意味と搾取(改訂版)第五章 非知覚過程―資本と市場

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意味と搾取 序章 (PDF)

意味と搾取 第一章 拡張される搾取 (PDF)

意味と搾取 第二章 監視と制御:行動と意識をめぐる計算合理性とそこからの逸脱 (PDF)

意味と搾取 第三章 コンピュータをめぐる同一化と恋着 (PDF)

意味と搾取 第四章 使用価値の再定義―意味使用価値とパラマーケット (PDF)

意味と搾取 第五章 非知覚過程―資本と市場 (PDF)

Table of Contents

1. 資本主義における自己同一性

たとえば、携帯の交通系アプリで自動改札を通過するとき、私が改札を通過できるのは、私の生身の存在そのものによるわけではなく、携帯のアプリと改札のマシンとの間のデータ通信による支払い確認システムによるものだ。これは、一昔前の有人の改札で駅員が入場の承認を与えるのが私ではなく私が所持している切符によるのと似ている。いずれの場合でも私という存在それ自体が承認の必須の条件になってはいない。一般に私のことを知らない第三者が、私が正真正銘の私であることを確認するには、何か私以外の別の確認手段が必要になる。関所の通行手形であれ人相書きであれ、人類が長年利用してきた認証の方法だ。

この意味でいえば、デジタル化された認証手段もアナログのそれも、当事者以外の何かを手段として私が私であることを判断している、という点では共通しており、電車の乗車を必要としているのは、私なのだが、私であることを認証する何かは私ではない何かであるために、ある種の「ズレ」が生じるという点は、アナログの時代から共通してみられる。しかし、類似しているのは外形的なところだけだ。現代の交通系ICカードやアプリは、紙の切符にはないデータのやりとりを可能にしている。

私が電車に乗るときに鉄道会社が確認しなければならないのは、私が正当な料金を支払った者であって乗車の権利がある者だ、ということだけであり、それ以外の条件は必要ない。この条件は紙の切符で十分満たされてきたはずのものだ。しかし、改札が自動化され、紙の切符ではあるが磁気乗車券(裏面が黒い乗車券)となったときに、乗車駅、降車駅だけでなく様々な情報が書き込めるようになった。磁気乗車券にも複数の仕様があるが、旧来の切符よりも詳細な情報が書き込め1 、このデータは券面には記載されないために、券面以外の多くのデータが収集されていることを知っている人は少ない。このように、ほとんど知られないままデータが収集されている過程を非知覚過程と呼ぶ。たいていの場合、利便性だけでなく、本来の乗車券が果す役割を越えたデータ収集を通じて、鉄道会社は利用客の動向をより詳細に把握する手段として切符を利用してきたのだろう。そして、交通系ICカードやスマホアプリになれば、非知覚過程を通じて収集できる情報量は格段に多くなる。

このように、本来の必要の範囲を逸脱してより多くの情報を収集しようとする流れは、日常生活のなかの様々な場面で様々なサービスで登場し、監視社会化を支えている。しかし、こうしたデータ収集の仕組みの普及は、ほとんどの場合、利用者の実感に大きな変化をもたらしていないようにみえる。あるいは意図的に利用者の実感に影響しないような舞台裏での出来事にしたい、という意図があるのかもしれない。

一般に、私たちが世界についてどのような理解をもつのか、あるいはどのような感じ方をするのか、という問題は、私の五感に基いて構築される私の世界についての判断を前提としている。私が関心を寄せているのは、この私の側の世界理解の基本的な枠組みと、世界の側が私を理解する枠組みは同じではない、ということだ。私が友人ととりむすぶ関係は、私が「知る」友人と、友人が「知る」私との間の関係だが、この関係はかなりのところまで大きなズレはないと信じられている。こうしたコミュニケーションの極めて単純なモデルでは、対等な二者間の関係を前提とする。しかし、現実にありうる二者間の関係ですら、私が友人すら気づいていない友人についての何らかの情報を持っていたりすることもありうる。友人の交際相手から友人にはまだ伝えていない別れ話を内緒で聞かされる、などといったことだ。

私たちがある対象に接するとき、この対象は私の知覚を通じてそれがいかなるものであるかを知る。この知覚によって把握される対象を、それ自体として取り出して「表象」として理解しようとすると、この対象の構造的な背景や、この対象についての私の側の理解を構成している条件を軽視しがちになる。前章でパラマーケットについて論じたとき、代表例として取り上げた広告のような場合、広告を表象としてではなく、資本による意味使用価値形成の過程の一環として、資本の利潤の構造と不可分であり、同時に、生活過程に組込まれる消費社会のイメージを構成することを通じて、<労働力>再生産の文化的な装置をなすという問題に注目した。知覚しえない過程がその背後にあり、これが常に知覚過程を担うある対象―交通系スマホアプリとか―を通じて、私に与える影響は、知覚過程をいくら詮索しても理解はできない。

別の事例を挙げてみよう。たとえば、職場に出勤した労働者は、自宅にいる自分とは別のアイデンティティで仕事をする。このことが端的に示されるのが、「私」がどのように呼ばれているのかとか、社員証や名札、あるいは工場や店舗の従業員として着用する制服などだ。こうした一連のアイテムが私が何者であるかを知覚的に構成している。「同じ」私が自宅やプライべートな場所でくつろぐとき、私服に着替え、私についての呼称も親しみを込めたものになる。そして、通勤の途中や買い物での私はこのいずれとも違い、ほとんどの人々は私の名前も住所や職場のことも知らない「他人」として、すれちがうほんの一瞬の時間を共有するだけだ。私が、労働組合の集会に参加したり、デモに参加するといった活動をするときには、多分周囲にいる多くの人たちは私について、名前とかこれまでの活動ぶりとかを知っているかもしれない。ここでは「私」は単なる労働者ではなく、闘う労働者としてのアイデンティティをもって人々と同志的な関係を構築している。こうした空間的な切り分けが「私」というアイデンティティの重層的で複数の存在を支えていた。この意味で、「私」はそもそも根源的に複数形である。これを単数として扱うことはできないはずだ。

しかし、上のような「私」をめぐる物語は、実は私という主体から眺めた私についての物語でしかない。他者からみた私は、私が私を理解するようには理解しない。様々な他者が様々に私を理解する。空間は、私と他者、あるいはその両者からなる「社会」における人々の配置(マッピング)でもある。会社からみた私は職場で働く私を具体的な人間として把握できるかもしれないが、退社後の私については、給与支払いに関連する扶養や交通費などの費目や休暇の届けといったデータでしか把握できないし、把握する必要もない。同様に、「社会」の統治機構の目からみた「わたし」もまた行政サービスの必要や租税や統計上把握可能なデータとしての「わたし」でしかない。

ここに、顔認識機能を備えた監視カメラが設置され、データベースを照合するような事態になると、空間による切り分けは意味をなさなくなる。つまり、空間は「私」を防御するシールド―これは私が知覚可能だからこそシールドとしての機能を果すことができる―の役割りを果せなくなる、ということを意味している。この複数のアイデンティティを串刺しするようにデータの新たな流れが構築されると、この流れを誰が何の目的で利用するのかよって、「私」の社会的存在そのものが変化する。にもかかわらず、多くの場合、私は、この空間の歪みがもたらす「私」の変化を知覚できず、相変らず、私は空間によって私のアイデンティティの複数性を使い分けつつ「私」であることが可能だと感じてしまう。

この不安定な自己同一性の弁証法的な不統一の統一の問題は、資本の観点からみたときには別の光景が拡がる。資本にとって、私は<労働力>というコストであり雇用契約の契約相手である。その限りでの私が資本にとっての私の全てである。だからこそ資本にとっての余計な要素こそ、逆に私にとっては重要な武器になる。同様に、国家にとっての私は、「国民」としての私か、あるいは、「国民」としての権利や資格から排除された私、そのいずれかとして、私なるものを構築する。本稿の著者である私は、自分のアイデンティティについて、日本国籍の保有者だが「日本国民」としてのアインデンティティを持たない。しかし、政府は私を「国民」という集合の要素として扱う。その上で、国家にとっては、権力の正統性を維持するために制御すべき対象とされる。政府が用いるコンピューターの技術は、こうしたアイデンティティのずれなど気にもとめず、私が「国民」として括られることを拒否するアイデンティティの持ち主であることなどは無視する。その上で、コンピュータ化されたデータの構造が、市場であれ統治機構であれ、領域を選ばずに共通の土台を提供する。経済だけでなく政治や文化といった領域まで横断して共通の技術が用いられるような事態は、人類史上なかったことだ。

