意味と搾取(改訂版)第四章 使用価値の再定義―意味使用価値とパラマーケット

序章 第一章 第二章 第三章

Table of Contents

1. 資本主義批判の枠組組み換え

本連載の冒頭(序章)で、マルクスの資本主義認識に立ち返りながら、現代資本主義の基本構造を、土台―上部構造の定式に対する資本主義的な応答としての、上部構造の土台化、土台の上部構造化について述べた。つまり政治権力と資本の意思決定構造が相似形をとるようになる、ということだ。マルクスの資本循環図式を形式的に当て嵌めて表現すると、以下のようにも言うことができる。権力の生産過程は、統治機構の物質的条件(権力の生産手段)と官僚、議員、裁判官などの人的な資源の投入によって、構造への「従属」という政治的生産物が生産される。これを人為的な構築物である「国民」やこのカテゴリーから排除された人々が「消費」することを通じて、「従属」が再生産される。

資本が介入する伝統的な回路は、ケインズ主義の公共投資と土木建設資本の関係のような財政のインフラ投資の時代から新自由主義の公共サービスの民営化の時代へと展開してきた。この前提には、公共サービスを生存権の保障のための国家の義務とする共通の合意に基づく財政負担という了解が崩れ、公共サービスを「費用」とみなして採算を優先させるような国家義務の理解に根本的な転換がみられた。その結果として、公共サービスを資本に利潤をもたらす価格構造が導入され、市場に組み込まれることになった。一般に、この過程は民営化とか小さな政府と解釈されてきたが、私は、逆に、権力の生産過程が資本の生産過程と融合しはじめたのであって、小さな政府ではなく、政府機能が市場経済に有機的に結合しながら、市場そのものが政治化する契機となったとみた方がいいと考えている。資本の基本的な財務構造に国家の財政投資が有機的に組込まれたのであり、政府は小さくなったのではなく、民主主義的な統制の外部で大きくなったのだ。この構造は軍需産業では従来からみられたが、これが市民生活の基盤にまで拡大されたとみることもできる。従来の民生公共投資では、資本は、政治的生産手段を担うこと(道路や港湾、都市開発など―これらは隠された軍事安全保障投資でもあるが―)を通じて政治過程と外的・形式的に接合していたに過ぎなかった。いわゆる民営化以降、現在に至る時期に起きてきたことは、官僚制など権力の生産過程を担う人的な組織の資本との内的・実質的接合である。伝統的な近代の国家権力を担う人的組織は、三権のいずれにあっても、意思決定と、その前提にあるコミュニケーションや情報の管理機能をもつことで、権力の正統性を維持してきた。言い換えれば、法の「生産」とこれを執行(適用)することのできる通用力である。これに対して、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的技術となる時代には、法の生産をコードの生産が超越する事態が顕著になり、コンピュータ(とりわけAI)が権力の執行を事実上決定できるだけの力を獲得して人間の意思決定を脇に追いやる方向が鮮明になる。

2. 家族あるいは「ライベートな領域」

公共サービスの民営化は、資本と国家の物語だけではない。もうひとつの重要な物語が、国家と家族の間に繰り広げられてきた。資本が国家の統治機構に介入するように、国家は家族に介入する、あるいは、家族が国家と相補的に「国民」としてのアイデンティティ形成の一翼を担うように組込まれる。この家族の役割は、日本のような家族国家とでもいうべき自民族中心主義においては、近代化そのものと重なりあい、天皇制のイデオロギー機能の末梢神経系をなしてきた。個人主義を近代世界の理念とする西洋の国家ですら、家族は消滅せず変容しつつも維持され続け、個人が近代啓蒙主義が理想とするような絶対的な主体になったことは一度もない。つまり、個人よりも「家」が優位にあるとする自己のアイデンティティによって個人主義に基づく自由や権利を「家」の枠組みによって抑制することは、多かれ少なかれどのような社会にもみられる。フロイト的な意味での抑圧の構造化は、この意味を正面に据えて家族のシステムの抑圧性に晒される個人の心的構造を捉えようとした。

この問題は、監視という問題にとっても重要だ。監視批判が暗黙のうちに採用している個人主義モデルでは、プライバシーの権利が実際には個人に帰属せずに、家族に担われることに内在する問題を、ドメスティック・バイオレンスの深刻な問題に注目が集まるまで重視してこなかったのではないだろうか。

家族は資本主義において<労働力>再生産を担う中核的な制度であり、個人は、家族関係のなかで、プライバシーは削がれ、これを「家」が引き受ける。外部からは、個人のプライバシーは家族のプライバシーによって代位される。1 こうして家族内の暴力は、市民社会的な法規範によって監視されることなく夫や父に与えられた当然の特権として放任され、その実態は隠蔽されてよいものとされてきた。この文脈での監視は、夫や父による家族への監視であり、それが暴力に直結することも許容された。プライバシー領域を担う中心的な組織でもある家族は、個人をデータとして把握しようとする社会においては、この家族そのものが同時に個人データの「宝庫」というこれまでになかった性質を纏うようになる。国家は家族を掌握することによって、事実上その構成員個々人を掌握することができた。これが20世紀の戦時期の動員体制から戦後の福祉や社会保障の体制に一貫する保護と監視を不可分とする社会の構造であり、これが家族のプライバシーという殻に作為的に組込まれた裂け目をなしてきた。つまり、政府であれ企業の労務管理であれ、個人ではなく世帯(家族)を掌握することを通じて、個人の動静を把握し操作する、という仕組みだ。

しかし、これが世紀末以降転換する。国家が家族を福祉や社会保障あるいは家父長制イデオロギーで形式的に包摂するだけでは個人のプライバシーの重要なデータを把握できなくなる。家族は、プライベートな領域を国家や資本に媒介する制度としては不十分になってきた。その理由は二つある。ひとつは情報処理能力の高度化によって、家族を介しての個人の動静把握に権力側が満足しなくなったことがある。より個人に即した詳細なデータを要求するようになる。個人単位の番号制度(マイナンバー)が監視と管理の中枢を占めるようになったのは、その端的な現れといえる。しかも、家族の多様性と単身者の増加などの要因もあり、家族さえ把握すれば個人を掌握できる、という状況にはなっておらず、人々を網羅的に監視するための媒介組織としては十分とはいえなくなった。もうひとつは、スマートフォンなど個人ベースのコミュニケーショツールの普及だ。プライベートに利用可能なコミュニケーション・ツールの発展と普及にとって家族は重要な単位だった。固定電話やテレビが一世帯に一台の保有となることをきっかけとして、更に個人化へと普及が進んできた。これはパソコンの時代までは同じ経路をとって普及してきた。しかし、これが大きく変容するのが、家族を飛び越して個人を直接ターゲットとするコミュニケーション・ツールの普及だ。その最初の成功例がソニーのウォークマンのように情報を家族が共有しないツールかもしれないが、文字通りのコミュニケーション・ツールは、ポケベルや携帯電話に始まり現在のスマートフォンの時代に繋る。通信事業者は、家族を介することなく、膨大な個人データを収集する拠点となり、この通信事業者の個人データを国家は従来の法制度では把握できなくなった。

長らく資本主義家族は、その共同性を想像力によって補完してきた。つまり、人々は同じ場所で寝起きしつつも、昼間の最も活動的な時間帯には、バラバラに過してきた。職場と学校に出向き朝晩の食事時だけかろうじて一緒になる。この時間も会話よりもテレビが支配する時間になる。にも拘わらず人々はお互いに相手のことをよく知っているつもりになれた。それは、事実に基くのではなく、「私の知りえない場所で、たぶんこのように振る舞っているに違いない」という憶測を共有しているからに他ならず、そこには実は確たる「証拠」となるものは、ごくわずかに交わされる会話という証言だけだ。スマホとSNSの普及は、たとえ同じ場所にいなくとも相互の動静を把握可能にした。これは家族をSNSを通じて相互監視することを可能にしたともいえるし、別々の場所で別々に活動しながらより親密な絆を構築できるようになったと肯定的に評価することもできるが、この二つは表裏一体である。監視に含まれるソーシャル・エンジニアリングとかhumintと呼ばれるような情報機関の振舞いが、一般の人々の慣習のなかに組込まれるようになった、ともいえる。同時に、SNSによる様々なグループチャットは個人が家族とや別の親密な人間関係のネットワークを構築可能なものにした。たとえばワクチン陰謀論に家族が皆ハマるということにはならず、誰かがこうした陰謀論のサークルに参加することになり、家族を単位とする価値観の共有構造が崩れる。

こうして、個人は、一方で別々の場所で別々に行動しながら常時コミュニケーションをとりうる技術的な基盤を獲得することで、これが相互監視の手段にもなりうるが、他方で、この相互関係の親密化と平行して他の家族とは相対的に別のコミュニティーへの参加も可能になり、この面では、相互の関係の距離は遠くなる。この両者全体を把握可能なのは、通信事業者などコミュニケーションネットワークのインフラを掌握し、人々のデータを管理・蓄積できる存在ということになる。人々のコミュニケーションは、インターネットの普及とその社会インフラへの格上げを通じて、従来の回路が廃れ、新たな回路が構築されるにつれて繋ぎ直し(リコネクション)が起きる。

本章の冒頭で上部構造の土台化、土台の上部構造化に言及したが、マルクスの土台―上部構造の枠組みでは家族の位置が明示されていない。これは家族を含むプライバシーと監視の一筋縄ではいかない権力的な構成に関心を寄せるとき、かなり決定的な限界をなすと思う。

3. 上部構造への資本の介入

CTCが支配的構造の基軸をなすようになったきっかけは、インターネットの商用利用への開放だった。20世紀を通じて、コンピュータが国家の膨大な情報処理や軍事的な目的で不可欠な役割を果してきた長い歴史を背景に、1990年代後半以降、インターネットが一気に社会の構成員に開かれ、社会のコミュニーション・インフラとして定着したことによって、民間資本のなかでも、情報通信分野が資本蓄積の基軸産業へとのしあがることになる。郵便や電信電話の民営化をこの文脈のなかで見直すと、単純に公共サービスが開放されて市場経済の論理に支配されたというように解釈することだけでは不十分だとわかる。政府は、CTC分野に投資する民間資本が確実に収益を挙げられるような法的財政的な構造を準備すると同時に、資本の側は、支配的構造による社会全体への制御を実現するようなサービスの拡がりを目指せるようになる。

ここで重要な意味をもつのが、コンピューターによる情報処理の高度化がインターネットのような双方向のネットワークと結びついて、人々の生活必需品として日常生活空間に組み込まれ、コンピュータ・アルゴリズムがこの双方向のコミュニケーションを制御し、その先に、ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)のような直接的な人間の意識制御技術の開発が現実化しつつあるという点だ。政府や資本の権力のトップから個人ひとりひとりのプライベートな空間までが、通信プロトコルによって接合可能なネットワークのなかに組みこまれることによって、双方向のネットワークは、一方で、一般の人々に対して不特定多数への情報発信の力を与えることになると同時に、政府や資本に対しては、これまでは不可能だった個人のプライベートな情報を詳細に、かつリアルタイムに収集することが可能になる。ここには一般のユーザーには実感もされず、理解することも困難なアルゴリズムに基づく制御の力が作用することになった。前述したように、家父長制的な家族制度という殻を通じたプライバシー領域への間接的な制御―ここにはイデオロギー装置の作用も含まれる―が次第に後景に退き、逆に、スマートフォンのような個人ベースのデバイスとSNSのネットワークを介して、個人の発信力の強化を伴いつつ、より直接的なプライバシー領域の制御が台頭してきた。社会の支配的なイデオロギーを暗に体現し法の支配をすり抜けるアルゴリズムによって歪められ制御された形での個人の発信力の高度化と個人データの際限のない収集を通じて、コミュニケーションは、統治機構から家族などの親密な関係まで、様々な社会構造のなかで、その持つ意味を変容させた。これが土台と上部構造の相互浸透過程を生み出す決定的な要因となった。

ここでは、道路などの公共事業の民営化と医療や教育など人を対象とするサービスの民営化の間には本質的な違いがある点に注目しておく必要がある。統治機構の構造を理解する場合、権力が統治の対象とする人間(人口)との関係を考慮する観点からみる必要がある。権力や政治過程にとって、「人間」を「国民」として従属の構造に組み込むことが最大の課題であり目標でもある。この意味で権力は人間を手放すことはできない。家族であれ、いわゆる市民社会と呼ばれる任意の人間集団であれ、いずれも、その構成員は排除の対象ではなく統合あるいは包摂の対象である。その上で「国民」のカテゴリーに適合しない人々を排除しつつも従属的な統合の枠組みに組込む。逆に、資本にとって人的な条件は、コストであり、機械化によっての排除の対象であるか、消費者として商品を買わせるようにコントロールするためのターゲットでしかない。資本主義を支える構造のなかにありながら、政治・社会過程と経済過程とでは、「人間」への扱いに関する戦略が全く異なる。今起きていることは、排除のプロセスが政治過程の一部でも顕著になっていることだ。官僚制であれ、議会であれ、裁判所であれ、更には軍事行動の現場においてすら、これらの権力過程のなかの人的な要素が周縁化され、意思決定にAIが代替しはじめているということだ。民主主義は人間的条件によって構築されることが大前提になっているから、コンピューターの意思決定への介入による人間的条件の排除は、民主主義の本質を変質させることになる。他方で、権力の「生産物」である「国民」としての「従属」的な人間は、市場の消費者を制御する技術の応用として、コンピューターによって代替された意思決定を心理的にも受容する。移民の排除と資本による解雇=排除は同じメカニズムではない。資本にはあらかじめ排除を基本とする構造が組込まれているが、国家はそうではない。

4. 機械と監視資本主義

4.1. ズボフの監視資本主義

上で述べた統合と排除と監視のメカニズムは、国家の場合であれ資本の場合であれ「機械」という要素が重要な役割を果す。

ショシャーナ・ズボフは『監視資本主義』のなかで、構造転換を監視資本主義として概念化した。

監視資本主義は、人間の経験を行動データに変換するための無料の原料として一方的に要求する。これらのデータの一部は製品やサービスの改善に応用されるが、残りのデータは独自の行動余剰と宣言され、「マシン・インテリジェンス」と呼ばれる高度な製造プロセスに投入され、あなたが今、すぐ、そしてこの後何をするかを予測する予測製品に加工される。最後に、これらの予測製品は、私が行動先物市場と呼ぶ、行動予測のための新しい種類の市場で取引される。多くの企業が私たちの将来の行動に賭けようとしているため、監視資本家たちはこれらの取引から莫大な利益を得ている。」2

無料の原料とは、私たちが無料でGoogleで検索し、Facebookで交流したりするたびに、これらの企業が、このサービスの舞台裏で収集する私たちの行動データや私たちが利用しているデバイスが送信するメタデータやフィンガープリントと呼ばれるようなデータなどのことだ。ズボフは、データを「製品やサービスの改善に応用される」部分と、それ以外(以上)の部分に分け、後者を「行動余剰behavioral surplus」と呼ぶ。マルクスの剰余価値を想起させるような考え方だ。この余剰部分こそが監視資本家の動機を構成する部分になる。

こうしたデータの生産過程では、「私たちの声、性格、感情」が収集されるだけでなく、「最終的に監視資本家は、最も予測性の高い行動データは、収益性のある結果に向けて行動を誘導し、なだめ、調整し、集団を作る。」こうして「自動化された機械のプロセスが人間の行動を知るだけでなく、大規模に人間の行動を形成するようになる。」これをズボフは「知識から権力への方向転換」と呼び、次のように述べている。

監視資本主義の進化のこの段階では、生産手段はますます複雑で包括的な『行動修正の手段』に従属する。このようにして、監視資本主義は、私が『道具主義instrumentarianism』と呼ぶ新種の権力を生み出す。道具主義の権力は、他人の目的に向かって人間の行動を知り、形成する。軍備や軍隊の代わりに、「スマート」なネットワーク化されたデバイス、モノ、スペースのますますユビキタスなコンピューター・アーキテクチャの自動化された媒体を通して意志を行使する。3

ズボフが道具主義と呼んだ事態は、すでにこの連載で紹介したようにホルクハイマーがプラグマティズム批判で用いた概念との共通性に気づく。監視資本主義は、英米の支配的な思想でもあるプラグマティズムと行動科学、そして社会を数学的なモデルによって解析可能だとする非弁証法的な方法とデータに基く実証主義という20世紀のイデオロギーを堆肥にして、そこから成長してきたものだ。この成長の経路が「監視」へと向った理由は、個人主義と資本主義的な自由の枠組を前提として、いかにして「個人」を既存の権力構造に従属させるのか、という問題意識に基くものだ。行動科学は、目的の意味や動機を問わないで、目的に対して最適な手段の選択にのみ関心を寄せる。だから、権力や支配といった人間の自由や平等にとって不可欠な問いは脇に追いやられて、この目的を実現するには人間の行動をどのように予測し制御すべきか、だけが関心の対象になる。

ズボフは、私たちの個人データが無料の資源としてプラットフォーム企業によって採掘され、これをインテリジェンス機械で加工するところに着目している。製品になるのは私たちの行動を予測したり、行動変容を促すことができるような生産物で、こうした商品を欲しがる企業に売られることになる。私のズボフとの共通認識は、資本主義経済の蓄積様式が監視技術を担う産業によって大きく支配されている状況がもたらす深刻な破壊であり、ズボフがそれをある種のデータ搾取として捉え、人間の行動予測と行動制御が課題の中心にあるとしている点だ。他方で、私の関心はズボフとはややずれるところがある。それは、こうした監視資本を支える構造が市場経済によって完結するシステムにはなっておらず、その外部、私の言うパラマーケットを介した構造があり、更にこれに非知覚過程が構造的に接合することで、私たちの意識と行動そのものへの操作可能性が高度化している点に注目しているところだ。この問題は、市場・政府・家族の三分法や、これらを社会制度として議論するだけでは不十分だ、という私の問題意識によるものだ。

無料である限りデータ資源を抽出する過程は市場経済の売買関係では成り立たない。商品としての財やサービスの取引には価格が設定されなければ市場メカニズムが機能しないからだ。同時に、この予測と制御の商品を購入した資本が、この商品を利用して行なう過程もまた市場経済の外部で、パラマーケットが介在して行なわれることになる。私の関心は、むしろこのパラマーケットがもたらす効果と、こうした人間観そのものに内在するデータを人間それ自体とみなす誤認が誤認とされずに広く受け入れられる理由であり、この誤認を「真実」や「事実」とみなすことによってもたらされる深刻な人間への影響である。そしてコンピューターが介在するとき、このパラマーケットは非知覚過程を伴って「私」の意識とのフィードバック過程を構造化する。コミュニケーションが人と人の関係から機械に媒介された関係に変化することによって、「私」がコミュニケーションをとる「あなた」のどこまでが人間としての「あなた」なのかが不分明になる。これはモノに対するフェティッシュな感情の問題ではなく、モノと人の中間に新たな「意識」の領域が形成されるという問題である。

4.2. 資本主義と機械

ここで、やや回り道になるが、資本主義にとっての機械の意義をマルクスの『資本論』の議論を念頭に置きながら、簡単に振り返っておく。というのも、人間をデータとみなす過程は、マルクスが機械制大工業のなかで労働者が<労働力>として扱われる過程について論じた観点を再度思い出すことが必要になるからだ。第一章で述べたように、マルクスは機械を死んだ労働と呼び、<労働力>排除の武器であるという資本と労働者の関係は、現代のコンピューターと人間との関係の基底を構成していることを見落してはならない点だろう。労働者が疎外されつつ<労働力>を商品化して機械に接合され―将来的には排除の憂き目にあうことになる―、自らもまた機械に適合するようにアイデンティティの再構成を迫られる。この機械と労働者の対立の構造に対して、テイラーの科学的管理法や反ユダヤ主義者のフォードは資本による生産過程の実質的包摂―労働者の主体性の排除のための機械化―が構想され、その延長線上に20世紀以降の技術と資本主義の発展軌道が定められた。

19世紀の産業革命によって本格的に資本の生産過程の中核を占めるようになった機械=固定資本は、当時から労働者の排除、とりわけ熟練労働者の排除と単純労働への置き換え、そして、<労働力>コスト削減として、労働者に対する資本の支配の手段となってきた。フロラ・トリスタンは『ロンドン散策』4において、また、エンゲルスは『イギリス労働者階級の状態』において、機械の問題をいち早く指摘し、マルクスもまた『共産党宣言』において機械による労働者排除を指摘した。他方で、機械がもたらす単純労働化は、熟練労働による労働者階級内部の階層化を打破し、階級としての一体性、つまり階級的な団結の基礎をもたらすともみなしていた。こうしてマルクス=エンゲルスは、ラダイトのような機械排斥運動に対しては、その限界を指摘し、機械を労働者の統制の下に置くこと、つまり資本の機械から労働者の機械への転換を可能だとも考えていた。

機械制大工業が資本主義における産業技術の中心をなしてきた根源に、労働者による資本に対する不断の抵抗の存在があり、これが資本の生産性を阻害する要因になっていたことをアンドュー・ユアらが指摘しており、こうした指摘を踏まえて、マルクスは『資本論』において、資本の生産性は<労働力>の抵抗(政治的な抵抗だけでなく身体的あるいは文化的な抵抗も含む)との相互関係ぬきには説明できないことを強調した。

<労働力>を資本の支配の下に置くことができるかどうかは、資本主義にとって最大の社会統合問題だ。機械とは、一方で、<労働力>を機械に置き替えることを通じて、生産過程の全面的な資本による支配という夢を実現するための手段となるものであり、また、他方で、完全な置き換えが不可能であっても、単純労働化を通じて機械のリズムに従属させることで労働者の労働における主体的な裁量の余地を可能な限り奪うこと、つまり、労働現場における主体性の剥奪を実現する過程でもある。機械化は、この階級構造の資本によるヘゲモニーの物質的基礎をなすものであり、不断の技術革新は、<労働力>に対する資本のコントロールがその重要な動機をなしていた。

マルクスは、機械の問題を、労働者の部分労働者化と低賃金、あるいは失業と貧困の問題に集約して論じる傾向があるが、同時に、機械化の一連の過程は、労働者の抵抗を削ぐための技術でもあるという側面に着目するとき、問題の重要な側面として、資本に対する労働者の意識変容を見落すわけにはいかない。

19世紀の機械制大工業は、人類史上はじめて人間の身体が機械と接合し、機械が人間の身体を不可分一体のものとして―資本の観点からは―コストという貨幣量によって統一的に計量可能なシステムのなかに組み込むことを可能にした。これは人類史のなかで、人間と自然の関係を大きく変容させるものとなった。労働はもはや自然との物質代謝過程を直接実現する行為ではなくなり、資本=機械によって媒介され、しかも生産過程の一部分を担うだけになり、その労働の具体的有用労働としての側面が、具体的でありながらその意味を経験的にも見出すことが次第に困難になり、存在それ自体が抽象化されるようになる。具体的な労働がどのように意味づけられようとも、人間の<労働力>は機械よりも劣るものとする一般的な価値観が形成され、労働者は繰り返し機械によって駆逐される運命にあるものとみなされてきた。労働者にとって「労働」は賃金=貨幣に換算しうるものに媒介されることでのみ、その存在価値があるとみなされるようになる。だから貨幣によって評価されない行為は、価値をもたない行為―実は資本主義的な意味での価値に過ぎないのだが―として否定的にのみ評価されるようになる。他方で、資本にとって労働者とは、資本の機械と接合されたある種の機械といってもよいような存在―資本に抵抗する主体を放棄した存在―であるべきものとみなされることになる。機械は常に労働者の手強い競争相手でありながら、機械化を賛美する文化が労働者の消費生活や教育制度においても支配的になり、労働者自らが機械を資本の手先としてではなく、人類の進歩の成果だと誤認するようになる。こうして、機械の機能そのものには備わっていない文化的な「意味」を人間の側が作り出すようになり、機械はフェティシズムの対象になることで、近代社会の文化的表象となることができた。5自動車とテレビが日常生活を支配する最も基幹的な位置を占めることに成功したことによって、20世紀の資本主義の商品フェティシズムは『資本論』の時代とは質的に異なる意味の体系を私生活に持ち込むことに成功する。そして現在では、このフェティシズムの中心を担っているのがスマートフォンに代表されるCTCデバイスだ。

5. <労働力>再生産過程と使用価値の「意味」を介したコントロール

20世紀の資本主義では、統治機構のなかに、「国民」と呼ばれる人口が形成され、形式的であれ、議会制民主主義の制度を通じて、この「国民」が人口を国家に統合するためのアイデンティティとして必須のカテゴリーとなる。その結果として、資本主義の階級構造がもたらす人口内部の階級意識による分断は、「国民」意識との摩擦を内包し、統治機構に直接・間接の影響を及ぼすようになる。

<労働力>が生み出す剰余労働によって資本の価値増殖が支えられるとしても、このことが、<労働力>商品の担い手としての労働者の総体をいわゆる労働者階級に帰属しうる存在とするものではない。人間のいくつかの重要な属性を捨象(たとえば、ジェンダーやエスニシティとしてのアイデンティティや、親族関係のなかでの役割り意識、信仰など)することによって描かれた人間像と現実の人間の多面的な存在との間にはズレがある。しかも、資本は、その組織の巨大化と、生産過程の機械化の繰り返しを通じて、<労働力>は物の生産過程だけでなく、マルクスが資本家的な労働と呼び、剰余価値を生まないとみなしたような資本の流通過程における労働の大半を担うようになる。

階級闘争に対する資本による支配の戦略は、資本の組織内部における戦略と、<労働力>再生産過程、つまり消費生活過程における戦略の二正面作戦をとる。資本家が資本の人格的な表現であるように、資本の組織を構成する労働者集団もまた、労働者でありながら資本の人格的表現を分有するように企業組織が強いることになる。労働者でありながら資本家的な意識をもつことはこの意味では不思議なことではない。しかし、この階級構造が労働者に対して資本の意識とは対立する労働者意識、あるいは階級意識を醸成する根拠をもなしている。いわゆる中産階級やホワイトカラー層は、剰余労働の生産主体(被搾取主体)でありながら、資本家的な意識を内面化することこそが<労働力>の使用価値を構成しているという矛盾した存在だ。こうした存在と意識の矛盾が人口の大半を占めるようになるのが、20世紀の先進国に共通した<労働力>の構成でもある。

したがって、資本にとって<労働力>の再生産過程の意味は、19世紀資本主義とは根本的に異なるものになる。資本家的意識を内面化した<労働力>を世代的にも日常的にも形成するためには、消費生活とその基本的な組織の家族制度の意義が格段に大きくなる。資本が供給する商品は資本家的意識の形成のための不可欠な条件となる。マルスクは商品の価値に着目して使用価値の問題を「商品学」に委ねて詳細には検討しなかった。また、搾取の問題をもっぱら価値に関わる労働(抽象的人間労働)の問題として捉えたが、前にも述べたように、搾取とは人間が資本主義のなかで過す時間全体を覆うものであり、その意味で身体性の搾取であり、大衆消費社会における生活のなかで消費される商品の使用価値は、その消費行為に込められた象徴的な意味作用を通じて、<労働力>の担い手となる労働者の意識を形成し、同時に、家族関係のなかの人々の役割り意識を形成することにもなる。

資本がもっぱら生活手段を物としての商品の供給を通じてコントロールする以外の手段をもたなかった時代から、マスメディアや広告を通じて、商品の使用価値の意味、生活様式の意味を積極的に<労働力>となる人口に対して介入する時代へと移行する。これが、工業化から脱工業化、あるいはサービス化とか情報化と呼ばれる資本主義に一般的に見出せる展開の方向である。資本主義経済が、物の領域から非物質的な領域へと展開していくなかで、非物質的な領域が市場化されるようになる。

非物質的な領域は物質と無関係に存在するわけではない。ハードなしにソフトウェアやネットワークはありえないという意味でもそうだが、そもそも物が資本主義社会のなかで存在することを私たちが認知できるのは、その物が資本主義のシステムのなかで意味の体系に位置づけられているからだ。この意味の体系を市場は使用価値の体系として構成する。商品の使用価値には、その物の本来の有用性と、この有用性によっては説明しえない意味が付随する。後者のようなモノの直接的な有用性とは無関係な意味の部分が生じるのは、資本主義が使用価値ではなく価値に支配されており、資本の価値増殖に寄与するように使用価値が操作され、これが広告やパッケージなどを通じて買い手の消費行動を左右するからだ。価値に支配された使用価値が本来の使用価値には付随しない意味を担わされる。これまでも、こうした側面の使用価値を「記号」や「象徴」といった概念で把握することで資本主義における消費社会の問題を浮き彫りにし、本来の使用価値の世界への回帰(?)が模索されたりもしてきた。6しかし、資本主義的生産様式を前提として供給される商品の意味を剥ぎ取ることで本来の使用価値と呼びうるものが露出するというふうには、商品は存在していない。いかなる社会にあっても、物の有用性としての機能をそれそのものとして体現するような物はひとつもない。人間が言語をもつ限り、物の有用性それ自体はその物の言語表現=意味と不可分であり、その意味とされる事柄は、ことばで表される限り、常に有用性を逸脱する要素を含む。つまり非本来的あるいは過剰としての意味が本来的な意味そのものであり、そうである限りにおいて、本来と非本来という区別は便宜的なものでしかありえない。とはいえ、市場経済が商品の使用価値として直接扱うことが可能な「意味」と、そうとはいえない「意味」という二つの領域を判別することは、資本主義批判の理論構築にとっては必要な作業である。

このモノに付与される意味は資本の生産過程を通じて商品の使用価値として固定化されるのではなく、「意味」は、この生産過程を越えて生成され続けるものでもある。資本主義が歴史的な「社会」として数世紀にわたってとりあえず延命できたのは、モノと意味の構造が人々の生存において一定の意味の体系として<労働力>の再生産基盤を構築したからだ。この基盤は、当初は、資本主義に先立つか、あるいはその外部にある人々の日常生活やその伝統を巧みに接合することを通じて形成されてきたが、資本の生活手段供給は、商品の使用価値の集合を通じて、生活全体を商品によってコーディネート可能な空間とするにつれて、人々は自己の身体を除いて空間そのものを商品の使用価値で覆うようになる。商品の使用価値の意味は、料理のレシピのなかで一つ一つの素材の役割りや意味が定められるように、生活のなかにある商品ひとつひとつの意味はその商品によってだけでなく、その商品がとりむすぶ他の諸商品との関係のなかで、人々の生活過程のなかでも形成される。

ごく当たり前の日常生活空間は、生活世界の植民地化7であるとすれば、私たちはこの植民地のいかなる住民なのだろうか?先住民を追い出して定住しようとする植民者なのか、資源や土地を収奪してプランテーションを建設してもっぱら植民地産品の輸出に関心をもつような帝国主義者としてなのだろうか。あえてこのたとえ話を続けるとすると、大衆消費社会以降現在まで続く資本による生活世界への浸透は、資本が浸透する以前の生活世界とそこで暮す人々のライフスタイルと記憶を排除したり統合したり歪ませたりして巧みに利用する。これは「伝統」8と呼ばれて資本の観光資源になったりもする。こうしたなかで、<労働力>という資源が資本によって「採掘」されることになる。

生活世界への資本の拡張は、拡大再生産を本性とする資本にとって、生活手段生産部門の拡大再生産の帰結として、生活が市場経済に呑み込まれることになった、といったストーリーだけでは理解できない。むしろ、<労働力>という資源の再生産に必要なプロセスとして捉える必要がある。このときの最大の目標は、<労働力>を資本の人格に包摂すること、フロイトによる大衆心理に関する分析での言い回しを借りれば、資本への同一化と恋着の心理を形成するためのプロセスとして、消費生活を組み込むことであり、資本の組織化とは異なる組織原理をもつ家族制度を資本に折り重ねることよって消費市場に供給される商品の使用価値の意味・象徴作用が、家父長制家族を通じて、またこうした家族を再生産しつつ<労働力>を再生産する重要な役割を担う。ライヒがファシズム批判の核心に抱いていたように、家族は資本による階級闘争/意識に対する対抗戦略の拠点となる。

資本循環を貨幣循環の相でみれば、生活手段としての商品は、<労働力>の代価であり賃金によって購入されることによって、資本はその投資を回収し、労働者は必要労働部分を「買い戻す」ことになるだけだ。しかし、こうした貨幣のフローの視野から外れるところで、<労働力>の再生産過程が機能しつづける。消費生活の場は、家族関係から様々な公共的な場や人間関係まで多様な内容で構成されるが、これらを資本が供給する商品の空間として再構成することによって、資本にとって必要とする<労働力>資源の安定的な供給が目指される。ここでいう<労働力>は、20世紀前半までは、製造業と農業が<労働力>の具体的有用労働としての質を規定していた。同時に政治的支配の側からすれば、<労働力>となる人口を「国民」として組織することによって、権力の正統性が維持される。これが民主主義であれ独裁であれ、権力の基盤をなす。こうして国民的<労働力>が資本主義の前提をなすことになる。

20世紀前半までに人間の肉体的な能力を機械体系と接合して制御する技術は、その頂点に達した。究極の制御は、結局のところ全自動無人工場へと向うことになった。周辺部資本主義は、このなかで別の役割、つまり機械化しえない人間の労働を担うのだが、これは産業革命の機械化と非西欧世界の植民地の構図がまだ成り立っているということを示してもいる。

20世紀後半以降、先進国の人口は、非物質的生産へとシフトするが、人と人のコミュニケーションの制御、つまり、資本や国家に対して向けられる否定や拒否の言説、あるいは摩擦や対立を組織し動員することを正当化する言説、更には感情的な敵意や抗議の言説をいかに「言論の自由」という近代社会の規範を侵害しない体裁をとりつつ制御するのかが最大の課題になる。ここで、<労働力>の使用価値9は、物を対象とした労働から人を対象とした労働への大転換をこうむることになる。販売、教育、企業組織内の合意形成、マスメディアやその周辺に形成される様々な情報産業の類いまで、労働は人の意識に働きかけて、人の情動を制御することになる。人の意識(心理、感情、ニーズなどなど)が労働対象になる。こうしてコミュニケーションは労働に組み込まれることになる。こうなれば、かつての機械化と<労働力>の排除のプロセス同様、こうした人を対象としてその感情に働きかける労働そのものが機械化されることになる。生成AIへの注目は、この傾向が顕著になってきたことを示している。

6. 予測と制御:意味使用価値と意味生成過程

6.1. <労働力>再生産過程と使用価値

マルクスは商品分析において、価値と使用価値の二要因を指摘し、使用価値をもっぱら具体性の側にあるものとした。こうすることによって、価値の分析を通じて抽象的人間労働から剰余労働、剰余価値の理論を構築することができた。その一方で、使用価値が人々の意識形成に与える影響については素朴な直接的使用価値の自明な「使用」=消費以上のものをそこに見出さなかった。しかし、<労働力>再生産過程や国民国家を支える権力の正統性をめぐる意識生産の構造に着目するとき、商品の使用価値の構造こそがこれら意識形成の主要な担い手であることがわかる。人々は個々それぞれ識別可能な固有名詞をもった存在でありながら、彼らが「集団」として社会の構成員とされるときには、この固有名をもった差異は後景に退き、逆に集団的な一体性に還元可能な存在、それは具体性のレイヤーのなかにありながらより抽象的な層に属するような存在とみなされる。このように見なすことができるのは、固有名によっては不可能であって、そこにはより抽象的なその対象を指し示す言語が介在する必要がある。「カテゴリー」と呼ばれるような抽象的な対象認識である。この抽象的な対象認識を通じて、人々は、自分をとりまく幾重にも折り重なる世界を、ある共通した世界として共有するものとみなしている。これが資本主義における社会的な富を商品の膨大な集積として理解させたり、貨幣の物神性を支えたり、指し示すことすら困難な「国家」の観念といった抽象的だが具体的な意味の世界を支えている。この世界は、資本主義の歴史的社会に内在する構造とその矛盾を反映しており、抽象的意味の具体的な世界は、複数存在し、人々は誰もがこの複数の世界のなかを生きている。そうでありながら、社会がひとつの歴史的な連続性をもった社会体制として少なくとも数世紀にわたって維持されるのは、この複数の抽象的だが具体的な意味によって構築された社会のなかに、社会を支配することを可能にしている唯一性や普遍性の意味との繋りを獲得した一連の制度やモノ、人間関係の連関があるからである。パラマーケットはこうした矛盾した重層的な世界を一方で市場に媒介し、他方で無限に多様な具体性としての固有名をもつ人々に媒介しながら、市場を支え、権力の正統性を支える意識の形成に主要に寄与する。

マルクスの商品論では、商品の二要因として、価値と使用価値を指摘し、使用価値を物の有用性を意味するものであり社会的歴史的な背景はあるとはいえ、使用価値には価値の問題のような資本主義の搾取と関わるやっかいな隠された構造をもつとは考えていなかった。たしかに使用価値は、直接剰余価値を形成するわけではないのだが、生活手段として消費過程に入ることによって、<労働力>再生産過程に直接影響を及ぼすことになる。生活手段を消費するとは、資本が供給した「モノ」を単に生理的な必要を満すために使用するのではなく、この消費には文化的な意味があり、また労働者のライフスタイルを規定する条件にもなる。どのようなものであれ市場で生活手段を購入せざるをえないということは、資本が供給する商品を私生活のなかに持ち込むことを意味しており、このことがどのように<労働力>の再生産に影響するのかという問題は、決して瑣末な問題ではない。資本が生産した使用価値が生活世界に与える影響は、たとえば、出版物や映画のような文化商品について、検閲の制度によって、商品化されうるとしても消費に制約を課す制度が多かれ少なかれ存在しつづけてきたこと、それが現代ではSNSの投稿や拡散を制御するアルゴリズムとして構造化されてきたことを、重要な問題として捉えるべきだ、ということでもある。

たとえば、商品として購入したアンドロイド・スマホは、Googleのサービスと密接に連携されるように設計されている。検索エンジンとしてGoogleを用い、Googleアカウントを様々なサービスを横断して利用させ、Googleマップなどで移動のデータも収集する。デバイスとこうした一連のサービス全体が使用価値を構成し、これを常時利用するという日常の行為と不可分一体なものにする。こうして、たとえば、検索アルゴリズムの結果に深く影響されたり、表示される広告に刺激されてその後の購買行動や価値観が影響を受けつづける。背後で機能する個人データを資本の収益につなげて利用するメカニズム―ズボフの言う意味での搾取―は不可視なままだ。このように、物質的な消費手段の消費にはない直接的な影響が、コンミュニケーションのツールからは恒常的に生じる。

一般に、商品の使用価値は物の直接的な有用性(衣服なら外部環境から身体を保護するという機能)に還元することはできない。ファッションとしての衣服は衣服の直接的な使用価値、つまり身体の保護によっては説明できない記号作用をもち、この側面なしには衣服は商品として需要もされない。10衣服はジェンダーや信仰の識別にも用いられるから、ファッションやデザインは、それ自体が文化やイデオロギーを直接的使用価値と一体化することによって、人々の意識のなかにある価値観の再生産を担うことになる。スマホのような通信デバイスも同様に、このデバイスに搭載されているアプリや通信アプリのアルゴリズムを通じて人々は文化やイデオロギーを取り込む。この取り込みは、人と人が直接コミュニケーションをとるような意味での自然なものではなく、アルゴリズムや不可視の検閲が作用している。この意味でアルゴリズムは、後述する商品の意味使用価値の構成要素をなすことにもなる。

このように、使用価値は、マルクスが定義する剰余価値を直接形成するわけではないのだが、生活手段として消費過程に入ることによって、<労働力>再生産過程に直接影響を及ぼすことになる。生活手段を消費することとは、資本が供給した「モノ」を単に生理的な必要を満すために使用することを意味するわけではない。この消費には文化的な意味があり、また労働者のライフスタイルを規定する条件をなすものだ。どのようなものであれ市場で生活手段を購入せざるをえないということは、資本が供給する商品を私生活のなかに持ち込むことを意味しており、階級闘争の主体にとっては、このことが<労働力>の再生産に影響する。また、その意識にも影響するはずであって、この問題は主体の解体をもたらす可能性を秘めており、決して瑣末な問題ではない。生活手段とは、資本が労働者の生活世界に送り込む敵の手先なのだ。だからこそ、商品の使用価値をモノの直接的な有用性(衣服なら外部環境から身体を保護するという機能)に還元することはできない。ファッションとしての衣服の側面なしには衣服は商品として需要もされない。商品の使用価値における直接的な有用性(以下直接的使用価値と呼ぶ)は、ある種の抽象的な概念化作用でしかなく、実際の商品は直接的使用価値と一体化された様々な意味をまとう。伝統的なマスメディア広告が前提にしているのは、市場に参入する消費者を集団として把握して、その集団が前提する使用価値についての前提条件、例えば、男性はスカートを需要しないなどの多かれ少なかれ固定観念や慣習、ときには偏見も交えた使用価値の意味である。この使用価値の意味を構成する環境は市場経済の貨幣を代価とする所有権の移転の過程だけでは理解できない。広告のように、商品そのものとは別の回路を通じて、一般には対価なしで提供される商品情報と一体となって商品の使用価値の意味が形成される。他方で、市場における商品売買は、この広告に典型的に示さているような商品情報の回路なくしては十分に需要を開拓することができない。価格と使用価値は市場において「情報」として、商品本体とは別の回路を通って流通する。私は、市場経済を補完し、かつ市場経済にとって不可欠な情報の回路をパラマーケットと呼ぶ。

広告の機能はマスメディアのニュース報道などと本質的に異なる役割りを担っている。それは広告に触れた人たちが、その商品に対して購買欲望を発動し、行動に移すように促すことを意図している。つまり、操作的な情報に特化している。他方で、ニュース報道に接した人たちは、報道内容を様々に解釈する。様々な評価をもつことをメディアの発信者側は許容し、報道の内容が画一的な何らかの行動に結びつくことは必ずしも最優先の目的ではない。どのように評価しどのように行動するのかは情報の受け手に委ねられている。しかし、広告はそうではない。考え方や欲望の内容を変えるだけではなく、実際に行動する(当の商品を買う)ことを実現できるかどうかが広告の成否の基準になる。広告は行動主義が目指したものととてもよく親和する。

6.2. 直接的使用価値と意味使用価値

広告は商品それ自体ではなく、商品の意味内容を構成する最も普及した事例だといえる。広告に限らず、商品の使用価値を分析するには、マルクスの概念装置だけでは十分ではない。使用価値をパラマーケットの構造を踏まえて再定義することが必要になる。とりわけ、その商品の意味内容を構成するものであって、そのモノをモノとして消費することによって得られる有用性については、「意味」という世界を通じて接点をもつにすぎない要素を的確に論じるための概念が必要になってくる。

マルスクは小麦、靴墨、リンネルといった一般名詞によって商品交換を説明したし、大方の経済学の教科書も同様だ。しかし私達が遭遇する市場では、「ハンバーガー」という商品は存在しない。存在するのは、固有のブランド名をもつ様々な「ハンバーガー」である。マクドナルドのハンバーガーを食べるということは、モスバーガーのハンバーガーを食べることとはその「意味」が違うことは消費者なら誰でも知っている。この違いは直接的使用価値には還元できない意味が買い手の心理に作用する領域に関係しており、ここにはブランドごとに発信される広告が消費者に与えようとする「意味」の関与がある。だからバンスの間に挽肉と野菜が挟まれた食べ物という定義でマクドナルドのハンバーガーやモスバーガーを定義することはできない。買い手が何を選択するのかという問題は、市場全体の構造からすると、買い手は選択肢から圧倒的に多くの商品を排除して、ある特定のブランドを冠した商品一つを選ぶわけだから、ほとんど全ての広告や商品を覆うパッケージや看板の類は効を奏すことなく終ることになるが、そうであったとしても、市場に供給される商品の意味を構成することには寄与しており、また、この意味なくしてはそもそもの市場のメカニズムも機能できない。市場の構造を説明するためには、このように直接的な使用価値とは区別されるものとして、意味を担う使用価値に固有の機能があることを明確にすることが不可欠なのだ。

資本主義のなかで個人として構築されるアイデンティティの重要な核として、市場が供給する商品に随伴する抽象的な使用価値と具体的使用価値のある種の弁証法のなかで、資本の戦略は、自らのブランドを担う具体的使用価値が抽象的使用価値を乗っ取り転倒させて、固有名詞としてのブランドによって一般名詞を代表させるような使用価値の物神性とでもいうべき現象をもたらすことが繰り返し試みられる。プレゼンテーションソフトと呼ぶかわりに「パワポ」と呼ぶことが一般的に通用するような事態をイメージしてもらえばわかりやすいだろう。このような過程を含む生活の場における意味集合が資本主義的な個人のアイデンティティ形成に影響を与える側面こそが、私たちを資本主義的な世界意識からの解放を困難にしている。私とは何ものなのかは、生活を構成する無数の直接的使用価値が具体的/抽象的使用価値としての「意味」世界に入りこみ、抽象的な言語の意味内容を作り変える。意味するものと意味されるものとの相互関係を構築する社会的なコミュニケーション構造が資本主義においては、資本によって編成される市場によって、そしてまた、この市場を通じて供給される<労働力>再生産過程における意味の構造によって規定される。この意味で言語の意味もその作用も資本主義的なそれとして歴史的に規定される。資本主義における監視という機能は、広告がそうであったように、この意味の構造に介入し、人々がどのような意味を生成し、これを行動に結びつけているのかを把握しようとする。

6.3. 多重化する意味使用価値

他方で、意味使用価値は、売り手にとっての意味使用価値と買い手のそれとが一致しているかどうかを確認する手だてがないために、その意味は二重になる。意味の二重性とその検証困難性11はコミュニケーション一般に共通する基本的な性格であり、相手が語ったことの意図を相手の内面にたちいって正確に把握することはできず、常に私による解釈を相手の意図や意思そのものとみなすという「思い込み」を確信できるかどうか、あるいは相手の真意を理解しようとする真摯な努力がコミュニケーションを左右する。そもそも売り手が商品の使用価値の意味として構成しようとしたコンセプトをパッケージや宣伝文句が正確に反映しているかどうかについて、売り手は買い手―市場にあって買うかもしれないし買わないかもしれない消費者―の理解のなかに入り込んで確証することすらできない。可能なのは、資本がその組織の意思決定において、商品の使用価値の「意味」をパッケージや商品名や広告のキャッチコピーなどとして具体化する際の組織内合意形成が概ね成立しているということ、そして、「売れた」ことをもって資本にとっての意味使用価値が買い手によってもまた承認されたと「見做す」ということ、「買われない」ことをもって意味使用価値の市場における失敗を意味するということ以上のものではない、というのが伝統的な大量拡散型広告によるパラマーケットが果たしうる機能の限界だった。付言すれば、意味使用価値であれ直接的使用価値であれ、使用価値は価値との一体性をもって商品を構成するが、ここでは価値(あるいは交換価値)との関係が意味使用価値にもたらす重要な影響をあえて無視している。12

