気候変動に抗議する非暴力直接行動、Extinction Rebellion

投稿日: カテゴリー: 資本主義批判

昨年から、英国を中心にして起きている気候変動に抗議する非暴力直接行動、Extinction Rebellionが4月15日から集中行動を呼びかけ、公共交通を遮断する行動をおこなっている。

これまでに、300人以上が逮捕されている。私のアンテナになぜかひっかかってこなかったのだけれども、日本語の情報がなかなかみつからない。気候変動に関心のある日本の運動体がどのくらいこの運動を報じているのか。

国際的な運動も呼びかけられており、オーストラリアでも地方議会占拠。
https://wattsupwiththat.com/2019/04/16/extinction-rebellion-occupies-south-australian-parliament-demands-more-climate-action/
米国のサイト
https://extinctionrebellion.us/rebellion-week

こうした運動が昨年からあったことを知っていたら、フランスのイエローベスト運動との関連も含めて、運動の目標や運動のスタイルなども含めて、もっと幅広い議論ができたかもしれない。いずれにせよ、日本は、こうした運動のサイクルから脱線している。

本日のDemocrary Nowの報道。背景も含め、当事者へのインタビューもあり、わかりやすい。

https://www.democracynow.org/shows/2019/4/17

昨年までの行動(ガーディアン)Life inside Extinction Rebellion: ‘We can’t get arrested quick enough’

https://www.youtube.com/watch?v=jAH3IQwHKag

気候変動運動全体にいえることですが、原発への言及はたぶんないかほとんど目立たなと思います。extinction rebellionのサイトで検索してもヒットしない。原発への観点を気候変動の運動に提起するのは反原発運動にとって重要な課題と思います。

返上以外の選択肢はない!2020東京オリンピック誘致の違法性をなぜ問わない?

投稿日: カテゴリー: オリンピック

2019年3月19日に開催されたJOC理事会で、竹田恒和の6月の任期終了によって退任することを決めた。フランスの捜査当局が贈賄容疑で捜査していることに対して、竹田は、自身の潔白を1月の記者会見でも主張したが、辞めざるをえないところに追いこまれた。

東京新聞は3月20日の社説で次のように述べた。

「当時の東京五輪・パラリンピックの招致委員会は、約百四十九億円もの費用をかけながらリオデジャネイロに敗れた。そのため二〇年大会の招致では、大手広告代理店が推薦したシンガポールのコンサルタント会社に二億円超を支払って万全を期したが、その一部が票の買収に使われたことが明るみに出た。

贈賄疑惑を追及する仏司法当局が、招致委の理事長を務めていた竹田氏に捜査の目を向けるのは当然といえる。一方の竹田氏はコンサルタント会社に支払ったのは「正当な対価によるもの」としている。ただ、その金がどのように使われるかを知らなかったとしても、会社の素性や背後にいる人物を慎重に調査するべきだった。一六年大会の招致に失敗した焦りがあったのかもしれない。」

オリンピック招致でリオに敗北した総括として、買収作戦を展開したわけだが、これがフランスでは贈賄に当たるとして捜査の対象になる一方で、日本国内では、日本の国内法には違反していないから捜査できないし、問題もないといった主張が目立つ。上に引用した東京新聞の社説も歯切れが悪い。社説では「五輪開催の理念が乏しいまま招致にかじを切った関係者、関係団体すべてが反省するべきことだ」と批判するが、そもそも金で買ったオリンピックなど返上すべきだ、というふうには言えていない。

NHKは全く問題点には言及せず竹田がこれまでオリンピックにどのように寄与してきた人物なのかを紹介するなど、推定無罪の原則を非常に忠実に守る報道に徹している。(もちろん皮肉だが)

日本のメディアの報道では、竹田会長の辞任を残念と感想をもらす。政治家たちも一様に、静観するかノーコメントだ。野党も「フランスで行われている捜査との関係が分からないのでコメントのしようがない」(立民 福山幹事長)、「事情が分からないので、軽々に言えないが、疑念を持たれる対応をとること自体が問題だという思いはする。」(社民 又市党首)といったどこか他人ごとで、自ら真相究明を国会などの場で行う姿勢は皆無だ。オリンピックを敵に回すことは有権者を失うこと、という票の思惑がみてとれる。

事の発端は、2016年5月に英国のガーディアン紙が「東京オリンピック:2020大会に向け130万ユーロを秘密口座に送金」 と題した記事だった。国際陸上競技連盟(IAAF)のラミン・ディアク前会長の息子の関係口座にアフリカの票を買収する目的で金が流れたとみられる。

ガーディアン紙によれば、日本の贈賄疑惑は、世界反ドーピング機関(WADA)の独立委員会が2016年に提出した腐敗関連報告書の記述にあると指摘されていた。この報告書の第二巻の注に次のような記述がある。

「トルコの個人とKDとの間の様々な議論の記録(トランスクリプト)は2020年夏のオリンピックの開催年をめぐる誘致競争に関する議論に言及している。この記録では、トルコはDiamond LeagueかIAAFに200万ドルから500万ドルのスポンサーシップの金を払わなかったのでLDの支持が得られなかった。この記録によると、日本はこの金額を支払った。2020年のオリンピックは東京が招致に成功した。独立委員会はこの問題については、管轄外なので更なる調査をしなかった」(34ページ)

非常に欺瞞的なのは、この報告書に対する2016年12月12日の日本ドーピング委員会(JADA)の見解である。この見解のなかで次のように述べている。

「同報告書において指摘された競技大会、競技種目に関係する組織においては、クリーンなアスリートの擁護と競技大会の健全性の担保のために、速やかに適性な処置を講じることを強く要請します。

当機構は、Institute of National Anti-Doping Organizations (iNADO)との連携により、ロシアのアンチ・ドーピング体制の健全化支援を推進するとともに、2019年ラグビーワールドカップ、2020年オリンピック・パラリンピック競技大会のホスト国のアンチ・ドーピング機関として、競技大会の健全性を担保するために、国内外の関係組織と連携を密に図り、徹底した対策を講じていく所存です。」(オリジナルはリンク切れ。ここで読める。)

JADAは上述した日本の誘致疑惑については一切無視し一言の言及も弁解もしていない。

BBCの報道では、ディアク前会長はすでにロシアのドーピング疑惑に関連して収賄や資金洗浄でフランス当局に2015年に逮捕され、息子のパパ・マサタ・ディアク容疑者もインターポール(国際刑事警察機構)が指名手配していた。(以上上BBC日本語ウエッブ版) そして日本側がコナルタントとして契約したとされるブラックタイディング社はこうした疑惑の中心人物たちと近しい関係にあったことが知られている。ドーピン関連の問題も含めて、こうした一連の経緯のなかで、フランス捜査当局は2016年と2020年両方のオリンピック招致決定経緯についての汚職捜査を行った。

JOCは2016年にいわゆる第三者委員会を設置して、この疑惑についての検証を行い、報告書を出した。 この報告書では一切の疑惑を否定している。つまり、ブラックタイディング社との契約は賄賂のための架空の契約ではないし、この会社もペーパーカンパニーではない。「関係者の供述に加え、その成果等に照らしても、本件契約が架空の契約であったとか、およそ実態のない契約であったと認めるに足る証拠はない」とし、また、日本の刑事法に照らしても贈賄罪は「日本の刑法上、民間人に対して成立する余地がない」し、背任についても構成要件を満たしていないとし、「日本法上、民事上・刑事上のいずれも違法と解される余地はなく、適法であることは論を俟たない」(36ページ)と全面的に「白」の判断を下した。しかしディアクら渦中の人物にも会っておらず、フランスの捜査当局の動向は無視した。

日本国内でも、専門家たちによるこの第三者委員会の報告書への評価は低く、「第三者委員会報告書格付け委員会」は、この報告書の格付けは評価委員8名中2名が不合格にあたる最低ランクのF、残る6名が最下位のD評価としている。

●実は国内法に抵触している

その後の報道でも、JOCの第三者委員会の国内法適法を鵜呑みにして報道してきた。しかし、実は、国内法に抵触しているのだ。それは不正競争防止法である。その18条1項に興味深いことが書かれている。

「何人も、外国公務員等に対し、国際的な商取引に関して営業上の不正の利益を得るために、その外国公務員等に、その職務に関する行為をさせ若しくはさせないこと、又はその地位を利用して他の外国公務員等にその職務に関する行為をさせ若しくはさせないようにあっせんをさせることを目的として、金銭その他の利益を供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない。」

「外国公務員等」とあるように、この規定は外国公務員に限定されていない。言うまでもなく、疑惑が本当なら、オリンピック誘致で「国際的な商取引に関して営業上の不正の利益を得る」ことを目的にして、金を送ったという理屈は成り立つように思う。

また、竹田は公務員ではないが、オリンピック組織委員会の委員はみなし公務員とみなされて贈収賄罪の対象になる。(Wikiペディアの「みなし公務員」の例示に、オリンピック組織委員会が含まれている)そして、金の渡った先は、コンサルタント会社を介して当時のIOC委員だとされているから、みなし公務員、あるいは下で説明するように「外国公務員」といえる。

経産省は不正競争防止法について次のように説明している。

「不正競争防止法では、OECD(経済協力開発機構)の「国際商取引における外国公務員に対する贈賄の防止に関する条約」を国内的に実施するため、外国公務員贈賄に係る罰則を定めています。」

そして、この「外国公務員贈賄に係る罰則」を次のように説明している。

「国際商取引において自分らの利益を得たり、維持するために、外国公務員に対して直接または第三者を通して、金銭等を渡したり申し出たりすると、犯罪となります」

これは国際商取引における外国公務員に対する贈賄の防止に関する条約第一条を説明したものといえる。条約の条文そのものは以下のようになっている。

「第一条 外国公務員に対する贈賄

1 締約国は、ある者が故意に、国際商取引において商取引又は他の不当な利益を取得し又は維持するために、外国公務員に対し、当該外国公務員が公務の遂行に関して行動し又は行動を差し控えることを目的として、当該外国公務員又は第三者のために金銭上又はその他の不当な利益を直接に又は仲介者を通じて申し出、約束し又は供与することを、自国の法令の下で犯罪とするために必要な措置をとる。

2 締約国は、外国公務員に対する贈賄行為の共犯(教唆、ほう助又は承認を含む。)を犯罪とするために必要な措置をとる。外国公務員に対する贈賄の未遂及び共謀については、自国の公務員に対する贈賄の未遂及び共謀と同一の程度まで、犯罪とする。

3 1及び2に定める犯罪を、以下「外国公務員に対する贈賄」という。

4 この条約の適用上、

a 「外国公務員」とは、外国の立法、行政又は司法に属する職にある者(任命されたか選出されたかを問わない。)、外国のために公的な任務を遂行する者(当該外国の公的機関又は公的な企業のために任務を遂行する者を含む。)及び公的国際機関の職員又はその事務受託者をいう。

b 「外国」には、国から地方までのすべての段階又は区分の政府を含む。

c 「外国公務員が公務の遂行に関して行動し又は行動を差し控える」というときは、当該外国公務員に認められた権限の範囲内であるかないかを問わず、その地位を利用することを含む。」

この条約では「外国公務員」を以下のように定義している。

「「外国公務員」とは、外国の立法、行政又は司法に属する職にある者(任命されたか選出されたかを問わない。)、外国のために公的な任務を遂行する者(当該外国の公的機関又は公的な企業のために任務を遂行する者を含む。)及び公的国際機関の職員又はその事務受託者をいう。」

あきらかにオリンピック組織委員会の委員はこの外国公務員に該当する。

今回の場合は、「第三者を通して」ということになるわけだが、疑惑が事実とすれば、明かに日本が締結した条約と、この条約を踏まえた日本の国内法に抵触するのだ。

更に興味深いのは、この条約には共犯の犯罪化も明記されていることだ。上に引用した条約第一条第二項にあるように、「外国公務員に対する贈賄行為の共犯(教唆、ほう助又は承認を含む。)を犯罪とするために必要な措置をとる。」こと、更に「未遂及び共謀については、自国の公務員に対する贈賄の未遂及び共謀と同一の程度まで、犯罪とする」となっている。とすれば、問題は竹田にとどまることにはならないだろう。JOC、東京都、電通など関連するすべての組織がこの共犯規定に抵触する疑いがあるとはいるはずだ。

更に条約では「締約国は、自国の法的原則に従って、外国公務員に対する贈賄について法人の責任を確立するために必要な措置をとる。 」ともあり、上記の不正競争防止法の条文の「何人も」には法人が含まれると解される。法人の責任ということになると、JOCや誘致した自治体など広範囲の団体の責任が問われることになる。

2020オリンピック招致でなりふり構わぬ招致競争を繰り広げてきた当時を思い浮かべれば、贈賄とみなしうるような対応をとった可能性を否定できない。だからこそ、というべきかもしれないが、この問題を、森友や加計問題のように追及されると、その広がりは権力の中枢に及ぶ危険性がありうるという危機感が権力者たちの側にあってもおかしくない。メディアも野党の政治家もオリンピックそのものと誘致過程での不正を切り離し、更に、誘致の不正は日本の国内法には抵触しないという理屈で、その真相追及には及び腰になる、という不正隠蔽のスパイラルが働いているようにみえる。竹田の退任は、国と東京都、JOCそして電通などが共謀した権力犯罪全体が明るみに出ないような予防措置だと判断できる。

外国の関係者にリベートを渡して不正競争防止法違反に問われたケースはいくつかある。ベトナムなどへのODAで、日本の民間会社社長や法人そのものが外国公務員への贈賄で起訴されたケースは注目された。(「現地関係者が繰り返し賄賂要求 ODA汚職初公判、被告ら起訴内容認める」) この事件を受けてJICAは不正腐敗防止強化を打ち出したりした。

オリンピックにはナショナリズムの特別な感情が絡みつき、スポーツそのものを神聖視する価値観もあって、誘致の過程での不正、開発最優先で住民を追い出す、人権を無視した監視や治安政策を推進するなどといった政府、自治体の対応が、ことごとく甘く見逃されてきた。この見逃しの構図に、電通などの巨大な情報資本がメディア支配の力を発揮して報道を抑えていると思われる。ましてや誘致に必要な票を買うくらいのことは、そうでもしなければ誘致できないのであれば、仕方がない、あるいは、そうした金でしか動かない国がある(といった事実上のレイシズムを逆用した居直り)などという大衆感覚が巧みに煽られてもいるように感じる。

誘致の犯罪にきちんとしたケジメをつける唯一の方法はオリンピックの返上である。オリンピックを名目とした権力犯罪が野放しである構図は、野宿者排除、監視社会化、テロ対策名目の治安強化、日の丸・君が代の強制など日常生活のあらゆる面を覆っている。これらせすべてに日本の大企業とメディアが加担する構図ができあがっている。誘致をめぐる犯罪もまたこうした隠蔽の構図と日本の大衆意識のなかにある「オリンピックのためなら仕方がない」「あるいは金を積んででも誘致しろ」といった暗黙の共犯者意識があり、これが権力の腐敗を下から支えている。

ニュージーランドの白人至上主義者によるテロリズムについて

投稿日: カテゴリー: ナショナリズム天皇制批判資本主義批判

今回の事件は、その被害者の規模からみても、ニュージーランドという場所からいっても、かなり深刻だな事態だと思います。

犯人たちは、犯行前にかなり詳細なマニュフェストを公開しています。
Observer紙が全文をネットで公開しています。
https://observer.news/featured/the-manifesto-of-brenton-tarrant-a-right-wing-terrorist-on-a-crusade/

詳細に読んだわけではありませんが、極右の若者が何を考えているのかを知る上でいくつか気になることが書いてありました。

・白人労働者階級の貧困層出身で学歴も高卒と述べている。
・政治経験について、最初はコミュニストに、次にアナキスト、そしてリバタタリアンになり最後にエスノナショナリストになったという。
・「グリーンナショナリズムが唯一のナショナリズム」である。
・必ずしもクリスチャンではない
・文化の多様性を否定しない。むしろ白人文化がイスラムによって侵略されており、このことが多様性を否定することになっている。
・それぞれの文化、民族はそれぞれの生れた場所で生きるべきだ。
・人間は平等(相互に均質な人間)ではありえない。なぜな、みな相互に異る存在だから。多様性は平等とは相容れない。
・現在とは私たちの祖先の人々からの贈り物である。
・客観的な事実よりも感情が優る。
・ヨーロッパをヨーロッパ人に返せ。
・運動がすでに世界で起きている。ポーランド、オーストリア、フランス、アルゼンチン、オーストラリア、ベネズエラ、カナダで。
・イスラム教徒、移民の出生率の高さは、いずれ白人を少数民族にしてしまう。
・民主主義も世界的な大企業もEU、NATO、国連も宗教指導者もみな自分たちの敵である。
・グローバル化した資本主義市場は人種主義的なオートノミスト(人種を基盤としたコミュニティの自治)の敵である。
・移民労働力が低賃金をまねく。労働者は団結し、出生率を上げて移民を削減すること、労働者の権利を確立して、自動化を進めれば安価な移民労働力は不要になる。

こうした主張は、先住民の「先住」者としての優越性を完全に無視して、あかたもニュージーランドがそもそも白人の国であるかのようにみなしているという間違いがありますが、これはほぼどこの国の白人至上主義者も犯している意図的な誤ちです。上の主張は、最近の欧米の極右に共通したイデオロギーで、その意味では新しいものはありませんが、日本の古典的な右翼の主張とはいくつかの点で違いもあります。

しかし、極右の思想のいくつかは、左翼が掲げてきたスローガンを巧みに転用したものでもあります。新自由主義グローバリゼーションがもたらした貧困や格差、環境破壊の解決を、「エスノナショナリズム」「エコファシズム」に求めようというのです。多様性を一人一人の差異として認める以上平等はありえない、という発想は、右翼のポストモダニズムが強調する反平等主義の基本です。この意味で、彼等は、同性愛を肯定してもいます。イスラムも自国に移民として来ないのであれば肯定します。

こうした彼等の主張のなかで、極右というよりも戦後の保守政治が一貫してとってきた「日本人中心主義」が、まさに極右の思想そのものだ、ということに気づく必要があります。つまり、日本の普通の保守や、あるいは革新のなかにもある「日本人」言説が実はレイスズムの根源をなしている、ということに気づく必要があるということです。

とりわけ、移民や移住労働者問題では、たぶん、左翼の間でも否定的な意見が多くあると思います。日本で働きたい人達の働く意思、働く自由よりも、外国人への差別や人権保障がないことを理由にして否定し、もともと日本に暮してきた(たまたま日本に生まれた)者たちを優先させる発想を、結果として肯定してしまいがちです。こういうと「あなたは安倍政権の外国人労働者受け入れ拡大を肯定するのか」と問われます。私が言いたいのは、国境を越えて働いたり住む自由があって当然だ、ということです。安倍がどうあれ、彼等の日本で働くこと、暮すことを選択する自由を私たちは否定すべきではない、と思うのです。誰も生れる場所も「民族」(そんなものがあるかどうか)も言語も選ぶことはできないのです。だからこそ、移動の自由を国境で阻んだり、<労働力>としての都合でその自由をコントロールするような国策とは別に、人間の本源的な自由の権利としての移動の自由が大切だと思います。海外で働こうとする友人や知人に対して、成功を祈って送り出すことは当たり前なのに、なぜ、日本で働こうとする外国の人々を歓迎できないのでしょうか。この非対照的な感情を、冷静に反省することが必要な時だと思います。

極右と左翼がいくつかの論点で、スローガンの上では重複することがあります。多国籍企業批判、新自由主義批判、エコロジーの重視、コミュニティの重視、形式民主主義批判、資本の搾取などなど。だから、安易にネオリベラリズム反対とか多国籍企業反対、環境破壊反対といったスローガンだけで運動を判断することはできない時代になったと考えるべきでしょう。しかし、極右と私(たち)の決定的な違いは、ナショナリズムあるいは人種主義とジェンダー、あるいは文化的な伝統主義への態度だろうと思います。これらの課題で、極右との差異を明確にできるかどうかが鍵だと思う。天皇制もそのひとつです。象徴天皇制を肯定する左翼あるいはリベラルが最近目につきますが、こうした人達は、いずれ、ナショナルなソーシャリズムを掲げていくのではないかと思います。ナショナルな要因を根底から批判的に問うことができないかぎりソーシャリズムは躓くと思います。