自分が自分である、という自己認識は多かれ少なかれ誰もが持っているハズのものだが、実感として、また直感的に私が認識する「私」という存在が、何なのかということになると、容易には説明しがたい。このことは、「私」を根拠づける確たるものの確証を私ではない第三者による確認、認証、承認などといったものによって「客観化」しようとする動機を生み出す。このこと自体は、たぶん人間が社会的な存在としての自己を一つの統一的な社会的役割に収斂させることができない複雑な社会を構成するにつれて生じてきたことだという面でいえば、いわゆる文明などと呼ばれるような巨大な社会組織の登場にまで遡れるものかもしれない。2 とはいえ重要なことは文明という没歴史的な概念に、この自己同一性の脆弱性を還元するのではなく、歴史的な構造のなかで、その特殊な自己同一性の脆弱なありかたを位置づけて、その矛盾と問題とともに、それぞれの歴史的社会に固有の矛盾の一時的な解決の方法とその限界を見定めることが必要だ。

資本主義における自己同一性の脆弱さは、人々の生存のシステムそのものが複数の断層に沿って分断されながら、この分断を日常的に抱え込んで日々を生きざるをえないというシステムの限界に伴って生じている。朝起きた私、通勤する私、会社で仕事する私、ショッピングする私、アクティビストとして活動する私、友人と酒を呑む私、こうした私の様々な局面を「私」という抽象的な存在がひとつのものとして統合しているわけだが、この「私」の抽象性という本質はほとんど自覚されることはなく、むしろ「私」はこの私に固有の風貌に端的に表現されているように具体的な存在だとみなされている。前章で商品の固有名詞と一般名詞の関係に触れたことを思い出してほしい。抽象的であること、具体的であること、そして社会のなかで様々な役割を交互に、あるいは重複して演じることとの間の構造と関係は、資本主義社会の構造そのものによってあらかじめ規定されている。そしてこの既定性が、私というパーソナリティの形成に関わることになる。

抽象的な私は、本源的な私ではなく、社会システムが抽象に基づく複数の私のありかたを統一するための「方法」であって、抽象的な私の存在そのものが近代という社会の構築物である。個別具体的で時間と空間に限定された私を超える抽象的な私に対応して、私の条件をなすとされるものも構築される。こうした複数の個別的な私を繋ぐ私として、あるときは民族的な同一性が、またある時は国民的な同一性が、そしてまたある時は階級的な同一性やジェンダーの同一性が主張され、これらが同一性のメタレベルでのヘゲモニー構造を形成する。この領域そのものが政治的な闘争の枠組をなしている。この生臭い領域を哲学は抽象的な人間を対象に、また古代ギリシアの哲学などを参照することを通じて脱臭してしまう。マルクスが終生闘ったのは、こうした哲学の機能を反動的で資本主義の支配的秩序に加担するものだと批判して、現実世界の変革を主張した。具体性は、それ自体が弁証法的でありかつ哲学に敵対する哲学だった。

2. 私とはデータである…

言うまでもなくデータ化された私は「私」そのものではない。しかしこの確信は私にとってしか通用しない。国家や資本の視線からすれば「私」とはデータである。他方で今ここにいる生身の私は、このデータ化された私の外部に、私という主体を構成する核となる部分が存在することをほぼ確信している。この核は、決してデータ化されることはないが、しかしデータ化された私の部分を介してパラマーケットと相互の関係をとることを通じて、核そのものの変様ももたらされる。この変様は、人間に固有のフェテシズムと密接な関係をとる。パラマーケットが出来の悪いAIや機械学習などの仕組みによってますます影響を受けるだけでなく、むしろ、これからは出来のよい優秀な(何が優秀なのかは今問わない)AIが支配的になるにつれて、このAIにフェティイシュな同調行動をとることがより容易になることによって、「私」にとって最も親密な位置を占めることになったパラマーケットの、とりわけSNSなどでのアルゴリズムで操作されたコミュニケーションを通じて構成される「世界」が、残念なことだが、「世界」そのものとなり、これを「世界」として実感するようになる。そして、データ化された「私」を、私自身もまた、それこそが私そのものだと受け入れて承認してしてしまうために、「私」とはデータとして構成された私である、ということが真実の位置を占めることになる。こうして「私」は、データ化された私がどのような私になるのかをあらかじめ予測して、私をこのデータ化された私に最適化するように作り替えようともがくようになる。AIが採点するカラオケの上手い下手の基準に合わせて必死になって歌の練習をするといった振舞いに多くの人達は疑問を抱いていないように。こうして、いかなるメカニズムを内包しているのかは謎のままだとしてもデータセットが私になるという転倒が生じることになる。

データ化された私が私の自己同一性を規定し、私を乗っ取るのであれば、伝統的な監視社会が描くような画一的な人間モデルが支配的になり、私は限り無く社会の倫理規範を内面化した存在へと向ってもよさそうなものだ。しかし、ある面では、逆のようにみえる現象が起きる。

人間の世界理解は、知識人や思想家たちのそれを別にすれば、多くの場合、前章で述べたように、実世界において「私」を中心に同心円的に描くことができる人間関係と空間との関わりを通じて、形成される比較的単純な仕組みを基礎にしてきた。この仕組みが、コンピューターネットワーク上のSNSなどにとって代わられたときに、人々が心理的に経験することが可能な「世界」もまた、明かな変容を遂げることになる。フェイクニュースや「ポストトゥルース」と呼ばれるような世界がSNSによって突然登場したわけではない。これまでも、政府の荒唐無稽なプロパガンダ(その格好の事例が戦前戦中の日本を支配した「現人神」だろう)、マスメディアや公教育、科学的な世界認識の背後に、むしろ親密な空間のなかで密かに流通していた世界理解の不合理な側面や荒唐無稽な理解が、幾重にも重ねられた実空間のコミュニケーションのレイヤーに妨げられることなく、一挙にサイバースペースに拡散しうる構造が登場したに過ぎない。もはや、お行儀のよい余所行きの言説で自分の内面にある偏見やおぞましい欲望をごく親しい人達にだけ吐露することで満足する必要ははなく、誰とはわからないが、「お友達」となった人達と、このおぞましい言動を共有することができるようになったというだけだ。問題は、こうした社会的な価値規範を逸脱する人々を生み出したのが、まさにこの価値規範それ自体の欺瞞性にある、ということなのだ。自由や平等といった価値を近代社会は普遍的な価値としながら、実際の資本主義が実現できる自由や平等は、むしろ不自由は不平等を自由や平等と呼ぶレトリックを駆使するか、あるいは、現実世界から隔離されたアカデミズムや言論世界のなかで繰り広げられるゲームのルールとしてしかその存在理由が与えられていない。だからこそ、おぞましい感情は、この欺瞞を栄養素として人々の無意識のなかで生成され続けるのだ。

だから問題は、近代の規範ともいえる人権や平等の理念がなぜ親密な空間のなかで脆弱なまま放置され、不合理で偏見に満ちた感情が消え去ることなく横溢してしまったのか、である。こうした感情の根強さは、それが人間の本性に根差しているからではなく、それが近代の支配的構造の本性に内在する非合理性の特異な処理方法に基づいているからだ。家父長制的な家族システムは、普遍的な人権規範を最適化するような親密な小集団組織や家族関係ではなく、エディプス・コンプレクスのような権力関係に根差している。これは近代以前の家族システムからの継承ではない。資本主義的な政治・経済権力の再生産のなかで数世紀にわたって形成されてきた家族システムである。機械はそもそも、世代的な再生産に関わる仕組みを内蔵していないという点で自然のエコシステムとは対照的な特性をもつ。この機械に接続する<労働力>は、男性労働者をモデルとして構築されてきた。この労働者の<労働力>を日常的あるいは世代的に再生産するメカニズムも資本のなかでは存在できない。商品化に基づく機械制大工業が男性<労働力>をモデルとして組織化されることと、ここから排除される世代的な人口再生産の一連のプロセスは、排除されつつも社会の再生産にとって不可欠だ。<労働力>にはなりえない乳幼児や高齢者など、人間にとって必然的な生命体としての一生を、資本は自らの組織内部で維持することはできない。これを引き受けるのはもっぱら国家の役割になる。偏見や差別が内面化される過程において、家族や親密な友人関係との会話や価値観の共有が果たす役割は無視できない。こうした感情は、公式の理念や価値観と抵触しながらも延命しているのは、親密な関係がこうした感情を再生産するからだ。他方で、社会のシステムは、こうした感情とその表出をプライバシー領域に追いやることで、そこから外に漏出しないようなコミュニケーション上のバリアを構築し、社会の規範を防御することで擬似的な解決を図る。こうして公的な表明でない限りは許容され、私的で親密な人々との間の会話に差別や偏見が露骨に表出されることへの社会的な規範や倫理の形成の契機は不在なままにされてきた。しかし、Personal is politicalといった女性解放運動の問題提起や、私的な領域における闘争を通じて、こうしたプライベートの関係のなかで交される差別や偏見の会話も問題視されるようになったとき、それでもなお「好ましくない」のは、差別や偏見を口に出すことであって、差別や偏見の意識や価値観を内心において持つことそのものは、生き延びることが許された。いや正確に言えば、こうした内面への効果的な規制の手段は、家父長制の価値観の内面化が当たり前のこととして倫理にまで昇格できることを踏まえれば、人々は、言葉や態度だけでなく、内面の価値観からも差別や偏見を排除するために社会が果たすべき責務それ自体がいい加減にしか機能していないとみるべきであって、つまり、社会の側に差別と偏見を肯定する隠された意図が存在する、ということなのだ。社会の側は、これを無意識のなかに追い遣ってその価値観を延命させ、超自我にこの好ましくない価値観の表出を見張らせたに過ぎない。しかし、差別と偏見を生み出す社会構造が維持される限り、超自我は、この差別と偏見を無意識に抑圧しつづける役割を十分には果たせない。SNSの空間は、擬似的なプライベートな空間を生み出し、この空間のなかで超自我による検閲が緩むことによって抑圧されていた差別や偏見が漏出する回路となった。そしてこの回路は、市場に随伴するパラマーケットを支配するほどの力を持ちはじめたのであり、監視社会問題の個人における意識をめぐるやっかいな問題がここにある。

