暴力をめぐる「生のあやうさ」と「葛藤」――ジュディス・バトラーの非暴力論
Table of Contents
- 1. はじめに
- 2. 規範としての暴力
- 3. 暴力でかたちづくられる「わたし」
- 4. 暴力の背景
- 5. 葛藤
- 6. 憎悪と破壊
- 7. 被害者と非暴力
- 8. 他者の生との関わり
- 9. おわりに――残された問い
1. はじめに
多くの人々が非暴力を口にしながらも、現実には暴力という手段によって目的を達成しようとする事例は事欠かず、個人レベルでも集団でも民主主義を標榜する法の支配に従属する国家に至るまで、ごくあたりまえに見い出される。この厄介な現実に対峙するためのひとつの切り口として、ここではジュディス・バトラーの非暴力論について考えてみることにする。1
バトラーは、911「同時多発テロ」や対テロ戦争、Black Lives Matter、中絶をめぐる論争や性暴力、そしてイスラエルの建国以来繰り返されるパレスチナへの戦争まで、状況に敏感に呼応して暴力と非暴力の問題に繰り返し言及してきた。彼女の基本的なスタンスは明確で、暴力という手段を否定し非暴力を選択するという立場だ。しかし、その主張はやや難解だ。議論の前提になっている精神分析(フロイトだけでなくとりわけメラニー・クライン)やエマニュアル・レヴィナスの哲学などは、活動家の間の共通理解にはなっていないだろう。非暴力抵抗運動の活動家がジーン・シャープの本を読んだりするような手軽さはないかもしれない。そもそも彼女の議論のスタイルは、運動のマニュアルにも綱領にもなりえるものではない。しかし、彼女の問題意識は、特に暴力(武力)を解放の手段としては選択しない様々な非暴力抵抗運動としての反戦平和運動のなかで議論されるべき重要な問題提起を含んでいると私は考えている。以下の私の議論も、こうした観点に引き寄せて論じている。
バトラーの議論の前提にあるのは、私たちの生存は権利としても現実のあり様としても、十分に保障されてはおらず、むしろ常に生を奪う暴力の危険をかいくぐるようにして生きている、という生存についての認識がある。これを「生のあやうさ」と呼んでいるのだが、このあやうさは人皆平等にそのリクスを負っているのではなく、極めて大きな不平等が存在している。生をあやういものにする暴力と不平等が現実の社会を構成しているなかで、非暴力を論じるのがバトラーの問題の枠組になる。バトラーの論は、暴力にまみれた世界のなかにあって、暴力の被害の当事者が自衛のために暴力を正当な選択とみなすことによって、ときには加害と被害がその立場が逆転されたり暴力の連鎖が再生産される事態を理解する上でも、また、ここから抜け出すために主体が抱え込まざるをえない暴力との危うい関係を直視する上でも、示唆的である。他方で、バトラーの議論では、具体的な事例に即した議論を敢えて避けて抽象度の高い議論を展開するために、彼女が想定している状況がDVのような親密な人間関係のなかでの暴力なのか、それともテロリズムなのか、あるいは国家間の戦争なのか、容易には判断しがたい場合があり、また、論じられている暴力が加害者の側からなのか被害者の側からなのかについても、明示的ではない場合がある。読む側が、どのような状況を念頭に置いて彼女の議論を解釈するのかで、その解釈にはかなりの違いが生まれるようにも思う。とはいえ、バトラーにとっての暴力には、ジェンダーの領域に関わる暴力、米国社会が内包している暴力とともに、彼女の出自でもあるユダヤ系知識人としてイスラエルがパレスチナに対して建国以来一貫して行使してきた暴力の問題が常に背景としてあることを念頭に置くことが必要だと思う。
2. 規範としての暴力
バトラー自身は非暴力の確信的な主張者だが、非暴力は容易な選択肢ではないこと、むしろ困難な選択であり、これをあえて選択するための思想的な根拠を明確にしようという問題意識がある。というのも現在の社会において非暴力は、規範を時には装いはするものの、国家の本質=統治の根源になりえていないからだ。家父長制的な親密空間から警察、軍隊に至るまで、暴力こそが規範になっているのが現在の社会のありかたであり、法は暴力を正当な行為として承認する枠組であり、この意味では法は暴力を規範とするとみていい。規範であるということは、その暴力は法的に承認されているか、あるいは道徳的に正当化されている、ということを意味している。このような暴力をめぐる規範の枠組を与件として、この規範に抵触しない範囲で非暴力を主張することは、暴力を規範として再生産する枠組そのものを暗黙のうちに肯定することになる。したがって、非暴力とは、暴力の規範を解体することを指向することでなければならないのだが、その道筋は以下で述べるように容易ではない。しかし、容易ではないからこそ、この規範として承認された暴力に屈することなく非暴力を指向するこを断念すべきではない、ということにもなる。