売り手にとっての意味使用価値は、パラマーケットを通じた情報回路によって市場に伝達される様々な非直接的な使用価値、つまり、パッケージデザインであったり広告に登場するタレントや有名人のキャラクターであったり、商品のブランド名やロゴであったり、いずれにしても、本来の使用価値とされているモノの有用性とは概念的にも物理的にも区別されるものでありながら、買い手の購買欲望に直接作用することを意図して売り手が意識的に商品と一体のものとして生産することになる。アンドロイド・スマホでGoogle検索することとiPhoneでGoogle検索することとは、その機能は同一であっても、意味使用価値の観点からみた場合、異なる二つの消費現象である。この意味使用価値は、一次的には、モノの生産とは異なって資本の流通過程のなかに意味生産過程として組込まれる。つまり、意味使用価値の観点からすると、資本の流通過程はモノとしての完成された使用価値であっても、意味使用価値はこの流通過程において生産されつづける。しかし、売り手は、買い手がどのような意味を当該商品に与えるかを完全に制御することはできない。買い手が店舗などで商品を購入する際に実際に接触する店員たちとのコミュニケーションが果たす役割を想起すれば理解しやすいだろう。ネットの広告やインフルエンサーによる宣伝などのコミュニケーションもまた意味使用価値に組み込まれる。意味生産過程は資本の流通過程とパラマーケットの双方に関わることになる。

買い手のなかで起きる意味使用価値の生成は、売り手のそれとは全く異なる。最も純粋なケースとして、これまで消費経験のない商品を購入する場合を考えてみればわかるように、買い手の購買行動を促す欲望には具体的な経験は必ずしも必要とはされない。「もしこの商品を買うとすればどのような生活が実現可能になるだろうか」というイメージや想像の世界が形成されさえすれば、この想像の世界のなかの欲望の充足が先取りされることによって、現実の商品への欲望がここに係留される。実際には想像と現実の間を橋渡ししているのは売り手による想像力喚起のための仕掛けであり、これが長年広告やパッケージデザインが果すべき役割りとされてきた。13

6.4. SNSと意味使用価値―ネガティブな意味

この意味生産過程は、インターネットのSNSのようなサービスに接合されることによって、伝統的な意味形成のプロセスに新たな要素が加わることになる。それがアルゴリズムとインフルエンサーである。この二つは、広告の新たな手法としての側面もあるが、同時に、それとは相対的に区別される市場の自律的な情報空間の力学にも晒される。広告に限らず、とりわけネガティブな評価の拡散という問題にこの特徴が端的に表われる。SNSのアルゴリズムはネガティブな言説や偽情報の類いを拡散しやすい性質をもっている。これは伝統的なマスメディアのパラマーケットには存在しなかった新しい状況ともいえる。いつの時代にもいわゆる流言飛語の類いは存在したが、SNSの場合は、これが機械的に増幅されるようなアルゴリズムによって制御されており、ここには資本の収益構造とリンクした意図的な戦略が組込まれている。

これまで固有のブランド名をもつ商品を念頭に置いた議論をしてきたが、ポジティブな評価が当該商品を供給する資本によって意識的に「広告」として流されると同時に、時には、これと対抗するネガティブな情報もまた口コミの範囲を越えて拡散しうる構造がある、ということだ。そのために意味使用価値における「意味」の構成のバランスシートはインターネットが存在しなかった時代の大衆消費市場にはみられない多様でネガティブな要素をもつ「意味」の占める割合が高くなりうる環境に晒されることになる。

こうした意味使用価値をめぐる生成の弁証法は、商品を供給する資本の側の意味生成の戦略に大きな変化をもたらした。ひとつは、インターネットの広告におけるインフルエンサーの囲い込みや組織化であり、もうひとつはSNSのアルゴリズム戦略である。ここには、場合によっては、インフルエンサーを用いた競争相手へのネガティブキャンペーンも含まれるかもしれない。同時に、市場に参入する消費者の動静を把握するために、さまざまなトラッキング技術が開発され消費者データが収集されるようにもなる。これらがビッグデータの一部を構成し、これが再びターゲティング広告などの手法でパラマーケットを通じて消費者の行動にフィードバックされる。意味使用価値は、この構造のなかで商品を供給する資本が独占的にその「意味」の主導権を握るということにはならず、様々なアクターによる当該商品についての意味作用の複合的な合成をなすことになり、市場においては、直接的使用価値のように固定された存在ではなく常時その内容が変容するものとして存在することになる。こうした絶え間ない変化があるからこそ、この意味領域は、これをいかにして確定的なものとして商品を供給する資本の側が意味使用価値の主導権を獲得できるかをめぐる闘争をもたらし、同時に、資本が与えようと意図する意味使用価値に対する敵対する要因への強い監視の動機を生まれることになる。これが市場経済における監視技術の開発を促すことになる。意味使用価値をめぐる問題は、外面的にみれば消費者の動静を外形的に詳細に把握することに焦点が絞られているようにみえるが、実際の関心の核心は、消費者の意識それ自体を把握して制御することにある。AIとブレイン・コンピュータ・インターフェースへの関心はこうした傾向を顕著に代表している。

意味それ自体はモノやサービスではない。言葉、画像や動画、シンボルなど様々な手段の組み合わせによって生成されるものであり、文化的な文脈に依存するコミュニケーションそのものでもあると同時に、言語によって集約されるものであるから、上の例でいえば、店舗の店員と買い手の間で交される会話や、買い手がテレビやネットで接する広告、SNSでの噂話の類まで、様々な回路を通じて買い手(となるかもしれない者)の側に商品の意味が生成され言語化される。しかし、市場の究極の目的は言語化ではなく、消費者の行動である。だから、資本の流通過程で資本がもっぱら意味生成の主体になれるわけでもないが、この流通過程を通じてしか資本は意味を生成しパラマーケットを通じて拡散させることもできない。この複雑な意味生成のプロセスが最終的には、買い手の「買う」とか「買わない」という判断を導くことに繋りをもつ一連の過程である。こうして資本は、買い手に購買欲求を喚起する目的で買い手が生成するであろう「意味」を外部から操作するための様々なまどろっこしい手段を講じるが、このことだけが「意味」ではない。市場に流通する商品の意味使用価値は、モノの使用価値それ自体ほど自明ではない。だからこそ、資本は意味使用価値を確定的なものすることにこだわらざるをえない。この一連のプロセスは民主主義の意思決定システムでは投票行動を制御する仕組みに容易に移植されうる。消費者の購買行動を操作するのと同様のことを有権者の投票行動にも適用されうるだろうということは、実際に広告代理店が選挙にも関与していることからも容易に推測できる。

6.5. 意味使用価値を媒介するもの

やや横道に逸れるが、意味使用価値の生産について、若干補足をしておきたい。商品の売り手と買い手という関係だけで売買関係は完結しない。広告資本が意味使用価値の形成に重要な役割を果し、広告資本と売り手との間でも市場の取引が成立する。広告資本と商品の売り手との間では、意味使用価値の生産をめぐる商品売買関係になる。広告資本は、意味使用価値の生成から流通媒体―広告を掲載する媒体―の段取りなどまでを担う。これは、広告資本が買い手=消費者の動向を専門的に把握する情報産業としての機能をもつことを意味する。「意味」の領域は、交換の一方の当事者である買い手の購買欲望を把握しこれを操作することによって、目的の商品を買わせるという行動へと繋げていく行為領域と不可分だ。

広告資本は、買い手のなかに潜在していた欲望に「ことば」を与え「意味」を顕在化させるだけでなく、そもそも買い手にはなかった欲望を、広告という媒体を通じて意図的に与えることで欲望=需要を人工的に創出する役割を担う。このプロセス全体にとって中心的な役割を担うのは直接的使用価値ではなく意味使用価値だ。このプロセスの効果的な実施には、匿名性の高い消費市場において、匿名の買い手を特定し、その動静を把握する高度な情報収集能力を持つことが必要になる。市場経済の匿名性は、一方で買い手の自由を保障することにもなるが、他方で、匿名であるが故に買い手が誰であるのかを把握するために必要になる情報収集の技術の開発を促すことにもなる。情報収集―意味使用価値の生産―消費者欲望の生成―行動の制御、という一連の流れは、商品それ自体の流通構造とは相対的に区別されるコミュニケーション領域に関わる。これをわたしはパラマーケットと呼んできた。ほぼ同じ構造は、匿名性を前提とする選挙制度に基く民主主義的な統治機構にも当て嵌まる。この場合には有権者情報の収集を有権者の投票行動に結び付けることになる。広告資本などが選挙運動に関与することによって、立候補者と広告資本の間には市場の取引がありながら、そこで生成された情報は市場を介さずに有権者に届けられるので、ここにもパラマーケットが生成される。いずれの場合も、情報収集を前提とするシステムになるために、こうした社会は、情報収集とその処理技術を高度化させる傾向をもつことになる。これが、コンピュータを駆使する現代の監視社会の背景にある。コンピュータをこうした情報収集―行動予測―行動制御に利用しようとする傾向は社会進歩の自然な流れでもなければ、技術の中立的な性格によるものでもなく、経済と政治の権力の要請によるものだ。つまり、もともと市場経済とパラマーケットに備わっていたこの欲望をめぐる仕組みが、インターネットの普及を通じて、サードパーティクッキーのような仕組みの開発を促してきたのだ。この点は折に触れて言及することになるだろう。

6.6. 意味の生成という問題

本題に戻ろう。買い手のなかで起きる意味使用価値の生成は、売り手のそれとは全く異なる。最も純粋なケースとして、これまで消費した経験のない商品を購入する場合を考えてみればわかるように、買い手の購買行動を促す欲望には具体的な経験を必ずしも必要とはしない。経験の記憶もなしに、全く見知らぬ商品に接したときに、生理学的な必要に迫られているわけでもないのに、なぜ買い手が「買いたい」という欲望を抱くのかは、説明を必要とすることだ。「もしこの商品を買うとすればどのような生活が実現可能になるだろうか」というイメージや想像の世界が形成されることはその前提をなす。この想像の世界のなかの欲望の充足が先取りされることによって、現実の商品への欲望がここに係留される。

実際には想像と現実の間を橋渡ししているのは売り手による想像力喚起のための仕掛けであり、同種の他商品の使用経験があれば、それとの比較も含めて新製品を選択させるような情報操作を展開する。それが長年広告やパッケージデザインが果すべき役割りだった。この意味の先取り、あるいは商品によって可能となるであろう将来のイメージをパラマーケットは広告だけでなく様々な回路を通じて構成し、これを実際の市場に繋げ、人々を消費者として再定義して買い手として行動しようとする意識を形成する。私たちの将来、未だ到来していない未来をパラマーケットは市場に媒介することを通じて資本による支配を未来の時間へと媒介する作用をもっている。未だ到来していない未来があらかじめ資本によって支配されているのだ。行動主義が目標を与件として、人々の行動を制御する技術に関心もったことを思い起こそう。この目標のなかには、資本や国家の廃棄は含まれておらず、「意味」というやっかいな領域もまた資本と国家による再生産の構造の呪縛を被り続けることになる。この未来の資本による支配は、私たちが闘わなければならない対象の一つでもある。未来を資本から奪回することなしに資本主義を終わらせる未来の想像力を獲得することもできないからだ。

買い手にとっての使用価値の「意味」は、どのような作用を果すものなのか、更に立ち入ってみてみよう。直接的使用価値が消費者の生理的な身体の維持や保護などの機能を果すとすると、意味とはいったい何なのだろうか。買い手が買うモノは具体的なブランド名をもつものだが、その具体性を買い手は具体的な意味としてのみ受け取るわけではない。たとえば、マクドナルドのハンバーガーを食べるとき、「美味しい」とか「不味い」といった感想を口にする。ほとんどの日常生活の経験が言語として表現されるときには、暑い、寒い、痒い、痛い、面白い、退屈などなどいずれも、様々なシチュエーションに共通する言葉で表現されることが多い。言語化されるときに、人は同時に、経験を抽象化して一般的な言葉として表現する。「マックのハンバーガーは美味しい」というありきたりの表現であれ、いわゆるテレビのグルメ番組の食レポであれ、言語による表現は意味使用価値の抽象化作用を必ず伴う。味覚のような身体経験は言語に還元できない言語外の残余の部分を含むが、これが言語化されたときには、必ずある種の抽象化作用が生じる。このように考えると、商品をめぐる意味は、買い手のなかで幾重にも重なった重層的な具体と抽象の意味構造のなかで処理されていること がわかる。

たとえば、7月25日午後5時に原宿竹下通りのマクドナルドでビッグマックセットを1個購入した、というように、モノの具体的な情報は、時間と空間によって一義的に決定される世界のなかに配置されている。しかし私たちは、コンピューターとは違って、この具体的なモノの意味するものを特定するデータをそのモノの意味それ自体だとみなしているわけではない。データによってこの一義的に決定されたこのモノは、たとえば、次のような会話を成り立たせることになる。

アリス「ハンバーガーを買って食べたよ」
ボブ「どのハンバガー」
アリス「マック」
ボブ「どこで買ったの?」
アリス「竹下通り」
ボブ「いつ食べたの」
アリス「5時ころかな」
ボブ「最近ぼくはハンバーガー食べてないけど、どうだった?」
アリス「まあまあかな」
ボブ「一緒に食事しようと思ったけど、まだお腹すいていないね」
アリス「そうでもないよ…」

こうしたごく普通にありがちな会話は「7月25日午後5時に原宿竹下通りのマクドナルドでビッグマックセットを1個購入した」というデータが一括で提供されているわけではない。「ビッグマックセット」は「マクドナルドのハンバーガー」として抽象化され、更には「ハンバーガー」という一般名詞に置き換えられ、それが食事のカテゴリーのなかに属するものであり、美味しいとか空腹などの感覚表現とむすびつけられている。会話が具体的な状況を前提にしながら、実は、極めて抽象的な概念がその背後で作用している。具体的な意味は抽象的な意味と相互に繋がりながらひとつの意味の場を形成している。この限りでは、具体的な意味と抽象的な意味の間には一見するとどちらが規定的なのか判別がつかないようにみえる。しかし、具体的な意味が抽象的な概念との結び付きを一切もちえない場合、食べ物は「食べ物」としては認識できず、食べるという行為にも結びつかない。また、他方で、食べ物が「食べ物」として認識されても、それを食べるという行為と結びつけられない場合もある。その「食べ物」が映画のなかの登場人物の演技であったり、自分の嫌いな食べ物であったりなど、「食べ物」は、その文脈のなかでその意味が変容する。いずれの場合も、抽象的な概念との関係のなかで具体的な意味がその具体性を実現する。

具体的なモノが時間と空間によって一義的に規定されるということと、それが意味をもつということとは別のことである。そして具体的なモノの意味は抽象的な概念なしには意味を生成できない。このような意味の具体性と抽象性の弁証法に対して直接的使用価値として登場する商品体それ自体は、この弁証法の前提としての場を提供することになる。商品として取引されるモノなくして意味の弁証法は成立しないという点からすると、資本主義の日常生活の大半を支配している商品とは、同時に日常生活の具体性と抽象性の意味の弁証法の場であるということができる。この意味空間を通じて私たちは自らの意識を形成・再生産する。このことは、労働者階級であっても避けることはできず、そうであるからこそ、商品は階級意識に影響及ぼす資本の武器でもあるのだ。コンピューターはこの具体と抽象の意味の世界を格好の獲物にする。つまりデータセットだ。

ではこの抽象的な意味、「食べ物」「食べる」とか、「服」「着る」などの表現や、「美味しい」とか「寒い」といった感覚や感情を一般的に示すような表現はどこから生まれてくるのだろうか。ハンバーガーもお茶漬けもともに「食べ物」という概念で括ることができるような意味操作を人間は成長の早い時期に獲得する。対人関係に関わる言語も、母や父の固有名詞よりも先に「ママ」「パパ」といった一般的な呼称が先行したりする。友だちの親と自分の親が同じ「ママ」「パパ」と呼ばれながら、それが「同じ」意味ではないことを子どもも認識できたりする。このようにしてみると、時間的空間的に一義的に規定され、他と明確に区別されるようなモノがまとう具体的な意味の方が実は極めて特殊なのではないか、と考えてみる必要がある。言語表現よりもより原初的かもしれない身振りなどは、それが指し示すものを言語と比較して漠然としてしか表しえず、その意味は言語ほど明確ではない印象があるが、実は言語とのこうした比較が正しいのかどうかを疑う必要がある。むしろ漠然とした指し示しのように見える場合であっても当事者の人々が相互に了解可能なコミュニケーションの方が、言語に還元できないが意味としての機能はそれで十分果しえているから、それでコミュニケーションとして通用している、ということの意義にもっと注目する必要がある。言語による表現であれば曖昧さが抑制されるかどうかは、具体的意味と抽象的意味の関係がモノとの間でとり結ぶ関係のなかでしか決まらないのだ。これはたぶんコンピューターの認識世界にはないことだろう。

6.7. 近代資本主義に固有な「意味」生成の特徴

そもそもモノの意味が時間と空間によって一義的に規定されることにこだわるのは、近代世界の、とりわけ市場経済が、モノを私的所有の対象とし、商品として供給する構造がもたらした意味生成の特徴である。パンを作るのに必要な小麦粉という商品は、特定の商標名をもって売られる以外には存在しない。つまり、資本主義の市場経済では「小麦粉」それ自体は実在しない。具体的なモノとして存在しているのは何らかの商品名である。この固有名詞としての商品と一般名詞としての「小麦粉」とを売り手も買い手も同一視するが、この同一視は同じことを意味していない。売り手は、固有名詞を一般名詞に結びつけて、あたかも自社の商品が小麦一般を代表するかのように振る舞おうとする。こうした振る舞いは、言外に、競争相手を意味論上排除することが意図されている。他方で、買い手にとって必要なのは、小麦の直接的使用価値であり、これは、買い手が小麦粉を用いて料理する(パンを作るとか天ぷらの衣にするとか)など、そのモノが使用される文脈に依存してその意味が規定される。このような意味の文脈上の規定にとって、商品の商標名が不可欠であるとは限らない。小麦粉であれば何でもいい、という場合も珍しくない。買い手にとっての小麦一般と商品としての小麦との結び付きは、その直接的使用価値をめぐる意味の文脈から導き出されるものだ。14

いつどこでどれだけの商品が売れたのかは資本にとっては大きな関心事だ。このことが、モノの具体的な意味を近代市場経済に固有の意味として規定し、これこそがモノの意味の一般的な性質の中心を占めるようになる。具体的有用労働に担われた具体的意味は、買い手のなかで、意味の抽象化作用の階段を登って最も抽象的で一般的な意味を担う言語と結びつくことになる。つまり、労働生産物としての小麦は、この回路を通じて、買い手にとっての「小麦」になる。このように、「小麦」は、売り手にとっては、自社のブランドの固有名詞と同義であり、買い手にとっては、その意味の文脈に規定された直接的使用価値なのである。

7. パラマーケットと意味使用価値

7.1. パラマーケットとモノの意味

資本主義において、商品売買は、市場で商品が買い手に渡され、貨幣を売り手が受けとる時点で完結するという点については、支配的経済学とマルクス経済学の間に基本的な認識の差はない。どちらの場合も、パラマーケットと使用価値の意味をめぐる構造を念頭に置いたとき、市場経済がいわゆる消費過程そのものと截然と区別されうるわけではない。この曖昧さは、監視社会としての資本主義批判にとってはそのままにしておくわけにはいかない問題をもたらす。市場の売買は上述したように、直接的使用価値と貨幣との交換関係に集約することのできない意味使用価値とパラマーケットの構造を伴う。

近代資本主義では、市場は、空間的に明確なを境界もつ場所としての「いちば」を意味していない。市場は「いちば」と同義とみなされて日本語でも英語でも空間的な場としての「いちば」と、機能としての商品売買行為の場としての「市場(しじょう)」との間に本質的な違いがあることにはあまり関心が払われてこなかった。パラマーケットは、商品売買そのものと空間的には不可分一体ではなく、いわゆる売買とは異る構造のなかで機能しつつ、同時に市場の取引にとって不可欠な機能を果すなかで、この空間的な観念に擬した市場では把握できない意味空間の広がりをもたらす。

パラマーケットは、これまでの文脈でいえば、情報・コミュニケーションの回路が市場経済の取引に必要な機能として作用するところで成り立つ。パラマーケットと呼ばれるものが制度的に機能分化して実在するのではなく、コミュニケーションの回路のなかに、その他の様々なものと区別されない形で入りこんでいる特性を概念的に抽出して提示したものだ。この意味で経験主義的にも実証主義的にも導出できるものではないが、資本主義の構造的な支配、とりわけ意味の搾取への批判的なアプローチには必要な手続なのだ。このことが、市場を介して調達されたモノが買い手の市場的なモノの編成のなかにシームレスに組み込まれて買い手の「生活」意識の構成を可能にする仕組みを明らかにすることになる。市場で買ったもの、自分が作ったもの、他人からプレゼントされたもの、私の「モノ」の来歴は様々であるが、これらが渾然一体となって生活の意味空間を構成する。モノの意味は、来歴だけでなく、使用をめぐるモノや人の相互関係によって様々に変化する。資本にとっての関心は、こうした私生活のなかで自社の商品がどのような意味をもって消費されているのか、この消費を通じて消費者が再び自社の商品を買うという選択をするのかどうかであり、競合他社の商品を消費者が使用している場合は、いかにしてこの競争相手を消費者の生活の場から排除するか、である。市場における競争が目論む「排除」とは文字通りの直接的使用価値の排除だけでなく、その意味使用価値における具体的使用価値と抽象的使用価値との結び付きを切り離し、その意味を一般性から駆逐して希薄化させ否定的な意味へと追い込もうとする。こうした意味作用は、パラマーケットを通じて不断に繰り返される。それは広告によって組織的に展開される場合もあれば、口コミによる場合もあれば、SNSのアルゴリズムとインスフエンサーによるかもしれない。モノの意味は直接的使用価値とは違って固定化されているわけではなく、コミュニケーションを通じて繰り返し生成され、さまざまなモノのとの関係づけの組み換えのなかで、その意味も変容する具体的意味と抽象的意味の弁証法的な構造をもっている。この意味生成の「場」は市場の外のパラマーケットに組み込まれることによって、資本が介入することが可能になる。20世紀においてマスメディアを通じて実現されたのは、この市場の外部の生活空間を制御するパラマーケットによる支配だったが、これが20世紀末以降、今世紀にはインターネットの双方向のコミュニケーションを意識しえない領域で支配することを通じてより巧妙化し、容易には生活世界から排除することが困難なものへと進化した。(後述するようにパラマーケットは政治権力を支える意識とコミュニケーションの構造としても機能する)

問題は、生活の場にパラマーケットが組み込まれてモノの意味に資本が影響を与えようとする行動がもつ影響の拡がりである。資本は、個別資本の観点からすれば、市場における消費者の購買行動に影響を与えて自社の商品を買うように仕向けるが、総資本の観点からすれば、生活の社会的な機能が<労働力>再生産にあることを踏まえたモノの集合的意味の問題を捉えることが必要になる。生活を構成するモノの総体によって構成される生活の意味は、ライフスタイルとか生活様式とか、あるいは習慣や文化などと呼ばれるようなものによって輪郭を与えられる社会集団が、全体として共有していると観念される生活実感でもあり、これが<労働力>の担い手の意識の再生産を担う。市場に供給されるモノの集合が、生活過程のなかで消費されることを通じて意味を形成するわけだが、ここでのモノの意味は直接的使用価値や具体的な使用価値が指し示すいまここにある当のモノそのものを特定するような言語と抽象的使用価値としての意味使用価値が相互に接合しながら形成される意味空間である。ブランド名としてのモノが「小麦粉」「ハンバーガー」といった一般名詞であったり、「美味しい」「嬉しい」といった他のモノにもあてはまる感情表現であったりするような意味をになう言語の集合と接合して形成される意味が、生活の意味を、つまり人々の社会意識を規定する物質的基盤となる。この集合の要素が相互にい結びつく在り方は、生活それ自身のなかでのモノが果たす機能や、フロイトが指摘したような無意識や「検閲」にも作用する。

7.2. パラマーケットの変容

伝統的なパラマーケットとは、市場の取引に付随して市場にとって不可欠だがそのサービスを市場原理に即して対価を請求することができない、あるいはそうしない方が資本にとって効果があるような情報データの流通回路だった。パラマーケットは商品の意味使用価値の形成を担い直接的使用価値とともに使用価値そのものを支えるための回路であるという意味で、もっぱら情報データに関わるものといえた。マルクスは商品、貨幣、資本に対して、その所有者を単なる、これら市場の構成要素の人的な担い手に過ぎないものとみなした。市場におけるモノの性質は人間に依存するのではなく、むしろ人と人との関係が物と物との関係として構築可能な物象化の世界を資本主義経済社会の基本的な性格とみなした。これが初期の疎外論からの大きな転換とも解釈されたのだが、私は、むしろ、物象化は貫徹されることはできず、常に人間的な条件が残るところに、資本主義の限界があることをこれまでも指摘してきた。15 労働者にとって自らの労働能力とは、労働への意欲の関数であり、労働の潜在的な可能性としてのみ存在するのであって、ここに労働者の抵抗の手掛かりもある。同様に、商品の売買過程が買い手の欲望を必須の条件としなければ成立しないということは、欲望を生成する使用価値の作用を把握できる理論的な枠組が必要だということを意味している。

使用価値の意味は、まさにこの点で買い手の欲望をターゲットにして構築されるものだ。大量散布型の広告であれターゲティング広告であれ、最終的な目標は、消費者個々人が「買う」という行動をとるように、消費者の欲望を操作しようとすることであり、この操作が、消費者の主観においては「私」の欲望として感じとられるように、消費者の心理に組み込まれることが必要なのだ。パラマーケットはもっぱらこうした消費者の心理に作用することも目的として生成された使用価値の意味が、商品本体とは別に伝達される回路だった。

7.3. デジタル時代:意味の生成過程のインタラクティブな組み換え

CTCが支配的なデジタル時代のパラマーケットは、この資本の回路を根底から別のものにした。それは、意味の生成過程をインタラクティブに組み換え、同時に、これまでは推測の域を出なかった、個々の消費者を識別し、更にプライベートなデータに直接アクセスすることによって、欲望の操作をフィードバック・システムのなかに組み込むことが可能になった、ということである。没個性的な「大衆」を生み出すと批判された大衆消費社会とは逆に、デジタル時代のパラマーケットでは、人々は固有名詞をもった「個人」として個別化された上で、資本の都合に応じて柔軟にカテゴリー分けが可能な対象となることによって、不確定な「消費」予測に対する柔軟性のある対応力を獲得するようになる。ここで核心をなす事態が、プライバシーの解体だ。パラマーケットはプライバシーの領域に風穴を開ける突破口となる。もともと資本の商品は、家族のような私的な制度の内部に入り込み、プライバシー空間を占領し、人々の私生活と日常を資本の物を通じて資本の意思に従属可能な外的環境世界として構築することまでは成功してきたが、CTCに基づく支配的構造では、個人の所有するスマートフォンに端的にみられるように、家族の制度によるバリアは解体されて直接個人にアクセスが可能になる。他方で、プライベートな空間とされてきた家族の領域もまた電力会社のスマートメーターやAIロボットなどIoTを組み込んだ生活手段がリアルタイムでモニターが可能になることによって、家族関係と個々の消費者の内面を解析し、行動を操作し、思い通りにいかなければ何度でもプロファイルを再構築して思い通りの結果となるように調整を繰り返すことが可能になった。

先にも述べたように、資本主義のなかで個人として構築されるアイデンティティの重要な核として、市場が供給する商品に随伴する抽象的な意味使用価値と具体的な直接的使用価値のある種の弁証法のなかで、資本の戦略としての直接的使用価値が意味使用価値を乗っ取り転倒させて、固有名詞としてのブランドによって一般名詞を代表させるような使用価値の物神性とでもいうべき現象をもたらすことが繰り返し試みられる。従来、資本主義的な個人のアイデンティティは、生活の場における意味の集合が、家族のような私的な組織を介して形成され、このことを前提として、「私」とは何ものなのかは、生活を構成する無数の直接的使用価値が具体的/抽象的使用価値として「意味」世界に入りこみ、抽象的な言語の意味内容を作り変えるなかで形成されてきた。意味するものと意味されるものとの相互関係を構築する社会的なコミュニケーション構造が資本主義においては、資本によって編成される市場によって、そしてまた、この市場を通じて供給される<労働力>再生産過程―家族が不可欠な制度としてこれを担うことが想定されている―における意味の構造によって規定される。言語の意味もその作用も資本主義的なそれとして歴史的に規定される。

CTCが支配的な資本主義では、この過程から、家族のような私的な組織によるプライバシーのバッファが後退し、文字通りの意味でのプライバシーの権利主体である個人が、自らの主体性をもってパラマーケットに仕組まれた監視と対峙することになる。こうして現代の監視社会は、近代が理念として掲げた個人主義の限界と脆弱性を突いて、自覚されることもなく密かに私の主体性の内部に侵入する糸口を獲得することになる。これに対して家族をCTCによる個人への直接的な介入に対する障壁となることを期待するのは、復古主義でしかなく、解放の選択肢にはならない。現実の過程は、家族を介さなし個人への介入と家族を媒介とする個人への介入が相互に補完するようにして、個人を包囲することを通じて、国家と資本による監視が構造化されることになるだろう。

7.4. 選択の自由と操作的言語

消費者は複数の商品からの選択の自由をもち、この自由に対して資本は消費者の行動をコミュニケーションの回路(パラマーケット)を通じて制御しようとする。制御とは消費者の意識に作用して、その行動の変容を促すことであるから、資本の言語とは、常に操作的である。広告のような一方的なメッセージはその典型であり、これは、従来のマスメディアであれネット広告であれ、基本は変わらない。売り手と買い手の間の双方向のコミュニケーションとは、お互いが対等な立場ではなく、また、相互が同じ利害にたつコミュニケーションでもなく、非対称なコミュニケーションであり、双方の思惑も利用できるアルゴリズムや技術も同じではない。私たちは、買い手であることを市場ではほぼ強いられており、常に操作的なコミュニケーションに晒されていて、こうしたコミュニケーションを当たり前のものと感じている。にもかかわらず、このなかで自分の認識や感性が操作されている可能性に気づくとは限らないし、気づいても深刻な権利侵害だとは考えない。

言語が他者に対して操作的であるかどうかは、文脈に依存する。たとえば「お腹が空いたね。ハンバーガーでも食べようか」「そうだね。マックにしようか」という会話が友人との間なのか、それともマクドナルドのコマーシャルの一シーンでの出来事なのかでは、全くこの言語が果すことが期待されている効果が異なる。後者の場合は明らかに操作的な言語であることは広告の文脈から明かだ。人はこの文脈を理解して操作的な言語表現の意味を組み立てる。この点で言語は、この言語が語られる言語以外の環境全体の文脈のなかでしかその意味を確定することができない。もし、そうであるとすると、言語の操作性は言語の文法などの構造に依存するとは限らないことになる。資本が広告によって欲望を操作するような表現を投げかけたときに、受け手の側がこれを、資本の意図に沿って解釈することができなければならない。広告の受け手が市場経済の習慣や仕組みを知らなければ、操作的な言語はその機能を発揮できない。

つまり、制度とそのルールへの理解が前提になる。その上で、情報の受け手は、このメッセージという刺激の「意味」を解釈するときに、操作的な言語だということを受け入れ、この刺激に対して情動を発動して購買欲求に繋げるかどうかを判断する。様々な欲望のなかでも「空腹」に焦点があてられ、更に食べ物や食事といった一般的な使用価値のなかから「ハンバーガー」が選択され、このメッセージの唆しに乗るか拒否するかが判断される。市場は一般に消費者の欲望に関わるから、リビードのコントロールと結びつく。そうである以上、ここには、「検閲」が関与する。前章の大衆心理のありかたで述べた恋着や同一化が市場経済においても生じるが、市場で生じるこうした大衆心理ではモノへの恋着や同一化を媒介とした自己に回帰する同一化、という特殊な構造をとる。ナルシシズムと呼ばれたりもするわけだが、商品を買うことを通じて未だ実現されていないその商品を使用することによって得られるであろう満足をイメージとして先取りする。このイメージはパラマーケットを通じた広告のようなメッセージと自分自身が有する意味集合から生成される。消費者としての人間の側からすれば、自分の生活を構成している無数のモノは直接的使用価値の単なる集合ではない。これらが相互にどのように意味づけられて繋りをもつものなのかを直観や感性も含めた意識を通じて理解しうるものとして、その存在を認知している。「美味しい食べ物」といった一般化のなかに、マクドナルドのハンバーガーが登録されると、今度は、逆のルートを辿って、この一般化が個別具体性をもつ商品へと向うようになると、消費者はリピーターになる。

このように、市場経済のなかでは、言語の果す役割りとは、とりわけ売り手と買い手の間でのコミュニケーションにおいてはは、人間相互の場合であれ、広告のメッセージによる場合であれ、最大限に操作的な性格をもってメッセージの受け手に作用することを意図したものになる。この言語環境は市場経済に固有のものだ。売り手は、商品を自分の意志だけで買い手に買わせることはできず、買い手は貨幣所有者として、どの商品を購買するのかについての主導権を握っている。言い換えれば、売り手の資本は、資本としての絶大な権力も持ちながら、市場のなかでは、一介の消費者の行動を文字通りの意味で自由にすることすらできない。だからこそ、消費者の行動を自由に制御するための力を、コミュニケーションを通じて発揮しようとする。このときに、資本がなすべきことは、自社の商品の意味使用価値がまとう具体的な意味に買い手を繋ぎとめることだが、繋ぎとめとは、買い手の情動を自社の商品にのみ接合し、他の商品を排除するような選択的な判断と行動を実践させるような方向づけをコミュニケーションのなかで実現することである。時間と空間によって一義的に規定される意味の具体性をまとった商品と貨幣との交換は、実際には、意味の抽象化作用を通じて、この具体的な意味が抽象的な意味のなかに位置付けられることを通じて、評価的な意味、つまり使用の価値性格が形成される。これは、直接的使用価値によっては成し遂げることができない使用価値の別の側面である。意味の抽象化を通じて、消費者はその意味をはじめて、意味という概念に即した内実をもって内面化できる。資本の使用価値をめぐるコミュニケーションがターゲットにするのは、買い手の抽象的意味使用価値の領域なのだ。言い換えれば、この個別具体的な商品をある種の普遍的な意味を担うカテゴリーの一角に押し込めるのである。こうした、たかが資本が金儲けために生み出したにすぎない使用価値が、買い手の生活のなかで、過剰な意味を担うものとなる。

7.5. 具体的な意味が抽象的な意味を乗っ取る

更に、具体的な意味が抽象的な意味を乗っ取り、それ自体が抽象的な意味の地位を占めるようになる場合がでてくる。パソコンの文書データを「ワード」と呼んだり、オンライン会議を「ズーム」と呼ぶなどがそれだ。抽象的な言語の意味作用を言語の具体的な対象を指し示すための機能が代位する。多分市場経済の商品の意味使用価値の究極の目標は、自らの具体的な意味が抽象的一般的な意味の唯一の担い手になることだろう。マルクスが価値形態論において商品相互の交換関係を通じて、一般的等価物(貨幣)が社会的な共同作業として形成されるとした過程と同じ過程が、実は商品の使用価値世界においても繰り返されているのである。

そして更にこの意味使用価値の生成過程は、生活過程そのものに及ぶ。販売の実現は意味使用価値の確定を意味しない。消費過程のなかで意味使用価値はその意味内容を変化させながら消費者に影響を与え続ける。実際の消費を通じて買い手は、購買した商品の意味を経験として実体化する。個別資本にとって、商品の使用価値は、「我が社の商品」としてその意味を構築することになるが、買い手にとっての意味使用価値は、当該商品を個別に取り出して、その意味を「消費」するわけではない。消費の文脈のなかでその商品の意味が様々に変容する。生活手段の集合がライフスタイルを構成する。ライフスタイルは生活を支える経済的な裏付けに左右されるだけでなく、文化や価値観も反映する。総体としての生活手段集合のなかで個々の商品の意味使用価値が規定されるという点からすると、意味の二重性は、常に一致することはありえないとみるべきだろう。同時に、この生活手段集合こそが<労働力>再生産が担う具体的な<労働力>の「質」を規定するものにもなる。<労働力>再生産は、単に、労働者の肉体的生理的な労働能力の維持だけでなく、「働く意味」を形成する重要な要素の一つとなる。言い換えれば、労働者のパーソナリティ形成の一翼を担うことでもある。 資本主義のイデオロギー作用は、こうした商品の意味使用価値が果す買い手の意識への作用を抜きにしては論じることはできない。

市場における操作的な言語は、フロイトが言及した教会や軍隊のなかでのコミュニケーションが生み出すであろう恋着や同一化と同様、商品の使用価値に対するある種のフェティシズムをもたらすのだが、このフェティシズムは、イデオロギー一般と同じく、単純な外部注入ではなく、モノの意味の文脈化を可能にする買い手としての「私」の(無意識を含む)意識との共同作業になる。

7.6. CTC以前と以後での違い

以上の点を踏まえて、インターネットとコンピューター・コミュニケーションが支配的になる前と後でどのような本質的な違いが生まれているのかをやや図式的になるが整理しておこう。

前述のように、具体性の世界、つまり人間が実空間のなかで「私」と呼ばれる身体的な実体をもって存在している限り、この意味での私は、その身体性に制約された時間と空間の座標のなかに必ず位置づく。ある瞬間に存在する世界における私の場所は唯一の場所を占めるものとしての「私」である。この「私」は、同時に、実空間のなかでは、単純な同心円状の関係を形成する。最も親密な関係から、最も縁遠い未知の人々との、”関係”と表現していいのかすら不明な関係までの広がりである。図式的にいえば、家族、友人、地域や学校、職場、そして都市空間で出会う誰かもわからぬ多くの人々がこの同心円のどこかにプロットされる。最も親密な関係が家族だというわけでは必ずしもない。家族との関係が最悪なばあいには、物理的な距離の近さが、逆に関係を悪化させることになり、むしろ友人関係の方がより親密であったりもする。こうしたこと自体が、私の身体性が物理的空間との関係のなかで、位置づいているからこそ生じる問題であり、同時に、家族制度や家族の権力関係に内在する矛盾や軋轢がもたらす問題でもある。こうした場合、「私」は親密な関係の再構築を試みる。既存の同心円に対して、これとは別の同心円の構造を持ち込もうと闘うことになる。いずれの場合も、同心円の構造そのものが揺らぐわけではなく、矛盾を通じて、同心円の再構成が試みられるというに過ぎない。

このような同心円がどのような範疇によって形成されるのかは、社会の歴史的な性格によって規定される。市場経済と国民国家という社会の枠組をもつ現代資本主義は、この社会に固有の同心円の構造を人々の実空間のなかに形成することになる。そして人々は主として、空間のなかでこの同心円を知覚することができるから、人々は社会の秩序との関わりを意識的に理解する。

これまで度々論じてきたマスメディアやパラマーケットは、この実空間の構成のなかで、いわば、この同心円に対して楔を打ちこむようにして入り込むことによって、私の身体性に直接作用しようとしてきた。しかし、同時に私は様々なレベルでのコミュニケーションを通じて、メディアやパラマーケットを流れるコミュニケーションの「意味」の解釈を確立させようとする。メディア研究で論じられてきたように、人々はマスメディアを一方的に信じたり受け入れるわけではなく、親密な関係をもち信頼を寄せる人達の評価に左右されながらメディアの言説を受け入れる。広告のような商品情報は、物理的空間のなかで、実際の生活を通じて経験されるモノとの関係という経験も含めて、解釈される。こうしたメディアとパラマーケットの情報は政治や社会などに及ぶが、基本的な解釈と受容の構造は同じだ。この構造は、現在のインターネットとコンピューター・コミュニケーションが支配的な世界では次第に解体されつつある。

8. 空間の解体

8.1. プライバシーと空間

プライバシーは空間的な概念として成立した歴史的な経緯はよく知られている。他人に干渉されずに一人にしておいてもらう権利としてのプライバシーと、土地や建物の私的所有や占有の権利とは不可分の関係にあった。私の「場所」を特定できるルールが確立することによって、余所者の侵入を違法とし、国家権力による介入を例外として認めるための面倒な手続き(裁判所による捜索令状発付手続きなどによってのみ私権を制約できるとするのが近代法の基本原則だろう)も空間=場所への権利と不可分といえた。とはいえ、すでに述べたように、このプライバシーの空間は個人というよりもまず家族の空間として設定され、この家族関係に従属するものとして個人のプライバシーが位置づけられる。これは空間が「家」として設定され、個人はこの「家」のなかで個室が与えられれば、この個室が個人に直接関与するプライバシーの空間になるが、そうでなければ、個人のプライバシーは家族のプライバシーに代替されるだけの脆弱なものになる。プライバシー空間と資本や国家の占有空間の間にあるものとして、資本主義的な共有の空間として「公共空間」が論じられる場合も、これを「公共性」「公共圏」と言い換えるとしても、いずれであれ、現実の地理的な空間のなかに公共と呼びうるものを実体化する存在―公園や路上、公共施設など―が不可欠なものとしてイメージされており、現実の公共的な場所なくして公共の実体もまた維持できないものであることはほぼ確実なことだった。

場所を私的に囲い込むことによって排他的に自分だけ―実際には家族がこれに代位していることが多いわけだが―の空間を確保して他人から覗かれないで一人にしておかれる権利を物理的に確保するという、このプライバシー権を保障する物理的環境は、二つの前提条件によって確保された。ひとつは空間の私的所有の確立である。土地の商品化といってもいい。この排他的な権利は、他者の侵入を違法とする法規範を通じて正当化される。ただしここでいう物理的環境は文字通りの意味での個人の私的空間であるとは限らず、社会制度の前提としては、家族の空間がプライバシー空間として与えられさえすれば、プライバシーは保護される、とみなされてきた。もうひとつの条件は、この排他的な空間の占有や所有を侵害せずにプライバシーで保護されている場所を覗く技術がない、ということだ。後者については、通信の当事者がプライベートな空間にいたとしても、遠距離の内密な通信のような場合に通信経路はこのプライバシー空間の外部にあり、プライバシー権を空間の所有や占有のみでは保護できないという問題が生じることになる。手紙は配送の途中で盗み見される危険性があったし、19世紀に発明された電信、電話もまた、回線が盗聴されるリスクが常にあった。言い換えれば、プライバシー権は、その出発点から決定的な脆弱性をもっており、それが遠距離のコミュニケーションでは顕著だった。そして、この遠距離通信のリスクはインターネットの時代になっても、暗号技術による保護が進展してはいても脆弱なままなのだ。

空間を時間の関数だとみなすと、電話や電波による通信であれインターネットであれ、人間の身体感覚からするとほぼリアルタイムでのコミュニケーションが遠距離間で可能になることによって、空間の構造は明かな変容を遂げる。物理的な空間は、この空間をリアルタイムで接続する技術によって大きく変容する。サイバースペースの広がりは、地理的物理的な空間の属性としての時間によっては定義することができない。サイバースペースの大きさを測るには、移動に要する時間ではなく、ビット(あるいはバイト)で測定されるデータの大きさと、コンピューターのデータ処理能力だったりする。つまり、技術に依存する人工的な場所であるが、これをスペースとみなすとき、そこには私たちの知覚する空間との類推が密かに入り込む。サイバースペースの大きさは、誰にとっても同じではない。実空間のように入れる場所と入れない場所があるだけでなく、通信の回路は実空間の道路以上に、不平等であり選別的でもあり、場所によっては極め閉鎖的だったり、刑務所の空間のようだったり、サファリパークのようであったりもする。それが「自然」なコミュニケーション環境だと誤解される。というのも、このコミュニケーション環境を支えるインフラはそのほとんどが不可視であるか、専門的な技術や知識がなければ理解が困難だからだ。人と人との直接のコミュニケーションが「自然」な関係に属していることから、通信におけるコミュニケーションもまた同様の「自然」に属するかのような感覚が与えられる。直筆の手紙がメールやSNSのメッセージになることに伴う歪みが知覚されず、コミュニケーションの自然感覚が維持される。機械によって擬似的に形成されたコミュニケーションが「場所」=スペースとして意識され、これが視覚的に構成されると、コンピューターがディスプレー上に描き出す空間が本物の空間を凌駕して知覚に作用するようになる。16

実際の地理的空間上での行動をプロットすると、地図上の自宅、通勤経路、ショッピングエリア、職場、公共空間としての路上や公園など、場所ごとの色分けができる。それぞれの色に応じて人はその空間のなかで自分の役割衣装を着替える。この構図は、自分という人格を構成する重要な前提条件をなしており、一般に「私」という人格がただひとつの人格であるかのようにみなされがちだが、実際には複数の人格がひとつのものとして統合された存在でしかなく、しかもこの統合は理路整然とした繋がりによって一体となっているというよりも、生理的な身体に無理矢理に繋ぎとめられているかのように、不安定で相互に摩擦や不具合を孕みながらなんとかひとつの存在として「私」が維持されているにすぎない。たぶん、私ですら、この私の多面的なありかたを合理的に首尾一貫したものとして説明することは不可能だろう。しかし監視社会の基盤となる政府や企業が管理するデータの側からみえる風景は異なる。私のアイデンティティの現実がどうあれ、彼等は唯一の「私」をデータに基いて構築し、これを政府は唯一公認された「私」として認証シールを貼る。私がいかに抗弁しようと、却下されることになる。私が何者であるのかを規定する主体から私が排除され、私が親密の思う人々も排除され、政府が管理するアルゴリズムがとって代わる。

上図のように、伝統的な資本主義の空間構成のばあい、各々の場所ごとにそのルールを定めることが可能だ。縦軸の商品化の軸に沿ってみたばあい、空間は商品化され私的所有に従属するから、空間の所有者の裁量が大きくなる。民間企業の職場は、この意味で資本の裁量が最大化する空間であり、逆に監獄は公権力の裁量が最大化する。いずれも、人々の個人としてのプライバシーも自由もわずかしか認められない空間になる。ショッピングモールや交通機関は、たとえそれらが民間あるいは公的機関の管理下にあるとしても、場所における個人の自由あるいはプライバシーの権利は職場や監獄ほど小くはない。

監視をめぐる二つの権力、資本と国家―支配的構造―に対して諸個人が相対的に自由を確保するということは、この便宜的な図でいえば、原点に近ければ近いほど、自由度が高い空間になる。個人の自由は同時に個人がプライバシーを優先順位として高い位置に置くのか、それともプライバシー以外の権利を優先させるのかという選択の自由度が高いことを意味している。この図では、原点に近いところに、親密な人々によるか、あるいは全くひとりでいることが可能な空間を配置してある。こうした空間は支配的構造の直接支配を相対的に逃れている空間であればよいので、いわゆる家族のような制度を与件とする必要はないが、現実には、多くの人々にとってこの親密な空間の重要な制度が家族であり、そうであるが故に、この親密な空間は、資本や国家にはない、別の意味での「監視」をめぐる問題領域にもなる。

斜め右上向きの矢印のように、空間の再開発が進展するにつれて全体が次第に原点から遠ざかる傾向をもつ。空間が支配的構造に管理されるとともに、原点に近い位置にあった親密な空間もまた右斜め方向へと移動する。上図を簡略化すると下図のようになる。

データがデジタル化されてビッグデータとしてコンピューターのアルゴリズムによって、その都度必要に応じて必要なデータの組み合わせが抽出されて使用されるようになると、監視を地理的な空間に沿って構造化することは意味がなくなる。(下図参照)

