、隠蔽されるか、軽視されてきた。核を保有する以上、事故と戦争がなくても、被ばくという問題は避けられないとすれば、誰が被ばくするのか、将来、エコロジーに基づく社会が実現するとして、この未来のエコロジー社会にいては、こうした被ばく労働から解放されることになるのか、といった問題は重要なテーマでもある。結論を先回りして述べれば、将来、たとえエコロジー的な社会システムが実現し、核がすべて廃棄されたとしても、廃棄物としての核の管理は、数十万年にわたって必須である。したがって、エコロジー社会システムが維持され、文字通り、地球の生態系との共生が可能な人類の社会システムを維持するとすれば、そのためには、自然と社会から放射性物質の影響を徹底して遮断するための労働は不可欠なのである。言い換えれば、エコロジー社会を支えるために、最も「エコ」とはほど遠い労働を担う労働者は不可欠になる。

こうした未来のSF小説のような話は、言うまでもなく、現在の被ばく労働と直接関わりあう問題でもある。誰がどこで被ばくをするのか。しかも、事故のような偶然の「不幸」としてではなく、社会が組織的、計画的に被ばくさせるような労働を、である。現に行われている被ばく労働の実態は、それが除染の労働であれ、原発のプラントの定検であれ、福島第一の廃炉処理であれ、その労働の需給構造は、これまでの建設現場の日雇い労働者のそれとほぼ重なり、ヤクザの介入や、何重もの下請けによるピン撥ね構造、劣悪な労働条件と賃金の伝統を引き継ぐ側面を持っている。被ばく労働が、社会的な差別と排除に直面しているという意味で、こうした労働の担い手が、新たな社会の下層を構成しはじめているともいえる。

●瓦礫問題と被ばく労働問題

震災で発生した被災地の放射性物質によって汚染された瓦礫を、被災現地を越えて、広域処理すべきかどうかをめぐる賛否両論の議論は、廃棄物全般の処理問題にどのような原則的な態度をとるべきなのか、というより一般的な問題への態度と不可分である。

かつて「瓦礫論」を書いたとき、その中での私の主張はいたってシンプルな原則に基づくものだった。瓦礫の広域処理に反対する運動は、被災地で処理すべきで汚染の拡散をすべきでない、という主張が多くみられた。しかし、福島原発事故で拡散された放射性物質によって汚染された震災・津波被害地域の瓦礫などを、被災地が放射性物質によるリスクを負ってまで処分を引き受けるべきなのは、なぜなのか、という点については、「拡散」すべきではない、言い換えれば、被害を最小化するためには、被災地が放射性物質によって汚染の被害を蒙るとしてもそれはいたしかたがない、という判断に立っているように見える。しかし、汚染の危険性があるのであれば、被災地であれそれ以外の地域であれ、その危険性に変わりはない。行政が「仕方がない」を口実にするならいざしらず、市民運動、住民運動が、リスクを誰が負うべきなのか、という点についてあいまいなままにして、自分の安全だけを最優先にするような主張をすることは、私にとっては受け入れがたい考え方である。むしろ、汚染瓦礫のリスクは誰が負うげきなのか、という原則をきちんとたてることが必要なのである。

私は、汚染瓦礫も含めて、放射性廃棄物処理について、原発の電力供給によって収益を上げた電力会社とこの電力の消費者として便益を享受してきた地域がその処分の責任を負うべきであると主張してきた。つまり、瓦礫であれ福島原発の廃炉から生じる廃棄物であれ、これらのゴミは、東京電力の管内で処理すべきである、ということであり、福井にある関西電力の原発から出る廃棄物は、六ヶ所村ではなく、関西電力の管内で最終処分すべきだ、ということである。一般的にいえば、廃棄物の受益者負担の原則を明確にすべきだ、と主張しているだけなのだ。

福島原発だでではなく、どこの原発についても、その使用済み核燃料であれ廃炉によって生み出される廃棄物であれ、いずれも各電力会社の管内で処分すべきだという原則は、更にもっと一般的に言えば、社会の経済活動が生み出した廃棄物は、この経済活動による「利益」(お金の意味だけでなく、実質的な有用性という意味での利益)を享受する人と場所が、同時に、その「不利益」やリスクともいえる廃棄物の処理をも引き受けるべきであるということを意味する。こうした原則は、人びとが本当の意味での生産活動における「成果」とは何なのか、その「成果」にはどのような負の「成果」が伴っているのかを理解する前提となる。これは、社会の経済がどのようであるべきなのかを 民主主義の手続きで決定する上でも重要な前提であると思う。原発がもたらす電力というエネルギーの恩恵だけを受け、その負の生産物ともいえる廃棄物や被ばくについては、自分たちの「外部」に押しつけることができるという場合と、こうした負の成果もまた恩恵とともに受け入れなければならないという場合とでは、人びとの意思決定は大きく変化するだろう。