本稿では主にバトラーの「非暴力の要求」とい文章(『戦争の枠組』清水晶子訳、筑摩書房、第5章、以下引用のページは訳書による)を中心に考えてみたい。誰もが暴力の被害者にも加害者にもなりうると同時に、暴力という手段を選択しない立場をとる主体にもなりうる。いずれの場合にも、それなりの言い分がある。事柄は具体的な状況の文脈のなかでしか判断できないかもしれない。しかし、バトラーはより抽象度の高いところで議論を組み立てる。大前提として彼女は、非暴力とは原則的な立場ではない、ことを強調する。今現在、私たちが直面しているのは、非暴力が原則にはなりえず、暴力があらゆる局面で露出するような社会を前提として、なおかつ、その中で原則にはなりえない非暴力を選択する、という極めて困難な選択に挑む、という課題だ。2
バトラーは暴力が振われる状況において、この暴力に応答する主体もまた暴力を用いるであろうということ、この暴力の応酬もまたひとつの「規範」のなせるわざであると述べる。現代の社会においては、こうした暴力に対して対抗手段として暴力を選択することは、報復のレベルが当初の暴力的な加害との間でバランスがとれてさえいれば、あるいは自己の主権を防衛する正当な応答であると第三者が判断できるだけの客観的な根拠があることが示せさえすれば、こうした暴力は肯定され、非暴力の出る幕はない、ということになる。これが現実主義的な国際関係における暴力をめぐる規範の枠組だ。この枠組が規範になっている現在、人々は、こうした暴力を否定するのではなく、こうした規範に沿った行為である限りにおいて、暴力を積極的に肯定さえしていることになる。非暴力を論じる場合の出発点は、こうした規範化された暴力を批判することにある。
だから、非暴力を主張するということは、こうした暴力の規範によって正当化された暴力を否定するのでなければその意味をなさない。とりわけ国家が行使する暴力が、法の適正な手続きを経ており、かつ、主権者たちがその行使を支持している客観的な状況が存在するばあい、社会の多数は、こうした国家の暴力を肯定する。民主主義国家であれば、主権者としての「国民」の多数がこうした国家の暴力の正当性の根拠をなす。そのなかで、非暴力を主張するということは、この暴力を正当化する規範から逸脱する非暴力を主張するということだから、非暴力を主張する者たちは、規範化された暴力とこれを否定する非暴力との関係そのものを生きることを意味する。しかし、非暴力を主張する「わたし」もまた社会の一員であって、この暴力を正当化する規範を構成する枠組の部外者なわけではない。ある意味では、非暴力を主張する「わたし」にとっても、暴力の規範について、社会の多数がこの規範を承認する理由や感情を一面では理解しているはずなのだ。その上で、「わたし」は多数者が承認する暴力の規範をあえて否定する立場をとることになる。このような立場の選択は、容易には理解されないはずのものだ。非暴力は、国際関係が緊張状態を増し、国内の治安が悪化すればするほど、空論とみなされ、その評価が落ちる。しかし、こうした事態であるからこそ、容易ではない非暴力の主張に固執することに意味があると思う。
3. 暴力でかたちづくられる「わたし」
バトラーは「非暴力は単一の主体にとっての葛藤だ」と述べている。「主体に働きかける規範は社会的な性格を持つと言うことでもある。非暴力の実践に賭けられているのは社会的な絆なのだ」(p.200)というのだ。バトラーは、個人主義的な人間観を斥け個人を社会関係のなかで捉え、非暴力の実践は暴力の網の目のなかに組み込まれている私たちを結びつけている関係それ自体を組み換えることだという。だから社会が暴力の規範を承認するなかで、「わたし」が非暴力を主張するということは、必然的に「わたし」を構成している社会関係=絆もまた、暴力の規範と、これを否定する非暴力の主張という相反するベクトルのなかに投げ込まれざるをえないことになる。「わたし」は、「わたし」よりもその存在において圧倒的に巨大な社会の規範に対峙し、立ち向かうという困難な立場をあえてとること、そのような否定的な絆として社会と関係する、ということになる。