牙をむくナショナリズム

投稿日: カテゴリー: ナショナリズム天皇制批判資本主義批判

1 はじめに

たぶん、今私たちは、〈運動〉の文脈のなかで分かり切ったこととして用いているいくつかの基本的な概念を、あえて再定義しなおさなければならないところにきていると思う。こうした再定義が必要なの概念のなかで、ここでは特に、平和、戦争、憲法、政治、宗教という概念を天皇制の問題との関係で述べてみたい。

誤解を畏れずに、問題をやや単純化して提起すると次のようになる。

  • 平和。現代の日本をはじめとして欧米諸国は、平和な状態にはなく、おしなべて戦時期にある。平和な時代、あるいは平和な社会に私たちは暮していない。
  • 戦争。戦争は「実感」するものではなく、認識に努力が必要な複雑な事態である。ディズニーランドで遊ぶことと戦争は両立する。自らの手を汚すことなく多くの人を死に追いやることが戦争の現実の姿だ。
  • 政治。女性解放運動がスローガンとして掲げたように「個人的(私的)なことは政治的である」ものとして政治を理解しなければならない。政治は国会や内閣、裁判所にだけあるのではない。とりわけ文化は政治そのものである。
  • 宗教。教義や経典を意味するだけではなく、習俗や伝統の内部に浸透する聖なるものの不合理でフィクショナルな世界観が宗教にはある。日本では、天皇と神道は不合理な世界観の体現者であり、こうした存在の「聖性」を肯定する大半の日本人は、本人の自覚とは別に、客観的に観察すれば、神道の信者である。
  • 憲法。現代の権力者は憲法に対する抗体を持っているために、憲法によって抑制することはできない。普遍的な理念を掲げることは、現実の世界がどのようであれ、これを正当化する手段として利用され、戦争とナショナリズムを正当化する。憲法を唯一の最高の統治の規範であると前提すべきではない。

他者向けられた銃口には気づきにくい。武装したガードマンや監視カメラで守られた高い塀によって保たれている「平穏」な生活から戦争を実感することは難しい。為政者が「平和」を強調する時代は、たぶん戦時である可能性が高い。平和を偽装して戦争を隠蔽し、人々の支持を獲得しようとするのは権力者の常である。1

2 世界を席巻する極右

今年は、統一地方選挙や参議院選挙で、〈運動〉が内向きになりやすい時期でもある。有権者となりえない人々の問題は脇に追いやられ、とりわけ、少数者の権利や抱える問題が多数の有権者の利益に反する場合、多数の利益が最優先にされやすくなる。外交・安全保障など「敵」が外国の場合、有権者がナショナリズムの心情で同調しやすくもなる。多数が同意しづらい課題は優先順位が下げられるか除外され、選挙政治の争点は、排外主義やナショナリズム、社会的排除を正当化するためのメカニズムとして働きやすい。天皇制の問題とこれと密接に関わる歴史認識や戦争責任問題、移民・難民の受け入れ、伝統的な家族制度から逸脱する性的マイノリティの権利問題などは、選挙の争点にならないか、問題化されるときにはナショナリズムを鼓舞する偏見と排外主義、レイシズムの宣伝の場と化す危険性がある。

選挙が右翼レイシストによって利用される流れが世界規模で起きている。過激な暴力やテロだけでなく、穏健で合法的な手段をとって権力の中枢を狙うことができるまでに「極右」は「主流化」してきた。欧米諸国で、「極右」の台頭に影響されていない国はまずない。ほとんどの国では、国政レベルでも地方政府レベルでも極右の台頭が著しい。たとえば、

  • スペインのアンダルシアではフランコ独裁時代からの流れをくむVOXが議会で初めて議席を獲得2
  • イタリアは極右の「同盟」が連立政権の一翼を担う。もう一方の政権の担い手が、ポピュリスト政党とされる「五つ星運動」3
  • ギリシアでは黄金の夜明けが2012年から国会に議席をもち、現在第三党。
  • 欧州議会。欧州議会選挙で、イタリアの「同盟」、フランスの国民連合がそれぞれの国でトップの議席を獲得する見込み。また、オランダ、スウェーデン、スペインでも大幅躍進の予想。4
  • ポーランドでは、独立100周年の記念行進に極右の参加を政府が認める。5
  • 移民排斥を掲げるスウェーデン民主党は2018年秋の選挙で43議席から69議席に躍進。国会の第三党。6
  • ハンガリー、クロアチア、スロベニアなどでシリアなどからの難民排除の動きが活発化。ハンガリーの極右、ヨビックは現在議会第二党。2018年、スロベニアでは反移民を掲げる民主党(中道右派とされる)が第一党に。
  • 英国ではEU離脱の国民投票をUKIPなどが主導。離脱の争点が移民受け入れの是非となる。
  • オーストリアなど各国で、ムスリムの女性が着るベールの着用を禁止する立法が広がる。
  • 米国 ティーパーティ運動からSNSを使った人種差別主義の拡大が著しい。2018年には人種差別団体が過去最大数になる。オバマ政権下で減少傾向だったのがトランプ政権下で一貫して上昇し、2018年には1020団体になり過去最高に。7

そして、欧米中枢地域の外部でも、非寛容的で権威主義的、あるいは独裁的な政権を選択する「大国」があとをたたない。たとえば、独裁的といっていい権力基盤を持つ、ロシアのプーチン政権(その周辺には「ユーラシア主義」を掲げる極右の勢力がいる)、トルコのエルドアン政権(クルドやムスリムの反対派を弾圧し続けてきた)、インドのモディ政権(ヒンドゥー原理主義政党)、ブラジルの大統領選挙で当選したボルソナーロは反共主義者でかつての軍事独裁政権の支持者でもある。中国の習近平政権は少数民族、労働運動への厳しい弾圧を続ける。G20の過半数は極右の政治勢力の影響を無視した政策をとることが難しくなっているだろう。

中東欧、かつての社会主義圏においても極右の台頭は著しい。荻野晃は以下のように伸べている。

ソ連・東欧諸国における社会主義経済の崩壊に伴うグローバリゼーショ ンは, 情報通信技術の発達と相俟って, カネ, モノ, ヒト, サービスの国 境を超えた移動の自由を加速させた。グローバリゼーションの進行は国際 社会の中で価値観の多様化を促し, 国民国家の地位の相対的な低下をもた らした。しかし, 同時に, アンチ・グローバリズムの動きが世界各地で表 面化してきた。とくに, ヨーロッパでは, ヨーロッパ連合 (EU) の統合 に反発して国民国家の存在を重視する極右政党が支持を拡大させた。 西欧諸国における極右勢力の台頭には, EU の経済統合の深化による労 働力の自由な移動がもたらした移民の増加と文化的な多様性への反発が背 景にあった。他方, 2004年以降に EU 加盟を果たした中・東欧諸国では, 体制移行期以来の急激な社会変動に加えて, EU への幻滅と不信感が国民 国家における伝統的な価値観の再評価とその過剰な形態としての極右勢力 の台頭をもたらした。8

こうした動きは何を意味しているのだろうか。

かつて20世紀の社会運動が社会主義の価値観をもって資本主義批判を展開してきたときに、その実態がどのようであれ、現存する社会主義を標榜する諸国の存在をどこかで頼りにしながら、次の社会の実現可能性に賭けるという甘い期待をもってきたようにも思う。資本主義の支配者層もまた、自国の反体制運動を軽視できない存在とみなした背景に、現実に社会主義を選択した国家が存在していたことによる。スターリン主義批判を前提とする様々な批判的なマルクス主義や社会主義の潮流は、思想や理論としてもその有効性が共有されていた。

冷戦が資本主義の勝利で終わり、社会主義が世界体制として資本主義と拮抗する力を失ったときに、社会主義諸国の大衆運動は、国家による搾取と自由の剥奪に対して、西側の民主主義にある種の幻想をもった。その現実がどうあれ、彼らにとっては、今ある「社会主義」と呼ばれる体制よりもより自由で民主的な社会が「西側」にあるように見えた。西側資本主義は「自由」と「人権」をフルに活用して東側の大衆の歓心を惹く戦略をとった。しかし、この期待は裏切られた。

更に、第三世界の人々にとって、植民地からの解放闘争のなかで、独立を勝ち取った暁に、自分達の国がとるべき社会体制がより自由で抑圧のない社会となることを願って、社会主義か資本主義か、いずれかの体制を選択した。しかし、いずれの体制選択も、結果としては独立した国民国家としての理想の実現からは程遠く、とりわけグローバリゼーションのなかで貧富の差が広がり、対テロ戦争によって武力紛争に巻き込まれる結果になった。

市場経済の「自由」の代償として、貧困や失業を宿命として抱えるのではなく、また、経済的なある種の保証の代償として、政治的な自由を手放すのでもなく、資本主義的な経済システムを基盤にしつつも福祉と社会保障に国家が手厚い保護を与えるいわゆる北欧型と呼ばれるシステムが、典型的な資本主義や社会主義に失望した人々にとっての代替的な選択肢として期待されたこともあった。しかし、高度な管理社会という副作用と高福祉を支える財政基盤を資本主義システムに依存するという限界を抱えてきた。

これら全ての既存のシステムは、理念として掲げた社会を現実が裏切ることによって民衆の失望を招いた。他方で、既存の社会主義とも資本主義とも一線を画して登場してきた世紀末以降の反グローバリセーション運動は、いくつかの重要な課題に正面から挑戦できるような道具立てを欠いた。とりわけ、対テロ戦争の核心をなした宗教の問題をオルタ/反グローバリゼーション運動は取り組めてこなかったし、結果として、戦争の核心にも迫れず、他方で近代の価値観や多国籍企業、コミュニティの再興といった課題への民衆の「共感」が必ずしも左翼の主張とは結びつかず、むしろこれらの課題を極右が横取りできる危険性を的確に読めなかった。オルタ/反グローバリゼーションが国家主権の強化や移民の排斥を、コミュニティやエコロジーの主張が異質な他者を排除するための根拠に利用され、資本主義の次の社会を提起できない左翼に対して、伝統への回帰という実感としてもわかり易い主張を掲げる右翼が民衆の支持をさらってきた。フランスの黄色いベスト運動が、移民への寛容な受け入れを否定する移民排斥の政策を公然、非公然に掲げてきたことはその象徴的なものがある。

2.1 戦争の再定義

2.1.1 対テロ戦争

テロとの戦争は、戦争の定義を根底から変え、主権国家の概念も大きく変えられてきた。アフガニスタン、イラク、シリアのように、戦場となった諸国の自立性が奪われ、大国による軍事介入が恒常化している。ほとんどの欧米諸国や米国の同盟国は戦争の一方の加担者であるにもかかわらず、そこで暮す人々は、戦争当事者としての意識を持っていない。軍事行動が遂行されているにもかかわらず、戦争の加害者としての意識を持てていない。

このことは日本についても同様である。日本は米国の同盟国として戦争に加担している国である。今現在、日本は戦争をしている国なのだ。自衛隊は一発の銃弾も撃っていないではないか、という反論がある。米軍と一体となった指揮系統のなかに組込まれ、米軍に基地を提供し、兵站の一翼を担っており、世界規模で展開している米軍の軍事力の一部に組込まれているにもかかわらず、それでもなお戦争に加担していないといえるのだろうか。イラク戦争には在日米軍1万人余りが参戦したのだ。基地を提供した日本がどうして戦争に参戦していないといえるのだろうか。

2.1.2 サイバー戦争と憲法9条

もうひとつの戦争は「サイバー戦争」である。サイバースペースは、銃弾が飛び交うことはないが、ほぼそれと同等の効果をもたらすか、現実世界の軍事力行使を規定する力をもつことによって、戦争を左右するようになっている。コンピュータ・ネットワークが社会インフラの基盤となっている現在、こうしたインフラへの攻撃を空襲で実行するのと同等の効果をネットワーク経由でインフラのコントロールシステムに対して行使することが可能だ。

サイバー戦争という言葉を用いる場合、そもそもこうした「戦争」が戦争の定義から外れており、「戦争」という言葉を過度に拡張しているのではないか、という疑問があるかもしれない。しかし、社会システムを物理的に破壊する暴力として機能するのであれば、それが爆弾なのかコンピュータのプログラムなのかは、手段の違いであって、最終的な効果は同じところに行き着く。現実の兵器は、そのほとんどがコンピュータの指令なしには作動しなかったりもする。むしろ武器の中枢は目に見える武器ではなく、その背後のネットワークで数千キロも離れた場所で操作されたりもする。(ドローンによる爆撃はその典型だろう)そして、こうしたネットワークは私たちの日常生活と無関係なのではなく、私たちの日常生活に欠くことのできないコミュニケーションのネットワークと時には共存し、あるいはこうしたネットワークを利用して行なわれたりもする。民間空港を軍隊が利用したり、生活道路を戦車や戦闘車両が行き交うのと同じことが、サイバースペースで起きてもいる。しかしネットワークの世界は私たちの実感では捉えられず、武力行使のリアリティを掴むことが難しく、見逃されたり軽視されやすい。

憲法9条の戦争放棄条項が危機的(わたしからすでばすでにほぼ死文となっていると判断せざるをえない)であるときに、サイバースペースがどのような「戦争状態」を準備し、あるいは現に戦争状態にあるのかを的確に判断することができなければならない。それなくして、9条の戦争放棄条項が現実的な効果を発揮できているかどうかを理解することもできない。現実の場所としての基地がなくても、軍隊は存在可能であり、暴力を行使して人命を奪うことができるのが「サイバー戦争」でもある。

戦争放棄の実質を獲得するには、政府がコンピュータネットワークを戦争目的で使用していないことを私たちがこの目で確認できなければならない。そのような技術を私たちが持てていないとしても、そのことは言い訳にはならない。私たちは主権者として、そのような技術を獲得する「不断の努力」が必要なのだ。それができないのであるなら、民衆が理解し、確認することのできない技術を政府に使わせるべきではない。

自衛隊が存在するだけで9条はもはや空文になっているが、それに加えて、対テロ戦争を通じて現実のものになった戦争やサイバー戦争を通じて、9条の有効性を再検証することが必要だ。

国家の理念が外部の世界からみれば笑いものにしかならないことに当事者は気づかないでいることがある。フランスは移民への人種差別を国是の「自由、平等、博愛」のスローガンを口実に否定しつづけてきたことをかつての植民地出身者たちは身をもって経験してきた。正義、平穏、福祉、自由を掲げる米国憲法がどれだけの不正義を行い、貧困と差別を正当化してきたかを米国の移民やマイノリティは気づいている。だから彼らは国旗を掲げたり国歌を歌ったりしないのだ。天皇が口にする「平和」とはこの種の欺瞞の一種でしかないことをアジアの人々は知っている。たぶん同様に、9条では全く現代の戦争を阻止する上で必要かつ十分な文言にはなっていない。ことばが現実の戦争を阻止できるだけの力をもてなければならないが、9条はむしろ、世界に誇れるようなものとは真逆に、「平和」や「戦争放棄」を掲げながら戦争を遂行することを正当化する詭弁として世界に誇れるものになってしまった。9

2.2 極右の世界観

極右の世界観は一つではない。しかし、あえて幾つか、その柱になるものをピックアップしておく。とくに、左翼や反グローバリズム運動が掲げてきた主張と共通する論点を強調しておくと、次のようになる。10

  • 反グローバリズム。特に、新自由主義的なグローバリゼーション批判。国境を越えた多国籍企業の活動が、貧困と格差を助長した。外国資本の影響を排除すること。自国民の雇用を確保するための保護主義。
  • 消費主義批判。米国流の消費文化への批判。
  • 競争主義、能力主義批判。近代資本主義がもたらした「平等」メカニズムの基準としての競争的平等主義の否定。市場を基準とした能力主義の否定。むしろ下にあるように、伝統やコミュニティに基く序列や秩序を優先させる。
  • 伝統主義。コミュニティに基礎を置くライフスタイルの再建。そのためには、共通した価値観で繋りをもつコミュニティの価値が重要になる。多様な価値観を包含するのではなく、コミュニティが世代を越えて培い、構成員が共通してもつひとつの文化的伝統や価値観によってコミュニティが統合されることが最も安定した社会を築く。
  • 自然=ナチュラリズム。その土地で世代を越えて生活してきた人々のライフスタイルこそがその土地に最もふさわしい「自然」なありかたである。外部から異る文化を持ち込むことは、この最適なコミュニティのありかたを壊すものだ。移民は自国に戻るべきだ。
  • 家族の価値。伝統的な家父長制と性別役割を「自然」なものとみなす。
  • 反近代主義(近代の超克)。普遍的な人権や個人主義の否定。「普遍性」は、コミュニティを基盤とする固有の価値、あるいは多様性を損なう。個人主義はコミュニティの共同性を損う。

排外主義。とりわけ移民、難民、外国人労働者などに対する排除意識が強く、同時に、ジェンダーの平等を嫌う。しかし、コミュニティの価値、エコロジーや伝統文化に対する共感を持つ。こうした極右の価値観や主張の背景には、世代を越えた伝統や文化、時には民族的な神話が持ち出されることがある。しかし、その多くが、19世紀以降の近代化のなかで、伝統主義者たちが近代への抵抗の手段として再構築したり発掘したりしてきたものでもあり、文字通りの意味で、連綿とその社会、コミュニティが維持してきたものであるとはいえない。日本の場合は18世紀以降の国学が、西欧では、ロマン派の流れが、後の極右のイデオロギーの土壌の一部となる。

反グローバリゼーション運動が極右の文脈のなかで解釈されるとき、時には、多国籍資本や金融資本の背後に国際的なユダヤのネットーワークが存在するといった陰謀論と結びつく場合がある。

日本がアジアにおけるトップの座にあった時代から転落する過程のなかで、経済的な大国意識が成り立たなくなるにつれて、そのルサンチマンと嫉妬の感情が敵意を醸成してきた。日本を追い抜く諸国に対して、日本の政府もメディアも、競争相手の国のやり方をあたかも卑劣で道義に反するかのように非難する。不公正でルールを無視した経済活動をやる国として批判し、それが相手国の国民性であるかのようにみなして、非難する。

グローバリゼーションの主役が欧米諸国や日本の主導権のもとで展開されてきた1980年代以降とは異なって、今では、その主導権は中国、インドなどの新興国に移行しつつある。しかも、こうしたアジア諸国は国内に膨大な人口を抱えている巨大市場を自国の統治下にもっている国でもある。このグローバル資本主義の基軸の移動は、同時に、西欧の世界観への危機をももたらした。この危機のなかで、欧米が戦後構築してきたグローバルガバナンスの規範(国連、IMF・WTO・世銀による経済ガバナンス、ICANNによるインターネットガバナス)が正統性の危機に見舞われた。20世紀初頭の第一次世界大戦がもたらした未曾有の西洋の危機次ぐ、第二の危機の時代かもしれない。11

3 明仁の「おことば」

3.1 「おことば」そのもの

天皇の語りは、どのような効果をもつのだろうか。特に、天皇が語る「平和」への強い希求の文言は、安倍の好戦的な改憲の態度と対比されて、平和運動のなかでも支持する声が聞かれるようになった。

私は、人間が嘘吐きであることを忘れてはならないと強く思う。それは、意図的な嘘である場合があるが、天皇の言説が意味する嘘はこうしたものではないと思う。天皇が主観的な意図として真実を語った積りのことが、明らかな嘘となるという場合が圧倒的に多い。

在位三十年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。

平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ

平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む涼闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

在位三十年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

この天皇のメッセージは、9条改憲を執拗に追求し、周辺諸国との軋轢をかえりみず、様々な欺瞞と偽装で自らの成果を誇示する安倍の傲慢な姿勢に対して、ある種の「救い」をもたらすかのような言説となっている。しかし平和を語るのであれば、この国が周辺諸国との間で緊張関係を解消できていない最大の課題としての日本の植民地支配や戦争責任の問題に言及されなければならないはずだ。しかし、こうした歴史的に重要な問題を示唆する文言は一切ない。