こうしてコンピューターの世界は、データの束として全ての存在をネットワーク上にあるサーバーに溜め込むか、リアルタイムで生成されて短時間で消滅するような揮発性の高いデータとしてネットワーク上を移動しているといった類のものを通じて、「サイバースペース」とみなされるような世界が描かれている。ハードディスクなどの記憶媒体のメモリ領域を「場所」といえば「場所」だが、こうした「場所」が実空間の「場所」に対応しているわけでは決してない。しかし、やっかいなのは、実際には物理的な場所も時間の流れも存在しないサイバースペースが人間関係を構成するコミュニケーションに介入しているにもかかわらず、私たちは実空間の歪みを知覚できずに、素朴にこの「実空間」を疑わないまま受け入れてしまう。その結果として、コミュニケーションの歪みも気づかれないままになる。

それでは、こうした構造変化は、監視社会との関係でどのような新たな問題を引き起すことになるのだろうか。第一に、実空間との相互作用という問題だ。監視の目的に沿って監視すべきターゲットを抽出し、ターゲットを再度ビッグデータをもとにして精査し、この段階で必要であれば実空間における監視のための手段が動員される、という実空間との相互作用のなかで監視社会が構成される、という問題が生じる。そもそも「サイバー」とか「リアル」といった二分法は現在の支配的構造における監視システムを説明するには適さない。CTCに基く監視は、最終的には現実世界にいる私たちをターゲットにし、私たちのアナログの身体を標的にする。たとえば、米軍がドローンによってイランにいる敵を攻撃する場合、現場のターゲットを現場で米軍が実際に確認するわけではない。データセットから一定のアルゴリズムによって抽出されたターゲットと実空間が交差するのは、ドローンを操縦する兵士がドローンのカメラを通じて目視する地上の映像だけだ。このときターゲットにされた人達にできる回避策はほとんど存在しない。第二に、このプロセスの大半が(攻撃する側にあっても)知覚の外で起きる、という問題だ。スマートシティなどのような地理的空間をIoTと5Gネットワークなどによって網羅的に包囲する場合も基本的には知覚しえない領域が重要な機能を担う。コミュニティの主体であるはずの住民たちのコミュニケーションのなかに、人間の知覚では捉えられない別のコミュニケーションがまとわりつくようになる。こうした空間では民主主義的な議論が次第にその実体を奪われるようになる。住民の知覚しえないコミュニケーション構造のなかで、権力の再生産を最適化するように、コンピューターがコミュニティの最適な「環境」が決定される。

こうしたデータによる網羅的な監視を前提とした監視ターゲットの洗い出しが、これまで監視社会の事例とされた都市に配置された膨大な監視カメラのモニンタリングルームでの監視と異なるのは、不審なターゲットをモニタリングルームの監視員が発見したり、あるいは警報装置の作動で把握して、ターゲットを追いかける、というアナログではなく、あるカテゴリーで分類されたデータセットに該当するあらゆる人々をコンピュータによって抽出し、そこから、ターゲットを予測するという方法をとっている点にある。まず最初に怪しい人物が具体的に存在するということではなく、データベースと照合して、窃盗の前科がある、土地勘がある、男性である、失業している、外国籍であるなどなどのデータを組み合わせることによって、不審人物を人工的に構成(生成)して、該当する者を監視する、という方法をとる。この方法は、刑事司法の分野でいえば、令状主義の原則17を意図的に形骸化することを意味している。事実米国では、こうしたデータによる網羅的な監視のための公権力の行使が先行する事例が発生している。18

ネットのコミュニケーションでは、実空間の同心円的な親密さのスケールが機能しない。だから、プライバシー空間のように、私の制御能力は限定的にしか機能しない。ネットでは、いわゆるプライバシー情報は「私」の管理下にはない。サイバー領域では、私に帰属する空間が、仮想的にしか存在せず、多くの場合私の能力や権限を越える技術が支配しているからだ。たとえば、SNSの「お友達」「フォロー」などの仕組みは、全く未知の人達と既知の親しい人達の心理的距離をあいまいにする。私のメッセージの拡散は、街頭のビラ撒きとは全く異なるメカニズムのなかに置かれる。サイト検索によってアクセス先を探す行為は、自分が住んでいる町の商店街を歩いたり、新聞や雑誌の情報から必要なモノを見つける行為とは違う。私と環境との物理的な距離関係が崩れ、キーワードを意識的に選択するという主体的な行為の結果として表示される対象の位置や売り手と私との間の仮想空間の距離のコントロールの力を私は失なっている。ネットの大半の行動はパラマーケットを通じた行動になるが、そのほとんどをプラットホーム企業と呼ばれるGAFAなどが私たちからは隠された仕組みを使って制御する。しかも、ネットでの行動はビッグデータとして蓄積され、ターゲティング広告などによって、再帰的に「私」へとその情報が再構成されて返され、私の意識や行動に影響を与える。このフィードバックにおいては、「私」はデータ化され、このデータ化を元に、パラマーケットを介することによってコミュニケーションは、実空間の距離とは無関係な心理的な距離として私の内面で再現される。この一連の、どちらかといえば双方向を通じた「私」に対するパラマーケト経由の資本による制御のシステムが社会のコミュニケーション・システムの支配的な構造となりつつある。統治の伝統的な枠組のなかに「領土」があり、また人々の権利と権力の力が及ぶ範囲をめぐる権利と権力の関係の力学もまた「空間」によって表現されることが、経験的にも妥当な時代があった。しかし今はそうではないのだ。

こうしたコミュニケーション構造を前提にしたとき、法的権利の及ばない領域が新たに形成される。法の限界は、権利を行使するためには、権利としての自覚をもつことが必要だという点にある。言い換えれば、権利侵害が自覚されない領域で権利侵害が進行していたとしても、そのことが発見されなければ、権利は侵害され続けるだけだ。プライバシーの権利も同様であり、だからこそ、プライバシーを意図的に侵害することを企図する者たちは、巧妙に侵害行為を隠蔽しながら遂行する。空間によって境界を区切ることができず、時間が防御の手段にもならないサイバースペースでは、プライバシーが実際にどのように侵害されているのかを知覚化することが困難なために、正確にプライバシーの「領域」が意識されることもまた困難になる。サイバースペースは、リアルタイムで通信を行なうだけでなく、膨大な履歴や記録を蓄積することが可能でもあり、複製も容易であり、逆に消去や削除、改竄も同様に権限を与えられた者には容易な作業になる。こうした環境のなかで物語(ナラティブ)なるものが人工的に構築される。権利はこの物語の土台の上で争われるが、本当の問題は、この物語そのものの来歴にある。こうして、私たちのコントロールの手を離れたサイバースペースは、従来であればプライバシーの権利として私たち自身が自らの力で保護することが可能だった事柄を、私たちの意識の及ばない方法によって私たちのプライバシーを蓄積する場所として利用される。

この人工的な物語について、やや補足しておこう。サイバースペースのなかでは、時間はタイムスタンプとして、逐一記録可能であり、また消去も可能だが、同時に、この時間を改竄することも簡単にできてしまう。更には、特定の人にしかアクセスできないか理解できないような方法(暗号化)でデータを保持することも可能だが、暗号化される前と復号化された後の時点、つまり人間が読むことができるタイミングが脆弱になる。こうしたデータは、実空間を流れる時間のように一方向ではなく、タイムスタンプは押されていても、その並び順は、一義的ではなく、操作可能だ。ネットで検索してソートする場合の並び換えのように、古い順、新しい順、カテゴリー順などなどプログラムに応じて表示を変更できるだけでなく、こうした並び順をアルゴリズムによってプラットーマー側が自己の利益に即して操作できる。

こうしたソートによる時間の柔軟な組み換えは、アナログのデータに対しても可能だが、その場合には膨大なカードを作成して、それを、組み換えるための面倒な作業が必要になる。検索エンジンを用いて膨大なデータのなかからキーワードによって抽出されたものを読む行為を通じて、時間は変容する。この変容は自律しているのではなく、実空間にいるわたしと接続することで初めて「意味」を生成することになる。だが、曲者は、こうして形成された「意味」は、誰が生み出したものなのかというところにある。人間が作成した分類カードとは違い、ここには分類の技法をめぐるブラックボックスが存在する。つまり一定の方法でコンピューター・アルゴリズムを介して収集されたデータセットや、このデータセットを処理するアルゴリズムに「意味」が依存するということだ。そしてこの「意味」によって私の理解、あるいは世界についての「意味」そのものが変容してしまう。物語はこの変容の産物になる。こうした意味での物語のなかで、私の思考や判断は、誰か他の人間とのコミュニケーションによって生成されたのだといえるのだろうか。先に「お腹が空いたね。ハンバーガーでも食べようか」「そうだね。マックにしようか」という会話が友人との間なのか、それともマクドナルドのコマーシャルの一シーンでの出来事なのかでは、全くこの言語が果すことが期待されている効果が異なると書いた。しかし、会話の相手がAIのロボットだったとすると、どうだろうか。この場合、私は操作的な言語の罠を自覚的に認識できなくなる可能性が高くなる。 つまり、AIロボットを人間とみなして会話することに躊躇しなくなり、これもまた物語を構成することになる。

8.2. 空間の配置とパラマーケット

資本主義に限らず、社会の支配が究極において実現しなければならないのは、その構成員を社会の既存の秩序を前提とした上で、その言動を制御することだ。この権力の目的はたぶん、どのような社会にも共通する目的である。権力が歴史的に異なる構成をもつのは、この目的を実現するためにとりうる選択肢が一つではないということの現れだが、近代社会としての資本主義は、この目的を市場経済と国民国家というマクロな制度と、家族制度というミクロな制度によって構成しようとしてきた。これが人類史においてベストな解決法でもなければ、これで人類の歴史の終着点に辿りついたわけでもない。家族、市民社会、国家というヘーゲルの見立てとこれを批判的に継承したマルクスの枠組を私はその限りで受け継いではいるが、その意味内容は同じではない。とくに、本書の観点との関連でいえば、こうした制度が空間的なカテゴリーでもあることに注目したい。ここに個人の自由と平等といった理念を実現するためには、空間的な前提が必要だということが含意されている。近代の都市が市場経済と結合して形成されてきた自由や、民主主義を成り立たせる空間へのアクセスの平等(都市への権利)は、空間概念の重要性を示している。

空間の配置は、いわゆるサイバースペースの形成によって、完全に別物になった。通信は、「交通Verker、traffic」概念に含まれうるとしても、空間との関係でいうと、電気通信が支配的になって以降、空間の特性としての時間の条件が「リアルタイム」を基準に据えて、そこからの遅れが「遅延」とみなされるように、時間に規定されない空間が理想のモデルとなるという奇妙な空間がサイバースペースの特徴となった。19同時に、テレワークやオンライン授業のように、あるいは、各自が所有するスマートフォンのようなプライベートなデバイスが、プライベートな空間を変容させた。プライベートな空間が自分には管理権のない職場や学校のような場所にリアルタイムに繋げられると同時に、家族制度が担ってきた擬制のプライバシー空間―個人のプライバシーとは決して同義にならないにもかかわらず―もまた外部からの干渉を遮断するとともに家族相互の監視の制度としての機能を弱体化させ、プライベートな空間が職場や学校、あるいはパラマーケットも含めた市場の管理空間に統合され、その結果として、プライバシーの権利そのものが成立しにくくなると同時に、相互監視が大幅に資本のサービスに移譲されるようになる。従来の家族主義的なプライバシーの権利を保障していた空間的な距離と、それに伴う時間という壁が解体し、結果として個人のプライバシーもまた解体した。

このプライバシーの解体は以下のように説明することもできる。パラマーケットは商品売買そのものではないにもかかわらず、商品売買と有機的に結合して資本の生産過程と不可分一体化して、資本が明示的に構築する商品の意味の流通回路として、商品の意味使用価値を担う。コンピューター・コミュニケーションもまた市場の商品売買過程と不可分かつ不可欠でありながら、むしろ機械相互のコミュニケーションによって形成されるデータの集合からなる非知覚過程を構成する。パラマーケットと非知覚過程、そしてこれらを通じて再帰的にかつ常に消費過程そのものに密着しながら消費の意味を変容させようとして資本の監視下に置き続けられる商品の意味使用価値が消費者の生活そのものと区別をつけることが難しいものとなる。こうした生活世界の資本による実質的な包摂の構造が組み上がり、人間の意識をとり囲む内堀が埋められることになる。プライバシーの空間的防御はもはや意味をなさない。

市場で商品が消費者とアクセスするとき、使用価値の意味構造は、直接的使用価値と意味使用価値、そして非知覚過程の機械的なフィードバックから構成される。だかからといって、使用価値の意味構造は、社会構造のなかに局所的に存在して実証可能だというわけではない。使用価値は、非知覚過程を含めて全体として機能するからだ。広告などの市場のコミュニケーションは、それなしにでも商品の直接的使用価値の「モノ」それ自体は成り立つが、コンピューター・プログラムが商品の直接的使用価値の一部を構成するようになった商品(消費者向けでいえば、パソコン、スマートフォンなどからAIロボットやスマートメータなどのIoTやオンライン機能をもつゲーム機など)は、プログラムや通信機能なしには機能しない。しかし、このプログラムや通信機能そのものは、広告イメージによって消費者の欲望を喚起することはあっても、そのどこまでが直接的使用価値を正確に反映しているのかはもはや明確ではない。たとえばスマートフォンのGPS機能は、今いる場所を知りたいときに教えてくれる機能としてユーザーのニーズに対応する機能かもしれないが、この位置データがGoogleのビッグデータの一部となってAIによる解析の資源となることは、消費者のニーズとは対応しないだろう。GPSはスマホの使用者の意図(消費者としての自覚的な消費行動)とは相対的に無関係に機能することができる。あるいは、OSを提供する企業(マイクロソフトやアップルなど)は、OSのセキュリティ・アップデートなどの自動更新を実施することができるように、ユーザーのデバイスにアクセス可能な仕組みをもっている。これは購入した自動車の車検の仕組みと似ているが、決定的な違いは、車検が市場でのサービスとして商品化されているのに対して、ソフトウェアのアップデートは通常支払いは発生せず、市場の外部でパラマーケットを通じて機能する。つまり、直感的には「タダ」で行なわれているようにみなされるということだ。コンピューターを内蔵したデバイスの場合、消費者が何を「消費」しているのかが直感的に把握できない領域が拡大している。そして、消費者の立場で判断する場合と、何らかの方法で製品の行動を追跡したりする機能を組み込んだりする商品のメーカーや売り手の立場で判断する場合とでは、「消費」の意味は全く異なる。消費過程は、資本から独立した広い意味でのプライベートな行為ではもはやなく、むしろ資本による生産過程の延長になっている。

消費過程とは<労働力>の再生産過程のことだから、資本はようやく<労働力>再生産過程を包摂するための技術的な道筋をつけはじめたともいえる。この点で、コンピューター・コミュニケーションが生活過程で関与する主体が資本なのか、政府なのか、それとも私たちなのかで、生活過程そのものに本質的な違いが生まれる。この場合でも、消費者/ユーザーが自らの行動を総体として知覚―意識の層で把握できないなかで意味の構築が行なわれる。貨幣が介在しない領域が非知覚過程とパラマーケットを介して支配的構造に私達の私生活を直接・間接に組み込むことになるが、しかし、他方で、私たちがある種の主体として、この生活過程が支配構造との間に構築してきた回路を遮断してオルタナティブな回路を構築することは、マスメディアによる大量散布に時代に比べると、その可能性はむしろ拡がっており、いくつもの選択肢が可能な段階にある。この楽観論をとりあえず慎重に維持することだ。

Footnotes:

1

個人データは公的制度では、戸籍制度として集約され、住民データの多くも事実上世帯単位で管理されるという制度的な枠組みは、この問題と無関係ではないだろう。

2

Shoshana Zubof, The Age of Surveillance Capitalism, Orinceton Unbiversity Press, p. (『監視資本主義』 ★)

3

Zubof、p.

4

フロラ・トリスタン『ロンドン散策』、小杉隆芳、浜元正文訳、法政大学出版局、第七章「工場労働者」参照。1840年の出版でエンゲルスの著書より数年早い。エンゲルスはトリスタンの著書に冷やかだが、トリスタンは、「監獄」「売春婦」などエンゲルスの著書にはない関心をもっている。

5

人間は、モノを自己と同類の人間になぞらえる特異な対象理解を構築する能力をもっている。モノにそれ固有の客観的な機能や性格とは関わりのないある種の性格を読み込むことによって、そのモノに特異な意味づけを与えることができる。マルクスは金が貨幣の機能を担う市場経済の仕組みについて、金という物質のどこにも貨幣の本質をなす一般的等価物という性格は見出せないこと、この性格は市場経済によって、社会の構成員のある種の「共同作業」によって付与される社会的な性格なのであるが、このようには理解されず、あたかも金そのものに、一般的等価性が内在しているかのような錯覚を人々が抱くという転倒した現象が生じることを指摘した。これを物神崇拝、フェティシズムと呼んだ。

6

たとえば、以下を参照。アンドレ・ゴルツ『エコロジー共働体への道 労働と失業の社会を超えて』、辻由美訳、技術と人間。

7

この概念はハーバーマスからの借用である。『コミュニケイション的行為の理論』河上倫逸他訳、未来社参照。

8

たとえば以下を参照。E.ホブズボウム他編『創られた伝統』、前川啓治 他訳、紀伊国屋書店。

9

ここでいう<労働力>の使用価値は、マルクスの定義とは異なる。マルクスは価値形成性をその使用価値としたが、ここでは商品の使用価値を形成する能力を<労働力>の使用価値として定義する。この定義は宇野弘蔵の定義を踏まえている。

10

わたしはこの問題を、ロラン・バルトの記号論を参照しながらアプローチしたことがある。この挑戦は必ずしも成功したとは言い難いが、意味使用価値の問題に取り組む上で重要な示唆を与えてくれる機会となった。拙稿「商品―自明性の罠」、拙著『絶望のユートピア』所収、桂書房 参照。

11

商品の直接使用価値を売り手が「ことば」で正確に表現し、この「ことば」を買い手が売り手の意図通りに解釈して「わかりました」と発語した場合、たぶん、両者の「ことば」上の誤解は最小化されるだろうが、それが商品の直接的な使用価値それ自体の正確な理解の共有であるかどうかはわからない。社会の経済は、このモノの使用経験の世界と「ことば」の世界の構造的な齟齬の世界でもある。なお、「ことば」に括弧を付しているのは、この「ことば」には価格のような特殊な数値表現が含まれ、これは通常の意味での言葉の世界だけでは理解しえないが、同時に言葉を媒介としたコミュニケーションに帰属するものでもあるので、括弧を付した。

12

たとえば、商品の価格が「高い」とか「安い」という判断は、広告やパッケージがあえて高価であることや激安を印象づけることを意味使用価値に担わせることがあるように、価格の表示もまた意味を生成する。

13

ここで論じたことは国家の「意味」生成にもあてはまる。国家の統治機構の直接的な意味は、法治国家であれば、憲法を頂点とした法によって規定されるが、国家の実際の行為は、法の条文に還元できないイデオロギー効果を伴う。政府の行為の妥当性を私たちは法律の条文を参照しながら評価しようとする。しかし、こうした評価方法の決定的な限界は、法という書かれたテキストによって現実の政府の執行権力を抑制するには、私たちの側もまた、現実的な力を持たねばならず、このことは書かれたテキストの力を越えることでもある、という点だ。この問題は、政府がCTCを駆使することによって、ますます鮮明になってきた。法はプログラムという現実にCTCを実行しうるテキストによって、事実上その効力が削がれてきており、法の支配は終焉を迎えつつあるように思う。

14

ブランド商品を欲しがる感情は、この意味の世界が転倒した典型例だ。直接的使用価値を意味使用価値が呑み込んでしまう。エルメスとかグッチが直接的使用価値であって、物それ自体の有用性は名目的なものになる。これが資本主義的商品が望む理想形なのだが、これは交換価値(価値)の世界だけを眺めていても見出せない。

15

たとえば、以下を参照。小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社。

16

とはいえ仮想の空間はCTCの特徴ではない。人類の歴史を通じて、人間は、視覚によっては把握できない「空間」を脳の作用として自律的に生み出してきた。発話は単なる音声記号ではなく知覚作用をもつし、小説を読むことや、特徴的な匂いは視覚に作用するし、絵画は視覚に還元できない想像効果をもつ。 )15 たとえば以下を参照。小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社。

17

令状主義では、場所と被疑者を特定することが公権力の行使(家宅捜索などの強制捜査)の要件とされる。

18

たとえば、ジオフェンス令状やキーワード令状がこれに該当する。ジオフェンス令状は、地図上でエリアを限定する仮想的な壁(ジオフェンス)で囲まれた地域にあるすべてのデバイスの開示を強制するもの。キーワード令状は、特定のキーワード、フレーズ、または住所を検索したすべてのユーザーを特定するもの。こうした包括的な令状は、警察の監視に対する憲法上のチェックを回避し、私たちの宗教的実践、政治的所属、性的指向などに関する事実上の捜査網を構築するものだとして批判されている。以下を参照。「Re: 「ジオフェンス」と「キーワードワラント」の透明性向上の必要性。」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/geofence-letter/

19

サイバースペースの時間の概念は、私たちの日常的な身体感覚でいえば、誤差の範囲とみなしていいような「秒」単位の時間を中心にしている。通信におけるデータの伝送単位bpsは、1秒間に1ビットの伝送を1bpsとする単位で、伝送の速さの単位とはいえない。伝送の速さはlatencyつまり「待ち時間」と呼ばれ、日本語では「遅延」とも言うように、たとえ数秒であっても伝送に時間がかかること自体が「待たされる」「遅い」という認識になる。伝送の速さは、伝送の遅さという認識で数値化される。英語ではコンピューターで時間を扱うときの最小単位ミリ秒は1秒の1000分の一。遅延は、回線やサーバーの処理能力などに依存するが、それだけでなく、政府が望まないサイトへのアクセスを妨害するときにも人為的に遅延を発生させたりする政治的な技術に関連することがある。この問題は、インターネットの中立性問題としてコミュニーションの平等を議論するときに無視できない重要な問題である。サイバースペースの時間はそれ自体がコミュニケーションのガバナンスに関わる場合がある。

Author: toshi

Created: 2026-06-15 月 11:48

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暴力をめぐる「生のあやうさ」と「葛藤」――ジュディス・バトラーの非暴力論

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1. はじめに

多くの人々が非暴力を口にしながらも、現実には暴力という手段によって目的を達成しようとする事例は事欠かず、個人レベルでも集団でも民主主義を標榜する法の支配に従属する国家に至るまで、ごくあたりまえに見い出される。この厄介な現実に対峙するためのひとつの切り口として、ここではジュディス・バトラーの非暴力論について考えてみることにする。1

バトラーは、911「同時多発テロ」や対テロ戦争、Black Lives Matter、中絶をめぐる論争や性暴力、そしてイスラエルの建国以来繰り返されるパレスチナへの戦争まで、状況に敏感に呼応して暴力と非暴力の問題に繰り返し言及してきた。彼女の基本的なスタンスは明確で、暴力という手段を否定し非暴力を選択するという立場だ。しかし、その主張はやや難解だ。議論の前提になっている精神分析(フロイトだけでなくとりわけメラニー・クライン)やエマニュアル・レヴィナスの哲学などは、活動家の間の共通理解にはなっていないだろう。非暴力抵抗運動の活動家がジーン・シャープの本を読んだりするような手軽さはないかもしれない。そもそも彼女の議論のスタイルは、運動のマニュアルにも綱領にもなりえるものではない。しかし、彼女の問題意識は、特に暴力(武力)を解放の手段としては選択しない様々な非暴力抵抗運動としての反戦平和運動のなかで議論されるべき重要な問題提起を含んでいると私は考えている。以下の私の議論も、こうした観点に引き寄せて論じている。

バトラーの議論の前提にあるのは、私たちの生存は権利としても現実のあり様としても、十分に保障されてはおらず、むしろ常に生を奪う暴力の危険をかいくぐるようにして生きている、という生存についての認識がある。これを「生のあやうさ」と呼んでいるのだが、このあやうさは人皆平等にそのリクスを負っているのではなく、極めて大きな不平等が存在している。生をあやういものにする暴力と不平等が現実の社会を構成しているなかで、非暴力を論じるのがバトラーの問題の枠組になる。バトラーの論は、暴力にまみれた世界のなかにあって、暴力の被害の当事者が自衛のために暴力を正当な選択とみなすことによって、ときには加害と被害がその立場が逆転されたり暴力の連鎖が再生産される事態を理解する上でも、また、ここから抜け出すために主体が抱え込まざるをえない暴力との危うい関係を直視する上でも、示唆的である。他方で、バトラーの議論では、具体的な事例に即した議論を敢えて避けて抽象度の高い議論を展開するために、彼女が想定している状況がDVのような親密な人間関係のなかでの暴力なのか、それともテロリズムなのか、あるいは国家間の戦争なのか、容易には判断しがたい場合があり、また、論じられている暴力が加害者の側からなのか被害者の側からなのかについても、明示的ではない場合がある。読む側が、どのような状況を念頭に置いて彼女の議論を解釈するのかで、その解釈にはかなりの違いが生まれるようにも思う。とはいえ、バトラーにとっての暴力には、ジェンダーの領域に関わる暴力、米国社会が内包している暴力とともに、彼女の出自でもあるユダヤ系知識人としてイスラエルがパレスチナに対して建国以来一貫して行使してきた暴力の問題が常に背景としてあることを念頭に置くことが必要だと思う。

2. 規範としての暴力

バトラー自身は非暴力の確信的な主張者だが、非暴力は容易な選択肢ではないこと、むしろ困難な選択であり、これをあえて選択するための思想的な根拠を明確にしようという問題意識がある。というのも現在の社会において非暴力は、規範を時には装いはするものの、国家の本質=統治の根源になりえていないからだ。家父長制的な親密空間から警察、軍隊に至るまで、暴力こそが規範になっているのが現在の社会のありかたであり、法は暴力を正当な行為として承認する枠組であり、この意味では法は暴力を規範とするとみていい。規範であるということは、その暴力は法的に承認されているか、あるいは道徳的に正当化されている、ということを意味している。このような暴力をめぐる規範の枠組を与件として、この規範に抵触しない範囲で非暴力を主張することは、暴力を規範として再生産する枠組そのものを暗黙のうちに肯定することになる。したがって、非暴力とは、暴力の規範を解体することを指向することでなければならないのだが、その道筋は以下で述べるように容易ではない。しかし、容易ではないからこそ、この規範として承認された暴力に屈することなく非暴力を指向するこを断念すべきではない、ということにもなる。

本稿では主にバトラーの「非暴力の要求」とい文章(『戦争の枠組』清水晶子訳、筑摩書房、第5章、以下引用のページは訳書による)を中心に考えてみたい。誰もが暴力の被害者にも加害者にもなりうると同時に、暴力という手段を選択しない立場をとる主体にもなりうる。いずれの場合にも、それなりの言い分がある。事柄は具体的な状況の文脈のなかでしか判断できないかもしれない。しかし、バトラーはより抽象度の高いところで議論を組み立てる。大前提として彼女は、非暴力とは原則的な立場ではない、ことを強調する。今現在、私たちが直面しているのは、非暴力が原則にはなりえず、暴力があらゆる局面で露出するような社会を前提として、なおかつ、その中で原則にはなりえない非暴力を選択する、という極めて困難な選択に挑む、という課題だ。2

バトラーは暴力が振われる状況において、この暴力に応答する主体もまた暴力を用いるであろうということ、この暴力の応酬もまたひとつの「規範」のなせるわざであると述べる。現代の社会においては、こうした暴力に対して対抗手段として暴力を選択することは、報復のレベルが当初の暴力的な加害との間でバランスがとれてさえいれば、あるいは自己の主権を防衛する正当な応答であると第三者が判断できるだけの客観的な根拠があることが示せさえすれば、こうした暴力は肯定され、非暴力の出る幕はない、ということになる。これが現実主義的な国際関係における暴力をめぐる規範の枠組だ。この枠組が規範になっている現在、人々は、こうした暴力を否定するのではなく、こうした規範に沿った行為である限りにおいて、暴力を積極的に肯定さえしていることになる。非暴力を論じる場合の出発点は、こうした規範化された暴力を批判することにある。

だから、非暴力を主張するということは、こうした暴力の規範によって正当化された暴力を否定するのでなければその意味をなさない。とりわけ国家が行使する暴力が、法の適正な手続きを経ており、かつ、主権者たちがその行使を支持している客観的な状況が存在するばあい、社会の多数は、こうした国家の暴力を肯定する。民主主義国家であれば、主権者としての「国民」の多数がこうした国家の暴力の正当性の根拠をなす。そのなかで、非暴力を主張するということは、この暴力を正当化する規範から逸脱する非暴力を主張するということだから、非暴力を主張する者たちは、規範化された暴力とこれを否定する非暴力との関係そのものを生きることを意味する。しかし、非暴力を主張する「わたし」もまた社会の一員であって、この暴力を正当化する規範を構成する枠組の部外者なわけではない。ある意味では、非暴力を主張する「わたし」にとっても、暴力の規範について、社会の多数がこの規範を承認する理由や感情を一面では理解しているはずなのだ。その上で、「わたし」は多数者が承認する暴力の規範をあえて否定する立場をとることになる。このような立場の選択は、容易には理解されないはずのものだ。非暴力は、国際関係が緊張状態を増し、国内の治安が悪化すればするほど、空論とみなされ、その評価が落ちる。しかし、こうした事態であるからこそ、容易ではない非暴力の主張に固執することに意味があると思う。

3. 暴力でかたちづくられる「わたし」

バトラーは「非暴力は単一の主体にとっての葛藤だ」と述べている。「主体に働きかける規範は社会的な性格を持つと言うことでもある。非暴力の実践に賭けられているのは社会的な絆なのだ」(p.200)というのだ。バトラーは、個人主義的な人間観を斥け個人を社会関係のなかで捉え、非暴力の実践は暴力の網の目のなかに組み込まれている私たちを結びつけている関係それ自体を組み換えることだという。だから社会が暴力の規範を承認するなかで、「わたし」が非暴力を主張するということは、必然的に「わたし」を構成している社会関係=絆もまた、暴力の規範と、これを否定する非暴力の主張という相反するベクトルのなかに投げ込まれざるをえないことになる。「わたし」は、「わたし」よりもその存在において圧倒的に巨大な社会の規範に対峙し、立ち向かうという困難な立場をあえてとること、そのような否定的な絆として社会と関係する、ということになる。

社会が規範化された暴力を承認し、そのなかで生きている「わたし」――この「わたし」は非暴力を主張するのだが――は、一面では、この暴力にまみれた社会的な存在のなかの「わたし」という観点からすれば、「わたし」のなかには不可避的に規範的な暴力を内面化する契機がある、ということになる。これはキャサリン・ミルズがバトラーへの批判として提起した観点だとバトラーが紹介している。これに対してバトラーは「わたしたちは少くとも部分的には暴力を通じてかたちづくられる」ことを認めるが、そうだとしても次のように主張することは可能なはずだ、と反論する。

わたしたちをかたちづくる暴力と、いったんかたちづくられた後のわたしたちがみずからふるう暴力との間に、何らかの決定的な破損が生じることはありうる、と。それどころか、人が暴力を通じてかたちづくられるというまさしくそれ故に、自らをかたちづくる暴力をくりかえさない責任が、それだけいっそう差し迫った重要性を持つのかもしれない。p.202

私も同様の観点を主張してきたので、この観点にほぼ同意する。暴力を宿命としてきた社会や個人の歴史から、この先の社会と個人の未来もまた暴力を宿命とすると予測する、こうした手法をバトラーは否定し、むしろ暴力を通じてかたちづくられた「わたし」の責任は、この暴力を繰り返さないことにあると断言する。暴力によってかたちづくられる「わたし」といっても、家父長制のなかで女性としての「わたし」と男性としての「わたし」とでは、全く正反対のかたちづくられ方となるだろう。その上で、これはひとりひとりの人間の私的な生育歴の場合であれ、社会が形成されてきた歴史的な経緯――建国の神話あるいは史実――であれ、これらをたしかに形成してきたにちがいない暴力を、歴史的事実としては否定することはできない。しかも厄介なことに、この社会の多くの人々が、こうした暴力には肯定されるべき側面があるとすら評価しているために、暴力は容易に再生産されてしまう。躾としての「愛の鞭」であれ、あの戦い(暴力)があったからこそ今のこの社会(国家)が生まれたのだ、という暴力への賞賛であれ、こうした言説を支える実感に対して、非暴力という主張が実感のレベルで納得を得られるのは容易なことではない。この困難を承知のうえでバトラーは、上に引用したように「自らをかたちづくる暴力をくりかえさない責任」を自らに課す。

ここでバトラーが念頭に置いている暴力をめぐる規範なるものは、法などで制度化された軍や警察による合法的な暴力装置に関するルールといった実定法的なものというよりも、むしろ、各個人が内面化している暴力についての閾値――正当なものとして容認しうる暴力とそうではない暴力を分かつ境界――についての慣習的な直感とでもいうべきものが関心の中心にあるように思う。バトラーが法や制度とは言わずに、より曖昧な「規範」という言葉で問題を提起するのは、暴力という行為の是認を人々の内面的な価値判断として問題にしたいからだろう。一世代前であれば、許容され肯定されていたかもしれない家庭内の大人による子どもに対する躾のための体罰――学校の教師の体罰でも同様だが――は、暴力をめぐる規範としては容認しうるものとみなされたが、現在では、容認しえない暴力として分類される。日本では戦後直後には、自衛力も含めて武力を保持することは国家の暴力規範としては是認できないが、米軍の駐留とその暴力の存在を是認しうるという暴力規範の閾値が支配的だった、ともいえる。その後この規範もまた変容して多くの人々が――「平和憲法」を擁護して改憲に反対する無視できない数の人々ですら――自衛のための戦力の保持を容認するようになる。暴力をめぐる規範は変容するが、いずれも暴力は一定の規範に沿う形で調整されて法(あるいは法解釈)として正当化される。だからこそ、既存の規範において容認される暴力を否定することが非暴力にとっての重要な立場となる。このことを踏まえた上で、暴力のなかで自己を形成してきた「わたし」が、自らをかたちづくる暴力を将来においていかにして繰り返さないという行為が、集団性を獲得することを通じて、この暴力規範の閾値をゆさぶる可能性があることにもなる。そして更に、そもそもの暴力それ自体を無化する方向へと社会を変える可能性もこうした責任を自覚した行為のなかから生み出されるだろう、ということでもある。

4. 暴力の背景

バトラーは暴力においてかたちづくられる「人」のなかには「国家的な敵意の構造を通してかたちづくられている」場合があり「敵意の構造は、市民的、そして私的な生活においてさまざまなかたちの支流をなしている」とも言う。その上で、次のように問う。

その形成の作用が人の生涯を通じて続くとき、形成史における暴力をどう生きるのか、暴力を反復するなかでいかにずらしや反転をひきおこすのか、についての倫理的な難局が生まれる。p.205

「倫理的」という意味は、道徳のような外部からの要求ではなく、自己自身の内面からの判断として非暴力という判断を選択することだ。自分自身が暴力の直接の加害あるいは被害の当事者ではないにしても、暴力を経験としてもちながら育ち、今現在の生活もあるということは、誰にでもありうる環境でもある。この現実から将来においても暴力を規範として繰り返されることを宿命とか必然とはみなすような決定論が生み出されるのだが、これをどのようにしたら回避できるのか。当事者でなくても「いかにずらしや反転をひきおこすのか」という極めて実践的な問いに直面せざるをえないことになる。暴力の現実があるなかで非暴力を選択するとはこういうことを意味している。バトラーは畳みかけるように問う。

わたしはみずからの形成の暴力をどのように生きるのか?その暴力はわたしの中でどう生きつづけているのか?その暴力はいかにわたしを、わたしの意志にかかわらず、前進させる(carry)のだろう、わたしがその暴力を保持している(carry)まさにその時にさえ?そして、どのような新しい価値の名において、わたしはその暴力を反転させそれに反対できるのだろう?そういう暴力の向きを変えることが可能だとして、それはどのような意味においてなのか?p.205

このような問いが投げかけられる背景は様々想定できる。バトラーは米国で、とくに、2001年9月11日のいわゆる「同時多発テロ」事件を経験しており、本書は2009年に書かれていて、『生のあやうさ』(2003年)の続編ともいえる位置にあるが、他方で、ジェンダーと暴力の問題に日常的に直面してきた経験もまた彼女の問題意識の背景にある。常に世界のどこかで戦争をし、国内では銃の所持が合法化されている米国は、国家レベルでも私生活のレベルでも暴力という経験のなかでしか人は成長できず、物事を考えることができない社会であり、社会とはそういうものなのだと誰もが自覚せざるをえない環境にある。だから暴力のなかでどのように生きるのか、同時に暴力は「わたし」のなかでどのように肯定され維持されてしまうのか、といった一連の問いが切実なものになる。

他方で日本の場合は、むしろ、暴力は可能な限り隠蔽される。あたかも国家権力は暴力を最小化した存在であるかのように自らを演出し、強制であっても自発的な同意であるかの装いをとろうとする。明確な武力行使の組織である自衛隊を軍隊とは理解せず、憲法上の戦争放棄の規定と矛盾しないとみなすレトリックを多くの人々が受け入れる。日本の米軍基地がアジアの戦争に加担しても、冷戦期の戦後復興がアジアを市場とする経済帝国主義であっても、国境を閉じて移民や難民を門前払いしても、これらの仕組みがおしなべて、他者に対する暴力であるという認識は共有されてこなかった。憲法が残虐な刑罰を禁じているにもかかわらず死刑制度を当然の刑罰とするが、その執行は極力目立たないように演出される。死刑廃止を支持する世論が少数派であることは、刑罰を見せしめや復讐とみなす価値観が根付いていることを示している。学校の体罰も家庭の親の暴力も教育や躾としてその行為に倫理的道徳的な価値すら認める価値観が長年肯定され、人権という観点はどこか「外来」の価値観でしかないような位置に置かれ続けてきた。自らのなかにある暴力を肯定する価値観に気づかない。だからこそ、そこに暴力が伏在しているということを認識しようという努力は払われなかったのではないか。

日本では、暴力の存在は隠蔽され、巧妙にその行為の意味を転換させられ、暴力のなかを生きてきたという「生のあやうさ」の現実が容易に消し去られてしてしまう。だから、なによりも私たちは、上のバトラーの問いに向き合う前に暴力に気づくことから始めなければならない。隠された暴力あるいは潜勢力にとどまる暴力に気づき、その上で暴力は宿命でもなければこれを将来にわたって自分の内面に抱えこむべき理由のないことを確認する方向へと向う必要がある。日本のばあい、こうした過程なしには内面化されて暴力とは気づかれないかたちで国家が行使する暴力が見逃されやすくなり、こうした隠された暴力を厳しく否定する立場そのものが成り立ちがたくなる。

5. 葛藤

暴力のなかで生きざるをえない「わたし」が非暴力を主張するということは、葛藤を抱えこむ覚悟をもつことでもあるとバトラーは述べている。

主体をつくり維持することにともなう暴力なくしては、倫理的な「要請」としての非暴力を理解することはできないだろう。そのような暴力なくしては、葛藤も、責務も、困難もないだろう。重要なのはみずからの産出の条件を根絶することではなく、ただ、そのような産出を決定する力に異議を唱えるように生きる責任を引き受けることなのだ。p.206

逆説的だがバトラーは「人が暴力にまみれているまさにそれゆえに、葛藤が存在し、非暴力の可能性があらわれるのだ」ともいう。非暴力をめぐる葛藤への注目は、私にとっては、重要な示唆与えるものだった。私はともすると、単刀直入に「いかなる場合であれ武器はとらない」と宣言したり、暴力は問題を解決できず先送りにするだけである、といった主張を、ある種の「理屈」としてのみ述べることで十分だと見做しがちであり、スローガンによる決意表明でもなければ理屈による暴力の否定でもない暴力の問題の核心を外してきた。たとえば、「もしミサイルが飛んできたらどうするのか」とか「敵が侵略してきても抵抗しないのか」とか「親兄弟子どもたちが殺されそうになっているときに見殺しにするのか」などといった様々なありがちな「想定問答」――これらはマスメディアや政府が繰り返し煽る不安感情でもあるが――に対して、容易には非暴力という答えを選択することはできない、という実感だ。こうした実感が、国家の自衛権としての武装を容認する感情的な基盤となってきた。バトラーは暴力を選択しかねない切実な状況に真正面から向きあっている。だから、非暴力を選択するということは葛藤を伴うことであり、この葛藤を直視して、そのなかから非暴力という答えを見出すという困難な道を選択する覚悟をもつべきだと言うのだ。3バトラーは非暴力は美徳ではないし、立場でもない、とも言う。暴力の現実に直面するなかで、人は非暴力という選択をめぐる葛藤のなかでみっともなくおたおたし、時には暴力の助けを借りるという誘惑に負けることもあるだろう。しかし、これで終りなのではなく、そこから挫折を反省し自らを責め苛むなかで、再度非暴力への道筋を手放さずに追求しようという葛藤の連続でしかない。

国家規模での暴力との関係がやっかいなのは、国家の側は私との関係を法や行政の強制力や私の側が有する権利などの様々な社会関係を通じて、あらかじめ私との「関係」を構造化している点にある。そのために、ここに生じる相互依存といってもいい関係は確実に不平等である。私の主体的な選択や意思に先立って、私には選択の余地のないものとして、国家がしつらえた国籍や「国民」、ジェンダー役割、エスニシティというアイデンティティが半ば押し付けられることになる。この枠組のなかで家族関係があり、生育環境が準備される。この所与としての逃れることが困難な関係として構成される枠組のなかに暴力が内在する。バトラーはこれを「必然的で相互依存的な関係」と呼ぶ。非暴力は、ここに割って入り、暴力への抵抗を構築しなければならない。バトラーは次のように言う。

意図せざる効果のすべてが「暴力的」ではないにせよ、その中には人を傷つけるような衝撃もあって、身体に力づくで作用し、憤怒をひきおこす。これが、非暴力という動的な拘束状態、あるいは「葛藤」を構成しているのだ。(中略)人が暴力にまみれているまさにそれゆえに、葛藤が存在し、非暴力の可能性があらわれるのだ。p.206

暴力に「まみれている」という言い回しは、暴力が必然であって回避不可能だということではない、ことを意味している。だから、ここに暴力を選択(容認)するのか、それとも非暴力を選択するのか、という葛藤が生まれ、この葛藤のなかで悪戦苦闘する先に非暴力を選択する可能性も生まれる。暴力にまみれているということ自体が皮肉にも非暴力への葛藤の条件であり、しかも葛藤の結果として非暴力ではなく暴力を選択してしまうという失敗もまたしばしば生じさえする。だからこそ葛藤なのだ、とも言う。そして次のように言う。

非暴力はまさしく美徳でもなければ立場でもなく、ましてや普遍的に適用されるべき一連の原則でもない。それは、傷つき、怒りくるい、暴力的な報復にむかいやすく、にもかかわらずそのような行動をするまいと葛藤する(そしてしばしばみずからに対する憤怒をつくりだす)ような、暴力にまみれ葛藤をかかえた主体の位置を示しているのだ。暴力に反対するたたかいは、暴力が自分自身の可能性だということを受け入れる。p.207

暴力と非暴力の葛藤があるなかで、暴力は、非暴力に対してみずからの正当性を主張する。しかも攻撃を受け傷つき報復感情が最大となるような状況――911「同時多発テロ」がバトラーの念頭にあったのだろうか――のなかでは、社会の多数が暴力に承認を与えるような局面となる。こうした報復感情は「性急かつ最大限の道徳的な確信をもって報復に向けた動き」が伴う。葛藤は、暴力と非暴力の選択の間にあると述べたが、単なる暴力というよりも、暴力の行使を要請する道徳的な立場と暴力を差し控えて別の手段をとるべきとする倫理的な立場との間に生じるものだ、といった方がいい側面がある。ここでは道徳的な要請が暴力の側に加担することになるわけだが、こうした意味での道徳を暴力を内包する国家が繰り返し人々に与えたがるものになる。

6. 憎悪と破壊

バトラーは、このやっかいな葛藤の構図に対して、レヴィナスの「顔」の議論を参照しながら「殺す欲望と、殺さないという倫理的必要」の葛藤に言及したり、メラニー・クラインの「喪失をこうむった主体にはのみこみつくすような攻撃性がそなわっている」といった道徳的サディズムあるいは暴力の道徳化を参照する。とくにクラインについては数ページにわたっての言及があり、他者と自己の間の暴力をめぐる錯綜した関係が一筋縄ではいかない構図をもつことが、自殺をも視野に入れて論じられている。憎悪や破壊の対象と自己との関係は、単純な敵・味方の二分法の構図には当て嵌らない。言い換えれば、憎悪の対象とみなされる対象は決して単純な憎悪の対象ではなく、「破壊性にさらかって対象を保護しようとする試み」が内包されている。自らが破壊した対象に対して悲しみを覚えるとも言う。

この指摘は、暴力の構図を非暴力の構図へと反転させるためには、敵対する双方の関係を非敵対的な別の関係へと転換させるプロセスを必要とするが、この転換は何を契機にして可能になるのか、という問題と関わっている。憎悪の感情を収束させるためのひとつの手掛かりとしてバトラーがここで関心をもつのは、暴力としてあらわれる可能性をもつ憎悪が暴力へと駆り立てられることなく、この一見すると制御不可能にすらみえる感情を抑制するメカニズムが自己の内部にありうることに気づくことだ。

これは、いわゆる人間の暴力性をめぐる長い論争へのバトラーなりのひとつの答えではある。4ある種の学説にとっては、人間の破壊性は本能であって人間の本質でもある、ということになるが、バトラーは、こうした議論に巧みなうっちゃりをかます。たとえ破壊性が人間の本性だとしても、この破壊性の方向づけは多様であってひとつではないと指摘し、さらにここには「他者を破壊性からまもろうとする責任の、基盤となりうる」ものが含まれ、この責任は「まさしく、道徳的サディズムに対する、暴力の否認からつくりあげられた純粋さの倫理に独善的にみずからの基礎をおく暴力に対する、代案である」という。暴力は、常に自己の生を守ることだけに執着するから、他者の生を守る倫理的責任を伴わない。そうでなければ暴力は行使できないからだ。こうした暴力が人間社会にとって必然だからこそ、この暴力から守ることもまた人間にとっての責任だということになる。破壊本能を自覚するからこその責任であり、非暴力なのだとバトラーは言いたいのだと思う。このように、バトラーがここで暴力を支える道徳的サディズムに対置しているのが「責任」という観点だ。

(前略)責任は、怒りに観ちた要請に対する非暴力的解決を見つけだすという倫理的命令のみならず、攻撃性をも、「自分のものと認める」。正式な法にしたがってこれをおこなうのではなく、まさしく、みずからの潜在的な破壊性から他者を守ろうとするために、そうするのだ。人は、他者のあやうい生を保持しるという名において、愛するものたちを守るような表出様式へと、攻撃性をつくりあげる。攻撃性はこうしてその暴力的な配列に制限をくわえ、他者のあやうい生を尊重しそれを守ろうとする愛の要求に、みずからを従属させるのだ。p.213