社会が規範化された暴力を承認し、そのなかで生きている「わたし」――この「わたし」は非暴力を主張するのだが――は、一面では、この暴力にまみれた社会的な存在のなかの「わたし」という観点からすれば、「わたし」のなかには不可避的に規範的な暴力を内面化する契機がある、ということになる。これはキャサリン・ミルズがバトラーへの批判として提起した観点だとバトラーが紹介している。これに対してバトラーは「わたしたちは少くとも部分的には暴力を通じてかたちづくられる」ことを認めるが、そうだとしても次のように主張することは可能なはずだ、と反論する。
わたしたちをかたちづくる暴力と、いったんかたちづくられた後のわたしたちがみずからふるう暴力との間に、何らかの決定的な破損が生じることはありうる、と。それどころか、人が暴力を通じてかたちづくられるというまさしくそれ故に、自らをかたちづくる暴力をくりかえさない責任が、それだけいっそう差し迫った重要性を持つのかもしれない。p.202
私も同様の観点を主張してきたので、この観点にほぼ同意する。暴力を宿命としてきた社会や個人の歴史から、この先の社会と個人の未来もまた暴力を宿命とすると予測する、こうした手法をバトラーは否定し、むしろ暴力を通じてかたちづくられた「わたし」の責任は、この暴力を繰り返さないことにあると断言する。暴力によってかたちづくられる「わたし」といっても、家父長制のなかで女性としての「わたし」と男性としての「わたし」とでは、全く正反対のかたちづくられ方となるだろう。その上で、これはひとりひとりの人間の私的な生育歴の場合であれ、社会が形成されてきた歴史的な経緯――建国の神話あるいは史実――であれ、これらをたしかに形成してきたにちがいない暴力を、歴史的事実としては否定することはできない。しかも厄介なことに、この社会の多くの人々が、こうした暴力には肯定されるべき側面があるとすら評価しているために、暴力は容易に再生産されてしまう。躾としての「愛の鞭」であれ、あの戦い(暴力)があったからこそ今のこの社会(国家)が生まれたのだ、という暴力への賞賛であれ、こうした言説を支える実感に対して、非暴力という主張が実感のレベルで納得を得られるのは容易なことではない。この困難を承知のうえでバトラーは、上に引用したように「自らをかたちづくる暴力をくりかえさない責任」を自らに課す。
ここでバトラーが念頭に置いている暴力をめぐる規範なるものは、法などで制度化された軍や警察による合法的な暴力装置に関するルールといった実定法的なものというよりも、むしろ、各個人が内面化している暴力についての閾値――正当なものとして容認しうる暴力とそうではない暴力を分かつ境界――についての慣習的な直感とでもいうべきものが関心の中心にあるように思う。バトラーが法や制度とは言わずに、より曖昧な「規範」という言葉で問題を提起するのは、暴力という行為の是認を人々の内面的な価値判断として問題にしたいからだろう。一世代前であれば、許容され肯定されていたかもしれない家庭内の大人による子どもに対する躾のための体罰――学校の教師の体罰でも同様だが――は、暴力をめぐる規範としては容認しうるものとみなされたが、現在では、容認しえない暴力として分類される。日本では戦後直後には、自衛力も含めて武力を保持することは国家の暴力規範としては是認できないが、米軍の駐留とその暴力の存在を是認しうるという暴力規範の閾値が支配的だった、ともいえる。その後この規範もまた変容して多くの人々が――「平和憲法」を擁護して改憲に反対する無視できない数の人々ですら――自衛のための戦力の保持を容認するようになる。暴力をめぐる規範は変容するが、いずれも暴力は一定の規範に沿う形で調整されて法(あるいは法解釈)として正当化される。だからこそ、既存の規範において容認される暴力を否定することが非暴力にとっての重要な立場となる。このことを踏まえた上で、暴力のなかで自己を形成してきた「わたし」が、自らをかたちづくる暴力を将来においていかにして繰り返さないという行為が、集団性を獲得することを通じて、この暴力規範の閾値をゆさぶる可能性があることにもなる。そして更に、そもそもの暴力それ自体を無化する方向へと社会を変える可能性もこうした責任を自覚した行為のなかから生み出されるだろう、ということでもある。
4. 暴力の背景
バトラーは暴力においてかたちづくられる「人」のなかには「国家的な敵意の構造を通してかたちづくられている」場合があり「敵意の構造は、市民的、そして私的な生活においてさまざまなかたちの支流をなしている」とも言う。その上で、次のように問う。
その形成の作用が人の生涯を通じて続くとき、形成史における暴力をどう生きるのか、暴力を反復するなかでいかにずらしや反転をひきおこすのか、についての倫理的な難局が生まれる。p.205
