旗と暴力

滑稽新聞図版鷲と日の丸

図版『滑稽新聞』57号 1903年9月20日1
目次

1. 沖縄 「日の丸焼き捨て」から考える
2. 儀礼的な力と本末転倒の構造
3. 学術研究の分野について。
4. システム全体が本末転倒になっている
5. 国旗の物神性
6. 「学習指導要領」の日の丸・君が代
7. 象徴的暴力
7.1. ブルデュー『再生産』から
7.2. ブルデュー『パスカル的省察』から
8. まとめにかえて
9. 付記:大学版学習指導要領?

本稿は2026年4月29日に,アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)のセミナーのために書かれた資料に加筆修正したものです。発言の機会を与えていただいたwamに感謝します2

1. 沖縄 「日の丸焼き捨て」から考える

この有名な事件を改めて振り返ってみることから始めたい。

1987年10月沖縄国体ソフトボール大会

  • 10/22 弘瀬日本ソフトボール協会会長の「開始式に国旗掲揚しなければ会場を変更する」との日の丸強要。 
  • (開始の4日前) 10/23 山内村長の日の丸掲揚の決定。 
  • 10/24 県(新垣副知事)、県国体事務局長、県体協会長、日ソ弘瀬会長及び読谷村長の五者で日の丸掲揚を確認。(読谷村では復帰後15年で初めての日の丸掲揚)  
  • 10/25 日ソ協選手団のチビチリガマ参拝と、弘瀬会長に対する遺族の参拝拒否と知花昌一さんの抗議。 
  • 10/26 読谷村平和の森球場に掲揚された日の丸の知花昌一さんによる焼き捨て。知花盛康さんのデッチ上げ逮捕。昌一さんの出頭。 
  • 10/29 読谷村長名(代理人は照屋寛徳弁護士)による知花昌一さんの告訴。事件直後から連日右翼による脅しやいやがらせが、知花昌一さんの自宅やスーパー、村長の自宅、村役場などにやられた後、スーパーへの放火・襲撃がかけられた。 
  • 11/8 チビチリガマ世代を結ぶ平和の像が右翼によって破壊される。 

以上 上地哲「知花裁判支援へ向けて」『インパクション』53(1988)に若干加筆。『インパクション』53号は「「日の丸」はなぜ焼き捨てられたか」の特集号。

この事態全体を下嶋哲郎は以下のように書いている。

日の丸を一枚火の丸にすると、放火され、襲撃され、平和の像まで破壊され果ては起訴される。さらに脅迫電話は数えきれず、脅迫状もあきもせず舞いこむ。何と旗メイワクな。しかしこれが日の丸の実像なのだ。(『沖縄「旗めいわく』裁判記、社会評論社)

とても分りやすい日の丸=国旗と暴力の関係がここには記されている。ここからわかることは、国旗損壊罪への批判は、損壊罪の法案の条文から導かれるであろう法解釈と法の体系という枠組を越えた批判でなければならない、ということだ。問題は、国旗の損壊という行為ではなく、その行為に対する非対称的で過剰な暴力の連鎖にある。こうした暴力は、日の丸をめぐる歴史的な背景からみえる文脈全体を踏まえたものでないと、日の丸という旗に伏在する暴力はみえてこない、ということをこの日の丸焼き捨て事件(闘い)は教えてくれている。

『インパクション』のこの号に再録されている裁判の冒頭陳述で、当事者の知花昌一は、「どんな行為にもそれをそうさせるに充分すぎるほどの原因があります。その原因を明らかにせずして、行為のみを評価することはあまりにも軽薄であります」と述べている。焼き捨てに至る経緯を理解するだけでなく、その後の非対称な暴力の連鎖を理解するためには、沖縄のヤマトや米国との歴史的な背景と「国旗」に象徴される権力の国家観と暴力の関わりが重要な意味をもつ。この点については、上記『インパクション』だけでなく、この日の丸焼き捨て裁判について、当事者や支援者が繰り返し強調してきたことだ。

つまり、日の丸焼き捨てだけが暴力(=器物損壊)だったのではなく、この直接の経緯の文脈をみたとき、そこには幾重にも暴力が折り重ねられていたことを見落してはならない、ということだ。直接の経緯のなかだけでも

  • 日の丸掲揚を強制したソフトボール協会の圧力  
  • この圧力を背景に、村長ら村の行政による掲揚の力の行使  
  • 日の丸の焼き捨て  
  • 村長らによる知花への告訴  
  • 右翼による一連の脅迫と物理的な暴力(とくに平和の像の破壊)  

という暴力の連鎖をみることができる。このなかで物理的な暴力は知花による日の丸の焼き捨てと、知花のスーパーへの襲撃、右翼の平和の像の破壊である。しかし、より時間軸を拡げてみると、この事件の年、1987年に先立つ数年、自民党と文部省は繰り返し各都道府県に対して学校現場での「国旗掲揚及び国家斉唱」実施状況調査で恫喝を行ない、実施率の低い沖縄が標的にされてきた。沖縄県教育委員会は1985年11月に「学校行事における国旗及び国歌の取り扱いについて」という通知を発出して実施を指示した。沖教組はこれに抗議する。ソフトボール大会での日の丸掲揚の強要がなぜ起きたのか、日の丸焼き捨てという抗議について知花が「そうさせるに充分すぎるほどの原因」と述べてる「原因」のなかには、こうした経緯が含まれていることは間違いない。

国旗損壊罪に反対する人々であれば誰もが理解しているように、暴力は、物理的な物の破壊だけを指すわけではなく、全体の経緯と文脈を踏まえてみたとき、日の丸の掲揚を強制する「力」そのものが、たとえその「力」が物理的な行為を伴わないとしても「力」としての効果を発揮しており、これら全体が暴力というべきものだ、ということである。ここには、また公権力の暴力だけでなく、これを補完するかのようにして行使される右翼の有形無形の暴力も含まれる。これらの暴力に対峙する形で知花の様々な読谷村での運動が位置し、日の丸焼き捨ては、その文脈のなかのひとつのエピソードにすぎない。