こうした観点は敵・味方の二項対立の図式からはでてこない。そもそも「わたし」に課せられた責任とは、攻撃性に加担しかねない葛藤を抱えた私であるというところを出発点としている。相手のあやうい生を認識できるということは、相手のこのあやうい生を脅かし破壊するのではなく、逆に何とかこれを支えるために攻撃性を差し控えるための最大限の努力を傾注するというところに自らの責任を置く。この観点は、国家は好戦的で戦争の準備をしているが、私たちはそうした国家とは無縁な平和を主張する者だ、という平和主義には回収できない観点だ。むしろ平和主義者であっても、その帰属する国家の暴力に責任が伴うだけでなく、葛藤と自己の内面に潜む破壊性に無自覚な平和主義はむしろ暴力を見逃しかねない危険性すらあることを示唆している。

7. 被害者と非暴力

そしてまたバトラーは、暴力によって毀損され迫害される主体という被害者の立場から非暴力を論じることにも否定的である。この点は、特に重要な観点だと思う。

特定の主体が、みずからを定義上傷つけられ、それどころか迫害された存在だと考えるならば、そのような主体がどのような暴力行為をふるうとしても、それは「危害を加える」ものとは理解されないだろう。そのような行為をおこなった主体は、定義上、害を被ることしかできないことになっているのだから。結果として、傷つけられたという地位にもとづいて主体を産出することは、主体自身の暴力を正当化する(そして否認する)恒久的な根拠をつくりだすことになる。p.215

ここでの特定の主体をイスラエルを指すものとして読むことができる。ユダヤ系で確信的な反シオニストでもあるバトラーは、この文章を確実にイスラエルを念頭に、パレスチナに対して繰り返される暴力の歴史を踏まえて書いていることは間違いない。私にとっては、この文章は同時に、戦後日本の欺瞞的な平和主義に潜む落とし穴をも的確に指摘するものになっていると思う。戦後の平和主義の主流は、国家の戦争に対する「国民」の被害者感情に依存し、加害責任の問題を可能な限り最小化するなかで、多くの日本人が犠牲となったという観点に立って、戦争を二度と繰り返すべきではない、というところに平和の起点を置いた。日本の侵略と加害には極力言及せずに、戦争で多大な犠牲を被り――そのわかりやすい例が原爆による被害だ――、その反省の上にたって平和憲法によって戦争を放棄してきた日本、という構図は、定義上戦争において害を被ることしかできない日本が行使するかもしれない暴力なるものは、被害者としての暴力として正当化される、といった理屈に陥る危うさがある。このことを上の文章は気づかさせてくれる。

8. 他者の生との関わり

では、こうしたなかで非暴力の契機とはどのようなものになるのだろうか。

ここに非暴力が出現する機会があるとすれば、それは、あらゆる国民の損傷可能性を承認すること(それがどれほど真実であるとしても)からはじまるのではなく、自分が結びつけられている他者の生とのかかわりにおいてみずから暴力的にふるまう可能性を理解することからはじまる。この他者には、わたしが選んだこともなければ知りもしない者たち、したがって、わたしとの関係が契約の約定に先立つ者たちも、含まれている。p.215

ここで「自分が結びつけられている他者の生とのかかわりにおいてみずから暴力的にふるまう可能性を理解する」と述べていることを、身近な人間関係のなかで捉えようと国家間の軍事安全保障の緊張関係のなかで捉えようと、どちらであれ、他者とは、「わたし」が暴力を行使したいという情動にかられかねないような関係にある他者であることは間違いない。こうした他者への加害の可能性を理解するなかで非暴力の選択が可能になる。

ただし、ここでバトラーが強調するもうひとつの条件がある。それは生のあやうさをめぐる不平等な現実だ。「生きうるもの、嘆かれうるものとみなされる生とそうでない生とに格差を設ける規範」あるいは「損傷可能性を不当にそして不公平に割りあてる」枠組に批判的な介入し疑義を呈することが必須だという。

バトラーの非暴力の主張には、暴力の契機は外から来るとは限らず、暴力を構造化した社会のなかで生まれ成長してきた人間として、「わたし」の内面にある暴力の情動を孕む潜勢力を自覚することの必要性がある。しかも、暴力をある種の規範として内包する社会を生きるということは、生のあやうさを生きることであるにもかかわらず、とくに国家権力がグローバルに優位な地位を占めている国に暮す者たちにとっては、暴力による破壊や毀損は相手=他者が被るものであって、自分が被るものではないはずだ、という前提を置きながら、この相手からの暴力の報復を被るのではないかという不安に常にさいなまれることになる。しかしいずれの側にあろうとも、生のあやうさを生み出す構造からは抜け出すことはできず、そうであるが故に、あやうい生をもっぱら相手に押し付け、自らの生を確たるものにしようという不可能な願望に捉えられる。この構図には非暴力の余地はない。むしろバトラーは、この世界の仕組みが人為的に構築した敵と味方の構図を切り裂いて、生のあやうさを他者に見出し、この他者の生のあやうさの責任を自らのものとして理解することを通じて、暴力の罠を回避する回路を見出そうとしていると思う。

9. おわりに――残された問い

バトラーの議論は決してわかりやすくはないし、彼女自身のある種の躊躇や逡巡が率直に語られつつも非暴力の選択を決して断念しない、という力づよさがある。問題意識は明確だ。非暴力はいかにして憎悪や差別の感情を消滅させることになるのか、あるいは特定の対象にのみ向けられる喪や哀悼の感情を、どのようにして敵とみなされてきた他者に対しても向けうるものとして再構成することが可能なのか。つまり、暴力を規範とする現在の社会のその先に、将来における和解や肯定的な絆の構築がどのようにして見出しうるのか。暴力を構造化し規範化する背景に「生のあやうさ」というキーワードを提起したバトラーの観点は、非暴力という課題が内包している極めて複雑な感情の政治学を提起するものといえた。非暴力をめぐる葛藤のなかで悪戦苦闘することを自覚的に選択することから、暴力を廃棄する社会変革へと至る道筋を見出すことは容易ではないが不可能でもない。しかし、葛藤することこそが非暴力への道であり、暴力の前に非暴力の無力さに挫けそうになる、やはりこの際は国家の武力に委ねることもやむをえないとして妥協してしまいそうになるところで、逆にいかに踏みとどまり非暴力へと至る可能性もに賭けるのか。

「生のあやうさ」や「葛藤」といった概念の枠組は、バトラー自身が過ごしてきた苦闘の経緯そのものであり、表現の抽象度とは裏腹に、実は極めて現実的で切実な経験に裏付けられたものだと思う。とすれば、バトラーの問題提起を非暴力の実践に媒介するために何が必要になるのだろうか。日本の現実に引き寄せて考えるとき、特に最低限の自衛のための戦力保持を肯定するような平和主義という立場がますます有力になりつつあるようにみえるなかで、再度明確に断固として非暴力をつまり自衛権の放棄を選択するということを、葛藤を抱え込みながら主張するということが今切実に必要になっている、ということだ。バトラーは非暴力を原則とすることに否定的だが、むしろ私は逆に、葛藤を自覚しつつも非暴力という原則を立て、この原則の困難性としてたちはだかる現実の社会と人々の心理的感情的な不安や敵意と向き合い、とりわけ自衛権としての暴力批判を説得力をもって提起することだと思っている。

他方で、バトラーの観点からは見えてこない暴力の問題があることも指摘しておきたい。それは、とりわけ国家の暴力や集団としての暴力の場合、暴力は憎悪の感情に代表されるような情動の構造だけで説明できるのかどうか、である。暴力を組織し、敵を破壊しよとする集団的な計画性や法や統治の制度などの枠組形成は、感情の領域だけでは完結せず、説明もつかない。暴力のこの側面はバトラーの方法論ではアプローチが難しいように思う。計画的な軍事としての暴力の対象になるのは「他者」というよりもむしろ単なる標的である。そして自らの側の組織された暴力を統制し管理する仕組みのなかで人間は兵士とされて人間としての本来の存在を与えられることはない。全てが数値化されデータ化され、勝敗の結果は殺傷された数に還元される。このことを了解して暴力の主体が構築される構造が人権や民主主義の近代が生み出してきた戦争の基本的な構図だ。なぜこのようなことが可能なのかを明かにするには、バトラーとは別のアプローチが必要になると思う。このことはバトラーのアプローチが無効だということではない。ある種の物象化された暴力の組織のレイヤーとバトラーが着目した生のあやうさのレイヤーは重層的な構造として暴力を規範化している、というべきだろう。

Footnotes:

1

バトラーは多くの著作で暴力批判を取り上げてきた。そのなかで本稿で対象にしているのは『戦争の枠組』(清水晶子訳、筑摩書房)第5章「非暴力の要求」だけである。バトラーの非暴力論としては、この他に、『生のあやうさ』、括弧自分自身を説明すること』、『非暴力の力』、『権力の心的な生、主体化=服従化に関する諸理論 』、『分かれ道、ユダヤ性とシオニズム批判』などがある。

2

バトラーは非暴力について次のような問いを立てる

  • どのような条件のもとで非暴力の要求に敏感に応答するのか
  • 非暴力の要求が届いたときそれを受け止めることを可能にするのは何か
  • そもそも非暴力の要求が届くにのに必要な準備をするのは何か

本稿では、これらの問いに直接応答できていない。

3

この文脈では、暴力が国家規模の大きな権力との関係で露出する場合と、身近な人間関係のなかで生じる場合とでは、非暴力の意味が全く違ってくるように思う。しかし以下で私は、主に国家による戦争を念頭に置いている。

4

暴力や攻撃を人間の本能とみなす主張に対する批判として、A.モンターギュ『暴力の起源、人間はどこまで攻撃的か』、尾本恵一、福井伸子訳、どうぶつ社、参照。攻撃本能説としては、コンラート・ロレンツやデスモンド・モリスがよく知られている。フロイトも死の欲動を主張することで事実上攻撃性を人間の本性に位置づけるようになる。クロポトキンの『相互扶助』は、攻撃本能批判として読むことができる。

Author: toshi

Created: 2025-01-16 木 16:55

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 JCA-NETセミナー2023年5月のお知らせ

私が主宰するJCA-NETの月例セミナーがあります。初回参加に際しては申し込みが必要です。下記の案内の最後をごらんください。 

                ____________________________________

                   JCA-NETセミナー2023年5月のお知らせ

                           JCA-NET (2023/5/7)
                  ____________________________________


Table of Contents
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1. セミナー1 5月24日(水) 19時から ChatGPT:政府と企業の動向とその批判
2. セミナー2 5月27日(土) 15時から NATOのサイバー軍と日本の自衛隊
3. セミナー3 日時:5月30日(火)19時から フォローアップ
4. 参加方法



1 セミナー1 5月24日(水) 19時から ChatGPT:政府と企業の動向とその批判
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  開催方法:オンライン(申し込み方法は最後をごらんください)参加費:無料

  3月に続いてChatGPTを再度とりあげます。ChatGPTの「ブーム」といってもい
  いような加熱ぶりが続いています。行政や教育への導入や民間企業の開発など
  が野放しですすむ一方で、問題点の指摘も増えてきてはいるものの、規制の議
  論も国益や企業に思惑などが先行して私たちのコミュニケーションの権利を中
  心に据えての議論はまだ十分ではないように思います。

  また「対話型AI」とも呼ばれて、あたかのChatGPTとの対話を人間との対話に
  なぞらえて話題にすることへの疑問がほとんど見受けられません。学校現場で、
  教師が子どもたちと対話することとをCHatGPTに置き換える教育システムが安
  易に発想されているようにもみえます。また、住民の行政との交渉、消費者や
  労働組合の企業との交渉など、私たちの権利行使にとって、対立する利害当事
  者との交渉は重要な役割を果しています。こうした交渉をChatGPTに委ねたり、
  更には裁判などへの導入も海外では現実になっています。そして、これまで繰
  り返されてきた、機械化=合理化という資本主義の基本的な構造を視野に入れ
  た議論はまだまだ不十分でしょう。

  そもそも人間にとっての「対話」とはどのようなことなのか、人との対話と人
  工知能との対話を同じように扱うことはできるのか、あるいは、人と同じよう
  に扱うことが社会的に広く採用されることによって私たちの価値観や信条、感
  情などにこれまでにはみられなかった問題を引き起すリスクはないのでしょう
  か。しかも、こうした「対話」の過程が、同時に私たちのコミュニケーション
  に関するデータの収集手段になることによって、私たち一人一人の考え方や行
  動を予測するなど監視社会の手段として利用しうる危険性もありえます。

  これら諸々の問題点を、最近の議論や政府などの動向を紹介しながら参加者の
  皆さんと議論します。

  参考資料検索:ChatGPT (電子政府窓口)電子政府窓口の横断検索(Google)で
  「ChatGPT」で検索した結果
  <https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/lsearch_chatgpt-gov/>
  検索:ChatGPTに言及している政府関連サイト(DuckDuckGo検索)
  <https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/chatgpt_duckduckgo_gojp/>
  (CDT)人工知能がトップニュースを席巻している。
  <https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/cdt_spotlight_on_ai/>
  (NT) ノーム・チョムスキー ChatGPTの偽りの約束
  <https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/nt-noam-chomsky-the-false-promise-of-chatgpt/>
  AI-GPT: a game changer? by Michael Roberts(英文ですが当日までに日本語
  訳を準備します)
  <https://thenextrecession.wordpress.com/2023/04/08/ai-gpt-a-game-changer/>


2 セミナー2 5月27日(土) 15時から NATOのサイバー軍と日本の自衛隊
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  開催方法:オンライン(申し込み方法は最後をごらんください)参加費:無料

  4月に防衛省はNATOサイバー防衛協力センターへの正式参加を表明しました。
  すでに防衛省・自衛隊は同センターに職員を派遣し、2021年以降、同センター
  が主催の大規模なサイバー防衛演習「ロックド・シールズ」に正式参加し、今
  年は井野防衛副大臣まで視察参加しています。また、この演習には軍関係者だ
  けでなくNTTなどIT企業大手や警察、セキュリティ関連の政府機関など幅広い
  分野からの参加も特徴になっています。また、同センターは「タリンマニュア
  ル」と呼ばれる事実上のサイバー戦争の国際法の枠組も公表し、サイバー領域
  の戦争を主導しようとしてきました。戦争に関連する国際法秩序を軍関係の組
  織が主導することは極めて危惧すべき事態です。

  サイバー戦争はいわゆる「ハイブリッド戦争」の一環として、軍事と非軍事、
  戦時と平時にまたがり情報通信全体を戦争や国家安全保障の枠組で統制するきっ
  かけになります。しかし、前回のセミナーでも議論したように、サイバーの領
  域は日本の反戦平和運動にとっての脆弱な領域です。平和運動が弱い領域であ
  る分。逆に政府はフリーハンドで戦争への加担にのめりこんでいるように思わ
  れます。今回のセミナーでは日本の動向に焦点をあてながら、官民を巻き込む
  サイバー戦争の現状を知るとともに、サイバー戦争放棄のための反戦平和運動
  の取り組みの課題を参加者のみなさんと議論します。

  参考資料防衛省:NATOサイバー防衛協力センターの活動への正式参加につ
  いて<https://www.mod.go.jp/j/press/news/2022/11/04b.html>日経:NATOが
  東京に拠点 2024年、サイバーなど協力強化。対中ロにらむ 自衛隊の演習参
  加検討<https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR05ETO0V00C23A4000000/>
  (Twitter)井野防衛副大臣「ロックド・シールズ2023」視察
  <https://twitter.com/ModJapan_jp/status/1650807723146252288> (プレスリ
  リース)国際サイバー防衛演習「Locked Shields 2023」に NTT グループが参
  加<https://group.ntt/jp/newsrelease/2023/04/19/pdf/230419aa.pdf> NATO
  military delegation heads to Japan for staff talks
  <https://www.nato.int/cps/en/natohq/news_214295.htm?selectedLocale=en>


3 セミナー3 日時:5月30日(火)19時から フォローアップ
====================================================

  オンライン(申し込み方法は最後をごらんください)参加費:無料

  毎月最後の回は、これまでのセミナーで取り上げたテーマの積み残しや、うま
  く解決できなかった課題、あるいは皆さんが抱えている疑問や問題を出し合っ
  て解決していく回になります。とくに、Linuxを新規に使いたい、WordPressで
  のブログの作成方法などについて今年に入ってから問い合わせをいただいてい
  ますので、これらについても、このフォローアップの場で簡単な説明を行い、
  個別の対応もしたいと考えています。またEmotetの再流行の兆しもありますの
  で、マルウェア対策についての質問などもあればお寄せください。この他、気
  軽に、日頃抱えている問題などがあれば、ご発言ください。

  技術的なテーマとして、これまでセミナーで取り上げてきたものの一例。

  – Mastodonの使い方
  – パスワード管理
  – WordPressによるブログの設置
  – Jitsiを使ったオンライン会議
  – 暗号化サービスProtonやTutanotaのメールサービス
  – 機械翻訳の活用(DeepL)
  – LinuxOSの導入と活用
  – ブラウザのプライバシー、セキュリティ設定
  – Internet Archiveの使い方
  – CryptPadの使い方
  など。

  最近の社会・政治的なテーマでセミナーやメーリングリストなどで話題になっ
  た事柄の一例。
  – 安保・防衛3文書とサイバー
  – ChatGPT
  – スマートシティ
  – マイナンバーとデジタルID
  – インターネット遮断
  – 政府による暗号規制
  – ミャンマー軍事政権とネット監視
  – ジェンダーとインターネット
  など。


4 参加方法
==========

  参加費 無料(カンパ大歓迎)
  オンラインはJitsi-meetを使用します
  オンライン会議室 Jitsi-meetのマニュアル
  <https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/93>

  参加方法:JCA-NETの会員メーリングリスト、セミナーメーリングリストに登
  録されている方は、当日30分前に、メーリングリストからの会議室案内をみて
  アクセスしてください。

  JCA-NETの会員以外の方でセミナーに初めて参加される方は予約が必要です。
  おなまえ、メールアドレス、参加希望のセミナー番号(複数可)を書いて、下記
  に申し込んでください。

  jcanet-seminar@jca.apc.org

  あるいは下記の申し込みフォーム(cryptpadのサイト)から申し込むこともでき
  ます。
  <https://cryptpad.fr/form/#/2/form/view/wOn2i-IivABy0Y7+FMRiua+rzzWxIiQm44Btv2h3F+Q/>


  —–
  余裕のある方は是非カンパをお願いします。
  セミナーはJCA-NETの会員の会費で運営されています。
  郵便振替口座
  JCA-NET (シ゛ェイシーエイ-ネット )
  記号番号:00190-3-417584
  ゆうちょ銀行〇一九店 417584
  通信欄に「セミナーカンパ」とお書きください。

  問い合わせ先
  小倉利丸(JCA-NET理事)
  toshi@jca.apc.org
  070-5553-5495

意味と搾取第五章が公開されました

青弓社のウエッブで連載している「意味と搾取」第五章が公開されました。この第五章でとりあえず連載は終了の予定です。以下は、あらためてこの連載の趣旨と第五章の目次のみ紹介します。本文は下のリンクから青弓社のウエッブにアクセスしてお読みください。

この連載の問題意識は、監視社会批判ですが、この批判の中心的な課題として、諸個人の意識の有り様そのものと、権力(つまり諸個人を自らの意思の下において自由に操作しようとする政治や資本の力)の関係を再定義してみたい、というところにあります。権力が目指す個人に対する究極の制御は、個人の意思や情動を直接何の媒介もなく支配下に置くことです。これは不可能な夢になりますが、20世紀以降の資本主義は、膨大な個人のデータを収集するという手法を通じてこの夢を実現しようとしてきましたし、この悪夢をかなりの程度まで実現しうるような可能性を獲得しつつあるように見えます。

私たちの抵抗や異議申し立ての意思は、私の内面にある価値観や感情や経験など様々な要因から組み立てらている「私」が、外部とのコミュニケーションのなかで受けとるメッセージとの間で生まれるものといえます。これに対して(政治的経済的な)権力は、こうしたコミュニケーションがもたらす摩擦を回避して、外部からの介入であるにも関らず、それがそもそも自分自身の内面からのものだと誤認させるような仕組みを通じて、人々の意思や情動を支配することができれば、民主主義的な合意形成や自由の権利と抵触することなく、コミュニケーションの摩擦は回避されるか最小化できると考えてきました。資本主義のコミュニケーション技術は、こうした方向をとって「発達」してきたと私は考えています。私は、この摩擦の回避の回路を「非知覚過程」と呼んでいます。この非知覚過程は、私たちの知覚域の外部で作用したり、知覚過程にある言葉や視覚イメージに密かに組み込まれたりします。

こうした非知覚過程が、コンピュータによる膨大なデータ処理を背景としたAIの技術に依存している、ということがもうひとつの重要なテーマになります。これまで、コミュニケーションについて議論する場合の典型的なモデルは、二人の人間が言葉や身振りを通じて意思疎通しようとする場面で生じる現象の分析だったといっていいでしょう。読書をするという場合でも、書かれた文字の背後には、この文字を書いた誰かがおり、その誰かが、ある文章を書くばあいでも、その発想の背後には更に誰か他の人の影響があったりする、というように、コミュニケーションを支える知識の源泉には人間が存在するはずだと、想定されていたと思います。しかし、ChatGPTのような対話型のボットの回答をオウム返しにして、誰かと話をするとき、この発話の源を遡っても、そこには人間はいません。存在するのは膨大なデータの蓄積と、これを処理するアルゴリズムであり、これらには対話が前提とする言葉の意味にあたるものがない、のです。しかし、相手がChatlGPTをおうむ返しにして話しているのかどうかは私には判断できません。同じように、書かれた文章についても、それが人間のものかどうかは判断できないのです。こうした事態がむしろ常態になりつつあるなかで、人間の意識や心理が、こうした状況に影響を受けることは明らかでしょう。こうなると、人間の意識や情動を対人関係だけで語ることはできない、ということになります。このやっかいな問題は、私たちの世界観や価値観が人間相互のコミュニケーションによって構築される、という前提をもはや当然のことにはできなくなった、ということをも意味しています。社会を変革する実践に不可欠な人間相互のコミュニケーションの信頼性や議論を通じた合意形成といった政治過程それ自体が、この非知覚過程を通じて、大きく歪められていることを踏まえる必要があると思います。この時代にあって、私たちは、この窮屈で抑圧的な世界からの開放/解放を従来通りの戦略で乗り切れるのかどうか、こうしたことを考えるためのささやかな試論として書きました。

投稿日:

第5章 パラマーケット/非知覚過程からの解放の条件

小倉利丸

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着
第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判
第5章 パラマーケット/非知覚過程からの解放の条件

[第5章構成]
5-1 国家とパラマーケット
    ・マスメディアの時代と何が違うのか
    ・無意識の再編成としてのデジタル文化空間
    ・資本と国家の共同作業
    ・プラットフォーマーによって助長される敵対要因
    ・[補遺]市場の匿名性を市場が奪う
5-2 コミュニケーション労働と非知覚過程
    ・コミュニケーション労働の形式的包摂から実質的包摂へ
    ・コミュニケーション労働とデータ化する「私」
    ・デバイスとアプリと身体性
    ・自転車に乗るロボット
    ・非知覚の基本的な構造
    ・隠された過程と非知覚過程
5-3 資本と国家による意識の実質的包摂――資本主義のユートピア、私たちのディストピア
    ・さらにその奥にあるフロンティアとしての無意識
    ・非合理性という問いと社会の構造的一貫性

サイバー戦争放棄の観点から安保・防衛3文書の「サイバー」を批判する(3)――自由の権利を侵害する「認知領域」と「情報戦」



Table of Contents

1. 「敵」は誰なのか?――権力に抗う者を「敵」とみなす体制

国家安全保障戦略で「武力攻撃の前から偽情報の拡散等を通じた情報戦が展開される」と述べていることが意味しているのは、「偽情報」とは国家安全保障の観点からみて障害になる情報のことであって、情報の真偽が直接の課題ではない、ということだ。言い換えれば、国家安全保障の観点からみて好ましい情報が真の情報であり、逆に阻害要因となる情報が偽の情報だ、ということだ。1 しかし、戦争などの深刻な事態のなかで、このような自国に都合のよい偽の解釈が果してまかり通るものなのだろうか。新たに制定された国家安全保障戦略には、日本の国家にとって都合のよい「偽情報」の拡散の戦略が内包されている。それは偽を真と強弁して言いくるめるような稚拙な手法ではない。

「偽情報」問題は、情報の真偽全体を国家が安全保障の観点から管理、統制することなしには対処できない。これまでの国家安全保障に関わる情報の問題では、真情報であるにもかかわらず、政府にとっては隠蔽しておきたかった真実に該当する場合は、これを「偽情報」であるというキャンペーンを展開して人々に誤解を広めるという手法がみられた。あるいは、隠蔽しておきたい情報を暴露したメディアやジャーナリストを処罰することで、メディアを萎縮させ、真情報の拡散を抑制する場合もある。

情報の真偽問題は、どのような情報を公開するのか、どのように誰が国家安全保障に関わる情報を管理するのか、情報の管理・拡散を通じて人々の行動や感情、考え方にどのような影響を与えようと意図しているのか、という国家による情報全般への管理問題と不可分である。私たちは、真偽いずれの情報についても、私たちが最後の受け手であり情報の真偽を判断する主体であり、同時に、発信の主体でもある。何度も強調するが、マスメディアの時代にはない情報拡散の力を私たち一人一人が有しているのが現代のネット社会と呼ばれる時代だ。だから、私たち一人一人が国家安全保障にとっての情報統制の主要なターゲットになる。これは、自国政府と「敵国」双方が私たち一人一人をターゲットにしている、ということを意味している。

しかも、政府は、国家安全保障に経済安全保障を明確に組み込む姿勢を示したことによって、経済活動全般が、この情報統制の構造のなかに組み込まれるものになっている。現代の資本主義経済の基軸産業は情報通信関連産業であり、私たちの日常生活や思想信条など市民的な自由の権利を支える社会基盤を担う産業である。こうした産業は、戦争遂行を可能にする「国民」の意思を形成する基盤でもある。鉄や石炭・石油、兵器製造産業といった旧来型の軍需産業にはない特徴だ。

2. セキュリティ・クリアランス――身元調査が当たり前になる?

現行の秘密保護法には「適正評価制度」があり、 国家公務員、地方公務員、警察官などの行政機関の職員、特定秘密を扱う民間企業の従業員などに対して行政機関の長による身元調査が義務づけられている。国家安全保障戦略では、こうした制度が特定秘密という枠を大幅に越えて一般化される危険性がある。これがセキュリティ・クリアラアンス制度だ。

国家安全保障戦略には、たとえば次のような記述がある。

経済安全保障分野における新たなセキュリティ・クリアランス制度の創設の検討に関する議論等も踏まえつつ、情報保全のため の体制の更なる強化を図る。 また、偽情報等の拡散を含め、認知領域における情報戦への対応能 力を強化する。その観点から、外国による偽情報等に関する情報の集 約・分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化等のための 新たな体制を政府内に整備する。さらに、戦略的コミュニケーション を関係省庁の連携を図った形で積極的に実施する。 そして、地理空間情報の安全保障面での悪用を防ぐための官民の実 効的な措置の検討を速やかに行う。p.24

ここにはセキュリティ・クリアランス制度とか認知領域といった耳慣れない言葉が登場する。以下、これらを検討しながらその狙いと問題点をみてみよう。

セキュリティ・クリアランス制度は、2023年2月22日の経済安全保障推進会議資料 では次のように説明されている。

「国家における情報保全措置の一環として、①政府が保有する安全保障上重要な情報を指定することを前提に、②当該情報にアクセスする必要がある者(政府職員及び必要に応じ民間の者)に対して政府による調査を実施し、当該者の信頼性を確認した上でアクセス権を付与する制度。③特別の情報管理ルールを定め、当該情報を漏洩した場合には厳罰を科すことが通例。

私は、ここでの文言は政府内や企業による情報の活用を推進する一方で「情報保全」を理由に、私たちのような市民一般に対しては情報公開を制限することが意図されているものだと解釈する。経済安全保障という文言のなかにはこうした情報統制が組み込まれているのだ。

セキュリティ・クリアランス制度の目的は情報保全のための体制強化にある。つまり国家安全保障関連については情報公開や「知る権利」を利用して政府に対して批判的な立場から情報にアクセスしようとする者たちを排除する一方で、政府にとって必要とみとめられる情報を政府と民間双方で効果的に活用できるような人的組織の統制枠組である。特別の情報管理ルールを定めることで内部告発などへの厳罰化も明記されている。その上で当該情報にアクセスする必要がある者の身元調査の徹底が図られる。

セキュリティ・クリアランス制度はこの国家安全保障戦略ではじめて登場したわけではない。2017年5月24日、自由民主党IT戦略匿名委員会「デジタル・ニッポン2017」2 のなかですでに言及されている。ここでは、現代の国家安全保障の重要な領域が「サイバー」としての情報であることから、ターゲットは「情報」をめぐる戦略の構築を、民間と同盟国を巻き込んだ枠組として構想しようとしている。これが数年を経てほぼ国家安全保障戦略にも反映されている。「デジタル・ニッポン2017」では次のように述べられていた。

SCが無いために日本の民間企業がサイバー攻撃情報を他国と共有できず、研究開発で利用できる情報量に格差が生まれ、安全という品質でSC保有国に負けてしまう可能性が高まる。
“サイバー攻撃情報の量”を増やすには、米国やEU各国か らサイバー攻撃情報を共有してもらう必要があるが、セキュ リティクリアランス制度(SC)がなければシェアされない攻撃 情報も存在
日本にはCSが無いが、米国とEUでは民間人でもCS保有 者がおり、民間企業が政府の機密情報を製品開発に活用 することが可能
このままではSCが無いために研究開発に利用できるサイバ ー攻撃情報の量で米国とEUに大差をつけられ、安全という 品質で日本が負けてしまう可能性が高まる。

自民党提言ではサイバー攻撃情報を共有する上でSCは必須としている。また、昨年8月のNHKの報道3では、高市経済安全保障担当大臣が先端技術に関わる研究者の身元調査の厳格化を示したと報じられている。コンピュータのソフトウェア開発などから認知領域(後述)の研究など、安全保障分野の研究の裾野は人文社会科学も含む広範囲にわたる。そのほとんどが、研究者の世界への関心や問題意識と切り離して考えることはできない。高市のような発想が研究の現場に持ち込まれることになれば、国策に沿わないか批判的な研究者が研究機関や大学などで採用されることは今以上に難しくなることは容易に予想される。4

3. 認知-ナラティブ領域

冒頭に引用した国家安全保障戦略の文章では、SCにつづいて「認知領域における情報戦」という理解しづらい文言が登場する。認知領域については、国家安全保障戦略に先立って、既に昨年8月にサンケイが「宇宙、サイバー、電磁波に新たに「認知領域」を加え、これらの戦力を組み合わせた「領域横断作戦能力」の構築を目指す方針を固めた」と報じていた。

では、この認知領域とは何なのか。最近の軍事・安全保障の議論では、従来の軍事・安全保障が対象としてきた物理領域、サイバーと呼ばれる情報通信領域とともに、より人間の感情や意識など心理的な側面を独立したカテゴリーとして取り上げて認知領域と呼んで重視するようになっているということがしばしば指摘されている。5 認知領域が主要に関心をもつのは、人々の行動の背後にある感情や心理であり、これらがSNSなどを通じて共有されたり拡散されることによって国家の安全保障に重大な影響を与える、とされる。したがって、こうした人々の行動の動機を形成する感情や価値観にいかに対処するのか、といった観点が関心の中心をなす。AIなどビッグデータを駆使して人々が何を考え、どう行動するかを予測するために不可欠な人間の認知に焦点を当てる心理学的なアプローチである。

認知領域では、「敵」の偽情報によって騙される人間を、この騙しからいかにして防御するのかという問題が焦点化される。しかし、国家安全保障戦略は、この偽情報と呼ばれる事態を一般論としては否定しないのが大きな特徴だ。言い換えれば、偽情報にも情報戦では使い道がある、という観点をとる。つまり、いかにして自国の国益にかなうような偽情報を発信して「敵」を欺き、自国民の士気を高めるかに関心がある、といってもいい。

こうした観点から認知領域をみたとき、より積極的に人々の感情や価値観、世界観を構築する戦略的なアプローチが必要になる。ここで国家安全保障戦略では明示的に言及されていないが、一部の軍事安全保障の研究者の間では議論されている「ナラティブ」という概念に注目しておく必要がある。

たとえば、防衛研究所の長沼加寿巳は次のように述べている

「安全保障や防衛は、究極的に、パワーや影響力の行使を通じた国益(国民の生命・身体・財産と自国の領土・領海・領空)の保護である。この過程において、抑止や強制に代表される様々な行動を通じて、対象に具体的行動や認識を強いることによって、自国への脅威の波及を阻止する。そこで、どのような方法で対象を動かすか、また、動かされるかという基本的な作用に注意を払う必要が生まれることとなる。すなわち、他者を操作するという観点から、ナラティブ、感情や時間について、考察を加える必要がある」

そして「現在、サイバー分野の関心も高まっているものの、これはあくまで物理領域と仮想領域を意識したものであり、(中略)『ナラティブを巡る戦い』や認知領域における戦いについては、十分な関心が向けられているとは言い難い」と指摘している。そして「英国防省の統合ドクトリン最新版でも、我のナラティブが対象オーディエンスに訴えかけ、かつ対抗者のナラティブを減じるために必要なものとして、アリストテレスの『弁論術』における三要素、信頼(ethos)、感情(pathos)及び論理(logos)を取り上げている」とも指摘する。こうした観点から2021 年 1 月 6 日、米議会議事堂での暴動に注目する。つまり「暴動参加者の言動に、ナラティブ、感情のほか、ノスタルジアのような過去・現在・未来を結ぶ時間性に関する特徴が見られたことから、これらの観点に基づき、認知領域における戦い」として位置づけようというのだ。6 ここで注目すべきなのは、アリストテレスの弁論術が肯定的に参照されている点だ。アリストテレスの弁論術は、真実あるいは事実を実証するための「弁論」を擁護するものではないものとして理解されてきた。たとえば、オンライン版の世界大百科の「弁論術」の項目では「アリストテレスは、真実を探求する哲学的言論とは異なる大衆相手の実践的言論の技術の領分において、真実らしさの実効性に理論的照明をあてた」と説明されている。7 つまりここで目指されているのは大衆を相手にいかにして「真実らしさ」をもったメッセージを国家安全保障の戦略として構築するのか、なのである。

ここで繰り返し登場する「ナラティブ」について、長沼は、外務省幹部が新型コロナに関連してナラティブの概念を持ち出した議論8を参照するかたちで次のように説明している。

ナラティブは、ある事象や課題について読み手や聞き手の認識に働きかけ行動を変える力を持つとい う。また、ある目的のために、異なる価値観や利害を抱える対象の同意を求め、説得を試みるべく創作される ものである。ナラティブが主観の押し付けや情緒の垂れ流しではなく、あくまでも共通の言語空間において通 じる論理で構築されていなければ、多くの人の認識に訴え行動を変えるのは難しいと指摘する。(「安全保障や防衛におけるナラティブ」)

上にあるように、ナラティブの領域は事実だけではなく「創作」を含む領域であることが重要な意味をもっている。ナラティブはもともと人文科学の領域、とくに文学における物語の分析から派生してきた学問領域だといってよく、決して反動的あるいは右翼的な系譜をもっているものではない。しかし、これが現代の軍事安全保障で注目されているという事態そのものに、現代の「戦争」の特徴がある。日本では防衛研究所の何人かの研究者が特に関心をもっているようだが、その文献をみると行動主義的な心理学9よりも認知心理学に関心をもち、中国やイギリスの安全保障や軍の動向になかにある同様の傾向への関心がもたれていることがわかる。

4. 国策としての「物語」の構築

このナラティブという概念を情報における真偽との関係でいうと、確実に言えることは、自国の歴史認識における科学的客観的な歴史記述によって「偽」とされることがらであっても、それを「偽」ではなく、その社会の伝統や神話などのフィクションに組み込まれた「物語」として肯定し、この意味でのナラティブを防衛するための対抗的な情報の発信を戦略的に重視する観点が軸になる。近代の日本でいえば、一方に西欧近代が持ち込んだ科学の世界がありながら、他方ではとうてい客観的科学的な検証には耐えられないが「神話」としての肯定的な価値をもつものとしての記紀神話によって国家の起源を定め、天皇を現人神とする「物語」を国策として構築し、このナラティブを防衛するための言論空間への国家の統制が行なわれた。これが日本における戦争を支える認知領域とナラティブの実例だろう。冷戦期になれば、このナラティブと安全保障の関係は、大衆文化などの領域に組み込まれて不分明になる。

こうした認知-ナラティブが、サイバー領域を前提として個人の情報発信というミクロなコミュニケーションを意識的に取り込んで再構築する必要がでてきたのが、現代の戦争における認知-ナラティブの問題だといえる。10

上の引用にあるように、文字であれ映像であれ、何らかのメッセージが読み手や聞き手の認識に働きかけて行動を変える力を持つことに、国家安全保障の観点から関心が持たれていることがわかる。言い換えれば、「物語」の構築――もっと言えば現代における「神話」の構築――を通じて人々の感情や価値観に働きかけ、これを国家に収斂するような意思へと導くことができるのではないか、という関心だ。

国家安全保障戦略では認知領域には言及されていてもナラティブには言及されていない。その理由は、この概念が偽情報の肯定という一般にはなかなか受け入れがたい情報戦における(反政府的な国内の人々を含む)敵への攻撃の手段であり、同時に自国の民衆を「国民」として統合する極めて毒性の強い性格をもつからだろう。こうなると明確に憲法の自由権を侵害することになる。だが、安全保障の領域を離れて、一般論としてみても、ナラティブなき認知領域は想定することができない。人間はフィクションを真実であるかのようにして敢えて受け入れるというフェティシュな存在でもあるからだ。

だから、この認知-ナラティブが国家安全保障の領域で持ち出されたきには、これを真偽の軸による判断は脱構築され、偽のなかにも「物語」として肯定すべきものがあり、これが人々の社会集団(国家)の感情的同一化や共有されるナショナルな世界観にとって不可欠だという枠組に位置づけられてしまう。

以上のように、国家安全保障において認知領域に関心が集まるのは、SNSのような個人を主体とした発信は、政治的な力を形成する集団心理を支えるような真偽ないまぜになった「物語」を構成する基盤だからであり、物理領域としての軍事行動に影響を与えるからである。つまり、「情報戦」では、一方で反政府的な感情や「ナラティブ」を抑制しつつ、他方で政府を支える感情や「ナラテイブ」の構築を目指すことになる。

国家安全保障戦略では、上に引用したように「認知領域における情報戦」に「偽情報等の拡散」を含めている。この「戦」では、外国による偽情報等に関する情報の集約・分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化等」とともに「戦略的コミュニケーションを関係省庁の連携を図った形で積極的に実施する」という極めて曖昧な文言が追加されている。偽情報を含む認知領域を念頭に、関係省庁が連携を図ることで組み立てられる「戦略的コミュニケーション」とは、「敵」の偽情報への対抗としての日本政府による組織的な対抗的な情報発信――より率直にいえば戦略的に、ある種の「偽情報」の発信――を含意しているが、これをナラティブ=物語(神話)として構築できなければ偽情報という否定的なレッテルしか貼られないことになる。ナラティブとは新たな国家の「神話」の戦略的構築を意味している。国家安全保障がこれほどまでにイデオロギー領域に踏み込むのはめずらしい。

5. 国家安全保障による認知-ナラティブが私たちの自由権を侵害する

認知-ナラティブ領域とは私たちの内心の自由、あるいは思想信条の自由の領域に他ならないから、これが国家安全保障に包摂されるということは、私たちの市民的自由の権利と密接に関わることは言うまでもなかろう。しかし、従来のような検閲や言論弾圧はここでは権力の手法としては前面には登場しないだろう。認知領域における権力作用は、むしろ、私たちの知覚の外部――わたしはこれを非知覚過程と呼ぶ――で私たちの感情や社会を文脈化し物語として構築する内発的だと主観的には感じているに違いない領域に作用する。政府やマスメディアが報じるある種の「偽情報」を真実の情報とみなして受容されることによって構築される出来事についての物語は、当然真実による物語とは別のものになる。しかし、ここで問題の核心にあるのは真偽ではなく「物語」である。本来であれば客観的な事実についての判断を論じるべき問題に対して、真偽を超越した「物語」が挿入されることによって、真偽が棚上げにされ、真偽を問うことなく人々が集団として行動することが可能だ、というところに政府が「情報戦」の戦場を構えはじめている、ということでもある。

問題は、騙す、騙される、ということではなく、出来事への主観的な感情、ときには好き嫌いの感情の醸成をいかにして国家安全保障の戦略のなかに位置づけ、そして国家がこれを利用できるようにするか、という問題にもなる。ここでは二重の「戦線」が構築される。一方では、文字通りの「敵」に対する「情報戦」として敵の認知領域での情報拡散を攪乱したり遮断し、敵国の人々への「偽情報」の拡散を狙う。もうひとつの戦場は、国内の「敵」への対処になる。ここでは、国内の反政府運動などの情報発信を「偽情報」などのレッテルを貼ることによってその信用を失墜させつつ、政府の政策を支持する情報発信を、個人レベルでの発信にまで立ち入るかたちで誘導するような仕掛けを構築することになる。ここで反政府運動が発信する真実や客観的な情報を打ち消す上で、ナラティブつまり「物語」あるいは「神話」が重要な役割を担うことになる。マスメディアが唯一の情報操作の手段にはならなくなった現代では、ターゲットは一人一人の個人であり、その個人が自発的に自由に考え、判断し、行動し、醸成した感情が、結果として国家の意思を支持する方向へと促されるような内面の構築である。この内面は客観的に事実だけでは構成されていない。私たちは何らかの「物語」の世界をもっているからだ。

こうした認知-ナラティブの領域(イデオロギー領域)に関わるサイバー領域のやっかいな事態を具体例で示そう。Twitter(2020年8月6日)は、「政府の特定の公式代表、国家と連携するメディア団体、それらの団体に関連する個人がコントロールするアカウント」にラベルを追加する方針を発表した。ウクライナ戦争時のポリシーとして、Twitterは「信頼性の高い、信頼できる情報を高める 」という意向を表明し,ロシア政府系アカウントへの規制を実施し、「ツイートあたりのエンゲージメントが約25%減少した」「それらのツイートとエンゲージしたアカウント数が49%減少した 」と述べている。11他方で、米国政府から直接間接に資金援助されているなど密接な関係にあるメディアについては、「国家と連携している」メディアであっても特別な措置がとられていない。一般に、ロシア政府系メディアは偽情報を流しているとみなされているので、こうした措置への大きな批判は起きていない。

どのソーシャルメディアも投稿のルールがあり、違反したアカウントを凍結したり廃止する権限をもっている。一般に偽情報を流していたりいわゆるテロリストのアカウントへの監視は注目されるが、その多くは米国と有志連合を組んでいる諸国に敵対する国や組織に対するものが目立つ。あたかも米国側はこうした偽情報やテロリズムの加担するような行動をSNS上では行なっていないような印象をもつ。しかし、実際には、そうとはいえない。Twitterは米国の企業であり、米国の法律に縛られ、企業のナショナルアイデンティティも米国にあることは明かだろう。実際、上記のケースとは別に、Twitterが米国国防総省と協力して、国防総省の情報操作用のアカウントに便宜を図ってきたことが昨年になって明かになった。12

前にも述べたように、国家安全保障戦略における「敵」とは政府に対して異議申し立てをする私たちのことでもある、ということを指摘したが、まさに、認知-ナラティブ領域は、その典型的な「戦場」だといってもいい。

情報を最終的に受けとる主体は「私たち」、つまり国家からみた「国民」である。この「私たち」が敵の偽情報を「真」とみなす間違いを犯さないように誘導すること、自国の政府の情報を「真」とみなすような確信を内面化すること、これがハイブリッド戦の勝敗を意味する。こうしたナショナリズムへと収斂するような「国民」感情が醸成される領域が認知領域だといっていい。こうした国家の意思を支持する大衆心理が形成され、これが誰の目にも明かになることによって、いよいよ武力攻撃そのものを開始できるだけの心理的な準備が整うことになる。

Footnotes:

1

上記以外で偽情報に言及されている箇所は下記である。

国 際社会では、インド太平洋地域を中心に、歴史的なパワーバランスの変化が 生じている。また、我が国周辺では、核・ミサイル戦力を含む軍備増強が急 速に進展し、力による一方的な現状変更の圧力が高まっている。そして、領 域をめぐるグレーゾーン事態、民間の重要インフラ等への国境を越えたサイ バー攻撃、偽情報の拡散等を通じた情報戦等が恒常的に生起し、有事と平時 の境目はますます曖昧になってきている。さらに、国家安全保障の対象は、 経済、技術等、これまで非軍事的とされてきた分野にまで拡大し、軍事と非 軍事の分野の境目も曖昧になっている。p.4
経済安全保障分野における新たなセキュリティ・クリアラ ンス制度の創設の検討に関する議論等も踏まえつつ、情報保全のため の体制の更なる強化を図る。 また、偽情報等の拡散を含め、認知領域における情報戦への対応能 力を強化する。その観点から、外国による偽情報等に関する情報の集 約・分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化等のための 新たな体制を政府内に整備する。さらに、戦略的コミュニケーション を関係省庁の連携を図った形で積極的に実施する。 そして、地理空間情報の安全保障面での悪用を防ぐための官民の実 効的な措置の検討を速やかに行う。p.24

2

https://web.archive.org/web/20210321123355/https://www.hirataku.com/wp-content/uploads/2017/05/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B320171.pdf

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経済安保相 “セキュリティークリアランス制度 検証早急に”
2022年8月29日 15時33分
高市経済安全保障担当大臣は、経済安全保障の強化に向けて、先端技術の流出を防ぐため重要な情報を取り扱う研究者などの信頼性を確認する「セキュリティークリアランス」と呼ばれる制度について、具体的な制度設計に向けた検証を急ぐ考えを示しました。
「セキュリティークリアランス」は先端技術の流出を防ぐため重要な情報を取り扱う研究者などの信頼性を事前に確認する制度で、経済安全保障の強化に向け経済界などから導入を求める声が出ています。 高市経済安全保障担当大臣は29日、報道各社のインタビューの中で「今後、確実に検討しなければならない課題だと思っている。機微な情報や重要な技術に接する方々については、しっかり信頼性を確保しなければ、日本で民生技術として研究してきたものが他国の先進的な兵器に使われる可能性もある」と述べました。
また「制度をしっかりと法制上位置づけることは重要だと思っている。ただ、個人情報に対する調査を含むものになるので、まずは実際に制度の活用が必要とされる具体的な事例の把握や検証を早急に行っていきたい」として、今後の具体的な制度設計に向けた検証を急ぐ考えを示しました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220829/k10013792891000.html

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下記の文書にも言及がある。 「経済安全保障推進法の審議・今後の課題等について」内閣官房 経済安全保障法制準備室 2022年7月25日 https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/keizai_anzen_hosyohousei/r4_dai1/siryou3.pdf

