インパクト出版会から表記のタイトルの論文集が刊行されました。このなかで「暴力の人類前史の終りと社会解放に向けて」を寄稿しています。
この拙論で書いたことは、ブログでも何度か書いてきたテーマ(これとかこれ)を敷衍したものになります。論文のタイトルは「暴力の人類前史の終りと社会解放に向けて」と大風呂敷を拡げてしまったのだけれど、到底ののタイトルに相応しい内容とまではいっていないだろうと思います。拙論では、主に暴力を論じるときに、繰り返し参照される定番の議論のなかで、フランツ・ファノンの暴力論とベンヤミンの暴力批判論をとりあげました。そして、シモーヌ・ヴェイユにも紙幅を割きました。ヴェイユはともかくとして(それならアーレントを取り上げるべきだろう、という意見もあるでしょう)、ファノンとベンヤミンへのアプローチは、将来の社会変革の手段から暴力――ここでは主に人に対する殺傷力のある暴力――という選択肢を排除する必要性を述べる上で、避けられない議論だと私が考えたこの二人について、考え方を述べましたが、とくにファノンについての私の見解には、異論がありうるかもしれないと思っています。
ファノンの暴力論――ここでは主に『地に呪われたる者』の冒頭の論文――は、サルトルの序文の影響もあって、暴力による解放闘争の必要を主張したものと理解されてきました。たしかに暴力論だけを取り上げれば、この解釈に異論の入る余地はないと思います。しかし、『地に呪われたる者』全体を鳥瞰してみたとき、とくに、最終章に置かれた「植民地戦争と精神障害」と結びつけて暴力の問題を考えたとき、ファノンが諸手を上げて暴力という手段を肯定していたわけではない、ということにもっと関心が持たれていいのではないか、というのが私の一つの解釈になります。しかも、暴力が必然的にもたらす精神障害(いわゆるPTSDの問題として後に繰り返し議論されるようになった問題)の深刻さをファノンは精神科医として実地に体験しており、その症例研究が「植民地戦争と精神障害」だったわけですが、解放戦争であれば、こうしたPTSDを回避できるわけではなく、また植民地から解放されれば、PTSDも治癒可能になるということでもないことを、理解していたと思います。他方で、ベンヤミンの暴力批判論は、思想や哲学を好む人達によって繰り返し論じられてきた難解なテキスト(特に最後の方で論じられる神話をめぐる議論)について、私の論文では、ベンヤミンが一言漏らしたに近い、何ひとつ難解なところのない言葉、つまり、国家を別にして、民衆が自分達の日常の諍いを解決するために使う常識的な解決法として、心の優しさ、情愛などという陳腐な言葉を並べた箇所を、このベンヤミンの暴力批判論の核心だと述べています。
暴力が問題の解決になることはなく、単に問題を先送りにするだけに過ぎない、ということはこのブログでも繰り返し指摘しており、この拙論でもこのことを別の角度から述べたに過ぎません。暴力という手段と解放の課題をめぐる問題は、暴力が問題を解決することはありえない、ということの先にあります。問題の解決とは無関係な手段によって、あたかも問題が解決できるかのように信じ込むことが、国家レベルで、あるいは極めて大きな人間集団の間で、共有され、支持されるようなことがなぜ起きるのか、という問題です。この問題への答えを出すことは、手段としての暴力を選択肢から排除する上で必須の前提になります。このことに拙論では全く言及していません。
他方で、ヴェイユを取り上げたのは、組織された解放のための暴力という問題を考えたかったからです。社会解放にとっての暴力は、組織化された集団としての暴力を前提とします。ヴェイユはかなり早い時期にスターリン主義のソ連に疑問を呈していました。その後スペイン戦争に志願兵として、これまた内戦初期にアナキストのグループに参加してますが、組織による暴力の問題で失望を経験しています。社会解放の民衆的な力を構想するとき、ここに暴力(殺傷の手段)が介入した場合に何が起きるのか、という問題を実は考えたかったのです。拙論ではこの点を十分に議論するところまではいきませんでした。ヴェイユは晩年になって、神や信仰について多く語るようになったと言われています。しかし、そうだからといって彼女が労働者大衆のなかに自らの思想の根を張ることを断念したとは思いません。むしろ、社会的な解放の理論や思想と、そこから導かれる実践の枠組みでは、彼女が抱えたであろう苦悩を解決できなかった、ということだと思います。この問題は、世俗的左翼でしかない私にとってはとても重要な問題です。というのは、ヴェイユが抱えた問題は、社会を総体として変革するための思想や理論を標榜するほとんどのものは――マルクス主義であれアナキズムであれ――それ自体では、人々ひとりひとりの心的な抑圧からの解放を実現できるとはいえない、という問題だからだと私は解釈しています。この問題は、解放の道筋を世俗的な回路ではなく、宗教的な回路を通じて達成しようとする現代の政治的宗教(たとえば、米国の福音主義やイスラームの様々な復興主義など)の影響力の強まりのなかにあって、世俗的であること、無神論であることがもつ力の相対的な衰弱という問題でもあります。超越的な存在や唯一の絶対者といった観念に自らの解放を委ねないためには、今一度、世俗的な主体の存在理由を根本から再構築することが求められていると思います。こうした思いを拙論では十分には表現できませんでした。
以下、『「いくさ世」の非戦論』の目次を紹介します。
佐藤幸男[編]
「いくさ世」の非戦論 ウクライナ×パレスチナ×沖縄が交差する世界
目次
第1章 ウクライナで燃えあがった戦火とその後
板垣雄三
第2章 グローバル・サウスの潜勢力とグローバリゼィションの顚末
佐藤幸男
第3章 暴力の人類前史の終りと社会解放に向けて
小倉利丸
第4章 今日のガザは明日の沖縄
豊下楢彦
第5章 まっとうな「狂気の声」
親川裕子
第6章 「台湾有事」と沖縄の人びとの安全保障
星野英一
第7章 東アジアにおける琉球独立
松島泰勝
第8章 屋良朝陳の沖縄構想が示す価値の反転と「へこたれなさ」
上地聡子
第9章 東アジア民際交流が切り結ぶ世界
野口真広
第10章 沖縄県のアジアにおける地域外交戦略と平和
小松寛
第11章 東アジアにおける平和連帯と地域協力の模索
石珠熙
2,500円 +税
ISBN: 978-4-7554-0352-1 2024年10月30日発行