不可能な要求が必要なとき――G7に反対する意味とは

以下の原稿はさっぽろ自由学校<遊>の機関誌に掲載されたものです。


札幌で開催されるG7気候・エネルギー・環境大臣会合(以下環境大臣会合と略記)の開催前にこの原稿を書いているので、どのような声明が出されるのかはわかっていません。だから会合の具体的な内容よりも、G7反対するとはどのようなことなのかを考えてみたいと思います。

4月12日付の日本経済新聞のオンライン版に「『無理なものは無理だ』脱炭素巡りG7に綻び」という記事が掲載されました。この記事は、財務省による主要7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議の主要議題に関する文書を紹介したものです。記事本文には次のような記述があります。

「G7の綻びがみえる経済的なテーマもある。「無理なものは無理だ」。4月15日から札幌市で開く気候・エネルギー・環境相会合の声明案を巡り、日本と残り6カ国の間で押し問答が続いている。対立点は石炭火力発電所についての表現だ。

ガス火力よりも温暖化ガスの排出量が多い石炭に関し米欧は「G7以外もけん引するため高い目標を掲げるべきだ」と廃止時期の明示を求める。「それではG20やグローバルサウスはついてこない」と日本は押し返す。電力需要が伸びる新興国ではなお石炭火力の活用が多い。」

グローバルサウスの経済開発を人質にとりながら、脱炭素への取り組みに消極的であることを正当化しようというわけです。財務省にとって環境の問題は「経済」の問題です。経済の観点からみると、気候危機に日本政府や経済ジャーナリズムがいかに後ろ向きかがよくわかります。彼らにとっての危機は、温暖化に伴う環境破壊の危機ではなく、企業や金融機関に関わる危機なのです。気候危機に取り組むためには、温暖化ガスの高排出産業(鉄鋼、航空、電力など)の構造転換が不可欠です。政府は、こうした構造転換リスクが現状維持リスクよりも大きいと判断しているのです。

欧米政府は、日本とは逆に、現状維持のリスクが高いと判断しています。この違いは、政権が直面している政治的危機の違いによるものです。ここ数年、気候危機は大規模な大衆運動として顕在化し、これが政策に影響を与えてる力をもつようになっています。ヨーロッパ諸国、とりわけイギリス、フランス、ドイツなどG7を構成している諸国にとって、気候危機は国内の深刻な政治危機の問題です。逆に政権交代の可能性のない日本では、政権は民衆の気候危機への取り組みの運動の影響を受けにくく、政府は危機感を感じる条件がなく、既得権が優先されます。

ここでいう危機を実感させる民衆の運動とは、ロビー活動するNGOや政府や企業に問題解決を期待するのではなく、気候危機に必要な制度の根本的な転換を迫る運動です。米欧政府も企業もこうした民衆運動に直面しているが故に、構造転換を強いられているといえます。

これに加えて、ロシア・ウクライナ戦争は、既定の脱炭素政策を困難にし、後退する可能性が高くなっています。戦争回避が環境危機を解決する上での唯一の選択肢であるにもかかわらず、各国政府は戦争回避に後ろ向きです。その結果として、欧米政府も民衆の運動がもたらす危機よりも戦争の危機をより深刻な政治的なリスクとみなすようになります。脱炭素よりも経済安全保障が優先されるようになったという点では、日本も欧米各国もほぼ足並みが揃っています。こうして、危機に対応する新しいモデルを打ち出すことで資本主義の延命――利潤動機で行動する企業と軍事的政治的な権力動機で行動する国家の堅持――を図ろうという欧米資本主義の脱炭素ユートピアも破綻しつつあります。

他方で、戦争がうみだしたエネルギー危機とインフレのなかで、民衆の気候危機への抗議運動は後退しているとはいえません。民衆の要求は、化石燃料からの離脱とともに、原発にも環境破壊をもたらす再生可能エネルギーにも反対しています。エネルギー価格をはじめとする生存に必要なモノの高騰にも反対し、大幅な賃上げを要求し、ジェンダーやエスニシティに関わる経済的政治的文化的な平等を要求し、普遍的な人権が国境で差別されることに反対してこれまで以上に多くの難民をより平等な条件で受け入れることを要求し、年金支給年齢引き上げに反対し、働かなくても暮せる自由な時間をより長くすることを要求し、公共サービスを無償にしつつそこで働く労働者の賃金や労働条件の改善を要求し、地域の大規模開発に反対しています。もちろん戦争にも警察の暴力にも反対です。民衆の要求は、権力者を忖度することはなく無理難題を押し付けることが当然の権利として主張されます。要求を支えるのは、不正義への怒りであり、普遍的な価値を言葉の上でもてあそぶ為政者の振舞いを絶対に許すことはできないという怒りです。

私は上に挙げた民衆の抗議をかなり「理想的」に語っていることを自覚しています。しかし、あえてこのように言うことが必要だと感じています。民衆の運動が、要求の条件を現実的なものかどうかを基準にして妥協するとき、運動はかぎりなく権力者に媚を売る卑屈なものになるか、自らもまた権力者であるかのように錯覚して大衆を無視したり蔑視する「市民社会」の権威主義を纏うことになります。この意味で、不可能な要求を掲げることが大切なのです。不可能性は常に、今ここにある支配的な社会制度にとっての不可能性であって、未来の社会選択は、この不可能性からは自由なはずだからです。この意味で不可能性への要求は、民衆にとっての自由の実現要求でもあります。G7に反対するということは、それ自体とてもささやかな行動ですが、この意味での資本主義にとっての不可能性の先にある可能性に開かれた自由を獲得する、という大きな夢に支えられることが必要だと思うのです。