「倫理的」という意味は、道徳のような外部からの要求ではなく、自己自身の内面からの判断として非暴力という判断を選択することだ。自分自身が暴力の直接の加害あるいは被害の当事者ではないにしても、暴力を経験としてもちながら育ち、今現在の生活もあるということは、誰にでもありうる環境でもある。この現実から将来においても暴力を規範として繰り返されることを宿命とか必然とはみなすような決定論が生み出されるのだが、これをどのようにしたら回避できるのか。当事者でなくても「いかにずらしや反転をひきおこすのか」という極めて実践的な問いに直面せざるをえないことになる。暴力の現実があるなかで非暴力を選択するとはこういうことを意味している。バトラーは畳みかけるように問う。
わたしはみずからの形成の暴力をどのように生きるのか?その暴力はわたしの中でどう生きつづけているのか?その暴力はいかにわたしを、わたしの意志にかかわらず、前進させる(carry)のだろう、わたしがその暴力を保持している(carry)まさにその時にさえ?そして、どのような新しい価値の名において、わたしはその暴力を反転させそれに反対できるのだろう?そういう暴力の向きを変えることが可能だとして、それはどのような意味においてなのか?p.205
このような問いが投げかけられる背景は様々想定できる。バトラーは米国で、とくに、2001年9月11日のいわゆる「同時多発テロ」事件を経験しており、本書は2009年に書かれていて、『生のあやうさ』(2003年)の続編ともいえる位置にあるが、他方で、ジェンダーと暴力の問題に日常的に直面してきた経験もまた彼女の問題意識の背景にある。常に世界のどこかで戦争をし、国内では銃の所持が合法化されている米国は、国家レベルでも私生活のレベルでも暴力という経験のなかでしか人は成長できず、物事を考えることができない社会であり、社会とはそういうものなのだと誰もが自覚せざるをえない環境にある。だから暴力のなかでどのように生きるのか、同時に暴力は「わたし」のなかでどのように肯定され維持されてしまうのか、といった一連の問いが切実なものになる。
他方で日本の場合は、むしろ、暴力は可能な限り隠蔽される。あたかも国家権力は暴力を最小化した存在であるかのように自らを演出し、強制であっても自発的な同意であるかの装いをとろうとする。明確な武力行使の組織である自衛隊を軍隊とは理解せず、憲法上の戦争放棄の規定と矛盾しないとみなすレトリックを多くの人々が受け入れる。日本の米軍基地がアジアの戦争に加担しても、冷戦期の戦後復興がアジアを市場とする経済帝国主義であっても、国境を閉じて移民や難民を門前払いしても、これらの仕組みがおしなべて、他者に対する暴力であるという認識は共有されてこなかった。憲法が残虐な刑罰を禁じているにもかかわらず死刑制度を当然の刑罰とするが、その執行は極力目立たないように演出される。死刑廃止を支持する世論が少数派であることは、刑罰を見せしめや復讐とみなす価値観が根付いていることを示している。学校の体罰も家庭の親の暴力も教育や躾としてその行為に倫理的道徳的な価値すら認める価値観が長年肯定され、人権という観点はどこか「外来」の価値観でしかないような位置に置かれ続けてきた。自らのなかにある暴力を肯定する価値観に気づかない。だからこそ、そこに暴力が伏在しているということを認識しようという努力は払われなかったのではないか。
日本では、暴力の存在は隠蔽され、巧妙にその行為の意味を転換させられ、暴力のなかを生きてきたという「生のあやうさ」の現実が容易に消し去られてしてしまう。だから、なによりも私たちは、上のバトラーの問いに向き合う前に暴力に気づくことから始めなければならない。隠された暴力あるいは潜勢力にとどまる暴力に気づき、その上で暴力は宿命でもなければこれを将来にわたって自分の内面に抱えこむべき理由のないことを確認する方向へと向う必要がある。日本のばあい、こうした過程なしには内面化されて暴力とは気づかれないかたちで国家が行使する暴力が見逃されやすくなり、こうした隠された暴力を厳しく否定する立場そのものが成り立ちがたくなる。
5. 葛藤
暴力のなかで生きざるをえない「わたし」が非暴力を主張するということは、葛藤を抱えこむ覚悟をもつことでもあるとバトラーは述べている。
主体をつくり維持することにともなう暴力なくしては、倫理的な「要請」としての非暴力を理解することはできないだろう。そのような暴力なくしては、葛藤も、責務も、困難もないだろう。重要なのはみずからの産出の条件を根絶することではなく、ただ、そのような産出を決定する力に異議を唱えるように生きる責任を引き受けることなのだ。p.206
