意味と搾取第五章が公開されました

青弓社のウエッブで連載している「意味と搾取」第五章が公開されました。この第五章でとりあえず連載は終了の予定です。以下は、あらためてこの連載の趣旨と第五章の目次のみ紹介します。本文は下のリンクから青弓社のウエッブにアクセスしてお読みください。

この連載の問題意識は、監視社会批判ですが、この批判の中心的な課題として、諸個人の意識の有り様そのものと、権力(つまり諸個人を自らの意思の下において自由に操作しようとする政治や資本の力)の関係を再定義してみたい、というところにあります。権力が目指す個人に対する究極の制御は、個人の意思や情動を直接何の媒介もなく支配下に置くことです。これは不可能な夢になりますが、20世紀以降の資本主義は、膨大な個人のデータを収集するという手法を通じてこの夢を実現しようとしてきましたし、この悪夢をかなりの程度まで実現しうるような可能性を獲得しつつあるように見えます。

私たちの抵抗や異議申し立ての意思は、私の内面にある価値観や感情や経験など様々な要因から組み立てらている「私」が、外部とのコミュニケーションのなかで受けとるメッセージとの間で生まれるものといえます。これに対して(政治的経済的な)権力は、こうしたコミュニケーションがもたらす摩擦を回避して、外部からの介入であるにも関らず、それがそもそも自分自身の内面からのものだと誤認させるような仕組みを通じて、人々の意思や情動を支配することができれば、民主主義的な合意形成や自由の権利と抵触することなく、コミュニケーションの摩擦は回避されるか最小化できると考えてきました。資本主義のコミュニケーション技術は、こうした方向をとって「発達」してきたと私は考えています。私は、この摩擦の回避の回路を「非知覚過程」と呼んでいます。この非知覚過程は、私たちの知覚域の外部で作用したり、知覚過程にある言葉や視覚イメージに密かに組み込まれたりします。

こうした非知覚過程が、コンピュータによる膨大なデータ処理を背景としたAIの技術に依存している、ということがもうひとつの重要なテーマになります。これまで、コミュニケーションについて議論する場合の典型的なモデルは、二人の人間が言葉や身振りを通じて意思疎通しようとする場面で生じる現象の分析だったといっていいでしょう。読書をするという場合でも、書かれた文字の背後には、この文字を書いた誰かがおり、その誰かが、ある文章を書くばあいでも、その発想の背後には更に誰か他の人の影響があったりする、というように、コミュニケーションを支える知識の源泉には人間が存在するはずだと、想定されていたと思います。しかし、ChatGPTのような対話型のボットの回答をオウム返しにして、誰かと話をするとき、この発話の源を遡っても、そこには人間はいません。存在するのは膨大なデータの蓄積と、これを処理するアルゴリズムであり、これらには対話が前提とする言葉の意味にあたるものがない、のです。しかし、相手がChatlGPTをおうむ返しにして話しているのかどうかは私には判断できません。同じように、書かれた文章についても、それが人間のものかどうかは判断できないのです。こうした事態がむしろ常態になりつつあるなかで、人間の意識や心理が、こうした状況に影響を受けることは明らかでしょう。こうなると、人間の意識や情動を対人関係だけで語ることはできない、ということになります。このやっかいな問題は、私たちの世界観や価値観が人間相互のコミュニケーションによって構築される、という前提をもはや当然のことにはできなくなった、ということをも意味しています。社会を変革する実践に不可欠な人間相互のコミュニケーションの信頼性や議論を通じた合意形成といった政治過程それ自体が、この非知覚過程を通じて、大きく歪められていることを踏まえる必要があると思います。この時代にあって、私たちは、この窮屈で抑圧的な世界からの開放/解放を従来通りの戦略で乗り切れるのかどうか、こうしたことを考えるためのささやかな試論として書きました。

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第5章 パラマーケット/非知覚過程からの解放の条件

小倉利丸

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着
第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判
第5章 パラマーケット/非知覚過程からの解放の条件

[第5章構成]
5-1 国家とパラマーケット
    ・マスメディアの時代と何が違うのか
    ・無意識の再編成としてのデジタル文化空間
    ・資本と国家の共同作業
    ・プラットフォーマーによって助長される敵対要因
    ・[補遺]市場の匿名性を市場が奪う
5-2 コミュニケーション労働と非知覚過程
    ・コミュニケーション労働の形式的包摂から実質的包摂へ
    ・コミュニケーション労働とデータ化する「私」
    ・デバイスとアプリと身体性
    ・自転車に乗るロボット
    ・非知覚の基本的な構造
    ・隠された過程と非知覚過程
5-3 資本と国家による意識の実質的包摂――資本主義のユートピア、私たちのディストピア
    ・さらにその奥にあるフロンティアとしての無意識
    ・非合理性という問いと社会の構造的一貫性

(AngryWorkers)ウクライナの革命的労働者戦線(RFU)の仲間とのインタビュー

(訳者解説) 以下は、ドイツで開催された集会にオンラインで参加したウクライナのマルクス・レーニン主義のグループ、革命的労働者戦線(RFU)へのインタビューと質疑をAngry Workersのサイトの英語から訳したもの。もともとは、ドイツのRevolutionare Perspektiveの仲間たちが企画した会議の模様を文字起ししたものだ。私はこのRFUというグループについてはウエッブで公開されている情報以上のものはもっていない。訳した理由は、ウクライナで明確にマルクス・レーニン主義を標榜して活動するグループを知らなかったからでもある。RFUは2019年に結成されたばかりの新しい組織だ。ウエッブの紹介ではマルクス主義の普及と将来の労働者の党の建設を目指しており、社会的・経済的平等、賃労働者の権利、進歩的な社会を目指すとあり、ある意味でひじょうにオーソドックスな左翼組織だ。ここに訳出したのは、彼らが、ロシアとウクライナの戦争を「帝国主義戦争」と位置づけて、ロシアにもウクライナにも与しないことを明言していること、特にウクライナ国内で明確に自国政権の戦争を批判する活動に取り組んでいるのは、「脱共産主義化」をめざす――これはロシアと共通している――ウクライナではかなり困難な立場だが、もともとマルクス主義の原則からいえば、プロレタリアートには祖国はなく帝国主義に対峙する立場を明確にすれば、RFUのようなスタンスになるだろうと思う。私はマルクスを含めてマルクス主義の系譜に多くを負ってはいても、それだけではないので、私自身の考え方とは違うところもある。また。私は、戦争への反対についても、帝国主義戦争を含むあらゆる戦争=暴力による解放とは異なる解放の回路を模索したいと思っているので、彼らの問題意識とは異なるところもあるのではないかと思う。とはいえ、ウクライナの労働者階級あるいはプロレタリアートも一枚岩ではなく、戦争に対しても多様な主張があることを知ってもらう上でも参考になると考えて訳出した。

Junge Weltによれば、開戦1年目にあたる2月下旬に、ドイツのローザ・ルクセンブルク財団は、ドイツにいるウクライナのアナキストのセルゲイ・モウツシャンと雑誌『コモンズ』の編集者オクサナ・ドゥチャクを招いての集会を企画しているという。二人ともこの戦争をロシアに対するウクライナ独立の民族闘争と位置づけてウクライナ軍への支援を呼びかけている。ウクライナでは左翼、アナキスト、労働組合、中産階級、極右が渾然一体となって最前線にいるという。ドイツの左翼も上述のローザルクエンブルク財団などがウクライナ支援の立場をとり、以下に訳出した集会を企画したRevolutionare Perspektiveなどはロシアにもウクライナにも与しない立場をとり、対立がはっきりしている。日本も同様なので、情勢認識や世界理解の根源的な立ち位置がどこに暮していても問われる事態になっている。戦争が身近な状況になればなるほど、戦争を招き寄せるグローバルな国家と資本の磁場から非戦や絶対平和主義によって身を引き剥がすことを目的意識的に追求することがますます重要な課題になっていると思う。(小倉利丸)

2023 年 3 月 5 日

AngryWorkersによるイントロ。

2023年2月21日にベルリンでRevolutionare Perspektiveの仲間たちが企画したこの会議の音声記録を書き起こし、翻訳した。私たちはRFUについてはほとんど知らない。彼らがマルクス・レーニン主義者であると自称していることから、政治組織の役割に関しては、私たちとは異なる意見を持っているかもしれない。しかし、このインタビューは、ウクライナにおいて、どちらの陣営を支持することも拒む戦争に対する抵抗があることを示していると私たちは考えている。「当初は社会排外主義的な立場だったにもかかわらず、前線に出たことで自分の立場を考え直した友人もいる」と書かれているのは、心強いことだ。この地域の仲間たちは、ロシアであれウクライナであれ、「国益を守れ」という声が主流となる中で、その流れに逆らって立ち上がるという難しい課題を抱えている。このインタビューは、あらゆる困難にもかかわらず、国際主義的な階級闘争に基づいて介入する機会を見出そうとする仲間たちがいることを示すものである。

Revolutionaere Perspektive(ベルリン)によるイントロ

今日のテーマは、戦争に関するウクライナの左翼の立場です。昨年の2月24日、ロシアによるウクライナへの攻撃が始まりました。それ以来、双方で何千人もの兵士や民間人が殺されています。これは権力、勢力圏、資源をめぐる帝国主義戦争です。ウクライナは、ロシア、米国、EUの大国が関心を抱く国です。NATOはウクライナにこれまで以上の重火器を供給し、代理戦争を行っています。左翼の戦争に対する立場は、ここドイツだけでなく、ウクライナでも矛盾したものになっています。今日は、ロシアの攻撃的な戦争とウクライナ政府・NATOの両方に反対するマルクス主義組織「革命的労働者戦線(RFU)」の仲間を招待しました。彼らは首尾一貫した階級的立場をとり、民間人への支援を組織しています。

(…)

RFUからDimitriとRomanoを迎えました。あなた方の組織について教えてください。いつ設立されたのか、何をやっているのか、政治的な目標は何なのでしょうか。

RFUはマルクス・レーニン主義の組織で、2019年末に学校と大学生のTelegramチャンネルで結成されました。2020年、パンデミック中に、現在の形の組織を構成しました。2020年から2021年にかけて、私たちはYouTubeチャンネルとウェブサイトを立ち上げ、多くの政治イベントを開催し、より多くの人々を結集しました。戦争が始まる直前には、ハリコフで団体交渉問題に関連した抗議活動を行い、右翼の参加を阻止しました。戦争が始まった2022年には、多くの民衆がより政治的になり、教育的なイベントを企画したり、労働組合を支援したりする機会が生まれました。私たちは、主に労働者や学生のための法律相談を通じて、民間人を支援するようになりましたが、兵士のための相談も行っています。マルクス・レーニン主義の党を作ることが主な任務だと考えています。

現在のウクライナ戦争の主な理由は何だと考えていますか?

ウクライナの領土で行われている帝国主義戦争です。ウクライナに武器を提供するNATOによる戦争です。NATO諸国は勢力圏を拡大したいし、ロシアは影響力を失いたくない。経済的、政治的な理由もあります。ロシアはNATOの拡大を望んでいませんでしたが、戦争によってNATOの拡大がスカンジナビア諸国の加盟によって加速されただけだったということがわかります。領土に関しては、クリミアはロシア連邦の黒海海軍が駐留しているため、大きな重要性を持っています。そのため、クリミアは直ちに併合され、ドンバスの他の地域は二の次になりましたが、これが戦争が長引いた理由です。2014年以降、西側諸国はこの地域に武器を供給し、ロシアは輸入代替品を探しながら経済的に戦争に備えました。もしロシアが戦争に勝てば、労働力と資源の大きな市場、資本を蓄積するための領土を手に入れることができ、西側を弱体化させることができます。また、ウクライナは西側の兵器のテストケースであることが明らかになりました。

戦争が始まってから、労働者階級はどのような状況で、どのような権利の攻撃に遭っているのでしょうか。

戦争が始まって以来、労働者の権利は常に侵害され、状況は悪化しています。例えば、ストライキは禁止され、労働者は抵抗する権利もなく賃金を下げられ、解雇も容易になり、労働組合の活動も抑制されています。ウクライナでは高水準のインフレにもかかわらず、賃上げが行われていません。労働組合の残党たちは、使用者の利益のために活動しています。船員の労働組合が抗議したこともありましたが、すぐに阻止されました。失業率の高さも大きな問題で、現在、その割合は30%に達しています。人々は、どんなに条件が悪くても、どんな仕事でも続けたい、受けたいと願っています。また、仕事中に軍事攻撃を受けるリスクも高くなっています。例えば、ショッピングモールが砲撃され、従業員が爆撃から隠れるために退去するのが間に合わず、多くの従業員が被弾してしまいました。

ウクライナ防衛を支持する発言をするアナーキストグループなどの立場についてはどう思われますか?ウクライナの左派のさまざまなセグメントの立場はどうなっているのでしょうか?皆さんは誰と連携しているのでしょうか?    

RFUは最大のマルクス・レーニン主義者のグループです。Social Movementのように、社会排外主義の立場をとり、右翼と協力し、ウクライナ政府を支持する組織もあります。私たちはウクライナに多くの同志はいませんが、ヨーロッパの他の地域の人たちとの協力があります。アナーキストは奇妙な立場を採用し、戦争開始時からウクライナ政府を支持し、政府の味方につくことで労働者階級を裏切りました。また、ウクライナのアナーキストが政治的に独立していないことも示しています。当初は社会排外主義的な立場でしたが、前線に出たことで、自分の立場を見直した友人もいますので、今後、彼らと協力できることを望んでいます。

戦争を止める、あるいは戦争を終わらせるために、どのような可能性を見出していますか?     

難しい質問ですね。どちらが戦争に勝つかを判断するのは難しい。ウクライナ軍は、例えばケルソンで、直面している大軍に対していくつかの戦いに勝利しています。しかし、ロシア軍は失った領土を取り戻そうとするでしょう。ウクライナ軍は、武器の供給が続く限り、自衛を続けるでしょう。この点で、ウクライナは完全に西側に依存しています。ウクライナで人々が戦い、死んでいく限り、戦争は続くことになるでしょう。これは、どちらの資源が最後まで持つかという消耗戦のようでもあり、現状では膠着状態です。

ウクライナ兵の脱走はいますか、また、どの程度いるのでしょうか。

西側からの支援にもかかわらず、前線の状況はひどく、損失も大きいので、多くの脱走兵がいます。結局、労働者のために何もせず、むしろ彼らの状況を悪化させる国家のために死にたいと思う人はそれほど多くはないのです。国会議員や外国語を学ぶ学生は軍隊への徴兵が免除さ れますが、それでも出国は禁止されています。多くの人が書類を偽造して、自分はボランティアや介護者だから兵役は免除されると証明しようとします。徒歩で出国しようとする人たちも多い。ゼレンスキーは「誰でも自由に出国できる」と言いますが、それは本当ではありません。私たちの知人にも前線にいた者がおり、なかでもドンバスの将校は、追跡が難しいので脱走は比較的簡単だと言っていました。もちろん、政府はそのようなことは言いません。脱走や軍の上官の命令に従わないことを厳しく罰する新法もあり、人々の間では戦意が急速に低下しています。裁判所は今、より軽い判決を下すことを禁じられています。

ドンバスのいわゆる人民共和国は、マイダン2014の後に独立を宣言し、現在は併合されていますが、どのように理解されているのでしょうか?

左派の人々の中には、ドンバスの共和国は何らかの意味で進歩的で、住民の利益になると考えている人もいますが、そうではありません。これらの共和国は極めて親ロシア的で、ロシア連邦の傀儡です。マイダンの反動で設立されましたが、人民共和国と呼ぶのは間違いです。なぜなら、その設立は民衆とはほとんど関係がなく、ロシアに利用されているだけだからです。ロシアにとっては、安い労働力を得るためのもう一つの市場なのです。共和国が併合されて以来、ロシアは共和国に投資しています。しかし、ロシアは共和国を戦争行為のための実験場としても使っています。共和国が設立された当初は、左翼の人々が参加していましたが、共和国の政府は、進歩的な思想が広まるのを阻止し、ロシア帝国主義の利益のために行動するためにあらゆる手段を講じています。真の左翼は、帝国主義者の経済的基盤や政治的立場に反対し、帝国主義者に協力することはないでしょう。共和国の左翼活動家の中には、刑務所に入ることになった者もいれば、失踪した者もいれば、殺された者もいます。共産党は禁止されました。これは、共和国が反動的に行動していることを示しています。ロシア国家は、ドンバスにはロシア人しか住んでいない、それがプーチンのイデオロギーだ、ウクライナは独立国家ではない、と言っています。しかし、ドンバスにウクライナ人がいないと言うのは間違いです。この地域は民族的に多様で、ロシア人もウクライナ人も大きなシェアを占めていますが、多くはロシア語を話します。統計上、2001年のドンバスの人口の65%はウクライナ人でした。傀儡共和国が設立されて以来、ウクライナ語は公式に排除され、学校からも、文学からも排除されました。共和国には独立性がなく、政府は排外主義的な立場をとり、ロシアのオリガルヒの手によって機能しています。

では、会場からの質問を受け付けます。-

みなさんが行っている活動は、彼らの立場を考えれば、非常に危険であることは明らかです。プーチンは脱ナチスについて語っていますが、言いかえれば、ウクライナ国家内の極右の影響力をあなたたちはどのように見ていますか?  

プーチンは、戦争によってウクライナのナショナリズムを根絶したいと言いました。しかし、事態は悪化するばかりで、人々の反ロシア的な立場が強化されたことを示しています。また、政府も変わってきています。戦争前は政党が分立しているという意味で、普通のブルジョア民主主義でしたが、いざ戦争が始まると、政府の公式路線を支持しない好ましくない人々はすべて職を追われました。ゼレンスキーを中心に、新しいナショナリズムを象徴する一党独裁体制が形成されました。戦争が始まってから、アゾフのような軍事右翼を中心に、ナショナリストの組織が強くなってきました。良い点は、こう言ってはなんですが、彼らが前線で自滅することです。実権を握っているのはゼレンスキーですから、右翼の国家との同盟関係はむしろ不安定です。右翼が影響力を持ちすぎると緊張が高まる可能性があり、ゼレンスキーはそれを防ごうとするでしょう。戦争で右翼に走る民衆が増えましたが、これは長くは続かないだろうと思われます。民衆はイデオロギー的に右翼的ではありません。右翼への支持は、戦争中の恐怖に基づく文化的な現象に過ぎないのです。      

コミュニストとして私たちは、労働者は銃を自分たちの支配者に向けなければならないと言います。NATOとの戦争でロシアを支持するコミュニスト運動の一部は、私たちを左翼急進主義だと非難しています。若い組織であるあなたたちにとって、現在の状況において「銃を向ける」ことが何を意味するのか、教えていただきたい。あなた方の課題は何でしょうか?弾圧に直面しているのでしょうか?

今のところ、大衆は政治活動に参加することができません。左翼的な立場の幅を広げる機会もわずかしかありません。ウクライナでもロシアでも、国家からの弾圧の可能性に直面しています。私たちは非公然で活動しなければなりません。もし情報機関が私たちの身元を知ったら、殺されることはないかもしれませんが――その可能性もあるかもしれませんが――自由を失うことになるでしょう。Social Movementという組織は、今でも公然と活動していますが、情報機関に監視されています。現在の状況を革命的な状況に変えることはできませんが、私たちは、人々の中で、特に兵士たちに呼びかけることに全力を尽くしています。前線ではリスクが大きいので、限られた範囲でしかできませんが、兵士や将校の友人と連絡を取っているので可能です。残酷な状況そのものが、多くの兵士の考えを変えています。

ウクライナでNATOとロシア帝国主義の両方に反対するあなた方のような組織が存在することは素晴らしいことだ、とまず申し上げたい。戦争に反対する世界的な運動を構築するために必要なことです。そこで、あなたは西側帝国主義国家の私たちに何を期待しているのでしょうか。ドイツやロシアの国家に協力しないと言うだけでは、政治的受動性にすぎません。レーニン主義者は、侵略から準植民地を守ると同時に、二つの帝国主義陣営間の戦争では、自陣営の敗北を支持しなければならないでしょう。  

RFUは、海外の同志と協力したいと考えています。私たちの同志の中には、ドイツに住んでいる者もおり、彼らも支援を必要としています。私たちは、ヨーロッパにいるウクライナからの難民との活動を広げたいと考えており、そのためには支援が必要です。しかし主にマルクス主義者は、自国のブルジョアジーを攻撃する闘争組織を構築し、国際的に他の組織と協力する必要があります。

ソ連崩壊後、ウクライナ国家が行った「脱共産化」の試みと、現在の「脱ロシア化」の取り組みとの関係をどう考えているのでしょうか。ある意味、これは階級的な問題を民族的な問題に変えようとする試みですね。

現政権は、ロシアとウクライナの共通の歴史、両国が同じ国の一部であったことを否定しています。この傾向は2014年以降悪化し、ウクライナに蔓延するヒステリックな状態を維持し、民衆を最後までウクライナ国家のために戦わせるためには、こうした物語が必要なのです。例えば、歴史を書き換えるために、多くの通りやモニュメントが改名されています。ソビエトやコミュニストの文献を持っているところを目撃されれば、警察問題に直面します。

ウクライナの人々の間には、戦争を終わらせるために国の東部を放棄する意思があるのでしょうか。民衆はそのような立場を表明し、公に議論することができるのでしょうか。

そのような立場があるとすれば、少数派に限られるので、私たちはこうした立場には出会うことはありません。ほとんどの民衆は、すべての領土を取り戻すまで戦争を続けることを望んでいます。平和を主張する立場は少数派です。

Social Movementという組織について詳しく教えてください。彼らについてはドイツの改革派と急進派左翼の両方が宣伝しており、Rosa Luxemburg Foundationは、ドイツの左翼にNATOの立場を支持するために彼らを利用しています。

戦争以前から、この組織は革命的な戦略に従っておらず、ただ漠然と「労働者の利益を支持する」と述べているだけだったのです。彼らは主に法的助言を提供しています。彼らは、海外の左翼組織と協力していることで知られています。これらは通常、マルクス・レーニン主義組織ではりません。彼らは、ウクライナ政府は民族解放の戦争を戦っているのだから支援しなければならないと言っています。現在、彼らは地域の労働者に対してそれほど大きな支援はしていません。私たちはむしろこうした点で更なる活動をしています。

ロシアのグループとコンタクトがあるようですが、政治的に近いのはどのグループですか?また、ウクライナのどこで活動しているのか、安全保障上の懸念があるなかで、教えていただければと思います。

主にRussian Workers Front(ロシア労働者戦線)と接触しています。ロシアには多くの左翼組織がありますが、協力し合えるような良い立場にあるものは限られています。ウクライナ全土に同志がおり、併合地域を除いたすべての大都市にグループがあります。

「銃を向ける」という疑問に戻りますが、革命的な状況のための党建設の具体的な手順は何ですか?

私たちは、人々の間で高まっている不満や、自分たちが犠牲になっていると感じている兵士たちと関係を持とうとしています。これにはロシアの同志の支援が必要です。それ以外では、教育活動を続け、労働者が独立した組合を作るのを支援しようと努めています。この活動が共産党の結成に役立つことを期待しています。私たちは、労働者とそのストライキや抗議行動を支援できるように、オフラインの活動に重点を置いています。

西側からの武器供給を止めることで、ウクライナ政府を和平交渉に参加させるチャンスはあるとお考えですか?

ウクライナ政府が交渉に応じるとは考えていません。あなた方にできることは、ウクライナ政府に対する闘いを続けることです。武器供給を止められるかもしれない他の国際組織は、現状ではあまりにも弱すぎます。

ブラックメタルの未来に爆弾を落とす。Black Metal Rainbowsをめぐる対話

(訳者前書き)ブラック・メタルはネオ・フォークやノイズとともに、極右、ネオファシストの傾向をもつ文化に侵食される傾向が大きいとみなされることが多いジャンルだが――もちろんこれらのジャンルそれ自体が右翼だということは意味しない――、こうした傾向にシーンの内部から異議申し立てし、反ファシズムの音楽表現としてのブラック・メタルを真正面にかかげた本とコンピレーション、Black Metal Rainbows(e-bookなら8ドル95セント)が登場したことは嬉しい。Rainbowsとあるように、本書は、単なる反ファシズム大衆文化の表明だけでなく、LGBTQ+への強い連帯意識をもって編集されている。

ネオナチや極右にとって、文化戦争は主戦場のひとつだ。とくに大衆音楽は若者をライブイベントや政治集会に動員するための格好の手段として利用されてもきたし、極右の政治傾向をもつアーティストたちがこうした動きと連携する動きがあった。日本のように大衆音楽が脱政治化されることによって保守的なイデオロギーを支える環境のなかで、往々にして、サブカルチャーのなかにある良識や道徳や建前の正しさを嫌悪する感情が極右サブカルへの脇の甘い同調や、ネオナチやレイシズム、セクシズムを深刻なサブカルチャにおける反動・反革命の政治的なモチーフだとは把えずに、表象のかっこよさ――文化表現では重要な要素だ――やファッションとして許容する傾向があるのではと危惧することがある。私はデスメタルやブラックメタルなどのジャンルに詳しいわけではないが、最近の東欧や北欧の極右の浸透とメタルのバンドやファンの動向を気にかけてきた者としては、本書はとても刺激的だ。翻訳がでることを切に願っている。

日本のようにサブカルチャの反支配的文化や反体制のスタイルだけを模倣することを可能にするような場所では想像しづらいが、音楽はそもそもが政治的な表現としても位置づけられてきた多くの国や地域では、音楽文化そもののが闘争領域であり、何を聴くのかは、それ自体が政治的な態度表明にもなる。

私がこの本について知ったのは一昨年ころだと思う。たまたまPMプレスのサイトで予告がでていて、これは買いたいと思って予約したが、刊行年がたぶん1年くらい遅くなったと思う。しかし、本書と同時に出されたコンピレーションは130曲も収録されていて、値段は自分で決める(Bandcampのサイトではよくある手法だ)。ともかくも、130ものバンドが反ファシズムのブラックメタルの企画に賛同して集まったことだけでも快挙だと思う。以下は、以前紹介したAnti Fascist Neo-Folkのサイトに掲載されていたこの本の編集者へのインタビューの翻訳です。(小倉利丸)

ブラックメタルの未来に爆弾を落とす。Black Metal Rainbowsをめぐる対話

Black Metal Rainbowsのことを初めて知ったのは、数年前、彼らが本の資金調達のためにKickstarterキャンペーンを行ったときでした。この本は、ブラックメタルに関する文章のアンソロジーで、ブラックメタルシーンについて、明らかに反ファシズム、反人種差別、ラディカル、そしておそらく最も重要なのは、クィアであるという主張をしている。ブラックメタルは、極右やネオナチのアーティストやファンによって、しばしば汚されてきたという事実にもかかわらず(ネオフォークと同じように)、大規模な反ファシズム運動が勃興し、このジャンルの中心である創造的爆発を左側に引き戻している。

この本はPM Pressから発売され、 Margaret KilljoyやKim Kellyのような人々の素晴らしい寄稿や、美的感覚を超えた過激なアートワークが掲載されている。Black Metal Rainbowsは、ある意味、私たちがやろうとしているプロジェクトのブラックメタル版であり、最も争いの多いジャンルを取り戻しつつある反体制的な声にスポットを当てたものだ。この本の編集者の一人であるDaniel Lukesに、この本の意図、どのようにまとまったか、そして Black Metal と極右の介入主義を経験したすべての「エクストリーム」ジャンルの未来のために闘うことについて話を聞いた。

1: この本のアイデアはどこから来て、何が書かれているのでしょうか?