合理主義や啓蒙主義の眼で近代世界を理解することには限界があり、これらの裏面にあって相即不離な関係をなしてきたロマン主義的な不合理な世界の存在は、歴史の節目ともいえる時代になると、表舞台に顔を出すようになる。なぜ、そうなのかは、上述した差別と偏見の維持の構造によって説明することができる。近代社会は、こうした不合理性を排除しつつもこれなしでは成り立ちえない存在であり、この不合理性の核心にあるのが、実は、合理主義と啓蒙の砦をなしているかに思われてきた国家や資本の合理的とされる振舞いがもたらす統合と排除である。この統合と排除を視野に入れたとき、国家ほど不合理な統治形態はなく、資本ほど不合理な経済はなく、合理主義や啓蒙の思想はこれを隠蔽し、不合理で理不尽な感情や振舞いの生きる場所を与える。誰を監視するのか、監視対象を殺すのか放逐するのか、人格を否定して心的外傷を与えるのか、こうした一連の暴力もまた存在の場所を与えられる。

こうして資本主義は、合理主義と非合理主義を一つのシステムを支える両面としてもつ。3計算合理性や道具的理性など、資本による機械化からコンピューター科学までが一貫して、その基盤に据えてきた世界は、それ自体としてはその目的を内在的に創出することはできない。言い換えれば、資本には社会を形成する理念が内在していない。あるのは、最大限利潤を追求する商品経済的富の世界だけだ。これでは社会を統治する政治を実現できない。近代の理念を自由と平等という価値に基くものだと仮定しよう。この二つの価値は、市場経済における競争をめぐる自由と平等という限られた条件のなかで資本が受け入れるにすぎないものであって、労働者の自由や、労働者が資本家とともに企業組織のなかで平等の権利を保持すべきだといった考え方はもたない。なぜなら<労働力>は商品だからだ。

他方で、資本主義の世界観は、こうした市場の合理主義の世界からは導出できない。そもそも市場は共同体の外部にあって、共同体と共同体の「あいだ」に形成されるものであって、共同体をそれ自身として組織化することはできない。だから国家が必要になるわだが、では国家の理念はといえば、それが自由と平等を徹底させた存在であったためしはない。権力であることと、自由と平等の存在とは共存できないからだ。もちろん哲学者の頭のなかには、いくらでもその理念を体現する国家の観念は形成可能だが、現実の世界においては、これは可能ではない。むしろ国家は本質的にイデオロギー的な存在であり、また、イデオロギーはその本質において不合理であることによって、科学や法の世界に収斂することのできないものとしてその意義がある。イデオロギーにおいては、権力者が自由と平等の体現者を演じることに何の不都合もない。他方で、イデオロギーなき科学や法もまた存在しない。なぜならば、資本主義のなかで暮す私たちが「商品」や「貨幣」のフェティシズムに気づくことは実は決して容易ではないし、日常生活でフェティシズムを受け入れることなしには生活そのものが成り立たない。同時にフェティシズムそのものが資本主義の意味の世界を、あるいはまたイデオロギーを構成してもいる。

3. 非知覚過程

3.1. モノの回路とコミュニーションの回路

資本による人間に対する予測や制御は、機械化の時代から一貫して資本が追求してきた<労働力>化した人間への支配を目的とした人間理解の基本にあったものだ。この点は19世紀であれ21世紀であれ変らない。19世紀以降現代まで、熟練の解体と単純労働化から機械化へ、という流れは一貫しており、それが肉体労働から精神労働(情動労働)へと拡大されるにつれて、資本だけでなく政府の官僚制統治機構へと、この流れがあらゆる領域に広がってきた。経済的・政治的権力にとって最もやっかいな存在が、まさに社会を構成する主体であるはずの人間そのものであり、排除・隔離と統合が繰り返されてきた。こうしたなかで、コンピューターによる予測―制御の高度化は、この目的を、支配的構造による一方通行の過程ではなく、プロセス全体をデータ化し、結果は機械的にフィードバックされ、再調整され、より確度の高い予測と制御の実現へと、人々の思考と行動を促すために、「国民」という集合を参照点として―「国民」とその外部に置かれた人々という分断―を通じて差別化された<労働力>の直接制御を実現する方向で、技術のイノベーションを促してきた。この過程では二つのことが起きている。ひとつは、資本が予測―制御の対象としている人間についての「意味」―人間とは何か、人間とはどう生きるべきものか、あるいは倫理や道徳など―に基く動機づけの生成である。「意味」はあらかじめ固定された与件として生成されるのではなく、そのときそのときの目的に沿ってその都度生成され、この意味が人々の言動を動機づけることになる。同時に、日常的に追加されるデータによって「意味」生成の前提となるデータベースが更新され、人々の行動の結果もまたフィードバックされる。こうした柔軟性のある予測と制御―資本主義的レジリエンス―を通じて「国民」的<労働力>を再生産し、同時に、移民の<労働力>もまた再生産されるという構造そのものは、近代という歴史的な時代に一貫する統治構造であり、現代社会もまた、この構造の枠をより高度な情報処理機械を導入することで維持している。

この資本主義的なシステムの核心にあるのは、人々の言動を現にある社会システム―家父長制家族制度、国民国家、そして資本による市場経済という相互に矛盾と摩擦も内包しつつ調整もされるシステム―を与件とした「意味」の再生産である。これを資本主義的な社会システムと呼ぶが、このシステムには、決定的な限界がある。それが人々が生きる上での「意味」の空白を不断に埋め続けなければならない、という問題である。この社会システムそれ自体が意味を剥奪せざるをえないが故に、常に意味を生成しつづけなければならないのだが、<労働力>としての行為の意味は、労働市場の流動性を維持するためにも、人間の実存に根差した普遍的な意味―そのような意味があるとしてだが―をそもそも持たない。家族関係は家父長制として編成されるが、家族の紐帯は脆弱な「愛」という観念に依存する以外にない。こうして人間の社会的な存在としての「意味」もまた資本にとっての意味であり国家にとっての意味を纏うものとされ、こうした「意味」が人間の存在理由の核心を構成することになる。この構造が、膨大なデータベースを前提にして構築されるプロファイリングのアルゴリズムを支えるイデオロギーであり、テンポラリーに目的に応じて人間を動機づけ行動に駆りたて、自分のとる行動についての意味づけを(曲りなりにも)自己確認しようと努力させ、こうして行為の意味があたかも自分の内面から生成したかのように、あるいは生成しえないことの自責の念が感じられるように促される。

意味生成の過程を個人に即してみた場合、最初から支配的構造の意味を内面化した存在として個人が生成されるわけではない。意味は重層的かつ、相互に干渉し矛盾しあう幾重にも折り重なったものとして、生育過程から日常生活の慣習的な振舞いを通じて形成・再生産されるのであり、これが次第に支配的構造の意味へと収斂するように長期間かけて、ときには世代をまたがって調整され、これに抵触する様々な「意味」を抑圧し無意識へと追放する。この過程は弁証法的な意味構造であって、これが人間の行為や思考、感情、意識下あるいは無意識に内在する矛盾した理解の同時協働的作用をもたらすのであって、こうした過程を通じて行為や発話として表出する振舞いは、行動科学が想定し、コンピューターが予測―制御を通じて理解しえたとみなす人間の振舞いとは、結果が同じであっても、そのメカニズムは全く異なるものだ。AIがいかに膨大なデータを収集し「学習」し、人間の知的な労働を代替できるように振舞えるとしても、人間の認知能力の獲得と老化=衰退を模倣することはできない。AIの存在理由はひたすら健常とされる「成人」モデルに焦点を合わせることだけであって、赤ん坊であることや老化を生きることを模倣することを自らのシステムに組込むことができない。こうした意味でAIは、資本や国家が求める人間像を端的に示している。衰えを知らないAIは、無限の成長と不老不死という権力者の欲望の体現物だといっていい。こうした問題は別に論じなければならないだろう。