子細にみてみると多くの疑問があり、とうてい受け入れ難い現状理解を示している。以下、この「おことば」をやや子細に検証してみよう。

3.2 平和とあいまいな言説が隠蔽する時代の闇

「平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちました」

果して日本国民は平和を希求する強い意志を持ってきただろうか。むしろ、上述したように、日本の加害責任の問題を追求しようとする「日本国民」の「強い意志」が多数を占めたことはないし、天皇もこの問題に言及したこともない。また、自衛隊を容認するだけでなく、その海外派兵を支持し、改憲を支持する安倍政権を支えてきたのではないか。現在の日本を「戦争を経験せぬ時代」と呼ぶことによって、日本が戦時であることを否定している。日米同盟の一方の当事者の日本がなぜ戦争を経験していないといえるのか。

「世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました」

明仁の時代の最大の「災害」は東日本大震災であり、とりわけ福島原発事故である。しかし、彼はあえて福島を口にしていない。そのかわりに「過去に経験のない多くの社会現象」という曖昧な言い回しでごまかした。天皇の沖縄への執着を前提にすれば辺野古をはじめとする沖縄の基地をめぐる「社会現象」が念頭にあるはずだろう。しかし、こうした具体的で重要な事柄を語らないことが天皇のこれまでの慣例である。

天皇の「おことば」は、語られないことのなかにも重要な意味がある。それは語ってはならない事柄であるということを示唆しており、この示唆がこの国の言論空間を支配する効果をもってきた。

3.3 政治を語れない天皇と政治を語りたがらない民衆

政治に言及できないが故に語れないという立場そのものが、社会的な礼儀作法のひとつとして、指導者や有力者、あるいは組織の長が核心に触れる政治的な立場や問題を曖昧な言葉で誤魔化してうやむやにすることをよしとする道徳を構築してきた。これは、戦後の象徴天皇制が非政治的であることを強制されてきたことの政治的副作用である。天皇が非政治的であることはこの意味で、極めて重大な社会的な効果、つまり民衆は非政治的であることが正しい振舞いである、という道徳を生み出した。

3.4 自民族中心主義としての「独自文化」

「島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し…(以下略)」

という条は、ある種の常套句としてこの国では問題にされない。しかし「独自の文化」といえるものとは何なのだろうか?それを誇ることは何を含意するのだろうか。「独自の文化」が含意しているのは、他者の文化との暗黙の比較のなかで、自らの文化をことさら「独自」であるとして差異を強調した上で、その優位性を示唆している。これは、自民族中心主義あるいはナショナリズムを支える文化的なアイデンティティを支持する言説である。また、「島国」をあたかも閉鎖的な場所であるかのようにみなす理解は、天皇が農耕民族中心の歴史館にとらわれている証左でもある。

「外に向って開かれ」以下の文言は、グローバル化のなかで、「日本」という国家の独自性を失なうことなくその地位を確立してきたことを評価するものだ。これは、極右が自国や自民族の独自性をグローバリゼーションの流れのなかで強調するスタンスと実はさほど違わない。英国がEU離脱へと向う流れも、EU諸国が移民・難民に対して門戸を閉そうとしてきたことも、トランプの「壁」の政策もみな「独自の文化」「自らの立場の確立」というキーワードで共通に語ることができる排外主義の立場である。

だから明仁は「外に向って開かれ」とは語っても内に向って開くことには言及しない。ここでも語らないことを通じて、語ってはならない事柄が示唆された。移民・難民を締め出してきたこの国の移民政策の現実を巧みに回避した表現になっているのだ。「開かれ」たのは、資本の投資であり、日本資本主義の経済帝国主義としての「進出」であり、更に自衛隊の海外派兵である。資本と軍事力が「自らの立場を確立」したという現実と明仁がここで言及しようとしている「自らの立場」は、グローバル化のなかでナショナルなアイデンティティの確立の必要を強調している。これは、後段で象徴天皇制のありかたに言及している箇所と対応している。

3.5 「皇室とともに」と皇室なしに、どちらが平和の選択肢として好ましいのか

「全国各地より寄せられた『私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく』という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

ここに引用されている言葉の典拠がない。だから本当に全国各地からこうした言葉が寄られているのかを確認できない。それはともかくとして、平和な日本は皇室とともにしか作れないのだろうか。「皇室と共に」という文言が平和とどのような必然的な関係性をもっているのか。もし平和が最重要の課題だとした場合、皇室が存在した方が平和を実現できるのか、ない方が実現できるのか、という少なくとも二つの選択肢が議論された上でなければ「皇室と共に」を前提することはできない。しかし、戦後の日本では、まともに皇室の是非を政治も課題として議論できる雰囲気も状況も保証されてはこなかった。むしろ右翼の暴力や公教育、マスメディアの皇室賛美によって皇室の存在を前提とする世論の形成が強制されてきた。そのなかで「皇室と共に平和な日本」などということを当然のように語ること自体が政治的な発言であろう。

明仁に限らず、裕仁の時代から、天皇の平和言説は、日本の現状がいかに戦争に加担していようとも、「平和」であると宣言することによって、事実を隠蔽し、人々に「ああ、これが平和なんだ」と思わせる効果をもってきた。同時に、戦後日本の平和の担い手が、戦時期にいかに戦争の加害者としてあったとしても、そのことを免罪するかのような雰囲気をも醸成してきた。

3.6 綺麗事を並べることの政治的効果

多分、何十年後かに、歴史学者がこの時代を観察しながら、天皇と安倍政権を比較して評価を下すとしても、実証主義者ならば、天皇の言葉から「戦争」をひきよせるような好戦的な文言を読みとることはないだろう。ここに実証主義(あるいはデータ主義)の限界がある。

実証主義、あるいは語られたことを客観的な事実として前提する罠に市民運動であれ革命的な運動であれ、様々な反政府運動の担い手たちも陥りがちだ。天皇の言説から「平和」の希求を論ずることは容易い。そしてこの天皇の「平和」に含意されていることを私たちがこの言葉に含意させていることと重ね合せて解釈しようとする。「平和」が意味するものは一つに違いないというのであれば、それは正しい方法だが、平和という抽象的な概念には無数の意味があり、戦争すら「平和」として語りうる。

そして、自分たちの「正しさ」を客観的なデータによって証明することによって、敵の欺瞞や嘘を暴き、こうした暴露こそが最大の敵への打撃であるという考え方があるが、これはさほど効果がない。また、客観的な証拠によって追い詰められた敵を、多くのもの言わぬ大衆あるいは有権者たちは、敵の化けの皮がはがれおちるのを目の前にして、敵への信頼を失い、敵は権力の座から追われることになる….こうした一連の発想のなかで、天皇の「平和」言説への期待も形成されてしまう。

天皇に対して、「なにを綺麗事言ってるんだよ。都心の一等地でのうのうと暮しやがって、調子のいいことほざいてんじゃあないよ」といった庶民の内心の一部にある冷笑は、天皇が何を語ろうが、その言葉の意味や含意とは全く無関係に、天皇を評価しないのである。しかし、こうしたある種の反感は、日本国内では、SNSなどで拡散したりはほとんどしないようにも見える。(SNSをやらない私の偏見かもしれないが)多分、こうした感情をもちながら、他方で、多くの庶民は、「間違ったこと言ってるわけじゃあないし、悪い人ではなさそうだし、言いたいことも言えず、窮屈で、死ぬまで天皇の仕事をするのは酷かもしれない…」とかとも感じていたりもする。

事実はさておき、物事を綺麗事としてきちんと言えることが礼儀作法上大切なことだというこの国に支配的な文化がある。結婚式や葬式で言っていいこと悪いことがあるように。そしてこうした建前をわきまえられるのが、他人からも尊敬される「大人」とみなされる。嘘であれ欺瞞であれ、そんなことはどうでもよくて、場のなかに「和」がつくられるような歯の浮いたような言葉がむしろ求められたりする。

私たちが、天皇の言葉を分析するときには、彼の発言と「場所」とを切り離さずに観察することが必要になる。そして、多くの人々が彼の言葉と彼の人間個人としての性格とを結びつけて彼についての―つまり天皇についての―イメージを構築しようとしているが、むしろ彼の言葉と「場」の関係のなかで、彼は国家の象徴としての言葉であり、かつ祭司としての布教の言葉でもある、二重の含意をもったものとしての言葉を発しているのではないか。慰霊とは禊でもあるのだと思う。

3.7 個人としての天皇ではなく、構造としての天皇が問題の中心にある

天皇とその場所が構成する「意味」は、その場に居合わせたりメディアを通じて接する人々の側で構築される「意味」でもあるわけだが、それは、どのような権力効果をもたらしてるのだろうか。これは言説空間の構造的な問題でもある。それを天皇の人間としての個性やキャラクターに還元してしまうと誤認することになる。しかも、最悪なことに、合理的な人間理解の中心に「個人主義」が居座っているから、「天皇」を「個人」として取り出すことができるかのような錯覚をもってしまう。「天皇」は関係の結び目であって、関係構築の背景に、特有の装置が組込まれている。その装置の一面が宗教的な側面だが、他面では、それは「憲法」に連なる統治機構の政治的な側面である。そしてこの二つの側面を繋ぐものとして「文化」の装置が介在している。宗教的な側面は、日本では「神道」の装置となるが、どの近代国民国家にも共通する構造が特殊な形態で表出しているにすぎない。「神道」を「信仰」あるいは非合理を本質とする共感構造という言葉で置き換えれば、この天皇制を支える構造―天皇意識の再生産構造―は、ほぼどこの国にも必須の国家に収斂するイデオロギー装置だということがわかる。この意味で天皇制に特異なものはない。この意味で、近代の終りが天皇制の終りになることはいくらでも可能なのだ。

4 象徴とは何なのかを理解できない天皇

4.1 天皇の利益相反―国事行為者であることと神道祭司であること

もし、大臣や官僚が、自分の役割が何であるのかを理解できないことを公言したら、マスメディアや野党は黙ってはいないのではないか。任期終了間際になって総理大臣が「総理大臣とはいかにあるべきか考えながら任期を過ごしてきました」とか「総理大臣とはどのようなものかを模索する道は果てしなく遠い」などと発言しようものなら、無責任極まりないと非難囂囂となること間違いない。だから、30年もその任にある明仁が、象徴天皇とはいかなる役割を担うべきものなのか理解できないということを率直に吐露したのは驚くべき発言と言わざるを得ない。

「象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。」

とりわけ「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」という文言は、謎というしかない。「憲法で定められた」ことが理解できない、というのだから。これまで30年間、明仁は自らの役割を理解しないまま「象徴」の役割を試行錯誤してきたというのだろうか。憲法に定められた天皇の国事行為のどこに、「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」などと言わせるような難解なことがあるのだろうか。もし、憲法1条から8条の文言を主権者が読んでも理解できず、果てしなく模索しなければならないとしたら、憲法の象徴天皇制規定を理解できるものは誰もいないということになる。

法の支配が民主主義の大前提であるとすれば、主権者が理解できない文言が憲法にあることは、あってはならないことである。主権者は、その権利と義務を憲法の文言によって定められ、それを理解して行動する。国会議員も官僚も皆この点では同じであって、天皇だけが、果てしなく遠くまで模索して「象徴とは何か、わからない」などと言うことは許されないことである。

では、この深淵なニュアンスをかもしだす文言で明仁は何を言いたかったのか。彼は、象徴天皇の役割を事実上、憲法が規定している天皇の役割を超越してイメージしており、このイメージと憲法が定める天皇の象徴機能とを見事に混同している。つまり彼のなかでは政教分離ができていないのだ。だから、憲法に定められた象徴天皇と祭司天皇の間に矛盾を感じ、これに対して答えを出すことができず、棚上げにした、ということではないか。神道祭司としての天皇、あるいは万世一系の神話の担い手としての天皇と国事行為の担い手としての天皇との間に解きえない矛盾があることは確かだ。憲法が定める政教分離や法の下の平等などの人権条項を尊重するなら、国家の象徴は国事行為の行為者である以外の役割において、これらの憲法の条項と矛盾するような役割を担うことはできない。もしこの二足の草鞋を履くのであれば、それは明らかな利益相反である。憲法を選ぶなら、神道の祭司であることはできないはずなのである。神道の祭司として信教の自由を守りたいなら国家の象徴としての役割は放棄すべきなのだ。にもかかわらずこの二重の天皇に固執するということの含意は、祭司としての天皇の側からみて、憲法は「制約」であり矛盾であって、天皇制の存在にとって利益にはならないということである。明仁はこのことを図らずも言外に示唆したのだ、と思う。

4.2 象徴天皇制をそのままにして政教分離は可能なのか

天皇は国民統合の象徴だという。他方で、憲法は、思想信条、信教の自由を国民の権利として保障するともしている。信教の自由を前提として多様の信仰があり、あるいは信仰を持たない者たちを「国民」として束ねる象徴として「天皇」が存在するという場合、この「天皇」が特定の信仰と結びつくことが可能なはずがないことはすぐに理解できよう。

象徴の機能は、その象徴が意味するものとの関係なしには象徴になれない。この場合、象徴には二つの異なる種類がある。ひとつは、瓶に貼ってある麒麟の絵を見て「ビール」であると認知するような場合の「麒麟」の絵である。この絵をみてビールであると認知できるのは、麒麟の絵がビールを意味することを知っている(学習している)場合に限られる。このことを知らないない者には、類推することはできない。他方で、人間の形をかたどったデザインを見たときに、それを「人間」であろうと類推できる場合というもある。この場合、人間の形を知っていれば、学習することなしに、その形を見て人間を意味することを理解できる。いずれの場合も、象徴となる記号は意味をもつが、象徴と意味をつなぐ仕組みは異なる。天皇の場合、それが日本国の象徴であるという「意味」は類推によって生成されるものではなく、「学習」されなればならない。しかもその「意味」は憲法の国事行為の条文だけを知ることで全てが尽されるものではない、ということが重要な問題なのである。天皇が「象徴」であるという意味は、憲法で明確に限定されており、それ以外の意味を持つことは禁じられているはずである。憲法の国事行為10項目を行なうことだけが憲法に定められているならば、それは誰がやっても構わないことである。しかし憲法には国民の総意であり、かつ世襲である存在という規定がある。天皇になったら世襲されなければならないいということと、国民の総意とは整合しない。総意が担保されない場合がありうるからだ。しかも、そこに更に神道にまつわる意味が付加されるように設計されている。

ある人物が、神道の祭司としての役割を担うときには「天皇」と呼ばれ、憲法に定められた国家の国事行為を担うときには、「大統領」と呼ばれるとしよう。複数の役割を別の名称(記号)によって区別することはありうることであり、それは名称の違いを越えて、意味の違いを生みだす。政治家であれ誰であれ、複数の役割を担いながら複数のアイデンティティを渡り歩くことはごく普通だ。役割ごとに名前をつけるのはそれなりのカテゴリーの境界を明確にして、ルールを明確にする効果がある。しかし、天皇についてはこうした境界を設けることを意図的に否定して、神道祭司としての役割の名前をそのまま憲法の「国民統合の象徴」の名前にした。ことばという記号の意味作用が、神道祭司としての意味と国事行為者としての意味が相互に重りあう構造になることを憲法は、そのそもそもの設計に組み込んだのである。この設計の基本は、新旧両方の憲法に共通している。

そもそも憲法7条の10項目の国事行為は国家の象徴とされる者が行なわなければできないことではない。有権者のなかから毎回抽選で誰がやっても構わないような行為である。あえて天皇と呼ばれる者がやらなければならない必然性はない。実は国事行為には、こうした「軽い」意味しかない、というところが天皇制にとってはその存在意義との関連で問題になる。だから、戦後の天皇制は、この国事行為以外の、とりわけ「文化」の領域に浸透するような戦略をとることによって、一方で習俗にむすびつく神道的な伝統に、他方で、「日本文化」というイデオロギーの再生産装置としての機能においてその不可欠な役割を構築しようとしてきた。仏教やキリスト教でいう宗教の意味合いとは異なるが、天皇への信仰を文化を通じて構築しようとしてきたのだ。12

5 牙を剥くナショナリスト

5.1 布教者としての天皇

明仁の「おことば」に対するほとんどのマスメディアの反応は好意的なものだった。ほんの少しの熟慮で、彼の発言がいかに問題の多い、排外主義の心情を内包させたものであるかを判断できるはずだが、むしろあたかも憲法を擁護する平和主義者であるかのようにみなしている。

そして、こうしたスタンスは平和運動や改憲反対運動のなかにも浸透している。安倍の好戦的な改憲のプロパガンダと比較して、その護憲のスタンスを我が意を得たかのように支持する声が聞かれるようになっている。こうした天皇への期待は、沖縄ですら聞かれるようになっている。

私が「牙を剥くナショナリスト」としてイメージしているのは、こうした明仁の言説に平和を期待するリベラルを含む広範に存在すると思われる、この国の「国民」の大半である。街宣車の右翼や在特会のようなヘイトクライマーを指しているだけではない。むしろ、戦後の政権を支えつづけてきた多数者としてのこの国の有権者であり、投票には行かないが、無自覚なまま民族的偏見を抱いている人々である。彼らの「牙」は街頭や公的な場では見出せない。SNSのような新しいメディアは彼等の心情を伝える回路になっているが、それだけではない。暗黙の偏見が「牙」なのである。目に見えないし、「私たち」は痛みを感じないが、その「牙」を見ることができ、痛みを感じる人々がいるのである。

天皇をめぐる言説は、人々の間に不必要なカテゴリー化と差異化による区別=差別を生み出す。象徴天皇制を認めるのか、認めないのかは明かな踏み絵になっている。この踏み絵は、元号、日の丸、君が代といった国家の象徴を介する場合もあれば、メディアの敬語使用、天皇由来の日を「国民の祝日」とすること、国体から植樹祭まで、全国各地へのいわゆる「慰問」や「慰霊」の類いの天皇が関わる布教=国事行為以外の多く布教=行事に伴う異例の処遇まで、彼を特別な存在として聖別するシステムを認めるのか否定するのか、こうした踏み絵を日常生活のなかで強いられるのがこの国で生きることである。そしてまた、こうした活動のなかの少なからぬものは、天皇由来の「神話」との繋りがある。これらは、広義の意味での神道に連なる宗教的な儀礼でもある。

こうした観点から戦後の天皇が、国事行為であれそれ以外の行為であれ、儀礼の場で行なう行為は、ローマカトリックの教皇がおこなう説教や布教の類いと、本質的にどこが異なるのだろうか。天皇が「祈り」を口にするとき、そこには宗教的な含意はない、となぜ言えるのか。天皇の「おことば」は布教である、とはっきり言いたい。私たちは、自分達の日常生活のなかにある「神道」的な世界観を自覚できていないが、天皇を聖別し、敬語を使い、その言葉を無批判に受容するという態度は、信徒の態度である。とすれば、天皇の言葉は布教のそれ以外のなにものでもない。

竹内好が天皇制は一木一草に宿ると述べたが、この言葉はこのように解釈できると思う。更に言えば、戦後の天皇制は国家神道としての位置を追われるわけだが、このことが、むしろ神道が日常生活の習俗のなかにもぐりこんで、そのスピリチュアリティを広げるきっかけを作ったのではないか。戦後象徴天皇制について、国家神道の枠組みでその是非を理解するのではなく、むしろ極めて定義することが困難な多様性をもつ「神道」的な信仰の構造のなかに、つまり「日本文化」と呼ばれる選民思想を支えてきた価値観の日常的な構造のなかに位置づけなおすことが必要なのではないか。

5.2 信仰に無自覚であること

天皇制を日本の人口の9割が支持している現実は、「国民」が神道の信徒であることを自覚させない環境を作ってきたともいえる。神道は、仏教、キリスト教、イスラム教などと同じように「宗教」 と呼ぶことは困難である。しかし、そうであっても「宗教」がもつ神話的な非合理な世界観に基く排外主義あるいは自民族中心主義を共有している。13