Black Metal RainbowsProjectは、2002年にイギリスのバンドAkercockeがロンドンで開催した大晦日パーティーを基にした夢として始まりました。

ブラックメタルがパーティーだったらどうだろうというのが、そこから得たアイデアです。そのイベントから何年も経った頃、夢の中で、夕暮れの地中海の丘の上にブラックメタラーが集まっているイメージがあり、グローバルなコミュニティとしてのブラックメタルのイメージが私の中に残りました。その最初のイテレーションが、2015年にダブリンのギャラリーXで開催された「Black Metal Theory Symposium」Coloring The Blackで、ブラックメタル理論という「パラ学術」分野にクィアアップして色をつけることを目的としたものでした。このシンポジウムでは、Drew Daniel (of Matmos/The Soft Pink Truth)が論文「Putting the Fag Back in Sarcofago」をcorpsepaintで読むという印象的な投稿や、「Lord of the Logos」によるcolour-the-logoコンテストなどが行われました。RihannaのロゴをデザインしたばかりのChristophe Spazjdelや、ナチスからの反発(と殺害予告)をたくさん受けた私たち。つまり、いい時代だったのです。

一息ついたら、次はそのエネルギーを一冊の本にまとめようということになりました。2017年に始まり、2023年1月にようやく出版された私たちの本『Black Metal Rainbows』には、エッセイと暴言、マニフェストと告白、グリッターとゴア、アートワークとコミック、デザインと危険性が書かれています。それはブラックメタルへのラブレターであり、ブラックメタルナチスへのファックユーであり、シーンの門番やブラックメタルがどうあるべきかについての退屈で古臭い考えを支持することに従事している人たちに対する中指を立てたものです。ブラックメタルとは、喜び、爽快感、自由、コミュニティ、愛であり、ステレオタイプが信じさせるよりも、はるかに多くのものがあります。そしてBlack Metal Rainbowsは、ブラックメタルの他の次元を祝福するものです。

2: 人々がブラックメタルを誤解しているのはどうしてだと思いますか?

必ずしもいつも間違っているわけではないと思います。ブラックメタルは極端な芸術であるため、その最も極端な要素で知られています。それは、重苦しく凍えるようなシナリオを好むことであったり、悲しいことに、最近ではナチスとの関係であったりします。私たちや他の多くの人々は、ブラックメタルをファシストや保守的な芸術様式に変えようとすることによって、このジャンルを軽蔑し制限しようとする人々と闘い、奪い返すべきものだと考えています。1990年代に育った私は、John Majorと灰色の冴えないToriesが、私の好きなブラックメタルアーティストたちと同じ側にいるなんて、決して信じなかったでしょう。ブラックメタルは宇宙を旅するような大きな夢を描いているのに、その実践者たちの中には、深い偏狭さを露呈している人がいるのですから。ブラックメタル・レインボウは、ブラックメタルが多面性を持っていることを示す試みです。派手で華やかであることもあれば、抑圧や不幸に対するツールであることもあり、コミュニティやケアであることもあるのです。

3: ブラックメタルの新しい過激な世界が出現していますが、どう違うのでしょうか?また、どのようなバンドがその道をリードしているのでしょうか?

メタルのクィアネスは常にそこにあり、ブラックメタルも同様です。 とはいえ、トランス、クィア、左翼、反ファシストのアーティストによって明示的かつ公然と作られたエクストリーム・メタルやブラックメタルの新しい波があるのは確かです。Vile CreatureのKW Campolがこの本の紹介文で言っているように、「ブラックメタルは究極のアウトサイダー音楽ジャンルであり、私たちクィアや変人がその不毛の地に家を建てることは理にかなっている。Black Metal Rainbowsは、ブラックメタルが織り成す強力な反抑圧的バックボーンを記録した、必要なアンソロジーである。

今日のバンドが他と違うのは、今、利害関係があまりにも激しいので、多くのアーティストにとって、政治的なことに口を挟むという選択肢はない、という感覚だと思います。世界的にファシズムが台頭し、資本主義が地球を焼き尽くし、国家権力がトランスやクィアの人々を新たな方法で抑圧し、マイノリティや貧しい人々に対する警察の残虐行為が野放しにされ続けています:未来は暗く、激動に満ちていることでしょう。事態は良くなる前に確実に悪化しているのです。ブラック・サバスの「War Pigs」以降、メタルは常に政治的であり続けてきましたが、数十年間は竜や 妖精の後ろに少し隠れすぎていました。特にブラックメタルは、そのよく知られたナチス問題から、脱/再領土化のための肥沃な土地です。ファシストから取り戻す必要があり、その闘いに従事している多くの素晴らしく勇敢なアーティストがいます。

ブラックメタルやそれ以外のバンドで、今日私が好きなバンドをいくつか紹介します。Penance StareGelassenheitBiesyDivide and DissolveEntheosBackxwashBody Void

4: この本に掲載されている多様な文章について、どのような内容のものがあるのか、少し教えてください。

高度な学術論文から個人的なエッセイ、ジャーナリスティックなものまで、多くの種類の文章を求めました。中でも、Joseph Russoがテキサスについて書いた「Queer Rot」という奇妙で楽しい理論・フィクションは、ブラックメタルを聴くことで得られるトランス状態のような効果を反映した、あるいは模倣したような文章になっているのが特徴です。音楽における悪の性質に関するいくつかの作品(Langdon Hickmanの「The Dialectical Satan」やEugene S. Robinsonの「When Evil Comes A’Calling」など)、Jasmine Hazel Shadrackによる魔術の実践としてのブラックメタルに関するエッセイ(「Malefica」)があります。また、Margaret Killjoyによる “You Don’t Win a Culture War by Giving Up Ground “と題された熱烈なマニフェストも掲載されています。私たちにとって重要だったのは、さまざまな声をさまざまなスタイルで紹介することでした。アートは、ブラックメタルの特徴的なビジュアル要素であるコープスペイントに始まり、ブラックメタルのさまざまなビジュアルの顔を示しています。デザインも重要な要素で、暗闇から虹を浮かび上がらせ、またグリッチな未来的シナリオを先取りしています。私は1990年代のモダニズム・ブラックメタルの大ファンで、エレクトロニカやインダストリアルと多くの融合を行い、今、大きく復活しつつあります。この本には、誰もが楽しめるものがあることを願っています。

5: ブラックメタルのようなサブカルチャーは、極右との闘いや ラディカルな空間の構築において、どのような役割を果たすとお考えですか?

ブラックメタルは極右の過激化のための勧誘の場ですから、もちろんその領域で闘うことは必要です。特に東欧に強い極右や親ナチのブラックメタルシーンがあるだけでなく、問題を両論併記し、無政治を主張し、反ファとファシストを同じように呼ぶ中道派のエッジロードがたくさんいる。私たちはこれをデタラメと呼び、Black Metal Rainbowsは、反ファシストとクィアブラックメタルのシーン構築で行われている活動に光を当てる私たちの方法である。反ファシズムのエクストリーム・メタルの世界的なネットワークは拡大しており、Antifascist Black Metal Network彼らのYouTubeもチェック)やRABM Redditのようなコミュニティはその証拠である。

6: ラディカルなブラックメタルファンは、どのようにして他のコミュニティと橋渡しをすることができますか?

クィアやトランスの文化は、主流メディアでは、ふわふわした、安全な、ポップな(あるいは「テンダークィア」)ものとして認識されることがあります。しかし、表面下に潜るとすぐに、ホラー小説、視覚芸術、過激な音楽など、多くの暗いサブカルチャーにクィア、トランス、左派が大きく投資していることが分かります。グレッチェン・フェルカー=マーティンの『マンハント』は昨年大きな話題となり、クィアやトランスのホラー小説は増加傾向にある。David Cronenbergの『Crimes of the Future』は、そのボディホラーのクィアネスが広く評価されましたが、これは彼のキャリア全般を振り返ったときに見えてくるものです。私たちの小さな方法ではありますが、『Black Metal Rainbows』は、クィアと左翼の政治と美学を結びつける空間を作り、シスである白人男性が、忌まわしく、醜く、暴力的な芸術を作ることにヘゲモニーを持っていないという事実に光を当てようとするものなのです。Black Metal Rainbowsの資料がクィアなスペースに出現したという報告を聞くのは素晴らしいことです。しかし、メタルスペースがよりクィア、女性、マイノリティに優しくなることは、間違いなくこのプロジェクトが目指すものです。

メタルシーンを超えた橋渡しという点では、ファンは、自分が夢中になっているアーティストがサポートし、宣伝している団体をフォローアップし、つながることができます。例えば、非営利のレコードレーベルFood Desert Recordings、「匿名過激派音楽集団」Non Serviam、動物愛護支援レーベルFiadh Productions、左翼革命的レコードレーベルRed Nebulaなど、この旅で出会ったエクストリームメタル関連の左翼やアナキストのイニシアチブ、レーベル、プロジェクトはとても素晴らしいものがたくさんあります。Bill Peelの近刊『Tonight It’s A World We Bury: Black Metal, Red Politics』は、ブラックメタルが資本主義を破壊するための道具として使えるという素晴らしい主張をしています。ブラックメタルがプロテスト・ミュージックとして生まれ変わるなんて、誰が想像できただろう?だから、お気に入りのブラックメタルアーティストの曲をかけ、自分の闘いを見つけ、戦術と安全性について下調べをし、それを実行に移すのです!」。

7: この本と一緒に発売されるアルバムについて教えてください。何が入っていて、どんなメリットがあるのでしょうか?

Black Metal Rainbowsコンピレーションアルバムは2022年の夏にまとまりましたが、こんなに大きくなるとは思ってもいませんでした。130曲、11時間以上の音楽、100人以上のアンダーグラウンド、ブラックメタル、ノイズ、エレクトロニックアーティストがLGBTQの若者を支援するために集結した。リリースと同時にBandcampのベストセラー第2位(The Mountain Goatsに次ぐ!)を記録し、2023年1月にはLGBTQの若者を支援するチャリティーのために10Kドル以上の資金を集めました。Trevor Project、Mermaids、Minus 18、The International Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender, Queer and Intersex (LGBTQI) Youth & Student Organisationなどです。ブラックメタルが中心ではありますが、このアルバムには、ブラック化したグラインドから壮大なブラックメタル、ブラックゲイズからダンジョンシンセ、ノイズからアヴァンギャルドまで、実にさまざまな音楽スタイルが収録されています。RABM(Red and Anarchist Black Metal)は基本的に黒化したグラインドコアだという先入観がありますが、このコンピレーションを作ることは、左翼BMや関連するジャンルの幅広い創造性を見るという意味で、大きな学びとなりました。アナーキスト・ポストブラック・メタル?コミュニストの鬱屈した自殺的ブラックメタル(DSBM)?社会主義的なダンジョンシンセ?探せばきっと見つかるはずです。

このコンピのハイライトは、Caïnaのトラック「Take Me Away From All This Death」のDepeche Mode風のリミックス、Darkthroneの「Transylvanian Hunger」のサーフロックのカバー、ジャパノイズの大家Merzbowのブラックメタル風のトラック、トロール、カボチャ、コウモリ、ヘビがいるゴブリン風の気味の悪いダンジョンシンセがたくさん入っています。また、モントリオール在住のアーティスト、Wesley Cunningham Clossによる素晴らしいカバーアートも特筆すべきもので、彼は屍体ペイント、虹、トップサージャリーの傷跡を組み合わせた見事で力強いイメージを作り上げています。


また、今週末からニューヨークで開催されるリリースコンサート(Imperial Triumphant、Couch Slutなどが出演)とオープニングブックイベントにぜひ参加してみてください!Black Metal Rainbowsのコンピレーションアルバムは、Bandcampから入手できます。

Black Metal Rainbows: A conversation with co-editors Stanimir Panayatov and Daniel Lukes (and Ravenna Hunt-Hendrix of Liturgy).

Center for Place, Culture and Politics, The Graduate Center

City University of New York

Room 6107

10 Feb, Friday, 4:30 PM

365 Fifth Ave New York, NYC 10016

Click Here to RSVP

Black Metal Rainbows: Book Launch and Panel Discussion

Housing Works Bookstore

11 Feb, Saturday, 5-7pm

126 Crosby St, NYC 10012

Click Here to RSVP

Black Metal Rainbows Book Release Show: Imperial Triumphant, Couch Slut, Sunrot, Diva Karr, Greyfleshtethered

St. Vitus Bar

12 Feb, Sunday, 7pm

1120 Manhattan Ave, Brooklyn, NYC 11222

Click Here for Tickets

出典:https://antifascistneofolk.com/2023/02/11/dropping-a-bomb-on-black-metals-future-a-conversation-on-black-metal-rainbows/

戦争放棄のラディカリズムへ――ウクライナでの戦争1年目に考える戦争を拒否する権利と「人類前史」の終らせ方について

Table of Contents

1. ウクライナ戦争の影響

日本の主な平和運動がロシアの侵略とウクライナの抵抗から受け取った教訓は、戦争放棄の徹底ではなく、侵略を阻止するための自衛のための戦力は必要だ、という観点だ。この観点は、憲法9条の改憲に反対する多くの平和運動の側が、自衛隊を専守防衛であれば合憲とみなす憲法解釈を支持してきた経緯の延長線上にあり、その意味では目新しいものではない。かつて反戦運動のなかで無視しえない有力な主張として存在していた非武装中立論が主流の平和運動ではもはや主張されることがなくなってしまった経緯や、更にもっと遡って、憲法制定当時の与党の憲法解釈がそもそも武力による自衛権を違憲とする解釈をとってきたにもかかわらず1、自衛隊の創設とともに、こうした議論はもはやとうの昔に、保守派のなかでは見出されなくなった。おなじ条文がこれほど真逆な解釈を可能にしているのは、憲法というテクストの解釈それ自体が唯一絶対に正しい解釈を獲得できず、常に権力者が――政府、裁判所、有力なアカデミズム――解釈の主導権を握ってきたことの証明でもある。この意味で日本は、法の支配の下にあるのではなく、法を超越する権力によって支配された社会なのだ。他方で反戦平和運動は、自衛隊が自明の存在になり、その廃止などは非現実的な要求であるとして要求項目にすら入らなくなるになるにつれて、戦争放棄は、ひとつの建前あるいは立場表明のための単なるスローガンとなっている。理念や理想を現実の世界に持ち込むことよりも、理念なきリアリズムの政治――選挙の得票数に還元される政治であり、この数字こそが政権を獲得する唯一の手段だとする政治――の罠に置い陥ってきたようにおもう。これで戦争に反対できるのだろうか。いかなる事態に陥ろうとも戦争という手段をとらない、という断固とした決意をどうしたら取り戻せるのだろうか。

2. 防衛予算は「ゼロ回答」以外に選択の余地はない

先制攻撃や敵基地攻撃能力の保有に反対することが現在の反戦平和運動の主要な関心であることに私も同意するし理解できるが、他方で、この主張と表裏一体をなすようにして、専守防衛であれば戦力を保持せずに武力による威嚇にもならずに9条の戦争放棄条項に抵触しないという含意があるのが一般的かもしれない。自衛隊の存在それ自体を容認した上での先制攻撃や敵基地攻撃能力保有反対は、私とは相容れない主張になる。自衛隊それ自体の是非を論じることを回避して、自衛隊の存在を暗黙の上で肯定して防衛予算の規模に着目し、GDP2パーセントはケシカランといいつつ1パーセントなら構わないかのような値切交渉に主な関心が移っているようにも思う。だから「軍拡反対」という場合も、自衛隊の専守防衛を容認して、ここからの逸脱としての「軍拡」に反対するのは、そもそも私にとっては受け入れがたい前提になる。自衛であれ先制攻撃であれ、戦車や戦闘機や武器弾薬の使用価値は、人を殺すことにあるから、防衛予算は人殺しの武器を買う予算なのだ。国家予算を使って人殺しの道具を買うべきではない、だから予算などつけるべきではない。防衛予算は「ゼロ回答」以外に選択の余地はない、これが平和主義が出すべき唯一の回答であるべきだ。だから防衛予算2パーセント反対を強調することによる誤解(1.5パーセントならいいのか、といって議論の矮小化)を避けるべきであって、防衛予算を計上するな、という原則を繰り返すべきなのだ。こうしたことが反戦平和運動の側がとるべき原則だと思うが、このような声はなかなか聞かれなくなっている。

そもそも私は、軍事領域で自衛に限定した武力行使で勝利することはまず不可能だとも考えている。戦闘が継続し、長期化すれば自衛と攻撃との区別をつけることはできない。自軍の犠牲を最小化するための攻撃の手段は、多くの場合、空爆やドローン攻撃など非人道的な武器の使用に依存することになる。その先に核の使用がありうることは誰にもわかることだ。

ロシアの武力による侵略は容認できないという点では、反戦平和運動に共通の了解があると思うが、対するウクライナによる武装抵抗やNATOをはじめとする西側の軍事支援については、賛否が分かれていると思う。ウクライナによる武装抵抗を暗黙のうちに支持し、その系論としてNATOや西側による軍事支援についても支持する立場をとる人たちもいる。戦争が長期化し投入される武器を高度化させてでも領土の完全奪還とロシア軍の撤退を譲れない線だとする立場をとる場合、NATOなど外国の兵器供与や軍隊による介入を否定する論理は見出しにくい。他方でNATOや米国のウクライナの戦争に懐疑的あるいは批判的な立場をとるという場合、これまでNATOや米国が繰り返してきた戦争や戦争犯罪からすれば、それ自体としてはまっとうにみえる主張であっても、ロシアによるウクライナへの侵略行為にほとんど言及しないというケースがありうる。たとえば2月19日にワシントンで開かれたRage Against the War Machineという集会ではNATOやCIAの解体やウクライナの戦争に税金を使うな、など10項目の要求を掲げているが、ロシアへの批判はほとんどみられない。2 この集会は、右派が左派の一部を巻き込んである種の反戦平和運動の統一戦線の体裁をとろうとしたもののように見える。私はこうしたスタンスにも懐疑的だ。

私は、プーチン政権の侵略を正当化する理屈を見出すことはできない。他方で侵略の被害者のウクライナの政権や軍部が正義の体現者だと評価することも難しいというのが私の見方だ。私は、暴力を行使した順番とか暴力の残虐さの程度とか、戦争を肯定した上での国際法違反とか、こうした様々な暴力(武力)行使の正当性がありうるという前提には立たない。後に述べるように、問題解決の手段としての暴力の正当性を認めないからだ。他方で、戦争を終結させるための様々な和平の可能性を探ることについても、実はあまり関心がない。和平の問題は権力者たちが正統性のある意思決定の手続きを伴いながら対処することであり、彼らが実際に軍の指揮権をもっている以上、彼らの動向は重要だが、彼らが言葉にする和平や正論にみえるようなメッセージも、近代国民国家の権力構造のなかから権力の力学による政治的な思惑や計算によってはじき出される「答え」であって、おなじ言葉に民衆が込めるであろう意味とは同じにはならない。私のように、政治評論家や政治組織に属さない者にはうまく論じることができない。関心があるのは、むしろ、戦争が継続している今、戦争に背を向けて戦場や戦争当事国から避難しようとする人達や、兵役を忌避したり軍隊から逃亡するなど、様々な手段で戦争に抗う人達だ。

メディアは毎日のように、中国、ロシア、北朝鮮を不条理な侵略者として報じている。人々は、日本をウクライナと重ねあわせて、侵略される恐怖を抱くような感情が形成されている。同様の不安感情は韓国にもいえるために、韓国では核武装論まで登場しはじめているという。こうして、ウクライナの戦争は、地域の人々の間に心理的な分断と敵意を醸成してしまった。他方で、日本がロシア同様、不条理な侵略者となる可能性を秘めていることにはまったく気づいていないように思う。日清、日露の戦争から1945年に終結した戦争まで、日本の戦争は常に、自衛を口実とした先制攻撃と侵略だったことを皆忘れてしまったようだ。だから、この国で専守防衛と敵基地攻撃の差を議論することにはあまり意味がない。国家の防衛という観点で領土や権益を推しはかろうとする地政学イデオロギーが突出する結果として、犠牲になるのは、権力者や金持ちではなく、関係する諸国・地域の民衆だ、ということが最大の問題なのである。日本の場合、沖縄はまた再びヤマトによって犠牲にされかねないのが「自衛」とか「専守防衛」の意味している現実的な内容だ。専守防衛を肯定する本土の平和運動は、このことをどのように理解しているのだろうか。

3. 国家と民衆の利害は一致しない

「日本が理不尽に他国から侵略されても、あなたは日本を守るために戦うつもりがないのか?」とよく問われる。私は、「国家間の諍いに私を巻き込まないでほしい」「It’s not my business」と考えるので、私には日本を守るという発想はない。そもそもこうした問いの前提にある「日本」や「日本人」という言葉に私は翻弄されたくない。私という存在を可能な限り、国家の利害から切り離したい。そのためには、私を日本人というアイデンティティのなかに押し込めて、国家のアイデンティティに収斂させるように作用する言説や心理と闘う必要がある。

戦争では、問題を、国家レベルで把えざるをえないように仕向けられる。あるいは、戦争をプーチンに代表されるロシア、ゼレンスキーに代表されるウクライナという単純化された枠組で把える傾向がある。中国といえば習近平、朝鮮といえば金正恩で代表させて政治を論じると、それぞれの国のなかで暮すひとりひとりの意思の多様性が無視されてしまう。こうした指導者=権力者をアクターとする国際政治の延長線上に国に分割されて色分けされた領土としての世界地図が描かれがちだ。わたしはこうした世界の論じ方、あるいは戦況を地図上に表示する陣取り合戦のような戦争の見方、あるいはひとりひとりの人間のかけがえのない命を単なる統計上の数字に還元して、どれくらいの戦死者までなら許容できるか、といった冷酷な数字の世界に加担したくない。

私は、武力による紛争の主体である国家と、それぞれの国のなかに暮す人々とは明確に区別すべきだ、と考えている。戦争とは国家による国家の都合で引き起こされる惨事であり、20世紀以降の国民国家では「国民」を主権者とすることによって国家間の戦争に「国民」とみなされる私たちが国家防衛に否応なく動員される理屈が支配的になった。わたしはこの意味での主権者としての国家防衛の義務を認めない。

ここで民衆の側に問われるのは、「私」という主体と私が帰属するとみなされている国家との関係だ。国家との自己同一化が強固であれば、「私」は国家の戦争を自らが命をかけて引き受けるべきものと感じるかもしれない。しかし、世界中の紛争地域で実際に起きているのは、多くの人々が武力=暴力を選択するのではなく、別の選択を必死で模索している、ということだ。地下で密かに隠れて戦闘が終息することを祈るか、わずかな可能性を求めて戦闘地域からの避難を試みる。自らの命を犠牲にするとしても、「敵」を殺すためではなく、誰も殺すことなくわずかな生き述びられる可能性を求めて場所を離れる。ロシアもウクライナも傭兵や強制的な徴兵に依存するのは、多くの人々が戦争という手段を望んでいないことの表れだ。このことは、近代国民国家において否応なく「国民」として主権者の義務を負わされるとしても、自らの生命をも犠牲にする義務や、「敵」を暴力(武力)によって殺害するという手段の行使を強制される、というところにまでは及ばない、ということを示してきたのだ。つまり、多くの民衆は、法や道義などではなく、むしろ民衆の生存の権利が国家による死の義務を超越することをその実践において示してきたともいえる。キリスト教徒であれば、汝殺すなかれ、という神の命令が国家の命令を超越するという主張は、良心的兵役拒否の歴史のなかで繰り返し主張され、また、法的な制度化すら獲得されてきた。同時に無神論者や無宗教の場合も、人間の生存の権利が国家の死の命令(殺すこと、あるいは殺されること)に超越する普遍的な権利である、という確固とした意識が存在してきた。国家は戦争機械でもあるにもかかわらず、その理念において、生存を保障すべきものともされており、この相矛盾する両者のせめぎあいのなかで、民衆に問われているのは、生存の権利を国境を越えて普遍的なものとして主張すべきであり、そのためには戦争機械と化している国家を否定することに躊躇してはならない、ということだ。しかし、現在のロシアやウクライナにおける徴兵拒否者への扱いをみればわかるように、現実の近代国家は、国家の生存を人々の生存よりも上位に置き、人々の犠牲によって国家の延命を図ってきた。

現在のウクライナの戦争は、1年を経て、領土と主権のメンツのために、双方の死者の数がどれほど積み上げられるまでなら耐えられるか、といった残酷なチキンレースにしか私にはみえない。これは、領土をめぐる争奪という観点からみた最適な武力行使の選択でしかなく、人間の命の犠牲を最小化するための最善の選択肢ではない。ロシアもウクライナも、政権が執着しているのは「領土」であり、そこに住んでいる人々への関心が本当にあるのかどうか、私には疑問だ。もし、その場所に暮す人々が本当に大切な人々であるのであれば、その命を犠牲にするような暴力という手段を選択できないと思うからだ。ウクライナの東部に住みロシア語話者で前政権を支持していたような住民をキエフの政権が積極的に受け入れたいと思っていのだろうか。他方で、東部に暮すキエフの政権を支持する住民をロシアの占領者たちは、平等に住民として扱う積りがあるのだろうか。ロマや非ヨーロッパのエスニシティのひとたち、LGBTQ+の人達、こうした社会の周辺部で差別されてきた人達に、この戦争に勝利することが新たな可能性を与えるとは思えない。

4. 難民について

戦争放棄の最大の体現者は、戦場から逃れる難民たちや、戦火にありながら武器をとらずに、命懸けで日常生活を送ろうとする人々だ。法制度上でいえば、兵役拒否を裁判で闘うとか、軍隊からの脱走を選択する人達だ。こうした人達が実は戦時における多数者でもあるはずなのだ。ロシアについては、15万人以上の動員対象者が出国し、ウクライナから西欧に入国した兵役義務者が17万5000人、ベラルーシについては、出国した兵役対象者が2万2,000人という推計もある。国家にとってはこうした人達は厄介だが、むしろこうした生き方を選択する人々のなかに、グローバルな国民国家の統治機構が実現できなかった平和の可能性があると思う。兵役を忌避したり軍から脱走したり、様々な手段を使って武器をとらない選択をして国外に逃れた人達は、出身国にとっては自国の危機を見捨てた裏切り者になる。他方で、難民がたどりついた国にとってもまた、本来なら出身国に帰るべき余所者として扱われる。どちらの国にとっても、そこに住まう者に国家へのアイデンティティを要求しようとする限り、国家に背を向けて生きる人達は厄介な存在だろう。だから極右は、彼らを追い返し、出身国でナショナルなアイデンティティを構築することを求めるのだ。

戦争に難民はつきものだが、難民は上の議論からみたとき、その存在にはもっと積極的な意味を見出す必要がある。彼らは、戦うことによって現にある事態に決着をつけるという選択をしない人たちだ。むしろ、戦わない選択をするために場所を離れるという決断をすることになる。自分たちの暮してきた土地を捨てて、見知らぬ土地へと移動する。その先で受け入れられるかどうかすらわからない不安がありながらも、彼らは戦うことに命を賭けるよりも、転覆して遭難するかもしれないゴムボートを選ぶ。敵とされる人達を殺して、国家が求める領土のための戦闘よりも、誰も殺さないが自分は死ぬかもしれないリスクを負いながらわずかの可能性に賭けるのだ。これは彼らをあまりにもロマンチックに描きすぎているかもしれないが、本質的な事柄は、暴力に対する向き合い方をめぐる、戦場で戦うことを選択した人達との違いにある。この対比を踏まえて、戦争を忌避する人々の生き方のなかにこそ戦争放棄の思想が体現されていると思う。それに比べれば、自衛権や専守防衛などの武力行使の肯定を読み込んだ日本国憲法9条は、戦争放棄とは無援の単なる「絵に描いた餅」にすぎない。この実効性を失なった文言にひたすらしがみつくことが平和主義なのではない。もし9条が文字通りの意味で戦争放棄を具現化するものになるとすれば、戦争を選択した国家を捨てる権利、あるいは戦争を拒否する権利もまた基本的人権として明文化すべきだろう。つまり、日本の軍国主義を防ぐ最大の条件は、日本の民衆が武力を保有する国家に協力しないこと、 民衆が戦力の主体にならない、戦争を支えるあらゆる活動に非協力になれるかどうかだ。このことは、日本の民衆が、「日本人」という擬制のエスニシティに基くナショナルなアイデンティティからいかに自らを切り離せるか、にかかっている。

この観点からみたとき、日本は平和主義に対して世界で稀にみるほど背を向けてきた国家だということが見えてくる。なぜならば、日本はほとんど難民を受け入れていないからだ。戦争から逃れようとする人びとには手を差し出さない日本の態度は何を意味しているのだろうか。日本のナショナリズムの特異性から容易に外国籍の人々を受け入れられないイデオロギー上の枠組がある。この点はやや説明が必要かもしれない。日本の平和運動や伝統的な左翼やリベラルの一般的な認識は、戦前の日本の帝国主義は、1945年の敗戦によって終結したと評価し、戦後の憲法は、戦前の帝国主義からの決別という意義をもつものだと肯定的に評価する。だから、政権政党の自民党による改憲に対して現行憲法の擁護=護憲が基本的なスタンスになる。しかし、私の考え方はちょっと違う。戦前から戦後にかけて、日本は一貫して資本主義国家であり、この国家の基本的な性格には変化はない。この意味で戦前から戦後、そして現在に到るまで同じ支配の構造を維持している。したがってここにナショナリズムとしての一貫性を支える構造があり、それが極めて特殊な「日本人」としてのアイデンティティ構造として構築されてきた、ということだ。このアイデンティティの中心にあるのが天皇イデオロギーとでもいうべき特殊な集団的な収斂システムだ。この意味で、私は、戦後日本の戦前からの連続性を強調する立場になる。私は、この意味での近代日本を総体として否定する観点がないと、戦争を廃絶する社会を実現できないと考えている。