3.2. 意味の世界とパラマーケット

資本を中心に構成される意味の世界はパラマーケットを通じたコミュニケーションの複雑で混沌とした領域に依存するが、同時に、人々の私生活を資本の商品によって埋め尽すことによって、商品の使用価値の意味作用もまた人々の世界観や行動を左右するために、予測―制御の過程は複合的になる。商品の直接的使用価値、つまりモノそれ自体が否応なしに人間との関係のなかで、人間の側にもたらす意味と、パラマーケットを通じて人間が重層的なコミュニケーションを通じて構築する意味、この二つの意味の交差する座標軸が、とりあえず人間との接点を通じて支配的構造が主導権をとって生成する意味の場になる。情報・通信分野の資本は、データを大量に抽出して、さまざまなニーズに応じるプロファイリングを可能にするが、他方で、こうしたデータを基に組立てられた「私」に還元できない文字通りの意味での私が、こうしたデータの抽出に対してどのように向き合う(対峙する)か、という別の問題が生じるのも、この交点においてである。

かつてマルクスは、剰余労働を資本が搾取することによって引き起こされる問題、とりわけ労働者階級の貧困の問題を、抽象的人間労働と商品経済的な価値という量の問題に焦点を当てて資本主義批判として組み立てた。この批判は間違いではないが、限界があった。その限界が使用価値論の分析の不十分さにあった。資本主義的な商品の使用価値が、素朴で単純な時代―文字通り素朴で単純だったわけではない―でしかなかった19世紀には、複雑で高度に発達した現代の使用価値の世界を予想することは不可能だったから、マルクスのこの限界を補う使命は私たちがなすべき課題である。市場で売買される直接的使用価値と、パラマーケットが生成する矛盾に満ち錯綜し混沌としたコミュニケーションの場を通じて生成される意味使用価値の重層的なレイヤーは、これらを受けとめる主体である私たちひとりひとりのなかに生成される。これが、資本による具体的有用労働における労働の意味の剥奪と再構築という問題でもあり、労働とされる人間の行為の総体―必要労働であれ剰余労働であれ―がもたらす労働する身体それ自体にもたらされる抑圧という問題、つまり身体性搾取という問題でもある。

データの抽出と、これを商品として収益をあげる過程は、意味と労働とコンピューターという三つが関わる領域になる。ここで意味の生成は、コンピューターが介在することによって非知覚的な過程になる。これが目的意識的な行為とみなされてきた人間のコミュニケーションを本質的に転換するひとつの要件となる。

たとえばショッピングサイトにアクセスして買い物をする場合を例にとってみよう。実空間における買い物で、衣料品店でシャツを買うとしよう。店員にサイズや自分の好みを伝えて、似合いそうな服があるかどうか相談する。店員は要望を聞きながら、何着か推薦してくれる。そのなかに気に入ったものがあれば買うし、そうでなければ、あれこれ質問を続けながら品定めをするか、他の店に移動するだろう。この一連のコミュニケーションとほぼ同じことをネットショッピングでも実現することは可能だ。メールやチャットで質問するとか、サイトの検索で気に入りそうな商品を絞り込むことができる。体験的には非常に似たものになるが、全体を制御している仕組みは全く異なる。

3.3. 資本に有機的に組み込まれたパラマーケット

3.3.1. CTCとパラマーケット

コンピューター・テクノロジーが支配的な現代においては、パラマーケットの主要な回路がコンピューター・コミュニケーション・ネットワークとして構成されるようになっている。これが従来の実空間のパラマーケットとどのような点で本質的に異なったものとして、資本に有機的に組み込まれた過程になるのだろうか。このことを知るためには、そもそものコンピューター・ネットワークの基本的な仕組みを理解しておく必要がある。4

先にみた事例―鉄道切符のアナログからデジタルへの移行や、ネットショッピングと実空間の店舗で買い物をする場合の比較―からもわかるように、焦点となる論点は、売り手による買い手についての把握が質的な差異だ。コンピュータが普及する前の資本主義的な市場経済では、匿名性の高い貨幣を媒介として売買が成立つために、売り手にとって買い手は基本的には匿名の存在であり、購買に至る経緯もその後の消費過程も売り手にとってはブラックボックスにならざるをえなかた。これが市場経済における「自由」の根底にあるメカニズムであり、これを自由そのものとみなすことで資本主義を自由な社会だとするイデオロギーが形成される。再分配や贈与の経済では、モノを与える側がモノの移転の主導権をとるが、市場経済の交換では、貨幣というオールマイティの購買手段(一般的等価物)をもつ買い手がモノの移転を決定する。売り手は、貨幣という匿名性の高い一般的等価物のために、この買い手の素性を知ることは容易ではなかった。しかし現代のネットショッピングではこの古典的な資本主義的市場経済が与えざるをえなかった買い手の「自由」が大きく変質する。

3.3.2. 舞台裏で起きていること

買い手が何らかの方法で、ショッピングサイトを探しあてて、買い物行動をとるところから話を始めよう。たとえば、仮に、ショッピングサイトのURLを https://www.nandemodepart.com と仮定しよう。このサイトにアクセスできたかどうかは、自分のパソコンの画面に当該サイトのページが表示されたかどうかで直感的に判断することになる。コンピューターは、この時点で、いくつかの舞台裏の作業をこなす。つまり

  • 買い手のコンピューター:nandemodepart.comに対して、接続のリクエストを送信する
  • 売り手(nandemodepart.com)のコンピューター:接続のリクエストを受けとり、許可する場合、買い手のコンピュータには相手のサイトを再現する上で必要なデータがやりとりされる。必要なデータとは、通信を確立するIPアドレスだけでなく、買い手のパソコンが使用しているブラウザの種類やパソコンのOS、画像やテキスト、レイアウト、使用言語など、買い手の画面表示に必要なデータを送信する。
  • 買い手のコンピューター:売り手のコンピュータからのデータを受けとり、これを指示通りにディスプレイに表示させる。実空間であれば、私が店に入店した状態に該当する。
  • 両方のコンピュータ:ログイン情報や決済に必要なデータなどを第三者に窃取されないように、httpsで通信を確保するために、通信回路を暗号化する。このためにディフィ=ヘルマン鍵交換が行なわれたりもする。
  • 売り手のコンピュータ:通信のセッションを維持するのに必要なクッキーを買い手側に送信する。クッキーなどを通じて売り手は、買い手がサイト内でどのように行動しているのかを、売り手に気づかれずに把握できる。
  • 売り手のコンピュータ:必須のクッキーに追加して、サードパーティ(第三者)クッキーも買い手のコンピュータに送信することができる。
  • 買い手のコンピュータ:売り手側から送信されたクッキーを自分のブラウザに組込む。しかし、ブラウザでサードパーティ・クッキーの受け取り拒否設定している場合は、このクッキーを受取らない。

以上のプロセスは、サイトにアクセスした段階でのことであり、更に会員としてログインするとか、実際に買い物をして決済する、ということになると、ユーザーに実感されない舞台裏で更に多くのデータのやりとりが行なわれることになる。

実空間では、入店した私は買い物を始め、目当ての商品を見つけてレジに持参して支払いをして、店を出る。ネットでは、私が操作するコンピューターが私の分身となって、相手のサイトにアクセスし、希望の商品を探すための手段となり、支払いを処理することになる。しかし上で箇条書きにしたように、実際にはこの買い物とは直接関係しないいくつものプロセスが存在する。たとえば、買い手のコンピュータ上に売り手のサイトが表示されるという当たり前の事象を支えているのは、買い手のコンピュータから多くの情報が送られているからだ。ほとんどの買い手は、自分のパソコンやスマホのIPアドレスが何であり、それがどのような機能を果しており、どのような個人情報に関連するデータを相手に知らせることになるのかということを知らないし、そもそも関心をもたない。なぜなら、これらの舞台裏で起きていることは、サイトにアクセスして自分がやりたいと思っていることとは関係ないからだ。

3.3.3. 本来の意図に寄生する非知覚過程

上で紹介したように、オンライン・ショッピングを支えているデータのやりとりひとつひとつの要素は些細なものだ。使っているブラウザとかOSなど、これらだけでは、何者なのかを推測することは難しそうにみえる。しかしIPアドレスから買い手がどの国のどの都市からアクセスしているかは把握できる。ユーザーのデバイスから送信される様々な些細と思われるデータの組み合わせ(フィンガープリントとも呼ばれる)から、個人を識別したり特定するヒントが得られる可能性がある。5 このようなことは本来、買い手の購買行動とは直接関係ない事柄だ。しかし、売り手にとっては、買い手の素性を把握できるということは、匿名性のバリアを突破して、買い手のプライバシーを暴く第一歩になる。しかも、こうした売り手の思惑を買い手はまず気づかない。

最後に店を出て別のサイトに移ることで、店との通信が切断されたと私は実感するが、コンピューターにサードパーティクッキーが送り込まれていれば、買い手は、売り手との売買が終了した後も継続してその行動を追跡される可能性がある。