●負の「生産物」を可視化すること

電力会社は、発電所で電力を生産してこれを消費者に販売して収益をあげる資本だと考えられている。これは生産活動全体の一部をあたかも「全体」であるあのように取り違えた理解だ。一般に「生産」活動の目的は、人間が必要とする様々な物やサービスを生み出す活動ではあるが、この活動によって同時に、ゴミもまた生み出されるにもかかわらず、このことは自覚化されないような暗黙のメカニズムができあがっている。

たとえば、コンビニ弁当は便利だろうが、便利なのは弁当の容器などのゴミの処理は、「ゴミの日」に出すことで済ませることができるためだ。ゴミ処理の負担は不可視化されてしまっているために、その処理のやっかな問題は実感化されない。もちろん弁当の代金には容器のコストも含まれているし、支払う消費税のなかには、ゴミ処理に必要な自治体の経費になる部分があるだろうということは、理屈の上では言えるが、こうした貨幣化された負のコスト概念では、決して問題は解決できない。金さえ出せば誰かがゴミを処理してくれる、ということ以上の関心は持たれないからである。金がある者は、便利さだけを享受し、リスクもまた金を出せば回避できる、ということにしかならず、逆に、このリスクや不利を一方的に受け入れ、あるいはこのリスクを処理するための労働を社会の誰か、外部の社会の誰かが担わされることになる。この世の中から消えてなくなってしまうわけではないのだが、金持ちたちの生活圏からはきれいさっぱりと決し去ることができる。これが資本主義の「豊かさ」という幻想を支えてきたのだ。

原発の供給する電力も理屈は同じである。電力の消費によって得られる便利さだけを消費者が享受し、その便利さを生み出すために生み出される廃棄物の処理を引き受ける必要はない、というシステムのために、主として大量の電力消費地は、その利益しか念頭になく、電力生産がもたらす負の生産物への関心は、自らがリスクや不利益にでも直面しない限り、自分の問題として真剣に考えようとしない。もし、使用済み核燃料を六ヶ所村で処理するなどということでリスクから逃がれることはできず、東京電力は関東地方で、関西電力は関西のどこかで処理しなければならないということになれば、原発の建設について、その受益者が同時にその廃棄物処理についても自ら引き受ける責任を持つということを前提としたら、あるいは、原発が供給する電力の消費の割合に応じて、各消費者がその放射性廃棄物の処理を引き受けるとしたらどうだろうか?毎月の電気代の請求書と一緒に核のゴミが宅配便で配達されるようなことを誰が歓迎できるだろうか?しかし、確実にこうした廃棄物はこの世界に存在しているのであって、誰かがどこかでその処分のためのリスクを負っている、という確実に存在する事実が、多くの人びとの視野から決し去られているのであり、不可視化をもたらすようなメカニズムが構造化されてもいるのだ。

●避けえない労働としての被ばく労働と「労働の拒否」の可能性

被ばく労働は、核社会が必然的に負わなければならない労働として、固有の意味を持つ社会的必要労働(注)である。誤解を恐れずに言い換えれば、被ばく労働とは、負の社会的必要労働なのである。除染であれ事故後の廃炉処理であれ、これらの作業はあたかも「がんばれ日本」を象徴するかのような、国策としての労働となっているにもかかわらず、その労働条件や環境は劣悪であり、リスクを負う環境は決して改善していない。一日もはやく、復旧、復興を実現し、住民が安心して住めるような地域の回復のために、除染や汚染物の処理が必要であるという理由によって、劣悪な労働環境が容認されてよいはずがない。むしろ、こうした国策であるが故に、その労働をゴリ押しする一方で、復興景気を演出して、巨額の利権と政治的な利益を獲得しようとするような政府や資本に対して、むしろ、原発がもたらした負の生産物への責任問題を本来責任をとるべき者にとらせるためにも、本来責任をとるべき者に被ばく労働を担わせることは必要なことでもある。被ばく労働というリスクを引き受けることの意味は、この労働がエコロジー社会においてすら不可避な必要労働として将来にまで残らざるをえない宿命があるということを前提としたとき、このリスクの責任を負うべき者が誰なのか、という責任問題を明確にしないまま、責任を負う必要もない人びとを、労働市場を利用して調達するメカニズムが果して、社会の公正なありかたといえるのかどうか。ここでも、金さえ払えば(あるいは、払ったポーズさえとれば)リスクは他人に押し付けられる、という資本主義のシステムの本質的な問題が露呈している。被ばく労働者が、その労働条件やリスクを回避するために労働を拒否することはあるべき労働者の権利だが、これに加えて、労働を拒否する論理と倫理は更に政治的な意味と意義を持ちうる。こうした観点なしに、資本主義を前提としないエコロジー社会の創造もありえないと思う。
(「鯛ベックス」パンフ原稿 2014年)