多くの「日本人」が「無宗教」でありつつその実神道の信者である(天皇への信仰をもと者)であるなかで、漠然と「無宗教」であることはほとんど意味のないことである。むしろ異教徒であること、あるいは明確な無神論者であることを一つの世界観として構想することがy必要なことである。これは、もしかしたら日本人としてのアイデンティティを捨てることかもしれないが、それが何を意味するのかすら私には明確にはできない。それは日本人とは何者なのかが私には理解できていないからだろう。

5.3 「日本人」というカテゴリー化そのものに内包するレイシズム

安倍に限らず、現代日本の支配層は戦後教育を受けてきた世代である。戦前の軍国主義教育を改憲勢力の背景として説明する議論は成り立たない。戦後のいわゆる民主主義教育なるものを通過してきた人々が、ますます戦前への回帰を主導しているのだ。こうした保守的あるいはレイシストの傾向は、教育ではなく家族関係など世代を越えた価値観の「伝染」によるのではないか、という別の見方もあるかもしれない。しかし、親や曾祖父母の時代の価値観を連綿と継承しているとみなすのは、当っていないだろう。むしろ、高度に情報化され、ネットのコミュニケーションが情報流通の主流になっているような今現在の環境のなかで、人々が日常的に交すコミュニケーションそのもののなかにナショナリズムやレイシズムを醸成あるいは再生産する構造があるとみるべきではないだろうか。

学校教育がますます右傾化するなかで、優等生はますますナショナリストになり、劣等生は反ナショナリストになる、といった教育とイデオロギー効果の相関関係があるようには思われない。家族、コミュニティ、親密な人間関係、学校、企業、メディアなど様々な社会の仕組みのなかで、人々は日々「私」を「日本人」といったナショナルなアイデンティティに結びつけている。ナショナリズムは、まず、日本人と日本人以外という二つの大きな人間集団にカテゴリー分けすることから始まる。こうしたカテゴリーは、リンゴが好きかミカンが好きかで人口を二分することと比べても、その根拠は曖昧で意味があるかどうかあやしいものだ。しかし、「日本人」とは何者か、ということに端的に答えられないからこそ「日本人」であることをことさらにあれやこれやの事象を引き合いに出しながら強調しようとする。米を食べるのが日本人とか、稲作が日本文化だといった俗説は、コメ文化の広がりト限界をみれば虚偽であることは容易にわかるのだが、そうであっても、それこそが 日本人の特徴であるかのように誇張することをやめない。こうした頑なステレオタイプへの固執の積み重ねが、「日本人」というカテゴリーにことさら過剰な意味を与えて、「日本人」であるのかないのかという境界線が強化される。こうしたカテゴリーに基づく差異の強調は、偏見を助長する。能力や性格など諸個人の個性を「日本人」であるかないかという分類のなかで、判断しようとする。例外的に優秀な「日本人」をあたかも「日本人だから優秀なのだ」とか、たまたま犯罪を犯した人物が外国人であると「外国人犯罪が蔓延している」などと誇張され、それが誇張や偏見であるとは理解されない。

天皇制は「日本人」というアイデンティティを再生産するための信仰=イデオロギー装置である。同時に、「日本人」というカテゴリーに過剰な意味を付与し、このカテゴリーの属さない人々を差別することを正当化する仕組みとして機能する。これは、戦前も戦後も一貫しており、とりわけ戦後は天皇制がこうしたアイデンティティの再生産の機能としての側面を発達させてきた。その結果として、「日本人」という概念それじたいに内在するレイシズムに無自覚となった世代が戦後世代でもある。彼等にとって天皇制は、強いられたイデオロギーではなく、無宗教の背後にあって、ある種の無意識のなかに組込まれた自発的な意思としての「日本人」のアイデンティティの持ち主となった。天皇制はこの意味で戦前の国家神道の教義を通じて教育されて外部注入されるようなものではなく、総体としてのこの国の家族、コミュニティ、私的な人間関係、職場、学校などなどを通じて、「天皇陛下万歳」などとは叫ぶ必要のない「日本人のアイデンティティ」を再生産する信仰の構造をなしてきた。

こうした構造のなかで、天皇制に反対することは、無神論を選ぶことも含めて、異教徒であることでもある。それはどのようなことなのか、このことを世界中で支配的な宗教の弾圧に苦しみながら闘っている人々の経験に学びながら、考え、行動することも必要なのではないかと思う。

Footnotes:

1

保守派や左翼嫌いの知識人たちが、現実の世界におもねって憲法9条に固執する平和運動を揶揄することがある。むしろ現実主義に立って、自衛隊を正当に評価し、軍事安全保障を強化することが平和構築の必要条件だと言いたいらしい。こうした現実主義は、「力」と正義の関係を見誤っているか、意図的に力を正義であると主張しているにすぎない。力と正義との間には何の関係もない。力の強い者が正義においても勝るということは証明されたことはない。力の強い者が正義を僭称して他者に正義と呼ばれる事柄を強引に押しつけることが、歴史上も日常生活でも繰り返されてきた。しかしわたしたちの経験からいえば、むしろ、道理の通らないところで力が幅を効かせる。現実主義者は既存の制度や社会の矛盾を棚上げして、その根本的な変革を絵空事とみなして否定する一方で、本の将来を過剰なナショナリズムや「日本人」の優秀さ、輝かしい歴史的な過去からの延長として描き、「美しい日本」の物語というフィクションで人々の歓心を獲得しようとする。

2

白石和幸「スペイン・アンダルシア自治州議選で極右が初議席。その背景と波乱が予想される今後」https://hbol.jp/180548 この記事では、VOXの政策を以下のように紹介している。 「自治州政治を廃止して中央集権体制に復帰すること ・カタルーニャの独立支持政党の違法化 ・公用語スペイン語を全国レベルで普及させ、カタラン語などを教育の場から廃止 ・シェンゲン協定(欧州の国家間で国境検査なしで越境を許可する協定)の廃止 ・イスラム寺院の閉鎖 ・移民は言語など共通の文化をもったラテンアメリカからの移民を優先し、それ以外の不法移民は一生スペインでは合法化させない ・同性愛の否認 ・20歳になって徴兵制の義務化 ・北アフリカのスペイン自治都市セウタとメリーリャに壁を設ける」

3

白石和幸「イタリア・サルビニ内相の非人道的な難民政策に、全国の市長が反旗を翻す」https://hbol.jp/183306

4

日経「欧州議会選、極右に勢い 伊・仏で首位予測」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41473310Z10C19A2FF2000/

5

「ポーランド独立100年で大行進 極右団体も参加」BBC日本語、https://www.bbc.com/japanese/46175710

6

「文化が違いすぎる国からの移民は、私たちの国の価値観や文化を学ばなければいけません。英語が共通語の企業で働くなら英語だけでもいいでしょうが、スウェーデン社会の一部になりたいと思うなら、スウェーデン語だって勉強するべき。難民に関しては、スウェーデンではなくて、難民キャンプで援助を施すのがよい」(党員ヨーハン・ティーレラン、鐙麻樹「北欧の極右、スウェーデン民主党を支持する人々の憤り」https://news.yahoo.co.jp/byline/abumiasaki/20181120-00104755/)

8

荻野晃「中・東欧における極右政党の台頭」関西学院大学『法と政治』65-3、2014年。

9

「われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に 備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。」(合衆国憲法前文)

10

以下の私のブログの文章を参照。「反資本主義の再定義―台頭するグローバル極右を見据えて」 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2019/02/01/against-far-rights/

11

フランスの極右の思想家、アラン・ド・ベノワは20世紀初頭の西洋の危機は、第一次大戦からロシア革命へという時代背景のなかで起きたが、今回の危機は、こうした「敵」不在のなかで起きており、より深刻だと述べている。一般に極右の思想の基本は、危機意識に基いている。今ある世界の現状維持を基本とする保守とは異なり、危機から西洋の崩壊を救済するための方向を、コミュニズムのような将来社会のユートピアではなく、むしろ近代以前、時にはキリスト教以前の時代にまで遡って構想しようとする。ギリシア神話や北欧の神話、あるいは近代西洋が忘却してしまった近代以前の社会の可能性を非西欧世界に求めたりもする。ある種のオカルトやイスラーム、ヒンドゥ、仏教といった非キリスト教への関心をもつことも極右思想家たちに共通した傾向のようにみえる。

12

憲法でいう政教分離原則でいう政治と宗教というカテゴリーは、現実の政と教のありかたとはズレている。即位大嘗祭などの皇室の神道儀礼が排除されればよいということではない。七五三や地域の祭礼から寺の葬儀など、私たちの日常生活のなかで習俗とみなされている出来事は「政教分離」違反である。なぜならば、政治は私たちの私的な日常そのものだからだ。

13

神道については、以下を参照。ネリー・ナイマン「神道と民俗宗教」、ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』ちくま学芸文庫、奥山倫明他訳、第8巻所収。トーマス・カスーリス『神道』、衣笠正晃訳、ちくま学芸文庫、ヘルマン・オームス『徳川イデオロギー』、黒住真訳、ぺりかん社。

Date: 2019/3/2

Author: 小倉利丸

Created: 2019-03-04 月 17:50


本稿は、2019年3月2日に開催された「「日の丸・君が代」の強制跳ね返す 3.2神奈川集会とデモ」の発言資料として作成されました。発言の機会を与えていただいた主催者、そして参加者の皆さんに感謝します。

【声明】靖国神社での抗議行動は正当だ! 東京地裁は直ちに2名の勾留を解け! 公判闘争を支援しよう!

投稿日: カテゴリー: 未分類
以下、反天皇制運動連絡会のブログから転載します。

2018年12月12日、靖国神社外苑で、2人の香港人の男女が「建造物侵入」の容疑で逮捕された。

男性は、「南京大虐殺を忘れるな 日本の虐殺の責任を追及する」と書かれた横断幕を広げ、日本軍国主義、南京大虐殺、靖国神社A級戦犯合祀に対する批判のアピールを行った。女性は、男性の抗議行動をビデオで撮影していた。抗議を開始してまもなく、靖国神社の神門付近にいた守衛がやめるように言ってきたので、男性が立ち去ろうとしたところ、複数の守衛が2人を取り押さえ、警視庁に引き渡した。

2人はそのまま逮捕・勾留され、さらには12月26日に起訴されてしまった。その身柄は今なお警察署の「代用監獄」に留め置かれている。1月15日の弁護団による保釈申請に対しても裁判所はこれを却下。2人はすでに1ヶ月以上も勾留され続けているのだ【注】。

「人質司法」といわれる日本の刑事司法のありかたは、内外から多くの批判を浴びている。今回2人は、「正当な理由なく靖国神社の敷地内に侵入した」建造物侵入という罪状で起訴された。だが、外苑は誰でも自由に出入りできる場所だ。仮に有罪となったとしても微罪であるのに、今回2人に対して加えられている逮捕、起訴、長期勾留という事態は、まさにアジアの人びとが、靖国神社において公然と抗議行動をおこなったことに対する「見せしめ弾圧」であったと言わざるを得ない。この強硬な姿勢が、安倍政権においてより顕著になっている歴史修正主義、国家主義の強権的姿勢と無関係であるはずがない。

抗議のアピールが行われた12月12日という日付は、1937年12月13日の日本軍による「南京陥落」の前日である。この日を前後しておこった、日本軍による膨大な中国市民の虐殺=「南京大虐殺」の歴史的事実を、日本の右派および右翼政治家は一貫して矮小化し、実質的に否定しようとしてきた。また香港は、アジア・太平洋戦争のさなか、3年8ヶ月にわたって、日本の軍政下に置かれた地である。日本政府は、戦後一貫して侵略戦争被害者への謝罪も補償もしないばかりか、歴史的事実を転倒させ、東アジアの平和を求める動きに逆行し続けてきた。このような日本政府のあり方を、中国やアジアの民衆が強く糾弾するのはまったく当然のことである。男性は、歴史問題に関する自らの意思の表現として、この象徴的な場所で抗議行動を行ったのだ。それが靖国神社に立ち入った「正当な理由」でなくて何であろうか。

また、逮捕された女性は、市民記者として、男性の抗議行動を記録していた。それが、男性と共謀の上「侵入」したとして罪に問われたのである。これは明らかに、報道の自由に対する不当な介入でもあると言わなければならない。

私たちは、この日本社会に暮らすものとして、彼らの行為が提起したことの意味を受け止めながら、剥奪され続けている2人の人権を回復し、彼らを被告人として3月から開始される裁判闘争を、香港の友人たちとともに支えていきたいと考える。

本事件に関する注目と司法権力への監視を。3月公判への傍聴支援を。そして2人の裁判闘争を支えていくためのあらゆる支援とカンパを訴えます。

(2019年1月21日)

【注】2月3日現在、1人は東京拘置所に移監されており、もう1人も近く東拘に移監の見込み。保釈請求却下に対する準抗告も1月30日に却下されている。

12.12靖国抗議見せしめ弾圧を許さない会

〒105-0004 東京都港区新橋2-8-16
石田ビル5階 救援連絡センター気付
mail: miseshime@protonmail.com
振替口座:現在口座開設準備中
*暫定措置として、「12・12靖国抗議弾圧救援」と指定のうえ、救援連絡センターに送金してくださって大丈夫です。
郵便振替 00100-3-105440 救援連絡センター
★ 法廷期日:3月7日(木)10:00〜
3月19日(火)10:00〜
ともに、東京地裁429号法廷

総務省、国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)による 「IoT機器調査」の中止を強く求めます

投稿日: コメントするカテゴリー: 未分類

総務省による前代未聞のハッキング調査が始まっている。「サイバー攻撃」への不安を煽り、ネットのユーザが戸締りの責任を持つべきだという態度にはいくつもの不審な点がある。以下の声明はそうした疑問点を率直に提起している。私も呼びかけ団体に関わる者として、18日に開かれた国会議員会館での説明会・学習会で発言しました。

以下、声明本文です。団体賛同を募集中。是非賛同をお願いします。

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総務省、国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)による 「IoT機器調査」の中止を強く求めます

2月1日、総務省と国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)はIoT機器の脆弱性を調査する「NOTICE」(National Operation Towards IoT Clean Environment)を昨年11月に成立した「電気通信事業法および国立研究開発法人情報通信研究機構法の一部を改正する法律」に基き、2月20日から実施することを公表しました。総務省は、調査対象となるIPアドレスは約2億であることも公表しています。

IoT(Internet of things)とは、「モノのインターネット」のことで、一言でいえば「ありとあらゆるモノがインターネツトに接続する世界」のことです。いままで、インターネットに接続するものといえばすぐ思いだすものはパソコンであったり、スマートフォンでしたが、現在、テレビ、エアコンなど家電をはじめ家庭や会社内の事務機器、監視ロボット、クルマなどがインターネットに接続するようになりました。今後この傾向は更に強まります。

総務省はこの調査の理由をIoT機器のセキュリティの弱点をついて、サイバー攻撃がおこなわれるのを防ぐためとしています。

しかし、私たちは以下の点で、今回の調査は政府による違法なハッキング行為であると判断し、これに強く反対し、実施の中止を求めるものです。

(1)今回の調査は、憲法が保障している以下の私たちの権利を侵害しています。
通信の秘密を保障する憲法21条に違反します。また住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利を保障する憲法35条に違反します。

(2)今回の調査は、裁判所の令状すらなしに、政府による個人のプライバシー情報への網羅的なアクセスを許す先例となり、事実上、政府が自由に個人の通信や私生活などを監視する体制を整えることになります。

(3)総務省は「機器の内部に侵入したり、通信の秘密を侵害することはありません」と述べ、「取得情報も厳格な安全管理措置を講じる」と述べています。しかし、技術の詳細については、「悪意あるプログラム等に利用される恐れがある」として詳細の公開を拒否しています。このような対応から、実際には、技術的には機器内部への侵入が可能な方法をとっていると思われます。また、用いられる技術が本当に総務省の主張通りに運用されるのかどうかも、公正な第三者による検証がなされていません。取得情報の安全性、政府内部での情報共有のありかたなども不透明なままです。将来的には今回の調査を前例として、より一層私たちのプライバシーの権利や通信の秘密を侵害するような、機器内部への侵入へと発展する危険性も排除できません。

(4)総務省はIoT調査の実態を隠そうとしているのでは、との疑念を拭いきれません。今回の調査について、「センサーやウェブカメラなどのIoT機器」に限定されているかの印象を与えています。実際には総務省のいうIoTとは、インターネットに接続されている全ての機器を対象にするものです。このことを総務省は意図的に隠しています。パソコン、スマホなどプライバシー情報を多く含む機器やテレビなど、広範囲の機器が対象になります。その結果として、政府による私たちのプライバシーの権利侵害の範囲は、私生活のほぼ全てに及ぶといっても過言ではありません。
また、一般市民だけでなく、報道機関、弁護士事務所、人権団体、野党、労働組合、プロバイダーなどの言論・表現の自由、通信の秘密に関わる組織にも深刻な影響が及ぶと考えます。

(5)今回の調査で総務省・NICTは、脆弱性のある機器の利用者に対して、プロバイダーを通じて告知などを行なうとしています。しかし、将来的には、プロバイダーが取得しているIoT利用者の個人情報を政府がより容易に、あるいは直接取得するような方向へと制度や技術が変えられるきっかけになりえると危惧します。

政府は、今回の調査を「2020年オリンピック・パラリンピック東京大会などを控え、対策の必要性が高まっています」と主張します。この点についても、ひたすら不安感を煽るばかりで冷静な判断に基いているとはいえません。私達は今回の調査をきっかけに、あからさまな政府の私たちの通信への監視やハッキングが将来更に大規模に行なわれるのではないか危惧しています。

以上、私たちは、政府による憲法21条や35条の権利侵害を見過すことはできません。総務省、NICTに対して「IoT機器調査」を中止することを強く求めます。
2019年2月15日

呼びかけ団体(順不同)

  • 盗聴法に反対する市民連絡会
  • ATTAC Japan(首都圏)
  • JCA-NET理事会
  • 共通番号いらないネット
  • 2020東京オリンピックおことわり連絡会
  • ふぇみん婦人民主クラブ
  • 個人情報保護条例を活かす会(神奈川)
  • 「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会
  • 「秘密法反対・かながわ実行委員会

団体賛同のお願い(2月17日現在の賛同団体一覧はこちら)
団体名、連絡先(メール)を明記し、メールのタイトルに「賛同」と書いて下記のメールアドレスまで送信してください。なお、声明へのご意見なども添えていただいて構いません。
noiot@tuta.io
団体名とご意見はウエッブなどで公開することがあります。(メールアドレスなど連絡先、担当者のお名前は公表しません)

この声明への問い合わせ先

noiot@tuta.io

賛同団一覧

「日の丸・君が代」の強制跳ね返す3.2神奈川集会とデモ

投稿日: コメントするカテゴリー: ナショナリズム天皇制批判主宰者からのお知らせ

転送・転載歓迎
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「日の丸・君が代」の強制跳ね返す
3.2神奈川集会とデモ
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◆2019年 3月2日(土) 集 会:13時30分〜
デモ出発:16時15分
◆横浜市技能文化会館 802大研修室 (地図)
*根岸線[関内駅] 南口から徒歩5分
*横浜市営地下鉄ブルーライン
[伊勢佐木長者町駅] 出口2から徒歩3分