この一連の行動は、nandemodepart.com側からは同一の人物による行動であると確認できなければならない。アクセスから切断までの一連の流れを「セッション」と呼ぶ。店側はこのセッションを管理することで、アクセスしてくるユーザーを把握することになる。たとえば、NTTコミュニケーションズのIT用語の解説では次のように説明されている。

「セッション管理は、Webサーバー上でサービスを提供するといった際に、アクセスしているユーザーの識別や処理の状態を管理するために必要になります。セッションを管理する方法はいくつかありますが、たとえばセッションを識別するためのID(セッションID)を生成し、その内容をCookieに保存します。このセッションIDにユーザー情報や処理状況を紐付けておき、通信時にCookieに保存したセッションIDを読み取ることで、その通信がどのユーザーからのもので、どういった処理状態にあるのかを把握することが可能になります。」6

上でセッション管理として説明されていることは、ほとんどのユーザーにとっては知られていないプロセスだ。ネットショッピングでは、私の実感に即せば、私が買い物をしようとしている店と繋っているのだが、実際には、私ではなく、私のコンピューターとショップのコンピュータとのやりとりで成立している。ネットでの店員とのチャットやメールでの問い合わせも同様だ。この過程を私が自分のコンピューターを操作して制御する。操作し制御しているのは私である、という実感によって、このプロセス全体の主体は「私」であるとも感じられる。しかしここでいう制御とは、コンピューターのディスプレイに表示されている画像やリンクをクリックしたり、文字をキーボードから入力するというレベルで自覚されているに過ぎず、その背後でコンピューターがどのようなデータの処理をしているのかは、コンピューターの技術者でない限り、知覚することは難しい。

実際にこのコンピューター・コミュニーションが成り立つためには、相互のコンピューターが間違いなく接続を一定期間継続し、商品を品定めしている「私」、チャットで質問している「私」、買い物籠に商品を入れる行為をした「私」、支払いをする「私」等々がいずれも同一の人物(実際には同一のコンピューター)であることセッションIDで確認し、この通信の途中で第三者がこのプロセスを横取りしていないことを確実にするように通信が維持される必要がある。これが上で引用した「セッション管理」だが、これはある種のつきまといを伴う。このつきまといなしに買い物をして決済を済ますことは不可能だ。ネットショッピングでは、こうした私の行動を確認しつつ買い物の利便性を確保するために、httpsでの接続のようなセキュアな通信を確保した上で、クッキーと呼ばれるコンピューターが相互に接続され続けていることなどを確認できる小さなプログラムが用いられてきた。クッキーだけでなく、私のコンピューターの様々なデータからなるフィンガープリントも相手に把握される。こうしたデータのやりとりがなければネットにおける「私」のコミュニケーションも成立しない。

このコンピューターの機械的なコミュニケーションなしには私のコミュニケーションも成り立たないのだから、この機械的コミュニケーションは私のコミュニケーションの必須の一部をなすにもかかわらず、行なわれる通信は知覚できない。つまり、私にとっては意識されないが通信=コミュニケーションにとっては必須の部分を構成する。もちろん、ウエッブの開発者、ある程度ネットのセキュリティや仕組みに精通していたり、関心を持ったりする人達、あるいはネットショッピングでビジネスを展開する企業(決して少なくないが、人口の多数ではない)にとっては、これらは顧客を知る上で必要なデータの一部をなすから、無関心ではないし、その知識に応じて、こうした機械的な通信も知覚可能な過程として制御の道具となる。7しかし、圧倒的に多くの人達にとっては非知覚的な過程であル。他方で、この過程を透明性のある過程にしようとする傾向そのものが、現在のコンピューター・コミュニーションの支配的な技術にはみられない。つまり、自分のコミュニケーションなのだが、そのコミュニケーションの構造を直感的に理解できるようには作られていないのだ。

買い手にとっては理解しがたいこの非知覚的な過程で行なわれるコミュニケーションが、データの抽出と行動の制御の回路として利用される。非知覚過程では、店の商品のどれをクリックしたのか、どのページを訪問したのかといった逐一の行動が記録可能だ。更に、店を離れて別の店に行ったとしてもクッキーが私の挙動を追跡している可能性があり、こうして蓄積されたデータから私の好みなどをプロファイルして、私の行動に影響を及ぼすことを意図した広告が私に送られ、私の行動変容へと繋る、という一連の過程が構築可能だ。8つまり、コミュニーションが人の行動や考え方に影響を与えるという場合、コンピューター・コミュニーションはこれを非知覚過程を通じて実現しうる可能性をもっている、ということでもある。更に、もし私が広告に何の関心も示さなかったとしたら、このこと自体もまたひとつの「データ」として次にはより的確に私の行動を変えさせるような広告を送り込むための反面教師として利用されることになる。そのためには、無関心な私が何に関心をもっているのかを把握しなければならない。ストーカーが、自分に無関心な相手が何に関心をもち、どうすれば自分の方に関心を向けてくれるかを考えながら、24時間相手を監視しつづけ、時には監禁すらしてしまう心理と、ターゲティング広告やトラッカーと呼ばれる非知覚過程で資本が行う動機との間には本質的な差はない。そしてAIがこの過程に必須の仕組みとして介入することによって、非知覚過程は、コンピュータ相互の過程を越えて、AIと人間の間のコミュニケーションに入り込むことになる。

3.3.4. 「意味」領域の機械化としての非知覚過程

非知覚コミュニーションは、それ自体が商品化されているわけではない。またビッグデータとして長期にわたって蓄積されるとも限らない。極めて揮発性の高いデータである場合もある。こうしたデータが長期に蓄積されるデータと組み合わされてリアルタイムに私の挙動に対して直接反応するようなコミュニケーションが機械的に構築される。この過程は、同時に「私」が何者なのかが形成される過程でもあるが、次第にコンピューターがこの過程で主導的な位置を占めるようになり、コミュニケーションを通じた人間の判断、という枠組みそのものが根底から揺らぐことになる。つまり、機械によるデータ処理が、人間と機械とのコミュニケーションをその一部に組込み(AI検索でプロンプトに入力するとか、生成AIに対話的に指示を出すなど)、これが社会の支配的なコミュニケーションと意思決定となることによって、データ処理の生産性が、人間のデータ処理能力の限界によって制約されることがなくなると同時に、人間の判断の前提となる他者とのコミュニケーションのどこまでが人間相互のコミュニケーションに基くものなのかが不分明になる。AIが実現してきたことは、パラマーケットが主に担ってきた「意味」の領域が機械化されるということでもあり、機械化された非知覚的な回路という新しいパラマーケットの構造である。広告産業などが密かに消費者に知られないように画像を細工するサブリミナル広告のような一方通行で、なおかつあまりアテにならない(フロイトの無意識の理論のプラグマティックな転用)仕組みとは全く違い9、確実に、コンピューターのプログラムによって生データ―そのなかにはAI自身が生成したデータも含まれる―を収集することに始まるフィードバック機構である。間違った前提や理論を用いてもフィードバックは成り立つ。人の情動についての間違った判断が医学などの権威によって「正しい」ものという社会的評価を獲得する可能性もある。裁判における鑑定や求職活動などでの性格判断などに応用されると深刻な問題を引き起すかもしれない。こうした間違いそれ自体が問題なのではない。間違った前提や理論に基く社会システムは、その間違いの故に崩壊する、ということはない。

だから、コミュニーションの主体である人間が実感できる領域だけを切り取って「コミュニーション」として論じたり分析することは、コンピューター・コミュニケーションの領域では不十分な分析にしかならない。機械が担う非知覚コミュニケーションを通じて、私たちの行動が「データ」として蓄積される領域を明確に組み込んだコミュニケーションの理論構築が必要になる。

4. 資本に有機的に組み込まれたパラマーケット

4.1. ユーザー追跡技術

ウエッブにアクセスしてくる者をサイトが追跡してその挙動を逐一把握する仕組みとしてクッキーが利用されるようになって久しいが、クッキーの利用に代表されるユーザー追跡技術の歴史的な経緯をみると、資本主義市場経済における資本の側がいかに消費者の行動と心理の把握に執着してきたのかを理解することができる。

インターネットの技術的な仕様に関する基本文書(RFC)に、サードパーティ・クッキーについて次のような記述がある。

「UA[ユーザーエージェント] は、 HTML 文書を具現化する際に、他のサーバ(広告ネットワークなど)からのリソースを要請することが多い。 これらの第三者主体サーバは、利用者がサーバを直に訪問したことが一度もなくても、利用者の追跡にクッキーを利用できる。 例えば、利用者が第三者主体が供する内容を包含しているサイトを訪問した後、同じ第三者主体が供する内容を包含している別サイトを訪問した場合、その第三者主体は、2つのサイト間で利用者を追跡できる。」10