同時に、見落してはならないのは、知花の「暴力」は日の丸が存在しなければありえなかった暴力だが、同時に、知花のような抗議者が存在しなければ、日の丸は「暴力」に関わることなく掲揚された…のだろうか。たぶん、そうにちがいない。だが、私たちは、この事態を暴力のない平穏な事態であるとみなす「常識」に違和感を抱き、ここにも暴力が潜在していることを感じとっている。この感じ方は、日の丸掲揚を肯定する者と否定する者とではそもそも実感それ自体に大きな違いがあるだろう。掲揚を肯定する者にとっては、そこには暴力のない平和な環境があると実感する。しかし、掲揚を否定する者は、この環境が否応のない目にみえない「力」によって支配された事態であることを直感的に理解している。

実は私たちが今、考えるべきことは、知花の暴力ではなく、知花のような暴力が不在の状況のなかで、日の丸が掲揚されてきた無数のこの日本全土で行なわれてきた「国旗掲揚」と称されてきた出来事の力の方だ。上述の一連の流れのなかで、暴力とは言うまでもなく物理的な力の側面をもつものであるが、同時に暴力とはそれ以上の存在である、ということを強調したい。日の丸という旗、ソフトボール協会の「力」、村長の「力」、司法の「力」などは、知花の「暴力」とは無関係に、それ自体として存在する「力」である。この「力」はいったい何なのだろうか。もし、これらの力が存在しなかったとき、それでも日の丸は掲揚されたのかといえば、読谷村では、決して掲揚はされなかっただろう。そしてまた、日本全国の様々なイベントでこれほどまで多くの日の丸が掲揚されることもなかったはずだと私は確信している。(証明できないのでそう「信じている」ということになる)これは、何なのか、このことの方が日の丸の掲揚という問題を考える上で重要なことだと思う。確かに物理的な暴力は行使されてはいないが、そこには明らかに、人の行動を、その人の意思とは無関係に制御する力が作用している。これは、日の丸を掲揚しないといった行為を選択したときにだけ、物理的な力として目に見える形をとり、掲揚するという行為に対しては、この物理的な力は潜在し目に見えず、そこにあることすら証明することができないようなものとして、つまり、確実に存在はするがその存在を証明できない、そのようなものとして暴力が存在してつづけている、ということである。同調圧力という言葉がすぐ思い浮ぶが、これは、掲揚を否定する者が強いられるところには当て嵌るが、むしろ、圧倒的に多くの人々は、この同調圧力という「力」がなくても、「日の丸」を受け入れており、このことの方が問題としては大きい。こうして「日の丸」を受け入れた人たちは、「日の丸」を忌避し否定する人たちに対して、ある種の「力」として機能する。ニンジンが嫌いだからといって社会的制裁が加えられることがないのに、「日の丸」についてはそうはいかない。可視化は難しいが、しかし確実にここには、集団による物理的「暴力」として発現する可能性を秘めた「力」、物理的な暴力としては発現していないが、やはりそこには、人々の意思を抑圧するような「力」(これを潜勢力としての暴力と呼ぶ)があり、更にまた、この「力」それ自体が日常生活の習慣によって実感されないものとして潜在化する。

2. 儀礼的な力と本末転倒の構造

一般にスポーツイベントでの国旗や国歌は、主催者にとって、たぶん、一連の式典の儀礼として必須なだけでなく、スポーツそれ自体とも一体のものとして理解され、それがスポーツ競技の「意味」と不可分なものとして制度化されているのだろう。言い換えれば、スポーツ競技は、そのルールブックや選手のプレーに還元できない多くのそれ以外の――先の見方からすればスポーツそのものとは何の関係もない諸々の――事柄としてこのスポーツがある、という風に考える方がいい。

たしかに、競技それ自体は日の丸とは何の関係もない。日の丸にこだらなければならない理由は、スポーツ競技それ自体からは説明できない。しかし、この日の丸へのこだわりは、説明されねばならない問題である。とすれば、スポーツそれ自体とは関わらないがスポーツそれ自体の「意味」の不可分な一部を構成するという厄介な組み立てを成り立たせているのは何なのだろうか。先述した日の丸焼き捨て事件では、ソフトボール協会は開始のたった4日前になって、ソフトボールの団体が、試合を人質にとってまで日の丸の掲揚を要求する、というこだわりは尋常ではない。掲揚しなければ競技自体をやらない、というのだから、競技が場合によっては中止や変更になっても、日の丸の方が大切である、というソフトボール協会は、本当にソフトボールの団体なのだろうか。これは本末転倒である。この本末転倒はどのスポーツ競技にもみられる一般的な現象ではないかと思う。

日の丸をめぐる本末転倒(日の丸掲揚しないならソフトボール大会はやらない)を村が受け入れるわけだから、行政権力にとっても否定しがたい力が作用したともいえるし、自らの権力作用のなかでこの力を受け止め、これを村民にも強制したのであって、単に押し付けられた、という言い方で済ますことはできない。単に押し付けられただけでなく、これを押し付ける、という一連の権力の連鎖が存在する。しかし、「押し付け」という言葉がかならずしも妥当とはいえないような日の丸掲揚を儀礼の常識として受容する日常感覚によって「押し付け」という「力」なしにでも物事が「自然」に進行するようになる、といったことが起きてきる、とも思う。しかもそれだけではない、公権力とは別に、右翼もまたこの暴力の連鎖の一部に入り込む。本末転倒の末起きたこの暴力の連鎖は、時に顕在化する潜勢力としての暴力がもつ広がりをも示している。日の丸を焼き捨てるのは、この暴力の連鎖の存在を白日のもとに晒すと同時に、この暴力の連鎖を切断する行為でもあったということを意味している。

こうした本末転倒は、実は、多くのスポーツや文化イベントに日の丸が登場することによって、おしなべて生じる現象でもある。抽象的な言い回しで誤魔化していうとすれば、ソフトボールというスポーツの象徴的な性格、あるいはもっと率直に言えばソフトボールという競技の象徴的暴力としての性格である。そして、この言い回しを、スポーツ一般に拡げて、野球とかサッカーとか相撲とか、あるいはオリンピックとかといった競技大会全体に共通して、スポーツそれ自体がもつ象徴的暴力(これを暴力の潜勢力3と言い換えていいかも)として捉えるべきことだ、と大風呂敷を拡げておきたい。