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山口信治、八塚正晃、門間理良「認知領域とグレーゾーン事態の掌握を目指す中国」防衛研究所、2023。http://www.nids.mod.go.jp/publication/chinareport/pdf/china_report_JP_web_2023_A01.pdf 長沼加寿巳「認知領域における戦い:物語(ナラティブ)、感情、時間性」NIDS コメンタリー第 163 号、第 163 号 2021 年 3 月 14 日。http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary163.pdf 飯田将史「中国が目指す認知領域における戦いの姿」NIDS コメンタリー第 177 号 2021 年 6 月 29 日 http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary177.pdf 諸永 大「認知戦への対応における『歴史の教訓』研究の可能性」 http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary251.pdf 長沼加寿巳「安全保障や防衛におけるナラティブ」 NIDS コメンタリー第 155 号 http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary155.pdf

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人間が有する感情の観点からは、被害者状態、ノスタルジアや集合的ナルシシズムが、集団行動にも影 響を及ぼす。特に、国家主体、テロリストや過激主義集団が、これらをナラティブに組み込んでいる場 合には、その作用や目的について強い警戒感をもって接する必要がある。
時間性に関しては、防衛分野において、我の時間を稼ぐと同時に彼の時間を奪うこと、彼の意思決定や 情勢認識への間断ない干渉、戦略的な遅滞行動に伴い生起する時間的・空間的な「摩擦」の相手への指 向といった観点から、焦点を当てることが必要である。
将来戦においては、物理領域と仮想領域を繋ぐ、宇宙・サイバー・電磁波という分野が重視されている。 これに加えて、仮想領域と認知領域を繋ぐアプローチ、すなわち、認知領域における戦いについても、 適切な対処が不可欠である。(「認知領域における戦い:物語(ナラティブ)、感情、時間性」の要旨から引用)

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プラトンの批判を受け継ぎながら、在来の弁論術の業績を幅広く吸収してこれを技術として完成したのがアリストテレスの『弁論術』である。彼は弁論術を「それぞれの対象に関して可能な説得手段を観察する能力」と定義して、〔1〕立証、〔2〕配列、〔3〕措辞の3部門をたてる。要 (かなめ) となるのは〔1〕の立証であり、そこに(1)弁論家の性格(エートス)、(2)聴衆の感情(パトス)、(3)言論そのものの論理(ロゴス)が含まれる。(3)にはさらに、弁論術的帰納とよばれる「例」と、弁論術的推論とよばれる「エンテューメーマ」があり、蓋然 (がいぜん) 的ないし常識的命題を前提に用いる(したがって、しばしば前提部分が省略される)不完全な三段論法であるエンテューメーマがとくに最有力の立証手段として重視される。すなわちアリストテレスは、真実を探求する哲学的言論とは異なる大衆相手の実践的言論の技術の領分において、真実らしさの実効性に理論的照明をあてたのである。 [尼ヶ﨑紀久子]

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安部憲明「新型コロナ感染症と世界貿易 OECD のナラティブと当面の国際協調に関する 11 の着眼点」、フラッシュ 461、国際貿 易投資研究所、2020 年 5 月 14 日 [http://www.iti.or.jp/flash461.htm]。

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コンピュータ科学は行動主義を捨てることができない、と私は考えている。現在起きている国家安全保障の枠組は、行動主義の決定的な難点でもある人間の心理、つまり行動の前提になる動機や感情への関心の欠如を、認知心理学が補完することで、人間を機械として把えることから、機械を超越するものとしての人間をも国家の意思に従属させるためのより高度な研究へと転換してきた、ということだと思う。これは私たちにとっては更に逃げ場を奪われる深刻な事態でもある。

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これまで第四の権力とも称されてきたマスメディアが影響力を保持してきた一つの理由は、政府機関以外 では、このようなナラティブを構成する機能をほぼ独占してきたことに由来する。今日、情報通信技術が飛躍 的進展し、SNS ツールが広く情報ネットワークと個人をつなぐ結節点(ノード)や境界面(ファセット)を 構成した以上、文字通り、中間媒体物としてのメディアによるこの独占状態は、早晩、縮小を余儀なくされる だろう。長沼「「認知領域における戦い:物語(ナラティブ)、感情、時間性」http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary163.pdf

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(Intercept) Twitterが国防総省の秘密オンラインプロパガンダキャンペーンを支援していたことが判明

Author: 小倉利丸

Created: 2023-02-26 日 11:18

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戦争に反対する組織作りの緊急性

以下は、前の投稿に続き、TSSのウエッブからの呼びかけの訳。TSSは昨年10月に会議を開催したのに続いて、2月10日からフランクフルトで会議を開く。この会議に向けた呼びかけ。なお共催のドイツの団体、Interventionisische LinkeのウエッブにもILからの集会参加の呼びかけ文が掲載されている。このILの呼びかけでは次にような言及があるので紹介しておく。

「数回のトランスナショナルな会議(ポズナン、パリ、ベルリン、リュブリャナ、ストックホルム、ロンドン、トビリシ)を経て、昨年9月にブルガリアのソフィアに集った。私たちは、中東欧が安価な生産的・再生産的労働力の貯蔵庫であり、権威主義的・家父長的政治と産業再編の実験場であるだけでなく、数十年にわたる社会的再生産の危機の中心であることを認識している。東欧からは、EUの変容とそのトランスナショナルな次元をより明確に見ることができる。フランクフルトでの会議では、これらの経験を、いわゆるEUの金融センターにおける闘争と結びつけたいと考えている。私たちは、ヨーロッパ内で起こっていることに国境を越えた次元を加え、民族主義、人種差別、賃金、性差別の分断と闘う力を発展させたい。

すでに多くの闘争が始まっている。例えば、戦争反対の恒久的なアセンブリ、5月1日に始まった「反戦ストライキ」とトランスナショナルな平和政治のための動員などだ。英国での “Don’t Pay “キャンペーンは、他の国でにも波及している。生活費の高騰に対抗して組織される草の根的な取り組みがますます増えてきている。アマゾンでの賃上げを求めるストライキ、フランスでの運輸・エネルギー部門におけるストライキ、イタリアでの闘争。平和と気候正義を求めるデモ。ロシアにおけるフェミニストの反乱と家父長制の暴力に対するストライキ。ウクライナからの難民、特に女性を含む大規模な人の移動、ロシアではプーチン政権から部分的な動員を逃れるための人々の移動、そしてEUに向けた、あるいは国境を越えた移動の動きが続いている。女性の自由の名の下で起きたイランでの決起。私たちは、こうした異なる形態のストライキや拒否を、異なる未来を求める運動として統合したい。私たちは、共にに闘うことを学ばなければならない。私たちは、搾取、人種差別、家父長制を意味する当たり前の状態に戻るだけではない平和のために闘いたい。」


2023年2月7日

by 戦争反対の恒久的なアセンブリ

ロシアがウクライナに侵攻し、無差別戦争が勃発してから約1年、あらゆる方面からの言葉や 動きは、戦争のエスカレーションを意味するものばかりである。この戦争が、崩壊しつつある世界秩序の柱を揺るがしているとき、戦争マシーンに直接関与する行為者や国家もあれば、事態の進展を見守りながら、適切な機会をとらえて、対抗するための軍備を整える者もいる。この利己的な政治ゲームの中で、また核災害の予兆にかかわらず、どの制度的イニシアティブもウクライナの戦争を積極的に止めようとはしていない。戦争は国家政治の中に組み込まれるようになり、私たちは第三次世界大戦の状況に生きていることを認識するために、ウクライナや他の場所でさらなる悲劇を待ち望む必要はないのである。戦争が始まってほぼ1年、プーチンの侵略に対する無条件の非難は、私たちがさまざまなアクターによって血生臭いゲーム引きこまれてきたことを隠すことはできない。このような状況の中で、私たちは、国境を越えた平和の政治を構築するために、たゆまぬ努力を傾ける必要がある。

戦争の政治の中で、グローバルなバランスとバリューチェーンにおける位置づけが再構築されつつある。侵略と破壊が見られるところでは、ロシアの政治家がサプライヤーとして権力を維持する可能性を見出し、死と社会的再生産の危機が深まるところでは、ヨーロッパやアメリカの政治家が大企業にとっての機会を見出し、戦争を止めなければならない場所では、トルコ、イラン、中国を含む他の政府がより高い経済・政治の役割を獲得する機会を狙っている。よく知られているように、ウクライナでは汚職との闘いにさえ、復興のための莫大な投資をめぐる競争が見え隠れしている。これは、EUの民主主義の基準とはほとんど関係がなく、一部のオリガルヒの代わりに、金融投資家に「復興」から利潤を確保させるためのものである。損傷したウクライナのインフラ修復の受注競争と、欧州委員会、グローバルなコンサルタント会社、金融機関の復興の見通しに対する意気込みは、恥知らずにもほどがある。

欧米からの戦車、ミサイル、弾薬、軍事インフラへの投資が増えることで、どのような形で戦争の行方が変わるのか、私たちには分からない。ここ数カ月、戦争がエスカレートするたびに終結が近づくという声が聞こえてくるが、現実には誰もが戦争の長期化に備えている。プーチンの殺人的な猛攻にもかかわらず、戦争の利益を夢想しているのは彼一人ではない。ヨーロッパ中の議会での決定は、政府の側近が指示する通常の選択肢の承認へと帰結している。ウクライナへの兵器提供に関して、わずかでも意見の相違を表明した政治家は、敵の側についたと非難される。ゼレンスキー大統領が率直に述べたように、「自由、財産、利潤」を守るという名目で、どんな些細な抵抗も抑圧される。一方、新しい「博士の異常な愛情」[冷戦期の核戦争を風刺した映画のタイトル(訳注)]は、自分たちが完全にコントロールしており、行動の限界もわかっていると主張する。しかし、私たちは彼らの安心感に納得することはできない。このような図式の中では、国粋主義的な言説が反対意見を封じ込め、戦争の霧の背後にある社会的対立を黙殺しようと目論まれている。この数週間の戦車の騒動はその一例だ。数週間の緊張の末に、私たちはより多くの国々が戦争に深く関与し、ジェット戦闘機を含むさらなる兵器を新たに要求している状況を見ている。

戦争がウクライナの人々の生活を破壊する一方で、この戦争から直接的に利益を得ているのは、軍事産業であり、この産業は大きな後押しを受けている。現在、戦争に関心を持つ産業やサプライチェーンは増え続けている。ドイツの兵器メーカーであるRheinmetallが脚光を浴びており、その株主はこのエスカレーションから利益を得るだろう。同じことは、この戦争のそれぞれの側にいる他の国々の軍産複合体にも当てはまる。しかし、これらのことがすべて明らかになったとしても、それが簡単な答えになるわけではあるまい。軍需産業は孤立しているわけではない。研究、部品や電子機器、資源や物流、サービスや労働力を動かす複雑なサプライチェーンの一部なのだ。このような絡み合いの結果、単に反軍事主義者であることは自立した主張にはならない。私たちは、ウクライナ戦争の結果を掘り下げ、それによって生活が一変する主体の条件と闘いに、私たちの反対を根付かせる必要がある。もし私たちが長期的に戦争に効果的に反対したいのなら、もし私たちが国境を越えた平和の政治に貢献したいのなら、戦争が経済、金融、産業部門全体に影響を与え、社会の再生産を揺るがすという事実に対処する必要がある。実際に反軍主義者であることは、今日、国境を越えて戦争の政治がもたらす高い代償を払う労働者、移民、女性の側に立つことを意味する。

そして、私たちについてはどうだろうか。私たちは、戦争と戦争が生み出す変化に反対するために組織化することの緊急の責任を感じている。私たちは、現在の課題の大きさに取り組み、共通の土台を築くために、私たちの間の違いを確認することから始める場合にのみ、このようなことが起こり得ることを知っている。私たちは、戦争イデオロギーによって押しつけられた分断と陣営主義を超える必要がある。私たちは国民国家の論理を拒否し、ナショナリスティックな言説や地政学的な位置づけが私たちの政治的想像力を奪うことを受け入れない。

同時に、私たちの多くが生活し闘っている世界の一部が、ウクライナの戦争に直接的に関与しているという事実を直視しなければならない。欧州機関の代表者たちは、直接的にも間接的にも「我々は戦争状態にある」と認めており、欧州の政策と政治的バランスはそれに応じて再編成されている。ポーランドやチェコ、ドイツやフランスなど、かつてはEU加盟国の間で比較的距離を置いていた立場が、戦争が続く中で、アメリカの後押しを受け、警戒心をもって収斂されていく様を見ることができる。ヨーロッパ政治の現状において、私たちは「東」と「西」の間の分断に取り組み、異なる経験や組織化の形態の間の断絶を回避したい。その目的は、互いに学び合い、戦争の政治を拒否し、私たちが経験するさまざまな形態の搾取、人種差別、家父長制に対して闘う共通の力を構築することにある。ヨーロッパを越えて、私たちは、地中海や中央アジアのさまざまな地域の間にある既存のつながりを強化し、新たなつながりを築きたいと考えている。

実のところ、戦争は世界中で貧困を増大させる生活費の上昇を助長し、気候危機に取り組む公約に鞭打ち、市民的・社会的権利の促進は議題にならない。労働者は自分たちの要求 を棚に上げてこれらすべてに貢献すること を求められ、家父長的な役割が強化され、移民 に関する言説全体がハイブリッドな脅威の 境界の中で再構成され、国境のさらなる軍事化 が正当化さているのである。「ヨーロッパの価値」と称される言説の背後には、難民の不平等な扱い、ウクライナ人に一時的な保護を与える一方で彼らを過酷な搾取にさらす偽善、ウクライナ、ロシア、ベラルーシのいずれからの脱走兵や異議申立人をも歓迎しないことなどを通じて、人々の憎悪を煽る現実が横たわっている。

しかし、戦争が政治的な風景を変える一方で、労働争議は増加の一途をたどっている。ストライキの波がいくつかの国を席巻し、労働者は生活水準への打撃と、より厳しく、より長い労働を強いられることに抵抗している。リュッツェラートに集う気候変動活動家は、新たな力と新たな要求を獲得し、移民は国境体制と制度的人種差別に挑戦し続けている。これらのすべての経験において、ストライキは職場や社会条件の境界を常に越えるツールである。これらの闘いの中から、私たちは、戦争の政治を覆し、異なる世界のための集団的戦略への道を開くことを目的とした、国境を越えた平和の政治を発展させるというコミットメントを強化する。このことは、私たちにとって、戦争によってより深くなった異なる運動、異なる条件、異なる場所の間の分裂やコミュニケーションの欠如に取り組むことも意味する。

このような理由から、私たちは2月10日から12日までフランクフルト・アム・マインで開催される、トランスナショナル・ソーシャル・ストライキ・プラットフォームとInterventionistische-Linkeによるトランスナショナル・ミーティングに参加する予定です。そこでは、国境を越えたコミュニケーションを深め、新しい関係を築き、長期的な共通の戦略を開発することを目指すとともに、3月3日の気候変動ストライキや3月8日のフェミニストストライキなど、次の動員について議論する。これらの瞬間は、平和のトランスナショナルな政治を定義する上で不可欠なものだ。しかし、私たちはもっと多くのことが必要であ ることを知っている。ウクライナの戦争と戦争の政治に反対するトランスナショナルな動員が必要なのです。トランスナショナルな平和の政治を構築するために、私たちは組織化する必要がある。これは、私たちが共に計画することができるし、そうしなければならないことであり、戦争に反対する恒久的なアセンブリの主要な目標である:私たちはもっと多くを求めており、フランクフルトでそれを始めることにしよう。

戦争を内部から拒否し、平和のために打って出る――ソフィアからの発信

以下に訳出したのは、昨年ブルガリアのソフィアで開催された戦争に反対する恒久的なアセンブリthe Permanent Assembly Against the War(PAAW)で出された宣言である。この集会は、トランスナショナル・ソーシャル・ストライキ・フォーラム(TSS)とブルガリアのLevFemが共催した集会のなかで企画された。

TSSについては、別途訳した自己紹介文を参照してください。LevFemは、ウエッブによると以下のような活動をしている団体だ。

「LevFemは2018年に設立された左翼フェミニスト団体。 資本主義経済の中で生み出される社会経済的不平等が、ジェンダー不平等の拡大に直結していることに関連する問題を取り上げている。LevFemは主に、保健、社会福祉、教育、介護などの女性化された主要部門の女性労働者や、疎外されたコミュニティの代表者をフェミニズム運動の目標に一致させるために活動している。交差性の原則に基づいて、フェミニスト運動をLGBTI+の活動や反人種差別と結びつけている。」

この集会にはロシアのフェミニスト反戦レジスタンス、ウクライナ、クルディスタン、グルジアの活動家など、戦争当事国やこの戦争に深刻な影響を受けている国々からの参加者を得て開催されたと述べられている。ロシアのフェミニスト反戦レジスタンスについては私のブログでも紹介してきた。この集会を組織したトランスナショナル・ソーシャル・ストライキ(TSS)は、昨年7月に宣言を出し、この戦争へのスタンスを示しており、以下の宣言もこの昨年7月の線を踏襲している。

私は、彼らの戦争へのスタンスに非常に強いシンパシーを感じるのだが、なかでも、私達が、国家に収斂するような動き――その最たるものが戦争になる――に加担すべきではないという原則を、「トランスナショナル」な観点で打ち出していることだ。しかも、この観点には、家父長制がもたらす暴力や戦争を忌避し逃亡する人達にこそ目をむけるべきだとする主張が重ねあわされており、ウクライナ(あるいはNATO)かロシアか、という国別で色分けして踏み絵にすることを拒否し、むしろ、労働者であること、マイノリティであること、女性であること、などトランスナショナルなアイデンティティを連帯の基礎に置いて、戦争には加担しない立場を鮮明にしている。だから、避難する人達や戦争を忌避したり拒否したり脱走する人達への視点を重視し、領土のために、国家ために殺すこと、殺されることを拒否することこそが、祖国なきプロレタリアの立ち位置だ、ということを鮮明にしていると思う。また、EUや日本がロシアに対して口にする西側資本主義の価値についても、その欺瞞的な姿勢との闘い――だからトランスナショナルなストライキが運動課題の中心になる――が必要だと主張している。以下の宣言の最後に、「核の脅威を拒否すること、服従して死ぬことを拒否すること、前線で殺すか死ぬかの運命にある人のヒロイン、母親になることを拒否すること、殴られレイプされることを拒否すること、戦争とその副作用の代償を支払うことを拒否すること、これらすべてが、私たちが今生きている戦争政治に対する一つの強力なトランスナショナル・ストライキになり得る」とあり、この言葉は力づよい。この運動が目下目標にしているのは、主にヨーロッパ圏だと思われるが、ぜひ日本の反戦平和運動にもこうした動きがあることを知ってほしいと思い訳した。(小倉利丸)

2022年10月7日

戦争反対の恒久的なアセンブリのステートメント

9月10日、ブルガリアのソフィアにおいて、TSSプラットフォームとLevfemが主催するトランスナショナル集会の中で、戦争に反対する恒久的なアセンブリ(PAAW)の最初のオフライン会合が開かれ、ヨーロッパ各地と中央アジアから120人以上の人々が集まりました。ソフィアでは、オンライン会議と冬に開催される予定の別のトランスナショナル会議を通じて、平和のトランスナショナル・ポリティクスに向けた可能な限り幅広い収束を求め続けることを決定しました。その間、私たちは戦争とその致命的な結末に反対するすべての闘争と行動を支援し、その可視性を高めていくつもりです。私たちは、総会の報告に加え、最新の動向とそれに対する闘いを強化する必要性を強調する必要があると考えています。

ソフィアでの集会は、ロシアのフェミニスト反戦レジスタンス、ウクライナ、クルディスタン、グルジアの活動家など、戦争の影響を直接受けている、あるいは受けていた国々からの参加で幕を開けました。現地の状況から出発することで、私たちは、現状に対するあらゆる政治的代替案を打ち消そうとする、グローバルな関係の再構築の継続的な致命的な過程を把握することができました。PAAWは当初から、ウクライナの戦争が、大西洋主義と親プーチン主義 の間のオルタナティブ、東西間の文明の衝突、包括的な人種差別と植民地主義的言説を あらゆる場所に押し付けようとする、過激な分裂主義であると認識していました。これに対する応答として、PAAWは、これらの分断を乗り越え、それを超える戦争に反対するトランスナショナルな大衆運動を構築する必要性を確認しました。ソフィアでの議論とこの声明は、戦争を率直に議論し、搾取と抑圧のない未来のために闘う可能性を取り戻すトランスナショナルな平和政治を構築する場として、PAAWの重要性を確認するものです。

私たちが第三次世界大戦と呼んでいるものの兆候が、ますます恐ろしく浮かび上がってきています。中央アジアのキルギスとタジキスタン、そしてアゼルバイジャンとアルメニアの国境地帯で、軍事的緊張がエスカレートしているのを私たちは目の当たりにしてきました。この地域ではロシアの派兵解除により、民族主義者と宗教団体の間の緊張が爆発し、より多くの暴力と多くの死者を出しています。これらの地域は、資産やオリガルヒだけでなく、数百万世帯の生活を支える移民の送金にも大きな打撃を与えた制裁の影響に、すでに屈服しています。エルドアン政権は、現在進行中の覇権争いを利用し、国際戦争における新たな中心性から利益を得て、シリア北東部に対する低強度戦争と山岳部での化学兵器の使用によって権力を拡大し、クルディスタンでの革命を阻止しようと試みているのです。EUによれば、ウクライナでは「ヨーロッパのための戦争」が戦われています。このプロパガンダの姿勢は、プーチンの侵略と西側の反応がヨーロッパの国境を越えて生み出す暴力と悲惨さのレベルを無視し、正当化するために使われています。

ウクライナでは、近づく冬によって深刻化した大規模な人道的危機が進行中であり、何百万人もの避難民が到着することのない支援を必要としている。一方、ロシアは核による脅威を強めており、その反対勢力は「相応の報いを受けるだろう」と断言しています。この差し迫った破滅は、現在の生存を超えた何かを主張するあらゆる可能性を阻止することを目的としています。しかし、プーチンが約30万人の部分動員を発表して以来、ほぼ同数の人々がロシアを離れ、ロシアの数十の都市で女性主導の抗議行動が起こり、数千人が逮捕さ れました。

これに対して、ヨーロッパのいくつかの国は、国境を越えるロシア市民に厳しい制限を課しています。当初は、ロシア連邦をさらに苦しめ、国内の反体制的な感情を醸成することが目的だと明言されていました。しかし、プーチンが部分動員を発表した後、EUは「動員を逃れることは戦争を拒否することとイコールではない」「EUは自国の安全を第一に考え、これまで通り亡命権を制限する必要がある」と宣言したのです。ヨーロッパ諸国は、ウクライナからの女性や子どもたちを受け入れることで、慈愛に満ちた父性的な態度を示しました。彼女たちは今、すべての移民女性が最終的に行き着くところ、つまり、重要な部門における低賃金と搾取された仕事、そして制度的人種差別にさらされているのですが、国のために死ぬという当然の義務を果たすのを拒否した男性に対しては、残酷さを示しているのです。

ヨーロッパのエリートたちのこうした態度は、プーチンの家父長制的な戦争と明確につながっています。男性は戦い、死ぬことを強いられ、「母親のヒロイン」を珍重し、胎児や 子ども兵士の広告で中絶反対キャンペーンを展開し、こう言っています。「今日、私を守ってくれれば、明日はあなたを守ることができます。」女性は兵士の産みの親であり、子どもは未来の兵士なのだ。私たちは、エルドアンの性的自由に反対する家父長的政治と、クルド人の抵抗と民主的フェミニスト・プロジェクトを黙らせようとする意志の間に越えられない一線があるのを見ています。家父長的で愛国的な線が、戦争の前線を横切っているのです。

戦争によって悪化した世界的な不安定と金融投機のために、ヨーロッパ全土でエネルギー価格が高騰しているのを私たちは目の当たりにしています。これが、長年の不安定な生活と公共支出の削減によって、すでに困窮している労働者や移民に特に大きな打撃を与えています。NATO同盟のヨーロッパの末端の中心で、各国政府は、労働者、女性、移民、LGBTQ+の人々に対するさらなる悪質な攻撃を実行するために、国旗をまとい登場したのです。ここ数週間、議会の大騒ぎは、ハンガリーやポーランドのような政府に加え、スウェーデンやイタリアなど、さらに多くの政府をも巻き込んで広がっています。英国では、新たに首相に任命されたリズ・トラスを中心とする徒党が、国家給付と公共サービスに対する攻撃を準備しており、その一方で、彼らは賃金レベルがインフレによって破壊されるのを確実にしようと試みています。

英国の政治家たちは、ウクライナ戦争のためにエネルギー料金やその他のコストが急騰していると何度も繰り返しています。何年にもわたる緊縮財政の後、労働者は今、職場や地域社会で抵抗しています。賃金を守ろうとするストライキの波が続いており、「もうたくさんだ」「金を払うな」キャンペーンのような草の根の抵抗への支持が高まっています。ストライキはヨーロッパ全土に広がり、冬には拡大し、インフレによる賃金の引き下げを拒否する大衆的な姿勢が示されるでしょう。

私たちは、戦争の論理と、それが押し付ける国家的・宗教的分裂を拒否します。私たちは、自らを守る人々とともに、徴兵制を拒否し、自分の国に従わず死なないことを決めたすべての人々とともに、立ち上がります。私たちは、戦争の代価を支払うことを拒否するすべての人々と共に立ち上がります。私たちは、すべての人に開かれた国境と移動の自由を要求します。

私たちは、以前はバラバラで、点在する地域の緊張の一部と思われた出来事を、同じ世界の再構築と紛争の一部と見なすことができるようになりました。私たちには、これらの断片を一つにまとめるという任務があります。キルギスタンから英国まで、北シリアからブルガリアまで、スウェーデンからイタリア、ギリシャまで、目の前の死の混乱を乗り切るために、国境を越えた絆を強めていくことになるでしょう。

国境は、国民国家とその同盟によって、私たちを閉じ込め、それがボスのシステムに適さない場合は、私たちが非常に危険な状態でしか移動できないようにするために使用されてきました。そして今、私たちは国境を守るため、あるいは国境を引き直すために、ますます命を捧げることを期待されています。こうした悲惨な命令の代わりに、私たちは国境を越えた平和の政治を必要としています。

私たちは今、軍事化の進展と利潤のために労働者階級の生活水準に課された攻撃に抵抗するストライキと大規模デモの波を見ています。核の脅威を拒否すること、服従して死ぬことを拒否すること、前線で殺すか死ぬかの運命にある人のヒロイン、母親になることを拒否すること、殴られレイプされることを拒否すること、戦争とその副作用の代償を支払うことを拒否すること、これらすべてが、私たちが今生きている戦争政治に対する一つの強力なトランスナショナル・ストライキになり得るのです。

ロシアの反戦活動家への連帯行動の呼びかけ

ロシアの反戦活動家への連帯行動の呼びかけ

1月19日のデモの写真。マリア・ラフマニノワ

10年以上にわたって、ロシアの反ファシストたちは1月19日を連帯の日として記念してきた。この日は、2009年にモスクワの中心部で、人権・左翼活動家のShanislav Markelovとジャーナリストで無政府主義者のAnastasia Baburovaがネオナチによって銃殺された日である。

マルケロフとバブロワの殺害は、数百人の移民と数十人の反ファシストを殺害した2000年代の極右テロの頂点となった。長年、まだ可能なうちは、ロシアの活動家たちは1月19日に “To remember is to fight!”というスローガンのもと、反ファシストのデモや集会を開催していた。

プーチン政権がウクライナに侵略し、戦争に反対する自国民に対して前例のない弾圧を行なっている現在、1月19日という日付は新たな意味を持っている。当時、危険なのはネオナチ集団であり、しばしば当局と共謀して行動していた。

今日、右翼的な急進派の思想と実践は、ウクライナ侵略の過程で急速にファシスト化しつつあるロシア政権そのものの思想と実践になっているのである。

ウラジーミル・プーチンは、ウクライナの人々に対してだけでなく、侵略に抵抗するロシアの市民社会に対しても戦争を仕掛けている。残忍な弾圧は、とりわけ社会主義者、アナキスト、フェミニスト、労働組合員などの左翼運動を直撃している。

新年を迎える前に、ロシアで最も有名な左翼政治家である民主社会主義者のMikhail Lobanovが逮捕され、暴行を受けた。彼が作ったプラットフォーム「Nomination」は、2022年9月のモスクワの市議選で反戦反対派を団結させた。

Courier労働組合のリーダーで、左翼ビデオブロガーとして知られるKirill Ukraintsevは、4月から身柄を拘束されている。逮捕の理由は、クーリエが労働条件の改善を求めて組織した抗議行動やストライキだった。

反戦シンボルを配布したフェミニスト、アーティスト、反戦活動家のAlexandra Skochilenkoは、長期間の収監に直面している。

6人のアナキスト、Kirill Brik, Deniz Aydin, Yuri Neznamov, Nikita Oleinik, Roman Paklin, Daniil Chertykovは、いわゆる「Tyumen事件」で逮捕された。彼らは、破壊工作の準備に関する自白を求められて、残酷な拷問を受けた。

左翼レジスタンスグループの活動家であるDaria Polyudovaは、最近、「過激主義への呼びかけ」の罪で9年(!)の禁固刑を言い渡された。左翼ジャーナリストのIgor Kuznetsovは、反戦と反プーチンの見解のために “過激主義 “と非難され、1年前から服役している。

これらは、最近自分の信念のために投獄されたり迫害されたりしたロシアの左翼の網羅的なリストにはほど遠いものである。政治的な理由でロシアを離れることを余儀なくされた活動家として、私たちは外国の同志や関心を寄せるすべての人々に、1月19日にスローガンのもとで行われる反ファシスト行動を支援するよう要請します。

プーチンの戦争、ファシズム、独裁に反対!

すべてのロシア人政治犯に自由を!

ロシアの反ファシストと連帯しよう!

記憶することは戦うことだ!

1月19日から24日の1週間に行われる連帯行動(ピケ、公開ミーティング、オンライン・ディスカッション、さらにはポスターとの個人的な写真など)に関する情報を、rsdzoom@proton.me までメールで送ってくださるようお願いします。

ロシア社会主義運動

(FAIR)マスクの下で、Twitterは米国のプロパガンダ・ネットワークを推進し続ける

(訳者のコメントはこちらをごらんください。)

2023年1月6日

Bryce Greene


Twitterの「国家関連メディアstate-affiliated media」ポリシー[日本語]には、米国政府が資金を提供し、コントロールするニュースメディアのアカウントに対する不文律の免責規定がある。Twitterは、ロシアとウクライナの戦争中に、これらのアカウントを「権威ある」ニュースソースとしてブーストさえしている。

Intercept: Twitterは国防総省の秘密オンラインプロパガンダキャンペーンを支援した。Twitterの所有者が変わっても、このプラットフォームと米国の国家安全保障との特別な関係は変わっていないようだ(Intercept, 12/20/22

Elon Muskが「Twitter Files」と呼ばれる文書の公開をコントロールしたことで、このソーシャルメディアプラットフォームの内部活動についての知見が得られている。12月20日に公開された一連の文書は、間違いなく最も衝撃的なもので、Twitterが米国のプロパガンダ活動を周到に隠蔽していることが詳細に示されている。InterceptのLee Fang記者は、Twitterの内部システムに限定的にアクセスした後、Twitterのスタッフが、中東を統括する米軍中央司令部(CENTCOM)が運営するアカウントを、秘密のプロパガンダキャンペーンの一環として「ホワイトリスト」に載せていたことを明らかにした(2022年12月20日 日本語訳)。言い換えれば、Twitterは、明らかに利用規約に違反しているにもかかわらず、米国の心理戦に従事しているアカウントを保護していたのである。

しかし、これはTwitterが米国の影響力作戦に協力したことを示す全容からはほど遠い。FAIRの調査によると、Twitter自身のポリシーにあからさまに違反して、米国のあからさまなプロパガンダ・ネットワークの一部をなす数十の大規模アカウントが、同社から特別な扱いを受けていることが明らかになった。

Twitterは、「国家と連携する」メディアポリシーを偏って適用することを通じて、実はユーザーに「文脈」を提供するという自らの使命に違反している。より深刻なのは、ウクライナにおいて、Twitterが、表向きは「権威ある」情報源を集約した「トピック」機能の一部において、米国が資金提供したメディア組織を積極的に宣伝したことだ。プラットフォーム上でこれらの報道機関が目立つことによって、国内のメディア・エコシステムへの影響力が強められ、戦争全体に対する世論の認識を形成するのに寄与した。

「国家と連携するメディア」

ユーザーがプラットフォーム上で遭遇する情報に「さらなる文脈を提供する」取り組みの一環として、Twitter(2020年8月6日)は、「政府の特定の公式代表、国家と連携するメディア団体、それらの団体に関連する個人がコントロールするアカウント」にラベルを追加する方針を発表した。

Twitterはそのブログへの投稿で、「メディアアカウントが国家と直接または間接的に連携している場合、人々はそれを知る権利があると信じている」と表明している。Twitterはさらに、「これらのラベルを持つアカウントやそのツイートを推奨したり、拡散したりしない」と述べた。

当時、明確な主要ターゲットはロシアの国家と連携するメディアだったが、このポリシーは他の国にも拡大されている。Twitterの数字によると、「国家と連携する」というラベルを貼られたアカウントは、最大で30%流通量が減少する。

ウクライナ戦争時のポリシーとして、Twitterは(2022年3月16日)、「信頼性の高い、信頼できる情報を高める 」という意向を表明した。Twitterはブログ記事で、ロシア政府系アカウントに対する 「効果的な 」ポリシーの実施を評価した。彼らは、「ツイートあたりのエンゲージメントが約25%減少した」、「それらのツイートとエンゲージしたアカウント数が49%減少した 」と主張した。

しかし、Twitterのポリシーが一律に適用されているわけではないことは明らかだ。米国政府と密接な関係にあるメディアは数多く存在し、中には完全に政府の資金で運営されているものもあるが、これらのアカウントは「国家と連携している」というレッテルを貼られていないのだ。この偏ったポリシーの下では、Twitterは米国のプロパガンダ機関がプラットフォーム上で独立性を維持可能にし、米国のソフトパワーと影響力の行使を黙認していることになる。

この偏ったアプローチは、Twitterのポリシーがユーザーへの「文脈の提供」ではなく、米国の支配的な世界観の促進であることが明らかである。つまり、Twitterは現在進行中の情報戦争に積極的に加担しているのである。

公式の敵の合法性を認めない

Twitterは「国家と連携するメディア」を次のように定義している。

国家当局関係メディアとは、国家が財源や直接的/間接的な政治圧力をもって報道内容を統制したり、制作および配信を管理したりする報道機関をいいます。

このポリシーは表向きは非政治的で、すべての国家メディアのアカウントに等しく適用されるが、実際にはポリシーの真の目的は明確で、米国の政策に反対する国家に関連するメディアの権威を失墜させることである。Twitterのポリシーに内在する前提は、もしある国家が米国の敵であると見なされるなら、そうした国家と連携するメディアは本質的に疑わしいということだ。したがって、ユーザーが閲覧しているコンテンツに注意を喚起する必要がある。FAIRは、明らかにこうした説明に合致すると思われる多くのメディアがあるにもかかわらず、「米国国家と連携するメディア」とラベル付けされたアカウントの例を見つけることができなかった。

ツイッター: 現在、どのアカウントにラベルが貼られているか?[訳注’現在、この国別のラベルのリストは削除されている。2022年12月10日頃の時点では、「中国、フランス、ロシア、イギリス、アメリカ、ベラルーシ、カナダ、ドイツ、イタリア、日本、キューバ、エクアドル、エジプト、ホンジュラス、インドネシア、イラン、サウジアラビア、セルビア、スペイン、タイ、トルコ、ウクライナ、アラブ首長国連邦の関連Twitterアカウントにラベルが表示」と記載されていた。waybackmachine2022/12/13 ]

Twitterは、ポリシーの対象となる国をリストアップしているが、いくつかの顕著な欠落がある。例えば、このリストにはカタールが含まれておらず、カタールが資金を提供するメディア、Al JazeeraとAJ+のアカウントには「国家と連携している」というラベルが貼られていない。しかし、リストアップされた国の中でさえ、このポリシーが平等に適用されているわけでは ない。

Twitterは「関連するTwitterアカウントにラベルが表示される」国として、米国、英国やカナダなどの米国の同盟国を挙げているが、これは、これらの国に拠点を置き、他の国に所属しているメディアを指していると思われる。確かに、米国と連携しているアカウントで、「国家と連携している」というカテゴリーにこれ以上なく明確に当てはまるにもかかわらず、ラベルが表示されないものがある。

いくつかのあからさまな監督機能の例として、米軍国家安全保障局、あるいは中央情報局のアカウントは、「地政学と外交に深く関わる政府のアカウント」であるにもかかわらず、現在どれも国家や政府機関としてラベル付けされていない。さらに、イスラエル国防軍国防省首相のアカウントは、すべてラベルが貼られていない。

一方、Twitterは米国が敵視する国家に対しては厳格にルールを適用している。ロシア、中国、イランの主要な国家機関のアカウントには、一般的に国家機関というラベルが貼られる。これらの国のメディアもターゲットにされている。イランのPressTV、ロシアのRTSputnik、中国のChina DailyGlobal Times、CGTN、China Xinhua Newsはすべて、「国家と連携したメディア 」というレッテルを貼られている。

Twitterは、今回の侵攻後、ロシアに対して特別な対策をとっており、「ロシアの国家と連携したメディアのウェブサイト」にリンクしている投稿には、明確な警告を追加している。

Twitterの情報提供

この規制対象メディアを含む投稿にユーザーが「いいね」、リツイート、引用ツイートをしようとすると、2度目の警告が表示される。

Twitter このツイートは、ロシア国家と連携しているメディアウェブサイトにリンクしています。

この警告は、ユーザーがコンテンツにアクセスすることは可能だが、アクセスしないように誘導し、不適切な情報の拡散を抑制するためのものだ。

人為的な例外

Twitterのポリシーでは、「国家と連携するメディア」を、国家が「財源、直接的・間接的な政治的圧力、制作・配信の管理を通じて編集内容をコントロールする」ニュース編集室と定義している。しかし、この説明に当てはまるような大手メディアのアカウントには、そのような注意書きがないものがいくつかある。

米国、英国、カナダの主要な公共メディアは、いずれもこのラベルを受けていない。2017年、NPRはその資金の4%を米国政府から受け取っている。BBCは、その資金の大部分を英国外務英連邦省から受け取っている。CBCはカナダ政府から12億ドルの資金援助を受けている。しかし、BBC、CBC、NPRのTwitterアカウントは、プラットフォーム上ではすべてラベルが貼られていない。

この矛盾を説明するために、Twitterは「国家が出資している」メディアと「国家と連携している」メディアを区別している。 Twitterは次のように書いている。

例えばイギリスのBBCやアメリカのNPRのように、編集の独立性がある国家出資のメディア組織は、このポリシーの目的上、国家と連携するメディアとして定義されてはいない。

英米の公的支援を受けているメディアが国家から独立しているという考え方は、非常に疑わしい。第一に、なぜ国家からの資金提供がTwitterのポリシーの「財源」の文言に該当しないのか不明である。政府は、編集上の判断を強制するために資金提供の停止という脅しを使うことができるし、そうしてきた(Extra!, 3-4/95; FAIR.org, 2005年5月17日) 。第二に、研究者のTom Mills(OpenDemocracy, 2017年1月25日)がBBCについて注釈しているように、政府の影響力は官僚的なレベルで作用している。

政府は、BBCの運営条件を設定し、最も高位の人物を任命し、彼らは将来、日々の経営上の意思決定に直接関与することになるだろうし、また、BBCの主要な収入源であるライセンス料の水準も設定する。

全米民主主義基金(National Endowment for Democracy

米国のソフトパワーに関する取り組みを見ると、「国家と連携する」というレッテルが貼られるべきメディアがはるかに多くあることがわかる。そのような資金の受け皿のひとつが、National Endowment for Democracy(全米民主化基金)である。レーガン政権時代に設立されたNEDは、アメリカの政策に友好的な政権の擁護や樹立を目的とする団体に年間1億7000万ドルを投じている。

National Endowment for Democracy Logo

ProPublica (2010年11月24)はNEDを「事実上、CIAの秘密宣伝活動を引き継ぐために議会によって設立された」と説明している。Washington PostのDavid Ignatius(1991年9月22日)は、「CIAが秘密裏にやっていたことを公の場でやっている」として、「スパイなきクーデター」のための手段としての組織と報じた。初代NED会長のCarl Gershman(MintPress, 2019年9月9日)は、この切り替えは、組織の意図するところを覆い隠すためのPR活動が主であったことを認めている。つまり、「世界中の民主主義団体にとって、CIAから補助金をもらっていると見られるのは極めて不愉快だ」という。

2014年のマイダンのクーデターとロシアの侵攻をめぐる情報戦争でNEDが果たした役割を考えると、ウクライナでのNEDの活動は特に詳細に調査する必要がある。2013年、ガースマンはウクライナを東西対立における「最大の獲物」と表現した(Washington Post、2013年9月26日付)。同年末、NEDは他の欧米が支援する影響力あネットワーク結束し、後に大統領罷免につながった抗議運動を支援した。

NEDの理事会の歴史は、政権交代論者と帝国のタカ派の錚々たる顔ぶれである。現在の理事会には、『Atlantic』誌の反ロシア派の人気スタッフライターで、ケーブルニュースのコメンテーターとしても頻繁に登場し、その活動は新冷戦のメンタリティーを象徴するAnne Applebaumや、イラン/コントラ疑惑の主要人物で後にトランプ政権のベネズエラ政府転覆キャンペーンで重要な役割を果たすEliott Abramsがいる。Victoria Nulandは元Dick Cheney副大統領の外交政策顧問で、米国の外交政策のキーパーソンであり、2014年にはウクライナ政府を再編するために裏で干渉していたことが発覚した米国高官の一人でさえある。彼女はオバマ政権とバイデン政権の国務省勤務の合間にNEDの理事を務めていた。他の元理事には、Henry Kissinger、Paul Wolfowitz、Zbigniew Brzezinski、現CIA長官のWilliam Burnsらがいる

戦争が始まった後、NEDはそのウェブサイトからウクライナのプロジェクトをすべて削除したが、それらはまだInternet ArchiveのWayback Machineで見ることができる。2021年のプロジェクトを見ると、「政府の説明責任を果たす」あるいは「独立したメディアを育てる」という表向きの目標で、ウクライナ中のメディア組織を対象に広範な資金援助活動を行っていることがわかる。よく知られたアメリカのプロパガンダ機関からあからさまな資金提供を受けているにもかかわらず、これらの組織のTwitterアカウントには「国家と連携したメディア」というラベルはない。NEDのTwitterアカウントでさえ、米国政府との関係を示していない。

このことは、現在のウクライナ戦争に大いに関係がある。CHESNOZN.UAZMiSTUkrainian Toronto TelevisionVox UkraineはすべてウクライナにおけるNEDのメディアネットワークの一部だが、彼らのTwitterアカウントには国家と連携しているというラベルはない。さらに、このネットワークに属するニュース編集室の中には、他の米国政府組織と広範なつながりを誇るものもある。European PravdaUkraine Crisis Media Center、Hromadskeは、いずれも2014年にアメリカが支援したマイダンのクーデターの最中か直後に設立されたが、NATOとの明確パートナーシップを誇示している。HromadskeとUCMCは、米国国務省、在キエフ米国大使館、米国国際開発庁(USAID)ともパートナーシップを結んでいることをアピールしている。

USAIDはNEDと同じような役割を担っている。人道的援助や開発プロジェクトという隠れ蓑のもと、USAIDはアメリカの政権交代作戦やソフトパワーによる影響力の売り込みのパイプ役を務めている。とりわけ、この組織はニカラグアの「民主化促進」を隠れ蓑にしており、ベネズエラの選挙で選ばれた政府に対するクーデターを進めるために5億ドルを提供している。

Kyiv PostとIndependent

キエフ・ポストのロゴ

NEDの資金を最も多く受け取っているのは、同じくNEDの資金を受けたニュース編集室、Kyiv Postを改組したKyiv Independentである。Kyiv Independentは広告と購読料で資金の大半を得ていると主張しているが、PostのウェブサイトではNEDを「Kyiv Postのジャーナリストが作成したコンテンツのスポンサーとなった寄付者」として紹介している。

2021年11月にスタッフ間の紛争でPostが一時的に閉鎖されたとき、ジャーナリストの多くがKyiv Independentを結成した。彼らはカナダ政府からの20万ドルの助成金と、ブリュッセルに本部を置き、NEDをモデルとし、NEDから資金提供を受けている組織、European Endowment for Democracyからの緊急助成金によってこれを実現した。

Kyiv Independentのロゴ

戦争勃発後、Independentは200万人以上のTwitterフォロワーを獲得し、数百万ドルの寄付を集めた。Independentのスタッフは、米国のメディア・エコシステムに溢れた。New York Times(2022年3月5日)やWashington Post(2022年2月28日)など、米国の主要紙で論説が掲載された。CNN(2022年3月21日)、CBS(2022年12月21日)、Fox News(2022年3月31日)、MSNBC(2022年4月10日)といった米国のテレビ局にもしばしば出演している。

CNNのBrian Stelter(2022年3月20日)は、ニュース編集室とアメリカ政府との結びつきは無視して、Independentが 「設立3ヶ月の新興企業で西側世界では比較的無名だったのが、今ではウクライナ戦争に関する主要情報源の1つになった 」と賞賛している。その資金調達活動は、CBSやPBSといった米国の放送局によって推進されている(MintPress, 2022年4月8日)。

Independentのトップスタッフは、他のアメリカ政府のプロジェクションに幅広いコネクションを持っている。寄稿編集者のLiliane Bivingsは、米国や他の政府から資金提供を受け、NATOの事実上の頭脳集団として機能するシンクタンク、大西洋評議会Atlantic Councilでウクライナ・プロジェクトに従事していた。最高財務責任者のJakub Parusinskiは、USAIDが出資するInternational Center for Policy Studiesで活動していた(MintPress, 2022年4月8日)。

最高経営責任者のDaryna Shevchenkoは以前、国務省とフォード財団によって設立された教育・開発関連の非営利団体IREXで活動し、現在もその資金の大半を米国政府から受け取っている。また、NEDとキエフの米国大使館が資金提供し、ウクライナの「独立」メディアを促進する組織、Media Development Foundationの共同設立者でもある。最高執行責任者のOleksiy Sorokinは、米国務省や他のNATO寄りの政府から資金提供を受けているNGO、Transparency Internationalでスタートを切った(Covert Action, 2022年4月13日)。

アメリカのプロパガンダを後押しする

Twitterのポリシーは、事実上、アメリカのプロパガンダ機関に隠れ蓑と手段を提供することになっている。しかし、このポリシーの効果は、全体から見ればまだまだだ。Twitterは様々なメカニズムを通じて、実際に米国が資金を提供するニュース編集室を後押しし、信頼できる情報源として宣伝しているのだ。

そのような仕組みのひとつが、「トピック」機能である。「信頼できる情報を盛り上げる」努力の一環として、Twitterはウクライナ戦争について独自のキュレーションフィードをフォローすることを推奨している。2022年9月現在、Twitterによると、このウクライナ戦争のフィードは、386億以上の “インプレッション “を獲得している。フィードをスクロールすると、このプラットフォームが米国の国家と連携したメディアを後押ししている例が多く、戦争行為に批判的な報道はほとんど、あるいは全く見られない。米国政府とのつながりが深いにもかかわらず、Kyiv IndependentとKyiv Postは、戦争に関する好ましい情報源として頻繁に提供されている。