このなかで「利用者がサーバを直に訪問したことが一度もなくても、利用者の追跡にクッキーを利用できる」とある箇所に注目しよう。ウエッブにアクセスした者に対してクッキーは、アクセス先ではない別のアクセス先と利用者を関係づけることが可能だということだ。本来であれば、AとBの二つの店を訪問する客がいるとして、実空間ではAの店からみたとき、自分の店に来た客がBも訪問したかどうかを知るためには、客を尾行するなど厄介なことをあえてやらなければならない。しかしネット上では「サードパーティクッキー」がこの役割を果してくれる。このサードパーティクッキーは、単一の買い物だけでなく、利用者が複数のサイトの訪問を把握することができるために、消費者行動を網羅的に把握する手段になりうる。

そもそもクッキーと呼ばれる小さなプログラムは、ウエッブにアクセスするユーザとのセッションを維持して効果的なコミュニケーションを維持するための手法として、ウエッブの技術が普及する初期(1990年代後半)に導入された。これをユーザーの挙動を把握するための手段に転用しようという発想は、資本が消費者の行動を知りたいという欲求なしには生まれないし、こうしたニーズが背景にあってクッキーの技術が当初の目的から逸脱して発展してきた。クッキーの技術はさほど高度なものではなく、ウエッブサイトの開発者であればその実装に必要な技術の基本は理解できるし、ウエッブ技術の入門書にも言及されているが、そうであっても、ネットの利用者の圧倒的多数はこの技術がもたらしてきたプライバシー上のリスクについて認識の共有はできているとは言い難い。とはいえ最近になって、プライバシーへの関心が高まり、クッキーを規制するルールの導入が進みはじめた。また、ウエッブブラウザのプライバシー設定を見直したり、よりプライバシーの配慮したブラウザに切り替える動きがでてきた。11 だからクッキーという手段を用いずに、ユーザーを追跡したり監視できる別の手段にフィンガープリントを用いる方法への移行がみられ、これに対する防御への関心が高まってきた。テクニカルな動向の背景にあるのは、ネットのユーザーの動静を可能な限り把握したいという資本の利潤動機に基く技術開発への意欲があるが、これが政府によって利用されれば、政治的な動機に基くユーザー監視となる。

パラマーケットの観点からみたとき、クッキーやフィンガプリントによるトラッキングは現代のコンピューター・コミュニケーション産業が支配的になり上部構造が土台化した時代の特徴を端的に示している。トラッキング行為は商取引それ自体とは関係しないバックグラウンドで機能する。消費者はこの動きを知覚できないからほとんど意識することはない。売り手は、トラッキングのプログラム技術そのものを知る必要はなく、その明らかな効果を容易に可視化してくれるGoogle広告12 など様々なサービスを利用することによって、ターゲットとなる消費者を把握できる。トラッキング技術は、消費者の行動を追跡して、自社の広告を消費者に対して的確に打つ、いわゆるターゲティング広告にとって必要な技術になる。

広告産業全体のなかでの従来型の広告とネットにおけるターゲティング広告やリターゲティング広告など、いわゆるユーザー・トラッキング技術を用いた広告を比べると、近年は圧倒的に後者への移行が顕著になっている。ここにはネットのユーザーの圧倒的多数を引き寄せている商用SNSのビジネスモデルが大きく影響している。

かつてのマスメディアの大量散布型の画一的な広告が衰退し、消費者ひとりひとりの行動を把握して最適化した形での広告を打つことが当たり前になっている。しかも、このばあい、ネット広告が注目するのは、ネットショッピングで商品を実際に購入した人達だけではなく、アクセスしたが何も買わない人達を追跡して買わせることにある。実空間でいえばウィンドウショッピングをしている人達を尾行して、その行動から何に興味を持っているのかなどを推測して、巧みに商品を買わせるといったことを、ネットでは、様々なトラッキング技術や本人認証などの仕組みと機械学習あるいは深層学習などと呼ばれる機械アルゴリズムを組み合わせることで年々より簡単に実現できるようになってきた。FacebookやGoogleはこうしたトラッキングやターゲティング広告を組織的に展開して莫大な利益をあげてきた。

商品市場でモノを購入するという取引行為そのものをめぐる現在の状況は、この購買行動を前後して生じるパラマーケットにおけるデータ流通が劇的に変化しているということだ。この変化はビッグデータの形成によって量的な増大を背景に、人々の行動の予測と行動変容に必要なアプローチの組み合わせを通じて、市場の実際の売買行動に影響を与えることがシステムとしての目的であり、それ自体が産業のビジネスチャンスになっている。つまり、ビジネスがターゲットにしているのは人々の市場における欲望であり、これを操作可能な対象とみなすようになっている、ということでもある。13 たとえば、Googleの「データセグメント(リマーケティングと呼ばれていたもの)」の機能について、次のような説明がなされている。

「収集したデータを利用して、過去にモバイルやパソコンでお客様のブランドやサービスと接点を持ったユーザーに繰り返しアプローチします。このセグメントに該当するユーザーが Google やパートナーのサイトを閲覧しているときに、広告が表示されます。」14

ターゲットにされているのは「過去にモバイルやパソコンでお客様のブランドやサービスと接点を持ったユーザー」である。いったんショップを離れた場合でも、追跡が可能であることを「売り」にしている。サイトを訪問したユーザーの98パーセントは何も買わないといわれており、こうした客を再度呼び戻すためにリターゲティング広告が用いられるわけだが、従来型の広告の10倍の効果があるとも言われている。15

パラマーケットは、実際の市場における取引を規定するだけでなく、買い手の心理過程に介入して行動変容を促す技術が組み込まれたシステムになることによって、市場そのものを逆に規定するものになっている。社会構造における位置付けが逆転しつつあるのだ。

コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)によって構成されたパラマーケットは市場で行動する人々の動静を把握するある種の感覚器官のような働きをしている。しかし、AIやビッグデータを駆使した解析と、これに必要なデータ収集の機構はまだ成熟した状態にあるとはいえない。確実にいえることは、技術開発を動機づけているのは消費者(ユーザー)の行動予測と行動制御、つまり資本にとって最適な消費者としての行動をとるように促すコンピュータに深く依存した人間を制御する能力の獲得にあることは間違いない。この意味で技術は資本の利害に沿って発展しており、人々がこうした技術を受容し内面化し、更には技術のフェティシズムによって人間と機械との関係そのものを組み換えるような世界観が共有されるようになることによって、パラマーケットは資本と人々の私的な内面を直接繋ぐ役割を担うようにもなる。こうして、プライバシーとして観念されてきた近代社会の私的空間における自由は資本に包摂されることになる。この構造は総資本の利害を反映するものであり、実際の消費者の行動と個別資本の関係は、市場の競争を背景として、予測と行動制御に複数のベクトルが作用し、複雑な競争関係を前提とした消費者行動の予測と制御の技術がますます高度化するきっかけを作ることにもなる。

パラマーケットを流れる情報の流れは、こうした様々なユーザー追跡技術を組み込み、コンピューター・ネットワークではコンピュータが双方向の通信(コミュニケーション)をとりつつ、しかも、消費者の知覚に即していえば、データの大半がほとんど実感を伴わない意識外の回路を通っている。伝統的なメディアでは視聴者から資本に向かうデータの回路はほとんどない。これに対して、現代のパラマーケットは積極的に消費者のデータを資本が取得できる回路を構築することによって追跡可能なように作動する。消費者はある種の情報データの資源になっており、この資源を徹底して採掘するためのユーザー追跡技術がパラマーケットの支配的な技術になる。

クッキーはもはやトラッキング技術として古臭いものになりつつあるが、クッキーをめぐる技術の応用の歴史は、支配的構造が技術をどのような方向に転用するのかを知る上で教訓に満ちている。資本主義における技術は、消費者に利便性や快楽を与える一方で、市場経済の匿名性を剥ぎ取り、個々の資本にとっては断片的なデータでしかない消費者の人物像を「全体」として再構築しうる方向へと開発を進めてきた。資本主義の市場経済を背景とした技術は確実に、その匿名性に基く自由(市場経済的な自由であって、自由そのものではない)を奪う方向をとってきた。

市場における商品売買そのものは、貨幣を対価とする取引であるが、貨幣を支払う消費者にとって、広告もパッケージも自分が需要する商品の直接的な使用価値ではない。しかし、他方で、消費者にとっての意味使用価値は、確実に広告やパッケージなどに影響されるが、だからといってより多くの広告を受け取った消費者が、広告の量に応じて支払いを増やすということにはならない。この意味で商品をめぐる情報は、市場経済と連動しつつ市場の価格メカニズムと接合しつつもその外部で機能するパラマーケットを構成することになる。

ユーザー追跡技術はパラマーケットの機能を本質的に転換させた。ユーザー追跡技術は、消費者を「大衆」としてではなく、「個」として相互に区別して把握可能なものにした。消費者の自覚を伴なわない領域で行なわれる消費者行動の追跡は、パラマーケットに、不可視の空間を組み込むことを可能にした。売り手は商品を売るだけではなく、追跡することが可能になったのだ。