他方で、その裏返しとして、日本の「国民」が戦争状態のなかで、戦うことや戦争に協力することを拒否して「難民」として避難するという選択をとることについて、個人の自由の権利行使だとみなす考え方は、国家の側にも民衆の側にもほとんどみられない。その結果、避難の是非はもっぱら国家が一方的に決めることだとされるのが基本になり、個人の権利とみなされない。このことは、福島原発事故による放射能汚染から自主避難した人々がたどった苦難の道をみればわかることだ。

だから戦争状態になれば、「日本国民」は国家のために戦うこと以外の選択肢は事実上封じられるに違いないと思う。日本政府は、戦争になれば国家のために戦うのが国民の義務であり、逃げ出すなどというのは「国民」のとるべき道ではないという態度をメディアなどを含めて宣伝し、戦争(協力)を忌避する人々を追い詰め、時には犯罪者扱いすることになる。

もし平和運動が専守防衛を肯定してしまうと、こうした戦争を拒否する人達の権利を正当なものとして理解できなくなり、政府の戦争に暗黙のうちに加担する道を選択することになるのではないだろうか。日本政府が「平和国家」などを口にすることがあるが、これは欺瞞以外のなにものでもないことは反戦・平和に関心をもってきた人々には自明だが、他方で左翼の平和主義は、こうした移民・難民を受け入れない日本政府には批判的でありながら、日本の移民政策が平和主義に対する敵対的な態度であると明確に指摘して批判したことを私はあまり思いつかない。

戦争状態が現実のものになってしまったとき、平和運動は極めて無力な主張のようにみえる。戦闘状況のなかで、「平和」を主張することのむなしさは、容易に想像できる。しかし、だからといって、この無力さを理由に、暴力に対して暴力で対峙することが唯一の選択肢になる、と判断していいのだろうか。ここで、やはり、どうしても暴力とはいかない意味での解決の手段になりうるのか、という根源的な問いに立ち戻らざるをえなくなる。

5. 暴力についての原則的理解

近代において、暴力の廃棄は、国家と資本の廃棄と同義だ。暴力の廃棄は、人類の前史に終止符を打つ壮大な挑戦であり、この理想主義なしには平和を実現できない課題でもある。

暴力の問題について、私たちが確認しておかなければならない原則がある。それは、力の強い者が正義を体現しているわけではない、という事実だ。もし力が正義であるなら、ドメスティックバイオレンスでは、加害者である男の暴力が正義になる。力と正義の間には、何の論理的な因果関係も存在しない。

私たちが日常的に経験している暴力について、たぶん、男性と女性では、その対処の選択肢や優先順位が違うように感じる。少なくとも、日本では、そういって間違いない。DVの被害者となる多くの女性たちは、実は、男性以上に日常的に殺傷力のある道具――つまり台所にある包丁や刃物などだが――の使用には長けている。DVの加害者を殺すことで問題を「解決」することは可能だということは誰でもわかることだ。しかし、実際にそうした手段を選択する人はごくわずかだ。多くの被害者は、別の闘い方を選択する。

DVの被害者を支援する活動家たちも、加害者を殺すことが問題の解決になるとは主張しない。むしろ、暴力に対して暴力で対処するのではなく、被害者のために避難場所を用意し、加害者が接触しないような防御策をとり、法的手段を駆使し、同時に、加害者の更生への道を探るのではないだろうか。こうした活動は、DVを引き起す社会的な背景にも目を向けることになる。家父長制的家族制度や資本主義の市場経済がもたらす性差別主義のなかに、暴力によって支配を貫徹させる不合理な欲望を再生産する社会的な構造がある。問題は、暴力による報復や復習では解決できないのだ。暴力をもたらす構造からの解放という目的は、暴力という手段によって実現しえない。人びと、とりわけ男性の意識や価値観を変えるための挑戦が必須になる。こうした身近な暴力の話題を戦争という暴力の文脈のなかに置き換えて考えてみることが必要なのだ。

この暴力と正義の関係は、難しい哲学や政治学の議論ではない。私たちの日常的な解放への実践の積み重ねのなかで理解できることでもある。しかし、国家間の戦争になると、この日常の知恵がすっかり忘れさられてしまう。国家間であっても、DV同様、正義と暴力の間には何の因果関係もない。力が強い者、戦争に勝利した者が正義であることもあれば、不正義であることもある。(何が正義か、という問いを脇に置いて、の話だが)いずでれあっても、多くの犠牲者を生み出す。そしてまた、正義の目的のために戦いながら、戦場で実際に戦争犯罪を犯すのも普通の人びとなのだ。つまり目的が正義であることは手段もまた正義であることを保証するものではないし、正義の装いの下に隠された不正義は戦争ではあたりまえに見出される非人道的な出来事でもある。

暴力と社会変革の関係についての私の現在の基本的な考え方は、以下のようになる。武力を用いた解放は、マルクスの言う人類前史における解放の手段として、その意義を否定することはできない。しかし、将来においても、同様に、武力による解放が必須の手段になるべきではない。現代において暴力に特権的な地位を与えているのは、壮健な成人男性が社会の理想モデルになるような暗黙の価値観に基くものだ。女性、高齢者、子どもよりも、力のある男性の方が正義において優るという価値観だ。戦争の武器や装備がこの価値観を体現し、軍隊の組織原理を規定する。ジェンダーは社会的な概念だから、たとえ女性が兵士として参加しても、その構造が女性にマスキュリニティとファロセントリックな男性性に自己同一化することを強ることになる。

女性は、このモデルを側面から支える。戦場で闘う夫や息子を鼓舞し、その死を意味づけする役割を担い、銃後の兵站の労働力となり、国家に忠誠を誓う次世代を生むことを義務とされる。こうした家父長制的な構造は、性的マイノリティに不寛容でリプロダクティブライツを否定する。こうした暴力による支配に対抗するために、解放の主体もまた暴力に依存するという場合、この力のモデルを受け入れなければ、武力による勝利は見込めない、という悪循環に陥る。だから、正義と暴力の不合理な結び付きを意識的に断ち切る必要がある。

つまり、私たちが目指さなければならない解放の手段は、壮健な成人男性が社会の理想モデルになるようであってはならないのだ。だから、必然的に、この意味での男性性の象徴的な行為でもある暴力を拒否し、非暴力であるべきだ、ということになる。

6. 9条の限界と戦争放棄の新たなパラダイム

日本が憲法で戦争放棄を明記していていも、実際に戦争放棄を体現する国になっていない。その理由は、日本が真剣に過去の侵略戦争の責任と向き合ってこなかったからだということはこれまでも繰り返し指摘されてきた。私もそう思う。戦争責任を負うべき最大の戦犯は天皇ヒロヒトだ。しかし戦後、ヒロヒトは戦争責任を問われることなく、憲法によって日本国家の象徴になった。そして戦犯だった人達が戦後日本の支配の中枢を担い日米同盟の基礎を築いた。他方で、民衆の平和への指向は、被害者意識に基礎を置いたままだった。日本の戦争における加害責任あるいは戦争犯罪は、平和運動の中核的な基盤をなしてはこなかったのではないか。

戦後日本の平和運動を支えてきた理念にはいくつかの特徴がある。第一に、憲法が明記している戦争放棄条項を根拠に、自国の軍隊についても否定的な理解が共通の「理念」として確立してきた。第二に、この理念が広く共有されてきた背景には、日本が関った戦争への反省の特殊性がある。日本は植民地主義の侵略者だったが、戦後の平和を希求する最大公約数は、広島、長崎の原爆や空襲の被害であり、侵略地での日本軍の玉砕に象徴されるような自国兵士の悲劇、植民地での日本からの開拓移民の悲惨な経験など、戦争被害体験だ。だから日本の戦争責任を問う声が政治を動かすほどの影響力をもったことはほとんどない。戦争の最高責任者であった天皇ヒロヒトは、民間の取り組みである女性国際戦犯法廷によって有罪判決が出されているが、一度も公的に戦争責任を問われず、戦犯としても裁かれていない。ヒロヒトは、戦後も国家の象徴として君臨し、戦犯たちが戦後政治の中心を担ってきた。自国の侵略や軍国主義への抑止となる平和主義は、自国の加害責任、侵略の責任に基く必要があるが、戦後日本の平和運動ではこの点が決定的に脆弱だった。とはいえ平和運動は、ここ半世紀近く、日本の戦争責任に注目するという変化を次第にみせてきた。これに対して、政府も右翼、保守派も日本の戦争犯罪、戦争責任を認めない態度は一貫している。

上の背景を踏まえて、9条の限界について四つの理由を述べたい。ここでの限界は、9条そのものではなく、なぜ戦争放棄を実現できないのかについて、戦後日本の統治機構全体の文脈を視野に入れての理由である。

ひとつは、死刑制度の存在だ。政府も世論も死刑存置が圧倒的な多数派を構成している。死刑は、国家が殺人によって正義を実現するという理不尽な法制度だ。世論の死刑への支持は圧倒的多数を占める。日本では、民衆のレベルで、暴力、報復によって「正義」を実現することが容認されている。3死刑制度とは、自国民を矯正できず、報復し抹殺することで秩序を維持しようとする制度でもある。このような国に、どうして戦争放棄など可能だろうか。

では、死刑廃止国であっても軍が存在するのは何故なのか。それは、殺害の対象が「他者」だからだ。では、殺してもいい「他者」とは、いったい誰にとっての他者なのか。それは、私にとっての他者でない。国家にとっての他者だ。私は、「他者」であれば命を奪うことが許されるという考え方に反対だ。ここには、西欧近代国家の普遍的な人権概念と近代国家が生み出す「他者」との間にある克服しがたい矛盾が存在する。

もうひとつは、日本のジェンダーギャップ指数が極端に低いということだ。世界経済フォーラムの統計では116位だ。経済力との関係を考慮すると異常な低さだと言わざるをえない。 日本では、同性婚もLGBTQ+の権利も法制度として認められていない。憲法では個人としての尊重を明記しているが、戸籍制度という世界に類をみない家族を中心とする公的な制度が存在しており、実際には、個人を超越する男性を中心とする家父長制意識を制度が支えている。こうした感情を女性もまた内面化するので、ここでの問題は、単純な生物学的な「性別」の問題ではない。暴力において優位に立つことができる男性性への同調の構造が問題なのだ。前述したように、こうした環境が暴力を正当化する枠組をなしてきた。

第三に、これも前述したように、日本はほとんど難民を受け入れていない、ということだ。法務省のデータによれば、2021年の難民認定数はたったの74人にすぎない。難民認定申請者は2413人だった。この数字は異常というしかない。また、人口1億4000万人のうち在留外国人は約280万人で西欧諸国より圧倒的に少ない。文化的多様性に欠け、他者への排除意識が作用しやすい環境にある。こうした環境は、自国の文化や伝統へのロマン主義的な傾倒を生みやすく、このことが戦争を美化し賛美する文化をもたらす。合理的な他者への評価よりも、感情的な美意識が排除と差別を生む。つまり、日本の平和とは、自民族中心主義がもたらす美学に支えられているので、この日本文化への侵犯への敵意が醸成されやすい。19世紀のヨーロッパのロマン主義も日本浪漫派も戦争の美学によって暴力を賛美した。

最後に、その上で、歴史の教訓として、近代国民国家が戦争なしで国際関係を構築することができたかどうかを問うことが必要だ。世界中に200近くの国家があり、この国家がお互いに、最高法規としての憲法を持ち、互いにその優位を競う世界体制と、家父長制的な暴力と温情主義の弁証法が支配するこの世界のどこに平和の可能性があるのだろうか。現実主義者は、この現実を肯定して、武力による解決を肯定する。上述したように、この解決方法に合理性はない。だから、私は未だ実現しえていない世界を夢想することになる。私は、ある種の理想主義を選択する以外にないと思っている。憲法に戦争放棄、あるいは戦争を拒否する権利を明記することは、このような国民国家の宿命的な暴力的性格を自己批判することでもある。そして、日本は、他者との関係構築において――つまり外交だが――武力を後ろ盾とした交渉とは全く異なる外交パラダイムを持つ必要がある。これは、国民国家の自己否定を内包するラディカルな立場だ。左翼がこうした立場をとることによって、暴力という手段によらない解放の可能性を模索することが、人類の前史に終止符を打つための重要な課題になる。

7. 二人のファノン――締め括りのためのひとつの重要な宿題として

このやや長いエッセイを締め括るにあたり、暴力と解放闘争の議論では避けて通れないファノンの『地に呪われたる者』を取り上げておきたい。解放の暴力を肯定する議論として、その第1章「暴力」はよく言及されるテキストだ。しかし、第1章と対をなす最終章、第5章「植民地戦争と精神障害」にもっと多くの注意を払うべきだと思っている。ファノンは、人種主義的な従来の精神医学を厳しく批判した。この指摘を可能にしたのは、植民地解放の闘いがあったからだ。第5章は、植民地精神医学の分野では、人種主義的な精神医学批判として高く評価されている。4 ファノンは次のように述べている。

「アルジェリア人の犯罪性、その衝動性、その殺人の激しさは、したがって神経系組織の結果でも、性格的特異性の結果でもなく、植民地状況の所産である。アルジェリアの戦士たちがこの問題を論議し、植民地主義によって彼らのうちに植えつけられた信条を怖れることなく疑問に付したこと、各人が他人の衝立であり、現実には各人が他人に飛びかかることによって自殺しているのだという事実を理解したこと――これは革命的意識において本源的重要性を持つべきことであった。」
「戦う原住民の目標は、支配の終焉をひきおこすことだ。しかし、彼はまた同様に、抑圧によってその肉体のうちにたたきこまれたあらゆる真実に反することを一掃すべく心を配らねなならない」(鈴木道彦、浦野衣子訳、みすず書房、p.179。ただし旧版による)

第5章に関して私が重要だと思うのは、こうした抽象的な議論の前提になっている具体的な症例についての詳細な記述だ。後に心的外傷性ストレス(PTSD)と呼ばれることになる戦争がもたらす深刻な被害は、解放戦争においても例外ではなかった。解放戦争そのものは、精神的な外傷を生み出すことがあっても、これを克服することはできない。だから症例と総括的な文章との間には、埋めなければならない大きな溝があると思う。そのことにファノンは気づいていたと思うが、残念ながら彼は1961年に他界した。アルジェリアの独立は翌年1962年だ。彼は、戦後を経験していない。

20世紀の戦争を遂行してきた主要な国々は、心的外傷の課題を残酷な戦争に耐えうる兵士のパーソナリティの構築と、そのための精神医学の動員として展開してきた。5これに対して解放戦争の側がオルタナティブを提起できているとは思えない。ファノンは、戦争で心を病んだ人達の回復を解放された社会に委ねているが、同時に、暴力の問題について「すでに解放されたマグレブ諸国でも、解放闘争中に指摘されたこの同じ現象が持続し、独立とともにいっそう明確になっているのだ」(前掲、p.178)という示唆的な文章を残している。

この第5章と暴力という手段によって解放を実現することを論じた第1章の間には、十分な整合性があるとはいえない。特に、第5章における個別の症例を論じている精神科医としてのファノンと、この症例を総括して植民地解放運動全体の文脈のなかに位置づけようとする解放戦争の闘士としてのファノンの間には未解決の溝があると思う。

戦争におけるPTSDの問題をDVにおけるPTSDとひつながりのものとして把えたジュディス・ハーマンの仕事に私は多くのことを学んだ。(参照文献をごらんください)また、最近沖縄の地上戦がもたらしたPTSDに注目したいくつかの著作によっても示唆を受けた。6専守防衛であっても戦争となれば、たとえ生き延びたとしても、このPTSDの問題は一生を通じて残ることになる。だから、PTSDを、解放実現のための止むを得ない犠牲と考えるべきではないと思う。殺すこと、殺されることだけではなく、戦争や暴力にはあってはならない多くの「止むを得ない」犠牲があり、これを代償としてなし遂げられる「解放」に私は未来を託す覚悟はない。これもまた、武器をとらない、という私の選択の重要な理由になっている。

8. 参照文献

ここに紹介する3冊の本は、この原稿を書くときに常に念頭にあった本だ。いずれも刊行年は古いが、今読むべき本だと思う。いずれもまだ書店で入手できる。

●トルストイ『トルストイの日露戦争論』平民社訳、1904年。

1904年6月27日のロンドンタイムズに掲載された長文のエッセイBethink Yourselves!を幸徳秋水らが翻訳した。日露戦争(1904-1905)が勃発すると、戦争に反対する幸徳秋水などの社会主義者が「平民社」を設立。平民社は、トルストイのエッセイ “Bethink Yourselves!”を翻訳し、出版した。トルストイはこのエッセイでロシア皇帝と天皇を同時に批判し、断固として戦争に反対した。幸徳は解説の中で、戦争のない社会としての社会主義の主張がないことを批判しつつもトルストイの主張をほぼ全面的に支持している。ウクライナで戦争が起きている今、非戦論の文献として最も優れたもののひとつと思う。 英語原文は下記で読める。(マルクス主義のアーカイブサイトにトルストイの文章が掲載されているのも珍しいかもしれない) https://www.marxists.org/archive/tolstoy/1904/bethink-yourselves.html 平民社訳は、国会図書館のオンラインで閲覧が可能だが、『現代文 トルストイの日露戦争論』として国書刊行会が2011年に出版しており、入手できる。

●ジュディス・ルイス・ハーマン、『心的外傷と回復』、中井久夫訳、みすず書房。1999年。

ハーマンはその序文で次のように書いている。(原書から小倉の訳)

『心的外傷と回復』は、性的暴力や家庭内暴力の被害者を対象とした20年にわたる研究と臨床の成果である。 トラウマと回復』は、性的暴力や家庭内暴力の被害者を対象とした20年にわたる研究と臨床の成果を示すものである。また、この本は、他の多くのトラウマを抱えた人たちとの経験の積み重ねを反映している。 また、他の多くのトラウマを抱えた人々、特に戦闘に参加した退役軍人や政治的恐怖の犠牲者に対する経験も反映されている。 政治的恐怖の被害者である。本書は、公的な世界と私的な世界、個人と個人の間のつながりを回復するための本である。 公私の間、個人と地域社会の間、男性と女性の間のつながりを取り戻すための本だ。

●デイヴィッド・デリンジャー、『「アメリカ」が知らないアメリカ―反戦・非暴力のわが回想』吉川勇一訳、藤原書店、1997年

武装抵抗の支持者の中には、非暴力主義者を臆病者と揶揄する人もいる。本書は、非暴力不服従としての平和主義の実践は議会主義や日和見主義とは全く異なる生き方であることをよく示した自伝。第二次世界大戦中、デリンジャーは、ファシズムやナチズムを完全に否定しながらも、徴兵を拒否し、ドイツ爆撃に反対し、そのために投獄された。第二次世界大戦後は、2004年に亡くなるまで、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争と、すべての戦争に反対し、何度も投獄を繰り返し経験した。日本では小田実らのベ平連の運動との交流があり、小田実との共著『「人間の国」へ―日米・市民の対話』ギブソン松井佳子訳、藤原書店、1999年がある。

Footnotes:

1

「自衞をする場合に、外交の力によつて自衞することもありましようし、或いは條約の力によつて自衞することもありましようし、その方式はいろいろありましようが、とにかく日本を守るということは、武力による自衞権を行使しないということははつきり憲法の條章によつて、この点は明らかである 」吉田茂 第7回国会 参議院 予算委員会 第18号 1950年3月22日

2

https://rageagainstwar.com/ この集会にはピンク・フロイドのロジャー・ウォーターやクリス・ヘッジスなども発言者として登場した。

3

「死刑制度に関して、「死刑は廃止すべきである」、「死刑もやむを得ない」という意見があるが、どちらの意見に賛成か聞いたところ、「死刑は廃止すべきである」と答えた者の割合が9.0%、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合が80.8%となっている。なお、「わからない・一概に言えない」と答えた者の割合が10.2%となっている。  都市規模別に見ると、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合は中都市で高くなっている。  性別に見ると、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合は男性で高くなっている。  年齢別に見ると、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合は30歳代で高くなっている。」2019年、基本的法制度に関する世論調査、https://survey.gov-online.go.jp/r01/r01-houseido/index.html

4

角川雅樹「Frantz Fanonと 植民 地心理〜マルチニークとメキシコの事例から〜」ラテンアメ リカ研究年報 No.11(1991年);「フランス植民地の精神医学」akihitosuzuki’s diary、https://akihitosuzuki.hatenadiary.jp/entry/2008/12/01/104634 ;Keller, Richard C., “Pinel in the Maghreb: Liberation, Confinement, and Psychiatric Reform in French North Africa”, Bulletin of the History of Medicine, 79(2005), 459-499 ;UNCONSCIOUS DOMINIONS, Edited by warwick anderson, deborah jenson, and richard c. keller, Duke University Press, 2011.

5

戦争による心的外傷についての最初のまとまった研究は、フロイトらの研究『戦争神経症の精神分析にむけて』である。フロイトの「緒言」が『フロイト全集』(岩波書店)第16巻に収録されている。フロイト後の経緯については、アラン・ヤング『PTSDと医療人類学』、中井久夫他訳、みすず書房、参照。

6

蟻塚亮二『沖縄戦と心の傷 トラウマ診療の現場から』、大月書店、2014;沖縄戦・精神保健研究会『戦争と心』、沖縄タイムス社、2017、参照。

Author: toshi

Created: 2023-02-27 月 22:49

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サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(3)――自由の権利を侵害する「認知領域」と「情報戦」



Table of Contents

1. 「敵」は誰なのか?――権力に抗う者を「敵」とみなす体制

国家安全保障戦略で「武力攻撃の前から偽情報の拡散等を通じた情報戦が展開される」と述べていることが意味しているのは、「偽情報」とは国家安全保障の観点からみて障害になる情報のことであって、情報の真偽が直接の課題ではない、ということだ。言い換えれば、国家安全保障の観点からみて好ましい情報が真の情報であり、逆に阻害要因となる情報が偽の情報だ、ということだ。1 しかし、戦争などの深刻な事態のなかで、このような自国に都合のよい偽の解釈が果してまかり通るものなのだろうか。新たに制定された国家安全保障戦略には、日本の国家にとって都合のよい「偽情報」の拡散の戦略が内包されている。それは偽を真と強弁して言いくるめるような稚拙な手法ではない。

「偽情報」問題は、情報の真偽全体を国家が安全保障の観点から管理、統制することなしには対処できない。これまでの国家安全保障に関わる情報の問題では、真情報であるにもかかわらず、政府にとっては隠蔽しておきたかった真実に該当する場合は、これを「偽情報」であるというキャンペーンを展開して人々に誤解を広めるという手法がみられた。あるいは、隠蔽しておきたい情報を暴露したメディアやジャーナリストを処罰することで、メディアを萎縮させ、真情報の拡散を抑制する場合もある。

情報の真偽問題は、どのような情報を公開するのか、どのように誰が国家安全保障に関わる情報を管理するのか、情報の管理・拡散を通じて人々の行動や感情、考え方にどのような影響を与えようと意図しているのか、という国家による情報全般への管理問題と不可分である。私たちは、真偽いずれの情報についても、私たちが最後の受け手であり情報の真偽を判断する主体であり、同時に、発信の主体でもある。何度も強調するが、マスメディアの時代にはない情報拡散の力を私たち一人一人が有しているのが現代のネット社会と呼ばれる時代だ。だから、私たち一人一人が国家安全保障にとっての情報統制の主要なターゲットになる。これは、自国政府と「敵国」双方が私たち一人一人をターゲットにしている、ということを意味している。

しかも、政府は、国家安全保障に経済安全保障を明確に組み込む姿勢を示したことによって、経済活動全般が、この情報統制の構造のなかに組み込まれるものになっている。現代の資本主義経済の基軸産業は情報通信関連産業であり、私たちの日常生活や思想信条など市民的な自由の権利を支える社会基盤を担う産業である。こうした産業は、戦争遂行を可能にする「国民」の意思を形成する基盤でもある。鉄や石炭・石油、兵器製造産業といった旧来型の軍需産業にはない特徴だ。

2. セキュリティ・クリアランス――身元調査が当たり前になる?