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◆お 話; 小倉利丸さん
「牙をむくナショナリズムー「平和」に潜む戦争と排外主義ー」
>
主要な欧米諸国だけでなく、アジアやラテンアメリカなどの主要国の多くが極右やいわる宗教不寛容な政権や議会勢力によって大きく左右される時代になっています。人権や市民的自由が後退し、移民排斥、ジェンダー、宗教、ライフスタイルなど、様々なマイノリティを政府や議会が率先して抑圧する国々が次々に登場しています。
安倍政権が目指す改憲や代替りを迎える天皇制ナショナリズムの動向も、こうした世界の動向のなかでその意味や性質をみておく必要があります。
極右化の危機に直面している世界の民衆の運動と日本における天皇制とナショナリズムに抗う運動に共通する課題を模索しながら、グローバルな反排外主義、反ナショナリズムの運動を考えてみたいと思います。
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今年5月1日、徳仁が即位。新たな天皇の時代がつくられようとしています。
生前退位は天皇制の終わりではなく、「平和主義」者として多くの支持を得て、「代替わり」を実現させた明仁天皇が30年かけてつくりあげた「象徴天皇制」の継承です。天皇制支持層が増えていく現実を前に、侵略戦争の責任を取らず、日の丸・君が代を使い続けてきた天皇制を戴く「戦後民主主義」は今後どうある
べきか、「安倍改憲や代替わりを迎える天皇制ナショナリズムの動向も不寛容さが覆う世界の動向の中でその意味や性質を見ておく必要ある」と提起する小倉さんのお話を聞いて考えてみましょう。ぜひご参加ください。
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◆資料代:500円
◆共 催:「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会
日本基督教団神奈川教区社会委員会ヤスクニ・天皇制問題小委員会

反資本主義の再定義―台頭するグローバル極右を見据えて

投稿日: カテゴリー: 資本主義批判

本稿は「1968年―89年―そして世界と日本の現在を考える:分断の時代を越える2.2シンポ」のために準備された草稿である。

1 メインストリーム化する「極右」―左派、リベラルの政権そのものが激減している

ここ10年のグローバルな政治状況のなかで繰り返し指摘されるようになった特徴的な出来事は、様々な意味合いを背景とした「極右の主流化」あるいは「宗教的な救済」の復活である。これらはいずれも、上からの運動であるだけでなく、むしろ民衆によって下から支えられている側面があり、これが「ポピュリズム」として指摘されるようになった。

左翼の大衆運動もまた大衆運動である限りポピュリズムの側面をもつ。しかし、文字通りの意味でのポピュリズムでは無原則な大衆迎合主義が優先されて、イデオロギーや原則的な価値観へのこだわりは希薄だ。大衆が支持する主張がまず第一であって、それに対して後付けとして様々な政治や思想や信仰が付随するのだが、見た目はあたかもある種の確信的な世界観によって裏打ちされているかのような装いをとる場合もあれば、無原則に左右の政治組織との連携をも厭わないところもある。たとえば、イタリアの五つ星運動は移民の排斥とヘイトスピーチを厭わない運動だが(長年UNHCRで活動してきた中道左派の女性国会議員で下院議長だったラウラ・ボルデドリーニへの五つ星運動や北部同盟からのレイプ脅迫事件1などはその一例だろう)、左派がこうしたポピュリズム組織とある種の連携を組む兆候が見られるようにもなっている。

しかし、もしそうだとすると大衆な反政府運動のうねりは、いったいどのようにしてひとつの政治的な力といえるほどのものに成長するのだろうか。自然発生性を信じるとしても、なぜ大衆はそのような主張をもって(他の主張ではなく)可視的な大量現象として登場するのか、は説明されるべきだろう。大衆の心情を愚かで騙されやすいと決めつけることも、逆に大衆だから正しいに違いないという判断を前提することも、たぶん問題があると思うが、では、どのようなスタンスをとるべきものなのだろうか。2

今グローバルに起きている事態の特徴は、左派の政策の基本のうち、貧困やネオリベラルグローバリゼーションといった問題への対処を右翼が横取りして、これに移民・難民排斥と伝統的なコミュニティや文化の擁護をセットにした主張を展開することによって、下層労働者階級への影響力を確保してきたことかもしれない。貧困と反グローバリズムを共通項として、左右が協調する土台が形成され、この土台の上で、右翼が主導権をとる、という構図といっていいかもしれない。こうした構図の背景には、中東やアフリカで長引く「対テロ戦争」や内戦―その原因は欧米諸国が作り出してきたものだ―で生存の危機に瀕した人々が大量の難民として移動しているということと、19世紀、20世紀と決定的に違う状況として、欧米諸国がもはやグローバル資本主義の中枢を独占できず、中国をはじめとする新興国が政治的経済的な覇権の一端を担うようになったといことだろう。20世紀初頭に第一次世界大戦が未曾有の総力戦からロシア革命の到来によって西洋の没落がファシズムを引き寄せたように、21世紀初頭は、グローバル資本主義を生み出した近代が、その価値観やイデオロギーを含めて終末の危機を迎えていることを反映している。この危機は、欧米型資本主義の危機ではあるが資本主義そのものの危機ではないし、西欧の共通する世界観に基く帝国主義による世界市場の分割という古典的帝国主義への回帰でもない。欧米資本主義の経済が文化やイデオロギーあうるいは非物質的な意識や感情の生産様式へと転換しているなかで、社会の物質的な基礎を担う新興国との間の複雑で重層的な世界市場の再構築が、イデオロギー領域を巻き込んだヘゲモニー構造を変容させている。イスラームもヒンドゥーも周辺ではないし、諸々の非キリスト教的な文化的価値が平行して、「西欧」を包囲する。世界の民衆はもはや西欧を通して世界を解釈することに特権的な地位を認めなくなっている。このなかには西欧出自のオルタナティブとしての左翼思想も含まれる。とりわけマルクス主義が。

目をラテンアメリカに転じてみても、状況は深刻だ。ブラジルなどで典型的に見られるような左派政権の腐敗への民衆の失望を利用して一気に政権をとるという構図は、ワイマールからナチズムへの転換を彷彿とさせる。ベネズエラもまた経済の破綻という失政への怒りを右派が(米国を後ろ盾として)組織して政権を獲得する勢いだ。そして、ラテンアメリカは第二次世界大戦後、独裁政権が支配していた国々が多いだけでなく、またナチスの残党の逃亡先として、ネオナチの生息地でもあった。こうした歴史の亡霊が蘇えるつつあるようにすら見える。

極右の特徴を単なるヘイトスピーカーだとみなすことはできない。マージナルで少数の異端派からメインストリームへと成長するにつれてらは、その戦闘的な暴力部隊を抱え込みながら、その中核的な部分は、権力が射程距離に入る―つまり選挙での議席、首長や大統領職などの確保の可能性―につれて、戦術的に「穏健」になる。警察などの治安組織を掌中に収めれば、弾圧は強化されるだろう。とりわけ、自民族の伝統や文化をアイデンティティの核に据えて大衆の支持を得ようとするにつれて彼らの言動は、一方で過剰なロマン主義を、他方で、限り無い憎悪を表裏一体のものとして表現するようになるだろう。ここでは文化的なアイデンティティが主要な戦場へと格上げされる。

もし大衆とはプロレタリアートあるいは労働者階級や農民階級を意味し、階級としての存在がその意識を規定するという素朴な階級意識論を信じるとすれば、あらゆる大衆的な叛乱は階級闘争として擁護すべきものだということになる。しかし、移民や難民の排斥感情が多数を占めるようになっている中で、多数者の感情をそのまま肯定することはできない。同じことは、宗教的な信条や家族などの伝統的な価値についてもいえる。

かつて、第一インターナショナルの方針をめぐって、マルクスとバクーニンが争ったとき、バクーニンは組織の方針をマルクスの掲げる原則に従わせようとするマルクス一派に我慢ならないと批判した。たしかにある唯一の「原則」とか「綱領」などと呼ばれるものに数百万の労働者大衆が承認を与えるという構図は異様だと思う。しかし、他方でバクーニンは、労働者大衆の多数の結集のためには、自らの主張を禁欲すべき場合もあるとして、彼の重要な主張のひとつ「無神論」を第一インターの原則に持ち込むことを自ら禁欲した。無神論など持ち出せば労働者たちの多数派としての団結は望めないと判断したのだ。私はこのバクーニンの判断には現実主義的な妥協の必要としては理解できても、それが果して好ましい判断だといえるかどうか、躊躇する。というのも、近代国家の正統性問題は合理主義の仮面を被ったキリスト教の文化と価値観の問題と不可分であって、政治的権力の廃棄にとって「神」の問題を後景に退けることが妥当かどうか。日本の現状でいえば、天皇制に反対する大衆は圧倒的少数だからこの主張を原則から外すという判断と似て、運動の本質に関わる場合が多い。他方で、異論を排斥する主張は、運動内部の有意義な議論を封殺する危険性がある。資本の廃絶と権力の廃絶という二つの課題が、ひとつのものとして融合されなかった悲劇がその後現在に至るまで左翼の多様な潮流や思想の隘路をなしてきたようにも思う。

そもそも大衆とは誰か、プロレタリアートとは誰か、労働者階級とは誰か。私は誰か他人がこうした集団に帰属するだけの資格があるかどうかを判断することはできないが、私自身について言えば、明らかにこうした集団の中にいる者だといえる資格はないように感じている。

単純な善悪で割り切る粗雑な階級社会の議論は、多くの重要な主題を無視している。ジェンダーやエスニシティといった問題はとりわけ重要な課題になっている。なぜなら、近代世界は自由と平等をジェンダーやエスニシティという条件に対して適用しようとする意志をほとんどもってこなかったからだ。19世紀の階級闘争が―この時代がマルクスのコミュニズムとバクーニンやプルードンのアナキズムの出発点をなすが―ジェンダーや植民地主義と不可分な問題としての非西欧社会の解放を主題とすることはほとんどなかった。こうした限界のなかで、近代における反資本主義の理論的な枠組もまた形成されてしまった。

階級闘争の長い歴史は、同時に階級的な妥協と調整のメカニズムを資本主義自身が開発する歴史でもあった。その帰結が、普通選挙権に基づく大衆民主主義と社会保障など国家による労働者階級の「国民」としての庇護というシステムだった。

2 民衆叛乱そのものの変質

1990年代以降、急速に世界規模で拡大した反グローバリゼーション運動は、それまでの20世紀を通じて展開されてきた民衆運動とはいくつかの点で根本的な違いがあったと思う。

2.1 六つの特徴

第一に、善かれ悪しかれ、20世紀の大衆的な左翼の運動は、ソ連や中国といった「現存」する社会主義を支持するか否かにかかわらず、社会主義あるいは共産主義の理念を共有していた。この理念の共有は90年代以降の大衆運動には存在しない。

第二に、90年代以降の大衆運動は、二つの流れが微妙な対抗関係をもちながら併存してきた。ひとつは、1994年1月1日に「蜂起」を起こしたメキシコのサパティスタたちの運動とこの運動に連携してきたグローバルは反資本主義の抵抗運動。もうひとつは、1999年のWTOシアトル閣僚会議を破綻に導いたことで注目されるようになった反グローバリゼーションの運動。後者の運動のなかから、その後2001年に世界社会フォーラムが形成されることになる。

第三に、社会運動の課題の拡散がみられ、反開発、反レイシズム、反セクシズムといった課題が、むしろ運動を特徴づけるようになった。民主主義や反戦といった課題は「階級」という主題よりもむしろ「人権」という主題により親和性をもって理解されるようになった。

第四に、近代社会を支えてきた国民国家と市場経済がその理念においても揺らぐ一方で、これらに代わるシステムが未だに理論的にすら提起されないなかで、民衆の運動は、試行錯誤しつつ既存の政治的経済的な権力への「反」を掲げてきた。左翼の主流をなしてきた新左翼を含む伝統的な社会主義や共産主義の組織の影響力が相対的に低下し、多様な左翼性を体現する不定形な運動が台頭し、アナキズムへの関心が相対的に高まる。だが同時に、左翼と右翼を分境界の曖昧化も進む。

第五に、既存の支配的なシステムへの異議申し立てが、伝統主義(近代以前への回帰)や新たな宗教的な価値の再発見(諸々の宗教原理主義)という選択肢を無視できないところにまで押し上げてきた。

第六に、最も新しい傾向として、インターネットというコミュニケーションインフラが大衆的な意識形成の基盤としてマスメディアを越え、国境を越える力をもつようになった。マスメディアを基盤とするナショナリズムという伝統的な「国民統合」の構造は脆弱になる一方で、SNSのような新たなコミュニケーション空間が人々の意識形成に不可欠の手段となる。

冷戦の崩壊によって、資本主義が歴史の勝者であるという支配層の公式見解を覆す広範で多様な左派の運動が、第三世界から資本主義中枢まで、存在することを示すものだった。しかし他方で、こうした運動のサイクルから明らかに外れた重要な地域があった。少なくとも、日本はこのサイクルから明確に外れており、大衆運動としての高揚を実現できないまま現在に至っている。なぜグローバルな大衆運動のサイクルに日本の運動が同期できないでいるのか、このことは解明されるべき重要な問題だろう。

2.2 同期する日本の大衆意識

こうした特徴をもちながら、現在起きていることは、大衆運動の基軸が多かれ少なかれ、極右と総称できる勢力の影響を受けて「高揚」する局面が顕著になっており、こうした極右の台頭というこれまでになかった大衆運動の傾向に、日本は、その政権の動向も含めて同期する傾向を強くもっているようにみえる。極右政権の誕生という点では欧米諸国よりも一歩先んじているところもあり、草の根や下からの「運動」という段階から既に上からの動員が可能な制度化の段階に入っているといった方がいいだろう。

かつてBRICSと呼ばれた新興諸国のなかで反グローバリゼーション運動のサイクルに含まれていたのはブラジルだけである。ブラジルの反グローバリゼーション運動がルラ政権の基盤のひとつをなしたといってもいいのだが、そのブラジルもある種の「クーデタ」によって極右政権にとってかわった。そして、ラテンアメリカの反米政権が次々に苦境に立たされ、かつてチャベスが率い、そのチャベスを継承してきた現政権が経済の破綻のなかで崩壊の危機にある。中国、ロシア、南アフリカは大衆運動の政治的な力はほとんどなく、インドは世界社会フォーラムを何度か開催できる力量をもっていたが、現在はヒンドゥ原理主義政権になった。そして東欧もまた、ポスト社会主義から極右の台頭、移民排斥の急先鋒へと転換している。東アジアでは香港、台湾は2014年に雨傘運動、ひまわり運動など大衆的な反政府運動が高揚したが、こうした運動が国境を越えて地域全体の運動の高揚へと繋る回路が非常に狭くなっている。

2.3 運動が抱える限界

左翼のグーバルな大衆運動がなぜ凋落してしまったのか。これまで、日本の左翼運動は、自らの停滞をかろうじて耐えるなかで、将来への希望を国外の様々な左翼の社会運動の高揚になかに見出してきた。アラブの春、ウォールストリートのオキュパイ運動、ギリシアの反ネオリベラリズム運動などは、注目されたが、その運動の帰結を「勝利」と呼んでいいのかどうか。世俗的独裁に抵抗する宗教原理主義がアラブの春のなかにはあった。金融資本への異議申し立てのなかには、ユダヤ人差別による陰謀史観による排斥感情が見られた。ギリシアのシリザは政権を右派との連立として獲得した。そしてウクライナのマイダンの運動はよりはっきりとナオナチに連なる勢力が運動を主導たし、英国のブレクジットもまた極右が世論を主導した。

こうした事態になる前、反グローバリゼーションの運動が高揚した時期を象徴する二つの運動を振返ってみたい。

  • サパティスタ
    サパティスタの運動は、そのスタイルと主張が従来の武装闘争組織や反政府運動組織にはないある種の左翼ポストモダニズトとでも表現したらいいのか、斬新なものだった。組織の平等性をジェンダーや家父長制といったラテンアメリカの強固な文化的価値観を明確に否定するなかで再構築し、権力を求めず「市民社会」と民主主義を尊重する態度は、運動の理念と目標の設定において明らかにひとつの地平を切り開いたといえる。しかし、こうしたユニークな運動がサパティスタを固有で唯一の存在にしてしまい、それが他の地域にも共有できる運動としての拡がりを獲得できなかった。サパティスタはどこにでもいる、筈だが、現実には第二、第三のサパティスタの運動がアジアやヨーロッパなど異なる地域で生まれてはいない。
  • 世界社会フォーラム
    他方で、世界社会フォーラムはポスト冷戦を踏まえて社会主義を主張することを控えて、「もうひとつの世界は可能だ」という漠然としたスローガンを掲げて広範な民衆運動の参加を促した。イラク反戦の国際的な統一行動など、いくつかの国際的な運動の組織化にとっての重要な場所となったことは確かだろう。実際の世界社会フォーラムには毎年数万から十万に近い数の人々が集まる。中国の法輪功の人たちや、イランの親ホメイニ派の人たちなど、モロッコの西サハラ問題では政府寄りのNGOが参加したりもする。明確な左翼から穏健な市民社会ベースのNGOまで、多様である反面、彼ら一人一人がイメージする「もうひとつの世界」は何度会合が開かれても曖昧なままだ。サミール・アミンなどこの曖昧さに苛立った人達が、新たなインターナショナルの創設を提起したが、ほとんど具体的な成果をみていない。世界社会フォーラムは毎年、第三世界での開催だった。その後隔年開催となり、開催されない年には地域ごとのフォーラムを開催するようになる。これまでブラジル、マリ、インド、パキスタン、ヴエネズエラ、ケニア、セネガル、チュニジアなどで開催されてきたが、多分、徐々に数万規模のフォーラムを主催できる国は少なくなり、2016年にはモントリオールで開催されるなど開催地が第三世界に確保できなくなってきた。世界社会フォーラムの最大の問題は、フォーラムの中心的な課題が新自由主義グローバリゼーションに関連する経済や環境、ジェンダーの問題であったりするために、「対テロ戦争」の中心的な課題でもある宗教や諸々の「原理主義」問題を扱えていないということだ。私の経験に過ぎないが、世界社会フォーラムが極右や宗教原理主義といった問題への関心を持つことはそもそも困難だったのではと感じている。というのも、アフリカやパキスタンなどで開催するときにはイスラーム復興運動の問題を正面から議論することが可能だったかどうか、あるいはインドでヒンズー原理主義の問題を議論するような余地があったかどうか。
  • 運動の混迷?
    しかし、政治的な権力が世俗的であれば問題が解決するというわけでもない。その典型がエジプトの「民主化」運動だった。世俗政権がイスラム同胞団への強権的な弾圧を長年続けてきたことから、民主化運動は、こうした弾圧への抵抗運動という側面をもったから、純粋な世俗的な民主化運動とはいえないものを含んでいた。トルコもまた、世俗主義が政治権力の基本的なスタンスだが、国内の反体制派や民主化運動への弾圧は、同時に反体制派としての宗教弾圧をも含んでいた。もうひとつ象徴的な出来事を経験したことがある。それは、第三世界の左翼運動に影響力のあるサミール・アミンが、生前、反米のひとつの可能性として、ロシアのプーチン政権への期待を寄せていたのではないかと思わせる態度をとったことがあった。他方で、伝統的な宗教原理主義のなかで抑圧されてきた人々にとって、西側の民主主義の体制を獲得することは当面の課題として重視されていたともいえる。2004年以降続いたウクライナのマイダンと呼ばれるいわゆる民主化運動には、ウクライナのナショナリズムとネオナチが合流してロシアと対抗するという構図もあり、一概に「民主化」という言葉で代表できるような性質のものとはいえなかった。極右の影響力は、数の問題ではなく、相対的に少数であっても組織化されて強固な運動として登場し、伝統的なナショナリズムの感情を煽ることで影響力を行使した。ウクライナの極右の主張は「ウクライナファースト」「ウクライナに栄光を」といったネオナチのスローガンのウクライナ版でもあった。3

3 黄色いベスト運動

3.1 なぜ旗が立たない?

