イタリア、反ロックダウン抗議運動の複雑な事情

投稿日: カテゴリー: コロナウィルス民衆的自由の権利資本主義批判

イタリア、反ロックダウン抗議運動のなかの複雑な事情
2020年11月3日

イタリア当局は反ロックダウン抗議デモでの暴力を「周辺的的要素」だと非難してきたが、現場の現実は違っていた。

著者
サルヴァトーレ・プリンツィ

私が見たものに驚きはない。何度も何度も何度も言っていることだが、生活保護支援制度のない再度のロックダウンは時限爆弾のようなものだ。

—アルフォンソ・デ・ヴィート、ナポリ活動家
Dinamo Pressのためのサラ・ゲインズワースのインタビュー

ここ数週間、ナポリの人々は、コロナウイルス拡散を阻止するためにナポリ政府が提案した公衆衛生上の制限に抗議している。症例数が比較的少なかった夏の数ヶ月間の後、イタリアではCOVID-19が増加しており、政府は自治体と共に、カフェ、バー、映画館、ジムなどの商業施設を閉鎖し始めている。

過去の閉鎖では、収入の大きな損失を補うために、しばしばわずかな福祉給付金が支払われていたが、今は政府はほとんど何も提供していない。ナポリを州都とするカンパニア州のような貧しい地域では、これが多くの不満の原因となっている。観光に依存した地域経済に壊滅的な打撃を与えた夏の旅行の封鎖後、人々は金銭的な支援を要求するために立ち上がっている。

デモは、催涙ガスや激しい殴打などの暴力が飛びかい、デモ参加者が法執行機関と衝突する過激で反乱的な性格を帯びている。近年、イタリアをはじめとするヨーロッパの他の多くの大衆運動と同様に、デモのイデオロギー的構成は特異なものではなく、また識別しやすいものでもない。

ナポリを拠点とする組織者による以下のレポートは、10月23日の反ロックダウン暴動と抗議デモを分析したものである。この翻訳は、イタリア国外の読者や同志に状況を紹介するために、注釈を加えた。

—ジュリア・スバフィGiulia Sbaffi とアンドレアス・ペトロシアンツAndreas Petrossiants


ナポリの街からの報告
私は金曜日の夜にそこにいた。

まず最初に、ソーシャルメディア上でのコメントはいつも誤解されたり、文脈を外されたりするもので、ナポリの状況(社会的にも公衆衛生の観点からも)は本当に複雑で脆弱なものなので、コメントをしたくありませんでした。しかし、この街で何が起こったのか、そして何が起こり続けているのかについて、受け入れがたい誤ったコメントを読むにつけ、一般的ないくつかの質問に答えることで、何が起こったのかをどこにいる人にも理解できるようにしたいと思うようになりました。簡単そうですが、答えは実は非常に複雑です。

ここ数週間で何が起こったのですか?

ナポリでは、他の場所と同様に、地域行政は、経済的な補償を提供することなく、公衆衛生上の理由から、商業活動を停止する可能性があると発表し、脅しをかけました。そのため、小規模な小売業者、特にカフェやレストラン、ピザ屋を経営している人たちが街頭に繰り出しました。このような状況は持続不可能であり、また耐えられないので、彼らは組織化を開始し、こうした措置の撤回を主張したり、代わりに、ナポリの膨大な数の労働者、貧困者、無給者、未登録滞在者、経済的に不安定な人々に対応できる福祉支援システムの導入を主張したのです。

なぜ暴動が起きているのですか?