スポーツ競技において、日の丸がいかなる意味で重要なのか、合理的な説明などつくものではない。しかし、にもかかわらず、「日の丸」掲揚の是非について選手たちから「日の丸など試合と関係ないのだから掲揚しなくてもいいでしょう」などと文句をつけた人がいるのかどうか。たぶんいないとすれば、この日の丸の問題は選手にとっても、掲揚することが競技にとって納得のいくありかただという認識をもっていた(掲揚しなくてもいいかもしれないが、組織がそう言うのだからあえて異論を言うほどのことではない)、という肯定の感情があるということかもしれないが、もっと事情は厄介だと思う。オリンピックなどの国際試合をみれば歴然としているが、選手たちもまた「日の丸を背負う」とか競技後に日の丸を誇示するとか、日本を代表することの誇りとかを口にするのが当たり前の風景になっている。こうなると、本末転倒が浸透した結果として、日の丸を掲揚するために(国際試合で優勝する)ことが競技をすることの最大の意味である、というようになる。本末転倒がもはや本末転倒にすらならない正常な事柄のあり方になってしまう。こうしてスポーツは日の丸に収斂し、日の丸が象徴する「日本」とか「日本人」の優秀さに収斂し、選手個人もまた個人ではなく「日本人」とか「日本」の選手(「の」は所有格の「の」である)ということによってその意味を与えられるようになり、本人もそう信じ、そこにモチベーションの核を置く。「日本」とか「日本人」という集団の観念=ナショナリズムによるスポーツの意味の乗っ取りが「日の丸」という旗によって効率的かつ直感的視覚的に受容しやすい形で人々の日常生活のなかの大衆文化の価値観を作りだす。この一連の流れに対する抵抗として今でも記憶されているのは、1936年ベルリン・オリンピックのマラソンで優勝した孫基禎選手を報じた『東亜日報』が、孫基禎選手の胸の日の丸を削除して掲載したことに対して総督府の検閲官が『東亜日報』の配布を中止させた事件かもしれない。4

スポーツイベントに日の丸が登場する文脈はひとつではない。国家行事の開会式などで掲揚される日の丸と、サッカーの国際試合でファンが大きな日の丸を振る行為を同列に扱うことはできない。だが、いずれもが、言うまでもなくナショナリズムのわかりやすい表現である。ナショナリズムの象徴としての日の丸は、人々を一定の儀礼的な行為のなかで型にはめることだけではなく、サッカーの試合のファンの統制作用の一部を担う。そのナショナルな感情の内実も、イベントのありかたや個人によってかなり違うのではないかと思う。しかし、どのように多様で違いがあるとしても、日の丸は、「日本」に収斂する何らかの意味を指し示す記号=象徴として用いられている。ただし、ここで「何らかの意味」という曖昧な言い方をしたのは、ここでいう「意味」を正確に説明できないからだ。ナショナリズムに収斂するものであるとはいえても、そのナショナリズムとは何なのかは説明が困難であり、だからこそ学問の対象になる。なぜなら、そもそも論理的に筋道をたてての説明は不要だと強弁することがナショナリズムの根本にあるからだ。もちろん政府はそれなりの説明をするが、その説明が日の丸を打ち振る人々全てを束ねる共通理解にはなっていないし、そうなる必要もない。とすれば、「意味」も不要なように思えるが、そうではない。その意味は、必要に応じで説明されるべきものとして用意されてはいる。「学習指導要領」(本稿の最後の方に掲載してある)の「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とした解説を読めばよくわかるように、説明にならない説明なのだが、圧倒的に多くの学校の教職員はこれを受け入れている。意味とは、文章として表記された何らかのテキストであり、そうである以上文字や文章に付随する意味がそこにはあるが、同時に、そこには「意味」という概念が想定しているような「意味」は存在しない。テキストが与えられることそれ自体が「意味」であるが、同時にそこには「意味」が不在であるのだが、そうであっても、そこに「意味」を見出して受容する圧倒的に多くの人々がおり、この無意味なテキストを振りかざして「日の丸」を強制する暴力として利用する。ここには合理的な判断や理解とは別の意味をめぐる理解の枠組が作用している。

3. 学術研究の分野について。

スポーツばかり槍玉に挙げるのは不公平なので、学術研究なるものを取り上げておく。学術会議50周年の記念式典では、日の丸が掲げられ、天皇が臨席した。5学術会議とはこのような組織である、ということを端的に示したものであり、学問とか研究について、いつも「日本の」という形容詞をつけて、その優秀さを誇示したい人たちの存在を端的に示すものだと言うことだ。

ここでは、せっかくだから、学術会議をめぐるもうひとつの日本の象徴(的暴力)、天皇と学術研究についても触れておきたい。こちらの象徴は学問にも造詣が深いと信じられており、単なる布切れの赤丸印ではない。「原子核物理学国際会議INPC2007」(主催  日本物理学会、内閣府日本学術会議、国際純粋応用物理学連合(IUPAP))のウエッブの記事に次のような学会報告記事が掲載されている。これは2007年のことだ。

本国際会議において、参加者を最も印象づけ、また、参加者に最も感動を与えたのは、天皇皇后のご臨席と天皇陛下の開会式におけるスピーチであった。
 陛下は、戦後の荒廃した時期に湯川秀樹氏のノーベル賞受賞に国民がいかに喜び勇気づけられたか、また、理研で作られたサイクロトロンが東京湾に投げ込まれた時、仁科博士の思いは、いかばかりだったかを話された。さらに、この分野が生み出した成果の明暗、特に核兵器によってもたらされた悲劇にも触れられ、本分野の研究成果が、世界の平和と人類の幸せに役立っていくことを切に祈るというメッセージで挨拶を締めくくられた。このご挨拶は、英訳も電光表示され、内外の参加者の多くが深く感激し、会議終了まで会場のあちこちで感激や感想が語られた。https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/070603.html

核の平和利用の正当化に天皇を利用しようとする思惑(あるいは天皇自身の主体的な同意の意思があるとも思う)が透けて見える。それだけでなく、この報告に私が驚いたのは、学術研究発表の場で、研究発表をさしおいて「参加者に最も感動を与えたのは、天皇皇后のご臨席と天皇陛下の開会式におけるスピーチ」などということを主催者が堂々と発言していることだ。ここでもソフトボール同様、組織の本来の目的よりも国家の象徴が優越した地位を得てしまうという本末転倒がはっきりと見てとれる。いったいこの学会は何なのだろうか。たぶん、この国際会議で発表された学術研究はよっぼど感動に値しない駄作揃いだった、ということを言いたかったが、それでは角が立つので婉曲に、天皇を持ち出したにちがいない。とはいえ、本末転倒であることには違いない。本当にこの学会での学術研究は駄作ではなかったのか。ファクトチェックを経ていないで憶測で書いていることをお断りしておく。