黄色いベスト運動が左派から注目と支持を得ていることは周知のところだろう。この運動が登場したときに私は率直に言ってある種の違和感を感じた。第一に、メディアが流す動画や画像には、赤旗も黒旗もない。そして平和運動からLGBTQの運動でも用いられるレインボーの旗もない。画像からの印象でしかないが、フランス国旗が目立ち、労組やエコロジストの旗もない。移民たちの姿が目立たない。組織である必要はないが、色に象徴される多様性がない。そして主張の柱がガソリン税増税反対だという。ちょうどポーランドでのCOPの会議を控えた時期で気候変動が重要な議題となっている最中のことだ。これに対してエコロジストたちは、的確な批判もしなかったし、かといって既存のエネルギーに依存する経済の構造に縛られている地方の問題に深い関心があるのかもわからなかった。(これらは多分に日本語のメディアの報道だからかもしれない)

こうしたやや「偏見」かもしれないような疑念を抱いた背景には、この間、私が注目してきたのが、極右大衆運動や文化運動の拡がりだったからだ。こうした大衆的な街頭での「暴動」のなかに移民たちの姿がめっきり影をひそめてしまったようにみえ、また、移民や難民を支援してきた組織の動向も目立たない。実際に黄色いベスト運動が提起したと言われているいくつかの要求項目のなかには、明確な移民排斥の主張すらある。4

3.2 右翼の対応

ルペンの国民連合は、そのホームページで炭素税引き上げ反対の署名運動などのキャンペーンを張っている。国民連合はグローバリゼーションが農村部を見捨てている点を批判し、農業や農村をフランスのナショナズムの再興の拠点に据えようとしている。地方にとって必需品でもある自動車、農家や中小零細企業にとってガソリンなどの燃料のコストは重要な課題であることを捉えた巧みな運動構築である。国民連合だけでなく、それ以外の極右の諸組織が、前面には登場していないが、たぶん運動の重要な主導権を握っているのではないかと思う。また、米国の極右ニュースサイト「BREITBART」は「パリ抗議」の特別ページを立ち上げて報道している。5

気候変動の深刻な問題への対処として、炭素税の引き上げを打ち出した政府に、エコロジストの運動の観点からどのような反対が可能だろうか。たとえば、フランスの緑の党は、炭素税引き上げに反対するが、その観点は、炭素税の19%しか脱炭素化政策に利用されない点を指摘して、この増税がCO2排出削減に寄与しないと批判している。

トルコのエルドアンは、このデモに対するフランス政府の弾圧を非難して民主主義として失格だと指摘した。ドナルド・トランプは、パリ協定が破綻したと主張する一方でフランス全土の抗議デモがその証左であるかのように賞賛するツイッターを呟いた。6デモ参加者が環境を口実にする増税に反対していることに好意的なコメントを出した。そしてロシアのプーチンはマクロンの新自由主義政策の失敗の証拠だと論評した。7

黄色いベスト運動にはフランスの伝統的な極右の運動、アクション・フランセーズが介入したり、欧州の極右もまたこの運動に注目している。たとえば、イタリアのネオファシスト組織CasaPoundはこの運動に参加した。8

ロシアの政府寄りの論調は、この黄色いベスト運動をグルジア(ジョージア)、ウクライナ、アラブの春同様米国が後ろ盾となった運動だという評価し、こうした動きがロシア国内に波及しないような方策をとる。しかし、ロシアのヨーロッパ向けの西欧言語の放送では、逆に黄色いベスト運動を、マクロンの自由主義への反対運動と述べて肯定的な論調になる。そして、ロシアによる黄色いベスト運動への介入の有無が一時期イギリスをまきこんで話題になる。9
また、黄色いベスト運動の」記念写真」としてウクライナからの分離を求めるドネツク人民共和国の旗を掲げた写真を口実に、ウクライナ政府はロシアが黄色いベスト運動に介入しているというある種の陰謀論まがいの宣伝をはじめた。10

ロシア政府の運動への干渉の有無は不明だが、小規模な極右団体や個人の黄色いベスト運動への参加が確認されている。多くの場合、こうした国外の極右はフランス国内の極右の団体などと連携して運動に参加している。つまりフランス国内の極右が国外の極右の運動を呼び込み、黄色いベスト運動を極右の国際運動にしようとする動きが確実に存在した。なかでも注目すべきなのは、ロシアの極右の知識人で、「ユーラシア主義」のイデオローグでもあるアレキサンダー・ドゥギンの発言だろう。

「マクロンはロスチャイルド、ソロス、大金融、文化左翼、政治的正しさ、経済、右翼グローバリゼーション、フランスとヨ=ロッパのアイデンティティ嫌い、ベルナール・アンリ・レヴィ、もっと移民を、もっと同性婚を、もっと物価上昇を、中産階級の破壊、グローバル政府、コスモポリタニズムだ。あなたがこれらを好きなら、パリに来るんじゃない、黄色いベスト運動に参加すべきじゃない。しかし、ひょっとしてそうではないなら、ぜひ我々と共に参加すよう。今日、世界は分断されている。あなたたちは、イエロー・ベストかグローバルなマクロンの(奴隷)か、そのどちらかだ。フランス万歳!フランス人民万歳!独裁を倒せ…」

3.3 ATTACと緑の対応

ATTACフランスもマクロン政権は炭素税増税は、エネルギー支出が家計に占める割合の高い低所得層を直撃する一方で、増税分はほとんど脱炭素化には使われず、安価でクリーンな地方の公共交通サービスは閉鎖されて高速道路の建設など金融と経済のグローバル化に加担するものだと批判した。11

緑の党もATTACも増税=まやかし論である。これに対して、フランスのアナキスト連盟リヨンは、この黄色いベスト運動が右翼の特徴をもつことを承知の上で、この運動に参加することを表明した。このサイトの記事によると、もともと黄色いベスト運動は、自動車の速度制限に反対してスピード違反を検知するレーダーやガソリン税に反対する極右に近いグループから生まれたという。彼等の運動には、システムへの懐疑よりも実践的で直感的な怒りの信条が基盤となったもので、地方のフランス、「周辺部フランス」「忘れられたフランス」「農村の現実」といった概念で語られるような地域を基盤とするものだという。彼等の多くは確信的自覚的なレイシストではないが国民戦線(現在の国民連合)に投票してきた人々でもあるという。世界を席巻している極右(ロシア、ハンガリー米国、英国、イタリア、ブラジルなど)に共通しているのは「文化的なヘゲモニー」への関心である、とも分析している。アナキスト連盟リヨンは、極右のレトリックと馴れ合ってでもこうした運動に介入して主導権をとるというリスクを冒すべきだと主張する。12 総じて、黄色いベスト運動は、左翼が運動の戦術上の必要から介入を余儀なくされている側面が強く、本来の反資本主義の主張の枠組が極右の反ネオリベラリズムや反グローバリゼーションの主張に吸収されてしまい、行動としてもブラックブロックのスタイルを横取りされて、明確に思想的実践的な左翼性が見出せないところに追い込まれているように見える。

やや立ち入って、左翼からの二つのコメントを紹介したい。

3.4 アントニオ・ネグリのコメント

彼の持論でもあるマルチチュードへの期待を重ね合わせて、全体のトーンは何とかこの運動への肯定的な評価を試みようとする意図がベースにありつつ、今後どうなるかについては、「我々は待たなければならないし、何が起きるか見てみよう」というやや引いた論評だ。13興味深いのは、不定形の運動がこのまま進むことが左派にとってはあまりよい結果にならないと見ているところがある点だろう。「マルチュチードがある種の組織へと転換しないとすると、この種のマルチチュードは政治システムによって中立化し、機能不全になる。同じことだが、こうなれば、右翼に還元されるか、左翼に還元される。マルチュチードが機能するのは、その独立性にある。」とも言う。ネグリがここでマルチチュードにとっての組織として述べているのは、党を指すのではなく、資本に新しい空間をしぶしぶ認めさせて「資本の政府」に重くのしかかる存在になることである。「対抗的な権力」となること、マルチチュードが権力を掌握できないとしても、ある種の二重権力状態をもたらすことを期待しているようにも思う。しかし、右翼にも左翼にも還元されないというスタンスは、この間の極右の運動との関わりでいうといわゆる「第三の道」の主張とどこか共通するところがないかどうか、あるいはこの点を自覚して意図的に、非伝統的左翼による左からの「第三の道」を示唆しているのか、興味深いともいえる発言だ。

3.5 Crimethinc「進行中の分裂への貢献」の分析

もうひとつは、先にも紹介した、Crimethincのサイトに掲載されたContribution à la rupture en cours、英訳ではContribution to the Rupture in Progress、「進行中の分裂への貢献」とでも訳せるタイトルの運動への分析がある。l14この文章の著者はDes agents destitués du Parti Imaginaire、架空の党から却下されたエージェント。どこかシチュアシオニスト風な趣きがある。

この分析では、黄色いベストには三つの傾向があると分類している。ひとつは、本音では、将来の選挙にこの運動を利用しようと考えている潮流。スペインのポデモス、イタリアの五つ星運動、米国のティーパーティ運動など既存の政治に満足しないが、代議制を通じての変革を指向する方向でこの運動を利用しようとするポピュリストの流れに近い。国民投票による解決の模索はこの流れかもしれない。

二番目は、運動の政府との直接交渉を公然と要求する傾向。これに議会の与野党や組合も反応を示している。交渉の正統性を確保するには、黄色いベスト運動が対政府交渉を委任する代表を選出しなければならない。これは運動の水平性や非中心性という性質を反故にすることでもある。とはいえ、税制、エコロジー、不平等その他の争点となる課題を立法のプロセスに乗せようとする傾向で第三週に有力になった。組合や正統性のある代表なしに、政府との合意形成をどうするのかはっきりせず、結局は、政府による時間引き伸ばし作戦に屈してしまう可能性がある。

三番目が12月始めの週末にみられた運動のなかの反対勢力、あるいは最もラデイカルな傾向でマクロンの無条件即時退陣の要求。これは、警察の弾圧にもかかわらず、首都の富裕層居住区までデモが及んだことで、力を得た流れでもある。

この分析で興味深いのは、この三つの潮流のどれにも極右あるいは右翼が存在すること、また、上の三つの流れのどれになってもアイデンティティ主義や権威主義に傾く危険性がみられるし、主導権争いで左翼が勝利しても、反動や反革命の危険があることに注意を喚起している点だ。

後述するように、ネオリベラリズムとグローバリゼーションへの批判は左翼の専売特許ではない、ということをはっきりと確認する必要がある。これらは、新しい右翼の潮流もまた共有している。黄色いベスト運動のマクロン退陣は左右に共通するスローガンになるので、それ自体では左右の識別基準にはならない。先にも指摘したように、黄色いベスト運動には左翼を特徴づける運動の主張が希薄なのだ。

たぶん、新自由主義、市場経済、貧困、エコロジー、多国籍企業、消費主義、多文化主義、ローカルコミュニティ主義(あるいは地域分権)などのキーワードによる現状への批判では、左右の判別はつかない。そして右でも左でもない、という言説(第三の道とか第三の立場などとも言われたりする)はほとんどが右翼が自らの立場を隠して登場するときのスタイルになっている。

この点を若干補足しよう。多文化主義を右翼が主張するときは、異民族の絶滅要求ではなく、多文化を容認しつつ明確な棲み分けを強調し、移民を本国に送り返すことで地理的に分離して共存するという方向をとる。(今回の黄色いベストの要求項目にこの傾向がはっきりと出ている)エコロジーはその土地に伝統的に根づいた人々と自然との関係を優先させるナチュラリズムをとると、外来者を排除する思想を受け入れやすくしてしまう。これは地域分権主義にも言える。人々の生存は一面ではコミュニティとの繋りなしにはありえないのだが、このローカルコミュニティは同質的な伝統文化を共有する人々によって最もよくその合意形成が機能するとみなす。だから異質な文化を持ち込む移民を排斥することがこうした観点から正当化されてしまう。いわゆる消費主義は米国の多国籍企業が持ち込んだグローバル文化であって、ヨーロッパの伝統を破壊するものだから、否定される。こうした主張は半ばマルクス主義の資本主義批判の理論を援用することも厭わない。(後に紹介するド・ベノワはその代表格だろう)貧困問題もまた、移民の安価な労働力を導入しようとする資本の利益優先主義によるものだというトランプの主張と共通する考え方をとる。移民の出身国で彼らもまた「豊かさ」を享受できるようなシステムを構築すべきだ、そうすれば移民が自分たちの文化やコミュニティのアイデンティティを破壊するような事態は生じないという理屈になる。

彼らと左派の明確な分水嶺があるとすれば、ゾーニングや分離なしの移民の受け入れ、ジェンダーの平等、明確な無神論の立場(異教主義は反キリスト教極右が好む立場)、伝統文化の拒否といったところかもしれない。これらは、抽象的な理念としては掲げることは容易だが、それを理論化し、実践に結びつけるための運動全体の制度設計はほとんど未知の世界になる。しかし、こうした領域に挑戦することなしには、反資本主義の再定義も不可能である。経済の領域は、よっぽど徹底した資本主義批判の線を明確にしない限り、極右との違いは明確にならない可能性がある。

そもそも、ファシズムもナチズムも左翼の運動がナショナリズムに回収されて登場した側面があり、左翼だから大丈夫ということは全くない、というのが歴史の教訓だろう。だから、逆に、黄色いベスト運動だけでなく、最近の諸々の民衆の運動や市民運動から得るべき教訓は、大衆運動のネガティブな側面を見ることなのではないかと思う。

3.6 何が左右で共有されているのか

黄色いベスト運動に共有されているのは、マクロン政権への異論や反発と炭素税増税反対だけでなく、現状のフランスが直面している課題の根源に、左右どちらであれ、長年政権が採用してきた基本方針、グローバリセーション(あるいは新自由主義グローバリゼーション)への懐疑である。農村部や低所得層が増税とグローバリセーションの最大の犠牲者であるという点でも認識は共有されている。極右にとって、グローバリゼーションがもたらした農業の破壊や失業に対するオルタナティブは、国家による保護主義の復活であり、ナショナリズムの価値観の再興という過去の経験への回帰が、大衆を動員する上で最も効果的なスタンスになる。

黄色いベスト運動は、様々に解釈されてきた。「暴動」があたかも自然発生的に起きたかのように報じられ、政府も「首謀者」を把握することに苦慮しているかの報道がなされている。私の見方は違う。たぶん、語義矛盾だが、意図的に自然発生性が「組織」されたと思う。そして、組織が見えない状況もまた意識的に生み出されてきたものだと思う。というのは、90年代以降、極右の運動は、左翼の反グローバリゼーション運動の戦術から多くを横取りして自らの戦術へと組み入れてきたからだ。ブラックブロックのような街頭闘争戦術(黒のコスチュームを着たファシストたち―もともとファシストは黒シャツがシンボルだった―、そしてゲリラや地下組織のノウハウを導入した「リーダーなき組織」の構築、更には、資本主義批判では、マルクスからグラムシまでマルクス主義を借用し、ポストモダンの思想では、ボードリヤールからシチュアシオニストまでをちゃっかり利用する。そうかと思えば、エコロジーが「在来種」主義や太古のヨーロッパ神話と融合して移民排斥やセクシズムを「伝統」や「自然」の衣裳で包み込まれて利用される。こうした傾向を、インターネットのSNSなどのネットワークは、怒りや苛立ちといった感情を動員するような言説の空間として人々を煽る道具になってしまい、冷静に多様な見解を収集して自律的に意思決定する個人の主体性を奪う方向で利用されている。

4 極右の世界観―従来のネオリベラリズムとの本質的な違い

右翼のナショナリズムと保護主義への回帰はそもそも19世紀から20世紀にかけての近代合理主義に対する否定として、また20世紀の反社会主義のイデオロギーと冷戦期の反共政策のなかで構築されてきたものだった。

これに対して、左翼が反グローバリゼーションという場合、犠牲となる貧困層や地方をグローバル資本主義の軛から解放する社会構想は、破綻した20世紀型の社会主義や福祉国家を持ち出すことでは片付かず、現実的ではないという意味も含めて、私たちにとっては全く魅力に欠ける。20世紀の社会主義の最大の問題は、近代資本主義を継承した進歩の観念と粛清に端的に示された自由の問題だ。前者は経済とテクノロジーの、後者は政治とイデオロギーの問題であり、これら全体が人々のコミュニケーションと合意形成の場の構造によって規定されており、このいずれについても、先例を反面教師にすることはできても、その伝統の継承は選択肢にはならない。この点が、伝統を美化して継承しようとする右翼の戦略と非対称的ともいえる。だが、同時に、このことは、よほどの想像力/創造力を駆使することなしには、獲得できないという、大きなハンディを左翼は負っている。

大衆民主主義を基盤とした代議制民主主義の制度を前提するとすれば、ポピュリズムに迎合することなしには権力を掌握できないが、そうであるとすれば、左翼の原則を踏みはずさない一線を引きつつ、かつ、大衆的な支持を運動としてどのようにして創造できるのか、が問われることになってしまう。しかし、既存の代議制民主主義が反資本主義をその内部から生み出すことがありえるとは想像できない。逆に、代議制民主主義や既存の憲法の枠組からファシズムや軍事独裁政権が正統性を獲得することはよくある。多かれ少なかれ、資本主義と近代国民国家を前提として、その制度的な土台の上でのオルタナティブを企図することになる。私にとって、こうした選択肢が、近代資本主義が歴史的に形成してきた根源的な問題を解決する魅力あるものには見えない。この点で、左翼にとっては、過去への回帰という手段をもつ極右に対抗できるだけの未来への展望を支える理念を構築できているのかどうかが問われることになる。伝統への回帰に抗い、むしろ明確にこうした復古主義を拒否する基盤が、狭義の意味での経済的な資本主義批判だけでは明かに弱い。極右は左翼のこの弱い環を的確に突いているように思う。言い換えれば、反グローバリゼーションとしての反資本主義の民衆的な基盤を、経済決定論の狭い枠から広げて、ナショナリズムに回収されないアイデンティティの文化的な政治の課題として構築する方法論がまだ未成熟なのだ。

黄色いベスト運動だけでなく、最近の大衆運動で、目立つ「暴動」のスタイルには1990年代まで繰り返されてきた「暴動」にはない特徴があるように思う。今世紀にはいってから、民衆の運動が高揚するとき、「左右」の軸で運動を評価することが難しい局面が増えているように思うからだ。アラブの春といわれたエジプトのタハリール広場占拠のなかには、世俗的な社会運動からムスリム同胞団などの組織までが共存した。ウクライナのマイダンと呼ばれた反ヤヌコヴィッチ政権運動のなかには明かなネオナチの組織から民主化を求めるリベラルまでが存在した。ギリシアは急進左派と右翼の独立ギリシアが連立を組む。ウォール街占拠運動もまた、左派がヘゲモニーを握るなかで、右翼の介入(主導権を握る試み)が繰り返し指摘されてきた。右翼の反ユダヤ主義は伝統的に多国籍金融資本をユダヤの陰謀とみなす観点をとるからだ。そして、ブレクジットもまた、英国で極右が主導権を握って成功した事例に入れていいだろう。エコロジストの運動もまたいわゆる「エコファシズム」の問題を抱えてきた。つまり、近代工業化以前の社会への憧憬を背景とする「自然」回帰としてのエコロジーが、排外主義とセクシズムを内包するという問題だ。日本でも原発反対運動のなかには、原発に反対するのに右翼とか左翼といった立場を超えた連携が必要だという主張がある。環境からグローバル化まで、その矛盾の山積に対する答えとして、ナショナリズムが(あるいは宗教的な世界観が)急速に力を得てしまっている。「黄色いベスト」運動はこの意味でいって、目新しいこととはいえない一方で、街頭闘争として表出した反政府運動の主導権をこれだけ公然と極右に握られる事態が民主主義の牙城でもあるフランスで起きたことは、深刻なことと受けとめなければならないと思う。

以下では、極右の世界観、あるいは近代資本主義批判について二人の人物をとりあげて批判しておきたい。一人は、一時期トランプ政権にも参画したスティーブ・バノン。もうひとりは、左翼の思想を右翼の文脈に転用してきたフランスのアラン・ド・ブノワである。

4.1 スティーブ・バノンの場合

バノンは、彼の貢献がなければトランプは大統領にはなれなかったとすら言われている影の立役者である。「バノンはトランプに世界観を授けていた。理路整然として、内容も首尾一貫した世界観だ」これがアメリカ第一主義のナショナリズムと移民排斥の主張を生み出した。15