抗議が暴力的になった理由はいくつかあります。第一に、ここ数ヶ月間に、人々は完全に貯金を使い果たしてしまいました。彼らは飢えていて、燃え尽きています。COVID-19の危機が始まった時、イタリア北部のベルガモで棺が山積みになっていた時、国中の多くの人がウイルスを恐れました。しかし今では、夏の間の比較的少い数になって、COVID-19は「ただのインフルエンザ 」であるかのような錯覚に陥っている人もいます。

3月、政府はいくつかの社会保障福祉措置を導入しました。しかし今では、その資金は尽きたというか、労働者から産業界や金融界に金が流れ込んでいます。具体的にはナポリでは、地方行政が9月の地方選挙を前に資金を投入しましたが、今は何も国民に提供されていません。

また、ナポリではここ数年、独立した労働者のグループが当局と暴力的に対立する傾向を示してきたことにも注目すべきです。これにはいくつかの要因が関係しています。第一に、ほとんどの独立労働者は、社会経済的に不利な背景を持つ出身者であり、広大なアンダー・コモンズを構成しています。彼らの多くは、以前の経済危機ですでに限られた社会的流動性を失っていました。

第二に、多くの人々はインフォーマルな経済で働いています。一方、給与所得者は、管理体制と組合が彼らの組織化を妨げていることで長年窒息してきました。イタリアでは、特にナポリでは、支配的とまではいかないまでも、インフォーマル労働の文化が依然として優勢です。

警察との衝突の責任はカモッラ・マフィアthe Camorra mafiaにあるのか、それともナポリ人は商業メディアが報じるような「後進国の人々」にすぎないのでしょうか?

もちろん、そのどちらでもありません。全国メディアは最悪の陰謀論者のように振る舞い、複雑で重層的な社会力学を単純化しすぎています。カモッラは、現在の危機から利益を得ている民間医療サービスのシステムに入り込んでいるし、地方行政から新たな契約を得る建設部門や人々をさらに負債に陥らせるモグリの貸金業者としての役割も果しています。

ナポリでは、独立した労働者がこれまで以上に借金に巻き込まれやすくなっています。ナポリの社会サービスは乏しく非効率的であり、人々は制度をほとんど信用しておらず、労働組織や労働組合は弱く、社会経済的な圧力は高い。最後に、ルンペンプロレタリアート(周辺部の人々、知恵を絞って生きている人々)と中産階級(生産手段を所有し、ある程度の社会的流動性にアクセスできる人々)の間には、交換と接近したダイナミックが存在します。これは、その社会的ルーツを維持しつつある種の紛争に向かうような傾向のある流動的で動的なものです。

抗議は正当化されうるものですか?

もちろんです。地方行政はこの状況に対して全責任を負わなければなりません。はっきりさせておきましょう。「中産階級」といえば、家族を維持するためにこの危機の費用を負担できない小規模小売業者や、労働者に合法的な契約を結ばせずに労働者から搾取し、毎晩何千ユーロも何千ユーロも稼いでいる悪徳企業家のことを指すのです。しかし、街頭には、未登録の移民労働者や家族経営の企業家、生活状況に辟易しているマージナルな人々もいました。

これらのグループのほとんどは抗議する権利を持っています。過去8ヶ月間、地方と国の行政は、この予測されたCOVID-19の第二波から人々を守るために、リスクを防ぐために何もしてこなかったのです。今、彼らは福祉支援を提供する計画もなく、再び事業を停止しようとしている。失業者、フレックス・ワーカー、非正規雇用者には、残された選択肢はないのです。飢えに苦しむか、カモッラの言いなりになるかのどちらかです。

暴力は?正当化できるのですか?

路上で闘う人々の間には内部で闘争があります。大きな小売業者や政治指導者など、失うものがある人たちは、もちろん暴動には反対で、交渉をしたり、警察を賞賛したり、過激な行為を糾弾したりしています。そして、労働者階級のフーリガンは、警察との暴力的な対決になる傾向があります。

このような拮抗関係の混合が金曜日の夜に爆発し、デモはすでに2つの対立に分裂していましたが、さらに分裂は大きくなってしまった。

しかし、ポイントは暴力を犯罪化したり、誰が正しくて誰が間違っているかを特定することではありません。暴力に頼ることに何の意味があるのか?誰がそれを調整したのか?暴力は誰に向けられたのか?金曜日の夜に起こったことは、その世界に属する人々だけが理解できる抗議の形をとっていることは明らかであり、絶望の叫びであり、他の大衆的な階級の人々がデモ隊の「暴力」に不満を表明したことで、逆効果を生み出しています。

極右も参加していたのでは?