逆説的だがバトラーは「人が暴力にまみれているまさにそれゆえに、葛藤が存在し、非暴力の可能性があらわれるのだ」ともいう。非暴力をめぐる葛藤への注目は、私にとっては、重要な示唆与えるものだった。私はともすると、単刀直入に「いかなる場合であれ武器はとらない」と宣言したり、暴力は問題を解決できず先送りにするだけである、といった主張を、ある種の「理屈」としてのみ述べることで十分だと見做しがちであり、スローガンによる決意表明でもなければ理屈による暴力の否定でもない暴力の問題の核心を外してきた。たとえば、「もしミサイルが飛んできたらどうするのか」とか「敵が侵略してきても抵抗しないのか」とか「親兄弟子どもたちが殺されそうになっているときに見殺しにするのか」などといった様々なありがちな「想定問答」――これらはマスメディアや政府が繰り返し煽る不安感情でもあるが――に対して、容易には非暴力という答えを選択することはできない、という実感だ。こうした実感が、国家の自衛権としての武装を容認する感情的な基盤となってきた。バトラーは暴力を選択しかねない切実な状況に真正面から向きあっている。だから、非暴力を選択するということは葛藤を伴うことであり、この葛藤を直視して、そのなかから非暴力という答えを見出すという困難な道を選択する覚悟をもつべきだと言うのだ。3バトラーは非暴力は美徳ではないし、立場でもない、とも言う。暴力の現実に直面するなかで、人は非暴力という選択をめぐる葛藤のなかでみっともなくおたおたし、時には暴力の助けを借りるという誘惑に負けることもあるだろう。しかし、これで終りなのではなく、そこから挫折を反省し自らを責め苛むなかで、再度非暴力への道筋を手放さずに追求しようという葛藤の連続でしかない。
国家規模での暴力との関係がやっかいなのは、国家の側は私との関係を法や行政の強制力や私の側が有する権利などの様々な社会関係を通じて、あらかじめ私との「関係」を構造化している点にある。そのために、ここに生じる相互依存といってもいい関係は確実に不平等である。私の主体的な選択や意思に先立って、私には選択の余地のないものとして、国家がしつらえた国籍や「国民」、ジェンダー役割、エスニシティというアイデンティティが半ば押し付けられることになる。この枠組のなかで家族関係があり、生育環境が準備される。この所与としての逃れることが困難な関係として構成される枠組のなかに暴力が内在する。バトラーはこれを「必然的で相互依存的な関係」と呼ぶ。非暴力は、ここに割って入り、暴力への抵抗を構築しなければならない。バトラーは次のように言う。
意図せざる効果のすべてが「暴力的」ではないにせよ、その中には人を傷つけるような衝撃もあって、身体に力づくで作用し、憤怒をひきおこす。これが、非暴力という動的な拘束状態、あるいは「葛藤」を構成しているのだ。(中略)人が暴力にまみれているまさにそれゆえに、葛藤が存在し、非暴力の可能性があらわれるのだ。p.206
暴力に「まみれている」という言い回しは、暴力が必然であって回避不可能だということではない、ことを意味している。だから、ここに暴力を選択(容認)するのか、それとも非暴力を選択するのか、という葛藤が生まれ、この葛藤のなかで悪戦苦闘する先に非暴力を選択する可能性も生まれる。暴力にまみれているということ自体が皮肉にも非暴力への葛藤の条件であり、しかも葛藤の結果として非暴力ではなく暴力を選択してしまうという失敗もまたしばしば生じさえする。だからこそ葛藤なのだ、とも言う。そして次のように言う。
非暴力はまさしく美徳でもなければ立場でもなく、ましてや普遍的に適用されるべき一連の原則でもない。それは、傷つき、怒りくるい、暴力的な報復にむかいやすく、にもかかわらずそのような行動をするまいと葛藤する(そしてしばしばみずからに対する憤怒をつくりだす)ような、暴力にまみれ葛藤をかかえた主体の位置を示しているのだ。暴力に反対するたたかいは、暴力が自分自身の可能性だということを受け入れる。p.207
暴力と非暴力の葛藤があるなかで、暴力は、非暴力に対してみずからの正当性を主張する。しかも攻撃を受け傷つき報復感情が最大となるような状況――911「同時多発テロ」がバトラーの念頭にあったのだろうか――のなかでは、社会の多数が暴力に承認を与えるような局面となる。こうした報復感情は「性急かつ最大限の道徳的な確信をもって報復に向けた動き」が伴う。葛藤は、暴力と非暴力の選択の間にあると述べたが、単なる暴力というよりも、暴力の行使を要請する道徳的な立場と暴力を差し控えて別の手段をとるべきとする倫理的な立場との間に生じるものだ、といった方がいい側面がある。ここでは道徳的な要請が暴力の側に加担することになるわけだが、こうした意味での道徳を暴力を内包する国家が繰り返し人々に与えたがるものになる。