上の例はどうも例外ではないかもしれない。以下のような学会報告もある。

開会式では天皇皇后両陛下の御臨席を賜り、本大会の大きなハイライトとなった。特に、天皇陛下より英語でお言葉を賜り、自動制御の発展が社会持続性の向上に大きな役割を果たしている旨述べていただいたことは大会参加者に感銘を与えた。また、ご自身のライフワークである水システムと自動制御の接点について述べられた点も興味深く受け止められた。(第 22 回国際自動制御連盟世界大会開催結果報告)https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/pdf/2307080714.pdf

この学会でも天皇の「お言葉」がハイライトであり参加者に「感銘を与えた」とある。他に感銘を与えるような学会報告がここでもなかったようだ。

世界水産学会(2008年)にも天皇が出席し、その模様が学術会議のウエッブで報告されている。ここでも

本国際会議において、出席者を最も印象づけ、感激させたのは、天皇皇后両陛下の御臨席と天皇陛下の記念式典でのお言葉である。陛下は「水産学が研究対象とする海は世界をつなげています。その海の環境を守り、水産生物を持続的に利用していくためには、世界の水産学者の国境を越えた協力が重要と思います。」と述べられた。https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/081020.html

天皇のスピーチについて、「最も印象づけ、感激させた」というから、ここでもまた学会で発表された学術研究でこれに勝る印象や感激をもたらしたものはなかった、ということなのか。どうもこれほどあちこちの学会で、最大の感激を招いたのが天皇のスピーチだと言われるのを読むと、むしろ天皇のスピーチを凌駕するほどの印象や感激を与えた研究があったとしても、それは天皇を越える印象・感動となり、それ自体が不敬だとでも忖度する雰囲気が、ある種の学会の(ひいては学術会議の)関係者のなかに存在しているのではないか、とすら疑ってしまう。

この位で、こんな引用はもうやめようと思ったが、もうひとつどうしても引用したい学会報告を見つけてしまった。国際微生物学連合2011会議の報告である。この報告の「4 日本学術会議との共同主催の意義・成果」の冒頭に以下のようなくだりがある。

日本学術会議との共同主催で日本が国を挙げてこの会議を支援して頂いていることが世界中に周知された。(中略)更に、天皇陛下のご臨席を頂くにあたっても申請から、実際の記念式典の運営などあらゆる面で学術会議からご支援をいただけたことで、この会議が如何に重要なものであるかを世界に向けて発信できた。

なぜ天皇が国際学会に出席するのか、その舞台裏がここに記されている。学術会議が天皇の出席を申請し、その段取り役を担っていると書かれている。第 13 回世界核医学会にも天皇が出席しており、この報告でも「日本学術会議との共同主催により、開会式において天皇陛下よりお言葉を賜れたことは、会を成功裏に進められた大きな要因となった。このことは、大会が国にサポートされていることを国内外関係者に強く印象付けるものであり、関係者の鼓舞に繋がったと考える。」https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/pdf/2209070911.pdf と書かれているから、学術会議は天皇を学会に出席させる上での既定のルートになっていることを示している。

先のソフトボール同様、天皇の学会出席によって、本来学術団体が果たすべき学問研究についての客観的な評価などはどこかに吹っ飛び、天皇の出席によって学会の箔がつくこと、権威づけとなること、あるいは日本の政府に評価されたことの証しとみなして(金が絡むんだろうか)、それこそが学会の最大の成果であるかのような本末転倒が起きている。言い換えれば、天皇さえ出席すれば、あとは添え物でしかない、そんな研究の体制がつくられている、と言い換えてもいい。

このように、学術会議が主催、共催している国際会議には天皇や皇族が来賓として祝辞を述べるといった「儀礼」がかなり頻繁に見受けられる。これが学術研究と何の関係もないことは、ソフトボールと日の丸が無関係なことと同様、誰の目にも明かだが、同時に、実はこうした無関係にみえる象徴的な儀礼こそがスポーツの本質を構成していたように、学術研究の場においても、この象徴的な振舞いは学術会議を構成する学会にとっては、それ自体が学問の本質を構成していると理解すべきだろう。学術会議と学会の主催者が率先して皇室の参加を働きかけるなどをすることが常態化するなかで、学術会議50周年には天皇と日の丸が揃い踏みするということが起きているわけだろう。学術会議の名誉のために付言するが、学術会議の国際会議などで日の丸の掲揚はあまりみかけないように感じる。(ネットの画像検索からの推測にすぎないが)

こうした学術団体の象徴的な力との関係は深刻だ。日の丸もそうだが天皇という存在それ自体が学問研究の対象でもあり、学術的な観点からの批判の対象でもあるわけだが、天皇本人がこのような形で関与するような組織が学問の中立性などを口にするのは、嘘ついているだけのことだ。あれは理系のことでしょ、われわれ人文社会系は違う、という声が聞こえてきそうだが、いかなる学術の分野においても、あきらかな本末転倒が罷り通っていると私はあえて言っておきたい。学術の現場がそうであれば、当然のことながら、学術や学問の裾野をなす教育の現場が本末転倒であることは当然のようにして受容され、異論を唱える者たちが少数になるのも当然の結果といえる。

4. システム全体が本末転倒になっている

学術会議ばかりを悪者にするのは気がひけるから、そもそも教育や学問の世界が本末転倒である、ということで、悪者を学問研究の制度全体に拡げてしまいたい。私は長年大学の教員として教育の世界にいたので、大学の本末転倒について書いておく。