極右政党のフォルツァ・ヌオーヴァForza Nuovaは参加したいと宣言していましたが、街頭にファシストの姿は見られませんでした。シンパは参加していたかもしれませんが、存在感や政治的内容面でのインパクトはありませんでした。フォルツァ・ヌーヴァは注目を集めていますが、私は彼らがナポリでは無意味な存在でしかないと信じています。このような根拠のない疑惑に反応して彼らの存在を知らしめるようなことは、私たち―そしてメディア―の愚かな間違いです。私たちは、デモ隊と地元の意思決定者との間で仲介者として行動しようとしている中道右派に近い人物にもっと関心を持つべきです。

これもまた、治安維持的な左翼とラディカルな左翼の間のうんざりな議論の一例に過ぎない?

抗議者に汚名を着せ、その参加者を非難する「穏健な」左翼と、暴動を称賛し、暴動に参加した人々を称賛するより戦闘的な左翼との間で、古くからのうんざりする議論がソーシャルネットワーク上で噴出しています。私たちはこの二面性、現実を表していない安直な政治分析にうんざりしています。

穏健な左翼は、行動を起こす前でさえ、世界や経済状況について違いを示そうとすらしていない。対立や集団的な組織化の余地のない運動の中にいることは難しいというのが真実です。

残された選択肢は、暴動を起こすか、覇権を握っている人々と交渉するかの2つしかないように見えます。小売店は交渉を目指します。路上の人々は、もちろん交渉には興味がない。

これは、このパンデミックとそれへの対応が切り開いたことです。私たちは、私たちの力を結集し、自律的に組織し、大衆運動を構築するために、緊縮財政、監視、治安体制に反対して立ち上がることに関心を持つすべての人々と一緒に、お互いに防衛しあわなければなりません。

ナポリは私たちにプラットフォームを与えてくれます。金曜日の朝、ワールプールWhirlpool 工場の労働者たちが、医療労働者、家族、教師とともに街頭に登場しました。私たちは今、一連のデモを目の前にしています。私たちは、地元の行政が住民やフードデリバリー労働者に与えた不当な罰金に抗議し、Confindustria(イタリアの産業連盟)にも抗議し、そして物流・娯楽産業の労働者と連帯します。

10月23日のナポリでの衝突に抗議するデモ隊。写真提供:ジュリアーナ・フロリオ

後記:ファシストに居場所はない

10月23日のナポリでの出来事に続いて、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、トリノ、カターニアなど、国中で衝突が勃発し、抗議者たちは「我々は労働者であり、犯罪者ではない」「我々を閉じ込めるならば、その代償を払え」というプラカードを掲げる。イタリア全土の広場では、さまざまなグループが動員され、社会主義者、共産主義者、無政府主義者、ファシスト、COVID-19懐疑論者、そしておそらく最も多くのグループでまだラディカルにはなっていないか「政治化」されていない労働者や失業者などが注目をあびる戦場となっている。

この多様性のために、ファシストや政治家はメディアで自らの正統性を主張できるようになった。一週間前、ローマでは2つの広場がファシストに占拠されたが、彼らは門限を破ったために警察に排除された。ファシストが追い出された後、一部の左翼ラディカルは、より多様なデモ隊の構成を可能にするために、これらの広場を奪回した。イタリアでは、広場は、私的な領域と公的な領域が出会う都市空間として、市民生活の中で重要な役割を果たしていることを理解しなければならない。

我々は特定の戦術を提唱しているわけではない。「平和的」であるかどうかにかかわらず、戦術はデモ参加者自身によってその行動の瞬間に決定されなければならない。しかし、不安定な労働者の再構成と再服従化が街頭で行われているときに、いかなる空間においてもファシストに正当性を与えないことが極めて重要である。