このアカウントは、彼らが信頼できると主張する紛争に関する情報源に基づくリストを作成した。このリストには現在55人のメンバーがいる。このうち、少なくとも22人はアメリカの資金提供を受けている報道機関か、その系列のジャーナリストである。資金提供のルートは複雑であり、これらのニュース編集室のウェブサイトには情報がないものもあるので、この数はおそらく少なめであろう。

New Voice of Ukraine (NED, State Department)

Euan MacDonald

Kyiv Post (NED)

Natalie Vikhrov

Kyiv Independent (NED)

Anastasiia Lapatina, Oleksiy Sorokin, Anna Myroniuk, Illia Ponomarenko

Zaborona (NED)

Katerina Sergatskova

Media Development Foundation of Georgia (NED, USAID, State Department)

Myth Detector

Radio Free Europe/Radio Liberty (USAGM)

Reid Standish

Center for European Policy Analysis (NED, State Department)

Anders Ostlund, Alina Polyakova

EurasiaNet (NED)

Peter Leonard

Atlantic Council (NATO)

Terrell Jermaine Starr

もしTwitterが独自の「国家と連携するメディア」ポリシーを一貫して適用していれば、これらのユーザーはこのようなリストに含まれないだろう。実際、Twitterはこれらのアカウントの影響力を積極的に低下させるだろう。

世界的なプロパガンダ・ネットワーク

NYT CIAが構築した世界的なプロパガンダ・ネットワーク。ニューヨーク・タイムズ(1977/12/26)が1977年に言えて、2023年に言えないことがある。

米国政府は現在、より露骨に国家の武器として機能する別のメディア組織に資金を提供しているが、彼らのTwitterアカウントに「国家と連携したメディア」というラベルが貼られているものはない。これらの報道機関は、冷戦時代にアメリカの視点を世界中に広めるために設置されたメディア装置の一部である。ニューヨークタイムズ(1977年12月26日)は、かつて彼らを「CIAが構築した世界的なプロパガンダネットワーク」の一部であると表現した。

このネットワークは、エージェンシー内で「プロパガンダ資産目録Propaganda Assets Inventory」として知られ、CBS、AP通信、ロイターなどの主要メディアの工作員から、CIAの「完全な」「編集コントロール」下にある小規模の報道機関に至るまで、かつて約500の個人と組織を包含していた。Radio Free Asia、Voice of America、Radio Free Europe/Radio Libertyはこのプロパガンダ作戦の先陣を切っていた。タイムズ紙は1977年に、このネットワークが「意図的に誤解を招いたり、まったくの虚偽であったりする」米国メディアの記事の流れをもたらしたと報じた。

米国政府はこれらの組織のいくつかを直接運営し続けている。これらの組織は現在、米国グローバルメディア局US Agency for Global Media(USAGM)の管理下にあり、2022年に8億1000万ドルを受け取った連邦機関である。この数字は2021年の予算から27%増加し、RTが2021年にロシアから受け取ったグローバル事業の金額の2倍以上である(RFE/RL、2021年8月25日)。

エージェンシーのウェブサイトに記載されている第一の「放送基準」は、”米国の広範な外交政策目的に合致していること “である。USAGMの構造には、表向きは編集の独立性を守る「ファイアウォール」があるが、この主要目標に違和感を持つ者を採用することはないだろう。Twitterが別の場所で定義した “財源によるコントロール “を米国政府はUSAGMに対して持っていることは確かだ。

USエージェンシー・フォー・グローバル・メディアの組織図

ラジオ・フリー・ヨーロッパ/ラジオ・リバティー

Radio Free Europe/Radio Libertyのロゴ

RFE/RLは1億2600万ドルの予算で運営され、27の言語で3700万人の人々にサービスを提供している。その報道は、「Washington Post, the New York Times, AP, Reuters, USA Today, Politico, CNN, NBC, CBS and ABCなどのグローバルメディアで毎日引用されている」ことを自負している。

RFE/RLはウクライナでの活動を活発化させている。同ネットワークによれば、「ウクライナのメディアリーダーとして、頻繁に注目度の高いインタビューを行い、ウクライナのトップメディアで取り上げている」。USAGMの資料によると、この報道活動には「現地の報道局の広大なネットワークと広範なフリーランスのネットワーク」が含まれているそうです。RFE/RLの傘下にあるTwitterアカウントは、いずれも “国家と連携したメディア “というレッテルを貼られていない。これにはRFE/RLプレスルームとRFE/RLのペルシャ語サービス、Radio Fardaが含まれる。

ラジオ・フリー・アジア

Radio Free Asiaのロゴ

Radio Free Asiaは、主に東アジアの国々に焦点を当て、9つの言語で約6000万人にサービスを提供している。RFAは4760万ドルの予算で、”権威主義的な偽情報や誤った物語に対抗する “という使命を担っている。「米国が外交的、経済的に重要な問題で世界のパートナーとの再協力を目指すなか、RFAは「中国の偽情報の巨大な影響力と戦う必要がある」とUSAGMは述べている。

RFAのメインアカウントには「国家と連携するメディア」のラベルはなく、RFA UyghurRFA BurmeseRFA KoreanRFA TibetanRFA VietnameseRFA Cantoneseのアカウントにもラベルはない。RFAの最大のチャンネルであるRFA Chineseには110万人のフォロワーがいるが、ラベルはない。

ボイス・オブ・アメリカ

Voice of Americaのロゴ

2億5700万ドルの予算を持つVoice of America(VoA)は、USAGMの最大の事業である。961人の従業員が、3億1180万人(うち中国4000万人、イラン1000万人)にサービスを提供している。このメディア・ネットワークの目標は、「アメリカの物語を伝える」ことと、ターゲットとなる人々の「アメリカのポリシーに対する理解を深める」ことである。

イランを対象とするVoA Farsiは、2019年、ある元幹部が「客観性も事実もない」「あからさまなプロパガンダ」を押し出していると述べている(Intercept, 2019年8月13日)。トランプの「最大限の圧力」キャンペーンの最中、この放送局は ” トランプ一筋、トランプ以外の何者でもない ” となった。米国が支援するイランのテロ組織MEKを宣伝することに加え、同アウトレットは “ドナルド・トランプ大統領のイラン政策を支持しないと見なす人々に怒りをぶつける “ようになった。

170万人のフォロワーを持つVoAのTwitterメインアカウント、180万人のフォロワーを持つVoA Chineseアカウント、170万人のフォロワーを持つVoA Farsiアカウントのいずれも、「国家と連携したメディア」のラベルは付いていない。

キューバ放送局

Martiのロゴ

USAGMにはOffice of Cuba Broadcasting (OCB)があり、マイアミに拠点を置き、キューバの「自由と民主主義を促進する」ために年間1290万ドルを受け取って活動している。最近のUSAGMの報告書は、OCBの「キューバの反体制運動に関する継続的でタイムリーかつ徹底的な報道」を指摘している。OCBのファクトシートによると、OCBが監督する主要ネットワークであるRadio Television Martiは、音声、ビデオ、デジタルコンテンツを通じて毎週キューバの人口の11%にサービスを提供している。同ネットワークのTwitterアカウントには、国家と連携しているというラベルは貼られていない。

Middle East Broadcasting Networks

MBNのロゴ

USAGMはMiddle East Broadcasting Networks(MBN)も統括している。このネットワークはバージニア州スプリングフィールドに本社を置き、中東/北アフリカ諸国の「考え、意見、展望のスペクトルを拡大する」ことを使命とするアラブ語のネットワークである。USAGMは、MBNが「この地域で他に類を見ないほどアメリカを代表する存在になる」ことを表明している。このネットワークは、1億890万ドルの予算で “完全に “賄われている。

同エージェンシーによると、MBNはMENA22カ国で3300万人以上の人々にサービスを提供している。イラクのクルド人居住地域以外では、MBNのメディアは人口の76%にサービスを提供しており、パレスチナでは、MBNのメディアは50%にサービスを提供している。MBNのネットワークには、Alhurra TV、Radio Sawa、MBN Digitalが含まれている。360万人のフォロワーをもつAlhurra TVのTwitterアカウントには、「国家と連携する」というレッテルは貼られていない。

これらの事業はいずれも、その全部または一部が政府から資金提供を受けているが、Twitterはこれらを国家と連携した事業とはみなしていない。したがって、これらのアカウントにはラベルが貼られず、プラットフォームがラベル付きアカウントに適用する制限も適用さ れない。もしTwitterが、米国政府から「全額出資」されているニュース編集室を「国家と連携している」と見なさないなら、「文脈」を提供するという目標は、米国のプロパガンダの機関には適用されないことは明らかであろう。この機能は、米国に敵対する国家に属する、国家の資金援助を受けた組織からユーザーを遠ざけるだけのものである。

ツイッターと支配者層(エスタブリッシュメント)

Twitterが西側の外交政策目標に固執するのは、何も新しいことではない。Twitterは、自社のポリシーにNATOへの支援が含まれていることを公然と発表しているほどだ。2021年、ロシアとウクライナの緊張が高まる中、Twitterは “国家と連携した活動 “として数十のロシア人アカウントを削除したことを発表した。Twitter(2021年2月23日)が削除の理由として挙げたのは、”NATO同盟とその安定性に対する信頼を損なっている “というものだった。米国の世界目標への支持は、他の地域にも及んでいる。

2019年、トランプがベネズエラに対するクーデター未遂と残忍な制裁体制を強化していたとき、Twitterは選挙で選ばれたベネズエラ政府を弱体化させようとする米国の努力を支援した。Twitterは、Nicolas Maduro大統領自身の英語アカウントを含む、ベネズエラ政府高官やエージェンシーのアカウントを停止した。同時に、Twitterは、ベネズエラの選挙で選ばれた行政を転覆させようとする、米国が支援する自称「政府」の関係者を「認証」した(Grayzone, 2019年8月24日)。

このプラットフォームの長年の問題は、米国のポリシーに対する批評家に対するルールの恣意的な適用である。同プラットフォームはしばしば、違反の疑いがあるユーザーを何の説明もなく停止または禁止している。

Middle East Eye。 Twitterの中東担当幹部は英軍の「サイコパス」兵士だった。Twitterの中東担当編集幹部は、同時に英軍に「戦術レベルでのナラティブ戦争に対抗する能力」を与える部隊で働いていた(Middle East Eye, 2019年9月30日)。

Twitterは、他のSiliconValleyの巨大企業と同様、国家安全保障国家と数多くのつながりを持っている。Middle East Eye(19年9月30日付)の調査により、Twitterのトップの1人は、英軍の心理戦部隊の1つである第77旅団にも所属していたことが判明した。Twitterで中東・北アフリカ地域の編集トップを務めるGordon MacMillanは、Twitter在籍中の2015年に英国の「情報戦」部隊に入隊していた。ある英国の将軍はMEEに、この部隊は “戦術レベルでナラティブの戦争に対抗する能力 “を開発することに特化していると語った。この話は、米国と英国の報道機関ではほぼ完全に黙殺され(FAIR.org、2019年10月24日)、MacMillanは今もTwitterで働いている

Twitterは、軍需産業や米国政府から資金提供を受けているタカ派シンクタンク、Australian Strategic Policy Instituteとも提携し、コンテンツモデレーションポリシーを策定している。2020年、TwitterはASPIと密接に活動し、中国共産党に好意的であるとする17万以上のフォロワーの少ないアカウントを削除した。最近では、TwitterとASPIは、表向きは偽情報と誤報の撲滅を目的とした提携を発表している。

TwitterのStrategic Response Teamは、どのコンテンツを規制すべきかの判断を担当し、以前CIAとFBIの両方で活動していたJeff Carltonがその責任者だった。実際、MintPress News(2022年6月21日)は、Twitterに入社した元FBI捜査官が数年にわたり数十人いることを報じている。Elon Muskが「Twitter Files」と呼ばれる内部通信をコントロールリークしたことで、エージェンシーとプラットフォームの密接な関係に改めて注目が集まっている。

機密解除されたオーストラリア オーストラリアの研究者が暴露した大規模な反ロシアの「ボット軍団」。「ウクライナ/ロシア戦争の最初の週に、親ウクライナのハッシュタグbot活動が大量にあった 」「ハッシュタグ#IStandWithUkraineを使った約350万件のツイートが、その最初の週にbotによって送信された」と、Declassified Australia(2022年11月3日)は報じた。


Twitterはこれまで、「コンテンツモデレーションを決定する際に他の団体と調整する」ことを直接否定してきたが、最近の報道により、連邦情報機関、およびTwitterのコンテンツモデレーションポリシーの間に深いレベルでのつながりがあることが明らかになっている。Twitter Files “のパート6で、Matt Taibbiは、FBIは、プラットフォーム上のコンテンツにフラグを立て、Twitterの指導者と直接対話するために、80以上のエージェントを専門に抱えていると報じた。昨年、Interceptにリークされたメール(2022年10月31日)には、国土安全保障省(DHS)とTwitterが、選挙セキュリティに関する同省からのコンテンツテイクダウン要請のプロセスを確立していたことが紹介されている。

このプラットフォームは明らかにオンライン上の親ウクライナ感情の重要なハブとなっているが、その活動のすべてが有機的であるわけではない。実際、昨年発表されたある研究(Declassified Australia, 2022年11月3日)では、親ウクライナのボットの大群が発見された。オーストラリアの研究者が戦争に関する500万件以上のツイートを調査したところ、全体の90%が親ウクライナ派(#IStandWithUkraineのハッシュタグまたはそのバリエーションを使用して特定)であり、そのうちの最大80%がボットであると推定されたのである。これらのアカウントの正確な出所は不明だが、”親ウクライナ当局 “がスポンサーとなっていることは明らかだった。膨大な量のツイートが、戦争に関するオンライン感情の形成に役立ったことは間違いない。

ワシントンDCは、人々の感情を形成する上でTwitterが重要であることを理解しているようだ。マスクがTwitterの買収に乗り出したとき、ホワイトハウスは、マスクの “ロシア寄りの姿勢 “を理由に、マスクのビジネスベンチャーに対する国家安全保障上の審査を開始することさえ検討した。こうした懸念は、マスクとウクライナの高官との間で諍いが起きた後、マスクがスペースXのスターリンクシステムをウクライナで使用することを禁止する計画を立てたことに端を発している。また、マスクがロシアとウクライナの間の潜在的な和平提案の概要をツイート(2022年10月3日)した後にも、懸念が生じた。この提案は、平和よりもエスカレーションが支配的なアメリカのエリート界隈では、軽蔑と衝撃をもって迎えられた(FAIR.org、2022年3月22日)。

マスクと国家安全保障国家

ミントプレス イーロン・マスクは反逆のアウトサイダーではない──彼は国防総省の巨大な請負業者である。Alan MacLeod (MintPress, 2022年5月31日)。イーロン・マスクは「強力で凝り固まったエリートを脅かす存在ではなく、彼らの一人である」。

しかし、ウクライナ戦争に関するマスクのホットな発言は、マスクの反エスタブリッシュメントの善意の証明として受け取られるべきではない。イーロン・マスク自身は、体制側のアウトサイダーとは程遠く、軍産複合体の主要人物であり、シリコンバレーの巨人が軍事・情報戦争に徹底的に巻き込まれるという長い伝統を象徴する存在である。

マスクのロケット会社スペースXは、米国の国家安全保障国家から数十億ドルを得ている主要な軍事請負企業である。スペースX社は、アメリカの無人機戦争を支援するためにGPSテクノロジーを軌道に打ち上げる契約を結んでいる。また、国防総省はミサイル防衛衛星の製造も同社と契約している。スペースXはさらに、空軍、宇宙防衛局、国家偵察機構から契約を獲得し、CIAやNSAなどの情報機関が使用するスパイ衛星を打ち上げている(MintPress、2022年5月31日)。

実際、SpaceXの存在は、軍や諜報機関との結びつきに負うところが大きい。同社の初期の支援者の1人は、ペンタゴンの国防高等研究計画局(DARPA)で、これは現代のインターネット時代を定義するテクノロジーの多くをもたらしたのと同じ軍事研究機関である。

当時CIAのベンチャーキャピタルであるIn-Q-Telの社長だったMike Griffinはマスクの側近で、SpaceXの構想に深く関与していた。GriffinはBush Jr.の下でNASAのトップになったとき、SpaceXがロケットを飛ばすことに成功する前に、3億9600万ドルの契約をMuskに授与している。これは後に、国際宇宙ステーションへの物資補給という10億ドルの契約へと膨らんだ。

ロシアによるウクライナ侵攻の後、マスクは、Starlinkのテクノロジーをウクライナ政府に提供し、同国のオンラインを維持することを申し出て、大きな話題となった。ロシアの攻撃で従来の軍事通信がほとんど機能しなくなったウクライナにとって、衛星を使ったインターネット・プロバイダーであるStarlinkは戦争に欠かせない存在となった。これにより、ウクライナ人は戦場の情報を素早く共有し、米国の支援部隊と接続して “テレメンテナンス “を行うことができるようになった。

マスクがこのテクノロジーを “寄付 “するという申し出は、多くの好意的な報道を得たが、後に、SpaceXの関係者が公表していたこととは異なり、米国政府がこのテクノロジーに対して数百万ドルを支払っていたことが、密かに明らかになったのである。Washington Post (2022年4月8日)によると、その金はUSAIDを通して流れた。USAIDは長い間、米国による政権交代活動の道具であり、秘密諜報活動の隠れ蓑となってきた組織である。

複数の報告書が、スターリンクのテクノロジーを戦争におけるゲームチェンジャーと呼んでいる。国防総省の電子戦担当部長は、スターリンクの能力を「目を見張るようなものだ」と賞賛している。統合参謀本部議長はマスクを名指しで称え、”民間と軍の協力とチームワークの組み合わせが、米国を宇宙で最も強力な国にしている “ことを象徴していると述べている。

マスクのスターリンクが関わっているのは、ウクライナだけではない。イランで女性への処遇をめぐる抗議運動が始まると、米国は、この地域における米国の政策の長年の目標である、イラン政府に対する内政上の不安定化圧力を高める好機と捉えた。イランがインターネットを取り締まる中、バイデン政権はマスクに、Starlinkを使って通信遮断を回避するための支援を要請した。その後、Starlinkの端末がイランに密輸されるようになった

マスクと安全保障国家の関係は非常に強く、ある関係者はBloomberg(10/20/22)に対し、「米国政府は通信が停止した場合にもStarlinkを使うだろう」とまで語り、国家レベルの高度な有事対策との関連性を示唆している。

ガバナンスの継続性?

Twitterをめぐる話題は、イーロン・マスクが言論の自由の支持者であるかどうかに集中しているが、軍事請負業者がこのような重要なプラットフォームを完全にコントロールすることの意味については、ほとんど焦点が当てられていない。マスクはCEOを辞任するかもしれないが(あるいは辞任しないかもしれないが)、このプラットフォームは彼の支配下にあり続けるだろう。

マスクのTwitterの下で多くのことが変わったが、米国政府系メディアのメガホンとしてのTwitterの役割は変わっていない。Twitterが自らのポリシーを誤用していることが伝播にどれほどの影響を及ぼしているかを正確に把握するには、大規模な調査研究が必要だろう。しかし、このデータがなくても、プラットフォームの設計は、ワシントンに非協力的な政府が資金提供するほとんどのメディアからユーザーを遠ざけ、ウクライナ戦争の場合には、アメリカ政府が資金提供するメディアへとユーザーを導く役割を果たしていることは明らかである。マスクが軍事請負業者であることは、米国の外交政策目標に異議を唱えることが同社にとって優先事項とはなりそうもないことを強調しているに過ぎない。

訳注 文中で言及されたtwitterの機能について、twitter社が日本語で提供している情報

twitterのトピック機能

Twitterにおける政府および国家当局関係メディアアカウントラベルについて

エジプト人の活動家、ブロガー、ソフトウェア開発者であるアラ・アブ・エル・ファッタさんを救え

JCA-NETのウェッブから転載します。

エジプトの活動家、ブロガーでソフトウェア開発者でもあるアラ・アブ・エル・ファッタAlaa Abd El-Fattahさんは、いわゆるアラブの春にエジプトで大きな活躍をした人ですが、2006年以降、「フェイクニュース拡散」、「国家の安全への毀損」、「ソーシャルメディアによる出版犯罪」、「テロリスト集団への所属」など様々な容疑によって繰り返し投獄されてきました。この間1日100カロリーしか摂取しないハンガーストライキを決行してきましたが、COP27がエジプトで開催されるのをきっかけに、死を覚悟しての水もとらないハンガーストライキを決行しています。
これまでも彼への支援は、JCA-NETが加盟しているAPCや多くのネットアクティビストの団体がとりくんできました。最近も米国のデモクライーナウPBSがアラさんの問題をとりあげるなど注目が集まっています。まだ日本では広く知られていません。ぜひ、アラさんへの関心をもっていただければと思います。以下、アラさんに関する三つの記事を紹介します。

・(AccessNow)COP27 を見据え、エジプトは手遅れになる前に、英国人エジプト人活動家アラさんを解放せよ!
・署名要請
・(APC) 英国人とエジプト人の政治犯、アラさん(Alaa Abdel Fattah)の釈放を求める団体が相次ぐ

日本からできることとしては、署名運動があります。
https://www.change.org/p/help-free-my-brother-before-it-s-too-late-jame…
日本語で署名が可能です。ぜひ下記の記事をお読みいただき、協力してください。(小倉利丸 JCA-NET理事)

COP27 を見据え、エジプトは手遅れになる前に、英国籍のエジプト人活動家アラさんを解放せよ!

https://www.accessnow.org/free-alaa/
エジプト人の活動家、ブロガー、ソフトウェア開発者であるアラ・アブ・エル・ファッタさんは、数ヶ月にわたるハンガーストライキの結果、衰弱した身体と、長年にわたる不当な扱いを受け、最後の紅茶を口にし、これまで彼を生かしてきた1日約100カロリーの食事を絶ち切りました。彼は今、カロリーゼロのストライキを行っている、と最近家族に書いています。2022年11月6日、エジプトのシャルムエルシェイクで開催される世界有数の気候変動サミット、COP27の開幕を前に、アラさんは水を飲むのを止めます。時間がない。アラさんはあと数日で解放されるか、世界が見守る中、COP27の期間中にエジプトの刑務所で死んでしまうかもしれない。イギリス外務省は、彼の命を救うためにすぐに介入しなければならない! #FreeAlaa #フリーアラア

“危機は気候変動の危険性を認識することにあるのではなく、私たちの生活を組織するための代替方法を想像することができないことにある。”
– 世界の重み:気候変動との戦いの枠組みについて、アラ・アブド・エル・ファタ

一方、この会議が、アブデル・ファタフ・エル・シシの権威主義的な政権が引き起こした人権侵害隠蔽するのではないか、という極めて妥当な懸念もあります。権利を尊重した気候変動対策を進めるには、オープンで包括的、かつ制限のない市民空間が必要であり、エジプト当局は会議の前にアラさんを含む全ての良心の囚人を釈放すべきです。

アクセス・ナウは、気候変動活動家および団体であるグレタ・トゥンベル気候行動ネットワーク・インターナショナル(CAN)グリーンピースを含む200近くの団体と500人以上の個人とともに、エジプト当局に対し、COP27の前にエジプト国内のジャーナリストと政治犯を解放するよう要請しています。

アラさんの健康状態は急速に悪化しており、脱脂粉乳やスプーン1杯の蜂蜜を紅茶に入れてしのいできました。彼は、自分の体という唯一の武器で闘っているの です。11月6日、アラさんは断水行動に出ます。

アラさんのハンガーストライキから200日目、妹のサナ・セイフさんがロンドンの外務省前で座り込みを始め、政府に弟の救出を求めました。また、60人以上の英国議員ジェームズ・クレバリー英国国務長官に対し、COP27の前にアラさんを解放するよう要請した。これだけの圧力にもかかわらず、アラさんはまだ英国の領事訪問を受けておらず、英国の弁護士とも連絡が取れず、彼と彼の家族が不当な拘束に対して起こした訴えを裁判官に調査してもらうよう、今も要求し続けています。

2000年代初頭から自国のテクノロジーと政治活動の中心人物であり、2010年代初頭のアラブ反乱の際には世界的な声望を集めたアラさんは、この10年の大半、エジプト当局から不法な投獄によって口封じされようとしてきました。

アラさんはあらゆる拷問や非人道的な扱いを受け、彼の友人や家族は嫌がらせや脅迫を受け、さらには自らも拘束されました。時計も本も運動もなく、出廷と面会のときだけ独房から出されるという、カイロの悪名高い最高セキュリティーのトラ刑務所内の小さな独房に閉じ込められ、裁判を待ってすでに2年以上をアラさんは過ごしています。最近、彼は新しいワディ・エル・ナトラン刑務所に移され、「何年ぶりかにマットレスで寝た」し、本や筆記用具を受け取り運動することも許されたが、当局は依然としてアラさんを標的にし、彼の基本的権利を否定しているので す。当局はアラさんを罰するだけでは不十分で、この活動家の周辺にいる人々を迫害し、彼と同じ監房にいる人々がラジオにアクセスすることを禁じています。アラさんの刑期は2027年1月3日に終了します。

私たちと一緒に、エジプトと英国外務省に対し、エジプトの刑務所に不当に拘束されている他の数千人の人権擁護者とともに、#FreeAlaaを要求してください。

エジプト当局はアラさんを沈黙に追い込もうとしていますが、私たちは彼の声を確実に届けることができます。あなたの国会議員に手紙を書き、彼の新しい本「You Have Not Yet Been Defeated」を購入し、バーチャル読書会は視聴・共有し、ソーシャルメディアで#FreeAlaaを使ってアラさんのビジョンについて会話することで、#FreeAlaaへの活動をサポートすることができます。

アラさんのストーリー

アラさんは、常に言論の自由の支持者でした。2006年、彼は平和的な抗議行動に参加したために投獄されました。2011年の1月25日革命の数ヵ月後、アラさんは投獄され軍事裁判を待っていたため、息子の誕生を見送ることを余儀なくされました。2013年、彼は裁判を受けることなく115日間を刑務所で過ごし、5年の刑期とさらに5年の保護観察期間が与えられるという結果に終わった。2019年、アラさんはフェイクニュースの拡散とテロ組織への加入の疑いで不当に再逮捕された。それ以来、アラさんはトラ刑務所の最高セキュリティ棟の中に閉じ込められています。2021年12月、この活動家はでっち上げの罪で5年の刑を言い渡されましたが、裁判を待つ間、刑務所にいた年月は刑期としてカウントされませんでした。2022年4月2日、不法な投獄、虐待、拷問を何年も受けた後、エジプトの活動家、ブロガー、ソフトウェア開発者のアラ・アブ・エル・ファッタは、ラマダンの初日に頭を剃り、ハンガーストライキを開始しました。数日後の4月11日、アラさんの家族は、母親を通じて彼が英国市民になったことを発表しました。


手遅れになる前に、弟を解放してください。

https://www.change.org/p/help-free-my-brother-before-it-s-too-late-jame…
モナ・セイフさんがこのキャンペーンを開始
私の兄、アラさん(Alaa Abd el-Fattah)のことを書きます。彼は、民主主義についての著作と、中東の民主的な未来についてのビジョンから、「世代の声」と呼ばれています。彼はもう8年も刑務所にいます。直近の判決は、エジプトの刑務所の状況についてFacebookに投稿したことを理由に5年間服役したもので、私たちは、すぐに彼を助け出さない限り、刑務所の中で死んでしまうのではないかと恐れているのです。

アラさんはエジプトに収監されていますが、イギリス市民です。私たちの母親は1956年にロンドンで生まれ、私たちの祖父母である両親は博士課程にいました。

私がこの署名を始めたのは、多くの人が要求すれば、英国はアラさんを帰国させることができると信じているからです。彼はアムネスティ・インターナショナルの良心の囚人であり、英国ペンの名誉会員であり、何十人もの英国の国会議員が彼の解放を要求しているのです。私たちはただ、英国政府が交渉において確固たる態度を示すことが必要なのです。

アラさんは拷問を受け、ひどい状態で拘束されてきました。何年もの間、彼は独房から出ることも、時刻を知ることも、外の世界に関する情報にアクセスすることも全く許されなかった。自分のアイデアのために投獄された作家にとって、これは残酷な拷問だった。

彼は10歳になる息子カレドの父親であり、人生のほとんどを失ってしまいました。

世界中の人々が彼の釈放を求めるキャンペーンを展開し、彼の状況は少し改善された。しかし、エジプト当局は、英国大使館員の面会を拒否している。

英国のリズ・トラス外相(当時)は6月27日、国会で “彼の解放を確保するために労働と活動 “を行っていると述べました。私たちと一緒に、彼女とジェームズ・クレバリー新外務大臣に、できる限りの労力を使って行動するようお願いしてください。アラさんは4月からハンガーストライキを続けており、私たちは毎日、彼の命の危険におびえています。

エジプトからフランス、アメリカ、カナダへと二重国籍者が解放された前例があるので、私たちはイギリス政府がアラさんを連れ戻すことができることを知っています。どれだけ多くの人が心配しているかを知ることです。

アラさんの労働と(まだ読んでいなければ、昨年、彼の全作品集が英語で出版されました。そして、あなたの助けによって、私たちはすぐにでも彼を解放し、自由にし、再び書くことができるのです。


英国籍のエジプト人の政治犯、アラさん(Alaa Abdel Fattah)の釈放を求める団体が相次ぐ

https://www.apc.org/en/pubs/organisations-call-release-british-egyptian…

掲載日:2022年5月26日
ページ最終更新日:2022年6月2日
2022年5月27日

英国エリザベス・トラス外務・英連邦・開発担当国務長官および英国外務省あて

英国系エジプト人の活動家、ブロガー、ソフトウェア開発者であるアラ・アブデル・ファッタさん(彼の活動を封じるためにエジプトで監禁されている)は、英国外務省が彼の保護のために直ちに介入しない限り、死の危険という非常に現実的なリスクに直面しています。この記事を書いている2022年5月27日現在、アラさんは投獄のひどい状況に抗議してハンガーストライキを始めて56日目に突入しています。彼の健康状態は急速かつ著しく悪化しています。

2022年5月12日、アラさんの家族から、アラさんが刑務所で身体的暴行を受けたとの報告がありました。2022年5月18日、国会議員10名と貴族院議員17名が、エリザベス・トラス国務長官と英国政府に対し、活動家の釈放を確保するために直ちに行動するよう要請しました。同日、アラさんは家族に知らせることなく、ワディ・エル・ナトルンの新しい刑務所施設に移送されました。2022年5月19日、アラさんの姉モナ・セイフは、移送後、弟が “何年ぶりかでマットレスの上で眠った “ことを確認しました。

現在、イギリスとエジプトの二重国籍者であるアラさんは、まだイギリスの領事訪問を受けておらず、彼と彼の家族が彼の拘束に関して提出した苦情を調査し、イギリスの弁護士と連絡を取るよう、裁判官に対してまだ求めているところである。我々、以下に署名した団体は、アラさんの解放と英国への安全な移送を確保することを確認した英国外務省に緊急に求めるとともに、以下のことを要請する。

エジプト政府との二国間外交チャンネルを通じてアラさんのケースを提起し、彼の即時解放を要求する。

アラさんの即時解放を求める公的な声明を発表すること。

アラさんが英国にいる彼の弁護士に自由にアクセスできるようにすること。

アラさんは、エジプトで政権を握るすべての政府の下で投獄または起訴されており、2011年以降、3000日以上を獄中で過ごしている。これまで「偽ニュースの拡散」、「国家の安全を損なう」、「ソーシャルメディアを使って出版犯罪を犯した」、「テロリスト集団に所属した」などの罪で判決を受け、何年にもわたって恣意的に拘束されてきたのです。

2021年9月、当局は裁判なしの禁固刑の法定期限である2年に達しても、アラさんの釈放を拒みました。この時点まで、アラさんはなぜ逮捕されたのか知らされていなかった。「検察は23カ月間、私の事件に関して何も問題視してきませんでした。そして23カ月後に、あるニュースをシェアしたことで訴えられていることがわかったのです」とアラさんは説明する。明白な公正な裁判と適正手続きの侵害にまみれた裁判で、2021年12月20日、アラさんは5年の禁固刑を言い渡された。人権派弁護士のモハメド・エル・バカーとブロガーのモハメド・”オキシジェン”・イブラヒムは、彼とともにそれぞれ4年の刑を言い渡された。アラさんが公判前に拘留されていた2年余りは、現在の5年の実刑判決には算入されていない。つまり、アラさんの実刑判決は2027年1月3日まで終わらないということだ。

先見の明のあるアラさんは、不正で抑圧的な諸国家に対して人々を団結させ、動員するためのテクノロジーの力をいち早く認識した。彼は一貫して、地域全体の技術者をつなぐための活動を続けていた。2011年のエジプトでの反乱の後、アラさんはエジプトのTwitterユーザーを集めて、当時「Tweet Nadwa」として知られていた、政治問題について議論し、直接参加できない人たちに最新情報を提供するツールとしてTwitterを使うことに成功した。アラさんの投獄は、反対意見を封じ込め、彼に触発された人々の意欲を失わせようとするものだ。

英国当局は4月にアラさんに市民権を与えたとき、他の市民と同じように彼の権利を守る責任を負った。アラさんの命と運命は危機に瀕しており、英国外務省は彼の命を救うために今すぐ行動を起こさなければならない。

署名者

Access Now

SMEX

ALQST for Human Rights

ARTICLE19

Association for Freedom of Thought and Expression (AFTE)

Association for Progressive Communications (APC)

Committee for Justice (CFJ)

Damj for Justice and Equality

Electronic Frontier Foundation

Forum Tunisien pour les Droits Économiques et Sociaux (FTDES)

Freedom House

Front Line Defenders

Fundación InternetBolivia.org

Global Voices

GreenNet

Gulf Centre for Human Rights

IFEX

Masaar – Technology and Law Community

Meedan

MENA Rights Group

PEN America

Project on Middle East Democracy (POMED)

Red Line for Gulf

Reporters Without Borders (RSF)

The Cairo Institute for Human Rights Studies (CIHRS)

The Coalition For Women In Journalism (CFWIJ)

The Freedom Initiative (FI)

2023年5月「G7広島サミットを問う市民のつどい」について

来年の5月に広島で先進7ヶ国首脳会合なるものが開かれる。この会合は、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、米国、英国、日本とEUの首脳が集まり、「首脳がトップダウンで物事を決める」(外務省)ための会合として、毎年持ち回りで開催される。来年は日本が議長国(1月から12月の1年間)となり、岸田は広島での開催を決定した。つまり、世界有数の核保有国が広島に集まり、中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国の核武装を抑え込み(実際にはむしろ核武装を強化するだけだが)、自らの核抑止力の正当性を宣伝する場として、広島を利用しようというものだ。広島をめぐる文脈は単純ではない。日本の戦争責任・加害責任の問題を「ヒロシマ」によって忘却しがちな日本における、被害に基づく平和感情に内在する決定的な限界が露呈しつつある時代状況も見据える必要があると思う。

以下は、このG7に反対する人びとによる行動の呼びかけである。私もこの呼びかけ人のひとりになった。G7に対するいわゆる「市民社会」の対応は二つに分かれてきた。ひとつは、G7を政策提言などの場と位置づけて取り組む対応で、主に、NGO団体などがこの立場をとってきた。これに対して、私も含めてだが、より批判的な立場として、そもそもG7の会合そのものを認めない、という立場がある。つまりG7は解散すべきである、という主張になる。なぜなのか。冒頭にも書いたように、首脳が国際的な重要課題について、各国の国内の民主主義的な意思決定の手続きを軽視して、トップダウンで意思形成するための枠組みであり、この枠組みそのものが、民主主義の手続きや理念と真っ向から対立する。首脳会合として実効的な力を発揮できるために、政策提言型のNGOや連合のような労働組合が、この会合への直訴に取り組む。実際に会合を準備するのは、シェルパと呼ばれるサポートを担う官僚たちであり、各省庁の組織だ。そして、首脳会合とともに、課題別の閣僚級会合が各地で開催される。この閣僚級会合の上に首脳会合が乗り、これらが多くの合意文書を出し、これが1年間の約束=宿題となり、次の年の会合で宿題の点検が行なわれることになる。有力な国際NGOなどは個別に政府とのパイプを利用して、「市民社会」の代弁者として政策提言を担い、これがG7側からすると、トップダウンを支えるボトムアップやアウトリーチとなり、トップの意思形成の正当性の証でもあるかのように利用されてきた。だから、広島で開催されるということは、核兵器廃絶を主張してきた様々な団体や運動が、G7という枠組みへの批判なしに、G7の核保有国への批判を展開するのであれば、日本政府は、こうした対応を見越した上で、問題提起や批判を形の上では受け止める態度をとりながら、実質的には核抑止力の正当性を再確認するために利用することに終るだろう。だから、私は、G7を交渉相手であるとか、その枠組みを承認して何らかの意思決定がなされることに期待すべきではない、と主張するのだ。たとえ好ましい決定であったとしても、それが、民主主義の手続きを踏まないトップダウンである限り、必ず、将来、同じように最悪の政策もまたトップダウンで形成されて帳消しになる。とりわけG7の多くが、極右による政治的な圧力に晒されている現在、トップダウンはますます危険なものになっている。だから、認めてはならない。これは統治機構の根本に関わる問題なのであり、このことを軽視すべきではない。G7は何も決めずに解散すべきだ。

以下の呼びかけについては、賛同の募集も行なっています。ぜひ多くの皆さんの賛同をよろしくお願いします。

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2023年5月「G7広島サミットを問う市民のつどい」提案

賛同人(団体)になってください

短縮版はこちら PDF版はこちら

この取り組みの呼びかけ人賛同人(団体)等は、ページの最後に記載されています。

G7サミットを広島で開催することの政治的目的は何なのか

78年前に米軍が原爆無差別大量殺戮という由々しい「人道に対する罪」を犯した広島という都市で、来年5月にG7首脳会談(以下、G7サミット)を開く政治的目的は何なのであろうか。議長国となる日本が広島を開催地に選んだ目的は何なのであろうか。

広島は2008年9月に開かれたG8下院議長会合、2016年4月のG7外相会合の開催地にも選ばれ、2016年5月にはオバマ大統領が「慰霊」と称して平和公園を訪れた。ところが、いずれの場合も、原爆無差別大量殺戮に対して最も責任の重い米国政府の代表をはじめ、マンハッタン原爆開発計画に参加した英国、カナダを含む7カ国(あるは8カ国)の代表も、おざなりの慰霊のために平和公園を訪れるだけの「政治的な見世物」に終わっている。

かくして、オバマと安倍が広島の犠牲者の霊を政治的に利用し、米国も日本も、それぞれが戦時中に犯した戦争犯罪の犠牲者に対しての謝罪は一切せずに、結局は広島を日米軍事同盟の強化のために利用したのと同様、来年も再び、広島が欺瞞的で汚い政治目的のために利用され、市民が踊らされるだけという結果になるであろうことは初めから目に見えている。

「唯一の戦争被爆国」を売り物にしながら、「最終的な核廃絶」というごまかしの表現で市民を騙し続け、実際には米国の拡大核抑止力に全面的に依拠し続けている日本政府。その日本政府の岸田首相が自分の選挙区である広島市をG7サミットに選んだのも、見せかけは「反核」という姿勢を欺瞞的に表示するための政治的たくらみ以外の何ものでもない。あるいは、ロシア・中国・朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)の「核の脅威」をことさらに強調することで、核抑止力を正当化し、市民の間に無自覚のうちにその正当化を浸透させてしまおうと岸田政権は考えているのかもしれない。

よって、名称だけの「国際平和文化都市」広島で開く会議が発表する公式声明文に、「被爆者の霊」があたかもG7にお墨付きを与えたかのような、欺瞞的な印象を世界に向けて発信することがG7サミットの一番の目的なのである。

G7という7カ国の経済大国グループが設置されたのは、1973年のオイルショックとそれに原因する世界不況に直面して、7カ国が自分たちの経済利益を守り且つ拡大していくための共通の政治経済方針を決定し、協力しあうことを確認するためであった。したがって、その設置以来、全ての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている国連という場での決定を、自分たちにとって都合の悪い場合には拒否または無視する形で、世界の重要な出来事に対して影響力を及ぼし、恣意的に介入するという政策を引き続きとり続けてきた。その結果、実は、G7にこそ地球温暖化などの環境破壊、原油高騰、金融危機、食糧・農業危機、戦争と貧困など、様々な危機を作り出している重大な責任があるにも関わらず、全く問題解決の能力がないこと、このことを私たちは問題にしなければならない。

ところが岸田政権の日本は、安倍政権の政策をほとんどそのまま継承し、ますますG7の決定に、とりわけ軍事面での決定に、全面的に日本を組み込んでいこうという政策を強化しつつある。

G7、NATOとウクライナ侵略戦争の歴史的背景

G7(=米英仏独伊日加+欧州連合)は、歴史的には、カナダ以外の6カ国が20世紀前半までの帝国主義時代における列強国=軍事大国であり、今も米英独仏日の5ヶ国の各国の年間軍事費は世界のトップ10を占めている(日本は9番目)。しかも米英仏3カ国が核兵器保有国で、日本を除いた6カ国がNATO加盟国である。したがってG7とNATOは緊密に重複しており、その両方の主導権を握っているのは、あらためて言うまでもなく米国。つまり、米国の最も重要な国家政策であるパックス・アメリカーナ(覇権主義による世界支配の下での「平和維持」)を支え推進することが、G7とNATOの二大組織の重要な役割の一つである。

1999年以来NATOの軍事活動は、毎回、その行動範囲が、西欧を中心としたNATO加盟国地域をはるかに超えて、中東や東欧地域をはじめ世界各地に広がり、様々な武器開発と購入にも多額の資金が投入されてきた。この行動範囲と活動の広がりは、とりわけ2001年の9/11同時多発テロから始まったブッシュ政権の「対テロ戦争」に、密接に協力する形で進められてきた。

米国とNATOは、東欧への拡大政策に沿って、2014年からはウクライナへの最新式の武器の供与と軍事訓練・合同演習などを通して、NATOの支配下にウクライナ軍を事実上統合させる戦略を着実に推進してきた。この背景には、2014年のウクライナの民衆蜂起による政権交代を受けたプーチン政権のクリミア併合、それに続く東部ドンバス地域の内戦もあった。2022年2月の、ロシアの非道なウクライナへの侵略戦争開始につながった要因として、こうしたロシア、NATOとG7のこれまでの動きを忘れてはならない。

端的に言えば、一方では東欧に向けての米国の挑発的な覇権拡大主義、他方でNATO内に分裂が起きるものと誤信してウクライナの強制的再統合を目論んだ、プーチンのロシア帝国復活の野望。この両者の帝国主義的な対立の根を根本から取り除く必要がある。

この侵略戦争の結果、無数のウクライナの人々のみならず、戦争に駆り出されたロシアの人々も犠牲者となり、戦争の影響で食糧が入手できなくなった数百万人にのぼる数のアフリカやアジアの人々が餓死の危機にさらされている。そのうえ、このまま戦争が長引き戦況がさらに悪化すれば、小型核兵器の使用という最大の危機が起きることも十分ありうる。また原発が繰り返し軍事攻撃目標となっており、いつ原発大事故が起きてもおかしくない。こうした現在の状況を打破するには、戦争当事国のみならずグローバルな反戦・平和運動と外交による交渉での、相互的な妥協による戦争終結によるほかに道はない。

中国・ロシア封じ込めのためのNATOのインド太平洋進出計画と日本

そんな状況の中で、ドイツで行われたG7サミットに続き、6月29〜30日にはスペインのマドリッドでNATO首脳会合が開催された。ここに、NATOの主要パートナー国として、インド太平洋地域の日本、豪州、ニュージーランド、韓国が招かれた。これは、NATOの「新戦略構想」が、インド太平洋地域のいわゆる「自由主義諸国」との軍事協力のもとに、中国、ロシア、朝鮮を欧州側とインド太平洋側の両地域から強力な軍事力で囲い込み、封じ込めるという、文字通りのグローバル化戦略となっていることを示している。しかも、その「戦略地域」のなかには先端技術、サイバー空間、さらには宇宙空間までもが入れられている。

このNATOの「新戦略構想」は、最近実施されたRIMPAC(環太平洋諸国海軍合同演習)にすでに強く反映されている。2年に1回行われる世界最大の海戦演習であるRIMPACは、今回は6月29日から始まり、8月4日まで行われた。日本を含む26カ国から2万5千人を超える兵員と、38隻の戦艦、170の航空機、4隻の潜水艦が参加し、さらに9カ国からの陸上部隊が水陸両用車による上陸演習を行った。

26の参加国の中の、(イタリアを除く)6カ国がG7のメンバーであり、6カ国(米国、英国、フランス、デンマーク、オランダ、カナダ)がNATOメンバー国。5カ国(日本、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、コロンビア)がNATOのグローバル・パートナーとなっている。すなわちRIMPAC参加国の42パーセントがNATOと緊密に繋がっている。

こうした米国主導のRIMPACの目的は、中国、朝鮮との戦争を想定する米国主導の同盟諸国軍による軍事演習を展開することで、中国、朝鮮さらにはロシアに対して威嚇を行うことであった。この威嚇は、すでに米軍のインド太平洋地域における広範囲で活発な行動に対抗して、同じように敵対的な軍事活動を強力に展開している中国・朝鮮との緊迫状況をさらに悪化させこそすれ、緊張緩和には全く役立たない。

実際、RIMPAC終了3日後の8月7日から4日間にわたり、中国は、ナンシー・ペロシ下院議長の台湾訪問に合わせて、台湾を取り囲む6カ所の海空域で合計66機の戦闘機・爆撃機と14隻の艦艇を使って大規模な軍事演習を行った。さらに8月4日には、台湾の周辺海域に向けて11発の弾道ミサイルを発射するという、実に無謀な示威活動を展開した。かくして、アジア太平洋地域も、状況はむしろ冷戦時代よりも危機的である。

こんな状況の中でNATOは、2014年に日本政府(安倍政権)が、憲法に明らかに違反する集団的自衛権を容認したことを、高く評価している。その集団自衛権の行使との関連で、NATOはとりわけ「ヘリコプター搭載護衛艦」と称する「いずも」が、2020年にステルス多用途戦闘機F-35Bの発着を可能にする「改修」(=事実上の「空母」化)を行ったことも積極的に評価している。かくして、NATO=米軍ならびにその同盟軍との集団的軍事活動への「自衛隊」の積極的な参加が、着々と推進されている。岸田首相の公約の一つである「敵地攻撃能力の向上」も、「自衛の範囲」というメチャクチャな論理の下、このNATOへの統合化のための一戦略として、誰もが違憲と明確に理解していながら欺瞞的に進められている政策である。

このように、岸田内閣は、安倍内閣の憲法のあからさまな空洞化をそのまま受け継ぎ、それをさらに押し進めていると同時に、5月のバイデン米大統領との会談では、防衛予算=軍事予算の大幅増大(=GDP1%をNATO諸国と同じレベルの2%にまで引き上げること)を約束した。これが現実化されれば、日本の軍事予算は約11兆3千億円にもなり、今年度より一挙におよそ5兆1千億円の増額枠を認めることになる。この増額は、皮肉なことには憲法9条をもつ日本が、米中に次ぐ世界第3位の軍事大国になることを確実にする。しかもその金額の大部分が、米国からの高額のさまざまな武器の爆買いに当てられることになる。

現実には、これだけの巨額の予算を急遽準備するためには税収でまかなう他はない。よって、消費税を現在の10%から最低でも12%に引き上げる必要があり、その重い負担が市民一人一人に課せられることになり、すでに日々の生活費高騰に苦しんでいる多くの一般市民、とりわけ母子家庭や高齢者の生活がさらに逼迫することは目に見えている。

7月10日の参議院選挙の惨憺たる結果、以上のような日本の軍事大国化=一般市民のさらなる貧困化、憲法改悪と東アジア地域のさらなる不安定化・軍事衝突勃発の危険性は一挙に高まりつつある。かくして、日本は今や、歴史的に極めて重大な分岐点に立たされている。

G7広島サミット批判に向けて市民の力の結集を!