バノンは、伝統主義的なカトリックの家に生れ、海軍で勤務後にハーバードビジネススクールを卒業して1985年から5年間、ゴールドマンサックスでM&A部門に勤務。1990年退社し、投資顧問会社をビバリーヒルズにバノン&カンパニーを設立する。また、日本の商社経由で1億ドルの融資を受けて映画制作会社を設立する。ハリウッドでは多くの企業合併や買収などにたずさわりつつ、映画制作に投資家として関わる。また、香港を拠点にコンピュータゲーム業界にも進出する。その後自身も映画制作そのものに携わるようになる。最初の作品が、the Face of Evil Reagan’s War in Word and Deed。スターリンの粛清からはじまる映画この映画でレーガンが賞賛される。保守派のLiberty Film Festivalで評価される。この映画祭で、バノンはブライトバートと知り合い、後にバノンは極右のニュースサイト『ブライトバートニュース』で仕事をするようになり、2012年に執行役員になる。オバマ政権下では、ティーパーティ運動のサラ・ペイリンを主題としたドキュメンタリーを制作する。『国境戦争』(2006)ではメキシコ国境の移民を扱い、『祖国のための戦い』(2010)、そして『ジェネレーション・ゼロ』(2010)では金融システム批判を題材とした。この映画で彼は、古巣である金融資本を批判するようになる。「1990年代後半、政府、メディア、アカデミズムなど多くの機関の権力は左派によって奪い取られた。こうした立場や権力の座を通じ、彼等は制度を分断し、ついには資本主義体制を崩壊させる戦略を実行することができた」(『ジェネレーション・ゼロ』)という。

このように、バノンは、米国のエンターテインメント産業とネットニュース業界の両方に足掛かりをもち、しかも金融業界の内幕や米軍とのコネクションもちつつ、保守本流をも嫌う一匹狼としてトランプを大統領へと押し上げるための土台を築いた。

  • バノンとトランプ
    移民政策でトランプが排外主義のスタンスを明確にするきっかけになったのが、オバマ政権による2013年の移民法改正法案問題だった。(いわゆる「不法滞在」の移民1100万人に市民権を与えるなど)。トランプはこの年3月の保守政治活動評議会(CPAC)のスピーチで「われわれはアメリカをふたたび強い国にしなくてはならない。アメリカをふたたび偉大な国にしなくてはならないのだ。」と今でも繰り返される主張を展開し、1100万人に市民権を与えれば皆民主党に投票すると危機感を煽った。2014年には、国境州では「まるで門戸開放政策を認めたかのように、この国にひたすら人間が流れこんでいる。彼らには、医療を提供し、教育を施せち、ありとあらゆるものを提供してしかるべきだと思われている。」と批判した。そして2015年には国境に壁を作ると公言することになる。こうした極端な主張を公言するトランプを泡沫ではなく主流に押し上げる上で、バノンが果した役割がいくつかある。ひとつは、ネットの右翼をブライトバードニュースにとりこんだこと。これができたのは、ネットゲーム世界でのバノンの経験が生かされた。ネットの世界では、オルタナティブ右翼(オルタナ右翼、alt-right)が4chanや8chanなどの掲示板で急速に広がりをみせていた時期で、ゲーマーのなかのレイシストやセクシスト好みの記事を積極的に掲載し、ブライトバードニュースサイトに若いネトウヨを引き寄せた。(その実務を担ったのがゲイのテクノリジーブロガー、マイロ・ヤノブルスだと言われている)もうひとつは、最大の大統領候補のライバル、ヒラリー・クリントンを徹底的に攻撃する戦術を展開したことだ。単なる誹謗中傷だけでなく、クリントン財団の金の疑惑を調査報道で暴露する手法を使った。これは、ブライトバートの編集者でもあるピーター・シュヴァイツァーが『クリントン・キャッシュ』として出版し、バノンの映画制作会社によってドキュメンタリー映画にもなる。本書は際物というよりも主流の民主党寄りメディアでも同意せざるをえない内容をもっていたと言われており、この本がヒラリーの人気凋落に果した影響は大きいと言われている。
  • バノンの世界観
    バノンの世界観は、単純なアメリカ・ナショナリズムではない。もっとやっかいなものだ。ジョシュア・グーリンは、カトリシズムの影響もありバノンは社会を歴史的に見ようとし、「文化もむしばむ俗世界のリベラリズムには激しく反発した」という。しかし、単純なキリスト教原理主義ではない。彼はカトリック内の宗教改革やキリスト教神秘主義、東洋の形而上学、禅などに関心をもつが、最も大きな影響を受けたのが、20世紀初頭のフランスの伝統主義哲学者でカトリックからイスラム神秘主義者になった、ルネ・ゲノンだという。グリーンは次のようにゲノンについて説明する。

    「ゲノンは”根源的な”伝統主義学派の思想家であるとともに、ある種の古代宗教の理念を新報した。そうした原初の宗教―ヒンドゥ教ベーダンタ学派。スーフィズム(イスラム教神秘主義哲学)、中世カトリシズム―は、共通する霊的真実をたたえた宝庫で、西洋世界で世俗的な近代主義が台頭するとともに一掃された人類最古の霊的真実を明かにするとゲノンは考えた」

    この奇矯とも見える主張は、日本の文脈に置き換えればある種の「近代の超克」としての伝統の再発見である。このゲノンの主張を継承した20世紀はじめの最も重要な伝統主義哲学者がユリウス・エボラだ。グリーンはエボラを「イタリア知識人で伝統主義学派の面汚し」と書いている。なぜならエボラはイタリアファシズムのムッソリーニ以上にラディカルな立場をとったからだ。(そして、ムッソリーニ以上に戦後の極右の思想家として影響力を維持しつづけた)

    「君主主義者にして人種主義者のエボラは、両大戦間のヨーロッパの政治をカリ・ユガによる堕落に求め、社会的な変革を駆り立てようと具体的な一歩を踏み出した。(略)1938年にはベニート・ムッソリーニと関係を結ぶと、エボラの思想はファシストが唱える人種論の理論的な裏付けをなす。のちにムッソリーニへの興味を失うものの、ゲノンの思想はナチス政権のドイツで広く受け入れられていく。

    バノンは、ゲノンの『世界の終末:現代世界の危機』(1927、邦訳は平河出版)やエボラの『現代世界への反乱』(1934)に書かれた西洋文明の崩壊と超越的存在の喪失といった共通のテーマを通じ、伝統主義学派に対する興味を募らせた。この思想の精神的側面にもバノンは大いに魅了され、ゲノンが1925年に書いた『ベーダンタによる人間とその生成』については「人生を一変させた発見」と語っている。

    バノンのこうした世界観を荒唐無稽として冷笑してすますわけにはいかないところに私達はいる。なぜなら、同じように荒唐無稽な靖国の世界観を抱く政治家たちを政府や権力の中枢にもち、しかも憲法にまで「天皇」という日本の伝統主義の世界を持ち込んでいるからだ。

    グローバリゼーションは、こうした伝統主義の非合理的な世界観の亡霊を復活させた。以下で紹介するベノワも含めて、彼らがグローバル資本主義に対して対置する政治の主要な課題は、西欧のアイデンティティの復権であり、西欧に固有の文化的な価値の復興である。これはイスラームであれヒンドゥーであれ仏教、神道であれ、今起きているレイシズムやセクシズムを正当化し、個人主義に基づく自由と平等を否定する世界規模で生じている反動現象の根源に関わる問題である。

    右翼による資本主義経済批判は、資本主義=近代が基本に据えた物質主義(唯物論)と進歩史観(近代以前の世界の否定)に基いている点を批判のひとつの軸に据える。

4.2 アラン・ド・ベノワの場合

アラン・ド・ベノワ(Alain de Benoist 1943〜)戦後フランスの極右のイデオローグの一人。68年に「新右翼」を標榜して登場する。

彼の著作は経済、文化、ポストモンダンの思想から東洋思想まで幅広い。『底なしの破局の縁で:差し迫った金融システムの破綻』ではリーマンショックの分析から反資本主義を主張した。

資本は、利潤を追求するなかで「資本は徐々に、生産から、投機へと転換し、生産的な投資の機会を提供しなくなる」と説明する。

「今、我々が実際に直面しているのは新しい種類の三つの危機なのである。つまり、資本主義システムの危機、自由主義グローバリゼーションの危機、アメリカのヘゲモニーの危機である。」

「資本主義の永遠の問題は市場の問題である。本源的に、資本主義は、人々から購買力を徐々に奪いつつ、人々により多くのものを売ろうとする。一方で労働から得られた所得の不利益を増大して資本の利潤を得ることを賞賛するが、他方で、最終的には、利潤が上昇し続けるために消費が増大しなければならないことが必然的だということも理解する。賃金を引き下げることは消費を縮小することになる。資本主義のフォーディズムの局面では、人々が生産されたものを消費する手段を欠いていれば、無限に生産を増加させるという目的を維持することはできないことが自覚される。賃金は、消費を支えるという目的だけのために上昇してきた。この局面が今終わろうとしているが、これは「栄光の30年間」の頂点であった。フレデリック・ロルドン(訳注:『私たちの“感情”と“欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか?――新自由主義社会における〈感情の構造〉』『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか?』いずれも作品社)が「賃金の下方圧力の資本主義」と呼んだものにおいて、消費を支え維持するための賃金上昇というフォーディストの論理は今や廃れた。この場面では、我々は資本主義の主要な形態に回帰する。ここでは、資本と賃金稼得者の収入の分配はゼロサムゲームとみなされ、一方が勝利すれば他方は敗北することになる。」

ベノワは金融危機から三つの教訓を引き出す。

第一に、「リベラル」のテーゼが否定されたということ。個人による利己的な振舞いが全体の利益になるという考え方が否定された。個々人や企業の最大限利潤を追求する行動とそてに必要な規制緩和(レーガンやサッチャー時代以来)は少数の富裕層と大多数の貧困化をまねいた。

第二に、需給の市場による自然な均衡の達成という考え方が成り立たないということ。市場は自律的に均衡を達成できず、危機に陥った大企業を救済するために、結果として国家による支えを必要とする。「金融の世界は自己規制できず、回復するための能力は大半、公的資金の注入に頼る」ことになる。

第三に、資本主義が循環性を有するとされながら、その予測ができたためしがない。経済学は科学だというが、そうであるなら、リスクを合理的な手法で処理し、永続的な成長を達成することを可能にできなければならないが、そうはなっていない。

そして、主流派の経済学(ブルジョワ経済学)を以下のように批判する。

「主流の経済学は危機を予見することもできていないし、危機を解決する手段の確認でも成功していないのはなぜなのか。それは、人間を、言うべきことが多くあるのに、Homo oeconomicusに還元してしまうからだ。社会的なリアリティは、数学の等式によっては理解できない。人間は、常に自分が所有するものを最大化しようとする合理的な存在でもなければ、単なる生産者や消費者でもないからだ。この事実を考慮すれば、不可避的に相互に絡みあう人間的社会的事実からかけはなれた「純粋な経済的客体」を単独でとりだすことは不可能である。新古典派経済学によれば、人間は数字に還元でき、彼の行動は予測できる。現在の危機は、この「透明性」の主張がまちがっていることを証明している。現実には、歴史は予測不可能である。」

量化され経済的合理性に人間を還元する経済学へのこうした批判は、マルスク主義とは言わないまでも左派の批判的な経済学に共通するある種のヒューマニズムと基本的に変わらない立場をとる。

資本主義の永遠性を前提とする経済学の理論を批判して次のように言う。

「存在する全てのものは、その存在をもたらしたことがらによって死ぬというのが事実である。疎外をもたらすあらゆるシステムにも同じことがいえる。つまり、システムに生命を与えるものやシステムが所与の時間に自らを存続させることを可能にすることが、また、その消滅の条件を生み出すということである。資本主義は永遠であるというのが支配的な信念であるが、真実は信用の悪魔と利潤のみの政治イデオロギーは、試みがそのキャリアを永続化させようとしても、究極にはその宿命を避けることはできない、ということである」

このベノワの主張は歴史的な限界をもつものとしての資本主義を明言するが、その先の社会についての構想を伝統への回帰とするところが左翼と明確に異なる。

4.3 移民、資本にとっての予備軍

1973年に当時のフランス大統領、ポンピドウは、大企業のボスたちの要求を容れて、移民の水門を開けた。その理由は、「フランス労働者の賃金の下方圧力を強め、抵抗の情熱を軽減し、加えて、労働運動の団結を破壊するために、安価で階級意識やあらゆる社会闘争の伝統を奪われた御しやすい労働力からの利益を望んだからである。

40年たっても何も変っていない。また、フランスは19世紀以来、移民労働力に依存しつづけてきたことを説明する。戦後は、マグレブからの移民が増える。

ベノワは、戦後のフランスの移民政策を振り返るなかで、日本に言及する。

「労働力不足がある部門で起きるとき、二つのうちのどちらかが生じる。ひとつは、賃金が上昇する。もうひとつは外国人労働力が増加する。」とフラシス・オーラン・バルサは説明する。一般に、フランス雇用者全国評議会(CNPF)が、1988年以降はこれを受け継いだフランス企業運動(Medef)が選択したのが二番目の主張だった。これは短期的な利潤への欲望を身をもって示す選択であり、これによって、生産装置の改善や産業の諸問題でのイノベーションは鈍化した。同時に、実際に、日本の例は、自生種の雇用に有利になるように、日本の西洋の競争相手の多数に先がけて技術革新をおこなうことをこの国に可能にした。

移民は、まず最初から雇用主の現象である。これは今日でもそうである。より多くの移民を求めるのは大企業である。この移民は、資本主義の精神によって、国境を廃止する傾向をもつ。「社会的な投げ売りの論理に従って、「低コスト」の労働市場が惨めでいまわしい違法移民を間に合わせのために形成される。あたかも大企業と極左が手組んだかのように、大企業は彼等の目からみて高価すぎる福祉国家を廃止するために、極左は国民国家をあまりにも古くさいものとして破壊するために」とバルサは言う。これは、共産党とCGTが―これらはラディカルにそれ以来方針を変えてきたが―1981年まで国境を開くというリベラルの原理に反対して、労働者階級の利益を防衛するという名目で闘ってきた理由がこれだ。」

ベノワは、純粋な資本の論理からすれば、移民が資本に利益をもたらすことを否定しない。しかし、彼は、リベラル派のフィリップ・ネモ(レヴィナスとの対話が翻訳されている)を引用しながら、「社会学的な問題」を看過すべきではないと強調する。また専門機関の経済分析評議会(CAE)のレポートを引きながら、労働力不足は伝統的に移民労働力を正当化するときに持ち出される論理だが、失業の時代にこれは妥当しないと批判していることを紹介する。労働力不足の部門は賃金が低すぎることがその原因だというレポートの主張を肯定的に紹介する。

ベノワは、移民現象は資本主義のグローバル化がもたらした現象であるということから、グローバル化を批判するのであれば、国境を開き移民を受け入れるということも否定しなければならないという立場をとる。言い換えれば、資本主義のグローバル化を批判しつつ移民受け入れを肯定するのは首尾一貫しない、という主張だ。

ベノワの議論の全体像を分析する余裕もなければその能力も今の私にはない。しかし、ひとつ言えることは、彼の反普遍主義、あるいは近代合理主義批判を通じて、これらに対置されるより好ましい将来社会が、固有の集団に基く相互に通約しえない文化的なアイデンティティをもつようなところで具体性をもたせようとしている点だ。こうした具体性の根拠を彼はキリスト以前に遡る西欧の伝統的な価値を求める。

マルスクは、市場経済=商品経済の批判の一つの観点に、貨幣的な価値に象徴される抽象化された関係への批判を置いた。商品の価値がその使用価値を支配する関係はその典型であり、モノの使用価値が商品化による価値の支配から解放されるということが、市場経済からの解放のひとつの観点だった。しかし、この議論は、使用価値がいったいどのような意味を内包しているのか、という観点を重視することがなかった。ベノワのような議論を前にして、私たちは、更にマルクスが問わなかった課題、そもそも「使用価値」とはどのようなものであるべきなのか、あるいは、どのようにあるべきではないのか、という問題を考えなければならないところに来ている。モノに固有の意味を与えるのは、人間集団の側である。それが資本によって組織されていないとしても、この人間集団がどのようであるかによって、モノの意味は、時には人々の相互関係に内在する排除と包摂の機能を果す。豚肉は食用としての使用価値があるのかという問題は市場の価格や価値に還元できないだけでなく、文化的な包摂と排除の意味を伴うことは容易に理解されるだろう。これはモノをめぐる生態学や食品添加物などがもたらす医学上の影響といった問題とは違うレベルのことだ。ベノワのような右翼は、こうしたモノのカテゴリーを伝統の価値に沿って再構成することを通じてコミュニティのアイデンティティを確保しようとする。では、左翼にとって、モノの具体性の意味はどのように構築されるべきなのだろうか?このようなことは問われてきただろうか。

5 反資本主義の課題とは何か―極右の台頭に抗するために

極右の主張の特徴を列挙すると

  • 反グローバリズム→コミュニティを基盤に据えた社会システム
  • 反中央集権→コミュニティのアイデンティティ重視
  • 反貧困→自民族中心の「平等」。排除に基づく「平等」
  • 議会制民主主義への懐疑→直接民主主義、政治的な特権層の否定
  • 進歩史観の否定と「近代」の超克→西欧文明の危機
  • 「伝統」の再発見→危機への対抗軸としての自民族の伝統の再発見
  • 在来種主義(ナチュラリズム)としてのエコロジー→「伝統」の敵対者としての移民、難民
  • 白人至上主義と家父長制的なジェンダー意識→家族と性役割の規範を「伝統」に求める
  • レトリックとしての「反資本主義」→リベラリズムの理念(自由と平等)の否定=「伝統」に基づく権威主義の復興
  • ユダヤ=キリスト教への批判としての「異教主義」あるいは「神秘主義」
  • マルクス主義思想の横取り→資本主義批判(貧困と資本の搾取)を摂取しつつスターリニズムを生み出した20世紀の社会主義、共産主義とその源泉の拒否

イデオロギー的な背景は複雑だ。しかし、多くの極右思想がおおむね共有しているのは、次のような傾向だと思われる。

  • シュペングラー『西洋の没落』への高い評価
  • 反啓蒙主義。ニーチェやドイツロマン派(たとえばワーグナーのような反近代主義
  • ルネ・ゲノンなどの神秘主義
  • ヒンドゥー主義など東洋の宗教や神秘主義
  • オットー・シュトラッサーなどナチス左派(ヒトラーに粛清された国家社会主義者たち)
  • 歴史修正主義(ホロコースト否定論、ユダヤ陰謀論)
  • ユーラシア主義(アレクサンダー・ドゥギン)

これらはどれをとっても重い課題である。以下では、ごく一言づついくつかの論点についてコメントするにとどめたい。

5.1 敵を個人の人格に還元すべきではない

安倍であれトランプであれ、運動がターゲットにしやすいのは、独裁、権威主義、極右、宗教原理主義を代表する個人になりがちだ。しかし、こうした個人をターゲットにする運動が、当該の問題とされる個人を誰か別のより好ましい人物に置き換えさえすれば問題が解決されるかのような対応に陥る危険性がある。とりあえず安倍よりマシな自民党の誰か、あるいは望むべくは野党が政権をとってくれればマシになるハズ、という期待だ。

歴史の教訓は、残念なことに、こうした期待が常に裏切られてきた、というものではないだろうか。ごく短い期間、社民党の村山政権の時代、自衛隊を合憲として容認したのではなかったか。当然のことだが、システムそのものが構造的に抱えている問題は、システムそのものを解体しない限り解決はされない。それを個人の問題に置き換えることはできないし、よりマシと思われる誰かが政権についたとしても解決されない。

5.2 資本主義の構造とその抵抗主体

どの社会システムも構造的な矛盾を抱え、この矛盾のなかで、抵抗の主体が構築される。抵抗の主体をシステムの側は、システム内部の矛盾として回収してシステムを再構築する。社会システムは歴史的な構造だから、こうした一連の抵抗の弁証法が機能できなくなると、構造そのものが解体に向う。