イタリアで数週間に及ぶ強引で不釣り合いな外出禁止令に続いて、更に全国的なロックダウンが準備されているとき、私たちは、最初の暴動の夜からのこの報告を翻訳し、広めることが重要だと感じた。私たちは、このレポートがイタリアや他の場所で繰り広げられている複雑な状況についての議論の開始となることを願っている。

出典:The complexity of Italy’s anti-lockdown protests

November 3, 2020

https://roarmag.org/essays/italy-anti-lockdown-protests/

(下訳にwww.deepl.com を用いました)

CrimethInc:アナキズム関連をFacebookが禁止に―来るべきデジタル検閲

投稿日: カテゴリー: 文化民衆的自由の権利監視社会表現の自由、検閲批判

BLMが収束せず、大統領選挙が近づくなかトランプはますます横暴になっていますが、これにすりよるFacebookはもっと罪深いと思います。以下、CrimethIncの記事を訳しました。

アナキズム関連をFacebookが禁止に
来るべきデジタル検閲

Facebookは、アナキストおよび反ファシストのネット発信プロジェクト(原注)の中でも、彼らがcrimethinc.comおよびitsgoingdown.orgに関連すると考える(注)複数のFacebookページを削除した。
(原注)同じ口実で本日禁止された他のFacebookアカウントのなかには、ミュージシャンのMC Sole、Truthoutの作家Chris Steel、およびヨーロッパのニュースソースであるEnough is Enoughがある。

(注)https://twitter.com/nickmartin/status/1296175961260482560

彼らは、公式には「暴力を支持している」ことを口実にしている。この禁止措置は暴力を止めることとは無関係であり、社会運動とこれを報道するネット発信を抑えつけることがすべてだ。

(注)

ドナルド・トランプは、米国における警察の後をたたない暴力に対する全国規模の抗議の波に対して、一連のソーシャルメディアの投稿で、アナキストと反ファシストを非難し、数か月にわたって取り締まりを要求してきた。10年前、Facebookの代表は、エジプトでの民衆蜂起に果した彼らの役割を誇示していた。現在、積極的に社会運動を論じるネット発信を禁止する彼らの決定が示しているのは、ネットに登場を許される唯一の形態のアクティビスムとは、現在の当局に確実に利益をもたらす役割を果たすことが望まれているというこだ。

https://twitter.com/nickmartin/status/1296175961260482560
(訳注)8月20日、Nick Martinのツィッターのページ。(ここで、Facebookが禁止したサイトに言及されている)

暴力の定義は中立ではない。現在Facebookによる暴力の定義は、警察が年間1000人を殺害し数百万人を強制退去、誘拐、投獄することは合法だというものだ。攻撃者が政府を代表している限り、民間人を爆撃することは合法であり、白人至上主義者が群衆を襲撃するのを阻止したり、警察が撃った催涙ガス弾を警察に投げ返したりするのは「暴力」だとするものだ。体制や白人至上主義暴力からコミュニティを防衛しようとする人々の声を抑圧するのは、暴力を行使する者たちが制度的権力を保持している限り暴力行使を当然だとする意図的な決定だ。

現在の政権を明示的に支持する極右の民間武装勢力militiaとアナキストや反ファシストを一括りにするのは、問題を混乱させる戦略的な動きだ。これは、ウィリアム・バー(司法長官)が自称ファシストと反ファシストの両方を標的とする「反政府過激派」を標的にした司法省のタスクフォースを設置した際に行ったのと同じやり口だ。司法省の場合、極右の攻撃に対してコミュニティ防衛の最前線にいる人々を取り締まる人員や金を要求する口実として極右や民間武装勢力の攻撃を指摘しえた。バーと他のトランプ政権のメンバーは、ブラック・ライブズ・マターの活動家に対しても同様のことを行おうとし、BLMとネオナチスや白人ナショナリストを「人種的動機をもった過激派」として関連付けた。