現行の秘密保護法には「適正評価制度」があり、 国家公務員、地方公務員、警察官などの行政機関の職員、特定秘密を扱う民間企業の従業員などに対して行政機関の長による身元調査が義務づけられている。国家安全保障戦略では、こうした制度が特定秘密という枠を大幅に越えて一般化される危険性がある。これがセキュリティ・クリアエアンス制度だ。

国家安全保障戦略には、たとえば次のような記述がある。

経済安全保障分野における新たなセキュリティ・クリアランス制度の創設の検討に関する議論等も踏まえつつ、情報保全のため の体制の更なる強化を図る。 また、偽情報等の拡散を含め、認知領域における情報戦への対応能 力を強化する。その観点から、外国による偽情報等に関する情報の集 約・分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化等のための 新たな体制を政府内に整備する。さらに、戦略的コミュニケーション を関係省庁の連携を図った形で積極的に実施する。 そして、地理空間情報の安全保障面での悪用を防ぐための官民の実 効的な措置の検討を速やかに行う。p.24

ここにはセキュリティ・クリアランス制度とか認知領域といった耳慣れない言葉が登場する。以下、これらを検討しながらその狙いと問題点をみてみよう。

セキュリティ・クリアランス制度は、2023年2月22日の経済安全保障推進会議資料 では次のように説明されている。

「国家における情報保全措置の一環として、①政府が保有する安全保障上重要な情報を指定することを前提に、②当該情報にアクセスする必要がある者(政府職員及び必要に応じ民間の者)に対して政府による調査を実施し、当該者の信頼性を確認した上でアクセス権を付与する制度。③特別の情報管理ルールを定め、当該情報を漏洩した場合には厳罰を科すことが通例。

私は、ここでの文言は政府内や企業による情報の活用を推進する一方で「情報保全」を理由に、私たちのような市民一般に対しては情報公開を制限することが意図されているものだと解釈する。経済安全保障という文言のなかにはこうした情報統制が組み込まれているのだ。

セキュリティ・クリアランス制度の目的は情報保全のための体制強化にある。つまり国家安全保障関連については情報公開や「知る権利」を利用して政府に対して批判的な立場から情報にアクセスしようとする者たちを排除する一方で、政府にとって必要とみとめられる情報を政府と民間双方で効果的に活用できるような人的組織の統制枠組である。特別の情報管理ルールを定めることで内部告発などへの厳罰化も明記されている。その上で当該情報にアクセスする必要がある者の身元調査の徹底が図られる。

セキュリティ・クリアランス制度はこの国家安全保障戦略ではじめて登場したわけではない。2017年5月24日、自由民主党IT戦略匿名委員会「デジタル・ニッポン2017」2 のなかですでに言及されている。ここでは、現代の国家安全保障の重要な領域が「サイバー」としての情報であることから、ターゲットは「情報」をめぐる戦略の構築を、民間と同盟国を巻き込んだ枠組として構想しようとしている。これが数年を経てほぼ国家安全保障戦略にも反映されている。「デジタル・ニッポン2017」では次のように述べられていた。

SCが無いために日本の民間企業がサイバー攻撃情報を他国と共有できず、研究開発で利用できる情報量に格差が生まれ、安全という品質でSC保有国に負けてしまう可能性が高まる。
“サイバー攻撃情報の量”を増やすには、米国やEU各国か らサイバー攻撃情報を共有してもらう必要があるが、セキュ リティクリアランス制度(SC)がなければシェアされない攻撃 情報も存在
日本にはCSが無いが、米国とEUでは民間人でもCS保有 者がおり、民間企業が政府の機密情報を製品開発に活用 することが可能
このままではSCが無いために研究開発に利用できるサイバ ー攻撃情報の量で米国とEUに大差をつけられ、安全という 品質で日本が負けてしまう可能性が高まる。

自民党提言ではサイバー攻撃情報を共有する上でSCは必須としている。また、昨年8月のNHKの報道3では、高市経済安全保障担当大臣が先端技術に関わる研究者の身元調査の厳格化を示したと報じられている。コンピュータのソフトウェア開発などから認知領域(後述)の研究など、安全保障分野の研究の裾野は人文社会科学も含む広範囲にわたる。そのほとんどが、研究者の世界への関心や問題意識と切り離して考えることはできない。高市のような発想が研究の現場に持ち込まれることになれば、国策に沿わないか批判的な研究者が研究機関や大学などで採用されることは今以上に難しくなることは容易に予想される。4

3. 認知-ナラティブ領域

冒頭に引用した国家安全保障戦略の文章では、SCにつづいて「認知領域における情報戦」という理解しづらい文言が登場する。認知領域については、国家安全保障戦略に先立って、既に昨年8月にサンケイが「宇宙、サイバー、電磁波に新たに「認知領域」を加え、これらの戦力を組み合わせた「領域横断作戦能力」の構築を目指す方針を固めた」と報じていた。

では、この認知領域とは何なのか。最近の軍事・安全保障の議論では、従来の軍事・安全保障が対象としてきた物理領域、サイバーと呼ばれる情報通信領域とともに、より人間の感情や意識など心理的な側面を独立したカテゴリーとして取り上げて認知領域と呼んで重視するようになっているということがしばしば指摘されている。5 認知領域が主要に関心をもつのは、人々の行動の背後にある感情や心理であり、これらがSNSなどを通じて共有されたり拡散されることによって国家の安全保障に重大な影響を与える、とされる。したがって、こうした人々の行動の動機を形成する感情や価値観にいかに対処するのか、といった観点が関心の中心をなす。AIなどビッグデータを駆使して人々が何を考え、どう行動するかを予測するために不可欠な人間の認知に焦点を当てる心理学的なアプローチである。

認知領域では、「敵」の偽情報によって騙される人間を、この騙しからいかにして防御するのかという問題が焦点化される。しかし、国家安全保障戦略は、この偽情報と呼ばれる事態を一般論としては否定しないのが大きな特徴だ。言い換えれば、偽情報にも情報戦では使い道がある、という観点をとる。つまり、いかにして自国の国益にかなうような偽情報を発信して「敵」を欺き、自国民の士気を高めるかに関心がある、といってもいい。

こうした観点から認知領域をみたとき、より積極的に人々の感情や価値観、世界観を構築する戦略的なアプローチが必要になる。ここで国家安全保障戦略では明示的に言及されていないが、一部の軍事安全保障の研究者の間では議論されている「ナラティブ」という概念に注目しておく必要がある。

たとえば、防衛研究所の長沼加寿巳は次のように述べている

「安全保障や防衛は、究極的に、パワーや影響力の行使を通じた国益(国民の生命・身体・財産と自国の領土・領海・領空)の保護である。この過程において、抑止や強制に代表される様々な行動を通じて、対象に具体的行動や認識を強いることによって、自国への脅威の波及を阻止する。そこで、どのような方法で対象を動かすか、また、動かされるかという基本的な作用に注意を払う必要が生まれることとなる。すなわち、他者を操作するという観点から、ナラティブ、感情や時間について、考察を加える必要がある」

そして「現在、サイバー分野の関心も高まっているものの、これはあくまで物理領域と仮想領域を意識したものであり、(中略)『ナラティブを巡る戦い』や認知領域における戦いについては、十分な関心が向けられているとは言い難い」と指摘している。そして「英国防省の統合ドクトリン最新版でも、我のナラティブが対象オーディエンスに訴えかけ、かつ対抗者のナラティブを減じるために必要なものとして、アリストテレスの『弁論術』における三要素、信頼(ethos)、感情(pathos)及び論理(logos)を取り上げている」とも指摘する。こうした観点から2021 年 1 月 6 日、米議会議事堂での暴動に注目する。つまり「暴動参加者の言動に、ナラティブ、感情のほか、ノスタルジアのような過去・現在・未来を結ぶ時間性に関する特徴が見られたことから、これらの観点に基づき、認知領域における戦い」として位置づけようというのだ。6 ここで注目すべきなのは、アリストテレスの弁論術が肯定的に参照されている点だ。アリストテレスの弁論術は、真実あるいは事実を実証するための「弁論」を擁護するものではないものとして理解されてきた。たとえば、オンライン版の世界大百科の「弁論術」の項目では「アリストテレスは、真実を探求する哲学的言論とは異なる大衆相手の実践的言論の技術の領分において、真実らしさの実効性に理論的照明をあてた」と説明されている。7 つまりここで目指されているのは大衆を相手にいかにして「真実らしさ」をもったメッセージを国家安全保障の戦略として構築するのか、なのである。

ここで繰り返し登場する「ナラティブ」について、長沼は、外務省幹部が新型コロナに関連してナラティブの概念を持ち出した議論8を参照するかたちで次のように説明している。

ナラティブは、ある事象や課題について読み手や聞き手の認識に働きかけ行動を変える力を持つとい う。また、ある目的のために、異なる価値観や利害を抱える対象の同意を求め、説得を試みるべく創作される ものである。ナラティブが主観の押し付けや情緒の垂れ流しではなく、あくまでも共通の言語空間において通 じる論理で構築されていなければ、多くの人の認識に訴え行動を変えるのは難しいと指摘する。(「安全保障や防衛におけるナラティブ」)

上にあるように、ナラティブの領域は事実だけではなく「創作」を含む領域であることが重要な意味をもっている。ナラティブはもともと人文科学の領域、とくに文学における物語の分析から派生してきた学問領域だといってよく、決して反動的あるいは右翼的な系譜をもっているものではない。しかし、これが現代の軍事安全保障で注目されているという事態そのものに、現代の「戦争」の特徴がある。日本では防衛研究所の何人かの研究者が特に関心をもっているようだが、その文献をみると行動主義的な心理学9よりも認知心理学に関心をもち、中国やイギリスの安全保障や軍の動向になかにある同様の傾向への関心がもたれていることがわかる。

4. 国策としての「物語」の構築

このナラティブという概念を情報における真偽との関係でいうと、確実に言えることは、自国の歴史認識における科学的客観的な歴史記述によって「偽」とされることがらであっても、それを「偽」ではなく、その社会の伝統や神話などのフィクションに組み込まれた「物語」として肯定し、この意味でのナラティブを防衛するための対抗的な情報の発信を戦略的に重視する観点が軸になる。近代の日本でいえば、一方に西欧近代が持ち込んだ科学の世界がありながら、他方ではとうてい客観的科学的な検証には耐えられないが「神話」としての肯定的な価値をもつものとしての記紀神話によって国家の起源を定め、天皇を現人神とする「物語」を国策として構築し、このナラティブを防衛するための言論空間への国家の統制が行なわれた。これが日本における戦争を支える認知領域とナラティブの実例だろう。冷戦期になれば、このナラティブと安全保障の関係は、大衆文化などの領域に組み込まれて不分明になる。

こうした認知-ナラティブが、サイバー領域を前提として個人の情報発信というミクロなコミュニケーションを意識的に取り込んで再構築する必要がでてきたのが、現代の戦争における認知-ナラティブの問題だといえる。10

上の引用にあるように、文字であれ映像であれ、何らかのメッセージが読み手や聞き手の認識に働きかけて行動を変える力を持つことに、国家安全保障の観点から関心が持たれていることがわかる。言い換えれば、「物語」の構築――もっと言えば現代における「神話」の構築――を通じて人々の感情や価値観に働きかけ、これを国家に収斂するような意思へと導くことができるのではないか、という関心だ。

国家安全保障戦略では認知領域には言及されていてもナラティブには言及されていない。その理由は、この概念が偽情報の肯定という一般にはなかなか受け入れがたい情報戦における(反政府的な国内の人々を含む)敵への攻撃の手段であり、同時に自国の民衆を「国民」として統合する極めて毒性の強い性格をもつからだろう。こうなると明確に憲法の自由権を侵害することになる。だが、安全保障の領域を離れて、一般論としてみても、ナラティブなき認知領域は想定することができない。人間はフィクションを真実であるかのようにして敢えて受け入れるというフェティシュな存在でもあるからだ。

だから、この認知-ナラティブが国家安全保障の領域で持ち出されたきには、これを真偽の軸による判断は脱構築され、偽のなかにも「物語」として肯定すべきものがあり、これが人々の社会集団(国家)の感情的同一化や共有されるナショナルな世界観にとって不可欠だという枠組に位置づけられてしまう。

以上のように、国家安全保障において認知領域に関心が集まるのは、SNSのような個人を主体とした発信は、政治的な力を形成する集団心理を支えるような真偽ないまぜになった「物語」を構成する基盤だからであり、物理領域としての軍事行動に影響を与えるからである。つまり、「情報戦」では、一方で反政府的な感情や「ナラティブ」を抑制しつつ、他方で政府を支える感情や「ナラテイブ」の構築を目指すことになる。

国家安全保障戦略では、上に引用したように「認知領域における情報戦」に「偽情報等の拡散」を含めている。この「戦」では、外国による偽情報等に関する情報の集約・分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化等」とともに「戦略的コミュニケーションを関係省庁の連携を図った形で積極的に実施する」という極めて曖昧な文言が追加されている。偽情報を含む認知領域を念頭に、関係省庁が連携を図ることで組み立てられる「戦略的コミュニケーション」とは、「敵」の偽情報への対抗としての日本政府による組織的な対抗的な情報発信――より率直にいえば戦略的に、ある種の「偽情報」の発信――を含意しているが、これをナラティブ=物語(神話)として構築できなければ偽情報という否定的なレッテルしか貼られないことになる。ナラティブとは新たな国家の「神話」の戦略的構築を意味している。国家安全保障がこれほどまでにイデオロギー領域に踏み込むのはめずらしい。

5. 国家安全保障による認知-ナラティブが私たちの自由権を侵害する

認知-ナラティブ領域とは私たちの内心の自由、あるいは思想信条の自由の領域に他ならないから、これが国家安全保障に包摂されるということは、私たちの市民的自由の権利と密接に関わることは言うまでもなかろう。しかし、従来のような検閲や言論弾圧はここでは権力の手法としては前面には登場しないだろう。認知領域における権力作用は、むしろ、私たちの知覚の外部――わたしはこれを非知覚過程と呼ぶ――で私たちの感情や社会を文脈化し物語として構築する内発的だと主観的には感じているに違いない領域に作用する。政府やマスメディアが報じるある種の「偽情報」を真実の情報とみなして受容されることによって構築される出来事についての物語は、当然真実による物語とは別のものになる。しかし、ここで問題の核心にあるのは真偽ではなく「物語」である。本来であれば客観的な事実についての判断を論じるべき問題に対して、真偽を超越した「物語」が挿入されることによって、真偽が棚上げにされ、真偽を問うことなく人々が集団として行動することが可能だ、というところに政府が「情報戦」の戦場を構えはじめている、ということでもある。

問題は、騙す、騙される、ということではなく、出来事への主観的な感情、ときには好き嫌いの感情の醸成をいかにして国家安全保障の戦略のなかに位置づけ、そして国家がこれを利用できるようにするか、という問題にもなる。ここでは二重の「戦線」が構築される。一方では、文字通りの「敵」に対する「情報戦」として敵の認知領域での情報拡散を攪乱したり遮断し、敵国の人々への「偽情報」の拡散を狙う。もうひとつの戦場は、国内の「敵」への対処になる。ここでは、国内の反政府運動などの情報発信を「偽情報」などのレッテルを貼ることによってその信用を失墜させつつ、政府の政策を支持する情報発信を、個人レベルでの発信にまで立ち入るかたちで誘導するような仕掛けを構築することになる。ここで反政府運動が発信する真実や客観的な情報を打ち消す上で、ナラティブつまり「物語」あるいは「神話」が重要な役割を担うことになる。マスメディアが唯一の情報操作の手段にはならなくなった現代では、ターゲットは一人一人の個人であり、その個人が自発的に自由に考え、判断し、行動し、醸成した感情が、結果として国家の意思を支持する方向へと促されるような内面の構築である。この内面は客観的に事実だけでは構成されていない。私たちは何らかの「物語」の世界をもっているからだ。

こうした認知-ナラティブの領域(イデオロギー領域)に関わるサイバー領域のやっかいな事態を具体例で示そう。Twitter(2020年8月6日)は、「政府の特定の公式代表、国家と連携するメディア団体、それらの団体に関連する個人がコントロールするアカウント」にラベルを追加する方針を発表した。ウクライナ戦争時のポリシーとして、Twitterは「信頼性の高い、信頼できる情報を高める 」という意向を表明し,ロシア政府系アカウントへの規制を実施し、「ツイートあたりのエンゲージメントが約25%減少した」「それらのツイートとエンゲージしたアカウント数が49%減少した 」と述べている。11他方で、米国政府から直接間接に資金援助されているなど密接な関係にあるメディアについては、「国家と連携している」メディアであっても特別な措置がとられていない。一般に、ロシア政府系メディアは偽情報を流しているとみなされているので、こうした措置への大きな批判は起きていない。

どのソーシャルメディアも投稿のルールがあり、違反したアカウントを凍結したり廃止する権限をもっている。一般に偽情報を流していたりいわゆるテロリストのアカウントへの監視は注目されるが、その多くは米国と有志連合を組んでいる諸国に敵対する国や組織に対するものが目立つ。あたかも米国側はこうした偽情報やテロリズムの加担するような行動をSNS上では行なっていないような印象をもつ。しかし、実際には、そうとはいえない。Twitterは米国の企業であり、米国の法律に縛られ、企業のナショナルアイデンティティも米国にあることは明かだろう。実際、上記のケースとは別に、Twitterが米国国防総省と協力して、国防総省の情報操作用のアカウントに便宜を図ってきたことが昨年になって明かになった。12

前にも述べたように、国家安全保障戦略における「敵」とは政府に対して異議申し立てをする私たちのことでもある、ということを指摘したが、まさに、認知-ナラティブ領域は、その典型的な「戦場」だといってもいい。

情報を最終的に受けとる主体は「私たち」、つまり国家からみた「国民」である。この「私たち」が敵の偽情報を「真」とみなす間違いを犯さないように誘導すること、自国の政府の情報を「真」とみなすような確信を内面化すること、これがハイブリッド戦の勝敗を意味する。こうしたナショナリズムへと収斂するような「国民」感情が醸成される領域が認知領域だといっていい。こうした国家の意思を支持する大衆心理が形成され、これが誰の目にも明かになることによって、いよいよ武力攻撃そのものを開始できるだけの心理的な準備が整うことになる。

Footnotes:

1

上記以外で偽情報に言及されている箇所は下記である。

国 際社会では、インド太平洋地域を中心に、歴史的なパワーバランスの変化が 生じている。また、我が国周辺では、核・ミサイル戦力を含む軍備増強が急 速に進展し、力による一方的な現状変更の圧力が高まっている。そして、領 域をめぐるグレーゾーン事態、民間の重要インフラ等への国境を越えたサイ バー攻撃、偽情報の拡散等を通じた情報戦等が恒常的に生起し、有事と平時 の境目はますます曖昧になってきている。さらに、国家安全保障の対象は、 経済、技術等、これまで非軍事的とされてきた分野にまで拡大し、軍事と非 軍事の分野の境目も曖昧になっている。p.4
経済安全保障分野における新たなセキュリティ・クリアラ ンス制度の創設の検討に関する議論等も踏まえつつ、情報保全のため の体制の更なる強化を図る。 また、偽情報等の拡散を含め、認知領域における情報戦への対応能 力を強化する。その観点から、外国による偽情報等に関する情報の集 約・分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化等のための 新たな体制を政府内に整備する。さらに、戦略的コミュニケーション を関係省庁の連携を図った形で積極的に実施する。 そして、地理空間情報の安全保障面での悪用を防ぐための官民の実 効的な措置の検討を速やかに行う。p.24

2

https://web.archive.org/web/20210321123355/https://www.hirataku.com/wp-content/uploads/2017/05/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B320171.pdf

3

経済安保相 “セキュリティークリアランス制度 検証早急に”
2022年8月29日 15時33分
高市経済安全保障担当大臣は、経済安全保障の強化に向けて、先端技術の流出を防ぐため重要な情報を取り扱う研究者などの信頼性を確認する「セキュリティークリアランス」と呼ばれる制度について、具体的な制度設計に向けた検証を急ぐ考えを示しました。
「セキュリティークリアランス」は先端技術の流出を防ぐため重要な情報を取り扱う研究者などの信頼性を事前に確認する制度で、経済安全保障の強化に向け経済界などから導入を求める声が出ています。 高市経済安全保障担当大臣は29日、報道各社のインタビューの中で「今後、確実に検討しなければならない課題だと思っている。機微な情報や重要な技術に接する方々については、しっかり信頼性を確保しなければ、日本で民生技術として研究してきたものが他国の先進的な兵器に使われる可能性もある」と述べました。
また「制度をしっかりと法制上位置づけることは重要だと思っている。ただ、個人情報に対する調査を含むものになるので、まずは実際に制度の活用が必要とされる具体的な事例の把握や検証を早急に行っていきたい」として、今後の具体的な制度設計に向けた検証を急ぐ考えを示しました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220829/k10013792891000.html

4

下記の文書にも言及がある。 「経済安全保障推進法の審議・今後の課題等について」内閣官房 経済安全保障法制準備室 2022年7月25日 https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/keizai_anzen_hosyohousei/r4_dai1/siryou3.pdf

5

山口信治、八塚正晃、門間理良「認知領域とグレーゾーン事態の掌握を目指す中国」防衛研究所、2023。http://www.nids.mod.go.jp/publication/chinareport/pdf/china_report_JP_web_2023_A01.pdf 長沼加寿巳「認知領域における戦い:物語(ナラティブ)、感情、時間性」NIDS コメンタリー第 163 号、第 163 号 2021 年 3 月 14 日。http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary163.pdf 飯田将史「中国が目指す認知領域における戦いの姿」NIDS コメンタリー第 177 号 2021 年 6 月 29 日 http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary177.pdf 諸永 大「認知戦への対応における『歴史の教訓』研究の可能性」 http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary251.pdf 長沼加寿巳「安全保障や防衛におけるナラティブ」 NIDS コメンタリー第 155 号 http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary155.pdf

6

人間が有する感情の観点からは、被害者状態、ノスタルジアや集合的ナルシシズムが、集団行動にも影 響を及ぼす。特に、国家主体、テロリストや過激主義集団が、これらをナラティブに組み込んでいる場 合には、その作用や目的について強い警戒感をもって接する必要がある。
時間性に関しては、防衛分野において、我の時間を稼ぐと同時に彼の時間を奪うこと、彼の意思決定や 情勢認識への間断ない干渉、戦略的な遅滞行動に伴い生起する時間的・空間的な「摩擦」の相手への指 向といった観点から、焦点を当てることが必要である。
将来戦においては、物理領域と仮想領域を繋ぐ、宇宙・サイバー・電磁波という分野が重視されている。 これに加えて、仮想領域と認知領域を繋ぐアプローチ、すなわち、認知領域における戦いについても、 適切な対処が不可欠である。(「認知領域における戦い:物語(ナラティブ)、感情、時間性」の要旨から引用)

7

プラトンの批判を受け継ぎながら、在来の弁論術の業績を幅広く吸収してこれを技術として完成したのがアリストテレスの『弁論術』である。彼は弁論術を「それぞれの対象に関して可能な説得手段を観察する能力」と定義して、〔1〕立証、〔2〕配列、〔3〕措辞の3部門をたてる。要 (かなめ) となるのは〔1〕の立証であり、そこに(1)弁論家の性格(エートス)、(2)聴衆の感情(パトス)、(3)言論そのものの論理(ロゴス)が含まれる。(3)にはさらに、弁論術的帰納とよばれる「例」と、弁論術的推論とよばれる「エンテューメーマ」があり、蓋然 (がいぜん) 的ないし常識的命題を前提に用いる(したがって、しばしば前提部分が省略される)不完全な三段論法であるエンテューメーマがとくに最有力の立証手段として重視される。すなわちアリストテレスは、真実を探求する哲学的言論とは異なる大衆相手の実践的言論の技術の領分において、真実らしさの実効性に理論的照明をあてたのである。 [尼ヶ﨑紀久子]

8

安部憲明「新型コロナ感染症と世界貿易 OECD のナラティブと当面の国際協調に関する 11 の着眼点」、フラッシュ 461、国際貿 易投資研究所、2020 年 5 月 14 日 [http://www.iti.or.jp/flash461.htm]。

9

コンピュータ科学は行動主義を捨てることができない、と私は考えている。現在起きている国家安全保障の枠組は、行動主義の決定的な難点でもある人間の心理、つまり行動の前提になる動機や感情への関心の欠如を、認知心理学が補完することで、人間を機械として把えることから、機械を超越するものとしての人間をも国家の意思に従属させるためのより高度な研究へと転換してきた、ということだと思う。これは私たちにとっては更に逃げ場を奪われる深刻な事態でもある。

10

これまで第四の権力とも称されてきたマスメディアが影響力を保持してきた一つの理由は、政府機関以外 では、このようなナラティブを構成する機能をほぼ独占してきたことに由来する。今日、情報通信技術が飛躍 的進展し、SNS ツールが広く情報ネットワークと個人をつなぐ結節点(ノード)や境界面(ファセット)を 構成した以上、文字通り、中間媒体物としてのメディアによるこの独占状態は、早晩、縮小を余儀なくされる だろう。長沼「「認知領域における戦い:物語(ナラティブ)、感情、時間性」http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary163.pdf

11

12

(Intercept) Twitterが国防総省の秘密オンラインプロパガンダキャンペーンを支援していたことが判明

Author: 小倉利丸

Created: 2023-02-26 日 11:18

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サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(2)――従来の戦争概念を逸脱するハイブリッド戦争

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サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(1)

1. 武力攻撃以前の戦争?

国家安全保障戦略にはハイブリッド戦という概念も登場する。たとえば、以下のような文言がある。

サイバー空間、海洋、宇宙空間、電磁波領域等において、自由なア クセスやその活用を妨げるリスクが深刻化している。特に、相対的に 露見するリスクが低く、攻撃者側が優位にあるサイバー攻撃の脅威は 急速に高まっている。サイバー攻撃による重要インフラの機能停止や 破壊、他国の選挙への干渉、身代金の要求、機微情報の窃取等は、国 家を背景とした形でも平素から行われている。そして、武力攻撃の前 から偽情報の拡散等を通じた情報戦が展開されるなど、軍事目的遂行 のために軍事的な手段と非軍事的な手段を組み合わせるハイブリッド 戦が、今後更に洗練された形で実施される可能性が高い。 p.7

ここでは、「武力攻撃の前 から偽情報の拡散等を通じた情報戦」などのハイブリッド戦に着目している。ハイブリッドが意味するのは、従来からの陸海空による武力行使としての「戦」とともに、これらに含まれず、武力行使のカテゴリーにも含まれないが戦争の一環をなす攻撃領域を指している。だから、「ハイブリッド戦」は、従来の武力行使の概念を越えて広がりをもつ特異な戦争=有事の事態の存在を示している。この観点からすると、情報戦は、ハイブリッド戦の一部として位置づけうるものだ。そして、前回論じたグレーゾーン事態の認識は、このハイブリッド戦を展開するための「戦場」認識になる。ここでは、平時であってもハイブリッド戦のなかの情報戦は遂行可能であり、これは有事(戦時)における情報戦とはその役割も行動も異なるが、平時だから「戦」は存在しない、ということにはならない、という語義矛盾をはらむ認識が、少なくとも国家安全保障戦略のハイブリッド戦理解の前提にはある。この矛盾を巧妙に隠蔽するのがグレーゾーン事態になる。ロシアのウクライナへの侵略に際してもハイブリッド戦という文言が用いられたが、この場合は、武力行使とほぼ同時に通信網へのサイバー攻撃や偽情報の拡散などによる攪乱といった軍事行動を指す場合になる。1他方で国家安全保障戦略のハイブリッド戦の概念は、戦時だけではなくグレーゾーンから平時までを包括して、そもそもの武力攻撃と直接関連しないようなケースまで含めた非常に幅広いものになっている。これは、9条の悪しき副作用でもある。戦争放棄の建前から、戦時(有事)を想定した軍事安全保障の組織的な展開を描くことができないために、むしろ災害を有事に組み込んで自衛隊の役割を肥大化させてきたように、本来であれば軍事安全保障とは関わるべきではない領域が主要な軍事的な戦略のターゲットに格上げされてしまっているのだ。

2. 戦争放棄概念の無力化

「武力攻撃の前」にも「情報戦」などのハイブリッド戦と呼ばれるある種の「戦争」が存在するという認識は、そもそもの「戦争」概念を根底から覆すものだ。憲法9条に引きつけていえば、いったい放棄すべき戦争というのは、どこからどこまでを指すのかが曖昧になることで、放棄すべき戦争状態それ事態が明確に把えられなくなってしまった。いわゆる従来型の陸海空の兵力を用いた実力行使を戦争とみなすと、武力攻撃以前の「戦」は放棄の対象となる戦争には含まれなくなる。しかし、武力攻撃以前の「戦」もまた戦争の一部として実際に機能しているから、これを国家安全保障の戦略のなかの重要な課題とみなすべきだ、という議論にひきづられると、ありとあらゆる社会システムがおしなべて国家安全保障の観点で再構築される議論に引き込まれてしまう。国家安全保障戦略では、戦力や武力の概念がいわゆる非軍事領域にまで及びうるという含みをもっているのだが、これに歯止めをかけるためには9条の従来の戦力などの定義では明かに狭すぎる。条文の再解釈が必要になる。9条にはハイブリッド戦を禁じる明文規定がなく、非軍事領域もまた軍事的な機能を果しうることへの歯止めとなりうる戦争概念がないことが一番のネックになる。政府の常套手段として、たとえば自衛についての概念規定が憲法にないことを逆手にとって「自衛隊」という武力を生み出したように、ハイブリッド戦もまた9条の縛りをすり抜ける格好の戦争の手段を提供することになりうるだろう。

つまりハイブリッド戦争を前提にしたとき、反戦平和運動における「戦争とは何か」というそもそもの共通認識が戦争を阻止するための枠組としては十分には機能しなくなった、といってもいい。あるいは、反戦平和運動が「戦争」と認識する事態の外側で実際には「戦争」が遂行されているのだが、このことを理解する枠組が反戦平和運動の側にはまだ十分確立していない、といってもいい。このように言い切ってしまうのは、過剰にこれまでの反戦平和運動を貶めることになるかもしれないと危惧しつつも、敢えてこのように述べておきたい。

だから、従来の武力攻撃への関心に加えて、武力攻撃以前の有事=戦争への関心を十分な警戒をもって平和運動の主題にすることが重要だと思う。今私たちが注視すべきなのは、武力攻撃そのものだけではなく、直接の武力行使そのものではないが、明らかに戦争の範疇に包摂されつつある「戦」領域を認識し、これにいかにして対抗するか、である。注視すべき理由は様々だが、とくに戦争は国家安全保障を理由に強権的に市民的自由を抑制する特徴があることに留意すべきだろう。また、ここでハイブリッド戦として例示されているのは、「他国の選挙への干渉、身代金の要求、機微情報の窃取」のように、従来であれば司法警察の捜査・取り締まり事案とされてきたものが、「戦」の範疇に含められている。これらすべてが、私たちの市民的自由の基盤になりつつあるサイバー領域での戦争事態であると位置付けられていることに注目する必要がある。いわゆる正義の戦争であって例外ではない。だから戦争の範疇が拡大されるということ――あるいは軍事の領域が拡大されるということ――は、同時に私たちの市民的自由が抑圧される範囲も拡がることを意味する。

3. サイバー領域を包摂するハイブリッド戦の特異性

ある意味では、いつの時代も戦争は、事実上のハイブリッド戦を伴なっていた。冷戦とはある種のハイブリッド戦でもあった。文化冷戦と呼ばれるように、米国もソ連も文化をイデオロギー拡散の手段として用いてきた。この意味で「軍事目的遂行 のために軍事的な手段と非軍事的な手段を組み合わせる」ことは新しい事態ではない。だが、今回の国家安全保障戦略は、サイバー領域をまきこんだ軍事作戦をハイブリッド戦と称して特別な関心をもつようになった。これまでの有事=戦時と平時の関係に対して、サイバー領域を念頭に置きながら、政府自らが、その境界の曖昧さこそが現代の戦争の特徴である宣言したこと、平時を意識的に有事態勢に組み込むことの必要こそが、安全保障の戦略であると宣言したこと自体が新しい事態だといえる。