ネットを中心としたマーティングが本質的に有している人間を個別に識別して、個別に管理・制御しようという支配的構造がもたらすトラッキング技術は、プライバシーや個人情報の権利との相克のなかで問題は、個人を追跡・識別しようという支配的構造に内包されている権力の欲望が存在する限り宙吊りにされ、解決は不可能にされる。人間の行動を解析して提供する独自の市場が「アナリティクス市場」として論じられるようになり、地理空間、業種など様々なカテゴリーによる行動分析それ自体が利益を生むようになっている。Googleアナリティクス16などのサイト分析ツールを使っていないショッピングサイトを探すほうが難しいくらいかもしれない。

トラッキングの技術開発の歴史をみると、資本主義における技術の「進歩」やイノベーションが資本の利害を体現しつつも常に抵抗に直面してきたことがわかる。サードパーティクッキーの問題を中心に、クッキーの目にあまる個人データ収集への批判が高まるなかで、人々からデータを収集してプロファイルする技術を支えてきた背景にあるイデオロギーそのものが反省されてきた。17しかし技術の方向が根本的に転換するという方向をとっているわけではない。むしろ批判をかわしつつ個人をターゲットとしたプロファイリングはより巧妙になりつつ、プライバシーの閾値をめぐる闘争が展開されてきた。19世紀が労働日をめぐる闘争として、過剰な労働の搾取がもたらす心身への破壊を抑制するための社会的な歯止めが自覚化される一方で、相対的剰余価値の生産を促したように、20世紀から21世紀にかけた現代資本主義では、個人データをめぐる闘争は、過剰なデータ収集とプロファイリングがもたらす心身への破壊を抑制しつつも、より非侵襲的な技術の高度化を促してきた。18 しかも、土台と上部構造が融合している現状にあっては、民間資本の個人情報収集に規制をかける法制度があっても政府が収集する個人情報が民間と連携する構造がますます強固になっているために、支配的構造が全体として把握可能な個人情報そのものが個人の権利を優先させる有効な制度を構築する方向に向っているとはとうていいえない。

4.2. 市場に組込まれた非知覚過程の全体像

これまでに述べてきたことをやや図式的になるが整理しておきたい。

市場の買い手(ユーザー)に対して非知覚過程を含むパラマーケットと商品売買市場がどのようになっているのかを示したのが下図だ。

ネットワークを介して市場(ショッピングサイト)でモノ(サービスを含む)を購入しようとする場合、ユーザーが知覚可能な領域は、自分のデバイスの画面に表示されるデータに限られている。この表示データの背後、ネットワークの向こう側にはウエッブサーバなど様々なコンピュータシステムが作動しているが、これを実感することはほとんどない。同時に、このショッピングサイトはトラッキング機能を用いて、ショッピングの取引に直接関係しない様々なデータを収集し、更にはサーーパーティにもデータが提供されるが、ユーザーには実感できない。これらはビッグデータとしても収集され、大規模言語モデルや深層学習などに用いられ、AIを駆動する必須の資源となる。この一連の過程も意識されることはほとんどない。こうした舞台裏の仕組みは、商品の意味使用価値を生産する手段になると同時に、ユーザーがネットショッピングをする過程で利用するAI検索など情報収集活動をも背後で支える。意味使用価値は、あらかじめ固定された「意味」ではなく、この全体の仕組みに支えられて、ユーザーとのインタラクティブなコミュニケーションを通じてリアルタイムで組み換えられる。対話型AIがカスタマーサポートとしての役割を担うばあいを想定してみればわかるように、AIはユーザーがプロンプトに入力した文言を介して、ユーザーが商品に対して抱く「意味」を調整しようとする。ユーザーはこのコンピュータとのコミュニケーションをあたかも人間とのコミュニケーションであるかのように受け入れ、商品についての「意味」を再評価する。市場における商品の使用価値は、最終的には買うか買わないかの二択に絞られるが、この絞り込みを左右するのが、買う「意味」を見出せるかどうか、になる。

既に述べたように、近代資本主義がもたらした「自由」とは市場における匿名性としての買い手の選択の自由に基盤をもつが、この自由を資本はシステムの宿命として受け入れつつ、匿名性という障壁によって把握を困難にさせてきた「買い手は誰なのか」という問いに対する答えを追求する技術を一貫して開発してきた。買い手が誰であり、その人物のプロファイリングを詳細に把握できればできるほど、その人物の購買行動を制御し、自社の商品の購買に繋げられる確率が高くなる、と考えてきた。アナログな会員制度やダイレクト・メールによる顧客の繋ぎ止めなどにあらわれていた資本の顧客囲い込みの欲望をCTCは最大限に進化させ拡大させてきた。

消費者としてあらわれる人間にとって、このCTCを介したコミュニケーションの最大の問題は、コミュニケーションの基本的なモデルが、人間と人間の間ではなく、人間と機械との間でなされるやりとりへと転換したことだ。人間がモノと対話することは人類史に共通してみられることなので、現代の資本主義に固有とはいえない。現代に固有の状況は、人間と機械との間の「対話」が成立し、しかもこの「対話」において、人間の側が機械を人間であるかのようにみなすことを資本主義のシステムそれ自体が積極的に促していることだ。この最も深刻な事態は、市場経済によって貨幣を一般的等価物とすることで生み出された物神性が社会を支配して現在に至っている事態と並ぶ歴史的な事態だと思う。この貨幣にも限界があった。貨幣が商品売買の直接的な関係の基軸をなす役割を果したとしても、この貨幣はパラマーケットのような貨幣を手段とする取引に還元できないコミュニケーション過程には直接の効果をもつことはできなかった。パラマーケットの主要な機能である「意味」の生成と、そのためのコミュニケーションにおいて、資本が意味生成の主導権を握るために、消費者としての人間をデータ化しプロファイルし、購買行動を動機づける技術のために、膨大なデータをあらゆる手段を通じて収集する方向へとコンピュータ技術が開発されてきた。

AIフェティシズムとでも呼ぶべき事態がこの全体のメカニズムの鍵を握る。この事態は、法的な統治の枠組みの問題ではなく、人々の日常生活における慣習がもたらす問題になってしまった。同時に、AIによる情報処理速度が人々の労働のスピードの標準を規定するようになったために、圧倒的に時間の効率性の低い人間による情報処理を非効率として排除するようになる。社会がかかえる様々な問題を討議すること自体が時間の浪費だと感じられるようになり、迅速な意思決定をAIに委ねるようになる。AIが間違った意思決定をおこなわないためには、これまで以上に詳細で膨大なデータを収集してAIに学習させるという方向だけが、選択可能な将来社会の基盤と感じられるようになる。効率性と結果の確定性という機械化のイデオロギーはコンピュータが支配的な技術になることで、物的生産から意味の生産へ、そして意味を介した人々の情動と行動の直接的な制御へと向うようになった。

5. 監視資本主義における非知覚過程の特異性

私が本稿で問題とする非知覚過程は、資本主義の社会システムがいかにして人々の動静を監視し、人々を自由意思の下に置きながら自発的にシステムの意思を内面化させた人格として形成・再生産するのか、という権力の人々に対する支配に固有の過程を明らかにすることにある。一般的に、知覚されざる領域があることは既知の事実だが、この事実を支配の手段として用いる手法が、現代のコンピュータ・テクノロジーが支配的な市場経済においては消費者への監視として、とりわけ人々の日常生活を構成する物やサービスの商品化とその消費過程それ自身のなかに監視機能としてどのようにして組み込まれ、どのような技術が開発されてきているのかを明らかにすること、これが本章の主要な関心対象だった。労働者ではなく消費者に焦点をあてるのは、商品の使用価値を資本主義的な監視社会における重要な要因である、という観点による。このことは労働者に対する職場の監視を軽視するものではない。非知覚過程という課題にとっては、資本の直接的な統制下にある職場ではなく、むしろ生活過程への資本の監視が重要になるからである。

社会が内包する「知られざる領域」が権力者の統治の手段とされてきた歴史があり、資本主義的な非知覚過程は、非知覚過程一般の特殊資本主義的な構成であるともいえる。資本主義の場合は、この特殊な社会システムに固有の「知られざる領域」が生み出される。資本からみて、知ることのできない領域が不可避的に生み出されるのだが、市場経済では、その最大の領域が、商品交換関係それ自体がもつ買い手の匿名性である。この匿名性を剥ぎ、消費者とされた人々の欲望の具体的な実相を暴き、この欲望を制御する目的で商品の意味使用価値を生産するが、同時に、この過程が機械化されコンピュータにより高度に情報化され、更にフィードバックを通じて再帰的に調整されることを通じて、人々の生活を構成するモノの「意味」が再生産され、人々のパーソナリテイやアイデンティティを既定のシステムに適合的なものへと造形する。監視のシステムとしての非知覚過程は、人々の自由意思を損うことなく人々の自由そのものを制約する、という特異な条件を満たす上で欠くことができない。この意味での非知覚過程は知覚の外部にあるわけだが、この外部は構造的な外部であって、単なる視覚の外とか身体感覚の及ばない外側といったこととは本質的に異なる。パノプティコンは、人々を監獄という不自由な空間に押し込めた上で、囚人の視覚の外に監視の拠点を構築するやりかただが、市場経済のパラマーケットに組込まれた非知覚過程は、そうではない。人々は、自由な欲望=ニーズを市場通じて実現しようとするが、これは資本にとっては、自らの意図の実現である。資本にとっては単なる商品の販売を実現するということだけではない。かつて「大衆」などとして十把一絡げにされた消費者の動静を個別に把握し、行動を予測し、更には行動を操作できるような技術を資本は開発してきた。資本にとっては、かつては消費者とは匿名であり、その私生活は「知られざる」領域だったが、これを総体として把握可能なものとしてデータ化することを通じて、再帰的に生活世界を市場経済に包摂し、更にはその将来の行動を制御しようとすらしてきたのだ。