シャーロッツビルでの「Unite the Right」の動員の最中に、自称ファシストがHeather Heyerを殺害(2017年8月)した後、ソーシャルメディアからファシストや白人至上主義者を排除せよという大きな草の根の圧力が発生した。現在、当時とは真逆にこの圧力は、抗議運動が国家の暴力と抑圧に関する全国的な対話を創出する上で不可欠な時期に、国家機構のトップから来ている。これは、シャーロッツビルのファシストに反対して結集した人々の見解を発表したWebサイトに対する権力からの反撃である。これが数週間の街頭闘争に直面してトランプが連邦の軍をオレゴン州ポートランドに動員した直後で、極右のスポークスパーソンが上院での証言で具体的にcrimethinc.comとitsgoingdown.orgに言及した数日後のことなのは偶然とはいえない。

極右のグループが引き続きFacebookを利用して組織し、COVID-19に関する危険な誤った情報を広めるなかで、Facebookはトランプ政権の合図を優先して反対意見を抑えている。間違いなく、これが問題にならないのであれば、将来はもっとひどいことになる。政府が社会運動を報道するネット発信を取り締まるノが当たり前になればなるほど、こうした検閲は社会のあらゆる部門に浸透し、政府が考え、想像するような事態を具体化するようになる。

この問題についてあなたが危惧するのであれば、このニュースを広く共有できるようあらゆる手段を駆使してほしい。Facebookがあなたに対して何が責任ある言論なのかを決定すべきではない。共に連帯するなかで、私たちは、より良い世界を作り出すことができる。こうした世界は、善意ある誰もが、ファシスト、政府、10億ドル規模の企業が脅したり沈黙させたりすることを恐れる必要のない世界だ。

「CrimethInc、それは、真に自由な社会の詩人や知識人たちだ。アナキストの発信に共通のテーマがあるとすれば、それは組織的暴力やシステムの暴力の脅威が存在せず、また、決してこのような状況が起き得ない社会を夢見ることだ。ここでは、棍棒、銃、爆弾を持つ男のグループが、他の人々を脅すようなことはない。これは正統性のある政治的立場というだけではなく、社会にとって必須であり、本質的かつ必要なものだ。私たちは平和で思いやりのある世界を夢見ることさえ禁じられている、と特に若者たちに語らざるをえないことほど、暴力的なことはない。」
-デビット・グレイバー、:ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス人類学教授、『債務』の著者、Facebook禁止のニュースに応答して。

危惧すること:コロナウィルス問題と私たちの政治的な権利について

投稿日: カテゴリー: 民衆的自由の権利資本主義批判

2月27日にいくつかのメーリングリストに「危惧すること」と題して投稿した文章を再掲しますが、もはや状況が追い越した感あるので、最初に補足の文章を載せ、その後ろに27日の文章を掲載します。27日の投稿にある米国のインフルの数字は日刊ゲンダイからとったものですが、CDCのデータではこれより少なく、死者は2万人、感染者は3400万人としており、25000人の根拠がわかっていないのに使ってしまってます。こういうのは好ましくない使い方で反省です。なお、米国の実態は調査されていないのでわからないし、そもそも検査キットが米国では足りないと米副大統領が語っているニュースをBBCで見ましたが、これは実態が正確に把握できていないということでもあります。ですから、日本と同じザル状態なので今後拡がるかも知れません。

インフルエンザもまともに押えられない米国CDCは日本のメディアがいうほど効果的な組織ではないと思います。5日の米国のDemocracy Nowの番組では、最大の問題は、米国の公的保険制度の不備にあること、貧困層が保護されないこと、貧困層ほどテレワークなどというシャレた仕事ができないサービス業についていることなどを指摘しています。