一般に、有事と平時を大きく隔てる環境は、私たちの市民的な権利の制約として現われる。この権利の制約は、有事を口実として国家安全保障を個人の自由よりも優先させるべきだとする主張によって正当化される場合が一般的だ。ここでいう個人の自由のなかでも特に、有事において国家が人々を「国民」として統合して国家の軍事行動の遂行を支える意思ある存在へと収斂させようとするときに、これと抵触したり抵抗する自由な意思表示や行動を権力的に弾圧しようとするものだ。平時と有事の境界が曖昧になるということは、平時における市民的自由を有事を基準に抑制する法や制度が導入されやすくなることでもある。つまり例外状態の通例化だ。

しかし、サイバー領域を含む平時と有事の曖昧化、あるいはグレーゾーン事態なるものの蔓延は、これまでにはない特徴をもっている。それは、両者の境界の曖昧化が、マスメディアによるプロパガンダのような上からの情報操作だけではなく、私達の日常的な相互のコミュニケーション領域に深く浸透する、ということだ。サイバー領域そのものが双方向のコミュニケーション空間そのものであることから、この領域では、有事は、市民的自由を抑制して国家意思に個人を統合しようとする政府の強権的な政策を生みやすい。統制や検閲の対象は放送局や出版社などではなく、ひとりひとりの個人になる。だから、統制の技術も異なるし、その制度的な枠組も異なるが、伝統的なメディア環境に比べて、その統制の影響は私たち一人一人に直接及ぶことになる。ここに有事と平時をまたぐグレーゾーンというバッファが設定されることによって、統制のシステムはより容易に私たちの日常に浸透することになる。

4. サイバー領域と国家意思への統合

最大の問題は、にもかかわらず、ほとんどの人達は、このことを自覚できるような情報を与えられないだろう、ということだ。戦争を遂行しようとする国家にとっては、私達は、その戦争を下から支える重要な利害当事者――あるいは多くの場合主権者――でもある。国家の指導者層にとって民衆による支持は、必須かつ重要な武力行使正当化の支えだ。私たちが日常生活の感情からあたかも自発的に国家への自己同一化へと向っているかのような実感が生成されることが、国家にとっては最も好ましい事態だといえる。そのためには統制という言葉に含意されている上からの強制というニュアンスよりもむしろ自発的同調と呼ぶべきだろうが、そうなればなるほどサイバー領域における国家の統制技術は、知覚しえない領域で水面下で機能することになる。「民衆の意思を統治者に同化させる」ことが軍事にとって必須の条件だと述べたのは孫子2だが、この古代の教義はサイバーの時代になっても変らない。

国家による有事=武力行使の正統性が民衆の意思によって確認・承認されて下から支持されていることが誰の目からみても明らかな状況が演出されない限り、国家の軍事行動の正統性は確認されたとはいえない。インターネットのような双方向のグローバルなコミュニケーション環境はこの点でマスメディア体制のように、限定されたメディア市場の寡占状態――あるいは独裁国家や権威主義国家ならば近代以前からある広場での大衆敵な国家イベントによる可視化という手法もある――を利用して人々の「国民統合」を可視化することは難しくなる。マスメディアと選挙で民意の確認を表現する20世紀の同意の構造は、ここでは機能しない。SNSのような国境を越える双方向コミュニケーションを前提にして、民衆を「国民」に作り替えて国家の意思へと収斂する状況の構築は、民衆の多様な意思が星雲状に湧き出すようにして顕在化し露出するサイバー空間では制御が難しい。しかも、20世紀の議会主義として制度化された民主主義を、政府がいくら自らの権力の正統性の基礎に置き、法の支配の尊重を主張しようとも、実際の民衆の意思はこの既存の正統性の制度の掌からこぼれ落る水のようにうまく掬いとることができないものとしてSNSなどに流れることになる。だから政府は、こうした逸脱した多様な異議を再度国家による権力の正統性を支える意思へと回収するための回路を構築しなければならない。3これが有事であればなおさら、その必要が強く自覚されることになる。ハイブリッド戦とは、実はこうした事態――政府からは様々なグラデーションをもったグレゾーン事態――をめぐる「戦争」でもある。

5. サイバー領域における抵抗の弁証法

サイバーが国家安全保障における重要な位置を占めている理由はひとつではない。上述の民衆の意思の再回収という観点でいえば、SNSなどに特徴的なコミュニケーションのスタイルでもある極めて私的な世界から不特定多数へ向けての人々の感情の露出が、時には政府の政策と対峙するという事態が生じることになる。これは伝統的なマスメディア環境にはなかった事態だ。たとえば、インフレに直面しながら一向に引き上げられない賃金への不満は、SNSで日常生活に関わる不満として表現されるが、これが井戸端会議や労働組合の会議での議論と違うのは、不特定多数との共鳴や摩擦を通じて、時には大きな社会的な抗議や反発を生み出す基盤になりうる、という点だ。たった一人の庶民が被った権力からの不当な仕打ちは、それが映像として拡散することによって多くの人々に知られることになり、我がこととして受け取られて、抗議の行動へと繋がる回路は、アラブの春から#metooやBlack Lives Matter、香港の雨傘からロシアの反戦運動まで、世界中の運動に共通した共感や怒りの基盤となっている。これは「私」と他者との間の共感/怒りの構造がSNSを通じて劇的に変化してきたことを物語っている。このプロセスは、「偽情報」を拡散しようとするハイブリッド戦の当事者にとっても魅力的だ。このプロセスをうまく操れれば「敵」の民衆を権力者への同一化から引き剥がし攪乱させることができるからだ。こうして私たちは、ナショナルなアイデンティティから自らを切り離す努力をしないままにしていれば、否応なしに、この「戦争」に心理的に巻き込まれることになる。

もともと20世紀のメディア環境において言論表現の自由を権利として保障する体制は、金も権力ももたない庶民が政権やマスメディアのように不特定多数へのメッセージの発信力をもっていないという不均衡な力学を前提としたものだった。ところがインターネットは、この情報発信の非対称性を覆し、権力者と民衆の間の格差を大幅に縮めた。マスメディアの時代のように、無数の「声なき民」の実際の声を無視してマスメディアや選挙で選出された議員の主張を「世論」だと主張することはできなくなった。マスメディアや議員によっては代表・代弁されない、多数の異論の存在が可視化されているのが現在のコミュニケーション環境、つまりサイバーの世界だ。

だから、こうしたネット上のメッセージを国家の意思へと束ねるために新たな技術が必要になる。この技術は人々の行動を予測する技術として市場経済で発達してきたものの転用だ。自由な行動(競争)を前提とする市場経済では、自由なはずの消費者の購買行動を自社の商品へと誘導するための技術が格段に発達する。こうして、サードパーティクッキーなどを駆使したターゲティング広告やステルスマーケティングなどの技法によって、固有名詞をもった個人を特定してプロファイルし、将来の購買行動に影響を与えるように誘導する技術が急速に普及した。この技術は、選挙運動で有権者の投票行動の誘導に転用するなどの政治コンサルタントのビジネスを支えるものになったことは、2016年の米国大統領選挙、英国のEU離脱国民投票などでのケンプリッジアナリティカのFacebookデータを利用した情報操作活動で注目を浴びることになった。4

もうひとつの傾向が、事実をめぐる政治的な操作だ。権力による人々の意識や行動変容を促す伝統的な技術は、検閲と偽情報の流布だった。検閲は基本的に、権力にとって好ましくない表現や事実を事前に抑制する行為を意味する。偽情報は公表すべき事実を権力にとって都合のよい物語として組み換えたり改竄することを意味する。現代の情報操作の特徴は、これらを含みながらも、より巧妙になっている。ビッグデータの膨大な情報の取捨選択や優先順位づけなど人間の能力では不可能なデータ処理を通じて新たな物語を構築する能力だ。この取捨選択と優先順位付けは主に検索エンジンが担ってきたが、これにChatGPTのように双方向の対話型の仕組みが組み込まれることによって、コミュニケーションを介して人々を誘導する技術が格段に進歩した。検閲とも偽情報とも異なる第三の情報操作技術だ。

グレーゾーン事態への対処としての安全保障戦略は、国家が私たちの私的な世界を直接ターゲットにして私たちの動静を把握しつつ、私たちの状況に最適な形での世界像を膨大なデータを駆使して描くことを通じて、国家意思へと収斂する私たち一人一人のナショナルなアイデンティティを構築しようとするものだ。同時に、私たちは、自国政府だけでなく、「敵」の政府による同様のアプローチにも晒される。いわゆる「偽情報」や事実認識をめぐる対立は、それ自体が、国家のナショナリズム構築にとっての障害となり、この障害は戦時体制への動員対象でもある人々の戦意に影響することになる。

Footnotes:

1

たとえばマイクロソフトの報告書参照。The hybrid war in Ukraine、Apr 27, 2022 https://blogs.microsoft.com/on-the-issues/2022/04/27/hybrid-war-ukraine-russia-cyberattacks/

2

浅野裕一『孫子』、講談社学術文庫、p.18。

3

グローバルサウスや紛争地帯では、政権が危機的な事態になるとインターネットの遮断によって人々のコミュニケーションを阻止し、政府が統制しやすいマスメディアを唯一の情報源にするしかないような環境を作りだそうとする。米国や英国など、より巧妙な情報操作に長けた国では、情報操作を隠蔽しつつ世論を誘導するターゲティング広告やステルスマーケティングなどの技術が用いられる。

4

ブリタニー・カイザー『告発 フェイスブックを揺るがした巨大スキャンダル』、染田屋茂他訳、ハーパーコリンズ・ジャパン、2019; クリストファー・ワイリー『マインドハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』、牧野洋訳、新潮社、2020参照。

Author: 小倉利丸

Created: 2023-02-17 金 22:21

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サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(1)――グレーゾーン事態が意味するもの

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サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(2)

1. 未経験の「戦争」問題

昨年暮に閣議決定された安保・防衛3文書への批判は数多く出されている。しかし、「サイバー」領域に関して、立ち入った批判はまだ数少ない。日弁連が「敵基地攻撃能力」ないし「反撃能力」の保有に反対する意見書」のなかで言及したこと、朝日新聞が社説で批判的に取り上げたこと、などが目立つ程度で、安保・防衛3文書に批判的な立憲民主、社民、共産、自由法曹団、立憲デモクラシーの会、いずれもまとまった批判を公式見解としては出していないのではないかと思う。(私の見落しがあればご指摘いただきたしい)

サイバー領域は、これまでの反戦平和運動のなかでも取り組みが希薄な領域になっているのとは対照的に、通常兵器から核兵器に至るまでサイバー(つまりコンピュータ・コミュニケーション・技術ICT)なしには機能しないだけでなく、以下で詳述するように、国家安全保障の関心の中心が、有事1と平時、軍事と非軍事の境界を意図的に曖昧化するハイブリッド戦争にシフトしていることにも運動の側が対応できていないように感じている。この立ち後れの原因は、日本の反戦平和運動の側ではなく、むしろ日本のサイバー領域における広範な反監視やプライバシー、言論・表現の自由などの市民的自由領域の運動の脆弱さにあると思う。この意味で、こうした領域に少なからず関わってきた私自身への反省がある。

今私たちが直面しているのは、ネットが日常空間と国家安全保障とをシームレスに繋いでいる時代になって登場した全く未経験の戦争問題なのだ。戦時下では、個人のプライベイートな生活世界全体を戦時体制を前提に国家の統治機構に組み込むことが必須になるが、サイバーはその格好の突破口となりかねない位置にある。この点で、私たちのスマホやパソコン、SNSも戦争の道具になりつつあるという自覚が大変重要になっている。Line、twitter、Facebookを使う、YoutubeやTikTokで動画配信する、といった多くの人々にとっては日常生活の振舞いとして機能しているサイバー空間のサービスと戦争との関係に、反戦平和運動はあまり深刻な問題を見出していないように思う。SNSなどは運動の拡散の手段として有効に活用できるツールであることは確かだが、同時に、この同じツールが反戦平和運動を監視したり、あるいは巧妙な情報操作の舞台になるなど、私たちにとっては知覚できない領域で起きている問題を軽視しがちだ。

2. グレーゾーン事態、有事と平時、軍事と非軍事の境界の曖昧化――国家安全保障戦略の「目的」について

2.1. 統治機構全体を安全保障の観点で再構築

国家安全保障戦略の冒頭にある「目的」には次のように書かれている。

Ⅰ 策定の趣旨
本戦略は、外交、防衛、経済安全保障、技術、サイバー、海洋、宇宙、情報、 政府開発援助(ODA)、エネルギー等の我が国の安全保障に関連する分野 の諸政策に戦略的な指針を与えるものである。p.4

旧戦略では「本戦略は、国家安全保障に関する基本方針として、海洋、宇宙、サイバー、政府開発援助(ODA)、エネルギー等国家安全保障に関連する分野の政策に指針を与えるものである。」となっていた。今回の改訂で、外交、防衛、経済安全保障、技術、情報が明示的に追加されることになった。経済安全保障についての議論は活発だが、情報安全保障については、実はほとんど議論がない。しかし、情報産業が今では資本主義の基軸産業となっていることを念頭に置くと、旧戦略と比較して、情報と経済が明示されたことは大きい。今回の戦略は、以前にも増して国家の統治機構全体を安全保障の観点で再構築する性格が強くなっているといえる。

今回の国家安全保障戦略は、国家の統治機構全体の前提を平時ではなく有事に照準を合わせて全ての社会経済制度を組み直している。政府が有事と表現することには戦時が含まれ、軍事安全保障では有事と戦時はほぼ同義だ。グレーゾーン事態とか有事と平時、あるいは軍事と非軍事といった概念を用いて、国家安全保障を社会の全ての領域における基本的な前提とした制度の転換である。だから、今回の国家安全保障戦略は、有事=戦時を中心とする統治機構の質的転換の宣言文書でもある。

2.2. 恣意的なグレーゾーン事態概念

たとえば国家安全保障戦略には以下のような箇所がある。

領域をめぐるグレーゾーン事態、民間の重要インフラ等への国境を越えたサイ バー攻撃、偽情報の拡散等を通じた情報戦等が恒常的に生起し、有事と平時 の境目はますます曖昧になってきている。さらに、国家安全保障の対象は、 経済、技術等、これまで非軍事的とされてきた分野にまで拡大し、軍事と非 軍事の分野の境目も曖昧になっている。p.4

ここでグレーゾーン事態と呼ばれているのは、純然たる平時でも有事でもない曖昧な領域概念だ。防衛白書2では、国家間に領土、主権、経済権益などの主張で対立があるなかで武力攻撃には該当しないレベルを前提にして、自衛隊による何らかの行動を通じて自国の主張を強要するような行為をグレゾーン事態として定義している。従来自衛隊といえば陸海空の武力(自衛隊では「実力組織」と言い換えている)を指す。しかし、防衛力整備計画の2万人体制でのサイバー要員3とその任務を前提にすると、武力行使を直接伴うとはいえない領域へと自衛隊の活動領域が格段に拡大することになる。

従来、自衛隊が災害派遣として非軍事領域へとその影響力を拡大してきた事態に比べてサイバー領域への拡大は、私たちの日常生活とコミュニケーション領域そのものに直接影響することになる。自衛隊の存在そのものが有事=戦時を前提としており、その活動領域が非軍事領域に浸透することを通じて、非軍事領域が軍事化し、平時が有事へとその性格が変えられ、国家安全保障を口実とした例外的な権力の行使を常態化させることになる。

平時と有事を座標軸上にとり、その中間にグレーゾーンが存在するとみなすような図式はここでは成り立たない。なぜならば、グレーゾーンの定義はもっぱら政府の恣意的な概念操作に依存しており客観的に定義できないからだ。平時と有事、軍事と非軍事についても同様に、その境界領域はあいまいであり、このあいまいな領域を幅広く設定することによって、平時や非軍事を有事や軍事に包摂して国家の統制を社会全体に押し広げて強化することが容易になるような法制度の環境が生みだされかねない。

2.3. 変わらない日常のなかの知覚できない領域で変容が起きる

だから、法治国家であるにもかかわらず、今私たちが暮すこの環境の何が、どこが、グレーゾーンなのか、あるいは有事なのか、軍事に関わっているのか、といったことを法制度上も確認する明確な手立てがない。

たとえばJアラートの警報はどのように位置づくのだろうか。あるいは、次のような場面をイメージしてみよう。私のスマホは、昨日も今日も同じようなサービスを提供しており、私の利用方法にも特段の違いがないとしても、サイバー領域の何らかの事態によってグレゾーン事態や有事としての判断を政府や防衛省が下したばあいに、通信事業者が政府の要請などによって、従来にはない何らかの対処をとることがありえる。これは防災アプリのように明示的にユーザーに告知される場合ばかりではないだろう。昨日と今日のスマホの機能の違いは実感できないバックグラウンドでの機能は、私には知覚できない。しかし多分、サイバーが国家安全保障上の有事になれば、たとえば、通信事業者による私たちの通信への監視が強化され通信ログやコンテンツが政府によってこれまで以上に詳細に把握されるということがありうるかもしれない。次のようなこともありえるかもしれない。「敵」による偽情報の発信が大量に散布される一方で、自国政府もまた対抗的な「偽情報」で応戦するような事態がSNS上で起きている場合であっても、こうした情報操作に私たちは気づかず、こうした情報の歪みをそのまま真に受けるかもしれない。検索サイトの表示順位にも変更が加えられ「敵」に関するネガティブな情報が上位にくるような工作がなされても私たちは、検索アルゴリズムがどのように変更されたかに気づくことはまずない。4

上のような例示を、とりあえず「コミュニケーション環境の歪み」と書いておこう。「歪み」という表現は実は誤解を招く。つまり歪んでいないコミュニケ=ション環境をどこかで想定してしまうからだ。この「歪み」で私が言いたいことは、そうではなくて、従来のコミュニケーション環境――それはそれなりの「歪み」を内包しているのだが――に新たな「歪み」が加わる、ということだ。こうした「歪み」は、実感できるものではないし、これを正すこともできない。むしろコミュニケーション環境に対する私たちの実感は、この環境をあるがままに受けいれ、また発信することになる。自らの発信が再帰的に歪みの構造のなかで更なる歪みをもたらす。こうしたことの繰り返しにAIが深く関与する。軍事・安全保障を目的として各国の政府や諸組織が関与するサイバーと呼ばれる領域は、伝統的な人と人の――あるいは人の集団としての組織と組織の――コミュニケーションとは違う。ここには、膨大なデータを特定のアルゴリズムによって処理しながら対話する人工知能のような人間による世界への認識とは本質的に異なる「擬似的な人間」が介在する。しかし人間にはフェティシズムという特性があり、モノをヒトとして扱うことができる。AIは人間のフェティッシュな感性に取り入り人間のように振る舞うことになるが、これは、AIの仕業というよりも、人間が自ら望んだ結果でもある。たぶん、こうした世界では、AIが人間化するよりも人間がAIを模倣して振る舞う世界になるだろう。こうして「私たち」のなかに、AIもまた含まれることになる。

グレーゾーン事態は、私たちの市民的自由や基本的人権を侵害しているのかどうかすら私たちには確認できない事態でもある。このコミュニケーション環境全体の何が私のコミュニケーションの権利を侵害しているのかを立証することは極めて困難になる。権利侵害の実感すらないのであれば、権利侵害は成立しない、というのが伝統的な権利概念だから、そもそもの権利侵害すら成り立たない可能性がある。

Footnotes:

1

松尾高志は、「有事法制」とは戦時法制のこと。「有事法制」は防衛省用語。(日本大百科)と説明している。戦争放棄を憲法で明記しているので、「戦時」という言葉ではなく有事を用いているにすぎないという。憲法上の制約から戦時という概念を回避して有事に置き換えられる結果として、自然災害も戦争もともに有事という概念によって包摂されてしまう。この有事という概念には、本来であれば戦時に限定されるべき権力の例外的な行使が、有事という概念を踏み台にして、非戦時の状況にまで拡大される可能性がある。有事は、災害における自衛隊の出動と軍隊としての自衛隊の行動をあいまいにする効果がある。

2

防衛白書 2019年、https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2019/html/nc007000.html

3

「2027 年度 を目途に、自衛隊サイバー防衛隊等のサイバー関連部隊を約 4,000 人に 拡充し、さらに、システム調達や維持運営等のサイバー関連業務に従事 する隊員に対する教育を実施する。これにより、2027 年度を目途に、サ イバー関連部隊の要員と合わせて防衛省・自衛隊のサイバー要員を約2 万人体制とし、将来的には、更なる体制拡充を目指す。」防衛力整備計画、p.6

4

たとえばGoogleは年に数回コアアップグレードを実施し、アルゴリズムの見直しをしているという。米国最高裁が人工妊娠中絶についての解釈を変えて中絶の違法化を合憲とした後で、米国ではオンラインで人工妊娠中絶のサポートサイトが、検索順位で下位へと追いやられる事態が起きた。「(Women on web) GoogleのアルゴリズムがWomen on Webのオンライン中絶サービスへのアクセスを危険にさらす」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/googles-algorithm-is-endangering-access-to-women-on-webs-online/

Author: 小倉利丸

Created: 2023-02-17 金 13:08

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戦争に反対する組織作りの緊急性

以下は、前の投稿に続き、TSSのウエッブからの呼びかけの訳。TSSは昨年10月に会議を開催したのに続いて、2月10日からフランクフルトで会議を開く。この会議に向けた呼びかけ。なお共催のドイツの団体、Interventionisische LinkeのウエッブにもILからの集会参加の呼びかけ文が掲載されている。このILの呼びかけでは次にような言及があるので紹介しておく。

「数回のトランスナショナルな会議(ポズナン、パリ、ベルリン、リュブリャナ、ストックホルム、ロンドン、トビリシ)を経て、昨年9月にブルガリアのソフィアに集った。私たちは、中東欧が安価な生産的・再生産的労働力の貯蔵庫であり、権威主義的・家父長的政治と産業再編の実験場であるだけでなく、数十年にわたる社会的再生産の危機の中心であることを認識している。東欧からは、EUの変容とそのトランスナショナルな次元をより明確に見ることができる。フランクフルトでの会議では、これらの経験を、いわゆるEUの金融センターにおける闘争と結びつけたいと考えている。私たちは、ヨーロッパ内で起こっていることに国境を越えた次元を加え、民族主義、人種差別、賃金、性差別の分断と闘う力を発展させたい。

すでに多くの闘争が始まっている。例えば、戦争反対の恒久的なアセンブリ、5月1日に始まった「反戦ストライキ」とトランスナショナルな平和政治のための動員などだ。英国での “Don’t Pay “キャンペーンは、他の国でにも波及している。生活費の高騰に対抗して組織される草の根的な取り組みがますます増えてきている。アマゾンでの賃上げを求めるストライキ、フランスでの運輸・エネルギー部門におけるストライキ、イタリアでの闘争。平和と気候正義を求めるデモ。ロシアにおけるフェミニストの反乱と家父長制の暴力に対するストライキ。ウクライナからの難民、特に女性を含む大規模な人の移動、ロシアではプーチン政権から部分的な動員を逃れるための人々の移動、そしてEUに向けた、あるいは国境を越えた移動の動きが続いている。女性の自由の名の下で起きたイランでの決起。私たちは、こうした異なる形態のストライキや拒否を、異なる未来を求める運動として統合したい。私たちは、共にに闘うことを学ばなければならない。私たちは、搾取、人種差別、家父長制を意味する当たり前の状態に戻るだけではない平和のために闘いたい。」


2023年2月7日

by 戦争反対の恒久的なアセンブリ

ロシアがウクライナに侵攻し、無差別戦争が勃発してから約1年、あらゆる方面からの言葉や 動きは、戦争のエスカレーションを意味するものばかりである。この戦争が、崩壊しつつある世界秩序の柱を揺るがしているとき、戦争マシーンに直接関与する行為者や国家もあれば、事態の進展を見守りながら、適切な機会をとらえて、対抗するための軍備を整える者もいる。この利己的な政治ゲームの中で、また核災害の予兆にかかわらず、どの制度的イニシアティブもウクライナの戦争を積極的に止めようとはしていない。戦争は国家政治の中に組み込まれるようになり、私たちは第三次世界大戦の状況に生きていることを認識するために、ウクライナや他の場所でさらなる悲劇を待ち望む必要はないのである。戦争が始まってほぼ1年、プーチンの侵略に対する無条件の非難は、私たちがさまざまなアクターによって血生臭いゲーム引きこまれてきたことを隠すことはできない。このような状況の中で、私たちは、国境を越えた平和の政治を構築するために、たゆまぬ努力を傾ける必要がある。

戦争の政治の中で、グローバルなバランスとバリューチェーンにおける位置づけが再構築されつつある。侵略と破壊が見られるところでは、ロシアの政治家がサプライヤーとして権力を維持する可能性を見出し、死と社会的再生産の危機が深まるところでは、ヨーロッパやアメリカの政治家が大企業にとっての機会を見出し、戦争を止めなければならない場所では、トルコ、イラン、中国を含む他の政府がより高い経済・政治の役割を獲得する機会を狙っている。よく知られているように、ウクライナでは汚職との闘いにさえ、復興のための莫大な投資をめぐる競争が見え隠れしている。これは、EUの民主主義の基準とはほとんど関係がなく、一部のオリガルヒの代わりに、金融投資家に「復興」から利潤を確保させるためのものである。損傷したウクライナのインフラ修復の受注競争と、欧州委員会、グローバルなコンサルタント会社、金融機関の復興の見通しに対する意気込みは、恥知らずにもほどがある。

欧米からの戦車、ミサイル、弾薬、軍事インフラへの投資が増えることで、どのような形で戦争の行方が変わるのか、私たちには分からない。ここ数カ月、戦争がエスカレートするたびに終結が近づくという声が聞こえてくるが、現実には誰もが戦争の長期化に備えている。プーチンの殺人的な猛攻にもかかわらず、戦争の利益を夢想しているのは彼一人ではない。ヨーロッパ中の議会での決定は、政府の側近が指示する通常の選択肢の承認へと帰結している。ウクライナへの兵器提供に関して、わずかでも意見の相違を表明した政治家は、敵の側についたと非難される。ゼレンスキー大統領が率直に述べたように、「自由、財産、利潤」を守るという名目で、どんな些細な抵抗も抑圧される。一方、新しい「博士の異常な愛情」[冷戦期の核戦争を風刺した映画のタイトル(訳注)]は、自分たちが完全にコントロールしており、行動の限界もわかっていると主張する。しかし、私たちは彼らの安心感に納得することはできない。このような図式の中では、国粋主義的な言説が反対意見を封じ込め、戦争の霧の背後にある社会的対立を黙殺しようと目論まれている。この数週間の戦車の騒動はその一例だ。数週間の緊張の末に、私たちはより多くの国々が戦争に深く関与し、ジェット戦闘機を含むさらなる兵器を新たに要求している状況を見ている。

戦争がウクライナの人々の生活を破壊する一方で、この戦争から直接的に利益を得ているのは、軍事産業であり、この産業は大きな後押しを受けている。現在、戦争に関心を持つ産業やサプライチェーンは増え続けている。ドイツの兵器メーカーであるRheinmetallが脚光を浴びており、その株主はこのエスカレーションから利益を得るだろう。同じことは、この戦争のそれぞれの側にいる他の国々の軍産複合体にも当てはまる。しかし、これらのことがすべて明らかになったとしても、それが簡単な答えになるわけではあるまい。軍需産業は孤立しているわけではない。研究、部品や電子機器、資源や物流、サービスや労働力を動かす複雑なサプライチェーンの一部なのだ。このような絡み合いの結果、単に反軍事主義者であることは自立した主張にはならない。私たちは、ウクライナ戦争の結果を掘り下げ、それによって生活が一変する主体の条件と闘いに、私たちの反対を根付かせる必要がある。もし私たちが長期的に戦争に効果的に反対したいのなら、もし私たちが国境を越えた平和の政治に貢献したいのなら、戦争が経済、金融、産業部門全体に影響を与え、社会の再生産を揺るがすという事実に対処する必要がある。実際に反軍主義者であることは、今日、国境を越えて戦争の政治がもたらす高い代償を払う労働者、移民、女性の側に立つことを意味する。

そして、私たちについてはどうだろうか。私たちは、戦争と戦争が生み出す変化に反対するために組織化することの緊急の責任を感じている。私たちは、現在の課題の大きさに取り組み、共通の土台を築くために、私たちの間の違いを確認することから始める場合にのみ、このようなことが起こり得ることを知っている。私たちは、戦争イデオロギーによって押しつけられた分断と陣営主義を超える必要がある。私たちは国民国家の論理を拒否し、ナショナリスティックな言説や地政学的な位置づけが私たちの政治的想像力を奪うことを受け入れない。