資本主義という歴史的な時代を形成してきた社会システムは二つのサブシステムを統合して成立してきた。

ひとつは、資本による市場経済的な価値増殖のシステム。もうひとつが、国家による政治的な権力の自己増殖システム。前者は、経済的価値を担い、後者は国家という幻想的な共同体に収斂する非経済的な価値の担い手となる。経済的な価値は、近代社会では市場経済が支配的であることによって、市場の貨幣的な価値の評価によって一元的に把握可能な側面がある。この側面に着目して、資本の価値増殖がもたらす矛盾を、賃労働者に対するの搾取として明かにしたのがマルクスの資本主義批判だ。しかし、この批判は、資本主義総体の批判というよりも、資本主義のシステムに果す資本の機能が労働者にもたらす深刻な経済的な抑圧という側面に限定されている。だから、貧困の問題、経済的な平等がこの領域では、重要な関心となる。この批判は資本主義批判の核心の一部をなすが、その全てではない。

5.3 マルクスの資本主義批判=資本批判の限界

マルクスもエンゲルスも国家が果す権威主義的な権力効果を過少評価した。資本の手から生産手段を奪い返した労働者階級が、その生産物を平等に分配するために国家の装置を利用するとしても、それは生産物の分配のための道具にすぎず、それ自体に権威も支配も生じないとみなした可能性が高い。しかし実際は、国家はこうした平等な分配装置であるだけでなく、民衆を統合する装置ともなった。たぶんプロレタリア独裁は資本主義的な資本の独裁よりもより平等でありうる可能性をもつが、そうなるかどうかは国家の統治機構が官僚であれ労働者の評議会であれ、意思決定過程そのものの平等という政治的な平等の問題をクリアできなければならない。20世紀の社会主義の「実験」は、国民国家の装置を利用した経済的平等あるいは資本の廃棄=社会主義という路線は、当初想定されたような労働者の解放には結びつかなかったということだろう。

5.4 アナキズムによる国家の否定の限界

他方で、権力の自己増殖システムは、近代国家批判として、アナキズムが主要に関心を寄せてきた領域だといえる。人間が集団を組む場合に、いかなるレベルであれ、集団の「統治」という問題を避けることはできない。権力は、権力の自己維持のために自立的な運動を展開する。それが官僚機構であれ評議会であれ、それ自体には権力の再生産を規制するメカニズムが必然だとはいえない。つまり、権力を―近代であれば国家を―廃棄する内在的な駆動力は意識的な制度設計がなされない限り、不在である。問題は、不在であるこの権力の自己維持機能が軽視されて、理性とか階級的な進歩とか、時には神なども持ち出して、権力の正当性を維持しようとする。他方で、この統治の問題は、人間にとっての平等とともに最も重要な権利としての自由と相反関係にある。同時に、近代市場経済は、個人の自由を近代以前の社会との比較において格段に拡げたことは事実だ。とりわけ、「貨幣」の匿名性は経済的な自由を支える中核をなしてきた。この意味で、市場経済は「自由」の土台をなす側面がある。この側面が強調されると、国家の権威主義的な介入や国家権力による自由への干渉を否定する手段として、市場経済の自由を最大限に拡張することを肯定する資本主義的アナキズムの主張が登場することにもなる。

5.5 物質性と身体性と不可分な文化とイデオロギーこそが資本主義の「土台」をなしている

資本主義が物の生産を通じて〈労働力〉の再生産と統治機構=権力の再生産を維持するという回り道をとってきた20世紀前半から、それ以降、この過程を維持しつつ、主要なシステムの維持を、社会を構成する人間そのものを資本主義の意識として直接生産する過程へと転換してきた。その結果が、コミュニケーションを資本と国家が包摂する情報資本主義をもたらした。

人間は、象徴作用を伴うモノによって世界を生きている。その端的な現れが言語としての「ことば」だが、それだけでなく身体言語のように非言語的なコミュニケーションから、合理的な理性によっては把握できない非合理的な世界―神の観念とか「夢」や「無意識」の世界、あるいは諸々の神秘的と言われる経験まで―である。どのような社会の支配的なシステムもこうした人間の非合理的な側面を包摂する。その枠組を「文化」と呼ぶわけだが、これを資本と権力の再生産の外部に与件として措定せざるをえないところから近代資本主義は始まった。これは人間を全面的に支配することができないシステムの弱点を意味していたが、それを20世紀の資本主義は包摂するようになる。その端的な現れが、19世紀から20世紀にかけて急速に開発されてきた精神医学、心理学といった領域の権力作用である。

同時に人々の労働は、物を対象とする労働から人を対象としてコミュニケーションを介して人々を制御する労働が中心をなすようになる。資本と国家の意識を内面化することが人々の〈労働力〉としての最低限の条件となる。反資本主義とは、経済的な搾取からの解放ではまったく不十分になったのだといえる。反資本主義の課題は、資本と国家に従属する労働化されたコミュニエーションからの解放である。しかし、この課題は、コミュニケーションが「言語」と不可分であるために、「言語」の解放という問題を含まざるをえない。言いかえれば、こうした過程を経ることなしに、右翼が武器とする伝統や文化を武装解除することはできない。この課題に失敗した20世紀の社会主義がほとんど国家社会主義となった教訓は、むしろ私たちにとって、次の時代の重要な基礎を与えてくれるにちがいない。とはいえその犠牲は余りにも大きく、その犠牲の責任を、少なくとも、マルクス主義に多かれ少なかれ依存してきたという自覚がある私は、ある意味で負いつづけなければならないと感じている。

Footnotes:

1 “I faced threats for being ‘outspoken'” https://www.bbc.co.uk/programmes/p06zdypy

2 こうした問いを発する私にとって、あたかも大衆は私の外部にあるかのようだ。そしてまた、大衆と呼ばれて十把一絡げにされる集団の存在を、その集団を構成する一人一人の存在への敬意もなしに扱うような方法がいいとは思えない。こうした違和感を感じながら書いている。

3 Ukraine’s Fractures. An interview with Volodymyr Ishchenko for New Left Review. http://www.criticatac.ro/lefteast/ukraines-fractures-nlr-interview-with-ishchenko/ ヨーロッパから東欧、旧ソ連圏にかけての極右のロシアへの評価は「反ロシア」として括ることはできない。ロシアの極右はヨーロッパの極右と連携する側面もあり、更に、ロシアの極右は、反ソというわけでもなく、むしろスターリンへの評価が高い場合もあり、「国家社会主義」を主張する場合は自由主義よりも社会主義を肯定する側面もある。

4 黄色いベストたちの要求
http://attaction.seesaa.net/article/463103573.html
以下のうち●印は、注目すべき論点 ▼は小倉のコメント
フランスの代議士諸君、我々は諸君に人民の指令をお知らせする。これらを法制化せよ。

  1. ホームレスをゼロ名にせよ、いますぐ!
  2. 所得税をもっと累進的に(段階の区分を増やせ)。
  3. SMIC〔全産業一律スライド制最低賃金〕を手取り1300ユーロに。
  4. 村落部と都心部の小規模商店への優遇策(小型商店の息の根を止める大型ショッピング・ゾーン〔ハイパーマーケットなど〕を大都市周辺部に作るのを中止)。+ 都心部に無料の駐車場を。
  5. 住宅断熱の大計画を(家庭に節約/省エネを促すことでエコロジーに寄与)。
  6. 〔税金・社会保険料を〕でかい者(マクドナルド、グーグル、アマゾン、カルフールなど)はでかく、小さな者(職人、超小企業・小企業)は小さく払うべし。
  7. (職人と個人事業主も含めた)すべての人に同一の社会保障制度。RSI〔自営業者社会福祉制度〕の廃止。
  8. 年金制度は連帯型とすべし。つまり社会全体で支えるべし〔マクロンの提案する〕ポイント式年金はNG)。
  9. 燃料増税の中止。
  10. 1200ユーロ未満の年金はNG。
  11. 〔地方議員も含めた〕あらゆる公選議員に、中央値レベルの給与を得る権利を。公選議員の交通費は監視下に置かれ、正当な根拠があれば払い出される。〔給与所得者の福祉の一部である〕レストラン利用券とヴァカンス補助券を受ける権利も付与。
  12. すべてのフランス人の給与と年金・社会給付は物価スライド式とすべし。
  13. フランス産業の保護:〔国内産業を空洞化させる、工場をはじめとする〕事業所の国外への移転の禁止。我々の産業を保護することは、我々のノウ・ハウと雇用を保護することである。
  14. ●〔東欧等からの〕越境出向労働の中止。フランス国内で働く人が同じ給与を同じ権利を享受できないのはおかしい。フランス国内で働くことを許可された人はみなフランス市民と同等であるべきであり、その〔外国の〕雇用主はフランスの雇用主と同レベルの社会保険料を納めるべし。▼東欧からの移民を排除するためのレトリック。東欧本国の労働条件がフランス国内と同一になれば、フランスへの移民が減る、という理屈は一見すると否定できないが、ここでの要求の目的は、移民の排斥にあり、移民排斥の手段として机上の空論が持ち出されているにすぎない。
  15. 雇用の安定の促進:大企業による有期雇用をもっと抑えよ。我々が望んでいるのは無期雇用の拡大だ。
  16. CICE〔競争力・雇用促進タックスクレジット〕の廃止。この資金〔年200億ユーロ〕は、(電気自動車と違って本当にエコロジー的な)水素自動車の国内産業を興すのに回す。
  17. 緊縮政策の中止。〔政府の国内外の〕不当と認定された債務の利払いを中止し、債務の返済に充当するカネは、貧困層・相対的貧困層から奪うのではなく、脱税されている800億ユーロを取り立てる。
  18. ●強いられた移民の発生原因への対処。▼右翼は、移民は移動を強いられているとみることがある。つまり、人間はそもそも、自分が生まれ育った土地で暮すことが最適な生存条件だという前提にたつ。移民の発生原因は紛争や貧困にあるが、要求(14)同様、ここでの要求の目的は移民の排除。社会的な流動性が高まるような経済や安全保障の環境を否定し、地域の安定を閉鎖社会としてイメージする。右翼のなかには、こうした考え方から、国外での積極的な武力行使に反対し、こうした世界規模での不安定な環境を生み出すグローバル化にも反対する。その理由は、伝統的な社会(コミュニティ)の安定、つまり伝統的な集団のアイデンティティを重視するので、異質な文化がコミュニティに入りこむことを嫌う。この考え方は、日本の江戸期の鎖国が生み出した平和が、明治期以降の帝国主義的な侵略へと転換したときに、異質な他者の排除という精神性と文化を下支えする結果になったことと比較して考えてみることもできる。異質なものを排除し、同質性に基く平和は、本来の意味での平和とは何の関係もない擬制の平和だが、こうした平和がむしろ戦後日本の「平和」の基本理念になってしまったともいえる。
  19. ●難民庇護申請者をきちんと待遇すること。我々には彼らに住まい、安全、食べ物、それに未成年者には教育を提供する義務がある。難民庇護申請の結果を待つ場となる受け入れ施設が、世界の多くの国々に開設されるよう、国連と協働せよ。▼フランスを念頭に置いているようでそうなっていないところが「ミソ」かもしれない。難民申請の適正化と難民施設をフランス国外に設置すべきだ、そうすれば、フランスまで難民はやって来ない、というのが本音ではないか。
  20. ●難民庇護申請を却下された者を出身国に送還すること。▼トランプのメキシコ国境政策とほぼ同じ主張。
  21. ●実質のある〔移民〕統合政策を実施すること。フランスに暮らすことはフランス人になることを意味する(修了証書を伴うフランス語・フランス史・公民教育の講座)。▼多様な文化を受け入れるのではなく、フランスの文化に同化することが移民としての受け入れの大前提。
  22. 最高賃金を15000ユーロに設定。
  23. 失業者のために雇用を創出すること。
  24. 障がい者手当の引き上げ。
  25. 家賃の上限設定 + 低家賃住宅(特に学生やワーキング・プアを対象に)。
  26. フランスが保有する財産(ダムや空港など)の売却禁止。
  27. ●司法、警察、憲兵隊、軍に充分な手立て〔予算・設備・人員〕の配分を。治安部隊の時間外労働に対し、残業代を支払うか代替休暇を付与すること。
  28. ●自動車専用道路で徴収された料金は全額、国内の自動車専用道路・一般道路の保守と道路交通の安全のために使うべき。
  29. 民営化後に値上がりしたガスと電気を再公営化し、料金を充分に引き下げることを我々は望む。
  30. ローカル鉄道路線、郵便局、学校、幼稚園の閉鎖の即時中止。
  31. 高齢者にゆったりした暮らしを。〔劣悪介護施設など〕高齢者を金儲けのタネにするのを禁止。シルバー世代の金づる化はもうおしまい、シルバー世代のゆったり時代の始まりだ。
  32. 幼稚園から高校3年まで、1クラスの人数は最大25人に。
  33. 精神科に充分な手立て〔予算・設備・人員〕の配分を。
  34. 人民投票の規定を憲法に盛り込むべし。わかりやすく、使いやすいウェブサイトを設けて、独立機関に監督させ、そこで人々が法案を出せるようにすること。支持の署名が70万筆に達した法案は、国民議会で審議・補完・修正すべし。国民議会はそれを(70万筆達成のちょうど1年後に)全フランス人の投票にかけるよう義務づけられるべし。
  35. 大統領の任期は〔国民議会の任期と同じ現行の5年から〕7年に戻す。(以前は〔大統領選の直後ではなく例えば〕大統領選から2年後に行われていた国政選挙により、大統領の政策を評価するかしないかの意思表示ができた。それが人民の声を聞き届かせる方法の一つになっていた。)
  36. 年金受給は60歳で開始。肉体を酷使する職種に従事した人(石積み作業員や食肉解体作業員など)の場合の受給権発生は55歳に。
  37. 6歳の子どもは独りにしておけないから、扶助制度PAJEMPLOI〔保育支援者雇用手当〕は子どもが〔現行の6歳ではなく〕10歳になるまで継続。
  38. 商品の鉄道輸送への優遇策を。
  39. 〔2019年1月1日から施行の〕源泉徴収の廃止。
  40. 大統領経験者への終身年金の廃止
  41. クレジット払いに関わる税金の事業者による肩代わりの禁止。
  42. 船舶燃料、航空燃料への課税。

このリストは網羅的なものではないが、早期に実現されるはずの人民投票制度の創設という形で引き続き、人民の意思は聞き取られ、実行に移されることになるだろう。
代議士諸君、我々の声を国民議会に届けよ。
人民の意思に従え。
この指令を実行せしめよ。
黄色いベストたち

5 https://www.breitbart.com/tag/yellow-jackets/

6 トランプのツイッター https://twitter.com/realDonaldTrump/status/1071382401954267136

7 French Yellow Vests, the Far Right, and the “Russian connection”http://www.tango-noir.com/2018/12/12/french-yellow-vests-the-far-right-and-the-russian-connection/

8 CasaPoundは2003年に、ローマで生まれたネオファシスト組織。ローマの公共施設の住宅占拠運動から出発している。反移民、伝統的な家族の尊重(LGBTQん権利否定)だが、他方でゲバラやチャベスの闘争を支持する。政治的な立場は左右を越えた「第三の立場」と呼ばれるものになる。https://en.wikipedia.org/wiki/CasaPound

9 ロシアの政府寄りの報道機関の日本語版、スプートニク日本の記事「BBC、仏抗議運動への「露による干渉」証明を職員らに要求」 https://jp.sputniknews.com/incidents/201812165715886/ 「露外務省 BBCが仏抗議行動での「ロシアの痕跡」模索に躍起と痛烈批判」https://jp.sputniknews.com/politics/201812175717904/

10 前掲、French Yellow Vests, the Far Right, and the “Russian connection。

11 11月13日、ウエッブ https://france.attac.org/

12 http://etincelle-noire.blogspot.com/

13 フランス語
http://www.euronomade.info/?p=11351
英語
https://www.versobooks.com/blogs/4158-french-insurrection

14 フランス語は
https://lundi.am/Contribution-a-la-rupture-en-cours
英語は
https://crimethinc.com/2018/12/07/contribution-to-the-rupture-in-progress-a-translation-from-france-on-the-yellow-vest-movement

15 この項目は、ジョシュア・グリーン『バノン、悪魔の取引』(秋山勝訳、草思社)を参考にした。

Date: 2019/2/2

Author: 小倉利丸

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1968年―89年―そして世界と日本の現在を考える:分断の時代を越える2.2シンポ

投稿日: コメントするカテゴリー: 主宰者からのお知らせ集会、デモなど

1月12日(土)巧妙になる市民監視:私たちの対抗アクションは?+セキュリティの入門実践セミナー

投稿日: コメントするカテゴリー: 主宰者からのお知らせ監視社会集会、デモなど

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巧妙になる市民監視

私たちの対抗アクションは?
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◆お話 小倉利丸さん(盗聴法に反対する市民連絡会)

◆運動の現場から
★共通番号いらないネット(共通番号・カードの廃止をめざす市民連絡会)
原田富弘さん
★すべての基地にNOを!ファイト神奈川
木元茂夫さん・星野潔さん
★共謀罪、盗聴法などの運動体から
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◆日時:2019年1月12日(土) 15時30分〜18時
◆会場:かながわ県民センター301号室
◆資料代 500円
◆主催:監視社会を考える1.12集会実行委員会
盗聴法に反対する市民連絡会
共通番号いらないネット
住基ネットに「不参加」を!横浜市民の会
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共謀罪、秘密保護法、盗聴法改悪、共通番号制と監視立法が次々に成立しました。
2019年5月には天皇代替わり、2020年には東京オリンピックが開催されますが、
テロ対策の強化を名目にこれらの監視立法が私たち、市民活動の様々な自由(集会・
結社の自由)を脅かすようになってきました。

特に、共謀罪の成立を踏まえて、こうした監視への対抗手段、私たちがやれる市民のためのサイバーセキュリティなど、海外のアクティビストの実例などを紹介しながら、「仲間のセキュリティを守る」「市民みんなのセキュリティを守る」ことを通じて、言論・表現の自由や人権の確保を目指すために何をしたらいいのかを考えたいと思います。

一方、私たちも日常生活のなかでスマホや家電が便利なツールとして「安心・安全」のための監視機能を担うようになり、市民一人ひとりが監視する側にもなっていると思います。私たちの運動を広げていくために欠かせない、ケイタイやパソコンなどのコミニュケーションの道具の見直しから実践することも大切なライフスタイルの変革になるはずです。ご一緒に考えてみませんか。


この集会の終了後、同じ会場で、実際に自分達のネットのセキュリティの防衛について、パソコンやスマホを操作しながらの実践セミナーを開催します。

自分達の日常生活や活動の必需品であるパソコンやスマホを監視社会の脅威から少しでも守り、私たちのプライバシーの権利や市民的自由を確実なものにするための、誰にでも出来るちょっとした作業を参加した皆さんと実際にやってみます。お時間の許す方はぜひご参加ください。

◆日時:2019年1月12日(土) 18時30分〜20時30分

◆会場:かながわ県民センター301号室

会場費:カンパ

主催:盗聴法に反対する市民連絡会有志

連絡先:070-5553-5495 rumatoshi@protonmail.com (小倉)

ナビゲーター:小倉利丸

内容

・GmailやYahooメールなどや契約しているプロバイダーのウエッブメールはメール本文を含めて第三者に読まれるリクスがあります。暗号化されたメールサービスを使うことでこのリスクを回避します。日本語に対応し、パソコンでもスマホでも使えるスイスに拠点を置くProtonmailやドイツのTutanotaを紹介し、そのインストールや使い方を実際にやってみます。

・tuitterやLine、あるいはSkypeなどは、個人情報が第三者に取得される危険性があります。通話、ショートメッセージ、ビデオ通話などを暗号化して第三者による通信内容の取得ができないサービスにSignalがあります。このSignalをスマホのアプリとしてインストールしてその使い方を実際にやってみます。

・Torブラウザ。ウエッブにアクセスすることによって、アクセス先は多くの情報を取得します。こうした情報の取得をさせないでウエッブを閲覧できるTorブラウザをインストールして使いかたを実際にやってみます。 そのほか参加された皆さんの希望や意見をふまえて内容が変更されます。また、時間の制約もあるので、全てを行なうことができない場合もあります。ご了承ください。