安倍が韓国と中国からの渡航を事実上禁止にしました。他方で、外国が日本人の渡航を制限すると逆ギレする。これは露骨なレイシズムであり自民族中心主義です。こうした事態を感染の問題ではなく、政治あるいは「地政学」(嫌いなことばだが)としてみる必要があるでしょう。こうした見方もメディアの報道では少ないし、そもそも私たちの間でも議論ができていないと思います。つまり、政治は政治の観点で感染症を観ているのであって、私たちの生存権の権利を保障しなければならないという義務に基づいて行動の選択をとっているわけではない、ということです。政治家や権力者の言葉は、権力の再生産にとって利益になるのかどうかという観点を踏まえて解釈する必要があると思います。

他方で、コロナがかなり経済に打撃になっているので、人々が騒ぐほど怖くはないということを強調する傾向もあります。たとえば、BBCは昨日の放送で、致死率は1パーセントでインフルエンザの10倍あるが、家で安静にしていれば多くの人は治るということを強調していました。 政治状況に応じて判断は変動し、専門家の言説が利用される、ということでしょう。

今にいたるまで、緊急事態を先取りして自治体ベースで進んでいる公共施設の閉館を表現の自由や民主主義の問題との関わりで論じる人が少ないと思います。人々が異論を唱えたり主張するために議論する空間が規制される現状を、人々の側が「仕方がない」で受け入れてしまう。緊急事態の立法化を目論む安倍は言語道断ですが、むしろこれを先取りしている自治体や自粛だけして代替策を模索することを断念しているように見える市民運動などの運動側にも問題があると思います。集会の場所が借りれないとすれば、これは憲法に保障された権利の制約だということを深刻に受けとめるべきですし、自粛は、この権利を自ら(仕方なく)放棄するという重い決断なのだということですから、代替案を工夫すべきだと思います。こうした草の根からの自粛状況にむしろ安倍政権への権力集中が支えられてしまっているということを冷静に分析することが必要でしょう。だから、感染のリスクがあっても集会はすべき、なのか。私は必ずしもそうは思いません。高齢者も多いので、決意と気合に依存するのも限界があるでしょうし、決意主義の弊害を経験してきた世代としては、こうした態度には躊躇も感じます。それぞれの判断が大切で判断の根拠を示すことも大切です。メディアや政権の判断を鵜呑みにしていないということを示す必要があります。そして、いかなる判断を下そうとも、代替案は用意して権利が縮小されない工夫は必要です。

企業はしたたかで、客が来なくて売り上げが減るなら損失をカバーするための代替策を探します。運動は金による損得ではないのでボーっとしてしまいがちですが、自由や権利の「損得」を冷静に判断して、代替策を工夫することがとても大事な時期に来ていると思います。いずれにせよ、コロナ問題を医者や「専門家」に任せるべきではないと思う。この問題についての政治の判断からメディアやマーケットの動向まで、状況は優れて政治的かつ資本主義的な損得に依存しているのだということを忘れないようにしたいと思います。

最近のできごとでいえば、80年代、90年代のHIV-AIDSをめぐるパニックは先進国がこうした感染という問題のなかで偏見や差別がどのように露呈するかを反省する上でとても参考になる時代であり、同時に、この偏見や差別と闘った貴重な運動の時代だと思います。

コンテイジョンという映画があることを富山の友達が教えてくれました。これは、かなりよくできた感染パニック映画。 開発されたウィルスワクチンを最初に誰が使うのかという微妙な問題と倫理との相克も描かれています。

もうひとつ、こうした事態のなかで想起されていいハズの国連用語があります。それは「人間の安全保障」です。このことばは外務省のホームページにもある公的な概念ですが、これに注目する言説もほとんどありません。人間の安全保障human securutyではなく民衆の安全保障people’s securityとすべきだという議論が沖縄の反基地運動のなかから提起され、国家の安全保障では民衆を守ることはできないということが議論されてきた経緯もあります。(小倉の文章)こうした議論もまた想起されるべきでしょう。

以上思いつきも含め補足でした。以下当初いくつかのメーリングリストに投稿したもの です。

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小倉です。煮えきらない投稿です。

コロナで緊急事態的な状況になっています。この新型コロナウィルスのリスクの客観的な評価がなかなかできません。そもそもクルーズ船が唯一の感染源とはいえないようなケースも発見されており、中国武漢が発祥の地だという推測も本当にそうなのか、確証が薄れているように思います。