大学の教育システムの基本的な構造は、入学に際して課される入試にはじまり、基本的に試験の点数による評価で構成されている。合否判定は点数による順位づけに基き、入学後の教育も、その容よりも、試験で数値化し、これを「単位」と称して積み上げ、一定のルールに基づいて卒業という資格証明書(選挙の立候補の際には超重要な書類になる)の取得に繋げていく構造が基本になっている。従って全体は数値に支配されており、教育の内容は実は二の次であるという本末転倒が基本の構造をなしている。なぜ数値化が必要なのか、数値化が教育とか知の習得とかということとどう関係するのか、などということは問題にされない。数値化のばあい、60点を合格ラインとすると残りの間違った40点については放置されたままでよい、という極めて効率的な仕組みになっており、まちがった40点が正解するまで、最後まで一生面倒をみようなどという気はまったくない。この数値化全体の構造を支える権力構造が、教員が独占している単位認定権である。数値による評価に還元するのは、学問とは何の関係もない。本来学問なるものは量化できないはずのものである。ぶ厚く高価な教科書1冊がなぜ「4」とかという単位(数字)に化けるのか、誰も合理的な説明をした者はいない。(教科書が古本屋で4円の値札がつくのは理解できるが) 大学という権力は、数値によって学生を序列化する。これは学問を学ぶとか研究する上で、全く無意味なシステムである。だからこそこの数値化のシステムが学生にとっては潜勢力としての暴力となり、この暴力に振りまわされて勉強を強いられる。ここでいう暴力は物理的な体罰ではない。学生と教員のヒエラルキーと単位認定の権力構造のなかで振われる心理的な力であり、内面化されて自らに対する自らの暴力としてあらわれることにもなる。数値化による序列は、それ自体が恣意的な優劣を意味する。学生を差別・選別するためのアルゴリズムだ。これが暴力だというのは、暴力というのは、合理的な判断を通じて導かれた結論としてそれを受け入れさせる理性的な判断を伴わずに、「力」によってその結果を強制的に受け入れさせるものだからだ。学問の内容を量化して評価することには何らの合理的な理由がない。だから大学という教育制度は潜勢的な暴力の制度なのだ。この暴力は、学問とは無関係の権力のシステムとしての大学が、自らの権力の再生産にとって、合理的には説明のつかない学問の数値化というシステムを強制する。この単位認定権に基づく権力の構造が教員の権威を再生産し、どのようなことがあっても教員と学生の関係は逆転しえない絶対的な上下関係にあることを、可視化することで成り立っている。

同様に、教員と書いたが、教員には明確なヒエラルキーがあり、教授、准教授、助教といったランクがあり、かつ常勤・非常勤の区別(差別)があり、更に事務職員との給与や社会的な権威の歴然とした格差が構造化されている。ここには、自由も平等も存在しない。(つまり、学問なるものには自由も平等も存在しないということでもある)このあまりにも明確な身分制度が教育や学問を支配し、この身分の制度こそが教育・研究を支配するという本末転倒が、ここでも構造化する。

この大学で、入学式や卒業式に「日の丸」が掲げられるとすれば、この日の丸はこうした大学という権力の潜勢的な暴力の制度を、その入口と出口で象徴的に表わすと同時に、これを「日本」の教育として、ナショナリズムの下で正当化する制度の「力」の表現を担っているといえそうだ。日の丸は、大学というアカデミズムの普遍的な知が、オリンピック同様、ナショナリズムに回収されるものであることを、可視化し、これを暗黙のうちに受容させるものになっている。

たとえば、大学などの正規の教育システムではない市民が自由に学べるようなシステムでは、一般的に、入試とか習得レベルの数値化といったシステムは導入されていない。なぜなのだろうか?なぜ正規の教育システムにだけ数値化が必須なのか。数値化は序列のシステムでそれ自体が差別と選別のメカニズムである、といったことは半世紀も昔に、学生たちが問い糺した問題であるが、この問題は今に至るまで解決も答えも出されずに、強固に維持されてきた「本末転倒」である。たぶん、リベラルであったり反体制を標榜する(私のような者も含めて)、大学の教員は、この単位認定権という権力と数値化のシステムを受け容れてきた。このことに全く何の反省もなく数値化は当然の教員の権利だとすら確信している(リベラルな)人たちもいるのではないかと思ってしまう。私もまた、日常の業務として試験をして、点数をつけるという作業を30年間もやってきたわけだから、この権力のシステムを受け容れ、容認し、更にはこれを下支えすらしてきた。大学は、小中高に比べて教員の自由度は大きいにもかかわらず、日の丸・君が代をめぐる拒否の闘いはどれほどあるのだろうか。私は自分の大学で、君が代こそなかったが、入学式などの儀礼の場の日の丸を許容してしまった自分がいる、日の丸と闘わなかった自分がいるということをここに書くけれども、それで…黙認してきた自分にどう落とし前をつけられるか、という自問はできるが…

こうした本末転倒の構造は、人々の行動や判断を、根本的な「問い」へと遡らせることなく、ある段階で、思考を停止させ、恣意的で理屈にあわないある種の判断やシステムのありかたを、そのまま受け入れることをよしとするように作られている。市民の自発的な学習会では数値化=序列化も単位の認定も不要であるなら、大学でも不要ではないか?という当然あってしかるべき問いは、まず発せられない。学問の自由とか人間は皆生まれながらにして平等だとか言いながら、なぜ教授とか助教とか、常勤とか非常勤とか、ヒエラルキーの網の目が歴然として存在しているのか、この二重基準こそが学問とか教育と呼ばれているシステムが担う表向きとは全く異なる裏の顔の存在なのではないか。学校教育では数値化=序列化が、当然のこと、常識であり、疑う必要のないこととして、人々の日常の価値観を構成してしまっている。この数値化は差別と選別のメカニズムであることの深刻さは当事者にも理解されず、むしろこの数値が当人の能力の客観的な評価であると、ここでも本末転倒な理解が、日常生活の常識として支配する。この日常の当たり前に疑問を投げかけることは、そもそもこのことに気づきえないが故に、難しい。と同時に、日常の当たり前のことがらに問題を見出さない(見出すつもりのない)人々にとっては、余計な問いでしかない。面倒な話、ということになる。この亀裂を説得力をもって埋めること、つまり日常の当たり前を覆すことが、まず重要な課題になる。

こうした構造は、小学校から大学まで一貫しており、更に、「社会人」になってからは、数値化が給与水準として、労働能力=人間の能力として常識を構成するようになる。こうして数値による差別と選別の構造が人々の人生全体を覆うことになる。(仕事をリタイアした人たちが支配されるのは諸々の健康診断データが吐き出す数値だが、これはまた別に考えたい)

知花昌一のソフトボール大会での日の丸焼き捨てから始めて日の丸そのものからかなり脱線してしまった。

日の丸は、学校の入学式や卒業式などのイベントに欠かせないものとなっているのは、学校という権力の秩序を権威あるものとして、その力(振われるとは限らないが、いつでも振うことができる暴力)が恣意的で本末転倒であっても、それを受け入れることを可視化する機能を担っている。こうした行事全体が担う学校の秩序を強いる機能を果しているからだ。日の丸にこのような機能を担わせるのは、学校だ。学校は日の丸という象徴に学校というシステムがもつ「意味」を集約させる。