6. 憎悪と破壊
バトラーは、このやっかいな葛藤の構図に対して、レヴィナスの「顔」の議論を参照しながら「殺す欲望と、殺さないという倫理的必要」の葛藤に言及したり、メラニー・クラインの「喪失をこうむった主体にはのみこみつくすような攻撃性がそなわっている」といった道徳的サディズムあるいは暴力の道徳化を参照する。とくにクラインについては数ページにわたっての言及があり、他者と自己の間の暴力をめぐる錯綜した関係が一筋縄ではいかない構図をもつことが、自殺をも視野に入れて論じられている。憎悪や破壊の対象と自己との関係は、単純な敵・味方の二分法の構図には当て嵌らない。言い換えれば、憎悪の対象とみなされる対象は決して単純な憎悪の対象ではなく、「破壊性にさらかって対象を保護しようとする試み」が内包されている。自らが破壊した対象に対して悲しみを覚えるとも言う。
この指摘は、暴力の構図を非暴力の構図へと反転させるためには、敵対する双方の関係を非敵対的な別の関係へと転換させるプロセスを必要とするが、この転換は何を契機にして可能になるのか、という問題と関わっている。憎悪の感情を収束させるためのひとつの手掛かりとしてバトラーがここで関心をもつのは、暴力としてあらわれる可能性をもつ憎悪が暴力へと駆り立てられることなく、この一見すると制御不可能にすらみえる感情を抑制するメカニズムが自己の内部にありうることに気づくことだ。
これは、いわゆる人間の暴力性をめぐる長い論争へのバトラーなりのひとつの答えではある。4ある種の学説にとっては、人間の破壊性は本能であって人間の本質でもある、ということになるが、バトラーは、こうした議論に巧みなうっちゃりをかます。たとえ破壊性が人間の本性だとしても、この破壊性の方向づけは多様であってひとつではないと指摘し、さらにここには「他者を破壊性からまもろうとする責任の、基盤となりうる」ものが含まれ、この責任は「まさしく、道徳的サディズムに対する、暴力の否認からつくりあげられた純粋さの倫理に独善的にみずからの基礎をおく暴力に対する、代案である」という。暴力は、常に自己の生を守ることだけに執着するから、他者の生を守る倫理的責任を伴わない。そうでなければ暴力は行使できないからだ。こうした暴力が人間社会にとって必然だからこそ、この暴力から守ることもまた人間にとっての責任だということになる。破壊本能を自覚するからこその責任であり、非暴力なのだとバトラーは言いたいのだと思う。このように、バトラーがここで暴力を支える道徳的サディズムに対置しているのが「責任」という観点だ。
(前略)責任は、怒りに観ちた要請に対する非暴力的解決を見つけだすという倫理的命令のみならず、攻撃性をも、「自分のものと認める」。正式な法にしたがってこれをおこなうのではなく、まさしく、みずからの潜在的な破壊性から他者を守ろうとするために、そうするのだ。人は、他者のあやうい生を保持しるという名において、愛するものたちを守るような表出様式へと、攻撃性をつくりあげる。攻撃性はこうしてその暴力的な配列に制限をくわえ、他者のあやうい生を尊重しそれを守ろうとする愛の要求に、みずからを従属させるのだ。p.213
こうした観点は敵・味方の二項対立の図式からはでてこない。そもそも「わたし」に課せられた責任とは、攻撃性に加担しかねない葛藤を抱えた私であるというところを出発点としている。相手のあやうい生を認識できるということは、相手のこのあやうい生を脅かし破壊するのではなく、逆に何とかこれを支えるために攻撃性を差し控えるための最大限の努力を傾注するというところに自らの責任を置く。この観点は、国家は好戦的で戦争の準備をしているが、私たちはそうした国家とは無縁な平和を主張する者だ、という平和主義には回収できない観点だ。むしろ平和主義者であっても、その帰属する国家の暴力に責任が伴うだけでなく、葛藤と自己の内面に潜む破壊性に無自覚な平和主義はむしろ暴力を見逃しかねない危険性すらあることを示唆している。
7. 被害者と非暴力
そしてまたバトラーは、暴力によって毀損され迫害される主体という被害者の立場から非暴力を論じることにも否定的である。この点は、特に重要な観点だと思う。