来年5月に広島で開催が予定されているG7サミットでは、したがって、インド太平洋地域諸国、とりわけG7のメンバー国である日本、さらには韓国やオーストラリアの軍事力を、米軍・NATOの軍事力に統合し、それを中国・ロシア・朝鮮の封じ込めという「新戦略構想」のために極力利用するという米国とNATOによる政策の、いっそうの強化がはかられると考えられる。この「新戦略構想」には、もちろん、核抑止力が重要な戦略として引き続き維持される。

冒頭で見たように、広島でG7サミットが開催されるからといって、核兵器削減に向けて参加国が真剣に議論するとは全く考えられない。こんな状況を黙って見過ごすことは、広島の市民としての、また日本の市民としての責任を、同時に人間としての責任を、ないがしろにすることを意味している。

そこで、私たちはG7サミットが開かれる1週間前の2023年5月13〜14日に、広島市内でG7広島サミットを徹底的に批判する大規模な市民集会を開催することを提案し、実現に向けてこれから活動を展開していくための呼びかけをここに行う。

なお、私たちはG7各国政府に対して、とりわけ次のような要求を行う。

  1. G7を即時解散し、広島でのサミット開催も中止し、あくまでも国連の場での議論と決定に基づいて世界の安定と平和構築を目指すこと。
  2. バイデン大統領は、広島・長崎への原爆無差別大量虐殺と、東京をはじめその他の多くの市町村への焼夷弾無差別爆撃殺傷行為が由々しい「人道に対する罪」であったことを真摯に認め、被害者ならびにその親族に謝罪すべきである。同時に、核抑止力(=核兵器保有)が「平和に対する罪」であることも明確に認め、核兵器を即刻廃棄すべきである。
  3. 日本がアジア太平洋で侵略戦争を行いその戦争を長期化させた結果、米国の焼夷弾・原爆無差別大量虐殺を誘引した責任が日本にもあったことを、岸田首相は明確に認めるべきである。その自覚に基づいて、日本、韓国をはじめ今も日本国内外に在住するすべての犠牲者のための医療福祉政策を充実させるべきである。同時に、速やかに核禁止条約に署名し批准すべきである。
  4. 岸田首相は、日本軍国主義によるアジア太平洋侵略戦争の加害責任を誠実に認め、戦争中に日本軍や日本政府がアジア太平洋各地で犯した残虐な戦争犯罪行為や人権侵害の多数の被害者ならびにその親族に謝罪すべきである。
  5. 岸田内閣は日米軍事同盟を廃棄し、NATOへの加担を止め、沖縄をはじめ日本各地に設置されている米軍基地の即刻撤去を米国政府に要求すべきである。日米の軍事関係を、日米両国市民の真に平和的で文化的な多様な交流の連繋に基づく、人間味溢れる国際関係へと変更すべきである。
  6. G7各国政府は、軍拡でロシア・中国・朝鮮を封じ込めることをやめ、それらの国々との平和的共存を目指して、外交交渉を粘り強くすすめていくべきである。また、そのためには、ロシア軍がウクライナ侵略戦争遂行をただちにやめ、ウクライナ大統領・ゼレンスキーとロシア大統領・プーチンが和平交渉のテーブルに1日も早くつくように、各国首脳も奮励努力しなければならない。
  7. 国連憲章では、大小にかかわらず各国が同権であり、国連が「そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている」ことを明確に謳っている。したがって、国連加盟国であるG7各国もこの国連憲章をあくまでも尊重し、「国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように解決しなければならない」ことを肝に銘じて行動すべきである。同時に、国連機構がこの国連憲章に真に沿うようなものとなるように改正することに努力すべきである。
  8. G7各国政府は、気候危機を発生させ且つ今もその危機状況をさらに悪化させている、いわゆる「先進工業諸国」としての責任を自覚し、生物多様性を保持、発展させ、環境保護に努め、脱原発と化石燃料極力削減による脱炭素社会実現に向けて懸命の努力をしなければならない。また、気候変動による巨大な災害に見舞われているパキスタンやアフリカ諸国をはじめとするグローバルサウス諸国の債務を無条件に帳消しすること。それが地球上の人類と他のあらゆる生物・植物に対する私たちの重大な責任であることを、明瞭に認識する必要がある。

2022年9月25日

「G7広島サミットを問う市民のつどい」実行委員会

賛同人(団体)になってください

連載:意味と搾取第4章を公開しました。

青弓社のサイトで連載している「意味と搾取」の第4章 「パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判」が公開されました。以下、これまでの連載の目次と、4章冒頭のみ掲載します。全文は青弓社のサイトでお読みください。

目次
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着
第4章 パラマーケットと非知覚過程の弁証法――資本主義的コミュニケーション批判

[第4章構成]
4-1 資本主義批判の枠組みの組み替え
   ・上部構造への資本の介入
   ・監視資本主義
   ・資本主義と機械
   ・支配的構造の歴史的変容
4-2 予測と制御:意味生成過程
   ・使用価値とパーソナリティ――〈労働力〉再生産過程と意味使用価値
   ・買い手にとっての意味使用価値
   ・パラマーケットの変容
   ・選択の自由と操作的言語
4-3 空間の解体
   ・プライバシーと空間
   ・空間の配置とパラマーケット
   ・資本主義における自己同一性
4-4 非知覚過程
   ・モノの回路とコミュニーションの回路
   ・資本に有機的に組み込まれたパラマーケット
   ・ユーザー追跡技術
   ・監視システムとしてのパラマーケット
   ・ユーザー追跡技術への批判と抵抗
   ・政府による非知覚過程の利用
4-5 コミュニケーション労働と非知覚過程
   ・コミュニケーション労働の実質的包摂へ
   ・コミュニケーション労働とデータ化する「私」
   ・コンピューターと身体性
4-6 フェティシュな人工知能
   ・フィードバックの副作用
   ・恋着と同一化の対象としての人工知能
4-7 官僚制と法の支配の終焉
   ・政治過程にコンピューターが介在するとはどのようなことか
   ・では現行の法の支配のほうがマシなのか
   ・個人の意思と集団の意思
4-8 ナショナリズムの再生産構造
   ・ナショナルアイデンティティ
   ・パラマーケットとナショナリズム

4-1 資本主義批判の枠組みの組み替え

 本稿全体の冒頭で、マルクスの資本主義認識に立ち返りながら、現代資本主義の基本構造を、土台―上部構造の定式に対する資本主義的な応答としての、上部構造の土台化、土台の上部構造化について述べた。つまり、政治権力と資本の意思決定構造が相似形をとるようになる、ということだ。マルクスの資本循環図式を形式的に当てはめて表現すると、以下のようにも言うことができる。権力の生産過程は、統治機構の物質的条件(権力の生産手段)と官僚、議員、裁判官などの人的な資源によって、構造への「従属」という政治的生産物が生産される。これを「国民」やこのカテゴリーから排除された人々が「消費」することを通じて、「従属」が再生産される。
 資本が介入する伝統的な回路は、ケインズ主義の公共投資と土木建設資本の関係のようなインフラ投資の時代から新自由主義の公共サービスを民間資本に開放する時代へと展開してきた。この前提には、公共サービスを生存権の保障のための国家の義務として理解することから、財政負担を伴う「費用」とみなして採算を優先させるような国家の側の義務理解の根本的な転換があり、その結果として、公共サービスが資本に利潤をもたらすことが可能な領域に組み込まれることになった。一般に、この過程は民営化とか小さな政府と解釈されてきたが、私は、逆に、権力の生産過程が資本の生産過程と融合しはじめたのであって、小さな政府ではなく、政府機能が市場経済に有機的に結合しながら、市場そのものが政治化する契機となったとみたほうがいいと考えている。政府は小さくなったのではなく、民主主義的な統制の外部で大きくなったのだ。従来の公共投資では、資本は、政治的生産手段を担うこと(道路や港湾、都市開発など)を通じて政治過程と外的・形式的に接合していたにすぎなかった。いま起きていることは、官僚制など権力の生産過程を担う人的な組織の資本との内的・実質的接合である。伝統的な近代の権力の人的組織が担ってきたのは、意思決定と、その前提にあるコミュニケーションや情報の管理である。さらには、法の「生産」とこれを適用することができる力である。コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的技術となる時代には、デジタル庁のように、この過程がデジタル・トランスフォーメーション(DX)として展開されることになる。

以下、全文は青弓社のサイトへ。

東部ウクライナの余計な人たち

(訳者まえがき) ここに訳出したのは、ウクライナ出身のアーティスト、Anatoli UlyanovのLeft Eastに掲載されたエッセイである。タイトルにある余計な人たちThe Superfluous Peopleとは、ロシア語話者でロシアに何らかの出自や関わりがある人達のことだ。ウクライナの政府にとって大切なのは、領土であり、こうしたロシア語話者の人達を本音では排除したいのではないかと、彼自身の経験を踏まえて判断している。もちろんロシアにとっても余計者であり、せいぜいでウクライナとの戦争で消費される戦力としてしか考えられていない。

ウリヤノフは、2004年のオレンジ革命以後、ウクライナの不寛容なナショナリズムとLGBTQコミュニティへの迫害を批判してきたアーティストで、ウクライナではゲイともみなされてきた。ウリヤノフのようなアイデンティティをもつ人達は、ウクライナでもロシアでも居場所を見出すのは容易ではない。ごく簡単にウリヤノフの経歴について紹介する。

2003年、アナトリ・ウリヤノフとナターシャ・マシャロワ(Natasha Masharova)は「プロザ」というウェブサイトを立ち上げ、とくに2004年のオレンジ革命以後、外国人嫌いで保守的なナショナリストのイデオロギーが世論を支配し、政府機関に根付いているのを見て、反ナショナリズムの主張を展開すると同時に、エロティックアート、同性愛の汚名に挑戦するエッセイなど、LGBTQ+ コミュニティを支援する仕事も発表し始めた。

2008年に「ウクライナの伝統的価値」を守るための検閲を任務とする政府機関「道徳委員会」の設置に反対する活動を開始する。この委員会のメンバーであるダニロ・ヤネフスキーは、「奴隷に言論の自由は必要ない」「口を閉じて座っている必要がある」のであり「検閲の実施に賛成する」と発言するなど、表現の自由に深刻な危機をもたらした。ウリヤノフへの繰り返しの暴力や脅迫に対して警察は何の手立てもとらず、道徳委員会設立の立役者の一人でもあったキーウ市長もまた事件を軽視する態度をとった。右翼・ナショナリストの反感を買い、暴力を振われたり脅されたりしてきた。繰り返される暴力と迫害のために、2011年、ウリヤノフとマシャロワは2009年4月にウクライナを出国し米国に渡り、亡命を申請する。ウリヤノフは、反ナショナリズムの政治信条やゲイ・コミュニティの一員であるとの判断から、過去の迫害や将来の迫害に対する十分な恐怖が証明されるため「難民」として認定され、2018年、人権団体などの支援を得て、米国への亡命を果し、現在米国在住。(以上は、アナトリのブログ記事「REFUGEE PROFILE OF ANATOLI ULYANOV」を参考にした)

ウリヤノフは、米国において、トランプ政権下で、労働者階級の中で生活した経験から、その見解はラディカルなものになってきたという。当初はナショナリズムに反対し、多様性と人権を尊重する立場――「ピンク・ソーシャリズムと呼んでいる――だったが、今では、傷つき赤い血を流すなかで、反帝国主義、反人種主義の赤い社会主義へと向かっている、という。(Left Eastのインタビュー)

私は、日本のメディアが「ウクライナ人」「ロシア人」といった呼称を何らの前提もなしに、用いるとき、国籍の概念としてこれらが用いられているとしたとしても、どれほどの多様性を自覚して用いられているのか疑問に思うことが度々あった。とくに東部ウクライナのロシア語話者や、親族などがロシアに出自をもつ人達もおり、また、ロマやユダヤ人、そして最近は、非西欧世界からの移住者や労働者も生活している。ロシアも同様で、極東ロシアは極めて多様性の大きい少数民族地域でもあるが、大抵は、ロシア=ヨーロッパロシアとみなしていると思う。同時に、ジェンダー・アイデンティティも多様であり、宗教の信条もそうだ。こうした多様性を前提とした社会が戦争に巻き込まれるとき、こうした多様性への寛容よりも効率的な戦争遂行のための人口管理が優先するために、自由は抑圧されることになる。

ウリヤノフは、この戦争で東部のロシア語話者の人達がいったいどのような処遇を受けるのか、という問題を自身の亡命を余儀なくされた経験を踏まえてかなり悲観的に書いている。西側メディアはウクライナのロシア語系住民や、ロシアの多く暮すウクライナ系住民の問題をとりあげることはほとんどない。ロシア語系住民にとって、戦争後の世界は、どちらが勝利しようと良い未来ではない。ウリヤノフは、彼らに残された選択肢は、より悪くない方を選ぶことしかできないのではないか、と述べている。そして、この見通しがまちがっていれば、そこにはまだより良い未来への可能性があるかもしれない、というやや自嘲的な文言で締め括っている。(小倉利丸)

東ウクライナの余計な人たち

Anatoli Ulyanov 著
2022年9月10日
あなた自身のことを、爆撃を受けた東ウクライナの都市で、解放されるのを待っているロシア語を話す人だと想像してみてほしい。その「解放者」のうちの何人かは、まずあなたのクローゼットをチェックして、Zブランドの間に合わせの砲兵として動員できる若者を探すだろう。別の解放者たちは、あなたを「vatnik」(ホモ・ソビエチス[ロシア人の蔑称])以外の何者でもないと見なしているのは明らかだ。あとは、あなたがどちらのナイフで解放されたいかだけだ。被害者の善のナイフか、それとも侵略者の悪のナイフか?

Emmanuil Evzerikhin, Stalingrad (1943)

ウクライナの国家安全保障・防衛会議事務局長のアレクセイ・ダニロフの話を聞いていると、「ドンバスの再統合」については誰も特に関心がないことがわかる。重要なのは領土であり、できれば「余計な」人口を排除することだ。民衆という存在は概して厄介なものだ。皆、それぞれの考え方やアイデンティティを持っていて、違いやニュアンスもある。それをどうにかして一つにまとめ、代表させる必要がある。皆これを面倒くさがる。

もし、あなたが占領地の住民と対話したいのなら、あなた方は「我々と共通言語を見出す必要があるのはあなた方であって、その逆ではない」などとは言わないだろうし、おばあさんがZトラックからの人道支援物資を食べたからといって反逆罪だと非難することもないだろう。あなたは、その破壊が政治的な復讐(脱共産化)というよりもむしろ社会的な排除を意味する程にまで、誰かのママやパパのアイデンティティの一部でもあるソ連のシンボル――もはやイデオロギー的なものではなく、社会的、文化的なものなのだが――に泥を塗るようなことはしないだろう。侵略者であるロシア人ですら、ケルソンの学校にウクライナ語を入れようと考えたのは、広報が重要だからだ。他方、ウクライナ側は、プロパガンダのレベルでも、寛容さや包容性のイメージを伝えることができない状態だ。

あなたが、侵略国の市民に政権に対して立ち上がることを期待するなら、たまたま生まれた場所が悪かったという理由で、彼らのビザを取り上げてプーチンの檻に閉じ込めるような要求はしないものだ。あなたは、例外なく全員が「そういう人たちだ」とは言わないし、文化の架け橋を焼いたり、ブルガーコフの額石を削ったり、腹立ちまぎれに自分を犠牲にしたりもしない……。

ロシアは侵略者だ。これは明らかなことだ。はっきりしないのは、この「余計な」ウクライナ人を、彼らの居場所を見つける努力しない国に引き寄せるのは何なのかということだ。それは、ロシアの恐ろしさ以外にない。ロシアはもっとひどい国だろう。もっと悪くなるのと悪くなるのと、どっちがいいんだ?悪い方がいいに決まっている。それが、与えられた選択肢のすべてだ。

「ここが嫌か?じゃあ、消せろ」。 そうか、ありがとう。少なくとも、あなたが育ち、かつて愛し、夢見た世界から離れることは許されている。彼らは、信頼できる市民でその空白を埋めることだろう。もちろん、あなたが徴兵年齢の男性でなければ、の話だ。徴兵年齢なら、あなたはどこへも逃げ出せない。

ウクライナの勝利を願っている。しかし、私は明るい未来について、無条件な楽観主義を抱いてはいない。

今はロシアの侵略と外敵の存在によって社会の一体性が確保されている。戦争が終わると同時に、内部矛盾が先鋭化するだろう。

戦争は世界共通の議論になる。戦争は、経済におけるあらゆる問題、抑圧、独断を正当化するために役に立つだろう。被害者は常に正しい。被害者はすべてを許され、何の責任も負わない。

ロシアが地球上から消えることはないので、ロシアに近いこと、侵略の記憶があるために、常に戦争の準備をすることが可能となり、必要でさえある。こうして戦争は、大いなる理由Great Reason、問いであり答えであり、統一して事を起こす力、国家の理念、私たちの運命そのものになる。一方、主要な外敵が手の届かないところにいるときには、手の届くところにいる内なる “敵 “に対処することになる。

あなた自身のこの部分の拒絶の一部としてソビエトのすべては消し去られるだろう。それは恥ずべきものとなり、抑圧され、文化の貧困化と結びつき、包摂性の低下、許容できるアイデンティティの範囲の縮小をもたらすだろう。ここで誰が罪を犯しているのか?ロシアだ。しかし、だからといって、「余計な」市民がそれで楽になるわけでもない。

多くの人々が有力な風向きに従うか、あるいは「祖母はロシア化されたのだから、自分は人前では自制しよう[ロシア語を話さずにウクライナ語を話す。原文は、人前で自分をレイプする]」というロジックに従うにつれて、私たちは「侵略者の言語」を拒否するというグロテスクなパフォーマンスを数多く目にすることになるだろう。

ウクライナでの戦争を生き延びたウクライナ人は、ベルリンでの戦争を生き延びた人たちよりもより多くの権利があると当然感じるだろうが、リヴィウやキーウの人たちは、戦争を最も身近に体験した国内避難民や占領地の住民にはこの論理を適用しないだろう。なぜなら、「私たち」と共通言語を見出さなければならないのは「彼ら」だからだ。

「余計な」市民の権利を守ろうとする訴えは、何か疑わしいもの、偽物、クレムリンの支援を受けたもの、そして作為的で非現実的、あるいは危険なものと見なされることになる。ウクライナ国家があまりにも長い間容認してきたもの、現在の戦争につながったもの、今こそこれらにきっぱりと対処する時なのだ。

私は、この「余計な」ウクライナ市民に、何も良いことはないだろうと思っている。せいぜい「愛国的基準」で黙々と同意を履行する二重生活のようなものになるだけだ。自分の国でよそ者であること。新しい抑圧は、古い抑圧によって正当化され、それらを継続的で、果てしなく、一見、正当なものにしてしまう。

未来は迫り来る靴音のようにも聞こえる。それでもまだ、希望はある。とりわけ、私が間違っていれば。

Anatoli Ulyanovは、ウクライナ出身でロサンゼルス在住のジャーナリスト、ビジュアルアーティスト、ドキュメンタリー作家である。彼のブログ、Facebook、Twitter、Instagram、Telegramで連絡を取ることができる。写真:Natasha Masharova。

出典:https://lefteast.org/the-superfluous-people-of-eastern-ukraine/

(OVD-Info)反戦弾圧のまとめ。戦争の半年間

(訳者まえがき)以下に訳出したのは、ロシアのOVD-infoが8月に公表した、ロシア国内の反戦運動への弾圧状況についてのレポート。レポートは6月以降毎月定期的に出されている。6月のレポートでは、反戦運動での拘束者数が16,309だったが、8月に16,437となっているように、拘束者の数はそれほど延びていない。このレポートでも触れられているように、圧倒的に多くの拘束が開戦直後に集中しているからだが、こうした事態をふまえて、日本のメディアなどでも、ロシアでの反戦運動がほとんどみられないかのように報じられることがあるが、逆に、弾圧が強化されて抗議運動がより一層困難になっているともいえる反面、抗議行動の側のねばり強い抵抗によって拘束をまぬがれつつ抗議を展開しているケースも少くない。このことは、反戦運動関連のロシアのTelegramの情報発信は、現在も活発だ。(たとえば、フェミニスト反戦レジスタンスストップ・ザ・ワゴンなど)また、アーティストのコンサートの中止が何件が報告されているが、大衆文化における反戦の雰囲気が根強くあることも示している。戦争を阻止する力は、外交だとしても、戦争当事国の民衆による戦争拒否の運動がなければ、政府は戦争を断念することはなく、戦争は止まらないと思う。この意味で、ウクライナとロシアの戦争を拒否する民衆の運動に注目していきたい。なお、インターネットの遮断やバイオメトリクスによる監視カメラの問題は別途紹介したい。今回紹介した以外のOVD-infoのレポートのリストが最後に紹介されています。(小倉利丸)

半年前、ロシアはウクライナへの軍事侵攻を開始した。ウクライナで民間人を殺害することに加え、ロシア国家は国内でも弾圧を続けている。ロシアにおける反戦姿勢の人々への弾圧について、主なデータをまとめて報告する。

集会の自由の制限

反戦デモに関連した拘束は少なくとも16,437件にのぼると言われている。この数は、街頭での拘束に加え、ソーシャルネットワークでの反戦投稿による拘束138件、反戦シンボルによる拘束118件、反戦デモ後の拘束62件を含んでいる。

この数字は2022年8月17日時点のものである。

算出方法についてここで詳しく説明をしている。


さらに、集会や集会後の拘束に加えて、当局が顔認識システムを使った「予防的」拘束も行われている。このシステムは8月22日の国旗記念日にも使用され、モスクワでは少なくとも33人が拘束された(他の都市でのこうした拘束については知らされていない)。

OVD-Infoは、このデータと未確認情報に基づき、反戦デモにおける弁護士と人権擁護者の迫害について、国連特別手続機関に文書submissionを送付した。また、平和的な集会で拘束されたクライアントに面会しようとした際、警察署で殴打されたアレクセイ・カルーギン弁護士に関する状況についても文書を送付した。

人権擁護者への迫害について国連から問われたロシアは、カルーギンがすべての責任を負うと主張し、言われているような問題はないと主張した。反戦活動家への迫害についての疑問は無視されたが、OVD-Infoが「外国のエージェント」であることに2ページが割かれ、このプロジェクトのウェブサイトはブロックされた。

立法レベルでの弾圧

2022年8月は、ロシア国会議員の休日のためか、新規立法はなかった。ウクライナ戦争が始まって以来、国会議員たちは合計で16の新しい抑圧的な法律や既存の文書の改正を採択した。

訳注:上図はオリジナルのスクリーンショットです。オリジナルデーターは表計算シートになっており、より詳細なデータが表示できます。データは、https://airtable.com/shr5LibdcC0yK4zSm/tblb1uvcX0EoITrgI でアクセスできます。

刑事事件

訳注:オリジナルの地図データのスクリーンショットです。オリジナルの地図では、各行政地域ごとに事件の件数が表示されるようになっています。ここにアクセスしてください。

OVD-Infoは、データを検証する機会を得るために、クリミアにおけるロシア当局の弾圧に関するデータを収集している。

182日間の戦争の間に、224人が反戦の刑事事件の容疑者または有罪者となった。

今月、OVD-Infoの弁護士は、新たに5件の刑事事件で被告人の弁護を開始した。Alexey Onoshkin、Ilya Gantsevsky、Marina Ovsyannikova、Andrei Pavlov、Sergei Veselovの5名だ。OVD-Infoの弁護士は、合計で22件の反戦刑事事件を抱えている。

8月24日の朝、エカテリンブルクの前市長Yevgeny Roizmanに対する、ロシア連邦刑法第280条第3項(軍隊の「信用失墜」に関するもの)の冒頭部分に基づく刑事事件が判明した。

行政事件

出典 メディアゾナ
更新日:2022.8.23

Code of Administrative Offences第20.3.3条の事件数による上位5地域。
モスクワ-517件。
サンクトペテルブルク-229件。
クラスノダールクライ-179件。
スベルドロフスク州…107件。
クリミア共和国…107
出典 メディアゾナ

私たちは、公然と戦争に反対する人々を超法規的に迫害した少なくとも7つの事例を知っている。たとえば、鮮やかな緑色を浴びせられ、襲われ、ドアに葬式の花輪をかけられ、郵便受けに脅迫状を入れられ、非難に関する事件に着手しなかったとして法務省や内務省から解雇され、警察は「Ukronaziがここに住んでいる」と書いた荒らしを捜索しないなどである。

「外国の諜報員」「好ましくない組織」。

8月は法務省の職員が休暇に入ったようで、「外国人エージェント」の登録に新しい人や組織は現れなかった。しかし、この月、検察庁は「ジャーナリスト労働組合」に対し、外国エージェンシー法の要件を満たしていないとして組織の清算を要求し、裁判所はラジオ・リバティの外国エージェント表示がないことによる罰金未払いによる会社破産手続を開始した。

8月23日、法務省はサンクトペテルブルクのGolosのコーディネーターであるPolina Kostylevaを「外国人エージェント」の登録から抹消した。これは同省のホームページに記載されている。

反戦弾圧に関する7月のまとめ」が発表されて以来、「The Ukrainian Canadian Congress」「The Macdonald-Laurier Institute」「Ukrainian National Federation Canada」という組織が「望ましくない組織」のリストに掲載されるようになった。このリストには、現時点で65件が掲載されている。

さらに、現時点では、検察庁はすでに、調査プロジェクト「The Insider」の19番目のドメインを禁止情報の登録対象に加えている。

独立メディアに対するブロッキング、検閲、圧力

Roskomsvobodaによると、約7000のサイトが「軍事検閲」によってブロックされたとのことだ。Igor Krasnov検事総長によると、ウクライナとの戦争が始まって以来、13万8000のインターネットリソースがブロックされ、削除されている。

今月、3つのメディアが「ロシア軍の信用を落とした」として罰金を科された(「ジャーナリスト・メディア労働組合Journalists’ and Media Workers’ Union」、「新物語-新聞(Novaya rasskaz-gazeta)」、2回目となる「夕刊Vedomosti(Vechernie Vedomosti)」。

8月には、アーティストYulia TsvetkovaMirror(Zerkalo)のVKページ、およびOVD-Infoがブロックされた。VKページのブロック理由は、「ロシア連邦軍が行った特別軍事作戦、その形態、軍事作戦の実施方法、また、民間インフラ施設への攻撃、ウクライナの民間人やロシア連邦軍の隊員の中に多数の犠牲者が出たこと、総動員に関する情報など、信頼性のない社会的重要情報を含む情報資料」であったという。

ルホヴィツキー地方裁判所も、OVD-Infoのウェブサイトのブロックを解除することを却下した。

この1ヶ月間、検事総長は、抑圧されたイスラム教徒を擁護する人権活動家Svetlana Gannushkinaが参加した記者会見と、様々なメディア、例えば「Culture of Dignity」、「Tell Gordeeva」、「Rain」等への彼女のコメントを登録対象に加えている。TJは、ホームページのブロッキング後、訪問者が著しく減少したため、閉鎖を発表した。

少なくとも5つのコンサートや反戦の立場を表明する人々のイベントが検閲された。当局はAloeVeraAsya KazantsevaKrovostokDoraAnacondazの公演を妨害した。

OVD-Infoのレポートとデータへのリンク。

出典:https://data.ovdinfo.org/summary-anti-war-repressions-six-months-war#2

ロシアとウクライナ国内の反戦運動から―戦争で戦争を止めるべきではない

以下は、『市民の意見』2022年8月に寄稿した原稿に典拠のリンクと若干の加筆をしたものです。

1 危機的な日本の「平和主義」

2月24日に始まったロシアのウクライナ侵略からすでに半年になる。国会の与野党を含めて、おおかたの保守・右翼や保守メディアは、9条改憲反対の人々をターゲットに、覇権主義的な中国の動きを示唆しつつ「もし日本がウクライナのように侵略されたらどうするのか」と詰め寄っている。この詰問には、「ウクライナの人々は断固として武器をとって抵抗している」という自衛のための武力行使と、おびただしい非戦闘員の犠牲が強調される。非道なロシア軍、非力な市民、この市民を守るウクライナ軍という構図のなかに、国際紛争の解決の道は武力による決着以外にはないかのようだ。果してそうなのだろうか。

反戦平和運動のなかで、「侵略に対して武力による抵抗や反撃を選択しない」と断固とした態度で応える人達の声が確実に小さくなっているように感じている。ウクライナへのロシアの軍事侵略をきかけに、反戦平和運動のなかでも、自衛隊を完全に否定して文字通りの意味での非武装を主張する人達は、いったいどれだけいるのか。国会野党でこうした主張をする政党はもはや存在しない。立憲民主党は「自衛隊と日米安全保障条約を前提とした我が国の防衛体制というものを考えている政党」を明言しており、共産党は原則として「自衛隊=違憲」論の立場だが「自衛隊=合憲」の立場もとることを否定しておらず、社会民主党も「自衛のための「必要最小限度」の防衛力」を肯定している。自衛隊の争点は、自衛隊そのものの是非ではなく、自衛権行使の枠内での自衛隊の存在を容認しつつも、「自衛」の限度を越えて自衛隊を強化しようとする自民党の軍拡路線に焦点を絞って反対をするという現実路線が反戦平和運動の主流になっている。かつて自衛隊の海外派兵に反対する運動の一部に海外派兵されない自衛隊なら容認するような雰囲気があったように思う。そして今、海外派兵のタガはとっく外れている。敵基地攻撃能力をもたないなら、武力を保有することは容認するところまで野党の9条護憲の内実は後退してしまっているのではないか。紛争解決の手段としての武力行使をいったん認めてしまえば、暴力が正義を体現することになるのは必定であり、歯止めのない軍拡へと向うことは自明だ。

挑発的な想定問答、「もし日本がウクライナのように侵略されたら…」が繰り返されるなかで、これまで9条改憲反対を主張してきた政治家から学者や知識人、平和運動の活動家までがうろたえたり、言葉を濁すことがあれば、そのこと自体が、9条は理念としては大切だが現実はそうはいかないかもしれない…という戸惑いのメッセージになる。ウクライナの悲劇とロシアの暴挙を目の当たりにして、なんとかウクライナの人々を救わなければならないという切実な思いに駆られるとき、武力による反撃は致し方ないのでは、NATOなどの軍事支援も否定できないのでは、それがウクライナの人々の思いであり、最適な戦争終結への道だという方向に考え方が変わることはおおいにありうる。そうなると漠然と「平和」を指向しているリベラル寄りの世論は、現実主義的な発想に屈し、確実に9条改憲に流れるだろう。

しかし、「もし日本がウクライナのように侵略されたら…」という世間に蔓延している問いは、9条改憲や自衛隊の更なる強化に肯定的な側が、みずからの主張を正当化するために、9条改憲に反対の人達に無理難題を突きつけて「改憲もやむなし」ということをしぶしぶ認めさせるための方策のひとつになっている。こうした問いの対して私たちがとるべき「答え」はひとつだ。つまり、明確に武力による威嚇も武力の行使も紛争解決手段として選択すべきではないし、陸海空軍だけでなくいかなる戦力も保持すべきではないから、国家の交戦権も自衛権も否定する、と断固として答えなければならない。「あなたの最愛の家族が目の前で殺されたり虐待されても、あなたは武器をもって反撃しないのか」などという問いに対しても明確に「NO」と答えることだ。このような想定問答に応じる必要はない、とい態度もありうる。たぶん、反戦平和運動の担い手たちも含めて、この詰問を実は内心に抱えており、その答えを必要としていると思う。だからこそ「答え」を用意することは必要だと思う。同時に、戦争や武力行使をめぐる問題は、現実政治や国際情勢に対して、どのような原則的な考え方を示すのか、という問題でもある。すなわち、問題解決の手段として暴力を行使することは、いかなる意味で正当化できるのか。武力行使とは、敵とみなした人間を殺す行為を国家が公然と承認し、更には「国民」を――最近は外国人の傭兵すら動員されている――殺す行為の主体とすることだから、国家の名における殺人をはいかなり理由によって正当化しうるのか、という問いに答えることが必要になる。

2 圧倒的多数は戦わないことを選択している

ウクライナの圧倒的多数の民衆は武器をもって戦うという選択よりも、可能であれば戦闘地域から避難する、避難できなければ地下など爆撃から身を守れそうな場所に隠れることを選択している。国外避難ができない兵役年齢の男性のなかには、違法に国境を越えて国外に逃れる人もいる。こうした避難する人達が、なぜ武力による抵抗を選択しないのか、この行動を積極的に意味づけをすることが必要だ。そうしないと、こうした避難者の命を救うためにこそ軍が存在し、軍による敵への抵抗があってこそ避難もまた可能になっているのだ、というレトリックがまかり通ることになる。私たちは、彼らの行動から武力行使は紛争解決の手段にならないから「避難」という選択をしているのだ、ということを教訓として学ぶことが必要だ。

ウクライナの平和運動の中心的な担い手のひとり、ユーリイ・シェリアジェンコは、社会学者の世論調査では、実際に武装抵抗に従事している人達は全体の6%しかおらず、多くの人達は非軍事的な協力に関わっているが、それも積極的な意思に基づくかどうか疑問だと以下のように指摘している。

「戦争への全面的な参加は、メディアが伝えるところですが、それは軍国主義者の希望的観測の反映であり、彼らは自分自身と全世界を欺くためにこのような絵を描くために多くの努力を払っています。実際、最近の評価社会学グループRating sociological groupの世論調査では、回答者の約80%が何らかの形でウクライナの防衛に携わっているが、軍や領土防衛に従事して武装抵抗したのはわずか6%で、ほとんどの人は物質的あるいは情報的に軍を「支持」するだけであることが分かっています。それが本当の意味での支持かどうかは疑問です。」

3 ウクライナの戦争動員と「大きなイスラエル」

ウクライナは2014年にクリミアをロシアによって併合され、また東部における様々な反キエフ中央政府の動き(高度な自治の要求、ウクライナからの独立、ロシアへの併合など)がロシアの介入のなかで現在に至るまで長期の戦争状態になってきた。

ロシアの侵略によって、今や正義の軍隊であるかのようにみなされているウクライナ軍は必ずしも評判のよい組織ではなく、2014年以降ロシアの介入も含めて国内に深刻な武力紛争を抱えながら、徴兵制への反対が世論の8割を占めている。武力行使を選択するよりは別の解決を望む声が大きい。だから、クライナ政府はいわゆる義勇軍を各国の大使館を使って募集することまでやってきた。日本でもウクライナ大使館は以下のような募集を2月27日にツイッターに掲載し3月2日に削除している。

「ゼレンスキー大統領は27日、ボランティアとしてウクライナ兵と共にロシア軍に対して戦いたい格国[原文のママ:引用者]の方々へ、新しく設置されるウクライナ領土防衛部隊外国人軍団への動員を呼びかけた。お問い合わせは在日ウクライナ大使館まで。」

ウクライナでは、徴兵制が2012年に停止された後に2014年に再導入される。ウクライナでは徴兵に備えて、子どもへの軍事訓練が今回の戦争以前から行なわれてきた。18歳の徴兵年齢に先だって、徴兵制に備えた軍事的愛国心教育が学校のカリキュラムの必須項目となっている。この教育には野外訓練や射撃訓練が含まれ、極右団体は、子どもたちの軍事サマーキャンプ開催の予算を政府から獲得している。

ウクライナは徴兵制がある一方で良心的兵役拒否の制度によって兵役免除が可能な建前があるが、これが機能していない。非宗教的信念を持つ人には適用されず、兵役への代替服務も懲罰的または差別的だと批判されてきた。

ゼレンスキーは、4月初旬に「我々は間違いなく、独自の顔を持つ『大きなイスラエル』になる。あらゆる施設、スーパーマーケット、映画館に軍隊や 国家警備隊の隊員がいても驚くことはないだろう。今後10年間は、安全保障の問題が最優先課題になる」と述べた。このことはとくに中東のアラブ地域では衝撃をもって受けとめられた。イスラエルにとってのアラブ系住民への監視のシステムは、ウクライナにとってのロシア系住民の監視のシステムに転用できそうだ。実際にウクライナは欧米諸国では禁じられている高度な顔認証の監視技術を導入するなど、すでに軍事監視社会への道を進みつつある。

3.1 ウクライナ平和主義者運動の声明

2019年に設立されたウクライナの平和主義者運動が4月に声明を出し、そのなかで、ロシアとウクライナ双方が真剣に停戦の努力をしていないことを厳しく批判している。

「私たちは、双方の軍事行動や、民間人に危害を加える敵対行為を非難する。私たちは、すべての銃撃を停止し、すべての側が殺された人々の記憶を尊重し、十分な悲しみの後に、冷静かつ誠実に和平交渉に取り組むべきであると主張する。

私たちは、交渉によって達成できない場合、軍事的手段によって一定の目標を達成しようとするロシア側の発言を非難する。

私たちは、和平交渉の継続は戦場での最良の交渉ポジションを勝ち取ることにかかっているというウクライナ側の発言を非難する。

私たちは、和平交渉中の両陣営の停戦に対する消極的な姿勢を非難する。」

そして、ロシアもウクライナも人々の意思に反して、兵役や軍への支持を事実上強制しするような慣行は「国際人道法における軍人と民間人の区別の原則に著しく違反するもの」だと批判するとともに、ロシアとNATOによる武装過激派への軍事支援を批判している。

3.2 戦争の性格:ファシズムの戦争

この戦争は、ロシア側にもウクライナ側にも無視できない極右や排外主義的な愛国主義による影響がある。ウクライナに関していうと、最近やっと注目されるようになったネオナチを思想的背景にもつアゾフ大隊の問題は、その軍や政府への影響について、評価が分かれている。日本や西側のメディアは極力その影響を過少評価しようとしており、ロシア政府や政府系メディアは誇張することによって、「軍事作戦」の正当化を図ろうとしている。選挙結果をみる限りウクライナの極右の影響力は無視できるほどの大きさしかないが、東部の戦闘にとってアゾフ大隊の影響力は無視できない。アゾフ大隊は民生部門から政府機関に至る様々な関連団体を含むアゾフ運動のなかの軍事部門ともいうべきこのだ。Centuriaのような軍の幹部候補生のグループもあり、社会に浸透すればするほど、主流の政治システムとの見分けがつかなくなることは多くの欧米諸国における極右の主流化と共通した現象かもしれない。

他方でロシアの場合は、プーチンの最も有力な後ろ盾がロシア正教であり、有力者たちがこぞってウクライナへの侵略やウクライナのロシアへの併合を主張しており、これがロシアからのウクライナの正教会の離反(ウクライナ正教の成立)を招いたが、こうした人口の多数が信仰する宗教が絡むことを考えたとき、この戦争を単純にプーチンの狂気とか独裁には還元しない方がいいと思う。そしてロシアのウクライナ東部での戦闘の主要な担い手もまた、ロシアの極右武装集団であり、これにロシア政府もまた大きく依存している。たとえば、カトリック系のウエッブサイトLa Croix Internationalの記事によれば、ロシア正教会のキリル総主教は、ロシアのテレビ説教で、ウクライナの戦争を「神から与えられた神聖ロシアの統一」の破壊を目論む悪の力に対する終末的な戦いとし、ロシア、ウクライナ、ベラルーシが共通の精神的、国家的遺産を共有し、一つの民族として団結することを「神の真理」だと強調したという。戦争を擁護するこうした主張がロシア正教の最重要人物から出されているように、この戦争はプーチンの戦争に矮小化できない宗教的背景もある。

4 ロシアの反戦運動と弾圧

ロシアの政治犯の救援を行なっているODVinfoの報告書(別の記事「(ОВД-NEWS)ロシアの反戦、反軍レポート」など)によると戦争が始まって数週間の間に、ジャーナリスト、弁護士、医師、科学者、芸術家、作家など、さまざまなコミュニティの代表者がロシア軍の行動への反対を表明する公開書簡が何十通も送られており、ソーシャルネットワークには、戦争を非難する数千の記事が掲載され、反戦集会はロシア全土で開催された。また、ウクライナの住民を支援する団体への寄付が増え、ウクライナで被災した市民への個人寄付も大幅に増加したという。

戦争から2週間あまりの間だけでも、反戦デモでは、未成年者、弁護士、ジャーナリストを含む1万4千人以上が拘束され、活動家、人権活動家、ジャーナリストのアパートの捜索も相次いだ。そして、集会やデモといった集団行動はことごとく抑圧されるようになる。連邦のコミュニケーション・情報・マスコミ監督庁(Roskomnadzor (RKN))は、軍の公式記録を用いることを義務化し、違反した場合には、罰金が課され、更にサイトのブロックも可能になった。また非政府系メディアも次々に閉鎖されはじめ、Twitter、Facebook、TikTok、Google、Youtubeなどが相次いで規制されている。

こうした大規模な弾圧にもかかわらず、抗議行動は様々な創意工夫のなかでロシア全土で展開されている。集団行動が困難ななかで、一人でポスターやプラカードをもって抗議の意志表示をする一人ピケが次々登場した。たった一人のアクションでもネットで拡散されることでの影響力は大きい。街頭のグラフィティの数も多く、こうしたアクションのノウハウがSNSで拡散された。日本ではあまりお目にかかれないユニークな抗議の手法もある。花壇の植え込みの園芸用ラベルに反戦のメッセージ書いたり、店の商品に値札に模した反戦メッージを貼ったり、紙幣に反戦のメッセージを書くなどだ。封鎖をまぬがれたTelegramが、重要な情報発信の手段になっている。たとえば、フェミニスト反戦レジスタンスや上述したODVinfoなどが活発に抗議行動を写真や動画入りで発信しつづけている。

日本のメディアがロシア国内の動向で注目したのが5月9日のロシアの戦勝記念日だった。もっぱらロシア国内がプーチンとロシア軍賛美一色の記念パレードになったかのような報道があふれた。しかし、実際には、ロシア全土で様々な抗議のアクションが展開された。戦勝記念パレードにまぎれて戦争反対のプラカードを掲げるなど、多くの抗議があった。

また、人権団体や弁護士による兵役拒否者への組織的な支援運動も重要な抗議行動の一翼を担っている。どのようにしたら徴兵を忌避できるのかについての具体的な対処法が書かれたマニュアルも配布されている。ウクライナ同様、兵役拒否は極めて難しく、建前上は良心的兵役拒否が可能なはずだが、現実には厳しい規制があり、兵役拒否者に対する様々な制裁が課されている。

こうした合法的な抗議以外に、もっと大胆な行動もみられるようになっている。ロシア軍の軍需物資を運ぶ鉄道への組織的な妨害が、ロシアとベラルーシで頻発している。「ストップ・ワゴン」のウエッブページでは、戦争を阻止するために物資補給を断つ手段として鉄道への妨害があると述べている。このウエッブには、「妨害」に関するノウハウや情報が掲載され、そのSNSでは、脱線や線路の爆破のような目立つ行動はサボタージュの5〜10%程度に過ぎ、多様な妨害がある述べている。また、ロシア軍の兵士募集の施設が度々放火されている。人々は、ロシアの閉塞した状況に直面するなかで、19世紀のナロードニキの運動を想起しはじめている、ともいわれている。

特徴的なことは、ロシア国内の反戦運動で重要な役割を果たしているのが女性たちの運動だ。とくにフェミニスト反戦レジスタンスの活動は重要な意味をもっていると思う。このグループが戦争から100日目に、ロシアを「ファシズムの兆候のある国」だとして声明を出している。この声明の一部を引用しよう。(前文の日本語訳はこちら)

声明:戦争の100日-私たちの反戦抵抗の100日(抄)

「戦争の100日、戦争犯罪の100日、フェミニストの反戦抵抗の100日。あなたと私は、この100日間で戦争を止めることはできなかった。しかし、さまざまな時代や空間の反戦運動の歴史を研究すれば、反戦運動そのものが戦争を終わらせるわけではないことがわかる。では、なぜ私たちはこのようなことをするのか、なぜ街頭に出るのか、なぜ強権政治の中で新しい抗議戦略を考案するのか、なぜできる限りの人々を守るのか、なぜ手の届く被害者を助けるのか。

おそらく、すべてのロシア人反戦派は、この「なぜ」に対してさまざまな反応を示すだろう。ある者は道徳的義務として、ある者は自分たちの例が誰かに伝染すると信じて、ある者は子どもたちに自分は黙っていなかったと伝えることが重要で、他の者は失った声と失った主体性を回復するための方法として、この方法をとる。しかし、反戦運動は政治的にも考えなければならない。民主主義制度が解体され、政治が抹殺され、選択肢も選挙もなく、独裁がエスカレートしているこの国で、私たちロシア全土の反戦運動が草の根の主要な政治勢力にならなければならないのである。しかし、私たち反戦運動は、 党派的で目立たない抵抗のインフラを構築し、言語を変え、文化を変え、政治スペクトルの態度を変えつつある。私たちは、一般的な反プーチン急進派の重要なプラットフォームになることができる。私たちはすでに、全国に活動家と直接行動のネットワークを織り交ぜながら、そうなりつつあるのだ。(後略)」

彼らは、反戦運動を高齢者の市民たちにも拡げる努力をしている。そのためにSNSやインターネットでの発信だけでなく、ロシア政府系メディアにしか接する機会のない人達に対して、積極的に紙媒体の新聞を発行して配布するなどにも力を入れている。

5 おわりに―民衆が戦争を終らせる

戦争状態にある地域に暮す人々を、たとえば「ロシア人」「ウクライナ人」というように一括りにしてとらえることを私は避けたいと思う。いずれの国も多民族国家であり、様々な文化的背景をもつだけでなく、エスニシティ、ジェンダーから思想信条まで多様である。そのなかで私は、戦争を拒否する人達、つまり人を殺すことによって自らが殺されないことを選択しない人達の生き方は、いずれの国にあっても過酷であって、臆病者や反愛国者のレッテルを貼られてコミュニティから排除・迫害され、投獄や暴力にすら晒されながらも、その意志を守り通そうとする人達を支持したいと思っている。こうした態度を選択する人々の生き方や権力との対峙のなかに、必ず日本における殺さない選択をする場合に学ぶべきものがあるに違いないからだ。