5. 国旗の物神性

国家と呼ばれるものが、実際の生活世界のなかで表現される場面は様々ある。国家的な建造物(国会議事堂とか皇居とか)、文化財、国家イベント(オリンピックや万博など)などだ。憲法ですら、国家の全てを代表できない。これらは国家のある側面を代表するが、その全てを代表できるものではない。国家的個別価値とでもいうべきものだ。たとえ憲法上「国民統合の象徴」とされる天皇ですら、個別的価値を越えて、国家を総体として象徴することはできない。人々はそこに人としての「意味」を読んでしまうからだ。

ところが国旗は、国家的価値を普遍的に指し示す「記号」となりうる。つまり、国家と呼ばれる「事柄」がもつ「価値」なるものをいかなる場面にあっても――スポーツ、学校、外交、国会、NHKの一日の番組終了時、スマホ・パソコンアプリの国や言語のアイコンなどなど――代表することが可能な特異な位置を社会から与えられる。これは、どの国家でも同様である。このようなことが可能なのは、国旗それ自体には、個別的な機能が存在せず、単なる「記号」としての表徴に過ぎないからだ。言い換えれば、それじたいを「もの」としてみれば、白地の布に赤い丸が染められただけの幾何学模様であり、特別に有用なものではなく、むしろそのものとしてはほとんど役に立たない。この役立たずであることが普遍的な価値の表象としての役割を担う上で、重要な条件になる。あらゆる場面であらゆる事柄がもつ個別の意味を、この国旗を媒介として、国家の価値へと収斂させるように紐づけることができる。これは、その国家を構成する人々がある種の共同作業として歴史的な経緯のなかで行い、相互に承認することで成り立つ。

国旗に対して人々が抱く意味は、人それぞれでありながら、いかなる意味を与えようとも、その意味は「国旗」を媒介にナショナリズムへと収斂するようになる。結果として、国旗それ自体にあたかもナショナルなもののすべてが象徴的に体現されているかのように観念され、国旗そのものがナショナルなものそのもの、つまり国家の神聖性そのものであるかのようにみなされる、といった事態が生じる。こうして神聖性が成立することによって、国旗はその神聖性故に、特別に保護される権利を獲得し、この神聖性を媒介にして国家の神聖性もまた再生産される。国旗は、国家という抽象的であいまいな統治の構造を非常にシンプルかつ効率的に表現できるために、あらゆる権力主体は、国旗あるいは「旗」を用いることを通じて、人間集団を効率的に統合する。ここにはある種の象徴的な暴力が伏在している。

ほんらい白地に赤の模様には、ナショナルな価値などは存在しない。社会を構成する人々が、この模様にナショナルな意味を付与することで、そのものの物質性にはない特別な性質を社会が与えることになる。これを「物神性(フェティシズム)」と呼ぶ。このフェテイシュな意味には合理的な根拠はないが、この模様がナショナルな意味をもつことで神聖性が付与されると、国家の神聖性を端的に体現する存在になる。国家というあいまいで掴みどころのない統治機構が国旗として象徴化されるとき、この国旗に神聖性を付与することを通じて国家という観念に神聖性を付与するという意味の連鎖を生むことになる。国家はそれ自体として相変らず曖昧模糊としたままでかつ暴力性を内包する存在だが、国旗は端的に神聖性とその背後にある象徴的暴力あるいは暴力の潜勢力の表象になる。こうして「国旗」は、様々な個別的なナショナリズムの要因を収斂させる象徴的な記号としての地位を与えられることによって、同時に暴力の潜勢力をも纏い、単なる白地の赤丸以上の意味を付与される。この布地は、国家を象徴する意味を与えられることによって、ある種の権威や神聖性を付与され、結果として、特別に配慮されるべきものとしての意味を与えられる。

暴力の契機がここに伏在するのは、そのいずれもが、ナショナリズムへと収斂させられるところに無理があり、合理的な説明がつかないからだ。暴力が顕在化するのは、この合理的な説明がつかない局面で露出するが、潜在的なままであるときには、この不合理な関係を人々がそのまま受け入れる場合だ。

※以上の議論はマルクスの価値形態論と貨幣の議論を借用したにすぎない。国旗とは政治的価値における貨幣のような役割をもつものということになる。

6. 学習指導要領」の日の丸・君が代

「国旗損壊罪」なるものがどのような法案として出てくるかわからないが、「小学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説」には以下の記述がある。

入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。国際化の進展に伴い、日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、児童が将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。学校において行われる行事には、様々なものがあるが、この中で、入学式や卒業式は、学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛かつ清新な雰囲気の中で、新しい生活の展開への動機付けを行い、学校、社会、国家など集団への所属感を深める上でよい機会となるものである。6

ここでは子どもたちを一人の個人として尊重することよりも「日本人としての自覚」をもたせることに主眼が置かれている。このこと自体が学校に通う様々な国籍の子どもたちへの考慮が皆無なのだが、更になぜ「国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度」が「尊敬され、信頼される日本人として成長していく」ことに繋がるのか、論理的な繋りがないところに日の丸・君が代の物神性そのものが表われている。日の丸・君が代は、多様性も個人としての自立も否定されて「日本人」であることを、丸呑みさせる仕掛けだということがこのようなところに露呈している。この論理性のなさは、逆に子どもたちも学校現場も、本当なら疑問をもってもいいのだが、必ずしもそうはなっておらず、むしろ疑問を投げかる者は少数にとどまる。この不合理性を当たり前のこととして受容させる「力」、あるいは疑問を公然と口に出すことを抑制させる力こそが日の丸・君が代の力だといっていい。こうした「力」は、多様性を削ぐ「力」に共通するものだ。だから、この日の丸・君が代の強制と学校現場の裁量を可能な限り狭めて画一的な教育内容で統制するような体制とは不可分一体のものであり、構造的なものといえる。

7. 象徴的暴力

今回ここで論じた内容は、ピエール・ブルデューの象徴的暴力という考え方に触発されてのことでもあるので、最後に、ごく簡単にブルデューの議論に触れておく。私の記述はブルデューの議論を忠実に解釈して論じたものではなく、私の独断による解釈なので、以下ブルデューの象徴的暴力に関するいくつかの記述を引用しておく。

7.1. ブルデュー『再生産』から

象徴的暴力という概念はブルデューの議論のなかで度々登場するものだが、決して分かり易いわけではない。彼の言及のなかで、わたしにとって旗と暴力を考える上で参考になった箇所として『再生産』の冒頭の説明があるので、これを引用しておく。