特定の主体が、みずからを定義上傷つけられ、それどころか迫害された存在だと考えるならば、そのような主体がどのような暴力行為をふるうとしても、それは「危害を加える」ものとは理解されないだろう。そのような行為をおこなった主体は、定義上、害を被ることしかできないことになっているのだから。結果として、傷つけられたという地位にもとづいて主体を産出することは、主体自身の暴力を正当化する(そして否認する)恒久的な根拠をつくりだすことになる。p.215
ここでの特定の主体をイスラエルを指すものとして読むことができる。ユダヤ系で確信的な反シオニストでもあるバトラーは、この文章を確実にイスラエルを念頭に、パレスチナに対して繰り返される暴力の歴史を踏まえて書いていることは間違いない。私にとっては、この文章は同時に、戦後日本の欺瞞的な平和主義に潜む落とし穴をも的確に指摘するものになっていると思う。戦後の平和主義の主流は、国家の戦争に対する「国民」の被害者感情に依存し、加害責任の問題を可能な限り最小化するなかで、多くの日本人が犠牲となったという観点に立って、戦争を二度と繰り返すべきではない、というところに平和の起点を置いた。日本の侵略と加害には極力言及せずに、戦争で多大な犠牲を被り――そのわかりやすい例が原爆による被害だ――、その反省の上にたって平和憲法によって戦争を放棄してきた日本、という構図は、定義上戦争において害を被ることしかできない日本が行使するかもしれない暴力なるものは、被害者としての暴力として正当化される、といった理屈に陥る危うさがある。このことを上の文章は気づかさせてくれる。
8. 他者の生との関わり
では、こうしたなかで非暴力の契機とはどのようなものになるのだろうか。
ここに非暴力が出現する機会があるとすれば、それは、あらゆる国民の損傷可能性を承認すること(それがどれほど真実であるとしても)からはじまるのではなく、自分が結びつけられている他者の生とのかかわりにおいてみずから暴力的にふるまう可能性を理解することからはじまる。この他者には、わたしが選んだこともなければ知りもしない者たち、したがって、わたしとの関係が契約の約定に先立つ者たちも、含まれている。p.215
ここで「自分が結びつけられている他者の生とのかかわりにおいてみずから暴力的にふるまう可能性を理解する」と述べていることを、身近な人間関係のなかで捉えようと国家間の軍事安全保障の緊張関係のなかで捉えようと、どちらであれ、他者とは、「わたし」が暴力を行使したいという情動にかられかねないような関係にある他者であることは間違いない。こうした他者への加害の可能性を理解するなかで非暴力の選択が可能になる。
ただし、ここでバトラーが強調するもうひとつの条件がある。それは生のあやうさをめぐる不平等な現実だ。「生きうるもの、嘆かれうるものとみなされる生とそうでない生とに格差を設ける規範」あるいは「損傷可能性を不当にそして不公平に割りあてる」枠組に批判的な介入し疑義を呈することが必須だという。
バトラーの非暴力の主張には、暴力の契機は外から来るとは限らず、暴力を構造化した社会のなかで生まれ成長してきた人間として、「わたし」の内面にある暴力の情動を孕む潜勢力を自覚することの必要性がある。しかも、暴力をある種の規範として内包する社会を生きるということは、生のあやうさを生きることであるにもかかわらず、とくに国家権力がグローバルに優位な地位を占めている国に暮す者たちにとっては、暴力による破壊や毀損は相手=他者が被るものであって、自分が被るものではないはずだ、という前提を置きながら、この相手からの暴力の報復を被るのではないかという不安に常にさいなまれることになる。しかしいずれの側にあろうとも、生のあやうさを生み出す構造からは抜け出すことはできず、そうであるが故に、あやうい生をもっぱら相手に押し付け、自らの生を確たるものにしようという不可能な願望に捉えられる。この構図には非暴力の余地はない。むしろバトラーは、この世界の仕組みが人為的に構築した敵と味方の構図を切り裂いて、生のあやうさを他者に見出し、この他者の生のあやうさの責任を自らのものとして理解することを通じて、暴力の罠を回避する回路を見出そうとしていると思う。
9. おわりに――残された問い