同時に、私たちの多くが生活し闘っている世界の一部が、ウクライナの戦争に直接的に関与しているという事実を直視しなければならない。欧州機関の代表者たちは、直接的にも間接的にも「我々は戦争状態にある」と認めており、欧州の政策と政治的バランスはそれに応じて再編成されている。ポーランドやチェコ、ドイツやフランスなど、かつてはEU加盟国の間で比較的距離を置いていた立場が、戦争が続く中で、アメリカの後押しを受け、警戒心をもって収斂されていく様を見ることができる。ヨーロッパ政治の現状において、私たちは「東」と「西」の間の分断に取り組み、異なる経験や組織化の形態の間の断絶を回避したい。その目的は、互いに学び合い、戦争の政治を拒否し、私たちが経験するさまざまな形態の搾取、人種差別、家父長制に対して闘う共通の力を構築することにある。ヨーロッパを越えて、私たちは、地中海や中央アジアのさまざまな地域の間にある既存のつながりを強化し、新たなつながりを築きたいと考えている。

実のところ、戦争は世界中で貧困を増大させる生活費の上昇を助長し、気候危機に取り組む公約に鞭打ち、市民的・社会的権利の促進は議題にならない。労働者は自分たちの要求 を棚に上げてこれらすべてに貢献すること を求められ、家父長的な役割が強化され、移民 に関する言説全体がハイブリッドな脅威の 境界の中で再構成され、国境のさらなる軍事化 が正当化さているのである。「ヨーロッパの価値」と称される言説の背後には、難民の不平等な扱い、ウクライナ人に一時的な保護を与える一方で彼らを過酷な搾取にさらす偽善、ウクライナ、ロシア、ベラルーシのいずれからの脱走兵や異議申立人をも歓迎しないことなどを通じて、人々の憎悪を煽る現実が横たわっている。

しかし、戦争が政治的な風景を変える一方で、労働争議は増加の一途をたどっている。ストライキの波がいくつかの国を席巻し、労働者は生活水準への打撃と、より厳しく、より長い労働を強いられることに抵抗している。リュッツェラートに集う気候変動活動家は、新たな力と新たな要求を獲得し、移民は国境体制と制度的人種差別に挑戦し続けている。これらのすべての経験において、ストライキは職場や社会条件の境界を常に越えるツールである。これらの闘いの中から、私たちは、戦争の政治を覆し、異なる世界のための集団的戦略への道を開くことを目的とした、国境を越えた平和の政治を発展させるというコミットメントを強化する。このことは、私たちにとって、戦争によってより深くなった異なる運動、異なる条件、異なる場所の間の分裂やコミュニケーションの欠如に取り組むことも意味する。

このような理由から、私たちは2月10日から12日までフランクフルト・アム・マインで開催される、トランスナショナル・ソーシャル・ストライキ・プラットフォームとInterventionistische-Linkeによるトランスナショナル・ミーティングに参加する予定です。そこでは、国境を越えたコミュニケーションを深め、新しい関係を築き、長期的な共通の戦略を開発することを目指すとともに、3月3日の気候変動ストライキや3月8日のフェミニストストライキなど、次の動員について議論する。これらの瞬間は、平和のトランスナショナルな政治を定義する上で不可欠なものだ。しかし、私たちはもっと多くのことが必要であ ることを知っている。ウクライナの戦争と戦争の政治に反対するトランスナショナルな動員が必要なのです。トランスナショナルな平和の政治を構築するために、私たちは組織化する必要がある。これは、私たちが共に計画することができるし、そうしなければならないことであり、戦争に反対する恒久的なアセンブリの主要な目標である:私たちはもっと多くを求めており、フランクフルトでそれを始めることにしよう。

戦争を内部から拒否し、平和のために打って出る――ソフィアからの発信

以下に訳出したのは、昨年ブルガリアのソフィアで開催された戦争に反対する恒久的なアセンブリthe Permanent Assembly Against the War(PAAW)で出された宣言である。この集会は、トランスナショナル・ソーシャル・ストライキ・フォーラム(TSS)とブルガリアのLevFemが共催した集会のなかで企画された。

TSSについては、別途訳した自己紹介文を参照してください。LevFemは、ウエッブによると以下のような活動をしている団体だ。

「LevFemは2018年に設立された左翼フェミニスト団体。 資本主義経済の中で生み出される社会経済的不平等が、ジェンダー不平等の拡大に直結していることに関連する問題を取り上げている。LevFemは主に、保健、社会福祉、教育、介護などの女性化された主要部門の女性労働者や、疎外されたコミュニティの代表者をフェミニズム運動の目標に一致させるために活動している。交差性の原則に基づいて、フェミニスト運動をLGBTI+の活動や反人種差別と結びつけている。」

この集会にはロシアのフェミニスト反戦レジスタンス、ウクライナ、クルディスタン、グルジアの活動家など、戦争当事国やこの戦争に深刻な影響を受けている国々からの参加者を得て開催されたと述べられている。ロシアのフェミニスト反戦レジスタンスについては私のブログでも紹介してきた。この集会を組織したトランスナショナル・ソーシャル・ストライキ(TSS)は、昨年7月に宣言を出し、この戦争へのスタンスを示しており、以下の宣言もこの昨年7月の線を踏襲している。

私は、彼らの戦争へのスタンスに非常に強いシンパシーを感じるのだが、なかでも、私達が、国家に収斂するような動き――その最たるものが戦争になる――に加担すべきではないという原則を、「トランスナショナル」な観点で打ち出していることだ。しかも、この観点には、家父長制がもたらす暴力や戦争を忌避し逃亡する人達にこそ目をむけるべきだとする主張が重ねあわされており、ウクライナ(あるいはNATO)かロシアか、という国別で色分けして踏み絵にすることを拒否し、むしろ、労働者であること、マイノリティであること、女性であること、などトランスナショナルなアイデンティティを連帯の基礎に置いて、戦争には加担しない立場を鮮明にしている。だから、避難する人達や戦争を忌避したり拒否したり脱走する人達への視点を重視し、領土のために、国家ために殺すこと、殺されることを拒否することこそが、祖国なきプロレタリアの立ち位置だ、ということを鮮明にしていると思う。また、EUや日本がロシアに対して口にする西側資本主義の価値についても、その欺瞞的な姿勢との闘い――だからトランスナショナルなストライキが運動課題の中心になる――が必要だと主張している。以下の宣言の最後に、「核の脅威を拒否すること、服従して死ぬことを拒否すること、前線で殺すか死ぬかの運命にある人のヒロイン、母親になることを拒否すること、殴られレイプされることを拒否すること、戦争とその副作用の代償を支払うことを拒否すること、これらすべてが、私たちが今生きている戦争政治に対する一つの強力なトランスナショナル・ストライキになり得る」とあり、この言葉は力づよい。この運動が目下目標にしているのは、主にヨーロッパ圏だと思われるが、ぜひ日本の反戦平和運動にもこうした動きがあることを知ってほしいと思い訳した。(小倉利丸)

2022年10月7日

戦争反対の恒久的なアセンブリのステートメント

9月10日、ブルガリアのソフィアにおいて、TSSプラットフォームとLevfemが主催するトランスナショナル集会の中で、戦争に反対する恒久的なアセンブリ(PAAW)の最初のオフライン会合が開かれ、ヨーロッパ各地と中央アジアから120人以上の人々が集まりました。ソフィアでは、オンライン会議と冬に開催される予定の別のトランスナショナル会議を通じて、平和のトランスナショナル・ポリティクスに向けた可能な限り幅広い収束を求め続けることを決定しました。その間、私たちは戦争とその致命的な結末に反対するすべての闘争と行動を支援し、その可視性を高めていくつもりです。私たちは、総会の報告に加え、最新の動向とそれに対する闘いを強化する必要性を強調する必要があると考えています。

ソフィアでの集会は、ロシアのフェミニスト反戦レジスタンス、ウクライナ、クルディスタン、グルジアの活動家など、戦争の影響を直接受けている、あるいは受けていた国々からの参加で幕を開けました。現地の状況から出発することで、私たちは、現状に対するあらゆる政治的代替案を打ち消そうとする、グローバルな関係の再構築の継続的な致命的な過程を把握することができました。PAAWは当初から、ウクライナの戦争が、大西洋主義と親プーチン主義 の間のオルタナティブ、東西間の文明の衝突、包括的な人種差別と植民地主義的言説を あらゆる場所に押し付けようとする、過激な分裂主義であると認識していました。これに対する応答として、PAAWは、これらの分断を乗り越え、それを超える戦争に反対するトランスナショナルな大衆運動を構築する必要性を確認しました。ソフィアでの議論とこの声明は、戦争を率直に議論し、搾取と抑圧のない未来のために闘う可能性を取り戻すトランスナショナルな平和政治を構築する場として、PAAWの重要性を確認するものです。

私たちが第三次世界大戦と呼んでいるものの兆候が、ますます恐ろしく浮かび上がってきています。中央アジアのキルギスとタジキスタン、そしてアゼルバイジャンとアルメニアの国境地帯で、軍事的緊張がエスカレートしているのを私たちは目の当たりにしてきました。この地域ではロシアの派兵解除により、民族主義者と宗教団体の間の緊張が爆発し、より多くの暴力と多くの死者を出しています。これらの地域は、資産やオリガルヒだけでなく、数百万世帯の生活を支える移民の送金にも大きな打撃を与えた制裁の影響に、すでに屈服しています。エルドアン政権は、現在進行中の覇権争いを利用し、国際戦争における新たな中心性から利益を得て、シリア北東部に対する低強度戦争と山岳部での化学兵器の使用によって権力を拡大し、クルディスタンでの革命を阻止しようと試みているのです。EUによれば、ウクライナでは「ヨーロッパのための戦争」が戦われています。このプロパガンダの姿勢は、プーチンの侵略と西側の反応がヨーロッパの国境を越えて生み出す暴力と悲惨さのレベルを無視し、正当化するために使われています。

ウクライナでは、近づく冬によって深刻化した大規模な人道的危機が進行中であり、何百万人もの避難民が到着することのない支援を必要としている。一方、ロシアは核による脅威を強めており、その反対勢力は「相応の報いを受けるだろう」と断言しています。この差し迫った破滅は、現在の生存を超えた何かを主張するあらゆる可能性を阻止することを目的としています。しかし、プーチンが約30万人の部分動員を発表して以来、ほぼ同数の人々がロシアを離れ、ロシアの数十の都市で女性主導の抗議行動が起こり、数千人が逮捕さ れました。

これに対して、ヨーロッパのいくつかの国は、国境を越えるロシア市民に厳しい制限を課しています。当初は、ロシア連邦をさらに苦しめ、国内の反体制的な感情を醸成することが目的だと明言されていました。しかし、プーチンが部分動員を発表した後、EUは「動員を逃れることは戦争を拒否することとイコールではない」「EUは自国の安全を第一に考え、これまで通り亡命権を制限する必要がある」と宣言したのです。ヨーロッパ諸国は、ウクライナからの女性や子どもたちを受け入れることで、慈愛に満ちた父性的な態度を示しました。彼女たちは今、すべての移民女性が最終的に行き着くところ、つまり、重要な部門における低賃金と搾取された仕事、そして制度的人種差別にさらされているのですが、国のために死ぬという当然の義務を果たすのを拒否した男性に対しては、残酷さを示しているのです。

ヨーロッパのエリートたちのこうした態度は、プーチンの家父長制的な戦争と明確につながっています。男性は戦い、死ぬことを強いられ、「母親のヒロイン」を珍重し、胎児や 子ども兵士の広告で中絶反対キャンペーンを展開し、こう言っています。「今日、私を守ってくれれば、明日はあなたを守ることができます。」女性は兵士の産みの親であり、子どもは未来の兵士なのだ。私たちは、エルドアンの性的自由に反対する家父長的政治と、クルド人の抵抗と民主的フェミニスト・プロジェクトを黙らせようとする意志の間に越えられない一線があるのを見ています。家父長的で愛国的な線が、戦争の前線を横切っているのです。

戦争によって悪化した世界的な不安定と金融投機のために、ヨーロッパ全土でエネルギー価格が高騰しているのを私たちは目の当たりにしています。これが、長年の不安定な生活と公共支出の削減によって、すでに困窮している労働者や移民に特に大きな打撃を与えています。NATO同盟のヨーロッパの末端の中心で、各国政府は、労働者、女性、移民、LGBTQ+の人々に対するさらなる悪質な攻撃を実行するために、国旗をまとい登場したのです。ここ数週間、議会の大騒ぎは、ハンガリーやポーランドのような政府に加え、スウェーデンやイタリアなど、さらに多くの政府をも巻き込んで広がっています。英国では、新たに首相に任命されたリズ・トラスを中心とする徒党が、国家給付と公共サービスに対する攻撃を準備しており、その一方で、彼らは賃金レベルがインフレによって破壊されるのを確実にしようと試みています。

英国の政治家たちは、ウクライナ戦争のためにエネルギー料金やその他のコストが急騰していると何度も繰り返しています。何年にもわたる緊縮財政の後、労働者は今、職場や地域社会で抵抗しています。賃金を守ろうとするストライキの波が続いており、「もうたくさんだ」「金を払うな」キャンペーンのような草の根の抵抗への支持が高まっています。ストライキはヨーロッパ全土に広がり、冬には拡大し、インフレによる賃金の引き下げを拒否する大衆的な姿勢が示されるでしょう。

私たちは、戦争の論理と、それが押し付ける国家的・宗教的分裂を拒否します。私たちは、自らを守る人々とともに、徴兵制を拒否し、自分の国に従わず死なないことを決めたすべての人々とともに、立ち上がります。私たちは、戦争の代価を支払うことを拒否するすべての人々と共に立ち上がります。私たちは、すべての人に開かれた国境と移動の自由を要求します。

私たちは、以前はバラバラで、点在する地域の緊張の一部と思われた出来事を、同じ世界の再構築と紛争の一部と見なすことができるようになりました。私たちには、これらの断片を一つにまとめるという任務があります。キルギスタンから英国まで、北シリアからブルガリアまで、スウェーデンからイタリア、ギリシャまで、目の前の死の混乱を乗り切るために、国境を越えた絆を強めていくことになるでしょう。

国境は、国民国家とその同盟によって、私たちを閉じ込め、それがボスのシステムに適さない場合は、私たちが非常に危険な状態でしか移動できないようにするために使用されてきました。そして今、私たちは国境を守るため、あるいは国境を引き直すために、ますます命を捧げることを期待されています。こうした悲惨な命令の代わりに、私たちは国境を越えた平和の政治を必要としています。

私たちは今、軍事化の進展と利潤のために労働者階級の生活水準に課された攻撃に抵抗するストライキと大規模デモの波を見ています。核の脅威を拒否すること、服従して死ぬことを拒否すること、前線で殺すか死ぬかの運命にある人のヒロイン、母親になることを拒否すること、殴られレイプされることを拒否すること、戦争とその副作用の代償を支払うことを拒否すること、これらすべてが、私たちが今生きている戦争政治に対する一つの強力なトランスナショナル・ストライキになり得るのです。

変ってしまうと困る「社会」とは何なのか――戸籍制度も天皇制もジェンダー平等の障害である

荒井勝喜・前首相秘書官発言に対して、岸田が早々に更迭を決めた背景には、ジェンダーの多様性を本気で認めるつもりのない岸田が、これ以上傷口を拡げないための措置だと思う。 ジェンダーはG7の議題のなかでも優先順位が高い課題だが、日本はこれを、リップサービスだけで乗り切る積りだったと思う。

同性婚を法的に認めていないG7の国は日本だけだということがメディアでも報じられるようになった。岸田が「社会が変わってしまう」と発言したことも注目されている。この発言は、ほぼ荒井のオフレコ発言と主張の基本線に変りはないため、荒井が答弁原稿を書いたのではとの憶測があったが、朝日は、これを否定して岸田のアドリブだと報じている。ここで岸田のいう「社会」とは、法制度のことではない。法制度に同性婚を組み込むと変わる「社会」のことだ。ではその社会とは何なのか、このことをメディアは議論していないし、野党も議論できない?

岸田のいう「社会」とは、日本に固有だと岸田が考える伝統的な社会、つまり家族観のことだと解釈しないと、荒井=岸田が同性婚や性的マイノリティに否定的なのかを理解できない。どこの国にも伝統的な家族観はあり、それを変えてきたが、日本は変えられないでいる。これは、LGCTQ+の運動が非力だとかではなく、逆に、性的マジョリティがマイノリティの権利を理解して平等な権利主体として認識して行動することができないというマジョリティ側の問題なのだ。では、なぜそれほどマジョリティがマイノリティへの理解や共感をもてないのか、これを私のようなマジョリティが考えないといけない重要な問題だ。 荒井が語ったのは、理屈ではなく好き嫌いの感情だったことも、ここでは重要な意味をもつ。

どこの国でも資本主義的な家父長制が支配的なことには変りない。しかし、日本に固有なのは、個人よりも家族を優先させる特異な制度上の縛りがあることと、大衆的な婚姻文化――結婚式が両性の合意ではなく両家の合意として演出される違憲状態が定着しているとか――、そして何よりも戸籍制度だ。そしてこの国の強固な家父長制とセクシズム+レイシズムは、象徴天皇制を後ろ盾にした日本的な近代家族観と「日本人」のアイデンティティとも密接な関りがあると思う。 他方で、G7を舞台に、性的マイノリティの権利についての提言を主張するかもしれないが、「市民社会」組織のスタンスから戸籍制度と天皇制をジェンダー不平等の根源にある制度として廃止を提言できるかどうか、私はこの点に注目している。

荒井は秘書官室全員が同性愛嫌いだと発言してもいて、岸田も価値観を共有していることは明らかで、この価値観が戦後生れであってもしっかりと保守層い定着していることは注目すべきことだ。そして、旧統一教会など保守・極右の宗教団体や圧力団体もまた同性婚やジェンダーの多様性を嫌悪してきたことと今回の差別発言とはシームレスに繋がっている。

近代日本が戦前から構築してきた家族観が戦後民法によって改革されたかのように論じる向きもあるが、それは紙に書かれた法律の世界の問題であって、庶民の家族観は戦前からの明確な切断を自覚していない。核家族かどうか、とか専業主婦か共働きか、といった女性差別を解消するかもしれないと期待されてきた家族の変化も、実は期待外れで、戦後生れの核家族の男たちがしっかりと伝統的な家父長制意識を内面化しており、そのことが企業の「風土」を作り、労働運動や革新・左翼の運動もまた主流になればなるほどこの「風土」を共有している。あえて「庶民」と書いたのは、男性の所得が比較的低く共働きを必要とする世帯においても、家父長制意識は再生産されているし、結婚=入籍という等式が常識を形成しているからだ。女性の「社会進出」は自分の人生のために働くのではなく、「家」の家計のために働くことの結果にすぎない。女性の「社会進出」は日本ではジェンダー平等に寄与しているとは思えない。だから日本のジェンダーギャップは、あの不愉快な資本家クラブ、世界経済フォーラムの統計でも世界の120位なのも、こうした日本の現実を象徴している。ある程度の制度的な保障がある女性の場合ですらこうした状況だから、ましてや、権利を大幅に奪われている性的マイノリティの人達の場合の困難は、物理的にも精神的にも更に深刻だ。

たぶん、戸籍制度をなくさないと、多様な性的アイデンティティを平等に権利として保障できない。制度的には戸籍制度がかなりネックになっていると思う。こんな制度があるのは日本だけで、韓国も廃止した。戸籍制度は本来個人を基盤に人権を定義している憲法とは真っ向から対立しているが、このことに自覚的なのはむしろ保守派で、憲法の個人主義を家族主義に従属させる意図をもっているのが自民党の改憲草案だ。だから、今回露呈した問題は、荒井とか岸田といった個人の問題ではなく、政権政党をはじめとする保守派総体も問題であり、それは、価値観だけではなく、この国が近代の統治機構を構築する際に、その根幹に据えた戸籍制度と天皇制という奇妙な装置に由来するものだとはっきりと自覚する必要があると思う。

『戸籍と天皇制』の著者、遠藤正敬は、次にように書いている

「結婚の時には夫婦が氏を同一にしなければならないという面倒事がありながら、みんながそうしているから自分たちもと"自然"に婚姻届を役所に出す。戸籍に登録され、血縁や氏に帰属することを尊重する風潮は、自我の突出を抑制して集団への恭順ないし同調を美徳とする精神を内包している。
 戸籍制度に対する日本人のこうした無抵抗な順応は一体、何に由来するのであろうか。そう考える時、天皇制に対する国民意識のなかに、これと酷似したものを見出さざるを得ない。」

世論調査で同性婚やLGBTQを容認する人達が多数であるという結果が報じられているが、これも私は疑問だ。遠藤の言い回しを借りれば「無抵抗な順応」のなかで無自覚でいられる場合と、そうではなく自分事として身にふりかかっている場合とでは、回答が変わるからだ。たぶん回答者の多くは電通の調査でも示されているように「他人事」なので、容認しているにすぎず、性的マイノリティが抱えている日常的な偏見や制度的な差別を理解しているわけではないと思う。だから、たとえば、自分自身の「家」に関わる問題として自覚されると、この容認の数は、減るだろう。つまり、同性との婚姻ですら「本人が誰を好きになろうと構わないが、結婚は別だ。籍をどうするんだ」といった議論が必ず家族の誰かが持ち出して、入籍できないなら、結婚はできない、みたいな議論がでてきて紛糾するに違いないからだ。このときに、戸籍制度があることで個人の性に関わる差別が制度化されているということに気づくよりも、逆に、戸籍制度を容認・前提して「仕方がないこと」として婚姻の自由を抑制する判断が支配的になるだろうことは容易に推測できる。

実は、私達の日常生活いおいて戸籍も天皇も必需品ではない。ほとんど意識することにない、存在であるが、にもかかわらず廃止を主張することへの抵抗は極めて大きい。これは、戸籍制度と近代天皇制は表裏一体で家族観や価値観に関わるからだ。人々の価値観が変って戸籍も天皇も制度としては不要であるという方向に向かうことを保守派は異常に危惧しているようにめいるが、私は社会的平等い基く個人の自由が何よりも重要な人権の基礎だと考えているので、戸籍も天皇制も廃止すること以外の選択肢はありえないと思っている。

ロシアとウクライナ、良心的兵役拒否が機能していない!!

戦争状態になると、当然のように市民的自由の制約がまかり通ってしまう。それを、戦争だから、国家の緊急事態だから、という言い訳で容認する世論が後押しする。ロシアでもウクライナでもほぼ同じように、良心的兵役拒否の権利が事実上機能できない状態にある。両国とも良心的兵役拒否は法律上も明文化されている。また市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)18条の2「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない」によって、宗教の教義で殺人を禁じている場合は、この教義に基づいて軍隊で武器を持つことや武力行使の幇助となるような行為を拒否できる。日本もロシアもウクライナも締約国だから、この条約を遵守する義務がある。さらに、この自由権規約で重要なことは、宗教の信仰だけでなく「信念」もまた兵役拒否の正当な理由として認められている点だ。

しかし、実際には、ロシアもウクライナも良心的兵役拒否の権利が機能していない。現在、ロシアとウクライナでは兵役拒否の実態がどのようになっているのかについて、下記に二つの記事を翻訳して紹介した。いずれもForum18.org という自由権規約18条の思想、良心及び宗教の自由についての権利を守る活動に取り組むノルウェーに本部がある団体のレポートだ。

ロシア:動員中の代替役務に関する法的規定がない

ウクライナ:ヴィタリィ・アレクセンコに対するすべての告発を直ちに取り下げよ

それぞれの国の具体的な状況については、このレポートを是非読んでほしいのだが、少しだけ書いておく。別のブログでも言及したことだが、ロシアにおける兵役拒否あるいは徴兵や軍への動員を忌避して民間での仕事に振り替える権利は、不当に狭められ、正当な権利行使を違法行為として訴追されるケースがある一方で、人権団体や弁護士の活動で兵役拒否の正当性を裁判所に認めさせることができたケースもあり、法的な権利が大きく侵害されながらも、むしろ権力による人権侵害に対してはっきりと闘う姿勢をとる人達がいることで、権利の完全な壊死を免れている。ウクライナでは、正義の戦争にもかかわらず、この戦争を遂行する国内の動員体制や戦争協力を拒否する人達への締め付けは厳しく、正義が危機に瀕している状況だ。上の記事にあるアレクセンコは、良心的兵役拒否を申立てたが、認められず、有罪となった。ロシア侵略以降ウクライナの裁判で有罪判決を受けたのは彼で5人目だが、初めて実刑1年の判決が下された。兵役拒否裁判では執行猶予がついていたが、アレクセンコはそうならなかった。兵役拒否の問題は、自分の思想・信条を捜査官や裁判官が信じるかどうかにある、ともいわれている。単に、「殺したくない」とか「軍隊は嫌だ」ということでは理由にならない、とされてしまっている。しかし、わたしは、そもそも国家の命令で「殺す」という行為そのものが不条理である以上、単純に「殺したくない」という(信条というよりも)心情のレベルでの忌避感情であっても十分兵役拒否の理由として認めらるべきだ、と考えている。

自由権規約は国家の緊急事態、つまり戦争のような場合に、4条1稿で個人の自由権を一定程度制約することを認めている。

国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合においてその緊急事態の存在が公式に宣言されているときは、この規約の締約国は、事態の緊急性が真に必要とする限度において、この規約に基づく義務に違反する措置をとることができる。ただし、その措置は、当該締約国が国際法に基づき負う他の義務に抵触してはならず、また、人種、皮膚の色、性、言語、宗教又は社会的出身のみを理由とする差別を含んではならない。

しかし、この国家による自由権規約に対する義務違反を認める条文は、第2項で18条には適用できないと定められているので、良心的兵役拒否の権利は例外なく常に国家がその義務として保障しなければならない。

ロシアでは、姑息な手段を使って、兵役拒否や代替役務の権利を認めない扱いが横行しているようだ。兵役拒否は、徴兵制に対応した制度であるというのがロシア政府の解釈だそうで、徴兵制とは別の動員体制の場合には兵役拒否の権利は適用できない、というのだ。実はウクライナも似たり寄ったりで、戒厳令と動員の法体系の条件下で、期限付き兵役への徴兵がないために、代替(非軍事)役務の憲法上の権利の実施は、適用されないという。上のレポートにあるように、このような法解釈などをめぐっても闘いが続いている。

社会の大半の人々が兵役拒否あるいは戦争への動員を拒否すれば戦争は遂行できない。人々の多数の意思が非戦であるなら、好戦的な政権を選挙で選ぶはずがないだろう(選挙のトリックは別にして)。だから、問題の根源にあるのは、むしろ政権の戦争指向を明確に否定する声の存在が希薄であり、戦争を拒否する人達が社会のなかの少数として様々な圧力に晒されて、戦争への同調を強制されるなかで、自由に自分の信条を表明できない状態がつくられてしまうことだ。

日本には、軍隊が存在しないという建前のために、良心的兵役拒否を明文化した憲法も法律も存在しない。しかし「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(19 条)「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(20条)があり、これらが殺さない権利のとりあえずの根拠にはなる。

また、一般に、軍隊や国家の戦力保有、あるいは自衛力の保持と個人の殺さない権利とは別とみなされるかもしれないが、国家が軍隊をもつことは、主権者としての私の良心や信仰の自由への侵害でもあるという観点は、重要だろう。

戦後の日本では良心的兵役拒否は遠い世界の議論のように感じられるかもしれないが、むしろ、きちんとした議論が今ほど必要になっている時はないのでは、とも思う。

「いかなる場合であれ武器はとらない」のは何故なのか

ロシアの侵略に対するウクライナによる武装抵抗をめぐって、左翼や反戦平和運動のなかに様々な立場や考え方の対立がある。私は、「いかなる場合であれ武器はとらない」という立場なので、ウクライナの武装抵抗あるいはロシア軍への武力による反撃を支持する人達からはこれまでも何度か批判されてきた。私なりに批判の内容を了解したつもりだが、残念ながら、だからといって私の考えを変えるということにはなっていない。