こうしたなかで、ネットショッピングにおけるトラッキングのような外形的な追跡から対話型AIのようなコミュニケーションへの展開は、AIフェティシズムを前提として人々を、偽装された人-人関係のインタラクティブな網に巻き込むことを通じて、より直接的な資本への依存心理を社会的に構築する方向へと向っている。パラマーケットを介した非知覚過程が人々の日常生活を構成するモノの意味全体を覆うようになるにつれて、日常生活のなかで人々が用いる通信のデバイスからモノのインターネットが収集するデータや路上や店舗の監視カメラ、様々なデジタル決済手段まで、人々が生み出す膨大なデータが資本の統制下に置かれ、この膨大なデータによる機械学習を通じて、人々のコミュニケーションの一方の主体としてAIが対話の中心を担うようになり、この対話それ自体もまた「学習」の資源としてフィードバックされる。しかし、この一連の過程の大半は、人々の実感や経験からは知覚できない領域で構造化される。

最大の問題は、この非知覚過程を通じて私たち自身が了解する世界についての意味それ自体が再定義され、世界の意味から、世界が既定のシステムを否定する潜勢力を有していることが消し去られ、資本主義システムの再生産にしか帰着しないような枠組みのなかに囲い込まれる、というところにある。システムの外に出るための自己否定の回路があらかじめ奪われるのだが、このことに人々が気づかないように、世界の意味が、あるいは人々の生活の意味が構成される。同時に、相互的なコミュニケーションの基本モデルは人と人との間で成り立つことを前提としてきたが、この前提は今では成り立たなくなりつつある。人とAI、あるいはAIが生成したテキストやデータを基にして人と人とがコミュニケーションをとるのだが、これは、人と人とのコミュニケーションと一体何が違うことになるのか。システムの自己否定による既存のシステムの矛盾の克服、という社会の弁証法的な転換(進歩とは言うまい)の意図をもたないAIとの対話を通じて、人々は、自らの世界観をも既存のシステムを与件とする価値観へと誘導されてしまう。AIには自己否定の選択肢はないが故に、資本主義的な価値観を既定のものとする人工的な知として「物語」を生成すること以外の可能性は期待できないが、この限界を人々はむしろ自分の価値観として肯定するようになる。人々との対話や討議では可能なシステムを根底から転換させる議論は、AIとの対話では容易ではない。弁証法的な社会の変革をコンピュータのアルゴリズムは受け入れることができない。この問題は、権力の構成とその転換を構想する上で重要な課題になる。

本章で述べた非知覚過程とパラマーケットの構造は、土台の上部構造化を通じて、国家や統治機構にも共通の構造を生み出すことになる。市場は商品化という特異なモノの社会的な性質を必須の条件とするが、政治的な権力過程には、この市場の条件は必須にはならない反面、国民国家として人口を<労働力>や消費者というカテゴリーとは異なるカテゴリーのもとで、その「意味」生成の過程を構築することになる。この問題が次章の課題になる。

Footnotes:

1

https://www.wdic.org/w/RAIL/%E7%A3%81%E6%B0%97%E5%88%B8

2

他方で人口の少数なアルカイックな社会では、多くの場合、人々の自己同一性は、年齢、性別に伴う役割の変化と親族構造のなかの位置によって、ほぼ固定されるように見える。しかし実際は、豊穣な神話の世界という、文明化された社会にからすれば単なるフィクションに過ぎないものが、多くの社会では、現実の世界と不可分な「現実」を構成しており、この世界をも視野に入れたとき、アイデンティティを支える世界はむしろ理解しがたいほどの複雑性をもち、かつ、コンピュータが制御可能な数理的な合理性を超越する。だから、アルカイックな社会が単純で理解しやすいというのは、文明の眼差しからすると、そのように単純にしか見えないだけのことだ。

3

たとえば、ファシムズは、この合理性と不合理性の二面性を、不合理性を前面に押し出して、イデオロギーによって合理性の世界を制御しようとするところにその大きな特徴があるといえる。それが、民族という観念によって主導されることもあれば、宗教によって主導されることもあれば、国家の観念によって主導されることもあり、その現象形態は多岐にわたりながら、本質的には不合理性が支配のヘゲモニーをとる体制だ。この不合理は、マスメディアによるプロパガンダや上からの大衆動員の組織化を通じて、不合理な「世界」観を物質化する。物質化とは、20世紀の前半であれば、植民地支配や民族浄化として統治機構のなかで具体化されることになる。総じて、軍事組織は、機械とロマン主義の弁証法的統一の産物であるところに端的に示されているように、不条理な「死」の組織化には、合理主義はそぐわない

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インターネットを念頭に置いたばあい、コニュニケーションの技術的な仕組みは、電子メールとウエッブでは被知覚過程の仕組みに違いがある。以下では主に、ウエッブに関して論じている。

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電子フロンティア財団のCover Your Tracksのサイトからウエッブへのアクセスの際に、どのようなデータが相手に渡されるのかを知ることができる。https://www.eff.org/pages/cover-your-tracks

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https://www.ntt.com/bizon/glossary/j-s/session.html

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ブラウザの「開発者モード」とか「開発者ツール」でこうしたデータの一部を把握することが可能だ。

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ベネット・サイファーズ,ジェニー・ゲブハート『マジックミラーの裏側で:企業監視テクノロジーの詳細』 電子フロンティア財団、JCA-NET訳。https://jca.apc.org/wp-content/uploads/2026/05/%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E6%B4%BE%E3%82%92%E9%98%B2%E8%A1%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E7%B5%B1%E5%90%88%E7%89%88.pdf 参照。

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ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・セックス』、植島啓司訳、集英社文庫、参照。 現在では、ニューロマーケティングにとってかっわったといっていいかもしれない。脳科学のなかの脳画像によって人間の感情を読みとれるとする疑問の余地のある考え方を更にビジネス向けに誇張するコンサルタント会社も存在する。サリー・サテル、スコット・O・リリエンフェルド、『その<脳科学>にご用心』、柴田裕之訳、紀伊国屋書店、参照。

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https://triple-underscore.github.io/http-cookie-ja.html 英語原文 https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6265

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Googleは、無料で検索など様々なサービスを提供し、こうしたサービスの利用者のデータを広告主に売るネットの広告資本であり、利用者の動向を把握することは必須だ。これに対して、利用者の個人データを収集しない検索サービス、ブラウザなどに切り替えるネットユーザが増えている。検索ではDuckDuckGoなど。ブラウザではGoogle Chromeのかわりに、Firefox、Brave、Vivaldiなどを利用する。

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https://ads.google.com

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What Is Fingerprinting? https://ssd.eff.org/en/module/what-fingerprinting ; Retargeting Statistics https://99firms.com/blog/retargeting-statistics/ ; Facebookのカスタムオーディエンスとは?効果や設定方法について解説 https://video-b.com/blog/facebook/facebook-custom-audience/ ; (Google)リマーケティングについて https://support.google.com/google-ads/answer/2453998?hl=ja

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https://support.google.com/google-ads/answer/2453998 オーディエンスターゲティングも参照のこと。 https://support.google.com/google-ads/answer/2497941

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前掲、Retargeting Statistics参照。

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https://marketingplatform.google.com/intl/ja/about/analytics

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GDPR(欧州一般データ保護規則)はターゲティング広告やクッキーへの規制を強化している。また日本の個人情報保護法も個人に関連する情報の第三者への提供制限を定めている。こうした規制に対して企業側は法制度の枠内でどのようにして効果的なプロファイリングを行えるかという新たな技術開発に取り組むようになっている。企業向けに各国の法制度への対応をサポートするコンサルタント企業も多くある。たとえば、IIJのBizRis https://portal.bizrisk.iij.jp など。

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クッキーへの批判については、以下を参照。前掲『マジックミラーの裏側で:企業監視テクノロジーの詳細』「クッキーの起源」cookie-privacy.weebly.com、https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/history-of-cookies/、 「クッキーとは何か」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/technical-details/、 「(EFF)オンライントラッキング会社があなたのオンライン行動のほとんどを知る方法(そして、ソーシャルネットワークが彼らを助けるためにしていること」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/online-trackers-and-social-networks_jp/

Author: toshi

Created: 2026-08-08 土 16:31

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