ウクライナの戦争は、これまでになかった深刻な影響を私たちに残すかもしれない。ひとつは、この戦争の結果がどうなろうとも、戦争を鼓舞するウクライナ側とロシア側の極右にとっては更に大衆的な支持を獲得するチャンスになった、という点だ。いずれの国においても、極右に共通する暴力的な排外主義、家父長主義、差別主義がナショナリズムや愛国主義によって免罪され、更に、ウクライナや西側の極右にとっては、「正義」の担い手にすらなり、西側諸国の建前の人権尊重を退けて、政治の基本的な枠組を地政学的な軍事安全保障優先へと導くことになる。ロシアに関しても、日本国内の印象はアテにならず、G20の参加諸国の対応をみても欧米諸国が多数を占めることができなくなっており、まさに「正義」が二分した状態だ。この戦争をきっかけにして、グローバルに極右がメインストリームに浸透し、多くの人々が自覚しないままにメインストリームが極右化することになるのではと危惧する。

制度的には、戦争の終結は、外交交渉や政府の決断など、国家権力の意思決定に委ねられるし、歴史の正史では、そのように扱われる。しかし、民衆の行動も考え方も国家の態度によっては代表しえない多様なものだ。日本のばあい、民衆の戦争協力は決して積極的ではないが、公然と拒否するほどの力をもつには至っていない。リムパックのような大規模軍事演習で周辺諸国の脅威を煽りつつ、日本や米国の挑発については沈黙することによって、潜在的な厭戦気分を政府は必死になって繰り返し払拭しようと試みている。

私たちは、民衆のなかにある多様な言葉にならない戦争に背を向ける感情や態度が直面している不安や危機をそのままにしていていはいけない。戦争に背を向けること、いかなる軍事的な危機にあっても武力による解決は間違いであることを、情緒に訴えるだけではなく、明確な理論的な言葉にしなければならない。それなくしてナショナリズムや愛国主義といった戦争のイデオロギーを無化することはできない、と思う。国家に武力を行使させないためには、国家に武力を保持させないことが大前提だ。自衛隊も米軍も廃止以外の選択肢はない、ということを、戦争を目前としているからこそ言い切ることが必要だ。あいまいな「自衛力」の容認のような態度をとるべきではない。この意味で、戦争の渦中にある国で暮す人々がいかに戦争に背を向けようとしているのか、そこから一切の武力を否定する反戦平和運動の原則を再構築することが、日本の反戦平和運動では必要になっていると思う。

いかなる理由があろうとも武器をとらない

私たちはいかなる理由があろうとも武器をとらない、という強い決意がなければ、日本の戦争は阻止できない。私たちは権力者でもなければメディアに影響のある有力な発言力をもつ者でもないし、SNSのインフルエンサーでもない。私たちが武器をとらないと宣言しても、それは孤立する以外にない事態になりうることでもある。しかし、まだそこまでは追いつめられてはいない。とはいえ、ロシアによるウクライナ侵略とその後今に至るまで継続している戦争をめぐる報道や情報に接するなかで、武力攻撃を受けるのではないかという目前の不安感情が喚起されて、「こうした事態を回避するためには自衛力の行使もやむをえないのではないか」という感情をもつ人達は、増えているように思う。

自衛のための武力行使を明確に否定すること

護憲や平和憲法擁護の議論の最大公約数になりつつある立ち位置は、自衛力の保有を是認しつつ、この自衛力が実際に行使されないように、外交手段などによって平和の維持に努力すべきであって、政権与党や右翼のように、率先して戦争に前のめりになることには反対だ、というあたりにあるように思う。戦争に前のめりになる具体的な政治的対応が自民党の改憲であるとして批判する場合でも、自民党や右翼との対峙の基軸が、「自衛」の暴力を肯定するか、巧妙に回避するのであれば、武力あるいは暴力の行使が意味する本質的な課題について、日本の支配的な権力や右翼の主張を支える「自衛」の問題に太刀打ちできずに、ずるずると国際関係の現実主義の罠に嵌ることになりかねない。そもそも政府がいう「自衛」=自己防衛の「自」とは彼ら自身の権力のことであって、これを人々が「自分たち」の「自」だと誤解させるようなレトリックがある。彼らは、民衆の命を犠牲にして彼らの「自衛」を図る。

これに対して、いかなる理由があろうとも武器はとらない、という立場は、自衛のための武力行使を明確に否定することが主張の要をなし、同時に、敵がいかに残虐な侵略者であっても、彼らに対して武力によっては対峙しない、という覚悟をもつということでもある。その上で非暴力不服従の戦略と考え方を確立することが重要になる。

もうすこし身近な言い方をすれば、私は人殺しはしたくないしできない、だからといって自分の安全のために誰かに私のかわりに人殺しをしてもらうというようなことも考えたくない、ということだ。戦争について「殺されたくない」という言い回しがあるが、これでは決定的に不十分だ。なぜなら殺されたくないから、自衛のために殺すことは許容される余地を残すからだ。むしろ殺さないことが重要なのだ。この極めて素朴な日常生活感覚が社会関係の基礎にあるからこそ、社会は殺し合いを問題解決の選択肢とすることについては、ある種のタブーとして封印する。ところがこの封印の例外に、国家による暴力の独占があり、これが法の支配のもとで正統性を獲得してきたのが近代国民国家だ。今問わなければならないのは、この国家による例外的な暴力をそのままにはできないということだ

戦争状態のなかで(あるいは目前に到来しそうだという不安のなかで)、人殺しはしたくないとかできないといった感覚は、あっという間に覆される。だから常備軍ではなく徴兵によって短期間の訓練だけで戦場に派兵される人達も「兵力」になりうる。同様に、平和運動の理念もまた、目前の脅威にさらされた(ように感じられる)場合、容易に、平和を維持するために平和を脅かす敵を物理的に屈服させなければ不安でならない、これこそが平和を維持する唯一の手段だというように、安倍が主張した「積極的平和主義」のような戦争を平和と言いくるめるようなレトリックに容易に足をすくわれてしまう。この不安感情のなかで、人々はナショナリズムの感情によって統合され、この人工的に構築されたナショナリズムが、あたかも、何百年のこの国で続いてきたかのような物語を次々に生み出すことになる。祖国のないはずの労働者階級に祖国ができ、社会主義もまたナショナルな社会主義に、つまりナショナル・ソーシャリズムに変質することになる。

平和を徹底させるためには、こうした罠を可能な限り回避しないといけない。そのためにはいかなる場合・理由であれ、武器は持たない、殺されても殺すことはしない、という強い決意が必要になる。これは易しいことではない。武器をもたないという選択は臆病者の選択だが、臆病ではとうていやってられないタフな選択なのだ。しかも、この選択は、いわゆる「敵」の脅威だけでなく、味方からの精神的肉体的な抑圧や孤立、戦争体制をとる自国政府による弾圧をも被るから、二重の暴力に晒される。多くの兵役拒否者や脱走兵たちは、この二重の迫害を生きる覚悟をもつことになる。だからこそ、戦争当事国において武器を持たないこと、殺さないことを選択し、なおかつ戦争に抗って闘うことをあきらめない人々との連帯は、彼らを孤立させないためにも、とても大切なことでもある。

正義について

私が、武器をもたないという選択をすべきだと主張する大前提には、暴力は正義を体現することはできない、という認識があるからでもある。私が正義を確信したとすれば、正義のための暴力は許容されるのではないか、という疑問があるかもしれない。しかし私が確信した正義は本当に正義だといえるのかどうかを、「戦時」や戦争の危機が目前に迫ったコミュニケーション状況のなかで、客観的に判断することはほとんど不可能だ。戦争は、自国民や兵士が命を捨てる覚悟なしには、遂行できないから、極めて強度な国民統合の機能が働かなければならない。軍事行動による犠牲は避けられない以上、社会が総体として軍の行動を支持するような合意を獲得できるように政府は動く。伝統的なメディアもSNSも、あるいは社会的影響力のある知識人やインフルエンサーもこぞって戦争を肯定するような動きが形成され、ごく一部に、例外的な事象として戦争反対の主張が存在するという構図が描けなければ戦争はできない。こうした状況のなかで、「正義」は戦争の正当化のための戦略的イデオロギー操作としての言説の網のなかで、「正義」の意味をめぐるヘゲモニー構造が形成され、結果として、国家の軍事行動を正当化する言説に「正義」の意味内容が与えられ、この正義を根拠に正義の実現のための手段として暴力が正当化されることになる。マージナルな反戦集団が発する「正義」はむしろ「不正義」のレッテルを貼られ、リベラルな知識人の議論はアカデミズムの象牙の塔のなかでのみその自由を与えられるに過ぎず、社会的な影響力が削がれる。だから、こうした状況のなかで、反戦運動が、客観的な情勢分析から「正義」を判断することは極めて困難な作業になる。

正義は言葉を介してしか証明しえないものだが、戦争状態にあるとき、言葉もまた戦争をめぐるレトリック、欺瞞、嘘、陰謀など様々な戦略的イデオロギー的な影響を受けて武器化される。正義の証明として暴力が正当化されるようにみえるとき、そもそもの正義が偽装された正義ではないか、と疑うべきだろう。しかし、その疑いすらも多くの人々の脳裏にはもはや浮かばないかもしれない。だから、原則の確認が必要になる。力の強さと正義とは比例しないだけでなく、両者の間にいかなる因果関係もないのであって、正義を暴力の優劣によって証明することはできない―これはDVを想起すれば、それだけで十分納得できる論理のはずだ―という単純だが否定しえない論理を踏まえさえすれば、戦争を正当化する正義の欺瞞を見誤ることはない。

私たちはいかなる理由があろうとも武器をとらないという原則は、国家の自衛権を明確に否定することを意味している。軍事的脅威と不安を煽る政府や世論に対して、反戦平和運動は、この明確な立ち位置を確実なものにする必要がある。だから、自衛隊も米軍も容認する反戦平和運動は、その本来の意義を逸脱していると思う。これは決意の問題ではなく、現代世界を構成している権力や国家をラディカルに否定するための世界観、価値観、思想的な立場の問題でもあると思う。

意味と搾取 第三章を公開しました

青弓社のオンラインサイトで連載中の「意味と搾取」の第三章が公開されました。コンピューターによる人間行動の制御技術は、人間集団がコンピューター以前に有していた社会制御の仕組みと本質的に異なるものですが、社会の支配的な仕組みでは、社会を構成する人々の行動を予測して既存の社会秩序に沿って行動を制御するために、コンピューターのデータ処理技術が利用可能であるという「科学的」な理解が社会の合意を得ています。しかし、本当にそうなのかどうか、監視社会を支えるテクノロジーの背景をなす思想に立ち戻って問題を洗い直すことが必要になります。本章では、コンピューターの人間集団制御と集団心理として論じられてきたこれまでの考え方を突き合わせながら、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)としての監視社会が目指す事態の核心に何があり、この支配的な構造のどこに矛盾と限界があるのかを概観しています。鍵を握るのは、人間の行動を舞台裏で支えている「無意識」の領域にあります。「無意識」は実証科学によっては証明しえない事態です。ちょうどマルクスの搾取の理論が実証的な経済学では把握できない(だから搾取理論は間違いだと断定されますが)のと同様です。コンピューターによる人間の行動の解析と制御は、無意識を想定にない意識についての枠組に基づくものです。同時にコンピューターが対象とする人間は、とりあえず子どもから大人へと生育するなかで社会関係を形成するような「人間」ではなく、ビッグデータの集積としての人間になります。AIであれロボットであれ、コンピューターが構築する人間観は、人間が自分や他者を認識する仕組みと共通性はほとんどありません。問題は、にもかかわらず、人間の側にコンピューターによる判断をあたかも人間の判断と遜色ないか、あるいはそれ以上に信頼性のあるものだと誤認するのは、なぜなのか、というところにあると思います。

目次は以下です。
序章 資本主義批判のアップデートのために
第1章 拡張される搾取――土台と上部構造の融合
第2章 監視と制御――行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱
第3章 コンピューターをめぐる同一化と恋着

[第3章構成]
3-1 コンピューターと無意識の位置
   ・行動主義の陥穽
   ・コンピューターの人間行動理解
   ・集団認識
3-2 集団心理
   ・「集団心理学と自我分析」
   ・同一化と恋着
   ・教会と軍隊
   ・支配的構造と集団心理
3-3 集団心理と無意識――監視社会の基層へ
   ・「集合的無意識」
   ・ネクロフィリアとしての資本主義
   ・ライヒのマルクス主義とフロイト主義の結合
3-4 資本主義的非合理性
   ・近代における非合理性の位置
   ・資本の無意識の欲動
   ・プライバシーと家父長制―集団心理を支えるもの
   ・コンピューター・テクノロジー/コミュニケーションと集合意識形成

即位・大嘗祭違憲訴訟原告団、同弁護団は安倍晋三の「国葬」に断固反対する(即位・大嘗祭違憲訴訟原告団、弁護団)

即位・大嘗祭違憲訴訟原告団と弁護団が下記のような声明を出しました。私も原告ですから、ブログに転載しお知らせします。多くの反対の意思表示やアクションが展開されている一方で、メディアが報じる映像などをみると、多くの人達が弔問や献花に訪れている様子を目にすることがあり、またFNNは、国葬決定の是非についての世論調査の結果を次のように報じている。

「18・19歳を含めた20代は、「よかった」67.3%、「よくなかった」31.4%。30代は、62.7%、30.3%。40代は、52.5%、46.7%。50代は、44.4%、51.7%。60代は、44.4%、54.2%。70歳以上は、39.1%、57.0%。(「よかった」「よくなかった」は、いずれも「どちらかと言えば」を含む)

年齢の若い人ほど「よかった」と答える人が多く、年齢の高い人ほど「よくなかった」と答える人が多い傾向が見て取れる。」

世代別で若い世代で賛成とする割合が大きい。こうした傾向は他の世論調査でも同様の結果になっている(熊本日々新聞日経) 国葬に限らず儀礼行為は、ナショナリズムの動向をみる上で必須の重要な対象でもあって、一般に年配の方が保守的だという定式からすると、奇異にみえるかもしれないが、最近の選挙でも保守政党への若者の支持が大きいことが話題になっている(NHK朝日)から、構造的な人口全体に関わる国家意識の遷移に関わる問題としてとらえる必要があるかもしれない。

たかが葬式という見方もあるが、国家が巨費を投じて儀礼を遂行する表向きの理由とは別に、統治の構造にとって不可欠な国民統合のイデオロギー作用としての儀礼という側面が有している効果のなかには、論理や理念を超越した感情を国家や組織に向けて同調させる機能がある。だから、大嘗祭のようなたかが「儀礼」にたいしても、見過すことができないこととして異議申し立てをしている。

戦争や軍隊への動員に典型的なように、人々が国家という抽象的で観念的な存在に、みずからの命すら賭けようとする感情が醸成されるにはそれなりのメカニズムがある。このメカニズムにおいて、具体的かつ情緒的な同調意識を形成する上で、シンボリックな視覚効果と人々の例外を許さない秩序への従属を演出できる儀礼的な空間は不可欠な役割を果している。こうした情動の動員は、大きな権力の問題というよりも、身近な権力関係のなかで、繰り返し機能することによって、人々は、行為における合理的な判断よりも感情や同調欲求を優先させることをある種の習い性として身につける。学校で制服が強制され、入学式、卒業式で日の丸・君が代を斉唱することが強制され、しかもこうした規律に対する違反に過剰な懲罰が課せられることが当たり前のようにして通用している。強制と書いたが、実際には多くの若者たちは、強制とは感じず、当然であるだけでなく率先して集団への同一化を選択する。こうした日常生活に対して若者たちが、異議申し立てをすることも少しづつ目にするようにはなっているが、ひとつの運動となるほどまでには至っていないように思う。

世代の上の人達が国葬に比較的批判的なことはそれ自体として歓迎したいが、だからといって、こうした世代がナショナリズムへの心情においても若者よりも醒めていると即断することはできないとも思う。この点については、もっと考えなければならない様々な要因があると思う。(まえがき終り)


内閣総理大臣 岸田文雄様

安倍晋三の「国葬」に断固反対する

即位・大嘗祭違憲訴訟原告団

即位・大嘗祭違憲訴訟弁護団

 7月22日、岸田文雄首相は安倍晋三元首相の「国葬」(国葬儀)を行なうと閣議決定した。

 即位・大嘗祭違憲訴訟原告団、同弁護団は安倍晋三の「国葬」に断固反対する。

 そもそも「国葬」なる概念は、政教分離などを考慮して日本国憲法施行の1947年に失効した「国葬令」によって「皇族」および「国家ニ偉功アル者」が死亡したときに「特旨ニ依リ」天皇が「賜フ」ものであった。なぜ、この勅令が失効しなければならなかったかは考えるまでもなく、日本国憲法の趣旨に反するものであったからである。それを内閣府設置法(第四条第3項三十三「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)。」)などによって復活させることはできない。

 そもそも国が、特定の個人を、公費を使って葬儀を挙行するということは、国によって記念し顕彰されるべき死の序列化・価値化を意味するものであり、決して許されない。私たちは、日本国憲法に反して国費を使って行なわれた即位・大嘗祭の違憲性を政教分離などの視点から争っている。同様に安倍晋三の「国葬」(国葬儀)も許すことはできない。

 日本国憲法の下で、「国葬」として行なわれたのは、1952年の明仁の立太子礼の際に「臣茂」と記して激しい批判をあびた吉田茂の葬儀が1967年に行なわれて以来だという。まさに安倍も教育基本法改悪、戦争法制定、国会開催要求に対する不当不開催等々、日本国憲法の趣旨に逆らう諸行為を重ねており、吉田並みの日本国憲法に逆らう者である。日本国憲法に逆らう者が「国葬」とされるというならば、それは正に「国葬」を行なう首相(吉田の際の佐藤栄作、安倍の際の岸田)が日本国憲法に反していることに他ならない。また、安倍は森友学園、加計学園、桜を見る会、河井選挙買収、黒川弘務検事長問題などさまざまな未解決の疑惑にかかわる中心人物で、日本の国政を辱めた人物であり、カルトの広告塔・庇護者であって、それがその死の原因でもあった。いまなお政府はじめ多くの領域にそのカルトが巣食っている中で、彼らが推進する「国葬」など言語同断である。自民党による安倍政権美化と疑惑隠蔽対策と言わざるを得ない。「国葬」によって多くの人々とともに私たちが訴えてきた安倍政治への批判が国による顕彰にすり替えられるといった許し難い事態が懸念される。

 繰り返す、即位・大嘗祭違憲訴訟原告団、同弁護団は安倍晋三の「国葬」に断固反対する。

(ロシア:paper)「グラフィティーは、街のすべての人々に世も末ではない、という希望をもたらす」―ストリートアートが反戦デモの主要なツールになった理由


(訳者前書き)下記はサンクトペテルブルグのPaper誌から、反戦運動とストリートアートについての論評を訳したものです。大人数の集会やデモが厳しく規制されるなかで、反戦運動は街頭での意思表示を多様な手法を用いて展開してきた。路上の意思表示は、グラフィティと総称されるようなものばかりではなく、以前に私のブログでも紹介した商品の値札に反戦のメッセージを貼りつけたりする創意工夫がある。取り締まりの強化のなかで、グラフィティは、どこの国でも、時間をかけた作品を路上で制作することが困難になると、ステンシルや広告塔を利用したポスターなど短時間で完成できる手法へと切り替わるが、ロシアでも同じことがいえるようだ。さらに、反戦運動のなかで、これまでグラフィティやアウトリートアートの経験のなかった人達が参加するようになっている。このことが表現の幅や奥行を生み出してもいる。いつも思うのだが、こうした路上の抵抗を、日本でどこまで実現できるだろうか。下記の記事の最後の方で、ロシアのアート界が、国家予算に依存しつづけてきたこと、また文化を政治から切り離す伝統があることが、戦争反対や政治的な表現にアーティストが萎縮する背景にあると指摘されている。日本と非常に似ていると思う。しかし、そうしたなかで、ストリートアートがしたたかに大きな力を発揮していることはアートの政治的社会的な力の重要な有り様だと思う。グラフィティへの過剰な取り締まりだけでなく、政治的な意思表示の手段として路上を活用する運動文化が廃れてしまったようにみえるなかで、運動の文化がどうしたら想像力を回復できるか。この点でも、従来の集会やデモによる表現が、厳しい弾圧のなかで、ある種の仲間内のバブルの中でかろうじて延命しうるだけになっているなかで、バブルを破り外部の多くの人達との接点を形成する重要な役割を担っていることが指摘されている。こうした観点も重要な指摘だと思う。戦争に加担してきたこの国にあって、私たちにつきつけられた深刻な宿題だろう。なお翻訳は、ロシア語からの機械翻訳(DeepLとLingvanex)によりながら修正を加えましたが、ロシア語が堪能ではないので誤訳などありえます。文末の原文サイトを是非参照してください。(小倉利丸)


ウクライナ戦争の勃発により、ロシアでは公的な対話の場が大きく狭まった。2月下旬、サンクトペテルブルクなどでほぼ毎日行われていた抗議デモは、いつも以上に暴力的に警察によって鎮圧された。全国で行われた抗議行動では、最初の2週間で1万2千人以上が拘束された。

同時に、ロシアの各都市の路上には、反戦を訴える文章、ステッカー、反戦画、ポスターなどが登場し始めた。様々な形のストリートアートが、反戦現象として最も注目されるようになった。

“Paper “は、ストリート・ステートメントの作者たちに、彼らが誰に訴え、どのように迫害から身を守っているのかを聞き、ストリートアートの専門家に、サンクトペテルブルクの現代のストリートアートの抗議の規模を評価してもらった。

サンクトペテルブルク市民が一斉に壁に書き始めた理由

「正確に見積もるのは難しいが、数百のサインと数百枚の紙製のビラを作った」と語るのは、路上で反戦メッセージを残しているサンクトペテルブルクの映画評論家、アレクセイ(安全上の理由から登場人物の名前はすべて変えている-“Paper “の注)だ。2月24日以来、彼は時々夜中に散歩するようになった。なぜなら、声を上げ、感情を発散したいという思いが強くなったからだ–従来のやり方は危険なだけでなく、効果もない。プロパガンダを信じたり、何も起こらないふりをしたりする人たちには届かない。

ペテルブルグの人たちは、「周りの人がみんな同じように考えていると確信すれば、自分も同じように考えるようになる」と考えています。だからこそ、アレクセイにとっては、人々が何が起こっているのかを気づかせるものに出くわすことが重要なのだ、と。

通訳のアナスタシアも、ロシアで安全に抗議する方法は他にないと考えている。彼女は以前、集会に行ったことがあるが、その都度、参加者は減り、ロスグヴァルディア(国家警察)が増えた。

アナスタシアは空いた時間に、友人と一緒に紙と両面テープで作った自作のステッカーを街中に貼った。配管や 壁、配電盤のブースなどに貼った。最初は事実を書いていたが、サーシャ・スコチレンカの事件以来、「[当局が言うところの]フェイクを広める」のではなく、「わが軍の信用を落とす」「反戦スローガンを書く」ことにした。

この女性は、こうした声明が戦争を常態化させないように闘い、人々が戦争に慣れないようにし、また同じ考えを持つ人々を支援すると信じている。すべてのタグ、ステッカー、緑のリボンは、反対者が本当にたくさんいること、すべてが失われたわけではないことを思い出させるのである。

ナスティアと口論になったり、彼女とその友人を拘束しようとしたりした人はいない。おそらく、彼らが注意深かったからだろう。今はロシアを離れてしまったが、最後の瞬間まで、監視カメラに追われないか不安な日々を送っていた。

また、サンクトペテルブルク在住のドミトリは、改装後のカフェに30〜40缶のペンキが残っており、反戦の姿勢を伝えるには路上での落書きが効果的だと考えたという。セントジョージのリボンとZの文字が入った広告バナーと同じくらい、多くの人に見てもらえると考えている。そこで、彼は個人のアカウントに缶の写真を投稿し、「何をすべきか分かっているよね」と書き込んだ。数日で塗装が剥がされた。

エンジニアのヴァシリイさんは、いてもたってもいられなくなり、15枚ほどステッカーを貼ったそうだ。彼の考えでは、戦争反対の表明は少なくとも誰か一人に影響を与え、その一人が他の誰かに影響を与えることになる、という。ステッカーは、すぐに貼ったり剥がしたりできる便利で安全なものだという。彼は怖がったが、それは警官ではなく、戦争を支持する「70%のロシア人」に対してだった。彼は「親ロシア派の通行人にやられる」ことを心配したのだ。

写真:ドミトリー・ピリキン ドミトリー・ピリキン(ストリートアート研究所研究員)

ストリートアートは社会や政治にどのような影響を与えることができるのか。

ストリートアートは社会や政治にどのような影響を与えることができるのか↓。
ストリートアーティスト、パフォーマンスアーティスト、ストリートアート研究家のAnton Polskyは、「芸術は常に革命と手を取り合ってきました」とPaperに語っている。

芸術の歴史には、芸術を通じて政治や社会に影響を与えようとした人々が数多く存在する。左翼系のアーティストは、「Reclaim the Streets」や「Provo」など、都市をテーマにしたプロジェクトを行ってきた。

1960年代、Provoはアムステルダムの有力な芸術家集団で、オランダの生活様式や両親のブルジョア的価値観に反対していた、とAnton Polskyは言う。例えば、アムステルダムのモータリゼーションを糾弾し、その代替案として、文字通りサイクリングを考案した。誰でも使える白い自転車を何百台も街中に配置したのだ。さらに、いわゆるホワイトプランと呼ばれるものをいくつも打ち出した。Anton Polskyによれば、Provoはユーモアと皮肉を駆使し、従来の政治闘争(fatuous and categorical)とは一線を画していたという。

また、1980年代のポーランドでは、ヴロツワフを中心に、Provoに触発された「オレンジ・オルタナティブ」という強力な芸術運動があったと、Anton Polskyは語る。この運動はポーランドの共産主義体制に抗議するもので、彼らの行動は皮肉と不条理に基づくものであった。美術史家によれば、彼らは、混乱、挑発、演技によって当局と闘うことが可能であることを示したという。

サンクトペテルブルク市民が壁に書き込んだこと

ツアーガイドのニコライ・ステクロトゥールは、戦争が始まって以来、珍しい反戦の碑文を集めている。今では100枚以上持っているという。「戦争が始まって間もない頃は、目についた碑文をすべて記録しようとしたが、すぐにそれは不可能だと悟った」。

ニコライによると、「No to War」「Peace to Peace」「pacifik」というサインや 緑のリボンなどがよく書かれているのだという。珍しいところでは、「悪に負けるな」「戦争ではなく、愛を育め」といった言葉がある。

巷のアートハンターは、戦争が始まってから「壁に書かれた文字」の数は大幅に増えたが、その質は失われていないと言う。

ストリートアート研究所の研究員で美術史家のドミトリー・ピリキン氏は、戦争が始まってから300枚以上の写真を集めたという。Nikolayのコレクションには、「Fuck the War」、「Peace」という簡潔なものから、「Leningrad Not ziguet」「Silence is a Crime」「Man to Man」「We are Russian, God knows what with us」「Denacify your head」「The Hague is waiting」「Strength in Newtons, brother」という独創的なものまである。

このような反戦芸術の寿命はさまざまである。アートグループ「Yav」のメンバーであるAnastasia Vladychkinaは、Bohamaiaに、彼らの最新の作品は2時間以内しか設置されていないと語った。ストリートアーティストのVlada MVは、反戦作品の平均展示期間は1日だという。

Dmitry Pilikinは、反戦ストリートアートが廃棄されるまでの時間は、その場所(見える場所か見えない場所か)、そして建物の所有者や法的責任者によって異なると指摘している。Nicholas Steklotourは、反戦芸術はストリートアートと同じくらい長持ちすると言う、それは2日続くかもしれないし、2週間続くかもしれない。最も重要なのは、ペイントされた1つの文字に対して、1つか2つの新しいものが登場することです。

研究者と芸術家の意見が一致したのは、戦争支持の看板よりも反戦の看板の方がはるかに多いということだ。Nikolai Steklotourは、Ligovsky Prospekt周辺をツアーで案内し、参加者に数を数えてもらうことを提案した。”戦争賛成 “のサイン6枚(Z、”We don’t abandon our own “とロシア色のハートとその中にZをステンシルしたもの)と “反戦 “のサイン34枚を発見した。

アートグループ「Java」のリーダー、Anastasia Vladychkinaは、3月には大統領と「Z」の文字のステンシルがたくさんあったが、通常は通行人によってすぐに修正され、さらに細部を追加して「Za shitty」などのフレーズにされていたと指摘した。

Nikolay Steklotourによると、反戦の抗議は、形も内容も多様であることがその特徴であるという。しかし、戦争賛成派は「党が命令したかのように、みな同じ」という。

国家には、街頭で「アジェンダを奪い取る」という任務はない、とDmitry Pilikinは結論づける。テレビに頭を突っ込んで座っている人にはこれ以上の刺激は必要ないが、それ以外の人には「静寂のモード」が必要だ。

写真:Nikolai Steklotour

ロシアでは、店頭の値札を取り替えたとして、すでに数件の刑事事件が発生し、数名が罰金刑に処されている。すべて4月の出来事である。

サンクトペテルブルグのSasha SkochilenkoとスモレンスクのVladimir Zavyalovは、軍のフェイクに関する犯罪条項で起訴された。

また、ニジニ・ノヴゴロド出身の学生について、ロシア軍の信用失墜に関する条項で2件の告発が行われた。法執行機関によると、彼女はSPARとPyatyorochkaで値札を貼り替えて、そこに「ウクライナでの我々の軍事行動のために、週単位のインフレは1998年以来最高となった。ストップ・ザ・ウォー」 書いた。

また、サンクトペテルブルクではAndrei Makedonovが拘束された。事前の情報によると、店内の値札を「戦争反対」と書き換えたという。Makedonovの消息については、これ以上の情報はない。

ストリートアートへの抗議に国家はどう反応するか

グラフィティの作者は、この種の抗議を安全だと考えるのは間違っている」と述べた。壁に描かれた文言に対する刑事事件の統計はまだないが、The Paperは、反戦ストリートアートをめぐって2月末から少なくとも20件が提起されたという記述を見つけた。

サンクトペテルブルクには、少なくとも8件ある。ある家の正面に「ウクライナに栄光あれ!」と書かれたことについて、政治的憎悪による破壊行為で告発されたイェゴル・カザネツ。サンクトペテルブルク在住のセルゲイ・ワシリーフは、「ウクライナに栄光あれ!」と書いたため、同条項により公判前勾留施設に送致された。また、捜査当局によると、ポレシャエフスキー公園で「ソビエト時代」の碑文を描いた43歳のエンジニアや、反戦の碑文を描いた男性もいる。

また、サンクトペテルブルク在住のドミトリー・カフは、ソ連戦士の記念碑に「戦争反対!」「プーチンはファシスト!」と書き入れたため、政治的憎悪のための埋葬地の乱用に関する条項で拘留されることになった。

捜査当局によると、2人の男が、軍事歴史砲兵博物館の榴弾砲2基のパネルカバーを黄色と青色に塗り替えたという。そのうちの1人は3月19日に破壊行為の容疑で拘束された。二人目の容疑者の身元は判明していない。

サンクトペテルブルクでは、少なくとも5人が反戦落書きをしたとして、「当局の信用を失墜させた」という行政犯罪で罰金を科された。Anna Zivはバス停に落書きした罪で、Sergei Davydovはゴミ箱に落書きした罪で、それぞれ3万ルーブルの罰金を課された。Demian Bespokoyewは、自分のコートに文字を書いたとして45,000ルーブルの罰金を課された。

Sergei Malinovskyは家の壁に反戦のメッセージを投影し、教師のEkaterina Vasilyevaはバックパックに貼った紙テープに「No to War #silentpicket」と書き、罰金を課された。また、サンクトペテルブルクの住人は、鞄に「No to War」と書いたことで「軍隊の信用を失墜させた」罪で起訴された。

その他、ペテルスブルグの人々はどのように抗議しているのか

「戦争反対」のような最も一般的なスローガンは、これまで路上で何かを書いたことがない人たちによってつくられる。美術史家のドミトリー・ピリキンは、これは抵抗と自分の意見を明確にしたいという欲求の結果である可能性が高い、と言う。

グラフィティに加えて、ステッカーやストリートアート、ゲリラ・アート(原注)に似た「サイレント・ピケ」などの行為も行っていると、ストリートアートの研究者であるアントン・ポルスキーは指摘する。

(原注) グラフィティだけでなく、ステッカーやストリートアート、そしてゲリラ的な行為に近い「サイレント・ピケ」などの創造的な行為も行われていると、同じくストリートアート研究者のAnton Polskyは言う。

Dmitry Pilikinは、商店の値札を反戦のメッセージに置き換えるというアイデアは、芸術的な介入として成功したと考えている。(原注)もう一つの例として、 Pilikinは、街中のカラーポスターの文字を、反戦に関する問いかけで「愛の貴婦人」の電話番号を置き換えたことを挙げている。

(原注)ロシアでは、店頭の値札を取り替えたとして、すでに数件の刑事事件が発生し、数名が罰金刑に処されている。すべて4月の出来事である。 サンクトペテルブルグのSasha SkochilenkoとスモレンスクのVladimir Zavyalovは、軍のフェイクに関する犯罪条項で起訴された。 また、ニジニ・ノヴゴロド出身の学生について、ロシア軍の信用失墜に関する条項で2件の告発が行われた。法執行機関によると、彼女はSPARとPyatyorochkaで値札を貼り替えて、そこに「ウクライナでの我々の軍事行動のために、週単位のインフレは1998年以来最高となった。ストップ・ザ・ウォー」 書いた。 また、サンクトペテルブルクではAndrei Makedonovが拘束された。事前の情報によると、店内の値札を「戦争反対」と書き換えたという。Makedonovの消息については、これ以上の情報はない。

さらにピリキンは、有名なストリート・グループだけでなく、匿名の個人による作家のプロジェクトもあると言う。例えば、「Yavi」の仕事、ピスカレフスキー墓地でのアクショングループ「Dead」、都市景観に組み込まれたプラカード付き置物「Little Picket」、市役所近くのZhenya Isayevaの反戦パフォーマンスなどである。

ストリート・アーティストが市民運動と関わるようになった経緯

Anton Polskyによれば、戦争が始まると、ストリートアーティストはより活発に活動するようになった。彼らはチャットを組織して参加について話し合い、すぐに政治的なストリートアートの力強い波が押し寄せた。ある者は「戦争反対」と書き、またある者は正面からの攻撃を避けて独自の作品を制作した。

ドミトリー・ピリキンは、ポルスキーと同意見でない。彼によれば、意識的で面白い仕事が少ないのは、アーティストが恐れているからだ、というのだ。以前はストリートアーティストが市民や警察から最悪の場合「厄介者」と見なされていたとすれば、今日ではその活動は犯罪行為になっている。

Paper誌は4人のストリート・アーティストに話を聞いた。彼らは皆、ストリート・アートが常に世界の出来事に対応する手段であったことを強調している。アーティストのLesha Burstonは、集会や ピケが不可能な状況に対応するため、「Picket」という一連の作品を制作した。この作品は、反戦を訴えるプラカードを持った男性を描いている。

もう一人のアーティスト、Vladaは、最初の反戦の作品はあわただしく生まれたという。「戦争が始まって4日目、そろそろ戦争が終わるかなと思っていました。」 Vladaは人型のキャラクターを描き、そこに “戦争””権力””KV””ロシア””私たち “など、彼女にとって重要な言葉を並べている。

Vladaは、弾圧に備え移住の準備を進めているという。彼女やPaper誌の取材に応じた他のアーティストたちは、自由と安全について危惧しており、彼らは自分のソーシャルネットワークで作品をオープンに公開しており、見つけるのは難しくないだろうと語っている。Lesha Burstonは、「picket」シリーズの2作目がまさにこのことをテーマにしていると指摘し、「ただ疲れていて、どこかに座って休みたいのに、座るのが怖くて、もう疲れきっているような状態です」と語った。

ストリートアーティストのFILIPP FI2Kは、作品を作る前にいろいろな人に相談したそうだが、法律的には問題ないという結論に至ったそうだ。彼は、2匹の犬がウサギを追いかけている様子を描いたが、そのウサギには平和の象徴である「パシフィコ」が付いている。FILIPP FI2Kは、鑑賞者にすべての思考を委ねるため作品の説明文は書かず、タイトルだけを書いたという。「平和を希求して」(In Pursuit of Peace)と題し、「犬が何であるか、何のために走っているのか、犬が世界に追いついたらどんな結果になるのか 」を自分自身で考えてもらうためだ。

他のアーティストと同様、FILIPP FI2Kは通行人の注目を浴びないように気を配った。事前にステンシルを用意し、最後の最後にウサギにピースサインを書き込むなど、最後の瞬間まで作品に反戦の意味はなかったというわけだ。他のアーティストも同様の手法を使っており、例えばLyosha Burstonは、まず白紙のプラカードを手にした男性を描き、その後に反戦のメッセージを描いている。バーストンは、あえてモノクロの色を選び、全工程を20分以内で終わらせるようにしている。

Vladaは普段、通行人やパトロールに注意を払うため、友人を連れて行く。彼女の最初の作品「No to War」は約2時間かかり、この間、パトロール隊や国家警察の車が何台も通りかかり、そのほとんどが速度を落としたが、アーティストを「脅かす」ことに成功すると去っていったという。Vladaは、ブラダの説明によると、最初は作品の中の言葉を認識するのが難しく、文字が読みにくかったり、一番最後に「No」という言葉が出てきたりしたと説明している。

また、アートグループ「Yav」のAnastasia Vladychkina氏も、さらなるセキュリティ対策について語った。彼らは、壁に貼って作品を完成させることはできないと考えて、ほとんど「広告塔」「メディアアート」に切り替えている。だから、今は広告塔にバナーを貼る。何もない側、つまり物件を損なわないように、広告を覆わないように貼る。路上での作業は10分から15分程度で終わる。

Yaviはポスターのトラブルもあった。以前から取引のあった印刷所を何軒も訪ねたが、どこも言論の自由をテーマにした作品の印刷を断ってきた。しかし、最終的にアーティストたちが見つけたのは、「何を印刷してもいい」という店だった。

どのアーティストも、「正面からぶつからなければ」ストリートで活動するチャンスはまだあると信じている。

なぜストリートアートが抗議の主な手段になっているのか?

今回調査したアーティストや専門家のほぼ全員が、Paper誌に対して以下のように回答している。

「人がデモに出れば、すぐに拘束される。壁に書かれた文字と違って、誰もデモを見る時間ほとんどない」とYaviaのAnastasia Vladychkinaは言う。FILIPP FI2Kは、ペンキ缶を手に取り、手で「戦争反対«Нет Войне»」と書くのに5秒かかると付け加える。1つの缶で50〜100の文字が書けるという。ペンキ缶1つあれば、絵の具の使い方を知らなくても、1人で「街全体を塗る」ことができる、というのが彼の意見だ。

研究者のAnton Polskyは、ロシアでは抗議や集会がうまくいっていないと考えており、その理由は2つあるという。一つ目の理由は、集会がばらばらになってしまい、同じ志を持つ人たちの出会いの場となって政治的行動を起こす余裕がないことである。二つ目の理由はいわゆるバブル効果で、集会などでは同じ立場の人が集まるのに対し、外の人には自分から出向いていって、安全なコミュニケーションの形を探さなければならないからだ。ストリートアートは、外に出る実践によって、バブルから抜け出し、何らかのメッセージを創造的に伝えることができるのだ。

「サンクトペテルブルクは荒廃した街だ」Polskyは、「このような場所は、しばしば自己組織的で抵抗のためのストリートアートを創造する肥沃な土壌となる」と語る。

ストリートアートは、組織に縛られることなく、誰もが参加できるものだ。劇場も音楽堂もギャラリーも、直接間接に国家に依存しているため、これほど大規模に、あるいは声高に戦争に反応することはなかった。

演劇評論家でブロガーのViktor Vilisovは、ロシアの芸術界は「国家や準国家の資金と密接に結びついている」ため、反対意見があっても公に発言することを恐れている–立場がどうであれ、職を失うことになりかねない、と説明する。この評論家によると、劇場や現代アートセンターのディレクターは、施設を潰さないように守らなければならないという立場に立つことが多いので、誰もが黙っているか、「ぼそぼそ」と発言しているのだという。

ロシアでは、「芸術」が政治に関与する習慣がないとYaviaのAnastasia Vladychkinaは補足する。アーティストは、愛や死、哲学的抽象概念など、永遠の価値観を扱うべきだと考えられているのだ。

Anton Polskyは、2008年の経済危機の時のように、今こそストリートアートが花開く可能性があると信じている。当時はアートマーケットの売り上げが激減し、ストリートアートが政治化された時代だった。しかし、当時は堂々と壁に絵を描くことができたが、今は15年以下の懲役に処せられるという決定的な違いがある。

出典:https://press.paper-paper.uno/nadpisi-nesut-nadezhdu-chto-ne-vse-lyudi/

(ОВД-NEWS)ロシアの反戦、反軍レポート

以下は、OVD-infoによるロシア国内の反戦運動への弾圧状況のレポートの英語版からの翻訳です。戦争開始にあわせて、ロシア政府は新たな弾圧立法を成立させただけでなく、刑法の様々な条文を駆使して弾圧を強化してきた。ロシアを「プーチン独裁」などとして西側から切り離して特別な国家であるかのようにみなす傾向がなきにしもあらずだが、ロシア政府の対応は、どこの国でもありえる弾圧手法といえるものでもあり、いわゆる「民主主義国家」とも共通する権力の弾圧手法がいくつもある。むしろ私が注目するのは、政府の強権的な弾圧にもかかわらず、4ヶ月たってもなお全国で草の根の反戦運動が展開され、同時に弾圧への支援運動もまたひるむことなく継続していることだ。国家権力がいかに「権威主義」であろうともむしろ民衆の抵抗運動のなかに民主主義的な異議申し立てや抵抗の原理が生きているように思い、私は励まされる思いだ。こうした民衆運動の力づよさは、今回の戦争で突然生み出されてきたわけではない。むしろプーチン政権下にあって、実はヨーロッパロシアから極東ロシアに至るまで、広範な草の根の反政府運動が存在してきたからだと思う。たとえば、反戦運動が繰り広げてきた街頭のパフォーマンスには、ロシア正教に公然と叛旗を翻したプッシーライオットのような存在なくしてはありえなかっただろうとも思う。戦争は当事者の国家や利害関係をもつ諸国など権力者によってしか収束へと向うことができないようにみえるが、実際には、むしろ当事国の人々によってしか戦争を止めることはできないのではないか。そして、そうした国々の人々に対して私たちが実際にできる支援は微力でしかなくとも、支援の意思表示を示すこともまた大切なことであり、同時に、日本が戦争を煽りかねない対応をとっていることにも同時に、明確な拒否の意思表示をすることが大切だと思う。なお、翻訳に際しては、ロシアの刑法など法制度に精通していないので、誤訳もありえるかもしれません。文末の原文へのリンクで確認してください。(小倉利丸)



2022年6月
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掲載日:2022年7月5日

記事中に記載されているデータは、2022年6月23日時点のものです。

Текст на русском (Текст)

ウクライナでの戦争は4カ月も続いている。この間、ロシア国家は隣国を暴力的に破壊し、自国民に対する弾圧行為も行ってきた。以下は、ロシアで反戦の立場をとる人々に対する抑圧的な行動に関する主要なデータである。

集会の自由の制限

戦争開始以来、拘束がなかったのは1日のみ

反戦デモに関連して、少なくとも16,309人が拘束されたことが確認されている。抗議行動での拘束に加え、当局は顔認識システムを利用した「予防的」拘束も行っている。5月と6月には、発表された抗議行動に先立ち、少なくとも75人が逮捕された。弁護人がデモ参加者の相談に乗るために警察署への立ち入ることを拒否されたケースは82件にのぼる。

反戦活動家が拘束された市町村は207に上る

刑事事件

人々を追い詰めるために、政府はロシア刑法の様々な条文を利用している。

  • 第318条第1項(当局の代表者に対する暴力の行使)。
  • 第213条(フーリガニズム)。
  • 第214条(破壊行為)。
  • 第244条第1項b号(死者の遺体及びその埋葬場所に対する侵害)。
  • 第 243 条第 4 項第2部b号(軍事用埋葬地の破壊又は損傷)。
  • 第167条第2項(故意の破壊又は相当な損害の発生を伴う損壊)。
  • 第329条(ロシア連邦の国章またはロシア連邦の国旗に対する侵害)。
  • 第212条 第1項第1号(集団暴動の組織)。
  • 第207条第3項第1部(ロシアの軍隊の使用に関する信頼できる報告を装って、故意に誤解を招く情報を公に流布すること)、別名「偽物に関する条文」。
  • 第280条第3項(ロシア軍の信用を繰り返し失墜させること)。

「反戦事件」の被告人の38%が、新たに採用された条文で起訴されている。(下図一番目の円グラフ)

「反戦事件」の被告人のうち、107人が他の条文に変更[訴因変更か]されている。(下図二番目の円グラフ)

ロシア刑法第207条第3項の規定に基づき法的手続が開始された場合(下図三番目の折れ線グラフ)

ロシア刑法第280条第3項の規定に基づき法的手続が開始された場合(下図四番目の折れ線グラフ)

行政事件

ロシア連邦行政刑法第20.3.3条「ロシア軍の信用失墜について」は2022年3月に施行された。現在、同条に関連する2,457件の事例が判明している。1,781人が行政手続きの対象となった。160件の行政資料が裁判所から警察署に返却された。同条に関連する平均的な罰則は35,562ルーブルである。

第20.3.3条に関連するケースの数をカウントするために、5つの情報源を使用する。OVD-Infoのデータ(個人に関するもの、つまり特定の事件に関連するもの)、裁判所のウェブサイトの第一審事件記録、「Pravosudie」(司法国家自動化システム)情報ポータルの第一審事件(個人)に関する情報、裁判所およびロシアMIA(内務省)のプレスリリースである。

上図出典:OVD-Info  Get the data  Created with Datawrapper

外国人エージェント
「外国代理人」に関する法律が採択されてからの10年間で、464人の個人、法人、未登録の団体が外国代理人として宣告された。2022年6月、ロシア連邦司法省は、6人(アレクセイ・ピヴォヴァーロフ、オレグ・カシン、ミハイル・ソコロフ、ユリア・ツヴェトコワ、イリーナ・ダニロヴィッチ、ニコライ・ペトロフ、エフゲニー・チチヴァルキン)と1団体(拷問防止委員会)を外国のエージェントであると認定している。

独立系メディアへの妨害と圧力

戦争が始まって以来、マスメディア、その他のメディア、ブログなど、少なくとも25の独立した情報チャンネルが遮断され、26が閉鎖され、さらに12が戦争を報道することを拒否している。6月1日以降、Roskomnadzor(連邦通信・情報技術・マスメディア監督局)は、ロシア国内の13の情報チャンネルと海外の19の情報チャンネルをブロックしている。

Links to OVD-Info’s reports and data:

OVD-Infoのレポートやデータへのリンクです。
レポート「No to war: ロシア当局は反戦デモをどのように弾圧しているのか?」

ガイド「反戦運動への訴追」。

レポート「政治的検閲の手段としてのインターネット・ブロック」。

外国人エージェント法に関するプロジェクト「Inoteka」

報告書「当局はデモ参加者に対してカメラと顔認識をどのように使用しているか」。

https://data.ovdinfo.org/anti-military-events-report#6