およそ象徴的暴力を行使する力、すなわちさまざまな意味を押しつけ、しかも自らの根底にある力関係をおおい隠すことで、それらの意味を正統であるとして押しつけるにいたる力は、そうした力関係のうえに、それ固有の力、すなわち固有に象徴的な力を付けくわえる。

注解には以下の注釈がある。

象徴的関係の力関係にたいする自律性と依存性とを同時に述べているこの公理を否定したりすれば、社会学的な科学の成り立つ可能性を否定することになってしまおう。7

象徴的関係と力関係は相互に異なるものだが、相互に依存する。

象徴的暴力とは

  • •意味の押しつけ  
  • •押しつける力の関係が覆い隠される  
  • •結果として意味は正統性のあるものとして受け入れられる  

こうした力を「固有に象徴的な力」だという。 「意味」の押し付けであるが、しかし押し付ける力関係それ自体が隠されるために、押し付けられているという実感が持たれないばかりか、むしろこの「意味」が正当なものであるとすら受け取られる、ということだ。ここには暴力という概念に含まれる心身への抑圧すら顕在化されないが、だからといってそこには権力の力が作用していないとはいえない、という観点が示されている。まさに、国旗を掲揚することをめぐる日本の日常にもあてはまるではないかと私は考えている。

7.2. ブルデュー『パスカル的省察』から

もうひとつブルデューのパスカルについての著書から引用しておく。

象徴的暴力の典型は、ハーバーマスとフーコーの儀礼的対立を越えたところで、合理的コミュニケーションの回路をとおして行使される権力である。すなわち、理性をまとった諸力(たとえば学校制度の宣告をとおして、あるいは経済専門家のご託宣をとおして作用する諸力)が支配する秩序が生み出した被支配者であるがために、合理化された力の恣意性にみずから合意することしかできない人々の帰依をえて行使される暴力である。8

合理的コミュニケーションは、非合理的コミュニケーションと対をなす。暴力は非合理的であると思われているが、そうではないのだとブルデューは言う。むしろ合理性を伴うものだ。これは重要な観点だ。暴力が行使される状況の典型的なケースとして人は、激情に駆られて殴るといった場面を想像しやすい。こうした暴力が日常のなかに多数みられることは事実だし、むしろ日常生活のなかでは、こうした暴力を経験するが故に、暴力とは理不尽なものである、と思われる。

しかし、暴力がこうした日常の経験や実感の世界を離れて、国家とか資本といった大きな組織が関与し、軍隊や学校といった集団のなかで人間が組織的に力を行使するようなレベルになると、暴力は非合理な世界から合理的な世界に支えられたものになる。たとえば軍隊は憎悪にかられて見境なく人を殺しまくるのではなく、軍の組織は冷静で合理的な戦略と戦術に基いて戦場での殺戮を実行する。理性なくして戦争はありえないのだ。ブルデューが関心をもつのは、こうした「理的コミュニケーションの回路をとおして行使される権力」の世界であり、その典型としてしばしば学校をとりあげている。

せっかくだから中学生でも知っているパスカルの『パンセ』からブルデューも参照している下記の箇所を引用しておく。

自然法というものがあるのは確かだ。しかしあの腐敗した結構な理性が、すべてを腐敗させてしまった。「もはやわれわれのものは何一つとしてない。われわれのものと言っても、人為の産物にすぎない。」「元老院決議と民会決議の名において犯される犯罪がある。」「かつてわれわれを苦しめたのは悪徳だったが、今は法律だ」

このような混乱の行きつくところ、ある意見によれば、正義の本質は立法者の権威、別の意見では、君主の便宜、さらに別の意見では、現行の慣習ということになる。そしてこの最後のものが最も確実だ。ただ理性だけに従って言えば、それ自体で正しいものは何もない。すべては時に応じて変化する。正義の総体を作り出すのは慣習であるが、それはひたすら、慣習が現に受容されているという理由による。これこそ正義に権威を与える神秘的な基礎だ。正義は、その根源に立ち戻って考察しようとすれば、台無しになる。間違いを正す法律ほど、間違ったものはない。それが正しいから従うと言う人がいれば、彼が従っているのは想像上の正義であり、法の本質ではない。本質はそっくりそのまま自分の中に閉じこもっている。法は法であり、それ以上の何ものでもない。その根拠を吟味しようとすれば、それがどれほど薄弱で軽薄であるかが見えてしまう。それで、人間の想像力の生み出す脅威に見慣れていなければ、一世紀の間に法律がこれほどの威容と尊敬を勝ちえたことを目の当たりにして驚嘆することになるだろう。国家に反逆し、それを転覆する秘訣は、既存の慣習の成り立ちを探って源泉にまでさのぼり、それが権威と正義を欠いていることを示して、慣習に揺さぶりをかけることである。9

国旗損壊罪という「法」の問題以前に、私達は、日の丸をめぐる「慣習」こそを問題にしなければならない、という教訓をここから引きだすことができるだろう。国家に反逆することのなかのごく一部にすぎないとはいえ、日の丸の慣習それ自体に揺さ振りをかけることの意義がここにははっきりと示されている。もちろん、慣習である以上その力は法以上にわたしたちにとっては難敵である。 もちろん法は問題なのだが、法案に焦点をあてて慣習を見逃してはならない、ということでもある。慣習は法よりやっかいであり、法の解釈も適用も、実は無限に具体的な事柄からなる生活慣習に作用するのだ、ということを忘れてはならないだろう。

8. まとめにかえて

本稿を書き終えてウエッブに掲載しようとしていた矢先に自民党が国旗損壊罪の法案を公表したという報道に出会した。法案の批判はここではしない。すでのここに書いた以上のことはないからだ。

国旗損壊罪をめぐる問題は、まさに暴力の問題である。その暴力とは損壊する側ではなく、損壊を力づくで抑圧する側の暴力の問題だ。しかも、この暴力は、物理的な力以上の広がりをもち、国家と右翼双方からの攻撃を正当化する法の暴力の問題である。しかし、それだけにとどまらず、むしろ日の丸を掲げることを慣習とする多くの人々が、スポーツ、教育、文化などの場面で「当たり前」として掲げ、更には個人の家や店舗でも掲げるような事態のなかで、この多数者が、日の丸を拒否する少数者に対してとる言動のなかに見出せる不寛容として表われる象徴的暴力である。この風景が「当たり前」となることを通じて、国旗をはじめとする旗の暴力を拒む者たちが被る息苦しさとでもいうしかない日常の暴力である。