他方で、私の立場についても、ブログで書いたり、あちこちのメーリングリストに投稿したりして、お読みいただいている方は承知されていると思う。しかし、私の考え方も多くの皆さんの納得を得られていているとは判断していない。つまり、私はまだ、十分に納得を得られるような議論を展開することができていない、という自覚がある。だから、少なくとも、私がすべきことは、私とは異なる意見の人達をやりこめたり、一方的になじるような詰問を投げかけることではなく、自分の言葉がなぜ届かないのかということについて反省しつつ、自分の考えをよりきちんと述べる努力をすることだろうと思う。メーリングリストでの意見の対立はよくあることだが、意見の違いが解消することはまずない、というのが私のこれまでの経験だ。お互いの意見を知り、違いがあることがわかれば、それで十分メーリングリストの役割は果たせていると思う。いずれ場合によっては、熟考したりいろいろな人と議論したり、状況が変化する中で、自分の思い到らないことに気づいて見解を変えることもありえるだろう。なじられたり罵倒されて考えが変わることはまずない。

(注)わたしはブログで「いかなる理由があろうとも武器はとらない」と書きました。

「いかなる理由があろうとも武器はとらない」という立場は原則的な立場なので、ロシアの侵略戦争についても例外ではないということになる。だから、私のような主張は、結果として、ウクライナの武装抵抗を批判することになるので、武装抵抗を支持する人達にとっては許しがたい主張だということになる。なぜ私が武力を手段とすべきではない、と考えるのかをより突っ込んで説明しないと、たぶん同じ主張と批判の繰り返しにしかならない。今直ちに、説明できる余裕はないが、ロシアとウクライナに関連して私が重要だと感じていることをもう少し書いておきたい。

私は、基本的に、ウクライナで暮す人であれロシアで暮す人であれ、自らの意思に反して兵士として強制的に動員されないこと、戦争関連の労働を強制されないこと、戦場からの避難の権利が保障されること、つまり戦争によって国家間の問題を解決することに自分の命を賭けるつもりのない人たちの権利が尊重されるべきだ、と考えている。とりわけ明確に戦争に反対する主張をし、行動する人達の表現の自由は、権利として保障されるべきだ。私が注目するのはこうした人々になるが、どちらの国の政府にもこうした立場をとる人達へのリスペクトがなく、戦争する国では例外なく、こうした国家の戦争行為に背を向ける人々が様々な抑圧や時には命を奪われたり暴力の被害にあう事態がみられる。国家であれ何らかの集団であれ、軍事的な組織行動をとるときには、戦争を拒否する権利の保障がないがしろにされるのは、あってはならない市民的権利の侵害だと私は考えている。

今回のロシアとウクライナの戦争に関連していえば、

  • 兵士、戦闘員としての強制的な動員や事実上の道徳的倫理的な圧力による動員の体制がどちらの国にもあり、これは良心的兵役拒否国内法にも国際法にも反していると思う。
  • ロシアでは兵役、徴兵を忌避できても、懲罰的な代替労働や戦争に協力する銃後の労働に動員されることがあり、これも本人の自由意志に反している場合がある。
  • ロシアでもウクライナでも戦場からの離脱の自由が権利として保障されていない。部隊からの離脱は一般に「脱走兵」扱いで犯罪化される。兵士を辞める自由は重要な市民的自由の権利であり、会社を辞める権利と同様保障されなければならないと思う。
  • 学校や右翼団体の活動で軍事訓練戦争を賛美する教育や戦争を支える活動が行なわれているのは、子どもの権利の侵害だと思う。
  • どちらの国にも表現の自由を保障する憲法の枠組があるが、これが事実上機能していない。とくにロシアでは、軍へのちょっとした批判も許容されない厳しい言論弾圧体制がある。
  • ウクライナでは成人男性が国外に脱出できない状況は、私にとっては容認できない事態だ。
  • ロシアでは、高齢者や病気を抱えている人たちにさえ強制的に動員される事態になっている。
  • どちらの国でも、相手国に関連する言語や文化への不寛容が制度化され、著しく自由な表現への規制がみられる。
  • ウクライナでは政府に反対する政治活動や労働運動への規制が厳くなっている

ウクライナでもロシアでも、戦争に背を向ける人たちがおり、だから国内には戦争に関して相反する考え方をもつ人達がおり、こうした違いを棚上げにして、「ウクライナ人」「ロシア人」というような括りかたで論じることはできないと思う。自分が「日本人」として一括りにされてしまうことに違和感があるからかもしれない。

上に挙げたことは、一般的にいえば、国家安全保障領域においては人権が例外的に制約されてもいい、という考え方を国家がとっており、これを一般の人々もいつのまにか共有してしまっている、という問題だ。国家安全保障を別格扱いにする考え方は日本でも明白にある。軍隊は、企業以上に人権とはあいいれない組織であり、その行動や意思決定もまた人権とはあいいれない。力の行使は、軍隊であれDVを引き起こす家族制度であれ、刑務所であれ、みな同じように基本的人権とは矛盾する組織原理をとらないと、力での統制は見込めない。力=暴力とはそのような本質をもつものだと思うので、力による問題の解決は選択肢にはならない、と思う。

他方で、国家安全保障が突出している戦争体制でも、人々は唯唯諾諾として従属しているばかりではないし、抵抗とは武力の行使だというわけでもない。むしろ不服従や非協力、力の行使であっても、それは人を殺害する目的を伴わない行為の方が圧倒的に多い。ウクライナの状況はあまりよくわかっていないのでロシアについて例示する。

  • ロシアは、兵役忌避のための手続きなどで人権団体が精力的に支援をしており、忌避に必要なノウハウがネットで共有されているのは心強い。
  • ロシアはプーチンの独裁のような印象がありますが、徴兵など軍事動員については様々な法制度があり、動員しやすいように法改正を目論む政府ですが、国会では必ずしも政府の思惑通りに法案が通過しているわけではないようだ。
  • ロシアでは裁判で徴兵忌避や軍からの離脱が認められるケースがあり、一定程度の司法の機能が効いている場面もあるようだ。これも人権弁護士などの団体による努力が大きいように思う。
  • ロシア国内の情報統制は完璧ではないので若者たちは、政府寄りの情報だけでなく、かなり様々な情報に接することができており、ゲリラ的な抗議行動が続いている。

私は、ウクライナの情勢を、日本が今直面しているかなり危機的な「戦争」を扇動するような状況と重ねあわせて考えるべきだと思うが、他方で、ウクライナによる武力による反撃を支持することと日本の自衛のための武力行使の議論とは切り離して論じるべきだ、という意見があることも承知している。その上で以下のように考えている。

日本の反戦平和運動が、ウクライナの状況を経験するなかで、9条護憲を掲げてきた人達のなかにも、敵基地攻撃は憲法の枠を越えていて容認できないが、専守防衛としての自衛隊は必要ではないか、という意見をとる人達が増えているように感じている。

私は専守防衛という議論は、軍事論として成り立たないと考えている。防衛白書では「専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう」と定義している。攻められたときに最小限度の攻撃だけを行なう戦争で勝つことはほぼありえない。だから、自衛隊は肥大化してきた。専守防衛とか必要最小限などの言葉に平和や戦争放棄の可能性を期待すべきことは何もない。こうした言葉に惑わされるべきではない。だから、軍隊をもつか、もたないか、という二者択一の問題として考える必要があり、はっきりと軍隊は不要であると主張しないといけない。

いちばん問題なのは、軍事力を背景とした外交は、武力による解決を最後の手段だと前提しての交渉になるので、非武装の外交とは全く次元が異なるということを理解することだと思う。力による解決という選択肢がないばあい、解決は「対話」による以外にないので、「対話」がもつ問題解決の能力が問われる一方で、武力によらない解決の可能性がずっと大きくなる。こうした異次元の外交を日本が戦後やってきたことはない。外交のコンセプトがそもそも武力を背景としたものしかもっていなかったために、結果として、岸田のような力による脅しの外交しかできなくなるのだと思う。

だから、自衛隊も米軍も排除することが日本にとって必須だと思うが、同時に、どこの国の軍隊も、そしてまた傭兵や軍事請け負い会社もすべて廃止すべきだが、これがグローバルな反戦平和運動の共通の了解事項にまでなっていないのが現実ではないかと思う。

最後に、私は死刑廃止論者だ。欧米諸国の多くが死刑を廃止しているが、なぜか軍隊は廃止していない。死刑は廃止されてもなぜ国家の命令による殺人行為としての軍事行動の廃止が大きな声にならないのだろうか。ここに、たぶん、近代国家がかかえる本質的な矛盾があるように思う。ついでにいえばBlack Lives Matterをきっかけに警察廃止の主張をよく目にするようになったが、やはり軍隊の廃止という主張には繋っていないように思う。

このほか本当は書きたいこと(戦争とPTSDのこと、領土と近代国家のこと、ナショナリズムのこと、非暴力不服従のことなどなど)がいくつかあるが、別の機会にしたい。

ロシアの反戦運動2023年に入っても活発に展開されている(ビジュアル・プロテスト)

ロシアの反戦運動は、さまざまな不服従運動が小グループに分かれながら、したたかに繰り広げられている。以下は、「ビジブル・プロテスト」として、屋外や公共空間、店舗などで展開されている抗議の行動で、2023年になってhttps://t.me/nowarmetro に投稿されたものからいくつかを紹介します。こうした行動の担い手は、分散的だが、抗議に必要なノウハウ(ステッカーやグラフィティの方法、印刷の方法などから弾圧対策まで)についてはかなりしっかりとしたアンダーグラウンドの基盤があるように思います。これは、帝政からソ連時代、そして現在のロシアまで長い年月をつうじて受け継がれてきた民衆の「地下」活動の文化なしには成り立たないようにも思います。一人一人の行動のキャパシティが大きく、それを支える人的ネットワークや人権団体による弾圧への対処は日本よりずっと厚いと思います。日本は街頭の規制が極めて厳しく、ステッカーやグラフィティなどを政治目的で利用する文化がこの半世紀近く途絶えてしまった。戦争になったとき、私たちはこれだけの抗議を中央でも地方でも展開できるだろうか。

ベルゴロドやブリャンスクでも抗議!?

ボロネジ、プーチンと戦争に反対するキャンペーンを積極的に行っている

モスクワでは、反戦銀行券や緑のリボンが盛んに配布されている
エカテリンブルクの街には、反戦を訴えるグラフィティが随所に。
モスクワで。
クラスノヤルスクでも抗議は続いている!
サンクトペテルブルでも抗議は収まらない!
サンクトペテルブルクで
スィフティグカルでの抗議
サマラで反戦グラフィティが活発に
反戦モスクワ
サラトフは反戦グラフィティを精力的に展開している!
サンクトペテルブルクでは、リーフレットを配布し、独立系メディアへのリンクを共有

以下は https://t.me/nowarmetro/12869 から。

ビジブル・プロテストの10ヶ月間。私たちは、目に見えるアジテーションの統計を共有し、戦争と動員について情報を提供し続けることをお願いします。

今日は、私たちのストリートキャンペーンプロジェクト「Visible Protest」の新しい統計データを紹介することにしました。 (https://t.me/nowarmetro)本当に感動的!

戦争、動員、独裁政治に反対する声を上げている皆さんに感謝します。戦争や残忍な弾圧の時代にあっても、あなた方は本当に勇敢な人たちです。なぜなら、私たちの国に実際に何が起こっているのかについて、恐れずに抗議し、他の人たちに知らせることができているからです。

何千人ものロシア人がすでに戦争に反対する声を上げています。彼らと一緒に大衆的な反戦の姿勢を示そう! また、ビジュアルキャンペーンの配布は、最も効果的で安全な抗議の表現方法の一つです。

私たちのガイド(https://vesna.democrat/2022/03/18/kak-sdelat-protest-zametnee-polnyj-g/4)[日本語、ただし若干内容が違います]を読んで配布し、キャンペーンに参加し、あなたの家族や友人に、戦争、動員、当局の犯罪行為についての真実を伝えてください。そして、キャンペーンの方法をソーシャルネットワークで共有しましょう

選挙運動はしましたか?あなたの街を写した写真をボットに送信してください(完全に匿名で、写真のメタデータも消去されます)。@picket_against_war_bot

ウクライナ防衛コンタクトグループの会合を目前にして。あらためてG7も軍隊もいらない、と言いたい。

メディアでも報道されているが、20日からドイツのラムシュタイン米空軍基地でウクライナ防衛コンタクトグループ(NATOが中心となり、米国が議長をつとめてきたと思う)の会議がある。50ヶ国が参加すると米国防省が発表している。当然日本も参加することになるだろう。

これまでに、日本は防衛大臣や防衛省幹部が出席しており、事実上NATOに同伴するような態度をとっているので、とくに20日からの会議には、日本が安保・防衛3文書と軍事予算増額という方針を――国会での議論がないままに――既定の事実とみなし、かつ、G7議長国+安保非常任理理事国として参加するので、参加の意味はこれまでとは違って、とても重要なものになる。

この間のG7諸国のウクライナへの軍事支援は異例なことづくめだ。 英国が自国の主力戦車「チャレンジャー2」14台を提供したことはかなり報じられているが、それだけでなく、戦車は「AS90自走砲、ブルドッグ装甲車、弾薬、誘導多連装ロケットシステム、スターストリーク防空システム、中距離防空ミサイルなどの大規模な軍事援助パッケージの一部」である。(VOA報道 ) ドイツも主力戦車「レオパルド2」戦車、マーダー装甲兵員輸送車、パトリオット防空ミサイル砲台、榴弾砲、対空砲、アイリスT地対空ミサイルを提供。[日本報道では、戦車の提供については、保留と報じている。そのほかの武器については不明、21日加筆]ドイツの戦車提供は、ポーランドやフィンランドからの圧力があり、また武器供与に関しては、緑の党が極めて積極的な姿勢をみせている。 欧州連合(EU)理事会のシャルル・ミシェル議長も戦車提供を支持している。戦車提供の是非が議論になっていたが、英国が掟破りをしたことがきっかけで、戦車提供のハードルが一気に下がった。ウクライナは春までに戦車を数百台規模で必要としているといわれている。(上記VOA)

肝心の米国は、ニューヨークタイムスの報道では、かなり姑息で、中東での紛争に備えてイスラエルに供与した30万発をポーランド経由で提供されると報じられている。また、韓国にある米軍の備蓄もウクライナに送られているようだ。戦闘が膠着状態にあるなかで、ウクライナもロシアも砲弾不足とみられている。タイムズは「米欧の当局者によると、ウクライナ軍は月に約9万発の砲弾を使用しているが、これは米国と欧州諸国を合わせた製造量の約2倍に相当する。残りは、既存の備蓄や商業販売など、他の供給源から調達しなければならない。」と報じている。春までに供給を確保できるかどうかが勝敗の鍵を握るという専門家の話も紹介されている。 こうした報道では、砲弾の消費とは人の命の「消費」でもあり、どちらがより多くの人命を奪えるかが勝敗を決める、と言っているに等しい。しかし、あといったい何人が戦争で殺し・殺されなければならないのか、といった話はでてこない。むしろ、ロシアを凌駕する武器、弾薬の供給の必要、という話ばかりだ。

20日のドイツでの会議では、こうした武器弾薬の供給についての具体的な話になると思われ、そうなれば、日本は何も提供しない、などということは言えないということになるだろう。昨年から一貫して続いているNATOやウクライナからの武器供与の圧力を政府は見すえて、安保・防衛戦略と予算見直しをしているので、ウクライナの問題が重要な意味をもっている。それに加えて東アジアの「危機」キャンペーンで世論の不安を煽る。昨年、岸田は初めてNATOの首脳会議い出席する。また、日本は2014年からNATOのパートナーシップ相互運用性イニシアティブに関与してきているし、人的交流もある。日本がNATOとの関係をより具体的に緊密化するだけでなくアジア最初のNATO加盟国にすらなりかねない勢いとも感じる。

20日の会議がドイツで開催されるのは、米国の思惑として、NATOへのドイツの関与をより一層強固なものにしたい、ということもあるかもしれない。ドイツはもはや、かつての第二次世界大戦のホロコーストと戦争を反省したドイツではない。ウクライナへのロシアによる「ホロコースト」を許さないためには戦争も辞さない、というように世論も政党も、その態度が変化しており、これが平和運動の一部にも受け入れられてしまっている。スティーブン・ミルダーは、戦後ドイツの平和運動の変質を扱ったエッセイ「ウクライナと蝕まれる平和主義」(Boston Review)でこのことを指摘している。 ミルダーの指摘が正しいとすると、日本は、繰り返し朝鮮民主主義共和国による核の脅威や中国による軍事的な覇権といった危機の扇動を人々の心理に刷り込むことを通じて、核の脅威を抑えるためには(自衛のための)戦争以外の選択肢はない、だから戦争はやむなし、という世論を構築してきた。岸田が口にする「非核」は、核の脅威を口実とした平和の軍事化にほかならない。武力による反撃や先制攻撃を正当化するために、もっぱらロシア、中国、朝鮮の核の脅威が利用され、核抑止力の論理は、むしろ、通常兵器による際限のない殺し合い――核さえ使わなければいくら殺し合ってもいいだろう、というモラルハザード――を加速化してしまい、ここに日本も自ら積極的に加担しうるための理論武装をしてきた。こうして平和運動のなかですら非武装や自衛隊違憲論は少数派となり――わたしはこの少数派だが――「侵略されたら、攻撃されたら、核の先制攻撃をされたら、それでも非武装でいいのか」という脅しの前に、「それでも非武装であることがベストだ」という当然の答えを出せずに、武力による平和という欺瞞に屈服してしまった。

今年は広島でG7開催になるが、日本とG7との関わりは、同時にNATOとの関わりでもあり、安保・防衛3文書と軍事予算問題は、こうした国際関係の観点を抜きにはできない極めて大切な問題だと思う。20日の会議には注目したい。G7から芋蔓式にNATOへの関与や武力による解決へと引き込まれている現実をみたとき、私たちがとるべき主張は、G7の解体はもとより、外国であれ自国であれ軍隊を廃止すること、という当然の主張を何度でも繰り返す必要がある。

(Brandalism)トヨタの欧州全域のビルボードキャンペーンをハッキングし、誤解を招く広告と反温暖化ロビー活動で非難を浴びる

(訳者前書き) トヨタが気候変動の元凶としてのガソリン車メーカーだとしても、自動車メーカーであればどこであれどっちもどっちなんじゃないか、と軽くみているのが多分日本の大方の理解なのかもしれない。しかし、ヨーロッパでの理解は全く違う。ここに訳出したのはBrandalismというアートタクティビストのサイトの記事(体裁は記者発表)だが、この記事をみると、Toyotaは自動車メーカーで最低(最悪)の評価をもらっていることがわかる。ヨーロッパや国連ではガソリン車の広告規制すら議論されているというのに、日本ではこうした議論はほとんど聞かれない。

野外広告(ビルボード)のハッキング(勝手に書き変える)の歴史は長い。日本では、こうした行動への刑事罰が厳しいだけでなく、そもそもこうしたアクションの是非を論じる余地すらほとんどない。しかし、実は、公共空間を特定の私企業が営利目的で長期にわたって占有することは公共空間の公共性の趣旨と整合するのか、という議論があり、営利目的占有よりも公共性の高い政治的な表現が優位にたつ、という考え方もありうるのだ。実は、日本でも、憲法では公共の福祉とかの条件なしで「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(21条)とあるのに、これを公共の福祉との兼ね合いで解釈しようとする。他方で財産権もまた29条で保護されている。では、公共空間において、表現の自由(トヨタの広告を書き変える)と企業の財産権(トヨタの広告)のどちらを優先させるべきなのかは、実は自明ではない。このことはグラフィティや路上のパフォーマンスからデモや集会まで、ストリートの表現全てに関わる問題だ。私は、今回のアクションは、広告そのものに内在する一方的な企業の主張への抗議の表現としてありえると思っている。金で空間を買える企業と、そうした余地のない庶民との間にある公共空間へのアクセスの不平等の問題が私たちの世界観や価値観に対して無意識のうちにある種の偏りをもたらしている、ということをこうした表現を通じて気づかされることも少くない。(小倉利丸)

2023年1月16日

  • Subvertisers’ International、Brandalism、Extinction Rebellionの活動家が、ヨーロッパ全土に400以上のパロディ広告看板を設置する。
  • この活動は、トヨタとBMWによる誤解を招く広告や気候政策に対する積極的なロビー活動をターゲットにしている。
  • 活動家たちは、国際的な機運が高まる中、大型SUV車など環境に有害な製品に対する「たばこ式」の広告禁止を導入するよう各国政府に呼びかけている。

ブリュッセルで開催される欧州自動車ショーが100周年を迎える今週末、ベルギー、フランス、ドイツ、イギリスの400以上の広告看板やバス停が気候変動活動家によって占拠され、トヨタとBMWに呼びかけが行われた。

ヨーロッパ各地で乗っ取られた看板は、トヨタとBMWが使用している誤解を招く広告や攻撃的なロビー活動戦術を強調している。2022年、トヨタは、InfluenceMapによって、反気候のロビー活動に関して、自動車メーカーとしては最悪のランキングである世界第10位に選ばれ、これに続いて、BMWが総合第16位にランクさ れた。[1]

トヨタとBMWの広告は電気自動車(EV)のラインナップを強調しているにもかかわらず、両メーカーは依然として汚染を引き起こす内燃機関自動車の販売に多大な投資をしている。[2] 2021年、トヨタが販売した車のうち、EVはわずか0.2%だった]。[3]

Subvertisers International、Brandalism、Extinction Rebellionの気候活動家によって設置されたビルボードは、ロンドン、ベルリン、シュトゥットガルト、パリ、ナント、ブリュッセル、ゲント、ブリストル、ダービー、グラスゴー、ノリッジ、ブライトン、エクセター、リーディングのバス停、広告板、地下鉄広告スペースなどに表示されている。活動家たちはこの行動を通じて、環境に危害を与える製品の広告を規制し、大規模な汚染者による誤解を招くようなグリーン・クレームを防止するため、政府に対してより強固な政策を要求している。

(c)SimonBeavis

化石燃料車やSUVなど、気候を破壊する製品について、タバコのような広告禁止令を導入しようという国際的な機運が高まる中、ヨーロッパ全域でこの行動が起こされている。市町村、さらには国全体が、環境への影響を理由に広告の禁止を導入している。一方で、国連のハイレベル専門家グループによる最近の報告書は、誤解を招く環境に関する主張を避け、ロビー活動を制限するために、企業がネットゼロを達成できるように、自発的措置ではなく規制要件を導入することを求めている[4]。

ヨーロッパ中に貼られたポスターは、Lindsay Grime, Michelle Tylicki, Merny Wernz, Fokawolf, Matt Bonner, Darren Cullenといったアーティストによってデザインされている。彼らは、トヨタ自動車のランドクルーザーやBMWのX5やX7など、高汚染車やBMWの車両を描いている。ある作品では、トヨタのランドクルーザーが、乳母車に乗った歩行者、子ども、自転車が殺到する都会の道路を走り抜ける様子が描かれている。また、最近ブリュッセル・ミディ駅で見かけたものでは、「Add Driving Pleasure」と書かれた本物のBMWの広告のパロディとして、「Add Climate Breakdown」と書かれた偽物のBMW広告もある。

ブリュッセル・ミディ駅で目撃されたBMWの広告(2022年12月)

Brandalismの広報担当者であるTona Merrimanは、次のように述べている。

「トヨタは “Beyond Zero” 持続可能性広告を押し進める一方で、世界中の政府に働きかけて大気保全計画を緩和させ、生存可能な気候よりも自分たちの利益を守るために法的措置を取ると脅しています。トヨタの広告はまやかしです」

英国では、2030年までにガソリン車とディーゼル車、2035年までにハイブリッド車の販売が禁止されるのを前に、キャンペーンに参加している活動家は、最も汚染度の高い車、特にSUVの広告を直ちに中止するよう求めている。Adfree Cities(英国)、Badvertising(英国)、Résistance à l’Agression Publicitaire(フランス)、Climáximo(ポルトガル)、Greenpeace International、その他35の団体からなるキャンペーン担当者は、高炭素製品の広告を廃止するためにタバコのような法律が必要であると訴えている。

また、Tona Merrimanは次のように述べている。

「トヨタとBMWは、巧みなマーケティングキャンペーンで、都市部の居住空間を塞ぐような大きすぎるSUVを宣伝しています。電気自動車のSUVは、ほとんどの駐車スペースには大きすぎるし、その高いバンパーサイズと過剰な重量は、歩行者、特に子どもたちが道路で事故に巻き込まれるリスクを高めています」
ブリュッセルに設置されたパロディBMWのサブヴァート、2023年1月

[1] https://influencemap.org/report/Corporate-Climate-Policy-Footprint-2022-20196

[2] トヨタの広告エージェンシーはThe&Partnership https://theandpartnership.com 、電通はBMWの広告エージェンシーの一つである https://www.dentsu.com/nl/en

[3] https://thedriven.io/2022/09/09/toyota-ranks-last-in-global-green-car-report-accused-of-anti-climate-lobbying/

[4] 国連、2022年、「Integrity Matters: 企業、金融機関、都市、地域によるネット・ゼロ・コミットメント」、「非国家主体によるネット・ゼロ・エミッションのコミットメントに関する国連ハイレベル専門家会合」、https://www.un.org/sites/un2.un.org/files/high-level_expert_group_n7b.pdf

Brandalismは、大企業とその広報広告の力に立ち向かうアーティストと活動家の国際的な集団である。彼らは「サブバーティシング」(広告を破壊する芸術)を用いて、大手汚染企業によるグリーンウォッシュ に対抗している。http://brandalism.ch/

Subvertisers’ International は、ヨーロッパ、米国、アルゼンチン、オーストラリ アの反広告グループのネットワークです。https://subvertisers-international.net/about/members/

Extinction Rebellion (XR) 非暴力直接行動を用いて、気候および生態系の緊急事態に 対して行動するよう政府を説得する国際的な運動です。https://www.extinctionrebellion.be/en

出典:http://brandalism.ch/projects/toyota-bmw-greenwash/

(Boston Review)ウクライナと蝕まれる平和主義

(訳者前書き) ここに訳出したのは、戦後ドイツの平和運動がウクライナの戦争のなかで直面している、平和主義そのものの危機、つまり、武力による平和の実現への屈服の歴史を概観したもので、日本の現在の平和運動が陥いっている矛盾や課題と主要な点で深く重なりあう。その意味でとても示唆的な論文だ。

ドイツは戦後ヨーロッパの平和運動の重要な担い手だった。ナチスによるホロコーストという戦争犯罪への反省から、二度とホロコーストを引き起こさないという誓いとともに、二度と戦争を引き起こさない、「武器によらない平和」という考え方を支えてきた。自らの加害責任を明確にすることから戦後のドイツの平和への道が拓かれる。これは、日本が戦争責任、加害責任を一貫して曖昧にしてきたのとは対照的な姿だと受けとめられてきた。一方で、ドイツは日本のような戦争放棄の憲法を持つことなく、軍隊を維持し、NATOにも加盟してきた。とはいえ、ドイツの民衆は米軍やNATOによる軍拡や核兵器反対運動の重要な担い手であり、それが、ドイツの議会内左翼や緑の党を一時期特徴づけてもいた。しかし、日本同様、ドイツもまた、ポスト冷戦期に、戦後の平和主義そのものが左翼のなかで事実上崩壊する。ただし、特徴的なことは、ホロコーストは二度と起こさない、という誓いが、ホロコーストを招来するような武力紛争い対しては、武力によって介入することも厭わない、というようになり、それが、コソボからウクライナへと継承されるとともに、国連の対応にも本質的な変化が生まれてくることを著者は指摘する。このあたりの著者の記述は、私たちにとっても重要だし、示唆的でもある。

決定的に軍拡に前のめりになったのがウクライナの戦争においてだった。以下でスティーブン・ミルダーが述べている平和主義が壊死するに到る経緯は、ある意味で、日本の護憲主義が絶対平和主義や非武装中立の理念を放棄して、9条護憲といいながら専守防衛と自衛隊合憲を当然の前提にするという欺瞞に陥いった経緯と多くの点で重なりあう。緑の党が平和主義を放棄して積極的な武力介入へと変質する経緯も他人事とはいえない。ウクライナへの軍事支援や武力抵抗の是非をめぐって日本の左翼のなかにも考え方の対立がある。同様のの対立がドイツでも起きている状況をみると、今日本で起きている軍拡と平和主義の解体的な危機の問題は、日本だけの問題ではなく、ある種の普遍的な問題でもあるということに気づかされる。私は、いかなる場合であれ、武器をとることは選択すべきではない、という立場だが、このような立場が日を重ねるごとに無力化される現実に直面するなかで、平和主義者が国家にも資本にも幻想を抱くことなく、国家と資本から解放された未来の社会の実現を暴力に依拠しないで実現するための構想ができていただろうか、ということをあらためて考えなければならないと感じている。平和主義(これは議会主義と同じ意味ではない)の敗北の歩みは、平和主義の破綻ではなく、そのパラダイム転換が求められていることを示している、と思う。(小倉利丸)