バトラーの議論は決してわかりやすくはないし、彼女自身のある種の躊躇や逡巡が率直に語られつつも非暴力の選択を決して断念しない、という力づよさがある。問題意識は明確だ。非暴力はいかにして憎悪や差別の感情を消滅させることになるのか、あるいは特定の対象にのみ向けられる喪や哀悼の感情を、どのようにして敵とみなされてきた他者に対しても向けうるものとして再構成することが可能なのか。つまり、暴力を規範とする現在の社会のその先に、将来における和解や肯定的な絆の構築がどのようにして見出しうるのか。暴力を構造化し規範化する背景に「生のあやうさ」というキーワードを提起したバトラーの観点は、非暴力という課題が内包している極めて複雑な感情の政治学を提起するものといえた。非暴力をめぐる葛藤のなかで悪戦苦闘することを自覚的に選択することから、暴力を廃棄する社会変革へと至る道筋を見出すことは容易ではないが不可能でもない。しかし、葛藤することこそが非暴力への道であり、暴力の前に非暴力の無力さに挫けそうになる、やはりこの際は国家の武力に委ねることもやむをえないとして妥協してしまいそうになるところで、逆にいかに踏みとどまり非暴力へと至る可能性もに賭けるのか。
「生のあやうさ」や「葛藤」といった概念の枠組は、バトラー自身が過ごしてきた苦闘の経緯そのものであり、表現の抽象度とは裏腹に、実は極めて現実的で切実な経験に裏付けられたものだと思う。とすれば、バトラーの問題提起を非暴力の実践に媒介するために何が必要になるのだろうか。日本の現実に引き寄せて考えるとき、特に最低限の自衛のための戦力保持を肯定するような平和主義という立場がますます有力になりつつあるようにみえるなかで、再度明確に断固として非暴力をつまり自衛権の放棄を選択するということを、葛藤を抱え込みながら主張するということが今切実に必要になっている、ということだ。バトラーは非暴力を原則とすることに否定的だが、むしろ私は逆に、葛藤を自覚しつつも非暴力という原則を立て、この原則の困難性としてたちはだかる現実の社会と人々の心理的感情的な不安や敵意と向き合い、とりわけ自衛権としての暴力批判を説得力をもって提起することだと思っている。
他方で、バトラーの観点からは見えてこない暴力の問題があることも指摘しておきたい。それは、とりわけ国家の暴力や集団としての暴力の場合、暴力は憎悪の感情に代表されるような情動の構造だけで説明できるのかどうか、である。暴力を組織し、敵を破壊しよとする集団的な計画性や法や統治の制度などの枠組形成は、感情の領域だけでは完結せず、説明もつかない。暴力のこの側面はバトラーの方法論ではアプローチが難しいように思う。計画的な軍事としての暴力の対象になるのは「他者」というよりもむしろ単なる標的である。そして自らの側の組織された暴力を統制し管理する仕組みのなかで人間は兵士とされて人間としての本来の存在を与えられることはない。全てが数値化されデータ化され、勝敗の結果は殺傷された数に還元される。このことを了解して暴力の主体が構築される構造が人権や民主主義の近代が生み出してきた戦争の基本的な構図だ。なぜこのようなことが可能なのかを明かにするには、バトラーとは別のアプローチが必要になると思う。このことはバトラーのアプローチが無効だということではない。ある種の物象化された暴力の組織のレイヤーとバトラーが着目した生のあやうさのレイヤーは重層的な構造として暴力を規範化している、というべきだろう。
Footnotes:
バトラーは多くの著作で暴力批判を取り上げてきた。そのなかで本稿で対象にしているのは『戦争の枠組』(清水晶子訳、筑摩書房)第5章「非暴力の要求」だけである。バトラーの非暴力論としては、この他に、『生のあやうさ』、括弧自分自身を説明すること』、『非暴力の力』、『権力の心的な生、主体化=服従化に関する諸理論 』、『分かれ道、ユダヤ性とシオニズム批判』などがある。
バトラーは非暴力について次のような問いを立てる
- どのような条件のもとで非暴力の要求に敏感に応答するのか
- 非暴力の要求が届いたときそれを受け止めることを可能にするのは何か
- そもそも非暴力の要求が届くにのに必要な準備をするのは何か
本稿では、これらの問いに直接応答できていない。
この文脈では、暴力が国家規模の大きな権力との関係で露出する場合と、身近な人間関係のなかで生じる場合とでは、非暴力の意味が全く違ってくるように思う。しかし以下で私は、主に国家による戦争を念頭に置いている。
暴力や攻撃を人間の本能とみなす主張に対する批判として、A.モンターギュ『暴力の起源、人間はどこまで攻撃的か』、尾本恵一、福井伸子訳、どうぶつ社、参照。攻撃本能説としては、コンラート・ロレンツやデスモンド・モリスがよく知られている。フロイトも死の欲動を主張することで事実上攻撃性を人間の本性に位置づけるようになる。クロポトキンの『相互扶助』は、攻撃本能批判として読むことができる。
Author: toshi
Created: 2025-01-16 木 16:55