中国政府にとって武漢での流行は、香港の反政府運動を押さえこむ上で格好の材料に使え、実際に香港の運動は大きく後退したし、トランプにしても中国経済を弱体化できる道具として新型コロナは事実を隠蔽するよりも事実を誇張する方が政治的な利得が大きいともえいます。 逆に日本政府は事実を把握しない、できる検査をしないことで統計データの暗数(あんすう、wikiとかに解説あり)を操作して実態を過少に評価してオリパラ開催に固執することの方に利益がある。トランプにしてもすでにインフルエンザで25000人も死者を出す大流行を隠蔽しつつコロナに注目が集まる方が都合がいいし、大集会を繰り返す大統領選挙では集会自粛は誰も言い出したくない。株価は下ってますが、テレワークのIT企業はかなりのビジネスチャンスと思っている。監視システムの拡大も避けられないでしょう。

状況は医学や疫学の問題だけでなく政治的な意向を反映しているので、客観的にどのように判断するのが正しい予防やリスク回避なのかさっぱりわかりません。こうなると不安だけが先行して自粛の同調圧力が強まり、運動もまた失速します。予防とリスク回避が何より大切という場合、過剰な萎縮ではないこと、政府やメディアの宣伝に同調しているのではないこと、政府のデマとは無関係の独自の判断だというための客観的な判断基準にもとづいていること、とはいえないようにも思います。逆に、こうしたことがあってもがんばって集会やデモをやるぞ!という決意先行は、威勢はいいけれど、リスク判断を決意によって代替できるわけではないから、理論的な説得力はない。 今回は新型コロナウィルスですが戦争状態の危機になると同種の状況が生まれるのかもしれません。

今後のことで危惧するのは、

(1)集会などが次々に中止になる。主催者判断の自粛だけでなく、公共施設が貸さない、という判断になる可能性もあります。国会の議員会館の院内集会の中止もありえないことではないでしょう。憲法に保障された集会の自由を奪われるわけです。

(2)国会は通常国会の会期中ですし自治体の議会も開かれていると思います。様々な法案の審議中ですが、無観客試合みたいな感じで一方的にヤバい法案が次々に通過する可能性がある。裁判所も傍聴制限を強化するかもしれない。裁判公開の原則が崩れます。とくに、非常事態の官邸への権力集中を容認するような法案とかが、コロナを口実に作られるかもしれず、たぶん野党も同調するでしょう。

(3)国会すら機能停止になるとすれば、あるいは国会審議の時間的な余裕がないという理由で執行機関の内閣に権力が集中し、行政が暴走する。例外状態を口実に超法規的なことをやりかねない。

娯楽関連のイベント中止は、確かにコロナの流行状態をみると仕方ないかなあと思いつつ、他方で、オリパラとの関連では、福島の放射能汚染の隠蔽の現実を踏まえると、実はもっと深刻に捉えるべきなのかとも思い、そうであるなら集会などの自粛もありなのかとも思います。いずれにせよ集会などの実施、中止の判断の政治的な性格をきちんと把握する必要があると思います。医学と疫学だけに委ねられない。確信をもって判断できませんが、こうした自粛の先に政治的な意思決定や民主主義を支える仕組みそのものがもっている権力を抑制しえない限界が露呈するように思います。

こういう事態で、天皇が何を言うのか、沈黙したままでいられるのか、ということも注目ですが、ぼくが注目したいのは天皇ではなくて、天皇の言動を受け止める「国民」の側の受け止め方の方です。これが天皇制を支える基盤だと思うのです。

ちなみにわたしの関連では29日に集会を開きます。これは予定通りの開催です。 監視社会に対抗する プライバシーの権利運動 ―韓国からの報告― http://www.jca.apc.org/jca-net/node/68