本稿の冒頭に掲げた『滑稽新聞』のイラストのような表現もまた国旗損壊になりうるだろうか。鳥に象徴された敵国に糞を落とされる日の丸という構図を現代の検閲官はどう読むのだろうか。たぶんこうした表現すら、萎縮や自主規制によって目にすることが少くなり、結果として、「損壊されない国旗」がはびこり、「国旗」とは損壊されざる存在であることが「当たり前」になり、こうして国旗損壊罪はまんまと慣習のなかに根を下すことに成功してしまうかもしれない。そうなるか、そうならないかは、立法の問題であるだけでなく、立法を越える問題であり、まさにパスカルが上で述べたことである。あらためてここに引用して、この散漫なエッセイを締め括ることにする。

国家に反逆し、それを転覆する秘訣は、既存の慣習の成り立ちを探って源泉にまでさのぼり、それが権威と正義を欠いていることを示して、慣習に揺さぶりをかけることである

9. 付記:大学版学習指導要領?

大学には、小中高のような日の丸・君が代を強制する文科省の統一した教育指針はない。しかし、学習指導要領のようなガイドラインがあるので、一言この件についても言及しておきたい。大学について文科省は学術会議を通じて「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準」を作成している。10この基準の作成主体は学術会議なので文科省の直接的な統制になっていないところが巧妙だ。学術会議は、ウエッブで「平成20年に文部科学省から、大学教育の分野別質保証の在り方について審議する依頼を受けたことを契機として、分野別(学問分野別)の参照基準の作成を開始し、現在までに約 30 の分野の参照基準を作成」したと述べている。11ここでは分野別に「すべての学生が身に付けることを目指すべき基本的な素養」を定めるとある。文科省が後ろ盾となって学術会議が、教員が学生になにをどのように教えるのかについて、画一的な基準を定めるものだ。これは大学版学習指導要領といってもよいものあって、私は絶対に認めることができない。なぜなら、私が教育者として30年大学で教えてきた「経済学」をこの参照基準なるものは全否定しているからだ。言い換えれば、学術会議の参照基準を受け入れるということは、私のこれまでの全ての仕事を自ら間違いだったと認めるようなものだ。たぶん、小中の学習指導要領をめぐって教員たちは、彼らが感じたであろう自分の教育を否定しようとする権力の力に対して対峙しようとする悪戦苦闘があったが、大学ではほとんどこうした動きはみられず、今に至るまで容認されていると思う。問題は、自分の学説と異なる考え方が参照基準にされたことが問題なのではなく、ただ一つの基準に統一すべきだ、という教育のありかたがそもそもまちがいだ、ということだ。12

教育を標準化=数値化する全体の権力構造は、それ自体を可視化することは難しい。しかしこの権力構造ががめざしているのは、ナショナリズムに収斂するような学問の制度的な枠組だ。大学の日の丸・君が代への批判が希薄にみえるのと同様、この大学版学習指導要領への批判も極めて目立たないということのなかに、大学という潜勢的な暴力の現在が自ずと表明されているように思わざるをえない。なので、なぜこんな学術会議が市民たちに支持されているのか、私からすると、とても辛い。

1日露の緊張が高まっていた日露戦争前年に宮武外骨が発行していた『滑稽新聞』に掲載された。鷲はロシアの象徴として描かれている。滑稽新聞は幸徳秋水らの平民新聞のような反戦の主張を真正面から打ち出してはないが、随所に、戦争への皮肉まじりの記事が掲載されていた。このイラストは国旗損壊罪にあたるのかどうかは、『滑稽新聞』全体の記事の文脈抜きには判断できないし、判断したとしても正しい解釈はひとつにはならないだろう。なおこのイラストは当時検閲されていない。イラストは筑摩書房版『滑稽新聞』復刻版から引用。

2https://wam-peace.org/news/10564

3このような潜勢力としての暴力は、物理的な暴力として発現しない。この潜勢力としての暴力は、力の物理的な行使とは別の形で、人々を一定の秩序のなかに強制・統制しようとする。この意味で心理的な作用であり、心理的な暴力として実際に傷を負わせうるものになる。(そうなったときは、心的外傷となる) 心的外傷にすらなりうるこの暴力は、儀礼的な行為をひとつの入口とした制度の枠組を伴う。行動の統制であり、そのなかには、「国旗」掲揚や「国歌」斉唱に伴う「態度」の強制がある。儀礼的な行為は、自由を儀礼の名の下に奪うことで成り立っている。自分の自由と儀礼が強いる強制(同調)との間に折り合いをつけられずに、逸脱した振る舞いをすれば、制裁が課される。

4詳しくは、崔仁辰『韓国写真史』犬伏雅一監訳、青弓社、第10章7「日章旗抹消事件』参照。

5読売 2022/06/28 「[時代の証言者]物言う科学者 黒川清<22>提言する学術会議へ」に添えらた写真参照。 https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20220627-OYT8T50158/

6 https://www.mext.go.jp/content/20221213-mxt_kyoiku02- 100002607_014.pdf

7ピエール・ブルデュー&パスロン、『再生産』、宮島喬訳、藤原書店。

8ピエール・ブルデュー『パスカル』、加藤晴久訳、藤原書店。

9パスカル『パンセ』塩川徹也訳、岩波文庫、上巻。

10この参照基準をめぐる問題については、下記のわたしの文章を参照。「日本学術会議は擁護すべき組織ではない、と思う。社会的不平等のなかでの自由は欺瞞である。」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2020/11/21/gakujtukaigi-hiham/ 「学術会議と憲法あるいは学問の自由について https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2020/12/05/gakujutukaigi_kenpo_jiyu/ 「学術会議について」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2025/02/14/gakujutukaigi/

11大学教育の分野別質保証委員会 https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigakuhosyo/index.html

12私が大学で教えていた経済学の分野は、マルクス経済学(マルクス主義経済学と呼ぶ者もいる)、近代経済学(あるいは主流派経済学)、制度学派など、様々な学派が並立し、パラダイムの共通性がない。にもかかわらず参照基準は主流派の観点だけを教育に必要とした。この観点に幾つかの学会は批判の声明などを出したのは、参照基準問題では異例かもしれない。わたしはマルクス経済学に基くとはいえかなり異例なプログラムを組むので、どの学派ともいえない。