A mass peace demonstration in Bonn, Germany, on June 10, 1982, on the occasion of a NATO summit. Image: Wikipedia

ドイツの指導者たちは、戦争に対応して国防費を大幅に増やし、第二次世界大戦後に生まれた平和主義の文化との決定的な決別を示し、軍縮の大義に大きな打撃を与えている。

スティーブン・ミルダー
ヨーロッパ, グローバル・ジャスティス, 軍国主義, ウクライナ, 戦争と国家安全保障

    2023年1月11日

11カ月前、ロシアがウクライナに侵攻した日、Alfons Mais中将は自身のLinkedInアカウントにこう書き込んだ。「私が率いる連邦軍は、多かれ少なかれ破たんしている」「(NATO)同盟を支援するために政府に提示できる選択肢は、極めて限られている」と彼は書いた

ドイツの装備の悪い軍隊は、戦争を拒否するドイツの誇らしい象徴というよりは、西ヨーロッパが自らを守ることができないことの兆しと受け止められているのだ。

報道では、マイスの悲観的な見方は事実に基づくものだ。ドイツ連邦軍はNATOのアフガニスタン長期作戦に参加し、現在もドイツの兵士は国連平和維持活動の一環としてマリに派遣されているが、ロシアのような核保有国に対抗するには明らかに力不足だった。昨年2月現在、ドイツ連邦軍は40台の最新型戦車しか保有しておらず、ヘリコプターの約6割が戦闘不能とされている。一方、海軍は、新たな任務を担うことはおろか、以前から計画していた作戦を遂行するのに十分な艦船があることも確認されていない

これらの統計は、米国の莫大な国防費や軍事力とは対照的であり、ドイツが1945年以来数十年の間、攻撃的な軍国主義から平和主義的な抑制へと転じたことの証拠である。戦場で大国と対峙するつもりのない軍隊に、戦車やヘリコプターは何の役に立つのだろうか。しかし、ウクライナで戦争が勃発すると、不手際で装備の整わない連邦軍というイメージは突然、別の意味合いを持つようになった。それは、ドイツの誇り高い戦争拒否の象徴ではなく、西ヨーロッパの自衛能力の欠如の象徴として注目を集めるようになったのである。

ドイツ連邦軍の装備を改善し、ヨーロッパの安全保障に対するコミットメントを証明するために、ドイツの指導者たちが昨年精力的に行った努力は、戦後のドイツ史における劇的な転機と評されるようになった。オラフ・ショルツ首相は昨年2月、1000億ユーロという前代未聞のローンを組むと宣言し、それを正当化するために「必要な投資と軍備プロジェクト」のための「特別基金」といった言い回しを使った。軍備強化へのコミットメントを疑う余地のないようなものにするために、ショルツは国防予算の年次増額を発表した。戦争が始まって3日後、ショルツは国会で、ロシアの侵攻は「わが大陸の歴史の分岐点」だと述べて、この国防費のすさまじい増額を正当化した。この主張は、ドイツ人の歴史的想像力の大きな事柄との関連で理解されなければならない。すなわち、第二次世界大戦である。首相は、「私たちの多くは、両親や祖父母の戦争の話をまだ覚えています。そして、若い人たちにとっては、ヨーロッパで戦争が起こることはほとんど想像もつかないことなのです」と説明した。彼の主張は広く受け入れられた。6月までに連邦議会は、連邦軍資金の大幅増額というショルツの計画を実行に移すために必要な憲法改正案を可決した。

現実には、実際の分水嶺は、第二次世界大戦以来初めて「ヨーロッパでの戦争」が突然出現したことでは ない。それは、1990年代のユーゴスラビアでの熱い戦争だけでなく、冷戦時代の数十年にわたる軍国主義を消し去った、歴史的な記憶喪失の驚くべき一連の出来事である。真のより大きな変化は、ほとんど何も語られることはなかった。つまり、これは、この30年間、ドイツは、ポスト・ファシストの国――これは、歴史家Thomas Kühneが言うところの「平和の文化」によってナチスの過去を克服したかに見えたのだが――から、防衛費を増大させ、重武装の侵略者に反撃する態勢を伝えることに熱心なポスト平和主義の国へのこの30年間のドイツの変容の頂点をなすものなのである。確かに、東西ドイツは第二次世界大戦後すぐに再軍備を行い、冷戦時代には何十万人もの米ソの兵士を受け入れたが、この時期を通じて、二人の東ドイツ反体制者のよく知られた「武器なしで平和を作る」(Frieden schaffen ohne Waffen)という主張を熱心に支持するドイツ人もかなりの数にのぼった。この冷戦時代の平和主義は、1990年代以降、西側諸国が武力による自衛と人道的介入を広く求めるようになったことに直面するなかで転換に迫られ、ショルツのレトリックから消え去った。

過去75年間の戦争を無視することは、プーチンの侵略戦争の深刻さを伝えるのに役立つかもしれないが、ドイツ人の過去、特に第二次世界大戦の教訓に照らして戦争と平和について考える方法の大きな変化をも見落とすことになる。また、ウクライナ戦争に対するドイツのタカ派的な対応がもたらすリスクと結果も見えにくくなっている。かつて多くのドイツ人が第二次世界大戦を、あらゆる形態の軍国主義に反対する理由としてきた。しかし、今日では、これが、残虐行為を防ぐという名目で、国防費の増大を正当化する議論に利用されているのである。


軍国主義に対するドイツの反発は、1945年直後に生まれ、冷戦の間ずっと続いてきた。敗戦と占領の経験に懲りた西ドイツと東ドイツは、ともに平和な国として認識されることを望んだ。両国の憲法は侵略戦争を禁じ、軍隊の役割を平和維持に限定し、西ドイツの軍需メーカーが紛争地域に武器を輸出することを法律で禁止していた。しかし平和への誓いは、ここまでだった。ドイツは、いずれも冷戦時代の軍事同盟の再軍備や積極的なメンバーになることをおろそかにはしなかった。「鉄のカーテン」に沿って位置する両国は、何十万人もの米軍とソ連軍を受け入れ、徴兵制が採用され、冷戦の最盛期には50万人以上のドイツ人が現役兵として兵役についていた。それでも、公式の声明や政府のポリシーは、第三次世界大戦を防ぐことに期待をかけて軍事紛争を制限することに重点を置いていた。

かつて多くの人が第二次世界大戦を軍国主義に反対する理由とみなしたが、今では軍国主義を正当化するために利用されている。

このような態度は、ドイツ社会全体に見受けられた。冷戦時代には、一般の人々が民衆感情と草の根の活動を通じて、重要な「平和の文化」を築き上げた。第二次世界大戦末期にドイツ人が経験した悲惨さと、1945年の敗戦後に彼らが耐えた窮乏が、平和への抗議の第一波を促進したのである。戦争直後、一般ののドイツ人は、自国の再軍備に対して、下からの「私抜きで!」 (Ohne mich!)運動への参加を通じて、個人的に加担したくないという意思を表明した。1949年に西ドイツと東ドイツが成立すると、国家社会主義の東ドイツでは、草の根の抗議運動は難しくなった。しかし、西ドイツでは再軍備や核兵器に対する抗議が1950年代を通じて起こり、ある意味で再軍備や1955年の西ドイツのNATO加盟に影を落すことになった。確かに、スイス、オーストリア、スウェーデンといった中欧の隣国とは異なり、ドイツ連邦共和国は中立国ではなかったが、戦争反対のイメージを醸成することに成功し、この時期に生まれた抗議の文化は長期にわたって影響を与えることになる。

1980年代初頭、軍拡競争が再び激化し、歴史家が「第二次冷戦」と呼ぶ戦争が始まると、両国の市民は再びより積極的な平和推進派に転じた。彼らは、主に、NATOやワルシャワ条約機構による中距離核ミサイルのヨーロッパへの配備に抗議した。西側では、NATOの中距離ミサイル配備の根拠となった「デュアルトラック決定」への反対運動が起き、政治学者ペーター・グラーフ・キールマンゼグの言葉を借りれば「連邦共和国がかつて経験したことのない大衆運動」に発展していった。1983年10月22日、西ドイツの「暑い秋」の中で最大の抗議行動となったこの日、120万人のドイツ人が街頭に立っていた。反ミサイルの運動は、さらに広く、深く拡がった。西ドイツの人々は、多くの市や町に非核地帯を設けるよう地元当局に要求し、NATOのミサイル基地を封鎖するために市民的不服従の訓練を受けた。

社会運動というと「SA(ナチスの準軍事組織)の行進」を想起させ、民主主義秩序の全面的な否定と同一視されかねないこの国において、こうした広範な抗議行動は大きな進展であった。しかし、国会がミサイル配備を承認するのを止めることはできなかった。西ドイツ連邦議会は1983年11月22日、キリスト教民主・自由党の連立政権政党と一部の社会民主党の賛成で、ミサイル配備を容認する議決を可決した。米軍は翌日午前1時からドイツへのミサイル輸送を開始した。西ドイツの人々が、反対を貫きながらも議会の決定を受け入れたことで、ストリート・デモが議会制民主主義の枠内で存在し得ることを証明することになった。その結果、歴史家は1980年代の平和運動が西ドイツで抗議行動を「正常化」したと論じている。

東ドイツでも、核軍拡競争に反対する運動が、1980年代前半に大きな盛り上がりを見せた。ロバート・ヘーブマンとライナー・エッペルマンは、1982年の「ベルリン・アピール」で、社会主義政権に対し、「武器なしで平和をつくる」という平和主義の理想に忠実であるよう挑んだのである。東西に備蓄された兵器は「我々を守るどころか、我々を破壊する」と主張し、ハーベマンとエッペルマンは政府に「兵器を廃棄する」ことを要求した。牧師ハラルド・ブレットシュナイダーは、社会主義圏のスローガン「剣を鋤に」を軍事政策への批判に転化し、この言葉をプロテスタント教会の庇護の下で展開された初期の平和運動のモットーにした。ブレットシュナイダーのグループは、社会主義政権が独自の社会活動を禁止していたにもかかわらず、1982年に「平和フォーラム」を開催し、約6000人の参加者を得た。秘密警察の監視にさらされる中、東ドイツの平和活動家たちは、西ドイツの人々との間で個人として「個人的平和条約」を結ぶなど、平和に向けた新たな活動の方法を見出した。西ドイツの「緑の党」議員で平和活動家のペトラ・ケリーは、1983年10月の会合で東ドイツの指導者エーリッヒ・ホーネッカーに「個人的平和条約」に署名するよう求めたほど、この習慣は広く浸透し、注目されるようになった。しかし、側近の一人のささやかな仲介により、ホーネッカーはこの条約の最後の論点である「一方的な軍縮の開始を支持することをここに約束する」ことへの同意を拒否した。

冷戦時代、一般のドイツの人々は、民衆の感情や草の根の活動を通じて、重要な「平和の文化」を築き上げた。

両国の政府は、武力防衛政策を撤回して一方的な軍縮を進めることを拒否したが、平和活動家が形成したネットワークと彼らが提唱した批判は、深い意味を持っていた。西ドイツは多くの米軍基地とNATOの膨大な兵器を抱えていたが、強力な平和運動が民衆の平和主義的ムードをとらえ、草の根の政治的関与を促したように思われる。東ドイツでは、平和運動はより大きな影響を与えたと思われる。平和運動は、1989年秋の大規模な街頭抗議行動を組織するためのネットワークづくりに重要な役割を果たし、それがドイツ民主共和国の崩壊を促したのである。冷戦がほぼ非暴力で終結したことで、武力紛争のない未来像――戦争はもちろん暴力的な闘いではなく平和的な民衆の抗議が、地政学的変化を促す世界――が描かれるようになった。

国家社会主義が崩壊した後、統一されたばかりのドイツでは、熱い戦争とそれをめぐる論争が身近なものとなった。戦争が続く大陸で復活した大国の責任と、イラクやアフガニスタンに介入したアメリカとの同盟の責任に直面し、ドイツの反戦文化は揺らいだ。1990年8月のイラクのクウェート侵攻に対する米軍主導の対応に消極的だった。これが冷戦時代の平和主義の終りを意味するものだった。冷戦時代の軍拡競争の中で、表向きは武力紛争を否定し、その一方で誠実な軍事同盟メンバーであるという、一見逆説的な組み合わせに象徴される国になった。

1990年のペルシャ湾紛争は、イラクのクウェート侵攻で始まったが、多くのドイツ人は、イラクの侵略者に対して武力を行使する理由はほとんどないと考えていた。むしろ、イラク軍をクウェートから追い出し、イラク領内に深く侵入したアメリカ主導の「砂漠の嵐」作戦に反対し、統一ドイツ全土で抗議行動を起こし、反米感情を高揚させた。例えば、ペーター・シュナイダーは、ドイツ人が米国の介入を批判すると同時に、イラクのクウェート侵攻を非難することに消極的であることを懸念し、その姿勢は、戦争で危害を受けた米兵を看護しないことを宣言したドイツの看護師の行動などにも表れているとコメントした。

統一ドイツで抗議を呼び起こし、激しい論争を引き起こしたのは、海外への武力介入だけではなかった。ほぼ10年続いたユーゴスラビア戦争は、サラエボを4年近くも包囲し、スレブレニツァの虐殺を引き起こし、ついにはドイツ軍の1945年以来の海外派兵を引き起こすなど、恐ろしい事件を含んでいたが、こうした問題にも劇的な影響を及ぼした。特にボスニアとコソボの戦争は、ドイツ軍の海外派遣の可能性や平和維持活動における統一ドイツの役割といった根本的な問題をめぐる議論を引き起こした。このような議論の中で、冷戦時代に多くのドイツ人が抱いていた「戦争の火種を増やすべきではない」という反軍国主義的な考え方が変容していった。

武力介入に対するドイツの態度の変容を最も明確に示しているのは、おそらく緑の党だろう。緑の党は、平和運動が最高潮に達していた1983年に西ドイツ連邦議会に初めて議席を得た。反ミサイルデモへの広範な参加は、緑の党を国会に押し上げることにつながった。緑の党の有力者は、自分たちの党を平和運動の「議会の翼」(より具体的には、緑の党の有力議員ペトラ・ケリーの言葉を借りれば、運動において「立法の役割を演じることplaying leg」)とまで呼び、党の綱領は「連邦共和国が平和と軍縮のために単独で活動できるような政府」を呼びかけていた。1983年の選挙に向け、大西洋の両岸の政界は、緑の党の一方的な軍縮支持がドイツのNATOからの脱退になると警鐘を鳴らしていた。例えば、ロバート・ヘーガーはUS News and World Report誌に、「緑の党は急進的な社会主義者と組み、ドイツを中立主義に導く破壊的な少数派を形成する可能性がある」と警告している。このような大げさな懸念は杞憂に終わった。結局のところ、緑の党の獲得議席数は5%にとどまった。NATOの核ミサイルをドイツ国内に配備することを承認する議決を議会で阻止することも、ましてやドイツを同盟から完全に排除することもできる数ではなかった。

反軍国主義の文化は1990年代に変容し、軍事力が人道的利益のために展開されるようになった。

しかし、かつてドイツの草の根平和運動の議会的表現と理解されていた政党は、1990年代の戦争の中で、NATOを力強く支持する方向に向かう新たな立場を採択した。1998年、社会民主党のゲアハルト・シュレーダー首相の連立政権に緑の党が加わって外相となったヨシュカ・フィッシャーは、この変化の先頭に立ち、ドイツ人が第二次世界大戦から引き出した教訓も変化していることを示唆する発言を繰り返している。ボスニア・セルビア軍によって8000人以上のボスニア・イスラム教徒が殺害された1995年のスレブレニツァ事件直後のインタビューで、フィッシャーは、いつまでたってもぐずぐずしてボスニア・イスラム教徒の武装自衛に貢献しようとしない姿勢を「裸と血のシニスム」と表現した。彼は介入主義を糾弾したり、武力抵抗は紛争の火種になるだけだと主張するのではなく、ボスニアのイスラム教徒の「自衛権」を代弁したのである。

戦争を否定しながら、このように主張をするために、フィッシャーは相反する二つの原則を打ち出した。「二度と戦争はしない!」(Nie wieder Krieg!)と「二度とアウシュビッツを繰り返さない」(Nie wieder Auschwitz!)である。)である。 スレブレニツァの虐殺のような大量殺戮を防ぐために使われる可能性がある限り、フィッシャーにとって、戦争は許容できる――必要でさえある――ものであった。アウシュビッツへの明確な言及は、フィッシャーの主張がドイツの過去への熟考に基づくものであることを明らかにした。同時に、彼の考えは、脅威を受け搾取されている少数民族の武装自衛権、さらには武装蜂起を長い間受け入れてきた自民党の一部と一致するものだった。例えば、西ベルリンの緑の活動家で後に国会議員となったハンス・クリスチャン・シュトレーベレは、サルバドール内戦のさなか、明らかに軍国主義的なスローガンである「エルサルバドルに武器を」を掲げて資金調達キャンペーンの先頭に立った。

しかし、フィッシャーは、ボスニアに小型武器を送るような草の根の募金キャンペーンを考えてはいなかった。その代わりに彼が考えていたのは、ドイツ連邦共和国を含む国家の軍隊が、劣勢に立たされた少数民族のために海外に派遣されるべきかどうかということであった。大量虐殺には武力で対抗しなければならないと主張した同じインタビューの中で、フィッシャーは、ボスニアのイスラム教徒を保護するというプロジェクトにおけるドイツの役割を後悔し、「再びドイツが(戦争で)果す役割はない」(Nie wieder eine Rolle Deutschlands)と宣言している。他のヨーロッパ諸国が凶悪な戦争犯罪を防ぐためにボスニアに介入するのは良いことだが、フィッシャーの葛藤からすれば、自国固有の歴史的犯罪のため、大量虐殺を武力で止める努力にドイツが関与することは許されないのだ。

4年後、この問題が頂点に達した。緑の党が連立政権に入り、外相となったフィッシャーは、NATOのコソボ介入へのドイツの関与について党内の支持を取り付ける必要に迫られたのである。1999年5月13日、ドイツ空軍を含むNATO軍がボスニア・セルビア・インフラへの空爆でコソボ戦争に介入してから50日後、緑の党はビーレフェルト市で特別党大会を開き、NATOの行動とドイツの参加について過去に遡って議論した。

マスコミは、コソボへの武力行使に代表が同意するかどうかで、党が分裂するのではと推測していた。NATOの空爆中止を求めるデモ隊の群集から緑の党代表を守るために、1500人もの警察が出動したのだ。緑の党は崩壊するどころか、444対318という僅差でNATOの介入を遡及的に承認する票が投じられた。ビーレフェルト党大会の忘れがたいイメージは、デモ参加者が会場に押し入り、フィッシャーにペンキ爆弾で襲いかかり、彼の鼓膜を破ったことである。劣勢で脅威にさらされている集団の武力防衛に自国の軍隊が貢献することを激しく拒否するドイツ人は、依然として相当数いたのである。同時に、多くのドイツ人にとって、軍事介入の論理は変化しつつあった。旧ユーゴスラビアでは、この5年間で2度目となる西側の介入によって武力紛争の火蓋が切って落とされたのである。

1990年代の教訓は、ドイツだけでなく西側諸国でも急速に取り込まれた。戦争犯罪や大量虐殺を阻止するためには軍事力が最も有効であるという考え方が支持され、2005年に国連加盟国が全会一致で「保護する責任Responsibility to Protect」(R2P)という枠組みを承認したことで、国際社会は、国家が自国の住民を大量虐殺から守ることができない場合には集団行動が必要であるという考えを採択した。つまり、戦争犯罪やジェノサイドに対して、軍事介入を含む行動を起こすことが、新しい国際秩序の規範となったのである。


このレガシーは、現在に至るまで影響している。緑の党の有力政治家たちは、ショルツ内閣の閣僚として、ウクライナにドイツの武器を送ることを最も強く主張してきた。マスコミはこうした呼びかけを、かつて平和主義だった緑の党が突然の変化を遂げたかのように報じているが、実はこの変化は1990年代から進行していたのである。例えば、2022年4月の『シュピーゲル』誌のカバーストーリーでは、緑の党が「親平和の理想主義者から戦車ファンへ」と変化したことを理由に、緑の党のリーダーたちを「オリーブの緑」と呼んだ。この表現は、2001年11月に同じ雑誌に掲載された、米国のアフガニスタン侵攻への支持を強化するために精力的に活動した、「オリーブグリーン」アンゲリカ・ベア(緑の議会代表団の防衛担当報道官)を取り上げた記事の見出しと直接対応している。2001年、シュピーゲル誌はすでに、緑の党を「かつては平和主義者だった」と評していた。

2005年までには、戦争犯罪から防衛するための軍事化が、新しい国際秩序の規範となった。

ビールの活動の成果もあって、アメリカの侵攻を支持する投票を辞退した緑の議員はわずか4人で、緑の代表団の大多数がこの決定を支持し、ドイツ軍はアフガニスタンに派兵されたのである。フィッシャーは、再び軍事介入支持を主張し、投票後、「共和国を決定的に刷新した」と論じた。しかし、フィッシャーの政治キャリアを「ベルリン共和国の形成」と結びつける伝記を書いたパウル・ホッケノスにとっては、統一後のドイツの外交政策を規定したのは、転換といえるほどの刷新ではなかった。シュレーダー=フィッシャー政権の下で、ドイツは「自信に満ちた、時には独立心のある行動主体であることを示した」とホッケノスは主張する。「経済の巨人、政治の小人」と評された冷戦時代の西ドイツとは大違いである。こうして、統一ドイツは戦争を遂行することで平和をつくる道をとることになる。かつて平和主義者であった多くの人々が、あらゆる戦争反対から武装による自衛の支持に転じたのは、ドイツの敗戦と喪失よりもホロコーストの犯罪を重視する第二次世界大戦観の変化、「二度と戦争をしない!」という原則よりも「二度とアウシュビッツを繰り返さない!」という原則に一貫して重きを置いてきたためであった。

その結果、かつては外国の紛争に介入すること自体に反発があった国が、今では脅威を受けた集団の武装自衛を支援する姿勢を示すことに四苦八苦している。それが顕著になったのは、ロシアのウクライナ侵攻以降である。ショルツは防衛費の大幅な増額を主張しながらも、当初はウクライナへの武器供与をためらい、保守系野党だけでなく連立政権のパートナーからも繰り返し激しく非難された。ショルツ政権の外相である緑の政治家アナレナ・バーボックは、ウクライナへの「重火器を含むさらなる軍事物資」の送付を支持する太鼓を叩き続けている。(アメリカのジャーナリスト、スティーブン・キンザーによれば、ベールボックのタカ派的な発言は、「ドイツの前の世代を形成した恥や反軍国主義を埋め込まずに育った」若い世代の政治家の立場を象徴しているのだという。ベールボックのような政治家は、武力介入がボスニア戦争やコソボ戦争の終結に一役買った1990年代の経験により大きな影響を受けていると思われる)。ベールボックらの圧力に押され、ショルツは徐々に後退し、ウクライナへの武器輸送をどんどん許可していった。

7月までに連邦政府は戦車の納入を開始した。連邦軍にはほとんど装備がなかったため、政府はドイツの兵器メーカーからウクライナに17億ユーロで自走砲100基を売却し、今後数年間に渡って納入するよう取り計らった。ロシアの侵攻から1年近くが経過し、和平交渉に応じる兆しが見えない中、和平のための武器使用を否定する声は、ドイツの議論から消えている。国会では、2021年秋の選挙でNATOからの離脱を主張し、批判が殺到して支持率が半減した左翼党だけが、ロシア侵攻に対して武力闘争よりも平和を優先する立場を取り続けた。左翼党は引き続きドイツの軍備増強に反対し、「危機的地域や紛争地域に武器を送り込む」ことで「大火災を引き起こすリスク」を警告したが、党内は悲惨な危機に陥り、連邦議会の議論ではますます蚊帳の外的な存在に見えるようになってしまった。

議会外の「武器なしでの平和」の提唱者たちにとっても、状況はほぼ同じであった。著名なフェミニストのアリス・シュヴァルツァーは4月、28人の知識人や芸術家が署名したショルツへの公開書簡を、自身の雑誌『エマ』のウェブサイトに掲載し、ウクライナへのドイツの武器援助の中止を訴えた。「追い詰められたなかで行われているエスカレートした軍備増強は、世界的な軍拡スパイラルの始まりとなり、少なくとも世界の健康や気候変動に破滅的な結果をもたらすかもしれない」と、書簡は訴えた。「そして、「あらゆる相違にもかかわらず、世界平和のために努力することが必要である」と結んでいる。

プーチンの侵略をきっかけに、武力闘争の政策提言活動は、急速に新しい常識になりつつある。

10月に米国議会進歩的議員連盟 the Congressional Progressive Caucusが同様の書簡を発表し、米国内で論争が起きたことからも予想されように、エマ書簡の署名者は、緑の党をはじめドイツの政界全体から憤りの言葉を浴びせられた。緑の党の国会議長の一人であるブリッタ・ハッセルマンは、「プーチンが国際法に違反してヨーロッパの自由な国を侵略し、都市全体を破壊し、市民を殺害し、女性に対する武器としてレイプを組織的に展開しているのに」、平和を目指すという考え方自体がナイーブだと示唆した。一方、ラルフ・フックスとマリエルイーズ・ベックという二人のベテラン緑の党は、ショルツへの二番目の公開書簡を組織し、57人の署名を得てスタートすることで対抗した。シュヴァルツァーが「軍拡のエスカレート」に帰結すると注意したのとは正反対に、フックスとベックは「ウクライナに有利な軍事バランスへとシフトするために、武器と弾薬を継続的に供給する」ことを支持する。プーチンが「勝者として戦場を去る」のを阻止することによってのみ、「ヨーロッパの平和秩序」は保たれる、と彼らは主張した。つまり、平和は武器がなければ作れない、銃口で作るものだ、というのだ。

こうした態度は、ドイツの平和主義者の間で、侵略戦争、とりわけ大量虐殺の防止が武力闘争の回避に取って代わりはじめた1990年代の議論と明らかに連続性がある。シュヴァルツァーの手紙に署名したベテランの 緑の党員であるアンティエ・フォルマーにとって、この変化は、今日の緑の党員たちが「ヨシュカの子ども」であることの証拠である。フィッシャーは、”二度と戦争をしないNever again war!” と “二度とアウシュビッツは起さないNever again Auschwitz!” の対比で、戦争に対するドイツ人の態度の変化を見事に表現した。1945年の敗戦と戦後のドイツが置かれた荒涼とした状況が、かつて戦争を全力で拒否するきっかけになったとすれば、ホロコーストに対するドイツ人の責任を果たそうという意欲が高まったことは、別の教訓を引き起こすことになった。ウクライナ戦争をめぐる議論においてドイツの若い政治家が相対的に好戦的であるのは、戦争体験の欠如というよりも、むしろ戦争体験のおかげである。それどころか、ユーゴスラビアやルワンダなどで恐ろしい戦争犯罪が行われるのを見続けた経験が、ロシアの猛攻から自らを守ろうとするウクライナの人々に対する若い政治家の率直な支持を促す義憤を後押ししている。1990年代に10代だったベールボックは、4月にバルカン半島に足を運んだ。スレベルニツァの虐殺を記録した写真展を訪れた彼女は、この恐ろしい事件が「社会的にも政治的にも、ドイツにおける彼女の世代を形成した」とコメントした。

1990年代の教訓を生かすことは、今回の侵略者が膨大な核兵器を保有する主要な軍事大国であることを考えれば、より容易である。かつてフィッシャーは、「アウシュビッツを再び繰り返すな!」というスローガンを、彼にとっては戦争否定の残念な例外としてとらえたが、武力闘争の政策提言活動は、急速に新しい常識となりつつある。


ある者は、ドイツの平和主義の衰退をポジティブな展開と見るだろう。つまり、ドイツの平和主義の衰退は、国際舞台におけるドイツの責任を認め、ドイツ国内に保有するNATOとワルシャワ条約の膨大な兵器庫に支えられた冷戦時代の平和文化の偽善を認めたものだと